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学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「中世自治とソシアビリテ論的展開」再読

2013-10-17 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』

投稿日:2013年10月17日(木)08時49分52秒

私は歴史そのものより、むしろ歴史を映し出す鏡、媒体としての歴史書・歴史物語作者や歴史学者の方に特殊な関心を寄せているのですが、出自を探って行って面白いと感じる下限はせいぜい1928年生まれの網野善彦氏くらいでした。
戦後生まれの研究者はそれなりに想像できる範囲内なので概してつまらないのですが、東島誠氏の場合、私にとっては発想の出発点が理解しにくく、ちょっと謎の存在でした。
『日本の起源』では、その点が次のようにはっきり書かれていましたね。(p300以下)

---------
 どうも私の履歴書をカミング・アウトしなければいけない空気をひしひしと感じますが・・・(笑)。原武史さんの『滝山コミューン一九七四』は、時代の<ひんやりした温度>を鮮烈に、しかもある種の<郷愁>とともに喚起してやまない、秀逸な一九七〇年代史です。ただし、東京は西武池袋線沿線の、マンモス団地の小学校で繰り広げられていたその<光景>は、同じことを経験していない人には、また読者の感受性によっては、たぶんわからないだろう、というところがあって、そこで評価の分かれる書物だと思います。
 少なくとも私は、東京生まれでも団地住まいでもない。しかしながら蜷川(虎三、共産党・社会党を与党に戦後七期連続で京都府知事)府政という、革新自治体の独特の雰囲気がみなぎっていた京都近郊の小学校区に育ったせいか、この本で語られるのと同様の、コミューンあるいはコミュニティの掲げる<理想>が、<暴力性>に転化する瞬間、それが息苦しいほどの<負の側面>を露わにする現実を実際に経験したし、同じことは、うっかりするといつでもどこでも起こりうる可能性を持っているのだ、ということが学問の出発点にあるわけです。
---------

これを読んでから「中世自治とソシアビリテ論的展開」を読み直すと、ああ、なるほど、とは思います。

「コミューンにおけるアソシアシオンの不在」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa96203a1f89528a67b82a824305e274

2010年6月に上記投稿をしたとき、私は東島氏を<歴史に「ないものねだり」をし続ける無邪気な永遠の子供>と思っていたのですが、東日本大震災を挟んだ3年後、『日本の起源』を読んだ後も大体同じような感想を抱きます。

「中世自治とソシアビリテ論的展開」の内容とは直接関係ありませんが、ここで東島氏が厳しく批判された勝俣鎮夫氏は1934年生まれ、原発事故発生時の東京電力会長でマスコミから悪魔のように糾弾された勝俣恒久氏の6歳上の兄ですね。
経済界では勝俣恒久氏は新日本製鉄元副社長・九州石油元会長の孝雄氏、丸紅元社長の宣夫氏と並んで「勝俣三兄弟」として有名でしたが、実際には五人兄弟、それも残り二人を含め全員が大変な秀才という驚異的な家族ですね。
この兄弟関係、以前ツイートしてみたら中世史の研究者はあまり知らなかったようで、私は逆に少し驚きました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E4%BF%A3%E6%81%92%E4%B9%85

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潤と誠

2013-10-16 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』

投稿日:2013年10月16日(水)21時58分18秒

>筆綾丸さん
私も『中国化する日本』は挫折が目に見えているので遠慮していますが、『日本の起源』p337で東島氏が言及されている與那覇氏の『翻訳の政治学─近代東アジアの形成と日琉関係の変容』は読んでみたいなと思っています。
前回、東島氏の著作を検討したときも、一般向けの本より専門書の『公共圏の歴史的創造』の方が分かりやすかったですね。

それにしても両氏とも関心の対象が朝鮮半島と中国にとどまっているのは何故なんですかね。
せめてシリア情勢くらい多少の言及があってもよいように思うのですが。
それと東島氏が安冨歩の「東大話法」を肯定的に引用(p192)しているのは、ちょっと驚きました。
與那覇氏は反原発運動には割と醒めた見方をしているようですが(p321)、東島氏は原発がらみではオールド左翼っぽい感じですね。

>「応仁の乱について」
内藤湖南は青空文庫で読めるのかな、と思って検索してみたら、「応仁の乱について」を含め、かなりリストアップされてますね。

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person284.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1734_21414.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

他流試合と道場荒らし 2013/10/16(水) 20:51:59
小太郎さん
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784163746906
今日は、與那覇氏の『中国化する日本』を読みだしたのですが、第2章で挫折しました。道場荒らしのような感じですね。
また、内藤湖南『日本文化史研究』(講談社学術文庫)の「応仁の乱について」を読んでみましたが、この講演筆記が、後世になぜ大きな影響を与えたのか、よくわかりません。他流試合において高級な漫談を聞くような感じですね。湖南は、むかし、『支那絵画史』(ちくま学芸文庫)を読んだことしかないのですが。
--------------------------
大體今日の日本を知る爲に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、應仁の亂以後の歴史を知つて居つたらそれで澤山です。それ以前の事は外國の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、應仁の亂以後は我々の眞の身體骨肉に直接觸れた歴史であつて、これを本當に知つて居れば、それで日本歴史は十分だと言つていゝのであります、さういふ大きな時代であります・・・
--------------------------
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與那覇亭と東島亭の芸風比較

