学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その22)

2022-06-28 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月28日(火)11時38分36秒

前回投稿では『実躬卿記』永仁二年(1294)三月二十七日条を引用しましたが、翌日の二十八日条には、

-------
廿八日、 卯、去夜任人粗伝聞、
参議藤頼藤、弁官次第転任、但権右中弁藤信経・両少弁如元云々、右近中将藤為雄、
即補蔵人頭、右兵衛督藤資藤、即移正階、是関東御挙之故云々、為雄朝臣元右兵衛
督也、此官依御用任中将歟、凡殊勝々々、如所存者哉、此外事不逞委記。
-------

とあって、蔵人頭だった葉室頼藤が参議に昇進したこと、二条資藤が従三位に叙せられたこと等が記されていますが、私には「為雄朝臣元右兵衛督也、此官依御用任中将歟、凡殊勝々々、如所存者哉」の意味が分かりません。
何となく底意地の悪そうな書き方なので、為雄は蔵人頭にはなれたものの、それ以外の希望は満たされなくてザマーミロ、みたいなことでしょうか。
ま、それはともかく、二条資藤の昇進は「是関東御挙之故云々」とのことで、実躬は関東の推挙で昇進すること自体は当然と考えていますね。
また、実躬は自身の昇進のために「以内々女房申入仙洞了」(二十七日条)としているので、もちろん女房口入にも肯定的です。
要するに実躬は自身の出世と家格の向上以外には特に関心がなく、「政道」のあり方にも、「政道口入」の是非にも特に見識のない自己中心的な俗物です。
ま、別にそうした生き方が悪いという訳ではなく、大半の公家はそんなものでしょうが、実躬の如き人物の為兼評を、小川氏のようにことさらに重視する必要もないのでは、と私は考えます。
さて、それではいよいよ小川論文の最終節に入ります。(p44)

-------
   七 おわりに

 本稿では為兼の土佐配流につき「正和五年三月四日伏見法皇事書案」を紹介して考察し、永仁の佐渡配流についても私見を述べた。両度の配流の起きた背景には差異はなく、治天の君である伏見院の政務になんらその座を与えられていない為兼の「政道之口入」によってひきおこされたものである。とりわけ正和には鷹司冬平の関白還補が伏見院の失政として問題となって、為兼らがその元凶とみなされたことで、遂に処罰に至ったのであった。
 ただし、持明院統もよくよく近臣に壟断されやすい体質であった。そのことが事態をより深刻にしたといえるが、後伏見院の時になっても近臣や女房の口入は絶えなかった。見かねた重臣の今出川兼季が五ヶ条の意見を奉って、院中の綱紀を粛清するよう献言している。しかし兼季が「一切可被停女房内奏之由」を強調したのに対し、花園院はあながち女房の非とはせず「但付便宜、女房申入事等又古今例也、且内々達天聴、有大切事等、此事強不可被禁歟」と反論したことは、誠に示唆に富んでいよう。
 京極派和歌が閉鎖的な歌壇、すなわち院や女院と少数の近臣・女房からなる、固定的なメンバーによって創作されていたことは、既に常識となっている。そういう濃密な君臣関係こそが和歌史に遺る傑作を生む土壌を培った。『とはずがたり』『中務内侍日記』『竹むきが記』など現存する鎌倉後期の女房日記が、すべて持明院統の女房の手によって書かれている事実も考え合わされよう。しかし、それは一方で為兼の如き近臣をはびこらせる温床となった。幕府はある時期まで、大覚寺統よりも、果断な処置がとれず自己管理能力に乏しい持明院統を危険視していたとさえ思えるのである。
 以上はやや極端に過ぎた見方かもしれない。しかし、もはや治天の君でさえ恣意が許されない時代であった。持明院統の文学に対する高い評価はもちろん当を得ているが、伏見院の治世が為兼を生みだし、そして最終的には為兼を排除しなければならなかった背景についても考察をめぐらし、その意味するところを冷静に観察することも必要であろう。
-------

小川論文はこれで終わりです。
「但付便宜、女房申入事等又古今例也、且内々達天聴、有大切事等、此事強不可被禁歟」に付された注(36)を見ると、これは『花園院宸記』正中二年(1325)十二月十五日条で、後醍醐親政期の話ですね。
また、「『とはずがたり』『中務内侍日記』『竹むきが記』など現存する鎌倉後期の女房日記が、すべて持明院統の女房の手によって書かれている事実も考え合わされよう」に付された注(37)には、

-------
(37)岩佐氏『宮廷女流文学読解考 総論中古編』(笠間書院 平11・3)は「大覚寺統政権下にも又、儒仏の学は栄えても女房日記はあらわれない」(二四頁)との指摘がある。
-------

とあります。
小川論文についてのまとめは次の投稿で行いますが、「おわりに」の書き方を見ると、小川氏が『実躬卿記』などに関して相当に強引な史料操作を行いつつつ持明院統を批判する背景には岩佐美代子批判という隠れた意図もありそうですね。
このあたりの事情は、歴史研究者にはちょっと分かりにくいと思いますが。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その21)

2022-06-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月27日(月)12時46分7秒

二条為道は京極為兼(1254-1332)のライバルである二条為世(1250-1338)の長男で、少なくとも歌人としては極めて優秀、将来を嘱望されていた人ですね。

二条為道(1271-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E9%81%93

しかし、実躬(1264生)にとって為道は七歳下の「下臈」ですから、

-------
依何由緒彼朝臣被忠〔抽〕賞、予又依何罪科可被寄〔棄〕捐哉、当時云拝趨云譜代
可謂雲泥、徳政□〔之カ〕最中如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿
猶執申、逐日倍増、然者珍事出来之条、無疑歟之間、以内々女房申入仙洞了、且若非
分有恩許ハ、并絶拝趨之思、永可失生涯之由、以誓状之詞申入了、所存切也、此趣以
状示遣前大将許、即申入 禁裏之由返答、且数刻祗候 内裏、能々申入執柄了、
-------

ということで、実躬は、為道を蔵人頭にするという「非分有恩許」が万一あったならば、自分は生涯「拝趨」することはありません(≒出家します)、という殆ど脅迫状のような「誓状之詞」を禁裏に提出します。
こうした、少なくとも実躬個人にとっては非常に切迫した状況の中で、小川氏が引用するところの「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」という表現が出てくる訳ですね。
実躬は別に客観的・中立的・長期的・俯瞰的な見地から伏見親政下の朝廷における為兼の存在について懸念を表明している訳ではなく、自分の出世と名誉がかかった瀬戸際において、主観的・偏頗的・短期的・微視的な見地から、為兼が「珍事」をやるのではないかと警戒している訳で、小川氏のように、この表現を「廷臣」一般の間の「治世に対する不信感」と評価するのは相当に問題ではないかと私は考えます。
さて、実躬の「誓状之詞」の効果かどうかは分かりませんが、結果的に為道は蔵人頭にはなれませんでした。
では、誰が蔵人頭になったかというと「有若亡」の二条為雄です。

-------
然而為道昇進事無其儀、為雄朝臣補夕郎云々、彼朝臣雖有上首之号、太失面目了、
且資高卿昇進之時、為雄也被超越了、此儀一流端厳之差別也、何限予無勝劣哉、
資高卿ハ非重代也、予累葉也、恩許之次第、依人事異也、当時之為雄朝臣一文不通、
可謂有若亡、忠(抽)賞何事哉。是併為兼卿所為歟、当時政道只有彼卿心中、頗
無益世上也、旁以無由、今生事思切、偏可祈後生菩提事者哉、而父母命又難背、是
即不至道心之故歟、無罪〔述〕所存也、
-------

うーむ。
実躬と為道の争いの結果、ダークホースの為雄が漁夫の利を得たということでしょうか。
ここに登場する二条資高(1265-1304)は正応三年(1290)に蔵人頭に補されているので、この時に二条為雄との間にも何か確執があったのかもしれませんが、ダラダラと続く実躬の愚痴に付き合うのも大変なので、このあたりにしたいと思います。
以上、確かに『実躬卿記』には為兼に対する批判的言辞がありますが、これも仮に実躬が蔵人頭になれていたら、全て消去した後で為兼に対する絶賛が並んでいたかもしれないですね。
その程度の話なのに、小川氏が、

-------
 実際に為兼が政務に容喙すればする程に、廷臣の間に「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」という、治世に対する不信感を馴致させることを防ぎようもなかった。為兼は早晩淘汰されなければならない存在であった。安東重綱が「政道巨害」として為兼を排除できたのも、幕府が主導した形での鎌倉後期の公家徳政という道筋があったからなのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

とまで言われるのはどんなものであろうか、さすがに大袈裟ではなかろうか、と私は感じます。

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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その20)

2022-06-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月27日(月)10時37分26秒

暫く善空事件を扱って来ましたが、『京都の中世史3 公家政権の競合と協調』(吉川弘文館)で坂口太郎氏の新知見があれば続行することとし、いったん小川論文に戻ります。
さて、(その17)で引用したように、小川氏は第六節の末尾で、

-------
 実際に為兼が政務に容喙すればする程に、廷臣の間に「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」という、治世に対する不信感を馴致させることを防ぎようもなかった。為兼は早晩淘汰されなければならない存在であった。安東重綱が「政道巨害」として為兼を排除できたのも、幕府が主導した形での鎌倉後期の公家徳政という道筋があったからなのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

