学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

シャルトル佐助

2009-06-30 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月30日(火)18時54分35秒

>筆綾丸さん
>酒井氏の文体
思い入れが強すぎて、確かに少し鬱陶しいです。
パリのノートルダム大聖堂には、Pillar of the Boatmen以外に何かケルトの遺跡でもあるんでしょうか。
特にそんなものがないとしたら、酒井氏の見解は空中楼閣となりますね。
また、シャルトル大聖堂に関する「ケルト人のカルヌート族の聖所であったシャルトル(Chartres の名は Carnutes に由来)の大聖堂の敷地には、大地母神へ通じる深い井戸が掘られていて、犠牲が次々に投じられていたという」という記述も、若干疑わしい感じがします。
ネットでは次のブログが参考になりますが、少し詳しく調べたいですね。

http://library666.seesaa.net/article/38066856.html

>ちょっと情けない名ですね。
愛知県には足助(あすけ)という町がありましたね。
今は豊田市に合併されてしまったようですが。

http://www.mirai.ne.jp/~asuke/
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Pillar of the Boatmen

2009-06-28 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月28日(日)16時28分23秒

>筆綾丸さん
酒井健氏の『ゴシックとは何か』には以下のような記述があります。(ちくま学芸文庫版、p61以下)

-----------
 それにしても、犠牲(いけにえ)としてのイエスは、何に捧げられたのだろうか。「我らの女主人(ノートル・ダム)」に献じられた聖所(ゴシックの大聖堂)のなかでイエスの供儀はおこなわれたのだ。ということは、イエスは、「我らの女主人」に、聖母に、いや聖母の姿をした大地母神に、自然に、捧げられたということではないだろうか。
 パリの大聖堂の地下からはケルト神話の大神で大地の神エスス=ケルヌノスの石像が発掘されたが、この神は人間の犠牲を欲し、しかも人間が樹に吊るされて供されるのを望んだという。他方、古代ローマの詩人ルカヌス描くところのケルト人の神聖な森はこうだ。「太陽はまったく差し込まず、豊富な水が薄暗い泉から湧き出ていた。〔中略〕野蛮な神々の礼拝はここで行われ、神々をまつる祭壇にはいまわしい犠牲(いけにえ)が積み上げられ、あらゆる木々には人間の血が注がれていた」(柳宗玄・遠藤紀勝著『幻のケルト人』より)。
 また、ケルト人のカルヌート族の聖所であったシャルトル(Chartres の名は Carnutes に由来)の大聖堂の敷地には、大地母神へ通じる深い井戸が掘られていて、犠牲が次々に投じられていたという。そしてまた、ゲルマンの神話世界では、男性神のように旅や戦(いくさ)で移動しない大地母神こそ人間の犠牲が供される対象になっていた。
 とすれば、石柱の林立するゴシックの大聖堂に集った新都市住民たちは、十字架上のイエスの処刑に、森林のなかの供儀を感じていたのではなかろうか。「苦悩のキリスト」に自分たちを重ね合わせて、この"母の子”とともに母のなかへ束の間還ってゆこうとしたのではないだろうか。生みまた滅ぼす自然のサイクルに一瞬乗って、都市に出て失った根を、喪失した深いアイデンティティを、回復しようとしたのではなかったか。
-----------

この「エスス=ケルヌノスの石像」というのは、紀元1世紀に建てられた「Pillar of the Boatmen」の一部のようです。
ただ、ウィキペディアによると、

The main dedication is to Jupiter, alongside Mercury, Mars, Fortuna, Castor and Pollux and Vulcan. Gaulish deities mentioned are Esus, Tarvos Trigaranos (the Bull with the three Cranes), Smertios and Cernunnos.

ということで、この石柱に描かれた神々はギリシャ・ローマとケルトのごちゃ混ぜであり、エスス、ケルヌノスはケルト側の四つの神のうちの二つですね。
また、

Original Location
The Gaulish town of Lutetia was built on the Île de la Cité, an island in the middle of the Seine; a good defensive position and well suited to controlling trade along the river (Carbonnières pp.13–15, 35-40). It is mentioned by Julius Caesar in the Gallic Wars. The Gallo-Roman town extended onto the south bank of the river, but the island remained the heart of the city and it was here that the forum and several temples were built. The pillar was erected outside one of these temples.

