学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

板倉聖哲筆「伝毛松筆・猿図」極書の鑑定

2020-07-31 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月31日(金)11時19分13秒

7月14日に上皇陛下が新種のハゼを発見されたというニュースを聞いて、伝毛筆「猿図」について六年ぶりに少し調べてみましたが、手間がかかった割にはあまり収穫がありませんでした。
山下裕二氏(美術評論家・明治学院大学教授)が『茶道の研究』(三徳庵)に寄せた論文(エッセイ?)は未だに入手できていません。
また、一昨日、国会図書館の検索で野村朋弘氏の「特集論考 朝廷の危機を救った二人の皇子 天台座主覚恕と正親町天皇」(『歴史読本』870号、2011)という論文を知り、これは「猿図」への言及がありそうだな、と思って遠隔複写を依頼したのですが、野村氏に直接聞いてみたところ、触れてないとのことでした。
ということで、未だ材料不足ではありますが、この問題についての一応の区切りをつけるために、板倉聖哲氏(東京大学東洋文化研究所教授、1965生)の『日本美術全集第6巻 東アジアのなかの日本美術』(小学館、2015)における「伝毛松筆・猿図」の解説を検討しておくことにします。
参照の便宜のために板倉氏の見解を再掲します。

-------
55 猿図 (伝)毛松 重文 東京国立博物館

中国・南宋時代(12世紀)
絹本著色 1幅
47.0×36.5cm

 画中には画家を示す落款等の符号は見当たらないが、江戸・狩野探幽(一六〇二~七四)の極書に「毛松筆」とあることから毛松筆の伝称がある。毛松は崑山(江蘇省)の人、南宋前期の画院画家だが、日本における毛松の伝称はしばしば毛書きの精密な畜獣画に冠されている。毛松の作品か否かは他に真作がないので確定できないが、日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品であることは確かで、その迫真的な表現は写実を超えて、内省的な表情にもみえる猿の描写は人間の肖像画に匹敵すると評されている。
 無背景のなかに描かれるのは一匹の日本猿で、日本との交易で得た珍獣として南宋宮廷で愛玩された猿を画院画家が描いた可能性が指摘されている。蹲って虱を取るしぐさだが、それはまるで老人が思索に耽るようでもある。体毛は顔の周囲は硬く短く、背の部分は長く疎らに、臂のあたりは柔らかく多めにといった具合で、毛の長短で体駆の立体感を巧みに表出しており、そのなかに金泥線を併用することで艶のある毛が微光のなかで煌めく様を表している。
 この図には、永禄一三年(〔元亀元年〕一五七〇)三月二三日、曼殊院准三后覚恕(一五二一~七四)が天台座主に任じられたのを祝して、武田信玄(晴信。一五二一~七三)がこの図を贈ったという寄進状が附属している。翌年(一五七一)、織田信長(一五三四~八二)によって比叡山延暦寺は焼討ちされたが、信玄は甲斐(現在の山梨県)に亡命した覚恕法親王を保護した。そのため、覚恕法親王の計らいで権僧正という高位の僧位を得た。


板倉氏は「無背景のなかに描かれるのは一匹の日本猿」と書かれていますが、昭和五十二年(1977)頃、この猿が日本猿だと指摘されたのは皇太子時代の上皇陛下で、それまでは東洋美術関係者は誰も猿の種類などに興味も知識もなかった訳ですね。
この指摘を受けた「美術史学の某先生」はおそらく鈴木敬(東大名誉教授、学士院会員、1920~2007)で、徳川義宣氏によれば、「某先生は返答に窮し、宿題として持ち帰って動物学者に意見を求められたが、答は同じ、中国には棲息してゐない日本猿。美術史学の権威が寄って相談の挙句、毛松が猿を描いて巧みであるとの高名が日本にも伝はってゐたので、日本からモデルの猿を中国に送って描いてもらった作品、といふ解釈に統一して、某先生はAへの回答とされた」のだそうです。


約半世紀前の「某先生」の苦し紛れの回答を板倉氏は踏襲するばかりか、「日本との交易で得た珍獣として南宋宮廷で愛玩された猿を画院画家が描いた可能性」についての誰かの見解を肯定的に引用する訳ですが、果たしてそれを根拠づける史料はあるのか。
あるいは、せめてベトナムなど周辺諸国の「珍獣」が「南宋宮廷で愛玩」され、「画院画家が描いた」事例があるのか。
まあ、おそらくないだろうと思いますが、そうした根拠なしに「日本との交易で得た珍獣として南宋宮廷で愛玩された猿を画院画家が描いた可能性」を云々するのは、研究者の態度としてはいかがなものかと思われます。
ちなみに「某先生」と思われる鈴木敬氏は、大著『中国絵画史』上巻・中巻之一・中巻之二・下巻(吉川弘文館、1984-1995)全八冊で「伝毛松筆猿図」に一切言及されていませんが、これは鈴木氏が皇太子殿下への一応の回答の後、改めて熟考し、従来説を維持するのは無理だと判断された結果のように思われます。


歴史的事実として確実なのは、元亀元年(1570)、武田信玄が曼殊院覚恕の天台座主就任祝いとして「猿図」を贈ったことだけであり、自ら絵を描くなど相当の教養の持ち主であった信玄は、仮に「猿図」が「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品」であるならば、それなりの由緒を説明するのが自然と思いますが、信玄の覚恕宛書状には「絵一幅猿」とあるのみです。
信玄が「猿図」の由緒について全く語らない以上、この「猿図」は比較的新しい作品で、あるいは信玄が天台座主への献上品としてふさわしい絵を、三条夫人の縁などを通じて京都の画家に特注した、といったあたりが一番可能性があるのではないかと思われます。
天台座主への献上品である以上、そこに描かれる猿が中国風の猿ではなく、日本猿であることはまことに自然です。
いずれにせよ、「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品」が、板倉説によれば通説より更に一世紀遡って十二世紀から約四百年の空白を経て、突如として元亀元年(1570)、武田信玄の下に出現するというのはあまりに不自然であり、その空白を説明する責任は板倉氏にあります。
きちんとした根拠に基づく説明ができず、単に「猿図」の「迫真的な表現」は南宋画院でしか生まれないのだ、といった信念しか語れないのであれば、板倉氏は研究者ではなく、「鑑定家」として美術業界を生きることをお勧めしたいと思います。

>筆綾丸さん
>門前の小僧

わはは。
筆綾丸さんもけっこう根に持っておられますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

妄説 2020/07/29(水) 13:47:01
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakutyuu/theme/work17.html
宜令洩申賜候は、アガンベンの『ホモ・サケル』のように難解ですが、洩は曳、申は猿、洩申とは猿曳きの言い換えで、賜は給に通じ、
宜しく猿を曳かしめ給ひ候
と読むのではあるまいか。私が曳いていた田舎猿ですが、これからは、法親王がお曳きなされ、というような、強面の戦国大名らしからぬユーモアのような気もします。猿曳きは、天台座主の門出を祝うのに相応しい芸能でもありますからね。

追記
以前、戦国大名武田氏の某研究者から、門前の小僧と誉められたことがありますが、彼なら、宜令洩申賜候をどう読むのかな。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B3%E8%B3%9C-2087528
『源氏物語』「松風巻」にあるように、申賜は申給と同じで、申賜候は「まをしまたひさうらふ」と読むしかないようで、依然として、宜令洩が読めません。
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武田逍遥軒信綱

2020-07-29 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月29日(水)12時49分35秒

>筆綾丸さん
>「可願御引合候」と書いてあるように思われ、

ここも確かにそうですね。
まあ、全く素人の私がじっと眺めていても特に良い知恵は浮かびませんが。

ところで『山梨県史 通史編2 中世』(山梨県、2007)の関係部分、執筆者の井澤英理子氏は山梨県立美術館の「学芸幹」だそうです。


せっかく重い本を借りてきたので、信玄と絵画の関係について、同書の井澤氏執筆部分をもう少し紹介しておきます。
井澤氏は一蓮寺(甲府市)に「武田信玄筆と伝えられる渡唐天神像が所蔵されている」(p863)ことに触れ、渡唐天神像についての説明を加えた後、次のように述べます。(p864)

-------
 信玄は、戦乱に明け暮れる時代にあっても文芸を重んじ、和歌や連歌にも熱心で、自ら絵も制作していたようである。正室三条氏(円光院殿)を介して都の公家文化にも精通し、策彦周良や快川紹喜らを恵林寺住持に相次いで招請するなど、禅宗文化のネットワークを結んでいた。山梨県内には、信玄周辺で制作された渡唐天神像が数多く遺っている(表12-7)。こうしたなかにあって、恵林寺本は、足下に梅を敷き、壺のようなものに奈良時代の朝服姿で腰掛けており、出典不明の特異な画像である。これもまた、信玄の文化交流のなかに位置するものと推測される。
-------

一蓮寺サイトに伝信玄筆の渡唐天神像が掲載されていますが、なかなか細やかな筆致ですね。


また、信玄の同母弟、信廉(逍遥軒信綱)はもう少し本格的な画家です。(p865以下)

-------
 室町時代には本格的に文芸をたしなむ武将たちが現れたが、なかでも武田信廉は武人画家として異彩を放っている。信廉は信虎と大井夫人の三男として出生した。信玄の同母弟で、信玄の没後出家して逍遥軒信綱と号した。逍遥軒の画業を最も特徴づけているのは人物画である。母への愛慕を感じさせる武田信虎夫人像を初見とし、異様なまでに生々しい父武田信虎像、頂相の雪田宗岳像(恵雲院[甲府市]、県指定、文化財編絵画46)や、束帯天神像(常磐山文庫[鎌倉市]、画中膝部分に隠落款「逍遥軒筆」あり)、長禅寺の渡唐天神像などの作品がある。生身の人間を感じさせる面貌表現と、固体が溶解したような丸みを帯びた造形に、独特の感性が現れている。このほか、高野山成慶院の十王図、十二天図などの仏画、諏訪南宮明神社社殿(笛吹市)の扉絵四季花木図などの金碧障壁画と、作例は多岐にわたる。なお、信玄の寿像を多く描いたといわれるが、逍遥軒筆の信玄像は確認されていない。信玄を鎧姿の不動明王像として描くいわゆる「鎧不動尊」には、恵林寺本(文化財編絵画48)をはじめ、逍遥軒の作と伝えられるものが多い。
-------

