学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その6)

2018-10-31 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月31日(水)15時12分4秒

棚からぼた餅のように超弩級の攻撃材料を得た山本は、一挙に攻勢に出ます。(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p230以下)

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 山本と朝日東京本社との戦いはすでに一年以上、膠着状態になっていた。
 山本は今度は社会部長ではなく、広岡社長、中川専務、増田常務宛てに「質問状」を提出するという手段に出た。

私は昨秋発表した作品を貴紙から社会面トップで、盗作とたたかれ社会的に葬られた者であります。今日まで死にまさる苦しさの中で、盗作でないことを立証しつづけて闘ってきました。ところが今回その朝日新聞がこともあろうに盗作だといった拙稿を、そっくりそのまま盗作して朝日新聞紙上に登載したのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 もちろん何日たってもトップメンバーからの返答が来るはずがない。山本の手紙に対しては、いつも伊藤社会部長が対応に当たっていた。
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ということで、標的を企業トップに絞って揺さぶりをかける巧みさは見事ですね。
このあたりになると、かつて『哲學随想録 生きぬく悩み』で泥臭い人生論を語り、『人生記録雑誌 葦』の「主幹」として悩める民衆の指導者づらをしていた頃の鬱陶しい青年哲学徒の面影は全く消えて、戦前の生糸相場並みの人生の浮き沈みの中で社会の裏表を知り尽くした山本は、恐るべき文章力で武装した超有能なクレーマーとしての相貌を見せます。
そして、山本が朝日新聞から引き出した成果は次のようなものです。

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 暮れも迫ったころ、伊藤部長が丁重な姿勢で面会を申し込んできた。どうやら最終結果のようだった。面会場所はいつもの有楽町の喫茶店。伊藤部長はおもむろに「友好的提案」を出してきた。山本にとっても有利な条件だとして、次のような案を提示した。

 一、単行本『野麦峠』ができた時は、朝日新聞社から出版する。
 一、明治百年の記念行事として野麦峠に碑を建てる。『野麦峠』は新聞の学芸欄でも記事にする。

 この二つの提案を考えてもらいたい、とのこと。盗作の謝罪など一切ないが、誇り高い朝日新聞社として"全面降伏"であることは間違いない。つねに牙城の楯として孤軍奮闘してきた伊藤部長も疲労が見えていたという。ちなみに、長野支局の盗作問題が最初に伊藤部長の耳に入ったとき、彼の怒りは電光のように全身に走った。「日本刀を脇にして長野支局に斬り込んでいこうと思った」と言ったとか言わなかったとか─。
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ということで、絶対に謝罪はしない点、いかにも朝日新聞らしいですね。
さて、朝日新聞との示談が成立した1967年(昭和42)12月18日以降、山本は「単行本『野麦峠』」の再執筆に取り掛かり、翌1968年10月10日、『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀史』が朝日新聞社から出版されます。
そして翌11月3日「文化の日」、野麦峠において、岐阜県高根村と長野県奈川村の両村が準備を進めていた「あゝ野麦峠の碑」の除幕式が盛大に執り行われます。
碑の題字は「天声人語」の荒垣秀雄によるもので、この碑は野麦峠を歩いた飛騨の製糸工女の記念碑であるとともに、山本の朝日新聞社に対する熾烈な戦いの勝利の記念碑でもある訳ですね。

「野麦街道を行く」(風工房「風に吹かれて」サイト内)
http://blowinthewind.net/kaido/nomugi/nomugi.htm
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「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その5)

2018-10-31 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月31日(水)11時43分20秒

告訴と同日付で謝罪の内容証明郵便を送付するという産経新聞社の対応も些か不思議ですが、朝日との関係は更に謎です。
山本は産経新聞の責任者二名と「念書」を交わして同社への告訴を取り下げた後、朝日新聞の社会部長・伊藤牧夫宛てに「朝日の記事によって被害を受けて泣き寝入りしている人たちと、朝日新聞社前、有楽町付近にみんなで座り込み、『泣き寝入りを止めよ』と目的を達するまで何か月でも訴え続ける」という「剣幕」の「抗議書」を送ったそうですが、これに対し、朝日の伊藤部長は6月28日付で、

-------
 「野麦峠を越えた百年」につきましては、いろいろな問題がありましたが、率直な話し合いを通して相互の誤解もとけ、充分な了解点に達したものと信じております。
 今回の事件はまことに不幸なことでありました。貴兄の作家活動に思わざる打撃を与える結果となりましたことを遺憾に思います。しかし私は人間の善意というものを信じたい。─禍を転じて福となし、今後多くの困難を克服され、作家として一層ご発展のほどお祈りいたします。
-------

という手紙を送ってきたのだそうです。(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p227以下)
判断材料が山本夫人の著書しかないので詳しい事情は分かりませんが、「盗作」の被害者、蒲幾美氏の主張自体はもっともであり、蒲氏との関係では、刑事はもちろん民事でも名誉毀損など全く問題にならないはずです。
おそらく朝日・産経とも周辺事情で言い過ぎの部分があり、そこを山本側に厳しく突かれたのでしょうね。
想像を逞しくすると、「法務省に勤める温厚な官吏で、高橋翠という人」は元検察官の優秀な弁護士を山本に紹介して、その弁護士が朝日・産経と強烈な折衝をしたのではないかと思います。
誇り高き朝日新聞の社会部長としては、これだけ丁重な手紙を送ったのだから一件落着と思ったでしょうが、山本は「いろいろな問題とはなんだ」「相互の誤解とは何だ、おれは何も誤解などしていない」「遺憾とは何だ。『お詫びします』ではないか」と「逆上」して怒りの返事を送り返し、ネチネチと言葉尻をあげつらった返信に社会部長も激怒して、両者とも一歩も引かない状態が数か月続いたそうですが、ここで朝日新聞側に珍事が発生します。
10月25日、朝日新聞長野版の「峠」というシリーズ記事に「野麦峠」が取り上げられて、何とその記事が山本の『文藝春秋』記事の盗作だったのだそうです。
長野県の旧葦会の関係者から連絡を受けると、山本は直ちに朝日新聞松本支局に行って支局長と面会し、

-------
「自分の書いた『野麦峠』の作品が盗作問題になったが、それとそっくり同じものが、こちらの新聞に出ている」と記事を示すと、支局長はいぶかしげな顔をしたが、次第に驚き、あわて出した。事態を把握していなかったうえに、山本本人が突然乗込んできたことに戸惑ったのだろう。
 松本支局長は電話でさかんに長野支局と連絡を取り合っていた。長野支局長は電話口で山本に「どんなことでも致しますから、東京の本社へは報せないで下さい」としきりに懇願したというが、どうして秘密裏に納まるか、【後略】
-------

という展開となります。(p230)
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「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その4)

2018-10-30 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月30日(火)10時41分28秒

ここで盗作疑惑の具体的内容を見てみると、山本和加子氏の『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010)によれば、一番問題となった記述は、

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工女衆がよく落ちたのもみんなその辺でございます。みんな帯をといてつなぎ合わせておろしてやり、それで救いあげたこともございましたが、悲しかったのは、落ちてゆく悲鳴が途中雪の中でプッツリ消えて、その後何のもの音もきこえなくなる時でございます。国府村のつやさというシンコがおちた時のことは忘れられません。それは美しい少女でございましたが、あの落ちていく時の少女の悲鳴が今でも私の耳に残っているのでございます。
-------