2013-10-15 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』

投稿日:2013年10月15日(火)22時42分31秒

>筆綾丸さん
>「禁断の果実を口にしてしまった学問」(260頁)
これは東島氏が「戦前と戦後は断絶しておらず、じつは連続している」という見方を戦前再評価に「ギリギリまで」「寄った路線で」用いている雨宮昭一氏を批判する文脈での表現ですから、東島氏自身への批判としては適切でないように思います。

>高級落語
これはその通りですね。
華麗なレトリックの連続を無邪気に聞いていると、知的な刺激が非常に多くて、なかなか高尚な気分になれますね。
二人の高級落語家の芸風を比較した場合、私は與那覇亭潤師匠はちょっと苦手です。
與那覇氏の名前で検索してみると、

-------------
「冷戦を知らない子供たち」のために
歴史が進歩をやめた時代に、回帰し続ける記憶を生きる
http://toyokeizai.net/articles/-/20180

というポエムが出てきますが、1979年生まれの若い人がこの種のしみじみした文章を書いていては駄目ですね。
その点、1967生まれの東島亭誠師匠は円熟の境地に達しており、終始一貫、すっきりと乾いた口調で語っていて爽快です。
ただ、東島氏の主張自体は『自由にしてケシカラン人々の世紀』と『公共圏の歴史的創造――江湖の思想へ』を既に読んでいる読者にとっては全く新鮮という訳でもないですね。
この掲示板でも「空虚な中心」を含め、2010年6月から7月にかけて少し議論しましたので、今の時点であまり追加する必要もないように思います。

(追記)
当時のやり取り、今の時点だと47ページで始まっています。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs?page=47&

ただ、これもすぐにページ数が変わってしまうので、主要な投稿にもリンクを貼っておきます。

【筆綾丸さん】「可能態 ≒ if ?」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5492
【筆綾丸さん】二人の天皇あるいは玉と玉
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5495
後醍醐天皇は「変態」ですか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9f137508709322bddf946b067676def
「コミューンにおけるアソシアシオンの不在」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aa96203a1f89528a67b82a824305e274
樋口陽一と廣松渉
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb2d5588014471bf79fe5deb5ef86396
市河寛斎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/418c4ad5607bde488dd4afe6584f7a83
遊女と「公共性」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/38c6cdf9daf88db33dc8bf7e7d2773ed
【筆綾丸さん】大文字と小文字の他者
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5511
「江湖」と裏社会
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed9cef7222c419a022dc40b9074ea41a
【筆綾丸さん】Zen
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5513
村の「二重帳簿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b36cf72c198364a642e9020ac9b95379

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6948
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6951

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「江湖の野子」

2011-02-27 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年 2月27日(日)00時44分0秒

>筆綾丸さん
>『鎌倉幕府の滅亡』
私も昨日入手したので読んでみました。
納得できた点もあり、若干の疑問を抱いた点もあるのですが、当面は宗教ないし宗教美術関係に集中したいので、感想等は控えます。
今日は彌永信美氏の「キリシタンをめぐる三つの『背景』」(『アジア遊学 127 キリシタン文化と日欧交流』勉誠出版、2009年11月)に紹介されていた釈徹宗氏の『不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』(新潮選書、2009年)を読んでみたのですが、浄土真宗のお坊さんでもある釈氏の見解には微妙な違和感を感じる部分が多いですね。
最後の方に「江湖」が出てきましたので、少し引用しておきます。(p237以下)

---------
 ハビアンは「絶対・普遍」の概念をもったキリシタンさえも相対化した。並みの力量ではないと思う。さらに、仏教・儒教・道教・神道と、その当時、身の回りにあったすべての制度宗教を相対化してしまったのである。しかしハビアンは、宗教を排除した「世俗主義」にも同調を示したわけではない。
 そこに開けてきたのは第三の道である(その第三の道は現代スピリチュアリティの領域とも重なるところがある。)
 ハビアンはその領域での立脚点を「江湖(ごうこ)の野子(やす)」と表現した。『破提宇子』の序文にはハビアンが自ら「江湖の野子好菴」と署名している。「俗界の野人ハビアン」といったところだ。「江湖」は禅僧の世界を表す言葉でもあるが、この場合は「野子」という言葉が続くところから、「俗世界」を指すと思われる。「野子」という言葉には、すでにどのような宗教教団にもコミュニティにも属していない、属するつもりはない、というハビアンの立脚点が表現されている。結局、ハビアンが最後に着地したポジションは「俗界の野人」だったのである。
 ハビアンは自らの宗教性だけを拠り所として、ただひとり、裸で死んでいく覚悟を引き受けたに違いない。
---------

不干斎ハビアン
http://www.shinchosha.co.jp/sensho/editor/2009/603628.html



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国家鮟鱇

2010-11-20 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年11月20日(土)10時24分21秒

鍋物が恋しい季節になりました。

>筆綾丸さん
「江湖」は曹洞宗では公式の用語なんですね。
明治時代も後半は流行らない言葉になるようですが、中国風の語感がうとましくなってしまったのでしょうか。

昨日はハリーポッターの新作を観ました。
暗いストーリーでしたが、非常に丁寧な作り方で、なかなかよかったですね。
トビーが死んだ場面では、客席のあちこちですすり泣きが聞こえていました。
ハーマイオニーもすっかり大人になりましたね。

