投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月15日(木)00時46分34秒
『国史大辞典』(執筆者、梅谷文夫)には、市河寛斎について、
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寛延二年(一七四九)六月十六日(?)上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)に生まれる。父好謙は細井広沢の門人で蘭台と号し、書をよくした。寛斎は地方に埋れるのを嫌って年少より江戸に出、昌平黌に学ぶ。のち学員長に推され、五年後病を理由に辞任。寛政元年(一七八九)江湖詩社をおこす。(後略)
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とありますが、『日本古典文学大辞典』(執筆者、揖斐高)には、「寛延二年(一七四九)六月十六日江戸に生」れる、と書いてありますね。
更に、
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はじめ兄と共に、江戸詰めの士として秋元侯に仕え山瀬新平と名乗った。このころ、河内竹洲・関松窓・大内熊耳に従学したという。安永四年(一七七五)二十七歳、秋元藩を脱藩し、本姓にかえって市河小左衛門と改称、上州甘楽郡下仁田の学者高橋道斎の女婿となった。しかし、翌安永五年には不縁となり江戸に帰来、同年十一月、林家の八代州河岸の塾頭関松窓の世話で林家に入門。天明三年(一七八三)三十五歳、湯島聖堂の啓事役となり構内に移居した。同七年十月聖堂啓事役を辞職、両国矢の倉へ転居した。江湖詩社を結んだのはこの時である。寛政の改革の動きの中で、異学の禁の申達が大学頭林信敬に下り、寛政二年(一七九〇)四十二歳、寛斎は月俸半減の処分を受け、ために辞して昌平黌との関係を絶つに至った。(後略)
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となっていて、『国史大辞典』とはかなり違っています。
まあ、全体的な印象として、『国史大辞典』より『日本古典文学大辞典』の記述の方が信頼できそうです。
>筆綾丸さん
臨済宗との関係はちょっと分からないですね。
ちなみに墓のある谷中・本行寺は日蓮宗だそうです。
>仏国国師(高峰顕日)
高峰顕日は後嵯峨院の子とされているので、以前少し興味を持って調べてみたことがありますが、あまり正確な記録は残っていないようですね。
雲巌寺には是非行ってみたいと思っています。
※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。
江湖風月集 2010/07/13(火) 18:50:48
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2010/03/102048.html田中善信氏の『芭蕉』に、「江湖風月集」が出てきますが(179頁~)、臨済宗では必読の書のようですが、市河寛斎も臨済宗でしょうか。
千里に旅立ちて、みち粮をつつまず、三更月下、無何に入ると云ひけむ、むかしの人
の杖にすがりて、貞享きのえね秋八月、江上の破屋を出づるほど、風のこゑそぞろ寒気
なり。
野ざらしをこころに風のしむみかな
冒頭の一節だがむずかしい文章である。これを読んですぐに意味のわかった人は、よほどのインテリであったと考えてよい。この文章は大体次のような意味である。
「遠く千里のかなたに旅立って、食糧の準備もせずにやってきたが、いま真夜中の月明かりのもとで、無為自然の理想郷に入る」と言ったという、昔の人の言葉をたよりとして、貞享元年八月、隅田川のほとりのあばら屋を出ようとすると、風の音が寒々と響いてくる。
「千里に旅立ちて、みち粮をつつまず」は『荘子』「逍遙遊篇」の「千里ニ適ク者ハ三月糧ヲ聚ム」という文言を利用したのである。「千里」は遠い距離を表す決まり文句であり、この文言は「遠い所に行くものは三か月前から食糧の準備をする」という意味である。芭蕉の文章では「みち粮をつつまず」とあるから、「道中の食糧の準備をしない」という意味になる。