だそうです。(p218、「つや」に傍点)
これと蒲幾美氏の『飛騨ろまん』(講談社、1984)所収の「野麦峠」を比較すると、

-------
 ある年には娘の一人が雪に足をすべらして谷へ落ちたのでございます。持ち合わせの長い細引きもありませんので、窮余の一策を講じ、女衆の帯を解かせて、それを何本も結び継いで谷底へおろし、ようやく救い上げたこともありました。ある年には千仞の谷へ転げ落ちて、遂にこと絶えた一人もありました。雪の谷底から次第しだいに弱くなっていった悲鳴が、今もなお耳に残っております。国府村のつやさというかわいい顔のしんこでございました。
-------

という部分(p12、「つやさ」に傍点)が、内容のみならず「ございます」調の一人語りという点でもよく似ていて、というかそっくりで、しかも蒲氏によれば谷に落ちた「つや」の名は蒲氏がつけた名なのだそうです。
従って、山本が蒲氏の「野麦峠」を参照していたのは明らかであって、取材対象が同じだったから偶然似てしまったという言い訳は通じない訳ですね。
私も蒲氏の「野麦峠」を読むまでは、失礼ながら田舎の偏屈な物書きが山本に言いがかりをつけたのかな、などと思っていたのですが、これでは蒲氏が山本の盗作を疑い、朝日新聞や産経新聞、また『週刊サンケイ』の記者がその情報を信頼するのも当たり前です。
さて、山本が「朝日、産経新聞の関係者、松本の知己関係者などなどへ送った」という「上申書 「野麦峠」と私の立場」の内容は、和加子氏の要約によれば、

-------
自分はもう何年も野麦峠を取材してきていて、たくさんの元工女のおばあさんたちから、雪の峠越えで足を踏みはずして谷へ落ちてしまった話や、みんなで帯をといてつなげて、落ちた工女を救いあげたという話を聞いている。蒲さんも工女さんから聞いて知った話であって、そこは蒲さんの創作とは一概に言えない。しかし蒲さんが名づけたという「つや」の名を私が無断で使ったことはやはり大ミステイクであり、「つや」という名が厳然たる盗作の証拠になってしまった。だが、そこを強調することで自分の作品を「盗作された、盗作された」と大げさに言わなくてもいいではないか。同じ野麦峠という場所で、同じような体験者から取材したのだから……。
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というものだったそうですが(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p224以下)、まあ、これでは、「法務省に勤める温厚な官吏で、高橋翠という人」でなくとも、「こういうものをいくら書いても何の効果はない」と言わざるを得ません。
ところが、高橋氏からどのようなアドバイスがあったのかは分かりませんが、山本が盗作疑惑勃発の翌1967年(昭和42)3月2日に「東京都と岐阜県の地方検察庁に朝日新聞社、産経新聞社を告訴」(p226)したところ、産経新聞社は告訴と同日の3月2日付の内容証明郵便で、

-------
 当方で種々検討致しました結果、文藝春秋昭和四十一年九月号所載の貴殿の作品「野麦峠を越えた明治百年」は、長年にわたる貴殿の苦労と深い取材の積み重ねであり、立派な著作であるとの結論を得ました。当方の記事により多くの誤解を生みご迷惑をおかけしている点お詫びいたします。
-------

という謝罪状を送ってきて、産経新聞社との間では、問題はあっという間に解決してしまったのだそうです。
ちょっと不思議な展開ですが、この後、産経新聞社は山本の著作を一冊も出していないので、面倒くさい人との関係をサッサと断ち切ったということなのかもしれません。
しかし、天下の朝日新聞社はそれほど甘くはありませんでした。
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「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その3)

2018-10-28 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月28日(日)12時12分33秒

山本茂実は人生に二度、法律がらみの大きなトラブルに見舞われていて、最初が1954年(昭和29)7月、『日本観光新聞』なる週刊新聞に載った「無軌道な人生記録 『葦』をめぐる桃色騒動」「結婚すると欺して奪った私の貞操」「人妻、女事務員等山本茂実を暴く」云々のスキャンダル記事を発端とする一連の騒動です。
『日本観光新聞』は部数僅少の社会的影響力の少ない媒体だったようですが、『サンデー毎日』の後追い記事により『葦』読者にも騒ぎが広く知られることとなり、非難の手紙が殺到したそうですね。
『「あゝ野麦峠」と山本茂実』によれば、

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 人生を真剣に生きようと提言している山本の身に、なぜこのようなスキャンダルが起きたのか。そのころの葦社は世間にも名が知れわたり、出版界を泳ぎ回る情報屋と呼ばれる者たちも出没していたという。女性ファンの中には、山本と個人的に接近することを目的としている人もいて、山本もそれなりに対応していた、というようなこともあったらしい。
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との背景事情があったそうですが(p186)、山本は民事訴訟を提起し、一年後の1955年9月に問題の記事は虚偽であったとの勝訴判決を得て、『日本観光新聞』に謝罪広告を出させます。
しかし、裁判には勝ったものの多くの読者が離れ、葦出版社の経営状態が悪化したことは既に紹介した通りです。
さて、このトラブルを契機に出版社の経営者としての地位を失い、ついで1960年に『葦』そのものが廃刊となって編集長としての地位も失った山本は、フリーライターとして筆一本で新婚の妻と相次いで生まれた二人の子を食べさせて行くことになる訳ですが、編集長時代に培った出版業界での人脈のおかげでそれなりに仕事に恵まれ、生活も安定したようですね。
そして、新たに野麦峠というライフワークのテーマも見つけて張り切っていたときに第二のトラブル、「野麦峠を越えた明治百年」の盗作疑惑が勃発します。
詳しい経緯は省略しますが、この問題で山本は本当に肉体的にも精神的にも追い詰められたようですね。
弁解のために「上申書 「野麦峠」と私の立場」という文書を作成して関係者に送ったものの完全に無視されてしまった山本は、「近隣で山本と気が合って親しくつき合って」いた「法務省に勤める温厚な官吏で、高橋翠という人」から、こういう文書を書いても何の効果もないと言われると、

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 その時、なんということか、山本が大きな声で泣き出した。
「高橋さんまでがそんなこと言わないでくれ、今度の事件はおれにとって大変なことだったんだ。おれは失業して谷底から一歩一歩這い上がって、やっといちばん上の岩に片手が届いて、これで這い上がれると思った途端、その片手を上にいたヤツが足で突き落としてしまったんだ」
 彼は涙声をつまらせながら片手を上に伸ばして岩をつかむ真似をして、もう一つの手で岩をつかむ手を突き落す真似をした。
「おれはもう四十九歳だ、限界ぎりぎりだったんだ、もうおれには奈落の底から這い上がる力はない……」
 また大声で泣いた。高橋も山本の予期せぬ態度に驚いていたが、私も夫の号泣を見たのははじめてだった。この気性の強い、人前で絶対に弱みを見せない鋼鉄のような男が、手放しで泣いている。高橋と私はしばし言葉をなくして山本をじっと見ていた。高橋は夫と私へいたわるような目で会釈をくり返しながら、無言のまま帰っていった。
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のだそうです。(p226)
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山本茂実『哲學随想録 生きぬく悩み』

2018-10-27 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月27日(土)10時00分30秒

暫く探していた山本茂実の最初の著書『哲學随想録 生きぬく悩み』(但し第二版、葦会、1950)を入手し、パラパラ眺めてみました。
同書の冒頭は「教へ子達の住む街」と題する一葉のモノクロ写真で、松本の街並みの背後に常念岳などの北アルプスの山々が聳えています。
その裏の「著者近影」を見ると、山本は詰襟の学生服を着て、頭には早稲田大学の徽章が輝く角帽を被っています。
ついで、「◎ 本書を謹んで 郷里、信濃の教え子達に捧ぐ!」との巻頭言の後、目次となり、

