学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

二条師忠と即位灌頂(その2)

2017-12-26 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月26日(火)12時00分2秒

ウィキペディアの「即位灌頂」の項を見ると、あまりに詳細なのでちょっとびっくりしますね。
私が即位灌頂について調べ始めた頃は、ネットには参考になりそうな情報はまったく存在せず、全て紙媒体に頼っていました。
あれから二十年、という綾小路きみまろ的な感慨はさておき、ウィキペディアの「歴代の印明伝授者」表を見ると江戸時代末期に至るまで歴代の二条家当主の名前がズラズラ並び、この儀礼が二条家において持った意味の重大性を自ずと物語っています。

即位灌頂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%81%8C%E9%A0%82

さて、二条良基と即位灌頂の関係について、再び小川剛生氏の解説を聞いてみることにします。
「第一章 即位潅頂と摂関家」「第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂」の「五 寺家即位法と二条家の印明説」「六 二条良基と即位灌頂(1)」は省略して、「七 二条良基と即位灌頂(2)」を見ると(p163以下)、

-------
 さきに北朝の天子に対する良基の印明伝授の実績を跡づけた。近世の二条家の史料の伝えるところでは、二条家が問題なく伝授を行なっていたかのように見えるが、そうではなく、王家の疑問や抵抗にあいつつ、伝授の実績を作り、時には相当な無理を通して、ようやく即位式に於ける執柄伝授という形式を作り上げたのであった。従って二条家独自の印明の説というのは、この時期にようやく形成されてくるのである。「後福照院関白消息」によれば、良基は「三家の説なとハ、さらにさらに他所ニあるましき由書置」いた「秘説の口伝一帖」を遺したというから、その段階で家説の整備を行ったことは十分考えられる。
 良基が即位灌頂の定着にあたり最大の功労者とみなされたことは故なしとしない。そこで近世の文献には、良基の記の内容として印明の説に及ぶものが多い。たとえば林羅山の神道伝授、追加・七五の記述がある。

 二条関白良基公ノ秘記ニ云、即位灌頂ノ印咒ハ、天照大神・春日明神ヨリ以来、神代ノ印トシテ、藤原氏
 嫡々相承ノ口訣、秘中ノ甚奥秘也、帝王登壇ノ時授奉、ヨ人是不知、真言家祖ノ血脈ニモアラズ、此事ヲ
 尋ニ、真偽ヲ決セン為ニ問ニヨリテ、彼意ニ真言家ノ知事ニト思ヘルハ誤也。永徳三年十一月十八日ノ記ニ
 慥ニセラレタリ。
【後略】
-------

ということで、伏見院の即位に際して二条師忠が兄の道玄と「共謀」して新たに創作した即位灌頂という儀礼は、けっして直ちに定着したのではなく、「時には相当な無理を通して、ようやく即位式に於ける執柄伝授という形式を作り上げた」訳で、良基は即位灌頂の定着についての「最大の功労者」ですね。
「八 おわりに」からも少し引用すると、

------
 二条師忠が、道玄の知恵を借りて、周囲の反撥と疑問を押し切る形で導入した即位灌頂は、曾孫良基の印明伝授の実績と家説の整備によって、寺家の即位法から完全に独立したばかりか、思想上はなんら関係を持たなかった大嘗会の神膳供進の儀をも包摂し、中世の王権の保持に不可欠な「天子御灌頂」へと展開した。
【中略】
 良基が、大嘗会の神膳供進の儀に較べれば、儀礼としてなんら伝統も有さなかった即位灌頂を殊更家の秘説として粉飾・喧伝することで、自分と子孫の繁栄をもたらしたと見れば、そのしたたかさに対しては驚嘆するほかない。
------

ということで(p166)、二条良基は師忠・道玄兄弟が「共謀」して創作した「儀礼としてなんら伝統も有さなかった即位灌頂」を「粉飾・喧伝」して「自分と子孫の繁栄をもたらした」訳で、良基自身が師忠・道玄との時を超えた共犯者ですね。
その「したたかさ」は吉田兼倶の系図偽造と同種、というか遥かに壮大かつ巧妙で、さすがは摂関家です。
なお、小川氏は上記引用部分に続けて、

------
しかし、そのような一面ばかりを強調するのも、正しい評価ではないと思われる。観応の擾乱の後、極度に衰弱した北朝の王権を内側から支えていたのが、二条家による「天子御灌頂」であったことも、また疑う余地はないからである。
------

と書かれていますが、ま、小川氏の二条良基に対する思い入れの深さだけは「疑う余地」がなさそうです。
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二条師忠と即位灌頂(その1)

2017-12-25 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月25日(月)12時40分50秒

国文学者が『増鏡』に関して「通説」という場合、それは日本女子大学名誉教授・木藤才蔵氏の学説であることが多いのですが、木藤氏がその主著『二条良基の研究』(桜楓社、1987)を出した頃の学説の水準では、二条師忠(1254-1341)など別にたいした人とは思われていませんでした。

木藤才蔵(1915-2014)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%97%A4%E6%89%8D%E8%94%B5

そこで、木藤氏を始め『増鏡』の作者を二条良基と考える国文学者たちが、『増鏡』に良基の曾祖父・師忠が奇妙なエピソードの中で登場することに格別の注意を払わなかったとしても、まあ、仕方ないような感じもするのですが、その後、学説の状況が大きく変わりました。
即ち、即位灌頂という儀式に関する研究の進展に伴い、二条師忠が二条家にとってけっこう重要な人物であることが分かって来たのですが、そうだとすると、『増鏡』の作者=二条良基説、ないしその修正説にとって、師忠のエピソードの意味は相当変わってきます。
小川剛生氏はこのような学説の進展を熟知しているばかりか、まさに小川氏こそが即位灌頂の研究を深化させ、二条師忠の重要性を明かにしてきた人です。
『二条良基研究』(笠間書院、2005)にも「第2篇 朝儀典礼」の「第一章 即位潅頂と摂関家」として約50頁の長大な論文が載っていますね。
その「第一節 大嘗会神膳供進の儀と即位灌頂」の構成を見ると、

------
一 はじめに
二 二神約諾史観
三 大嘗会神膳供進の儀
四 二条師忠と即位灌頂
五 寺家即位法と二条家の印明説
六 二条良基と即位灌頂(1)
七 二条良基と即位灌頂(2)
八 おわりに
------

ということで、この構成からも二条師忠の重要性が伺えます。
私も昔、即位灌頂にちょっと興味を持って調べたことがあるのですが、ここでは即位灌頂そのものではなく、二条家との関係だけを小川氏の説明に従って確認してみます。
まず、「はじめに」の冒頭、そももそ即位灌頂とは何かというと、

------
 即位礼の諸儀の一つで、中世になって発生した特殊な作法に即位灌頂と呼ばれるものがある。具体的には新帝が高御座に昇る際に、手に印を結び、口に明(咒あるいは真言)を誦す所作を指す。正応元年(一二八八)の伏見天皇の例を史料上の初見とし、以後中世・近世を通じ、ほぼ間断なく続いている。
------

ということですね。(p145)
「二 二神約諾史観」「三 大嘗会神膳供進の儀」は即位灌頂との比較で置かれているだけなので飛ばして、「四 二条師忠と即位灌頂」を見ると(p150以下)、

