投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月30日(木)12時49分44秒
(その1)で「永和二年卯月十五日」が「擱筆の年記である可能性」を「論じた研究者は今まで誰かいたのでしょうか」と書いてしまいましたが、宮内三二郎氏の『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』によれば、石田吉貞氏が「増鏡作者論」(『国語と国文学』昭和28年9月)において「応永本の奥書にあつた『永和二年卯月十五日』といふ日附」は「良基と考へられる作者が増鏡を擱筆した時の日附ではなからうか」とされているようですね。(p715)
石田説は古すぎるような感じがして、私はあまり重視しておらず、記憶にもなかったのですが、念のため後で内容を確認しておきます。
さて、「ついのまうけの君」ですが、いきなり極めて細かい話になってしまって、非常に分かりにくいと思います。
問題の箇所を井上宗雄氏の『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)で確認すると、
-------
内には女御もいまださぶらひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍らに今御方とかや聞えてかしづかれ給ふを、参らせ奉り給へれば、これや后がね、と世人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ。
http://web.archive.org/web/20150907005517/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu16-hinosukena.htm
とあり、井上宗雄氏の現代語訳は、
-------
光厳天皇には女御もまだいらっしゃらないので、西園寺の故大納言実衡公の姫君で、広義門院のおそばに、今御方とか申して、だいじに育てられている方を、(後宮として)さし上げられたので、この方が(ゆくゆく)お后になられる方かと、世人も早いうちから結構なことだと思っていたが、どういうわけか、御寵愛のあまりぱっとしないのが残念である。三条大納言公秀の娘三条といって仕えていられる方の御腹に、宮々がたくさんお生まれになったのだがその方が結局は皇太子になられるようである。
-------
となっています。
「三条前大納言公秀の女、三条」は後に女院号を得て陽禄門院(1311~52)と尊称された女性ですが、この人は北朝第三代の崇光天皇(興仁親王、1334~98)と北朝第四代の後光厳天皇(弥仁親王、1338~74)の母です。
「宮々あまたいでものし給ひぬる」とありますが、この女性が生んだ皇子は興仁親王と弥仁親王の二人だけで、他に皇女が一人いるようです。
崇光天皇(1334-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%85%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
後光厳天皇(1338-74)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところで、後醍醐天皇が元弘の変に敗れた後、元弘元年(1331)に即位した光厳天皇の皇太子には、両統迭立を維持しようとする幕府の意向で木寺宮・康仁親王(後二条天皇孫、邦良親王男、1320-55)が立てられますが、元弘三年(1333)、後醍醐が隠岐から戻って来て光厳天皇の即位自体を否定すると、康仁親王の立太子も当然否定されます。
そして後醍醐は阿野廉子が生んだ恒良親王(1324-38)を皇太子としますが、建武の新政が短期間で崩壊した後、延元元年(建武三年、1336)、足利尊氏に擁立された光明天皇(北朝第二代、後伏見院皇子、光厳院弟、1322~80)が即位すると、両統迭立に固執する尊氏の意向で後醍醐皇子、恒良親王同母弟の成良親王(1326~44)が皇太子となります。
しかし、同年末に後醍醐が京都を脱出して吉野に籠もり、南北朝の分立が始まると、翌延元二年(1337)四月、北朝は成良親王の皇太子を廃します。
このように、天皇と共に皇太子も転変しますが、ちょっと意外なことに、康仁親王・恒良親王・成良親王はいずれも大覚寺統ですね。
以上が小川氏の言う「元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実」の概要です。
そして、暫くの空位期間を経て、暦応元年(1338)八月十三日、光厳院皇子の興仁親王が皇太子に立てられます。
この時、光厳院は自分の子の興仁親王ではなく、叔父である花園院の皇子、直仁親王(1335~98)の立太子を望んだのですが、その理由が小川氏の引用する「康永二年(一三四三)四月十三日、光厳上皇が長講堂に奉納した置文」に出ていて、実は直仁親王は光厳院が花園院の妃・宣光門院と密通して出来た子なのだそうです。
光厳院は興仁親王より直仁親王を鍾愛した、というか、おそらく愛人の宣光門院に良い顔をしたかったのでしょうが、周囲に止められて断念した訳ですね。
小川氏は「「ついのまうけの君」という字句は、作者が、光厳院の意が直仁にあることを知らなかった時期、あるいはそれが世間に公表されなかった時期に記されたことを意味するとも思われる。これだけではまだ微小な可能性にとどまるものの、『増鏡』の記述は、貞和年間以前とも考えられることを附言しておきたい」としていて、この宮中秘話にずいぶんこだわります。
しかし、1343年の光厳院が「子細朕並母儀女院之外、他人所不識矣」と記しているような事実を妙に重視するのはいかがなものかと思います。