と書かれていますが、「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」は『実躬卿記』永仁二年(1294)三月二十七日条の表現です。
当時、三十一歳の正親町三条実躬は、弘安六年(1283)に正四位下に叙されて以降、位階は停滞し、官職も同八年(1285)に兼下野権介・転中将、正応四年(1291)に兼美作介とパッとしない状態だったので(『公卿補任』)、蔵人頭になることを切望していました。
井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)によれば、以下のような状況です。(68以下)

-------
 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6

『実躬卿記』でもう少し詳しく事情を見て行くと、三月二十五日から縣召除目の記事が始まって、実躬は同日参内して蔵人頭所望の由を奏上します。
翌二十六日には、

-------
丑、猶雨下、早旦参 内、即参仙洞、猶申入夕郎事、入夜帰参、著衣冠、頼藤朝臣
可昇進之由聞之、仍所望事重猶申入、且参直盧申執柄了、亥終刻関白令候殿上給、
執筆参 内、直著陣座、少頃参候殿上、端、次関白也、参御前給、執筆同参候、
次筥文公卿、<雨儀也、於中門下取之、昇切妻経簀子参上、>中御門中納言<為方>・
衣笠中納言<冬良>・別当<公顕>・鷹司宰相<宗嗣>、今夜顕官挙也、此宰相書之云々、
依伺候仙洞、
-------

という具合いに、内裏・仙洞(後深草院御所)・関白等、諸所に繰り返し参上し、「夕郎事」(夕郎〔せきろう〕は蔵人の唐名)を申し入れます。
翌二十七日にも実躬は仙洞に重ねて申し入れをしますが、そうこうしている間に、二条為道が蔵人頭を「競望」しているとの噂を聞きます。
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その6)

2022-06-25 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月25日(土)14時59分25秒

『実躬卿記』は国文学研究資料館サイトで見ることができて、リンク先のコマ番号に「113」と入れると正応四年(1291)五月二十九日条が出てきます。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-365101

さて、『勘仲記』正応元年(1288)十月四日条には、

-------
伯二位〔白川〕資緒卿・伝奏兵部卿〔六条〕康能朝臣両人、勅勘被止出仕云々、
春風吹来之故也、不知其由緒、彼朝臣不測涯分、補佐政道、口入叙位除目、於
事有過分之聞歟、果而逢不慮之横災、天責難遁歟、可恐可慎、其外条々事等雖
奏聞、無漏泄之分歟、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

と資緒王・六条康能の二人が登場するだけで、善空上人の名前はありません。
そして『実躬卿記』正応四年(1291)五月二十九日条で善空上人の「口入」があったとされる人々も、その代表である六条康能・資緒王、そして資緒王の弟である源顕資の経歴を見ると、別にそれほど目覚ましい立身出世とも思えません。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その18)(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03370a791c4d0dec8b2a9865cc22c7ef
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a17e8b4881a9045cf30f728113fbff8

更に「被返付所領及二百所」とはありますが、一部に「貴所御領」を含むとはいえ「乙甲人等家地・所領等」が中心のようなので、市中の片々たる土地の集合のような感じです。
という具合いに、善空事件を調べれば調べるほど何だかショボい話のようにも思えてくるのですが、とにかく首魁らしい善空上人が何者かが分からないので、結局は良く分らない話ですね。
ただ、少なくとも筧氏のように、善空事件への対応を巡って後深草院と伏見天皇の間に父子対立があった、と考えるのは変だろうと思います。
「六波羅を支配する御内人」(『蒙古襲来と徳政令』、p213)として長崎新左衛門入道性杲なる人物が蟠踞し、性杲が「探題の家人(後見役)というよりは、むしろ平頼綱の分身的存在」(p214)であり、善空上人が性杲と親しかったならば、朝廷側にとって善空上人は怖くて逆らえない人ですね。
従って、後深草院が善空上人の意向に沿った人事や所領安堵を行ったとしても、それは当該時点では止むを得ないことであり、伏見天皇だったら別の対応が出来た、という話ではなかろうと思います。
要するに変化したのは朝廷ではなく幕府の側であり、幕府上層部での力関係が平頼綱にとって不利に、北条一門(中心は連署の大仏宣時か)にとって有利に変化し、それが六波羅にも影響して性杲の地位が安泰ではなくなり、結果として朝廷側は、従来から不満を持っていた善空上人の「口入」について鎌倉に訴えても性杲から報復されることはないだろう、との見込みが立ったので京極為兼を鎌倉に派遣した、ということだろうと思います。
その際には伏見天皇は後深草院の面目をつぶさないよう、後深草院にも事前に了解を取っていたでしょうね。
そして、そのような情勢の変化をもたらす契機のひとつとなったのが正応三年(1290)三月の浅原事件だろうと思います。
五年前の霜月騒動で所領を失い、各地を流浪していたらしい浅原為頼の暴発が幕府内で同情を呼ぶことはなかったでしょうが、伏見天皇暗殺未遂事件の真相と責任を追及する過程で「六波羅を支配する御内人」性杲への視線は厳しくなったはずであり、それが翌年の性杲の失脚に結びついた、というのが現時点での私の一応の見通しです。

善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d614408ec9caa4bb1bba137d93ec590c

なお、6月27日に刊行が予定されている野口実・長村祥知・坂口太郎氏の共著『京都の中世史3 公家政権の競合と協調』(吉川弘文館)の目次を見たところ、「七 両統迭立への道」「2 伏見親政期の政治と文化」に「禅空失脚事件」があります。
ここは恐らく坂口太郎氏(高野山大学准教授)の担当でしょうが、仏教に詳しい坂口氏であれば善空(禅空)に関する新しい知見があるかもしれないので期待しているところです。
「3 両統迭立」の「両統の融和と遊義門院」についても、かねてから遊義門院に注目してきた私にとっては期待するところが大きいですね。

-------
武士の世のイメージが強い鎌倉時代。京都に住む天皇・貴族は日陰の存在だったのか。鎌倉の権力闘争にも影響を及ぼした都の動向をつぶさに追い、承久の乱の前夜から両統迭立を経て南北朝時代にいたる京都の歴史を描く。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b604393.html
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その5)

2022-06-24 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月24日(金)12時21分39秒

前回投稿で引用した部分の後、筧氏は浅原事件の概要を説明し、更に私にはあまり納得できない「三条実盛の女」に関する独特の見解を披露されてから、次のように述べます。(p255)

-------
伏見天皇の「徳政」

 正応三年二月、後深草は出家し、伏見天皇の親政がはじまった。浅原為頼父子は、親政開始直後の天皇を襲ったことになる。蓮花王院の修正会や、新日吉の五月会など、天皇家の家長の主催する諸行事は、依然として後深草法皇が一切をとりしきっていたけれども、朝廷人事の決定権は、天皇に移譲され、また職事たちの「奏事」も、法皇から天皇へと、その対象をかえたことであろう。
 翌、正応四年五月から六月にかけて大きな変化があり、後深草が、廷臣たちの所務相論について下した判決、およそ二百件が一気にくつがえされた。所領を回復した側にとって、この措置は、天皇による「徳政令」と映じたに違いない。善空上人の「口入」により昇進した人々も、あるいは解官され、あるいは出仕を止められた。「徳政令」は、亀山法皇が本家として支配する荘園群にも及び、多くの所領が本主(善空の口入によって敗訴した側)の許に返付された、という。以上、善空に関わる記事は、ひとり『実躬卿記』のみが伝えるところであり、持明院統内部の代替わりの状況を具体的に示す好史料なのであるが、最後のくだりは、やや複雑な意味合いがあって、亀山も善空上人を近づけていたのか、それとも治天の君としての後深草の権限が、亀山の荘園群の上にも行使されたのか、判然としない憾〔うら〕みがある。
-------

筧氏は「善空に関わる記事は、ひとり『実躬卿記』のみが伝えるところ」と書かれていますが、『実躬卿記』でも関連する記述は正応四年(1291)五月二十九日条と六月一日条の二日分のみです。
『大日本古記録 実躬卿記(二)』(岩波書店、1994)から当該部分を引用すると、

-------
<家君御参西郊予同参事>
 廿九日 晴、早旦御参嵯峨殿、予同参、御車、法皇此間野寄〔宮カ〕殿為御所、仍且被申子細之処、可有
 御参之由被仰下、即御参、只々〔今〕御時之様〔程カ〕也、帥・高倉前宰相<〔藤原〕茂通>・前左兵衛督<〔藤原〕宗親>・宗氏・良珍
<善空法師被拠〔処〕罪科事>
 法眼候御前、家君即御参、予又随御目参御前、抑善空聖人、日比以来、成人々訴訟・官位等事口
 入、或貴所御領等拝領、或乙甲人等家地・所領等悉伝領、此事已及四五个年、然而此間訴人多
 以下向関東、訴彼上人一人、右衛門督<為兼>、為公家御使被仰此事之由風聞、若此事為実事歟、其
 比被召下被相尋、一々無陳方歟、仍先日上洛以御使、彼仁口入所皆悉可被返付本主之由、申之
 云々、仍此一両日之間、面々被返付所領及二百所云々、或以彼仁口入令昇進之輩、民部卿<康能>・
 中将<資顕>・左衛門権佐<兼俊>解官、伯二位資緒等被止出仕、不可説々々、非所及言語事也、禅林
 寺殿法皇御領等も多拝領、皆被返付本主云々、及晩自西郊退出、