------
 中世の摂関が、自らの存在理由の一端を大嘗会神膳の儀に見出したとする視点は、即位灌頂についても有効であろう。即位式では新帝が高御座に登壇する際に母后や摂関が扶持する慣例が中古からあって、即位式-摂関-即位法が結びつく前提の一つとして顧みられるべきであろう。
 即位灌頂の実修は鎌倉後期の伏見天皇を初見とする。これはまた二条家の主導によることも知られているので、以下に詳しく検討したい。
【中略】
 ここで注目すべきは、この時、師忠の兄十楽院道玄僧正の勧めがあったことである。
 道玄(一二三七-一三〇四)は二条良実の男、師忠より十七歳も年長で、建長元年(一二四九)十二月、後鳥羽院皇子入道道覚親王より青蓮院門跡を譲られ、建治二年(一二七六)十一月天台座主となった。入滅の前年には准三后宣下された。僧中准后の初例であり、その権勢は頗る大きかった(門葉記巻一二九・門主行状二)。
【中略】
 とすれば道玄こそ、即位灌頂という仏教儀礼を実際の即位式で実修させた功労者であったといえる。そのことは東山御文庫「後福照院関白消息 即位秘事事」(第二節参照)にも明記されている。
------

ということで、道玄・師忠兄弟が即位灌頂の実質的な創始者です。
ここで重要なのは二条家の「世俗的な事柄」であって、小川氏は、

------
 ここで頗る世俗的な事柄に目を転じたい。道玄・師忠の行動は鎌倉後期の二条家の事情と無関係ではない。兄弟の父二条良実は、その父道家と不和で、遂に家記・家領を一切譲られなかった。家祖の義絶は二条家に暗い記憶となってつきまとった。
 道家は四男実経を愛して嫡子となし、一条家は豊富な文書と厖大な所領を相続した。師忠と家経の代にも両家の確執は続いていた。
【中略】
 ここまで記せば明らかであろう。伏見院の代に実修された即位灌頂とは、大嘗会神膳供進の儀のかわりに、摂関と天皇の関係を証明しようとする、新しい試みであった。師忠がわざわざ「此の事他家存知せざる由」を奏上していることで察知されるように、他家、就中大嘗会の神膳故実を独占する一条家経に対抗し、自らの地位を保つために、道玄と共謀して持ち出した疑いが非常に強いのである。二条家以外の摂関家が即位法に関心を持つ必要は少しもなかった。即位灌頂の実修には、五摂家対抗の情勢における二条家の思惑が強く作用していたことは、強調しておく必要があろう。
------

という具合に(p152以下)、即位灌頂の背景事情を師忠が「道玄と共謀して持ち出した疑いが非常に強い」とまで赤裸々に暴露されています。
まあ、ここまで来ると、吉田兼倶の系図偽造とたいして違いのない行為のようにも思えてきます。
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「照明なども乏しい往時には、こういう悲喜劇も間々あった」(by 井上宗雄氏)

2017-12-24 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月24日(日)11時51分11秒

昨日までの投稿で二条師忠を良基の祖父と書いていましたが、これは曾祖父の誤りでした。
二条家の家祖・良実から良基までの系譜は、

二条良実(1216-71)
二条師忠(良実男、1254-1341)
二条兼基(良実男、兄師忠の養子、1267-1334)
二条道平(兼基男、1287-1335)
二条良基(道平男、1320-88)

となっていて良基の祖父は兼基であり、師忠は兼基の実兄かつ養父なので、良基から見ると曾祖父になりますね。
一応修正しておきましたが、見落としがあるかもしれません。
さて、前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の奇妙な三角関係について、井上宗雄氏は、

-------
この実兼らとの関係は何によったのかわからない。小説的な話のようでもあるが、照明なども乏しい往時には、こういう悲喜劇も間々あったのであろう。
-------

と述べられていますが(『増鏡(中)全訳注』、p233)、問題の本質は照明の有無ではありません。
今まで私は堀川具親が後醍醐帝の御所から大納言典侍を盗み出した話や岡本関白・近衛家平の男色の話、そして後深草院と異母妹・前斎宮の一夜限りの交情の話など、『増鏡』からかなり変な話を択んで紹介してきましたが、『増鏡』の主軸は鎌倉時代の公家社会の変動をトータルに描いた格調高い歴史物語であって、愛欲エピソードはあくまで添え物です。
しかし、添え物とはいえそれなりに面白い数々のエピソードの中で、この前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の三角関係ほどシュールな脱力感、どーでもいいだろ感に溢れたエピソードは珍しく、何でこんな話をわざわざ入れたのかが不思議です。
そして、それは作者を二条良基ないし良基関係者と考える研究者の場合、きちんと検討すべき課題です。
現代の歴史研究者はあくまで歴史的事象の客観的な観察者であって、例えば大久保利通の孫である近代史研究者の大久保利謙氏が明治維新を描く場合、大久保利通がご先祖様だからという理由で、実際の役割以上に大久保利通だけ偉大な存在のように記述することはありません。
井上馨と桂太郎の孫である井上光貞氏は古代史研究者ですが、仮に井上氏が近代史を描いたとして、井上馨と桂太郎を客観的根拠なく称揚すれば研究者仲間から笑われます。
飛鳥井雅道氏は飛鳥井伯爵家の御曹司として生まれた人ですが、仮に客観的根拠なく「明治大帝」に飛鳥井家の一族がこんなに貢献しました、みたいな話を書いたら、左翼的な研究者仲間からだけでなく、研究者の世界そのものから放逐されてしまったはずです。
しかし、『増鏡』の時代には歴史物語の筆者には歴史叙述の客観性といった研究者倫理は全くありませんから、それなりに事実に即して書こうという立場の人であっても、その人の身分・家柄といった主観的事情がある程度反映するのが自然です。
まあ、先祖に誉めるべき事績が全くないのだったら、その種の事績を捏造するのはためらうかもしれませんが、先祖の愚行や不名誉な話をわざわざ載せるはずはないと思います。
そう考えると、二条良基が『増鏡』の作者だとする木藤才蔵氏らの研究者は、『増鏡』に描かれた二条師忠像についてそれなりに検討を加えるべきだったはずなのですが、その種の考察はなされていないようです。
そして、二条良基監修者説の小川剛生氏の場合、更に深刻な問題を抱えています。

大久保利謙(1900-95)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E8%AC%99
井上光貞(1917-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%85%89%E8%B2%9E
飛鳥井雅道(1934-2000)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E9%81%93
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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その8)

2017-12-23 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月23日(土)13時23分11秒

続きです。

-------
 大納言はこの宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず男の車よりおるるけしき見えければ、あるやうあらんと思して、「御随身一人そのわたりにさりげなくてをあれ」とて留めて帰り給ひにけり。男君はいと思ひの外に心おこらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、ありつる大将の車など思しあはせて、「いかにもこの宮にやうあるなめり」と心え給ふに、「いと好き好きしきわざなり。よしなし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。
 残し置き給へりし随身、このやうよく見てければ、しかじかと聞えけるに、いと心憂しと思して、「日頃もかかるにこそはありけめ。いとをこがましう、かの大臣の心の中もいかにぞや」とかずかず思し乱れて、かき絶え久しくおとづれ給はぬをも、この宮には、かう残りなく見あらはされけんともしろしめさねば、あやしながら過ぎもて行く程に、ただならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞え給ひけるぞわりなき。
-------

