学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「セックスワーク論」と「従軍慰安婦」問題

2018-06-12 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月12日(火)11時21分22秒

『中世の<遊女>─生業と身分』から前回投稿で引用した部分の続きを見ると、

-------
②セックスワーク論
 セックスワーク論は、こうした通説的な買売春論に対する批判として、セックスワーカー自身によって提起されたものである。その要点は、売春がセックスワーカーによって自発的かつ合理的に選択された労働(ワーク)であるとみなす点にあり、売春を特殊視することなく、他の労働と同じく「非犯罪化」することで、セックスワーカーたちは自らの労働環境や労働条件に関して主体的な働きかけを行なうことができると主張する。通説的な買売春批判の言説に見られるように、セックスワーカーを「犠牲者」「被害者」としてのみ扱い、売春の禁止や合法化・厳罰化を行なうことは、そこからはみ出るセックスワーカーたちを非合法な地位に追いやり、彼らの主張する権利を奪い、暴力と搾取にますますさらされやすくするという。
【中略】
 思想的には、主体の複数性を尊重するポストモダンフェミニズムの立場から、売春婦を無視・犠牲者視してきた近代的フェミニズムのあり方を批判したものと位置づけられる。
-------

ということで(p38)、あまり長く引用するのも悪いですから、この後の議論は、例えばウィキペディアの英語版などを参考にしてもらえばと思います。

https://en.wikipedia.org/wiki/Sex_worker

さて、問題は歴史学にとってのセックスワーク論の意義ですね。
辻氏は次のように整理されます。(p40以下)

-------
 歴史学における買売春史研究では、例えば曽根ひろみが比較的早期にセックスワーク論の提起を受け止め、「自由意思に基づく売春」を含めて売春社会の構造的把握を目指した。また藤目ゆきは、「公娼廃止・自由廃業が売淫の廃止や娼婦の真の救いになったかどうか」という視点から、「醜業婦」観に代表される廃娼運動の抑圧的性格を指摘し、これに対する当事者からの抵抗として、戦間期に娼妓・芸妓・女給などが労働条件改善を要求して起こした争議や、売春防止法に反対する赤線従業員組合の運動なども取り上げている。最近では特に遊女や売春婦の主体的行動が問題とされることが多く、セックスワーク論の影響を受けたものも散見される。近世史・近代史においては近年、都市社会構造論の文脈で、遊女屋のネットワークや関連業種の従属などを問題とする「遊郭社会論」が盛んに論じられているが、横山百合子はそれらの研究では遊女が商品として客体化され事実上意志を持たぬ存在と位置付けられているとして、ジェンダー視点の欠如を指摘した。横山は明治五年の芸娼妓解放令に関して、よりよい生存と「解放」を求める遊女の「意志と行動」が地域や国家政策に影響を与えていく様子を描いた。平井和子は、占領軍「慰安所」やパンパンの実態を解明する中でセックスワーク論に触れ、女性団体と売春女性間の分断が売春婦差別を支え、また当事者の必要と乖離した婦人保護政策を生み出してきたことを指摘している。山家悠平は、大正末から昭和初期にかけて遊郭の中の女性たち自身が遊郭内での生活改善を求めて行った告発や集団逃走、ストライキなどを分析し、それらの行動が当時の労働運動とつながっていることを示した。当事者側の視点から買売春史を捉える姿勢が定着しつつあるといえよう。
-------

これらの具体例を眺めていると、やはりいわゆる「従軍慰安婦」はセックスワーク論の観点からはどのように分析されるのだろうか、ということが気になってきます。
例えば2015年5月25日に出された「「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明」などを見ると、特に、

-------
 第二に、「慰安婦」とされた女性は、性奴隷として筆舌に尽くしがたい暴力を受けた。近年の歴史研究は、動員過程の強制性のみならず、動員された女性たちが、人権を蹂躙された性奴隷の状態に置かれていたことを明らかにしている。さらに、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配・差別構造との連関も指摘されている。たとえ性売買の契約があったとしても、その背後には不平等で不公正な構造が存在したのであり、かかる政治的・社会的背景を捨象することは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。

http://www.torekiken.org/trk/blog/oshirase/20150525.html

といった部分は旧来型フェミニズムの影響が強いような感じがします。
「従軍慰安婦」は国内において非常にセンシティブな政治問題であるだけでなく、深刻な国際的対立の火種になっているので、歴史研究者もうっかり口を挟んだらそれこそ研究者仲間から「村八分」にされかねませんから、セックスワーク論者もそれほど積極的に「従軍慰安婦」を論じてはいないのかもしれませんが、学問的には微妙な問題が多そうですね。
ま、「従軍慰安婦」を論じ始めたら様々な人が入り込んできて掲示板が荒れるのは目に見えているので、私も正直、あまり関わりたくないのですが、「「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明」については、その内容そのものではなく、各種新聞記事から想像される賛同者の人数合わせについて、若干の疑問を呈したことがあります。

歴史学関係16団体の会員数(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df012b722d5f4ee66ab90321bcee794b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e9a4003ebaa6f458652d405ffd28990
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43990331db93d705a1e8dfeb6e5435e9
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d511168f1d6bfe4d96c5503d84047dec
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1219c2c35c85e8f5ed46fc0e19a7220

「しんぶん赤旗」の2015年5月26日付記事によれば、

-------
 声明は、歴史学研究会、日本史研究会、歴史科学協議会、歴史教育者協議会などが呼びかけ、半年近い時間をかけて準備されてきました。現在16の団体から賛同が寄せられ、今後も賛同団体は増える予定です。
 歴史学研究会の久保亨委員長は「声明は立場をこえた多数の歴史家の標準的な考え方だ。政治家が『専門家の意見を聞く』というならば、この声明に耳を傾けるべきだ」と述べました。
 会見には、服藤早苗歴史科学協議会代表、丸浜昭歴史教育者協議会事務局長らが同席しました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-05-26/2015052601_04_1.html

とのことで、服藤早苗氏も「歴史科学協議会代表」としてご活躍されていたんですね。

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研究対象としての<服藤早苗>

2018-06-11 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月11日(月)09時37分25秒

>筆綾丸さん
>鈴木涼美氏への言及
『中世の<遊女>─生業と身分』の「序章 <遊女>を理解するために」は問題点が明確に整理されていて良いですね。
特に「第三節 本書の視角と課題」の「(二)買売春研究の動向」は至るところで、なるほどな、と思いました。
私が特に自分の無知を知らされたのは「②セックスワーク論」ですが、その基礎・前提として「①通説的買売春論」から少し引用してみます。(p37以下)

-------
【前略】バハオーフェンやエンゲルスの説は、売春を婚姻制度・社会構造の問題とみなすことで買売春史の地平を広げ、また売春の起源や売春婦への非難・差別を説明した点に意義を有する。一方で、既に触れたように、これらの説は、婚姻論・家族論として展開されるため、性(特に性交)を重視し、売春を婚姻・家族からの逸脱として特殊視する傾向にある。また、基本的な視座を男女の権力関係に置いているために売春や売春婦の実態にはさほど関心を向けない、といった傾向を有している。
 このように婚姻の側に立って売春・売春婦を特殊視し、売春の現場に目を向けないという傾向は、近代の買売春批判の言説に通底するものである。女性を「主婦」と「娼婦」に二分するエンゲルスらの枠組み自体、近代家族制度の影響下に置かれたものであるため、近代家族制度の枠組みに立って売春を批判し、否定する言説とは親和性を有している。赤川学によれば、日本では明治二〇年代頃になって、売春は通常の職業ではなく「醜業」であり、「買売春は悪いことだ」という観念が一般化する。以後、恋愛中心主義の立場からは売春が愛のない性交であって「女性の玩弄物視を招く」とされ、貞操観念を重視する立場からは「買売春が婚姻外性交だから悪い」、純潔教育の立場からは「性は人格の中心であり、それを金銭で売買することは人格を売買することと同じだ」といった非難が繰り返し主張されてきた。こうした買売春批判のレトリックは、フェミニズムにおける<性の商品化>批判にも流れ込んでいるのだが、そうした言説はそもそも売春を悪とする前提に立っているため、女性の自由意思による売春を認めず、女性が社会的弱者であることを強調して「本人が自由意思で選んだように見えるときでも、売春は実は何らかの強制の結果なのである」というレトリックをとるようになり、強制性や人身拘束・搾取状態を裏書きするような悲惨な事例が強調されるようになっているという。
 このように近代においては、学問上でも、社会運動上でも、買売春は婚姻の対立物とみなされ、逸脱したもの、非難されるべきものとして扱われてきたといえよう。
-------

歴史科学協議会の大幹部・女闘士である服藤早苗氏などはこうした旧来型フェミニズムを代表する歴史研究者といえそうですね。
「八世紀から十一世紀を主たる守備範囲とする」服藤氏は、久我家の位置づけなど基礎的な部分でも従来の国文学者の『とはずがたり』研究を鵜呑みにしており、遊女に関する部分は加賀元子氏の「『とはずがたり』における『遊女』」(『武庫川国文』42号、1993)という論文に全面的に依拠しています。
従って、服藤氏の『とはずがたり』論は『とはずがたり』自体の研究水準を高めるものではないのですが、旧来型フェミニズムの限界を考える上では非常に良い研究材料ですね。

