第220回配信です。
古澤直人『鎌倉幕府と中世国家』(校倉書房、1991)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1110564260130213120
https://cir.nii.ac.jp/crid/1110564260130213120
p272以下
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第二部 幕府論と中世国家史研究
IV 「公方」の成立に関する研究─史料に探る「中世国家」の展開─
一 課題
正中の変における後醍醐天皇の倒幕運動が同時代の古文書・記録・史書に広く「謀反(叛)」と表現されたことは、あまりにも有名な事実である(1)。<天皇や朝廷、国家に対する反逆>という、この言葉の原義的・律令制的用法においては(2)自己矛盾である「公家(天皇)御謀反」(3)「当今御謀叛」(4)以下の表現が、この「陰謀」(5)に対して用いられた事実に対しては、「鎌倉時代の国家秩序からいえば、事実として支配権力の最高・最重要のかなめを掌握していたのは幕府」であったからであるという説明がなされている(6)。しかし、承久の乱における後鳥羽上皇の討幕運動が同時代の史料に「謀叛(反)」と記されることはなかった事実を念頭におけば(7)、これは、承久以降鎌倉末期までに、律令制的な天皇制秩序体系とは異質の、幕府を中心とするあらたな「公」の秩序意識の形成を想定させるものであろう。
この過程は、逆に言えば≪幕府が公権力あるいは国家権力として律令制的な「公」に代位する過程≫といえようが、幕府成立期における公家政権からの授権が幕府権限の≪法的な承認=形式的な合法性あるいは正統性の獲得≫という問題であったのに対し、幕府に対する右のあらたな「公」意識の形成過程は、その≪実質的な正当性の獲得≫という問題にかかわるものである(8)。したがって、このあらたな「正当的」支配体制ないしは「公」意識の成立過程を究明することは、中世国家の展開を考える上で、もっとも重要な課題の一つと位置づけられるように思われる。
右の課題を直接検討することは困難であるが、この点と深く関係し、検討の有力な切り口となると考えられるのは、「公方」という用語の使用である。【後略】
(1)正中の変の後醍醐討幕運動関係史料は、岡見正雄『太平記』(一)(角川文庫、一九七九年)二九五頁以下の補注に詳しい。
(2)「謀叛」「謀反」の律の規定における意味と、その用例は、岩波日本思想大系『律令』一六頁・四八九頁以下補注参照。
(3)「道平公記」元亨四年九月二十日条。
(4)「結城文書」(年欠)九月二十六日結城宗広書状。
(5)「鎌倉年代記裏書」元亨四年九月二十三日条。
(6)黒田俊雄『蒙古襲来』(中央公論社、一九六五年)四三二頁。
(7)後鳥羽院の倒幕運動を「謀叛」と記したのは『承久記』であるが、この書の成立は鎌倉末期から南北朝期と推定されており、この点で(意識を検討する上でも)同時代史料というわけにはいかない。むしろ鎌倉末期~南北朝期に形成された意識あるいは理解を遡及させて承久の乱を叙述したものと考えるべきである。この観点からいえば、承久の乱の時点における「天皇御謀叛」の概念の成立とその意義を強調する石尾芳久『法の歴史と封建制論争』(Ⅱ章三節注(20)前掲書一〇七頁等)は再検討の必要がある。なお石井紫郎『日本人の国家生活』(Ⅰ章〔八六頁〕前掲書)六四頁にも、同様の誤りがみられる。
(8)本章五節注(11)〔四一一頁〕ほか、序章注(27)〔四三頁〕、Ⅰ章〔付論2〕〔八五頁〕、Ⅴ章注(53)〔四五七頁〕等参照。
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1991年の論考なので、古澤氏は『承久記』の諸本の異同に留意していない。
北条義時を野心に満ちた大悪人、後鳥羽院は多少の欠点はあっても良い人と描く慈光寺本には「謀叛」の表現なし。(※)
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爰〔ここ〕に、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」【後略】
爰〔ここ〕に、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」【後略】
他方、一種の革命論(「同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる」)に基づく流布本には、後鳥羽側を「謀叛」とする表現があってもおかしくはない。
0132 高橋典幸氏「鎌倉幕府論」〔2024-08-01〕
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同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる。故を如何〔いか〕にと尋れば、地頭・領家の相論とぞ承はる。古〔いにし〕へは、下司・庄官と云計〔いふばかり〕にて、地頭は無りしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、其の勧賞〔けんじやう〕に、日本国の惣追捕使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ、段別兵粮を宛て取るゝ間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあたとす。