<善客〔空〕為口入任官輩被解官事>
 一日、晴、昨日明法博士中原職隆・検非違使藤清経〔両脱カ〕人被解官云々、口入彼仁〔善空〕歟、東使此一両日
 下向云々、長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉被召下、   、又下遣使者之由風聞、今日匠作
 〔藤原実時〕許へ行向、鵯合、又有盃酌事、〔藤原〕公兼卿同在此所、入夜帰家、
-------

ということで(p138以下)、五月二十九日、正親町三条実躬は「家君」(父親の公貫)と一緒に嵯峨殿に行ったところ、亀山法皇の御前に「帥」(中御門経任)・高倉茂通・藤原宗親・藤原宗氏・良珍法眼が伺候しており、公貫・実躬父子もその場に加わったところ、善空上人に関する話題となります。
そもそも善空上人は、「人々訴訟・官位等事」に「口入」したり、「貴所御領等」を「拝領」したり、「乙甲人等家地・所領等」を「悉伝領」したりする悪事をここ四五年続けており、被害者の多数の「訴人」が鎌倉に下って「彼上人一人」を訴えていた、そして、「右衛門督」京極為兼が、「公家御使」として関東に行った訳ですね。
正直、私には「右衛門督<為兼>、為公家御使被仰此事之由風聞、若此事為実事歟、其比被召下被相尋、一々無陳方歟」の部分が正確に理解できないのですが、とにかく「公家御使」の為兼が関東で交渉したところ、先日、関東から東使が上洛し、善空が「口入」した「所皆悉可被返付本主之由」を申したので、この一両日の間に「返付」された所領は二百ヵ所に及び、善空が「口入」して昇進させた輩の「民部卿<康能>・ 中将<資顕>・左衛門権佐<兼俊>」は解官、「伯二位資緒等」は出仕を止められることになります。
六月一日の追加情報によると、「明法博士中原職隆・検非違使藤清経」も解官となり、役目を終えた「東使」は関東に戻り、「長崎新左衛門入道性杲・平七郎左衛門尉」が「召下」されたようですが、空白部分もあって、事情は必ずしも明確ではありません。
さて、文中に二箇所「風聞」とありますが、実躬も本当に事情に精通している訳ではなく、特に五月二十九日条はあくまで亀山院側近の事情通からの伝聞ですね。
そして、一番分かりにくいのが「禅林寺殿法皇御領等も多拝領、皆被返付本主云々」で、ここは筧氏が言われるように「亀山も善空上人を近づけていた」ようにも読めます。
その解釈が正しいのであれば、亀山院は被害者ではなく、むしろ善空上人に加担した加害者側になってしまいますね。
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その4)

2022-06-23 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月23日(木)11時03分4秒

「上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる」(p215)と、何故か「ある律僧」の名前を出さなかった筧氏は、「第六章 両統迭立の日々」に入ると「3 公家徳政のめざすもの」で善空上人の名前を二度登場させます。
この節は、

-------
「徳政」はじまる
三人の武者、伏見天皇を襲う
三条実盛の女
伏見天皇の「徳政」
-------

と構成されていますが、「「徳政」始まる」の冒頭、筧氏は、

-------
 亀山上皇の周辺の人々は、弘安七、八年のころから、一つの可能性を意識せざるを得なくなった。皇位交代(春宮胤仁親王、のちの後伏見天皇の即位)の可能性である。平安時代半ば以降、在位十年をこえた天皇はすくない。天皇が代わっても、多くの場合、治天の君の地位はゆるがなかったが、今回、春宮は、亀山の兄、後深草上皇の系統である。皇位の交代は、ただちに天皇家の家長の座に波及するであろう。この可能性から、すこしでも遠ざかるための方途が、真剣に求めらなくてはならぬ。
-------

と書かれています。(p247)
しかし、胤仁親王(後伏見天皇)は弘安十一年(正応元、1288)生まれなので、「弘安七、八年のころ」には存在しておらず、ここは熈仁親王(伏見天皇、1265生)の勘違いですね。

後伏見天皇(1288-1336)

さて、「弘安徳政」の内容を説明された後、筧氏は、

-------
 ここでちょっと先回りして「徳政」のゆくえを見ておくことにする。亀山のあとを襲って治天の君となった後深草は、評定衆のメンバーから、名家出身者を排除した。訴訟当事者双方の言い分を聴取する場は、全く消え去ったか、そうでなくとも出現する度合いを大きく減じたであろう。第五章「岐路に立つ鎌倉幕府」で触れたように(二一五頁)、後深草は、側近の律僧、善空上人にもろもろの訴訟を取り次がせ、のちに鎌倉幕府の申し入れによって本主のもとに各々返付された所領は二百ヵ所に達した、という。これは、訴人もしくは論人どちらかの主張を取り上げて判決が下された結果であり、後深草が「奏事」一本槍、しかもかなり恣意的なやり方で、所務相論をはじめとする訴訟に臨んだ可能性を示す。なお、鎌倉幕府の申し入れがなされるに至ったのは、京極為兼が「公家御使」すなわち伏見天皇の使者として鎌倉に下り、善空の排除をはたらきかけたことによるらしい。天皇は、父上皇の下した判決を正すにあたり、関東に訴えて、とくにその介入をもとめたのである。父子の間も、また微妙であった。
-------

とされるのですが(p249以下)、「亀山のあとを襲って治天の君となった後深草は、評定衆のメンバーから、名家出身者を排除した」は、事実認識として誤りではないかと思われます。
本郷和人氏は、『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)において、

-------
 ところが、二君に仕えたからといって、経任一人を責めるのは酷であるようにも思われる。というのは、亀山上皇の他の近臣も、後深草上皇に近侍しているからである。試みに正応二(一二八九)年の評定衆をあげよう。

  近衛家基・堀川基具・源雅言・中御門経任・久我具房・平時継・日野資宣・葉室頼親

翌年の後深草上皇の院司は次の人々である。

  西園寺実兼・源雅言・中御門経任・日野資宣・葉室頼親・吉田経長・中御門為方(経任ノ子)・冷泉経頼・
  坊城俊定・平仲兼・葉室頼藤(頼親ノ子)・日野俊光(資宣ノ子)・平仲親・四条顕家・藤原時経

これをみると、亀山上皇の伝奏はほとんど後深草上皇の院司となっており、何人かは評定衆にも任じられている。経任のごと-に伝奏にはならずとも、上皇の側近くにあったことはまちがいない。父子ともに院司になっている例もあり、兄経任を厳しく非難した経長も、弟経頼ともども上皇に仕えている。


とされており、中御門経任以下、後深草院政下においても名家出身者はけっこう評定衆となっていますね。
ま、それはともかく、伏見天皇が、二百ヵ所にも及ぶ所領の訴訟で「父上皇の下した判決を正すにあたり、関東に訴えて、とくにその介入をもとめた」のであれば、後深草院としては面目丸つぶれも良いところで、「父子の間も、また微妙」どころか、いくら温厚な後深草院といえども激怒して伏見天皇排除のために何かやりそうなものです。
しかし、この時期、後深草院・伏見天皇間で深刻な闘争が勃発したような気配は全くありません。
筧氏の見解は何とも不自然なのですが、それは筧氏の史料解釈の誤りの可能性を示唆しています。
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その3)

2022-06-22 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月22日(水)13時14分0秒

筧氏が「正応六年(一二九三)四月二十一日の早朝、経師ヶ谷の頼綱屋形に得宗の意をうけた討手が馳せむかい、合戦のすえ、頼綱、飯沼助宗父子は、屋形に火を懸け、自害した」と書かれているように、平頼綱の本邸は名越の経師ヶ谷にありましたが、後深草院二条が向かったのは別の場所です。
即ち、

-------
 相模の守の宿所のうちにや、角殿とかやとぞ申しし。御所さまの御しつらひは、常のことなり。これは金銀金玉をちりばめ、光耀鸞鏡を瑩いてとはこれにやとおぼえ、解脱の瓔珞にはあらねども、綾羅錦繍を身にまとひ、几帳の帷子引き物まで、目も輝きあたりも光るさまなり。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

とのことで、平頼綱の役宅は「相模の守の宿所のうち」の「角殿」であり、空間的にも頼綱は得宗・北条貞時に密着していた訳ですね。
そして、豪華絢爛な頼綱邸には、大柄で派手な雰囲気の平頼綱夫人が二条を待ち構えています。

-------
 御方とかや出でたり。地は薄青に紫の濃き薄き糸にて、紅葉を大きなる木に織り浮かしたる唐織物の二つ衣に、白き裳を着たり。みめことがら誇りかに、たけ高く大きなり。かくいみじと見ゆるほどに、入道あなたより走りきて、袖短かなる白き直垂姿にて馴れ顔に添ひゐたりしぞ、やつるる心地し侍りし。
 御所よりの衣とて取り出だしたるをみれば、蘇芳の匂ひの内へまさりたる五つ衣に、青き単重なりたり。上は、地は薄々と赤紫に、濃き紫、青き格子とを、かたみがはりに織られたるを、さまざまに取りちがへて裁ち縫ひぬ。重なりは内へまさりたるを、上へまさらせたれば、上は白く二番は濃き紫などにて、いと珍らかなり。「などかくは」といへば、「御服所の人々も御暇なしとて、知らずしに、これにてして侍るほどに」などいふ。をかしけれども、重なりばかりはとり直させなどするほどに、守の殿より使あり。
「将軍の御所の御しつらひ、外様のことは比企にて、男たち沙汰し参らするが、常の御所の御しつらひ、京の人にみせよ」 といはれたる。とは何ごとぞとむつかしけれども、ゆきかかるほどにては、憎いけしていふべきならねば、参りぬ。これは、さほどに目あてられぬほどのことにてもなく、うちまかせて公びたる御事どもなり。御しつらひのこと、ただ今とかく下知しいふべきことなければ、「御厨子の立て所々らく御衣の掛けやうかくやあるべき」などにて帰りぬ。
-------