大泉寺(甲府市)の所蔵する「異様なまでに生々しい父武田信虎像」は、少し検索してみたところ、「肖像ドットコム」というサイトで紹介されていました。


身近にこんな画家がいるのなら「猿図」も逍遥軒作でいいんじゃないの、などと思わないでもないのですが、さすがに作品としてのレベルが違うのでしょうね。
天台座主就任祝いの献上品としては、弟に描かせました、では格好がつかないでしょうしね。

武田信廉

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

謎の猿(無印良品) 2020/07/28(火) 16:57:07
小太郎さん
鑑蔵印のない南宗の名画が、数百年の空白期を経て、田舎大名の許に突如出現するなんて、まるでトリノの聖骸布のようで、フェイクじゃないの、とは思わないのですかね。

信玄の書状について、令旨は准三后覚恕のもの、綸旨は正親町天皇のもの、とすると、田舎大名の許に綸旨まで届くのは不自然ではないか、と思って崩し字をよく見ると、綸旨ではなく綸言と書いてあるようで、そうであれば、令旨の中に天皇の御言葉が記されている、と解釈でき、不自然さはなくなります。
それはともかくとして、田舎者らしく猿の絵を献じます、という謙遜の後に続く「宜令洩申賜候」が読めません。粗品ながら我が胸の内をお察しくだされ、というような意なのでしょうか。

追記
「可預取合候」も意味が取りにくく、誤読ではあるまいか、と思って崩し字をよく見ると、「可願御引合候」と書いてあるように思われ、それなら、御引き合はせ願ふべく候、と読めるので、意味が通ります。
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取り急ぎ

2020-07-28 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月28日(火)23時19分26秒

>筆綾丸さん
『山梨県史 資料編5 中世2上 県外文書』を改めて確認しましたが、「綸旨」「可預取合候」を含め、前回投稿での同書からの引用自体は正確でした。
私は古文書は全く読めませんが、「綸旨」は確かに「綸言」のようですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「謎の猿(無印良品)」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10341

参照の便宜のため、当該文書を再掲しておきます。

-------
一〇二〇 一 武田信玄書状        (切紙)
(懸紙ウハ書)
「            法性院
     庁務法眼御房   信玄  」
就座主御拝任、 令旨謹而頂戴、殊 綸旨拝見、先以目
出度奉存候、向後者田舎相当之御用等、被 仰付候之様、
可預取合候、仍絵一幅猿、令献之候之趣、宜令洩申賜候、
恐々謹言、
      七月十九日  信玄(花押)
       庁務法眼御房

http://www.emuseum.jp/detail/100835/002?word=%E7%8C%BF&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=9&num=3&mode=simple¢ury=
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武田信玄書状(元亀元年七月十九日)

2020-07-27 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月27日(月)22時12分6秒

『山梨県史 通史編2 中世』(山梨県、2007)を見たところ、「第十二章 室町・戦国時代の文化」の「第二節 彫刻・絵画」に、次の記述があります。(p861以下)
巻末の「執筆分担」によれば、執筆者は井澤英理子氏ですね。

-------
水墨画の拡がり
 室町時代には、中国の文化が積極的に取り入れられ、舶来品が珍重された。絵画においては、同時代の明画よりも一時代前の宋元画が尊ばれたが、これを代表する作品が久遠寺に伝わる「夏景山水図」である。画中の鑑蔵印「天山」から、室町幕府三代将軍足利義満の蒐集品であったことが知られるほか、八代将軍足利義政の中国絵画収蔵目録「御物御画目録」にも記載され、将軍家の蒐集品「東山御物」の一つとして名高い(国宝、文化財編絵画82)。もとは四季山水四幅対であったが、現在春景山水図の行方は不明で、秋・冬景山水図が京都南禅寺の塔頭金地院に収蔵されている。自然景観に置かれた人物の視線や心象を感じさせる画面構成、辺角景構図などの特徴から、南宋の宮廷絵画制作所「画院」において、十三世紀初頭に制作されたとみられている。寛文十三年(一六七三)、浜松藩主太田資宗によって寄進され、久遠寺に伝来した。
 貴重品であった宋元画は、しばしば報償の代わりや祝事の贈答品として用いられた。南宋十三世紀の伝毛松筆「猿図」(重文、京都曼殊院伝来、現在は東京国立博物館所蔵)は、繊細な毛描きによる写実的な表現を極めた動物画の傑作として知られるが、これは、元亀元年(一五七〇)、曼殊院(京都市)の准三后覚恕の天台座主就任を祝して、武田信玄が寄進したものである((元亀元年)七月十九日「武田信玄書状」〔東京国立博物館所蔵文書〕資5上一〇二〇)。なお、山梨県内には、大泉寺の「松梅図」(重文)をはじめ、向嶽寺などに宋元画・明画の優品が伝わっている。
-------

そして『山梨県史 資料編5 中世2上 県外文書』(山梨県、2005)の「一〇二〇」(p468)を見ると、

-------
一〇二〇 一 武田信玄書状        (切紙)
(懸紙ウハ書)
「            法性院
     庁務法眼御房   信玄  」
就座主御拝任、 令旨謹而頂戴、殊 綸旨拝見、先以目
出度奉存候、向後者田舎相当之御用等、被 仰付候之様、
可預取合候、仍絵一幅猿、令献之候之趣、宜令洩申賜候、
恐々謹言、
      七月十九日  信玄(花押)
       庁務法眼御房
-------

となっています。
「猿」は小さい字ですね。
やはり絵自体の説明は「絵一幅猿」だけで、ずいぶんあっさりしています。

http://www.emuseum.jp/detail/100835/002?word=%E7%8C%BF&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=9&num=3&mode=simple¢ury=

伝毛松筆「猿図」は、同じく重要文化財の久遠寺「夏景山水図」と比較すると、画中に鑑蔵印もなく、「東山御物」云々といった履歴もなく、通説によれば十三世紀から約三百年、板倉聖哲説によれば更に一世紀遡って十二世紀から約四百年の空白を経て、突如として元亀元年(1570)、武田信玄の下に出現する訳ですね。
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板倉聖哲「日本が見た東アジア美術─書画コレクション史の視点から」

2020-07-26 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月26日(日)12時46分19秒

『日本美術全集第6巻 東アジアのなかの日本美術』(小学館、2015)には全体の半分以上を占める図版の後にいくつか論文が載っていて、その筆頭が板倉聖哲氏の「日本が見た東アジア美術─書画コレクション史の視点から」です。
この論文は冒頭に、

-------
 日本美術にとって、つねに中国美術が大きな刺激になってきたことは言うまでもない。両者の関係を通覧すれば、日本美術が単に同時代の中国の流行を追うのではなく、しばしば過去の美のなかから選択して需要してきたことがわかる。それは受け手側が主体的に選択した美であり、古代から近代に至るまで一定の趣向の反映があったことを意味している。
 ここではそうした位相のズレに注目して、書画コレクションの観点から、日本の為政者が収集した「唐物(中国からの舶来品)」の展開をみていきたい。
-------

という趣旨説明があって(p170)、この後、

-------
正倉院と唐皇帝コレクション
後白河法皇と徽宗皇帝
唐物崇拝と東山御物
中国と日本における絵画趣味の相違
収蔵する「場」の変容─近代の美術館・博物館へ
-------

という小見出しの順に議論が展開されて行きます。
その全体を批評する能力は私にはありませんが、日本史と東洋美術史の「位相のズレに注目して」みると、例えば、後白河院についての、

-------
 蓮華王院宝蔵をつくった後白河上皇に対する評価はいまだ揺れ動いている。武士の台頭に翻弄される古代最後の王、武士たちをきりきり舞いさせた権謀術数の政治家、流行を追い藝術に現〔うつつ〕を抜かした「暗主」、さらに、近年では棚橋光男氏の研究によって「文化の政治性」による中世王権確立の立役者といったイメージが提示された。
-------

といった記述(p172)は、四半世紀前だったら新鮮な印象を与えてくれたかもしれません。
棚橋光男氏(1947-1994)の遺著である『後白河法皇』(講談社選書メチエ、1995)は、今読むと単に騒々しいだけで、後続の研究者には殆ど影響を与えていない感じですね。
また、

-------
 足利将軍は、和の文脈としては、空前の絵巻コレクションを形成した後白河院に倣って、王権の正統性を示すために絵巻を制作・収集した。義満自身、みずからを主人公とする「鹿苑院殿東大寺受戒絵巻」を制作したり、みずからを『源氏物語』の光源氏に重ねて「絵合〔えあわせ〕」を企画したりと、権力の誇示がその目的のひとつであったことは言うまでもない。
-------

という記述(p176)は、恐らく高岸輝氏の『室町絵巻の魔力 再生と創造の中世』(吉川弘文館、2008)に依拠したものと思いますが、同書には論理的な飛躍が多すぎてあまり感心できず、板倉氏が高岸説をまるで定説のように扱っている点には抵抗を覚えました。

絵巻と政治権力
二重のストーリー
喧伝とは?
紫の上と北山院の共通点
「水際立ったやり方」
組曲「北山」

総じて、板倉氏の日本史の知識と分析力には若干の疑問を感じます。

>筆綾丸さん
>相変わらず、西欧の猿真似をしているだけだ、

そうですか。
実はいったん『イタリアン・セオリー』を図書館に返却した後、また気になって再度借り、チラチラ眺めていたところだったのですが。
信玄の「送り状」は『山梨県史』に出ているようなので、後で探してみます。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