直仁親王(1335-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
(その1)で「永和二年卯月十五日」が「擱筆の年記である可能性」を「論じた研究者は今まで誰かいたのでしょうか」と書いてしまいましたが、宮内三二郎氏の『とはずがたり・徒然草・増鏡新見』によれば、石田吉貞氏が「増鏡作者論」(『国語と国文学』昭和28年9月)において「応永本の奥書にあつた『永和二年卯月十五日』といふ日附」は「良基と考へられる作者が増鏡を擱筆した時の日附ではなからうか」とされているようですね。(p715)
石田説は古すぎるような感じがして、私はあまり重視しておらず、記憶にもなかったのですが、念のため後で内容を確認しておきます。
さて、「ついのまうけの君」ですが、いきなり極めて細かい話になってしまって、非常に分かりにくいと思います。
問題の箇所を井上宗雄氏の『増鏡(下)全訳注』(講談社学術文庫、1983)で確認すると、
-------
内には女御もいまださぶらひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍らに今御方とかや聞えてかしづかれ給ふを、参らせ奉り給へれば、これや后がね、と世人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ。
http://web.archive.org/web/20150907005517/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu16-hinosukena.htm
とあり、井上宗雄氏の現代語訳は、
-------
光厳天皇には女御もまだいらっしゃらないので、西園寺の故大納言実衡公の姫君で、広義門院のおそばに、今御方とか申して、だいじに育てられている方を、(後宮として)さし上げられたので、この方が(ゆくゆく)お后になられる方かと、世人も早いうちから結構なことだと思っていたが、どういうわけか、御寵愛のあまりぱっとしないのが残念である。三条大納言公秀の娘三条といって仕えていられる方の御腹に、宮々がたくさんお生まれになったのだがその方が結局は皇太子になられるようである。
-------
となっています。
「三条前大納言公秀の女、三条」は後に女院号を得て陽禄門院(1311~52)と尊称された女性ですが、この人は北朝第三代の崇光天皇(興仁親王、1334~98)と北朝第四代の後光厳天皇(弥仁親王、1338~74)の母です。
「宮々あまたいでものし給ひぬる」とありますが、この女性が生んだ皇子は興仁親王と弥仁親王の二人だけで、他に皇女が一人いるようです。
崇光天皇(1334-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%85%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
後光厳天皇(1338-74)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところで、後醍醐天皇が元弘の変に敗れた後、元弘元年(1331)に即位した光厳天皇の皇太子には、両統迭立を維持しようとする幕府の意向で木寺宮・康仁親王(後二条天皇孫、邦良親王男、1320-55)が立てられますが、元弘三年(1333)、後醍醐が隠岐から戻って来て光厳天皇の即位自体を否定すると、康仁親王の立太子も当然否定されます。
そして後醍醐は阿野廉子が生んだ恒良親王(1324-38)を皇太子としますが、建武の新政が短期間で崩壊した後、延元元年(建武三年、1336)、足利尊氏に擁立された光明天皇(北朝第二代、後伏見院皇子、光厳院弟、1322~80)が即位すると、両統迭立に固執する尊氏の意向で後醍醐皇子、恒良親王同母弟の成良親王(1326~44)が皇太子となります。
しかし、同年末に後醍醐が京都を脱出して吉野に籠もり、南北朝の分立が始まると、翌延元二年(1337)四月、北朝は成良親王の皇太子を廃します。
このように、天皇と共に皇太子も転変しますが、ちょっと意外なことに、康仁親王・恒良親王・成良親王はいずれも大覚寺統ですね。
以上が小川氏の言う「元弘・建武の動乱の間、三人の皇太子が立ち、それが激変する政情のなかで皆廃された事実」の概要です。
そして、暫くの空位期間を経て、暦応元年(1338)八月十三日、光厳院皇子の興仁親王が皇太子に立てられます。
この時、光厳院は自分の子の興仁親王ではなく、叔父である花園院の皇子、直仁親王(1335~98)の立太子を望んだのですが、その理由が小川氏の引用する「康永二年(一三四三)四月十三日、光厳上皇が長講堂に奉納した置文」に出ていて、実は直仁親王は光厳院が花園院の妃・宣光門院と密通して出来た子なのだそうです。
光厳院は興仁親王より直仁親王を鍾愛した、というか、おそらく愛人の宣光門院に良い顔をしたかったのでしょうが、周囲に止められて断念した訳ですね。
小川氏は「「ついのまうけの君」という字句は、作者が、光厳院の意が直仁にあることを知らなかった時期、あるいはそれが世間に公表されなかった時期に記されたことを意味するとも思われる。これだけではまだ微小な可能性にとどまるものの、『増鏡』の記述は、貞和年間以前とも考えられることを附言しておきたい」としていて、この宮中秘話にずいぶんこだわります。
しかし、1343年の光厳院が「子細朕並母儀女院之外、他人所不識矣」と記しているような事実を妙に重視するのはいかがなものかと思います。
直仁親王(1335-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B