投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月31日(金)11時19分13秒
7月14日に上皇陛下が新種のハゼを発見されたというニュースを聞いて、伝毛筆「猿図」について六年ぶりに少し調べてみましたが、手間がかかった割にはあまり収穫がありませんでした。
山下裕二氏(美術評論家・明治学院大学教授)が『茶道の研究』(三徳庵)に寄せた論文(エッセイ?)は未だに入手できていません。
また、一昨日、国会図書館の検索で野村朋弘氏の「特集論考 朝廷の危機を救った二人の皇子 天台座主覚恕と正親町天皇」(『歴史読本』870号、2011)という論文を知り、これは「猿図」への言及がありそうだな、と思って遠隔複写を依頼したのですが、野村氏に直接聞いてみたところ、触れてないとのことでした。
ということで、未だ材料不足ではありますが、この問題についての一応の区切りをつけるために、板倉聖哲氏(東京大学東洋文化研究所教授、1965生)の『日本美術全集第6巻 東アジアのなかの日本美術』(小学館、2015)における「伝毛松筆・猿図」の解説を検討しておくことにします。
参照の便宜のために板倉氏の見解を再掲します。
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55 猿図 (伝)毛松 重文 東京国立博物館
中国・南宋時代(12世紀)
絹本著色 1幅
47.0×36.5cm
画中には画家を示す落款等の符号は見当たらないが、江戸・狩野探幽(一六〇二~七四)の極書に「毛松筆」とあることから毛松筆の伝称がある。毛松は崑山(江蘇省)の人、南宋前期の画院画家だが、日本における毛松の伝称はしばしば毛書きの精密な畜獣画に冠されている。毛松の作品か否かは他に真作がないので確定できないが、日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品であることは確かで、その迫真的な表現は写実を超えて、内省的な表情にもみえる猿の描写は人間の肖像画に匹敵すると評されている。
無背景のなかに描かれるのは一匹の日本猿で、日本との交易で得た珍獣として南宋宮廷で愛玩された猿を画院画家が描いた可能性が指摘されている。蹲って虱を取るしぐさだが、それはまるで老人が思索に耽るようでもある。体毛は顔の周囲は硬く短く、背の部分は長く疎らに、臂のあたりは柔らかく多めにといった具合で、毛の長短で体駆の立体感を巧みに表出しており、そのなかに金泥線を併用することで艶のある毛が微光のなかで煌めく様を表している。
この図には、永禄一三年(〔元亀元年〕一五七〇)三月二三日、曼殊院准三后覚恕(一五二一~七四)が天台座主に任じられたのを祝して、武田信玄(晴信。一五二一~七三)がこの図を贈ったという寄進状が附属している。翌年(一五七一)、織田信長(一五三四~八二)によって比叡山延暦寺は焼討ちされたが、信玄は甲斐(現在の山梨県)に亡命した覚恕法親王を保護した。そのため、覚恕法親王の計らいで権僧正という高位の僧位を得た。
板倉氏は「無背景のなかに描かれるのは一匹の日本猿」と書かれていますが、昭和五十二年(1977)頃、この猿が日本猿だと指摘されたのは皇太子時代の上皇陛下で、それまでは東洋美術関係者は誰も猿の種類などに興味も知識もなかった訳ですね。
この指摘を受けた「美術史学の某先生」はおそらく鈴木敬(東大名誉教授、学士院会員、1920~2007)で、徳川義宣氏によれば、「某先生は返答に窮し、宿題として持ち帰って動物学者に意見を求められたが、答は同じ、中国には棲息してゐない日本猿。美術史学の権威が寄って相談の挙句、毛松が猿を描いて巧みであるとの高名が日本にも伝はってゐたので、日本からモデルの猿を中国に送って描いてもらった作品、といふ解釈に統一して、某先生はAへの回答とされた」のだそうです。
約半世紀前の「某先生」の苦し紛れの回答を板倉氏は踏襲するばかりか、「日本との交易で得た珍獣として南宋宮廷で愛玩された猿を画院画家が描いた可能性」についての誰かの見解を肯定的に引用する訳ですが、果たしてそれを根拠づける史料はあるのか。
あるいは、せめてベトナムなど周辺諸国の「珍獣」が「南宋宮廷で愛玩」され、「画院画家が描いた」事例があるのか。
まあ、おそらくないだろうと思いますが、そうした根拠なしに「日本との交易で得た珍獣として南宋宮廷で愛玩された猿を画院画家が描いた可能性」を云々するのは、研究者の態度としてはいかがなものかと思われます。