井上訳は、

-------
 実兼大納言はこの女宮の所をこころざして、このように参られたのだが、いつもとは違って男が車からおりる様子が見えたので、なにかわけがあるのだろうと思われて、「御随人一人、その辺でなにげないふうをして様子を見ていよ」といって、御随人をとどめて帰られた。師忠公はまことに意外で、気の進まぬ御旅寝ではあるが、女宮の御様子を御覧になっても、また先程の実兼大将の車のことなどを思い合わせられて、「どうも(実兼は)この宮とわけがあるようだ」と合点されると、「(それと知ってこういうことをするのは)ほんとうに好色なしわざだ。つまらないことだ」と思われたので、夜更けにならぬうちにそこをお出になった。
 (実兼が)残して置かれた随人はこの様子をよく見たので、「かくかくしかじかでございます」と実兼に言上したので、実兼はたいへん情けなく思われて、「つね日ごろもこうであったのだろう。たいそうばかな目にあったものだし、またあの大臣の(私に対する)思わくもどうであろう」と、いろいろ思い乱れられて、その後は長い間まったく訪れがないのをも、この宮のほうでは、あんなにまですっかり(実兼に)見あらわせれてしまったともご存じないので、不思議に思いながら過ぎて行くうちに、宮が懐妊の御様子で悩んでおられるのをも、実兼大納言は、宮の相手が自分一人とも思われないので、このことをたいへん不愉快に思い申したのも、どうにもしかたがないことであった。
-------

ということで、何と感想を言っていいのか分からないシュールな展開です。
二条師忠の役割はこれでお終いで、この後に西園寺実兼のみが登場する若干の後日談があります。

-------
 さすれどもさすが思しわく事やありけむ、その御程のことども、いとねんごろにとぶらひ聞えさせ給ひけり。こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給ふ。御処分もありけるとぞ。幾程無くて弘安七年二月十五日宮かくれさせ給ひにしをも、大納言殿いみじう歎き給ふめるとかや。
-------

井上訳は、

-------
 しかしやはり(自分の子と)思い当たられることがあったのだろうか、お産のときのことなどもたいそう懇切にお世話申しあげたのであった。別の御腹に出来た姫君をまでもこの宮の御子になどなされた。財産の御分配もあったということだ。いくらもたたぬうちに、弘安七年(一二八四)二月十五日に宮が亡くなられたのを、実兼大納言はたいそう嘆かれたということである。
-------

ということで、これで前斎宮をめぐる長いエピソードは終わりです。
西園寺実兼は不誠実な愛人にも最後まで尽くし、生まれた子供に財産分与までしてあげた立派な人物として描かれているので、まあ良いとしても、二条師忠はいったい何だったのか。
『増鏡』の作者を丹波忠守、監修者を二条良基とする小川剛生氏に対しては、丹波忠守は何故にこのような話を書いて二条良基に提出したのか、そして何故、二条良基は曾祖父に関するこのような話の削除を命ぜず、そのまま残しておいたのかを是非ともお聞きしたいところです。

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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その7)

2017-12-23 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月23日(土)12時43分56秒

この前斎宮のエピソードは、『とはずがたり』の年表を作っている国文学者によれば文永十一年(1274)の出来事とされています。
そして『とはずがたり』でも『増鏡』でも西園寺実兼は「西園寺大納言」として出てきますが、細かいことを言うと、この当時の実兼は正確には「権大納言」ですね。
実兼は文永八年(1271年)に権大納言になった後、昇進がストップしてしまって、大納言になれたのは実に17年後、正応元年(1288年)になってからです。
一昔前の歴史学界では、東大史料編纂所の所長を長く務めた龍粛氏(1890-1964)などの研究の影響で、鎌倉時代の公家社会では西園寺家の勢威が大変なものだった、みたいに思われていたのですが、こうした「西園寺家中心史観」が歴史学界で疑問視されるようになった後でも国文学界ではけっこう長く影響力を保ち続け、西園寺実兼に関する国文学者の解説には妙なものが多いですね。
ま、それはともかくとして、『増鏡』に西園寺実兼とセットで登場する二条師忠の地位はどうかというと、文永六年(1269)に僅か十六歳で内大臣、文永八年(1271)右大臣、建治元年(1275)左大臣ですから、さすがに摂関家ならではの凄まじい昇進スピードです。
しかし、このように宮廷社会での公的な序列では五歳下の二条師忠の方が圧倒的に上であるのに、『増鏡』に描かれた二人の関係は些か妙なものです。
さて、続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p227以下)

------
 内には大納言の参り給へると思して、例は忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまよりおりて参り給ふに、門よりおり給ふに、あやしうとは思ひながら、たそがれ時のたどたどしき程、なにのあやめも見えわかで、妻戸はづして人のけしき見ゆれば、なにとなくいぶかしき心地し給ひて、中門の廊にのぼり給へれば、例なれたる事にて、をかしき程の童・女房みいでて、けしきばかりを聞こゆるを、大臣覚えなき物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮もなに心なくうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せどなにくれとつきづきしう、日頃の心ざしありつるよし聞えなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。
------

井上訳は、

------
 女宮のほうでは大納言が参られたのだと思われて、いつもは忍んで来られることとて、門のうちへ車を引き入れて対の屋の端のほうからいらっしゃるのに、(今夕は)門の所からお降りになるのを変だとは思いながら、夕暮時のはっきりしないころで、何の見わけもつかず、(師忠公のほうは)妻戸のかけがねを外して自分の訪れを待つ人の気配がみえるので、なんとなく不思議な気持がされて、中門の廊へ上られると、宮のほうではいつも慣れたことなので、かわいらしい童や女房が現われ出て、形ばかりお迎えの口上を申すのを、大臣は思いがけないことだが興あることに思われて、そのあとについて奥にお入りになると、女宮も何心なく対座申されたので、大臣はこれはいったいどうしたことかとは思われたが、なにかとこの場にふさわしいように、日ごろからお慕い申す気持があったことなどうまく申しあげなさって、(そこで女宮のほうは間違いに気づき)ほんとうに驚いて、ひととおりでないお悩みが加わりなさったのであった。
-------

ということで、何とも間の抜けた展開となります。

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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その6)

2017-12-22 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月22日(金)13時27分11秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p226以下)

-------
 その後も、折々は聞え動かし給へど、さしはへてあるべき御ことならねば、いと間遠にのみなん。「負くるならひ」まではあらずやおはしましけん。
 あさましとのみ尽きせず思しわたるに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもきはめてまめしく、いとねんごろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給ふに、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又かならず参り来ん」と頼め聞こえ給へりければ、その心して、誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びてありき給ふ道に、彼の大納言、御前などあまたして、いときらきらしげにて行きあひ給ひければ、むつかしと思して、この斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事もなしと思して、しばしかの大将の車やり過してんに出でんよ、と思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよよかなるにており給ひぬ。
-------

井上訳は、

-------
 その後も、時々はお手紙をさし上げて、女宮のお気持を動かしなさったが、わざわざお会いするほどのことでもないので、たいそう御疎遠にばかりなっていったのであった。「激しい恋心には忍ぶ心も負けになるのが習いだ」というほどの御執心ではなかったのだろう。
 それを情けないこととばかり女宮はずっと思っておられると、西園寺大納言実兼が忍んで通って来られたが、人柄もこのうえなく誠実で、たいそう心をこめて思い申されるので、母代りとなっている方も、仕方があるまいということで、しだいに深く頼りにして行かれると、ある夕方、「宮中から退出するついでに、きっとうかがいましょう」と約束し、あてにさせなさったので、女宮のほうでもそのつもりでだれもがお待ちしているうち、大臣二条師忠公がたいへんお忍びでお歩きになる途中、あの実兼大納言が御前駆などを多くととのえて、まことに花やかな様子で出会われたので、めんどうだと思われて、ちょうどこの斎宮(女宮)の御門があいていたので、女宮のお住まいだから(ちょっと門内に入っても)たいしたことはあるまいと思われて、しばらく待って、あの大将(実兼)の車をやり過ごして出ようと思われて、わが車を門の下に引き寄せて、師忠公は烏帽子直衣の(着慣れた)柔かい服装でお降りになった。
-------