History of the Pillar
Some time in the third century, the stone blocks that formed the pillar were broken into two and used to reinforce the foundations of the walls along the riverbank. Over time, the island grew slightly so that the third-century wharfs are nw a dozen metres from the banks of the modern river (Kruta 1883).The Christian cathedral of St. Etienne was founded by Childebert in 528 on the site of the Gallo-Roman temple; Notre-Dame de Paris was in turn built over this in 1163.

ということで、もともとローマ帝国の時代に、ある寺院の外側に立てられていた石柱が、いつしか単なる石材として壁の基礎に用いられ、それがノートルダム大聖堂に転用されただけですから、「パリの大聖堂の地下からはケルト神話の大神で大地の神エスス=ケルヌノスの石像が発掘された」というのは、学者の文章としては、あまりに慎重を欠く表現のように思います。

http://en.wikipedia.org/wiki/Pillar_of_the_Boatmen
http://fr.wikipedia.org/wiki/Pilier_des_Nautes
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森の怖さ

2009-06-25 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月25日(木)19時28分47秒

>筆綾丸さん
今日はまた浮気して、酒井健氏の『ゴシックとは何か-大聖堂の精神史』を読んでいます。
聖遺物の怖さは森の怖さにつながるのかなあ、などと思いつつ。

以下は鹿島茂氏による同書への批評です。

--------------
マリア信仰と大聖堂の建立は、じつは民衆の地母神崇拝と森への畏怖をキリスト教的に解釈し直すことで、自分たちの権威を強化しようと考えたカトリック教会と国王が生み出した表象的代理物にほかならなかったからである。ゴシック大聖堂の地下を掘ってゆくとケルト信仰の聖所に行き当たるし、聖堂の内部は、失われた聖なる森のイメージで作られていて、異教徒だった農民の信仰心を呼び起こすのに役立ったのである。

http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/si_reki0046.html
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シュライン

2009-06-24 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月24日(水)09時03分23秒

>筆綾丸さん
>『伊勢神宮―魅惑の日本建築』
神宮は「shrine」と訳されることが多いですが、華麗な家型聖遺物容器もシュラインなんですね。
死穢を忌避する空間と死が満載された空間が同じ言葉で表現されているのも、少し妙な感じです。

「三王のシュライン」
http://www.nttdata-getronics.co.jp/profile/spazio/spazio67/akiyama/main.htm
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匂いに弱い私

2009-06-23 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月23日(火)18時53分52秒

>筆綾丸さん
実は『聖遺物崇敬の心性史』、読むのに少し苦労しています。
文章は平易で読み易いのですが、これだけ事例が豊富だと聖遺物の肉体性が妙に生々しく感じられてきて、正直ちょっとゲンナリします。
特に「大量の人骨から醸し出された特有の臭気」などという匂いの記述に出会うと、ヘナヘナとなってしまいますね。
意外に軟弱な自分に驚いています。
岡田温司氏の『マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女』と『処女懐胎─描かれた「奇跡」と「聖家族」』も並行して読んでいますが、こちらはサバサバと読めますね。
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『聖マルケリヌスとペトルスの移葬と奇跡』

2009-06-21 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月21日(日)19時15分6秒

>筆綾丸さん
>『二皇帝像』
これですね。

http://www.nttdata-getronics.co.jp/profile/spazio/spazio65/akiyama.htm

秋山氏が実に25ページを費やして紹介されている「アインハルトの奉遷記」もドラマチックな話ですが、まあ、単なる泥棒の記録とも言えますね。
何でこんな話を自慢そうに記録できるのか、当時の人々の感覚はちょっと不思議です。
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トマト・秋茄子

2009-06-19 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月19日(金)18時55分51秒

>筆綾丸さん
岡田氏の他の本も注文しました。
ただ、『聖遺物崇敬の心性史―西洋中世の聖性と造形』の方が気になって慌てて購入しましたが、非常に面白いですね。
聖ウルズラ、サンチアゴ・デ・コンポステラなど、このところ少し関心を持って資料を集めていた分野に関する情報が満載されていて、感激です。
冒頭のトマス・アクィナスが死後に文字通り煮られてしまったという話、お昼にハンバーグを食べながら読みましたが、食欲は若干低下しました。

パソコンは修理をあきらめて、新しいのを購入予定です。
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星五つ

