学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

明日

2008-01-31 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月31日(木)00時38分41秒

久しぶりに鎌倉遺文研究会の例会に出ようかと思って、暫く前からスケジュールを調整していたのですが、今日になって一瞬にして全てが崩壊しました。
ま、ひと頃と違って、夜に少し論文を読める程度の余裕が出てきたので、遺文研も次の機会を待つことにします。
ところで、昨日から黒田智氏の『中世肖像の文化史』(ペリカン社、2006)を読んでいるのですが、同書に出てくる亀山院皇子の良助法親王という人物は非常に奇妙な伝説に彩られていて面白いので、後で少し紹介しようと思います。

>筆綾丸さん
>バジラなんとか
当時の人にとっても、異国風の何とも不思議な響きだったんでしょうね。
気になります。

>NAO4@吟遊詩人さん
>まえがき
若い頃は苦労したんでしょうけど、地位を得てからは●●さも●●●て、●●●●の●●●人でもありますね。
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『天皇の書』、私も読んでみました。

2008-01-28 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月28日(月)00時58分29秒

小松茂美氏は1925年生まれとのことで、けっこうなお年ですね。
2006年に出した『天皇の書』も、相変わらずの元気一杯・気力充実ぶりで、独特の良い味を出してますね。
細かいことを言うと、
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翌文永五年の八月、兄の後深草上皇に四歳の皇子(後の伏見天皇)がいるにもかかわらず、わずか二歳の幼児にすぎないこの新皇子(世仁親王=後宇多)を皇太子とした。わが家系から皇位のチャンスを失った後深草上皇が、失意のあまり深い怨みを抱いたとしても不思議ではない。絶望の果てに、落飾入道を決意する。驚いた関東申次(鎌倉幕府取次役)の権中納言西園寺実兼(20歳)が、幕府の執権時宗(18歳)に愁訴した。結果、後宇多天皇(世仁親王)の皇太子には後深草上皇の皇子(煕仁親王=伏見天皇)が立つことになった。以後、家系紛糾の激化を避けるため、交互の皇位継承を定める両統(大覚寺統と持明院統)迭立(かわるがわる即位する)が成立したことは、周知のとおり。(157p)
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となっていますが、煕仁親王の立太子は文永五年(1268)ではなく、建治元年(1275)で、7年間ほどずれてますね。
また、
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(伏見天皇は)以後、十年間の東宮時代を経る。やがて、「アシザマナル事サエイデキテ践祚」(『神皇正統記』)の運びとなった。が、これは幕府の前執権北条時宗の計らいであった。退位した後宇多天皇(大覚寺統)は二十一歳、代わって即位した伏見天皇(持明院統)は二十三歳であった。(170p)
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とのことですが、時宗は伏見天皇が即位した弘安十年(1287)の3年前に死んでいますので、時宗の計らいということはなかったでしょうね。
この「アシザマナル事サエイデキテ践祚」の事情は今まで謎だったのですが、細川重男著『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力』の第五章「飯沼大夫判官資宗-平頼綱政権の再検討-」で、非常に説得的な説明がなされていますので、小松茂美氏にも教えてあげたいところですが、ま、昔から細かいことは気にしない豪快な方みたいですから、大きなお世話でしょうね。
私がブチブチ書いたこと以外にも歴史的事実に間違いは多いでしょうが、少なくとも書の分析にはあまり関係しないはずなので、決して『天皇の書』の価値と魅力を損なうものではないと思います。たぶん。

>筆綾丸さん
>後宇多法皇の梵名
「梵名」というのも、変な響きですね。
しかし、後宇多の書の見事さには、正直、圧倒されます。

>NAO4@吟遊詩人さん
>勘返状
まさにメールのやりとりと同じですね。
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勝手に宣伝・鎌倉遺文研究会第138回例会の御案内

2008-01-24 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月24日(木)23時57分14秒

日時:1月31日(木)18:00~
場所:早稲田大学文学学術院第2研究棟6階第7会議室
報告者:谷口榮氏
題目:「武士の城と屋敷」
[報告者の一言]
吾妻鏡には、城・要害・柵などの軍事的な施設とともに、館・宅・家などの武士の屋敷に関する用語も登場する。
これらの武士が所有する諸施設と用語を整理し、その用法について、発掘された事例や考古学的な面も加えながら検討を行いたい。特に吾妻鏡において館の用い方は一定の規則があり、治承4年12月12日条は、象徴的な存在だと思われる。
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/top.html
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『書物の中世史』

