学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」

2017-04-30 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月30日(日)10時51分32秒

深井英五の宗教的・思想的変遷の続きです。(p31以下)

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第四章 新釈基督教

 私がまだ同志社に在つて、耶蘇を神とする教義に疑を懐き始めた頃、独逸から伝はつた普及福音教会では、従来の信条なるものに拘泥せずして基督教の真髄を宣揚せんとする新解釈を鼓吹して居た。米国から伝つたユニテリアン及びユニヴァーサリストの両派も之と方向を同じくした。英国にも類似の思潮があつて、特に之を標榜する教派の発生には至らないが、其の趣旨を筋書に織込んだハンフレー・ワード夫人の小説「ロバート・エルスミーヤ」が読書界の大評判になつた。教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張であつた。同志社出身長老の一人たる横井時雄氏は多分東京の何れかの教会の牧師であつたと思ふが、何かの雑誌で其の梗概を紹介した。尤も之に対して意見は示さなかつた。同志社に於て私の親接した金森通倫先生は、当時既に東京に移り番町教会の牧師であつたが、基督教の新解釈を公表して世を驚かし、次で番町教会を辞して前記独米系の三派に接近した。私も、ルナンの「耶蘇伝」や「ロバート・エルスミーヤ」の影響を受けたに相違ないが、私の思想の変転は我国に於ける上記の運動とは関係なしに進展したのである。然しながら既に思想の変転を来たし、而して尚宗教と理性とを調和するの望を捨てざりし時に於ては、新釈基督教の運動に参加するのが、一番初志に近いと思つた。金森先生からは曩に所謂正統基督教信仰の鼓吹を受けたのだが、其後図らず新らしき方向を一にすることになつたので、同志社卒業後先生の紹介により、普及福音教会の経営する新教神学校に入学した。それが明治二十四年の秋であつた。
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横井時雄は横井小楠の息子で、同志社の第3代社長にもなった人ですが、後に官界・政界に転身していますね。
内村鑑三(1861-1930)は同志社関係者からはトラブルメーカーとして嫌われることの多かった人ですが、横井時雄とは一貫して良い関係だったそうですね。

横井時雄(1857-1927)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E9%9B%84

金森通倫は横井時雄と同年の生まれですが、「基督教の新解釈を公表して世を驚かし」た後、1898年に棄教を宣言します。
しかし、大正期になって再入信して救世軍に加わり、次いで昭和に入ると今度はホーリネス教会に入会。
しかし、ここも暫くして脱会するなど信仰面で激烈な変遷を重ねた人ですね。
息子の金森太郎(1888-1958)は内務官僚になり、その娘は内務官僚の石破二朗(1908-81)と結婚し、前自民党幹事長の石破茂氏を産んだとか。
そして石破茂氏は母方の影響でプロテスタントになったそうですね。

金森通倫(1857-1945)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kanamori_t.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A3%AE%E9%80%9A%E5%80%AB

ま、それはともかく、深井英五の信仰の変遷をもう少し追います。
深井が「普及福音教会の経営する新教神学校に入学した」のは「明治二十四年の秋」だそうですから、1871年(明治4)生まれの深井は数えで21歳、満年齢なら20歳の若さですね。

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 私が遂に此の段階に留まり得なかつたことは前章で述べた通りで、宗教に対する最後の執着も空に帰したが、新教神学校に於ける約一ヶ年半の在学は、別の方向に於て私に多大の益を与へた。私が教授を受けたのは基督伝を眼目とせる新約聖書の抜粋釈義と哲学史であつた。哲学史は既に独習せる所を詳しくしたゞけであつたが、所謂高等批判の方法による新約釈義は私に新境地を開いた。殊に之を担任せるシユミーデル(Schmieder)先生は学識に於ても人格に於ても凡庸を抜いて居たと思ふ。研究の目標は耶蘇が自己の使命に就いて如何なる自覚を有つて居たかを検討するにあつた。其の内容にも感興したが、鋭利にして精細なる古文書考証の方法は特に私を啓発した。それによつて一般に歴史を読むときの心構へが改まつた。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は此の時の修練に負ふ所が多い。それが後に契約の作成援用又は外交文書の取扱の上で大に役に立つた。又石垣を積上げる如く、煩瑣と思はれる程緻密な独逸流の学風に書籍以外接触したのは、他の方面にも応用し得べき収穫であつた。又学校の講義は英語で聴いたのだが、独逸人の仲間に交つて居たから、独逸文及び独逸語実習の機会を得た。
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ということで、ここでやっと4月11日の投稿で書いたエルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015)の深井智朗氏による「解題」につながります。

「ドイツ普及福音伝道会」と深井英五
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd168ff37949c37c3fb6e1b1e281018d

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「得意は無し、趣味は無し、主義は厭世、希望は寂滅」

2017-04-29 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月29日(土)12時03分18秒

前回投稿の引用文中に「激越の言動を以て熱信を表示する人々には共鳴し得なかつた」とあり、これは所謂「同志社リバイバル」への感想かと思ったら、時期的にちょっとずれますね。
「リバイバル」はキリスト教史において特殊な意味を与えられているので部外者には分かりにくい表現ですが、少し検索してみたところ、「同志社大学キリスト教文化センター」サイト内の同志社大学名誉教授・北垣宗治氏のエッセイ、「一八八〇年代前半の同志社英学校」に詳しい説明がありました。
北垣氏は池袋清風(1847-1900)という人物の日記を素材として、深井英五が入学する少し前の時期の同志社の様子を描いています。
その中でリバイバルに関係する部分を引用すると、

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同志社のリバイバル
 池袋の日記が貴重な記録であることはおわかりいただけたと思いますが、なかでも最も貴重であると考えられるのは、この一八八四年二月の終りから三月にかけて、同志社英学校で起こった顕著なリバイバル、信仰復興の事実を池袋が詳細に記述しているからです。皆さんは「リバイバル」といえば、リバイバル映画、あるいはリバイバル・ソングの事を考えられるかもしれませんが、本当のリバイバルというのは、人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していくことを指します。キリスト教の歴史には世界の各地でしばしばこういうリバイバルが起こりました。【中略】
 同志社のリバイバルのことが池袋の日記に初めて登場するのは三月二日の記録からです。

http://www.christian-center.jp/dsweek/09sp/0604.html

ということで、この後、同志社で「人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していく」様子が詳細に描かれるのですが、最初のうちは単なる興奮状態だったのがだんだん危険な雰囲気になり、

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 こうして池袋にも聖霊が下ったのでしたが、学校内は異常事態へと移っていきました。チャペルで夜通し祈る者、まだ聖霊を受けていないクラスメートに聖霊が下るようにと攻撃的に攻め立てる者、今ただちに学校を飛出して、伝道に出掛けようとする者が続出して、同志社英学校は大混乱に陥りました。新島校長は、地方伝道に出掛けるのは、春休みになるまで待つようにと説得しましたが、生徒たちは聞き入れません。とうとう妥協が成立し、二年生の海老名一郎、四年生の原忠美、邦語神学生の辻籌夫の三人が、代表ということで大阪に向けて出発し、それから三田、神戸、岡山、高梁、今治等を巡回することになりました。他方英語神学生の綱島佳吉と、五年生の木村恒夫は狂信的な言動をするようになりました。綱島の如きは「池袋清風!」と大声で呼び、「貴様は悪魔かそれとも聖霊か? おれはイエス・キリストだぞ」と言って睨みつけ、とたんに大声を上げて泣き出し、その場で倒れてしまう、といった出来事も起こりました。綱島はやがて回復しましたが、木村恒夫の方は精神を病み、新島邸に収容され、精神病院に入れられ、ついに七月四日に息を引き取りました。
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という事態にまで発展します。
深井英五が数え16歳で同志社に入学したのはリバイバルの二年後、1886年(明治19)なので、このような異常事態は終息していたはずですが、一部にはその名残もあったのでしょうね。