ということで、後深草院があっさり離れてしまった後、前斎宮には西園寺実兼という新しい愛人が出来て、それなりにうまく行っていたところに二条師忠が登場します。
この話も『とはずがたり』には全く存在せず、『増鏡』が独自に創作した部分です。
西園寺実兼は『とはずがたり』の「雪の曙」に比定されている人物で、二条師忠は建長六年(1254)生まれなので、年齢は西園寺実兼が五歳上ですね。

西園寺実兼(1249-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%85%BC
二条師忠(1254-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%B8%AB%E5%BF%A0

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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その5)

2017-12-22 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月22日(金)12時52分57秒

話を少し整理しておくと、後深草院の異母妹の前斎宮(愷子内親王)は仁和寺近くの衣笠殿にいて、後深草院の母の大宮院が自分の御所の亀山殿に前斎宮を呼んで対面し、その場に後深草院も同席させることにした訳ですね。
一日目は後深草院が亀山殿の大宮院を訪問し、二人で対面。
二日目の夕方、大宮院が衣笠殿の前斎宮へ迎えの牛車を出し、その牛車で来た前斎宮と大宮院が対面。その席に後深草院が呼ばれます。
この夜は若干の酒と食事で三人の対面は終わりますが、自室に戻った「けしからぬ御本性」の後深草院は「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」に相談し、その女房が「いかがたばかりけん」(どううまく取りはからったのであろうか)、上手に仲介して、後深草院は前斎宮と同衾。
三日目、昼から三人が対面。この日は善勝寺大納言隆顕が宴席の準備をして御馳走を提供。また、後深草院・西園寺実兼らが楽器を演奏したり、今様を歌ったりして夜更けまで賑やかに過ごします。
さて、『とはずがたり』では「いかがたばかりけん」で誤魔化さず、後深草院二条が仲介に活躍する様子が具体的に生き生きと描かれているのですが、ここまでは基本的なストーリーの流れは『増鏡』でも変わりありません。
しかし、三日目の夜、『とはずがたり』では二条が後深草院は再び前斎宮のところへ行くだろうと予想していたのに、後深草院は「酒を過して気分が悪い。腰をたたいてくれ」などと言って寝てしまいます。
他方、『増鏡』では後深草院は再び行動を起こします。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p223以下)

-------
 明日は宮も御帰りと聞ゆれば、今宵ばかりの草枕、なほ結ばまほしき御心のしづめがたくて、いとささやかにおはする人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。
 何や彼やとなつかしう語らひ聞こえ給ふに、なびくとはなけれど、ただいみじうおほどかなるに、やはらかなる御様して、思しほれたる御けしきを、よそなりつる程の御心まどひまではなけれど、らうたくいとほしと思ひ聞え給ひけり。長き夜なれど、更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、後朝になり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。
-------

井上訳は、

-------
 明日は(斎宮<以下女宮という>も衣笠へ)お帰りになるとのことなので、今宵一夜だけの機会に、旅寝の夢をともにしたいものだという御心が抑え難くて、たいそう小柄でいらっしゃる後深草院が、お召物などもそのつもりでしなやかなものを着て、他の物音とまぎらしながら、そっと行動なさるので、目をさます人もいない。
 (女宮に)なにやかやと親しみをこめてお話しなさると、御心も従い寄るというのではないけれども、ただたいへんおっとりと、柔和な有様で、放心したような御様子を、お会いになる前ほどの激しいお心とまではいかないが、かわいらしく、いじらしいと思い申しなさる。長い夜だが、夜更けからお会いになったせいか、ほどなく夜が明けてしまった夢のような逢瀬の名残は、まことに物足らぬ気持はするが、しだいにきぬぎぬの別れをなさるころには、女宮もお別れがつらそうに見えた。
--------

ということで、ここは『とはずがたり』の引用ではなく、『増鏡』が独自に創作した部分です。
さて、この次にやっと二条師忠が登場します。

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五味文彦氏『「徒然草」の歴史学』再読

2017-12-21 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月21日(木)14時03分22秒

真面目な話、小川剛生氏の『兼好法師』が出たために五味文彦氏の『「徒然草」の歴史学』(朝日選書、1997)が価値を失ったかというと、そうでもないですね。
例えば第177段の「吉田中納言」ですが、古来、諸説はあったものの、おそらく明確な史料的根拠に基づく小川氏の吉田隆長説が定説になるのだろうと思います。
ただ、五味説が全然的外れかというと、そんなことはありません。
五味氏の思考過程を探るため、第177段に関係する部分を少し長めに引用してみます。(p89以下)

------
 その場にいた「吉田中納言」が乾いた砂を用意していなかったのかと尋ねたので、兼好が恥ずかしい思いをしたこと、鋸の屑は下賤なのであって、庭の儀の奉行人は乾いた砂を用意するのが故実であることなどを記している。
 兼好は「吉田中納言」が語るのを聞いて「恥づかしかりき」と思っており、きわめて臨場感のある表現がなされているので、吉田中納言とは同じ場にいたことがわかるが、その場はどこであろうか。これを知るためには「吉田中納言」が誰なのかを探らねばならない。
 「吉田中納言」の人名比定については定説がなく、吉田家の藤原藤房・冬房・冬方・定資などがこれまであてられてきている。『徒然草』は多くの人々を極官で記すことが多いので、冬方・定資の二人が有力候補にあがっているのだろうが、果たしてそうだろうか。
 ここで二十三段にみえる内裏の古風な有様を礼賛した話の最後に「徳大寺の太政の大臣は仰せられける」と記されているのに注目したい。この人物は二百六段では「徳大寺の故大臣」と称されているのに、これでは兼好が内裏に務めていた時の官職の「太政の大臣」そのままの表現が使われている。この点からして「吉田中納言」の場合にもそのことが当てはまるのではなかろうか。蔵人であった時の記憶が鮮明かつ印象的であったため、その当時の官職がそのまま記された、と見られるのである。
 そこで後二条天皇の時の「吉田中納言」を調べると、乾元二年(一三〇三)正月まで吉田経長、嘉元三年(一三〇五)十二月以後はその子の定房が相当する。ここでは故実の関係から定房では年が若いことから除くと、経長が候補にあがってくる。しかも経長は乾元二年に大納言になったものの、その年のうちに出家して数年後に亡くなっているのである。
------

いったんここで切ります。
「『徒然草』は多くの人々を極官で記すことが多い」にも拘らず、第23段の「徳大寺の太政の大臣」と第206段の「徳大寺の故大臣」が同一人物であることを前提として、「蔵人であった時の記憶が鮮明かつ印象的であったため、その当時の官職がそのまま記された」といういささか強引な仮定の上に「後二条天皇の時」の「吉田中納言」を調べ、吉田経長・定房父子を抽出したものの、「故実の関係から定房では年が若いことから」定房を排除し、経長に注目した訳ですね。
後二条天皇の蔵人という枠組みに縛られた推論ですが、この後の記述は鋭いですね。