「夏のバカンスの北欧旅行から帰国して」(by 服藤早苗氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1421478cb6ceddbfc75dcba9cb949a12

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2018/06/10(日) 15:00:03
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%9A%E6%9C%88%E8%A3%95%E5%AD%90
辻浩和氏『中世の遊女』を入手したものの、柚月裕子氏の検事物シリーズから抜け出せず、なかなか読めません。「あとがき」によれば、氏は隆慶一郎の『吉原御免状』や『かくれさと苦界行』を愛読されたようですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%B6%BC%E7%BE%8E
鈴木涼美氏への言及もありますが(40頁)、氏の著作も読もうかな、と考えています。
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「たいか島とて離れたる小島あり。遊女の世を逃れて、庵り並べて住まひたる所なり」

2018-06-09 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 9日(土)11時11分1秒

『古代・中世の芸能と買売春─遊行女婦から傾城へ』に戻って、服藤氏が『とはずがたり』の武蔵国岩淵宿に続き、備後国鞆浦の場面を検討する部分を引用します。(p191以下)

-------
 また、作者は、乾元二年(一三〇二)九月、安芸国厳島神社に参詣する。四十五歳である。その途中、備後国鞆浦(現・広島県福山市)に着く。「何となくにぎははしき宿とみゆるに、たいか(大可)島とて離れたる小島あり。遊女の世を逃れて、庵り並べて住まひたる所なり」と、かつての遊女たちが出家して仏に仕えて暮らしている島を尋ね、遊女になぜ発心したのかと聞く。もと遊女の尼は答える(巻五)。

  我はこの島の遊女の長者なり。あまた傾城を置きて、面々の顔ばせを営み、道行人を頼みて、とゞ
  まるを喜び、漕ぎ行くを嘆く。また、知らざる人に向かひても、千秋万歳を契り、花のもと、露の
  情けに、酔ひをすゝめるなどして、五十路に余り侍しほどに、宿縁やもよほしけん、有為の眠り一度
  覚めて、二度故郷へ帰らず、此島に行きて、朝な朝な花を摘みに、この山に登るわざをして、三世
  の仏に手向けてたてまつる。

  (この島の長者として多くの傾城に化粧をさせて売り物として、旅人を誘い、泊まってくれれば喜び、漕いで
  去っていくのを嘆いてきた。知らない人に向かって、千秋万歳(永遠)の契り(肉体関係)を持ち、花や
  露の風流を楽しみ、酔いを勧めるなどして、五十歳を越してしまいました。前世からの仏法の因縁に促さ
  れたのでしょうか、一度に迷いから覚め、この島で毎朝花を摘み三世の仏に花をたてまつっています。)

 仏教に帰依して後生を頼む遊女たちに出会ったのである。後に述べるが、作者二条は、自分の身は、客と共寝をし、そらごとのはかなき契りを結ぶことを生業とする遊女と同じ憂き身であると感じており、出家して静かに仏に帰依する尼たちを「うらやまし」と感想をのべている。
-------

服藤氏は「作者二条は、自分の身は、客と共寝をし、そらごとのはかなき契りを結ぶことを生業とする遊女と同じ憂き身であると感じて」いると書かれていて、ここで再び「互換性」テーゼが登場します。
私は、服藤氏が後深草院二条と遊女の行動を比較して、客観的にその行動パターンが類似しており、従って後深草院二条を含む女房一般と遊女に客観的な「互換性」があると主張されるならば、まだ多少は理解できない訳でもありません。
しかし、服藤氏は後深草院二条が主観的に自分が遊女と似ている、即ち「互換性」があると考えていると主張されるので、『とはずがたり』のどこを読めばそんなことが言えるのだろうかと不思議に思います。
そこで、服藤氏が「後に述べる」と言われている部分を見ると、第四章「第二節 傾城と好色」に次のような記述があります。(p212)

-------
 十三世紀末から十四世紀初頭のことを記した『とはずがたり』にも、傾城が散見される。『とはずがたり』の遊女や傾城については、加賀元子氏の研究があり〔一九九三〕、参照しつつ遊女や傾城についてみておきたい。近江国鏡宿には「遊女ども、契り求めてありくさま」とあり、美濃国赤坂宿には「宿の主に若き遊女姉妹あり」と遊女姉妹が主だった。さらに武蔵国岩淵宿にも「遊女どもの住みか」があり(以上、巻四)、備後国鞆浦たいか島には「遊女の世を逃れて、庵り並べて住まひたる所」があった(巻五)。また、白拍子女も出てきた。今様伝授のために伏見殿への後深草院の行幸があり、隆顕が連れてきた白拍子女姉妹が祝言の白拍子を舞った。これらの遊女たちに作者は自分の身とさほど変わらない境遇を重ね合わせ同情を寄せていることは、鞆浦のたいか島の出家した遊女長者の尼の所で述べた。
-------

ということで、「作者二条は、自分の身は、客と共寝をし、そらごとのはかなき契りを結ぶことを生業とする遊女と同じ憂き身であると感じて」いることを「後に述べる」とあったのでそれを探したところ、「これらの遊女たちに作者は自分の身とさほど変わらない境遇を重ね合わせ同情を寄せていることは、鞆浦のたいか島の出家した遊女長者の尼の所で述べた」とあるので、ちょっと驚いてしまいます。
なお、上記引用部分は『中務内侍日記』に「二位入道」(四条隆顕?)が登場することに触れた直後に出てきます。

『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5850662f4868da45f2944b72d381680
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5064aea36de872d899518e542010599f

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「四になりし長月廿日余りにや、仙洞に知られたてまつりて、御簡の列に連らなりて」

2018-06-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 8日(金)12時16分3秒

前回投稿で触れた「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」について、三角洋一氏は「これより」に付された注で、

-------
次行「ゆかしくて」までは書写者による注記。小書きか、二行割り注が通例なので、すでに親本にあったものを、本文と同じ大きさに写したと考えられる。底本「やられてし」の「し」と、「ゆかしくて」の「て」を「候」に改めるのがよいか。
-------

と書かれています。(岩波新古典大系、p182以下)
まあ、こう考えるのが素直なのでしょうが、『とはずがたり』の写本は宮内庁が保管する一冊しかないので、多くの写本を比較して伝来の経緯を考証し、原本の復元を試みることができません。
このような記述が『とはずがたり』全体で四カ所存在することは、欠落部分について読者の想像(ないし妄想)を掻きたてるとともに、非常にミステリアスな雰囲気を醸し出すので、私は著者自身がそれような効果を狙って書いた可能性を疑っているのですが、その証明は永遠に不可能ですね。
さて、後深草院二条が時の最高権力者・平頼綱の二男、「飯沼の新左衛門」こと飯沼助宗と遊びまわっていたことを記した後、岩淵宿の遊女が出てきます。

-------
 かやうの物隔たりたる有様、前には入間川とかや流れたる、向かへには岩淵の宿といひて、遊女どもの住みかあり。山といふ物はこの国の内には見えず、はるばるとある武蔵野の萱が下折れ、霜枯れ果ててある中を、分過ぎたる住まゐ、思ひやる都の隔たり行住まゐ、悲しさもあはれさも取り重ねたる年の暮れなり。
-------

ただ、ここでは二条は遊女について特に感想を述べるでもなく、直ぐに自分自身の回想に移ります。

-------
 つらつらいにしへをかへりみれば、二歳の年、母には別れければ、その面影も知らず。やうやう人となりて、四になりし長月廿日余りにや、仙洞に知られたてまつりて、御簡〔ふだ〕の列に連らなりてよりこの方、(かた)じけなく君の恩言をうけたまはりて、身を立つるはかりことをも知り、朝恩をもかぶりて、あまたの年月を経しかば、一門の光ともなりもやすると、心の内のあらましも、などか思ひ寄らざるべきなれども、棄てて無為に入る習ひ、定まれる世のことはりなれば、「妻子珍宝及王位、臨命終時不随者」、思ひ捨てにし憂き世ぞかしと思へども、馴れ来し宮の内も恋しく、折々の御情けも忘られたてまつらねば、事の便りには、まづ事問ふ袖の涙のみぞ、色深く侍。
 雪さへかきくらし降り積もれば、ながめの末さへ道絶え果つる心地して、ながめゐたるに、主の尼君が方より、「雪の内、いかに」と申たりしかば、
  思ひやれ憂きこと積もる白雪の跡なき庭に消えかへる身を
問うつらさの涙もろさも、人目あやしければ、忍びて、又年も返りぬ。軒端の梅に木伝ふ鶯の音に驚かされても、相見返らざる恨み忍びがたく、昔を思ふ涙は、改まる年とも言はず、降る物なり。
-------