ちなみに「某先生」と思われる鈴木敬氏は、大著『中国絵画史』上巻・中巻之一・中巻之二・下巻(吉川弘文館、1984-1995)全八冊で「伝毛松筆猿図」に一切言及されていませんが、これは鈴木氏が皇太子殿下への一応の回答の後、改めて熟考し、従来説を維持するのは無理だと判断された結果のように思われます。
歴史的事実として確実なのは、元亀元年(1570)、武田信玄が曼殊院覚恕の天台座主就任祝いとして「猿図」を贈ったことだけであり、自ら絵を描くなど相当の教養の持ち主であった信玄は、仮に「猿図」が「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品」であるならば、それなりの由緒を説明するのが自然と思いますが、信玄の覚恕宛書状には「絵一幅猿」とあるのみです。
信玄が「猿図」の由緒について全く語らない以上、この「猿図」は比較的新しい作品で、あるいは信玄が天台座主への献上品としてふさわしい絵を、三条夫人の縁などを通じて京都の画家に特注した、といったあたりが一番可能性があるのではないかと思われます。
天台座主への献上品である以上、そこに描かれる猿が中国風の猿ではなく、日本猿であることはまことに自然です。
いずれにせよ、「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品」が、板倉説によれば通説より更に一世紀遡って十二世紀から約四百年の空白を経て、突如として元亀元年(1570)、武田信玄の下に出現するというのはあまりに不自然であり、その空白を説明する責任は板倉氏にあります。
きちんとした根拠に基づく説明ができず、単に「猿図」の「迫真的な表現」は南宋画院でしか生まれないのだ、といった信念しか語れないのであれば、板倉氏は研究者ではなく、「鑑定家」として美術業界を生きることをお勧めしたいと思います。
>筆綾丸さん
>門前の小僧
わはは。
筆綾丸さんもけっこう根に持っておられますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
妄説 2020/07/29(水) 13:47:01
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakutyuu/theme/work17.html
宜令洩申賜候は、アガンベンの『ホモ・サケル』のように難解ですが、洩は曳、申は猿、洩申とは猿曳きの言い換えで、賜は給に通じ、
宜しく猿を曳かしめ給ひ候
と読むのではあるまいか。私が曳いていた田舎猿ですが、これからは、法親王がお曳きなされ、というような、強面の戦国大名らしからぬユーモアのような気もします。猿曳きは、天台座主の門出を祝うのに相応しい芸能でもありますからね。
追記
以前、戦国大名武田氏の某研究者から、門前の小僧と誉められたことがありますが、彼なら、宜令洩申賜候をどう読むのかな。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B3%E8%B3%9C-2087528
『源氏物語』「松風巻」にあるように、申賜は申給と同じで、申賜候は「まをしまたひさうらふ」と読むしかないようで、依然として、宜令洩が読めません。
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakutyuu/theme/work17.html
宜令洩申賜候は、アガンベンの『ホモ・サケル』のように難解ですが、洩は曳、申は猿、洩申とは猿曳きの言い換えで、賜は給に通じ、
宜しく猿を曳かしめ給ひ候
と読むのではあるまいか。私が曳いていた田舎猿ですが、これからは、法親王がお曳きなされ、というような、強面の戦国大名らしからぬユーモアのような気もします。猿曳きは、天台座主の門出を祝うのに相応しい芸能でもありますからね。
追記
以前、戦国大名武田氏の某研究者から、門前の小僧と誉められたことがありますが、彼なら、宜令洩申賜候をどう読むのかな。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%B3%E8%B3%9C-2087528
『源氏物語』「松風巻」にあるように、申賜は申給と同じで、申賜候は「まをしまたひさうらふ」と読むしかないようで、依然として、宜令洩が読めません。