学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)

2017-06-28 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月28日(水)13時33分37秒

6月25日の投稿で「林健太郎だったか、『矢内原忠雄全集』の月報で、戦後、東大教養学部長時代の矢内原が些細なことでブルブル手を震わせながら激怒する姿を描いていて、正直、私などはそれを読んで一種の狂人ではないかと思ったりもしました」などと書いてしまいましたが、南原繁他編『矢内原忠雄─信仰・学問・生涯─』(岩波書店、1968)を見たら、当該エッセイの著者は竹山道雄でした。
同書の南原繁による「まえがき」には、

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 矢内原忠雄君が世を去ってから五年余、その全集二十九巻が出版完了してから三年に近い歳月が流れた。全集の毎巻附録の月報をはじめ、新聞や諸雑誌に、故人についての思い出や感想などが多く書かれた。この書はそれらを一つにまとめたものである。
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とあって、竹山道雄のエッセイ「私が接した面」には出典の明示はありませんが、全集の月報でもなかったですね。
いい加減な記憶に基づいて適当なことを書き散らしてしまった反省も兼ねて、少し紹介してみます。

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【前略】
 戦後に旧一高が東大のジュニア・コースになることになり、先生が一高の校長となられてから、私は近く接するようになった。毎週一回の運営委員会と教授会ではかならず会った。
 何もかもむつかしく、難問山積していた。先生は昼飯をとる暇がないことが多かった。自分があれだけ努力するのだから他人からも期待するのは当然だったが、こちらは実行力皆無で栄養不足というありさまで、先生が主宰する会議はじつに肩がこった。微に入り細を穿って、正確をきわめた。会議がすむと、ほっと息をついて解放感を味わった。
 真面目一徹で、正直で、信念のためにはいかなる妥協もなく献身する。そういう人にはよくあることらしいが、先生は怒りっぽかった。カーッとなって身をふるわせて怒った。それはおおむね先生に正しい根拠があったのだが、ときには病的に思われることもあった。
 青山学院大学の学長だった故峰尾さんが来られて、ドイツ語課の主任をしていた私に、青山ではドイツ語の人手が足りない。それでいま駒場に籍をおいて青山で講師をしているX氏に、もっと時間を受持ってもらいたい。そのためにはその人の駒場の持ち時間を減してもらえないか、という話だった。どこでも人手が足りない頃だった。私はそれでは校長と話しましょうとて、峰尾さんと共に校長室に入った。
 峰尾さんがそれをいい終るか終らぬかのうちに、矢内原先生は顔色蒼白になり、目を尖らせ、頭をふるわせて叫んだ。
 「それならX君にはもう居てもらわなくてもよろしい。竹山君、すぐ行って代りの教授を見つけて来たまえ!」
 これでは相談にはならず、峰尾さんはほうほうの態で帰られた。かつては峰尾さんも相当はげしかったが、こちらはもっとスケールが大きかった。えらい人にはみな激しいところがあるようである。
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ということで(p458以下)、時代背景を割り引いても、こういう人が上司だったらたまったものではないですね。
「顔色蒼白になり、目を尖らせ、頭をふるわせて叫んだ」矢内原は、きっとビリケンに似ていたと思います。
ついでにもう少し紹介してみると、

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 旧一高には宿弊もたくさんあり、先生はそれを一掃して、すべての学生を清教徒にしようと考えていられたようだ。そして、旧一高の伝統を意識的に破壊した。(これで、かつての書生とか健児とかいう、歴史的系譜は断たれた。)学生は一年に一度の記念祭がしたくてたまらず、われわれもあの当時(昭和二十四年)の荒涼として沈滞した時期に一日お祭りをして気持を新たにするのがいいと思ったが、先生は頑として許さなかった。非常な歯痛で、頬に氷嚢をあてて顔をしかめながら、原則をまげなかった。私はこういう案なら合理的だし先生も同意されるだろうと思っていたのに、だめだった。理由は「国中がこんなに貧しくて困っているのに、遊ぶとはもっての他だ」というのだった。
 もし人間すべてが先生のような潔癖の清教徒ばかりだったら、どんなにいいことだろう! 先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった。それで、学生との間に次第に溝ができ、それを政治学生たちが利用した。左翼学生のビラに「校長はわれわれを憎んでいるとしか考えられない」という文句もあったし、先生が渡米されたときには「ふたたび日本の土を踏ましむるな」と大書した紙が校門わきの掲示板にはられた。それを剥ぐ人もなく、ひさしくそのままだった。
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という具合だったそうです。
私の記憶はいい加減でしたが、矢内原を一高の校長とする竹山道雄の記述にも若干の疑問があります。
「矢内原忠雄略年譜」によれば、矢内原が初代の教養学部長になったのは1949年(昭和24)の5月31日ですね。(p689)
他方、旧制一高同窓会「第一高等学校ホームページ」の「歴史─概要」「第一高等学校略史」を見ると、

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1948(昭和23)年2月7日一高校長天野貞祐辞任 麻生磯次校長に就任
1949(昭和24)年6月30日一高は「東京大学第一高等学校」となる 矢内原忠雄校長に就任
7月31日麻生磯次、東京大学第一高等学校長に就任
【中略】
1950(昭和25)年3月24日卒業式を行わない永年の慣例を破り倫理講堂で卒業式、夕方「第一高等学校」の門札を外す


となっていて、教養学部長の矢内原忠雄が「東京大学第一高等学校」の校長を兼任していたのは1949年7月の一か月間だけのようです。
とすると、竹山道雄が「私が接した面」で描いている矢内原忠雄像は新制の東京大学教養学部長としてのそれかもしれません。
竹山道雄は旧制一高に非常に愛着を持っていた人ですが、それ故か、竹山自身に若干の記憶の混乱があるような感じもします。

『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
平川祐弘著『竹山道雄と昭和の時代』
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「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」

2017-06-25 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月25日(日)10時37分52秒

結婚つながりで、ちょっと気になったエピソードを『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』から引用してみます。(p139以下)