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足跡─序にかえて
一、必然について
 悔ゆる余地なき過去/五重塔/人間の確信/寂しい旅人/たんぽゝ抄
 羨ましい人々/騙されない人生/意識的な人生
二、永遠について
 それ以前のもの/文化国家の前提条件/永遠に生きるもの/終戦
 純真さを引出すもの/温存をなすもの
三、郷愁について
 信濃のお盆/水草と浮草/牛蒡掘り
四、人間について
 孤独者/思惟と運命について/邪を憎む心/断崖の幼児/神と象徴について
五、死について
 時代とその表現/職人と芸術家について/晩秋の入道雲/死について
〇屑籠
 懐疑のノートより
 最近のノートより
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とあります。
更に、

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人間は真剣に生き抜かんと努力して居る間は
必ず迷うふにきまつたものさ、悩むものだよ…………。
然し、悩む限り、迷ふ限り
必ず救はれるものさ…………。
        ゲーテ「ファースト」より
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という頁となり、その裏には、

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著者略歴(初版発刊当時)
長野県松本市並柳に生る。
父亡き貧農の長男として、小学校卒業と共に松本青年学校夜学部に通いながら、自家の農業経営に当り、一家の復興に努むる事七年。引続き長い軍隊生活と、数年に余る闘病生活(陸軍傷痍軍人療養所生活)の後、自ら進んで松本青年学校教師となり、勤労青年の教育に勤む。傍、雑誌「たんぽゝ」を発刊す。終戦後は郷土の連合青年団長となり、又、周囲の激しい圧迫と闘いながら男女多数と共に私立神田塾を主宰す。
その間、新聞、雑誌その他に発表せる戯曲、小説、論文等多数あり。
現在、早稲田大学文学部哲学科に在籍す。雑誌「葦」編集長。「湖畔詩人」同人。
-------

と記されています。
早稲田の角帽を被った「著者近影」があって、「早稲田大学文学部哲学科に在籍す」と書かれていれば、読者の誰もが著者を早稲田大学の学生だと思うでしょうが、実際には当時(初版「早稲田広文堂」、昭和22年)の山本は単なる聴講生ですね。
一応の面接はあっても入学試験はなく、単位の取得は出来ず、卒業論文を書く義務もなければ権利もない存在です。
さて、同書の奥付の更に後ろには、どこかの川辺に生えた葦の写真付の、

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葦─人生記録雑誌─
主幹 山本茂実
隔月刊(年約七回発行)
定価四十五円(〒無料)
葦会発行
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という見開き広告があって、

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 葦の人々
「誰も知らないこんな所にも、こんなにも真剣に生きぬかんとして居る人が居るんだ」
"葦"はそんな人たちの作つた雑誌だ。
然かもそれが特殊な一部の才能家ではなくて飽く迄普通の、ありふれた、吾々と同じ様な貧しい才能と働かなくては喰えない境遇の人達ばかりによつてつくられた雑誌なんだ。
才能、センス、そういうものはないかも知れないが、それでも又良いではないか。その真剣な態度さえあつて、お互が救け合つて居つたら、必ずや何とか道は開けて行く事だけを信じておるのだ。
唯吾々はより良き生を生きぬかんとして居るのだ。
或るものは工場の片すみに、又或るものは学校に、農村に、唯それだけだ。
こうした埋もれた、しかも恵まれない人達が皆でこの"葦"を通じて結ばれよう。そんな所にこの雑誌の使命はある筈だ。誰かの云う様にそれが確かに小さい弱い力であつたにしてもそれを何人があなどる事が出来るであろうか?
吾々はしつかりスクラムを組もうではないか。
真剣に生きぬこうとする人達と共に。
-------

という文章の下に、

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「葦」原稿募集
人生記録 手記 戦記 日記 感想文 論文 小説 随筆
詩 短歌 俳句 表紙写真 カット

枚数〆切には制限ありませんから、埋もれた作品を
どしどし応募して下さい。原稿は原稿用紙に清書して
お送りください。 葦編集部
-------

とあります。
これによって「葦」がどのような読者層に支えられていたのかが伺えますね。
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「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その2)

2018-10-26 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月26日(金)21時55分34秒

ま、そんなに悪いことばかりでもなくて、婚約解消後の失意の山本の前に『生き抜く悩み』の読者だったという若い女性が登場し、『葦』の編集者となります。
そして、その女性は唐突に山本に「結婚して下さい」と言い、十六歳の年の差を理由に山本はいったん断るものの、結局、出会って僅か一年後の1959年(昭和34)4月に二人は結婚します。
ところが、その数か月後、「葦社」のオーナーである「文教洋紙店」が倒産、山本が新たに探して来た新オーナーの「八雲書店」も内情は火の車で、その社長はあちこちから借金をしまくっており、山本も運転資金を借りるための担保提供を求められます。
やむなく山本は、「結婚に際して松本の母や弟、親戚、私〔和加子氏〕の実家の両親らが出してくれたなけなしの金で、神奈川県の小田急線東林間駅近くに」購入していた「唯一の財産」である五十坪の土地を担保として提供したのですが、その土地は「間もなく八雲書店の債権者に渡されてしまった」(p198)のだそうです。
1960年、『葦』はとうとう廃刊となり、山本は失業します。
おまけに『葦』廃刊時に和加子氏は妊娠中だったのだそうで、まあ、殆ど戦前の生糸相場並みの乱高下であり、波瀾万丈としか言いようのない展開ですね。
さて、『葦』を失った山本は雑誌のフリーライターとなり、『週刊女性』『婦人画報』『主婦と生活』『太陽』『人物往来』などに記事を書く傍ら、長編物の取材も始めます。
そして日本交通公社の『旅』の取材で全国を廻る際にテーマのひとつとして野麦峠を取り上げ、次第にこれを自分のライフワークとして強く意識するようになります。
1962年(昭和37)以降、取材を重ねるうちに資料も溜り、作品の構想が次第に出来上がってきたので、長篇に取り掛かる準備として書いたのが「野麦峠を超えた明治百年」であり、

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 約三十枚の小品に仕上がったものをどこの出版社にあたるか、ある知人に相談したら文藝春秋社はどうかと薦められたので、かけあってみると意外に簡単に承諾されて、『文藝春秋』昭和四十一年九月号に載った。対応したのはA氏という若い編集次長だった。もちろん初対面で、山本のことを知らない次長は原稿を読んで「着眼点がよい、筆も立つ人だ」と評したという。
 予期していた以上に評判はよく、「文藝春秋読者賞」年間ベスト四位にもなった。これで自信を得て、たくさん溜った資料や写真やカセットテープを整理して、一年間かけて数百枚の予定で本格的な長篇執筆に取り組むことになった。
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のだそうです。(p214以下)
やっと一安心と思いきや、ここに盗作問題が勃発し、

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 それからわずか一か月後、次長A氏から山本に電話がかかってきた。「至急社に来て下さい」と、何か切迫した用件のようであった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9eccb1af4d1eed6ec1c217810431a58d

という展開となります。
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「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その1)