ということで、「御方とかや」に二条の差別意識が少し出ていますが、とにかく頼綱夫人はそれなりに立派に見えたのに、頼綱入道がチョコチョコと走り寄ってきて、妙に袖の短い変な服装でだらしなく夫人に寄り添っていたのは興ざめであった、と二条の頼綱に向けられた視線は極めて辛辣です。
そして肝心の「五つ衣」は無教養で無知蒙昧な連中が訳の分からない裁ち方をしていたので滑稽だったけれども、自分が適切に指導してあげたところ、今度は得宗・北条貞時から使いが来て、将軍御所の公的空間は「比企にて、男たち沙汰」するが、「常の御所」の内装は「京の人」にチェックしてもらえ、という貞時の指示があったと聞き、面倒臭いなとは思ったものの、行き掛かり上、仕方ないかと思って行ってあげたら、こちらは「五つ衣」ほど目も当てられないという状況ではなく、少しアドバイスしてあげて帰りました、となります。
以上、長々と『とはずがたり』を引用しましたが、この場面では歴史学者が強調するところの平頼綱政権の「恐怖政治」の雰囲気が欠片も感じられないので、何だか妙な具合いですね。
なお、この「比企にて、男たち沙汰」云々の意味が分かりにくく、三角洋一氏のように「日記」の誤記ではないかとする研究者もおられますが、それではなおさら意味不明です。
少し時期は後になりますが、金沢北条氏の周辺に「比企助員」という早歌の作者が存在しているので、あるいは没落した比企一族の中で、政治的には重要な立場ではなくとも、何らかの特別な知識・技能を生かして将軍家・得宗家に仕えていた「比企」某がいたのかもしれません。

外村久江氏「早歌の大成と比企助員」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b50b1527bad3dab51ee650443f6cc38

さて、筧著に戻ると、筧氏は「東二条院から平禅門の「御かた」への下賜品も、じっさいは後深草上皇から頼綱への贈与であったろう」と書かれていますが、対象が「五つ衣」ですから、ここは素直に女性から女性への贈り物と考えるべきでしょうね。
もちろん政治的な意味合いがあるので、後深草院の承認があったであろうことは当然です。
そして、筧氏は「上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる」という具合いに、ここでは何故か善空上人の名前を出しませんが、「第六章 両統迭立の日々」の「3 公家徳政のめざすもの」に再び善空上人が登場します。
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その2)

2022-06-22 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月22日(水)10時10分39秒

前回投稿で引用した部分で、筧氏は「この間、洛中における得宗家の拠点、五条の安東平右衛門入道の屋形は、六波羅の分庁のような存在となり、蓮聖やその子息は、探題兼時腹心の被官(家人)として活動したであろう」と言われています。
私も安東蓮聖の周辺を少し調べてみましたが、「五条の安東平右衛門入道の屋形」が「六波羅の分庁のような存在」となっていたことを積極的に基礎づける史料はおそらくないだろうと思います。
また、蓮聖との関係は明確ではありませんが、安東一族であることは間違いない安東重綱は平禅門の乱で平頼綱を討伐する側に立っており、「六波羅を支配する御内人」の筆頭である長崎新左衛門入道性杲と安東蓮聖の関係が良好だったのかも不明です。
鎌倉幕府の首脳部が一枚岩でないのと同様、得宗被官も一枚岩ではなかったはずなので、安東蓮聖の役割については慎重に考慮する必要があると思います。
なお、私は善空上人関係の史料が出てくるとすれば、やはり久米田寺あたりからではないかと考えていました。
西大寺流の律宗は本当に急激に膨張したので、そうした巨大組織の通例として派閥対立はあったはずであり、大きく叡尊派と忍性派に分かれる中で、安東連聖が庇護した久米田寺は鎌倉と緊密に連繋していた忍性派の拠点だったと思われます。
とすると、平頼綱と近かったらしい善空上人は忍性派で、久米田寺とも関係があったのではないかと推測していたのですが、これもやはり慎重に考えるべきかもしれません。
ま、それはともかく、筧著の続きです。(p215以下)

-------
 飯沼助宗の検非違使補任といい、長崎性杲の六波羅における活動といい、頼綱執政期は、得宗御内人の朝廷側への接近を示す痕跡が、すくなくない。『とはずがたり』に言及された、東二条院から平禅門の「御かた」への下賜品も、じっさいは後深草上皇から頼綱への贈与であったろう。上皇は、ある律僧を身辺に近づけ、人々の訴訟や官位昇進の請願を取り次がせた、といわれる。敗訴者たちの多くが鎌倉へ下って事情を訴え、幕府が不快感を示したため、問題の律僧の口入(取り次ぎ)によって昇進した殿上人は出仕を停められ、また二百ヵ所におよぶ所領が本主の許に返付された(『実躬卿記』正応四年五月二十九日条)。このとき、長崎新左衛門入道(性杲)は、おなじく頼綱の一族、平七郎左衛門尉とともに関東へ召喚された、と伝えられる。上皇側近の律僧と、六波羅に駐在する得宗御内の有力者は、手を携えて、後深草上皇の治世に影響力を及ぼしていたのではあるまいか。
 長崎性杲が、関東へ向かいつつあった、六月五日のことである。頼綱は、山門出身の護持僧に、かつて城陸奥入道追討の際、効験をあらわした秘法を再び修すべきむね、極秘裡に申し送った。理由は「世上怖畏」である。長崎性杲の関東召喚にいたる経緯の中に、頼綱は、ある種の予兆を見て取ったのであろう。泰盛調伏に用いた秘法を、自らの身を守るため、役立てようとしたのである。頼綱の去るべきときが、近づきつつあった。正応六年(一二九三)四月二十一日の早朝、経師ヶ谷の頼綱屋形に得宗の意をうけた討手が馳せむかい、合戦のすえ、頼綱、飯沼助宗父子は、屋形に火を懸け、自害した。得宗の身辺には、弘安の第二次モンゴル合戦の際「御使」として現地へ赴いた安東重綱の姿があった。頼綱の死命を制したのは、おそらく、安東一族をはじめとする、おなじく得宗御内の人々であったろう。北条貞時の時代が、ここにはじまる。
-------

「東二条院から平禅門の「御かた」への下賜品」については、『とはずがたり』に詳細な記述があります。
『とはずがたり』の巻四で、いつの間にか尼になっていた後深草院二条は正応二年(1289)二月二十日過ぎ、鎌倉に向けて京都を出発し、普通は二週間くらいの日程なのに一か月くらいかけてのんびり下って翌三月二十日過ぎに鎌倉に入ります。
そして鶴岡八幡宮や「荏柄・二階堂・大御堂などいふところども拝」んだ後、「大蔵の谷といふ所に、小町殿とて将軍に候ふは、土御門の定実のゆかりなれば」手紙を送ったところ、「小町殿」が「いと思ひ寄らず」「わがもとヘ」と言ってくれたにもかかわらず、「なかなかむつかしくて、近きほどに宿をとりて」過ごします。

http://web.archive.org/web/20150513072639/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-komachidono.htm

そして、しばらくブラブラしていると、九月になって惟康親王が将軍を罷免され、京都に送還されるという大事件が発生し、二条は、

-------
 さても将軍と申すも、ゑびすなどがおのれと世をうち取りて、かくなりたるなどにてもおはしまさず。後の嵯峨の天皇、第二の皇子と申すべきにや、後深草のみかどには、御年とやらんほどやらん御まさりにて、まづ出でき給ひにしかば、十善のあるじにもなり給はば、これも、位をも継ぎ給ふべき御身なりしかども、母准后の御事ゆゑかなはでやみ給ひしを、将軍にて下り給ひしかども、ただ人にてはおはしまさで、中務の親王と申し侍りしぞかし。その御あとなれば、申すにや及ぶ。何となき御おもひ腹など申すこともあれども、藤門執柄の流れよりも出で給ひき。いづ方につけてか、少しもいるがせなるべき御ことにはおはしますと思ひつづくるにも、まづ先立つものは涙なりけり。

http://web.archive.org/web/20150512020204/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-6-shogunkoreyasu.htm

などと憤慨します。
そして、新たに後深草院の皇子である久明親王が将軍として東下することとなり、「平左衛門入道が二郎、飯沼の判官、未だ使の宣旨もかうぶらで、新左衛門と申し候ふ」助宗が迎えに行きます。
久明親王の到着が近づいて世間が騒がしくなったころ、「小町殿」から二条に手紙が来ます。

-------
 何ごとかとてみるに、思ひかけぬことなれども、平入道が御前、御方といふがもとへ東二条院より五つ衣を下し遣されたるが、調ぜられたるままにて縫ひなどもせられぬを、申し合はせんとて、さりがたく申すに、「出家の習ひ苦しからじ。そのうへ誰とも知るまじ。ただ京の人と申したりしばかりなるに」とて、あながちに申されしもむつかしくて、たびたびかなふまじきよしを申ししかども、果ては相模の守の文などいふものさへとり添へて、何かといはれしうヘ、これにては何とも見沙汰する心地にてあるに、安かりぬべきことゆゑ、何かと言はれんもむつかしくて、まかりぬ。

http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm

ということで、東二条院から平頼綱夫人に「五つ衣」が贈られてきたものの、文化レベルの低い「ゑびすなど」にはその扱い方が分からないので困っているようです、相談に乗ってもらえませんか、と依頼が来ます。
しかし、面倒なので何度も断っていたところ、とうとう「相模の守の文」(得宗の北条貞時の手紙)まで送られてきたので、仕方なく二条は平頼綱邸に向かいます。
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善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その1)