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 雑誌『嘉信』とならぶ、もうひとつの軸が「自由ヶ丘集会」である。矢内原のもっとも身近にいたのが、その会員たちである。会員数は三七年には二〇人あまりで、その後もすこしずつ増加している。
 矢内原によれば、自由ヶ丘集会は「家庭集会」であり、「誠実を誓つた同志の集り」である。矢内原はその会員を「養子、養女」、みずからを「父」とみなしている。そのため、会員はたがいに「兄弟姉妹の家庭的関係」にあるとされる。会員の結婚についても矢内原の許可が必要であり、矢内原がしばしば仲介し、世話をしている。
 会員の資格としては、かなりきびしい条件が設けられていた。まず、矢内原が「思ふ存分叱り得る」よう、基本的には矢内原よりも一〇歳以上年下の者に限る、とされる。そして、矢内原と生死をともにする覚悟があること、本人の意思だけでなく両親の許諾があることなどが求められた。
 警察による監視がつづいていたため、矢内原の発言などが漏れる危険を防ぐために、出席者は外部に対しては秘密を守ることとされた。また、同じ理由から傍聴などは許されなかった。三七年秋には矢内原が講師を務めた聖書講習会の出席者が警察に取り調べを受けていた。そのため、矢内原の集会の会員であることは警察の監視対象になる可能性が高かった。
 集会は厳格な秩序のもとでおこなわれた。定刻になると玄関は閉ざされ、一分でも遅れたら入ることができなかった。無届欠席は認められず、やむなく欠席するときには事前に届けを出すこととされた。
 集会のプログラムは讃美歌、聖書朗読、祈祷、聖句暗唱、聖書講義といったものであった。司会は矢内原が次週の担当者を指名した。矢内原は聖書講義について次のように書いている。「私の聖書講義は、預言者イザヤが教(おしえ)を弟子の中に「閉ぢこめる」と言つた気概を以て行はれた。私は若い人々の胸を切り開いて、その中に聖言を押しこんで、私亡き後において私の志を受けつがせようと期待したのであつた」。
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矢内原忠雄が筆禍により東京帝国大学を辞職したのは1937年(昭和12)ですから、そういう時代背景を考えると秘密結社並みの厳しい運営が必要だったのも理解できない訳ではありませんが、「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」みたいな統制の仕方は、正直、ちょっと気味が悪いですね。
矢内原は若い頃はそれなりにユーモアを解する人だったそうで、長男の伊作が生まれたときには、伊作を抱いて「おはつにおめにかかります。不肖ながら私があなたの父親です。どうかよろしく」と挨拶して周囲の人を笑わせるようなこともあったそうです。(p37)
しかし、

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 矢内原は、満洲事変以後の状況に危機感を抱くなかで、みずからの使命を強く意識するようになっている。同時に、次第に矢内原の性格として、その厳格さが目立つようになる。それ以前の矢内原は、生真面目ではあるが、おだやかでユーモラスな人物であった。しかしこのころから、矢内原は信仰上の弟子や家族に対して厳格な態度で接するようになり、家庭の食卓でも私語を許さなくなる。
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そうですね。(p109)
林健太郎だったか、『矢内原忠雄全集』の月報で、戦後、東大教養学部長時代の矢内原が些細なことでブルブル手を震わせながら激怒する姿を描いていて、正直、私などはそれを読んで一種の狂人ではないかと思ったりもしました。
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黒木為楨と黒木三次

2017-06-25 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月25日(日)09時57分32秒

>筆綾丸さん
>昨今の岩波新書には抵抗がありますが、

私も岩波の『科学』が「幸福の科学」並みのオカルト雑誌と化して以降、一円たりとも岩波の利益に貢献しないように心掛けているのですが、『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』は、矢内原忠雄について自分が見落としていた側面があったかな、と思ってついつい購入してしまいました。
岩波も社会不安を煽ってセコく儲けていますが、火事場泥棒的な出版物を見て、泉下の岩波茂雄が泣いているのではないかと思います。

『科学』2017年7月号「特集 被曝影響と甲状腺がん」

>柏会の黒木三次が日比谷大神宮で神前結婚式を挙げて内村鑑三の逆鱗に触れた

ウィキペディアを見たら、黒木伯爵家の御曹司・黒木三次の結婚相手は松方公爵家の令嬢なんですね。
内村鑑三の逆鱗は大変だったでしょうが、それに配慮して結婚式を中止したら父親の猛将・黒木為楨が激怒したはずで、日露戦争の英雄に怒られるよりは内村鑑三の逆鱗を我慢する方がマシだったでしょうね。
黒木為楨の長男が三次のような内省的人物であることはちょっと不思議な感じもしますが、年齢は40歳離れていますね。

黒木為楨(1844-1923)
黒木三次(1884-1944)

『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』には、矢内原の神戸中学校時代のエピソードとして、「忠雄は、修身科の教師・島地雷夢の授業に魅了されている。雷夢は浄土真宗本願寺派の僧侶・島地黙雷の息子であったが、クリスチャンとして知られていた」(p8)とありますが、黒木為楨と三次の父子関係は、西本願寺の猛将ともいうべき島地黙雷とその三男・島地雷夢(1879-1914)の宗教対立を連想させます。
こちらも年齢差が41歳と、かなり離れていますね。