千里眼の猿 2020/07/24(金) 13:05:30
小太郎さん
悔しいことに崩し字は読めませんが、秦氏の言われるように、送り状の日付(7月19日)と三条夫人の死(7月28日)との間には、何か深い理由があるような気がしますね。
浪漫主義的に言えば、猿の表情には誰かの死を悼んでいるような悲しげな気配があり、さらには、武田家の滅亡をも予見した諦念すら揺曳しているようにもみえますね。

猿真似 2020/07/25(土) 15:24:16
日本画で猿の絵と言えば、幕末の森狙仙が有名ですが、例の『猿図』の作者は、デューラーの同時代人かもしれず、彼の『野うさぎ』(1502)と比べても遜色ないような気がします。と言うか、あの時代、『野うさぎ』のような兎は日本画では描けず、『猿図』のような猿は西洋画では描けない、ということかもしれません。
『イタリアン・セオリー』を読み終わりましたが、よく理解できませんでした。捨て台詞のような言い方をすれば、西欧に哲学者はいるが、日本には存在しないので、明治以来、相変わらず、西欧の猿真似をしているだけだ、というようなことになります。
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「猿図」と三条夫人

2020-07-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月24日(金)11時51分56秒

>筆綾丸さん
信玄の「送り状」は「e国宝」に出ていますね。


仮に「伝毛松筆猿図」が板倉聖哲氏の言われるように「中国・南宋時代(12世紀)」の「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品」であるならば、信玄も由緒についてそれなりの説明を加えるのが自然だと思われますが、「絵一幅猿」以外何もなく、ずいぶんあっさりしていますね。
また、その内容については、秦恒平氏「猿の遠景」(『猿の遠景 絵とせとら文化論』、紅書房、1997)の次の記述(p18)も参考になります。

-------
 戦国大名の最も有力で有名なひとりである武田信玄の手に、少なくも或る時期、間題の『猿図』が所持されていた、それを否認していい埋由はもはや無い。間題は、一、彼の手にどう入ったのか、二、彼が京都の曼殊院覚恕にこれを贈るどんな筋合いがあったか、であろうか。東博の湊さんも、それに就いてはどうもと、思案がないようであった。
 だが、この場合は一にも二にも、わたしは、信玄正室の三条夫人ないしその死去を手がかりと考えたい。NHKの大河ドラマでは紺野美沙子が演じていた、あの、いつもいつまでも故郷京都をふかく思い、夫信玄の上洛を夢見ていた奥方である。この人は右大臣まで歴任した三条公頼(きんより)(藤原氏)の娘であり、『猿図』が覚恕へ贈られたのと全く同年の同月、即ち元亀元年の七月二十八日に病没していたのであって、たんなる偶然の一致とは簡単に見過ごせるわけがないからだ。
 覚恕の座主補任は三月二十三日であった。京と甲斐国との距離からして当然でもあろうが、信玄がたぶん側近に筆をとらせ、祝賀の意を伝えて『猿図』を贈った書状の日付は、明白に「七月十九日」である。三条夫人はもはや衰弱に向かっていて、句日を経ずに亡くなっている。その書状には、だが、「目出度奉存候」の字句についで今後は「田舎(でんじや)相当之御用等」を仰せ付けられますようにという趣旨が契約されている。そして「繪一幅猿」を献じますとしてある。日本中の当時の戦国大名がみな覚恕の「座主拝任」を祝って今後の奉仕を申し出ていたはずはなく、ここへ至る信玄なりの筋道が在っただろうと思いたい。


秦説の評価は戦国時代の研究者に委ねたいと思いますが、制作年代や作者はともかくとして、優れた美術品であることは間違いない「猿図」を武田信玄のような田舎大名が入手したルートとしては、確かに三条夫人の京都とのつながりは相当に説得力がありますね。

三条の方(?~1570)

秦氏のエッセイ、本当に久しぶりに読んでみましたが、秦氏は徳川義宣氏の「素直に考へれぱ室町時代、阿弥派や狩野派、雪舟近辺の作として見る方が妥当だと思ふね」という見解に厳しく反発します。(p12)

-------
 正直のところわたしは徳川説に、冷淡であった。取り合う気があまりしなかった。くわしく考えたわけでなく、直観的に、なお室町時代といえども『猿図』の如きただ猿の繪を、取り合わせも背景もなしに接近して描ききるような繪ごころは、出来ていないという判定が働いた。
 そもそも阿弥派であれ狩野派であれ雪舟近辺であれ、類似の繪が、たとえ他の獣であれ鳥であれ、思い浮かぱなかった。学研版『花鳥画の世界11花鳥画資料集成』に、沢山な画中の小動物の姿が例示してあるけれど、伝毛益の『蜀葵遊猫図』すら然り、伝毛松『猿図』のごときあたかも肖像画のような表現は一点も出ていない。それどころか室町から安土桃山時代の猿の繪といえぱ、あの牧谿描く猿が手本であり、その踏襲である狩野松栄の猿や長谷川等伯の猿などであって、それは伝毛松『猿図』の猿とはまるで別種の、待徴的なまるい童顔、手のながい身軽な樹上の猿猴どもの姿ばかりであった。
-------

結局のところ、秦氏や文中に出てくる東京国立博物館の湊信幸氏(1947生)、更に板倉聖哲氏のような美術史家は、「猿図」の芸術的達成度の高さから南宋の画家の作品であることは間違いないと確信されていて、そこは一歩も譲れない、という立場のようですね。
私のような素人は、「その迫真的な表現は写実を超えて、内省的な表情にもみえる猿の描写は人間の肖像画に匹敵すると評されている」(板倉氏)ならば、それこそ優れた肖像画を描く才能を持った人、例えば神護寺の「伝源頼朝像」の作者のような人が猿を描けば相当の作品ができるように思いますが、そんなことは専門家には想像もできないことなのでしょうね。
山下裕二氏(明治学院大学教授)が『茶道の研究』(三徳庵)載せたという論文(?)も入手できないままですが、何か新しい情報が得られれば、改めてこの話題をとりあげたいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

猿の言い分 2020/07/23(木) 13:35:34
小太郎さん
鴨川氏の言われる「お守りプレゼント」ですが、ほんとにそうなの、と言えば、連想ゲームと言うか、揣摩臆測でしかないような気がしますね。
元亀元年(1570)七月十九日付送り状について、一部ではなく全文を紹介してほしい、と思います。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%81%95%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B
信長による叡山焼討ち(1571)の後、天台座主(覚恕法親王)は甲斐国へ「亡命」しますが、お守りの『猿図』も後生大事に携えていたとすれば、信玄の喜びも一塩であったろう、と推測されます。なお、塩が原因でヒリヒリして泣いたのは日本猿ではなく因幡の白兎です。
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「筆者は同意できないが」(by 鴨川達夫氏)

2020-07-23 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月23日(木)09時32分42秒

>筆綾丸さん
ご紹介の『武田信玄と勝頼─文書にみる戦国大名の実像』を少しだけ読んでみました。

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文書はかつて何があったかを示唆するナマの証拠である.これを主たる材料として,私たちは過去の出来事の再現に挑む.「風林火山」で知られる戦国大名,武田信玄・勝頼父子の文書を読み解き,その人となり,滅亡に至る経緯を明らかにした一冊.文書の作られ方から丁寧に説き起こし,通説を根本から洗い直す.


巻末の「参考文献」に、

-------
 本書は筆者オリジナルの意見を連ねたものであって、直接の参考文献と呼べるものは、本文中に示した二、三の論文にどどまる。ただし、「筆者は同意できないが」というかたちで、私見とは異なる意見をいくつか紹介した(*を付けてある)。それらについては、誰の意見であるのか、明確にしておく義務があるだろう。なお、ここに示したもののほかにも、同じ趣旨の意見が提出されている場合がある。
-------

として花ケ前盛明・栗原修・黒田基樹・秋山敬・荒上和人・二木謙一・笹本正治・村井章介氏等の十五の文献が挙がっていますが(p210以下)、これはなかなか戦闘的な書き方ですね。
特に黒田基樹氏は二度登場していて、p46の「戦国大名外交文書の一様式」(「山梨県史のしおり」資料編四)については鴨川説に説得力を感じましたが、p67の「高天神小笠原信興の考察」(「武田氏研究」二一)の方は黒田氏の再反論を聞いてみたいようにも思いました。
ま、素人の私にとっては改めて古文書学の厳しさを教えてくれた本ですが、正直、こうしたジグソーパズルを解くような研究は、歴史学の基礎を支える部分としてその重要性を認めることは当然としても、ずいぶん息苦しい世界のようにも感じられます。
古代は文献が少ないので、限られた材料から想像力、時には妄想力を飛躍させる才能を持った研究者が花形となりますが、多数の古文書に恵まれた戦国期はパズル名人たちがその技量を競い合う世界ですね。
もちろん、その中には単なるパズルの解明を超えて優れた歴史理論を構築する研究者もいるのでしょうが、一生、パズル名人で終わってしまう人も多そうです。

>『猿図』の「蹲って虱を取るしぐさ」(板倉氏の解説)
上野動物園を初めて訪問した小学生の作文としては優れた記述だと思いますが、東京大学東洋文化研究所教授の分析としては微妙なところがありますね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

内省的な猿 2020/07/21(火) 22:09:40
小太郎さん
不可思議な重文ですね。
「院体蓄獣画」という用語には、どこか猥褻な響きがありますが、蓄獣というからには、この猿は馴致された猿なので、「まるで老人が思索に耽るよう」な「内省的な表情」をしているというわけですね。なぜなら、野性の猿は、内省とか思索とか、そんなものとは無縁の存在ですからね(たぶん)。

