投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月31日(水)15時12分4秒
棚からぼた餅のように超弩級の攻撃材料を得た山本は、一挙に攻勢に出ます。(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p230以下)
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山本と朝日東京本社との戦いはすでに一年以上、膠着状態になっていた。
山本は今度は社会部長ではなく、広岡社長、中川専務、増田常務宛てに「質問状」を提出するという手段に出た。
私は昨秋発表した作品を貴紙から社会面トップで、盗作とたたかれ社会的に葬られた者であります。今日まで死にまさる苦しさの中で、盗作でないことを立証しつづけて闘ってきました。ところが今回その朝日新聞がこともあろうに盗作だといった拙稿を、そっくりそのまま盗作して朝日新聞紙上に登載したのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。
もちろん何日たってもトップメンバーからの返答が来るはずがない。山本の手紙に対しては、いつも伊藤社会部長が対応に当たっていた。
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ということで、標的を企業トップに絞って揺さぶりをかける巧みさは見事ですね。
このあたりになると、かつて『哲學随想録 生きぬく悩み』で泥臭い人生論を語り、『人生記録雑誌 葦』の「主幹」として悩める民衆の指導者づらをしていた頃の鬱陶しい青年哲学徒の面影は全く消えて、戦前の生糸相場並みの人生の浮き沈みの中で社会の裏表を知り尽くした山本は、恐るべき文章力で武装した超有能なクレーマーとしての相貌を見せます。
そして、山本が朝日新聞から引き出した成果は次のようなものです。
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暮れも迫ったころ、伊藤部長が丁重な姿勢で面会を申し込んできた。どうやら最終結果のようだった。面会場所はいつもの有楽町の喫茶店。伊藤部長はおもむろに「友好的提案」を出してきた。山本にとっても有利な条件だとして、次のような案を提示した。
一、単行本『野麦峠』ができた時は、朝日新聞社から出版する。
一、明治百年の記念行事として野麦峠に碑を建てる。『野麦峠』は新聞の学芸欄でも記事にする。
この二つの提案を考えてもらいたい、とのこと。盗作の謝罪など一切ないが、誇り高い朝日新聞社として"全面降伏"であることは間違いない。つねに牙城の楯として孤軍奮闘してきた伊藤部長も疲労が見えていたという。ちなみに、長野支局の盗作問題が最初に伊藤部長の耳に入ったとき、彼の怒りは電光のように全身に走った。「日本刀を脇にして長野支局に斬り込んでいこうと思った」と言ったとか言わなかったとか─。
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ということで、絶対に謝罪はしない点、いかにも朝日新聞らしいですね。
さて、朝日新聞との示談が成立した1967年(昭和42)12月18日以降、山本は「単行本『野麦峠』」の再執筆に取り掛かり、翌1968年10月10日、『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀史』が朝日新聞社から出版されます。
そして翌11月3日「文化の日」、野麦峠において、岐阜県高根村と長野県奈川村の両村が準備を進めていた「あゝ野麦峠の碑」の除幕式が盛大に執り行われます。
碑の題字は「天声人語」の荒垣秀雄によるもので、この碑は野麦峠を歩いた飛騨の製糸工女の記念碑であるとともに、山本の朝日新聞社に対する熾烈な戦いの勝利の記念碑でもある訳ですね。
「野麦街道を行く」(風工房「風に吹かれて」サイト内)
http://blowinthewind.net/kaido/nomugi/nomugi.htm
棚からぼた餅のように超弩級の攻撃材料を得た山本は、一挙に攻勢に出ます。(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p230以下)
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山本と朝日東京本社との戦いはすでに一年以上、膠着状態になっていた。
山本は今度は社会部長ではなく、広岡社長、中川専務、増田常務宛てに「質問状」を提出するという手段に出た。
私は昨秋発表した作品を貴紙から社会面トップで、盗作とたたかれ社会的に葬られた者であります。今日まで死にまさる苦しさの中で、盗作でないことを立証しつづけて闘ってきました。ところが今回その朝日新聞がこともあろうに盗作だといった拙稿を、そっくりそのまま盗作して朝日新聞紙上に登載したのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。
もちろん何日たってもトップメンバーからの返答が来るはずがない。山本の手紙に対しては、いつも伊藤社会部長が対応に当たっていた。
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ということで、標的を企業トップに絞って揺さぶりをかける巧みさは見事ですね。
このあたりになると、かつて『哲學随想録 生きぬく悩み』で泥臭い人生論を語り、『人生記録雑誌 葦』の「主幹」として悩める民衆の指導者づらをしていた頃の鬱陶しい青年哲学徒の面影は全く消えて、戦前の生糸相場並みの人生の浮き沈みの中で社会の裏表を知り尽くした山本は、恐るべき文章力で武装した超有能なクレーマーとしての相貌を見せます。
そして、山本が朝日新聞から引き出した成果は次のようなものです。
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暮れも迫ったころ、伊藤部長が丁重な姿勢で面会を申し込んできた。どうやら最終結果のようだった。面会場所はいつもの有楽町の喫茶店。伊藤部長はおもむろに「友好的提案」を出してきた。山本にとっても有利な条件だとして、次のような案を提示した。
一、単行本『野麦峠』ができた時は、朝日新聞社から出版する。
一、明治百年の記念行事として野麦峠に碑を建てる。『野麦峠』は新聞の学芸欄でも記事にする。
この二つの提案を考えてもらいたい、とのこと。盗作の謝罪など一切ないが、誇り高い朝日新聞社として"全面降伏"であることは間違いない。つねに牙城の楯として孤軍奮闘してきた伊藤部長も疲労が見えていたという。ちなみに、長野支局の盗作問題が最初に伊藤部長の耳に入ったとき、彼の怒りは電光のように全身に走った。「日本刀を脇にして長野支局に斬り込んでいこうと思った」と言ったとか言わなかったとか─。
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ということで、絶対に謝罪はしない点、いかにも朝日新聞らしいですね。
さて、朝日新聞との示談が成立した1967年(昭和42)12月18日以降、山本は「単行本『野麦峠』」の再執筆に取り掛かり、翌1968年10月10日、『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀史』が朝日新聞社から出版されます。
そして翌11月3日「文化の日」、野麦峠において、岐阜県高根村と長野県奈川村の両村が準備を進めていた「あゝ野麦峠の碑」の除幕式が盛大に執り行われます。
碑の題字は「天声人語」の荒垣秀雄によるもので、この碑は野麦峠を歩いた飛騨の製糸工女の記念碑であるとともに、山本の朝日新聞社に対する熾烈な戦いの勝利の記念碑でもある訳ですね。
「野麦街道を行く」(風工房「風に吹かれて」サイト内)
http://blowinthewind.net/kaido/nomugi/nomugi.htm