二歳の年に母に別れたという話は『とはずがたり』の中で何度も繰り返し出てきて、しみじみとした雰囲気を醸し出すためのBGMみたいなものですね。
四歳になった年(弘長元年<1261>)に初めて後深草院の御所に参った云々も同様に繰り返し出てくる話ですが、巻三の御所追放の場面では「四と言ひける長月の頃より参り初めて」と、その時期が九月であることが明らかにされ(p151)、ここでは更に詳しく「四になりし長月廿日余りにや、仙洞に知られたてまつりて、御簡の列に連らなりて」と日付まで出てきます。
このように自身の過去への執着は著しいものの、その経験はあまりに特殊であるため、なかなか他人、特に田舎の遊女あたりと引き比べて、自分が遊女と同じような存在だ、などといった方向には進みそうもないですね。
服藤氏もここでは「互換性」テーゼの主張はされていません。
なお、後深草院二条が「飯沼の新左衛門」と遊びまわっていた時期は、弘安九年(1285)の霜月騒動の四年後です。
平頼綱と飯沼助宗は更に四年後の正応六年(1293)四月、北条貞時に滅ぼされるので(平禅門の乱)、平頼綱の支配のちょうど中間地点ですね。
『とはずがたり』で飯沼助宗が詳しく描かれるのは著者の個人的な経験の反映なので当然ですが、『増鏡』執筆の時点では既に政治的敗者であることが確定している人物であるにもかかわらず、飯沼助宗は『増鏡』にも登場し、

-------
飯沼の判官、とくさの狩衣、青毛の馬に金かなものの鞍置きて、随兵いかめしく召し具して、御輿のきはにうちたるも、都にたとへば、行幸にしかるべき大臣などのつかまつり給へるによそへぬべし。

http://web.archive.org/web/20150514084835/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/genbun-masu11-hisaakirashinno.htm

などと、なかなか華麗に描かれています。

霜月騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95
平禅門の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%A6%85%E9%96%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
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「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」

2018-06-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 7日(木)12時47分37秒

前回投稿で書いたことは別に服藤早苗氏に和歌を解する繊細さがないという批判ではありません。
赤坂での遊女との贈答歌は国文学者もあまり重視していないようで、『とはずがたり』の諸注釈書を見ても極めてあっさりした記述が多く、私が三角洋一氏の見解に抱いた疑問は今のところ私独自のもののようです。
ただ、改めて『とはずがたり』の当該場面を眺めてみると、ここは末尾の贈答歌を引き出すための一種の歌物語と考えるべきではないかと思います。
そして詞書に相当する本文はしみじみとした筆致で描かれていながら、肝心の贈答歌には特にしみじみした要素がないどころか、煙を上げている活火山の富士を素材にして「恋を駿河の山」などと駄洒落じみた言葉遊びもあり、しみじみとした本文とのバランスが悪いですね。
そもそも美濃国赤坂での贈答歌に富士山が登場するというのも妙な感じです。
まあ、歌物語と考えれば全ての疑問が解消する訳ではありませんが、私としてはこの場面もまずは文学作品として把握すべきであって、少なくともいきなりこれを事実の記録であるかのように扱うのには慎重であるべきだと考えます。
服藤氏にはそうした慎重さが感じられないので、そこは歴史研究者としての服藤氏の欠陥ではなかろうかと思います。
さて、『古代・中世の芸能と買売春─遊行女婦から傾城へ』に従って、もう少し『とはずがたり』の遊女関係の記事を見てみることにします。
同書の第四章第一節は、

1 東海道の遊女たち
2 淀川の遊女たち
3 諸国の遊女たち

に分かれていますが、先に紹介した「1 東海道の遊女たち」に続いて、「3 諸国の遊女たち」の冒頭に後深草院二条が再び登場します。(p191以下)

-------
 鎌倉時代になると、各地で遊女史料が出てくる。いくつかを提示してみよう。先述の『とはずがたり』の作者後深草院二条は、正応三年(一二九〇)鎌倉滞在中の二月、善光寺参詣の旅に出る。入間川(現荒川)の流れの対岸に「岩淵の宿といいて、遊女どもの住か有り」、と記している(巻四)。現在の東京都北区岩淵町である。
-------

服藤氏の岩淵宿についての説明はこれだけですが、『とはずがたり』の原文を見ると、この場面も前後とのバランスが悪い感じがする箇所ですね。
正応二年(1289)三月、鎌倉に入った二条は初めて本格的な武家社会に触れて新鮮な見聞を多々得たはずですが、『とはずがたり』には四月末頃から六月頃まで病気だったと書かれていて、特段の記事がありません。
八月に入り、土御門定実の縁者だという「小町殿」と歌の贈答をしたり八幡宮の放生会を見物したりしていると政情がいささか不穏となり、将軍の惟康親王が廃されて上洛することになって、二条はその様子をルポルタージュ風に詳細に記録します。
ついで後深草院皇子の久明親王が新将軍として東下することとなり、二条は「小町殿」経由で、東二条院から平頼綱の正室に贈られた衣装の仕立てについて助言するように頼まれ、断ると「相模守の文」、即ち北条貞時の手紙まで来たので「相模守の宿所の内にや、角殿とかやとぞ」言われている平頼綱の豪華な邸宅に行って、「御方とかや」呼ばれている女性に衣装についての適確な助言をしてあげます。
そして、「将軍の御所の御しつらい」についても助言を求められ、これに応じます。
ということで、東海道を従者一人で寂しく下ってきた一介の尼にしては、二条の交際範囲は鎌倉の最高権力者とその家族に及んでおり、『とはずがたり』に描かれたしみじみとした旅の描写も、実際には豪奢な大名旅行だったのではなかろうか、といった疑問も生じてきます。
ま、それはともかくとして、新将軍を迎える壮麗な行事で平頼綱の息子である「飯沼の新左衛門」が供奉する様子を見たりした後、年末になって、後深草院二条は武蔵国の川口に行くことになります。(岩波新日本古典体系、p183)

-------
 やうやう年の暮にもなりゆけば、今年は善光寺のあらましも、かなはでやみぬと口惜しきに、小町殿の、これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて。のほるにのみおぼえて過ぎ行に、飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数奇者といふ名ありしゆへにや、若林の二郎左衛門といふ者を使ひにて、度々呼びて、継歌などすべきよし、ねんごろに申しかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情けあるさまにて、度々寄り合ひて、連歌、歌など詠みて遊び侍しほどに、師走になりて、川越の入道と申物の跡なる尼の、「武蔵の国に川口といふ所へ下る。あれより、年返らば、善光寺へ参るべし」と言ふも、便りうれしき心地してまかりしかば、雪降り積もりて、分けゆく道も見えぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。
-------

ということで、長くなったので途中ですが、ここで切ります。
なお、「これより残りをば、刀にて破られてし。おぼつかなう、いかなる事にてかとゆかしくて」(ここから残りを小刀で切り取られています。気がかりで、そうしたことかと不審に思います)という奇妙な記述は書写者による注記で、このような記述が巻四にここ一箇所、巻五に三箇所の合計四箇所存在しています。
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「富士の嶺は恋を駿河の山なれば思ひありとぞ煙立つらん」(by 後深草院二条)

2018-06-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 7日(木)00時06分39秒

服藤早苗氏の『古代・中世の芸能と買売春─遊行女婦から傾城へ』(明石書店、2012)で後深草院二条が最初に登場するのは「第四章 鎌倉時代─傾城の登場と芸能・買売春」の「第一節 遊女・白拍子・傀儡女の変容」です。
服藤氏は「1 東海道の遊女たち」の「①近江国」において、飛鳥井雅有『春の深山路』の鏡宿の場面を紹介した後、

-------
 同じ頃、すでに尼姿になっていた後深草院二条が三十二歳のときに鎌倉に向けて旅をした際、鏡宿に泊っている(『とはずがたり』巻四)。

  暮るるほどなれば、遊女ども、契り求めてありくさま、憂かりける世の習ひかなと
  おぼえて、いと悲し。明け行鐘の音にすすめられて出で立つも、あはれに悲しきに、
    立ち寄りて見るとも知らじ鏡山心のうちに残る面影

 二条は、契りを求めて歩く遊女どもの姿を見て、世の習いとはいえ、つらいことであるよ、と感想を述べている。「立ち寄って映し出して見たとしても、鏡山は気づきはしないであろう。私の心の内に残る面影までは」と、未だ後深草院を慕っている気持ちを歌に詠む。後に述べるが、院の女房であった自分は、遊女・傾城と同じように男と共寝を繰り返す同じ境遇であると二条は述懐するのである。
-------

ということで(p175以下)、ここに早くも「院の女房であった自分は、遊女・傾城と同じように男と共寝を繰り返す同じ境遇」だと服藤氏特有の「互換性」テーゼが出てきます。
ただ、この場面の『とはずがたり』の原文を見る限りでは、別に二条は自分が遊女と compatible な存在だとは言っていないのではないかと思います。
遊女を見て「世の習いとはいえ、つらいことであるよ」とは言っていますが、二条はそれとは別に、「鏡山」という地名に触発されて、「心のうちに残る(後深草院の)面影」を映し出しているだけですね。
さて、次に「②美濃国」に入って再び『春の深山路』に触れた後で、

-------
 青墓宿の次に赤坂の宿とあるから、美濃赤坂宿である。飛鳥井雅有は休憩のみのようであるが、後深草院二条は「美濃の国、赤坂の宿」に着き、ここで泊っている(『とはずがたり』巻四)。現在の岐阜県大垣市赤坂町である。

