学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0220 「後鳥羽院の倒幕運動を「謀叛」と記したのは『承久記』」(by 古澤直人氏)

2024-11-29 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第220回配信です。

古澤直人『鎌倉幕府と中世国家』(校倉書房、1991)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1110564260130213120

p272以下
-------
第二部 幕府論と中世国家史研究

IV 「公方」の成立に関する研究─史料に探る「中世国家」の展開─

一 課題

 正中の変における後醍醐天皇の倒幕運動が同時代の古文書・記録・史書に広く「謀反(叛)」と表現されたことは、あまりにも有名な事実である(1)。<天皇や朝廷、国家に対する反逆>という、この言葉の原義的・律令制的用法においては(2)自己矛盾である「公家(天皇)御謀反」(3)「当今御謀叛」(4)以下の表現が、この「陰謀」(5)に対して用いられた事実に対しては、「鎌倉時代の国家秩序からいえば、事実として支配権力の最高・最重要のかなめを掌握していたのは幕府」であったからであるという説明がなされている(6)。しかし、承久の乱における後鳥羽上皇の討幕運動が同時代の史料に「謀叛(反)」と記されることはなかった事実を念頭におけば(7)、これは、承久以降鎌倉末期までに、律令制的な天皇制秩序体系とは異質の、幕府を中心とするあらたな「公」の秩序意識の形成を想定させるものであろう。
 この過程は、逆に言えば≪幕府が公権力あるいは国家権力として律令制的な「公」に代位する過程≫といえようが、幕府成立期における公家政権からの授権が幕府権限の≪法的な承認=形式的な合法性あるいは正統性の獲得≫という問題であったのに対し、幕府に対する右のあらたな「公」意識の形成過程は、その≪実質的な正当性の獲得≫という問題にかかわるものである(8)。したがって、このあらたな「正当的」支配体制ないしは「公」意識の成立過程を究明することは、中世国家の展開を考える上で、もっとも重要な課題の一つと位置づけられるように思われる。
 右の課題を直接検討することは困難であるが、この点と深く関係し、検討の有力な切り口となると考えられるのは、「公方」という用語の使用である。【後略】

(1)正中の変の後醍醐討幕運動関係史料は、岡見正雄『太平記』(一)(角川文庫、一九七九年)二九五頁以下の補注に詳しい。
(2)「謀叛」「謀反」の律の規定における意味と、その用例は、岩波日本思想大系『律令』一六頁・四八九頁以下補注参照。
(3)「道平公記」元亨四年九月二十日条。
(4)「結城文書」(年欠)九月二十六日結城宗広書状。
(5)「鎌倉年代記裏書」元亨四年九月二十三日条。
(6)黒田俊雄『蒙古襲来』(中央公論社、一九六五年)四三二頁。
(7)後鳥羽院の倒幕運動を「謀叛」と記したのは『承久記』であるが、この書の成立は鎌倉末期から南北朝期と推定されており、この点で(意識を検討する上でも)同時代史料というわけにはいかない。むしろ鎌倉末期~南北朝期に形成された意識あるいは理解を遡及させて承久の乱を叙述したものと考えるべきである。この観点からいえば、承久の乱の時点における「天皇御謀叛」の概念の成立とその意義を強調する石尾芳久『法の歴史と封建制論争』(Ⅱ章三節注(20)前掲書一〇七頁等)は再検討の必要がある。なお石井紫郎『日本人の国家生活』(Ⅰ章〔八六頁〕前掲書)六四頁にも、同様の誤りがみられる。
(8)本章五節注(11)〔四一一頁〕ほか、序章注(27)〔四三頁〕、Ⅰ章〔付論2〕〔八五頁〕、Ⅴ章注(53)〔四五七頁〕等参照。
-------

1991年の論考なので、古澤氏は『承久記』の諸本の異同に留意していない。
北条義時を野心に満ちた大悪人、後鳥羽院は多少の欠点はあっても良い人と描く慈光寺本には「謀叛」の表現なし。(※)

-------
 爰〔ここ〕に、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」【後略】

他方、一種の革命論(「同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる」)に基づく流布本には、後鳥羽側を「謀叛」とする表現があってもおかしくはない。

0132 高橋典幸氏「鎌倉幕府論」〔2024-08-01〕

-------
同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる。故を如何〔いか〕にと尋れば、地頭・領家の相論とぞ承はる。古〔いにし〕へは、下司・庄官と云計〔いふばかり〕にて、地頭は無りしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、其の勧賞〔けんじやう〕に、日本国の惣追捕使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ、段別兵粮を宛て取るゝ間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあたとす。 

確認してみたところ、「謀叛」に言及するのは二箇所。

(1)下巻冒頭

松林靖明校注『新訂承久記』(現代思潮社、1982)p98以下
-------
 去程に山田次郎重忠は、杭瀬河の軍破て後〔のち〕、都へ帰参して、事の由を申けるは、「海道所々被打落、北陸道の勢も都近く責寄」と聞へしかば、一院、何と思召〔おぼしめし〕分たる御事共なく、六月九日酉刻に、一院、新院・冷泉宮引具し進〔まゐ〕らせて、日吉へ御幸なる。二位法印尊長は、巴の大将の被御供たりけるを、組落して打ばやと、頻に目を懸け被支度けるを、子息新中納言申様〔まうすやう〕、「尊長が大将に目を懸進らせ候ぞ。実氏死候て後こそ、如何にも成せ給候はめ」とて、中に押隔々々せられければ、知れたりと思ひて左右なくも不組。(角て君は)東坂本梶井御所へ入せ給。天台座主参らせ給て、終夜〔よもすがら〕御物語申させ給ひ、「君を守護し奉候はんずる大衆は、皆水尾崎・勢多へとて馳向候ぬ。是〔ここ〕は如何にも悪く候なん」と被申けれ共、「今日は猶も宇治・勢多被堅て被御覧よ」と、謀叛結構の公卿・殿上人・武士共、各進〔すす〕め申上る。然る間、一日御逗留有て、明る卯刻に都へ還御、四辻宮へ入せ給て後は、四方の門を被閉、兎角の儀も不被仰。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fde6f8f4637a2ebd9a5eb48ae5ae427

(2)後鳥羽院、鳥羽殿幽閉の場面

p135
-------
 去程に同七月六日、武蔵太郎・駿河次郎・武蔵前司、数万騎の勢を相具して、院の御所四辻殿へ参りて、鳥羽殿へ可奉移由奏聞しければ、一院兼て思召儲させ給ひたる御事なれ共、指当りては御心惑はせ御座して、先女房達可被出とて、出車に取乗て遺出す。謀叛の者や乗具たるらんとて、武蔵太郎近く参りて、弓のはずにて御車の簾かゝげて見奉こそ、理ながら無情ぞ覚へしか。軈て一院御幸なる。清涼・紫震の玉の床を下り、九重の内今日を限と思召、叡慮の程こそ恐敷けれ。東洞院を下りに御幸なる。朝夕なりし七条殿の軒端も、今は余所に被御覧。作道迄(は)武士共老たるは直垂、若は物具にて供奉(す)。鳥羽殿へ入せ給へば、武士共四方を籠めて守護し奉る。玉席に近づき奉る臣下一人も見へ不給。錦帳に隔無りし女御・更衣も御座さず、只御一所御座す御心の程ぞ哀なる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6ae735b6c5e30c84b9288a64eabb962c


慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その1)─今後の課題〔2023-08-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e960c2776946a8e96707a8db79c5fdf5
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その2)─後鳥羽院の表記〔2023-08-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b7696bc67d7274869e50e56f2ac61e3
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その3)─土御門院・順徳院の表記〔2023-08-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7eff7a6d185afc4316d708d6a701b52
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その4)─「原流布本」の復原〔2023-08-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7469d9367fe0d16b4f76f98f7d882a1
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その5)─流布本の成立時期についての長村祥知説〔2023-08-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/181f33a1dff5d290201e9bf11ad74c4c
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その6)─流布本と『吾妻鏡』の先後関係〔2023-08-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/333c8a97566212deec6166185d5b52c6

※「北条義時を野心に満ちた大悪人、後鳥羽院は多少の欠点はあっても良い人と描く慈光寺本には「謀叛」の表現なし」については、下記にて訂正しています。

0224 『承久記』における「謀叛」と「謀反」〔2024-12-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20e05e1a12f4bacfed4bf8a645d20136
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中世史・中世文学講座、今週土曜日(30日)はお休みします。

2024-11-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
毎週土曜日に開催している中世史・中世文学講座、今週(30日)は都合によりお休みします。
連絡が遅くなって申し訳ありません。
来月からは若干の模様替えの上、継続して毎週土曜日に行います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0219 「乞索圧状」と起請文について

2024-11-25 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第219回配信です。


-------
東京大学中世史研究会11月例会(東京)

日時:11月28日(木)18:00〜21:00
会場:東京大学史料編纂所大会議室
報告者:鷺慶亮氏(麻布学園)
題目:「鎌倉幕府訴訟における論点整理の技法」
○参考文献
古澤直人『鎌倉幕府と中世国家』校倉書房、1991年
長又高夫「本所訴訟から見た北条泰時執政期の裁判構造」(同『御成敗式目編纂の基礎的研究』汲古書院、2017年)
石川光年「「乞索状」考」『日本歴史』845号、2018年

http://www2.ezbbs.net/31/shikado/

石川光年氏「「乞索状」考」
-------
 はじめに
一 鎌倉幕府の訴訟における「乞索状」
二 「乞索」の原義と「乞索状」
 1 律条文の「乞索」
 2 「乞索状」と「圧状」
 3 「乞索状」の条件
三 公家法・本所法における「乞索状」
 おわりに
-------

乞索状〔こっさくじょう〕
「乞索圧状〔こっさくおうじょう〕とも称され、他人に強要して無理に書かせた文書のこと。「きっさくじょう」とも読む」(『国史大辞典』)
「他人の所有物を無理に請いもとめ、しいてその譲り状を書かせること。また、その譲り状」(『日本国語大辞典』)

しかし、『沙汰未練書』には「乞索状トハ 他人状ヲ有初見、後日構出状也」とある。

p7以下
-------
 2 「乞索状」と「圧状」

 前節で検討したように、律にみえる「乞索」という言葉それ自体には「乞いもとめる」という以上の意味はこめられていない。では、その後の史料で「無理に他人のものをもとめる」というニュアンスがこめられていく過程を跡づけることができるであろうか。
 先にも触れたように、「乞索」について検討できる史料は少ない。律からかなり時代は下ってしまうが、『源平盛衰記』の例をあげたい。

〔史料5〕
 十月六日、新院厳島ヨリ還御アリ。遥々ノ海路ヲ御舟ニテ事故ナク還上ラセ給ゾ御目出シ。(中略)通親卿モ涙グミ畏テ、「其事御歎ニ及ベカラス。人ノ持ル物ヲ心ノ外ニスカシ取、人ヲゝドシテ思様ノ文ヲカゝセント仕ヲバ、乞素〔ママ〕圧状ト申テ、政道ニモ不用、神モ仏モ捨サセ給フ事ニテ候ゾ。サヤウニ申行コソ還テ其身ノ咎ニテ侍レバ、空恐シク候。何カハ御苦ミ候ベキ」ト、忍ヤカニ急度被慰申ケリ。