さて、深井英五の宗教的・思想的変遷をもう少し追ってみます。(p29以下)

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 右の心境の変化は同志社卒業の前年頃から卒業後の一二年に亙つて漸次に進展した。宗教と理性を調和せんことを期した所の思索は逆の結果を生じ、私の数年間心に懐きたる念願は破滅したのである。私は失望落胆せざるを得なかつた。新島先生の眷顧は私が基督教信者たりしことに基因したに違ひないから、先生に対して相済まぬと云ふ感が深刻であつた。然るに既に先生逝去の後であるから、報告して諒解を求むる由もない。私は実に甚だしく煩悶した。或は宗教の定義及び基督教の教理を微妙に解釈し、或は信仰と理性とを全然別個の範疇に属せしめ、心境の変化に拘らず依然として基督教信者たる名分を標榜すべき途も考へて見た。その例とすべきものも多くある。然しながら自己の信念に立脚せよと誨へられた所の先生は決して此の如き糊塗を嘉みせられないだらうと確信した。それで、普通学校入学のとき心中に予定せる進路を変じ、神学校に入ることを止めて同志社を去り、其後或る時、最早基督教信者と称し得ざることの諒解を郷里の所属教会に求めて立場を明かにした。
 同志社卒業後の私は当分明白なる目当なしに種々の経路を彷徨した。其間尚哲学上の思索を続けたが、主観論的傾向が極端に走り、真理及び人生価値の標準に就いて全然懐疑に陥つて仕舞つた。同時に当面の生計を如何にすべきやの問題にも心を労し、神経衰弱になるか、又は大脱線をするかも知れないやうな心境になつた。それが青年の危機たる二十三、四歳の時であつた。結城礼一郎氏が蘇峯先生古稀祝賀文集に発表した民友社金蘭簿中に私の名もあつて、指定項目の下に、得意は無し、趣味は無し、主義は厭世、希望は寂滅と書いてある。多分入社後間もなき頃のことで、少し茶目気分も交つたのであらうが、自棄に傾いた懊悩の心境が現はれて居る。其の間母に心配を掛けることを惧れて自戒もしたが、私を危機から救つた所の主因は、嘗て新島先生から誨へられた所の実践的人生観であつた。私は「仕事をしなければならぬ」と云ふ訓言を想起して之に邁進すべく決心したのである。仮令人生価値の規準は徹底的に判らなくとも、行住坐臥、一々理由を糺すの遑はない。現存する社会の常識と自己の直観とを調合し、環境の遭遇に応接して出来るだけの実践を期すべきのみと観念した。必ずしも方向を予定して焦慮することなく、広い意味の実行本位に立脚する。而して之と相並んで「世の中の為めになる」と云ふ訓言は固より私の心に浸みて渝らない。基督教の信仰に就いては新島先生の期待に背いたが、人生の心構へに就いて先生に負ふ所は広大である。平凡でもあり、又薄志とも云はれるだらうが、余り深く考へずに当面の実践に重きを置くと云ふのが、私の人生観として一応固まつた。更らに其の合理的根拠を求めんとして思索に還つたが、それは後年の事である。
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「先づ私を悩ましたのは、耶蘇を人間界に於ける神の顕現とする信条であつた」

2017-04-28 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月28日(金)10時21分55秒

『回顧七十年』の「第二章 同志社教育」を見ると、

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 私の入校した頃の同志社には、普通学校と神学校とがあつた。神学校は基督教の牧師等を養成する学部で、其の正科には普通学校を卒業せるものを修養する仕組であつた。然し普通学校は単に神学校の予科として設けられたのではなく、一般に高等の普通教育を授けることを目的とした。実際普通学校の卒業後神学校に入るものは少数であつた。他の専門学校に進んで行つたものもあつたが、大概は直に何かに就職した。当時の社会状態ではそれが出来たのである。
 同志社は基督教主義を標榜したが、信仰は全く各人の自由にして、只之に誘導する空気があつたのみである。
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とのことで(p14以下)、普通学校の修業期間は五年だそうですね。
そして、

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 当時の同志社教育の特色として顕著なるものゝ一は、和漢学以外の学科に於ては英文の教科書を用ひ、教師が米国人である場合には、説明も回答も英語を以てし、試験の答案は英文で綴つたのである。英語英文の特科は最初に少しあるだけで、各課の内容と共に英語、英文を修得するのであつた。
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のだそうで(p15)、深井英五のような知的向上心に溢れた学生にとってはずいぶん恵まれた教育環境だったはずです。
しかし、「基督教と理性とを調和する所の思想を構成し、之を世に伝ふることが私に恰好の仕事」と考えていた深井は、次第に憂愁に囚われて行くことになります。(p26以下)

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 基督教の信仰に就いては新島先生の公開説教を聴き、其他先輩の鼓吹を受けて黙想に耽つた。激越の言動を以て熱信を表示する人々には共鳴し得なかつたが、共に祈り、互いに所感を語る仲間を作つて静かに修養した。
 哲学に関しては、郷里に於ける堤先生の感化により、一知半解ながら多少の素地が出来て居た上に、当時の同志社に於ては哲学を語ることが一の流行であつたから、私の関心は益々濃厚となつた。約翰伝等の思想から出発し、中世学僧の思索を経て体系を成した所の基督教々理には希臘の哲学が多分に取り入れられて居るので、哲学は信仰の思想的表現であるが如くにも考へられた。それで私は信仰上の修養と哲学上の思索とを表裏分つべからざるものとして、之に励精したのである。
 然るに段々考へ詰めて行くに随ひ、当時の基督教会が不可欠とする教理に就いて疑惑が続出した。先づ私を悩ましたのは、耶蘇を人間界に於ける神の顕現とする信条であつた。それは処女妊娠と云ふが如き奇蹟の伝説に対する疑惑を意味するのではない。所謂奇蹟などは悉く抹消しても信仰を保持するに差支ないと、私は疾くに思つて居た。然しながら耶蘇即ち神であると云ふ思想は基督教々理の中心である。之を否定すれば教理の体系が崩れる。而して私は之を余りに粗朴なる妄断と思ふやうになつたから、大に困つたのである。只耶蘇の自覚には此の信条の基礎たるべきものがなかつたと云ふ説もあるから、ルナン等の解説せる如くに之を清算し去り、耶蘇を単に一聖人として、其の教へたる一神的、倫理的宇宙観だけを信仰の対象とすることも出来得べき筈だと考へた。当分は其の段階に留まつて思索を続けた。然しながら信仰は思想にあらずして心の熱である。熱の源たる伝統の権威がなくなつて、其の教理を単なる思想として検討すれば、矛盾又は不合理らしく見ゆる点に対して不安が拡大される。強ひて之を理性と調和すべく試みるのは徒労のやうに思はれて来る。倫理的宇宙観は崇高なる詩的着想として、又実践上の発動力として、大に意義があるけれども、意志と感情とを以て宇宙を主宰するが如き神の存在を之が基礎とすることは容易に首肯し得ない。其処から思索上の難問が幾多湧出するのである。元来思索的態度を以て宗教を看るのが間違ひであるかも知れぬ。人間の認識及び行動は理性のみに立脚すべきでないから、思索の経路によらずして直観的に宗教を信仰する人があるならば、殊にそれが倫理的宇宙観と相伴ふならば私は固より之を排斥しない。進んで之を尊重したい。只私一個としては成るべく矛盾を克服して安住の境地に立たんことを欲したるが故に、種々の段階を経て、基督教及び普通の意味に於ける一般宗教の傘下に留まり得なくなつたのである。
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いったん、ここで切ります。
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「基督教と理性とを調和する所の思想を構成し、之を世に伝ふることが私に恰好の仕事」

