学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

大川小学校事件の判決全文

2016-12-07 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年12月 7日(水)21時35分42秒

掲示板投稿を保管しているブログ「学問空間」で、今日は妙に大川小学校関係の記事を閲覧する人が多いなあと思いましたが、「裁判所」サイトの「最近の裁判例─下級裁判例」を見たら仙台地裁10月26日判決の判決文が載っていました。
「裁判所」サイトは暫く覗いていなかったのですが、あるいは今日公開されて、それを見た人が検索をかけてきたのでしょうか。
ざっと眺めてみたところ、事実認定に関して私が新聞報道から何となく想像していたのとは違う箇所がかなりありました。
今日は所用で少し疲れたのでもう寝ますが、明日きちんと読んで、少し感想を書くつもりです。


>筆綾丸さん
幕府の法制上の制約云々はあくまで原則であって、例外も多かったようですね。
例えば天領の白川郷に隣接する加賀藩領の五箇荘ではけっこう分家を認めていたようですが、地理的条件は白川郷と同じようなものなので貧農が極めて多く、明治維新後には国の奨励もあって大量に北海道へ移住したそうです。
白川郷からは北海道への移住者は比較的少なかったようですね。

>タウト周辺の日本の文化人が、タウトに有る事無い事を適当に吹き込んだ、
確かにそんな感じもしますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Yo soy Fidel 2016/12/06(火) 13:20:53
小太郎さん
「幕府の法制上、分家に当たって高十石地面一町より少なく分与するのは許されなかった、即ち持高二十石以上を所有しなければ分家ができなかった、という制約があった」
なるほど、そういうことだったのですね。

久しぶりに、『日本美の再発見』を拾い読みしたのですが、タウト周辺の日本の文化人が、タウトに有る事無い事を適当に吹き込んだ、という感じもしますね。一亡命者にすぎない建築家の言説を有り難がるのは、ル・コルビュジエ設計の美術館を世界文化遺産にしてもらって嬉しがるのと同じ精神構造で、こういう浅ましい文化風土は明治以降に発生したものなんでしょうね。

http://www.eltelegrafo.com.ec/noticias/mundo/9/yo-soy-fidel-el-viaje-final-del-lider-de-la-revolucion-cubana
左の頬に赤く「Yo soy Fidel」(ジョ・ソイ・フィデル、私はフィデル)と描いた女性が涙を流す姿を外国のテレビ局が放映していましたが、文脈は全然違うものの、これはキューバ版「Je suis Charlie」で、さらに、fidel は信徒のことだから、私はカストロの崇拝者だ、という意味が重ね合わせてあるのでしょうね。
あまりに旧式なのでわからなかったのですが、カストロの遺灰を乗せた軍用車は旧ソ連製でしょうか。

追記
トッドの分類では、キューバ社会は「共同体家族(famille communautaire)」に相当するのですよね。

蛇足
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586787/index.html
NHKスペシャル『戦艦武蔵の最期』は期待外れでした。
アメリカ軍に沈められた武蔵の残骸を発見したのもアメリカ人とは、なんとも情けない話で、絶句するしかありません。
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ぎっくり腰のことなど。

2016-11-15 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月15日(火)09時36分28秒

冬を迎える前の時期、ぎっくり腰になるのが年中行事みたいになってしまって、今年も先週金曜の夜に、あちゃー、という状態になり、土日はひたすら寝て、昨日もロボットみたいな動きで必要最小限の移動をしつつ、なるべく刺激の少ない生活を心がけていました。
今日は雑用をこなして、掲示板は明日から再開します。
大川小学校のことは「裁判所」サイトの「最近の裁判例」で判決全文が出れば少し詳しくやるつもりですが、そうでなければ「仮想最低企業と七十七銀行の比較」・「常磐坂元自動車学校との比較(その2)」他数回で一休みします。
一審は原告勝訴でしたが、同じ裁判長裁判官が担当した常磐坂元自動車学校判決の論理には問題点が多く、この論理を承継した大川小学校判決も盤石どころか、二審でひっくり返る可能性もありそう、というのが現時点での私の一応の結論です。
大川小学校問題の後、すっかり気の抜けたビール状態になってしまった岸信介の「黙れ、兵隊!」を簡単に纏めてから、これも長く休んでいた「グローバル神道の夢物語」を再開する予定です。
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大川小裁判、遺族側の控訴について

2016-11-10 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月10日(木)11時59分22秒

石巻市・宮城県側だけでなく、遺族側も仙台高裁に控訴するとの報道がなされましたが、「懲罰的損害賠償」など認められるはずもなく、遺族側弁護士はちょっとおかしいですね。

-------
大川小訴訟
遺族側も仙台高裁に控訴 事後対応など主張へ
毎日新聞2016年11月9日

 東日本大震災の津波で児童・教職員84人が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校を巡る訴訟で、市と県に14億円余りの賠償を命じた1審・仙台地裁判決について、児童23人の遺族は9日、仙台高裁に控訴した。1審で認められなかった学校の防災体制の不備や事後対応の問題を改めて主張する。市と県は7日に控訴している。
 遺族側は、被災後の保護者説明会で亀山紘市長が「自然災害における宿命」と発言したことなども踏まえ、繰り返し精神的苦痛を受けたとして「懲罰的慰謝料」を含む児童1人につき約1億円の総額約23億円の損害賠償を請求。だが1審判決は事後対応の違法性を認めず、「損害賠償制度は加害者に対する制裁目的ではない」として子どもを失ったことに伴う慰謝料や逸失利益、葬儀費用など児童1人当たり約5300万~6000万円とした。
 控訴後、仙台市内で記者会見した原告団長の今野浩行さん(54)は「我々は亡くなった教員を責めていない。行政のトップと教育委員会、当時の校長の責任を高裁で追及したい」と話した。
【百武信幸】

石巻市側の事後対応が遺族から見て不満だったとしても、そんなことは何故被害が生じたかの原因究明には何の関係もありません。
あれだけの大震災の後ですから、石巻市教育委員会が大川小対応だけに人員を集中できなかったのは当たり前で、「保護者説明会」がある種の糾弾会に変質してしまったことも石巻市側だけが悪い訳ではないですね。
そもそも本当に原因の解明をしたいのだったら、何よりも優先すべきなのは生存した唯一の教員からきちんと証言を得ることでした。
教育委員会との間で会合を何度重ねたところで、教育委員会側だって当該教員に強制的に証言させる手段は持たないのですから、不毛なやりとりが続くだけです。
後に政治家が介入して設けられた第三者委員会(「 大川小学校事故検証委員会」)でも、委員や調査委員に学識経験者や弁護士がいたとはいえ、所詮、特別な調査権限を持っている訳ではありませんから、最終報告書もずいぶん中途半端なもので、特に問題の教員の聞き取り調査は病気を理由に拒否され、何の資料も得られませんでした。
事故検証委員会の最終報告書が出たのは2014年2月で、大震災から三年経過しており、その後、国家賠償法の時効三年(国賠4条、民法724条)の直前に訴訟が提起され、これでやっと刑罰の威嚇を以て証言を強制することが可能となった訳ですが、結局、一審では病気を理由に証言が得られなかったようですね。
本当に重い病気なら仕方ありませんが、七十七銀行女川支店のケースで唯ひとり生存した「L行員」の証言があったために震災後の支店の状況が詳細に再現できたことと比べると、当該教員が協力的だった時期に専門家による証人尋問が行なわれなかったことが残念です。
石巻市教育委員会側の人だって家族や友人・知人に津波の犠牲者が全く存在しないような人はいないのですから、一部遺族の行動が被災の原因究明を超えて「巨大な社会悪の糾弾」みたいな変な方向に進んでしまったのも残念ですね。
私がもしも遺族だったら「保護者説明会」を数回重ねた段階で原因究明には訴訟しかないなと見極めて、後は淡々と証拠集めの努力をするだけだったと思いますが、そういう方向に助言する弁護士はいなかったんですかね。