2009-06-13 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月13日(土)01時28分42秒

昨日の未明、ゴソゴソ起き出してアマゾン初レビューを書いていました。

http://www.amazon.co.jp/review/REH909UK56371/ref=cm_cr_rdp_perm

>筆綾丸さん
この週末、昔の登山仲間と久しぶりに山歩きをしようと思っています。
そのためレスが少し遅れますので、ご容赦を。

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貴族階級でない作家

2009-06-05 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月 5日(金)00時45分29秒

次に紹介するのは、白倉克文氏「『桜の園』の世界─チェーホフ最晩年の眼差し─」から、先に引用した部分の20行ほど後に出てくる一節です。
言われてみればなるほどなと思いますが、こういう指摘をする人は意外と少ないように感じます。

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 『桜の園』で貴族制度は批判されても、それは個々の貴族の批判に直結するものではなかった。ラネーフスカヤは旧領地を離れて、新しい人生に潔く立ち向かうであろうし、ガーエフも彼なりに労働に勤しむだろう。『手帖』では最後まで借金を返さないピーシチクは、一部ではあっても返金したし、今生の別れを熱く述べてもいる。貴族もまた愛すべき存在として描かれているのである。農奴の家系に生まれたチェーホフは、優れた貴族が具有する高い精神性に近づくために、必死に努力する体験を、自分自身が持っていた。彼は1889年に書いた手紙に、次のように記している。「貴族階級の作家ならば生まれながらにして手に入れているものを、貴族階級でない作家は青春を犠牲にして贖うのです。」「自分の身体から一滴一滴奴隷の血を絞り出し、ある朝目覚めてふっと、自分の血管を流れる血がもはや奴隷の血ではなく、本当の、人間の血であることを感じるのです。」チェーホフのこの自画像は、ロパーヒンの姿を彷彿させる。ロパーヒンの形象を通してチェーホフは、全ての人が貴族の文化的高みに到達することの必要性を説いたと考えることができる。貴族が育てた優れた文化は継承すべきものであって、破壊されるべきものではない。歴史の変動で駆逐される運命にある貴族ではあるが、彼らの偉大な文化には敬意を払うべきである。この点が主張されたことにより、『桜の園』はロシアの貴族を悼む挽歌となりえた。(後略)
---------

今日は白倉克文氏の『近代ロシア文学の成立と西欧』(成文社、2001)を購入して少し読み始めましたが、全く素養がない分野なので、なかなか難しいですね。

http://www.seibunsha.net/books/ISBN4-915730-28-X.htm
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ラネーフスカヤ、かく語りき。

2009-06-04 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月 4日(木)01時06分3秒

アマゾンに注文したJames N. Loehlin氏の"Chekhov: The Cherry Orchard"がなかなか来ないので、少し手持ち無沙汰気味です。
代わりにと言っては何ですが、今日はチェーホフが日本でどのように受容されてきたかを知るために、菅井幸雄氏の『チェーホフ 日本への旅』(東洋書店、2004)を読んでみました。
しかし、納得しがたい箇所がいくつかあり、暫く紹介は控えます。
また、白倉克文氏の「『桜の園』の世界─チェーホフ最晩年の眼差し─」(『芸術世界 東京工芸大学芸術学部紀要』第12号、2006)も読んでみましたが、素人の身で僭越ながら、こちらは思考のバランスがとれた、非常に良い論文だなと思いました。
この論文の「おわりに」から、少し引用してみます。