島地黙雷(1838-1911)
掲示板「日本人の宗教と宗教心」内、「地黙雷上人と子息の雷夢の往復書簡(現代語訳)」

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

マンガ「ゴルゴ13×外務省」 2017/06/23(金) 13:00:35
小太郎さん
昨今の岩波新書には抵抗がありますが、タレ目の神童に倣い、「なるべく」読むようにします。

http://www.anzen.mofa.go.jp/anzen_info/golgo13xgaimusho.html
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【あらすじ】
この数年,テロが中東や北アフリカのみならず,欧米やアジアに拡散し,今や在外邦人もテロの標的になっている。 このような状況下,外務大臣は在外邦人の安全対策のためにデューク東郷(ゴルゴ13)に協力を要請。 ゴルゴは大臣の命を受け,世界各国の在外邦人に対して,「最低限必要な安全対策」を指南するための任務を開始した・・・。
※このマニュアルの劇画部分はフィクションであり,実在する人物,地名,団体とは一切関係ありません。
※一話ごとに、能化領事局長が5分間の動画で解説します。安全対策講座としても利用してください。
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北朝鮮のミサイル発射が続き、緊張が高まった頃(現在も同じですが)、中国東北地方の在留邦人から次のような話を聞きました。瀋陽総領事館から、デューク東郷に邦人保護をお願いしました、という正式メールが届いたので、たちの悪いジョークだと思いました、と。(吉田茂は戦前の奉天総領事でした)
魂消たことに、ホームページによれば、外務省は本気なんですね。戦前の奉天総領事の孫でゴルゴ13愛好家の某副総理肝煎りの広報なのかどうか、ほんとにおバカな連中ですね。日本は大丈夫なんだろうか。思想や善悪を問わず、金銭的な折り合いがつけば殺人を請け負うスナイパーに対して、外務省は独裁者の暗殺を依頼したのだろうな、きっと。朗報を待ちたいと思います。デューク東郷の顔であの国に潜入するのは相当難しい、と思うとともに、あの独裁者も案外ゴルゴ13のファンかもしれない、という気もします。
こんなマニュアルがあろうがなかろうが、テロに遭遇して死ぬ確率は変わらない、たぶん。標題「ゴルゴ13×外務省」の「×」は、ふつう「vs.(versus=against)」を意味するはずで、外務省はゴルゴ13の知恵を借りてマニュアルを作成したのだから、「×」はないだろう、と思いますけどね。もしかすると、たんに小学生並の頭にすぎず、「×」は掛け算だから両者を掛け合わせれば鬼に金棒だ、とでも考えているのだろうか。
能化領事局長はなんとも貧相な顔で、こんな人では、かえって不安に駆られます。英語版はさすがに恥ずかしくて作れないだろうな(対象は日本人だから不要ですが)。
最初の注意書き(※)に、「なお、日本国外務省はちゃんと実在します、念のため。」という尚書きを加えたほうがいいですね。

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/269407.html
NHKはNHKで、おバカな解説までしていますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%A4%AA%E5%AD%90
サウジアラビアの「皇太子」と報道されていますが、国王は皇帝ではないから、「王太子」のほうがいいのかな、という気はしますね。どうでもいいことですが。

ゴルゴ13と金色のトビ 2017/06/23(金) 14:49:02
http://www.bbc.com/news/world-us-canada-40372403
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%B5%84%E5%8B%B2%E7%AB%A0
デューク東郷顔負けの新記録樹立。
従来の記録は L115A3 long range rifle 使用の2,475m(2009年)、今回は McMillan TAC-50 rifle 使用の 3,540mで、ターゲット到達までの所要時間は約10秒、つまり弾丸の平均スピードはほぼ音速と同じということですね。このスナイパーがカナダの特殊部隊所属のカナダ人だ、というのは意外です。
--------------
The source described the difficultly of the shot, which required the shooter to account for wind, ballistics, and even the Earth's curvature.
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風向き、弾道(放物線)、地球の曲率などを計算する必要があるので、コンピュータ制御でないとすれば(The sniper worked in tandem with an observer という表現から、二人一組の純粋な人力のようですが)、ほとんど神業の領域ですね。神に誇れる仕事かどうかは難しい問題ですが、金鵄勲章くらいには値しますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9D%E6%92%83%E6%B3%A2
物理学だけでなく、イラクの温湿度もわかりませんが、弾丸の初速が音速を超えているとすれば、ささやかながらも(蚊の鳴くような?)ソニックブームが発生した、ということになるのだろうか。

https://en.wikipedia.org/wiki/McMillan_Tac-50
性能は Muzzle velocity 805 m/s とあるから、初速は超音速ですね。当然ですが。

追記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE
『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』を、ちょっと立ち読みしました。
「国体論的ナショナリズム 神の国 vs.キリスト教ナショナリズム 神の国」という帯文は面白いのですが、柏会の黒木三次が日比谷大神宮で神前結婚式を挙げて内村鑑三の逆鱗に触れたのに、矢内原忠雄はなぜ金沢で神道式の神前結婚式を挙げたのか、思想的には結構重い問題のはずで、赤江達也氏にはもっと掘り下げてほしかったと思い、買うのはやめて酒代に充てました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/95%E3%83%B6%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%AB%96%E9%A1%8C
矢内原が結婚した1917年は、ルターが「95 Thesen」を発表してから、ちょうど400年目にあたる年なんですね。
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赤江達也『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』

2017-06-23 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月23日(金)08時30分32秒

岩波新書の新刊、赤江達也氏の『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』を購入して少し読んでみました。

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非戦のキリスト教知識人の最大のミッションとは何だったか? 内村鑑三門下の無教会キリスト教知識人、植民政策学者、東大総長、戦後啓蒙・戦後民主主義の象徴といった多面的な相貌と生涯を、預言者意識、「キリスト教ナショナリズム」、「キリスト教全体主義」、天皇観など、従来の矢内原像を刷新する新しい視点から描く。

https://www.iwanami.co.jp/book/b287526.html

矢内原忠雄は面長で鼻梁が高く、いかにも頭の良さそうな美男子ですが、若い頃はビリケンに似ていると言われていたそうですね。
1910(明治43)年、第一神戸中学校を卒業し、旧制一高へ入学した頃の話として、

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 この時期、忠雄は次第に世の中への関心をもちはじめている。この年の夏、話題の中心は韓国併合であった。八月に大日本帝国は大韓帝国を併合し、台湾につづいて朝鮮半島を領有するのである。ただ、忠雄やそれ以前から朝鮮に漠然とした関心を抱いていた。
 きっかけは忠雄の尖った頭のかたちが、韓国統監(併合後は朝鮮総督)の寺内正毅と似ていたことだった。忠雄はときに「寺内」や「ビリケン」といったあだ名で呼ばれた。ビリケンは尖った頭と吊り目をもつ子供の像で、「幸福の像」として世界中で流行していた。六年後に寺内正毅が総理大臣になると、「非立憲」と「ビリケン」をかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。
 川西の親友の三谷隆正が七月に神戸を訪れたときにも忠雄を「韓国統監」とからかい、増井艶子が「私は統監夫人になりましょうか」と冗談を重ねた。忠雄自身も、韓国統監になったら愉快だろう、といった無邪気な想像をしている。一七歳の矢内原忠雄にとって、韓国統監は、きわめて身近な立身出世のイメージだったのである。
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とあります。(p10)
寺内正毅の写真を見ると、確かに頭の形が変わっていてビリケンにそっくりですが、矢内原は頭の輪郭だけはビリケンっぽいものの、全体の印象はそれほどでもないですね。
ま、十代の頃の容貌は違っていたのかもしれませんが。