石巻市公式サイト内
「大川小学校事故検証委員会について」

大川小学校の問題〔2012.7.11〕
大川小学校の事故検証委員会〔2013.12.23〕
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南三陸町・戸倉小学校と「七十七銀行女川支店」の比較

2016-11-09 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 9日(水)13時18分30秒

ここでちょっと視点を変えて、南三陸町・戸倉小学校のケースと七十七銀行女川支店のケースを比較してみたいと思います。
戸倉小学校は海のすぐ近くに位置し、校舎は鉄筋コンクリート三階建の頑丈な建物でしたが、約20mの津波に襲われて屋上の給水塔まで水没し、仮に地震発生当時校舎内にいた児童91人が屋上に避難していたら全員が死亡したはずでした。
隣接する戸倉保育所にも21人の園児がいたのですが、こちらも津波の場合、戸倉小学校屋上への避難をマニュアル化していて、仮に園児も含めて屋上へ避難していたら合計112人の園児・児童が死亡する事態となったはずです。
しかし、実際には校長・保育所長の判断で海と反対側の「宇津野高台」に避難し、全員が無事でした。
戸倉小学校の校舎は既に解体されて更地になっていますが、私は2012年3月に訪問し、屋上にも上ってみました。
また、翌4月に「宇津野高台」も訪問して、戸倉小学校と「宇津野高台」の位置関係を確認してみたのですが、これは七十七銀行女川支店と「堀切山」の位置関係に非常に似ていますね。
近い過去に津波の記憶のある土地に所在し、建物屋上と高台の二つの避難先があり、高台への距離と移動時間はほぼ同じ、襲来した津波の高さもほぼ同じです。
そして、戸倉小学校・戸倉保育所のケースでは管理者が直ちに高台へ避難することを選択して全員が生存、七十七銀行女川支店の場合は1人を除き死亡という対照的な結果となったのですが、この差異をもたらしたものは一体なんだったのか。
法的に「過失」と言えるかどうかは別として、結果的に銀行支店長の判断には何らかのミスがあった訳で、それはいったい何故生じたのか。
これを少し考えてみたいと思います。

戸倉小学校については『河北新報』2011年05月11日付の「とっさの判断高台へ 在校児童ら犠牲逃れる 南三陸」という記事が詳しく、リンク先ページに保存しておきました。
http://chingokokka.sblo.jp/article/54486582.html

2012年3月16日時点での戸倉小学校屋上の様子はこちらです。
http://chingokokka.sblo.jp/article/54486972.html

同日、屋上から「宇津野高台」を撮影したのが次の写真で、小さく見える鳥居あたりから下の杉林は伐採されていますが、これは津波をかぶって枯れてしまったからで、鳥居の上、五十鈴神社が鎮座するごく僅かな範囲だけが津波被害を免れました。
http://chingokokka.sakura.ne.jp/sblo_files/chingokokka/image/2012_0316_144345-IMG_9687.JPG

そして、2012年4月15日、「宇津野高台」から海側を見た様子がこちらです。
http://chingokokka.sblo.jp/article/56900217.html

戸倉小学校の屋上にあった給水塔は相当高いものですが、この全てが水没したそうですね。
http://chingokokka.sakura.ne.jp/sblo_files/chingokokka/image/2012_0415_144842-IMG_5629.JPG
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「七十七銀行女川支店」との比較(その4)

2016-11-09 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 9日(水)10時52分2秒

「日和幼稚園」事件の場合、園長はテレビ・ラジオによる情報収集をせず、サイレンを伴う大音量の防災行政無線にも注意を払わず、わざわざ高台の幼稚園から沿岸部に送迎バスを行かせた訳ですが、七十七銀行女川支店の場合、支店長は自ら、また部下に指示をして情報収集を継続していますね。
そして、その収集した情報に基づき、「堀切山」に向かうと避難途中で被災する恐れがあるから支店屋上の方が良いと判断した訳です。
判決では時系列に沿って気象庁その他の公的機関から提供された情報と、当該情報のマスコミによる伝達の経緯を詳細に辿り、後から判明した正確な情報ではなく、G支店長が当時、具体的に入手した情報に基づいてG支店長の判断の適否を問い、結論としてその判断は「合理的」であって過失はない、としました。
後から振り返れば、最重要情報である気象庁の地震規模判定と津波予測はいずれも相当に過小なものでした。
地震規模については、気象庁は地震発生直後の午後2時49分にマグニチュード7.9と発表し、午後4時にM8.4へ、午後5時30分にM8.8へと修正、更に3月13日午後0時55分になってM9.0と都合三回も修正を繰り返しています。
G支店長が入手した情報は一番最初のM7.9だけで、事前に想定されていた宮城県沖地震(連動型)のM8.0より小さい値です。
また、津波予測については、正確を期すために「二 本件において裁判所が認定した事実経過」の「(5)気象庁の大津波警報等の発表状況」から引用すると、

-----
(5) 気象庁の大津波警報等の発表状況
 気象庁は,次のとおり,大津波警報等を発表した。
ア 午後2時49分,「岩手県,宮城県,福島県」に大津波警報を発令し,「これらの沿岸では,直ちに安全な場所へ避難してください。岩手県,宮城県,福島県では直ちに津波が来襲すると予想されます。高いところで3m程度以上の津波が予想されますので,厳重に警戒してください。」,「きょう11日14時46分頃地震がありました。震源地は,三陸沖(北緯38.0度,東経142.9度,牡鹿半島の東南東130㎞付近)で,震源の深さは約10㎞,地震の規模(マグニチュード)は7.9と推定されます。」などと発表した(乙6の1)。
イ 午後2時50分,宮城県への津波到達予想時刻が午後3時であって,「予想される津波の高さ6m」(なお,場所によっては津波の高さが「予想される津波の高さ」より高くなる可能性があります。)などと発表した(乙6の2)。また,石巻市鮎川への津波到達予想時刻は午後3時10分であると発表した(乙6の3)。
ウ 午後3時01分,石巻市鮎川において午後2時52分(判決注 上記の津波到達予想時刻より8分早い時間)に高さ0.5mの津波を観測したとの津波情報を発表した(乙6の4)。
エ 午後3時14分,宮城県に津波到達が確認され,予想される津波の高さを10m以上とする大津波情報を発表した(乙6の5)。
---------

となっています。
(「裁判所」サイトのPDFではp28以下)
さて、裁判所は、最初から「堀切山」を目指すべきだったとの原告側主張に対して、次のように判断します。
ここも長いですが、正確を期すためにそのまま引用します。
(「裁判所」サイトのPDFではp44以下)