確認してみたところ、「謀叛」に言及するのは二箇所。
(1)下巻冒頭
松林靖明校注『新訂承久記』(現代思潮社、1982)p98以下
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去程に山田次郎重忠は、杭瀬河の軍破て後〔のち〕、都へ帰参して、事の由を申けるは、「海道所々被打落、北陸道の勢も都近く責寄」と聞へしかば、一院、何と思召〔おぼしめし〕分たる御事共なく、六月九日酉刻に、一院、新院・冷泉宮引具し進〔まゐ〕らせて、日吉へ御幸なる。二位法印尊長は、巴の大将の被御供たりけるを、組落して打ばやと、頻に目を懸け被支度けるを、子息新中納言申様〔まうすやう〕、「尊長が大将に目を懸進らせ候ぞ。実氏死候て後こそ、如何にも成せ給候はめ」とて、中に押隔々々せられければ、知れたりと思ひて左右なくも不組。(角て君は)東坂本梶井御所へ入せ給。天台座主参らせ給て、終夜〔よもすがら〕御物語申させ給ひ、「君を守護し奉候はんずる大衆は、皆水尾崎・勢多へとて馳向候ぬ。是〔ここ〕は如何にも悪く候なん」と被申けれ共、「今日は猶も宇治・勢多被堅て被御覧よ」と、謀叛結構の公卿・殿上人・武士共、各進〔すす〕め申上る。然る間、一日御逗留有て、明る卯刻に都へ還御、四辻宮へ入せ給て後は、四方の門を被閉、兎角の儀も不被仰。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427
(1)下巻冒頭
松林靖明校注『新訂承久記』(現代思潮社、1982)p98以下
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去程に山田次郎重忠は、杭瀬河の軍破て後〔のち〕、都へ帰参して、事の由を申けるは、「海道所々被打落、北陸道の勢も都近く責寄」と聞へしかば、一院、何と思召〔おぼしめし〕分たる御事共なく、六月九日酉刻に、一院、新院・冷泉宮引具し進〔まゐ〕らせて、日吉へ御幸なる。二位法印尊長は、巴の大将の被御供たりけるを、組落して打ばやと、頻に目を懸け被支度けるを、子息新中納言申様〔まうすやう〕、「尊長が大将に目を懸進らせ候ぞ。実氏死候て後こそ、如何にも成せ給候はめ」とて、中に押隔々々せられければ、知れたりと思ひて左右なくも不組。(角て君は)東坂本梶井御所へ入せ給。天台座主参らせ給て、終夜〔よもすがら〕御物語申させ給ひ、「君を守護し奉候はんずる大衆は、皆水尾崎・勢多へとて馳向候ぬ。是〔ここ〕は如何にも悪く候なん」と被申けれ共、「今日は猶も宇治・勢多被堅て被御覧よ」と、謀叛結構の公卿・殿上人・武士共、各進〔すす〕め申上る。然る間、一日御逗留有て、明る卯刻に都へ還御、四辻宮へ入せ給て後は、四方の門を被閉、兎角の儀も不被仰。
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(2)後鳥羽院、鳥羽殿幽閉の場面
p135
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去程に同七月六日、武蔵太郎・駿河次郎・武蔵前司、数万騎の勢を相具して、院の御所四辻殿へ参りて、鳥羽殿へ可奉移由奏聞しければ、一院兼て思召儲させ給ひたる御事なれ共、指当りては御心惑はせ御座して、先女房達可被出とて、出車に取乗て遺出す。謀叛の者や乗具たるらんとて、武蔵太郎近く参りて、弓のはずにて御車の簾かゝげて見奉こそ、理ながら無情ぞ覚へしか。軈て一院御幸なる。清涼・紫震の玉の床を下り、九重の内今日を限と思召、叡慮の程こそ恐敷けれ。東洞院を下りに御幸なる。朝夕なりし七条殿の軒端も、今は余所に被御覧。作道迄(は)武士共老たるは直垂、若は物具にて供奉(す)。鳥羽殿へ入せ給へば、武士共四方を籠めて守護し奉る。玉席に近づき奉る臣下一人も見へ不給。錦帳に隔無りし女御・更衣も御座さず、只御一所御座す御心の程ぞ哀なる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6ae735b6c5e30c84b9288a64eabb962c
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※「北条義時を野心に満ちた大悪人、後鳥羽院は多少の欠点はあっても良い人と描く慈光寺本には「謀叛」の表現なし」については、下記にて訂正しています。
0224 『承久記』における「謀叛」と「謀反」〔2024-12-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20e05e1a12f4bacfed4bf8a645d20136
0224 『承久記』における「謀叛」と「謀反」〔2024-12-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20e05e1a12f4bacfed4bf8a645d20136