 高倉院が厳島参詣の帰路において、平清盛から強制されて源氏には同心しない旨の起請文を書かされたという場面で、高倉は源通親に涙ながらに相談した。通親は「他人の所有物を「スカシ取」ったり、「人ヲゝドシテ」思い通りの文を書かせるようなことは「乞索圧状」といって政道においても、神仏もこれを認めることはございません」と慰めた。同じく『源平盛衰記』巻第二十六「兼遠起請」にも、木曽義仲の身柄を召進するよう平宗盛に迫られて起請文を書かされた中原兼遠が、「其上心ヨリ起テ書起請ナラズ、神明ヨモ悪トオボシメサジ、加様ノ事ヲコソ乞索圧状トテ、神モ仏モ免シ候ナレト思成テ、熊野ノ牛玉ノ裏ニ起請文ヲ書進」したという。このことから、たとえ神仏に誓約する起請文であっても「乞索圧状」であればその効力は無効とされる、という認識が中世社会に存在したことがうかがえる。井原氏も説くように、「乞索圧状」なるものが中世に存在し、契約においてそれと認められれば契約自体が無効化されるという社会的認識の実在を認めることができる。では、「乞索圧状」と「乞索状」、あるいは「圧状」はすべて同じものなのだろうか。
-------

源通親『高倉院厳島御幸記』(『岩波新日本古典文学大系 中世日記紀行集』)

「乞索圧状」という表現は用いていないが、『太平記』によく似た場面がある。
第九巻「足利殿上洛の事」で、尊氏は北条高時から、正室の赤橋登子と「幼稚の御子息」(千寿王=義詮)を人質とし、更に起請文を提出することを求められる。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p38以下)

-------
 その後、御舎弟兵部大輔殿を呼びまゐらせて、「この事いかがあるべき」と、意見を訪〔と〕はれければ、且〔しばら〕く思案して申されけるは、「この一大事を思し召し立つ事、全く御身のためにあらず。ただ天に代はつて無道〔ぶとう〕を誅して、君の御ために不義を退けんためなり。その上の誓言〔せいごん〕は神も受けずとこそ申し習はして候へ。たとひ偽つて起請の詞〔ことば〕を載せられ候ふとも、仏神、などか忠烈の志を守らせ給はで候ふべき。就中〔なかんずく〕、御子息と御台〔みだい〕とを鎌倉に留め置き奉らん事、大儀の前の小事にて候へば、あながちに御心を煩はさるべきにあらず。公達は、いまだ御幼稚におはし候へば、自然の事もあらん時には、そのために残し置かるる郎従ども、いづくへも懐き抱へて逃し奉り候ひなん。御台の御事は、また赤橋殿さても御座候はん程は、何の御痛はしき事か候ふべき。「大行〔たいこう〕は細謹〔さいきん〕を顧みず」とこそ申し候へ。これら程の小事に猶予あるべきにあらず。ただともかくも相州入道の申されんやうに随ひて、かの不審を散ぜしめ、この度御上洛候ひて後、大儀の計略を廻らさるべしとこそ存じ候へ」と申されければ、足利殿、至極の道理に伏して、御子息千寿王殿と御台赤橋相州の御妹をば、鎌倉に留め置き奉り、一紙の告文〔こうぶん〕を書いて、相模入道の方へ遣はさる。相州入道、これに不審を散じて、喜悦の思ひをなし、乗替〔のりかえ〕の御馬とて、飼うたる馬に白鞍置いて十疋、白覆輪〔しろぶくりん〕の鎧十両引かれけり。
-------

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)〔2020-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
直義の眼で西源院本を読む(その3)-「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」〔2021-07-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b5374f8ace85c3c3e436561337f53cb
起請文破りなど何とも思わない人たち(その1)〔2022-11-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f499d617f18376f321811a045398e40c

『太平記』の記述はそれなりに工夫された創作エピソードだと考えていたが、起請文に関しては『源平盛衰記』と全く同一の発想。
『太平記』作者のドライな個性の発現ではなく、ある意味、当時の武家社会の「一般常識」なのか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0218 来年のことなど

2024-11-24 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第218回配信です。


一、『梅松論』について

成立年代論は一応の結論を出したつもり。
問題は作者論。
私見は少弐氏関係者説。
少弐氏関係記事の異常な分量と少弐氏に好意的な内容がその根拠。
何故に今まで正面から少弐氏関係者説を唱える研究者がいなかったのか。
成立年代の問題が絡んでいたのではないか。
観応の擾乱以降、少弐氏は尊氏と敵対。
→少弐氏関係者を作者とすると不自然。

私見は『梅松論』は1340年代の明るい雰囲気を冷凍保存した作品と捉える。
→少弐氏関係者を無理なく作者とできる。

武田昌憲・小秋元段氏の見解を簡単に批判して、一応の区切りとするつもり。


二、『増鏡』のこと

小川剛生氏の『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)をきっかけに中世史・中世文学研究に復帰。
旧サイト『後深草院二条 中世の最も知的で魅力的な悪女』でも『増鏡』の原文を紹介した上で検討を加えてみたが、限定的だった。
2018年上半期に『増鏡』の読み直しを試みたが、鎌倉末期を見通すことができず、1280年代までで挫折。
「昭慶門院二条」を突破口に『増鏡』作者の後半生が見えてきて、更に小川剛生氏の『「和歌所」の鎌倉時代 勅撰集はいかに編纂され、なぜ続いたか』(NHKブックス、2024)のおかげで『増鏡』の歌壇関係記事の理解も深まったので、いよいよ『増鏡』の全体を捉えることが可能になった。
来年一年間かけて『増鏡』の総括的な検討を行う予定。


三、研究会のこと

(1)『承久記』と『梅松論』については研究会で発表の上、論文に纏めたい。
(2)権門体制論について若手研究者と議論の上、歴研大会などの機会に若干の問題提起をしたい。

四、中世史・中世文学講座のこと

趣旨が漠然としすぎていたので、「『増鏡』と『とはずがたり』を読む会」といった名称に変更予定。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0217 『増鏡』における御産祈禱記事について(その2)

2024-11-20 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第217回配信です。


一、前回配信の補足

前回配信時には仲恭天皇には誕生関係記事がないものと勘違いして、レジュメでも践祚と退位の記事を載せたが、修正した。

0216 『増鏡』における御産祈禱記事について(その1)〔2024-11-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ab6a04de0474167319b193919f28cdc7


二、『増鏡』における歴代天皇の誕生関係記事(後半)

(11)九十二代 伏見天皇(1265‐1317)
※誕生関係記事はなく、後宇多天皇誕生記事に関連して「新院の若宮」の存在に言及するのみ。

「上も限りなき御心ざしにそへて、いよいよ思すさまに嬉しと聞しめす。大臣も今ぞ御胸あきて心おちゐ給ひける。新院の若宮もこの殿の御孫ながら、それは東二条院の御心のうちおしはかられ、大方もまた、うけばりやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞しめし消つさまなりつれど、この今宮をば、本院も大宮院も、きはことにもてはやし、かしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ一方ならず思しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける」
(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p104)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dda16ba09f5989fc63ee20f418bcb06

(12)九十三代 後伏見天皇(1288‐1336)
「さても、去年〔こぞ〕の三月三日かとよ、経氏の宰相の女の御腹に若宮いできさせ給へりしを、太子に立て参らせ給ふ。いとかしこき御宿世〔しゆくせ〕なり。中宮の御子にぞなし奉らせ給ひける。同じうは、まことにておはせましかばとぞ、大将殿など思しけんかし」
(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p356以下)

(13)九十四代 後二条天皇(1285‐1308)
「この御門はねび給ふままに、いとかしこく、御才などすぐれさせ給へれば、なべて世の人もめでたきことに思ひ聞ゆ。はかばかしき女御・后などもさぶらひ給はで、いとつれづれなるに、新陽明門院の御方に堀川大納言の御女、東の御方とてさぶらひ給ふを、忍び忍び御覧じける程に、弘安八年二月ばかり、若宮いで物し給へり。いとやむごとなき御宿世なるべし」

(14)九十五代 花園天皇(1297‐1348)
「持明院殿には、世の中すさまじく思されて、伏見殿に籠りおはしますべくのたまへれど、二の御子、坊に定まり給へば、又めでたくて、なだらかにておはしますべし。さきに聞えつる御母女院の御はらからの姫君、顕親門院と聞えし御腹なり。八月十五日まづ親王になし奉らせ給ひて、同廿四日に春宮に立ち給ひぬ」

(15)九十六代 後醍醐天皇(1288‐1339)
「院の二の御子の御母も近頃は法皇召しとりて、いとときめきて、准后など聞えつるも、思ひ嘆き給ふべし」

(16)北朝初代 光厳天皇(1313‐1364)
※誕生関係記事はなく、後醍醐天皇即位・邦良親王立坊記事の後、持明院統の様子を短く描く場面に「広義門院の御腹の一の御子」の存在に言及するのみ。

「本院は、広義門院の御腹の一の御子をこのたび坊にやと思されしかど、ひき過ぎぬれば、いと遥けかるべき世にこそ、とさうざうしく思さるべし」
(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p56)


三、『増鏡』における誕生関係記事の分量ランキング

後に天皇となる皇子以外でも、後嵯峨院皇子の宗尊親王(母は平棟子)や亀山院皇子の「若宮」(啓仁親王、母は新陽明門院)など、誕生記事は若干ある。
ただ、分量は僅少で、祈禱等の記述はない。

『増鏡』における歴代天皇の誕生記事の分量を比較すると、

第一位 後深草天皇(井上著で30行)
第二位 後宇多天皇(井上著で14行)

しかし、遊義門院誕生記事は井上著で28行あり、後深草天皇に匹敵する。
また、修法の種類や僧侶の名前が詳しく記されるのは遊義門院のみ。
異母兄である伏見天皇には誕生記事が存在しない。
そもそも皇子誕生が期待されていたのに皇女だったので関係者は落胆した、という内容にも拘らず、何故にこれほど大量の記事が書かれたのか。

