学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

田渕句美子氏の方法論的限界

2022-02-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月27日(日)13時09分39秒

前回投稿で「加害者としての女性史」を開拓したいと書きましたが、これは別に女殺人鬼や女武将の研究とかではなくて、「知的で魅力的な悪女」の発掘ですね。
私は旧サイトで「中世の最も知的で魅力的な悪女について」をサブタイトルとしたように、後深草院二条が「知的で魅力的な悪女」の代表格だと思っていますが、最近の検討で、北条義時の正妻「姫の前」やその娘の「竹殿」なども決して「被害者」ではなかっただろうと、一応の根拠に基づいて主張してみました。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c6e11caf96264bb395fc07a9ab7448

また、赤橋登子は夫である足利尊氏の意図を熟知しながら、それを実家や北条一族に黙っていたことにより討幕に決定的に重要な貢献したと思われるので、後深草院二条と同格の「知的で魅力的な悪女」ですね。

「足利高氏は妻子を失い滅亡する可能性もあった」(by 谷口雄太氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2beff379de15d0d07cff16070c7227d6

更に「悪女」とは呼びにくいものの、大宮院や遊義門院も、独自の政治的見識に基づき、持明院統と大覚寺統の対立を緩和しようと努力した女性のように思われます。

「新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7510e924ed2c4eaf216c6d9643ebffef

とまあ、そんな具合にあちこち手を伸ばしていたので、出発点である後深草院二条について、自分の認識の進化はその都度、一応文章にしていたものの、必ずしも分かりやすい形で整理してはいませんでした。
そこで、たまたま共通テストで『とはずがたり』と『増鏡』が出題されたことを契機に、後深草院二条とは何者か、『とはずがたり』と『増鏡』が如何なる関係にあるか、との自説の基礎部分を改めて堅固なものにしておこう、というのが現在の私の取り組みです。
さて、田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)は、『とはずがたり』研究の方法論的限界も示しているように思われます。
田渕氏は『増鏡』に「久我大納言雅忠の女」が「三条」として登場する場面に関連して、

-------
この記事は現存の『とはずがたり』にはないが、こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難く、『とはずがたり』の散逸した部分である可能性が高いであろう。さらには、憶測であるが、この『増鏡』の入内記事の一部は、現存しない『とはずがたり』に拠ったものかもしれない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66f7802d9c70bb30a9891cfe41740121

と言われていますが、「『とはずがたり』の散逸した部分である可能性」や「現存しない『とはずがたり』」まで想定した議論は検証可能性が皆無なので、学問とすら呼びにくいものです。
『とはずがたり』だけを扱っていたのでは虚構の限界の見極めは原理的に不可能で、「『とはずがたり』の散逸した部分である可能性」どころか、『とはずがたり』全体が後深草院二条が構築した仮想現実である「可能性」も排除できません。
『とはずがたり』では後深草院二条がお釈迦様であって、『とはずがたり』の研究者は絶対的支配者である後深草院二条の掌の中で右往左往しているだけ、という「可能性」もあり得る訳です。
とすると、『とはずがたり』研究が検証可能な、客観性のある学問であるためには、『とはずがたり』という作品の内部ではなく、二条が『とはずがたり』の外部の現実世界に残した痕跡を調査する必要があります。
仮に『とはずがたり』の外部で後深草院二条が何者かという客観的な手がかりが得られたなら、その手がかりから、『とはずがたり』とは何であったかを照射することが可能となるはずです。
果たしてそんな外部の痕跡は存在するのか。
私はそれが鎌倉で流行した「早歌」という歌謡に残された「白拍子三条」だと考えています。
この点、共通テスト問題の検討を始めたばかりのときに少し言及したのですが、あまりにせっかちなやり方だったので、訳が分からないと思った人が多いと思います。

『とはずがたり』の政治的意味(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bb6604fe41c778bbff02b322540603e
後深草院二条の「非実在説」は実在するのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9863995b7a09d6bb043ea13b0ef337b2
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「被害者としての女性史」の限界

2022-02-26 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月26日(土)11時56分23秒

1997年に開設し、2015年まで存続していた私の旧サイト「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」は、今は「インターネット・アーカイブ」で読むことができます。


『とはずがたり』関係の参考文献は2001年までに収集したものなので、約二十年前の研究状況が凍結保存されている形ですが、今回、早稲田大学教授・田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)で最近の研究状況を確認したところ、率直に言ってあまり進展はないですね。

参考文献:『とはずがたり』

私にとって全くの新知識は、「物語との近接では、たとえば『小夜衣』は『とはずがたり』と共通する表現を多数有しており、『小夜衣』の作者は雅忠女かという説もある」(p45)との指摘くらいで、注を見ると、これは梅野きみ子氏「『小夜衣』の成立とその作者像─『とはずがたり』に注目して」(『小夜衣全釈 研究・資料編』風間書房、2001)という論文だそうです。
『小夜衣』は名前すら知らなかったので、少し調べてみようと思います。

『小夜衣全釈 研究・資料篇』

ところで、田渕氏は「五 君寵と女房」において、

-------
 『とはずがたり』がどれほど物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれようとも、その中心を貫くのは、雅忠女のこうした無念さ、それにつきるように思う。そしてそれは、院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する言でもあると思われる。


と書かれていますが(p49)、結局は二条は「被害者」なのだ、『とはずがたり』は「当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する」悲劇なのだ、という思い込みが田渕氏の限界であり、そして『とはずがたり』を扱う国文学研究者の共通の限界なのかなと私は感じます。
更にそれはフェミニズム的な「被害者としての女性史」の限界でもありますが、『とはずがたり』は本当に悲劇なのかを正面から問うことによって「被害者としての女性史」の限界を突破し、「加害者としての女性史」を開拓することができるのではないか、というのが私の展望です。

>筆綾丸さん
>『とはずがたり』より百年以上前に、『とりかへばや物語』という、すこぶる変態的な作品が書かれていて、この物語に関する著書もある河合隼雄氏

旧サイトでも河合隼雄・富岡多恵子氏の対談「キャリアウーマンの自己主張」(『物語をものがたる-河合隼雄対談集』、小学館、1994)を載せておきました。


『とはずがたり』の基本的性格について、河合氏は「この物語は虚構も入っているけれども、そうとう事実を書いて」いるという立場で、富岡氏も「事実をベースにしていると思います、ほとんど」と同意していますね。
河合氏がそのように考える根拠は明確ではありませんが、「嵯峨の離宮で、後深草院と弟の亀山院と二条の三人で二夜を過ごす話」や「伏見の離宮で、五十男の近衛大殿と関係させられ」る話などに興奮している様子を見ると、結局はエロ話の「リアル」さに魂を奪われてしまった、ということだろうと思います。
河合氏も「赤裸々莫迦」タイプ、即ち作中の出来事が変態的であればあるほど、登場人物が変質者であればあるほど、作者の描写が赤裸々であればあるほど「リアル」に感じる人の一人ですね。

『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)
「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者
『とはずがたり』の何が歴史学者を狂わせるのか。
「有明の月」考(その5)─「赤裸々莫迦」タイプではない次田香澄氏
『とはずがたり』の妄想誘発力

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

雑感 2022/02/25(金) 16:34:48
小太郎さん
https://www.gex-fp.co.jp/fish/blog/labo/product-development/gex-lab-20200502/
鳥の海のような汽水湖に棲息する魚は、海水と淡水の浸透圧の差をどのように調節しているのか、昔から興味があるものの、依然としてわからないままです(現在では、既に科学的に解明されているのかもしれませんが)。

『とはずがたり』より百年以上前に、『とりかへばや物語』という、すこぶる変態的な作品が書かれていて、この物語に関する著書もある河合隼雄氏は、自己言及の矛盾を突いて、真面目な話になると、きまって、私はウソしか申しません、と言っていたそうですが、『鎌倉殿の13人』を見ていて、三谷幸喜氏のモットーは、ボクはウソしか言いません、という自己言及的なシャレではないかな、と思うようになりました。

蛇足1
元俳優のゼレンスキー大統領の悲愴な姿を見ていて、信玄の死後、信玄の影武者が信玄以上に信玄的になる『影武者』(黒澤明)を思い出しました。
蛇足2
https://www.nhk.jp/p/ts/3J3Z1P6NY5/
本日の『雲霧仁左衛門5』の第7回「大奥の抜け道」では、火付盗賊改(悪党)が三つ鱗の紋服を着ていて、なるほど、これは『鎌倉殿の13人』の北条氏への嫌がらせなんだね、と思いました。時代考証は近世史が専門の故・山本博文氏ですが。
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宮城往復弾丸紀行

2022-02-25 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月25日(金)10時03分25秒

二日投稿を休んでしまいましたが、宮城県に直接出向かなければならない用事があって、23・24日と弾丸往復して来ました。
日本海側は大雪とのニュースがあったので、往路は念のため北関東自動車道・常磐自動車道を利用したところ、沿岸部は本当に雪が全くなくて、関東の平野部と同じような感覚でした。
距離的には北関東自動車道の東側、栃木都賀JCTから友部JCTまでの70キロメートル弱ほど長くなりますが、とにかく雪の影響がないので快適ですね。
日立中央PAから眺めた海は全くの春の雰囲気で、ひねもすのたりのたり感が漂っていました。
ただ、常磐道は日立近辺のトンネル連続区間がなんだか陰気な上、福島県に入ると若干天気が怪しくなり、四倉PAあたりから少し雪が舞い始め、意外と大変かもと思ったのですが、その後は晴れたり曇ったりという感じでした。
東日本大震災後、突貫工事で全通させた常磐道のいわき・亘理間には対面通行区間がけっこうあって、一応70キロ制限ですが、実際には100キロくらい出している車が多く、ちょっと恐いですね。
ほんの少し接触するだけでも大事故間違いなしです。
途中、山元ICで降りて、阿武隈川河口の内海状になった汽水湖・鳥の海の周りを、南側の吉田排水機場から北側の「わたり温泉鳥の海」まで、ぐるっと一周してみましたが、冬枯れの寂しい光景が続いていました。
鳥の海は何だかずいぶん浅くなってしまったような感じがしましたが、単に私が干潮時の鳥の海を知らなかっただけかもしれません。
日程に余裕がなかったので、結局、沿岸部で寄ったのは鳥之海だけでした。
復路は東北自動車道を使いましたが、蔵王付近は雪雲に覆われていたものの、高速道は綺麗に除雪されていて拍子抜けなほどでした。
それでも国見SAあたりは雪捨て場の雪が山のようになってしましたが、吾妻PAより南は雪がほんの僅か残っているだけで、少し高度がある那須高原SAも雪は殆ど皆無であり、これだったら往路も東北道にすればよかったなと思ったりしました。
今回は本当に忙しい日程でしたが、夏までにもう何回か訪問するかもしれないので、その時は久しぶりに三陸方面にも行こうかなと思っています。