  宿の主に若き遊女姉妹あり。琴、琵琶など弾きて、情けあるさまなれば、昔御思い
  出でらるる心地して、九献など取らせて遊ばするに、二人ある遊女の姉とおぼしき
  が、いみじく物思ふさまにて、琵琶の撥にてまぎらかせども、(中略)墨染めの色
  にはあらぬ袖の涙をあやしく思ひけるにや、盃据へたる小折敷に書きて、差しおこ
  せたる。

 二条が泊まった赤坂宿の主は、遊女姉妹だった。琴や琵琶などの芸能を聞いて、二条も琵琶をたしなんでいたので昔が思い出されて、九献(酒)をとらせて今様でも謡わせたのであろう。今様を謡うものの、歌詞が自分の身と重なりあい、涙をそっとぬぐった、という。二条もまた同じように感銘を受けている。女性客も遊女を主とする宿に泊ったのである。
-------

とあります。(p177)
「昔御思いでらるる心地して」は少し変なので、服藤氏が「基本文献」に挙げている三角洋一校注『とはずがたり たまきはる』(新日本古典文学大系、岩波書店、1994)を見ると、「昔思ひ出でらるゝ心地して」となっています。(p170)
ま、表記の異同はともかくとして、ここで自己敬語は変であり、「御」は単純な誤記ですね。
また、服藤氏が(中略)としている部分には、「涙がちなるも、身のたぐひにおぼえて目とゞまるに、これもまた」が入ります。
「二人ある遊女の姉とおぼしきが」以下を訳すと、

-------
二人の遊女のうち姉と思われる方が、たいそう物思いにふけっている様子で、琵琶の撥で紛らわせていても涙がちであるのも、私と同じような身の上と思われて目にとまるのに、私もまた墨染めの衣の色とは違う(紅の)涙の袖を、遊女の方も不審に思ったのか、盃を据えた小折敷に歌を書いてよこした、
-------

ということですね。
また、服藤氏は省略されていますが、上記引用部分の後には遊女と後深草院二条の歌のやり取りがあり、私はこの部分は非常に重要だと考えます。
三角洋一氏校注の岩波新古典体系本から引用してみると、

-------
  思ひ立つ心は何の色ぞとも富士の煙の末ぞゆかしき
いと思はずに、情けある心地して、
  富士の嶺は恋を駿河の山なれば思ひありとぞ煙立つらん
馴れぬる名残は、これまでも引き捨てがたき心地しながら、さのみあるべきならねば、又立ち出でぬ。
-------

ということで、三角洋一氏は遊女の歌について、

-------
出家して修行の旅に思い立たれたお心は、どういうご事情からかと、富士の煙の末ではありませんが、本末の詳しい訳をうかがいたく存じます。「思ひ」の「火」と「立つ」は「煙」の縁語。
-------

と解釈し、後深草院二条の返歌については、

-------
富士の山は恋をする駿河の国の山なので、物思いがあると言っては煙が立ち昇るのでしょう、私の物思いの訳はともかくとして。「恋をする」から「駿河」に言いつづける。
-------

と解釈されるのですが、「私の物思いの訳はともかくとして」は全く理解できません。
ここは素直に、どんな悩みがあって出家されたのかと聞かれたので、恋の悩みですよ、それも火山のような熱い恋でした、と答えたものと解すれば良いのではないですかね。
遊女の歌に「富士の煙」が出て来るので、遊女の方もあなたは恋に悩んでおられるのですね、と水を向けている訳で、二条がまさにその通りですと答えたことになり、恋の達人同士の遊び心に満ちた、非常に艶っぽい贈答歌です。
さて、少し戻って服藤氏が(中略)とした部分には「身のたぐひにおぼえて」(私と同じような身の上と思われて)という表現はありましたが、これも二人の贈答歌まで考慮すると、この人も過去に何かつらい恋の思い出があったのだろう、程度の意味と考えるべきではないかと思います。
少なくともここで、服藤氏特有のしみったれた「互換性」テーゼを思い起こす必要はなさそうです。
ま、服藤氏自身も、別にここで「互換性」云々と言われている訳ではありませんが。
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「夏のバカンスの北欧旅行から帰国して」(by 服藤早苗氏)

2018-06-06 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 6日(水)10時43分42秒

6月2日の投稿で、

-------
服藤早苗氏の『古代・中世の芸能と買売春─遊行女婦から傾城へ』(明石書店、2012)は、いかにも歴史科学協議会の女闘士らしいアクの強い文体で書かれていて、ちょっと読みづらいところがありますね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5850662f4868da45f2944b72d381680

などと書いてしまったのですが、これは「第四章 鎌倉時代─傾城の登場と芸能・買売春」に『とはずがたり』関係の夥しい記述があって、それを最初にささっと読んだためでした。
実際に冒頭から読んでみたら、同書はそれほど変でもないというか、失礼ながら意外に堅実な本でした。
「あとがき」の次のような記述もちょっと意外でした。(p289以下)

-------
 本書は、序章にも書いたように、三成美保氏と共同編集したジェンダー史叢書第一巻『権力と身体』に掲載された「日本における買売春の成立と変容─古代から中世へ」(明石書店)をもとに、他の関連論文もふまえ、古代から中世にかけての買売春の実相を、なるべく史料を提示しつつ一冊にまとめたものである。【中略】八世紀から十一世紀を主たる守備範囲とする筆者にとって、十二世紀から十六世紀の先行研究や史料収集、史料解読はなかなか困難で、重要な先行研究や史料を落としていたり、あるいは読みが大きくずれていることが多いのではないかと危惧している。また、中世後期の諸国を遊行しつつ売春も行う多様な職種の女性たちには、ほとんど手をつけることができなかった。一冊にまとめるのは時期尚早ではないか、との筆者自身の葛藤もあったが、思い切ってまとめることにした。
 その要因の一つは、若手の優秀な研究者である京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程後期の辻浩和氏から、私信で筆者論文にたいし懇切丁寧な、貴重なご批判をいただいたので、一刻も早く訂正したかったからである。目を通していたのに原稿枚数の制約のために抜かしてしまった大切な先行研究や史料、あるいは誤植や史料解釈のご指摘については、本書で手直しをさせていただいた。記して感謝申し上げたい。ところが、夏のバカンスの北欧旅行から帰国して徹夜で本書の再校に取り組んでいる最中に、京都の知人から辻氏の最新の遊女論文が出たこと、拙宅にも送っているはずだ、との連絡をいただいた。帰国後郵便物を整理する暇もなく再校を終え、この「あとがき」を書いているが、辻論文には、拙稿への批判も多々指摘されていると思われる。今までほとんどなかった古代・中世の遊女や買売春研究が進展するきざしを感じつつ、辻氏の最新の研究成果を生かすことができず、心からお詫びしたい。読者の方にはぜひ辻論文をお読みいただきたいと思う。
-------

殆ど辻浩和氏へのラブレターのようなこの「あとがき」の最後には「二〇一二年八月吉日」とあるので、「辻氏の最新の遊女論文」とは「中世前期における〈遊女〉の変容」(『部落問題研究』201、2012)か「中世前期「遊女」の組織とその支配」(『藝能史研究』198、2012)のことみたいですね。
さて、「八世紀から十一世紀を主たる守備範囲とする」服藤氏の見解に対しては、鎌倉時代に限っては私にも若干の意見がない訳でもないのですが、同書全体を通しての疑問となると、やはり「女房や女官、雑仕女たちが、遊女や白拍子女・辻子君と同様な性愛関係の実態があったゆえに互換性があった」に対する違和感に尽きます。
服藤氏はこの「互換性」を同書の中で繰り返し強調されるのですが、服藤氏自身は明言はされないものの、『とはずがたり』への夥しい言及に鑑みると、服藤氏がこのような認識を形成されるにあたっては『とはずがたり』の影響が強いようですね。
まあ、『とはずがたり』に描かれた世界は極めてアクが強いので、服藤氏のように女房と遊女に「互換性」があると考える読者が出てきても不思議ではないですね。

服藤早苗(1947生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E8%97%A4%E6%97%A9%E8%8B%97

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「女工所の内侍、馬には乗るべしとて」(by 中務内侍・高倉経子)

2018-06-03 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 3日(日)21時50分40秒

ちょっと脱線しますが、『中務内侍日記』には宮廷の女房たちが馬に乗る様子が描かれていて、これは意外でした。
弘安十年(1287)十月、持明院統の煕仁親王(伏見天皇)が十二年に及ぶ春宮生活の後にやっと践祚し、翌弘安十一(正応元)年三月に即位式、ついで同年十月に大嘗会御禊行幸、即ち大嘗会を前に天皇が賀茂河原で身を清める行事が行われるのですが、その場面に、

