投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月26日(土)09時22分5秒
早歌の研究水準は外村久江氏(1911-94)によって格段に向上していて、外村氏以前の段階では早歌が鎌倉中心の歌謡であることもきちんと意識されていませんでした。
早歌の作者も『尊卑分脈』や『公卿補任』の索引で適当な人を見つけて、何らかの補強材料があればそれで決まり、程度の考証が多かったのですが、外村氏は鎌倉との関係があるかを厳密に問い直し、従来の学説の誤りを相当修正されています。
もちろん「法印忠覚」のように外村説にも若干の問題はありますが、外村氏が『早歌の研究』(至文堂、1965)で仮説として比定していた人名が早大本の発見により実証された例が多いように、その研究水準は極めて高いですね。
さて、筆綾丸さんが言及された「左金吾春朝」は外村氏の推論の方法を見る上でちょうどよい素材なので、『早歌の研究』所収の「第三章 早歌の流行と鎌倉の武士たち」という論文から、「左金吾春朝」関係の部分を少し引用してみます。
この論文は、
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はじめに
一 左金吾春朝
二 因州戸部二千石行時・附「永福寺勝景」「同砌并」
三 左金吾藤原宗光
四 藤原助員・藤原親光・平義定
五 武士社会における早歌の盛行
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と構成されていますが、外村氏の問題意識を確認するため、「はじめに」も紹介しておきます。(p56)
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はじめに
前章は「早歌の成立と金沢氏」と題して、金沢貞顕(越州左親衛)・その甥顕香・顕茂(与州匠作)が作者の比定者に考えられることと、この家がその成立に重要な位置を占めていることを記したが、これに関連して、鎌倉幕府の上層武士たる御家人や北条氏の被官たちが、創始成立に主導的な役割を果たしていることが考えられる。それで、以下に鎌倉武士の作者に比定せられる、左金吾春朝・因州戸部二千石行時・左金吾藤原宗光・藤原助員・藤原親光・平義定につき述べ、且つ、それらの作品が早歌の諸作品の中で如何なる位置にあるかを考察したいと思う。
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この段階では外村氏は「与州匠作」を金沢顕茂と推定されていた訳ですが、後に早大本によって顕香であることが判明した訳ですね。
続きです。(p56以下)
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一 左金吾春朝
左金吾春朝は「寝寤恋」(玉林苑下)「琴曲」(同)の作曲者である。前田家本「平氏系図」並びに正宗寺蔵書「先代一流」に
備前守 三郎 修理亮 ○○(正宗寺本兵庫頭)
義時─朝時─時長─長頼─※長─春朝
【※ 草冠に「馬」】
とある春朝ではないかと思われる。この家については、故関靖氏が「金沢文庫の研究」中で、
「又(ロ)(ハ)(共に群書類従収載の系図を指す。……筆者註)には実時に二人の女子を挙げている。その註書に二人には
備前三郎長頼妻とあり、他に二条侍従雅有室とある。長頼は備前守時長の子で、定長の舎弟である。系図にはその妻を掲げ
ていないので、傍証することは出来ないが、名越氏と金沢氏は甚だ近しい関係があり、その兄の定長は実時の所領六浦庄
富岡に住んで、東漸寺を開き、東漸寺殿を以て呼ばれている位であるからその弟の長頼が実時の娘を妻としたこともあり得
べきことである。」
と述べられており、これによると、同じ北条氏中でも金沢氏と特に深い関係にあた家である事が判る。
金沢氏は前述の通り貞顕をはじめ、顕茂乃至顕香等の作者の比定者を出しており、その上、金沢文庫には早歌の最も古い断片を遺していて、早歌の大成には並々ならぬ関係がうかがわれるのである。早歌が従来「綴れの錦」といわれていて、王朝の公卿的教養を継承して成った歌謡であることを考えると、この関東では金沢家は最もこういった方面にも先駆的な役割を果たしているので、作者を何人か出していることもあまり不思議ではない。同じ北条氏一族中でも、このような家と、特に近い関係にあった春朝を早歌の作者に比定することは、早歌作者の交友圏の上からも妥当であるように思われる。ただこの春朝は正宗寺本では兵庫頭となっており、目録では左金吾とあって、この点に問題がある。しかし、玉林苑は文保三年(一三一九)二月に書かれているので、この時左金吾であったとし、兵庫頭は最終の経歴を記したものと解すると、必ずしも別人と断定することもできない。北条氏の一門の若い人々は左金吾は普通である上に、又北条氏は勿論他氏に於いても春朝という名は案外例が少ないのである。
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「左金吾」は左衛門督の唐名で、確かに「北条氏の一門の若い人々は左金吾は普通」ですね。
そして「春朝」という珍しい名前ですから、名越氏の春朝で良いのでしょうね。
外村氏はこんな具合に考察を進め、
因州戸部二千石行時(「永福寺勝景」「同砌并」の作曲)……二階堂行時
左金吾藤原宗光(「鹿島霊験」「同社壇砌」の作詞)……二階堂宗光
藤原助員(蹴鞠」「琵琶曲」「山王威徳」「余波」の作曲)……比企助員
藤原親光(「紅葉興」「屏風徳」の作詞作曲)……結城親光
平義定(「遊仙歌」の作詞)……三浦義貞
という結論を出されています。
この内、例えば藤原親光について、「後藤丹治氏は、北家長家流大炊御門光能の子親光と同一人ではあるまいかと記されている」(p64)そうですが、年代が古すぎる上に関東との関係がありません。
外村氏は「そこで私は武士中で一人比定者を出したい」(p65)ということで結城親光について検討されます。
結城親光は建武政権における「三木一草」の一人で、尊氏暗殺計画など武人としてのエピソードは豊富ですが、文芸関係の事績は確認されていないようです。
しかし、早歌作詞・作曲の教養人であれば、後醍醐に積極的に近づこうとした親光の背景を知るひとつの手がかりとはなりそうですね。
結城親光(?-1336)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E8%A6%AA%E5%85%89