鳥の海
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%B5%B7
わたり温泉鳥の海
http://www.torinoumi.com/
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その9)

2022-02-22 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月22日(火)21時28分20秒

いよいよ最後の部分です。(p49以下)
田渕氏も二条が美貌(自称)と教養を武器に、東国の最高権力者相手であっても堂々と振る舞い、全国各地を漫遊した活動力溢れる女性であることを認めてはいますが、どうにもその評価はしみったれていますね。

-------
 そうした無念さを通奏低音としつつも、『とはずがたり』の最大の魅力は、自ら出家して宮廷外の世界にはばたいた作者雅忠女の自由な精神とひたむきな活力にあることも、また確かである。『とはずがたり』巻四・五には断片的に書かれるのみだが、恐らく宮廷での知己や元女房たちのネットワークを縦横に駆使し、自身の知識や教養を地方の人々に伝えつつ、自ら自在に、時には誰かの命を帯びて(鎌倉下向はそうであっただろう)、はるかな国々を巡った。その果てに後深草院と邂逅して絆を繋ぎ直し、やがては院の死を悲痛に描き、再び院の分身的存在となって院の後生をひたすら祈り、『とはずがたり』は後深草院と自身の鎮魂の物語へとまとめ上げられていくのである。

 『とはずがたり』は、実に鮮やかに、女房の生涯、存在形態、意識、女房メディア、文化的役割などを語っている。女房は、宮廷社会の中で、その一員でありつつ、宮廷やその時代などを照らし出す存在となる。王権に密着し、王の分身ともなるが、時に疎外される枠外的存在である。強い家門意識をもつが、時に家からも疎外される。光があたる存在ともなり、光に寄り沿う黒子的存在ともなり、無名の影ともなる。主君に従う者でもあり、時に主君を導く者でもある。女房は、当事者であり、観察者・表現者であり、宮廷文化を共有・継承・運搬・伝達し、歴史と宮廷を語り伝え、やがては女房自身が語られる存在ともなる。
 宮廷女房文学としての『とはずがたり』には、こうした女房のすべてが流れ込み、混淆して奏でられる交響楽のような作品であると言えよう。
-------

「光に寄り沿う黒子的存在」というのは、おそらく『増鏡』巻十一「さしぐし」に描かれた、

-------
出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相中将の女、大納言の子にし給ふとぞ聞えし。二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9323efa6ef04bb9fc49ec314813ddc23

という場面のことかと思いますが、この場面の理解は『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で決定的な重要性を持ちますね。
さて、以上で田渕論文の紹介を終えましたが、田渕氏は『とはずがたり』に虚構が極めて多いことを認めつつも、『とはずがたり』が「女房日記」であるという立場は頑なに死守されておられます。
他方、私自身は、『とはずがたり』のストーリーを年表に落とすと史実との間に矛盾がやたらと生じること、また、二条は弘安二年(1279)に死去した祖父・隆親の死亡時期を、『とはずがたり』では後ろに四年もずらして弘安六年(1283)の出来事のように記すこと、そしてその際、実際には死んでもいない叔父・四条隆顕も既に死んでいるように書いていることなど、肉親の死ですら平然と捏造するタフな神経の持ち主であること等から、『とはずがたり』は話を面白くするためには叔父でも殺す、徹底した自伝風小説だと考えています。

善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb7aa8e0d799f8d99bd2b7bf1a7f17a3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/384ce32a71c0e831d5d007c2d0967bfb
四条隆顕の女子は吉田定房室
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/018001665f2510c0b5e3f3363a6afb19
四条隆顕室は吉田経長の従姉妹
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25a8703d016d35481d7f649f76bf941c
『とはずがたり』の年立
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6079737ab58dac888693cb1fbe18e06d
『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5850662f4868da45f2944b72d381680
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5064aea36de872d899518e542010599f

従って、私のチベットスナギツネのような目は、ある種の滑稽感とともに田渕氏の頑固さをじっと眺めているのですが、しかし、自伝風小説というのが、古代・中世の女房文学の中で、他に類例のない特異なジャンルであることも確かです。
そこで、旧サイト(『後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について)時代の私のように『とはずがたり』を語る国文学者たちを一方的に冷笑するだけでなく、私の立場を積極的に支持してもらえるように工夫する必要があると感じています。
そのためには何をすべきか。
やはり私としては、作者が『とはずがたり』のような奇妙な自伝風小説を書いた動機をきちんと論証すべきではないか、と考えます。
この点、旧サイト時代の私には答えられない謎だったのですが、今の私は二条を西国の公家社会と東国の武家社会を自由に往還した政治的人間として捉えていて、その立場から一応の解答を提示できるのではないかと思っています。
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その8)

2022-02-22 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月22日(火)12時41分47秒

前回投稿で「東三条院」は「東二条院」の誤植、と書いてしまいましたが、活版印刷で植字工が誤った活字を組んでしまうようなことは遥か昔の話ですから、「誤植」も死語になりつつあるのでしょうか。
『歴史評論』も、論文の著者がパソコンで作成したデータを編集者に送付する形になっていると思いますので、途中での誤変換は考えにくく、田渕氏自身が「東三条院」と書いたということですかね。
ま、それはともかく、続きです。
再び「東三条院」が登場しますね。(p48)

-------
 後深草院の正后東三条院【ママ】と並んで『とはずがたり』に多く登場する東御方(愔子)は、左大臣洞院実雄女、のちの玄輝門院である。後深草院後宮では妃に準ずる地位を与えられ、その寵愛は長く続き、熈仁親王のほか、性仁法親王(二品・御室)、久子内親王(永陽門院)を生む。熈仁は建治元(一二七五)年に親王宣下を受け、後宇多天皇の東宮となり、弘安一〇(一二八七)年、践祚して伏見天皇となった。
 東御方(愔子・玄輝門院)が国母・女院という最高の地位に至ったのに対して、雅忠女は、正応元(一二八八)年には前述の如く、愔子所生の伏見天皇に入内する 鏱子に供奉する一女房であった。家柄・出自としては、東御方と雅忠女にさほどの隔たりはなく、後深草院の寵愛も一時は並ぶような二人であったのに、それは遠い昔のこととなった。こうしたことは宮廷ではしばしばあることとはいえ、玄輝門院の栄華や昔の記憶は、二条を深く苦しめたに違いない。それがまさしく「他の家の繁昌、傍輩の昇進を聞く度に、心を痛ましめずといふことなければ」にあたるとみられる。
-------

いったん、ここで切ります。
「家柄・出自としては、東御方と雅忠女にさほどの隔たりはなく」とありますが、『とはずがたり』において、二条は東二条院とは犬猿の仲であったのに対し、東の御方とはとても仲が良かったように描かれています。
例えば巻二の「粥杖事件」では、

-------
 女房の方にはいと堪へがたかりしことは、あまりにわが御身ひとつならず、近習の男たちを召しあつめて、女房たちを打たせさせおはしましたるを、ねたきことなりとて、東の御方と申しあはせて、十八日には御所を打ち参らせんといふことを談議して、十八日に、つとめての供御はつるほどに、台盤所に女房たち寄り合ひて、御湯殿の上のくちには新大納言殿・権中納言、あらはに別当殿、つねの御所のなかには中納言どの、馬道に真清水さぶらふなどを立ておきて、東の御方と二人、すゑの一間にて何となき物語して、「一定、御所はここへ出でさせおはしましなん」といひて待ち参らするに、案にもたがはず、思し召しよらぬ御ことなれば、御大口ばかりにて、「など、これほど常の御所には人影もせぬぞ。ここには誰か候ふぞ」とて入らせおはしましたるを、東の御方かきいだき参らす。
 「あなかなしや、人やある、人やある」と仰せらるれども、きと参る人もなし。からうじて、廂に師親の大納言が参らんとするをば、馬道に候ふ真清水、「子細候ふ。通し参らずまじ」とて杖を持ちたるを見て、逃げなどするほどに、思ふさまに打ち参らせぬ。「これよりのち、ながく人して打たせじ」と、よくよく御怠状せさせ給ひぬ。

http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

という具合いに、東の御方が後深草院を羽交い絞めにして動けないようにした隙に、二条が後深草院の尻を粥杖で思い切りひっぱたいた、というような情景が描かれていて、二条と東の御方は、いわば女子プロレス仲間のような円満な関係ですね。
ところで、「後深草院の寵愛も一時は並ぶような二人であったのに」に付された注(10)を見ると、

-------
(10) 文永一一(一二七四)年、皇位継承への不満から、後深草院が太上天皇の尊号を返上し出家の意志を示す場面(巻一)で、お供して出家する人として「「女房には東の御方、二条」とあそばれしかば」とは記されている。
-------

とありますが、史実としては、後深草院が出家の意志表示をしたのは翌文永一二年(建治元年、1275)ですね。
ま、『とはずがたり』を信頼する田渕氏にとって、そんな「虚構」はどうでも良いことなのでしょうが。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2651b481c314a2b6206e8bb2a6a2f80
『とはずがたり』に描かれた後院別当の花山院通雅
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe672068d6739278f7b411ecbde2fe35