-------
 十月十九日、官の庁の行幸なる。廿一日、御禊〔けい〕の行幸。出御の内侍、少将・少輔内侍なり。女工〔によく〕所の内侍、馬には乗るべしとて、勾当とこれと、命婦四人、はゝ木・淡路・備前・肥前。蔵人にみあれの・すむつる。陰陽寮〔おんみやうれう〕にて出で立つ。裏濃き蘇芳〔そはう〕の三衣〔みつぎぬ〕、青き単、纐纈〔かうけち〕の裳、濃き袴、紫の指貫の股立〔もゝだち〕より褄〔つま〕を出だして、くわんの沓〔くつ〕とて履きて、髪上げて馬に乗りて供奉す。仮屋に幔〔まん〕を引きて、女御代の御車立てられたり。出車〔いだしぐるま〕、色々に見えて、便女〔びんでう〕・雑仕〔ざふし〕、車の前に立つ。空薫物〔そらだきもの〕の匂ひ、心憎くくゆり満ちてなん。
-------

とあります。(『校訂 中務内侍日記全注釈』、p151以下)
少し難しいので岩佐氏の訳を先に紹介しておくと、

-------
 十月十九日、官の庁の行幸遊ばす。二十一日に御禊の行幸。出御の時剣璽を捧持する内侍は少将内侍・少輔内侍である。女工所担当の内侍が騎馬でお供せよ、という事で、勾当内侍と私と、命婦四人、伯耆・淡路・備前・肥前。女蔵人にはみあれの・すむつる。これらが陰陽寮で支度をする。濃き色の裏をつけた蘇芳の三つ衣、青い単、纐纈の裳、濃き色の袴、紫の指貫の股立から褄を出して、くわんの沓というのを履いて、髪を上げて、馬に乗って供奉する。仮の幄舎に幔幕を張って、女御代の車を立ててある。出車の衣の色合も色々に見えて、便女・雑仕が車の前に立っている。空薫物の匂いが、奥床しく薫り満ちている。
-------

という具合です。
「語釈」によれば「女工所の内侍」は「悠紀〔ゆき〕・主基〔すき〕の女工所〔にょくどころ〕(大嘗会装束調進所)主管の内侍。騎馬で供奉する。勾当は悠紀、作者は主基」とのことで、この二人だけが騎馬なのかなと思ったら、「以下の命婦・女蔵人も騎馬」だそうです。
衣装についての細かな解説も見る人が見れば面白いのでしょうが、とりあえず省略します。
さて、岩佐氏は「補説」で、

-------
 大嘗会に際し、主基方女工所の預〔あずかり〕に任命された作者の活躍がはじまる。伏見院宸記・勘仲記等には洩れた、女性責任者から見てのこの大儀のあり方がありのままに記されていて、甚だ興味深い。【中略】
 供奉の騎馬婦〔うまのりめ〕の装束の記述も貴重であり、定番の女房装束しか想像できない後代研究者に得難い資料を提供してくれる。
-------

と書かれているので、やはり女房の騎馬の叙述は非常に珍しいものなのですね。
ただ、これは女工所の内侍・命婦・女蔵人が非常に珍しい例ということなのか、それとも宮廷女房の相当多くが騎馬も可能であるものの、いわばそれが常識なので、逆に記録にはあまり残らないということなのか。
まあ、辻浩和氏が強調されるように女房はごく限られた親しい人以外には顔を見せてはならない存在ですから(『中世の〈遊女〉─生業と身分』、p278以下)、やはり移動は顔を隠せる牛車で行うのが大原則で、騎馬はそれこそ女工所のような極めて例外的な場合に限定されると考えるのがよさそうですね。
また、『中務内侍日記』の上記引用部分では頭部に関する記述はありませんが、やはり薄絹か何かで顔を隠すようなことがあってもおかしくはないですね。
なお、『弁内侍日記』とそれを受けた『増鏡』にも後深草天皇の大嘗会に際しての女工所の描写が若干ありますが、読み直してみたところ、騎馬を伺わせる記述は特にないようです。
もっとも『弁内侍日記』と『増鏡』には大嘗会御禊行幸を直接描いた場面はありませんが。

「巻五 内野の雪」(その5)─少将内侍(藤原信実女)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/692897e93aa62382d3b0398a495c9a1e
『弁内侍日記』と岩佐美代子氏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ee4ec0b7a14c68d84fc11b2a8cfad293

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『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その2)

2018-06-03 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 3日(日)11時18分42秒

『中務内侍日記』には浅原事件の記事があったりするので部分的には見ていたのですが、今回、通読してみたら、けっこう面白い女房日記ですね。
従来、池田亀鑑と玉井幸助の評価がそれほど高いものではなかったので研究者もそれほど注目していなかったようですが、岩佐美代子氏の努力で国文学界の評価も変化しているようです。
さて、問題の「二位入道」は『中務内侍日記』全体を通してもただ一箇所、弘安七年(1284)七月の北山殿御幸行啓の場面にちらっと登場するだけです。
後深草院と春宮(伏見天皇)は七月五日から二十一日まで、西園寺家の北山殿に滞在しているのですが、

-------
 十九日は妙音堂の御講なり。面白くめでたし。廿日夜はことに引きつくろひたる御船楽あり。春宮御琵琶、花山院大納言笛、箏は簾中也。徳大寺の大納言朗詠。大夫殿は、二位入道が御膳宿〔おものやどり〕の刀自〔とじ〕といふ者と乗りたる舟にて、入江の松の下に隠ろへて、琵琶を調べておとづれ給ふ。「いずくならむ」出だしたれば、御舟さし寄せて参り給ふ。「傾城の舟に乗りたがり侍りつる程に」など申し給ふ、いとをかし。廿日月は少し心許なく待たるゝ程、御堂の御灯の光、かすかに水にうつろひたる程、面白く見ゆ。月さし出でぬれば、まばゆき程なるに、漕ぎ廻す舟の楫〔かぢ〕の音に立ち騒ぐ水鳥の気色、中島の松の梢、物ごとに面白き事限りなきにも、又かゝる事いかなる世にかと、名残悲しうぞ思ゆる。
-------

ということで(『校訂 中務内侍日記全注釈』、p48以下)、春宮大夫の西園寺実兼と非常に親しい間柄で「二位入道」、即ち出家時点での官位が二位だった人物は限定されますから、建治三年(1277)に権大納言正二位で出家した四条隆顕が有力候補であることは間違いありません。

鷹司兼平と亀山院、そして中御門経任(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4d3b04b4367043c2ac1ba6f905d18f3c

しかし、とにかく登場するのがここ一箇所だけなので断定も躊躇われます。
念のため、上記部分の岩佐訳も紹介しておくと、

-------
 十九日は妙音堂の御講である。管弦供養の御催しは面白くすばらしかった。二十日の夜は、特に念入りに準備した御船楽があった。春宮様が御琵琶、花山院大納言が笛、箏は簾中の女房が奏でた。徳大寺中納言公孝が朗詠。大夫殿は、二位入道が御膳宿の刀自という女官と乗った舟に同乗して、入江の松の下に隠れていて、琵琶の調子をととのえて合奏なさる。「いずくならむ」という朗詠をうたい出したのに合せて、御舟を漕ぎ寄せて参上なさる。「いや、この美人が舟に乗りたがって仕様がなかったものですから」などおっしゃるのも大変面白い。二十日月なので少し出るのが遅く待ち遠しい夕闇の時刻、御本堂の御灯の光が、かすかに池水に映って見えるのも、趣深く見える。やがて月が昇って来ると、まぶしいぐらいの光なのに加えて、漕ぎめぐる舟の楫の音に驚いて立ち騒ぐ水鳥の様子、中島の松の梢など、見る物ごとに面白い事は限りもない程なのにつけても、こんなすばらしい御遊は又いつ見る機会があるだろうかと、時の過ぎて行く名残が悲しくさえ思われる。
-------

ということで(p51以下)、いつもながらの名訳ですね。
「御膳宿」は「御膳を調える係の取締まりの女官」(p51)で、「傾城の舟に乗りたがり侍りつる程に」は「古参女房である刀自を遊女に見立てた諧謔」(同)です。
また、「「いずくならむ」は朗詠の詩句であろう。「出だす」はうたい出すの意。琵琶の音の方角をたずね、出てくるように朗詠によって催促したもの」(同)とのことで、親しい仲間達の間での音楽による洒落たやり取りです。
『とはずがたり』では四条隆顕は軽妙洒脱な人物として描かれているので、冗談を言ったのが「二位入道」であれば隆顕の可能性はますます強まるのですが、これ自体は西園寺実兼の発言ですね。
念のため玉井幸助『中務内侍日記新注』(増訂版1966、大修館書店)も後で見ようと思います。
なお、前回投稿で紹介したように、服藤早苗氏は、

-------
 もっとも、弘安七年(一二八四)七月二十日、西園寺家の山荘北山殿で御船楽があった。四十二歳の「二位入道」四条隆顕は、「御膳宿〔おものやど〕の刀自〔とじ〕という物」を舟に乗せ、「傾城の舟に乗りたがり侍りつる程に」などおかしく申した(『中務内侍日記』上)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5850662f4868da45f2944b72d381680

と「傾城の舟に乗りたがり侍りつる程に」を「二位入道」の発言としていますが、誤読ですね。

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『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)

2018-06-02 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 6月 2日(土)10時50分34秒