2018-10-26 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月26日(金)11時53分15秒

山本和加子氏の『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010)を読むと、山本茂実は大変な苦労人で、1968年(昭和43)、51歳のときに『あゝ野麦峠』で一発当てるまでは、その生涯は殆ど「山本哀史」の趣がありますね。
まず、子供の頃、抜群に成績優秀であったにも拘らず、経済的事情と農家の長男に教育など必要ないという父親の方針で(旧制)中学に進学できず、山本の正式な学歴は小学校卒業のみです。
1937年(昭和12)、二十歳で「近衛歩兵第三連隊」に入営し、真面目で頑張り屋な山本は僅か一年で「伍長勤務上等兵」になったそうですが(p81)、1939年12月に「近衛第二旅団南支那派遣軍桜田部隊」の一員として仏領インドシナとの国境の町、南寧に行くと、そこで結核に罹患し、腹膜炎も併発して死線を彷徨います。
それでも何とか生き延びて帰国し、金沢の陸軍病院で一年間治療を受けるも完治せず、1941年10月から長野の「若槻療養所」というサナトリウムに移って、以後三年間の療養生活が続きます。
その間、妹みち子がチフスで病死、弟の健巳は「昭和十九年十一月十日、落下傘部隊を指揮して、レイテ島タクロバンで行方不明」(p118)となり、戦死。
1945年(昭和20)正月からは「松本青年学校」の代用教員となり、終戦後も暫くその職を続けるのですが、サナトリウム時代に文学青年の友人と議論し、様々な思想的な書物にも触れて独学を重ねた山本は、田舎の生活に耐えられず、1947年、東京に出奔します。
そして三十歳で早稲田大学哲学科の聴講生となって勉学に励む傍ら、『生き抜く悩み 一哲学青年の記』という本を私家版で出すと、意外にもこれがけっこう売れます。
そこで出版・編集の世界で生きることに決めた山本は同志と「葦会」を組織して雑誌『葦』などを創刊、以後十三年間編集長を勤めます。
1952・3年頃には「人生雑誌」ブームとなり、『葦』の売り上げも安定してきたので山本は「葦会」を有限会社とし、松本での鬱屈した生活に比べれば夢のような時期が暫く続いたそうですが、1954年に「葦出版社山本茂実社長のスキャンダラスな記事」(p185)がゴシップ雑誌に載って、何しろ「人生雑誌」ですから編集部は大混乱、売り上げも急減し、結局は従業員全員解雇という事態となります。
おまけに『葦』の「女性編集員第一号」で、「当時はまだ給料が不安定だった」ため、「ちょうど映画会社大映でニューフェイスを募集しており、それに応募したところ」「南田洋子とともにパスして大映の女優となった」(p190)婚約者の女性との結婚の見通しが立たなくなり、結局は破談。山本は精神的にボロボロになってしまいます。
その後、休刊となった『葦』は郷里の知人の援助で細々と存続し、山本は「雇われマダム」的な編集長として残ったものの、オーナーも安定せず、経済的トラブルが続きます。
そして、『葦』に見切りをつけることができなかった山本は、その存続のために唯一の財産である五十坪の土地を担保として提供し、1960年の『葦』廃刊と同時期に、その土地も失うこととなります。

山本茂実(1917-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%8C%82%E5%AE%9F
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会田進氏「製糸聞き取り調査の総括」(その3)

2018-10-25 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月25日(木)09時55分13秒

では、会田氏は『あゝ野麦峠』の欠陥はどこにあると考えているのかというと、

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 明治発展期の製糸業界と工場法施行以後の大正・昭和の全盛期のそれは、近代化に向かって大きく変化していた時代であるからこそ、同じに比較はできない。まして現在とは。この背景となった時代の変化が抜けているのである。『あゝ野麦峠』に限ったことではないが。話し手は自分の経験で得たことを、そして記憶を語るだけで、時代とともにつまり年齢とともに変化、見方を変えているわけではない(記憶が薄れたとか、あいまいになるとか、思い違いをしてしまったということは別にして)。しかし社会は確実に変わっていたわけである。『あゝ野麦峠』では明治の悲惨な背景のままの視点で見ている。
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ということで(p103)、『あゝ野麦峠』は時代背景の大きな変化を説明せず、ただ「明治の悲惨な背景のままの視点」で「哀史」エピソードを繰り返している訳ですね。
工場法の成立は1911年(明治11)、施行は1916年(大正5)です。

工場法 (日本)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E6%B3%95_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

ただ、この説明だけでは若干分かりにくいので、具体例を挙げてもらうと、

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 たとえば最も気になる点は、歩いて野麦を越えた記憶についてである。全工程【ママ】歩かなければならなかったのは明治40年ころまでであって、中央線の開通とともに、部分的にも、すぐに汽車を利用していたことは確かなのである。大正にはほとんど集団で歩いて峠を越すことはなかった。理由は日程が短縮される分、旅館代より汽車賃のほうが安かったからという証言がある。また、明治末期までは2月に峠を越えることはなかった。春蚕が出始める6月以降でないと、仕事がないのである。しかも12月末まで操業することはなかった。11月末に帰ることが多かったはずである。明治は雪がたくさん降ったようであるが、雪踏みするほどであったかどうか。
-------

ということで、「明治末期までは2月に峠を越えることはなかった。春蚕が出始める6月以降でないと、仕事がないのである。しかも12月末まで操業することはなかった。11月末に帰ることが多かったはずである」は、『あゝ野麦峠』を通読した読者にとっては超ビックリですね。
交通機関の変化により野麦峠の通行者が激減したことについては、山本も『続あゝ野麦峠』(角川書店、1980)の「中央線の開通と野麦峠(第二〇話)」に書いていますが、その中には興味深い指摘もあるので、後で紹介したいと思います。
さて、会田氏の『あゝ野麦峠』への最終的評価は次の通りです。

-------
 つまり、事象の前後が錯綜していて、時代背景が混乱したまま整理した様子がない。時代の、時間の変化が抜けていると、時間の序列が欠けて歴史ではなくなる。事実とは離れてくる。この本が歴史書として評価されない、してはいけない理由がここにあるような気がしてならない。
 山本自身、製糸業界の変化は記述しているし、メモも取っているがこの点をいかに理解していたか疑問である。
 前述のとおり、取材から短期間の執筆である。無理からぬこととはいえ、惜しむらくは検証の不十分なことである。
-------

「事象の前後が錯綜していて、時代背景が混乱したまま整理した様子がない」のでは「この本が歴史書として評価されない、してはいけない」のは当然ですが、何故に山本は、貴重な聞き取り調査をしておきながら、それを「歴史書」として評価できる書物に纏めなかったのか。
それは単に「取材から短期間の執筆」だったためなのか。
この点、私は会田氏とは考え方が違っていて、それは山本が売れる本を書かなければならなかったからだと思っています。
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会田進氏「製糸聞き取り調査の総括」(その2)

2018-10-24 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月24日(水)10時30分5秒

前回投稿の時点では、会田氏は「野麦峠を越えた明治百年」を盗作と主張した蒲幾美(かば・いくみ)氏の「野麦峠」を念頭に置いて、「同じ時代小説と比べると」と言われているのかなと思っていたのですが、ちょっと深読みしすぎだったかもしれないですね。
山本茂実は盗作疑惑への対応として朝日新聞と産経新聞を名誉毀損で刑事告訴し、結局両社に謝罪させて告訴を取り下げるのですが、そうした経緯から見て、私は何となく蒲幾美氏の作品のレベルが山本作品に比べてかなり劣っているものと想像していました。
しかし、入手困難と思っていた蒲幾美氏の「野麦峠」が『飛騨ろまん』(講談社、1984)という短篇小説集の冒頭に載っているのに気づいて、昨日実際に読んでみたら、かなり良い作品ですね。
しかも予想以上に「野麦峠を越えた明治百年」と重なる部分が多くて、蒲幾美氏からすれば盗作を疑うのは当然であり、山本はよくこれで朝日新聞と産経新聞に勝てたなあと不思議な感じすらします。
ま、この問題にかかわると脱線が長くなりすぎるので、「製糸聞き取り調査の総括」に戻ります。
会田氏は山本の傑出した才能を率直に認めた上で、次のように続けます。