------
 こうして経長の可能性が出てきたことから、経長の日記『吉続記』を探ってゆくと、文永十年(一二七三)五月二十三日の最勝講の記事が注目される。その日、公卿や僧侶が集まっていたところ、雨が降り出し、殿上の小庭に水が溜まってしまった。経長は乾いた砂を敷くように奉行の頭中将藤原実冬に指示し、実冬が蔵人所の出納に命じたところ、用意していない、という。これを聞いた蔵人頭の藤原頼親がすこぶる故実を知らぬものだと出納らに「勘発の詞」を加えるとともに、やむなく御所の辺の砂で雨に湿っていないものを集めて敷くように命じたとある。さらにまた弘安二年(一二七九)四月二十八日に院の最勝講を奉行することになった時も、経長は前日に小雨だったので砂を敷かせている。
 こうしてみると、庭の儀の奉行の故実にうるさい「吉田中納言」とは、まさに経長その人であったと考えてよかろう。殿上での雑談において、宗尊親王の御所での出来事や、雨に濡れた庭を鮮やかに処理した佐々木入道の話などを誰かが言い出し、それに同感して頷いていた兼好であったが、吉田中納言の一言には冷や汗をかいたことであろう。蔵人として知っておくべきことだったのである。それがこのように臨場感の溢れる表現となったものと考えられる。
-----

なるほどな、と思うのですが、思考の順番としては、五味氏はむしろ『吉続記』の記事に先に気づいていて経長だろうなと思い、それから「蔵人であった時の記憶が鮮明かつ印象的であったため、その当時の官職がそのまま記された」といった理屈を考え出されたのではないですかね。
吉田経長(1239-1309)は1283年生まれと推定される兼好より44歳も年上ですから、二人が同席して親しく会話する場がどれだけあったのかという疑問も生じたでしょうが、それは後二条天皇の蔵人で押し切った訳ですかね。
小川説の吉田隆長(1277-1350)は経長の息子で、定房(1274-1338)の同母弟ですから、父親同様に「庭の儀の奉行の故実にうるさい」人であっても全然おかしくなく、あるいは父親から庭の砂の故実を聞いていたのかもしれません。
年齢的には隆長は兼好より6歳上ですから、同席しての会話も自然ですね。
なお、四条隆顕の娘は吉田定房の正室で、隆長とも知り合いだったでしょうから、あるいは兼好が「このことをある者の語り出たりしに」と描写したところの、鎌倉事情に非常に詳しくて「鎌倉中書王にて御毬ありけるに……」と語り出した「ある者」は四条隆顕、即ち出家後の顕空上人の可能性もあるのではないか、とまで想像すると、さすがに我田引水の謗りを免れないかもしれませぬ。
ま、こんなところにも『徒然草』の社会圏と『とはずがたり』の社会圏はけっこう近いことが現れているのですが。

吉田隆長(1277-1350)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E9%9A%86%E9%95%B7

「四条隆顕の女子は吉田定房室」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/018001665f2510c0b5e3f3363a6afb19
「四条隆顕室は吉田経長の従姉妹」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25a8703d016d35481d7f649f76bf941c
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「庇を貸したら母屋をぶんどられるような」

2017-12-21 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月21日(木)12時40分22秒

>筆綾丸さん
いえいえ。
「終章の論法は、庇を貸したら母屋をぶんどられるような、我田引水の、本末転倒の、針小棒大の、ペラボーななしくずし戦術であって、この伝でいけば、『源氏物語』は藤原定家の〈著作〉だ、云えぬこともないですね」は全くの正論で、私も完全に同意します。

筆綾丸さんご紹介の五味文彦氏の『兼好法師』書評(12月16日付日経読書欄)、私も読んでみましたが、『「徒然草」の歴史学』(朝日選書、1997)の著者である五味氏としては、20年前にもう少し深くやっていれば自分の業績になったかも、と内心忸怩たる思いではないだろうかとチラっと思いました。
五味氏の『「徒然草」の歴史学』が出た頃、私は兼好法師の社会圏に少しでも関係する国文学者の論文はあらかた読み尽くしていて、誰か歴史学者がきちんとやってくれないだろうかと切望していたので、この本が出たとたん貪るように読んだのですが、残念ながら当時の私でもすぐに気づくような単純な誤りもいくつかあって、「隠居仕事してんじゃねーぞ!」みたいな生意気な感想を持ったりもしました。
わはは。
あれから二十年、という綾小路きみまろ的感慨を抱きつつ、久しぶりに『「徒然草」の歴史学』をパラパラとめくって小川氏の『兼好法師』と読み比べてみたところ、五味氏が結果的には判断を誤った部分もご自身の思考過程が丁寧に示されていたりして、けっこう面白いですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

雑感 2017/12/20(水) 16:03:01
小太郎さん
昔の自分の文章を読むのは恥ずかしいものですね。相変わらずチマチマしたことばかりで、さほど重要なことは言ってないな、と。

遠藤乾『欧州複合危機─苦悶するEU、揺れる世界』は、読もうとしてやめたのですが、もういちど挑戦してみます。
苅部直『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』は、論壇においては誉めなければならんという暗黙の強制でもあるのかな、と勘繰りたくもなりますね。

今年は例年になく読書量が減りましたが、歴史関連では、亀田氏の『観応の擾乱』と小川氏の『兼好法師』が記憶に残りました。
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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その4)

2017-12-21 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月21日(木)12時24分23秒

続きです。

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 こたみはまづ斎宮の御前に、院身ずから御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院、「この御かはらけの、いと心もとなくみえ侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」とのたまへば、「売炭翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」といふ今様をうたはせ給ふ。御声いとおもしろし。
 宮聞こしめして後、女院御さかづきを取り給ふとて、「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」とのたまへば、「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れゐて遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺、「せれうの里」を出す。人々声加へなどしてらうがはしき程になりぬ。
 かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。そのままのおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程なく寝入りぬ。
-------

井上訳は、

-------
 今度はまず斎宮の御前に、院が御自身で御銚子を取ってお酒をおつぎになると、斎宮はたいそう心苦しく思われて、すぐには手をお出しになれないので、大宮院は「この杯はたいへんおぼつかなくてすぐには召しあがりそうにもみえませんのに、何か(古い歌謡の「こゆるぎの」にあるように、ほかに)、お肴があってもよいでしょうね」とおっしゃるので、院は「売炭の翁はあはれなり……(炭を売る翁は哀れだ。自分の衣は薄いけれど)」という今様をおうたいになる。そのお声がじつにおもしろい。
 斎宮がそのお杯を上がって後、大宮院はお杯をお取りになるに当たって、「天子には父母がない、と申すそうですが、院が天皇の御位におつきになったのも、このいやしい身が後嵯峨院にお仕えしたからです。(もう)一言お礼の歌をうたわれては」とおっしゃると、人々は「もっともな御事であります」と(答えて、おたがいに)目くばせをして、そっと(肩や膝などを)つつきあう。院は「御前の池なる亀岡に……(御前の池の中の亀岡に、鶴が群れて遊んでいる)」と(祝意をこめた今様を)うたわれる。その後で杯を召しあがる。善勝寺隆顕は「せれうの里」をうたい出す。人々も声を合わせてうたったりして座が乱れるほどになった。
 こうしてたいへん夜が更けたので、大宮院も御自分の御寝所に入られた。院はご酒宴のお座席のまま、うたたねのように一人でおやすみになったので、人々もすこし座を退いて、酒宴で苦しかった疲れで、まもなく眠ってしまった。
------