-------
(ア) 本件屋上は「津波避難ビル」としての適格性を有しており,高台まで避難する時間的余裕がない場合等には,本件屋上に緊急避難することについて合理性があったものといえる(前記(2)エ参照)。
(イ) そうであるところ,本件地震直後においては,前記2(5)認定のとおり,気象庁が午後2時50分,宮城県沿岸部への津波到達予想時刻は午後3時,予想される津波の高さは6mと発表していたから,午後2時55分頃に被告女川支店に戻ったG支店長としては,津波到達予想時刻である午後3時までの間に6m以上の高さのある場所に緊急に避難する必要があったといえる。特に,前記2(7)認定のとおり,G支店長は,外出先から被告女川支店への帰路において,大津波警報が発令されたことを認識していた上,海岸近くにおいて実際に潮が引いていることを現認し,自宅に帰るK(派遣スタッフ)にもその旨伝えていたから,迅速に高い避難場所に移動する必要性を自覚していたものと推認される。
 そして,前記1(2)認定のとおり,津波は陸上においてもオリンピックの短距離選手並みの速さで迫ってくるから,津波を見てから走って避難しても逃げ切れるものではなく,かつ,50㎝程度の高さの津波であっても人は流されてしまい,一旦流されると建物や漂流物に衝突して脳挫傷や外傷性ショックにより死亡する危険性が高いとされているから,津波が押し寄せてくると予想された午後3時までの間に高い場所に避難を完了させておくことが必要であり,余震が頻発する状況において,時間的にも緊迫した状態にあったものといえる。
(ウ) 他方,前記2(5)認定のとおり,気象庁が予想される津波の高さを6mから10m以上へと変更したのは午後3時14分のことであったから,避難を完了すべき午後3時までの時点においては,たとえリアス式海岸の湾奥部という特殊な立地に位置した海岸近くの場所において最大震度6弱の揺れを実際に体感していたとしても,本件屋上を超えるような約20m近くの巨大津波が押し寄せてくることまでをもG支店長において予見することは客観的にも困難であったといえる。
(エ) そうすると,当時の時間的にも緊迫した状況の下で,2階屋上まで約10mの高さを有し,3階も含めると約13.35mの高さを有する本件屋上へ避難するとのG支店長の判断が不適切であったとはいえず,G支店長において最初から堀切山へ避難するよう指示をすべき義務があったとはいえない。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/990/083990_hanrei.pdf

非常に論理的であって、多くの人はこの裁判所の判断に納得すると思います。
ただ、私はそうでもありません。
その理由は後の投稿で書きます。
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「七十七銀行女川支店」との比較(その3)

2016-11-08 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 8日(火)11時53分30秒

続きです。

------
キ G支店長は,L行員らに対して,「海の様子を見ていること」及び「ラジオを聴いていること」の2点を指示し,L行員は,屋上の手すりから海を見張っていた(乙28参照)。
また,P行員が被告女川支店に備付けのラジオを持っていたので,L行員は,その周波数を1260kHz(東北放送)に合わせ,ラジオを聞いた。その際,ラジオからは,「鮎川に3時10分に到達」,「予想される津波の高さは6m」との放送がされていた。
ク 午後3時7分頃,G支店長の指示により,Q支店長代理が,当時仙台市にいた次長(休暇中)に対し,「屋上に避難しています。」とのメールを送信した。
G支店長は,緊急連絡用の衛星電話を利用して被告本部と連絡を試みるなどし,被告女川支店の各行員らは,安否の報告や確認のために家族等に対してメールや電話をしたり,ワンセグ放送を利用してニュースを見るなどして地震に関する情報収集を行っていた。
L行員は,G支店長から,実家のある釜石市に津波が到達して平屋建ての家屋が押し流されている映像を携帯電話のワンセグ放送により見せられて怖くなり,亡Hとの間で,時間があるから病院の方へ逃げる余裕はあると話したが,被告女川支店の1階部分が浸水する程度であって,屋上まで津波が超えてくるとは予想していなかったことから,そのまま本件屋上にいた(甲4,5,L証言10頁以下)。
ケ 午後3時12分頃には,R行員が妻に対し,被告女川支店内から電話をかけて,「今から屋上へ避難する。」と告げたところ,R行員の妻から,「山に逃げて。」と言われたが,「自分は大丈夫だから,君こそ早く逃げて。」と答えた。
コ 午後3時15分頃,屋上避難後も防寒コートを取りに行くため交代で1階や2階に戻った行員らも再び全員が屋上に集まっていた。
サ 午後3時19分頃,亡Iは,その妹に対し,「地震大変でしたね。無事です。」とのメールを送信した(甲38,弁論の全趣旨)。
シ 午後3時21分頃,亡Jは,夫である原告Dに対し,「大丈夫?帰りたい。」とのメールを送信した(甲39)。
午後3時25分頃,亡Jは,原告Dに対し,「津波凄い」とのメールを送信したが,同原告には届かなかった(甲40)。
ス 最初はヒタヒタという程度であった津波が5分ほどで水嵩が増して本件屋上の半分くらいまでの高さになったことから,本件屋上に残っていた行員ら13名は,順次2階屋上にある塔屋(3階)に上った。最後にG支店長が塔屋に上り終えたときには,水嵩が2階屋上にまで達していた。
セ その後まもなく,本件屋上の塔屋にまで水嵩が達し,被告女川支店に残っていた行員ら13名全員が海抜20m程度の大津波に流された。
L行員は助かったものの,残りの被災行員ら12名(本件被災行員ら3名を含む。)は,死亡又は行方不明のままとなった。
------

本当に僅か数分の間で水嵩が急激に増した訳ですね。
なお、「屋上にある塔屋(3階)」に関しては、「二 本件において裁判所が認定した事実経過」の「(2) 被告による被告女川支店の設置等」に、

------
 被告女川支店のある本件建物は,昭和48年12月3日新築の鉄筋コンクリート造陸屋根3階建て(1階及び2階各431.15㎡,3階33.17㎡)であり(乙38),2階屋上床面までの高さが約10m,2階屋上外壁までの高さが10.95m,2階屋上の一部にある3階電気室屋上(広さ33.17㎡。2階から上る梯子が固定されている〔乙18の5〕)までの高さが13.35m,同屋上外壁最上部までの高さが13.95mであった(乙18の1~6)。
-------

とあります。
(「裁判所」サイトのPDFではp24。)

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/990/083990_hanrei.pdf
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「七十七銀行女川支店」との比較(その2)

2016-11-08 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 8日(火)11時52分40秒

他の津波被災地と比較した場合、女川の特殊性は複数のRC(鉄筋コンクリート)造のビルが基礎から根こそぎ倒壊していた点で、これは陸前高田市・南三陸町など、女川同様の高い津波に襲われた地域でも見られない現象でした。
「女川交番」など、地中に打ち込んだ基礎部分の杭がむき出しになっていて、異様な光景でしたね。
検索してみたところ、『地震・防災 あなたとあなたの家族を守るために』サイト内の「女川港、女川町中心部」に倒壊ビルの写真が分かりやすく纏められています。
最初の写真の説明に「高台の女川町立病院駐車場より女川漁港、女川湾を望む」とありますが、この高台が「堀切山」です。

「女川港、女川町中心部」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/higasinihonn_daisinnsai/miyagi_onagawa_syasin.htm

津波によるRC造ビル倒壊は土木・建築関係者の間でも衝撃的だったようで、この現象の工学的説明は、例えば日経新聞の次の記事などが参考になります。

「大津波で鉄筋コンクリート造の建物が横転した理由」(日経新聞2012年1月18日)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1801T_Y2A110C1000000/

七十七銀行女川支店のビルは昭和48年(1973)建築だそうで、被災時には築38年の些か古めのビルでしたが、建物自体は非常に頑丈で津波に耐えて残りました。
さて、支店長が何故「堀切山」ではなく女川支店屋上を避難場所に選択したのかですが、裁判所が認定した当時の状況は次のようなものでした。
少し長めですが、正確を期すためにそのまま引用します。
(「裁判所」サイトのPDFではp32以下。)