Billiken
https://en.wikipedia.org/wiki/Billiken
寺内正毅(1852-1919)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85
矢内原忠雄(1893-1961)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84

以前、少し検討した将基面貴巳氏の『言論抑圧-矢内原事件の構図』(中公新書、2014)は「マイクロヒストリー」を標榜する割には特に緻密な実証的分析はなく、いささか拍子抜けの本でしたが、『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』は丁寧な叙述が続き、安心して読めますね。
といっても、まだ第一章しか読んでいませんが。

『言論抑圧-矢内原事件の構図』への疑問(その1) ~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea5b2f468d424f577a3b571c9007a17d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f845d4872f82d1feb488e49909cd7502
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04fc98e86340bf2030df8d6300a98afb
『言論抑圧-矢内原事件の構図』は「必読の書だ」(by中島岳志)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc1c63d45ec51c92faa9073d4cf463aa
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今年の漠然とした目標

2015-01-01 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 1日(木)22時51分33秒

新年あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

一昨年の11月頃から久しぶりに日本史の勉強に復帰し、中世国家とは何だろうか、みたいなことを出発点に様々な本を読み、あちこち寄り道しながら少しずつ進んで来ましたが、昨年の夏、南原繁の『国家と宗教』に出会って、国家と宗教との関係を考えることが自分なりの長期的なテーマになりそうな予感がしました。
また、南原繁の周辺を追って行くうちに、もともと興味のあった知識人の類型論をより具体化する必要を感じ、大規模な危機的状況における知識人の行動について、戦前、特に昭和初期の経済恐慌から敗戦までの期間における知識人の行動パターンと2011年3月の原発事故以降の知識人の行動パターンを比較することによって、何か新しい知見を得られるのではないか、との見通しを立てました。
『言論抑圧』以降、原理日本社などに妙に入れ込んでいたので、何をやっているのか疑問に思った方も多いでしょうが、私としては戦前の知識人の行動パターンを見極めるために必要な作業との位置づけでした。
比較の対象である原発事故以降の知識人の行動パターンは、現在まだ進行中の事態に関わることですが、中期的な目標として少しずつ研究してみたいと思っています。
対象を知識人一般とすると範囲が広すぎて自分の能力を超えるので、とりあえずは従来から興味深く観察していた島薗進・保立道久等の「東京大学原発災害支援フォーラム(TGF)」関係者と歴史学研究会周辺を対象とするつもりです。
更に、知識人の類型論に関連するもうひとつの課題として、中里成章氏の言われるところの「スペシャリスト」と「インテレクチュアル」の問題を考えてみたいと思っています。
歴史学者の場合、「スペシャリスト」の育成はそれなりに順調に進んでいますが、日本には果たして「インテレクチュアル」と分類できる歴史学者がどれだけいるのか。
私がイメージする「インテレクチュアル」歴史学者とは、具体的にはウォーラーステインのような存在ですが、こうした「インテレクチュアル」歴史学者は、ある種の天才として突然変異的に誕生するのをボーッと待つしかないのか、それとも「インテレクチュアル」歴史学者を生み出すために国家・社会が行うべき基盤整備事業はあるのか、あるとすればどのようなものなのか。
ま、今年はこんなことを少しずつ考えてみようと思っています。

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大晦日のご挨拶

2014-12-31 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月31日(水)19時42分35秒

ここ暫く投稿を休んだ分、元旦早々にも連続投稿を行うつもりなので年末のご挨拶というのも若干変な気分ですが、今年の投稿はこれで最後とします。
筆綾丸さん、また、このようなマニアックな掲示板に訪問してくださった皆様、どうぞよいお年をお迎えください。

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「変節」「転向」「偽装」ではないけれど・・・

2014-12-30 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月30日(火)21時27分4秒

昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』は大変な労作であり、また名著であると思いますが、第三部第三章「三井甲之の戦後」だけはちょっと納得が行かないですね。
昆野氏は同章の最後を、

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 その後の三井は、戦後初期における現在の状況への反発を乗り越えて、積極的に適応していった。天皇の「人間宣言」、衆・参両院における教育勅語排除・失効決議などを通して、伝統的国体論は上から解体せしめられていった。このような動きに対応するかのように、彼の認識においては、天皇は神から人間へと変貌を遂げ、普遍宗教との関わりで捉えられるとともに、「デモクラシイ」の観念が偽装を超えて血肉化していった。
(中略)
 確かに占領下における一連の上からの改革によって、伝統的国体論の思想的主柱はことごとく倒され、その権威は失墜した。それでは三井における戦後の思想的帰結は、上からの改革に対する現状追認に過ぎないのであろうか。そうとも言い切れない。三井の悪戦苦闘に示されるように、個々の思想家のレベルにおける営為には、単なる現状追認ではなく、まがりなりにも戦後という時代の中で積極的に自己革新をなそうとした一面があるのではないか。少なくとも彼らの戦後における変説を「変節」「転向」「偽装」とのみ判断するだけでは、国体論の思想性を正確に把握することはいつまでたってもできないだろう。
-------

と締めくくられるのですが、少なくとも三井甲之の場合、変説は「変節」「転向」「偽装」ではなく、老化現象なのだと思います。
三井甲之は1883年生まれなので終戦時には満年齢で62歳であり、山梨県の大地主という地位と名誉と財産は農地解放で消失し、更に子供の死去といった個人的不幸が重なって体力・気力が失われ、要するにボケてしまったと考えるのが一番自然です。
何より昆野氏が紹介する文章の数々には戦前の三井甲之の文章に見られた異様な覇気が全く存在せず、弱々しい老人の繰り言が続くだけですね。