-------
 かやうのことにのみ心やりて明かし暮らさせ給ふ程に、又の年の秋になりぬ。東二条院、日頃ただにもおはしまさざりつる、その御気色ありとて、世の中騒ぐ。院の内にてせさせ給へば、いよいよ人参り集ふ。大法・秘法のこりなく行はる。七仏薬師・五壇の御修法・普賢延命・金剛童子・如法愛染など、すべて数知らず。
 御験者には常住院の僧正参り給ふ。八月廿日宵の事なり。すでにかと見えさせ給ひつつも、二日三日になりぬれば、ある限り物覚ゆる人もなし。いと苦しげにし給へば、仁和寺の御室の、如法愛染の大阿闍梨にてさぶらひ給ふを、御枕上に近く入れ奉らせ給ひて、「いと弱う見え侍るはいかなるべきにか」と、院も添ひおはしまして、あつかひ聞え給ふさま、おろかならねば、あはれと見奉り給ひて、「さりともけしうはおはしまさじ。定業亦能転は菩薩の誓ひなり。今更妄語あらじ」とて、御心を致して念じ給ふに、験者の僧正も「一持秘密」とて数珠おしもみたる程、げに頼もしく聞ゆ。御誦経の物ども運び出で、女房の衣など、こちたきまで押し出だせば、奉行とりて殿上人・北面の上下、あかれあかれに分ち遣す。
 そこらの上達部は階の間の左右につきて皇子誕生を待つ気色なり。陰陽師・巫女たちこみて千度の御はらへつとむ。御随身・北面の下臈などは、神馬をぞ引くめる。院、拝し給ひて廿一社に奉らせ給ふ。すべて上下・内外ののしり満ちたるに、御気色ただ弱らせ給へば、今一しほ心まどひして、さと時雨渡る袖の上ども、いとゆゆし。院もかきくらし悲しく思されて、御心の内には石清水の方を念じ給ひつつ、御手をとらへて泣き給ふに、さぶらふ限りの人、皆え心強からず。いみじき願どもをたてさせ給ふしるしにや、七仏の阿闍梨参りて、「見者歓喜」とうちあげたる程に、からうじて生まれ給ひぬ。
 何といふ事も聞こえぬは姫宮なりけり、といと口惜しけれど、むげになき人と見え給へるに、平らかにおはするを喜びにて、いかがはせむと思し慰む。人々の禄など常の如し。法皇も、なかなかいたはしく、やんごとなき事に思して、いみじくもてはやし奉らせ給ふ。いでやと口惜しく思へる人々多かり。
 かかるにしも、実雄の大臣の御宿世あらはれて、片つ方には心落ちゐ給ふも、世の習ひなれば、ことわりなるべし。五夜・七夜など、ことに花やかなることどもにて過ぎもて行く。
(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p150以下)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1291f825075ced1c5162a98bbfcd7356

遊義門院誕生記事の分量の多さは北山准后九十賀関係記事が異常な分量であることを連想させる。

-------
『増鏡』における「北山准后九十賀」の記述量は大変なもので、原文のみで解説を付さない和田英松校訂の岩波文庫版『増鏡』(1931)ではp126~136の11頁分が「北山准后九十賀」に費やされています。
岩波文庫版『増鏡』は本文がp9~240の232頁で、「北山准后九十賀」を含む「第十 老のなみ」がp114~137までの24頁ですから、「北山准后九十賀」は「第十 老のなみ」の約45%、そして『増鏡』全体の約5%を占めることになります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f7b60b638814eeffeb96674651b1bfde

北山准后は大宮院・東二条院の母。
後深草天皇誕生記事・遊義門院誕生記事はそれぞれ大宮院御産記・東二条院御産記でもある。


四、遊義門院と後深草院二条の関係

坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その1)(その2)〔2022-07-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27f1e4680cdec1379fe579abc28de04
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd7067087d8851371b5f7e6fa963f23a

『拾遺現藻和歌集』の撰者は誰なのか?(その6)〔2022-09-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bcd3d7510396199a162222c822880956
2022年10月の中間整理(その3)〔2022-10-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2ed41f2928da909b6de4923c2cb8eb6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中世史・中世文学講座(第13回)

2024-11-18 | 鈴木小太郎チャンネル2024
※毎週土曜日に行っています。

テーマ:『梅松論』を読んでみる。(その6)
『梅松論』は『増鏡』ほど完成度が高い作品ではありませんが、南北朝時代の武士の思考様式を知るには絶好の書物です。
前回に引き続き、『太平記』と比較の上で、重要場面を少しずつ読んで行きます。

日時:11月23日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。
https://www.town.kanra.lg.jp/kyouiku/gakusyuu/map/01.html

連絡先:
iichiro.jingu※gmail.com
※を @ に変換して下さい。
またはツイッターにて。
https://x.com/IichiroJingu
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0216 『増鏡』における御産祈禱記事について(その1)

2024-11-18 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第216回配信です。

※配信時には仲恭天皇には誕生関係記事がないものと勘違いして、このレジュメでも践祚と退位の記事を載せていましたが、修正しました。

一、歴研中世史部会11月例会のこと

歴研中世史部会11月例会について(質疑応答での発言の訂正とお詫び)〔2024-11-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/02d9b5655aa6fdb43b477fa2d30593e4


二、『増鏡』における歴代天皇の誕生関係記事(前半)

(1)八十二代 後鳥羽天皇(1180‐1239)
「御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申すおはしましき。御いみなは尊成、これは高倉院第四の御子、御母七条院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめなり。高倉院位の御時、后の宮の御方に、兵衛督の君とて仕うまつられしほどに、忍びて御覧じ放なたずやありけん、治承四年七月十五日に生まれさせ給ふ」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p32)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25f4a89f6c5e5554fa9364d4c9012a47

(2)八十三代 土御門天皇(1195‐1231)
「今の御門の御いみ名は為仁と申しき。御母は能円法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕うまつられける程に、この御門生まれさせ給ひて後、内大臣通親の御子になり給ひて、末には承明門院と聞えき」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p47)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/54d8b02b75e0d0d8da9868b828e0d95d

(3)八十四代 順徳天皇(1197‐1242)
「なにとなく明け暮れて、承元二年にもなりぬ。十二月廿五日、二宮御冠し給ふ。修明門院の御腹なり。この御子を院かぎりなく愛しきものに思ひ聞えさせ給へれば、二なくきよらを尽し、いつくしうもてかしづき奉り給ふことなのめならず。つひに同じ四年十一月に御位につけ奉り給ふ」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p62以下)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17a180bcfe7ca48f321ac3dc15711280

(4)八十五代 仲恭天皇(1218‐34)
「摂政殿の姫君まいり給ひていと花やかにめでたし。この御腹に、建保六年十月十日一の御子生まれ給へり。いよいよものあひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月廿一日、やがて親王になし奉り給ひて、同じ廿六日坊に居給ふ。未だ御五十日だに聞こしめさぬに、いちはやき御もてなし、珍らかなり」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p67)

(5)八十六代 後堀河天皇(1212‐34)
「その頃いと数まへられ給はぬふる宮おはしけり。守貞の親王とぞ聞えける。高倉院第三の御子なり。隠岐の法皇の御兄なれば、思へばやむごとなけれど、昔、後白河法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に見奉らせ給ひける御孫の宮たち選りの時、泣き給ひしによりて位にもつかせ給はざりしかば、世の中もの怨めしきやうにて過ぐし給ふ。【中略】この乱れいで来て、一院の御族はみなさまざまにさすらへ給ひぬれば、おのづから小さきなど残り給へるも世にさし放たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、東よりのおきてにて、かの入道の御子の、十になり給ふを、承久三年七月九日にはかに御位につけ奉り、父の宮をば太上天皇になし奉りて法皇と聞ゆ。いとめでたく横さまの御幸ひおはしける宮なり。孫王にて位につかせ給へるためし、光仁天皇より後、絶えて久しかりつるに、珍しくめでたし」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p166以下)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/178d4f57e6e925e05dec2386f4932fe8

(6)八十七代 四条天皇(1231‐42)
「さて同じ四日おりゐさせ給ふ。御悩み重きによりてなりけり。去年の二月、后の宮の御腹に一の御子いでき給へりしかば、やがて太子にたたせ給ひしぞかし。例の人の口さがなさは、「かの承久の廃帝の、生まれさせ給ふとひとしく坊にゐ給へりしは、いと不用なりしを」などいふめり。
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、187)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/63e92d4d280c1d33812576229765f57e

(7)八十八代 後嵯峨天皇(1220‐72)
「さても源大納言通方のあづかり奉られし阿波院の宮は、おとなび給ふままに、御心ばへもいと警策に、御かたちもいとうるはしく、けだかくやんごとなき御有様なれば、なべて世の人もいとあたらしきことに思ひ聞えけり。大納言さへ暦仁の頃うせにしかば、いよいよま心につかうまつる人もなく、心細げにて何を待つとしもなく、かかづらひておはしますも、人わろくあぢきなう思さるべし。御母は、土御門の内大臣通親の御子に宰相中将通宗とて若くてうせにし人の御女なり」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、208以下)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc057fa9870f4d84982b6587b50090c2

(8)八十九代 後深草天皇(1243‐1304)
「あくる年は寛元元年なり。六月十日頃に、中宮、今出川の大殿にてその御気色あれば、殿の内たち騒ぐ。白き御装ひにあらためて、母屋にうつらせたまふ程、いとおもしろし。大臣・北の方・御兄の殿ばら達そ添ひかしづき聞え給へるさま、限りなくめでたし。御修法の壇ども数しらず。医師・陰陽師・かんなぎ、各々かしがましきまで響きあひたり。いと暑き程なれば、唯ある人だに汗におしひたしたるに、后の宮いと苦しげにし給ひて、色々の御物の怪ども名乗り出でつつ、わりなくまどひ給へば、大臣・北の方、いかさまにせんと御心を惑はし給ふさま、あはれにかなし。かやうのきざみ、高きも下れるも、おろかに思ふ人やはあらん。なべてみなかうのみこそあれど、げにさしあたりたる世の気色をとり具して、たぐひなく思さるらんかし。内よりも、「いかにいかに」と御使ひ雨のあしよりもしげう走りちがふ。内の御めのと大納言二位殿、おとなおとなしき内侍のすけなど、さべき限り参り給へり。今日もなほ心もとなくて暮れぬれば、いとおそろしう思す。伊勢の御てぐらつかひなどたてらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使ひ、四位五位数を尽して鞭をあぐるさま、いはずともおしはかるべし。大臣とりわき春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p242)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9326b718a86a34828915d0e7fade3f27

 内には更衣腹に若宮おはしませど、この御事を待ち聞え給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。たとひ平らかにし給へりとも、女宮にておはしまさばと、まがまがしきあらましを思ふだに、胸つぶれ口惜し。かつは御身の宿世みゆべき際ぞかし、と思せば、いみじう念じ給ふに、既にことなりぬ。まづ何にかと心騒ぐに、御兄の大納言公相、「皇子誕生ぞや」といと高らかにの給ふを、余りの事にみなあきれて、「まことか、まことか」と、大臣のたまふままに、喜びの御涙ぞ落ちぬる。あはれなる御気色、見る人もこと忌みしあへず。御修法の僧どもをはじめ、道々の禄たまはる。したり顔に汗おしのごひつつまかづる気色、今一きはめでたく、ののしりたちて、さらに物も聞えず。げにこの頃の響きに、女にておはしまさましかば、いかにほしほと口惜しからまし。きらきらしうもしいで給へるかし。されば大臣年たけ給ふまでも、「その折の嬉しうかたじけなかりしを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまるる」とぞ、後深草院をば常に申されける。
 御湯殿の儀式はさらにもいはず、人々の禄、なにくれ、例の作法に事をそへて、いみじう世のためしにもなるばかりとつくし給ふ。御はかし参る。心もとなかりつるままに、二十八日親王の宣旨ありて、八月十日すがやかに太子にたち給ひぬ。大臣御心おちゐて、すずしうめでたう思す事限りなし。
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p245以下)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a613506b75317da4462dd596505c60e5