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/990/083990_hanrei.pdf

-------
(7) 本件地震発生後の被告女川支店の状況(甲4,5,9,L証言,K証言)
ア 本件地震発生当時,被告女川支店のG支店長は,取引先のOを訪問中であったが,自動車で同支店に戻る途中の海沿いで引き潮になっていることや,大津波警報が発令されていることを知り,午後2時55分頃,同支店に戻った。
イ 本件地震発生時に被告女川支店にいた顧客は,G支店長が戻った頃には,いずれも自ら店外に出ていた。
ウ G支店長は,被告女川支店に自動車で戻った直後,大津波警報が出ていることを告げながら,行員らに対し,片付けは最小限にして避難するようにとの指示を強い口調でした。
エ また,G支店長は,亡H及びL行員に対し,被告女川支店入口(行員通用口を除く顧客用入口)の鍵を閉めること及び屋上の鍵を開けることを指示した。
 亡H及びL行員が,G支店長の指示に従い,被告女川支店入口(行員通用口を除く顧客用入口)の鍵を閉め,屋上の鍵を開けようとしたが,なかなか開かなかったことから,亡H,L行員及びG支店長の3人で屋上の扉を押して開けた。
 L行員らが屋上に出ると,屋内では聞こえなかったサイレンの音や「大津波警報が出ているので,高台に避難してください。」旨の防災行政無線の放送内容が聞こえた。
オ その後,G支店長が他の行員らを呼びに一旦2階へと戻ると,K(女性派遣スタッフ)が,G支店長に対し,「自宅にいる子どもが心配なので自宅に帰りたい。」旨申し出た。これに対し,G支店長は,「行きたいというなら止められないけど,潮が引いているので気を付けて行くように。」とKが自宅に戻ることを了解し,Kは被告女川支店を出て約320m離れた自動車駐車場に駐車してあった自家用自動車に乗って自宅へと戻った(甲5,甲45の1及び2,甲46)。
カ G支店長は,被告災害対策本部に対し,内線電話によって,大津波警報が出ているので,屋上へ避難する旨を報告した。
 そして,午後3時5分頃,K及び休暇中の次長を除く行員ら13名が,本件屋上に避難した。
-------

ここでいったん切ります。
「L行員」が唯一奇跡的に生存した人で、判決文ではもちろん本名ですが、「裁判所」サイトではプライバシーを考慮して関係者は全て仮名となっており、『判例時報』でも同様です。
また、『判例時報』では煩雑を避けるため「(甲5,甲45の1及び2,甲46)」といった証拠表示を省略しているのですが、「裁判所」サイトでは全部出ていて有難いですね。
午後2時46分の地震発生時、支店長は得意先回りのために外出していましたが、10分足らずで支店に戻り、その間に引き潮を自分の目でみています。
また、「七十七スタッフサービス株式会社」からの女性派遣スタッフ1人(K)が帰宅を希望したのに対し、支店長はそれを了解していますが、この点は地震発生後の労働関係の性質、安全配慮義務の内容を考える上でひとつのポイントになるのではないかと思います。
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「七十七銀行女川支店」との比較(その1)

2016-11-06 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 6日(日)21時13分0秒

社会科学関係の調べものをするときにはいつも利用させてもらっている大学図書館が暫く利用できないため、仙台高裁の判決文を未だに入手できていないのですが、大川小学校との比較には仙台地裁判決で充分なので、とりあえず進めたいと思います。
このケースも広くマスコミ報道がなされましたが、法律的観点を加味した整理はやはり『判例時報』編集者によるものが正確かつ簡明なので、まずこれを紹介します。(2217号、74p以下)

------
▽東日本大震災の津波により銀行支店の屋上に避難していた行員等が死亡する等した場合について、銀行の安全配慮義務違反が認められなかった事例
〔損害賠償事件、仙台地裁平二四(ワ)一一一八号、平26・2・25民一部判決、棄却(控訴)〕

 本件は、銀行の支店従業員が東日本大震災の津波の際に支店屋上に避難し、被災した事故について、銀行の安全配慮義務違反による債務不履行、不法行為の成否が問題になった事案である。
 平成二三年三月一一日、東北地方太平洋沖地震(被災は東日本大震災)による津波が東北地方の太平洋沿岸を襲い、宮城県牡鹿郡女川町にも及んだ。地方銀行であるY株式会社は、女川町に女川支店を設置し、Y女川支店には本件地震当時、G支店長ほかの行員ら、人材派遣業を営む甲株式会社から派遣されたスタッフら合計一四名が勤務していた。本件地震は女川町の最大震度が六弱であったが、本件地震後、一名の派遣スタッフが自宅に帰宅したほか、津波の警報を受け、Gの指示により、予め津波対策として避難場所に指定されていたY女川支店(高さは二階屋上まで約一〇m、三階の塔屋まで約一三・三五m)の屋上に避難した。本件地震による津波がY女川支店も襲い、前記一三名が流され、一二名の行員らが死亡し、あるいは行方不明になった。死亡したH、Iの各相続人ら、行方不明のJの相続人らが安全配慮義務違反等を主張し、Yに対して債務不履行、不法行為に基づき損害賠償を請求した。
------

いったんここで切ります。
大川小学校・常磐山元自動車学校のケースは周辺住民に津波の歴史的記憶がなく、また公的機関のガイドラインでも津波による浸水が全く予想されていない場所での被災でしたが、七十七銀行女川支店は海岸から僅か100mの地点に位置し、近い過去に周辺の津波浸水もあって、津波自体は誰もが予想している場所での被災でした。
そして、約20mの高さの津波に襲われて13人が流されながら、内1人が奇跡的に生存し、裁判でも貴重な証人となって大地震発生後の女川支店内の状況が極めて詳細に再現されることになったのですが、大川小学校の場合は教員1人がやはり奇跡的に生存したにも拘らず、この人は被災直後の石巻市教育委員会の聞き取り調査には若干の協力をしたものの、後に石巻市が設けた「大川小学校事故検証委員会」では病気を理由に調査に応じず、更に仙台地方裁判所においても証人とならず、結局、地震発生後に「三角地帯」へ移動を開始するまでの経緯が極めて不明瞭のまま審理が終わってしまいました。
さて、引用を続けます。

------
 本件では、安全配慮義務違反として具体的に主張された安全教育や避難訓練等が不十分であり、Yの作成に係る災害等緊急時対応プランに支店屋上を避難場所に追加したこと、Gが支店屋上に避難する誤った指示、判断をしたこと、屋上に避難した後、より高所である近くの山に避難場所を変更しなかったことについて安全配慮義務違反が認められるかが主として争点となった。
 本判決は、宮城県における津波対策ガイドライン、女川町における過去の津波の高さ、内閣府の津波避難ビルガイドライン、女川町地域防災計画、女川町の指定避難場所等、Yにおける防災対応プラン、災害訓練等の実施、行内広報誌での防災啓発、本件地震発生後の経過、気象庁の大津波警報等の発表、地元での災害情報の伝達、本件地震発生後におけるY女川支店の状況等の事実関係を認定し、Yが行員、派遣スタッフの生命及び健康等が地震や津波といった自然災害の危険からも保護されるよう配慮すべき義務を負っていたとした上、原告らの主張に係る個別具体的な安全配慮義務違反につき検討し、Gの避難指示が不適切であったとはいえない等とし、立地の特殊性に合せた店舗の設計義務違反、安全教育を施した管理責任者とする配置義務違反、避難訓練実施義務違反、支店屋上を避難場所に追加した誤り、情報収集義務違反、町指定の避難場所である山に避難すべき義務違反、屋上避難の黙認に関する各主張を排斥し、結局、請求を棄却した。
------

途中ですが、ここで切ります。
「より高所である近くの山」は地元では「堀切山」と呼ばれていて、女川支店との位置関係については「七十七銀行女川支店被災者家族会有志」サイトの写真が参考になります。

https://www.facebook.com/77onagawa/

女川支店屋上と堀切山の二つの避難先があった点は大川小学校のケースと似ていますね。
そして女川支店のケースでの最大の謎は、何故、支店長は徒歩約3分で行ける絶対安全な堀切山ではなく支店屋上を避難先として選択したのかですが、これはテレビ・ラジオによって提供された津波情報の内容を時系列に従って詳細に整理して行くことで明らかにされています。
結論として裁判所は支店長の判断が合理的であり過失はないと判断したのですが、その詳細は次の投稿で紹介します。
なお、判決全文は「裁判所」サイトでも閲覧可能ですが、ネットだと若干読みづらいですね。

http://www.courts.go.jp/
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/990/083990_hanrei.pdf
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「日和幼稚園」との比較