2017-04-27 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月27日(木)11時44分24秒

今日になって気づいたのですが、深井英五『回顧七十年』は「国会図書館デジタルコレクション」で全文が読めるようになっていますね。
ま、そうはいっても参照の便宜のため、重要と思われる部分を適宜文字起こしして引用したいと思います。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043448

私の当面の関心は、欧米の伝道団体が相当の人と資金をつぎ込んで援助したにも拘らず、何故に日本におけるキリスト教の布教が進まなかったのか、それなりの信者数を獲得したとしても人口比では微々たる割合に留まったのは何故なのか、というものです。
当掲示板には殆ど反映させなかったものの、去年、群馬県その他若干の地方でのキリスト教布教の歴史を概観し、この問題についての自分なりの結論は既に出しているのですが、それを深井英五の回想に照らして確認しておきたいと思います。
さて、まずは深井英五がキリスト教に入信した経緯ですが、深井自身は次のように説明しています。(p20以下)

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第三章 人生観、基督教、新島先生

 郷里に在りし幼少の時に於て、私の心境の発育に最大の影響を与へたのは、父景忠の外には、堤辰二先生であつた。【中略】
 又堤先生は、自ら英語に通ぜざるを遺憾とし、私には是非之を学べと勧めた。私はその勧めに従つて星野光多先生の教を受けるやうになつたが、更らに之を機縁として一たび基督教を信じたことは私の一生に於ける大事実の一である。星野先生は矢張群馬県の沼田より出て、横浜に於て米国宣教師と交はり、其の教を受けた。さうして私の従兄弟菅谷正樹(前掲清允の子)の知人たりしことを後から知つた。先生から伝へられた所の基督教は、狭く統一せられたる米国風の教理と先生自身の宗教的体験に立脚するものであつた。私が洗礼を受けたのは多分十四歳の時であつたと思ふ。当時信仰の友として最も親密であつたのは、同藩士にして同齢の長坂鑑次郎である。彼は後に同志社神学校に学び、組合教会の牧師となり、敬虔熱情を以て教化に力を効しつゝある。
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星野光多(1860~1932)は東條英機内閣の内閣書記官長・星野直樹(1892~1978)の父ですね。
また、南原繁の最初の妻、星野百合子の叔父でもあります。

「内閣書記官長・星野直樹」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2bf1221bfa7d693795a7266fc53eb49

入信の経緯の次は入信の理由についてですね。(p22以下)

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 星野先生との接触が捷く私を基督教に帰依せしめたのは何故であらうか。当時の自覚は只単純に基督教を真理と認めて信仰したのだが、今から顧みて其の因縁を考へて見るに、時勢の波にさらはれて失墜せる武士の貧しき家庭に生まれ、父の感化によつて気位ばかり高く、其の矛盾に悩んで居るところへ、堤先生の哲学談の影響も加はつて、何か安心立命の基礎たるべき理念を求めつゝあつたのだらう。人生の根本的心構へたるべき訓誨や格言を種々断片的には聞いたが、纏つた世界観又は人生観として最初に私の逢着したのは基督教であつた。神を父とし、人類を同胞とすると云ふ倫理的世界観が先ず私の心を惹き付けた。それから植村正久氏の「真理一班」等を読んで其の思想上の根拠を求めた。秩序ある万有の究極原因は、盲目的の物力にあらずして、霊的存在たる造物主でなければならぬと云ふ所謂意匠論の推理で神の存在が証明されると思つた。神霊を第一次的存在と看れば、万物の本体を把握せんとする哲学上の希求も満足される。それは堤先生の語りたる唯心論的哲学と共通する所もある。此の大綱に感動して信仰が起つたのであらうと思ふ。尤も基督教会の信条中には理性に抵触するが如きものもあつて、之を受入れるには多少の摩擦を感じたが、信仰の燃ゆるときには、総て高遠なる神の意図によることゝして一応片付けられた。而して基督教と理性とを調和する所の思想を構成し、之を世に伝ふることが私に恰好の仕事であるとして、其処に生存の意義を発見したやうに思つた。此の時に同志社に入学する途が開けたのだから、喜び勇んで之に赴いたのである。
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後付けの理屈も多少あるのかもしれませんが、14歳でここまで考えていたとはたいしたものです。
深井は「新島襄先生が群馬県に帰省したとき、ブラウン(Browne)夫人と云ふ米国の友人から寄託されて居る奨学金を支給して同志社に入学せしむべきものを物色」(p10)した際に、星野光多の推薦で同志社に行くことになります。

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「江戸詩壇の牛耳を執りたる市河寛斎」(by 深井英五)

2017-04-26 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月26日(水)11時12分21秒

郷土史的な関心からの投稿は最後にしますが、深井英五の母親の外祖父は市河寛斎(1749-1820)、伯父は市河米庵(1779-1858)だそうで、これはちょっとびっくりでした。(p6以下)

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 母ゆひ子は同藩菅谷清嗣の女である。清嗣の父清成は藩儒として江戸の学界に出入し、藩政にも功があつた。母の外祖父には、一時昌平校の教授となり、後に江戸詩壇の牛耳を執りたる市河寛斎があり、寛斎の子にして母の伯父たる米庵は、殊に書道を以て諸侯の知遇を受け、頼山陽を白河楽翁公に紹介して、日本外史出版の為めに斡旋した。私の生れたのは、母が四十二歳の時であつた。家道衰微に向ひたる晩年の産児たるが故に、寧ろ其の亡きを望んだこともあると母は語つた。後に伊勢崎の中村氏に嫁した姉たい子は母に代つて私を保育したと云ふ。然しながら私の記憶に残る頃からは、母の愛育到らざるなく、私の為めに一身を犠牲にする心持であつたらしい。父が鉄の如く堅く固まりたるに反し、母は普通の感激性もあり、享楽趣味もあつた。父は、物欲を抑へ、心胆を練りて、貧に処するの道を私に訓へんとしたやうであるが、母は、貧しき中に慰安を工夫して、私の気分を出来るだけ快活ならしめんと試みたやうである。私は母の慈愛に感激すると同時に、実践の方向は父の流儀に従はねばならぬと思つた。母の愛も亦盲目ではなかつた。私が偏屈若しくは萎縮に陥らんことを懸念して、成るべく明るい方へ導かうとしたのであらう。私を匡す為めには、孔子様に代つて折檻すると云つて、読み掛けの論語の書巻を以て打つたこともある。
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市河寛斎について調べ始めたきっかけすら忘れていたのですが、7年前の投稿を見ると東島誠氏の『公共圏の歴史的創造』ですね。

「南牧村と下仁田町」(Akiさん)

直系の子孫である英語学者の市河三喜(1886-1970)とその妻の晴子(1896-1943)も興味深い人物ですね。

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軍都高崎の「坊ちやん」

2017-04-26 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月26日(水)11時08分37秒

郷土史的な話題が続いて群馬県に縁のない人には退屈かもしれませんが、個人的な備忘のために『回顧七十年』からもう少し引用しておきます。
前回投稿で引用した部分の後、深井英五は小学校の校長となった次兄景員の県知事に対する反骨エピソードを紹介してから再び父の思い出を語ります。(p5以下)

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 私が多少事を解するやうになつてからの記憶によると、父は寡言沈重にして、学問及び立志の方向に就いて私に希望を示すことは殆どなく、それは私の向ふ所と、兄景員の指導する所とに任かせ、只私の体格を弱小なりとして、護身の為めに少し武芸を習へと注意した。又情操、行状等に就いて殊に訓誨を与へることは少なかつたが、只貧しき生活が私の心境に悪影響を及ぼさんことを憂慮し、武士の伝統たる気節を私に伝へんが為めに、身を以て範を示し、事に触れて陶冶を工夫したものゝやうに思われる。例へば、陸軍の連隊所在地であつた私の郷里では、陸軍の上長官が新時代の栄勢を代表する最高の人々であつた。其の子供等は、遊戯の仲間でも恰も別種の階級に属するものゝ如くに優遇され、「坊ちやん」と呼ばれて居た。其の呼称は当時対等者間には決して使はれなかつたものである。私も何心なく周囲の風習に従つて居たのを、或る時、父が聞いて、後から私を厳しく戒めた。坊ちやんと云ふのは主筋に対してのみ使ふべき言葉である、我家貧なりと雖も、卑屈の心になつてはいけない、と云ふのが父の訓戒であつた。是は私が六七歳の頃のことで、其の深き印象は一生を通じて種々の場合に私の意気を動かした。
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夏目漱石の「坊っちゃん」は下女の清が江戸っ子の「おれ」に対して用いる呼び名でしたが、明治初期にはこれとは聊か異なる用法、即ち「主筋に対してのみ使ふべき言葉」としての「坊ちやん」もあったのですね。
陸軍歩兵第十五連隊が駐屯していた高崎は「軍都」とも呼ばれていたそうですが、さすがに戦後はそのような面影は一掃され、今は僅かに記念碑の類が残るだけです。

「十五連隊のあしあと」(高崎市公式サイト内)

>筆綾丸さん
>鴎外の史伝物を読むような趣

『回顧七十年』に加え、『人物と思想』(日本評論社、1939)と『枢密院重要議事覚書』(岩波書店、1953)も入手してパラパラ眺めているのですが、深井英五は大変な知識人ですね。
硬質な文体は確かに鴎外を連想させます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

鴎外の史伝物のような 2017/04/25(火) 16:20:57
小太郎さん
ご引用の文にある、
------------
敵兵通過後に収容された遺骸を検するに、方式に適ひたる割腹は心の余裕を示し、切断せる残矢は武器を敵に渡さゞるの用意を示すものとして称讃された。
------------
という文章などは、鴎外の史伝物を読むような趣がありますね。戦死した実兄に対して、「収容された遺骸を検するに」とは、凄いものです。

http://www.rfi.fr/france/20170424-presidentielle-france-coupee-deux-lendemain-premier-tour-macron-le-pen
フランス大統領選の第一回投票結果によれば、反EU票が半数を占めていて、トッドの云うように、「問題は英国ではない、EUなのだ」という意識が、フランス国内にじわじわと浸透しているようですね。決選投票(5月7日)では、親EUのマクロンが勝利して大統領になるとは思いますが、EUの未来は明るくないですね。トッドは、思想的には、左派のメランションに近いのかな、と思いました。

キラーカーンさん
https://www.youtube.com/watch?v=Ob0DBO3G2JE
映画『3月のライオン』を記念した「獅子王戦」の決勝では、羽生さんが藤井くんに対して藤井システムで攻めましたが、これは三冠の茶目っ気というべきなんでしょうね。
http://live.shogi.or.jp/kisei/kifu/88/kisei201704250101.html
挑戦者は斎藤七段に決まりましたが、羽生棋聖も苦労するでしょうね。新鋭も、『炎の七番勝負』では、藤井くんに完敗でしたが。

追記
http://www.bbc.com/news/world-asia-39701481
https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Michigan_(SSGN-727)
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20170425_17/
原潜ミシガンの排水量は2万?に近く、艦長は大佐なんですね。モットーの Tuebor(ラテン語)はミシガン州の標語で、I will defend の意味とのこと。
海上自衛隊の Destroyer が「護衛艦」とされるのは、憲法の条文に特段の配慮をしたものではなく、アメリカの航空母艦を護衛するから「護衛艦」なのであって、あくまでも従属的な存在だ、という意味なんですね。普段は近海をフラフラ遊弋しながら独立独歩のフリをしていますが。
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「高崎潘兵中弓を携へたのは景命一人であつた」(by 深井英五)

2017-04-25 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月25日(火)10時16分31秒

>筆綾丸さん
>「※」に該当する漢字は、「絜」あるいは「屑」でしょうか。

図書館でコピーして来たものを転載したのですが、当該部分は「尸」+「肯」のように見えたので、そんな字があったかなと思って、後で調べるつもりで「※」としておきました。
改めて見てみると、やはり「屑」ですね。
恥ずかしながら「屑」に「いさぎよし」との読み方があることは知りませんでした。


>父と高崎五万石騒動との関係について、何か言及はありますか。

これは全くないですね。
五万石騒動について詳しく調べたことはありませんが、幕末維新の荒っぽい世相の中で、当時の人はそれほど重大事とは意識しなかったのに、後世の研究者が頻りに論ずるようになった事象のような感じがします。
深井英五が「感激発奮した」話として詳細に記すのは、長兄が亡くなった天狗党との下仁田戦争についてですね。
前回引用した部分に続いて、次のような記述があります。(p3以下)

-------
 私が生れたのは丁度父が退隠の年であつた。長兄助太郎景命は十八歳にして下仁田に戦死したが、奮闘の勇しかりしことゝ、負傷後自刃の見事なりしことが旧藩士の間に伝へられ、父母の誇りとせる所にして、私も其の話を聞いて感激発奮した。当時の高崎藩兵は甲冑を着け、刀鎗より小銃大砲に至るまで、銘々得意の武器を携へた混合隊であつた。約三百人で千人に近い敵の通過を阻止せんとする無謀の挙であつたらしいが、景命は第一番手の働武者として弓を以て戦ひ、大勢不利の裡に挺身、敵の前進を遮り、確かに其の一人を射倒し、脚部に弾丸を受けてからも尚踞して矢を放つたまでは、戦友の目撃談として伝へられて居る。其後弓弦絶つに至つて自決したものゝ如く、敵兵通過後に収容された遺骸を検するに、方式に適ひたる割腹は心の余裕を示し、切断せる残矢は武器を敵に渡さゞるの用意を示すものとして称讃された。後年齋藤平治郎氏著「武田耕雲斎と日本武士道」に載せられたる水戸側の記録によれば、其の隊中の小松崎と云ふ人が下仁田の戦に於て眼と眉毛の間を矢で射られたとのことで、高崎潘兵中弓を携へたのは景命一人であつたから、正に口伝と符節を合する。残矢は今尚私の本家に保存されて居るが、短刀を以て切つたらしく、斜の切り口が頗るあざやかである。
-------

大量の鉄砲・大砲を装備した天狗党に弓矢で立ち向かうのはあまりに時代錯誤のようにも思えますが、このあたりの深井の感覚はやはり武士ならではですね。
少し後に出てくる深井の非常に近代人的な、というか過剰に近代人的な意識との落差に驚きます。

「下仁田戦争について」(下仁田町公式サイト)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

高崎五万石騒動 2017/04/24(月) 18:24:25
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E8%97%A9#.E9.AB.98.E5.B4.8E.E4.BA.94.E4.B8.87.E7.9F.B3.E9.A8.92.E5.8B.95
「・・・離れ領地たりし銚子の奉行、城下町奉行、勘定奉行等を勤め、藩政に参与した」とありますが、父と高崎五万石騒動との関係について、何か言及はありますか。
高崎藩(大河内松平家)の石高は八万二千石なのに、なぜ五万石騒動と呼ぶのか、という疑問が湧いてきますが、上野国五郡八十九村における「古領の農民は「八公二民」という重い年貢が課せられて」いて、残りの他国の六十八村はもう少し軽い年貢のため一揆には至らなかった、と理解すればいいのでしょうね。同じ藩領内でも地域により年貢の割合は違ったのだ、と。
高崎五万石騒動は英五の生前の出来事ですが、英五に何らかの影響を及ぼした、ということはないのかどうか。人は宗教なぞでは生きていかれぬ、まずは食わねばならぬ、というような。

深井英五はなぜ宗教を棄てて経済を専門としたのか、ということについて、深井智朗氏が何か書いてくれると面白いですね。

蛇足ですが、ご引用文中にある「※」に該当する漢字は、「絜」あるいは「屑」でしょうか。
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深井英五『回顧七十年』

2017-04-24 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月24日(月)14時45分13秒

4月11日の投稿で触れた深井英五(1871-1945)ですが、その晩年の回想録『回顧七十年』(岩波書店、1942)を読んでみたところ、非常に面白いですね。
深井は同志社時代に既にキリスト教に非常に懐疑的になっていて、同志社を出た後、なお信仰の可能性を探るために「普及福音新教伝道会」の新教神学校で学んだものの、結局は棄教します。
そのあたりの事情は『プロテスタンティズム』では分からないようになっていますが、これは深井智朗氏が慎重に配慮しているようにも思えます。
私にとって深井英五は、宗教的観点からだけでなく郷土史的観点からもなかなか興味深い人物なので、『回顧七十年』を少しだけ検討してみたいと思います。
まずは深井英五の文体紹介を兼ねて冒頭の部分を引用します。(p1以下)

-------
第一章 幼少時の環境と心情

 私は上野国高崎に於て、旧藩士深井景忠の第五男として、明治四年十一月二十日に生れた。今、柳川町岡源別館となつて居る門屋敷が出生地である。此の屋敷は私の少時に売払はれ、一家挙げて龍見町の小屋に移つた。
 父の名は新戸籍上では景(したふ)であるが、藩士としての旧名八之丞景忠の方が郷党の間によく知られて居た。旧藩に於ける地位は、本禄百二十石、加禄三十石で、小藩の士としては、中の上に位する家柄であつた。
 父は武芸を主とする家に生れ、尚武の素質が勝つて、殊に弓術に精進し、元治元年高崎潘が幕命によつて武田耕雲斎等の水戸浪士隊と下仁田に戦つたとき、第三番手の隊長として出陣したが、戦闘が早く済んで参加し得ざりしを遺憾としたと云ふ。同時に家の伝統としては珍しく多少の吏才もあつたと見えて、離れ領地たりし銚子の奉行、城下町奉行、勘定奉行等を勤め、藩政に参与した。林子平の海国兵談や、和蘭人風説書などの写本が遺品の中にあるから、時勢の大局にも相当の注意を払つたのであらう。維新の際、東山道鎮撫使の軍が高崎を通過したとき、藩は巨額の軍用金を徴求せられ、到底資力の堪ゆる所でないので大に当惑した。父は其の交渉に当り、若し軍令を十全に充たさゞるの咎を受くるならば、累を藩主に及ぼさゞるやう、死を決して責を一身に負ふの覚悟を定め、事情を説明して妥当なる程度の解決を得た。明治政府の下に於ても、地方に藩政を存続せる間、父は国益御用の名を以て藩の為めに横浜に往来し、生糸の輸出等貿易上の事務を取扱つた。
 明治四年の廃藩置県により旧来の武士階級は一斉に禄と職を失つた。父は其時五十三歳であつたが、爾後全く世間から退隠して細き生計を立て、前代の遺民として固く自ら持した。愚痴も言はず、時事も論ぜず、只 至尊の下、四民平等の世の中になつたのだと云つて、従来の所謂百姓町人に対して直に態度を改め、対等の礼を以て接すると同時に、新時勢の顕官貴人に対して、故なく礼を厚くすることを※としなかつた。又藩政の下に於ては渉外関係に注意して居たにも拘らず、退隠後は西洋嫌ひで押し通し、出来るだけ洋風の新式品の使用を避けた。奇矯と云ふ程には至らなかつたが、聊か常流と異なる所があつた。それは時勢に対する態度を不言の裡に現したのであらう。私に残つて居る最も古い記憶は、旧城が兵営となつて其の通行が全く禁止される前日、父が私の手を引いて其処を歩き、御城内の見納めだと云つて感慨したことである。西郷戦争も私の古い記憶の一つだが、それは稍々後のことであつた。
------

とりあえずここで切ります。
私は遥か昔の高校生の頃、電車で高崎駅を降り、かつての高崎城址・高崎連隊兵営跡の真ん中を通る道を、毎日自転車をギコギコ漕いで通学していましたので、深井英五の父の感慨も少しは理解できそうな感じがします。
「岡源別館」は知りませんでしたが、これは老舗の料亭で、今は廃業してしまっているとか。


>筆綾丸さん
>後鳥羽院というハンドルネーム

懐かしいですね。
ご引用の文章中、「上皇后」は語感からして珍妙で、ちょっと勘弁してほしいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Genealogy 2017/04/23(日) 17:21:04
私は数年前、他の掲示板で、後鳥羽院というハンドルネームを僭称していたことがあり、退位特例法には若干の関心があるのですが、「天皇退位 有識者会議の報告書全文」(4月22日付日経朝刊8面)を読んで、以下の記述に興味を覚えました。
-------------
「上皇」には、なお院政をイメージするとの意見もあるが、退位後の天皇の称号として定着してきた歴史と、象徴・権威の二重性回避の観点を踏まえ、現行憲法の下において象徴天皇であった方を表す新たな称号として、「上皇」と称することが適当である。
なお、国際的にも、「上皇」の概念が正しく理解されるよう、適切な英訳が定められることが望ましい。(?の1の(1))

なお、「上皇后」という称号は、歴史上使用されたことがない称号であるため、この称号に込められた意義が国民に正しく理解されるよう努めていく必要がある。また、国際的にも、「上皇后」の概念が正しく理解されるよう、適切な英訳が定められることが望ましい。((?の1の(2))

これに加えて、「皇嗣」が皇位継承順位第一位の皇族を表すものであることについて国民の理解が深まるよう努めていく必要がある。併せて、国際的にもそのことが正しく理解されるよう、「皇嗣」の英訳について工夫を講じることが適当である。(?の1)
-------------
http://www.kunaicho.go.jp/e-about/genealogy/koseizu.html
前二者について、ex-Emperor 及び ex-Empress (定冠詞は省略される)以外に適切な訳語があるとは思われないのですが、これでは日本独自の事情は反映できません。報告書の要望は無理な注文ではないか。三番目は、国内では皇太子ではなく皇嗣であるけれども、英訳は無冠詞の普通の Prince ではなくThe Crown Prince とするのがよかろう、ということですね。・・・いずれにせよ、宮内庁の英訳「Genealogy of the Imperial Family」の一部の呼称がどのように変更されるのか、待ちたいと思います。

https://www.shogi.or.jp/shogi-ch/
「藤井聡太四段 炎の七番勝負」の六局中四局を見ましたが、僭越ながら大変な才能であり、十代の名人(高校生名人?)が誕生するような気がしてきました。生きているうちに、羽生さん以上の才能を見ることはあるまいと思っていたのですが。なお、今期の名人戦は第二局まで進みましたが、素人にはなんともつまらない将棋で、退屈しました。
追記
最終局でも、学生服姿の中学生が羽生三冠を破りましたね。
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そろそろ再開します。

2017-04-23 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月23日(日)11時29分5秒

一週間経ちましたので、そろそろ本格的に掲示板投稿を再開します。
東京だと火葬場が予約できなくて葬儀が死亡から一週間以上先になってしまうようなこともあると聞きましたが、田舎なので葬儀自体は速やかに終えることができ、死去に伴う事務的な手続きも殆ど済みました。
父親は特に信仰を持たない人で、菩提寺との関係も稀薄だったのですが、葬儀となるとやはりお坊さんに頼るしかなく、これからも暫くは地元の慣習に従った仏事を淡々と進めることになりそうです。
ま、そうした慣習任せのやり方が一番心が落ち着く感じもします。
葬儀の席で久しぶりに親戚に会うと、容貌はもちろん、話し方や仕草がひとつ前の世代の、今はもう亡くなってしまった人たちにそっくりだったりして、血の繋がりの不思議さを感じました。
上州の風土もあって私の祖先・一族には格別に宗教に熱心な人はおらず、また不思議なほど軍人が少ないのですが、そうした環境の影響は、現在の自分の思想を形成する上で、自分が自覚していた以上に大きかったのかもしれない、などと思ったりもしました。


>筆綾丸さん
>キラーカーンさん
ありがとうございます。
ツイッターの方は直ぐに再開したのですが、掲示板は少し慎重になってしまいました。
退位特例法にも若干の興味はありますが、深井智朗氏の著書への感想等を先に書く予定なので、退位特例法関係は暫くロムに徹します。

※下記投稿へのレスです。
「Toutes mes condoléances.」(筆綾丸さん)
「一国民の違和感」(筆綾丸さん)
「色々」(キラーカーンさん)
「シュレーディンガーの雌猫の half pregnant について」(筆綾丸さん)
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父の死

2017-04-18 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月18日(火)07時59分47秒

15日(土)に父が亡くなり、昨日17日(月)が葬儀でした。
89歳の父は週二回、近くの介護老人保健施設でのデイサービス(通所介護)に通っており、15日の朝も施設の巡回マイクロバスに乗って、ごく普通に出かけて行きました。
暫くして施設から、父が気分が悪いと訴え、顔色も悪くなったという連絡があったのですが、それも別に緊急事態を知らせるといった性質のものではなく、併設の医療クリニックに行くと施設の規則で早退扱いになって巡回マイクロバスで送れなくなりますが、どうしますか、といったひどくのんびりしたものでした。
私は自分の車で迎えに行くので早く医者に診てもらいたいと依頼したところ、暫くしてクリニックの看護婦から来てほしいとの電話があり、それほど急ぐこともなく行ったところ、父は医師・看護婦の質問にはそれなりに応えており、私は単なる体調不良だと思って特に懸念は感じませんでした。
クリニックの医師は、特段の異常はないように思うが、高齢なので近くの地域総合病院へ検査に行った方がよいと言ったのですが、それも明確な指示ではなく、私が父を車に乗せて行くか、それとも救急車を依頼するかという、これまた後から思えばずいぶんのんびりしたやりとりが続きました。
途中で何かあっても困るので、私は救急車での移送を依頼し、自分は先に地域総合病院へ行って待っていたところ、やがて父が救急車で運ばれてきて、救急担当医師の診察を受けました。
この時点でも父は医師・看護師とそれなりのやりとりをすることが可能な状態で、私は最初の医師から、後から思えばあまり正確とは思えない説明を受けて一安心したのですが、検査の結果、別の若い医師から緊急の手術が必要との説明を受けました。
その後は非常に慌ただしい展開となり、大勢の看護婦さんが集まって手術の準備作業に取り掛かり、少し離れた手術室へ向かうときは歩くのではなく、ストレッチャーを押して走って行くような状況でした。
私が廊下に置かれた長椅子で暫く待っていると、若い医師から「緊急心臓カテーテル検査・緊急経皮的冠動脈形成術同意書」へのサインを求められ、サインしました。
そして若い医師から渡された「急性心筋梗塞、不安定狭心症(急性冠症候群)説明書」というのを読みつつ、暫く待っていたところ、再び若い医師が来て、三本の冠動脈のうち詰まった一本への手術は行ったが、他の二本も「ボロボロ」(医師の表現)の状態で、心臓の機能が非常に弱っており、既に時間の問題との説明を受け、茫然としました。
その後、入院患者用病室への移動につきそいましたが、病室では看護婦から親族を呼んだ方が良いと言われ、自宅まで戻って母に事情を説明し、午後3時頃病室に戻りました。
その時点で、父の心臓は既に自力での動きを止め、親族の到着まで人工的に動かしていただけのようであり、母が医師から説明を受けて間もなく、午後3時10分に臨終を告げられました。
朝方、普通に出かけた父が午後3時過ぎに臨終という、本当に慌ただしい一日でした。
急性心筋梗塞というと胸に激痛が走るようなイメージがあったのですが、父は高齢である上に長く糖尿病を患っており、高齢者・糖尿病患者の場合は痛みが明確に出ない場合があるそうです。
ただ、それにしても父が気分の悪さを訴えた時点で直ぐに救急病院へ連れて行ってもらえたら、あるいは助かったのではないか、という思いはぬぐえません。
臨終を告げられた後、葬儀社の手配をし、17日(月)に家族・親族中心でこじんまりとした葬儀を行いましたが、父が町の功労者表彰を受けていたために町長と町議会議長が来られ、町長には弔辞を読んでもらいました。
家業よりも公的活動が好きだった父にとっては良いはなむけになったようにも思います。

掲示板は明後日あたりから再開します。
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ご連絡

2017-04-15 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月15日(土)20時29分21秒

身内に不幸があり、掲示板投稿は暫く休ませていただきます。
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ラインホールド・ニーバーが浅薄?

2017-04-14 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月14日(金)13時03分26秒

ドイツからは暫く離れようと思って、深井智朗氏の著作もまとめて図書館に返却する準備をしていたのですが、その前に何気なく『パウル・ティリヒ「多く赦された者」の神学』(岩波現代全書、2016)を眺めていたら、深井氏がラインホールド・ニーバーについて、

------
 このような自己演出を真に受けてティリヒの思想を紹介したのは、ユニオン神学校の同僚であったラインホールド・ニーバーで、彼は次のようにティリヒを紹介した。「ティリヒの偉大さは、形而上学と神学との境界領域を探求したことにある。この『綱渡り』にも似た困難な作業は、平衡を失って、どちらかの側に墜落するという危険なしには、遂行できないものである。バルトは自分の平衡能力に自信が持てないために、綱に近付くことを拒否しているが、ティリヒは非常な熟練をもってそれを成し遂げた。ただ時々そこから落ちていないわけではない。そうした失敗は、自分ではこの種の作業をする才能をまったく有しない平凡な歩行者には気になることかもしれない」(Niebuhr 1952:226)。
 しかし、もしニーバーが本気でティリヒがこのような意味での境界線上で仕事をしていたと考えているのであれば、彼の人間論はますます浅薄な議論に見えてくる。ティリヒはニーバーが言うような意味で境界線上で仕事をする決意などしていない。【後略】
------

と言っているのを見つけ(p258)、ちょっと妙な感じがしました。
深井氏は大木英夫氏とともにニーバーの「The Irony of American History」を翻訳されていて(『アメリカ史のアイロニー』、聖学院大学出版会、2002)、私は単純に非常に優れた本だなと思ったのですが、「彼の人間論はますます浅薄な議論に見えてくる」と述べる深井氏は、仮にニーバーのティリヒに対する誤解がなかったとしても、ニーバーの人間論を「浅薄な議論」と考えているようですね。
パウル・ティリヒは聴衆に深い感動を与える天才的な説教師としての社会的活動の裏で、常に複数の愛人を持ち、酒乱で、高級ワインとSM趣味に湯水のように金を注ぎ込んだ人格破綻者ですから、まあ一種の詐欺師のようなもので、ニーバーが若干の誤解をしたことはやむを得ない感じがしますが、ニーバーの人間論自体がおよそ「浅薄な議論」だなどとは私にはとうてい思えず、そのように感じるのであれば、むしろ深井氏の方が「浅薄な人間」なのではないかと思われるほどです。
少し検討してみるつもりです。

Reinhold Niebuhr(1892-1971)

>筆綾丸さん
>長野県飯山市
私も知りませんでしたが、飯山は経済産業大臣の「伝統的工芸品産地指定」を受けた15仏壇産地の一角を占めているそうです。
仏壇産地はやはり浄土真宗の強い土地が多いようですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Oh my Buddha ! 2017/04/13(木) 15:33:23
小太郎さん
BBCの記事には、
-------------
The first explosion in Tanta, 95km (60 miles) north of Cairo, took place near the altar of the church.
-------------
タンタのコプト教会の爆発は祭壇近くで起きた、とあります。(some people had half of their bodies missing という惨状は、見たくないですね)