2008-01-24 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月24日(木)22時59分55秒

今日は五味文彦氏の『書物の中世史』(みすず書房、2003)をパラパラめくっていたのですが、「中世の知の体系・ネットワークを明らかにしようとつとめた」(あとがき)作品ですから、引用される文献が非常に広範かつ多彩で、内容を追いかけて行くだけでも大変ですね。
自分が読んだことのない書物については、五味氏の流れるような文章で説得されると、ついついそうかな、と思ってしまうのですが、『五大帝王物語』など、自分でもそれなりにしつこく読んだ文献については、五味氏との感覚の違いを多々感じます。
五味氏は『五代帝王物語』の特徴の第一として御霊信仰の影響が強いことを挙げていて、まあ、確かに『五代帝王物語』には怨霊話・化け物話が多いことは多いのですが、その書き方も、対象との距離を失って、怨霊話・化け物話を本気で信じ込んで書いているというよりは、読者の反応を予想しつつ、けっこう楽しんで書いているように思えます。
私としては、五味氏が第七の特徴として挙げている「『古今著聞集』に見える「興言利口」のような話が見える点」を、もっと重視したいですね。
例えば、五味氏も引用している三条公房に関する記事は、
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同時に三条太政入道公房公のありしを、世の中、おそろしからぬ太政入道と名けたりし、をかしくぞありける。此の三条の相国禅門は極てしれたる人にて、申べき事ありて今出川の第へわたりたりけるに、乗ながらやり入れさせて、中門廊に車よせて、手づから裏無を取いでて、堂上にはきて、公卿座に居て、対面して帰にけり。傍若無人の振舞をかしかりけり。
-------------
となっていて、作者は笑い好きで、相当辛辣ですね。
こういうタイプの人が書いた作品の第一の特徴として御霊信仰の影響が強いことを挙げるのは、私には非常に違和感があります。
五味氏は最後の方で、
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『五代記』の執筆の時期はすでに見たように後宇多の治世の時代であるが、その時期には嘉元二年に後深草院が亡くなり、翌年には亀山院がなくなるなど、相次いで後嵯峨の子が亡くなっている。そのことから後嵯峨が御霊になって祟っているのではないかと思われたことであろう。そこでかつて後嵯峨に仕えて出家入道した作者が後嵯峨の治世を点検して御霊にはならないことを確かめた上で、さらにその後嵯峨が遺した意思にもとづいて政治が行われるように、と書き記したものと考えられる。
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と書かれていますが、後深草院・亀山院が若年で相次いで亡くなったのならともかく、後深草院は62歳、亀山院は57歳ですからね。
まあ、ひとつの時代が終わったなという感慨は多くの人が持ったでしょうが、兄弟の相次ぐ死は後嵯峨院が御霊になって祟っているのが原因だ、などと思った人はいなかったでしょうね。
そんなことを裏付ける史料はただのひとつもなく、『五代帝王物語』の特徴の筆頭に御霊信仰の影響をあげる五味氏の頭の中に浮かんだ、豊か過ぎる想像力の産物だと思いますね。

http://www.msz.co.jp/book/detail/07077.html
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(これではいけない)再論

2008-01-22 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月22日(火)00時31分19秒

「平政連諫草」の関係部分、佐藤進一氏自身の読み下し文で紹介すると、
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これに因て禅閣(貞時)御在俗の時専ら覇業を扶け、御出世の今漸く政要に疎なり。この条、評定裁判は両国吏に任せ、引付探題は七頭人に委ぬ。功なり名遂げて真に帰し実に趣く。時々偃息の志あり。日々政務に接(まじわ)りがたきのよし思食(おぼしめ)さるるか。
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となります。
ちなみに、真に帰す、とは出家することだそうです。

さて、(これではいけない)はやはり謎なのですが、先に紹介した佐藤進一氏の発言は、老碩学による膨大な学識に裏打ちされた非常に高尚な猥談なので、あるいは佐藤先生が興に乗って暴走してしまい、とても活字にできない薀蓄を延々述べられて、編集者が「これではいけない」と思わず叫び、テープ起こしの時に「本来入るべきでないものが説明的に入った」、というようなことは、ま、たぶんなかったんでしょうね。
ちなみに佐藤先生が言及されている『本朝文粋』の「鉄槌伝」は本当に素晴らしい名文なので、身体論で著名な斉藤孝氏には、是非とも『声に出して読みたい日本語 』に追加採用していただきたいと思います。
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/