ということで、このあたりも原文には曖昧なところがあり、井上訳を見ないと分かりにくいですね。
大宮院が後深草院にちょっと嫌味を言って、それを聞いた同席の貴族たちは、「「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」のですが、これが前述の政治的状況を仄めかした一文です。
このあたり全て『とはずがたり』の引用ですが、『とはずがたり』と読み比べると面白い違いが沢山あります。
なお、二条師忠の登場はまだまだ先です。
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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その3)

2017-12-21 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月21日(木)12時09分33秒

現在紹介している後深草院と異母妹の前斎宮(愷子内親王)の出来事は、後深草院と亀山院のどちらの子孫が皇統を受け継ぐかという深刻な政治的問題に関する一連の記事の直後に出てきます。
即ち、文永九年(1272)の後嵯峨院崩御の二年後、亀山天皇が皇子の後宇多天皇に譲位したため、子孫の将来に悲観した後深草院が出家を図ったところ、それに同情した北条時宗が斡旋に乗り出し、建治元年(1275)、後深草院皇子の熈仁親王(後の伏見天皇、1265-1317)が二歳年少の後宇多天皇(亀山院皇子、1267-1324)の皇太子になって後深草院も一安心、という時期の出来事です。
この熈仁親王の立太子こそ、後の持明院統・大覚寺統の対立の端緒となった訳ですね。
そして後嵯峨院(1220-72)の正室で、後深草院(1243-1304)と亀山院(1249-1305)の母である大宮院(1225-92)は、後嵯峨院崩御後の政争の中で一貫して亀山院を応援する立場にいて、後深草院とは微妙な関係にありました。
こういう事情を受けて、『増鏡』でも前斎宮を招いての亀山殿での遊宴は母子和解の場として演出されたであろうことが仄めかされているのですが、ま、そういう重要な場面で変な行動をして、後深草院は老尼から「けしからぬ御本性なりや」と評されている訳ですね。
さて、続きです。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p217以下)

------
 さて御方々、御台など参りて、昼つかた、又御対面どもあり。宮はいと恥しうわりなく思されて、「いかで見え奉らんとすらん」と思しやすらへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞えかへさひ給ふべきやうもなければ、ただおほどかにておはす。けふは院の御けいめいにて、善勝寺の大納言隆顕、檜破子やうの物、色々にいときよらに調じて参らせたり。三めぐりばかりは各別に参る。
 そののち「あまりあいなう侍れば、かたじけなけれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御けしきとり給へば、女院の御かはらけを斎宮参る。その後、院聞こしめす。御几帳ばかりを隔てて長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行などさぶらふ。あまたたび流れ下りて、人々そぼれがちなり。
 「故院の御ことの後は、かやうの事もかきたえて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけてあそばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して御箏どもかき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしもおもしろし。
-------

井上訳は、

-------
 さて、御方々(後深草院・大宮院・前斎宮)はお食事などを召しあがって、昼ごろまた御対面などがある。斎宮はたいへん恥かしくつらく思われて、「どうして上皇に対面申せましょう」とためらわれたが、大宮院などの御気持がたいそうおやさしくて、御辞退申し続けることもできないので、ただおっとりした態度でおられた。今日は後深草院のおもてなしで、善勝寺大納言隆顕が、檜破子のような物を、いろいろとたいそう見事に調進した。三献ほどは各自めいめい召しあがる。
 その後、院が「このままではあまり興がございませんので、恐れ多いのですが、昔の皇子時代と同様にお杯をいただけませんでしょうか」と大宮院の御様子をおうかがいになると、大宮院のお杯を斎宮がいただく。その後で院が召しあがる。御几帳だけを隔てとして、長押の下に西園寺大納言実兼、善勝寺大納言隆顕を召される。簀子に長輔・為方・兼行などが伺候する。何度も杯が下座へ流れて、人々は酔って戯れがちである。
 院が「故後嵯峨院崩御の後は、こういうこともまったく絶えていましたのに、今宵は珍しいことです。くつろいで一曲お奏でください」など酔い心地で申しあげなさると、大宮院は女房を召して御箏などを合奏される。院は御琵琶、西園寺実兼もお弾きになる。兼行は篳篥で神楽をうたいなどして、大げさな催しでないのも趣がある。
-------

となっています。
善勝寺大納言・四条隆顕はそれなりに重要な役として登場していますね。
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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その2)

2017-12-20 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月20日(水)12時44分33秒

続きです。

-------
 院も我が御方にかへりて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「さしはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしくならひ給へるままに、慎ましき御思ひも薄くやありけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。
 なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべきゆかりありて睦しく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。ただ少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」とせちにまめだちてのたまへば、いかがたばかりけん、夢うつつともなく近づき聞こえさせ給へれば、いと心うしと思せど、あえかに消えまどひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深くまぎれ出で給ひぬ。
 日たくる程に、大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべはただ大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
  夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる
「いとつれなき御けしきの聞こえん方なさに」ぞなどあめる。悩ましとて御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくしてを、わたらせ給へ」など聞えしらすべし。
-------

井上訳は、

-------
 後深草院も御自分の部屋に帰っておやすみになったが、お眠りになれない。さっきの斎宮の面影がお心に残って忘れられないのが、なんとも困ったことだ。「わざわざ(思いをこめた)手紙をさしあげるのも人聞きがよくなかろう。どうしようか」と思い乱れられる。御兄妹とはいっても、長い年月を外でお育ちになったので、すっかり疎遠になってしまわれているわけで、(妹に恋するのはよくないのだ、という)慎まれるお気持も薄かったのであろうか、やはりひたすらに思いもかなわず鬱々として終ってしまうのは、不満足で残念に思われる。よろしくない御性格であるよ。
 某大納言の娘で御身近に召し使う女房が、その斎宮にも然るべき縁があって親しく参り慣れている、その者を召し寄せて、「(斎宮に)慣れ慣れしく、深い仲になろうとまでは思ってもいない。ただすこし近い所で、思う私の心の一端を申しあげようと思う。こういういい機会も容易に得がたいであろう」と熱心に、まじめになっておっしゃるので、(その女房は)どううまく取りはからったのであろうか、(院は闇の中を)夢ともうつつともなく(斎宮に)近寄り申しなさると、斎宮はまことにつらいことと思われたが、弱々と、今にも死にそうにうろたえるということもなさらない。かわいらしくなよなよとして、可憐な御様子である。そのうち、暁を知らせる鳥の声も、しばしば目を覚まさせるので、心もそわそわとして落ち着かず(名残は惜しまれるが)、やはり斎宮のお名前が(浮き名が立つと)お気の毒なので、夜深い中を忍んでお出ましになった。
 日が高くなったころ、お目覚めになって、お手紙をさしあげなさる。表面はただ普通の手紙のようにして、「お慣れにならない御旅寝はいかがでしたか」などのように、まじめに見せて、中に小さい字で、

 夢でお会いしたとさえはっきりしなかった昨夜の 仮寝の床の契りなので、
 この旅の枕に露のごとく涙がこぼれます。

「まことによそよそしい御様子で、なんとも申しあげようもございません」と書かれたようである。斎宮は、気分が悪いといって御覧にもならない。無理になにやかやと申しあげるのも心もとないことなので、院は「(お気持ちを)平らかになさって、なんでもなかったふうにしておいでください」など申しあげられるようだ。
------