ネットで検索したところ、先日行った山形県鶴岡市の白山島は東北地方では有名な「心霊スポット」だそうで、真っ暗闇の中をうろうろしていた私は客観的にはかなり怪しい人だったみたいですね。
リンク先は全然怪しくないサイトです。

白山島
http://outdoor.geocities.jp/himalaicus2/yamaseireki/2009/hakusanjima/hakusannjima.html

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「元徳元年の『中宮御懐妊』」

2010-09-01 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 1日(水)07時32分57秒

>筆綾丸さん
>網野氏の『異形の王権』
暫く前にこの掲示板で話題にした東島誠氏の『自由にしてケシカラン人々の世紀』 (講談社選書メチエ) が、『異形の王権』に依拠して、「後醍醐天皇は変態性欲の持ち主であり、かなりアブノーマルな人物であった」と評していたように、『異形の王権』の影響力は今でも圧倒的ですね。
そして、『異形の王権』における後醍醐天皇像の基礎を支えているのが百瀬今朝雄氏の「元徳元年の『中宮御懐妊』」(『金澤文庫研究』274号、1985年)です。
百瀬氏はいつも冷静な、というか冷ややかな文章を書く人なのに、この論文に限ってはずいぶん熱がこもっていて、かなり興奮して書いたのだろうなという感じがします。
内田啓一氏以外、百瀬氏のこの論文を批判した人はあまりいないようですが、相当問題がありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

後醍醐の奉請髭(ぶしょうひげ) 2010/08/31(火) 20:15:34
小太郎さん
後醍醐天皇というと、網野氏の『異形の王権』が強烈ですが、内田氏の『後醍醐天皇と
密教』は、網野氏の後醍醐像における無精髭を剃ぎおとすような異議申立があって、
面白いですね。
坂口太郎氏の論文、読んでみます。
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市河寛斎の出生地

2010-07-15 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月15日(木)00時46分34秒

『国史大辞典』(執筆者、梅谷文夫)には、市河寛斎について、

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寛延二年(一七四九)六月十六日(?)上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁田町)に生まれる。父好謙は細井広沢の門人で蘭台と号し、書をよくした。寛斎は地方に埋れるのを嫌って年少より江戸に出、昌平黌に学ぶ。のち学員長に推され、五年後病を理由に辞任。寛政元年(一七八九)江湖詩社をおこす。(後略)
----------

とありますが、『日本古典文学大辞典』(執筆者、揖斐高)には、「寛延二年(一七四九)六月十六日江戸に生」れる、と書いてありますね。
更に、

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はじめ兄と共に、江戸詰めの士として秋元侯に仕え山瀬新平と名乗った。このころ、河内竹洲・関松窓・大内熊耳に従学したという。安永四年(一七七五)二十七歳、秋元藩を脱藩し、本姓にかえって市河小左衛門と改称、上州甘楽郡下仁田の学者高橋道斎の女婿となった。しかし、翌安永五年には不縁となり江戸に帰来、同年十一月、林家の八代州河岸の塾頭関松窓の世話で林家に入門。天明三年(一七八三)三十五歳、湯島聖堂の啓事役となり構内に移居した。同七年十月聖堂啓事役を辞職、両国矢の倉へ転居した。江湖詩社を結んだのはこの時である。寛政の改革の動きの中で、異学の禁の申達が大学頭林信敬に下り、寛政二年(一七九〇)四十二歳、寛斎は月俸半減の処分を受け、ために辞して昌平黌との関係を絶つに至った。(後略)
----------

となっていて、『国史大辞典』とはかなり違っています。
まあ、全体的な印象として、『国史大辞典』より『日本古典文学大辞典』の記述の方が信頼できそうです。

>筆綾丸さん
臨済宗との関係はちょっと分からないですね。
ちなみに墓のある谷中・本行寺は日蓮宗だそうです。


>仏国国師(高峰顕日)
高峰顕日は後嵯峨院の子とされているので、以前少し興味を持って調べてみたことがありますが、あまり正確な記録は残っていないようですね。
雲巌寺には是非行ってみたいと思っています。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

江湖風月集 2010/07/13(火) 18:50:48
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2010/03/102048.html
田中善信氏の『芭蕉』に、「江湖風月集」が出てきますが(179頁~)、臨済宗では必読の書のようですが、市河寛斎も臨済宗でしょうか。

  千里に旅立ちて、みち粮をつつまず、三更月下、無何に入ると云ひけむ、むかしの人
 の杖にすがりて、貞享きのえね秋八月、江上の破屋を出づるほど、風のこゑそぞろ寒気
 なり。
    野ざらしをこころに風のしむみかな

冒頭の一節だがむずかしい文章である。これを読んですぐに意味のわかった人は、よほどのインテリであったと考えてよい。この文章は大体次のような意味である。

「遠く千里のかなたに旅立って、食糧の準備もせずにやってきたが、いま真夜中の月明かりのもとで、無為自然の理想郷に入る」と言ったという、昔の人の言葉をたよりとして、貞享元年八月、隅田川のほとりのあばら屋を出ようとすると、風の音が寒々と響いてくる。