(9)九十代 亀山天皇(1249‐1305)
「さても院の第一の御子は、右中弁平棟範のぬしの娘、四条院に兵衛内侍とてさぶらひしが、剣璽につきて渡り参れりしを、忍び忍び御覧じける程に、その御腹に出で物し給へりしかど、当代生まれさせ給ひにし後は、おし消たれておはしますに、また建長元年后腹に二の宮さへさしつづき光り出で給へれば…」
(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p274)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/df97ebd9ddfd84fc306d7efd834631af

(10)九十一代 後宇多天皇(1267‐1324)
「皇后宮は日にそへて御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出で物し給ひしかど、やがて失せさせ給へるを、御門をはじめ奉りて、たれもたれも思し嘆きつるに、今年又その御気色あれば、いかがと思し騒ぎ、山々寺々に御祈りこちたくののしる。こたみだに、げに又うちはづしては、いかさまにせんと、大臣・母北の方も安き寝も寝給はず、思し惑ふこと限りなし。
 程近くなり給ひぬとて、土御門殿、承明門院の御跡へ移ろひ給ふ。世の中ひびきて、天下の人高きも下れるも、つかさある程のは参りこみてひしめきたつに、殿の内の人々はまして心も心ならず、あわたたし。大臣、限りなき願どもをたて、賀茂の社にも、かの御調度どもの中に、すぐれて御宝と思さるる御手箱に、后の宮みづから書かせ給へる願文入れて、神殿にこめられけり。
 それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、まことにや侍りけん。かくいふは文永四年十二月一日なり。例の御物のけどもあらはれて、叫びとよむさま、いとおそろし。されども御祈りどものしるしにや、えもいはずめでたき玉の男の子みこ生まれ給ひける。その程の式、いはずともおしはかるべし」
(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p103以下)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0b6e7187e80926aa482304fad6478bc7


参考:『増鏡』と『とはずがたり』の遊義門院誕生記事
「巻八 あすか川」(その11)─遊義門院誕生〔2018-02-08〕
『とはずがたり』に描かれた遊義門院誕生の場面〔2018-02-08〕
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴研中世史部会11月例会について(質疑応答での発言の訂正とお詫び)

2024-11-17 | 鈴木小太郎チャンネル2024
昨日は歴史学研究会日本中世史部会11月例会に参加しました。

-------
【日 時】2024年11月16日(土)15時~18時(予定)
【会 場】東京大学史料編纂所福武ホール大会議室
【報告者】時田 栄子氏
【題 目】「鎌倉期密教修法とその費用負担」
☆参考文献
遠藤基郎「中世における扶助的贈与と収取」(『歴史学研究』636号、1992年)
新井重行「皇子女の産養について」(『書陵部紀要』63号、2012年)

http://rekiken.jp/seminar/japan_medieval/

帰宅してから、質疑応答で自分がかなり頓珍漢なことを堂々と発言していたことに気づきました。
第一は資料の表の宝治元年(1247)のところに四条隆衡の名前があるが、隆親の間違いではないか、隆衡は既に死んでいるのでは、みたいなことを言ってしまったのですが、隆衡は長命な人で、宝治元年でも存命ですね。

四条隆衡(1172‐1255)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%A1%A1

第二は、資料レジュメに天福元年の『民経記』の記事が多数載っていたのですが、私は天福元年を1220年代後半と勘違いしていて、まだ十代の後堀河天皇には政治的指導力がなかった、みたいなことを延々と語ってしまいました。
しかし、天福元年は1233年で、建暦二年(1212)生まれの後堀河は二十二歳ですね。
そして前年に四条天皇に譲位しており、院政期でしたが、これも勘違いして親政期だと思い込んでいました。
まあ、政治的指導力を感じさせないのは確かなのですが、後堀河は翌天福二年に二十三歳で死んでしまうので、あるいは病弱といった事情があるのかもしれません。
いずれにせよ、勘違いで議論を混乱させてしまったことをお詫びしたいと思います。

後堀河天皇(1212‐34)

今後の対策:加齢による記憶力の低下、思い込みの激しさを自覚し、研究会には年表を持って行く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0215 流布本と京大本の数量的分析(その4)

2024-11-16 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第215回配信です。


『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』では上巻は693行、下巻は842行、上下巻合計で1535行。
加美宏氏の項目分けでは、上巻は19項目、下巻は59項目なので、一項目あたり、

上巻 693÷19≒36.47(行)
下巻 842÷59≒14.27(行)

となり、加美氏は下巻では上巻よりも相当細かく項目分けしている。

小川信氏作成の「足利方主要武将名頻度表」のように細川・少弐・赤松・大友等の名前を単純にピックアップするのではなく、関係記事の分量を確認したい。
上巻に引き続き、下巻の内容を人名表記に注意しつつ概観する。

-------
19 尊氏入京ならびに結城親光忠節の事(33行)
「結城大田太夫判官親光」
「親光が一族益戸下野守」
※結城親光は「佐野」で官軍から足利方に寝返った大友貞載の殺害を謀るが、『太平記』では親光の狙いは尊氏暗殺。それを察した尊氏が大友を遣わすとの展開。
小川信氏は『梅松論』が『太平記』に拠って増補したとするが、どうなのか。

20 奥州勢到着ならびに三井寺合戦の事(9行)
「宮并北畠禅門、出羽・陸奥両国の勢ども」
「両国の勢は北畠殿の子息、国司顕家卿相随て…」
「細河の人々を大将として四国・中国の軍勢、…」

※『梅松論』は奥羽軍の総大将を北畠顕家ではなく親房とする。

21 足利勢、新田・結城軍を撃破の事(20行)
「両大将二条河原に打立給ふ」
「義貞大将として…」
「官軍には千葉介、義貞一人当千の船田入道・由良左衛門尉を始として…」
「義貞、自〔みずから〕旗をさし、親光が父結城白河上野入道と共に…」
「小山・結城一族二千余騎にて」
「両侍所、佐々木備中守仲親・三浦因幡守貞連、三条河原にて、頸の実検ありしかば」

22 足利勢敗れて西へ退陣の事(10行)
「両大将御馬を進められて、おぼしめしきつたる御色みえしほどに、勇士ども我も/\と御前にすゝみて禦〔ふせぎ〕戦し処に、上杉武庫禅門を始として上浦因幡守・二階堂下総入道行全・曽我太郎左衛門入道、所々に返合々々てうちじにしける間に、…」

23 細川の人々奮戦の事(20行)
「細河の人々大将として四国勢、…」
「細川定禅兄弟おめき呼〔さけん〕で懸しほどに」
「されば忝も御自筆の御書をもて、錦の御直垂を兵部少輔顕氏に送給なり」
「其比は卿公定禅をば鬼神のやうにぞ申ける」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin?sess=e8b632f11b3a7c2fcd57cc8590abeeb0

24 義貞にせ首の事(7行)
「越前国住人白河小次郎、義貞と号して討て頸をとり、…」
「葛西の江判官三郎左衛門が頸なり」
※正成の計略で義貞等の討死の噂を流したとの『太平記』記事との関係が問題。

25 尊氏篠村へ退陣の事(10行)
「御方の軍破れて、二階堂信濃判官行周〔ゆきちか〕討死す。去年八月のはじめ、武将東夷を静めむた為に都を御出有て、相模次郎・諏訪の祝〔はふり〕以下退治の間、…」

26 尊氏兵庫に陣を取る事(17行)
「細川の人々・赤松以下西国の輩を案内者として…」
「赤松円心入道参て申けるは、…」

27 西宮・瀬川合戦の事(11行)
「先度御教書を給る周防の守護大内豊前守・長門の守護厚東入道両人、…」
「細川の人々大将として、周防・長門の勢を相随て…」
「細川阿波守和氏の舎弟源蔵人頼春は深手を負給けり」

28 赤松、西国退去と院宣受領を忠言の事(20行)
「赤松入道潜〔ひそかに〕将軍の御前にまいりて申けるは、…」
「をよそ合戦には旗をもて本とす。官軍は錦の御旗をさきだつ。御方は是に対向の旗なきゆへに朝敵にあひにたり。所詮持明院殿は天子の正統にて御座あれば、先代滅亡以後、定て叡慮心よくもあるべからず。急て院宣を申くだされて、錦の御はたを先立らるべきなり」

資料:深津睦夫氏『光厳天皇』「第一章 両統迭立」〔2024-11-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b00af849d7cb16827c4e7b80b1bd072e
0208 皇統へのニヒリズムに近いプラグマティズム〔2024-11-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8034e47900f735522c15b07f9aea9782

「先〔まづ〕四国へは細川の一家下向あるべし。中国摂津国・播磨両国をば円心ふまゆべき也。鎮西の事は太宰筑後入道妙恵が子三郎・将監二人いまに供奉す。先太〔せんだつて〕妙恵御教書給〔たまはる〕間、さだめて忠節をいたすべし。大友左近将監が去七月京都にて親光が為に討死す。家督千代松丸は幼稚の間、一族家人数百人当陣に伺候す。中国・四国・九州の軍勢を相随て、季月の内に御帰洛何のうたがひかあらん。先摩耶城のふもとに御座あるべしと、再三忠言をもて申けるほどに、夜半ばかりに瀬河の御陣を退て、十二日卯刻に兵庫に入御〔じゆぎよ〕あり」

※少弐氏は上巻には見えない。
「太宰筑後入道妙恵が子三郎・将監二人」が『梅松論』での初出。

29 尊氏勢兵庫より室の津に至る事(25行)
「雖然〔しかりといへども〕下御所は猶立帰て摩耶のふもとに御座あれば、いかにも都にむかひて命を捨べき御所存なりし程に、将軍御問答頻〔しきり〕にありしによて、兵庫に御帰あり。同酉時ばかりより船共に、だれのりてはじむとなかりしかども、大勢こみのりける有さま、あはたゞしかりし事どもなり」
「去程に供奉仕〔つかまつる〕一方の大将どもの中に七八人京都へおもむくあり。降参とぞ聞えし。此輩はみな去年関東よりいまに至まで戦功をいたす人々なり。雖然、御方敗北の間、いつしか旗を巻〔まき〕、冑をぬぎ、かさじるしをあらためける心中どもこそ哀なれ。これらをみるにつけても、義ををもくし命をかろくする勇士は、いよ/\忠節をつくすべき色をぞあらはしける」

30 足利勢諸国手分けならびに院宣受領の事(15行)
「当津に一両日御逗留ありて、御合戦の評定区々なりけるに、或人のいはく、京勢はさだめて襲来るべし。四国・九国に御着あらん以前に、御うしろを禦ん為に、国々に大将をとゞめらるべきかと申ければ、尤可然〔しかるべき〕上意にて、先四国は細川阿波守和氏・源蔵人頼春・掃部介師氏兄弟三人、同いとこ兵部少輔顕氏・卿公定禅・三位公皇海・帯刀先生直俊・大夫将監政氏・伊予守繁氏兄弟六人、已上九人なり。阿波守と兵部少輔両人成敗として、国におゐて勲功の軽重によて、恩賞ををこなふべきむね仰つけらる。播磨は赤松、備前は尾張親衛、松田の一族を相随て三石の城にとゞめらる。備中は今河三郎・四郎兄弟、鞆・尾道に陳をとる。安芸国は桃井の布河匠作・小早川一族をさしをかる。周防国は大将新田の大嶋兵庫頭・守護大内豊前守、長門国は大将尾張守・守護厚東太郎入道、かくのごとくさだめをれて、備後の鞆に御着ある処に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院より院宣を下さる。是によて人々勇みあへり。いまは朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を上〔あぐ〕べきよし国々の大将に仰つかはされけるこそ目出〔めでた〕けれ」