さて、続きです。

-------
 二条は、後深草院から性助法親王、鷹司兼平、亀山院に何らかの契機や目的で贈与される女房であり、その自分を『とはずがたり』にあえて描く。しかし持明院統と大覚寺統の厳しい緊張関係に身をおき、日々その対立を知る二条にとって、王命に従う以外、ほかにどんな道があったろうか。その不可抗力への嘆きがあるからこそ、性助法親王を、『源氏物語』で熱愛の末に身を破滅させた柏木に象って、物語的に描くのであろう。宮廷における自分の位置を顧みた時、それは前掲のように、「人目にも、「こはいかに」などおぼゆる御もてなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかども」という、苦い真実の追認となる。
 『とはずがたり』がどれほど物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれようとも、その中心を貫くのは、雅忠女のこうした無念さ、それにつきるように思う。そしてそれは、院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たちの悲哀を象徴する言でもあると思われる。
-------

「二条は、後深草院から性助法親王、鷹司兼平、亀山院に何らかの契機や目的で贈与される女房」とありますが、『とはずがたり』には「有明の月」「近衛の大殿」が登場しているだけで、それが本当に性助法親王・鷹司兼平なのかは不明です。
しかし、田渕氏は、『とはずがたり』以外に裏づけとなる史料が存在しないにもかかわらず、「有明の月」「近衛の大殿」が歴史的に実在する人物と一致するものと断定されている訳ですね。
また、田渕氏は「しかし持明院統と大覚寺統の厳しい緊張関係に身をおき、日々その対立を知る二条にとって、王命に従う以外、ほかにどんな道があったろうか」と問われますが、例えば、「王命」に逆らって御所を出奔し、行方不明になって醍醐あたりに籠もる「道」もあったでしょうね。
そして、「院などの権力者に一時は寵幸されても、やがては寵愛を失った後を生きねばならない、当時の無数の宮廷女房たち」も確かに存在したでしょうが、出家後の二条は京都を離れて全国各地を旅行し、例えば霜月騒動後の恐怖政治の下にあった鎌倉でも、最高権力者である平頼綱やその奥方、息子の飯沼助宗らと楽しく交流していたようなので、二条を「当時の無数の宮廷女房たち」と一緒にしてよいのか、私は疑問を感じます。
とにかく、『とはずがたり』には「物語的に、時には虚構を綯い交ぜにして描かれ」ている部分が多すぎるので、何故に田渕氏が、『とはずがたり』を他の「女房日記」と同じ範疇に入れるのか、私には本当に不思議に思われます。
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その7)

2022-02-21 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月21日(月)20時49分34秒

『とはずがたり』の巻四・巻五に計四か所、奇妙な「書き入れ」があることは、『とはずがたり』の基本的性格が「女房日記」か、それとも自伝風小説かを考える上で、私にはけっこう大事なことのように思われますが、巻五に二箇所だけと誤解されている田渕氏は、さほど重視はされていないようですね。
さて、続きです。(p47以下)

-------
 『とはずがたり』には円環的で周到な表現構造があり、最終的には作者の構想によって全体が整除されまとめられたと思うが、その母胎となった草稿は、長年にわたる、多様で断片的な記の集成であったのではないか。そうしたものがなければ、かくも長年にわたる出来事・生涯を回想した女房日記が書けるはずはない。平安・鎌倉期にもそれ以後も、女房の手元には、宮廷女房生活で必要な、日々の記録や覚書、公事・雅宴等の記録や別記など、そして公私の和歌の詠草や消息などが、常に保存・蓄積されていたに違いないのである。これは回想的な女房日記全般について言えることであるが、こうした草稿群から選ばれて推敲と編集を重ねた結果が、現『とはずがたり』に近いものではないか。脱落や流動も考えられる。一方ではすべてが事実ではなく、物語を象った表現、意図的な虚構やずらし、韜晦もある。旅の記も記録的な紀行文ではなく、虚構や説話が織り交ぜられている。
-------

田渕氏の基本的姿勢として、田渕氏は『とはずがたり』が他の「女房日記」と類似する部分を強調する傾向が強いですね。
ただ、日々の記録を淡々と記すのではなく、「円環的で周到な表現構造があり、最終的には作者の構想によって全体が整除されまとめられ」ていて、「すべてが事実ではなく、物語を象った表現、意図的な虚構やずらし、韜晦も」あり、「虚構や説話が織り交ぜられている」のであれば、仮に「女房日記」だとしても、他の「女房日記」とは相当に異質な要素を持っていそうです。
以上で第四節は終わり、第五節に入ります。(p48)

-----
  五 君寵と女房

 二条が後深草院御所から追われて約九年後、伏見の御所で後深草院に再会する(巻四)。そこで二条は、出家後においても、以下のように思ったことを告白している。

  思はざるほかに別れたてまつりて、いたづらに多くの年月を送り迎ふる
  にも、御幸・臨幸に参り会ふ折々は、いにしへを思ふ涙も袂をうるほし、
  叙位・除目を聞く、他の家の繁昌、傍輩の昇進を聞く度に、心を痛まし
  めずといふことなければ、……

 今は出家して諸国を旅する身だが、叙位・除目などの情報は常に入手し、宮廷社会の動向を見、栄達した人と我が身を比べては嘆いていたことが窺われる。そして院と別れた後、次の如く反芻する。巻四最後に近い部分である。

  昔より何事もうち絶えて、人目にも、「こはいかに」などおぼゆる御も
  てなしもなく、「これこそ」など言ふべき思ひ出でははべらざりしかど
  も、御心一つには、何とやらむ、あはれはかかる御気のせさせおはしま
  したりしぞかしなど、過ぎにし方も今さらにて、何となく忘れがたくぞ
  はべる。

 巻一・二では、自分が院の寵愛のもとで光輝ある女房であったことをさまざまに語る。しかしそれは一時的なもので、恐らくは生んだ皇子の夭折が決定的に影響して、結局は格別な恩顧は得られなかったことを、自ら総括している。長く続く寵幸と庇護、つまり宮廷で確固たる地位を与えられなかったことは、雅忠女を深く傷つけていたのではないか。
 『とはずがたり』巻一で、東三条院【ママ】が二条のふるまいを非難する書状を送ってきた時、後深草院は二条を擁護する長文の返事を送ったと、作者は語っている。その中で後深草院は、雅忠の遺言等にも触れて二条を自分が庇護すべきことを強調し、たとえ二条に何か問題があったとしても、「御所を出だし、行く方知らずなどは候ふまじければ、女官風情にても召し使ひ候はむずるに候ふ」と述べたと言う。下級の「女官風情」という語がここにあることは興味深い。名門の誇り高い上臈女房二条でも、庇護する家や後援者がいなければ、転落は常に起こり得たのである。しかし院は、雅忠への約束もこの言葉も守らなかった。
-------

「東三条院」は「東二条院」の誤植ですね。
「女官風情」云々は共通テストに出題された前斎宮の場面のすぐ後に登場するので、既に検討済みです。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90bda963c57f8875742701d1706e30d0

-------
 いふかひなき北面の下臈ふぜいの者などに、ひとつなる振舞などばし候ふ、などいふ事の候ふやらん。さやうにも候はば、こまかに承り候ひて、はからひ沙汰し候ふべく候ふ。さりといふとも、御所を出だし、行方知らずなどは候ふまじければ、女官ふぜいにても、召し使ひ候はんずるに候。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4257b903593a74e6a65e4e6b7a759ec6

後深草院がここまで一方的に二条に加担し、東二条院への配慮を欠いた手紙を出せば大変なトラブルに発展するはずなので、『とはずがたり』のような個性的な作品以外の堅実な史料から窺える、万事に慎重な後深草院の性格からすれば、私にはこれが史実とは思えません。
しかし、田渕氏は「しかし院は、雅忠への約束もこの言葉も守らなかった」と書かれているので、「雅忠への約束」と二条への約束はいずれも事実だと考えておられるようですね。
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その6)

2022-02-21 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月21日(月)13時26分34秒

初登場の「有明の月」がいきなり二条に恋の告白をする場面、私訳も紹介しておきます。

-------
【私訳】このようにして三月のころともなると、例の後白河院の法華八講の法会である。六条殿の長講堂は、今は焼けてないので、正親町の長講堂で行われた。結願の十三日に後深草院が長講堂へ行かれた留守に、御所へおいでになった方(有明の月)があった。
「御帰りをお待ちいたしましょう」
と、そのままお待ちなさるということで、二棟の廊の間においでになる。
 私が参ってお目にかかり、
「間もなくお帰りになりましょう」
などと申して帰ろうとすると、
「暫くここにいなさい」
とおっしゃるので、何の御用とも分からないけれども、いいかげんなことを言って逃げてよいようなお人柄ではないので、控えていると、とりとめのない昔話の中で、
「(お父上の)故大納言が常々言っておられたことも、忘れずに思っています」
などおっしゃられるのも懐かしい気持ちがして、のどかに向かい合っていると、何であろうか、思いのほかのことを仰せ出されて、
「御仏も心汚いお勤めと思召すだろうと思う」
などと言われるのを聞くにつけても、心外で不思議であるので、何となく誤魔化して立ち去ろうとする袖をさえ押さえて、
「どんな暇にでも逢おうと、せめて約束してくれ」
とおっしゃって、本当に偽りではなさそうに見えるお袖の涙も面倒に思われたところ、院の還御とのことで騒がしくなったので、無理に引き放し申し上げた。
 思いがけないことながら、不思議な夢だったとでもいおうか、などと思いながら控えていると、院とその方が御対面となって、
「久しぶりのお出でですので」
などといってお酒をお勧めになる、その御給仕を勤めるにつけても、私の心の中を誰が知ろうかと、まことに面白かった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e1719453aaac1081484c38f6e51ea6d0