>大竹雅美さん
いらっしゃいませ。
研究会情報もお寄せください。

>筆綾丸さん
おひさしぶりです。
『宸翰英華』命名の経緯、真実味がありますね。
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(これではいけない)の謎

2008-01-20 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月20日(日)00時03分27秒

>NAO4@吟遊詩人さん
私も石清水八幡宮に参詣したのは一度きりです。
それも一人でブラブラ歩いただけなので、石清水の歴史に詳しい人と一緒に、また行ってみたいですね。

今日は『日本中世史を見直す』(悠志社、1994)を読み直していたのですが、佐藤進一・網野善彦・笠松宏至氏の対談記録の中に、佐藤氏の次のような発言がありました。
 佐藤氏が、現在残っている「平政連諫草」は長崎左衛門尉に渡す前の草稿だろう、と考えている根拠を述べている部分です。

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 おそらく割り注でやったものか、本来入るべきでないものが説明的に入ったか、そんな感じです。精選して提出した文章ではありえない。そういう前提に立って考えると、貞時を諫めているんですが、第一条の最初のページの終わりから五・六行目に、貞時が出家して後、政務に熱心でなくなり「時々有偃息之志」(これではいけない)といっています。この「偃息」という言葉ですが、これは『古今著聞集』(巻一一、画図一六)の中に「ふるき上手どものかきて候おそくづ(偃息図)の絵なども御覧も候へ」とある「おそく」に当り(偃は呉音)、男女同衾の意味です。
『古今著聞集』はカナ文ですから、「ソク」が「息」なのか「側」なのか、これではきめられませんが、「偃側」でも同じ意味であることは、『本朝文粋』(巻一二)の鉄槌伝によって知られますし、養老令の医疾令の中に、医針生(医生と針生)が学習すべき経典を示した条があり、針生は、素門、黄帝針経等の外に「兼ねて流注・偃側等の図・・・・を習へ」とある。この偃側の図も、同じ意味でしょう。ともかく江戸時代には、『古今著聞集』のこの語(おそくづ)に「偃息図」の字を当てています。さて政連の『諫草』に「時々偃息の志あり、日々政務に接(まじ)はりがたきのよし、おぼしめさるるか(政務をとるのがいやだとお思いなのですか)」などというのは、よっぽどつっこんだ諫言だと思いますね。こういったものを黙って受け取ったかどうかということも、疑問なんだけれども。
---------------

「時々有偃息之志」の現代語訳が(これではいけない)であるはずはないのですが、何故、(これではいけない)がついているのか。
不思議なり。

参考:ウィキペディア「春画」
(※リンク先、注。この項目には性的な表現や記述が含まれます。閲覧はご自身の責任で行ってください。免責事項もお読みください。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%94%BB
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石清水周辺の清らかでない方々。

2008-01-18 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月18日(金)23時36分38秒

>kariさん
ご無沙汰しております。
いつもご配慮、ありがとうございます。

>八幡の神は非常に分かりやすくて親切ですね。
確かにそうですね。
笑ってしまうくらい、分かりやすい反応をしてくれます。
ま、実際には神様に存分に活躍してほしい人たちが、いろんな演出をしたり、適当な話を作ったりしている訳で、当時であっても、それらを素直に信ずる人もいれば、冷ややかに眺めている人もいたんでしょうね。
早川庄八氏に「寛元二年の石清水八幡宮神殿汚穢事件」(『中世に生きる律令-言葉と事件をめぐって』)という論文がありますが、私は石清水のことを勉強し始めたばかりの頃にこの論文を読み、以来、石清水周辺の連中はどうも胡散臭いのが多い、という強固な偏見を抱いています。


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同種の話

2008-01-17 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月17日(木)00時17分29秒

『古今著聞集』には、後嵯峨院も石清水八幡宮で「鈴のこゑ」のような声を聞いたという話が出てきますが、こちらは橘成季ではなく、後世に別人の手により「なよ竹物語」(「鳴門中将物語」)が編入されたものと考えられていて、義時化身譚との比較は慎重に行う必要がありますね。