「千里に旅立ちて、みち粮をつつまず」は『荘子』「逍遙遊篇」の「千里ニ適ク者ハ三月糧ヲ聚ム」という文言を利用したのである。「千里」は遠い距離を表す決まり文句であり、この文言は「遠い所に行くものは三か月前から食糧の準備をする」という意味である。芭蕉の文章では「みち粮をつつまず」とあるから、「道中の食糧の準備をしない」という意味になる。
「三更月下、無何に入る」は、『江湖風月集』の偃渓広聞和尚作「語録ヲ?ス」という詩の、「路、粮ヲ?マズ笑ヒテ復歌フ、三更月下、無何ニ入ル」という文句を利用したのである。この文句は「旅をするときも食糧の準備をすることなく、笑ったりうたったりして旅を続けて、真夜中の月明かりのもとで、荘子のいう無為自然の「無何有の郷」という理想郷に入る」という意味である。これは悟りの境地に至る過程を比喩的にうたった文句である。芭蕉は『荘子』の文言と偃渓広聞の詩の文言を合成して、冒頭の一文を作ったのである。「むかしの人の杖にすがりて」というのは、旅の縁で「杖」と表現したのであり、要するに昔の人の言葉(あるいは教え)をたよりとするという意味である。旅立ちは貞享のきのえね秋八月、つまり貞享元年秋八月であった。「きのえね」は干支の甲子(和語として読めばキノエネ、漢語として読めばカッシ)で貞享甲子は貞享元年に当たる。なお『江湖風月集』は、臨済宗では「済家(臨済宗の別称)七部書」の一つに数えられていたというから、この書は臨済宗の僧侶の読むべき基本図書の一つだったのである。芭蕉がこのような本を読んでいるのは、臨済宗の僧侶であった仏頂に教えてもらったからだとみて誤るまい。
(注:?と?は文字化けしてしまうので、興味ある方は引用の書にあたってください)

http://www.bashouan.com/pbUnganji.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E5%B7%8C%E5%AF%BA
 過日、黒羽の雲巌寺、仏頂和尚の跡を訪ねてみました。
 説明板に、仏国国師(高峰顕日)の開山で円覚寺派であったが、天正期に衰退して妙心寺派になってしまった、と愚痴っぽく書いてありました。愚痴はともかく、実に佳い所ですね。


桃雪と慈雪 2010/07/14(水) 19:21:50
http://www.daiouji.or.jp/
黒羽の雲巌寺の後、大雄寺を訪ねましたが、歴代藩主の五輪塔は見事なものですね。

http://www.bashouan.com/Database/Kikou/Okunohosomichi_08.htm
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4887481616.html
また、桃雪(浄法寺氏)・翠桃(鹿子畑氏)兄弟の遺跡なども訪ねてみました。芭蕉が、元禄二年に訪れた黒羽藩について、新井敦史氏『下野国黒羽藩主大関氏と資料保存』に、次のようにありますが(62頁~、引用文献等、適宜省略)、『奥の細道』の解説書には、ふつう、このような黒羽藩の説明はないので、ありがたい本ですね。

黒羽藩においては、前述のとおり、関ヶ原合戦後、徳川氏から直接知行を与えられた「公知衆」(大関氏家臣津田氏・同松本氏・同松本隠居・大関氏寄騎浄法寺氏・同金丸氏)が存在しており、彼らの存在は、黒羽藩政を貫徹させていく上で大きな問題を発生させることとなるのであった。また、大関家の寛永十九年(一六四二)の「往古以来家中分限記」には、浄法寺彦三郎以下五十四名の給人がその知行所と共に書き上げられており、彼らの知行高は、合計一万三千二百四十六石にも及んでいた。大関氏が藩主としての権力を確立させるためには、この給人地方知行制を克服することが大きな課題となっていたのである。
 黒羽藩において領主(大名)権力を確立させ、藩体制を整えていくための施策として、まず実施されたのは、正保年間以降に強行された家臣召放ち(家中払い)による給人の整理・再編(リストラ)策であった。正保二年(一六四五)には、三代藩主大関高増が鬮取りによって、松井伊左衛門以下十七騎の上級家臣たちに暇を下し、召放ちを行っている。彼らの石高は合計二千八百五十五石にのぼり、その他多数の家臣が減禄となったという。その後、寛文五年(一六六五)の浄法寺氏以外の公知衆による黒羽立ち退きも含め、寛文年間までに家臣五十六名の整理が続いた。黒羽退去となった公知衆に同調した二十九名の給人たちは、黒羽城内の歓喜院において「神水」を飲み団結して、当時の政務を主導していた家老鹿子畑左内高明の排斥を五代藩主増栄に要求する事態となった。大関増栄(高増二男、寛文二年七月家督相続)は、寛文七年にやむなく高明を追放したが、その翌年にはこの二十九名の給人らも召し放たれるところとなって、黒羽藩政は混迷の度を深め、「家中大狂い」といわれるような状況を生んだのである。(中略)
こうした施策(引用者注:検地のこと)を推進した家老の鹿子畑左内高明によって、給人の手作り・百姓使役についても全面的に制限が加えられところとなった。従来、給人は、自らの知行地内における百姓らの様々な争いに対する裁判権を持っていたが、高明は、これを藩の目付・郷奉行に移管することを命じたのであった。
その後、黒羽藩では、延宝(一六七九)に百姓一揆の抵抗を押さえながら、藩領全域を対象とした検地が断行され、新田一万千四百石余が打ち出された。そして元禄元年(一六八八)には、全ての知行地が藩の蔵入地となったという。

http://plaza.rakuten.co.jp/kirkhanawa/diary/200901040000/
最後に、喜連川氏の菩提寺を訪ねてみました。
黄昏時の幻覚か、慈雪山龍光寺と読めて、なるほど、黄昏の名門らしい山号だ、と思いましたが、慈雲山が正しいようですね。