2022-06-21 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月21日(火)13時29分44秒

細川重男氏は『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』(日本史史料研究会、2007)の「第五章 飯沼大夫判官資旨─「平頼綱政権」の再検討」の「はじめに」において、

-------
 頼綱の政敵安達泰盛については、その断行した政治改革「弘安徳政」と共に、非常に多くの研究がなされているのに対し、泰盛を打倒し弘安徳政を葬ったとされる頼綱とその政権については、研究史と言うべきものが、ほとんどない。一九七四年、網野善彦氏が『蒙古襲来』において二〇頁を割き、一九九四年、森幸夫氏が「平頼綱と公家政権」を発表したのが、先行研究と言うべき論考であろう。
 森氏の研究は、頼綱の朝廷への介入を主題としたものであり、頼綱政権そのものへの言及はあまりないので、網野氏の学説をまとめると、次のようになる。【後略】
-------

と書かれています。(p109)
この他、筧雅博氏の『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』(講談社、2001)も平頼綱政権について、それなりの分量で論じられていますが、筧著は一種独特のエッセイ風の文体で書かれているので、ちょっと使いづらいところがありますね。
ただ、善空事件に関する記述は類書にないものなので、少し紹介したいと思います。
まずは前提として、「第五章 岐路に立つ鎌倉幕府─弘安の役から平頼綱誅殺まで」から、平頼綱政権の基本的性格に関する部分を引用します。(p206以下)

-------
恐懼の外、他事なし

 平頼綱(弘安七年秋以降、出家して法名杲円〔こうえん〕、平金吾禅門とよばれる)の時代は、およそ七年半ほどつづいた。この間、幕府諸機構に変革の加えられた形跡はなく、また頼綱のひきいる御家人たちが、評定衆や引付衆に名を連ねた様子もない。泰盛方の人々の後任者となったのは「鎌倉中」の有力御家人ばかりである。鎌倉幕府の日常は、もとのままであった。頼綱は、故泰盛の旧領の中核をなす上野国を得たが、その地位は守護代であり、守護ではない。幕府草創期の身分的秩序は、依然として生きており、敵対者の権限をすべて得るのが、中世の、なかんずく鎌倉幕府の基本律であったとしても、頼綱やかれの子息たちが、霜月騒動で滅び去った人々の地位を、そのままに引き継ぐことは、不可能であった。したがって頼綱の幕府諸機構に対する支配は、祖父以来、所司(次官)職を伝領する侍所を別にすれば、正統性を見出し難い。おそらくは、泰盛を倒した、その事実自体が、ひとびとを慴伏させる力の源泉となったのであり、弘安七年から八年にかけて試みられた、故泰盛の施策を根こそぎ否定してゆくことが、頼綱に対する、一定の求心力をもたらしたのであろう。
-------

平頼綱政権の基本的性格については、細川氏も、

-------
 頼綱政権期の鎌倉幕府の政治体制は、弘安徳政期と同じく寄合による合議体制であったと考えられる。よって最高議決機関たる寄合のメンバーであるという点において、頼綱の地位は安達泰盛と同様であった。頼綱と泰盛の相違点は、頼綱が評定・引付には、ついに自身も一門も加えることはなかったという点である。頼綱は寄合─評定─引付という鎌倉幕府の政治システムの主軸においては、その頂点たる寄合にしか地位を有さず、言ってみれば、根の無い状態にあった。長崎氏は評定・引付衆に就任した先例を持たなかったため、頼綱政権にあっても、これらの職に就任することができなかったのである。ゆえに頼綱は、一門を中心とする御内人に引付の監察権を与えるという、まわりくどい方式を採らざるを得なかった。筧雅博氏の指摘のごとく、頼綱は霜月騒動に勝利したという一点によって鎌倉幕府の指導者の地位に就いたものの、鎌倉幕府の政治機構を根本的に変革することも、政治機構の正式ルートに自身や一門を加えることもできなかったのである。
 加えて、霜月騒動で頼綱と共に戦った人々は、おそらくは反安達の一点で結集したのであり、泰盛一党の滅亡後には、必ずしも頼綱に協力的であったとは思われない。頼綱政権期に頼綱と共に寄合を構成した大仏(北条)宣時・北条時村は、北条氏一門であり、庶家出身者とは言え、本来主筋にあたる二人は、頼綱をしても制御しかねる発言権を有していたはずである。
-------

とされており(『鎌倉北条氏の神話と歴史』、p127)、鎌倉が一枚岩でなかったことは間違いなかろうと思われます。
では、京都はどうだったのか。
筧氏は、上記引用部分に続けて『とはずがたり』を大量に引用して後深草院二条と平頼綱・飯沼助宗の交流を妙に詳細に描いた後、「六波羅を支配する御内人」について論じられます。(p213以下)

-------
六波羅を支配する御内人

 北条兼時(弘安二年、長門国でなくなった宗頼の子)は、霜月騒動の前年、播磨加古川から六波羅に入り、探題となった。かれの六波羅在任は、平頼綱の執政期間とほぼ重なる。この間、洛中における得宗家の拠点、五条の安東平右衛門入道の屋形は、六波羅の分庁のような存在となり、蓮聖やその子息は、探題兼時腹心の被官(家人)として活動したであろう。「長崎」を名乗る御内人は、平頼綱の父の代に、平左衛門尉の家から分かれた、いわば庶子流であるが、兼時とともに六波羅に入ったと見られる人々の中に、長崎新左衛門入道性杲〔しょうこう〕なる人物がいた。頼綱の従兄弟、長崎左衛門尉光綱は、朝廷方の訴えを得宗に取り次ぐ、五人の御内人のメンバーにえらばれており、六波羅に入った新左衛門入道性杲は、たぶん、光綱の兄弟であろう。第二章「錯綜する領域支配権」で触れたように、探題の家人は、六波羅侍所(検断方)の上級職員として、洛中洛外の検断にあたり、また探題分国の守護代を兼ねるのをならわしとしたが、性杲の場合、そのような伝統的職務以外の権限が備わっていた形跡がある。
【中略】
 性杲は、探題の家人(後見役)というよりは、むしろ平頼綱の分身的存在であったのかも知れない。【中略】朝廷や本所方との日常的な交渉において、相当の検断権が性杲に賦与されていたのである。
 頼綱の私的な命令が、探題不にもたらされることもあった。【中略】六波羅の中枢に長崎性杲がおればこその措置であった。
-------

【中略】としたところにはそれぞれ事例が書かれていますが、全文引用すると長くなるので省略しました。
このように平頼綱政権の基本的性格と「六波羅を支配する御内人」について検討された後、筧氏は善空事件に言及されます。
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掲示板の今後について

2022-06-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月20日(月)20時41分17秒

teacup掲示板が8月1日で終了しますが、「したらば掲示板」からteacup利用者に対して引越しの誘いがあり、従来の全ての投稿を移転できるとの触れ込みだったので、私も先方の指示に従って引越しの手続きを取ってみました。
私としては、従来のように新しい投稿から順に、ひとつずつ独立した形で移転されるものと考えていたのですが、掲示板といっても「したらば掲示板」はteacupとは全く仕組みが異なり、一つのスレッドに不特定多数が書き込む形式となっていて、しかも新しいレスが上に来るようになっています。
そのため、引越しの結果、「したらば掲示板」ではteacup掲示板の一番古い投稿、2007年6月3日付の釈由美子が好き氏(細川重男氏、当時の共同管理人)の投稿の下に、私の直近の投稿から順番に7500ほどのレスが付くという事態となり、事前の予想と余りに異なる結果となったので、ちょっと当惑してしまいました。

https://jbbs.shitaraba.net/study/13414/

まあ、過去十五年分の膨大な投稿の保管先ができ、teacup掲示板にはなかった検索機能も備えていることは嬉しいのですが、何しろ従来の掲示板とはあまりに使い勝手が異なり、どうしようかなと思っています。
選択肢としては、

(1)このまま「したらば掲示板」を使う。
(2)「したらば掲示板」を保管庫とし、従来と同様の形式の別の掲示板を探す。
(3)「したらば掲示板」を保管庫とし、参加者とのやり取りはgooブログ「学問空間」の「コメント」機能で代替する。

くらいかと思いますが、なお考慮中です。
最近の実態としては当掲示板も殆ど私のブログ同然なので、(3)でも良いようには思うのですが、(3)では参加者との対等性が失われますから(2)にも未練が残ります。
もう少し考えてみることにします。
なお、当掲示板は確かNHK大河ドラマの『北条時宗』(2001年)を契機に「鎌倉時代史掲示板」というタイトルで始まりましたが、当時はteacupの無料掲示板は投稿の上限が2000投稿くらいに設定されていて、初期の投稿は順次消えて行きました。
その制限はいつしかなくなりましたが、最新の投稿の連番が11319ですから、宣伝投稿や荒らし投稿を含め、二十年余の間に単純合計でそれだけの数の投稿がなされ、現在は7500程度の投稿が残っている訳ですね。
なかなか感慨深いものがあります。
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善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その2)