-------
 ノートにメモされた元工女、ボッカ、牛方、旅館の主人や女将、女中、そして経営者や検番、工女の親・兄弟、様々な人の聞き取りの記録がこのノートにある。その人数は、山本本人の言葉では380人、実際に取材ノートに数えられる人の数は、単に住所の控えや覚え、話の中の誰それといった実際に聞き取らなかった人を除くと156人ほど、そのうち元工女は82人に達する。声をかけた人の数は今となっては確かめようもないが、想像以上の人数なのであろう。
 山本は、松戸に移ってから近代史研究会を起こす。この関係の書類が残されていないため私的な研究会なのか、葦以来の仲間の研究会か今後の課題としておくが、今ならオーラル・ヒストリー学会である。結果として小説になったが、この聴き取りの記録は岡谷が実施した聞き取り調査の、それ以上の成果を残していることはいうまでもなかろう。ただし改めて内容を検証していくと、細部の数字、固有名詞、年齢と生年月日のズレなど検証が必要ではないかと思わずにいられない箇所があり、山本自身は聞き取り内容の検証をあまりしていないことがわかる。
 また、話し手の大部分は大正・昭和初期の体験であり、この時点ですでに明治を知る人が少なかったことは注意しなければならない。話し手の年齢に幅があることも同様である。明治を知る人は昭和40年の時点でも80歳以上の人である。話し手は60代~90歳代、30年以上の時代差は大きい。
-------

「結果として小説になった」という評価は、山本から三十年遅れたものの、製糸関係者から地道に聞き取り調査を行なって『あゝ野麦峠』を検証した会田氏だから言えることであって、『あゝ野麦峠』に対する一般の評価は全く異なりますね。
山本の妻の山本和加子氏は『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010)において『あゝ野麦峠』を「ルポルタージュ」、「優れたノンフィクション」としており(p9)、250万部を超えた、この大ベストセラーの出版に関わった関係者はもちろん、書評家・一般読者の大半が同書を「小説」ではなく、過去の歴史的事実を丹念に掘り起こした貴重な記録として受け入れ、その評価が出版以来、実に半世紀にわたって定着しています。
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会田進氏「製糸聞き取り調査の総括」(その1)

2018-10-23 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月23日(火)10時58分22秒

会田進氏(元市立岡谷蚕糸博物館学芸員)のお名前を国会図書館サイトで検索すると、岡谷市やその周辺の遺跡発掘調査報告書や「長野県岡谷市目切遺跡出土の炭化種実とレプリカ法による土器種実圧痕の研究」(『資源環境と人類 : 明治大学黒耀石研究センター紀要』2号、2012)といった論文が出てきます。
会田氏はもともと考古学出身で、きちんとした学問的訓練を受けた方のようですね。
さて、「製糸聞き取り調査の総括 山本茂実著『あゝ野麦峠 ある製糸女工哀史』をたどる(1)」(『岡谷蚕糸博物館紀要』13号、2008)によれば、岡谷市教育委員会は平成3年(1991)から製糸関係者への聞き取り調査を開始したそうです。
そして、

-------
 編集委員会では岡谷の聞き取り調査の整理・まとめを進め、山本茂実より30年遅い聞き取り調査の比較・検討を試みる中で、山本茂実本人の手による大部な取材ノートの存在を知ったのである。ノートは昭和41年3月の日付が確認できるので、執筆以前の取材ノートである。
 本稿は、取材ノートの所有者松本市歴史の里の諒解を得て、明治期の空白を埋めるため山本の聞き取りについて、その紹介と検証を試みる。
-------

とのことで(p96)、会田氏は「A6版の小さな大学ノート」全26冊の概要を紹介した後、次のように山本茂実の才能を高く評価されます。(p102)

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 ここでは26冊の取材ノートの逐一を、『あゝ野麦峠』の本文と比較して、内容や、言葉遣いを比較したわけではない。したがって、この取材メモがどのように生かされて本になったか、その軌跡を復元することはできなかった。最も本人でないとわからないことが多いであろうが。メモのすべてが本の中身になったのではなかったことは一目でわかる。あとがきにあるように取捨選択して捨てる部分が多かったわけであり、文章化や構成によって継ぎ接ぎになった部分もある。しかし基本的には、取材ノートのメモが本の文章に、体裁を整え、文学的表現に代えつつ並ぶ。メモが骨でそこに肉をつけてといったら言い過ぎになるが、おそらく、記憶の新しい、鮮明なうちに、骨に肉をつけ、きれいに整形し文章にした。十分な取材と聞き取りのメモがあればこそとはいえ、やはり驚くべき才能である。
 同じ時代小説と比べると、話し手の生の声が字になっているのである。全く想像から言葉を作るのではないのであり、それだけ真実味と迫力があって、読む者の心を惹きつける。発刊後まもなくベストセラーになるのも、うなずけることである。
-------

「同じ時代小説と比べると」は少し唐突で分かりにくい感じがしますね。
ちょっと脱線しますが、実は山本茂実は『あゝ野麦峠』を朝日新聞社から出版する二年前の昭和41年(1966)、雑誌『文藝春秋』9月号に「野麦峠を越えた明治百年」という文章を寄せており、これが盗作だとしてマスコミを騒がせる大問題になってしまいます。
山本茂実の妻である山本和加子氏の『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010)によれば、

-------
 それからわずか一か月後、次長A氏から山本に電話がかかってきた。「至急社に来て下さい」と、何か切迫した用件のようであった。
 岐阜県古川町の蒲幾美という女性が、「山本茂実という人の「野麦峠を越えた明治百年」の作新、郷土史誌『飛騨春秋』に二年前に自分が書いて発表した「野麦峠」という作品に類似している、盗作ではないか」と文藝春秋社に申し入れがあった、という。A氏は山本に、、
「うちの雑誌に載った作品に今まで盗作なんてありません。盗作を載せたとなるとうちの雑誌の沽券にかかわります。この問題はわが社とまったく関係ありません。すべてあなたの方で解決して下さい」
 と言い、こうも付け加えた。
「古川の蒲さんは東京の友人に盗作のことを電話で話すと、その友人も大変憤慨して『週刊サンケイ』にあなたのことを話したそうです」
------

といった事態になり(p215)、朝日新聞と産経新聞の社会面に四段ヌキの記事が出て、少し遅れて『週刊サンケイ』に詳細な告発記事が載ったのだそうです。
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「歴研に本当の意味の自由はあるのか」(by 井上章一氏)

2018-10-22 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月22日(月)11時46分11秒

>筆綾丸さん
いえいえ。
私も曖昧なまま済ませていた分野が少しクリアーになって、助かりました。
井上章一氏はなかなか複雑な人で、非常に真面目な面もありますね。
『日本研究』55号(国際日本文化研究センター、2017)に、2016年9月11日に行われた宮地正人(東京大学名誉教授)、仁藤敦史(国立歴史民俗博物館教授)と井上氏によるシンポジウム「<鼎談>「日文研問題」をめぐって」のやり取りが載っていますが、生真面目でお節介で鬱陶しい「戦後歴史学」に対する井上氏の魂の叫びが聞こえてくるようで面白いですね。