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市河寛斎と蝉橋

2010-07-12 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月12日(月)12時50分19秒

帰省したついでに群馬県南牧村の「蝉の渓谷」に行ってみました。
ここには加賀出身で京都東山双林寺に芭蕉堂を造ったので有名な高桑闌更が「蝉碑」なるものを建立しているのですが、「蝉碑」に向かう石段の上り口に市河寛斎の「蝉橋」の碑があります。
「蝉碑」が明和9年(1772)建立であるのに対し、こちらは昭和62年と随分新しいものですが、なかなか風景になじんでいましたね。
「蝉橋」の碑の横には、市河寛斎のご子孫による解説を記したもう一つの石碑が並んでいますが、その中には「江湖」の二字もありました。

「蝉碑」

※写真
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村の「二重帳簿」

2010-07-03 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月 3日(土)00時43分6秒

『自由にしてケシカラン人々の世紀』のp124以下には次の記述があります。

---------
 村請制が導入されるということはつまり、<領主対百姓>から<領主対村>プラス<村対百姓>の関係に移行するということである。村民にとってそのことにいったいどんなメリットがあるのかと言えば、何といっても年貢の納入が困難な時に、領主の下っ端の<怖いお兄さん>たちに責め立てられなくて済むことだろう。村が防波堤になってくれるのはやはり心強い。で、確かに心強いのだが、メリットと言えば、ひょっとしたらそれぐらいかもしれないのではあるまいか。逆にどんなデメリットがあるかというと・・・・。
 その第一は、まず番頭に頭が上がらない、ということだ。(中略)
 デメリットの第二は、どうも最近村の行事が多くて何かと金がかかるということだ。(中略)
 デメリットの第三は、あまり大きな声では言えないが、領主帳と村帳簿の二重帳簿になってしまうということだ。村が上納すべき年貢は千八百石のはずなのだが、村民が村のまとめ役に納めなければいけないのはなぜか三千石以上になっている。残りの千二百石っていったい・・・、ということになりかねない。
 じっさい、江戸時代初期の一六三四年、和泉国熊取谷諸村(大阪府南西部)が提出した訴状によると、熊取谷が岸和田藩に納める年貢が千八百石であるのに対し、村民が村の大庄屋である中家などの蔵に納めるべき米は、実に三千六十四石余りに及んでいたのだという。(後略)
---------

熊取谷の中家というのは↓みたいですね。
なかなか立派な家です。

http://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/juubun/index.html

さて、上記部分を読んで、私は東島氏はずいぶん潔癖な人だなあと感心しました。
ま、確かに不正な「二重帳簿」も多かったのでしょうが、しかし、こういう不正に潔癖な人が、何で勧進のような不正をやり放題できるシステムを高く評価するのか、そのバランス感覚がいまひとつ理解できません。
『公共圏の歴史的創造』を見ると、「第1章 公共負担構造の転換」に「勧進僧は公共負担システムを媒介することで、自身のための物乞をもすることができた」(p48)云々とあり、勧進僧との利権争いの例を挙げていますので、東島氏がこの種の不正に気づいているのは明らかですが、それにしても村への視線の異常な冷ややかさと較べると、勧進僧への視線はずいぶん甘いですね。
村の「二重帳簿」については、差額を私腹を肥やすのに使った人もいたでしょうが、村の共同の利益のために使った人もそれなりに多かったんじゃないですかね。
中世のことしか興味がなかった私は、新潟県に来てから近世の新田開発について多少考えるようになったのですが、まあ、大変な事業ですね。
新田開発に関わった村の指導層にはずいぶん立派な人が多かったように思いますが、そうした公的事業のための資金の一部が「二重帳簿」からまかなわれたようなこともあったんじゃないですかね。

>筆綾丸さん
今、手元に『無縁・公界・楽』がないので確認できないのですが、ご指摘の点は確か東島氏の批判を受けて網野氏が追加した部分ではなかったかと思います。
東島氏の網野氏に対する批判は本当に鋭いですね。
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「江湖」と裏社会

2010-07-01 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 7月 1日(木)00時47分9秒

中国語で「江湖」というのは、裏社会、ヤクザの世界、といった意味もあるそうですね。

--------
"江湖"という言葉は世の中とか、この社会という意味ですが、
辞書には載っていない別の意味も含まれています。
ちょっと前に劉徳華と張学友が演じた香港映画があります。
そのタイトルが『江湖』。張学友といえば、もうあれ、ですよね。
ボスの周りをいつもうろちょろしている役がよく似合います。
そう、ヤクザの世界です。

元来、儒教原理主義的には言えば、親が生きている間は、遠出もできない、または遠慮しなければならないような中国社会において、世間を彷徨う「渡世人」などというのは、それだけでかなりアウトローな存在です。こうした世間のあぶれものが出会う世界が「江湖」であり、そこで尊重されるのは「任侠道」という価値観なのです。

ウィキペディアを見ると、

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江湖一词,原指江河与湖泊,在中国文化中有多重引申含义。指遠離朝廷與公家的民间,後期漸漸變成指武俠活動之地,甚至是社會。
古籍中提及“江湖”,大多表示漂泊于政府意识形态和生活方式(“庙堂”,或者朝廷)之外的意识形态和生活方式。如官场不得志的士大夫可用“身处江湖”来形容自己的流离处境,在唐人小说中,江湖亦表示远离朝廷的民间社会。
到了宋元话本中,“江湖”则演变成了鬥毆比武的场所。元末明初的经典章回小说《水浒传》,更将人们心中的“江湖”定位在“道”“武侠”等概念上。此一概念沿用发展至近现代,融入流行文化中,(尤其是武侠文化中),江湖被用来指武侠们的活动圈子,江湖即武林。用法如:武侠小说《笑傲江湖》。