ちょっと細かくなりますが、『とはずがたり』の時間の流れは史実に照らすと変なことが多いものの、この場面の後、四月に長講堂の移徙の場面があって、ここは文永十二年(建治元年、1275)の出来事と考えて不自然ではありません。
六条殿の持仏堂である長講堂は、文永十年(1273)十月十二日の大火で、六条殿・六条院・佐女牛若宮八幡宮等とともに焼失します。
ただ、持明院統の経済的基盤である荘園群が長講堂領と呼ばれたように、長講堂は極めて重要な寺院なので、六条殿・長講堂は直ぐに再建が図られ、文永十二年四月十三日、後深草院が六条殿に移徙を行い、二十三日には長講堂供養が行なわれます。
その直前、四月九日に後深草院は尊号・兵仗辞退のデモンストレーションをしているので、たまたま時期が重なったとはいえ、長講堂の再建は持明院統の存在を幕府に強くアピールする効果はあったでしょうね。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ebab1bb42cfef633d3ce368957b101c4

ま、私は「有明の月」が実在の人物であったかすら疑っていますが、この種の背景へのこだわりは『とはずがたり』のリアリティを支える一要素になっていますね。

「有明の月」は実在の人物なのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3127914da2ef6d6d1afc9ce61dbbbaec
三角洋一氏「『とはずがたり』解説」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aaa7e7742a8e1ddff22a595b8c51460c

さて、田渕論文に戻ると、北山准后九十賀の場面で「このほかのをば、別に記し置く」とあるのは次の場面です。
ここも詳しく論じ始めるとキリがないので、紹介のみに止めます。

『とはずがたり』に描かれた北山准后(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a32dba8750f9eb39107c72bfc964ef0a

また、田渕氏は「自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である」と言われますが、『とはずがたり』の巻三は弘安八年(1285)の北山准后九十賀で終わっていて、巻四は正応二年(1289)に始まるので、この間、丸々三年間の記事が欠落しています。
出家時の記述だけが何かの理由で「不自然」に欠落している訳ではないので、「不自然」と主張されるなら、むしろ三年分の欠落をそう呼ぶべきではないかと私は考えます。
なお、この回想は石清水八幡で後深草院と再開する場面に出て来て、これは前後の記事との関係から正応四年(1291)二月頃の話とされています。

http://web.archive.org/web/20150909225511/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-15-iwashimizu.htm

ところで、田渕氏は「八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある」とされますが、この種の「書き入れ」は二箇所ではなく、巻四の一箇所を含め、合計四か所ですね。
最初は巻四で、正応二年(1289)、鎌倉で新将軍・久明親王を迎える準備をしていた平頼綱とその奥方に、適切なアドバイスをしたあげた後、

-------
 やうやう年の暮にもなりゆけば、今年は善光寺のあらましも、かなはでやみぬと口惜しきに、小町殿の、これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて。のほるにのみおぼえて過ぎ行に、飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数奇者といふ名ありしゆへにや、若林の二郎左衛門といふ者を使ひにて、度々呼びて、継歌などすべきよし、ねんごろに申しかば【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4cb5a86407251620006b276ecee01602

とあって、「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」が「書き入れ」部分です。
次に巻五で、嘉元二年(1304)、後深草院の発病を知った二条が西園寺実兼に頼んで院を見舞う場面に、「本のまま。ここより紙を切られて候。おぼつかなし。紙の切れたる所より写す」という「書き入れ」があります。

http://web.archive.org/web/20150909222841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-8-gofukakusain-hatubyo.htm

三番目は後深草院崩御の後、九月十五日から東山双林寺で懺法を始めた場面に、

-------
 かり聖やといひて、料紙・水迎へさせに横川へ遣はすに、東坂本へ行きて、われは日吉へ参りしかば、むばにて侍りし者は、この御社にて神恩をかうぶりけるとて、常に参りしに具せられては、 ここよりまた刀にて切りてとられ候。かへすがへすおぼつかなし。【後略】
-------

とあって(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p404以下)、「ここよりまた刀にて切りてとられ候。かへすがへすおぼつかなし」が「書き入れ」です。
そして四番目は、全五巻の最後、「跋文」に、「本云 ここよりまた刀して切られて候。おぼつかなう、いかなることにかとおぼえて候」という「書き入れ」があります。

http://web.archive.org/web/20081224002017/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa5-19-batubun.htm

田渕氏は「八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり」と言われますが、ちょっと理解しにくい書き方ですね。
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その5)

2022-02-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月20日(日)22時21分37秒

田渕氏は「また、「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない」と言われますが、これはちょっと不可解な記述で、田渕氏の誤解ではないかと思われます。
まず、「一昨年の春三月十三日に」云々とある部分は「女楽事件」で御所を出奔した二条が、再び醍醐の真願房のもとに行く場面に出てきます。
「女楽事件」から始めると話が長くなってしまいますが、それを話さないと訳が分からないので簡単に説明すると、建治三年(1277)三月、後深草院が『源氏物語』の六条院の女楽の真似をする行事を企画し、二条は「明石の上」という冴えない役を演ずることになります。
それだけでも不満なのに、この頃、晩年の娘「今参り」を贔屓するようになっていた二条の祖父・四条隆親が、行事の最中、二条が「今参り」の下座になるように位置の変更を要求し、屈辱を感じた二条は御所を飛び出し、行方不明になってしまいます。
ちなみに、この時、二条は後深草院の子を妊娠していて、三・四ヵ月くらいなのだそうで、子供を産んだら出家しよう、などとも考えます。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その3)─「隆親の女の今参り」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その4)─「こは何ごとぞ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06ffd2d11e2bc080d6e41548fd343d5d
『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その5)─「宣陽門院の伊予殿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f06418db732477905db11318c567bd30

そして二条は、何でこんなことになってしまったのだろう、と思案し、その原因を「有明の月」に求めます。

-------
 つくづくと案ずれば、一昨年の春、三月十三日に、はじめて「折らでは過ぎじ」とかや承り初めしに、去年の十二月にや、おびたたしき誓ひの文を賜はりて、幾ほども過ぎぬに、今年の三月十三日に、年月候ひなれぬる御所のうちをも住みうかれ、琵琶をも長く思ひ捨て、大納言かくれて後は親ざまに思ひつる兵部卿も、快からず思ひて、「わが申したることをとがめて出づるほどのものは、わが一期にはよも参り侍らじ」など申さるると聞けば、道とぢめぬる心地して、いかなりけることぞといと恐ろしくぞ覚えし。

【私訳】つくづくと思えば、一昨年の春、三月十三日に、有明から初めて「折らでは過ぎじ」という言葉があったが、去年の十二月には恐ろしい起請文のお手紙をいただいて、いくらも過ぎないうちに、今年の三月十三日、長い年月仕え慣れた御所からも出てしまい、琵琶をも一生思い切り、父大納言が亡くなってからは親のように思っていた兵部卿(隆親)も私を快からず思って、「私が申したことを咎めて出て行った者ですから、私の生きている間は、よもや御所には参りますまい」などと申されていると聞けば、どこも道が途絶えたような心地がして、いったいどうしたことだったろうと、まことに恐ろしく思われた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e60ac8d996034d4f856ce01740b32b8f

つまり、「一昨年の春、三月十三日」に仁和寺御室の「有明の月」(九条道家男の開田准后法助説と後深草院の異母弟の性助法親王説あり。田渕氏を含む国文学者の多くは後者)から唐突に恋の告白を受け、ちょうど二年後の「今年の三月十三日」に御所出奔という事態になったのだから、全ては「有明の月」が悪いのだ、ということですね。
ここで「有明の月」との関係を中心に少し整理すると、二条は正嘉二年(1258)生まれなので建治三年(1277)には二十歳です。
ただ、文永十年(1273)二月、十六歳のときに後深草院皇子を生み、同年末に愛人の「雪の曙」の子を妊娠して、翌文永十一年九月にその女児を産んでいるので、既に妊娠も三回目ですね。
また、「雪の曙」との間に女児が生まれた翌月には前年生んだ後深草院皇子が死去し、二条は出家行脚を思ったとありますので、出家を思い立つのもこれが二度目です。
そして建治元年(1275)三月十三日、「有明の月」が二条に言い寄ってくるのですが、このときは拒否します。
次いで同年九月、後深草院が病気となり、延命供の祈禱のために御所に来た「有明の月」と二条は関係を持ち、その後も文通を重ねるのですが、建治二年九月、「有明の月」のしつこさが嫌になって絶交を通告すると、三ヵ月後に「有明の月」から不気味な起請文が贈られてきます。
これが「おびたたしき誓ひの文」のことですね。
ということで、後深草院二条は建治三年(1277)には二十歳に過ぎませんが、既に妊娠は三回目、子供は二人(皇子は既に死去)、夫が一人で愛人二人、出家希望も二度目となかなか人生経験は豊富です。
さて、「一昨年の春、三月十三日」の様子は次の通りです。

------
 かくて三月の頃にもなりぬるに、例の後白河院御八講にてあるに、六条殿長講堂はなければ、正親町の長講堂にて行はる。結願十三日に御幸なりぬる間に、御参りある人あり。「還御待ち参らすべし」とて候はせ給ふ。二棟の廊に御わたりあり。
 参りて見参に入りて、「還御は早くなり侍らん」など申して、帰らんとすれば、「しばしそれへ候へ」と仰せらるれば、何の御用ともおぼえねども、そぞろき逃ぐべき御人柄ならねば、候ふに、何となき御昔語り、「故大納言が常に申し侍りしことも、忘れず思し召さるる」など仰せらるるも、なつかしきやうにて、のどのどとうち向ひ参らせたるに、何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして、「仏も心きたなき勤めとや思し召すらんと思ふ」とかや承るも、思はずに不思議なれば、何となくまぎらかして立ち退かんとする袖をさへ控へて、「いかなるひまとだに、せめてはたのめよ」とて、まことにいつはりならず見ゆる御袖の涙もむつかしきに、還御とてひしめけば、引き放ちまゐらせぬ。
 思はずながら、不思議なりつる夢とやいはんなど覚えてゐたるに、御対面ありて、「久しかりけるに」などとて九献すすめ申さるる、御配膳をつとむるにも、心の中を人や知らんといとをかし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e1719453aaac1081484c38f6e51ea6d0