鴨川達夫『武田信玄と勝頼ー文書にみる戦国大名の実像』(岩波新書 2007年)に、「絵描きとしての信玄」に関連して、この「猿図」への言及があります(131頁~)。信玄は絵が上手かったようですね。
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元亀元年(一五七〇)、京都で天台宗のトップ(天台座主)が交代したとき、信玄は新任の座主への祝いの品として、猿を描いた絵を贈った。その猿の絵(図37)は、送り状(図38)とともに、東京国立博物館に現存している。絵画としての評価もさることながら、ある時期信玄の手もとにあり、彼が手を触れたことが確実な品物であるから、そういう意味でもたいへん興味深い。ちなみに、祝いの品として猿の絵が選ばれたことには、きちんとした理由があったようだ。天台宗といえば比叡山延暦寺だが、比叡山には日枝神社もあって、延暦寺の守り神として機能していた。猿はその日枝神社を象徴する存在で、災いを除き福を招く、縁起のよい生き物なのだそうだ。つまり、新任の座主の門出にあたって、信玄はお守りをプレゼントしたのである。
----------
信心深い信玄には、天台座主たるもの、この猿のように内省的であってほしい、というような皮肉は微塵もなかったでしょうね。縁起物の猿の絵を手放したせいか、三年後(1573)、信玄は陣中で没します。

猿(続き) 2020/07/22(水) 15:05:36
『猿図』の猿は甲斐の国でもよく見かけるニホンザル(Macaca fuscata)だ、と認識していたからこそ、信玄は天台座主にプレゼントしたわけで、たとえば中国大陸のキンシコウか何かの絵であれば、日枝神社の神の使いにはなれないから、信玄は贈らなかっただろう、というようなことになるのでしょうね。
そして、この絵の作者が誰なのか、信玄は知っていたのではあるまいか。そんな気もします。

追記
『猿図』の「蹲って虱を取るしぐさ」(板倉氏の解説)ですが、養老孟司/山極寿一『虫とゴリラ』(毎日新聞出版 2020年4月)に、次のような話があります。
----------
山極??ゴリラは小さな虫と遊ぶことができるんです。あれだけごつい体で、グローブみたいな手にダンゴムシをのせたり、唇に虫をのせて遊んだりする。大きな動物は大きなものとしかつき合っていないかというと、そうではなく、小さなものともつき合える繊細な神経を持っています。(5頁~)
----------
ゴリラとニホンザルでは知能が違いますが、『猿図』の猿は虱を取っているのではなく、小さな虫(たとえば蟻)と無心に遊んでいるようにもみえますね。

オマケ
同書によれば(27頁)、フォッサマグナを境にして、東のサルと西のサルは遺伝的に大きなギャップがあるそうで、『猿図』の猿はどっちの猿なのか、気になります。そもそも、あの猿は雄なのか雌なのか、これもわからないですね。
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鈴木敬『中国絵画史』全八冊における伝毛松筆「猿図」の不在

2020-07-21 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月21日(火)18時43分12秒

鈴木敬『中国絵画史』上巻・中巻之一・中巻之二・下巻(吉川弘文館、1984-1995)は各巻が本文と図版にそれぞれ分かれていて、全部で八冊ですね。
吉川弘文館は2011年に全四巻の新装版を出していて、こちらは合計18万円(税別)だそうです。

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中国絵画の碩学が書き下ろした、日本初の本格的通史。内外の研究成果を踏まえ、新出の素材をも駆使して描かれた大著を、新装版として待望の限定復刊。紀元前から明の時代まで、郭煕・董源・沈周ら著名な画家たちの膨大な作品をもとに、山水画・花鳥画などの様式の成立や画法に迫る。中国絵画はもちろん、日本絵画を学ぶ上でも座右必備の書。


さて、『日本美術全集第6巻 東アジアのなかの日本美術』(小学館、2015)での板倉聖哲氏の「(伝毛松筆「猿図」は)日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品であることは確か」という説明が正しいとすれば、鈴木著でも『中国絵画史 中之一(南宋・遼・金)』または『中国絵画史 中之二(元)』のいずれかに言及がありそうだなと思って探してみましたが、ありませんでした。
この絵が「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品」だという説明、ないしそれに類似する主張が確認できなかったのではなく、伝毛松筆「猿図」への言及自体が皆無でした。
なにしろ膨大な分量なので、全巻を隅々まで読んだ訳ではありませんが、伝毛松筆「猿図」が図版に登場しないばかりか、索引にもなく、そもそも「毛松」という人物すら索引に出てきません。
『百科事典マイペディア』によれば、毛松の子だという毛益については、鈴木著にもごく僅かな記述がありましたが、毛松については皆無です。
何だか狐につままれたような気分ですね。

-------
毛益 中国,南宋の画家。生没年不詳。乾道年間(1165年―1173年)画院の待詔を勤めた。花卉【れい】毛(かきれいもう)をよくし,特に鳥の描写は真に迫ったという。父の毛松も画家として知られ,その筆と伝える《猿猴(えんこう)図》が京都の曼殊院に伝存。


私としては、「某先生」は学士院会員・鈴木敬(1920-2007)で、その晩年の弟子である東京大学東洋文化研究所教授の板倉聖哲氏(1965生)が、「某先生」の名誉を守るために師の説を墨守しているのでは、と邪推したのですが、前提が怪しくなってしまいました。
別の手がかりとしては、国会図書館サイトで検索してみたところ、山下裕二氏が『茶道の研究』(三徳庵)という雑誌に「名画に近づく」という連載を持っていて、531~533号(いずれも2000年)の三回にわたって「伝毛松筆 猿図」を論じているらしいのですが、遠隔複写はできないようなので、入手の手段がありません。
まあ、何が何でも究明したいと思うほどの問題ではないので、とりあえずここまでにしておいて、何か機会があればもう少し調べてみようかなと思います。
正直、私にとって中国絵画自体がそれほど魅力的な研究対象ではなく、西欧中世の装飾写本を見ていた方がよっぽど楽しいですね。
それに中国絵画を論じている人たちの大半は、比較的若い板倉聖哲氏を含め、文章が古臭いというか、陰気というか、とにかく私とは相性があまりよくないので、この種の本ばかり読んでいるのはいささか苦痛になってきました。

>筆綾丸さん
>両者の相違点は、パーマーク(斑点)の数ではなく朱点の有無だ、と朧気ながら記憶しています。

警察官僚の佐々氏はその職業柄、手帳に細かい記録を残していて、尾鷲での出来事の基本的な事実関係は正確だと思います。
しかし、佐々氏自身は生物学には全く興味がないのが明らかですから、あまご・やまめに関する部分は皇太子殿下の発言そのままではない可能性も多分にありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

あめのうお 2020/07/19(日) 17:24:50
小太郎さん
https://tsurihack.com/881
昔、ある書き物をする必要があって、ヤマメとアマゴの違いについて調べたことがあります。両者の相違点は、パーマーク(斑点)の数ではなく朱点の有無だ、と朧気ながら記憶しています。
陛下が食べられたのは、やはり、アマゴだったのではあるまいか。そんな気もします。あるいは、学問的名称はともかくとして、東日本文化圏でヤマメと呼ぶものを西日本文化圏ではアマゴと呼ぶ、というような違いがあるのかもしれず、案外、難しい問題です。

蕪村に、
瀬田降りて 志賀の夕日や 江鮭
という句がありますが、江鮭(あめのうお)はヤマメと同じ陸封型のサクラマスで、琵琶湖の固有種です。
句の眼目は、近江八景のひとつ瀬田の夕照は生憎の雨で見えないが、夕焼けのように美しい琵琶湖名物の天の魚を得た、というところにあるようです。さらに言えば、瀬田川は琵琶湖唯一の流出川なので、天の魚は瀬田川を降らず、流入川(安曇川など)を遡るのだ、といった騙し絵のような仕掛けもあるようです。
現代風に俗っぽく解釈すれば、天の魚なのに天下りしない孤高の存在だ、ということになりますか。

漁師と熊のエピソードは、ご進講の折、南方熊楠が昭和天皇に話したものだ、と読んでも、まったく違和感がありませんね。
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「ちがいます。これは『あまご』でなくて『やまめ』です」(by 皇太子時代の上皇陛下)

2020-07-19 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月19日(日)12時08分27秒

佐々淳行の『菊の御紋章と火炎ビン』(文藝春秋、2009)を久しぶりに読み直してみましたが、深刻な内容でありながら文章は変幻自在、真面目さと軽妙さの詰め合わせになっていて、実に面白いですね。

佐々淳行(1930-2018)

1975年7月の「ひめゆりの塔」事件での警備の失敗のために警察庁警備局警備課長を解任され、三重県警察本部長に転出していた佐々が、同年11月、「みえ国体」の身障者スポーツ大会のために尾鷲を訪問された皇太子・皇太子妃夫妻(当時)を迎えた際のエピソードは、生物学者としての上皇陛下を鮮やかに描き出しています。(p236以下)

-------
 昼、県尾鷲庁舎で、96分間の昼食休憩が行われたとき、ハプニングが起きた。
 昼食の膳に「あまご」の煮つけがのっていた。肥って快活な川口市議会議長が、「殿下、これが先程御視察を頂きました養殖場で育てました『あまご』でございます」と言上すると皇太子が言下に、
「ちがいます。これは『あまご』でなくて『やまめ』です」
とキッパリ仰言った。
 そして陪食を仰せつかった知事以下を見廻して、「どなたか、『あまご』と『やまめ』の見分け方、ご存じですか?』
と御下問があった。一同目をあわさないように俯いている。
「皮の斑点の数が違うのです。養殖場に天然やまめが混ざっていることは、生態系を乱すので、純粋性を守らないといけません」
 天皇陛下や皇太子殿下は、動植物、魚類貝類の研究者だから、うっかり物はいえない。
 昼食会の陪食者一同、汗顔のいたりだった。
-------