辻浩和氏の『中世の〈遊女〉─生業と身分』で参照されている文献をパラパラ眺めているところなのですが、服藤早苗氏の『古代・中世の芸能と買売春─遊行女婦から傾城へ』(明石書店、2012)は、いかにも歴史科学協議会の女闘士らしいアクの強い文体で書かれていて、ちょっと読みづらいところがありますね。
少し紹介すると、

-------
 傾城は、十一世紀末から十二世紀初頭に成立した『今昔物語集』にも、漢字辞書である『類聚名義抄』にも索引で見るかぎり出てこない。十三世紀ころから出はじめる言葉である。前述した美濃国実相寺の衆徒等が、幕府に院主の非法を訴えた文永五年(一二六八)の文書に、「蒲原の君」「傾城」「好色の女」等が出てきており、遊女が傾城や好色の女と呼ばれていたことも確実である(本章第一節)。女房や女官、雑仕女たちが、遊女や白拍子女・辻子君と同様な性愛関係の実態があったゆえに互換性があったことも背景だったのであり、両方の意味で使用されていたといえよう。
-------

といった具合ですが(p211)、「女房や女官、雑仕女たちが、遊女や白拍子女・辻子君と同様な性愛関係の実態があったゆえに互換性があった」はそれなりに有力な見解だったものの、辻弘和氏によって明確に否定されており、今後は辻説が通説になるのではないかと思います。
ま、それはともかくとして、私が吃驚したのは上記部分の直後の記述です。

-------
 もっとも、弘安七年(一二八四)七月二十日、西園寺家の山荘北山殿で御船楽があった。四十二歳の「二位入道」四条隆顕は、「御膳宿〔おものやど〕の刀自〔とじ〕という物」を舟に乗せ、「傾城の舟に乗りたがり侍りつる程に」などおかしく申した(『中務内侍日記』上)。この場合も、御膳宿の老女官のことを「傾城」と語っており、老女を「美人」と揶揄した言葉である。
-------

『とはずがたり』によると後深草院二条は弘安六年(1283)秋の初め、東二条院に御所を退出するように命じられ、後深草院に面会するも冷たくあしらわれ、やむなく退出して「二条町の兵部卿の宿所」へ行き、祖父・四条隆親と対面するのですが、その際に隆親は、

-------
いつとなき老いの病と思ふ。このほどになりては殊に煩はしく頼みなければ、御身のやう、故大納言もなければ心苦しく、善勝寺ほどの者だになくなりて、さらでも心苦しきに、
-------

と語り(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p141以下)、ここから「善勝寺」隆顕が弘安六年(1283)秋の時点で既に死んでいることが分かります。
しかし、この記述は史実と照らし合わせると若干怪談じみていて、そもそも四条隆親自身が四年前の弘安二年(1279)九月六日に死去しています(『公卿補任』)。
ま、『とはずがたり』の年立てをあれこれ論じることにどれだけ意味があるのかという根本的な問題は置くとしても、『とはずがたり』の記述を信じれば、四条隆顕は父・隆親と不和となって建治三年(1277)五月四日に出家して以降、祖父が死ぬ前に死去していることになります。
そこで、『中務内侍日記』において弘安七年(1284)七月二十日に登場する「二位入道」が本当に四条隆顕であれば明らかに『とはずがたり』と矛盾することになるので、岩佐美代子氏の『校訂 中務内侍日記全注釈』(笠間書院、2006)を見たところ、岩佐氏は「二位入道」についての語釈で「四条隆顕か(玉井幸助説)。西園寺実氏室准后貞子の甥。四十二歳」とされているだけで(p51)、そのように解する具体的根拠は示されていないですね。
まあ、私は黒田智氏が指摘されているように、『吉続記』正安三年(1301)一一月四日条に「顕空上人此両三日自関東上洛、条々申事、密々参院申入」と出てくる「顕空上人」が四条隆顕だと思っているので、隆顕が生きていること自体は全然不思議ではないのですが。

善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb7aa8e0d799f8d99bd2b7bf1a7f17a3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/384ce32a71c0e831d5d007c2d0967bfb
中務内侍日記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8B%99%E5%86%85%E4%BE%8D%E6%97%A5%E8%A8%98

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辻浩和氏『中世の〈遊女〉─生業と身分』へのプチ疑問

2018-05-31 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月31日(木)20時02分27秒

辻浩和氏の『中世の〈遊女〉─生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)は以前書店で手に取って『とはずがたり』と『増鏡』に関連する部分だけをざっと眺めてはいたのですが、両書の解釈に直接影響を与える記述はないなと思って、そのままにしていました。
そして、つい最近、『史学雑誌』で細川涼一氏の書評を読み、また同書が「第12回女性史学賞」に続いて「第35回日本歌謡学会志田延義賞」を受賞したとのニュースを聞いて、さすがにそろそろ読まねばなるまいと思って通読してみたところ、評判通り非常に良い本でした。

『中世の〈遊女〉─生業と身分』
http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784814000746

同書の概要は著者の「第12回女性史学賞受賞のご挨拶:受賞作『中世の<遊女>-生業と身分について』」に簡潔にまとめられています。

http://nwudir.lib.nara-wu.ac.jp/dspace/bitstream/10935/4659/1/AA12781506vol2pp3-16.pdf

また、ネットで読める書評としては『週刊読書人ウェブ』での小谷野敦氏のものが参考になります。

http://dokushojin.com/article.html?i=1505

ということで、同書の紹介と賞賛は他に譲るとして、私が自分の狭い関心の範囲から抱いたプチ疑問を少し書きます。
「第八章 中世前期における〈遊女〉の変容」の「第一節 居住の変容 (一)京内の「遊女」と本拠地への執着」には次のような記述があります。(p313)

-------
 さて、以上のべたように、本拠地居住の重視が今様の正統性という芸能の論理によって支えられているとすると、今様の衰退によって本拠地居住はその必要性を減ずると考えられる。歌謡史研究の成果に拠れば、今様の衰退は後白河執政期から段階的に進展するが、一三世紀後半にはその衰退が決定的となり、儀式以外の史料に見えなくなるとされている(17)。そしてまさにこの時期、「遊女」の都鄙往反が史料に見えなくなるのである。
-------

そして注(17)を見ると、

-------
(17) 新間進一「『今様』の転移と変貌」(『立教大学日本文学』五、一九六〇)、同「今様の享受と伝承」(『日本歌謡研究』一四、一九七五)、植木朝子編『梁塵秘抄』(角川ソフィア文庫、二〇〇九)。衰退の原因はよくわかっていないが、白拍子や早歌などの流行に圧されたことは間違いない。外村久江『鎌倉文化の研究』(三弥井書店、一九九六)、沖本幸子『今様の時代』(東京大学出版会、二〇〇六)等参照。
-------

となっています。
しかし、まず白拍子については著者自身が、

-------
 遊女・傀儡子を指す呼称が鎌倉中・後期に変化するのとは対照的に、白拍子女の呼称には目立った変容が見られない。これは、中世後期に至っても芸能としての白拍子が残存し、白拍子女が芸能性を保持し続けるためであろう。この点に、遊女・傀儡子と白拍子女との展開の違いが表れている。実際、鎌倉中期以降「白拍子」は「遊君」「傾城」「好色」とそれぞれ対になって所見する場合が多く、白拍子女と「遊女」とは基本的に区別され続けたものと考えられる。
-------

といわれており(p330)、今様と密接に結び付いた「遊女」と白拍子は競合・敵対する存在ではないはずです。
また、同書において早歌と外村久江氏の『鎌倉文化の研究』への言及はここ一箇所だけなので、著者に早歌に関する独自の見解があるのかは知らないのですが、私が理解している限り、早歌は鎌倉で生まれた武家好みの非常に男性的な芸能で、作詞・作曲・歌唱を担当したのは全て男性であり、唯一の例外が私がしつこくこだわっている「白拍子三条」ですね。
従って、マッチョな早歌も今様、そして「遊女」と競合・敵対するような芸能とは思えません。
ということで、今様の「衰退の原因はよくわかっていないが、白拍子や早歌などの流行に圧されたことは間違いない」といわれても、ちょっと理解できないですね。
ま、私は注(17)で引用されている文献のうち、外村久江氏の『鎌倉文化の研究』以外は読んでいないので、他の文献、特に沖本幸子氏が書かれたものをあたってみてから再考したいと思います。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/668f1f4baea5d6089af399e18d5e38c5
早歌の作者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f49010df5521cc5aa7d50c242cec62c6
「撰要目録」を読む。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff69e365c35e0732e224f451e70fbc8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d40419fb4040d03777431b35d63a54a7
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a90346dc2c7ee0c0f135698d3b3a58fd
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『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その3)