戦前の三井甲之の思想については片山杜秀氏の「写生・随順・拝誦─三井甲之の思想圏」(『日本主義的教養の時代─大学批判の古層』)がよく整理されていて、三井甲之に流れ込んで行った様々な思想の全体像が綺麗に把握できます。
ただ、三井甲之は主観的には独創的な深い思想を構築したつもりだったのでしょうが、客観的には各種思想をバラバラに寄せ集めただけとしか言いようがないですね。
例えばベルクソンの「生の哲学」にしても、ある種の神秘主義的な面は確かにありますが、人を他者への攻撃に駆り立てるような危険思想でも何でもありません。
ま、昆野伸幸氏には深く思想を分析する能力がありますが、もともと対象たる三井甲之に独自の深い思想がある訳ではなく、更に戦後はボケが重なっていますから、あまり熱心に分析しても仕方ないような感じがします。
ということで、ちょうど大田俊寛氏の『オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、2011)を読んだときと同じようなミもフタもない感想になってしまいました。

カルトの臭い
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a51d2ae1fbd0dd1bdfc233c25718bc9c

>筆綾丸さん
ここ数日、『現代思想二月臨時増刊号 総特集網野善彦』を読んでいたので、『日本史の森をゆく』は購入済みですが、まだ目を通していません。
感想は後ほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7626

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平泉澄は「皇国史観」の理論的リーダーか?

2014-12-24 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月24日(水)10時54分56秒

昆野伸幸氏『近代日本の国体論』の「序論 国体論研究の視角」には次の指摘があります。(p9以下)

---------
 ここで本書が視座とする皇国史観という用語、概念の孕む問題性について検討しておきたい。これまでこの用語、概念は、近代日本、特に昭和戦前・戦時期における国家と歴史認識との密接な関係を批判的に説明するものとして使用されてきた。そのことは当該期を扱った一般的な書物から専門的研究書まで共通している。そしてこの用語は、単に過去の出来事を説明する場合だけでなく、最近の歴史教科書問題をめぐる報道にも示されるように、現代における国家主義的な歴史認識を呼ぶ場合にも適用されている。様々なメディアを通して、皇国史観という用語には今日既に一定のイメージが付与され、その像がかなりの層において共有されているといってもいいだろう。
(中略)
 しかし、資料用語としての「皇国史観」に対する分析自体が十分なされていない以上、歴史的文脈を無視して「皇国史観」をそのまま分析概念として一般化するのは極めて危険である。既に指摘されているように、「皇国史観」は早くても昭和一七(一九四二)年六月頃から、大体は昭和一八(一九四三)年頃から文部省周辺の人々によって使われだしたものである。確かにこの前後の時期には他にも「国体史観」「皇道史観」「天壌無窮史観」「万世一系史観」「中今史観」等々の類似語が氾濫したが、「皇国史観」の場合、第三部第一章で確認するように、当時発表された六国史を継ぐ「正史」編集事業との関連で使われたものであり、他の語とは事情が異なっていた。その意味で「皇国史観」は、他の語以上に本来極めて時事的な、歴史的刻印を帯びた用語なのである。
 このような事情を踏まえ、本書では資料用語としての「皇国史観」と分析概念としての<皇国史観>を明確に区別する。文部官僚によって語られた「皇国史観」という用語は、戦後流布した<皇国史観>のイメージを遡及させ、単純に同一視するべきものではなく、まず「皇国史観」それ自体が考察されるべき対象なのである。かかる区別をしておくことこそが、<皇国史観>を具体的に理解する前提としてまず必要なことであろう。
--------

皇国史観といえば、まず第一に平泉澄の名前が浮かびますが、「文部当局において、極めて早くかつ頻繁に「皇国史観」の語を使用した点で公認イデオローグといえる人物」(p217)である小沼洋夫(1907-66)は東大文学部倫理学科で吉田静致に師事し、後に和辻哲郎にも学んだ人だそうで、平泉澄の弟子でもなんでもないですね。
小沼は平泉に対してはむしろ批判的であり、平泉もまた文部当局が進める「正史」編集事業には乗り気でなく、「皇国史観」という用語は全く使わなかったそうです。(p236)
また、文部省と一体的な存在と思われがちな「国民精神文化研究所」には、「皇国史観」という用語は用いながらも小沼洋夫らの文部省主流派とは一線を画するグループがあって、こちらも平泉には批判的だったそうですね。
ということで、「皇国史観」を資料用語に即して捉えると、平泉は「皇国史観」のリーダーではなくなってしまいますね。
ちなみに後者のグループの中心である吉田三郎(1908-45)は京大文学部史学科国史学専攻卒で、在学中は西田直二郎に師事し、「昭和十年前後は、主に『歴史学研究』や文部省管轄下の国民精神文化研究所の紀要である『国民精神文化』に論文を発表」(p226)していたそうです。
『歴史学研究』と『国民精神文化』に同時期に投稿しているというのはちょっとびっくりですね。
『歴史学研究』に載った論文のタイトルは「外国貿易と大名」(『歴史学研究』2巻3号、1934年7月)といったものだそうですが、気になるので後で内容を確認してみるつもりです。
ちなみに文部省主流派とは異質な吉田三郎を中心とするグループは結局「掃蕩」されて、吉田自身も昭和18年、「興南練成院練成官」としてマニラに赴任し、二年後にアメリカ軍のフィリピン侵攻で死去したそうです。

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嵐山町の安岡正篤記念館

2014-12-24 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月24日(水)09時57分41秒

>筆綾丸さん
>安岡正篤
実像と伝説が渾然一体となってしまっている点では頭山満とも似た存在ですね。
「安岡正篤記念館」サイトを見ると<元号「平成」の考案者>としていますが、これも本当にそうなのか。

http://kyogaku.or.jp/yasuokapage.html

十年以上前、埼玉県嵐山町の埼玉県立歴史資料館(現・埼玉県立嵐山史跡の博物館)を訪問したついでに、近くに安岡正篤ゆかりの施設があるというので寄ってみたことがありますが、何となく入りづらい雰囲気で、建物外観を見ただけで引き返してしまいました
今は「安岡正篤記念館」という名前に代わり、見学しやすそうなので、機会があれば行ってみようと思います。