-------
日文研と学問の自由
●井上 私は、ごめんなさい、まとまったデータを用意していません。思いつくことをしゃべります。
 私は、ここに共同研究で来てくださっている人から、よく言われることがあります。「あなたは自由な研究ができて、いいね。好きなことを調べられて、うらやましい」。ですが、三十年ほど前、日文研が創設されるというときに、専修大学の集いで吉田伸之氏〔当時、東京大学助教授・日本近世史〕はこう言いました。「日文研は学会との接点を持っていない。 そんな組織に研究の自由は保障されるのか」と。しかし、私は正統的な学会に所属している研究者から「あなたは自由でいいね」とよく言われます。
 ちょっとけんかを売る格好になるといかんのやけれども、申し上げましょう。学会との接点を持たない日文研に研究の自由はないと言われた吉田氏へ、こう言い返してやりたいと思ったことがあります。「歴研に本当の意味の自由はあるのか」と。すみません、けんかを売りました。(笑)
 日文研は今、人間文化研究機構から態度を改めるように言われています。もっと既成の学会と仲よくつき合いなさい、さまざまな学会の声を聞いて共同研究を組織しなさいと。ああ、三十年前の声がまた聞こえてくるなと私は思います。しかし、私はそういうところとの接点を持たなかったおかげで、自由な気ままな仕事ができたと思っています。接点を持たされるようになるかもしれない昨今を苦々しく眺めています。こういうことを皆さん、本当はどう思われるのでしょうか。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

お礼 2018/10/21(日) 10:53:19
小太郎さん
ご丁寧に痛み入ります。春挽を『奥の細道』まで遡及させましたが、誤りなんですね。

どこまで本気なのか、よくわからないことばかり喋っている井上氏との対比から、本郷さんて、ほんとに真面目な人なんだなあ、と思いました。
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岡谷に貼られた「女工いじめの街」のレッテル

2018-10-21 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月21日(日)10時05分29秒

もう少し『岡谷蚕糸博物館紀要』の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」の事例を紹介してから山本茂実『あゝ野麦峠』の信頼性に直接関係する会田進氏(元市立岡谷蚕糸博物館学芸員)の「製糸聞き取り調査の総括 山本茂実著『あゝ野麦峠 ある製糸女工哀史』をたどる(1)」(『岡谷蚕糸博物館紀要』13号、2008)を引用しようかなと思っていたのですが、まあ、少なくとも食事に関しては、松沢裕作氏の「提供される食事は貧しく」という指摘は誤解ですね。
もちろん、2018年現在の松沢家の食卓に比べれば貧しいと評価せざるを得ないでしょうが、戦前の日本の生活事情を考えれば製糸工女に提供された食事は平均を相当上回るレベルであり、ご飯を自由に何杯でも食べられるだけで夢のようだと思った人も多いと思います。
『岡谷蚕糸博物館紀要』全14巻の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」を見ると、1927年(昭和2)8月に起きたストライキで有名な山一林組については、食事の内容に多少の不満があったという証言があるものの、それもオカズが少ない程度の話ですね。
『あゝ野麦峠』には、工女の集会で「私たちはブタではない、人間の食べ物を与えてください」との発言があったと記されていますが(新版、p267)、これが仮に事実だとしても、一時的な争議の興奮にかられた大袈裟な表現かと思います。
ということで、会田進氏の論文に移ります。
まず、聞き取り調査の趣旨ですが、

--------
1.岡谷蚕糸博物館の聞き取り調査のあらまし

 映画『あゝ野麦峠』によって、信州、諏訪、そして岡谷の製糸業は著しく暗いイメージになり、日本労働史の中でも、苛酷な、残酷な産業の歴史というイメージを負うことになってしまった。いまだ労働問題が起きるとまず言われることは、「岡谷の製糸業においては」という表現である。こう語られることがすべてを物語っていよう。
 本当に製糸業は工女虐待の経営を行い、いわゆる労働搾取を行なっていたのか、工女哀史ということがあったのか、その実態はどうなのかと様々な疑問が起きる中で、これまでなかなか岡谷の製糸業界から、疑問・反論が出てこなかった。自伝的小説やエッセイなどがないわけではないが、正面から反論することはなかった。
 近代製糸業の歴史は、世界経済の波に翻弄され、艱難辛苦の茨の道であった。栄光の陰に、工女も経営者も栄枯盛衰さまざまな過去を負っている。しかし、日本の産業の近代化に貢献し、外貨の50パーセント以上を獲得、明治政府の殖産興業を担い、維新以後の近代化に大きな役割を果たしたのは製糸業であり、それは製糸家の誇りであった。市立岡谷蚕糸博物館は、そうした製糸業の先人の顕彰を大きな目的の一つにしているのである(紀要創刊号)。当然ながら、なぜ哀史といわれねばならないのかという疑問は蚕糸博物館の初代館長古村敏章をはじめ、常に抱いていた問題である。特に二代館長伊藤正和は、山本氏に分け隔てなく資料を提供し、岡谷の製糸業の歴史を伝えている一人である。
-------

ということで(p95)、映画『あゝ野麦峠』が岡谷に与えた影響は甚大でした。
永池航太郎氏の「『あゝ野麦峠』に関する研究─「女工哀史」像の解釈をめぐって─」(『信濃』66巻10号(2014)によれば、

-------
 岡谷の街は、映画「あゝ野麦峠」が上映されて以降、「女工いじめの街」というレッテルが張られ、負のイメージが植えつけられることになる。映画が上映された昭和五四年には岡谷市内の企業への就職希望者数は激減した。
-------

とのことで(p795)、山本茂実の原作はまだしも、映画『あゝ野麦峠』は本当にシャレにならない事態を惹き起こした訳ですね。
なお、会田論文の上記引用部分だけ見ると岡谷蚕糸博物館の設立自体、映画『あゝ野麦峠』への対抗策のように見えるかもしれませんが、同館設立は1964年(昭和39)だそうで、山本茂実の原作が出た1968年の四年前、映画『あゝ野麦峠』の十五年前ですね。

「岡谷蚕糸博物館 シルクファクト」公式サイト
http://silkfact.jp/
市立岡谷蚕糸博物館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B2%A1%E8%B0%B7%E8%9A%95%E7%B3%B8%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8
コメント (7)
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「春挽」について

2018-10-20 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿日:2018年10月20日(土)23時41分33秒

>筆綾丸さん
>春挽

ご紹介のツイートに春挽が俳句の季語になっているとあったので、意外に古い言葉なのかなと思ってしまったのですが、『岡谷市史・中巻』(岡谷市役所、1976)の「第三編 製糸業の展開」「第三章 明治後期における製糸業の展開」「第五節 製糸労働者」には、

-------
労働時間
 明治二〇年代諏訪地方の器械製糸は六月に操業を開始し、十一月に終るを常とした。したがって年間の労働日数は一八〇日前後であった。三〇年代になって労働日数は増加し、二〇〇日前後となり、最高は二六五日、最低は一八〇日余となってその差は大きい。これは原料繭の確保と、その保管設備方法等に関係があったのであろう。四〇年代になって年間操業日数は一般に増加し、二〇〇日以下は無く多くは二五〇日を越えて二七〇余日に及ぶものもあった。このころになると春挽と称し、三月開業五月終了、夏挽六月開業十二月閉業の二期に分けこの間、三、四日ぐらいの休業があるのが普通であった。すなわち春挽の開始が年間就業日数を増加したのである。
-------

とあり(p581以下)、明治四十年代に出来た言葉のようですね。
実はこの引用部分、山本茂実『あゝ野麦峠』の信憑性に関係してくるので、些か煩雑ながら続きも引用すると、