2018-05-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月28日(月)15時01分16秒

小川剛生氏の『兼好法師』(中公新書、2017)にも金沢貞顕の簡明な紹介がありますが、ここでも早歌への言及はないですね。
少し引用すると、

-------
金沢貞顕という政治家

 金沢文庫古文書の全貌が明らかになるにつれ、金沢貞顕は中世でも最も輪郭鮮やかな武家政治家の一人となった。とはいえその印象は必ずしも颯爽としたものではなく、「書物や茶事を愛する文化人で、周囲に細やかな配慮を払う一方、決断力には欠け、また幕閣内での昇進にのみ汲々とし、保身を事とする小人物」といったところか。幕府と運命を共にしたため、彼の日常が取り上げられて批判的に語られることもあるが、結果論的な人物評はいささか酷であろう。
 貞顕の書状は、家督承継直後から、正慶二年(一三三三)三月、実に幕府滅亡の二ヶ月前までの三十余年間に六百五十通ほどが残存している。ただし、残存状況には時期的な偏りがあり、貞顕が六波羅探題として京都にあった期間が最も多い。探題は北方・南方の両頭制で、貞顕は南方ついで北方をあわせて十年間務めた。
 貞顕の官位昇進は順調で、左衛門尉・東二条院蔵人となった後、永仁四年(一二九六)四月左近将監に任じて叙爵した。いわゆる左近大夫将監である。そして乾元元年(一三〇二)七月六波羅探題南方となり上洛した。二十五歳である。
-------

といった具合です。(p32以下)
「永仁四年(一二九六)四月左近将監に任じて叙爵した」とありますが、永井晋氏の『金沢貞顕』によれば、貞顕は同年四月十二日に従五位下に叙され、四月二十四日に右近将監に補任され、翌五月十五日に左近将監に転じたとのことで(p15)、小川氏の記述は少し違っているようですね。
ま、そんな細かいことはともかくとして、左近大夫将監となったことで貞顕の通称は「越後左近大夫将監」となります。
この時点で貞顕自身は越後守ではありませんが、父親の顕時(1248-1301)が弘安三年(1280)に越後守となっているので、それにちなんだ通称になった訳ですね。
これだけの材料があれば、早歌関係で「越州左親衛」と呼ばれている人物を金沢貞顕に比定する外村久江説は間違いないと思うのですが、誰か歴史研究者が太鼓判を押してくれないかなと願う今日この頃の私です。

「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c6f654a75b33f788999dc447bda1e48

さて、小川著で興味深いのは、上記引用部分の少し後にある次の記述です。(p35以下)

-------
京鎌間を往復する人々
【中略】
 さて金沢文庫古文書に見える氏名未詳の仮名書状のうち、かなりの数がこの時期の当主や一門に仕える女房のものらしい(女性は原則署名しない)。ところで金沢流北条氏の僧侶・女性は、貞顕の在京を好機に上洛する者があり、寺社参詣や遊山を楽しんでいる。釼阿も嘉元元年(一三〇三)九月から半年余り在京し、貞顕夫妻の歓待を受けた。実時の娘で、貞顕には叔母かつ養母でもあった谷殿永忍〔やつどのえいにん〕は、一門女性の中心的存在であった。この谷殿が嘉元三年から翌年にかけて上洛、貞顕の妻妾らをも率いて畿内を巡礼している。貞顕は釼阿に「さてもやつどの御のぼり候て、たうとき所々へも御まいり候」(金文四七四号)と言い遣るが、女性たちの書状ではもちきりの話題で、「さても御ものまうで〔物詣〕、いまはそのご〔期〕なき御事にて候やらん」(金文二九八三号)、「なら〔奈良〕うちはのこりなくをがみ〔拝〕て候し、きやう〔京〕にはとりあつめ四五日候しほどに、ゆめ〔夢〕をみたるやうにてこそ候へ」(金文二八五一号)といった具合である。なお奈良下向では谷殿が「御あつらへものゝ日記」(金文二七四九号)を忘れず携えたことを報告しているが、留守の人たちが希望した土産物リストらしい(かつての海外旅行を髣髴とさせる)。周囲含めて賑やかな女性であるが、谷殿の話題が目立つのは、彼女宛ての書状が多数釼阿にもたらされたからである。さらに倉栖兼雄の「母義尼」も上洛して来た(金文五六一号)。当時の上層の人々、女性も僧侶も意外に行動的であった。
-------

ということで、確かに「かつての海外旅行を髣髴とさせる」賑やかな旅行の様子が伺えるのですが、こうした鎌倉の「意外に行動的であった」女性や僧侶たちが寺社巡礼の名目で畿内各地を遊びまわるに際して、やはりそれなりに武家社会の人々との交際に慣れた案内者であって、現地有力者との円滑な交流を演出する能力を持った存在も必要ではなかったかと思います。
とすると、鎌倉で平頼綱の正室クラスの最上流女性と親しく交わり、京都はもちろん奈良や伊勢などにも知己の多い後深草院二条など、まさに適役だったのではなかろうか、などと思われてきます。

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『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その2)

2018-05-27 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月27日(日)09時58分27秒

ちょっと間が空いてしまいましたが、またボチボチと書いて行きます。
さて、永井晋氏の『金沢貞顕』(吉川弘文館・人物叢書、2003)に早歌への言及がないことは以前書きました。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その4)

金沢貞顕(1278-1333)について論じたより新しい論考としては森幸夫氏の「十二代連署・十五代執権 金沢貞顕」(『鎌倉将軍執権連署列伝』、吉川弘文館、2015)がありますが、森氏も早歌については特に触れていません。
森氏が貞顕の文化的活動について書かれている部分を少し引用してみると、

-------
 乾元元年(一三〇二)七月、貞顕は六波羅探題南方に任命された。二十五歳。金沢流北条氏では最初の就任である。【中略】
 貞顕は南方探題時代、公家たちから借用した『たまきはる』『百錬抄』『法曹類林』など朝廷の歴史や法律などに関する様々な本を書写・収集している。このような活発な文化的活動は、官僚組織も未熟で、探題本人が六波羅の政務を強力に主導せねばならなかった、北条重時時代(一二三〇~一二四七年)には思いもよらぬことである。これらの書写・収集活動は政務の参考書を獲得するための貞顕の努力とも評価できるが、六波羅の政務は官僚たちが担っており、当時の探題が重時時代のような激務ではなかったことを逆に物語っている。徳治二年(一三〇七)から翌延慶元年(一三〇八)にかけて、興福寺衆徒の強訴事件が起きるが、幕府の裁定を踏まえ、興福寺と直接交渉し事態を収拾させたのは奉行人斎藤基任・松田秀頼の両名であった(「徳治三年神木入洛記」)。貞顕は六波羅の職務を官僚たちに任せておけばよかったのである。
-------

という具合ですが(p171以下)、森氏が例示する三書のうち、『たまきはる』は「政務の参考書」としては余り役に立たない女房の日記ですね。

たまきはる

永井晋氏の『金沢貞顕』には、

-------
 現在のところ、貞顕が六波羅探題として上洛した後に最初に書写校合した写本は、乾元二年(一三〇三)二月二十九日の奥書をもつ『たまきはる』である。この本は藤原定家の姉健御前〔けんごぜん〕の回想録で、建春門院・八条院の御所での日常を詳しく記している。
-------

とありますが(p57以下)、『たまきはる』は古典の上級者向けの書物であって、貞顕の並々ならぬ教養を感じさせます。
岩波の新日本古典文学大系では『たまきはる』は『とはずがたり』と一緒になっていますが、これは単に分量的に両書を一冊に纏めるのが好都合だったからではなく、内容にも共通性があって、『たまきはる』は愛欲エピソード抜きの上品な『とはずがたり』みたいなものですね。
とにかく、古典的教養に乏しい人がいきなり『たまきはる』を書写するというのは無理があり、貞顕が鎌倉にいる間に相当の古典的教養を積んでいることは間違いありません。
ま、私は「白拍子三条」こと後深草院二条が若き日の金沢貞顕と交流があったと考えるのですが、こう考えると金沢貞顕が京都に来て最初に書写した本が『たまきはる』であることも自然な感じがします。

「白拍子ではないが、同じ三条であることは不思議な符合である」(by 外村久江氏)
「白拍子三条」作詞作曲の「源氏恋」と「源氏」
「越州左親衛」(金沢貞顕)作詞の「袖余波」
『とはずがたり』と『増鏡』に登場する金沢貞顕
金沢貞顕の妻と子

ところで、貞顕は永仁元年(1293)四月の平禅門の乱で平頼綱が滅ぼされ、父・顕時(1248-1301)が鎌倉に復帰した翌永仁二年(1294)十二月に十七歳で左衛門尉となり、同時に東二条院蔵人となります。
東二条院蔵人といっても実際に京都で東二条院に仕えた訳ではなく、多分に形式的な資格に過ぎませんが、それでも貞顕が、その政治的経歴の出発点では持明院統を支える側であったことは事実です。
しかし、三十年後の元亨四年(1324)、貞顕は後宇多院を利する非常に偏った政治的決定をしたとして花園院から厳しく非難されるようになります。
その決定が後に花園院の抗議を受けて覆されることからも貞顕が極端な大覚寺統寄りの立場にあったことが伺えるのですが、このような貞顕の変化がどのように生じたのか、そこに後深草院二条とその周辺の者の関与がなかったのかが私の新しい問題意識です。