>『日本史の森をゆく』
これは買わねばなりませんね。
タイトルでは伴瀬明美氏の「未婚の皇后がいた時代」に惹かれます。

http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/9a7b2f94ff47e8ae29be0f121179b881

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7623

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「日本の国士」もわが仲間

2014-12-23 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月23日(火)09時48分53秒

前回投稿で少し否定的な書き方をしてしまいましたが、昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』は優れた著作だと思います。
特に「平泉史学と人類学」「平泉澄の中世史研究」には、なるほどな、と思うことがたくさんありました。

15日の投稿、「宴のまえ」で書いた安岡正篤のエピソードはずいぶん前に『林達夫著作集』で読みましたが、平凡社ライブラリー『林達夫セレクション2』にも入っていますね。
少し引用してみます。(p454以下)

--------
「日本の国士」もわが仲間

 わたくしが一高一年のとき暮らした東寮一番に、独法の同じクラスに名をつらねている安岡正篤という男があった。同名異人ではない、あの安岡なのだ。わたくしのようなバタ臭いキザな洋学者流が、そのとき既に大人の風格のあった東洋精神の権化みたいなかかる青年と日夜顔をつき合わす因縁になるというところに、一高の寮生活の面白さがあったのだが、正直にいってその頃のわたくしのみならず、友人の誰もが、彼がのちにあのような「日本の国士」になるだろうとはゆめにも思っていなかった。
(中略)ところでその安岡には、彼の「国士」という重い地位が欲せずしてその昔の同窓との間にかもした面白い悲喜劇の幾コマかがある。これもクラスメートの辻山治平がまだ愛知県の事務官をしていた時分、ある日知事によばれてきょう東京からその高風を慕っている偉い大先生が見えるから名古屋を方々御案内しろという命令があった。いよいよ当の先生の御光来というのでキクキュージョとして彼が知事室へ這入ってゆくと、「何だ、安岡か」というわけであったが、そこは知事にバツを合わせなければならぬ下僚の悲しさ、うやうやしく敬礼して改まった言葉でアイサツしたが、さて自動車にのって二人だけになってから、「こいつめ、ひどい恥をかかせやがったな」と油をしぼったというはなし。予言者故郷に容れられずのたとえにもれず、天下の安岡の真価をいちばん知らないのが、(しかしある意味でいちばん知っているのが、)われわれその同窓であったかもしれないのである。
 それと逆な話になるほほえましき一コマ。東寮一番のときの同室者で、医学を修め、のちアフガニスタンとかヨーロッパを飄々乎として漂泊して歩いた風変わりな友、今川平次が、ある夕、パリの日本料理店に這入ってゆくと壁に急告のビラがはってある。みると、今夕、大使館で来仏中の安岡正篤先生の講演の集まりがあるから、ふるってみな参会せられよ、と書いてある。今川はとるものもとりあえずすぐにそこをとび出し、つかまえたタクシーにフルスピードを命じて大使館へとんで行くと、既に講演ははじまっていた。会場後方のドアを拝して中へ這入ると、かしこまった聴衆を前に紋付羽織に威儀を正した安岡が威風堂々あたりを払って真正面の講壇で熱弁をふるっている真最中であったが、思いがけぬ今川の出現を認めると、思わず手を差しのべて「ヨオ」と言ってしまったものである。それは国士安岡のポーズでは断然なくして、まだティーンエイジャーだったそのかみの一高生安岡のテンシンランマンたるしぐさそのものであった。「魂のふるさと」一高自治寮とは、さしもの安岡にさえ国士たる心構えを一瞬忘れさすほどそんなにもなつかしい、そしてまたおそるべき場所なのである。─そして安岡もいまではもうよく知っていることだろう─おびただしい各層の人々からあんなにも畏敬され崇拝されてきたが、いつに変わらず心やすらかに愛され親しまれたのはそのむかし一高時代を一緒に送った、安岡を国士扱いできないわれわれからだけだったかもしれないと。
-------

林達夫が「一高一年のとき」とは1916年(大正5)ですが、この二つのエピソードは何時頃の出来事なのか。
辻山治平の方は官歴をきちんと追えば明確に特定できるでしょうが、ウィキペディアの略歴から推定すると、1930年前後ですかね。

安岡正篤(1898-1983)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E7%AF%A4
辻山治平(1897-1974)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E5%B1%B1%E6%B2%BB%E5%B9%B3

今川平次のエピソードはいつのことなのか、ちょっと見当もつきませんが、リンク先サイトによると、今川がアフガニスタンに入ったのは1934年だそうですね。
公使館設置に伴い、医官として着任。

-------
(15)豊原幸夫、飯田(正英)、今川平次、浅葉夫妻
斉藤積平氏と一緒に1934年の公使館設置にともないアフガンに館員として着任。豊原書記官、飯田書記生、今川医官、浅葉はコックとして。
http://homepage3.nifty.com/afghan/topics/japanese2.html
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三井甲之の戦後

2014-12-21 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月21日(日)18時52分35秒

私が三井甲之の思想を真面目に検討しても仕方ないんじゃないかな、と思った理由のひとつは、三井甲之が戦後、「デモクラシイ」を肯定する立場になったことを知ったからです。
昆野伸幸氏の『近代日本の国体論』(ぺりかん社、2008)から少し引用してみます。(p275以下)