2022-06-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月20日(月)13時49分37秒

従来、善空事件についてある程度まとまった見解を提示されたのは森幸夫氏と筧雅博氏(『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』、講談社、2001)だけですが、筧氏も善空事件と浅原事件は別個独立に論じておられます。
もちろん私も「弘安十年・正応元年ころより」、「翌四年五月、伏見は側近の京極為兼を鎌倉に派遣して執権北条貞時に訴え、排除を断行することになる(『実躬卿記』)。これにより京都での善空一派の力は弱まり、永仁元年四月の貞時による頼綱誅滅(平禅門の乱)とともに、善空は完全に没落する」まで、短く数えて四年、長く数えると足掛け七年もダラダラ続いた善空事件と、騒動自体は正応三年(1290)三月十日の僅か一日で終わった浅原事件との間に何らかの因果関係があるとは考えていません。
ただ、浅原事件は善空事件の曖昧さを解明するヒントになるのではないかと思います。
善空事件はその出発点、即ち正応元年(1288)十月に東使、佐々木時清・矢野倫益の二人が、(『勘仲記』の著者、勘解由小路兼仲の推測によれば)「伯二位資緒卿・伝奏兵部卿康能朝臣」の「不測涯分、補佐政道、口入叙位除目、於事有過分」を改めるように指示し、朝廷がこれに応じて二人を「勅勘」したにもかかわらず、二人はこの時点で失脚していないことが、まず不思議です。
失脚しないどころか、六条康能は正応三年(1290)正月十九日に任参議、叙従三位、翌正応四年(1291)正月六日に後深草院の「当年御給」により正三位と、むしろ昇進しており、資緒王の弟の源資顕も正応三年二月七日に正四位上に昇り、同年十一月二十一日には少将から中将に転じています。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その17)~(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03370a791c4d0dec8b2a9865cc22c7ef
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a17e8b4881a9045cf30f728113fbff8

後深草院が幕府の意向をあえて無視してこうした人事を専断したとは考えにくいので、おそらく善空上人と「六波羅探題北条兼時の被官長崎新左衛門入道性杲と平七郎左衛門尉」の巻き返しがあったものと思われますが、長崎新左衛門入道性杲と平七郎左衛門尉の二人も正応四年(1291)五月以降、京都から鎌倉に召喚されたようです。
こうした状況の変化をどのように捉えればよいのか。
私見では、そもそも平頼綱政権は一枚岩ではなく、反安達泰盛の一点で結びついた北条一門(中心は連署の大仏宣時か)と平頼綱以下の得宗被官の連合体と想定します。
そして平頼綱が露骨に朝廷との接近を図ったため、京都では平頼綱派の影響力が強く、これが善空上人の活動の温床となったと想定します。
更に、正応三年(1290)三月の浅原事件の発生までは、六波羅から鎌倉へ伝わる情報は平頼綱派に偏り、朝廷が鎌倉の意向として受け取った情報も、実際には平頼綱派によって歪められた情報になっていたと想定します。
ところが、浅原事件の結果、真相究明と責任追及のために京都と鎌倉の情報交換が活発化し、その副産物として、従来、鎌倉が得ていた京都情報が必ずしも正確ではなく、平頼綱派により歪められていたことが得宗の北条貞時、そして連署の大仏宣時を中心とする反頼綱派に伝わったと想定します。
他方、朝廷からすれば、従来、善空上人等の意向が鎌倉の意向だと思って我慢していたのに、どうもそうでもないらしい、ということが分かってきたと想定します。
以上、想定を重ねてみましたが、平頼綱政権が一枚岩ではないという最初の想定は細川重男氏なども言われていることであり、まあ、確実だろうと思います。
そして以降の想定も、善空事件の奇妙に曖昧な推移と、平禅門の乱に至る過程をそれなりに合理的に説明できる推論なのではなかろうかと考えます。
当時、京都と鎌倉の人的交流はそれなりに活発でしたが、ただ、霜月騒動で幕府首脳部の半数を粛清し、安達派の御家人、少なくとも五百人を殺害した平頼綱の「恐怖政治」が行なわれていた時代ですから、何か知っていても、万一のとばっちりを恐れて言えないことも多かったはずです。
そうした不自由な情報環境が浅原事件の副産物として解消され、平頼綱の虎の威を借りた狐どもが京都で好き勝手やってるらしいぞ、ということが鎌倉の反頼綱派に伝わり、京都でも、善空一派の不正を鎌倉に訴えても安心らしいぞ、という見込みが立ったからこそ、伏見天皇は京極為兼を鎌倉に派遣した、と私は考えます。
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善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その1)

2022-06-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月20日(月)10時59分28秒

歴史研究者なら誰でも見ている『公卿補任』を素材に、善空事件に関与したとされる六条康能・資緒王・源資顕の経歴を調べてみましたが、まあ、率直に言って公家社会においては余りたいしたことのない人たちですね。
信西入道(藤原通憲)の子孫は仏教界では有名人を輩出していましたが、公家社会ではそれほどの家柄ではなく、資緒王・源資顕兄弟の白川伯王家も同様です。
さて、善空事件を初めて詳しく分析されたのは森幸夫氏の「平頼綱と公家政権」(『三浦古文化』54号、1994)ですが、森氏の『六波羅探題 京を治めた北条一門』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2021)を見ると、事実関係の面では特に進展はなさそうです。
同書での善空事件の説明は既に紹介済みですが、森氏が、

-------
しかし正応三年二月に、後深草上皇が出家して伏見天皇の親政が開始されると、伏見にとって善空の排除が必須となり、翌四年五月、伏見は側近の京極為兼を鎌倉に派遣して執権北条貞時に訴え、排除を断行することになる(『実躬卿記』)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f677a5df0af4205493d2884a2f323cc

とされる点には若干の違和感を覚えます。
というのは、正応三年(1290)二月十一日、四十八歳の後深草院は亀山殿で出家し(法名「素実」)、引き続き行われた「亀山殿御逆修」には前年九月七日に出家済みの「禅林寺法皇」亀山院も参加したりしています(二月十二・十三日)。
そして翌月三日、後深草院が亀山殿から常磐井殿に戻って間もなく、甲斐源氏の浅原為頼父子三人が富小路内裏に乱入し、親政を始めたばかりの伏見天皇を暗殺しようとする大事件が発生します。
『増鏡』によれば、

-------
 同じ三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子・狛犬、中より割れたり。驚き思して御占あるに、「血流るべし」とかや申しければ、いかなる事のあるべきにか、と誰も誰も思し騒ぐに、その九日の夜、衛門の陣より恐しげなる武士三四人、馬に乗りながら九重の中へはせ入りて、上に昇り、女嬬が局の口に立ちて、「やや」といふ者を見上げたれば、丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋縅の鐙着て、ただ赤鬼などのやうなる面つきにて「御門はいづくに御寝るぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「いづくぞ」と又問ふ。「南殿より東北のすみ」と教ふれば、南ざまへ歩みゆくままに、女嬬うちより参りて、権大納言典待殿・新内侍殿などに語る。
 上は中宮の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ、女房のやうにて、いとあやしきさまをつくりて入らせ給ふ。内侍、剣璽取りて出づ。女嬬は玄象・鈴鹿取りて逃げにけり。春宮をば中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へ徒歩にて逃ぐ。その程の心の中どもいはん方なし。
 この男をば浅原のなにがしとかいひけり。からくして夜の御殿へたづね参りたれども、大方人もなし。中宮の御方の侍の長、景政といふ者、名のり参りていみじくたたかひ防ぎければ、きずかうぶりなどしてひしめく。かかる程に二条京極の篝屋、備後の守とかや、五十余騎にて馳せ参りてときをつくるに、合はする声わづかに聞えければ、心やすくて内に参る。
 御殿どもの格子ひきかなぐりて乱れ入るに、かなはじと思ひて、夜の御殿の御しとねの上にて浅原自害しぬ。太郎なりける男は南殿の御帳の中にて自害しぬ。弟の八郎といひて十九になりけるは大床子のあしの下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、あまたしてからめんとすれば、かなはで、自害すとても、腸をばみなくり出して、手にぞ持たりける。そのままながら、いづれをも六波羅へ舁き続けて出しけり。
 ほのぼのと明くるほどに、内・春宮、御車にて忍びて帰らせ給ひて、昼つ方ぞ又さらに春日殿へなる。大方、雲の上けがれぬれば、いかがにて、中宮の昼の御座へ腰輿寄せて兵衛の陣より出でさせ給ふ。春宮は糸毛の御車にて、また常磐井殿へ渡らせ給ふ。中宮も春日殿へ行啓なる。世の中ゆすりさわぐさま、言の葉もなし。

http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

ということで、伏見天皇・中宮(西園寺鏱子、永福門院)・春宮(後伏見天皇)は本当に危機一髪、女官たちの機敏な対応により辛くも逃げることができた訳です。
この後、六波羅が捜査を始めると、「三条宰相中将実盛」の家に伝わる「鯰尾」という刀で浅原為頼が自害したことが判明し、三条実盛の背後に亀山院がいるのではないかが疑われます。
ここに亀山院は人生最大のピンチを迎える訳ですが、弁解の書状を鎌倉に送ったりして、結局は逃げ切ることに成功します。
ということで、親政を始めたとたんに殺されかけた伏見天皇にしてみれば、当面の最大の課題は浅原事件の真相解明と責任者の追及ですね。
それに比べたら、善空事件など全くどうでもよいレベルの話です。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その19)