2016-11-04 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 4日(金)10時56分9秒

東日本大震災の津波避難に関して訴訟になった事例の中で一番最初に判決が出たのは「日和幼稚園」事件(仙台地判平成25・9・17)で、原告勝訴の点でも最初でしたが、これは過失が極めて明瞭なケースでした。
マスコミでも広く報道されましたが、「記憶の部屋・東日本大震災」サイトで各種新聞記事を見ると、若干感情移入が強すぎて法的な問題点が分かりにくいものが多いですね。

「日和幼稚園送迎バスの悲劇・石巻市門脇町」
http://memory.ever.jp/tsunami/higeki_hiyori.html

そこで、一審判決の全文を掲載している『判例時報』2204号から、編集者が判決の要旨を簡潔にまとめた部分の前半を借用して、同事件の概要を紹介してみます。(p57以下)

------
▽東日本大震災の津波に幼稚園児が園の送迎バスとともに巻き込まれ死亡した事故につき、園長に津波に対する情報収集の懈怠があったとして、同園の運営法人及び園長に対する遺族からの損害賠償請求が認容された事例
〔損害賠償請求事件、仙台地裁平二三(ワ)一二七四号、平25・9・17民一部判決、一部認容、一部棄却(控訴)〕

 本件は、東日本大震災の際に、Y1学院が設置するA幼稚園の園長Y2が園児らを同園の送迎用バスに乗車させ、同バスが高台の園舎より低い海側の地帯を進行中に発生した津波に流され横転し、津波に巻き込まれて園児五名が死亡した事故につき、被災園児のうち四名の両親X1~X8が、園長Y2らが、津波に対する情報収集を懈怠して、送迎バスを出発させ、避難にかかる指示・判断を誤ったことにより発生したものであると主張して、Y1学院に対しては安全配慮義務違反の債務不履行又は不法行為による損害賠償請求権に基づき、また、Y2に対しては不法行為による損害賠償請求権に基づき、それぞれの損害金及び遅延損害金の連帯支払を求めた事案である。
 これに対して裁判所はXらの請求のいずれについてもその一部を認容したものである。その理由によると、A幼稚園は、市の標高二三メートルの高台にあり、園児送迎用の大型バスと小型バスが朝夕二回、園児の送迎を行なっていたこと、平成二三年三月一一日午後二時四六分頃、宮城県沖を震源とするマグニチュード9・0の地震が発生し(本件東日本大震災)、当日はA幼稚園では約一〇〇名の園児が登園したが、本件地震発生時刻には、園には五五名が残っていたこと、本件地震が発生した時、Y2は園児を机の下に入らせる等園児の安全確保に務め、揺れが収まると園児らを本件幼稚園の南側の園庭に避難させたこと、その後、Y2は、保護者の迎えのある園児は保護者に引き渡し、午後三時に教諭らに園児らをバスで帰宅させることを命じたこと、この指示に基づき教諭らは、海側コースを運行する小型バスに本件被災園児五名(本来は山側コースをとるバスに乗車すべき者)を含めて一二名を載せ高台の園を出発させ、途中B小学校の校庭ほかで、迎えにきた保護者に園児七名を引き渡したこと、その段階ではじめて大津波警報が出ていることを知ったY2は、職員を介してバス運転手に「バスを戻せ」と伝え、運転手は、これに従って園に引き返す途中で渋滞に巻き込まれ、この海岸から約七〇〇メートルの地点で小型バスは津波に巻き込まれ、車に残っていた被災園児五名が死亡するに至ったこと【後略】
-----

ということで、この事件は石巻市中心部で僅かに津波被害を免れた高台にあった幼稚園の園長が、津波の可能性を繰り返し放送するラジオを聞かず、サイレン音の後に大津波警報の発令と津波避難を呼びかける防災行政無線の放送内容にも注意を払わず、標高23mの高台からわざわざ沿岸部に送迎バスを出発させたという事例です。
判決本文を引用すると、

------
 眼下に海が間近に見える高台に位置する本件幼稚園に勤める被告園長としては、午後三時二分過ぎ頃に本件小さいバスを高台から出発させるに当たり、たとえ本件地震発生時までにはいわゆる千年に一度の巨大地震の発生を予想し得なかったとしても、約三分間にわたって続いた最大震度6弱の巨大地震を実際に体感したのであるから、本件小さいバスを海沿いの低地帯に向けて発車させて走行させれば、その途中で津波により被災する危険性があることを考慮し、ラジオ放送(ラジカセと予備の乾電池は職員室にあった。)によりどこが震源地であって、津波警報が発令されているかどうかなどの情報を積極的に収集し、サイレン音の後に繰り返される防災行政無線の放送内容にもよく耳を傾けてその内容を正確に把握すべき注意義務があったというべきである。
 そうであるのに、被告園長は、巨大地震の発生を体感した後にも津波の発生を心配せず、ラジオや防災行政無線により津波警報等の情報を積極的に収集しようともせず、保護者らに対する日頃の送迎ルートの説明に反して、本来は海側ルートに行くはずのない本件小さいバスの三便目の陸側ルートを送迎される本件被災園児ら五名を二便目の海側ルートを送迎する同バスに乗車させ、海岸堤防から約二〇〇ないし六〇〇mの範囲内付近に広がる標高〇ないし三mの低地帯である門脇町・南浜町地区に向けて同バスを高台から発車させるよう指示したというのであるから、被告園長には情報収集義務の懈怠があったというべきである。
------

ということで(p83)、まあ、当然の判決ですね。
担当したのは裁判長裁判官・斎木教朗、裁判官・荒谷謙介、同・遠藤安希歩の三氏で、荒谷謙介・遠藤安希歩氏は常磐山元自動車学校事件(裁判長裁判官、高宮健二氏)も担当されていますね。
なお、一部棄却というのは請求金額に若干の減額があっただけの話で、内容的には原告の完全勝利です。
控訴されましたが、仙台高裁での訴訟上の和解においては、異例なことに「当裁判所は、私立日和幼稚園側が被災園児らの死亡について、地裁判決で認められた内容の法的責任を負うことは免れ難いと考える」という法的判断が示されています。

『リスク対策.com』サイト内
「日和幼稚園事件控訴審和解について」(中野明安弁護士)
http://www.risktaisaku.com/articles/-/993

大川小学校・常磐山元自動車学校事件判決に批判的な立場の人でも、さすがにこの判決を批判する人はいないようですね。
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「常盤山元自動車学校」との比較

2016-11-02 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年11月 2日(水)11時33分3秒