--------
第三章 三井甲之の戦後
 はじめに

 原理日本社の中心人物三井甲之(明治一六~昭和二八<一八八三~一九五三>)は、敗戦後、農地改革によって土地のほとんどを失い、公職・言論追放処分に付され、さらに脳梗塞で左半身不随となり、そのうえ戦地から引き揚げてきた次男時人を病気で失った。「タタカヒテヤブレシクニノウンメイヲミニゾオボユルタダチニソノママニ」と詠んだ通りに、失意の底にあった三井は、昭和天皇御製に救いを求めた。その姿は、国民宗教儀礼として明治天皇御製拝誦を説いた戦前のあり方を彷彿とさせる。
 しかし、戦後の三井は他方において、「天皇親政」を説いた戦前とは異なり、「デモクラシイ」を容認し、キリスト教・仏教・儒教などの有する普遍的価値を称揚した人物であった。原理日本社を立ち上げ、蓑田胸喜とともに、自由主義的知識人を次々と弾劾した狂信的日本主義者という今日一般的な三井像からすると、意外極まりない一面であろう。
 御製という日本独自の価値にすがりつく姿勢と、民主主義を認め、普遍的価値を求める志向─この一見相反する二つの要素は、戦後における三井の思想においてどのような関係があったのか。
 従来、先行研究において唯一戦後の三井を検討した米田利昭氏は、彼の「デモクラシイ」や「世界主義」に関する議論を「民主主義的偽装=看板ぬりかえ」とし、戦前と戦後における三井の天皇観、ナショナリズムの一貫性を強調した。実際、三井に親しく接した彼の弟子ともいえる人たちも、口を揃えて三井の思想が戦前・戦後を通じて連続していることを証言している。(後略)
--------

昆野伸幸氏は偽装転向ではないという立場から種々論じられていますが、昆野説が正しいのであれば三井甲之の思想はずいぶん華奢なものと言わざるを得ず、その全体像や一貫性を追求する努力は空しい感じがしますね。

『近代日本の国体論』
http://www.perikansha.co.jp/Search.cgi?mode=SHOW&code=1000001469
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ベルグソンorベルクソン

2014-12-21 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月21日(日)09時39分43秒

些細なことですが、ベルグソンとベルクソン、どちらが正しいのかな、と思っていたところ、『世界の名著53 ベルクソン』(中央公論社、1969)の月報に同巻責任編集者・澤瀉久敬氏と前田陽一氏の「ベルクソン哲学の性格」という対談が載っていて、そこに次のやりとりがありました。(p4)

-------
前田 Bergsonという表記のことなんですが、この本ではベルクソンと正しく改められていますね。フーシェの『音声学概論』には、スカンディナヴィア系の外来語は、g の次に無声子音がきた場合、g はクと発音するとして、Bergsonの例をあげているんです。

澤瀉 前からベルクソンの表記が気になっていたんですが、この機会に思い切って改めたんです。
-------

林達夫訳の岩波文庫の『笑い』も昭和13年の初版では「ベルグソン」ですが、増補改訂版では「ベルクソン」になっていました。

久しぶりに林達夫の文章をいくつか読んでみましたが、実に気持ちが良いですね。
林達夫とか、あるいは南原繁のような本当に頭脳が明晰な人の文章の場合、分からないところがあっても、それは自分が未熟だから分からないのだろうと思いますが、原理日本社あたりの人の文章は相当微妙ですね。
片山杜秀氏が「写生・随順・拝誦 三井甲之の思想圏」(『日本主義的教養の時代』)で明らかにされたように、原理日本社の思想的中心であった三井甲之には親鸞、ヴィルヘルム・ヴント、岩野泡鳴、正岡子規などの思想が流れ込んでおり、三井は三井なりに独自の思想を作り上げたのでしょうが、ま、所詮は二流の知識人であって、ちぐはぐな寄せ集め感は否めません。
原理日本社関係も簡単にまとめた上で、そろそろ打ち切りにしようと思います。

>筆綾丸さん
佐藤優氏も変な人生論みたいな本を書くようになってしまいましたね。
基本的にはもう終りの人のように感じています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7617
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7618
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「知識人は二つに分ける必要がある」(by中里成章氏)

2014-12-18 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月18日(木)15時06分27秒

中里成章氏の『パール判事─東京裁判批判と絶対平和主義』への書評、なかなか厳しいですね。

http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZAJ/ZAJ200808_005.pdf

「『パル判事』を上梓するまで」では中島岳志氏の名前すら登場せず、「若い研究者」「院生などに批判されている若い研究者」「『パール判事』を書いた大学の准教授」「『パール判事』という本を書いた人」扱いですから、学問の世界の恐ろしさを教えてくれます。
ま、中島氏のことはともかく、私は以下の記述に一番興味を惹かれました。

-------
(前略)状況は変わっているわけですから、新しい状況に沿って社会的責任論を組み立て、社会的責任を果す新しいスタイルを編み出すべきでしょう。六〇を過ぎた人間を連れてきて話をさせても仕方がないわけです。歴史は繰り返しませんから、昔話は役に立たない。
 しかし、ご要望ですので考えてみますと、私は、知識人は二つに分ける必要があるような気がします。レイモンド・ウィリアムズという人が書いていることなのですが、イギリスの大学では研究者は二つに分けて考えられてるそうです。まず、スペシャリストあるいはプロフェッショナルと呼ばれるグループがある。皆さんや私みたいな人間ですね。大学の一般教員で地道に個別研究をやっている人間、あるいは研究所で毎日資料を見てレポートを書いている人たちです。それに対してインテレクチュアルと呼ばれる人たちがいる。専門を越えて一般的なことについても発言する人々です。同じようなことをフーコーも言っていて、彼は、スペシフィック・インテレクチュアルとユニヴァーサル・インテレクチュアルの二つに分かれるとしています。
 言い換えれば、知識人一般の議論というのはもはや成立しない。フーコーは、スペシフィック・インテレクチュアルの人々が様々な矛盾を抱えて苦しんでいると指摘しています。現代社会は情報化が進み、第三次産業がどんどん肥大化してゆく。スペシフィックなことをやる知識人の人口もどんどん増えてゆく。そういう社会変化が、新しい問題を生んでいるという認識があるわけです。社会的責任論に引きつけてこれを言い換えれば、戦後しばらくの間まで、インテレクチュアル、あるいはユニヴァーサル・インテレクチュアルに当たる人たちが、知識人を代表して、社会的責任の重要なところを引き受けていたわけですが、世の中は変わり、知識人は分解してしまいました。それにつれて、情報化に翻弄され悩んでいる、スペシャリスト、プロフェッショナル、あるいはスペシフィック・インテレクチュアルと呼ばれる人たちの、社会的責任の問題が浮上してきているようです。
------