資料:流布本にのみ存在する九つの細川氏顕彰記事(その2)〔2024-11-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7797e13f0bd4d5da5238f7b1221e29eb
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0214 『承久記』の諸本研究との違い

2024-11-15 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第214回配信です。


一、前回配信の補足

資料:流布本にのみ存在する九つの細川氏顕彰記事(その1)(その2)〔2024-11-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59f2112d55fedb408e74395f8a7fc27b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7797e13f0bd4d5da5238f7b1221e29eb

0213 流布本と京大本の数量的分析(その3)〔2024-11-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4faa114d264a212796f6ae7f435a8ebf

京大本(古写本系)と延宝本(流布本系)を比較してみると、その違いが少ないことに気づく。
ストーリーの大きな流れはもちろん、個々のエピソードの内容も大半が共通。
細かな表現の違いや追加・脱落は無数にあるが、殆ど好みの問題程度。

資料:「京大本・天理本に存在する天皇の三尾の津での言葉」について〔2024-11-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2f0faff47d7669b93ee2b2fe7255a434

明らかに共通の祖本が想定される。
ただ、この状況は『承久記』とは相当に異なる。


二、『承久記』の諸本の場合

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その1)─今後の方針〔2023-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bef1581e4af838417cc067d8247cfb42
【中略】
もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その77)─「アサマダキニ神祇官行幸ナル」〔2023-07-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bfa23fd6c7c30ae50c7206a4be6c6dfd

流布本も読んでみる。(その1)─上巻冒頭〔2023-03-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/32a46bb4cf85d781d154b2aeb8ee3568
【中略】
流布本も読んでみる。(その86)─『六代勝事記』・『吾妻鏡』との関係〔2023-08-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/463342c581d64d1976e18d65cd746040

慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その1)─今後の課題〔2023-08-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e960c2776946a8e96707a8db79c5fdf5
【中略】
慈光寺本・流布本の網羅的検討を終えて(その21)─「美徳であると同時に、悲しみの輪廻の源」(by 日下力氏)〔2023-08-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91e63e9307d0aa6d6fdf56cecbfc3cad

森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その1)─「平氏一門であっても、基準の下方に霞む存在」〔2023-08-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4b61745b19c693c1911023122ee961b4
【中略】
森野宗明氏「『慈光寺本承久記』の武家に対する言語待遇に就いて」(その19)─「筆者としては、無住作者説に固執するつもりはない」〔2023-09-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74fe42af459af6e2e189d78bfa712d5f

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その1)─評価対象の39項目〔2023-10-01〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e512d6c7071628aa06ba0a2f9897a05e
【中略】
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その22)─「A」「B」「C」「D」の割合〔2023-10-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ad1bd791b35483def8d78fb0ea05c61b

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その1)─作成にあたっての私の下心〔2023-10-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/994483d961bd3251f16e425a5658df7d
【中略】
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その72)─「たとえ多くの恩賞を受けずとも、この相論に関しては承服できません」(by 芝田兼義)〔2023-12-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d5b9a4cd83c1d55800ea0b677b8a7b6


一般に慈光寺本が最も古く、1230年代の成立と言われている。
しかし、他の諸本の作者にとって、慈光寺本は個性的過ぎて参考にならない。
取りあげる題材が相当に異なる。
同一の話題、例えば伊賀光季追討記事を慈光寺本と流布本で比較しても、違いが多すぎる。
仮に慈光寺本が先行するとしても、流布本の作者にとって慈光寺本は全く参考にならない。

伊賀光季追討記事、流布本と慈光寺本の比較(その1)~(その3)〔2023-03-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b26323766357635b77c96397322fb65e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25b33642bd703dd0ec7407be3bd7fa12
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba727054dbbd9d689da0a798b3db294c
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料:「京大本・天理本に存在する天皇の三尾の津での言葉」について

2024-11-14 | 鈴木小太郎チャンネル2024
小川信氏
-------
 流布本が京大本・寛正本・天理本の三種の古写本に存在する問答体の箇所を削除して物語的な構成を省略し、且つ巻頭近くの先代様をめぐる冗長な論議を削除したと認められることは前に述べたが、その外にも、例えば後醍醐天皇隠岐遷幸の記事の中、京大本・天理本に存在する天皇の三尾の津での言葉が流布本に欠けているように、多少の削除が認められるのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e

(1)延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p50以下)
-------
 かくて、御旅の日数十余日を経て御座船、出雲国三尾のうらに着給ふ。当津に有ける古き御堂を一夜の皇居とぞ。君いまだ六波羅に御座の時、板屋にしくれのはら/\と過けるをきこしめして、
 住みなれぬ板屋の朝の村時雨きくにつけてもぬるゝ袖哉
とありし御製だにも忝なかりし御事なるに、まして此皇居さこそと思ひやりて奉りて、頻にあはれをもよほさぬものぞなかりける。田舎のならひなれば、人の詞もきゝしり給はず。あら/\しきにつけても都をおぼしわするゝ時の間もなし。さなきだに御ね覚がちなる夜もすがらうら浪こゝもとに立さはぐを、御枕をそばだてゝ聞給ふに、行人征馬のいそがはしげに行かよふに付ても、むかしの須磨のねざめ、王昭君が胡の地におもむきける馬上の悲み、思召残す方もなし。すこしまどろませ給はねば、都にかへる御夢もなし。
 去程に、夜もあけしかば供奉の人におほせられけるは、これより大社へはいかほどあるやらんと御たづねありければ、道はるかにへだたりて候よし申あげたりければ、武士どもに向て勅して宣はく、汝等知や、此御神をば素戔烏尊と申也。昔稲田姫を睦て日の川上の大蛇を命に替て、是を殺して釼を得、姫を儲けて宮作して、八雲立もいへる三十一字の詠を残して今に跡をたれ給ふ。朝家に三種の宝の中に第一の宝釼も、此御神の得給しぞかしとぞ、御涙せきあへずして龍顔実に御愁ある躰なり。次日、穏而御舟にめされしかば御送の輩も同みほの津より暇を申してとゞまりける。去年の冬上洛せし関東の両使も下向す。其後は世中何事となく静かならず。
-------

(2)京大本(『国語国文』33巻8号、p15)
-------
【前略】旅の日数十余日をへて御乗舟あり。出雲国三尾の浦に着給。当津に有ける古御堂を一夜の皇居とす。君いまだ六波羅に御座の時、板屋に時雨のはら/\と過けるを聞食あへず、御詠、
 住みなれぬ板屋の軒の村時雨聞に付けてもぬるゝ袖かな
とありし御製、忝なき御事なるに、まして此皇居の御ありさま、さこそと思やり奉て、頻に泪をながさぬはなかりけり。此国の人の詞も野飼の牛の子を思ふ声の如く也。海人のさへづりも思しられ、浦の波こゝもとに立さはぎ、御枕を峙て、征馬の頻にうこつくを聞食ても、昔の須磨のねざめ、異朝の王昭君が胡地に趣ける馬上の思、何も思召のこす方もなし。一面の琵琶を御身にそへられける。隠月に向給ても、少まどろみ給はねば、都に帰る御夢だにもなし。さる程に夜も深しかば、供奉の人に被仰て宣く、是より大社へは如何程有ぞと御尋ありければ、道はるかに隔る由申上たりければ、武士共に向て宣く、汝等知や此御神をそさのをのと申。昔稲田姫を※〔めにみ〕て日の川上の大地を命に替て、殺釼を得、妻を儲て宮造し、八雲立と三十一字の詠を残し、今に跡を垂給。朝家に三種の宝の中に、第一の宝釼も此御神の得給しぞかしとて、御泪ぐみ給て、龍顔誠にみだりがはしき躰なり。次日軈て御舟に被召し間、供奉し奉る武士某等是より数輩暇を申し、留ける時又勅して宣く、汝等是まで送奉事、正く一世の契に非ず。多生広劫の宿縁也。一樹一河の流をくむも若干の宿縁と聞、争か愁腸の思なからんや。したゐきたるべき道ならね共、帰路にのぞめば互に哀也とて、纜をときしかば、こぎ行舟の跡きえて惜からぬ余波の立帰さぞ恨めしき。三尾の津より御送の輩帰路せしかば、去年の冬上洛せしめし関東の両使某等下向す。其後は世中何事となく静ならず。
-------


(3)天理本(『行誉編『壒嚢鈔』の研究』p255以下)
-------
【前略】旅の日数十余日を経て、御船ねあり。出雲国三尾の浦に着給。当津に古る御堂を一夜の皇居としてんけり。君未た六波羅に御座の時、板屋に時雨のはら/\過けるを聞食て取敢す、
 住馴ぬ板屋の軒の村時雨聞に付てもぬるゝ袖かな
 と有し御製たにも忝きに、増てひなの皇居、さこそと思遣奉て頻に泪を流し侍りき。本より此国の人の詞も、野飼の牛の友を呼声の如くなるに、浦浪此本に立さはき、御枕を欹て征馬の頻りにうすつくを聞食ても、昔の須磨のねざめ、王昭君か胡地に起むきける馬上の恨思食残す方もなし。一面の琵琶を御身に副られさる物から、隠月に向給ても少しも真眠ませ給ねは、都に帰る御夢もなし。さる程に夜も深けしかは、供奉の人々に被仰て云く、是より大社へは幾程あるそと御尋ね有けれは、道遥に隔たる由を申上けり。其時武士共に向て勅定ありけるは、汝等知や、此御神は素戔烏尊にて御座す。昔稲田姫をさゐわひて、日の河上の大蛇を命に替て害て釼を得給へり。彼の大蛇を焼捨給ける煙り八色の雲に立けるを、八雲立つと詠し給へり。是卅一字の始也。朝家に三種の宝の中に宝釼と云も、此御神の得給しそかしとて、涙含ませ給ひけり。龍顔誠に猥しき体也。
 次の日軈て御舟に奉て供奉し進せけり。武士共其より数輩暇を申て留りける時、又勅して曰はく、汝等是まて送り奉る事、正に一世の契に非す。多生広劫の宿縁也。一樹の陰に息み、一河の流を汲むも、幾〔そこは〕くの宿習慣なれは、争か愁傷の思無らん。帰路を望は互に哀也とて、纜なを解れしかは、漕行舟の跡消へて惜からぬ余波りの立帰るさへそ恨めしき。三尾の津より御送の兵帰洛せしかは、去年の冬上洛せし関東の両使等。下向す。
 其後は世中何事と無く閑かならす。【後略】
-------