私は原告勝訴を予想していましたが、これは大川小学校周辺の地形をそれなりに詳しく調べていたことと、今回の裁判長(高宮健二氏)が「常磐山元自動車学校」事件(仙台地判平成27・1・13、『判例時報』2265号)の裁判長と同じであることを知って、「常磐山元自動車学校」事件で原告勝訴なのだから大川小学校も当然そうなるだろうな、と思ったからです。
「常磐山元自動車学校」事件は大川小学校と違い、それほど話題になりませんでしたが、海岸から750m離れた場所にあって、海岸には高さ6.2mの堤防があり、過去に住民の記憶に残るような津波被害がなく、平成16年の宮城県地震被害想定調査時に策定された津波浸水予測図では、宮城県沖地震(連動)が発生した場合、付近の津波浸水域は海岸から100mにも満たない範囲とされていて、大川小学校と非常に良く似た状況ですね。
判決では、教習所側が事前に津波を想定した避難計画を作っていなかったことはもちろん、予想される津波の高さを宮城県6m、福島県3mとする気象庁の大津波警報(第一報、午後2時49分)を教習所の役員・幹部社員が聞いた後に避難しなかったことも過失とせず、予想される津波の高さを宮城県10m以上、福島県6mとする気象庁の大津波警報(第二報、午後3時14分)についても、伝えなかった放送局があるなどの事情から教習所の役員・幹部社員が確認できたとはいえず、直ちに避難を実施しなかったことは過失ではないとした上で、その後の消防車による具体的な避難の呼びかけの広報があった時点で適切な対応を取らなかったことを過失としています。
ただし、大川小学校の場合と異なるのは、犠牲者は18・19歳の教習生と27歳のアルバイト従業員であって、地震発生後の情報収集・分析能力においては教習所側の役員・幹部社員とそれほどの違いがあったとは思えないこと、教習所から海と反対側(西方)700mから750mのところに標高53mの「戸花山」という小さな丘があって、徒歩で9分、自動車で2分30秒程度ですから、若い人だったら充分逃げるだけの時間があったことです。
普段から送迎バスを利用している人が多かったから、教習所側も送迎バスで教習生に待機してもらっていただけで、教習所側に独自の判断で行動する人を止める権限はないし、そうする意図もない状況だった訳ですね。
こうした状況なのに、裁判所は割とあっさりと具体的な安全配慮義務を認定し、割とあっさりと教習所側の過失を認めた訳で、私は控訴審では逆転の可能性もあるのでは、と思っていたのですが、結局、控訴審で和解が成立して終了してしまいました。
この「常磐山元自動車学校」事件と比較すると、大川小学校の場合は安全配慮義務の存在自体は極めて明確ですし、個々の児童が自分の判断で独自の行動を取る余地はなかったのですから、担当の裁判官が同じなら学校側の責任が認められる可能性は当然大きくなりますね。
なお、誤解してもらいたくないのは、私は原告勝訴を予想したとしても、今回の判決が全面的に素晴らしいものだと思っている訳ではない点です。
大震災後、暫くの間は学校側の責任を問おうとする遺族は全くの少数派で、地域社会では孤立しているように見えたので、私はその言い分は法的に相当な理由があるから頑張ってほしいな、とは思っていましたが、別に特段の支援活動をしたこともありません。
今回の判決に反発する立場の人の言い分もある程度は分かるので、「過失」があれば賠償金一人数千万円、「過失」がなければゼロ、という極端な二者択一ではなく、もう少し調和的な解決をもたらす法律論の組み立て方はないのかな、と思っています。

『記憶の部屋・東日本大震災』サイト内
「常磐山元自動車学校の悲劇・宮城県山元町」

--------
宮城・自動車学校津波訴訟 仙台高裁で和解が成立
毎日新聞2016年5月25日

学校側が安全上の不備認め陳謝 解決金は大幅に下回る
 東日本大震災の津波で犠牲になった常磐山元自動車学校(宮城県山元町)の教習生25人と従業員1人の遺族が、学校側に損害賠償を求めた訴訟の控訴審は25日、仙台高裁(小野洋一裁判長)で和解が成立した。学校側が安全上の不備を認めて陳謝した上で、教習生1人当たり50万円、計1250万円の解決金を遺族側に支払うとの内容。従業員側の和解協議は分離されており、協議を継続する。
 解決金は1審が学校側に命じた賠償金計約18億5000万円(1人当たり約4000万~8000万円)を大幅に下回った。遺族側の弁護士によると、金額は学校側の支払い能力を踏まえて決定したとみられる。
 和解条項によると、学校側は、地震や津波を想定した避難防災マニュアルを作っておらず、当日も適切な避難指示をしなかったことが死亡の一因となったことを認め、遺族に陳謝し、心から哀悼の意を表す。
 津波被害を巡る訴訟のうち、管理者側の賠償責任を認めた判決が出たケースで和解が成立したのは、同県石巻市の私立日和(ひより)幼稚園訴訟(2014年12月に同高裁で和解成立)に次いで2件目。
 教習生と従業員の遺族は11年10月から翌年にかけ、計約19億7000万円の支払いを求めて提訴。1審・仙台地裁判決は15年1月、「消防車による避難の呼びかけを学校側の誰かが聞いていたと推認できる」などとして学校側の安全配慮義務違反を認定した。
 学校側は「津波襲来は予測できなかった」と控訴。亡くなった教習生25人のうち19人と従業員1人の遺族も学校役員の個人としての賠償責任が認められなかったことを不服として控訴した。
 訴状によると、学校側は地震発生後に教習生を待機させ、約1時間後に送迎バス4台に分乗させるなどして帰宅させた。バスに乗った23人と徒歩で帰宅した2人が津波に巻き込まれて犠牲になった。【本橋敦子】

「世の中にこの事件の真相を知ってもらえると思った」
 遺族会代表の寺島浩文さん(53)は和解後、「お金を受け取ることが目的ではないが、子供の命の対価として解決金の金額が低すぎることは納得できない。ただ、和解を受け入れた方が、世の中にこの事件の真相を知ってもらえると思った」とのコメントを出した。


>筆綾丸さん
私も地方自治法については全然詳しくありませんが、控訴には議会の議決が必要との解釈が一般的なようですね。


石巻市議会の賛成16、反対10という数字は市民の微妙な感情を反映しているのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

公式実務訪問賓客 2016/10/31(月) 17:45:18
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201610/20161031_13027.html
控訴の是非は市長の専権事項で議会の承認は不要のはずですが、市を二分して、長い茨の道が今後も続きますね。

http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/hinkyaku/jitsumu.html
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161027/k10010746681000.html
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/culture/hito/shoutai/
一国の大統領を公式実務訪問賓客として招いておきながら、叔父の死を理由に会見を取り止めるのは、(如何に奇矯な国家元首であろうとも)外交上非礼ではないか、園遊会ではないのだから、と違和感を覚えました。それはそれ、これはこれ、と截然と割り切るべき立場ではないのか。
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牛山素行氏の見解について

2016-10-31 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月31日(月)11時21分15秒

仙台地裁判決について、批判的な立場の学者の中では静岡大学防災総合センター教授牛山素行氏の見解が一番参考になりそうなので、少し検討してみます。

『豪雨災害と防災情報を研究するdisaster-i.net別館』
「大川小学校災害に関する仙台地裁の判決から思うこと」
http://disaster-i.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-a04a.html

牛山氏は、御自身が認められているように、

------
筆者は,災害情報に関する研究者ではあるが,裁判や法律に関する専門的知見は持たない.あくまでも災害に関する研究者としての私見であることをお断りしておきたい.
------

という立場の人ですので、近時の判例においては安全配慮義務違反、特に学校事故のそれについて相当厳しい判例が蓄積されていることを、それほどは御存じないと思われます。
この点が今回の裁判所の判断が一般人には受け入れにくい理由のひとつになっていると思いますが、それは後で述べるとして、事実関係について若干気になる点を挙げてみます。

------
一方,15時半頃以降に目指した避難場所(三角広場)が,大規模な津波の襲来を予見している中での判断としては不適当であり,裏山が避難場所として支障はなかったと判断している.事前の予見可能性ではなく,津波到達直前の避難場所の判断に主に過失を認めているようだ.
つまり,津波到達直前には,津波は堤防を確実に越え,三角広場への避難では低すぎると判断できたはずであり,かつ裏山を避難場所として選択しなかったことが不適当だという見方のようだ.しかし,内陸部での津波の挙動について誰もが的確な知識があるとは思えず,当時において三角広場の高さと予想されるその場所での津波の高さをとっさに比較できたはずだというのは,かなり厳しい判断だと思う.
------

