ウィキペディアの「即位灌頂」の項を見ると、あまりに詳細なのでちょっとびっくりしますね。
私が即位灌頂について調べ始めた頃は、ネットには参考になりそうな情報はまったく存在せず、全て紙媒体に頼っていました。
あれから二十年、という綾小路きみまろ的な感慨はさておき、ウィキペディアの「歴代の印明伝授者」表を見ると江戸時代末期に至るまで歴代の二条家当主の名前がズラズラ並び、この儀礼が二条家において持った意味の重大性を自ずと物語っています。
即位灌頂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82
さて、二条良基と即位灌頂の関係について、再び小川剛生氏の解説を聞いてみることにします。
「第一章 即位潅頂と摂関家」「第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂」の「五 寺家即位法と二条家の印明説」「六 二条良基と即位灌頂(1)」は省略して、「七 二条良基と即位灌頂(2)」を見ると(p163以下)、
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さきに北朝の天子に対する良基の印明伝授の実績を跡づけた。近世の二条家の史料の伝えるところでは、二条家が問題なく伝授を行なっていたかのように見えるが、そうではなく、王家の疑問や抵抗にあいつつ、伝授の実績を作り、時には相当な無理を通して、ようやく即位式に於ける執柄伝授という形式を作り上げたのであった。従って二条家独自の印明の説というのは、この時期にようやく形成されてくるのである。「後福照院関白消息」によれば、良基は「三家の説なとハ、さらにさらに他所ニあるましき由書置」いた「秘説の口伝一帖」を遺したというから、その段階で家説の整備を行ったことは十分考えられる。
良基が即位灌頂の定着にあたり最大の功労者とみなされたことは故なしとしない。そこで近世の文献には、良基の記の内容として印明の説に及ぶものが多い。たとえば林羅山の神道伝授、追加・七五の記述がある。
二条関白良基公ノ秘記ニ云、即位灌頂ノ印咒ハ、天照大神・春日明神ヨリ以来、神代ノ印トシテ、藤原氏
嫡々相承ノ口訣、秘中ノ甚奥秘也、帝王登壇ノ時授奉、ヨ人是不知、真言家祖ノ血脈ニモアラズ、此事ヲ
尋ニ、真偽ヲ決セン為ニ問ニヨリテ、彼意ニ真言家ノ知事ニト思ヘルハ誤也。永徳三年十一月十八日ノ記ニ
慥ニセラレタリ。
【後略】
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ということで、伏見院の即位に際して二条師忠が兄の道玄と「共謀」して新たに創作した即位灌頂という儀礼は、けっして直ちに定着したのではなく、「時には相当な無理を通して、ようやく即位式に於ける執柄伝授という形式を作り上げた」訳で、良基は即位灌頂の定着についての「最大の功労者」ですね。
「八 おわりに」からも少し引用すると、
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二条師忠が、道玄の知恵を借りて、周囲の反撥と疑問を押し切る形で導入した即位灌頂は、曾孫良基の印明伝授の実績と家説の整備によって、寺家の即位法から完全に独立したばかりか、思想上はなんら関係を持たなかった大嘗会の神膳供進の儀をも包摂し、中世の王権の保持に不可欠な「天子御灌頂」へと展開した。
【中略】
良基が、大嘗会の神膳供進の儀に較べれば、儀礼としてなんら伝統も有さなかった即位灌頂を殊更家の秘説として粉飾・喧伝することで、自分と子孫の繁栄をもたらしたと見れば、そのしたたかさに対しては驚嘆するほかない。
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ということで(p166)、二条良基は師忠・道玄兄弟が「共謀」して創作した「儀礼としてなんら伝統も有さなかった即位灌頂」を「粉飾・喧伝」して「自分と子孫の繁栄をもたらした」訳で、良基自身が師忠・道玄との時を超えた共犯者ですね。
その「したたかさ」は吉田兼倶の系図偽造と同種、というか遥かに壮大かつ巧妙で、さすがは摂関家です。
なお、小川氏は上記引用部分に続けて、
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しかし、そのような一面ばかりを強調するのも、正しい評価ではないと思われる。観応の擾乱の後、極度に衰弱した北朝の王権を内側から支えていたのが、二条家による「天子御灌頂」であったことも、また疑う余地はないからである。
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と書かれていますが、ま、小川氏の二条良基に対する思い入れの深さだけは「疑う余地」がなさそうです。