※(2)京大本と(3)天理本は読みやすくするためにカタカナを平仮名に変換しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0213 流布本と京大本の数量的分析(その3)

2024-11-13 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第213回配信です。


一、前回配信の補足

議論の基礎として客観的な数字は重要。
しかし、もちろん記事内容と切り離して数字だけで議論することもできない。
例えば大友氏。
小川信氏作成の「足利方主要武将名頻度表」によれば、大友は流布本(類従本)17、京大本18、天理本14、寛正本(下巻のみ)13であり、数値だけ見れば登場回数は相当多い。

資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e

しかし、建武二年(1335)十二月、新田義貞率いる官軍が駿河の「佐野山」に陣を置いていたとき、「大友左近将監」(大友貞宗の子貞載)が裏切ったこと(『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』、p75)、そして後に、その裏切りに怒った結城親光が報復したこと(p85以下)が描かれている。
『梅松論』の作者は大友を非難し、結城親光を評価しているので、大友氏関係者ではないだろう。

大友貞載(さだとし、?-1336)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%B2%9E%E8%BC%89

また、十二月五日の手越河原の戦いに関して「御方利をうしないひしあひだ、武家の輩おほく降参して義貞に属す。名字ははゞかりあるによて是を書ず」(p73)とあり、箱根・竹之下の戦いの後、「去五日、手越川原の合戦の時分、京方に属したりし輩、富士河にて降参す」(p77)とある。
『太平記』によれば、手越河原で官軍に降ったのは「宇都宮遠江入道」と「佐々木佐渡判官入道道誉」であり、佐々木氏はもともと登場回数が少ない上、「名字ははゞかりあるによて是を書ず」などとされている以上、作者ではないだろう。


二、流布本の細川氏顕彰記事の分量

資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e

資料:流布本にのみ存在する九つの細川氏顕彰記事(その1)(その2)〔2024-11-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59f2112d55fedb408e74395f8a7fc27b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7797e13f0bd4d5da5238f7b1221e29eb

-------
(1)元弘三年の足利高氏挙兵の記事中、細川和氏と上杉重能が後醍醐天皇の綸旨を賜って近江国鏡駅で高氏に披露し挙兵を勧めたとする部分。
(2)六波羅攻略の記事中、同じく和氏が包囲陣の一方を空けて敵を駆逐する作戦を進言したとする部分。
(3)北条氏滅亡後の鎌倉の情勢を述べた記事中、細川和氏・頼春・師氏兄弟が尊氏から関東追討のために派遣され、鎌倉に入って幼年の義詮を補佐し、新田義貞の野心を抑えたとする部分。
(4)護良親王幽閉の記事中、親王を鎌倉へ護送した武士を細川顕氏とする部分。
(5)中先代の乱に関する記事中、細川頼貞が子息顕氏から直義以下退避の報告を聞いて、子孫の忠を励ますため自害したとする部分。
(6)建武三年正月二十七日の洛中合戦に細川一族勇戦の記事中、尊氏が錦の直垂を顕氏に送って賞したとする部分。
(7)同年二月尊氏の室津における諸将分遣の記事中、四国に派遣した細川一族の中に政氏・繁氏の二人を加えてある部分。
(8)同年六月晦日の洛中合戦の記事中、義貞は細川定禅に襲われて危うく逃れたとする部分。
(9)巻末の尊氏の逸話中、夢窓国師を尊氏・直義に引合せたのは、元弘以前甲斐の恵林寺で夢窓から受衣した細川顕氏であるとする部分。
-------

記事の分量は、

(1)3行
(2)4行
(3)6行
(4)1行
(5)10行
(6)1行
(7)1行
(8)2行
(9)5行

合計、33行。
上下巻合計で1535行なので、

33÷1535≒0.0215

となって、九つの細川氏顕彰記事は全体の約2%。
従って、細川氏顕彰記事が流布本の分量を極端に増加させている訳ではない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料:流布本にのみ存在する九つの細川氏顕彰記事(その2)

2024-11-13 | 鈴木小太郎チャンネル2024
(6)建武三年正月二十七日の洛中合戦に細川一族勇戦の記事中、尊氏が錦の直垂を顕氏に送って賞したとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p90以下)
-------
 去程に御方大みやをくだりに、作道〔つくりみち〕を山崎へ一手にて引退く。爰〔これ〕に先立〔さきだち〕、千本口をくだりに敵むかふべしとて、細河の人々大将として四国勢、内野の右近馬場辺にひかへて相まつ処に、爰〔ここ〕には敵むかはずして、下京にけぶりあまた所々みえて、ときの声しきりにきこえければ、細川の人々、中御門へ東へ向かふ処に、河原ぐちにて錦の旗さしたる大勢に懸合て追散し、旗指〔はたさし〕討取て旗をうばひとり、西坂本まで責つめて、仮内裏焼払ひ勝時〔かちどき〕作て、川原をくだりに打て行ところに、又大勢二条河原より四条辺までさゝへたり。御方かとみるところに、義貞以下宗徒〔むねと〕の敵ひかへたる間、細川定禅兄弟おめき呼〔さけん〕で懸しほどに、此勢も散々にちらされて、粟田口・苦集滅路〔くじゆめつぢ〕に趣きてぞ落行ける。
 洛中に充満しける敵共悉〔ことごとく〕追はらひて、七条河原にひかへて両大将をたづね申処に、在地の者共いひけるは、御方の御勢は二手にて、一手は七条を西へ、一手は大宮を南へ、作道をさしてひき給けると申ければ、細川の人々いそぎかつら川を馳渡りて、亥刻ばかりに御陳に参て、京中の敵追払けるよし申されける間、即〔すなはち〕打立て七条を東へ入せ給ひしに、同河原にて夜あけしかば廿八日なり。さしも御方の大勢洛中を引退しに、細河の人々相残て敵を打散しければ、御感再三なり。されば忝〔かたじけなく〕も御自筆の御書をもて、錦の御直垂を兵部少輔顕氏に送給なり。弓矢の面目何事か是にしかんとて、見聞の輩弥〔いよいよ〕忠をつくし命を軽くしけるとかや。其比は卿公定禅をば鬼神のやうにぞ申ける。
-------

京大本(『国語国文』33巻9号、p29)
-------
【前略】又大宮を下に、作道を山崎へ御方一手引退く。爰に先立て千本口を下に敵向べしとて、御方細川人々大将として、四国勢内野の右近馬場辺にひかえて相待処に、此手には敵不向。下京に煙あまた見えて、時の声頻に聞ゆれば、細川の人々中御門を東へ向処に、河原口にて錦の旗さしたる大勢にかけ合逐散し、旗さし打取て、はたをも奪取、西坂本まで攻付て、かり内裏やきはらい、勝時を作て河原を下に向程に、又大勢二条河原より四条辺までさゝえたるを御方と心得て見る程に、義貞以下宗との敵なる間、如以前定禅兄弟をめいてかけし程に、此勢も散々に逐散されて粟田口久々目路に趣て落行けり。洛中に充満せる敵共悉逐払て七条河原にひかえて、両将を尋申処に、在地の物の云く、御方の大勢は二手にて、一手は七条を西へ大宮を南へ作道さして引給と申す。細川殿云、何様両方へ人を進て御在所を承定べしとて、桂川の御陣へ亥尅計に、京中敵追払たる由馳申間、即時に打立て七条を東へ入せ給しが、同河原にて天明しかば、さしも御方の大勢洛中を引退に、細川人々相残て敵を逐払しかば、御感再三也き。其比は卿公定禅をば鬼神の様にぞ申ける。
-------


(7)同年二月尊氏の室津における諸将分遣の記事中、四国に派遣した細川一族の中に政氏・繁氏の二人を加えてある部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p97以下)
-------
 当津に一両日御逗留ありて、御合戦の評定区々なりけるに、或人のいはく、京勢はさだめて襲来るべし。四国・九国に御着あらん以前に、御うしろを禦ん為に、国々に大将をとゞめらるべきかと申ければ、尤可然〔しかるべき〕上意にて、先四国は細川阿波守和氏・源蔵人頼春・掃部介師氏兄弟三人、同いとこ兵部少輔顕氏・卿公定禅・三位公皇海・帯刀先生直俊・大夫将監政氏・伊予守繁氏兄弟六人、已上九人なり。阿波守と兵部少輔両人成敗として、国におゐて勲功の軽重によて、恩賞ををこなふべきむね仰つけらる。播磨は赤松、備前は尾張親衛、松田の一族を相随て三石の城にとゞめらる。備中は今河三郎・四郎兄弟、鞆・尾道に陳をとる。安芸国は桃井の布河匠作・小早川一族をさしをかる。周防国は大将新田の大嶋兵庫頭・守護大内豊前守、長門国は大将尾張守・守護厚東太郎入道、かくのごとくさだめをれて、備後の鞆に御着ある処に、三宝院僧正賢俊、勅使として持明院より院宣を下さる。是によて人々勇みあへり。いまは朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を上〔あぐ〕べきよし国々の大将に仰つかはされけるこそ目出〔めでた〕けれ。
-------

京大本(『国語国文』33巻9号、p31)
-------
【前略】当所に一両日御逗留有て、御合戦義勢まち/\也。定て京勢可襲向歟。四国九国の間御着到以前御後為防戦、国国に大将を被留。四国には細川の人々、従父兄弟七人阿州<利氏>源蔵人<頼春>酒掃兄弟三人、兵部<顕氏>卿公<禅定>三位公<皇海>帯刀先生、是も兄弟四人也。兵部両人の成敗として、国にをい勲功の軽重によて恩賞行るべき旨被仰付。播磨は赤松、備前は尾張親衛、松田の一族相従て三石城に留らる。備中は今河兄弟<三郎四郎>、鞆尾道に陳す。桃井匠作<布河>小早川一族を被着置。周防守護人大内豊前守、大将は新田の大嶋兵庫頭、長門国守護人厚東太郎入道、大将尾張守殿、如此被定て、備後の鞆に御着岸の時、三宝院僧正<賢俊于時日野律師>為勅使持明院より院宣被下。文章如常。天下の事可被計申趣也。依之諸人いさみの色を顕す。今は朝敵の儀あるべからずとて、錦の御旗を諸国の御方にあぐるべきよし、国々大将に被仰遣処也。
-------