-------
 一般的に男工は女工に比べて就業日数が若干多くなっているが、これは女工の操業の休業中といえども工場に残り、工場内の整備・整理に当たることがあり、このため日数の増加となることが多かった。一、二月は通常休業であったが、これは諏訪地方の寒気が厳しく操糸作業に不適当であったこと、原料繭の確保が困難であること、それに保管技術もまた不充分であったことなどを挙げることができる。
 明治年代には中間の休日はほとんどなく、前記春挽と夏挽の中間休みぐらいであった。明治四十二年調べによると、開業中の休みとしてお盆休み、二、三日をとるのが一般であって月々の定期休業はない。中に一、二の工場では、二、三日の臨時休業とすることがあったがこれは秋祭などの休日であった。
-------

のだそうです。
生繭は放置すると発峨して無価値になってしまうので殺蛹・乾燥させる必要がありますが、明治二十年代から米国式乾燥器の利用等で乾燥技術が徐々に向上し(p618以下)、また、保管中の繭質の維持のための貯蔵倉庫(繭倉庫)の建設が進んで(p621)、明治四十年代に春挽が一般化したようですね。
『あゝ野麦峠』との関係は後ほど。

>『日本史のミカタ』
書店でパラパラ眺めてみましたが、やっぱり私は井上章一氏が少し苦手で、購入はしませんでした。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

春挽 2018/10/19(金) 10:33:24
小太郎さん
https://twitter.com/poemor/status/174440119732944896
ご引用の文を正確に判断できる知識はありませんが、春挽という言葉、はじめて知りました。
契約終了の12月までに、その年の繭の製糸はすべて完了しているもの、と思っていました。繭を年越しさせて春に挽く、ということは、繭は数ヶ月寝かせておいたほうがよい、ということになりますか。

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno22.htm
這出よかひやが下のひきの声 芭蕉

この夏蚕は秋挽になる、ということですね。蟇蛙の「ひき」と秋挽の「ひき」が掛けられていて、季語(蟇蛙)は夏だが夏蚕の繭を挽くのは秋だ、というところがおそらくミソで、その頃、私は何処で杖を曳いているのだろう、という含みなんでしょうね。芭蕉らしい知的な句です。 


日本史のミカタ 2018/10/19(金) 11:16:40
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784396115456

井上章一・本郷和人両氏の『日本史のミカタ』を半分ほど読みましたが、随所で笑える有益な対談です。
-------------------
井上 私は、中世に朝廷の権威がどこまで力を持っていたか、疑問に思っています。しかし、自分が年を取り、先輩たちが叙勲に少なからず心を動かしている様子も見て、これは侮れないなと思うようになりました。進歩的だった人、左翼的だった人が自分はどの勲章をもらえるのかと気を揉んでいるのです。
本郷 どうでもいいように見えて、人を動かす力になっていると。
井上 フランスでも、外国人にレジオン・ドヌール勲章(フランスの最高勲章)を与えることが、安上がりな外交になっています。実力を重んじる本郷史学は、天皇制の持っている、この侮れない力を見過ごしてしまうことになりませんか。
本郷 私が「京都の研究者は唯物史観のくせに勲章を欲しがる」と言ったら、高橋昌明さん(神戸大学名誉教授)に「それだけは言うな」と窘められました。
井上 「言うな」というのは図星だからでしょう。(後略)
-------------------

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E8%90%BD%E6%9B%B8
勲章欲しがる似非(唯物)論者、という感じですね。
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松沢裕作『生きづらい明治社会』(その9)

2018-10-19 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月19日(金)12時42分14秒

それでは、まず岡谷市立蚕糸博物館『岡谷蚕糸博物館紀要』創刊号(1996)の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業(1)大正3年岡谷に来て」から、武井はる子さん(聞き取り平成7年7月、97歳)の発言を引用します。
この方は明治32年(1899)山梨県東八代郡一宮町生れで、尋常高等小学校の高等科を出て大正3年(1914)、数えで16歳で笠原製糸に入ったそうですが、食事に関しては、

-------
 麦飯だったが食事はおいしかった。おかずは漬物やなんか。たまには煮物出してくれたりね、いまみりゃ粗食だったね、それでも病む人もなければ、たまには病む人もあっつらけど、わしゃー丈夫のせいか、病んだことはなかったね。ご飯はおひつを置いといて、自分で盛って、腹一杯でお腹をすかせるなんてことはなかったね。
 仕事は毎晩、今で言えば9時まで、よくやったもんだ。サツマイモなんか蒸してねえ、出たぞ。
-------

とのことです。(p7)
次に同じく創刊号の、平成5年~7年にかけて12人から行った聞き取りをまとめた「(2)史上座談会」を見ると、食事に関しては、

-------
ここへ来て(大正6年)、ご飯は自由に食べられたし、満腹に食べられたわけだ。女衆だって別に決まって、ほれ、量を決めて出すじゃねーもんで、ほりゃー自由に食べられただわね。ただオカゾ(おかず)は、まあだいたい味噌汁がうまけりゃよかったぐらいのもんだ。お昼は魚があるとか、オカゾが付くだ。

うちは麦は入らず白米だけ(大正9年)、朝のおかずはお漬物とおつよ(みそ汁)。お昼は皿盛りのごちそうが毎日変わって出た、煮物とか魚とか。夕飯は朝飯と同じ。

わしんとこ(大正6年)、朝は漬物とご飯くらいだったけんど、お昼はゼンマイ、あれを油で炒めて油揚げを入れて煮るとか、サンマは半身、そんなオカズだった。えらい毎日、日を替えてごちそうしてくれるなんてことはねえ(無い)、昔のこんだものね、それで満足していた。夕飯は味噌汁と余ったものとか。
2割くらいの麦ご飯だったが、おいしかった。たくさん炊くもんでおいしかった。お味噌汁にはお菜とかワカメでも入れて煮てくれて。昔としちゃ何もないだものね、おいしかったよ。ご飯はおひつへ盛ってきてね、自分で自由に盛って回してやる。制限がなかった。残業のときにゃねえ、サツマイモ蒸してね、中位の大きさの2本ずつ配ってくれた。ゴマ塩つけたおにぎりの時もあった。

それでも、たまにゃライスカレーこしらえてくれて。会社のライスカレーは大正13年頃だったね。来たときはおいしくってね。あんころ餅こしらえてくれた、そういうことはありました。

昭和3年に製糸に入ったが、食事はねえ、うち(農家)よりよかった。朝はお漬物2色くらいとご飯。お昼は鯖か鰯とか塩鮭とか、そうゆうものが出た。
お昼が一番そうゆう変わったおかずが付いてた。夕飯はやっぱ、お味噌汁と漬物。煮物や魚はあったり、なかったり。お肉はたまーにだね、たくさんのものと一緒に煮込んだもので、ご飯はお代わり自由だった。
-------

ということで(p10以下)、食事についての不満は、少なくとも量に関しては全くないようですね。
ついで、『岡谷蚕糸博物館紀要』第2号(1997)「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業(2)家から通って」から、増沢志めさん(聞き取り平成5年11月、88歳)の発言を引用します。
この方は、「生れは岡谷の今井、昔のこと言やあ四ツ屋。会社は金山社。今の権吉さのところが本社で、歩いて10分くらい。6年卒業して(数えの)14歳から」「大正7年から11年間勤めたわけ」とあるので、明治38年(1905)生まれとなります。
工場のすぐ近くに住んでいて通勤していた人ですね。
食事については、