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 『桜の園』は19世紀末から20世紀初頭のロシアの社会状況を背景とした戯曲であり、チェーホフの歴史観が、主としてトロフィーモフの形象を通じて、投影されている。ロシアのある地方の劇場で、チェーホフの存命中に、この歴史観に直截に反応した一人の観客がいた。1904年3月にカザン劇場で『桜の園』を観たカザン大学の学生パラノフスキーが、チェーホフに宛てて3通の手紙を認め、貴族制度を批判するトロフィーモフの主張に強い共感を示したのである。観客のこのような反応は、この戯曲がロシア史の一時期の特殊な状況をテーマにしていることへの反応であった。トロフィーモフの貴族制批判は当時のロシアにあってこそ観客に訴える力を持っていたが、現代においてはもはやその意味をほとんど失っている。
 その一方で、『桜の園』には、時代や場所とは無関係にあらゆる人々に訴える要素が多々含まれている。それは主として、登場人物の多彩な台詞に観客が共感することによってもたらされる。台詞の一節が、すでに最初期の上演時に、観客に深い感銘を与えた事例を、宗教哲学者セルゲイ・ブルガーコフの場合に見出すことができる。彼は1908年に行った講演で、全ての人間が幼児期には神的な穢れなさを持っていると強調しつつ、その例証として、ラネーフスカヤの台詞「ああ、わたしの清らかな、幼い日々!」を引用したのである。
 このように、発表された当初から『桜の園』は観客に多様な反応を呼び起こしており、その流れは今なお続いている。それはこの戯曲にチェーホフの豊かな人生経験が全篇隈なく擦り込まれているからであろう。登場人物の多くの台詞に深長な意味が込められているし、その上、辞世の挨拶を述べているかのような、暖かい眼差しが終始舞台に注がれている。ラネーフスカヤが最後に発する言葉「ああ、わたしのいとしい、なつかしい、美しい桜の園!わたしの命、わたしの青春、わたしの幸せ─さようなら・・・、永遠にさようなら!」には、死を意識したチェーホフ自身の感懐が込められているようにも思われる。この戯曲に流れている、人間の営みに対する暖かい眼差しは、彼自身が到達しえた高みからのものであり、それを可能にしたのは幼年時代からの艱難辛苦、サハリンを含む世界各地での人間観察、そしてまた、医業を通じての多様な人々との接触であったのだろう。(後略)
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「オフサ」と「利勝の死」

2009-06-02 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月 2日(火)23時04分49秒

『桜の園 : 附・叔父ワーニア』(瀬沼夏葉訳、新潮社、大正2)の復刻版を見たら、「甚麼」にはしっかりフリガナが振ってありましたね。
さて、この本の冒頭には次の一文があります。

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   序にかへて
チエホフの友人、シチエグロフ・レオンチエフは、千八百八十九年から、千八百九十年までの間、即ちチエホフが樺太へ旅行した前後の書簡や端書を、彼は宝物のやうに大切にして、これを皆製本して蔵つて置いた。今此処に掲ぐる書簡は其の一つで、チエホフの道徳思想の自白や、又此の手紙によつて、如何に彼の高い人格と、純潔な、正直な、打明な、親切な人間なるかを明かに知ることが出来ると思ふ。
で、私はこの書簡を序にかへることにした。
 千九百十三年四月十日
                中野にて 訳 者 し る す
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そしてこの後に、「三月廿二日 愛するジヤン君、御機嫌よう。長いお手紙と、御親切な御注意とを誠に有難う。君の軍事物語は拝読するのを楽んでゐます。これはパスハ号に掲載されるのですか?」で始まり、「愛すべき髭の二等大尉殿 貴下」で終わる7ページ分の手紙がついています。
こういう序文?も、ちょっと珍しい感じがします。
それと、この本の巻末に、「オフサ」と「利勝の死」という二冊の新刊書の広告が出ていたので、何だこれは、と思ってよく見たら、「ドオデエ作 武林無想庵氏訳 サフオ」と「ダンヌンツイオ作 生田長江氏訳 死の勝利」でした。
ま、どうでもいいことですが。
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甚麼風

2009-06-02 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月 2日(火)00時49分30秒  

>筆綾丸さん
三文字の熟語かと思ったら、「どんな風」(どんな・ふう)でした。
自分の投稿を読み返すと、「夏葉訳がどんなものか」はかなり間が抜けてますね。
恥ずかしい。

>「天地人」
寒河江は全然関係ないという感じでしたね。
山形市は、最上義光歴史館などに、例の「愛」の幟が飾られていました。
ただ、タクシーの運転手さんは、「米沢は『天地人』、酒田は『おくりびと』で、ちょっとした山形ブームだけど、山形市は取り残されてしまったねー」などと言っていました。

>好事家さん
>月輪南陵
これは筆綾丸さんが紹介されているブログに出ている皇嘉門院陵のことで、東福寺の上の方ですね。
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寒河江・山寺・石鳥居

2009-06-01 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 6月 1日(月)01時48分18秒

山形を旅行してきました。
土曜は寒河江の慈恩寺に行き、山形駅近くに宿泊。
日曜の朝は土砂降りの中、松尾芭蕉の蝉の句であまりにも有名な山寺に参詣した後、山形駅にもどって、元木の石鳥居・光禅寺・専称寺・最上義光歴史館・霞城公園など、あちこち回りました。
レスは後ほど。

石鳥居
http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/mm_bk_data/s/img_mm_series_manpo/No92/tor.html

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