伝毛松筆「猿図」の時と同様、生物学者としての上皇陛下は不正確な知識に対しては情け容赦ないですね。
この後、佐々は常陸宮のエピソードを挟んで、次のように続けます。

-------
 話を尾鷲庁舎に戻す。
「あまご」と「やまめ」の話で、一瞬話題につまった昼食会を救ったのは、美智子妃殿下の助け舟だった。
「市会議長さん、熊野、尾鷲にはどんな動物がおりますの?」と、話題を変えられた。
 困り果てていた川口市議会議長は、生き返ったように陽気になって、「昔はマッコウ鯨が沢山獲れました。次はイルカ。最近は熊が泳いどります」と答える。
 意外な話の展開に、皇太子以下みんな箸を止めて聞き耳を立てた。
「どうして熊が?」と美智子妃殿下。
「ここらあたりは猟師が沢山いますから、猟師に追われたのでしょうかね、とにかく熊が泳いでおった。そこへ漁師のオジさんが小舟に乗って通りかかった。熊は小舟に泳ぎ寄って、ヒョイと小舟に乗った。オジさんは驚いて海に飛びこんだ。そいでオジさんと熊が入れ替わったんです」
 飄々たる川口議長の語り口に、列席者一同爆笑して、昼食会はすっかり和やかな雰囲気に変った。美智子妃殿下の「内助の功」である。
-------

ということで、佐々は、皇太子はちょっと大人げないのでは、という立場から眺めているようですが、養殖場をここまできちんと視察された人はいないでしょうから、これはこれで良い話ですね。

>筆綾丸さん
>某先生とは鈴木敬でしょうか。
ご紹介のリンク先に、

-------
1949年国立博物館に入り文部技官。1952年文化財保護委員会事務局美術工芸品課、1959年東京芸術大学美術学部専任講師、1960年助教授、1965年東京大学東洋文化研究所助教授、1967年東京大学教授、1970年東文研所長、1972年退任、1981年定年退官、名誉教授。1975-1978年美術史学会代表委員。1984年紫綬褒章受章、1985年日本学士院賞受賞、1986年静岡県立美術館館長、1990年日本学士院会員。1991年勲二等瑞宝章受章。


とあり、伝毛松「猿図」のエピソードの年と推定される1977年(昭和52)前後には東大東洋文化研究所教授、元所長ですね。
日本学士院サイトにも「主要な学術上の業績」として、

-------
長年にわたり中国絵画史研究に取り組み、現存する数多くの作品の精査と、膨大な量の文献資料探索に基づく成果の集大成として、1984年から1995年にかけて「中国絵画史」上巻・中巻之一・中巻之二・下巻を刊行し、その途上1985年に日本学士院賞を受賞しました。その間、中国・東南アジア諸国・欧米諸国の美術館、個人蒐集家を歴訪して作品の調査撮影に務め、東京大学東洋文化研究所に中国絵画に関する世界最大のアーカイブを設置しました。その主要なものは「中国絵画総合目録」全5巻として刊行されました。


とあり、皇太子への御進講を行う中国絵画史の研究者としてはピッタリですね。
『中国絵画史』上巻・中巻之一・中巻之二・下巻(吉川弘文館、1984-1995年)に伝毛松筆「猿図」への言及がありそうですから、確認してみます。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

免疫 2020/07/18(土) 13:17:40
『イタリアン・セオリー』を半分ほど読んでみました。
現在、コロナ・ウイルスをめぐり、PCR検査とか、RNAワクチンの開発とか、免疫記憶の機能不全とか、集団免疫とか、様々な言説が世界中に飛び交っているので、エスポジトの「免疫(イムニタス)/共同体(コムニタス)」に関する岡田氏の記述をいくつか引用してみます。
----------
いうまでもなく免疫とは、通常、病気に打ち勝つために、その病気の原因となる細菌や毒素の力を弱めたものを人体に投与する操作ないし作用のことである。(54頁)
----------
これは免疫ではなくワクチンの定義であり、間違いですね。ウィキによる定義は以下のとおりです。
The immune system is a defence system comprising many biological structures and processes within an organism that protects against desease.

----------
そもそも免疫がなければ人間は生きていけない。問題なのは、もっぱら自己防衛や自己保全、さらに他者の排除へと向かおうとする、行き過ぎた自己免疫化である。(90頁)
----------
自己免疫(Autoimmune)とは、他者を排除するのではなく、自分自身を過剰に攻撃するものであって、これも間違いですが、別の箇所では、
----------
デリダが語る免疫とは、ほぼつねに自己免疫化のことであり、その意味において、自己破壊的なものである。(59頁)
----------
と、正しい意味で使っているようで、どうもよくわかりません。もしかすると、自己免疫化なる造語には、autoimmunization(自己免疫化)とimmunization of oneself(自己の免疫化)という相反する意味が混在しているのかもしれないですね。

----------
権利に基づく政治という発想を徹底的に批判したヴェイユを受けて、エスポジトは、義務に基礎をおく共同体を構想する。この発想はまた、「共同体」の語源となったラテン語の「コムニタス」(communitas)とも合致している。というのもこの語は、「義務」や「責任」を意味する「ムヌス」(munus)に、「~とともに」を意味する接頭語「クム」(cum-)が付いてできた名詞だからである。つまり、共同体ーともに生きることーとは本来、そこで各々が他者への義務を負うべきはずのものなのだ。
これに対して、「免疫」の語源であるラテン語の「イムニタス」(immunitas)は、同じ「ムヌス」と、打消しを示す接頭語「イン」とが組み合わされてできている。イムニタスはそれゆえ、「義務から免除される」という意味をもつことになる。一般の認識とは裏腹に、その原義によるなら、共同体とはもともと自分(たち)の権力や同一性に執着するのとは反対なものであり、免疫には自己保存の名目のもと他者の排除へと向かう恐れがある。(37頁)
----------
以上のように説明されると、パリ・コミューン(la Commune de Paris)やコムニオーネ(Comunione=聖体拝領)における munus の意味がよくわかりますね。


お礼 2020/07/18(土) 13:23:21
小太郎さん
投稿が相前後しますが、皇室典範のご説明、ありがとうございます。

追記
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%95%AC
某先生とは鈴木敬でしょうか。
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「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品であることは確か」(by 板倉聖哲氏)

2020-07-18 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月18日(土)11時56分31秒

「伝毛松筆 猿図」の問題は学問的には決着がついているのかと思ったら、少なくとも美術史の世界では何も変わっていないようですね。
『日本美術全集第6巻 東アジアのなかの日本美術』(責任編集・板倉聖哲、小学館、2015)には、板倉聖哲氏(東京大学東洋文化研究所教授、1965年生)の次のような解説があります。(p230)

-------
55 猿図 (伝)毛松 重文 東京国立博物館

中国・南宋時代(12世紀)
絹本著色 1幅
47.0×36.5cm

 画中には画家を示す落款等の符号は見当たらないが、江戸・狩野探幽(一六〇二~七四)の極書に「毛松筆」とあることから毛松筆の伝称がある。毛松は崑山(江蘇省)の人、南宋前期の画院画家だが、日本における毛松の伝称はしばしば毛書きの精密な畜獣画に冠されている。毛松の作品か否かは他に真作がないので確定できないが、日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品であることは確かで、その迫真的な表現は写実を超えて、内省的な表情にもみえる猿の描写は人間の肖像画に匹敵すると評されている。
 無背景のなかに描かれるのは一匹の日本猿で、日本との交易で得た珍獣として南宋宮廷で愛玩された猿を画院画家が描いた可能性が指摘されている。蹲って虱を取るしぐさだが、それはまるで老人が思索に耽るようでもある。体毛は顔の周囲は硬く短く、背の部分は長く疎らに、臂のあたりは柔らかく多めにといった具合で、毛の長短で体駆の立体感を巧みに表出しており、そのなかに金泥線を併用することで艶のある毛が微光のなかで煌めく様を表している。
 この図には、永禄一三年(〔元亀元年〕一五七〇)三月二三日、曼殊院准三后覚恕(一五二一~七四)が天台座主に任じられたのを祝して、武田信玄(晴信。一五二一~七三)がこの図を贈ったという寄進状が附属している。翌年(一五七一)、織田信長(一五三四~八二)によって比叡山延暦寺は焼討ちされたが、信玄は甲斐(現在の山梨県)に亡命した覚恕法親王を保護した。そのため、覚恕法親王の計らいで権僧正という高位の僧位を得た。
(板倉聖哲)
-------

うーむ。
「無背景のなかに描かれるのは一匹の日本猿で、日本との交易で得た珍獣として南宋宮廷で愛玩された猿を画院画家が描いた可能性が指摘されている」とありますが、これは具体的には誰の説なのか。
また、この部分は徳川義宣氏のエッセイの「美術史学の権威が寄って相談の挙句、毛松が猿を描いて巧みであるとの高名が日本にも伝はってゐたので、日本からモデルの猿を中国に送って描いてもらった作品、といふ解釈に統一して、某先生はAへの回答とされたさうだ」に対応しますが、そもそも皇太子時代の上皇陛下に「中国絵画の個人講義」をした「某先生」は誰なのか。
おそらく美術史の関係者には一瞬で分かるような問題なのでしょうが、門外漢の私には見当もつきません。
寄り道になってしまいますが、ちょっと調べてみますかね。
それにしても、「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品であることは確かで、その迫真的な表現は写実を超えて、内省的な表情にもみえる猿の描写は人間の肖像画に匹敵すると評されている」、「蹲って虱を取るしぐさだが、それはまるで老人が思索に耽るようでもある」といった板倉氏の、いかにも碩学らしい高邁かつ玄妙な御見解は、結局のところ、こんな「最優品」は南宋以外で生まれるはずがない、たとえ日本猿が描かれていようとも日本の作家がこんな「最優品」を作れるはずがないという印象論、ないし思い込みのようにも感じられます。