2022-06-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月19日(日)12時50分50秒

前回投稿で謎の律僧・善空上人とともに「暗躍」したらしい六条康能の経歴を見ましたが、寛元元年(1243)に叙爵して文永七年(1270)に正四位下、文永十年(1273)に近衛中将を辞した後は無官だった人が、弘安十年(1287)十月、後深草院政が始まった後、若干の昇叙と任官があったとしても、正応四年(1291)の失脚時に官位は正三位、官職は参議・民部卿程度ですから、まあ、目覚ましい立身出世というほどの話でもないですね。
さて、六条康能と同じく「暗躍」したらしい資緒王の経歴を『公卿補任』で見てみると、この人は文永八年(1271)に二十二歳で従三位に叙せられているので、建長二年(1250)生まれですね。
同年の尻付によれば、この人は白川伯王家の「故従二位行侍従資基王男」です。

建長六年(1254)正・13 侍従
同七年(1255)8・12 左少将(臨時宣下)
康元元年(1256)正 従五位上
同年      正・21 兼武蔵介
同年      12・13 遷任神祇伯(父譲。于時王氏。七歳)
正嘉二年(1258)2・27 正五位下
正元元年(1259)正・21 兼因幡権守
同年      2・21 従四位下
文応元年(1260)10・10 従四位上
弘長元年(1261)正・5 正四位下(大礼賞。十二歳)還任左少将
文永八年(1271)10・13 従三位

花山源氏の白川伯王家は神祇伯を世襲する、貴族社会の中でもかなり特殊な家で、神祇伯に任官すると源氏から王氏に復するのが通例です。

白川伯王家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E4%BC%AF%E7%8E%8B%E5%AE%B6

資緒王の場合、康元元年(1256)、三十一歳の資基王(1226-64)から神祇伯を譲られ、この時は僅か七歳です。
ただ、父親の資基王は別に出家するでもなく、この後、従二位まで昇叙し、侍従や安芸権守に任じられたりした後、文永元年(1264)十二月六日に出家、翌日死去して『公卿補任』から消えて行くので、白川伯王家は何だかよく分らない家ですね。
ま、それはともかく、資緒王の方はというと、文永八年(1271)以降、散位の末の方に「従三位 神祇伯」との記述が続いた後、

弘安六年(1283)正・5 正三位
正応元年(1288)8・25 従二位
同二年(1289)4・29 「以伯譲男資通王。後十月九日復解(母)」

とあって、四十歳で神祇伯を息子の資通王に譲り、以後は永仁五年(1297)十二月二十七日に出家して『公卿補任』から消えます。
その間、ずっと「従二位」とだけ記されますが、唯一、正応四年(1291)のみ「五月廿九日恐懼」とあります。
五月二十九日は『実躬卿記』に、

或以彼仁【善空】口入令昇進之輩、民部卿<康能>・中将<資顕>・左衛門権佐<兼俊>
解官。伯二位資緒等被止出仕。不可説々々。非所及言語事也。

と記された日ですが、ここに登場する「中将<資顕>」は資緒王の弟・源資顕です。
源資顕は正安元年(1299)に従三位に叙せられて『公卿補任』に登場しますが、その尻付に非常に奇妙なことが書かれているので、全文をそのまま紹介します。

-------
  従三位 源資顕 六月六日叙。元前右中将。
     故入道従二位侍従資基王二男。母。
建長八正六叙爵(王氏。于時博仲王)。建治三正廿九侍従(于時源資顕)。
弘安元十一十八従五上。同二十二二右少将。同五十二廿六正五下。同七正
五従四下。同八五廿二還任右少将。同十一正五従四上。正応三二七正四下。
同九月廿一復任(母)。十一月廿一転中将。同四正廿七解官。依恐懼也
(源空上人一拝之理也云々。)
-------

源資顕は建長八年(康元元年、1256)正月五日に叙爵ですが、「王氏。于時博仲王」とのことなので、ここだけ見ると父から神祇伯を譲られたようにも見えます。
しかし、先に概要を紹介したように、兄の資緒王が従三位に叙せられた文永八年(1271)の尻付には「康元元正日従五上(七才)。同廿一日兼武蔵介。十二月十三日遷任神祇伯(父譲。于時王氏。七才)」とあり、父から神祇伯を譲られたのは兄の資緒王なので、何故に源資顕が「博仲王」だったのか、よく分らないですね。
ま、それはともかく、博仲王から源資顕と改名した後、亀山院政下の弘安八年(1285)に従四位下、右少将だった資顕は、弘安十年(1287)の後深草院政開始後、従四位下、正四位上と昇叙し、中将にも任ぜられます。
しかし、正応四年(1291)「正廿七解官。依恐懼也(源空上人一拝之理也云々。)」とあって、まず正月二十七日という日付が不可解です。
ここはおそらく「五」を「正」、「九」を「七」と間違えただけと思いますが、「源空上人一拝之理也云々」は更に不可解で、「源空上人」と言われれば普通は浄土宗の開祖・法然上人(1133-1212)を連想してしまいます。
『公卿補任』を眺めていて目が点になることはあまりないと思いますが、この記述を初めて見たとき、私の目は点になっていたかもしれません。
まあ、ここも「善空上人」の単なる誤記でしょうが、『公卿補任』もけっこういい加減だなあ、と思わざるをえないですね。
さて、私にとって重要なのは「源空上人」という誤記ではなく、源資顕にとって善空事件に関与したことが経歴上の致命傷となった訳ではないことです。
八年後と時間は相当かかっていますが、資顕は永仁七年(1299)に従三位に叙せられて公卿の仲間入りをしているので、これで完全復活ですね。
その後は特に任官されることもなく、正安四年(乾元元、1302)「十一月廿一日薨」ということで『公卿補任』から消えて行きますが、公卿として「薨」ずることができたのは、白川伯王家のような、特色はあっても、それほど家格の高くない家に次男として生まれた資顕にとっては、それなりに幸せだったようにも思います。
以上、善空事件に関与した六条康能・資緒王・源資顕の三人の経歴を見てきましたが、もともとそれほど高い家格に生まれた人たちではないので、後深草院政の開始以後の昇進も、まあ、それほど大したものでもないですね。
六条康能と資緒王は失脚後数年で死んでしまいますが、源資顕は復活して公卿の仲間入りをしているので、善空事件全体が意外とショボい事件だったような感じもしてきます。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その18)

2022-06-18 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月18日(土)14時42分53秒

小川剛生氏が「暗躍」という冒険活劇風の表現を用いている六条康能と資緒王の二人のうち、まず六条康能の経歴を『公卿補任』で追ってみると、この人は「故従二位資能卿男」で、藤原南家、信西入道の子孫です。
正応三年(1290)に参議に任ぜられ、同時に従三位に叙せられていて、この年の尻付でかなり詳しい経歴が分かりますが、それによると、

寛元元年(1243)12・29 叙爵
建長七年(1255)9・19 侍従
同八年(1256)正・21 従五位上
文応元年(1260)12・9 正五位下
弘長元年(1261)1261)8・13 右少将
同二年(1262)3・1 従四位下(府労)
同年     3・18 少将如元
同三年(1263)4・21 辞少将
文永四年(1267)5・5 従四位上(府労)
同七年(1270)12・4 正四位下
同八年(1271)3・8 転中将
同十年(1273)12・8 辞中将
弘安十一年(1288)2・10 兵部卿
正応三年(1290)正・19 参議、兵部卿如元、従三位
同年      6・18 辞兵部卿

ということで、生年は不明ですが、寛元元年(1243)に叙爵ですから、同年生まれの後深草院(1243-1304)よりも少し年上ですね。
後嵯峨院政期はそれなりに順調に出世していたようですが、後嵯峨院崩御の翌文永十年(1273)に中将を辞して以降は空白期間が十五年続き、伏見天皇践祚の翌弘安十一年(正応元、1288)、兵部卿に任ぜられ、正応三年(1290)に参議となり、同時に従三位となって、こちらは二十年ぶりの昇叙ですね。
経歴の空白期間が亀山親政・院政期と重なるので、亀山院からは全く評価されていなかった人ですね。
さて、小川氏は『兼仲卿記』正応元年(1288)十月四日条を引いて「後深草院の近臣六条康能と神祇伯資緒王が勅勘を受けた」とされますが、この勅勘云々は『公卿補任』には反映されていません。
これで出世が閉ざされるどころか、正応三年(1290)に任参議・序従三位で公卿の仲間入りですから、正応元年の勅勘とは何だったのか。
ま、それはともかく、もう少し『公卿補任』を見て行くと、正応四年(1291)に、

正月六日叙正三位(院当年御給)。同日任民部卿。三月廿五日辞退。

とあり、翌年以降は散位となります。
そして永仁三年(1295)「十二月三日薨」とあって、『公卿補任』から消えます。
ということで、『実躬卿記』正応四年五月二十九日条に