少し長くなったので説明は次の投稿で行いますが、「何とやらん思ひの外なることを仰せられ出だして」とあるので、初対面の高僧「有明の月」がいきなり二条に恋心を告白したことは明らかです。
そして、これを受けて二条は二年後に、「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」と言っている訳で、「思ひの外なること」と曖昧だった「有明の月」の発言が、具体的には「折らでは過ぎじ」だったと判明する訳ですね。
ただ、発言のおおよその内容は既に明らかなので、田渕氏のように「こうした記述は当該箇所にみられない」と言うのは変です。
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その4)

2022-02-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月20日(日)12時22分7秒

『増鏡』で「久我大納言雅忠の女」が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く」場面、「こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難」いのは確かですが、そもそも女房名が気にくわないみたいな、当人以外にはどうでも良いような話が何故に『増鏡』に登場するのか。
「『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』」ですから、「三条」云々の記述が「『とはずがたり』の散逸した部分」に存在していた「可能性」は否定できません。
しかし、資料に書いてあるからといって、それらを何でもかんでも採用したら収拾がつかなくなりますから、『増鏡』作者は当然に個々の情報の重要性を勘案して、不要なものはバッサバッサと切り捨てたはずです。
それなのに、『増鏡』にはこんな当人以外にはどうでも良い、つまらない話が何故に採用されたのか。
ま、これは田渕氏に質問しても、納得できる回答は得られそうもない感じですね。
その他、田渕氏の見解には種々疑問が生じますが、まずは田渕説を一通り見ておくことにします。
ということで、続きです。(p47)

-------
 『とはずがたり』には巻一から巻五までのあちこちに、現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述が、断片的に見出される。例えば「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」(巻一)は、別に記したと明記している。また「一昨年の春三月十三日に、初めて「折らでは過ぎじ」とかやうけたまはり初めしに……」(巻二)は「有明の月」(性助法親王)から求愛された時のことを回顧するが、こうした記述は当該箇所にみられない。またこの少しあとに「雪の曙」が文中に現れるが、「雪の曙」西園寺実兼は、巻一冒頭から主要人物として登場しているのに、ここに唐突にこの名が出現している。また准后九十賀の歌会(巻三)で、後宇多天皇、亀山院、東宮らの歌を書き記したあと、「このほかのをば、別に記し置く」とあり、別に和歌をまとめて書き置いたことが記される。また自身の出家時のことを回想し、「一年今はと思ひ捨てし折、京極殿の局より参りたりしをこそ、この世の限りとは思ひしに……」(巻四)とあるが、出家時の記述は現存の『とはずがたり』にはなく、不自然である。さらに、八幡参籠と春日社写経奉納の場面(巻五)では、それぞれ文中に脱落があり、「本のまま、ここより紙を切られて候」というような書き入れがある。
-------

いったん、ここで切ります。
「むばたまの面影は別に記しはべれば、これには漏らしぬ」は、文永十年(1273)正月、十六歳になったばかりの二条の年頭所感として出てきます。
『とはずがたり』の出来事を年表にすると、前年の文永九年は本当に忙しい年で、まず正月に後嵯峨院が重態となり嵯峨に移ると、翌二月十五日、二月騒動で北条時宗の異母兄・六波羅南方の北条時輔が討たれ、二条は嵯峨から六波羅付近に立ち上る煙を見ます。
そして二日後の十七日に後嵯峨院崩御となり、葬送儀礼が続きます。
父・雅忠は出家を願うも許されず、五月に病気になって、六月には二条の第一子懐妊が分かり、七月、後深草院が雅忠を見舞うも、翌八月三日に雅忠死去。
十月、妊娠中の二条は乳母の家で「雪の曙」実兼と契り、同月、「母方のうば」が死去。
十一月末、二条は御所を退出、醍醐の勝倶胝院に籠もりますが、十二月二十日過ぎ、後深草院御幸があり、続いて「年の残りも、いま三日ばかり」の厳寒の時期、しかも吹雪の最中に「雪の曙」の来訪となり、「今日はぐらし九献にて暮れぬ」となります。
次いで乳母が迎えに来たので京に帰ると、年が明けます。
そして、十六歳になった二条は、

-------
よろづ世の中もはえなき年なれば、元旦・元三の雲の上もあいなく、私の袖の涙もあらたまり、やる方もなき年なり。春の初めにはいつしか参りつる神の社も、今年はかなはぬことなれば、門の外まで参りて、祈誓申しつる志より、むば玉の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ。

【次田香澄訳】すべて世の中も(諒聞で)晴々しくない年であるので、元日や三ガ日の宮中も味気なく、私自身の父の喪の悲しみも、新年とともに新たに思い出され、心の晴らしようもない年である。新春の初めにはいつもさっそくお参りしていた石清水八幡宮も、今年はそれがかなわないことであるから、門の外まで参って祈請申しあげた心の内をはじめ、夢想に見た面影については、別に記したのでここには書かない。

http://web.archive.org/web/20061006205728/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa1-25-yukinoakebonoraiho.htm

という感想を述べます。
「むば玉の面影は、別に記し侍ればこれにはもらしぬ」は、まるで多作の流行作家が、その話は『とはずがたり』とは別の作品に書いたからそちらを見てね、とでも言っているような感じがして、田渕氏の言われるように「現存の『とはずがたり』以外の部分の存在を示唆する記述」かどうか、私は疑問を感じます。
それにしても、正月にこの感想を述べた二条は、翌二月十日頃、後深草院の皇子を出産するので、前年末、醍醐に籠もって後深草院、次いで「雪の曙」を迎え、後者とは終日酒盛りをしていた、というのは妊娠八か月の出来事です。
十五歳の初産の女性が厳寒期に醍醐のような「山深き住まひ」に行くこと自体が相当に異常な話だと思いますが、そこに夫と愛人が相次いで訪問、後者とは終日酒盛りというのはなかなかシュールな展開です。
まあ、私は『とはずがたり』は自伝風の小説と考えているので、どんなに忙しいスケジュールだろうと、どんなにシュールな展開だろうと別に困らないのですが、田渕氏は、『とはずがたり』には多少の虚構が含まれるにしても、あくまで「女房日記」という立場ですから、これらも基本的には事実の記録とされるのでしょうね。

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是澤恭三氏(1894-1991)

2022-02-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月19日(土)21時11分52秒

>筆綾丸さん
>「それを続き具合も」

これは私の写し間違いかもしれないですね。
是澤氏のお名前で検索しても良い記事はなく、「インターネットアーカイブ」の私の記事の略歴が一番詳しいような感じもします。
ま、これは一般の検索ではヒットしませんが。


もう少し詳しいものがないかなと思って、『日本史研究者辞典』(吉川弘文館、1999)を見たところ、これには載っていました。

-------
是沢恭三(これさわ きょうぞう) 一八九四-一九九一。
文化庁文化財保護委員会美術工芸課書跡調査担当。
一八九四年(明治二七)一二月二六日、愛媛県西宇和郡神山村(現、八幡浜市)に生まれる。一九二〇年(大正九)、国学院大学文学部国史科卒業。二一年、宮内省図書寮に入り、編修官補、掌典補(兼任)、編修官を歴任。四七年(昭和二二)、国立博物館(現、東京国立博物館)に移る。五〇年、文部省文化財保護委員会美術工芸課書跡調査担当。六〇年、同定年退官。六六年、淑徳大学社会福祉学部教授。七〇年、同退職。一九九一年(平成三)二月九日没、九六歳。社寺の文化財調査や天皇宸翰調査を進めた。
《主要業績》『重要文化財会津塔寺八幡宮長帳』(心清水八幡神社、一九五八)、『見ぬ世の友』(出光美術館、一九七三)
《追悼文》山本信吉「是沢恭三氏の訃」(『日本歴史』五一五、一九九一)
------

終戦の前年、「紀元二千六百年奉祝会」が出版した超豪華本、『宸翰英華』の「宸翰英華編纂出版事業経過概要」には、大勢の「委員」の一人として「宮内省図書寮御用掛 是沢恭三」の名がありますが、この経歴からすると、是沢氏は同事業にも相当深く関わっているような感じがしますね。

「宸翰英華編纂出版事業経過概要」

>姫の前は堀田真由。
私の長澤まさみ、ナレーターと二役説は穿ち過ぎでした。

『鎌倉殿の13人』における「姫の前」の不在

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「鼠と麒麟の足跡」 2022/02/19(土) 14:14:07
小太郎さん
道草ばかりで恐縮ですが。
ご引用の是澤恭三氏の文に、伏見天皇の仮名書きは自らの書流で、
「道風や行成のものは、ちくちくしたり、鼠の足跡の様であるが、それを続き具合も美しく如何にも豊潤で気品高雅である。」
とあります。
(注:「それを続き具合も」は、「その継ぎ具合も」か、「それを継ぎ、具合も」か、「仮名の続き具合」か、意味不明)

ちくちくして鼠の足跡のような字体を継承して発展させると、なぜ、美しく豊潤で気品高雅な字体、たとえば、麒麟の足跡のように凛とした字体になれるのか、ギャップがありすぎて、ほとんど理解不能です。
小松茂美『天皇の書』を見ると、伏見院の仮名書きは後鳥羽院の仮名書きに似ているように思われる。後鳥羽院のほうが格段に能筆ですが。

蛇足
姫の前は堀田真由。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1730f65565fb22ffe3963d8d879e167ce109430d
 
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その3)

2022-02-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月19日(土)19時26分43秒

北山准后九十賀は『とはずがたり』『増鏡』その他の史料を詳しく比較検討して行くと面白いことが多くて、私も以前、それなりに熱心に取り組んでみたのですが、今から振り返ると、些か袋小路に踏み込んでしまっていたようなところもなきにしもあらずです。
関連する投稿を紹介すると、それだけで大変な分量となってしまうので、興味を持たれた方は次の記事のリンク先などを見てください。