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/japanologyplus/program-20170404.html
バラカンさんの「Japanology plus」は、録画でよく見ますが、前回は仏壇がテーマでした。
長野県飯山市は仏壇製造で有名だそうですが(初めて知りました)、Buddhist Altars として紹介されていました。キリスト教圏では altar は教会にしかないので、神社の altar はともかくとして、仏閣のほかに各家庭に altar が存在するというのは、かなり奇異な印象を与えるのだろうな、と思いました。複数形 Altars は、そんな事情を暗示しているのかもしれません。
(放送にはありませんが、解説文には神棚への言及もありますね。壇と棚の相違は難しいらしく、説明はありません。また、仏壇のはしりのひとつは法隆寺の玉虫厨子だ、とありますが、うーむ、そうなのか・・・)
バラカンさんが、細工師の繊細な作業をみて、Oh my Buddha とは言わずに(当たり前ですが)、Oh my God と感嘆の声を上げたときは、思わず笑ってしまいました。
NHKの番組は、日本人向けのものは低俗なものが多いのですが、外国人向けのものには時々優れたものがあって、日本人にはこの程度でいいんじゃないの、とNHKは考えているのかもしれず、それはそれで、中らずと雖も遠からず、と言ったところなのかもしれません。

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鴎外の「序文」代筆の先行例?

2017-04-13 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月13日(木)11時10分31秒

>筆綾丸さん
コプト教は宗教芸術の面でも独自の優れた伝統を有していますね。
素朴な味わいのある絵画や刺繍など、私はけっこう好きです。

『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』の深井氏による「解題」で、前回紹介した部分の少し後ろに、

------
 またこの新教神学校の学生であった赤司繁太郎は、在学中にシュピナーの影響でレッシングを読むようになり、一八九二年三月三日に東京の一二三館より『独逸文学の大家 烈真具』を刊行している。その時赤司は一九歳であった。ところでこの小さな書物に序文を書き、その内容を高く評価したのは一八八八年にドイツ留学から戻った森鴎外であった。鴎外はその頃『しがらみ草紙』に「戯曲折薔薇」というタイトルでレッシングの「エミーリア・ガロッティ」を翻訳し、さらに「レッシングが事を記す」と題する解説をも掲載していた。両者がどのようにして知り合ったのかは今日なお不明であるが、新教神学校の場所が、鴎外がかつて一〇代で上京しドイツ語を習った進文学社の近くであり、そこがドイツの最先端の哲学や神学を教える学校であり、彼がしばしばこの場所に出入りしていたことを考えるならば、二人の出会いは不自然なことではない。赤司と鴎外の交流は生涯続いた。
------

とありますが(p275以下)、これを読むと筆綾丸さんが以前紹介された田中耕太郎によるキューゲルゲン『一老人の幼時の追憶』の「序文」代筆を思い出してしまいますね。
深井氏は赤司繁太郎と鴎外の「両者がどのようにして知り合ったのかは今日なお不明」と書かれていますが、血気盛んな赤司が自著を鴎外に持参して序文を書いてくれと依頼したところ、<鷗外は快よく承諾してくれたが、その文章はそちらで書くようにとのことであつた>可能性も高そうです。
赤司は1862年生まれの鴎外より11歳年下ですね。

赤司繁太郎(1873-1965)

鷗外の序文を代筆した男(筆綾丸さん)
尾高朝雄と田中耕太郎

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Palm Sunday 2017/04/11(火) 15:47:53
小太郎さん
深井智朗牧師の誕生の背景には、深井英五が学んだ同志社の影響があるのでしょうね。
「父の八二歳の誕生日に」(あとがき)とありますが、ご尊父も牧師かもしれないですね。

キラーカーンさん
ラテン語の「cuius regio,eius religio」などを踏まえつつ、新プロテスタンティズムと古プロテスタンティズムに関するトレルチ説の紹介がありますが、深井氏の『プロテスタンティズム』は読まれましたか?

http://www.bbc.com/news/world-middle-east-39544451
https://en.wikipedia.org/wiki/Anba_Angaelos
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9E%9D%E7%A5%AD
--------------
In the UK, the General Bishop of the Coptic Orthodox Church, Bishop Angaelos, condemned the "senseless and heartless brutality" of the attacks.
--------------
BBC によれば、英国にもコプト正教会があるのですね。
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「ドイツ普及福音伝道会」と深井英五

2017-04-11 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月11日(火)11時52分14秒

ふー。
やっと平熱に戻りました。
深井智朗牧師の案内に従ってドイツ宗教思想界をほんの少し偵察飛行しただけなのに、掲示板投稿のペースが一気にスローダウンしたばかりか、ルター派プロテスタンティズムの生真面目沼から濛々と立ち昇る瘴気にあてられて熱まで出す事態となり、自分はやはりドイツとは相性が良くないな、と思っています。
備忘録としてもう少しだけ投稿した後、ドイツから離れるつもりです。

深井智朗牧師

エルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(深井智朗訳、春秋社、2015)の深井氏による「解題」に「ドイツ普及福音伝道会」とドイツ人宣教師シュピナーに触れて、

-------
 彼らはこう主張していた。「従来の伝道では異教の人々をキリスト教に改宗させようとするに急であり、しかも、そこには宗派独自の世界観が介在していた。〔しかしこのような考えは改められるべきであり〕不純物をとり去ってイエス・キリストの宗教に立ち返って伝道しなければならない。」そして「キリスト教とキリスト教の文化を非キリスト教諸民族に、それら諸民族の中に既に存在している真理契機と関連させながら広める」ことこそを目ざさねばならない。そのため、普及福音新教伝道会は、まずシュピナーの自宅でこの新教神学校を設立したのである。この学校で教えられていたのは同時のドイツの大学神学のカリキュラムとほぼ同じもので、規模は小さいが優れた教育を行った。
 一八九一年に行われた新校舎の落成式には東京帝国大学の総長であった加藤弘之が招かれ「新教神学校の課程を見ると、帝国大学文科大学に一人の姉妹を得たような気がして誠に喜ばしい」と祝辞を述べた程である。
 第一三代日本銀行総裁となり、戦時中は枢密顧問官であった深井英五はこの学校の学生であったが、彼は当時の教育について次にように回顧している。「〔オットー・シュミーデル〕先生から学んだ研究方法は其の後種々の方面に応用することが出来ました。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は、先生に負う所が多いと今に思って居ます。マルクスの著作の訓詁や、外交文書の取扱、契約の作成援用などにも効果的です。」
-------

とあります。(p273以下)
深井氏は何も書いていませんが、これを読んで私は深井氏は深井英五のご子孫じゃないかな、とチラッと思いました。
ま、だからどうした、と言われればそれまでの話なのですが、深井英五は群馬県高崎市出身の人なので、郷土史的な興味が少しあります。

深井英五(1871-1945)

>筆綾丸さん
>トランプ大統領の神
『プロテスタンティズム』の「参考文献一覧」に載っている森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』(講談社選書メチエ、1996)を読んで、トランプの God をどうとらえるかについて以前の考え方を少し変えました。
後で書きます。

トランプは「なんちゃってクリスチャン」

※筆綾丸さんの下記三つの投稿へのレスです。

おかぐら「宗教改革」(メンデルスゾーン作曲) 2017/04/07(金) 14:36:53
小太郎さん
等族に相当する独語は Ordung で、中国語は等級と訳しているのですね。