という具合で、このあたり、原文は意図的に曖昧になっているので、井上訳がないとなかなか理解できないですね。
さて、「けしからぬ御本性なりや」(よろしくない御性格であるよ)は、語り手の老尼のコメントです。
『増鏡』は冒頭で、嵯峨の清涼寺において老尼が語るという舞台設定はなされているのですが、実際には老尼はあまり登場せず、忘れたころに時々現れるという感じで、ここもその一つです。
また、後深草院が召し使う「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」とは後深草院二条のことです。
このあたり、『とはずがたり』に全面的に依拠している文章が続くのですが、『とはずがたり』が発見されるまでは「なにがしの大納言の女」も誰か不明でした。
また、そもそも『とはずがたり』の発見前は、ここに登場して異母妹と関係を持つ人物は『増鏡』の他の場面でも好色であることが強調されている亀山院だと思われていて、戦前の『増鏡』の注釈書では全て亀山院になっています。
それと、後深草院が前斎宮に贈った、

夢とだにさだかにもなきかりぶしの草の枕に露ぞこぼるる

という歌は、『とはずがたり』には存在せず、『増鏡』にのみ登場する歌です。
この歌から「草枕」という巻名が付けられていて、『増鏡』作者はこの歌を相当重視している訳ですね。
なお、二条師忠の登場はまだまだ先です。
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『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その1)

2017-12-20 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月20日(水)12時03分20秒

ウィキペディアで丹波忠守の項目を見たら、

------
『増鏡』著者説
忠守を『増鏡』の著者と比定する説がある。荒木良雄は当代きっての『源氏物語』研究家で歌道に精通していることをもって、忠守著者説を唱える。近年においては『増鏡』著者の有力説とされる二条良基の研究家である小川剛生の見解として、二条良基が『増鏡』成立に深く関わったとしつつも、現役の公家政治家でかつ最終的に持明院統に仕えた良基を直接の筆者とすることの困難を挙げて、「良基監修・忠守筆者」説を唱えている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%BF%A0%E5%AE%88

という具合にまとめていますね。
『二条良基研究』の「終章」を読んでも、小川氏の<作者>論は何を言っているのか良く分からず、結局は「良基監修・忠守筆者」で纏めるしかなさそうですね。
さて、前回紹介した「近衛家平の他界」は、同じ摂関家といっても別に互いに仲が良い訳ではないのだから、二条家以外の摂関家の不名誉になる話があっても不思議ではない、という反論が可能かもしれません。
そこで、次に二条良基の曾祖父、師忠(1254-1341)が登場する場面を紹介します。
師忠は後深草院とその異母妹の前斎宮・愷子内親王をめぐる長い話の最後の方に、西園寺実兼とセットになって出てきます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)

------
 まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
 十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。又の日夕つけて衣笠殿へ御迎へに、忍びたる様にて、殿上人一、二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南おもてに御しとねどもひきつくろひて御対面あり。とばかりして院の御方へ御消息聞え給へれば、やがて渡り給ふ。女房に御はかし持たせて、御簾の内に入り給ふ。
 女院は香の薄にびの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく、盛りにて、廿に一、二や余り給ふらんとみゆ。花といはば、霞の間のかば桜、なほ匂ひ劣りぬべく、いひ知らずあてにうつくしう、あたりも薫る御さまして、珍らかに見えさせ給ふ。
 院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。
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いったんここで切り、井上氏の訳を見ます。

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 さて、文永の初めごろ、伊勢に下向された斎宮(愷子内親王)は、後嵯峨院の更衣の御腹からお生まれになった方である。院がなくなられた後、服喪で斎宮を辞されたが、なお正式の辞任が許されなかったので、その後三年も伊勢にいらっしゃったが、この(建治元年)暮秋のころ上洛されて、仁和寺の辺で衣笠という所にお住まいになる。月花門院の御次にたいへん、だいじに思われた、故後嵯峨院の御意向を、しみじみと思い出されて、大宮院はたいそう懇切にお世話申しあげなさる。女院は亀山殿においでになる。
 十月ごろ、斎宮をもお迎え申しなさろうとして、後深草院をもお越しになるようにとお便りがあったので、珍しく思われて御幸があった。その夜は、後深草院が大宮院の御前で昔や今のお話などをのんびりなさる。翌日夕方になって、衣笠殿へ斎宮をお迎えに、内々の形式で、殿上人一、二人、御車二両ほどをさし上げなさる。寝殿の南面におしとね(敷物)などをととのえて(女院・斎宮の)御対面がある。しばらくして後深草院のほうへお便りをさしあげられると、すぐお越しになる。女房に御佩刀を持たせて御簾の中へお入りになる。
 大宮院は香色の薄墨色の御衣に香染めの小袖などをお召しになる。斎宮は紅梅の匂いの重袿に、えび染めの御小袿である。御髪がたいへんみごとで、今を盛りのお年ごろで、二十歳を一つ二つ越しておられるだろうとお見えになる。花にたとえていえば、霞の間に咲き匂うかば桜も、このお姿に比べてやはり美しさは劣りそうで、なんともいいようもなく高貴で上品である。
 後深草院は、われもこうを乱れ織にした枯野色の御狩衣、その下に薄紫色の小袖を着、紫苑色の御指貫という、心ひかれるような親しみ深い服装で、そこに香を充分にたきしめて、周りになんともいえぬよい薫りを漂わせておられる。斎宮のお供には、位の高そうな女房が、紫の匂いの五つ衣に裳だけをつけて、車に陪乗して参られる。斎宮の伊勢でのお話など、適度にあって、(その後)後深草院が後嵯峨院の御臨終のころの御事を、しみじみとなつかしくお話しなさると、お返事もひかえめではあるが、たいへんかわいらしい。趣のあるお酒、お菓子、強飯などのご馳走で、その夜(の対面のこと)は終った。
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前斎宮・愷子内親王は建長元年(1249)生まれなので後深草院より6歳下ですね。

愷子内親王(1249-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8C%E3%81%84%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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山崎正和氏の『「維新革命」への道』への評価について

2017-12-19 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月19日(火)20時51分21秒

一昨日、17日(日)の毎日新聞の書評欄で、私が敬愛する山崎正和氏が「2017 この3冊」として遠藤乾『欧州複合危機─苦悶するEU、揺れる世界』(中公新書)、奥本大三郎訳『完訳 ファーブル昆虫記 全10巻』(集英社)、苅部直『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮選書)を挙げていて、前二冊は良いとしても三冊目には若干の疑問を感じました。
山崎氏は苅部著について、

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 日本の近代文化が内発的だったという言説は、従来もあった。だが、著者はおびただしい古典をつぶさに読み解き、貨幣経済と産業振興の思想が江戸時代に生まれたことを確証した。広い文明観と実証研究の模範的な結婚。
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という具合に絶賛されるのですが、この夏に少し検討した限りでも同書の「実証研究」のレベルには疑問を感じます。
ま、年末にわざわざ再論するほどの話でもないので、この記事を見た直後に書いたいくつかのツイートをこちらにまとめておきます。

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今日の毎日新聞書評欄で山崎正和氏が「2017年この3冊」の一つに苅部直『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』 を挙げて絶賛しているが、私はあまり感心しなかった。

『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff62b7ebe39230f3acd865565e9ec948

苅部直氏の武井弘一『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』の読み方は雑、というか誤読だよね。

『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29f80f692bd7de5a39785d877cf69951