「三角広場」ではなく、「三角地帯」が判決での表現ですが、ここは逃げ場のない場所であることが重要ではないかと思います。
「三角広場の高さと予想されるその場所での津波の高さをとっさに比較」するのはもちろん無理ですが、「三角地帯」に行ってしまったら、後は登ることが全く不可能なコンクリートの擁壁と急斜面だけ、という予想は容易です。

------
また,崖崩れなども懸念され,必ずしも明瞭な道のない裏山を避難先として選択しなかったことが不適当だというのも,かなり厳しい判断だと思う.判決は「現実に津波の到来が迫っており,逃げ切れるか否かで生死を分ける状況下にあっては,列を乱して各自それぞれに山を駆け上がることを含め,高所への避難を最優先すべきであり」とあるが,このような考え方が広く一般化したのは東日本大震災以降ではなかろうか.無論このような判断ができれば,それに越したことはないが,当然そうすべきだったとまで言えるだろうか.
------

牛山氏が「崖崩れなども懸念され,必ずしも明瞭な道のない裏山」をどの範囲で捉えているのかはっきりしませんが、原告が主張した「裏山」は、水道施設建設などのために少なくとも50年以上前から、実際にはもっと昔から利用され、踏みしめられていた山道とその周辺で、校庭の集合場所から小走りで一分で行ける場所ですね。
裁判官もここを実際に視察しています。

『弁護士ドットコムニュース』
「革靴の裁判長が「裏山」の避難ルートを登った・・・津波被災の「大川小学校」視察」
https://www.bengo4.com/saiban/1139/n_3939/

個人的にはこの視察が裁判官の判断に大きな影響を与えたのではないかな、と思っています。
斜面の角度などは写真で見ても理解しにくく、実際にその空間に身を置かないと分からないですからね。

------
また,住民と相談し,裏山への避難について反対されたことについて,判決は「(住民)の意見をいたずらに重視することなく,自らの判断において児童の安全を優先し,裏山への避難を決断すべきであった」としているが,住民と混在した避難場所での状況を踏まえると,そのような「判断」を「すべきだった」と言うのが現実的か,難しいのではなかろうか.
------

ここは私は判決原文を読んでいないので、どのような事実認定がされたのか興味があるのですが、暫くすれば『判例時報』に掲載されるはずので、それを読みたいと思います。
一般的・抽象的には、「住民」は教員と違い児童に安全配慮義務を負う立場ではないので、教員が独自の判断をすべきとの判旨は肯けます。

------
判決では,管理者(ここでは教員)が災害進行中の「的確なとっさの判断」が当然行われるべきであったとしているようにおもえる.しかしこれは,災害前に事態を予見しておくことよりもむしろ応用的な高い能力を求めているように感じられる.
------

この牛山氏の指摘は非常に鋭いと思います。
津波直前の極めて短時間での判断ミスだけに「過失」を認める判断構造は、今回と同じ裁判官が担当した宮城県山元町坂元の「常磐山元自動車学校」事件(仙台地判平成27・1・13、『判例時報』2265号)と全く同じなのですが、私もちょっと不自然ではないかと感じています。
石巻市側が控訴することが決まったので、どの時点でのいかなる対応を「過失」と認定するかについては、控訴審で別の判断が出るかもしれないですね。

------
行政関係者や教育関係者に限らず,誰もが「管理者」になり得る.こうした高い能力の行使を管理者に求めることは,我々の誰もが重い責任を追うことになる.それに我々は社会全体として対応できるだろうか.また,自然災害時の「管理者」故意ではない判断にこうした厳しい責任追及がおこなわれることが,関係者の口を過度に重くさせ,客観的な原因分析を阻害する可能性も懸念される.
------

このあたりは牛山氏のご専門を離れて、法的判断の領域に入ってしまいますね。
安全配慮義務に関して蓄積された多くの判例の中には、その当時としては現実的に対処可能とは思えない重い責任を負わせたのではないか、と思われる例も多く見られます。
個別事件の解決を超えて、「管理者」に新たな水準の認識を要請し、社会全体に警鐘を鳴らすことは裁判所の重要な役割かもしれません。
ただ、それが一般人の規範意識とかけはなれてしまってはまずい訳で、牛山氏の懸念も理解できます。

------
一方,被災後の校長,生存教員,市などの対応については注意義務違反は認められなかった.しかし,本裁判に至った心情的な背景としては,被災後の関係機関の遺族らへの対応に課題があった可能性は否定できない.ただしこのことも,単純に批判できるものではないと思う.災害後の現地機関は,未経験,かつ平常時をはるかに上回る業務量を抱え,丁寧な対応ができなくなる可能性がある.被災地域の各種機関を,いかに支えていくかも大きな課題だろう.
------

原告勝訴を予想していた私も、判決が出た直後に遺族代表らしい人たちが掲げた「学校・先生を断罪!!」の横断幕には驚きました。
深刻な「心情的な背景」があったのでしょうが、石巻市側にも相当な言い分があるはずで、一方的に石巻市側を非難することはできないですね。
長くなってしまったので、いったんここで切ります。
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大川小学校のことなど。

2016-10-28 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月28日(金)20時39分17秒

岸信介と四方諒二の話、まとめようかなと思っていたところ、三笠宮が亡くなられたり、大川小学校の仙台地裁判決が出たりして、地味な私のブログ「学問空間」も珍しく訪問者が増え、ちょっと落ち着かない気分ですね。
三笠宮はこちらの記事です。

昭和33年、三笠宮VS「坂本天皇」史学会の戦い

大川小学校については「カテゴリー」にまとめていますが、


仙台地裁の判決は東日本大震災の一年後に私が出した結論と基本的には同趣旨でした。

「春の大川小学校」
「大川小学校の裏山再訪(その4)」

当時、少なくともネットの世界ではこういう結論は珍しかったはずで、素人なりに丁寧な事実調査を行った結果だとは思うのですが、そうかといって、ボクって先見の明があってスゴイなー、と喜んでいる訳でもありません。
今日、朝日・読売・毎日・日経四紙の27日朝刊を読み比べてみたところ、読売・毎日・日経では不法行為責任なのか債務不履行責任(安全配慮義務違反)なのかすら明確ではありません。
朝日の判決要旨の最後の方を見ると、国家賠償法、即ち不法行為で請求を認めたことになっていますが、債務不履行責任を排除する趣旨なのかははっきりしません。
不法行為か債務不履行かは時効に関係していて、不法行為は3年で時効ですね。(国賠4条、民法724条)
おそらく債務不履行責任を排除する趣旨ではないと思いますが、そうだとすると時効は10年で、今回の訴訟に加わらなかった残りの遺族も新たに訴訟提起が可能です。
とすると、23人の犠牲者で約14億2658万ですから、犠牲となった児童74人全員だと単純計算で45億9千万円くらいになりますね。
個人的には「過失」の判断については判旨に納得できるのですが、損害額で何か調整しないと一般の理解は得にくいのかな、という感じもします。
私の不法行為についての理解は森嶌昭夫氏の『不法行為法講義』(有斐閣、1987)くらいで止まっていて、最近の議論には詳しくないのですが、「割合的因果関係」論とか「寄与度」論とかを少し勉強してみようかなと思っています。

>筆綾丸さん
>片岡鶴太郎に似ているところがありますね。
賛同はしませんが、呉座氏の髪型はちょっと面白いですね。
お洒落なヘアスタイルなのか、それとも無頓着なのか、はたまた単なる寝ぐせなのかが気になります。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