再々考:遊義門院と後宇多院の関係について(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4430da70243b52e83f21cd81a5269698

ということで、続きです。(p46)

-------
 また阿部泰郎は、『とはずがたり』が、作者の父系・母系それぞれの栄光ある先祖、すなわち源通親の『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』で描かれた王の死の記を象り、また四条隆房の『艶詞』の小督の物語を、また九十賀記は『安元御賀記』を意識していることを指摘する。『とはずがたり』全体に、前述の自家の歌業への誇りに留まらず、家門意識が網の目の如く張り巡らされているのであろう。
-------

私は独特の玄妙な言い回しを多用される阿部泰郎氏(名古屋大学名誉教授、龍谷大学教授)とは相性が悪くて、阿部氏の言われることにはあまり賛成できないのですが、ここは一般論としては別に間違いというほどのこともないでしょうね。
さて、この後、『増鏡』との関係が論じられます。

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 『とはずがたり』は上皇の間近にいた女房による女房メディアの宮廷史であり、ゆえに『増鏡』に流れ込む。たとえば、平安期の『栄花物語』(巻八・初花)には、『紫式部日記』冒頭から敦成親王誕生記事がそのままの順序で長大に取り入れられていること等から、『栄花物語』は多数の女房日記・記録を吸収して編集されたと考えられている。つまりは女房メディアそのものである。これと同様に、『増鏡』が資料として吸収する日記の一つが『とはずがたり』である。ゆえに『増鏡』には、『とはずがたり』作者の姿が相対化されて描きこまれることにもなる。『増鏡』では、雅忠女は「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」(第九・草枕)、「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」(第一〇・老の波)と記されるだけで、上皇に仕える女という位置以外の私的な面は一切捨象されている。
 また、『増鏡』(第一一・さしぐし)には、正応元(一二八八)年、東御方所生の伏見天皇に入内する西園寺実兼女の鏱子(後の永福門院)に、女房として奉仕する雅忠女が見える。「出車十両、(中略)二の車、左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからいことに嘆き給へど、みな人先立ちてつき給へれば、あきたるままとぞ慰められ給ひける」とあり、三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿が描かれる。この記事は現存の『とはずがたり』にはないが、こうした無名の一女房の感懐を記すものは女房日記以外には考え難く、『とはずがたり』の散逸した部分である可能性が高いであろう。さらには、憶測であるが、この『増鏡』の入内記事の一部は、現存しない『とはずがたり』に拠ったものかもしれない。
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『増鏡』巻九「草枕」で二条が「なにがしの大納言の女、御身近く召し使ふ人」として登場する場面は共通テストに出題された箇所ですね。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ecc12b5a152b7d3fb1102feb83c0ef62

巻十「老の波」で「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」が登場する箇所は、

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 弥生の末つ方、持明院殿の花盛りに、新院わたり給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、ほかの桜さへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部・殿上人いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきてさぶらひあへり。わざとならぬ袖口ども押し出だされて、心ことにひきつくろはる。
 寝殿の母屋〔もや〕に御座〔おまし〕対座にまうけられたるを、新院いらせ給ひて、「故院の御時、定めおかれし上は、今更にやは」とて、長押〔なげし〕の下へひきさげさせ給ふ程に、本院出で給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座〔おまし〕をおろさるる、いと異様に侍り」など、聞え給ふ程、いと面白し。むべむべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。
 御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀〔しろがね〕の御杯〔つき〕、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9da95b5daaaca1845c2e80637a4ee1d1

というもので、なかなか華麗な場面ですね。
ここも『とはずがたり』が大幅に「引用」されていますが、文章は『増鏡』の方が上品な雰囲気になっています。
想定されている時期の設定なども違っていますね。

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3faeb9774d463811233cc87be00af5b7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/960f629a5cc08b7f21f6c03ef780b260
「持明院殿」考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1c595d9d93557b3eac348bef3fe41821

巻十一「さしぐし」で二条が「三条という女房名に屈辱を感じて嘆く姿」が描かれた箇所は『とはずがたり』と『増鏡』の関係を考える上で非常に重要なので、別途詳しく検討します。

「御賀次第」の作者・花山院家教
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/82c86694ff4f2a83c124ac891a4bcca5
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その2)

2022-02-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月19日(土)11時43分35秒

田渕句美子氏の学位は「お茶の水女子大学 博士(人文科学)」だそうですから、略称は「お茶の水博士」なのでしょうか。
国文学研究資料館を経て2008年から早稲田大学教授で、2020年には『女房文学史論 ―王朝から中世へ』(岩波書店)で第42回角川源義賞を受賞されており、女房文学については現在の国文学界の研究水準を体現されている方と言ってよいでしょうね。

早稲田大学研究者データベース
第42回角川源義賞【文学研究部門】受賞

さて、第四節には『とはずがたり』と『増鏡』の関係についての言及もあるので、冒頭から丁寧に見て行くことにします。(p44以下)

-------
  四 記録する女房

 女房日記は、宮廷の行事等を記録するという役割と機能をもつ。しかし『とはずがたり』は、中世女房日記としては稀なことに、宮廷の公的な諸行事についての記録が少なく、私的な出来事の記述が大半を占める。巻一から巻三の女房生活で儀式等を淡々と記録しているのは、東二条院の姫宮(後の遊義門院)御産の記事だけで、分量的にも多くはない。しかし作者は東二条院の女房でもあり、御産の記事を記すのは女房日記の重要な役割であり、一面では当然あるべき記述とも言える。
-------

いったん、ここで切ります。
東二条院が姫宮(遊義門院)を生んだのは文永七年(1270)九月十八日ですが、『とはずがたり』は文永八年八月の出来事としており、一年と一ヵ月ずれています。

『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面

そして、『増鏡』にも『とはずがたり』の記述を若干簡略化した記事が載っています。
なお、『増鏡』でその誕生が詳細に描かれるのは、大宮院(1225-92)が生んだ後深草院(1243-1304)と、大宮院の妹、東二条院(1232-1304)が生んだ遊義門院(1270-1307)の二人だけですね。

「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生

続きです。

-------
 巻三で、後深草院御所から追放された後に、大宮院から懇請されて北山准后九十賀に女房として加わる。『とはずがたり』はここで突然、九十賀を記録する長大な叙述(巻三の四分の一を占める)に変わる。これは鎌倉中期を代表する盛儀であるが、作者二条は祝賀を記録する女房に転身したかのようである。この記述の中で、「よろづあぢきなきほどにぞはべりし」「いつまで草のあぢきなく見渡さる」「かきくらす心の中は」「憂き身はいつもとおぼえて」など、華やかな祝宴への違和感をも記すが、それは『紫式部日記』などにもみられる筆致であり、基本的には記録的態度で叙述される。なお、『とはずがたり』は『実冬卿記』の別記『北山准后九十賀』を参照したとされてきたが、小川剛生により、これは「次第」(有識の公卿が作成してあらかじめ参列者に配るもの)に基づいて記しているからであり、「室礼や儀式の記述が、『とはずがたり』『実冬卿記』『実躬卿記』『宗冬卿記』の四者でしばしば近似するのは、同一の次第に取材していることにかかり、互いに依拠関係があったのではない」ことが論証されている。このような北山准后九十賀の記は、『とはずがたり』の中でやや異質に見えるが、これを包含していることこそが、女房の文化的役割の多様性、女房日記の複層性を示すものであろう。
-------

北山准后・四条貞子(1196-1302)は後深草院二条の母方の祖父・四条隆親の同母姉で、西園寺実氏室となり、大宮院・東二条院を産んだ女性です。
彼女は百七歳という驚異的な長寿の人ですが、九十歳の祝賀行事をしてもらったのは弘安八年(1285)のことですね。

「序章 北山の准后 貞子の回想」(その1)(その2)

『とはずがたり』には、北山准后九十賀の様子がうんざりするほど詳細に描かれています。
また、『増鏡』にも長大な記事がありますが、こちらは『増鏡』の中でも単一エピソードとしては最長の記事ですね。
私は以前、『とはずがたり』と『増鏡』の北山准后九十賀の記事を比較してあれこれ検討したことがあるのですが、『とはずがたり』の記事そのものを確認するためには旧サイトの「原文を見る-『とはずがたり』」が便利かと思います。
ま、これも途中までですが。


>筆綾丸さん
是澤恭三は亀山院の書風について、

-------
 つぎに大覚寺統の亀山天皇は、はじめは弘誓院教家の風を学ばれ、ついで世尊寺流を学ばれた。教家は後京極流の祖である良経の子で、良経の弟左大臣良輔に養われて子となり、大納言、皇后宮大夫などになつている。実父良経と並んで能書の聞えが高かつた。入木抄にもそのことが見えているが、書風は法性寺流の余風であると評されている。天皇は御兄の後深草天皇とは異つて御性格も俊敏溌剌としておられ、文藻に長じ材芸に富まれて、修業も進んでその書風も法性寺、弘誓院、あるいは世尊寺の風体から脱せられ、よほど闊達な一流を出されているのである。南禅寺蔵の禅林禅寺起願文案(挿43)は永仁七年(1299)の染筆で、正本は焼失して案文の方のみ残つたのである。しかもこれも下辺が焼損じて漸く火難を免れたものである。禅林禅寺というのは、のちの南禅寺のことで天皇落飾後これを離宮とせられ、ついで禅院とされたのである。この起願文案には右に述べた御性格が明かに察せられる。


などと言われていますね。
良く言えば自由闊達、悪く言えば我儘な書風ということでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2022/02/18(金) 23:06:04
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E3%82%81%E3%81%A5%E3%82%8B%E5%A7%AB%E5%90%9B
亀山院の書は、虫めづる姫君ではないけれど、
昆虫(たとえば、カミキリムシ)の触覚みたいな字で、
散らし書きには見られぬ、昆虫標本のような整然とした
味わいがありますね。
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田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(その1)