だそうで、なかなか一筋縄ではいかない言葉のようです。

「江湖」にからめて網野善彦氏の『無縁・公界・楽』を論じている人までいますね。


>筆綾丸さん
そこは酒井直樹氏の著書を見ないと訳がわからない部分ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

大文字と小文字の他者 2010/06/29(火) 20:21:02
「十七世紀に何があったのか。酒井直樹は、十七世紀から十八世紀を生きた伊藤仁斎の「情」には、思慮可能なものの外部、言説によって語りつくしえない(大文字の)他者性が開示されている、と論じている。そして日常生活の世俗性や「近さ(nearness)」の領域の中心にある「身体」こそが、そうした脱ー中心化の中心となっている、というのである。しかしながらこの、言説不可能な他者という、伊藤によって開削された〈可能性〉は、荻生徂徠の均質志向社会的(homosocial)な内部空間性、一体感(communion,communality)の思考によって「横領」されてしまう、としている。酒井は、漢文古典の「和訓」に対する荻生 徂徠の批判のなかに、純粋に内部に帰属し、無媒介的に「われわれ」に親しいものを選り分ける思考を見出すのである。そこにはもはや伊藤の「近さ」の持つ異種混交的(heterogeneous)な〈可能性〉はない。ではなぜ伊藤にはそれが可能だったのか。そうした「あれほど長いあいだむし返されてきた問い」にかえて、「この言説の存在様態」を十七世紀という時代のエピステーメーのなかに位置づけなおすとすればどうであろうか。じつはそこに立ちあがってくるのが、パロディ文学『犬方丈記』なのである」(『自由にしてケシカラン人々の世紀』195頁)

http://fr.wikipedia.org/wiki/Grand_Autre
語弊のある言い方になりますが、如上の masturbation のような独りよがりの文、もうすこし、なんとかならぬものか。なぜ、かくも横文字とカッコを満遍なく垂れ流すのか。仁斎や徂徠を、同時代の西欧の文脈で語らなければならぬ、何か必然性があるのか。なぜ、ラカンの用語が、なんの前触れもなく、出てくるのか。・・・要するに、意味不明の寝言のようで、イライラしてきますね。日記ならともかく、江湖に問う以上、もうすこし配慮すべきだ。すくなくとも、文章に関する限り、悪貨が良貨を駆逐することはない、と思いますね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Sibelius
「私はこの〈歴史学のスタイル〉を、ジャン・シベリウスの音楽言語から学んだ」(同書「あとがき」214頁)とありますが、キザな奴だな(笑)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%95%B0_(%E6%95%B0%E5%AD%A6)
「公界の関係概念化」ですが、これは要するに、y=f(x)のことですかね。
xをラカンの云う不特定多数の petit autre、fを prostitution とすれば、yは江口や青墓や化粧坂や島原や吉原などのトポスになるのかしらん。

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遊女と「公共性」

2010-06-29 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月29日(火)01時21分20秒

先の投稿で引用した部分は、著者が「この書物のハイライト」(p19)と言われる「明治における江湖の浮上」の「1 《江湖》新聞の誕生」の冒頭に置かれた次の記述を受けたものです。

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 遊女と言論人─この一見かけ離れた<渡世>を懸け橋することから、議論を始めたい。
 網野善彦以来、中世「公界(くがい)」論は多彩な議論を呼ぶことになったが、その限界は「公界」を実体化した形でしか捉えられなかったところにあった。しかしながら、のちには不特定多数と《交会 Verkehr》する遊女の渡世がもっぱらそう呼ばれたように、「公界」はむしろ、近世に入ってから関係概念としての可能性を見せ始めるのである。言うなれば、実体としての中世自治組織の”敗北”こそが、「公界」の関係概念化をもたらしたのだと言えよう。誤解を恐れず敢えて指摘すれば、共同体の「老若」よりも近世遊女の渡世の方が、その他者(ヘテロ)との関係性においては、はるかに《公共的》と言わねばなるまい。ただ《交通 Verkehr》とは、本質的に痛みを伴うものである。遊女の「公界」の痛みが、やがて「苦界」の語に置き換えられていくとき、「公界」の語そのものは地中に潜行し、別なる脱皮の日を待つことになったのである。
----------

網野善彦氏はやたら遊女が好きで、遊女に変な思い入れがあった人でしたが、東島氏も負けず劣らず遊女好きのようですね。
東島氏の場合、「公共性」概念は「万人に共通のもの」では駄目で、「万人に開かれた領域」でなければいかん、ということをしきりに強調されますが、とすると、prostitute は確かに「公共的」なんでしょうね。
東島氏は「万人に開かれた領域」を常に肯定的に捉えていますが、私はなぜそれが常に良いものなのかが理解できません。
必ずしも自明とはいえないと思いますが。
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市河寛斎

2010-06-29 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月29日(火)00時39分56秒

『公共圏の歴史的創造』には、普通の歴史書にはあまり出てこない人物が意外な場所にひょっこり現れますが、そんな人物の一人が市河寛斎です。
p274に次のように書かれています。