片岡鶴太郎と長い階段 2016/10/27(木) 17:41:08
小太郎さん
呉座勇一氏は優秀な方だと思いますが、まだ助教ですか。史学の世界では普通なんでしょうが。同じ年の木村草太氏はすでに教授だというのに。僭越ながら、業績から判断すれば、呉座氏の方が上のような気がします。
http://kataoka-tsurutaro.com/
片岡鶴太郎に似ているところがありますね。

http://live.shogi.or.jp/joryu_ouza/kifu/6/joryu_ouza201610260101.html
女流プロの将棋はほとんど見たことがないのですが、昨日の一局は面白かったですね。
女性の場合、持ち時間が少ないのは何故なのだろう。
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大川小学校の事故検証委員会

2013-12-23 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年12月23日(月)08時17分57秒

今日の『河北新報』に次の記事が出ていました。

--------
大川小事故検証委 最終報告、来年1月以降に

 東日本大震災で児童と教職員計84人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小の事故検証委員会の8回目の会合が22日、市内であり、児童遺族が検証を求めた地震発生から避難開始まで約50分間かかった意思決定の遅れに関して議論が交わされた。年内に予定していた最終報告は、来年1月以降に持ち越した。
 避難行動の分析によると、地震発生後に校舎から校庭に避難した教員たちは津波の情報収集を積極的に行わず、学校を津波が襲う危険性も具体的に想定していなかった。
 学校裏山への避難に言及した教員はいたが、安全性が確認できないと判断したとみられる。新北上大橋たもとの堤防道路に移動を始めたのは、津波到達数分前の午後3時33~34分ごろという。
 検証委は「意思決定の遅れが被災の最大要因。避難の目的地の選定についても検証しないといけない」と指摘。学校の災害対応マニュアルの不備や市の防災体制、不十分だった教員への防災教育などの分析を進めることを確認した。
 遺族との意見交換では「避難について教員間でどんな議論があったのか」「裏山への避難を指摘した教員が強く主張できなかった要因として、教員間の人間関係の分析も必要では」などの声が上がった。(後略)
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/12/20131223t13012.htm

大川小学校の問題、第三者委員会による報告書のとりまとめが難航しているようですね。
遺族の考え方も分裂しており、原因追及などに関わりたくないと思っている遺族もいれば、石巻市教育委員会に非常に厳しい立場を取る遺族もいて、率直に言って後者の動きには地元でも強い反発がありますね。
また、ネットで見る限り、被災地に詳しいと自負している人々の相当多くが後者に批判的なようです。
地元の反発の背後には、石巻市全体が甚大な災害に見舞われ、教育委員会のやるべき仕事は沢山あったのに、一部遺族がいつまでも騒ぎ立てたために他の重要な教育事業への対応が遅れてしまった、という不満があり、これはこれでもっともな話です。
私は自分で大川小学校付近を何度も歩いてみた結果、「裏山」についての認識のズレが問題を分かりにくくしているのだろうなと思っていて、結論的には後者の立場にかなり同情的です。
ただ、徹底的な事実解明は実際上は責任追及として機能しますから、第三者委員会で誰でも納得できる結論が出るはずもなく、最終的には訴訟に解決を委ねることになるんでしょうね。

私の現在の考え方はこちらで書いています。

「春の大川小学校」
http://chingokokka.sblo.jp/article/55492680.html
「大川小学校の裏山再訪(その4)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/54661115.html
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宝篋印塔建立の経緯

2012-11-11 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年11月11日(日)12時46分30秒

少し検索してみたら、四国新聞の9月26日付記事に宝篋印塔建立の経緯が詳しく出ていました。

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高松の石材職人ら震災慰霊塔を制作/石巻に設置

 香川県高松市庵治町の石材職人らが東日本大震災の犠牲者の慰霊塔にと作った石塔が、宮城県石巻市の大川小学校に設置された。同校は津波で児童と教職員合わせて84人が死亡、行方不明になっている。制作した石材業者は「傷つき、今なお苦しむ遺族の心が少しでも安らげば」と話している。
 石塔は鎌倉期の石塔の再現に取り組み、石塔や石仏の全国公募展で受賞歴のある翼石材(青木秀敏社長)が発案。同社の高橋晋也さん(38)が中心になり、ベテラン職人らの協力を得ながら約3カ月かけて完成させた。材料には被災地・福島特産の白御影石「紀山石(きざんせき)」を使った。
 高橋さんは4月下旬から設置先を探し、現地の寺や公営の公園を管理する行政機関などと交渉。なかなか話がまとまらない中、犠牲になった児童らの家族でつくる同校の遺族会への寄贈が決まり、津波の被害を受けた旧校舎前の一角に建てることになった。
 石塔は高さ3メートル、重さ4トン。上、中、下の三つの笠(かさ)と上部の相輪が特徴で、最下部の塔身と相輪に、釈迦(しゃか)如来、薬師如来、阿弥陀(あみだ)如来、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の四つの仏を彫っている。表面全体を工具でたたいて細かい凹凸を付け、柔らかく、気品のある質感を生み出した。
 9月半ばに、遺族会のメンバーや僧侶ら約100人が出席して開眼法要を行った。「単なるモニュメントでなく、亡くなった人の魂のよりどころになってほしい」と高橋さん。将来、近くの高台に公園が整備される計画で、そこに石塔も移す予定だ。

http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20120926000145

有限会社翼石材はホームページを開設してますね。

「世伝石塔」
http://www.seidensekito.com/index.html

同社サイトに紹介されている宝篋印塔はオリジナルのデザインでしょうが、なかなか見事なものです。
http://www.seidensekito.com/introduction/hokyointo.html

紀山石(きざんせき)は福島県いわき市の芝山で産出される石ですね。
http://kizanseki.com/place
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日石展(日本石塔展覧会)

2012-11-11 | 大川小学校
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年11月11日(日)11時54分49秒

というのは次のような行事ですね。

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 日本石塔展覧会事業協同組合(山田政博理事長)が主催する日石展(日本石塔展覧会)の第二回審査会が7月15日、宮城県丸森町にある大蔵山(伊達冠石丁場)で開催された。
 今回のテーマは「鎮魂・東日本大震災 石塔・石仏展覧会」。このたびの震災で亡くなられた方々の慰霊や追悼のために、日本の石工による石塔・石仏として質の高い作品を被災地に設置することを目的としている。
 今回の出品作品は全13点(1点は参考出品で、審査対象は12点)で、厳選なる審査の結果、最優秀賞は田部哲朗さん(田部石材株式会社、島根県安来市)、優秀賞として清水良介さん(山田石材計画株式会社、宮城県丸森町)、谷本雅一さん(株式会社谷本石材、三重県名張市)、特別賞(三橋國民賞)として細野晴樹さん(細野石材、愛知県岡崎市)が選ばれた。
 今回の審査員は、審査委員長として西村金造氏(株式会社西村石灯呂店会長)、審査員として山川均氏(石造美術研究者)、鈴木崇氏(鈴木造園設計代表)、特別賞審査員として三橋國民氏(日展参与)が務めた。

月刊石材8月号(8月15日発行)より
http://www.ishicoro.net/hpgen/HPB/entries/163.html

三重宝篋印塔はリンク先のページの一番下、左隅に出ています。

日石展を主宰する日本石塔展覧会事業協同組合理事長の山田政博氏は宮城県南部の丸森町にある山田石材計画株式会社の社長さんであって、展覧会場も同社の敷地ですね。
私は審査員の一人、山川均氏に以前お会いしたことがあったので、この展覧会に少し関心があり、会場にも行ってみました。
もっとも審査が終わった後の誰一人いない時間帯でしたが。

山田石材計画のブログには審査会の様子を撮影した写真も載っていますが、三重宝篋印塔は一番上の写真の左側に出ています。
なお、同じ写真の右側、石卒塔婆を指差して何やら説明しているのは山川均氏のようですね。

http://stonescape.exblog.jp/18269582/


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