或以彼仁【善空】口入令昇進之輩、民部卿<康能>・中将<資顕>・左衛門権佐<兼俊>
解官。伯二位資緒等被止出仕。不可説々々。非所及言語事也。

記されるように、六条康能の失脚は正応四年(1291)で間違いないのですが、『勘仲記』正応元年(1288)十月四日条に記された「春風」による「勅勘被止出仕」からは三年近く経過しており、このタイムラグはいったい何なのか。
正応元年(1288)十月に「春風」(幕府の執奏)があったにもかかわらず、後深草院がそれに反抗し、正応三年(1290)正月に六条康能を参議に任じ、従三位に叙し、更に翌四年(1291)正月、「院当年御給」で正三位に叙し、民部卿に任じたとは考えにくいので、後深草院側の対幕府工作があったかどうかは分かりませんが、いつしか別の「春風」が吹き、幕府の方針が変わったと考えるのが自然だと思います。
即ち、幕府側も一枚岩ではなく、六条康能・資緒卿・「善空上人」を支える側と、それに反発する勢力があり、時期により対朝廷対応が変化したのではないか。
ま、僅かな材料で結論を急く必要もないので、次の投稿で資緒王とその周辺も見ておくことにします。
なお、国文学研究者にとっては六条康能はそれなりに有名な人で、といっても本人の文学上の業績ではなく、源具顕が記録した弘安三年(1280)の「弘安源氏論議」の参加者として知られています。
まあ、「論議」といってもそれほど堅苦しいものではなく、十六歳の熈仁親王(伏見天皇)の周辺に形成されていた文学愛好者サークルの和気藹々たる催しですね。

弘安源氏論議
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%AE%89%E6%BA%90%E6%B0%8F%E8%AB%96%E8%AD%B0

ちなみに六条康能の歌は勅撰集に二首入っていますが、伏見天皇の周囲にいた綺羅星の如き歌人たちに比べると、さほど才能を感じさせない歌ですね。
「二十一代集データベース」で「康能」と入れると三首出てきますが、『続古今和歌集』で「秋の歌中に」の詞書で連続する二首中の最初の歌の作者は「権大納言教家」とする写本が多いそうです。
これを含めて、三首を掲げておきます。

『続古今和歌集』1588番(巻第十七 雑歌上)
       秋の歌中に        権大納言教家
 我こゝろ とまる所は なけれとも 猶おく山の 秋の夕くれ

 同 1589番
                    藤原康能朝臣
 よそにゆく 雲ゐのかりの 涙さへ 袖にしらるゝ 秋の夕暮

『玉葉和歌集』2661番(巻第十九 釈教歌)
       宝塔品を         前参議康能
 かたがたに わかぬひかりも あらはれて ゆくすゑとをく てらす月影

「二十一代集データベース」
http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G000150121dai
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その17)

2022-06-17 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月17日(金)15時40分39秒

続きです。(p43)

-------
 以上のことから、為兼が指弾される背景がようやく明瞭になってくるであろう。幕府による排除としては既に九条家の先蹤があるが、『兼仲卿記』正応元年十月四日条には、後深草院の近臣六条康能と神祇伯資緒王が勅勘を受けたことが見えるのが注目される。
  伯二位〔白川〕資緒卿・伝奏兵部卿〔六条〕康能朝臣両人、勅勘被止出仕云々、
  春風吹来之故也、不知其由緒、彼朝臣不測涯分、補佐政道、口入叙位除目、於
  事有過分之聞歟、果而逢不慮之横災、天責難遁歟、可恐可慎、其外条々事等雖
  奏聞、無漏泄之分歟、
とある。前日条には「参院、御八講条々事所奏聞也、申斜関東使者二人<〔佐々木〕隠岐前司時清・〔矢野〕豊後権守倫益>参入、前平中納言〔時継〕於中門問答、文箱二合進入、数剋問答」とあり、「春風」とはもちろん幕府の執奏を言う。後深草院政が始動して僅か一年であるのに、早くも処罰者を出しているのである。しかし顕能【ママ】と資緒の暗躍は続き、さらに善空という律僧が加わって後深草院政をしばしば混乱に陥れた。そこで伏見院は、父院から政務を譲られるとまもなく「抑善空聖人、日比以来、成人々訴訟官位等事口入」ことを幕府に告げて、善空・康能・資緒らを一掃したのである。この事件は近年になってとみに注目されているが、実は為兼もまた「涯分を測らず、政道を補佐し、叙位除目に口入し」ていた訳である。
 実際に為兼が政務に容喙すればする程に、廷臣の間に「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」という、治世に対する不信感を馴致させることを防ぎようもなかった。為兼は早晩淘汰されなければならない存在であった。安東重綱が「政道巨害」として為兼を排除できたのも、幕府が主導した形での鎌倉後期の公家徳政という道筋があったからなのである。
-------

これで第六節は終わりです。
「抑善空聖人、日比以来、成人々訴訟官位等事口入」に付された注(33)、「この事件は近年になってとみに注目されているが」に付された注(34)、そして「徳政之最中、如此非拠、寔可叶神慮哉、併雖任運於天、当時為兼卿猶執申、逐日倍増」に付された注(35)には、それぞれ、

-------
(33)『実躬卿記』正応四年五月二十九日条。
(34)森幸夫氏「平頼綱と公家政権」(三浦古文化54 平6・6)、筧雅博『蒙古襲来と徳政令』(日本の歴史10 講談社 平13・8)二五五頁など。
(35)『実躬卿記』永仁二年三月二十七日条。
-------

とあります。
この善空事件を初めて詳しく検討されたのは森幸夫氏ですが、森氏の近著、『六波羅探題 京を治めた北条一門』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2021)によれば、この事件の概要は次の通りです。(p106以下)

-------
 安達泰盛の誅殺後、若年の執権北条貞時を擁し実権を握った内管領平頼綱は、「諸人恐懼の外、他事なく候」(『実躬卿記』永仁元年<一二九三>四月二十六日条)といわれた恐怖政治を行ったとされる。鎌倉政界では得宗被官の勢力が拡大していくのであるが、京都でも頼綱勢力による朝廷政治への介入がさなれた。その様相は『実躬卿記』や『勘仲記』などから断片的に知られ、頼綱と親密な関係にあった善空(禅空)という律僧が政治介入の中心人物となった(森幸夫 一九九四)。
 善空は、弘安十年・正応元年ころより、朝廷の「訴訟・官位等の事口入〔くにゅう〕」し、また都の貴賤から二百ヵ所にも及ぶ所領を集積した。そのなかには亀山上皇領も含まれていたという。民部卿六条康能〔ろくじょうやすよし〕や伯二位資緒王〔はくにいすけおおう〕らも善空と結託して政務に容喙した(『実躬卿記』正応四年五月二十九日・六月一日条、『勘仲記』正応元年十月四日条)。善空は、後深草上皇が頼綱の力により治天の君の座を得たという政治事情を背景に、朝政への介入を行ったと考えられる。六波羅探題北条兼時の被官長崎新左衛門入道性杲〔しょうこう〕と平七郎左衛門尉も、善空に与していた。この二人は頼綱の一族である。要するに、平頼綱は、六波羅探題北方北条時村が退任し、北条兼時が北方探題に転任して執権探題となったのち、善空と長崎・平らを介して、持明院統統治世下朝廷の「訴訟・官位等の事」にまで介入するようになったのである。しかし正応三年二月に、後深草上皇が出家して伏見天皇の親政が開始されると、伏見にとって善空の排除が必須となり、翌四年五月、伏見は側近の京極為兼を鎌倉に派遣して執権北条貞時に訴え、排除を断行することになる(『実躬卿記』)。これにより京都での善空一派の力は弱まり、永仁元年四月の貞時による頼綱誅滅(平禅門の乱)とともに、善空は完全に没落する。
-------

この経緯を知ると、誰しも、小川剛生氏が紹介されたところの、

-------
院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあった。『公衡公記』によれば、その事書は基本的に聖断を尊重するとしながらも、
  一、任官加爵事。理運昇進、不乱次第可被行之歟、
  一、僧侶・女房政事口入事。一向可被停止歟、
という項目があり、後深草院政は強く牽制されている。後条の僧侶や女房が政治に容喙してはならぬというのが、公武政権の常に掲げる題目であった。治天の君に奏事できるのは人物・識見を厳選された、主に名家出身の伝奏であり、後嵯峨院以後はとりわけその傾向を強め、制度的に僧侶・女房の口入を排除しようとしたのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/44427f71f276891d660ed92a8396dbbe

という話は一体何だったのか、あまりに偽善的で空々しいではないか、「善空」だけに、という感想を持たれると思います。
この申入れをしたのは、当時鎌倉で「恐怖政治」を行っていた平頼綱であり、その頼綱が僧侶の口入を許してはならない、と言ったのは、要するに自分が認めない僧侶の口入は駄目だ、ということですね。
まあ、正応元年(1288)の時点では、平頼綱は曇りのない客観的・中立的な見地から、誠心誠意、「公武政権の常に掲げる題目」を後深草院にアドバイスしたけれども、結果的に平頼綱という虎の威を借りた狐である善空一派が悪事を行ってしまい、頼綱はそれを見抜くことができなかった、という可能性も皆無ではないかもしれません。
しかし、常識的に考えれば、平頼綱の申し入れは、俺の承認を得ずに勝手なことをやるな、程度の意味しかなさそうです。
さて、『実躬卿記』『勘仲記』等の僅かな記述から善空事件を浮き彫りにしたのは森幸夫氏の功績ですが、とにかく史料が少ないので、その全体像は今なお完全に解明された訳ではありません。
そもそも善空が何者なのか、律僧といっても、それはどの系統なのか、西大寺流か、それ以外なのか、西大寺流だとしても叡尊の系統か、それとも忍性の系統か、といったあたりが全然分かりません。
今回、「白毫寺妙智房」をきっかけに太子堂の周辺を探った際にも、もしかしたら善空に関して何か出てくるのではないか、といった漠然とした期待はあったのですが、成果は皆無でした。
ま、善空事件に関しては森幸夫氏が全て調査済みであって、今さら私に何か出来そうな余地もありませんが、為兼の第一次配流の原因を考えるための材料として、関係者の人物像などをもう少し見て行きたいと思います。
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