---------
 実は詩歌の世界においては、宋末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており、近世には俳諧の世界で『江湖』の名を冠する句集が作られるなど、「江湖」世界の伝統があったと見られる。なかでも注目されるのは、近世後期の儒学者で、漢詩革新運動の旗手となった市河寛斎である。天明七年(一七八七)、「昌平啓事」たることを辞職した市河は、七言律詩「矢倉新居作」の第三句で、
  江湖結社詩偏逸
と宣言して、「江湖詩社」を結社している。漢詩結社の呼称として「江湖」が用いられたのは、あるいは『江湖風月集』を参考にしたものと見ることもできよう。だが、市河が前年に発表した『北里歌』をはじめとして、詩社同人たちの間で詠じられたテーマについて、既往の研究が次のように位置づけていることは見逃せない。
  江湖詩社の若き詩人たちにとって遊里詞を詠ずることは、詩風革新における
  実作上の一つの試金石であったかのように思われる。
 この指摘に学ぶならば、ここに設定された「江湖」の眼差しが、遊女の交情の世界、すなわち「公界」渡世へと向けられていることは、「江湖」の《公共的》性格を示すものと言うべきであろう。
---------

私は近世の漢詩の世界など全くわかりませんが、それでも市河寛斎の名前を知っていたのは、この人が群馬県と縁があるからです。
「郷土の偉人」として、次のような感じで紹介されていますね。

--------
市河家は、南牧村大塩沢の出身であり、その生家は今も残っています。市河寛斎は、江戸へ出て昌平廣に入学し、学頭(今で言えば東大総長)までになっています。寛斎は、「寛斎摘草」、「全唐詩逸」三巻などの漢詩文を発行し、高い評価を受けています。

http://www.pref.gunma.jp/cts/PortalServlet;jsessionid=DEAAC8E178C4181E33C59C97A2768883?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=33047

もう少し詳しい記述をネットで探すと、立命館大学のサイト内の「唐詩と日本」に、次のように書かれています。

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中国における『全唐詩』の補訂は上述の如く、清末・民国の学者、劉師培の論文がその最初とされ、二〇世紀になって始めて論じられるようになった。清朝の統治が厳しかった時代には、勅編書に疑義を呈することが敬遠されたのであろう。こうした事情もあって『全唐詩』の補遺は、中国よりも我が国の学者が先んじた。江戸時代の学者、市河寛斎(延二年一七四九~文政三年一八二〇)がその人である。

寛斎は上州の人、本名を世寧、字を子静といい、中国人風に河世寧と修姓することがあった。彼は詩に長じ、「江湖詩社」の盟主となって天明から文政に及ぶ漢詩壇に重きをなしたが、また好古の癖を有して考証に秀でた。(中略)

市河斎は安永五年(一七七六)二八歳の時、江戸に出て林家の門人になり、天明三年(一七八三)より七年まで湯島聖堂(昌平黌、後の昌平坂学問所)の学頭に任ぜられたが、寛政二年(一七九〇)異学の禁により教授を辞し、翌年、富山藩儒になった。
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ただ、この書き方だと寛斎は28歳まで上州にいたように読めますが、これは変ですね。
確か江戸でずっと生活していて、ちょっとだけ田舎に引っ込み、28歳で再上京したものと記憶しています。
南牧村というのは長野県との県境のとんでもない田舎で、群馬のチベットと言っても過言でない、といったらちょっと過言かな、と思えるような場所です。
そういう大自然豊かなのんびりしたところで28歳まで暮らしたら、さすがに江戸で詩の革新運動の旗手となるのは無理でしょうね。

http://takachi.no-ip.com/cycletouring/2004/tso0411/tso04111.htm
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樋口陽一と廣松渉

2010-06-28 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月28日(月)01時05分48秒

『公共圏の歴史的創造』を読み終えました。
東島誠氏が歴史学者として非常に有能な人であることはわかりましたが、発想の基本的なところが私とは全く違うので、どうにも落ち着かない気分ですね。
ま、それはともかく、序章p13には

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 これに対して樋口陽一が、あらゆる種類の中間団体を否定してまで力づくで「個人」を析出させたことを強調する、ルソー=ジャコバン型国家とは、いわば国家それ自体を《アソシアシオン》的なものとして仮構するものと言えるだろう。《結社》とは、中間団体というこれを担う実体に本質があるのではなく、個と個の《交通》のかたちを形容する関係概念であることが、ここに明らかになろう。いわゆる国家と自由に関する二つの理念型モデル─<democrate>と<republicain>─は、《結社》の問題に限って言えば、その実体概念を中間団体に措定するか国家に措定するかに決定的な相違があるものの、関係概念として目指すところは必ずしも対立するものではない。
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とありますが、樋口陽一氏の名前は何だか懐かしいですね。
私は樋口氏が東北大から東大に移って最初に行った憲法の講義を受講しているのですが、いかにも新進気鋭の学者らしい颯爽たる雰囲気がありました。
当時、私は余り勉強熱心ではなかったので、というか全く不勉強な学生だったので、樋口氏の見解を批判的に検討することはなかったのですが、ずっと時間を置いてから、自分でフランス革命の歴史を少し勉強するようになって以降、「あらゆる種類の中間団体を否定してまで力づくで『個人』を析出させた」ことを肯定的に語る樋口氏に対してはかなりシニカルな見方をしています。