『「維新革命」への道』には近世の飢饉に関する非常に奇妙な記述があって、これは水谷三公氏の『江戸は夢か』を鵜呑みした結果なのだけど、この水谷著に非常に問題が多い。

『江戸は夢か』への若干の疑問
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6eb788198813c79a40a3cd8da955ed70

水谷三公氏は「アメリカ人学者ハンレー及びヤマムラ夫妻の研究」に依拠しているのだけど、これが肝心の論点でやっぱり駄目。
その駄目な業績に、水谷と苅部が乗っている。

「アメリカ人学者ハンレー及びヤマムラ夫妻の研究が、説得的」(by 水谷三公)
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c56dcc7d20e4efd49b234bfbae182b4a

ハンレー・ヤマムラ夫妻の著書は、それ自体としては悪くないけど、盛岡藩の飢饉については全然駄目。
日本人研究者なら常識的に変だと思うはずなのに、水谷氏も苅部氏もそうは思わず。

盛岡藩は「仁政を完全に欠いた国家」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6fa5b4e0e41c133945c885bd4738317f

水谷氏が江戸にのめりこむ動機は野暮ったい戦後歴史学の「貧困史観」への反動で説明できそうだけど、四半世紀前に出た『江戸は夢か』を無批判に受け入れる苅部氏の軽薄さの原因はよく分からず。

E・H・ノーマンと「戦後日本の倒錯した悲喜劇」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cb96c7eb79ed8a396a7bb5a8fa0917b

たまたま私は苅部直氏の師である渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』を読んでいて、ずいぶん変なことを言う人だなと思ったけど、苅部氏はその正統なる後継者らしい。

「皇国史観による武家政権観の臭味を帯びない表現を採用」(by 苅部直)
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3e7d16b53c4196faa65ea0bea225418

師匠が駄目なら、それを無批判に受け継ぐ弟子も駄目、というのが私の最終的な結論です。

一応のまとめ:二人の東大名誉教授の仕事について
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c72b9e6513f8ed3423832948724b2c3b
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近衛家平の他界

2017-12-19 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年12月19日(火)10時23分57秒

小川剛生氏の『二条良基研究』については、2010年3月に筆綾丸さんと若干のやりとりをしました。

『二条良基研究』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c002dfe093cdd035ca24de729c4a79b5
「なしくずし」(筆綾丸さん)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7b52c8b6c2aeb88a2bd26efa1d53ff42
「牛」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/42f7ab621d785857c49ff7b2e418780c

また、新田一郎氏と森茂暁氏の書評を紹介したこともあります。

「王権」を支えるもの
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a606b64619d65825ee1100a5d8ecacf
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa66061f66ed71ab9b43beec1ff4c7ed

重複を避けるため、「終章」の論理については必要に応じて、また後で検討することとし、先に『増鏡』の創作に二条摂関家が関与したとする小川説にとって問題になりそうな若干の記事を紹介しておきます。
『増鏡』全体において摂関家の影は非常に薄いのですが、数少ない摂関家関係の記事の中には次のような奇妙な話があります。
巻十三「秋のみ山」の最後に出てくる岡本関白・近衛家平(1282-1324)の死去をめぐるエピソードです。(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、講談社学術文庫、1983、p114以下)

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 その後、幾程なく右大臣殿の御父君、前関白殿<家平>御悩み重くなり給ひて、御髪おろす。にはかなれば、殿の内の人々いみじう思ひ騒ぐ。大方、若くてぞ少し女にも睦ましくおはしまして、この右大臣殿などもいでき給ひける。中ごろよりは男をのみ御傍らに臥せ給ひて、法師の児のやうに語らひ給ひつつ、ひとわたりづつ、いと花やかに時めかし給ふ事、けしからざりき。
 左兵衛督忠朝と言ふ人も限りなく御おぼえにて、七、八年が程、いとめでたかりし。時過ぎてその後は、成定と言ふ諸大夫いみじかりき。このころはまた隠岐守頼基といふもの、童なりし程より、いたくまとはし給ひて、昨日今日までの御召人なれば、御髪おろすにも、やがて御供仕りけり。病ひ重らせ給ふ程も、夜昼御傍はなたずつかはせ給ふ。すでに限りになり給へる時、この入道も御後ろにさぶらふに、よりかかりながら、きと御覧じ返して、「あはれ、もろともにいで行く道ならば嬉しかりなん」とのたまひも果てぬに、御息とまりぬ。右大臣殿も御前にさぶらはせ給ふ。かくいみじき御気色にて果て給ひぬるを、心うしと思されけり。
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井上宗雄氏の訳も紹介すると、

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 その後、いくらもたたぬうちに、右大臣経忠公の御父君前関白家平公が、御病気が重くなられて剃髪された。急のことなので、殿の内の人々はたいへん心配し騒いだ。だいたい家平公は若いころはすこしは女性にも親しくなさって、この右大臣経忠公などもおできになった。が、中年ころからは男性をばかりおそばにお寝かしになって、法師が稚児を愛するようにねんごろに(契り)さなって、一度ずつはたいそう花やかにひきたてなさること、常軌を外れていたことであった。
 左兵衛督忠朝という人も、限りない御寵愛で、七、八年間は全盛であった。忠朝の盛りが過ぎてその後は、成定という諸大夫の寵愛が大変なものであった。このごろではまた隠岐守頼基という者が、童形(少年)であった時から、いつもそばを離れさせずかわいがられて現在に至るまでの愛人なので、御出家のおりにもすぐ(頼基は)お供申し上げ(て剃髪し)た。病気が重くなられたころ、夜も昼もおそばから離さずお使いになる。もはや臨終になられたとき、この入道頼基も御後ろに侍していると、家平公はそれによりかかりながら、きっとそちら(後ろ)を御覧になって、「ああ、おまえといっしょに行かれる(あの世への)道であったらうれしかろうのに」と仰せられて、その言葉がまだ終らぬうちに御息が絶えた。右大臣経忠公も御前に侍しておられて、このように情けない御様子で亡くなったのを、憂鬱にお思いになった。
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ということで、井上氏も「語釈」において、左兵衛督忠朝について「師実流藤原長忠男。家平と同年。いつごろが男色の盛りかわからないが、十代後半から二十代にかけてとすれば、正安~嘉元のころである」云々と述べられるなど、若干の困惑の気配も感じられます。
この男色話は、更に次のような怪談になります。

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 さてその後、彼の頼基入道も病ひつきて、あと枕も知らずまどひながら、常は人にかしこまる気色にて、衣ひきかけなどしつつ、「やがて参り侍る、参り侍る」とひとりごちつつ、程なく失せぬ。粟田の関白の隠れ給ひにし後、「夢見ず」と歎きし者の心地ぞする。故殿のさばかり思されたりしかば、めしとりたるなめりとぞ、いみじがりあへりし。
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井上訳を紹介すると、

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 さて、そののち、あの頼基入道も病気になって、前後不覚に苦しみながら、いつも人にかしこまっている様子で、衣をかけたりなどしては、「すぐ参ります、参ります」とひとりごとを言い言い、まもなく死んでしまった。昔、粟田口関白道兼公がなくなられた後、「夢にもお会いできない」と嘆いた者の気持がする。故家平公がそれほど愛しておられたので、あの世から迎えとったのだろう、と(人々は)恐ろしがったのであった。
------

という具合です。

近衛家平(1282-1324)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E5%B9%B3
近衛経忠(1302-52)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%B5%8C%E5%BF%A0
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