レイモンド・ウィリアムズは1988年に亡くなっているので、最新の議論という訳でもなさそうであり、また、中里氏の書き方もスペシャリストとインテレクチュアルの分類はレイモンド・ウィリアムズの独自の見解ではなく、一般的に言われていることみたいですが、ちょっと気になります。
読んでみたいのですが、何を見ればよいのか。

レイモンド・ウィリアムズ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%BA
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中里成章氏「『パル判事』を上梓するまで」

2014-12-18 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
>筆綾丸さん
ベルグソンという補助線を引いたとしても、江戸時代から続く文人の家系に生まれ、一高・東大仏文を出て慶応義塾仏文科教授だった人が原理日本社のメンバーというのは些か奇妙な感じがします。
広瀬哲士は1883年生まれで三井甲之と同年ですから、短歌に親しんでいたことも考慮すると、一高・東大時代に既に三井と交流があったと考えるのが自然なんでしょうね。
鈴木信太郎(1895-1970)のウィキペディアの記事に「教育者として、7歳上の辰野隆、2歳上で東京高師附属中の先輩でもある山田珠樹と力を合わせ、29年間の卒業生が22人という状態だった東大仏文科を活性化し」とありますが、広瀬は辰野隆(1888-1964)よりも更に五歳上で、本当に仏文科草創期の人なんですね。
興味は惹かれるのですが、暫くは手をつける余裕がありません。

鈴木信太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E4%BF%A1%E5%A4%AA%E9%83%8E_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85)
辰野隆
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%9A%86

なお、16日の投稿で「漫画家の小林よしのり氏に論争で負ける程度の知識人である中島氏」と書きましたが、『パル判事』(岩波新書、2011)の著者・中里成章氏も「『パル判事』を上梓するまで」(アジ研ワールドトレンドNo193、2011)で次のように述べておられるので、まあ、特に言い過ぎでもないように思います。

-------
 ご存知かと思いますが、この本は漫画家の小林よしのりという人が取り上げ、著者との間に派手なやりあいがありました。私は、これは共存共栄だなと思っていました。ただ、小林さんの本を読んでみて、これはばかにできないなとも思いました。どう考えてみても、『パール判事』を書いた大学の准教授よりも、「私は漫画家です」と言っている小林さんのほうが冴えた議論をしているのです。それはなぜかということになりますが、強力なブレーンがついているという話を伝え聞いたことがあります。いずれにせよ、いわゆる保守論壇というのはなかなか手強いものだと、そのとき理解するようになりました。
http://d-arch.ide.go.jp/idedp/ZWT/ZWT201110_013.pdf

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7614
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広瀬哲士

2014-12-16 | 将基面貴巳『言論抑圧-矢内原事件の構図』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年12月16日(火)16時07分39秒

蓑田胸喜を慶應に招いた広瀬哲士は人名辞典の類を見てもあまり出ていないのですが、「レファレンス協同データベース」に「広瀬哲士(ひろせてつし)について知りたい」という質問があって、『岡山県歴史人物事典』(山陽新聞社、1994)に基づく回答を見ることが出来ますね。

----------
勝南郡瓜生原村(現津山市瓜生原)出身の仏文学者。1883(明治16)年9月9日~1952(昭和27)年7月26日。津山藩絵師広瀬台山の家系に生まれる。津山中学校の第1回生で、第一高等学校を経て東京帝国大学文科大学仏文科を卒業する。慶応義塾大学仏文科の教授となり、永井荷風らと「三田文学」を創刊。1912(大正元)年、フランスの哲学者ベルグソンの研究評論『生の進化』で文壇に登場した。1928(昭和3)年には、雑誌『仏蘭西文学其他』を創刊し、フランス近代・現代文学を紹介した。若いときから短歌にも親しみ、与謝野鉄幹、晶子とも親交があった。『イタリア全史』(相模書房 1938年)、『概観フランス史』(白水社 1938年)、『笑の観察』(三省堂 1930年)、『ルソー人生哲学』(東京堂 1943年)などの評論のほか、『耶蘇』(ルナン著 東京堂出版 1924年)などの翻訳がある。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000041509

この経歴を眺めてみても原理日本社との接点を見出すのは困難だと思いますが、予備知識があれば「フランスの哲学者ベルグソンの研究評論『生の進化』で文壇に登場」に注目することになりますね。
そして、「若いときから短歌にも親しみ、与謝野鉄幹、晶子とも親交があった」で、なるほどおそらくここで三井甲之との接点があるのか、と想像できます。

ついで国会図書館で広瀬哲士の名前で検索すると49件ヒットしますが、ブールジュ『真昼の悪魔』、テエヌ『芸術哲学』、ルナン『耶蘇』、ルソー『新生の書』、『トルストイ恋愛聖書』等の翻訳が大半で、この種の本の翻訳と原理日本社に関係があるとは思えず、結局のところやはりベルグソンの翻訳だけが唯一の接点、という感じですね。
ベルグソンの『笑い』は岩波文庫の林達夫訳しか知りませんでしたが、広瀬哲士も大正3年(1914)に『笑の研究』として慶応義塾出版局から出していますね。
林達夫訳は昭和13年(1938)なので、広瀬哲士の方が24年も先行しています。
まあ、原理日本社くらい「笑い」と縁がなさそうな集団は考えにくいのですが、広瀬哲士にとっては『笑いの研究』と原理日本社の活動は密接な関係を持っていたのでしょうね。

https://ndlopac.ndl.go.jp/F/X5DTAI32K1DI6D1BV1JGAF917JVLPDPP27NKI2XG76P88J4U5P-02891?func=find-b&request=%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%93%B2%E5%A3%AB&find_code=WRD&adjacent=N&filter_code_4=WSL&filter_request_4=&x=58&y=10

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