(8)同年六月晦日の洛中合戦の記事中、義貞は細川定禅に襲われて危うく逃れたとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p128以下)
-------
 かゝる処に、下御所大将として、三条河原に打立て御覧じけるに、既〔すでに〕敵、東寺ちかく八条坊門辺まで乱入〔いり〕、けぶりみえし間、将軍の御座おぼつかなしとて、御発向あるべきよし申輩おほかりける処に、太宰少弐頼尚が陣は、綾小路大宮の長者達遠が宿所にてぞありける。
 頼尚の勢は三条河原に馳あつまりて、何方〔いづかた〕へにても将軍の命を受てむかふべきよし、兼〔かねて〕約束の間、彼河原に二千騎打立て、頼尚申けるは、東寺に勇士多く属し奉る間、縦〔たとひ〕敵、堀、鹿垣〔ししがき〕に付とも何事かあらん。御合力の為なりとも、御馬の鼻を東寺へ向れば、北にむかふ師直の河原の合戦難儀たるべし。是非に付て、今日は御馬を一足も動〔うごかせ〕らるべからず。先頼尚東寺へ参べしとて、三条を西へむかふ処に、敵、大宮は新田義貞、猪熊は伯耆守長年、二手にて八条坊門まで責下りたりし間、東寺の小門を開て、仁木兵部大輔頼章・上杉伊豆守重能以下打て出、責戦によて、一支〔ささへ〕もさゝへずして、敵、本の路を二手にて引のぼる処に、細川の人々・頼尚、洛中の条里を懸きりかけきり戦しほどに、伯耆守長年、三条猪熊におひて、豊前国住人草野左近将監が為に討取〔とられ〕ぬ。
 義貞には、細川卿公定禅目をかけて度々あひちかづき、已〔すで〕に義貞あぶなくみえしかども、一人当千の勇士ども、おりふさがりて命にかはり討死せしあひだ、二三百騎に打なされて、長坂にかゝりて引とぞきこえし。
 南は畿内の敵、作道〔つくりみち〕より寄来りしを、越後守師泰即時に追散し大勢討取。宇治よりは、法性寺辺まで責入たりしを、細川源蔵人頼春、内野の手なりしを、めしぬかれて、大将として菅谷〔すがたに〕辺まで合戦せしめ、打散しける。竹田は今川駿河守頼貞大将として、丹後・但馬の勢、馳むかひて追落す。六月晦日、数ヶ所の合戦、悉〔ことごとく〕未刻以前に打勝けるぞ仏神の御加護かと目出かりける。
-------

京大本(『国語国文』33巻9号、p42)
-------
【前略】然間大将下御所三条坊門河原に打立て御覧ぜしに、既に敵東寺近く、八条坊門辺まで乱入し、煙をあげし間、将軍御座をぼつかなしとて、御発向あるべきよし申輩多かりき。太宰少弐が陣は綾小路、大宮の長者達遠が宿所也。頼尚当手の軍勢は三条河原に馳集て、何方にても将命を受て発向すべききよし兼約の間、悉彼河原に二千騎打調ふ。頼尚申云、東寺は将軍に勇士多属し奉る。たとひ敵屏しゝがきに付共、何事かあらん。合力の為也とも、御馬の鼻の東寺に向はゞ、師直の河原合戦難儀たるべし。就是非今日は御馬のの足一歩動ぜらるべからず。先頼尚東寺に可参とて、三条を西へ向ふ処に、敵大宮は義貞、猪熊は長年<伯耆守>二手に八条坊門までせめ下たりし間、東寺の北門を開て、仁木兵部大輔頼章、上椙伊豆守重能以下打出攻戦しによて、一支もなく敵本路を二手にて引のぼる処に、細川兄弟、頼尚、洛中の条里を懸切り/\隔て攻し間、伯耆守長年、三条坊門猪熊に於て、肥前国の住人、草野左近将監秀永か為に被討取畢。義貞は二三百騎に被討成て、長坂にかゝりて引とぞ聞し。南は畿内凶徒作道より寄来しを、越後守師泰即時に逐散し、大勢討取畢。宇治は法性寺辺まで攻入たりしを、細川源蔵人頼春内野の手なりしを召抜て、大将として菅谷辺にをいて合戦せしめ打散してけり。又竹田は今川駿河守頼貞大将として、丹後但馬の勢馳向て逐落す。今日<六月卅日>数ヶ所の合戦、悉未刻以前打勝たりしぞ、仏神の加護かと目出かりし。
-------


(9)巻末の尊氏の逸話中、夢窓国師を尊氏・直義に引合せたのは、元弘以前甲斐の恵林寺で夢窓から受衣した細川顕氏であるとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p139以下)
-------
 抑〔そもそも〕夢窓国師を両将御信仰有りける始は、細川陸奥守顕氏、元弘以前義兵を揚むとて、北国を経て阿波国へおもむきし時、甲斐国の恵林寺〔えりんじ〕におひて国師と相看〔しやうかん〕したてまつり、則〔すなわち〕受衣〔じゆえ〕し、其後両将之引導申されけり。真俗ともに勧め申されしによて、君臣万年の栄花を開き給ふ。目出度〔たく〕、ありがたき事どもなり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6db5bf79eee160a14765fd1ce8cfba32

京大本 対応部分なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

資料:流布本にのみ存在する九つの細川氏顕彰記事(その1)

2024-11-13 | 鈴木小太郎チャンネル2024
資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その2)〔2024-10-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e12b2c0d65e7b0f14cc8bc6221d5d0e

(1)元弘三年の足利高氏挙兵の記事中、細川和氏と上杉重能が後醍醐天皇の綸旨を賜って近江国鏡駅で高氏に披露し挙兵を勧めたとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p56以下)
-------
【前略】両大将同時に上洛有て、四月廿七日同時に又都を出たまふ。将軍は山陰道、丹波・丹後を経て伯耆へ御発向有べき也。高家は山陽道、播磨・備前を経て、同伯耆へ発向せしむ。船上山を責らるべき議定ありて下向の所、久我縄手におゐて手合の合戦に大将名越尾張守高家討るゝ間、当手の軍勢戦に及ばずして、悉都に帰上る。同日将軍は御領丹波国篠村に御陣を召る。抑、将軍は関東誅伐の事、累代御心の底にさしはさまるゝ上、細川阿波守和氏、上杉伊豆守重能、兼日潜に綸旨を給て今度御上洛の時、近江国鏡の駅におひて披露申され、既に勅命を蒙らしめ給上は時節相応天命の授処也。早/\思食立べきよし再三諫め申されけるあいだ、当所篠村の八幡宮の御宝前におひて已に御旗を上らる。【後略】
-------

京大本(『国語国文』33巻8号、p17)
-------
【前略】両大将同時に上洛あり。卯月廿七日同日出京也。将軍は山陰道丹波丹後をへて、伯耆御発向あるべき也。高家は山陽道播磨備前をへて同国に発向せしめ、同時に船上山を可被攻よし議定あて進発する処に、久我縄手に於て手合の合戦に、大将高家<尾州>被討間、当手の軍勢一戦なくして悉帰洛せしむ。同時将軍は御領丹波国篠村に御陣めさる。抑将軍関東誅伐の事、累代御心底に挿るゝ上、先立て密に勅命を蒙り給間、当所篠村八幡宮の御宝前に於て既に御旗をあげらる。【後略】


(2)六波羅攻略の記事中、同じく和氏が包囲陣の一方を空けて敵を駆逐する作戦を進言したとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p58以下)
-------
【前略】未時〔ひつじのとき〕計に大宮の戦破て六波羅勢引退く。御方の下の手は作路・竹田より責入けるが、九条辺に数ヶ所に見えて、方々の寄手洛中へ乱入ければ、六波羅勢は城郭に引籠りける。其中に家をおもひ名をおしむ勇士どもは、懸出て戦し程に七日は暮しけり。
 去程に御方には此大勢にて時尅を移さず城郭を囲み悉打取べきよし諸人諫申ける処に、細川阿波守申されけるは、しかの如ならんには敵思切て御方多〔おほく〕損すべし、一方をあけて没落せしめば敗軍になりては御退治輒〔たやす〕かるべき由、被申ける間、尤〔もつとも〕可然とて一方をあけられけり。
 懸りし程に城の内より多心替して、将軍の御方へ参じける。【後略】
-------

京大本(『国語国文』33巻8号、p18)
-------
【前略】さる程に未刻計に大宮の戦破て、六波羅勢引退畢。御方の下の手は作道竹田より攻入けるが、九条辺に火手あまた見えける間、方々の寄手洛中に乱入、六波羅勢は城郭に引籠りけり。其中に家を思、名を惜勇士等かけ出戦し程に、七日は暮にけり。さる程に城中多心替して、将軍の御方へ参じければ【後略】
-------


(3)北条氏滅亡後の鎌倉の情勢を述べた記事中、細川和氏・頼春・師氏兄弟が尊氏から関東追討のために派遣され、鎌倉に入って幼年の義詮を補佐し、新田義貞の野心を抑えたとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p63以下)
-------
【前略】さても関東誅伐の事は義貞朝臣、其功を成ところに、いかゞ有けん、義詮の御所四歳の御時大将として御輿にめされて義貞と御同道有て、関東御退治以後は二階堂の別当坊に御座ありし。諸将悉四歳の若君に属し奉りしこそ目出〔めでた〕けれ。是実に将軍にて永々万年御座あるべき瑞相とぞ人申ける。爰に京都より、細川阿波守・舎弟源蔵人・掃部介〔かもんのすけ〕兄弟三人、関東追討のためにさしくださるゝ処に路次におひて関東はや滅亡のよし、聞えありけれども猶/\下向せらる。かくて若君を扶佐し奉るといへども、鎌倉中連日空騒〔からさわぎ〕して世上〔せじやう〕穏かならざる間、和氏・頼春・師氏兄弟三人、義貞の宿所に向て事の子細を相尋て勝負を決せんとせられけるによて、義貞野心を存ぜざるよし起請文もて陳じ申されしあいだ、静謐す。其後一族悉〔ことごとく〕上洛ありけり。
-------

京大本(『国語国文』33巻8号、p19以下)
-------
【前略】既に関東誅伐の事、義貞朝臣其功を成といへ共、如何かありけん、義詮の御所<于時四歳>同大将として御輿めされ、義貞と同道あり。関東御退治以後二階堂別当坊に御座ありしに、諸侍悉く四歳の君の御料に属し奉る。不思議なりし事共也。実に末代に永将軍にて御座あるべき瑞相かとぞ覚し。雖然連日鎌倉中空さはぎして、義貞御退治の為に御旗向よし風聞の間、義貞被申子細あるによて静謐す。其後は一族悉上洛あり。
-------


(4)護良親王幽閉の記事中、親王を鎌倉へ護送した武士を細川顕氏とする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p67以下)
-------
【前略】其後も猶京中騒動して止時なし。中にも建武元年六月七日兵部卿親王大将として将軍の御所に押寄らるべき風聞しけるほどに、武将の御勢御所の四面を警固し奉り余の軍勢は二条大路に充満しけるほとに事の体大儀に及によて、当日無為に成けれども、将軍よりいきどほり申されければ、全く叡慮にはあらず、護良親王の張行の趣なりしほとに十月廿ニ日の夜、親王御参内の次をもて武者所に居籠奉て、翌朝に常磐井殿へ遷し奉り、武家の輩警固し奉る。宮の御内の輩をば武者の番衆兼日勅命を蒙て南部・工藤を始として数十人、召預けられける。同十一月親王をば細川陸奥守顕氏請取奉て関東へ御下向あり。思ひの外なる御旅のそら申も中/\をろかなり。宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども御科を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞきこえし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座ありけるが、武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふと御独言ありけるとぞ承る。
-------