『日本美術全集 6 東アジアのなかの日本美術』

>筆綾丸さん
>親王宣下と立太子の礼がなければ「皇太子」にはなれないので、生まれた時からしばらくは「無職」の赤ん坊ではあるまいか

現行の皇室典範の条文を見ると、第二条に「皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。 一 皇長子……」、第六条に「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、……」とあり、第八条に「皇嗣たる皇子を皇太子という。……」とあるので、皇長子は生まれた瞬間に親王となり、皇太子になるのでしょうね。
上皇陛下の場合は旧皇室典範を確認しないといけませんが、このあたりの扱いは恐らく現在の皇室典範と同じはずです。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

エスポジト義宣 2020/07/17(金) 22:21:59
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%88
『イタリアン・セオリー』に、ナポリの哲学者ロベルト・エスポジトがよく登場しますが、ウィキによれば、esposito はナポリ地方で捨子や養子につけられた姓なので、ナポリ風に言えば、徳川義宣氏はエスポジトだ、ということになりますね。

ご引用の文の末尾、
----------
公職は生まれた時から「皇太子」である。
----------
ですが、親王宣下と立太子の礼がなければ「皇太子」にはなれないので、生まれた時からしばらくは「無職」の赤ん坊ではあるまいか、という気がします。
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「この題では何のことか誰のことかわからない」(by 徳川義宣氏)

2020-07-17 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月17日(金)14時03分41秒

徳川義宣氏の友人の「A」は、『殿さまのひとりごと』(思文閣出版、1994)所収の「琉球に関する知識」というエッセイにも登場しますね。
こちらは『琉球新報』昭和50年7月18日に掲載されたとのことなので、「宋に渡った日本猿」(『淡交』昭和59年4月号)より九年前です。
後で書きますが、1975年(昭和50)7月18日というのなかなか微妙な時期ですね。

-------
琉球に関する知識

 私は近年、中山王府式楽の楽器と琉球漆器の調査研究に着手した。近年といっても、本腰を入れて史書文献や研究書を読み始めてからは、まだ一年にもならないが、それでもある程度の沖縄史・琉球文化史の知識を得たつもりになっていた。
 Aは私の親しい友人の一人で、幼稚園から大学まで同級だった。卒業後二十年近くたつ。彼は学究の徒であり専門は生物学、なかでもハゼの分類ださうだが、植物・動物・昆虫にも精しく、極めて厳密な知識を会話にも求めるので、友人間ではAと動植物を話題にすることは敬遠することにしてゐる。Aは歴史についても精しい。日本史・東洋史・世界史、いづれにおいても人並み以上の相当な、しかも正確な知識を持ってゐるらしい。
 半年ほど前、私は彼に、「今、僕は中山王府式楽や琉球漆器の調査研究にとりかかってをり、その基礎作業として琉球の史書・研究書を読み、いろいろ興味深い事柄や史実を知った」と語った。ところが、Aの琉球・沖縄の歴史・社会・民族・言語等々に関する知識は、私の短期的付焼刃的知識より遥かに深く、かつ正確であることを知って驚き、かつ畏怖の念さへ覚えた。Aの琉球に関する知識は歴史的・系統的・学問的であり、それらの知識と洞察力に基づいた今日の沖縄、将来の沖縄についての識見までかたちづくってゐた。
 Aは言ふ、沖縄と本土とは、歴史的にも明らかに異る発展過程を辿り、国家形成・体制も異っていた(これは動かし難い史実である)。しかし明治政府は「琉球処分」以来、その両者の歴史的発展過程、文化の相違をあへて意識的に無視し中央集権国家政府としての高圧的態度で沖縄施政に臨み、一日も早く沖縄の人々を「皇国の民」と化さんとした。学校では歴史といへば「国史」の名のもとに本土の歴史のみを教へ、地理も本土の地理中心の学習であり、国語・国文学といへば標準語に『源氏物語』から『奥の細道』に至る本土の文学作品であり、音楽・唱歌といへば西洋式音楽に本土の童謡唱歌であって、教科書に沖縄の歴史、地理風俗、『おもろさうし』、そして琉球歌謡が採り上げられることはなかったと思ふ。これは沖縄県一人のみの不幸ではなく、日本全国の不幸であり哀みでさへもあった。そして残念なことに沖縄の歴史や文化・文学が、日本全国の教育の上で軽んぜられてゐる点については、今日でも変ってゐない。
 歴史的発展過程を異にした別々の地域や国が今日一つの国家を形成してゐる例はいくらでもある。日本でも沖縄を含めて一つの国家である限りは、その地方の歴史・文化をないがしろにしてはいけない。しかも沖縄は多くの文化、中でも言語や宗教・風俗に、本土全体の郷土ともいふべき素朴にして純粋な姿・形を保ちつづけて来てゐる。これを軽んじてはならない。むしろ日本民族文化の源流を辿り探す上にも、沖縄の歴史・民族・風俗についてもっと教育面でも積極的に採り上げ、深く、かつ広く教へるべきだと思ふ。
 沖縄には実に美しい音楽や信仰があると思ふ。実は新年の「歌会始」(今年の正月のお歌会はじめ─宮中儀式)に今度詠んだ和歌に「神あそび」といふ言葉をつかった。『おもろさうし』から採ったのだが、みやびな素朴な美しい言葉だと思って、とりあげてみた。
 Aは以上の様なことをなんの気負ひもなくたんたんと私に語った。Aはまだ沖縄を訪れる機会に恵まれたことがない。
 Aの家は、日本で唯一、苗字のない家であるが、彼の名は「明仁」といふ。公職は生まれた時から「皇太子」である。
-------

このエッセイのタイトルの下には、小さな活字で、

-------
昭和五十年七月十八日 琉球新報掲載 題は新聞社がつけた。この題では何のことか誰のことかわからない。新聞社は話題の主が皇太子殿下であることに、なるべく読者が気づかない様にとつけたと推され、活字の組み方も読みにくく組んであった。同年七月十九日より沖縄国際海洋博覧会が開催され、皇太子御夫妻(現両陛下)が初めて訪沖された。
-------

と記されていますが、掲載の前日、7月17日には「ひめゆりの塔事件」が起きていますね。
献花のために「ひめゆりの塔」を訪問された皇太子・皇太子妃(当時)に対して、過激派が火炎瓶を投げつけたという事件です。

ひめゆりの塔事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%A1%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この事件の経緯は警察庁から警備責任者として派遣されていた佐々淳行(1930-2018)の『菊の御紋章と火炎ビン―「ひめゆりの塔」と「伊勢神宮」が燃えた「昭和50年」』(文藝春秋、2009)に詳しく描かれていますが、当時の沖縄県警は本土とは相当異質の、ずいぶんのんびりした雰囲気で、佐々はかなり戸惑ったそうですね。
そして過激派が潜伏していた地下壕の存在は、地元の関係者はもちろん、佐々も把握していたのに、「『聖域』に土足で入るのは県民感情を逆なでする」という配慮から調査せず、結果的に日本の警察史上でも稀な大失態を招いた訳です。
こうした経緯を考えると、徳川義宣氏が執筆したエッセイの「この題では何のことか誰のことかわからない」タイトルは、火炎瓶事件の発生という異常事態の中で、「なるべく読者が気づかない様にと」変更され、「活字の組み方も読みにくく」されたのだと推測されます。
あるいは徳川氏に執筆を依頼した部署と、琉球新報社内の別の部署との対立が反映されているのかもしれません。
ま、徳川氏は諸事情を知悉していたはずですが、自分の著書では火炎瓶事件のような汚らわしい出来事には触れたくなくて簡単な説明にとどめたのかもしれません。

佐々淳行ホームページ『菊の御紋章と火炎ビン』
http://www.sassaoffice.com/info/pg116.html
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「「聖母マリアの首」とか「主イエスのトルソー」とかが展示されてゐた例は記憶にない」(by 徳川義宣氏)

2020-07-17 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月17日(金)00時11分8秒

>筆綾丸さん
義宣氏が養子だということはウィキペディアあたりにも出ていますが、『迷惑仕り候 美術館長みてある記』の「あとがき」によれば、

-------
 私は昭和八年十二月二十四日に生まれた。生家は旧佐倉藩主の堀田家だが、父正恆は佐賀蓮池鍋島家から養子、母秀子は仙台伊達家から嫁に来たので、佐賀と仙台の混血児が佐倉を本籍に東京で生まれて尾張に養子に入ったことになり、九州×東北=関東→中部、外様×外様=譜代→親藩といふ"旧大名カクテル"みたいなものになった。
-------

とのことで(p260)、親族関係は世代を超えて錯綜していますね。
霞会館の『平成新修旧華族家系大成』あたりを見ると、旧公家や旧大名家の間で養子にやったり、養子をもらったりを繰り返している例がけっこうありますが、義宣氏は確かに「旧大名カクテル」の典型例ですね。

徳川義宣(1933-2005)

『迷惑仕り候 美術館長みてある記』に収録された多数の文章には随所に辛辣な諧謔が鏤められており、どれも面白いのですが、現在の私の個人的な関心からは「佛頭とトルソー」というエッセイに特に惹かれました。
その後半部分を引用してみます。(p57以下)

-------
 私は外国へ行くと、できるだけあちこちの美術館を訪れる。西洋美術は自分の専門外だから、勉強意識に強迫されず却ってのんびり楽しめるし、つまらないと感じれば、どんどん見とばしていっても一向に構はないのだから、実に気楽でよい。でも東洋美術のギャラリーがあれば、どうしても足を運んで、ついつい見入ってしまふし、頭の中も激しく動き始めて、ホテルに帰るとぐったり、といふ始末になる。日本にある美術館、日本に運ばれて来た美術展を見に行くときも同じである。
 だが、東洋美術コーナーには、いつも見るたびにギクリとし、自然と笑みは消え眉を顰めて、何か傷ましい気持を覚えないではゐられないものがある。
 それは佛頭にトルソーである。高い台や棚の上に、照明をあてられて並べられた佛頭や、首・四肢を欠いた躰……。梟首台や土壇場に転がった屍を連想してしまふのは私一人だろうか。いや、本当に苦く迫ってくるのは、視覚に捉へられるその形や姿ではないらしい。往時の人々が祈りを籠めて彫り、数百数千年の間、人々が崇め伝へてきた彫像を、偶像否定の宗教心から否定したのならばともかく、単に美術品蒐集あるいは研究の美名に隠れて切り取り、石窟や龕から剥ぎ取って運び去った蒐集家や美術史家。人間とはかくも冷酷無慚になれるものか、かくも思ひ上れるものかと惟ふその怖ろしさに、そして"私もその人間、美術史家"との慙愧の念に、ゐたたまれなくなるらしい。それが証拠には、興福寺でのあの山田寺の佛頭に接するとき、かつて奪はれ焼かれたのに、よくぞ納め遺し伝へてくれたと心温まる思ひはしても、悼み傷む思ひは覚えたことがないのだから。
 それにしても、佛頭や佛像のトルソーは世界各地の美術館いたる所に陳列されてゐるのに、「聖母マリアの首」とか「主イエスのトルソー」とかが展示されてゐた例は記憶にない。やはり欧米のキリスト教国にあっては、キリストやマリアは聖像であっても、異国の彫像は、単に"美術""彫刻"といふものに過ぎない故なのだらうか。では宗教をイデオロギーとして否定してゐる国家、ソ連や中国の美術館では、キリストの首は佛頭と同じく陳列されてゐるんだらうか。私はソヴィエトに行ったこともないが、中国やインド・パキスタンを訪れたこともまだない。一度是非行ってみたいと思ってゐるが、写真や図録で見てゐる敦煌や麦積山・雲崗・天龍山、或いはガンダーラといった佛教遺跡を訪れるのは、なんとなく躊躇はれて気が重い。
 今さら切り取った首や、削り取った像を元にもどせといっても無理だらうが、これほど複製技術の発達した今日のこと、せめて原初の位置の判明してゐる佛頭や彫像だけでも、レプリカを造って、元のお姿に復せないものだらうか。世界に向って呼びかけてみたい気がしてならない。
(昭和五十九年九月)
-------

「単に"美術""彫刻"といふものに過ぎない故なのだらうか」の「もの」には傍点が振ってあります。
さて、徳川氏がこのエッセイを書かれた1984年(昭和59)から十七年後、タリバーンはバーミヤン大仏を「偶像否定の宗教心から否定」した訳ですが、徳川氏の書き方だと、そちらの方が「単に美術品蒐集あるいは研究の美名に隠れて切り取り、石窟や龕から剥ぎ取って運び去」る行為よりマシなように読めますね。
もちろん、執筆時の徳川氏にとって、まさかダイナマイトで大仏を粉微塵にするような連中が登場するであろうことは全くの想定外であった訳ですが。
また、レプリカ云々の話も、まさにバーミヤンで現実に検討されている提案と重なりますが、「大仏の骨組みを組んで、そこに薄く削りだした大理石を貼り付け」るというイタリア案などには、「やはり欧米のキリスト教国にあっては、キリストやマリアは聖像であっても、異国の彫像は、単に"美術""彫刻"といふものに過ぎない故なのだらうか」という感想を持つ人も多いだろうと思われます。

バーミヤン大仏の再建問題(その3)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

義宣語録 2020/07/16(木) 10:45:37
小太郎さん
知人の知人から聞いた話です。
愛知県豊田市で或る学会があり、来賓の徳川義宣氏は、
「ここ豊田は、曾て、尾張徳川の飛び地でありまして、徳川を代表して、ご参会の皆様の労をねぎらいたく存じます」
とかなんとか挨拶し、列席者の微苦笑を誘ったそうです。
また、或る酒席で、某大学教授の成瀬氏について(犬山城主の成瀬氏は尾張徳川の附家老ですが)、誰かが、
「彼は家老の末裔で」
というと、お殿様はすかさず、
「いや、家老筋だよ」
とやんわり否定し、出席者の微苦笑を誘ったそうです。
このくらいの仁でないと、皇太子のお友達にはなれないということですね。
goby(ハゼ)と言うと、Time goes by という表現を連想しますが、逝く者は斯くの如くか昼夜を舎かず、という諺のとおり、義宣氏も既に亡くなられたのですね。
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上皇陛下と伝毛松筆「猿図」(その2)

2020-07-15 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月15日(水)21時53分28秒

皇太子時代の上皇陛下が「美術史学の某先生から中国絵画の個人講義を受けてゐたとき」とは何時頃なのかというと、「昭和五十九年三月」の執筆時点から「もう六、七年以上も前のこと」ですから、仮に七年前として1977年(昭和52)ですね。
上皇陛下は1933年(昭和8)12月23日生まれなので、四十四歳前後となります。
ちなみに『迷惑仕り候 美術館長みてある記』の「あとがき」によれば、徳川義宣氏は一日遅れの同年同月24日生まれだそうです。(p260)
さて、私の七年前の投稿では、「文化遺産オンライン」の記述を、

--------
伝毛松筆
南宋/13世紀
絹本着色
縦47.0 横36.5
1幅
この猿図は単なる写実を越えたすぐれた表現をもっており,数ある宋画の中でも名品として知られている。中国の猿ではなく日本猿といわれ,水墨のみならず金泥を用いた毛描きはきわめて繊細で自然である。南宋の画院画家である毛松の作の伝称は狩野探幽にはじまるものと思われ,その根拠は乏しいものがある。武田信玄より曼殊院覚如に寄進された由緒をもつ。
-------

と引用していますが、当該ページはリンク切れで、現在は、

-------
絹本著色猿図 けんぽんちゃくしょくさるず

東京都
南宋
1幅
東京国立博物館 東京都台東区上野公園13-9
重文指定年月日:19180408
国宝指定年月日:
登録年月日:
独立行政法人国立文化財機構
国宝・重要文化財(美術品)
南宋時代の作品。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/179102

という具合いに、あっさりとした記述になっていますね。
「国指定文化財等データベース(文化庁)」も、ほぼ同一の記述です。

https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/1481

また、「e国宝」では、「南宋時代・13世紀」とされ、こちらはかつての「文化遺産オンライン」の記述と同文の、

-------
この猿図は単なる写実を越えたすぐれた表現をもっており,数ある宋画の中でも名品として知られている。中国の猿ではなく日本猿といわれ,水墨のみならず金泥を用いた毛描きはきわめて繊細で自然である。南宋の画院画家である毛松の作の伝称は狩野探幽にはじまるものと思われ,その根拠は乏しいものがある。武田信玄より曼殊院覚如に寄進された由緒をもつ。
http://www.emuseum.jp/detail/100835/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E7%8C%BF&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=9&num=3

との解説が付されています。
「南宋時代・13世紀」でありながら、「中国の猿ではなく日本猿といわれ」、「南宋の画院画家である毛松の作の伝称は狩野探幽にはじまるものと思われ,その根拠は乏しいもの」とするのは明らかに無理がありますね。
徳川義宣氏の「素直に考へれば室町時代、阿彌派や狩野派、雪舟近辺の作として見る方が妥当だと思ふね」という見解が正しいとすれば十五・六世紀の作となるでしょうから、ニ~三百年の誤差となります。
うーむ。
ちょっと事情は分かりませんが、1918年の重要文化財指定の際に「南宋時代・13世紀」と明記され、官僚機構的には今さら「南宋時代・13世紀」は動かせない、ということですかね。
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上皇陛下と伝毛松筆「猿図」(その1)

2020-07-15 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月15日(水)20時13分19秒

上皇陛下が新種のハゼを発見されたそうですね。

-------
ハゼ研究者の上皇さま、17年ぶり新種発見…年内にも論文発表へ

 ハゼ研究者として知られる上皇さまが、南日本に生息するオキナワハゼ属の新種を発見されたことがわかった。上皇さまによる新種発見は9種目で、2003年以来17年ぶり。退位後初めての研究成果で、関連する論文は年内にも発表される見通し。
 関係者によると、今回の新種は10年以上前に上皇さまの研究スタッフが沖縄近海で採集したオキナワハゼ属のハゼ。上皇さまが頭部にある感覚器の配列の数やパターンなどを調べ、新種と突き止められた。すでに名前も決められたという。在位中は多忙だったため、昨年4月末の退位後に本格的に論文の執筆を始められた。【後略】


このニュースの関連で、私の地味ブログでもリンク先の七年前の記事が少し読まれています。

伝毛松筆「猿図」と天皇陛下

この記事は皇太子時代の上皇陛下が、中国・南宋の毛松筆とされていた重要文化財「猿図」について、そこに描かれているのは日本猿だと指摘されたことを紹介したものですが、私が読んだのは秦恒平氏のエッセイで、元々の出典である徳川義宣氏の「宋に渡った日本猿」(『淡交』昭和五十九年四月号)は未読でした。
ちょっと気になって探してみたら、徳川義宣氏の『迷惑仕り候 美術館長みてある記』(淡交社、1988)に『淡交』掲載のエッセイが収録されていますね。
秦恒平氏のエッセイでは除かれている部分も上皇陛下の見識と人柄をうかがう上で興味深い内容なので、後半部分を転載してみます。(p24以下)