>キラーカーンさん
私には古代史と中国史の知識が乏しいので、公卿みたいな基礎的な概念を突かれると弱点が目立ってしまいますね。

>筆綾丸さん
>高橋昌明氏『武士の日本史』
幕府概念の極端な拡張論者である高橋氏が幕府概念に極端に禁欲的な渡辺浩氏をどのように評価しているのか、ちょっと興味があります。

「幕府」概念の柔軟化
幕府の水浸し
「六波羅御所こそ鎌倉将軍家の本邸」

※キラーカーンさんと筆綾丸さんの下記三つの投稿へのレスです。

駄レス 2018/05/24(木) 01:38:12(キラーカーンさん)
小太郎さん
ご丁寧な回答ありがとうございます。

>>参議は厳密には公卿ではないけれども公卿並みに扱う
黒板伸夫氏の『摂関時代氏論集』には参議の範囲について
1 参議の官にあるもの(一般的な用法の「参議」)
2 「1」+大納言+中納言
3 「2」+大臣
の三種類の用例があったようです。

>>平安中期にはその定員を一六人としたので「十六之員」
ということは、当時、内大臣は文字通り「数の外の大臣」だったということですね

資格喪失というパラドックス 2018/05/25(金) 12:08:12(筆綾丸さん)
https://www.iwanami.co.jp/book/b358701.html
高橋昌明氏『武士の日本史』を、あまり期待はせずに読み始めました。

藤井七段は弱冠15歳にして、新人王戦(6段以下)、加古川青流戦(四段以下)、YAMADAチャレンジ杯(五段以下)、各棋戦の出場資格を喪失しているというのは、前代未聞のパラドックスであって、すでに「神武以来(このかた)の天才」を凌駕しましたね。将棋内容も凄いので、今年度中にタイトルを取るような気がします。

ナントカの日本史(中世史) 2018/05/26(土) 16:15:33(筆綾丸さん)
--------------------
 はるか後代の話だが、『徒然草』を書いた吉田兼好は、武は「人倫に遠く、禽獣に近き振る舞い」であり、「好みて益なきこと」と断じている。(『武士の日本史』61頁~)
--------------------
小川剛生氏の『兼好法師』という画期的な書が上梓された後でも、高橋昌明氏は「吉田兼好」と書くんですね。うーむ。

---------------------
 幕府は、征夷大将軍を首長とする武家の全国政権で、鎌倉・室町・江戸の三つしかない。それが日本人の常識である。ところが、政治思想史の渡辺浩氏が、鎌倉・室町の両武家政権が存在していた同時代、それを「幕府」と呼んだ例はないといい、江戸時代も、寛政年間(一七八九~一八〇一年)以前の文書に幕府の語が現れるのは珍しく、一般化したきっかけは、江戸後・末期の後期水戸学にあるとしている。(70頁)
---------------------
渡辺浩氏の例の説を無批判に引用していて、「日本中世史」の専門家なのに、「幕府」理解に関しては、この程度なのか、と思いました。読むのはやめようかな、とも思いますが、折角買ったので、もうちょっと読んでみます。それにしても、「ナントカの日本史(中世史)」というタイトルはよく見かけますね。

追記
やはり、半分ほどで飽きてしまった。
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公卿について

2018-05-22 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月22日(火)21時57分48秒

>キラーカーンさん
確認するまでもないことでしたが、おっしゃる通り、参議になった時点で公卿ですね。
参考までに『日本史大事典』(橋本義彦氏執筆)を引用しておきます。

-------
公卿
 摂政・関白以下、参議以上の現官および三位以上の有位者(前官を含む)の総称。中国の三公九卿に由来し、大臣を公に、大納言・中納言・参議を卿に充てたという。狭くは大臣以下参議以上の議政官をいい、平安中期にはその定員を一六人としたので「十六之員」とか「二八之臣」とも称されたことが記録にみえるが、三位以上の前官および非参議をも含めて公卿と称することがしだいに一般化し、「公卿補任」に記載される範囲全体に及ぶようになった。鎌倉時代以降、公卿の員数はますます増大したが、一方、家格の形成にともない、公卿に昇る上流廷臣の家柄もしだいに固定し、江戸時代には、その家柄に属する廷臣の総称として、公家とほぼ同じ意味にも用いられた。上達部、卿相、月卿、棘路などの異称もある。【参】和田英松『官職要解』講談社学術文庫
-------

ご指摘を受けて直ぐに変なことを書いてしまったと思ったのですが、たまたま5月15日の投稿<「弘安の御願」論争(その9)─「弘安の御願」はそもそも存在したのか?>で引用した『国史大辞典』の「公卿勅使」の項に、

-------
伊勢神宮に朝廷から差遣される使には恒例祭典の例幣使(四姓使)と皇室・国家・神宮に事があった場合の臨時奉幣使があり、後者のうち格別の大事に際しては三位以上の公卿または参議が充てられた。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4c870df53572c5ecfcd8822326ceb6e7

とあったので、参議は厳密には公卿ではないけれども公卿並みに扱う、といった用法もあるのかな、などと考えたのですが、これも公卿の普通の定義で理解できる記述でした。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

ちょっとした疑問 2018/05/21(月) 01:28:46
お久しぶりです

>>その年の十二月に従三位となって公卿の仲間入りです
とありますが、
>>正月十三日任(元蔵人頭)。右中将如元。
とあるので、参議任官(宰相中将)となった時点で公卿ではないでしょうか。

追伸
五段昇段パーティーを七段昇段パーティーに無理やり変えた人がいるそうですが、
この昇段ペースでも、一〇〇〇段がやっとで一二三九段には到達できないようです。
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『増鏡』執筆の目的についての予備的検討(その1)

2018-05-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 5月21日(月)13時10分37秒

他人への批判はともかく、『増鏡』にしか存在しない記事の解釈について、オマエはどう考えるのか、莫迦のひとつ覚えで登場人物と後深草院二条の人間関係を追って行くだけなのか、と問われると、さすがにそれではまずいだろうなと思っています。
では何を基準とすべきか。
この点、現在の私は『増鏡』執筆の目的が基準となるだろうと考えています。
旧サイトでは『増鏡』の作者と成立年代についてはそれなりに検討しましたが、作者については、昨年末以来の『増鏡』の読み直しを踏まえて、やはり後深草院二条で間違いないと思います。
従来の通説であった二条良基説は曾祖父・二条師忠の描かれ方だけで失格、小川剛生氏の修正説(丹波忠守作、二条良基監修)は、丹波一族の医師が無能で幼い世仁親王の病状診断を誤り、親王を殺しかけたという春宮灸治の場面だけで失格です。

「巻八 あすか川」(その18)─春宮の灸治と土御門定実
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/baa3418590f48ba4bdd2fc42981da81f

そもそも『増鏡』作者が序文において語り手を「八十(やそぢ)にもや余りぬらんと見ゆる尼」と設定していること、『とはずがたり』が他の史料を遥かに凌ぐ膨大な分量で引用されていることの二点だけで『増鏡』作者が『とはずがたり』作者と同一人物ではなかろうかと疑うのに十分であり、そのように仮定すると、従来、作者の意図が分からなかった多くの奇妙な記述について合理的な説明が可能となります。
「男もすなる歴史物語といふものを、女もしてみむとてするなり」と考えた女性が中世に存在していたとしても全然不思議ではありません。
『とはずがたり』が知られていなかった時代はともかく、その出現以降も後深草院二条が『増鏡』作者候補にあがらなかったのは、女に歴史物語が書けるはずがない、という国文学者・歴史学者たちの頑迷な思い込みに過ぎません。
さて、旧サイトでは『増鏡』の成立年代についてリンク先のように考えてみたのですが、『舞御覧記』との関係は再検討を要するものの、それ以外は現在でも妥当だと思っています。

第四章 『増鏡』の成立年代
http://web.archive.org/web/20150831083007/http://www015.upp.so-net.ne.jp:80/gofukakusa/2002-zantei04.htm

『増鏡』の作者・成立年代をそれなりに熱心に検討した旧サイトで欠落していたのは、『増鏡』作者が何の目的でこの歴史物語を書いたかについての考察でした。
『増鏡』は、

(1)後鳥羽院の物語
(2)中間部分(前半:後嵯峨院の物語、後半:後深草・亀山院の物語)
(3)後醍醐天皇の物語

の三部に分かれますが、正嘉二年(1258)生れの後深草院二条を作者と考えると、(1)は作者が生まれる前の遠い過去、(2)の前半は作者の幼年・少女時代に少し掛かり、後半は作者が四十代までの期間で、華やかな宮廷生活と出家後の全国各地へ旅行を行なった期間が含まれます。
『増鏡』執筆時には(1)(2)は過去の記録ですが、最も分量の多い(3)は鎌倉幕府滅亡へ向かう時代の変化をほぼ同時代史として叙述しており、特に最末期は歴史の劇的な変動を活写するルポルタージュのような趣きもあります。
旧サイトでは私は『増鏡』作者の執筆目的を確定することができなかったのですが、今回、金沢貞顕の周辺を少し丁寧に調べたことにより、後深草院二条は時代の傍観者だったのではなく、(3)の時期にそれなりの政治的役割を果たした「行動する歴史家」であり、『増鏡』は政治的目的を持つ文書なのではなかろうか考えるようになりました。

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