「三更月下、無何に入る」は、『江湖風月集』の偃渓広聞和尚作「語録ヲ?ス」という詩の、「路、粮ヲ?マズ笑ヒテ復歌フ、三更月下、無何ニ入ル」という文句を利用したのである。この文句は「旅をするときも食糧の準備をすることなく、笑ったりうたったりして旅を続けて、真夜中の月明かりのもとで、荘子のいう無為自然の「無何有の郷」という理想郷に入る」という意味である。これは悟りの境地に至る過程を比喩的にうたった文句である。芭蕉は『荘子』の文言と偃渓広聞の詩の文言を合成して、冒頭の一文を作ったのである。「むかしの人の杖にすがりて」というのは、旅の縁で「杖」と表現したのであり、要するに昔の人の言葉(あるいは教え)をたよりとするという意味である。旅立ちは貞享のきのえね秋八月、つまり貞享元年秋八月であった。「きのえね」は干支の甲子(和語として読めばキノエネ、漢語として読めばカッシ)で貞享甲子は貞享元年に当たる。なお『江湖風月集』は、臨済宗では「済家(臨済宗の別称)七部書」の一つに数えられていたというから、この書は臨済宗の僧侶の読むべき基本図書の一つだったのである。芭蕉がこのような本を読んでいるのは、臨済宗の僧侶であった仏頂に教えてもらったからだとみて誤るまい。
(注:?と?は文字化けしてしまうので、興味ある方は引用の書にあたってください)
http://www.bashouan.com/pbUnganji.htmhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E5%B7%8C%E5%AF%BA 過日、黒羽の雲巌寺、仏頂和尚の跡を訪ねてみました。
説明板に、仏国国師(高峰顕日)の開山で円覚寺派であったが、天正期に衰退して妙心寺派になってしまった、と愚痴っぽく書いてありました。愚痴はともかく、実に佳い所ですね。
桃雪と慈雪 2010/07/14(水) 19:21:50
http://www.daiouji.or.jp/黒羽の雲巌寺の後、大雄寺を訪ねましたが、歴代藩主の五輪塔は見事なものですね。
http://www.bashouan.com/Database/Kikou/Okunohosomichi_08.htmhttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4887481616.htmlまた、桃雪(浄法寺氏)・翠桃(鹿子畑氏)兄弟の遺跡なども訪ねてみました。芭蕉が、元禄二年に訪れた黒羽藩について、新井敦史氏『下野国黒羽藩主大関氏と資料保存』に、次のようにありますが(62頁~、引用文献等、適宜省略)、『奥の細道』の解説書には、ふつう、このような黒羽藩の説明はないので、ありがたい本ですね。
黒羽藩においては、前述のとおり、関ヶ原合戦後、徳川氏から直接知行を与えられた「公知衆」(大関氏家臣津田氏・同松本氏・同松本隠居・大関氏寄騎浄法寺氏・同金丸氏)が存在しており、彼らの存在は、黒羽藩政を貫徹させていく上で大きな問題を発生させることとなるのであった。また、大関家の寛永十九年(一六四二)の「往古以来家中分限記」には、浄法寺彦三郎以下五十四名の給人がその知行所と共に書き上げられており、彼らの知行高は、合計一万三千二百四十六石にも及んでいた。大関氏が藩主としての権力を確立させるためには、この給人地方知行制を克服することが大きな課題となっていたのである。
黒羽藩において領主(大名)権力を確立させ、藩体制を整えていくための施策として、まず実施されたのは、正保年間以降に強行された家臣召放ち(家中払い)による給人の整理・再編(リストラ)策であった。正保二年(一六四五)には、三代藩主大関高増が鬮取りによって、松井伊左衛門以下十七騎の上級家臣たちに暇を下し、召放ちを行っている。彼らの石高は合計二千八百五十五石にのぼり、その他多数の家臣が減禄となったという。その後、寛文五年(一六六五)の浄法寺氏以外の公知衆による黒羽立ち退きも含め、寛文年間までに家臣五十六名の整理が続いた。黒羽退去となった公知衆に同調した二十九名の給人たちは、黒羽城内の歓喜院において「神水」を飲み団結して、当時の政務を主導していた家老鹿子畑左内高明の排斥を五代藩主増栄に要求する事態となった。大関増栄(高増二男、寛文二年七月家督相続)は、寛文七年にやむなく高明を追放したが、その翌年にはこの二十九名の給人らも召し放たれるところとなって、黒羽藩政は混迷の度を深め、「家中大狂い」といわれるような状況を生んだのである。(中略)
こうした施策(引用者注:検地のこと)を推進した家老の鹿子畑左内高明によって、給人の手作り・百姓使役についても全面的に制限が加えられところとなった。従来、給人は、自らの知行地内における百姓らの様々な争いに対する裁判権を持っていたが、高明は、これを藩の目付・郷奉行に移管することを命じたのであった。
その後、黒羽藩では、延宝(一六七九)に百姓一揆の抵抗を押さえながら、藩領全域を対象とした検地が断行され、新田一万千四百石余が打ち出された。そして元禄元年(一六八八)には、全ての知行地が藩の蔵入地となったという。
http://plaza.rakuten.co.jp/kirkhanawa/diary/200901040000/最後に、喜連川氏の菩提寺を訪ねてみました。
黄昏時の幻覚か、慈雪山龍光寺と読めて、なるほど、黄昏の名門らしい山号だ、と思いましたが、慈雲山が正しいようですね。