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・・・改宗しないユダヤ人を厳しい言葉で批判した。
ルターの言説を単純に擁護はできないであろう。そして重要な点は、これが明らかにルターの主張であり、なおかつナチスに利用されたことである。当時の人々はルターの言葉の政治的利用にあまり違和感を持たず、受け入れた。(140頁)
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この後にルター作曲「神はわがやぐら」の話が続きますが、熱心なルター派信者でユダヤ人のメンデルスゾーンが作曲した「交響曲第5番 宗教改革」をルターが聞いたら、どんな感想を抱いたことだろう、と思いました。
https://www.youtube.com/watch?v=otcrnrQAwD8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3)

「神はわがやぐら」の原文は「Ein feste Burg ist unser Gott」で、「やぐら」は feste Burg の訳なんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E3%82%8F%E3%81%8C%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89
https://www.youtube.com/watch?v=xG5v-dnat-U

「宗教市場」ですが、これはアメリカを踏まえての用語のようですね(178頁~)。

トランプ大統領の神 2017/04/07(金) 16:29:43
https://www.washingtonpost.com/world/national-security/trump-weighing-military-options-following-chemical-weapons-attack-in-syria/2017/04/06/0c59603a-1ae8-11e7-9887-1a5314b56a08_story.html?hpid=hp_hp-top-table-main_syria-315pm%3Ahomepage%2Fstory&utm_term=.69850bf7ec2c

深井氏は、オバマの大統領就任演説に出て来る神を指して、「この神は何であろうか。・・・キリスト教に限りなく似ているがキリスト教の神ではない」(194頁)と云われますが、トランプ大統領がシリア攻撃に関して、
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“We ask for God’s wisdom as we face the challenge of our very troubled world,” he continued. “We pray for the lives of the wounded and for the souls of those who have passed and we hope that as long as America stands for justice then peace and harmony will in the end prevail.”(13行目以下)
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と云うときの God とは、どのような神なのでしょうね。

レオナルド 2017/04/09(日) 14:43:56
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/03/102425.html
斎藤泰弘氏の『ダ・ヴィンチ絵画の謎』は面白い本です。フロイトも登場します(102頁~)。

付録
ドイツ語の辞書を引くと、Religionsgemeinschaft と Religionsgesellschaft と二つあって、どちらも宗教団体と訳されているため相違がわかりませんが、前者が古プロテスタントの宗教団体、後者が新プロテスタントの宗教団体ということなんでしょうかね。
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『ヴァイマールの聖なる政治的精神─ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』

2017-04-07 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月 7日(金)10時34分34秒

『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』第6章で、深井氏は森鴎外の「かのやうに」に触れた後、「一八七一年のドイツの統一とプロテスタンティズム」についての説明に移りますが、ここも本書の中で非常に重要な部分ですね。
ただ、この内容は深井氏の『ヴァイマールの聖なる政治的精神─ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』(岩波書店、2012)の「プロローグ 聖なる政治的精神─近代ドイツ・プロテスタンティズムの二つの政治神学」を若干簡略化したものなので、後者から少し引用しておきます。(p2以下)

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1 一八七一年の政治神学

 「遅れていた大国」ドイツが一八七一年に悲願の統一を果たした際、この新しく生まれた帝国〔ライヒ〕は、統一国家としてのグランドデザインを、プロイセンの宗教としてのドイツ・ルター派の神学者たちの政治神学に期待し、託した。すなわちドイツ・ルター派は、いくつもの領邦〔ラント〕を統一して誕生した帝国を精神的にも統一するためのナショナル・アイデンティティーの設計と、この統一の政治的道徳性を証明するための政治神学の構築を任されたのである。それ故に、一八七一年の新国家成立をプロテスタント的な出来事であると解釈する「政治神学」の登場は、プロテスタンティズムの陣営の独善的な主張であっただけではなく、それは同時に政治的要請であった。
 わが国の研究ではそれほど注目されてこなかったが、一八七一年の政治的事件を、人々はむしろ好んで「神学的に」解釈していたのである。たとえば新しく誕生した帝国は、同じドイツ語圏であるオーストリアを排除し、フランスとの戦争に勝利することによって成立したが、ドイツ・ルター派の神学者たちは、「小ドイツ主義」を主張したドイツ国民協会寄りのリベラリストを援助して、新しい帝国はカトリック国であるオーストリアと、「一七八九年の理念」(すなわちフランス革命)を体現する不道徳で宗教的な正統性も持たないフランスを打ち破って成立したのだと主張し、彼らの政治的プログラムのために有効な援護射撃をすることができたし、そのための努力を惜しまなかった。それは「政治神学」という名の「国家神学」でもあった。
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ということで、オーストリア排除を合理化し、フランス・イギリスに対抗できる理念として「ドイツ的なもの」の淵源が探求され、ルターと宗教改革が見出される訳ですね。
上記部分の少し後を更に引用してみます。(p3以下)

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 ヴィルヘルム二世の時代に彼の正枢密顧問官となったこの時代の代表的なルター派神学者であるアドルフ・フォン・ハルナックは、帝国のナショナル・アイデンティティー創りに苦労していたリベラル・ナショナリストたちに対して「一七世紀のピューリタン革命より、一八世紀のフランス革命よりも早く近代的自由を主張したマルティン・ルターの宗教改革」という政治神学を提供したのである。人々はこのような政治神学に特別な違和感を持つこともなく、むしろその中に政治的妥当性を見出すようになっていた。つまりこの時代、マルティン・ルターとその宗教改革の精神は、神学的にというよりは、政治的に再発見されるのである。そして神学とドイツ・ルター派は、このようなルターの政治的利用を裏付けるために、宗教改革とマルティン・ルターの研究を急遽再開し、その研究を政治的な言語に再構築したのである。この時代のルター研究の復興は決して純粋に神学的な関心によるものではなく、むしろ国策とそれに呼応した世論の興隆によるものであった。そこで政治的に再発見されたルターは、近代的なヨーロッパの起源であり、近代的自由の思想の出発点であり、ドイツ精神の源流とされたのである。これを「政治的ルター・ルネッサンス」と呼ぶことができるであろう。このような社会史的な視点なしには、この時代に急増したルター研究の意図を正しく理解することはできないであろう。
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このあたりの説明で「かのやうに」に登場するハルナックの位置づけが明確になってきますが、興味深いのはハルナックが決して伝統的なルター派エリートではなく、むしろ地域的には周辺、というか辺境から出てくることですね。
少し長くなったので、ここでいったん切ります。

Adolf von Harnack(1851-1930)

>筆綾丸さん
いえいえ、筆綾丸さんにきっかけを作っていただいたおかげです。

>「等族」
私もドイツ史に疎いので手探りでいろいろ当たっている状況ですが、「等族」は西欧史の世界では定着した訳語のようですね。

等族国家

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

花見 2017/04/06(木) 16:03:22
小太郎さん
深井智朗氏『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』は、ご指摘のとおり、優れた書ですね。勉強になりました。(なお、前の投稿において、Luthers は Luther の間違いです)

ご引用の少しあとに、
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「古プロテスタンティズム」の場合には、国家、あるいは一つの政治的支配制度の権力者による宗教市場の独占状態を前提しているのに対して、「新プロテスタンティズム」は宗教市場の民営化や自由化を前提にしているという点である。(112頁)
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とありますが、「宗教市場」という語に若干の違和感を覚えました。ドイツ人研究者の間では Religionsmarkt という形で、ごく普通に用いられているものなのかどうか。また、「帝国等族(帝国議会で投票権を持つ諸侯、帝国都市、高位聖職者)」(40頁)の「等族」は、日本語として変な感じがしました。

ルターの破門(1521年1月3日付)について、「この破門は今日にいたるまで解かれていない」(64頁)とありますが、もし破門が解かれることにでもなれば、ドイツ人には大事件になるかもしれないですね。

昨夜、遅くまで花見をしていて、風邪をひきました。
一片花飛減却春   杜甫
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