樋口陽一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E9%99%BD%E4%B8%80
http://www.geocities.jp/stkyjdkt/higuchi.html

また、「第Ⅵ章 明治における江湖の浮上」の冒頭(p259)には、

----------
 「江湖諸賢」とは何とも古めかしい響きを帯びた語である。それは近代黎明期の文人サロンを髣髴させるものがある。しかるにいまや、「江湖」は死語と言ってよい。だがこの「江湖」は、実は廣松渉が好んで用いた語でもあった。
----------

とありますが、寮で同室だった人が廣松渉の熱烈なファンだったので、これも懐かしい名前です。
新左翼の理論家として一部では有名な人でしたが、東大の教養学部で新入生相手に行っていた哲学史の講義は、ごくオーソドックスな感じでしたね。

廣松渉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89
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『公共圏の歴史的創造』

2010-06-25 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月25日(金)01時13分59秒

東島誠氏の『公共圏の歴史的創造』をアマゾンの古書で購入し、少し読んでみました。
実はかなり昔、書店で手に取ったものの、序章の内容がしっくりこなかったので、パスしたことがあります。
今回、『自由にしてケシカラン人々の世紀』を通読してから『公共圏の歴史的創造』を見ると、自説の根拠が明確に書かれているので、一般書である前者よりむしろ後者の方が読みやすいですね。
後で少し感想を書いてみます。

http://www.utp.or.jp/bd/4-13-026602-0.html

>職人太郎さん
>板碑
秩父青石の板碑はスリムですが、越後や東北では分厚い石が「板碑」と呼ばれている例もけっこう多いですね。

http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42449001.html

>筆綾丸さん
関東地方の板碑の素材についての論文を読んだことがありますが、秩父青石は生産地を中心に相当広く分布しているものの、基本的には埼玉・群馬・東京あたりで、さすがに東北には行っていないと思います。
うろ覚えですが。
福島はおそらく福島の素材なんでしょうね。
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「コミューンにおけるアソシアシオンの不在」

2010-06-21 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月21日(月)23時43分53秒

東島誠氏は面白いことを言われる方ですね。
『自由にしてケシカラン人々の世紀』p122には、「戦後民主主義の中で育まれた歴史学は<国家からの自由>を論じることはできても、<共同体からの自由>を構想することができなかった」とありますが、「中世自治とソシアビリテ論的展開」(『歴史評論』596号、1999年)を見ると、この点についての説明があります。(p36以下)

----------
 だとすれば日本史家は、ただちに次のような疑問を持つであろう。なぜ筆者は、中世民衆世界の到達点と言われるもの─惣村、町共同体、あるいは惣国一揆等の自治的達成を評価しようとしないのか、と。(中略)

 だが、ここに一つの落とし穴がある。コミューンは地域的な自治組織であるが、アソシアシオン(アソツィアツィオーン)には地域性というものがない。要するに前者は実体概念であり、後者は関係概念として区別されるべきものなのである。このことはすなわち、アソシアシオン関係とコミューンが常に一致するとは限らないことを意味するが、筆者の見るところ、脇田が「コミューン」と呼んだ日本中世の自治組織には、このアソシアシオン的性格が欠けているとしか思えないのである。「一揆」「一味神水」とは、アーレント風に言えば「たった一つの遠近法」を強要することであり、もちろんそれはパブリックではありえない。(中略)

 勝俣鎮夫の「公界としての共同体」論は、このアソシアシオン的性格の欠如という、最も基本的な特質が見えていないという意味で、既往の中世史研究の到達点を示すものとなっている。(中略)

 だが、勝俣「公界」論には、残念ながら更に深刻な論理上の混乱が含まれている。それは、勝俣が「もうひとつの『公』と言う場合の、「もうひとつ」の認識である。勝俣が言うように、たしかにパブリックはオフィシャルとは異質な概念であろう。だが実際に勝俣が「もうひとつ」として見出したものは、異質ではなく、むしろ同質なものなのである。それは単に、オフィシャルな権力に対して<自律性>を有する、「もうひとつの」小さなオフィシャルの形成でしかない。両者の同質性は、江戸幕府の職制に老中や若年寄があり、中世自治組織の老若(年齢階梯制としての「公界」)にも、老中(乙名中)や若衆があるという一事を見ても明らかである。(中略)

既往の中世自治論は、オフィシャルな権力を相対化しようとして、かえって同質の権力形成を賛美してしまっているのである。それはただ「下からの」権力形成であるというナイーヴな理由だけで美化されてしまい、そのことが、あらゆる権力の<かたち>を共同体的に成形している構造(ふつうこれを天皇制と呼んでいる)と共犯関係にあることについては、中世史家の間では疑問すら持たれてこなかったのではあるまいか。
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左翼の歴史学者に対しては、非常に痛いところを突いた批判なんでしょうね。
東島誠氏は網野善彦亡き後、弱体化が続く左翼歴史学界を立て直す救世主なのか、それとも歴史に「ないものねだり」をし続ける無邪気な永遠の子供なのか、はたまた戦後民主主義の成果を根絶やしにしようとする現代のロベスピエールなのか。
なかなか興味は尽きないですね。

>大黒屋さん
環境の変化もあって、電子書籍についてはあまり興味を感じなくなりました。
ネットについては多少書きたいこともあるのですが、暫くは地味に歴史の勉強を続けるつもりです。
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