2022-02-18 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月18日(金)20時55分36秒

それでは少し視点を変え、共通テストから離れて、国文学界における『とはずがたり』研究の最新状況を確認しておきたいと思います。
検討の素材としては、昨年二月、『歴史評論』850号に掲載された早稲田大学教授・田渕句美子氏の「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」を用いることにします。
『歴史評論』は歴史学界において一貫して「科学運動」の中枢を担ってきた歴史科学協議会の機関誌で、同会は「現代における帝国主義的歴史観に対決する人民の立場に立つ」(定款第2条1号)硬派の団体ですから、『歴史評論』にもあまり中世文学、特に女房文学などに関する論文は載りません。
その点、850号の田渕論文を含む「特集/女房イメージ」は、『歴史評論』らしくない、といったら少し失礼かもしれない斬新な企画ですね。

『歴史評論』2021年2月号(第850)
特集/女房イメージをひろげる “Reimagining the Nyōbō (female attendant)”
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/magazine/contents/kakonomokuji/850.html

さて、田渕論文は、

-------
一 女房、女房文学、女房日記
二 宮廷和歌・歌壇と女房
三 物語の制作と享受
四 記録する女房
五 君寵と女房
-------

と構成されていますが、『増鏡』との関係を中心に検討したいので、第一節・第二節は省略します。
「三 物語の制作と享受」に入ると、

-------
 『とはずがたり』が『源氏物語』の圧倒的な影響下にあることは、多くの指摘がある。表現は勿論、人物造型においても、『源氏物語』中の人物たちが二重写しにされて描かれる。『とはずがたり』は女房日記だがむしろ物語に近接し、多くの虚構や意図的操作、物語化を含み、その表現や手法は中世王朝物語(擬古物語)に多くを負っており、同じ文化的な渦の中にある。この具体相についても諸氏の論がある。オリジナリティを重んずる近代以降の小説からみると不思議でもあるが、『源氏物語』『狭衣物語』『夜の寝覚』等の王朝物語と、中世王朝物語は、表現、構造、手法等を夥しく共有しており、『とはずがたり』もその環の中にある。なかでも『源氏物語』は際だった磁力をもち、中世王朝物語や仮名日記に流入し、さまざまに語り変えられて増殖した。そして、女房日記の中でも物語に近い『うたたね』と『とはずがたり』は、日記の特質である一人称の語りを生かして、自身に『源氏物語』の紫上、女三宮、浮舟などを重ね合わせ、彼女たちの内面に入り込んだ視点を用いて、『源氏物語』を語り直す意図もあるとみられる。
-------

との指摘があります。(p44以下)
田渕氏は「『とはずがたり』は女房日記だがむしろ物語に近接し、多くの虚構や意図的操作、物語化を含」むとされますが、そんなに虚構が多ければ、『とはずがたり』は「女房日記」風の「物語」、「自伝風の小説」の可能性もありそうです。
いったい、「女房日記」と「物語」はどのように区別することができるのか。
この点、田渕氏は「日記の特質である一人称の語り」とも書かれていますが、一人称で書かれた作品の多くは「日記」であって「物語」ではないとしても、仮にある作品の作者が、一人称で書けば読者は「日記」だと思うだろうと予想して、そうした読者の錯覚を利用しようと画策したらどうなるのか。
田渕氏はそんなけしからぬことを考える女房は中世朝廷には存在しないという「性善説」に立たれているのでしょうが、私は疑り深い人間なので、そのような可能性を排除はしません。
ただ、私のような立場では、「自伝風の小説」を書く動機の説明が必要になるでしょうね。
ま、それはともかく、続きです。(p45)

-------
 物語との近接では、たとえば『小夜衣』は『とはずがたり』と共通する表現を多数有しており、『小夜衣』の作者は雅忠女かという説もある。尊経閣文庫蔵の白描絵巻『豊明絵草子』の詞書の文章も、『とはずがたり』と表現の共通が多いことから、『豊明絵草子』作者が雅忠女という説、『とはずがたり』が『豊明絵草子』から摂取した説、その逆を想定する説など、種々の推測がある。この当否は見極め難く、むしろこれらの類似性は、『とはずがたり』と『小夜衣』『豊明絵草子』ほか多くの中世王朝物語が、あえて共通する構造・表現を形象する文学であることを物語るであろう。物語の制作・享受は同じ集団・文化圏の人々によって担われ、集団性・共有性が強い。物語の作者は、平安・鎌倉期では宮廷女性が中心であり、第一に女子教育のため、また愉楽のために、物語を日常的に制作・享受する女房たちであった。これら物語の作者は、勅撰集とは異なって作者名は記名されない。『源氏物語』など著名な平安期物語以外は、物語の作者は不明であり、プライオリティの意識はなく、改作はその時代にあわせて積極的に行われる。そして殆どは散逸し、ごく一部しか残らない。女房日記も同様であり、実用的な記録を含め、一般に、その殆どは散逸したとみられる。
-------

うーむ。
「女房日記も同様であり」とありますが、散逸した作品が多いであろうことは「同様」だとしても、日記の「作者は不明」ではないですね。
『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』『讃岐典侍日記』『弁内侍日記』『十六夜日記』『中務内侍日記』『竹向きが記』等、全て誰が書いたかはっきりしており、他人が勝手に自分の名前を使って日記を書くことを許さないという意味では「プライオリティの意識」は認められ、「改作はその時代にあわせて積極的に行われる」などということもありません。
また、「物語の制作・享受は同じ集団・文化圏の人々によって担われ、集団性・共有性が強い」のは一応認められるとしても、この点をあまり強調すると、一定の集団に属する女性なら誰が書いても同じ、という話にもなりそうです。
しかし、例えば『とはずがたり』の前斎宮エピソードなど相当個性的で、誰でも書けるレベルの作品とは思えません。
田渕氏の見解には私は基本的に賛成できず、特に『とはずがたり』には当て嵌まらないように感じます。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その20)

2022-02-18 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月18日(金)13時34分9秒

改めて共通テストの設問を振り返ると、出題者の頭の中には、「過去の人物や出来事などを後の時代の人が書いた」「文学史では『歴史物語』と分類されて」いる『増鏡』が『とはずがたり』を一資料として利用している、という確固たる前提が存在していることが分かります。
もちろん、これは国文学界の常識です。
そして、この常識を前提とする限り、「文章Ⅰ」「文章Ⅱ」と区画された範囲で『増鏡』と『とはずがたり』を比較した場合、「当事者の視点から書かれた」『とはずがたり』の「臨場感」が失われている反面、『増鏡』は「当事者全員を俯瞰する立場から出来事の経緯を叙述」しており、「書き手の意識の違いによってそれぞれの文章に違いが生じている」という結論になります。
しかし、もう少し範囲を広げて『とはずがたり』と『増鏡』を比較してみると、『とはずがたり』と『増鏡』との関係は相当に複雑に入り組んでいて、『増鏡』が『とはずがたり』を一方的に利用したと考えるには些か不自然な個所が多いことは理解していただけたと思います。
さて、私のように『増鏡』巻九「草枕」が後深草院批判のプロパガンダだと考えると、当然に『増鏡』の作者と成立時期の問題に結びつきます。
通説のように二条良基(1320-88)が作者で、成立は十四世紀後半であれば、北朝(持明院統)に仕える二条良基が何故に持明院統の祖である後深草院を批判するのか、訳の分からない話になります。
ただ、『増鏡』の作者と成立年代という根本問題は共通テストとはあまりに離れてしまいますので、二十回続いたこのシリーズは一応終えて、改めてタイトルを変えて論じたいと思います。
ところで、今回、『増鏡』の前斎宮エピソードを読み直してみて、戦前の『増鏡』の通釈書において、「院」が亀山院だと解釈されていたことが本当に不思議に思えてきました。
巻九「草枕」では、冒頭に後宇多天皇践祚に触れた後、「かくて新院、二月七日御幸はじめせさせ給ふ」とあり、その後、「本院は故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。【中略】新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。」とあって、「新院」(亀山院)と「本院」(後深草院)を明確に書き分けています。


話題が後深草院の出家騒動に移っても、「新院は世をしろしめす事変らねば、よろづ御心のままに【中略】本院はなほいとあやしかりける御身の宿世を」という具合いに、「新院」「本院」の使い分けは明確です。


次いで熈仁親王立太子の話題になっても同様です。


そして、前斎宮エピソードに入ると、「十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり」とあるので、「女院」(大宮院)が「本院」(後深草院)を招待したことは明確です。


この後、

-------
 院はわれもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。
 上臈だつ女房、紫の匂五つに、裳ばかりひきかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語などよき程にて、故院の今はの比の御事など、あはれになつかしく聞え給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いとらうたげなり。をかしき様なる酒、御菓物、強飯などにて、今宵は果てぬ。


という具合いに、「本院」ではなく「院」という表現に変化しますが、それは既に「本院」であることを明示しているので、「院」で十分読者に分るからですね。
以後、前斎宮エピソードの全体を通して「院」の表記が続きますが、巻九の最後には亀山院に若宮が誕生したとの短い記事があって、そこには、

-------
 新院には一年近衛大殿<基平>の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞えつるを、この程、院号あり。新陽明門院とぞ聞ゆめる。建治二年の冬頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜など、いまめしく聞えて、御子もやがて親王の宣下などありき。


とありますから、前斎宮エピソードの「院」と区別されていることは明確です。
そして、前斎宮エピソードの中には、「女院」(大宮院)の「天子には父母なしと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」という発言に、同席した「人々」が、「「さうなる御事なりや」と人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ」という反応をしたという微妙な話がありますが、これも「院」が大宮院と極めて良好な関係にある亀山院では理解しにくいところです。
更に、「院」が再び前斎宮の寝所に忍び入った際には「いとささやかにおはする人」とあるので、「院」がとても小柄であることが分かります。
しかし、『増鏡』巻八「あすか川」には、内裏の火事に際して、「故院の御処分の入リたる御小唐櫃、なにくれの御宝」が保管されていた「御塗籠」の鍵が見つからずに騒ぎになっていたところ、亀山天皇が「さばかり強き戸」を蹴り倒した、という豪快なエピソードがあって、亀山院が「いとささやかにおはする人」とは思えません。