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第八十七代の皇帝、後嵯峨天皇と申すは、土御門天皇の第三の皇子なり。父の御門、寛喜三年遠所にて御事ありし後は、御めのと大納言通方卿のもとに、かすかなる御すまひにてわたらせ給へば、御位の事はおぼしめしもよらず。大納言さへ身まかりにければ、仁治二年の冬の比、八幡へ参らせ給ひて、御出家の御いとま申させ給ひけるに、暁、御宝殿のうちに、「徳はこれ北辰、椿葉の影ふたたび改まる」と、鈴のこゑのやうにて、まさしく聞えさせ給ひければ、これこそ示現ならめと、うれしくおぼしめして還御ありけり。


そして、この話は『増鏡』にも出てきます。

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その冬ころ、宮いたうしのびて、石清水の社にまうでさせ給ふ。御念誦のどかにし給ひて、少しまどろませ給へるに、神殿の中に「椿葉の影ふたたびあらたまる」といとあざやかにけだかき声にてうち誦じ給ふ、と聞きて御覧じあげたれば、明け方の空すみわたれるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかにみえつる御夢ならんとあやしくおぼさるれど、人にものたまはず。とまれかくもあれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。


後嵯峨院は格別に石清水八幡宮への崇敬が深くて、実に28度も御幸があり、これは歴代治天の参拝回数記録のトップだそうですから、実際に何か神秘的な体験をしたのかもしれないですね。

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神の声?仏の声?

2008-01-16 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月16日(水)23時03分5秒

久しぶりに『古今著聞集』を通読してみたのですが、

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巻第一 神祇「八幡に通夜の夜、夢に北条義時は武内宿禰の後身と知ること」

誰と聞き侍りしやらん、名をば忘れにけり。その人、八幡に参りて通夜したりける夢に、御殿の御戸をおしひらかせ給ひて、誠にけだかき御声にて、「武内」と召しければ、・・・
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この「誠にけだかき御こゑ」とは誰の声なんですかね。
八幡の本殿に祭られているのは誉田別尊(応神天皇)、比※大神[※口+羊]、息長帯比賣命(神功皇后)ですから、一応、この三者が候補者になりますが、実はこの直前の段に、

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「興福寺の僧八幡に参籠し、夢に春日・八幡両大明神の託宣を得たる事」

興福寺の僧の、いまだ僧綱などにはのぼらざりけるが、学生にては侍りけれども、いと貧しかりければ、春日社に参りて申しけれども、そのしるしもなかりければ、寺のまじらひも思ひたえて、八幡に詣でて七日こもりて祈念しけるに、或る夜夢に、ゆゆしげなる客人の参り給へりけるに、大菩薩御対面あるよしなり。客人、「某と申す僧やこもりて候」と申し給ひければ、「さること候ふ」と答へ申させ給ひけり。・・・・
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とあって、こちらでは八幡大菩薩の声となってますね。
中世人の感覚だと義時化身譚の方も八幡大菩薩と考えるのが素直かもしれませんが、しかし武内宿禰と会話している訳ですから、どちらかといえば神話的人物の方がふさわしいような感じもする、と。
そして、女性の声ならばそれと記述するのが自然のようにも思えるし、御本殿中央にいるのは応神天皇だから、ま、応神天皇なのかな、とは思うのですが、他方、中世の説話・伝承の世界では神功皇后の存在感は相当大きいので、神功皇后であってもおかしくはないかな、と。
結論は、結局のところよくわからん、と。
(引用は新潮日本古典集成「古今著聞集」上より)

参考:石清水八幡宮御本殿
http://www.iwashimizu.or.jp/5/j/8/index.htm
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いえいえ。

2008-01-14 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月14日(月)09時14分37秒

>NAO4@吟遊詩人さん
品位を落とすなど、とんでもないことです。

ところで、「宸翰英華」ですが、これは「紀元二千六百年奉祝の記念として後世に遺すに足るべきもの」として企画されたので、筆綾丸さんがおっしゃっているように、非常に立派なものですね。
某県立図書館で気軽に頼んだら、職員の方が二人がかりで台車で運んで来られて、少し恐縮したことがあります。

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ご連絡

2008-01-13 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 1月13日(日)17時04分38秒

>NAO4@吟遊詩人さん
昨日は中前勉例会で久しぶりにお会いできましたが、飲み会に参加されなかったので、あまり話せませんでしたね。
掲示板管理については、今までと体制を変えた方がよいと思っているので、運営委員会に提案するつもりです。
少しお待ちください。

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