-------
 私の友人にAといふ男がゐる。幼稚園から大学までずっと一緒で、今でも親しくつきあってゐるから、もう四十余年来の旧友である。生物学に励んでいゐて、専門は鯊〔はぜ〕の分類ださうだが、陸の動物にも植物にも精〔くは〕しいので、うっかり話題が動植物に及ぶと、閉口するほど厳密を期されることもある。感覚的美術史にはもとより全くの門外漢だが、それだけにその実証的学究態度には、分野は違っても教へられることが少なくない。
 歴史にも精しく、中でも沖縄に多大の関心を抱いてゐるので、その歴史・文化史・文学に関する知識と識見は玄人はだしである。八年ほど前、私が琉球漆工藝の調査と研究に本腰を入れ始めた頃、私はAから自分の気づいてゐなかった研究態度の基礎的な歪みを指摘された。その指摘は今からふりかへってみても、その二年後に『琉球漆工藝』の小著として公にした研究の、基礎を定置させた重大な指摘であったと感謝し、畏敬を新たにしてゐる。
 小著の刊行を最も喜んでくれたのはAだったし、その後数ヶ月にして開いた「琉球漆工藝展」の会場にも見に来てくれた。私は展示品を一つ一つ解説しながら案内した。Aは熱心に見、聞き、ときどき学究者らしい鋭い質問や嘆声を発してゐた。
「この五弁花形の東道盆〔とんだあぼん〕は、形も面白いし魚貝文もいかにも南の国琉球らしい文様、兜蟹〔かぶとがに〕なんてその典型だらうね」
「いや、待てよ、兜蟹は沖縄にはゐなかったんぢゃないか。日本での分布は岡山・愛媛、四国辺りに限られると思ったが」
 私は絶句した。兜蟹といへば南の方にのみ住む古生代生き残りの珍しい蟹とのみ憶えて、南の方なんだからいかにも沖縄らしいと短絡解釈してゐたのだった。
 あとで調べてみると、兜蟹は中国や東南アジアの沿岸にも棲息してゐるとあったので、文様にはまま異国的な花鳥魚貝を好んで用ゐる琉球の習慣から見ても、兜蟹が描かれてゐるからといって、その東道盆が琉球製であることを否定しなければならないわけではなかったが、少なくとも積極的証左とはならなかったと思ひ知らされた。
 そのAが美術史学の某先生から中国絵画の個人講義を受けてゐたとき、伝毛松筆「猿図」を見せられた。毛松は十二世紀前半、南宋初期院体画派の大家で、我が国にもその高名は伝はり、室町時代に成立した「君台観左右帳記」(旧一橋徳川家本)にも、そのよくした画題や画風を「毛松 花鳥猿鹿四時景色著色」と載せられてゐる画家である。
 この「猿図」は狩野探幽によって毛松筆と極められて以来三百有余年、いかにも南宋初期の気品と力に満ちた綿密な写実画の典型として重要文化財に指定され、今日では東京国立博物館の所蔵となってゐる。各種の辞典や図録にも、同様な解説や賛辞つきで載せられてゐるから、御承知の方も多いだらう。
 ところがこの「猿図」を見せられたAは、これは日本猿だと指摘したのである。某先生は返答に窮し、宿題として持ち帰って動物学者に意見を求められたが、答は同じ、中国には棲息してゐない日本猿。美術史学の権威が寄って相談の挙句、毛松が猿を描いて巧みであるとの高名が日本にも伝はってゐたので、日本からモデルの猿を中国に送って描いてもらった作品、といふ解釈に統一して、某先生はAへの回答とされたさうだ。
「……といふ説明を貰ったんだけどね。考へられるかね。徳川はどう思ふね」
「うーん、そんな例はほかにないね。素直に考へれば室町時代、阿彌派や狩野派、雪舟近辺の作として見る方が妥当だと思ふね」
 Aが日本猿と指摘したのは、もう六、七年以上も前のことである。当時の文化庁担当官も東京国立博物館の担当者も、某先生から伝へられてAの指摘を知ったはずである。だが、その後に出版された美術書・教科書・辞典でも、或いは東京国立博物館の展示でも、この絵は依然として「重要文化財 猿図 伝毛松筆 十二世紀 南宋時代」として掲げられ続けてゐる。美術史学の権威とは、長屋の御隠居とあまり変りないらしい。
 因みにAとは、皇太子殿下である。         (昭和五十九年三月)
-------

>筆綾丸さん
岡田氏はフランス現代思想を前提にイタリア現代思想を論じられているので、私にはちょっと厳しいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

我もしてみんとて 2020/07/15(水) 13:16:17
小太郎さんが難しすぎるとされる『イタリアン・セオリー』に敢えて挑戦してみようと、アマゾンに中古品を発注しました。
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「芸術の研究という生涯のテーマを与えてくれた長靴の半島への、ささやかな恩返しの気持ち」(by 岡田温司氏)

2020-07-14 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月14日(火)11時25分2秒

>筆綾丸さん
岡田温司氏は何が専門か分からないほど多様な本を出されていますが、『イタリアン・セオリー』(中公叢書、2014)の「あとがき」では、

--------
 振り返ってみるに、大学院時代にイタリア美術の研究からはじまったわたしの仕事は、ここのところ、この国の現代思想の方にウェイトがかかりがちになっており、本書もその部類に属するが、実のところ二つが別物だとはまったく思っていない。車の両輪か、あるいはコインの表と裏のようなもので、芸術をより深く理解し味わおうとするなら思想が、逆に、哲学や美学の思想を抽象的で観念的にではなくて、血肉をそなえたものとして把握しようとするなら、芸術を参照するのが有効である。残りの人生であとどれだけの仕事ができるかわからないが、この信念は今後も変わることはないだろう。
 それと同時に、おこがましい言い方かもしれないが、美術にくらべるとわが国ではまだマイナーなイタリアの思想の研究と紹介に微力ながらでも貢献したいという、使命感にも似た思いがなくはない。口が滑ったついでにもうひとつ付言するなら、この使命感はまた、芸術の研究という生涯のテーマを与えてくれた長靴の半島への、ささやかな恩返しの気持ちと重なるものでもある。
-------

と書かれていますね。(p248)
この本は私には難しすぎて、最初の20ページくらい読んで既に挫折が決定しているのですが、もっと基礎を固めてから読めば大変に役に立ちそうな予感がします。
ただ、岡田ワールドに寄り道するとなかなか戻って来れなさそうで、ちょっと迷いますね。

表象文化論学会ニューズレター『REPRE』

また、前田耕作『アフガニスタンの仏教遺跡バーミヤン』(晶文社、2002)は三分の二ほど読んでみましたが、これもバーミアンをめぐる謎多き世界の面白さを教えてくれる良書ですね。
ただ、こちらもいったん寄り道したら結構な時間がかかりそうです。
あちこち寄り道しているうちに、何となく最初に設定したテーマから離れていつの間にか終わってしまう、というのが当掲示板の悪いパターンなので、ここはやはり世界遺産の現状について、もう少し詰めておこうかな、と思っています。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

釈迦仏<弥勒仏? 2020/07/11(土) 12:06:40
小太郎さん
ありがとうございます。事情がわかりました。

--------------
釈迦とされる三八メートルの東大仏、弥勒とされる五五メートルの西大仏。それを取り巻く一〇〇〇余りの、おびただしい仏龕群。(同書3頁)
--------------
釈迦の存在があって初めて弥勒の概念があるわけですから、普通なら、弥勒仏より釈迦仏のほうを大きく造るような気がするのですが、逆なんですね。なぜなのか、仏像の知識がないので、わかりません。東に釈迦仏、西に弥勒仏という配置理由はわかるのですが。

追記
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61418740R10C20A7NNE000/
日本人からすれば、破壊じゃないからいいんじゃないの、といった感じですが、キリスト教の欧州としては断じて許せない、ということでしょうね。

ノートルダムの尖塔(及び屋根)の修復については様々な斬新な提案がなされたが、原型通り復元するとエリゼ宮は発表した、とメディアは報じています。ユネスコ本部があるフランスとしては、諸般の事情があるにせよ、アナスティローシスにせざるをえなかったろう、といったところですね。

名著 2020/07/12(日) 14:41:02
岡田温司『フロイトのイタリア』第三章「イタリアへ向かって(ゲン・イターリエン)/生殖器(ゲニターリエン)」を読み、あらためて、岡田氏の該博な知識と鋭利な分析に驚嘆しました。ただ、ヨーロッパ地図を見ればすぐわかることですが、イタリア半島は大陸から垂れた男根であって、そんな視覚的イメージがフロイトの無意識にどのように働いたのか、という分析がなく、若干の不満を覚えました。

追記
-----------
・・・『夢判断』で彼が、「イタリアへ向かって(ゲン・イターリエン)」と「生殖器(ゲニターリエン)」の語呂合わせに言及していたことは、前章でみたとおりである。さらに、あえて深読みをするなら、イタリアの大地とはフロイトにとって母の身体のようなものであったかもしれない。(中略)
ラカン派のある研究者によれば、「イタリアを愛する」という意味のイタリア語「アマール・イタリア(Amar Italia)」をつづけて発音すると、母音の I が落ちて「アマルタリア(AMARTALIA)」となるが、この綴りには、フロイトの妻の名「マルタ(MARTA)」、彼の母の名「アマリア(AMALIA)」、さらには「芸術を愛する」という意味の「アマール・アルテ(Amar Arte)」も隠されているという。フロイトが発見したように、言葉のなかに言葉を通じて身体が受肉しているのだとすれば、また、そのフロイトを受けてラカンが発展させたように、無意識がシニフィアンの連鎖に支配されているのだとすれば、このアナグラム風の言葉遊びは、ひょっとすると事の核心を突いているのかもしれない。(同書81頁)
-----------
身も蓋もない言い方をすれば、フロイトのいう Gen Italien (Genitalien)とは penis ではなく vagina であり、
----------
彼にとって「イタリア」とはおそらく、主体がそこに到達しようとしても到達しきれないまま、その不在の中心を回っているような対象、つまりラカンのいう「対象a」のような存在だったのかもしれない。(41頁)
----------
それは、エロスとタナトスの消失点、あるいは、永遠の逃げ水のようなものである、という訳ですね。
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