資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」〔2025-02-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5688674ed0d3d6aed70ae91adcb4471
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p231以下
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おわりに
本稿では、待賢門院領を題材にそれが上西門院にストレートに伝領されたという通説を再検証してきた。検証の結果、待賢門院領は上西門院にそのまま継承されたわけではなく、その間には、待賢門院の子で上西門院の兄にあたる崇徳院が管領した時期があり、その崇徳院が保元の乱に敗れ、待賢門院領は突如管領者を失うという事態となり、そののちに統子内親王(上西門院)が継承することになった。このように、ある意味行き当たりばったりで継承していった様子から、待賢門院自身が積極的に所領形成と所領経営を行った膨大な数の待賢門院領も、女院の死後徐々に解体していったと考えられよう。
待賢門院領は「女院領」としても、中世荘園としても、先駆的なものである。「女院領」をつくりあげたものの、待賢門院自身にその継承について確たる構想があったとは考えにくい。待賢門院が亡くなったときに初めて、それが継承されるべきことが認識され、荘園知行者の側も新たな安堵者を求める必要が生じたのではないだろうか。そして、一方で「女院領」は崇徳院の管領するところとなったが、また一方では「女院領の知行者であり同時に奉仕者でもあった女院司や女院女房は、新たな奉仕先として統子内親王へ移動するなど、かつては一致していた「女院領」の管理者とその知行者の奉仕先がバラバラになってしまった。
このことにもう少し説明を加えよう。「女院領」においては、荘園の知行者=女院への人的奉仕者、であった。それは待賢門院領およびその御願寺領である法金剛院領においても同じである。この「女院領」(御願寺領)荘園の知行者が同時に女院司や女院女房でもあったこと、またこの女院に人的に奉仕する女院司や女院女房が、待賢門院の没後に娘統子内親王(上西門院)への移動が見られることは、先にも少し触れているし、すでに指摘されているところである。
以上のことを考え合わせると次のようにも考えられよう。荘園の知行者は、そもそも中世荘園を成立させた本家が死去するなどでいなくなったとき、自らの荘園を安堵し得る本家を探す必要があっただろう。すべてを荘園知行と結びつけるわけにはいかないかもしれないが、このような場合、女院司や女院女房の新たな奉仕先への移動条件として、荘園知行やその安堵を重視することがあったのではないか。つまり、これまで人的にも奉仕してきた本家が「消失」した場合、女院司や女院女房は次の奉仕先として、「荘園の本家として適合した人」=「荘園知行を守り得る本家」を選び、荘園経営の安定を図ろうとしたのではないだろうか。崇徳院への待賢門院領の伝領は、その点がうまくいかなかったものと考えられよう。
先駆的な待賢門院領での久安元年(一一四五)の女院没後におけるドタバタ劇を見ていた八条院と八条院領知行者たちは、それをある意味反面教師として対応することができたのではないだろうか。それゆえに「八条院領」を鎌倉後期まで存続させることができたともいえよう。
【後略】
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