-------
 朝は漬物とご飯くらいだったけんど、お昼にはお魚がつくし、今わし覚えてるけんど、「ぜんまい」ていうのあるじゃあ。あの頃どこから来たか知らねえが、干したのがあって、それをひやかして(水でもどして)、油で炒めて油揚げ入れるとかして煮て、わりとおいしくてね、とっても豊富にあってね、よく煮てくれた。サンマやタラを焼いてくれたり煮てくれたり、お昼はそんなオカゾ。夕食は、煮物のあまりっていうか、味噌汁、その日によりゃお魚かほかの煮物。大勢だで、まぜこぜの煮物なんて、できないでね。えらい毎日、日を替えてごちそうしてくれることはねえ(無い)。昔のこんだものね、それで満足してたで。おいしかった。ご飯もたくさん、だけど、やっぱ麦のご飯だったけど、たくさん炊くもんでおいしかった。味噌汁には麩とかワカメとか。ご飯はまるっこい竹のお櫃へ盛ってきてね、自分で自由に盛って、回してやる。こういう大きい台だもんで、そっちにやるし、また盛りに来るし、量はね、制限がなかった。
 残業する時にゃあ、わりあいおいしいサツマ芋蒸〔ふか〕して中くらいの2本ずつみんなに配ってくれた。それかゴマ塩のおにぎり、あれ意外とおいしいだよ。特別の日っていう日にはわしは家にいたで、泊っている人たちは赤飯蒸してくれたって言ったでねえ。やっぱいくらか魚でも煮てくれたずらね。麦はそんなにたくさんでもないけど、2割くらい入っていたずらかねえ。食費っちゅうのは取りゃしないでね、会社でくれたんだと思う。食費の話なんか、したことなかったもの。
-------

とのことで(p14)、やはり少なくとも量については全く不満がなかったようですね。
ちなみに同じページに、

-------
 お休みは15日と30日だでねえ。だけんど、正月から春にかけて長く休んで、お裁縫習いへ行ったもんでね。地の者の休む衆の中には100日くらい休んでる衆もあったね。
-------

とありますが、中村政則『労働者と農民』に出てくる契約書の日付が6月2日の八幡ヤスも「スワ郡長池村」ならぬ長地村ですから、やはり工場のすぐ近くの「地の者」であり、おそらく通勤していたのでしょうね。
そして工場全体が休みの1・2月に加え、3月1日から始まる「春挽」の期間も丸々休んでいたようですね。
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松沢裕作『生きづらい明治社会』(その8)

2018-10-19 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月19日(金)11時07分14秒

松沢裕作氏が、

-------
特に、生糸をつくる製糸業では、若い女性が苛酷な条件で働いていたことはよく知られているでしょう。労働時間は長く、提供される食事は貧しく、そして彼女たちは寄宿舎に閉じ込められて生活していました。
-------

という認識をどのようにして形成したのかは知りませんが、一般的にはこうした認識は山本茂美の『あゝ野麦峠』(朝日新聞社、1968)と、これを原作にしつつ大幅に脚色を加えた山本薩夫監督の『あゝ野麦峠』(製作:新日本映画、配給:東宝、1979)に依るところが大きいですね。
永池航太郎氏の「『あゝ野麦峠』に関する研究─「女工哀史」像の解釈をめぐって─」(『信濃』66巻10号(2014)によれば、

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 戦後、野麦峠は、飛騨や岡谷の人々からさえ、その存在を忘れられた場所であった。その野麦峠が一躍全国的に有名になったのは、昭和四三(一九六八)年に、山本茂実著『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』(以下『あゝ野麦峠』と表記する)が出版され、ベストセラーになったからである。『あゝ野麦峠』は、山本茂実が五年の年月をかけ飛騨の元糸引き娘(元工女)約三八〇人に聞き取り調査を行い、そこで得られた資料をもとに工女たちの飛騨や岡谷での生活を描いた作品である。
 その後、『あゝ野麦峠』は、昭和五四年に山本薩夫監督により映画化された。映画の持つ影響力は原作より大きく、映画「あゝ野麦峠」では、雪の野麦峠越えの途中に転落したり、諏訪湖に入水したり、野麦峠で流産する哀れな工女たちと、工女に厳しい労働環境のもとで搾取する岡谷の工場主というイメージを観客に植えつけた。
【中略】
 映画化に際しては、テーマの絞り込みがあった。たいまつを持って雪の野麦峠を越える頭巾をかぶった娘たち、千本の煙突といわれる諏訪・岡谷の工場に働く工女たちのきびしい労働、ろくな食物を与えられず、技術のまずい工女は体罰を受け、減給になる、といった苛酷な労働環境と、主人公の優等工女でもあった政井みねが重態になり、故郷の兄がひきとりに来て、妹をおぶってちょうど野麦峠の頂上で妹が息絶えるクライマックスのシーンである。この結果、多くの人々の間で野麦峠=「女工哀史」のイメージが鮮烈に植えつけられることになった。映画化によって「女工哀史」像が創られたのである。一面的に女工哀史の物語とされたことによって、製糸工場の舞台となった諏訪の製糸関係者や元工女たちからは顰蹙を買い、山本茂実は「諏訪の敵」だと非難されることになった。
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のだそうです。(p53以下)

映画『あゝ野麦峠』
あゝ野麦峠 映画 エンディング曲 主題歌/アルル (Oh/The Nomugi Pass)
あゝ野麦峠 映画 サントラ ラストシーン曲 (Oh/The Nomugi Pass)

諏訪の製糸業の歴史に詳しい地元の人が『あゝ野麦峠』にどのような感情を持っているかについては、岡谷駅に近い真言宗智山派・照光寺の住職・宮坂宥洪氏のサイトが参考になります。

「女工哀史」の真相(城向山瑠璃院照光寺サイト内)

ま、途中で赤軍派と日本共産党を一緒くたにするところなど、ちょっと感情的になりすぎていて読みづらく、論点を史実との相違だけに絞って、自説の根拠となる文献を丁寧に紹介しつつ述べればもっと説得的になると思うのですが、郷土愛の故に冷静にはなれないのでしょうね。
私は『岡谷蚕糸博物館紀要』に連載されている「聴き取り調査の記録」を読んで、地元の製糸業関係者や元工女たちの『あゝ野麦峠』に対する違和感は理解できるようになったので、松沢裕作氏が依拠する中村政則氏の見解を批判する前に、少しだけ「聴き取り調査の記録」を紹介しておこうと思います。
あまり大量に引用するのも大変なので、とりあえず「提供される食事は貧し」かったという松沢氏の見解に対応する部分を少し紹介します。

>筆綾丸さん
>繭を年越しさせて春に挽く、ということは、繭は数ヶ月寝かせておいたほうがよい、ということになりますか。

保存による劣化があるので、寝かせた方が良いということはないと思います。
ちょっと調べてみます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

春挽 2018/10/19(金) 10:33:24
小太郎さん
https://twitter.com/poemor/status/174440119732944896
ご引用の文を正確に判断できる知識はありませんが、春挽という言葉、はじめて知りました。
契約終了の12月までに、その年の繭の製糸はすべて完了しているもの、と思っていました。繭を年越しさせて春に挽く、ということは、繭は数ヶ月寝かせておいたほうがよい、ということになりますか。

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno22.htm
這出よかひやが下のひきの声 芭蕉

この夏蚕は秋挽になる、ということですね。蟇蛙の「ひき」と秋挽の「ひき」が掛けられていて、季語(蟇蛙)は夏だが夏蚕の繭を挽くのは秋だ、というところがおそらくミソで、その頃、私は何処で杖を曳いているのだろう、という含みなんでしょうね。芭蕉らしい知的な句です。
コメント
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