念のため和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)を確認したところ、こちらは増補本系なので「草まくら」は巻十一となっていますが、以上のようなポイントについては十七巻本の表現と同じなので、何故に「院」が亀山院と解釈されていたのか、不思議です。
まあ、『とはずがたり』の発見までは後深草院は非常に地味な存在であり、他方、亀山院は大変な子沢山である上、その好色エピソードは『増鏡』に多数載せられていて、特に「五条院」との関係は前斎宮エピソードに似ているため、前斎宮エピソードの「院」も亀山院に違いない、という先入観が生まれたのでしょうね。


>筆綾丸さん
>後嵯峨院ほどではないが、亀山院よりずっと能筆だ

『天皇の書』に掲載されている亀山院の「競馬臨時召合乗尻交名」は、気軽に書いたメモ程度のものなのでしょうが、それにしても妙に縦長で、一風変わった字ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

J'accuse 2022/02/17(木) 15:56:06
小太郎さん
仰るように、「後深草院は本当に駄目な我儘男なんですよ」という印象を与えたかったのだ、とすると、なぜあんなエロ話をしたのか、すとんと腹落ちしますね。
ドレフュス事件で、ゾラのJ'accuse (私は弾劾する)は歴史的な言葉になりましたが、私は後深草院を弾劾する、scherzando(戯れるように)、といったような感じです。

小松茂美『天皇の書』で、後深草院の書をあらためて見ると、後嵯峨院ほどではないが、亀山院よりずっと能筆だ、と思います。
これは嘉元二年(1304)正月朔日のもので、後深草院はこの年の七月十六日に崩御しているので、最後の年賀状ということになりますね。追善供養として紙背に写経したもので、古筆学では消息経と呼んでいるとか。
小松氏は、
「現存する後深草法皇の宸翰は、淡墨を一気呵成に走らせた、能筆である。書道史の展望においても、比類なき風情を湛える書風である。枯淡の中に凛たる品格の漂う書・・・」
と絶賛していて、確かに名君を思わせるような雄勁な字ですが、とすると、書は為人(人品骨柄)を表さない、騙されちゃダメよ、ということになりそうですね。
なお、何の関係もなく、また、他意もないのですが、後深草院の諱(久仁)は、このたび、名門筑波大附属高への入学が決まった親王の諱(悠仁)と同じ訓みですね。
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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その19)

2022-02-17 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 2月17日(木)12時28分43秒

『増鏡』では後深草院と前斎宮の二夜にわたる情事は建治元年(1275)の「十月ばかり」の出来事なので、それに続く前斎宮・西園寺実兼・二条師忠の三角関係のエピソードは建治二年(1276)以降の話となりそうです。
ただ、そうすると「幾程なくて」前斎宮が没したという弘安七年(1284)二月十五日まではけっこうな時間が流れていますが、これは西園寺実兼が「こと御腹の姫宮をさへ御子になどし給」い、財産分与なども行なってあげてから「幾程もなく」ということでしょうか。
また、二月十五日という日付も若干気になります。
これは釈迦の命日であって、『増鏡』の序文の冒頭は「二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつましさに、嵯峨の清凉寺にまうでて」云々で始まっています。
だから何なのだ、と言われればそれまでですが、わざわざ死去の日が記されている人物も『増鏡』全体の中では僅少で、特に歴史的に重要な人物でもない前斎宮についてここまで詳しく書くのは何故か、という疑問は残ります。
ま、それはともかく、巻九「草枕」は、ほんの少しだけ残っているので、一応紹介しておきます。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p233以下)

-------
 新院には一年〔ひととせ〕近衛大殿<基平>の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞えつるを、この程、院号あり。新陽明門院とぞ聞ゆめる。建治二年の冬頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜五夜七夜九夜など、いまめしく聞えて、御子もやがて親王の宣下などありき。


以上で『増鏡』巻九「草枕」の全文を紹介しましたが、巻九は鎌倉時代を公家の立場から概観した歴史物語である『増鏡』の中でも、かなり変な巻ですね。
そもそも全体の六割を占める前斎宮エピソードは分量的に相当にバランスが悪く、これ以上に長大なエピソードは巻十「老の波」の北山准后九十賀だけです。
西園寺実氏室で大宮院・東二条院の母である北山准后(1196-1302、百七歳)の九十歳を祝う行事は、分量的には前斎宮エピソードの倍近くあって、現代の読者にとってはうんざりするほど長い話ですが、まあ、こちらは公家社会の華やかな盛儀なので、それなりに歴史的重要性があるとの説明も可能です。
しかし、前斎宮エピソードには、どう見ても歴史的重要性は皆無です。
また、巻九「草枕」の前半は皇位継承をめぐる複雑な政治過程を描いているのに、後半の前斎宮エピソードは政治とは直接関係ない宮中秘話、要するにエロ話ですが、何故にこの二つが一つの巻にまとめられているのか。
しかも分量とタイトルから見て、後者の方に重点が置かれていますが、これは何故なのか。
私としては、この巻は後深草院がいかなる人物であるかを明らかにする目的があると考えることで、前半と後半を統一的に理解できるのではないかと思っています。
まず、前提として、『増鏡』は決して政治的に中立な書物ではなく、その立場は一貫して大覚寺統寄りです。

「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
第三回中間整理(その8)
新年のご挨拶(その4)

『増鏡』は文永九年(1272)に崩御した後嵯峨院の遺詔は亀山院の子孫を皇統と定めるものと明記していた、という立場ですが、これは史実ではありません。
史実としては、後嵯峨院の遺詔は財産分与を定めていただけです。
ただ、後嵯峨院の意向は、既に文永五年(1268)、亀山皇子の世仁親王(後宇多天皇)が生後僅か八カ月で皇太子として定められていたことで明らかだったともいえ、幕府は大宮院に後嵯峨院の遺志を確認した上で、皇統を亀山子孫とすることに同意したようです。
しかし、これに反発した後深草院は文永十二年(1275)四月に出家騒動を起こして幕府の仲介を要請し、結果的に熈仁親王(伏見天皇)の立坊という成果を得ます。
これは大覚寺統の立場から見れば許し難い幕府の専横であり、それを招いた後深草院の行動も、朝廷の基礎を揺るがし、後の皇統迭立の大混乱をもたらした身勝手な振る舞いです。
このような後深草院を『増鏡』巻九「草枕」はどのように描いているか。
まず、後深草院は(火災で焼失していたために現実には存在していない)六条院長講堂で「血写経」という陰気な仏事を行います。
この時、「御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらねど」(井上著、p193)ということで、後深草院は自分の行動が父・後嵯峨院の意向に背いていることを熟知していた、という前提です。
そして、出家騒動で幕府に仲介を求めた結果、北条時宗が「新院へも奏し、かなたこなたなごめ申して、東の御方の若宮を坊に奉りぬ」(同、p203)という事態となりますが、時宗の判断も「故院の御おきては、やうこそあらめなれど」(後嵯峨院の御遺詔は深いわけがあるだろうが)」ということで、ここでも熈仁親王の立坊は後嵯峨院の遺志に反していることが再確認されています。
そこで、大覚寺統寄りの『増鏡』としては、皇統の分裂という歴史的誤りを惹き起こした後深草院がいかに人間的に問題のある人物であるかを明らかにするために、まず、前斎宮との二夜の「草枕」の場面で、後深草院の「けしからぬ御本性」(同、p209)、即ち好色さと冷酷さを強調します。
そして、後深草院に冷たく捨てられた前斎宮を西園寺実兼が保護し、そこに二条師忠が滑稽な役回りで登場する、『とはずがたり』には存在しない三角関係のエピソードを追加することにより、立派な人格者である西園寺実兼との比較の上で、後深草院の冷酷さを改めて印象付けています。
要するに、持明院統の祖である後深草院は本当に駄目な我儘男なんですよ、という印象を読者に与えるのが『増鏡』作者の目的だ、というのが私の見方です。

>筆綾丸さん
>前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、

御指摘のように『源氏物語』の方は喜劇の要素がないので、私としては『増鏡』の作者にとって直接の参考にはならなかったのではないかと考えます。
この点、もう少し考えてから改めて論じるつもりです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「斎宮のあとさき」 2022/02/16(水) 16:52:48
https://hiroshinakamura.jp/nohnonomiya/
前斎宮のエピソードは、『源氏物語』「賢木巻」の野宮の段を踏まえたのだろう、と私は考えています。
六条御息所が、一人娘の斎宮とともに、伊勢下向前、嵯峨の野宮で精進潔斎しているところへ、光君が訪ねきて、一夜を明かします。二人の間にかつてのような実事はなく(たぶん)、光君と斎宮の間にも何もありません。
なお、この斎宮は六条御息所と前坊(廃太子)の娘で、伊勢から帰った後、冷泉帝(光君と藤壺中宮の不義の子)の女御になり、後世、秋好中宮と呼ばれます。
二条は、おそらく、この野宮の段を踏まえて、後深草院と前斎宮の話を創作したのだ思います。
『とはずがたり』の舞台は大宮院の嵯峨の御所、『源氏物語』の舞台は嵯峨の野宮、ともに嵯峨であり、さらに面白いのは、前者は伊勢から帰任した後の前斎宮、後者は伊勢へ下向する前の斎宮、もっと露骨に言えば、前者は神と通じた後のいわば経験者、後者は神に使える前の未通女、というあざやかなパロディになっていることです。
まるでキアロスクーロ(Chiaroscuro)の絵を見るような趣があります。内容的には、『源氏物語』の話は短調で悲劇的な暗、『とはずがたり』の話は長調で喜劇的な明、というコントラストになります。
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