京大本(『国語国文』33巻8号、p21)
-------
【前略】其後尚京中騒動連続しける中にも、六月七日<建武元>兵部卿親王大将として将軍の御前にをし寄らるゝ風聞の間、武家御勢御所の四面にけいごせしめ、余勢二条大路に充満す。事の体大儀に及によて、当日又無為也。此事を将軍よりいきどをり被申によて、全叡慮にあらず、護良親王の張行の上は、沙汰あるべしとて、十月ニ日の夜、親王御参内の次をもて、武者所に居こめ奉る。宮の御内の輩を武者所に番衆兼日勅命を蒙て、南部工藤を始として、数十人めしあづけられて、同十一月親王を武士うけとり、関東へ御下向ありける。思の外なりし事共也。此宮御謀叛は真実は天気なりといへ共、科をゆづり給しかば、つゐに鎌倉へ御下向ありき。二階堂薬師堂の谷に御座の間、武家よりも君のうらめしくわたらせ給と御ひとり言ありけるとぞ承及侍りし。
-------


(5)中先代の乱に関する記事中、細川頼貞が子息顕氏から直義以下退避の報告を聞いて、子孫の忠を励ますため自害したとする部分。

延宝本(流布本、『新撰日本古典文庫 梅松論・源威集』p69)
-------
【前略】爰に細川四郎入道義阿、湯治の為にとて相摸の川村山に有りけるところへ、子息陸奥守顕氏の方より、是まで無為に御上洛の由、使節をつかはしけるに、我敵の中にありながら一功をなさゞらんも無念なり。又存命せしめば面々心もとなくおもふべし。所詮一命を奉り思事なく子孫に合戦の忠を致さすべしとて、使の前にて自害す。此事将軍きこしめされ殊に御愁難深かりき。誠に忠臣の道といへども武くもあはれなりし事也。さればにや合戦の度ごとに忠節をいたし、帯刀先生直俊・左近大夫将監将氏等討死す。天下静謐の後、彼義阿の為とて、子息、奥州・洛中の安国寺、讃州の長興寺を建立せらる。命を一塵よりも軽くして没後に其威を上られし事、ありがたき事なりとぞ人申合ける。
-------

京大本 対応部分なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

0212 流布本と京大本の数量的分析(その2)

2024-11-12 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第212回配信です。


小川論文の「足利方主要武将名頻度表」は客観的資料として役に立つ。

資料:小川信「『梅松論』諸本の研究」(その3)〔2024-10-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8eae47e3f7e0158b13537df6c17b460e

ただ、諸氏の重要性は登場頻度だけで決める訳にもいかない。
人名の書き方に注意しつつ、上巻・下巻の内容を概観しておきたい。

上巻、流布本(延宝本)では全部で693行。

-------
1 先代の事(17行)
 「有人」「本人」(質問者)、「なにがしの法印」(語り手)

2 将軍の事(38行)

3 承久の乱の事(43行)

4 将軍家と執権の事(19行)
 「次に当今、量仁。又当今、豊仁。凡人皇始て、神武天皇より後嵯峨院御宇にいたるまで九十余代にてまします」

5 皇位継承の事(68行)
 「後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻」
「後醍醐院の御時、当今の勅使には吉田大納言定房卿、持明院の御使には日野中納言の次男の卿、京都・鎌倉の往復再三に及ぶ。勅使と院の御使の両人関東におゐて問答事多しといへども、定房卿申されけるは…」
「後醍醐院逆鱗にたへずして」

6 先帝遷幸の事(35行)
 「当国の守護人、佐々木隠岐守清高」

7 隠岐国到着の事(22行)

8 隠岐脱出船上山の事(60行)
 「先帝の御子、山の座主にておはしける大塔宮、御還俗有て兵部卿親王護良とぞ申ける」
 「楠木兵衛尉正成」
 「千種の忠顕朝臣」
 「奈和又太郎と申、福祐の仁」

9 将軍旗挙げの事(36行)
 「播磨国の赤松入道円心」
 「当将軍尊氏」
 「細川阿波守和氏、上杉伊豆守重能、兼日潜に綸旨を給て今度御上洛の時、近江国鏡の駅におひて…」
 
10 六波羅攻めの事(46行)
 「将軍の御内に設楽五郎左衛門尉」
 「細川阿波守申されけるは、……一方をあけて没落せしめば」
 
11 新田義貞挙兵の事(54行)
 「新田左衛門佐義貞」
 「義詮の御所四歳の御時大将として御輿にめされて義貞と御同道有て」「若君」
 「細川阿波守・舎弟源蔵人・掃部助兄弟三人」「和氏・頼春・師氏兄弟三人」

12 天下一統の事(20行)
 「武家楠・伯耆守・赤松以下山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいつつべし」
 「窪所と号して土佐守兼光・大田大夫判官親光・冨部大舎人頭・参河守師直等を衆中として…」
 「むかしのごとく武者所をおかる。新田の人々をもて頭人として」
 「大将軍の叡慮無双にして御昇進は申に不及、武蔵・相模、其外数ヶ国の守をもて、頼朝卿の例に任て御受領あり」
 「次に関東へは同年の冬、成良親王征夷将軍になして御下向なり。下の御所左馬頭殿供奉し奉られしかば、東八ヶ国の輩、大略属し奉て下向す。鎌倉は去夏の乱に地を払ひしかども、太守御座ありければ庶民安堵の思ひをなしけり」

13 公武水火の事(37行)
 「兵部卿親王護良・新田左金吾義貞・正成・長年、潜に叡慮を受て打立事度々に及といへども、将軍に付奉る軍勢其数を知らざるあいだ」
 「同十一月親王をば細川陸奥守顕氏請取奉て関東へ御下向あり」

14 関東合戦の事(28行)
 「守護小笠原信濃守貞宗京都へ馳申間」
 「渋川刑部・岩松兵部、武蔵女影原におひて終日合戦に及ぶといへども」
 「小山下野守秀朝」
 「下御所左馬頭殿、鎌倉を立て御向ありし」
 「同日薬師堂谷の御所におひて兵部卿親王を失ひ奉る。御痛しさ申も中々おろかなり」
 「上野親王成良・義詮六歳にしておなじく相伴ひ奉る」
 「当国の工藤入江左衛門尉」
 「爰に細川四郎入道義阿、湯治の為にとて相模の川村山に有けるところへ、子息陸奥守顕氏の方より…。所詮一命を奉り思事なく子孫に合戦の忠を致さすべしとて、使の前にて自害す。…帯刀先生直俊・左近大夫将監政氏等討死す。天下静謐の後、彼義阿の為とて、子息、奥州・洛中の安国寺、讃州の長興寺を建立せらる。命を一塵よりも軽くして没後に其威を上られし事、ありがたき事なりとぞ人申合ける」
 
15 中先代の事(42行)
 「将軍御奏聞ありけるは、関東におひて凶徒既合戦をいたし鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、禦ぎ戦べき智略なきによて海道を引退きし其聞えあるうへは、暇を給て合力を加べき旨……」
 「先陣の軍士、安保丹後守入海を渡して合戦をいたし敵を追散して其見疵を蒙間」
 「将軍御兄弟鎌倉に打入二階堂の別当に御座ありしかば」
 「京都よりは人々親類を使者として東夷誅罰を各賀し申さる。又、勅使、中院蔵人頭中将具光朝臣、関東に下着し今度東国の逆浪速に静謐する条、叡感再三也。但、軍兵の賞におゐては京都に印〔ヲシテ〕、綸旨もて宛行るべき也。先早々に帰洛あるべしと也。勅答には大御所急参べきよし御申有けるところに、下御所仰られけるは、御上洛不可然候。其故は…」
 「師直以下の諸大名屋形軒をならべける程に」
 「今度両大将に供奉の人々には、信濃、常陸の闕所を勲功の賞に宛行なはるゝ処に、義貞を討死の大将として関東へ下向のよし風聞しける間、元義貞の分国上野の守護職を上杉武庫禅門に任せらる」

16 義貞・尊氏合戦の事(47行)
 「高越後守を大将として大勢をさしそへて海道へつかはさる。師泰に仰せられけるは…」
 「御方利をうしなひしあいだ、武家の輩おほく降参して義貞に属す。名字ははゞかりあるによて是を書ず」→『太平記』では手越河原の合戦で佐々木道誉が義貞方へ下ったとある。
 「しかるあいだ、下御所は箱根山に引籠り、水のみを堀切て要害として御座ありけるに、仁木・細川・師直・師泰以下相残一人当千の輩、陣を取。将軍は先日勅使具光朝臣下向の時、……われ龍顔に昵近し奉て勅命をうく、恩言といひ叡慮と云、いつの世いつの時なりとも君の御芳志をわすれ奉るべきにあらざれば、今度の事条々、御所存にあらずと、思食けるゆへに政務を下御所に御譲有て、細川源蔵人頼春並近習両三輩計、召具て潜に浄光明寺に御座ありしほどに、海道の合戦難儀たるよし聞食て将軍仰られけるは、守殿命を落されば我ありても無益なり。但、違勅の心中におひてさらに思食さず。是正に天の知処也。八幡大菩薩も御加護あるべし」
「小山・結城・長沼が一族」
「此輩は治承のいにしへ頼朝義兵の時最前に馳参じて忠節をいたしたりしに、尾山下野大掾藤原政光入道の子どもの連枝三人の子孫也。嚢祖武蔵守兼鎮守府将軍秀郷朝臣、承平に朝敵平将門を討取て、子々孫々鎮守府将軍の職を蒙りし五代将軍の後胤也。累代武略の誉を残し弓馬の芸の達者なり」
「武蔵の大田の庄を小山の常犬丸に行はる。是は由緒の地なり」
「又、常陸の関の郡を結城に行はる。今度戦場の御下文のはじめ也」

17 義貞敗退の事(24行)
 「京勢駿河に引退き佐野山に陣をとる処に、大友左近将監官軍として其勢三百余騎にて下向したりけるが、御方に参ずべきよし申ける間、子細有まじき旨仰られけるほどに当所の合戦矢合の時分に、御方に加りて合戦の忠節をいたしければ、敵陣はやくやぶれて二条中将為冬を始として京方の大勢討れぬ」
 「爰におひて畠山安房入道討死す」
 「足柄・箱根の両大将一手に成て」

18 天竜川の橋の事(56行)
 「むかしより東武士西に向事、寿永三年には範頼・義経、承久には泰時并時房、今年建武二年には御所尊氏・直義第三ヶ度也」
 「去程に、御手分あり。勢多は下御所大将、副将軍は越後守師泰、淀は畠山上総介。芋洗は吉見参河守。宇治へは将軍御向あるべき也」
「結城の山河の家人、野木与一兵衛尉并中茎二人が一人当千の武略を顕して戦しほどに、将軍御感のあまりに御腰物を直に両人に給し事、生々世々の面目とぞ見えし」
「細川卿公定禅を大将として、赤松入道円心其外四国・中国の間に、兼日御教書を給輩数をしらず」
-------

行数ランキング(全683行)

5 皇位継承の事(68行)
8 隠岐脱出船上山の事(60行)
18 天竜川の橋の事(56行)
11 新田義貞挙兵の事(54行)
10 六波羅攻めの事(46行)

資料:『梅松論』に頻出する「後嵯峨院の御遺勅」〔2024-09-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d366f209c7533ddae11465d5385f680
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする