学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『網野善彦対談集』

2015-02-15 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 2月15日(日)12時26分41秒

>筆綾丸さん
2012年12月頃には何を話題にしていたかなと思って以前の投稿を眺めてみたら、11月22日に私がシリアの宗教都市マルーラについて少し書いて、筆綾丸さんもアラム語などに触れられていますね。
あの頃も穏やかならざる情勢でしたが、最近はあまりに殺伐としているので海外ニュースを追うのもいささか億劫になります。

Maloula
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6577405536b2a7b177e411bf71927f90

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6614
broken Aramaic
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20e6eb32779f50f78eb9a7106b5e754c

>『網野善彦対談集』
『現代思想』の網野総特集は岩波が『網野善彦対談集』で儲けるための事前工作のような感じがしないでもないですね。
このシリーズは山本幸司氏の単独編集だそうですが、山本氏は編集者として網野氏に出会わなければ静岡文化芸術大学教授の地位も得られなかったでしょうから、最後のご奉公としてがんばってほしいものです。

※最後のご奉公云々はいつまでも網野氏の解説をしていないで独自研究をされたらいかがでしょうか、という程度の意味で、悪意は殆どありません。

『網野善彦対談集』
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/092811+/index.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

疾風・・・ダッソ―の至福の瞬間 2015/02/13(金) 13:27:00
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%B3%95%E6%82%A6
現代史家には歴史に追い抜かれるという至福の瞬間があるという告白には、イタリア・バロックの傑作『聖テレジアの法悦』のような、中世史家や近世史家には無縁の禁断の史的法悦(?)とでも呼ぶべきものがありますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC
現在の大統領はクーデターの首謀者アッ=シーシーですね。

http://www.lefigaro.fr/societes/2015/02/12/20005-20150212ARTFIG00517-contrat-historique-pour-le-rafale-en-egypte.php
二基のピラミッドを背後に従えた戦闘機ラファルの雄姿は、ダッソ―の「至福の瞬間」を見事に表わしていて(ちなみに、フィガロはダッソ―・グループの新聞社)、ルーヴル美術館所蔵の名画を見るような、寸分の狂いもない美的構図には溜息が出ますね。超帝国主義的オート・クチュール的コンポジション?
ラファル24機とフリゲート艦1隻、関連部品合わせて、50億ユーロ(約7,000億円)の「歴史に追い抜かれるような」歴史的な売買契約で、オランド大統領はル・ドリアン国防相に、フランス国の名において署名するよう命じ、式典にはアッ=シーシー大統領臨席のもと、ダッソ―はじめ軍需産業の幹部が参列する予定で、契約の背景にはリビア国境やシナイ半島の治安問題がある、とのことです。(フランスの国営ラジオ放送 RFI によれば、この契約はムルシー追放を批判して F16 戦闘機20機の輸出を凍結したアメリカの裏をかいたものとのことなので、下品な表現をすれば、コキュ(間男)のような寝技で、フランス人の得意技のひとつですね)
フィガロは一貫して、「イスラム国」を Daech(ダーイシュ:ad-dawla al-islāmiyya の acronym )と表記していて、ほかのメディアと少し違いますね。
オランド大統領は、ミンスクでメルケル首相と仲人役(さながら初老の夫婦のよう)を演じていたと思いきや、返す刀でラファルを売り込むとは、原子力空母(シャルル・ド・ゴール)のスエズ運河航行におけるドゥルーズ/ガタリ的な平滑化という哲学的な問題もあったのでしょうね。オランドは顔に似合わずENA出身の大変なインテリだから、ポストモダンにも深い関心があるはずです。
RFI の記事には、le président égyptien(エジプト大統領)と同時に le maréchal (元帥)Sissi という表現をしていて、軍人は立候補できないというウィキの説明と読み比べると、元帥は軍人ではなく名誉称号であって、形式的には欧米的なシビリアン・コントロールだ、ということなんでしょうが、ただの大統領より恐い感じがしますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BC%8F%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%82%84%E3%81%A6_(%E5%88%97%E8%BB%8A)
蛇足ながら rafale は疾風という意味で、旧帝国陸軍の戦闘機「疾風」の後継機で、東北新幹線の車両「はやて」の姉妹機でもあって、逃足は速いそうです。そういえば、疾風という忍者もいましたね。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/092811+/index.html
採算は関係ないとしても、この対談集はどれくらい売れるものでしょうか。
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コミカルな味わいが出てきた桜井英治氏

2015-01-26 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月26日(月)10時13分35秒

私は経済が苦手なので、以前は桜井英治氏の著書や論文を読んで、殆ど仰ぎ見るような存在に思っていた時期があったのですが、桜井氏が小川剛生・高岸輝・松岡心平氏と一緒になって、足利義満は光源氏だあ~、みたいなことを言っているのを眺めていて一抹の不安を感じるようになり(『ZEAMI―中世の芸術と文化〈04〉特集 足利義満の時代六百年忌記念』「足利義満の文化戦略」)、『現代思想』網野善彦特集号では一歩進んでコミカルな味わいも感じるようになりました。
少し引用してみます。(p77以下)

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成田 桜井さんは、著作集の『無縁・公界・楽』の巻で「解説」を書かれていますね。
桜井 たしかに『無縁・公界・楽』は、網野さんらしくないと言えば網野さんらしくないところのある本で、実証的な部分はじつは半分ぐらいなのですね。あとは辻褄合わせというと表現は悪いのですが、論理でカバーされている。網野さんの仕事のなかでは形式論理で攻めていった部分が極端に多い本なのです。
 じつは、網野さんが注目した意味での「無縁」「公界」「楽」という言葉は、戦国時代ごろにしか出てきません。原理としては人類史を貫いているのに、言葉としてはこの時代にしか出てこない。その理由をまず説明しなければならない。そこで「有縁」の勢力がある程度強まらないと「無縁」も自覚されないのだと説明された。私的所有によって追い込められたところでようやく「無縁」も自覚される、「無縁」「公界」「楽」という言葉の出現が遅れたのはそのためであると。しかし、もっと遡ると「有縁」も「無縁」もなくなって、「原無縁」の世界になる。「有縁」があっての「無縁」であって、「有縁」がなければ「無縁」も、そしてそれ以前の「原無縁」も想定できなくなる。ひじょうに宇宙論的な話になってきますが、そのあたりはとても実証的とは言えません。
--------

これを受けて、保立道久氏も『無縁・公界・楽』は実証的な分析ではないと言うと、綾小路きみまろが「『無縁・公界・楽』は、お二人とちがって、私などからするとかなり実証的な仕事のようにみえます」云々とトンチンカンな感想を述べ、ついで山本幸司氏が「そういう意味では実証的ですよ。それは天才だから(笑)」というコバンザメ的な相槌を打つのですが、その後の桜井氏の釈明はすごいですね。

--------
桜井 ただ人類史を語っているのですが、じっさいに取り扱っている史料は中世後期から近世のものがほとんどで、それ以外は論理的に組み立てている。だからページの配分にも偏りがあって、中世後期についての叙述がほとんどです。
 先ほど「辻褄合わせ」と言ったのはちょっと表現が良くなかったかもしれません。網野さんはご自分のおっしゃっていることのなかに辻褄の合わないことを残さないという律儀なところがあります。そんなことまで気にされていたのかというところまでちゃんと読み込んでおられた。網野さんはひじょうに大きなこともおっしゃるので、あっちでああ言い、こっちでこう言いと場当たり的な発言をしていると誤解している人もいるかもしれませんが、そうではありません。網野さんはご自身の発言を全部おぼえておられて、全部に説明をつけておられた。だから結果的に、きわめて体系的なお仕事になっているのです。実証ももちろんですが、理論についてもご自分の発言にひじょうに責任をもっておられたと思います。
--------

『無縁・公界・楽』を徹底的に読み込んだ桜井氏は、最終的な結論として、同書は「形式論理」であり「辻褄合わせ」だとポロっと本音を言ってしまった訳ですが、さすがにちょっとまずかったなと反省し、必死になって弁解した結果、網野善彦氏は一切の矛盾を持たない、完全無欠の存在になってしまっていますね。
殆ど全盛期のスターリンや毛沢東への賛美の如く、最近では某国の将軍様への賛美の如く、ここに網野善彦無謬神話が誕生した訳ですね。

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日米の盆栽愛好者たち

2015-01-23 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月23日(金)13時01分21秒

>筆綾丸さん
私もHarootunianというのは珍しい姓だなと思って欧米の家系サイトをいくつか見たのですが、僅少な姓のためか、特に解説はありませんでした。
ご紹介の東大駒場のサイト、ざっと読んでみましたが、なかなか難解ですね。

---------
「不同一の時間性/予言不可能な複数の過去―歴史的な場における時間の形式」と題されたハルトゥーニアン氏による講演では、歴史的語り(大きな物語)によって抑圧され、隠蔽されてきた複数の過去をいかにして回復するかという問題が議論された。大文字の物語としての歴史の語りの背後にある複数的で重層的な過去を捉えるためにこれまで試みられてきた方法論を召還するハルトゥーニアン氏の重厚な語りは、ブロッホ、マルクス、ランシエール、戸坂潤、リクール等の方法論を批判的に取り越えることで、新たな可能性としての方法論を提示するに至る。
(中略)
ハルトゥーニアン氏のうねるような思考と語りによって導き出された線状的な時間性を超える複数的な時間は非常に魅力的であるものの、それが詩作活動を通して初めて顕現する時間の様態であるならば、創作された詩の作品それ自体が議論の俎上に挙げられるべきではなかっただろうか。とはいえ、ハルトゥーニアン氏と酒井氏による発表の後の議論では、両者の議論の論点となる「複数の時間性」や「日本人の体験としての沖縄」の位置づけなどについての活発な質疑が行われた。酒井氏の議論の枠組みのブラジル人移民の問題における蓋然性や、ハルトゥーニアン氏が労働者たちの詩作活動に見出したオルターナティブとしての時間における労働者の主体性の問題についてはより深い議論が交わされ、参加者は非常に刺激的な時間を共有したといえるだろう。        (文責:内藤まりこ)
---------

まあ、こういう話が好きな人にとってはハルトゥーニアン氏は一種の教祖的な存在なのでしょうが、今どき戸坂潤だなんて、ずいぶん屈折した東洋趣味の持ち主のようにも感じます。
成田龍一氏あたりがやっている国際交流って、「異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつる」盆栽マニアの、盆栽マニアによる、盆栽マニアのための情報交換会じゃないですかね。
ご本人たちが「かたは者どもの集まり」とまでは言いませんが。

戸坂潤

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

本山の睛は節穴か 2015/01/22(木) 21:41:20
小太郎さん
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2009/06/post-238/
顔から判断すると、Harootunian 氏は東欧系でしょうか。

http://www.kenchoji.com/?page_id=58
「用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」をあらためて眺めてみたのですが、翳晴の「晴」は晴天の「晴」ではなく、画龍点睛の「睛」つまり「瞳」ではないか、と思われました。睛に翳す、睛に翳をなす、ということ。建長寺の公式ページの道隆の遺偈は一字間違いであり、本山は開山の遺偈を理解できていないことを公に曝け出したもの、と考えてよいのかもしれません。ま、「睛(ひとみ)」と理解しても、くだらぬ偈であることに変わりはないのですが。

追記:国王の死
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-30945324
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the Custodian of the Two Holy Mosques King Abdullah bin Abdulaziz, who passed away at exactly 1am this morning・・・
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Abdullah was the 13th of the 37 sons of King Abdulaziz. He is believed to have been born in August 1924 in Riyadh, although there is some dispute about his actual birth date.
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生没年を対比してみると、曖昧は生な対して、at exactly 1am this morning の exactly 1am という死亡時刻が砂漠の地平線のように峻烈で、ほとんど詩のような印象を受けます。 また、37人兄弟の13番目で王位を継承したというのは日本のような国では想像の埒外ですが、さらに系図上、王位が縦方向へ流れずに横へ横へと逸れてゆくというのも( full-brother か half-brother かを問わない。次期国王は26番目、次期皇太子は35番目の異母兄弟の由)、砂漠の地平線に揺曳する蜃気楼のような趣です。そして、King の前に the Custodian of the Two Holy Mosques という尊称が置かれるのは、いかにもイスラムの国です。以上を要するに、なんとも不思議な国だなあ、と思いました。
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謎の発言者

2015-01-22 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月22日(木)16時05分23秒

討議「網野善彦は歴史学をどう書きかえたか」の中で、一箇所だけ身元不詳の人物の発言がありますね。
成田龍一氏がハリー・ハルトゥーニアン氏に言及した直後の部分です。(p87以下)

--------
保立 最初に話題にされた、先日成田さんがアメリカで参加してきた学会のもう一人の主催者のことですが・・・・・。
成田 ハルトゥーニアンさんのことですか。
保立 ええ、韓国で梨花女子大の咸東珠(ハン・ドンジュ)先生に会ったら、ハルトゥーニアンさんの教え子だと言っておられた。
成田 ハルトゥーニアンさんがナラティブの歴史研究を日本研究に持ち込んだパイオニアです。彼が「日本」を自明としない日本研究というものがあるんだとうことを最初に言い出して、その元にいっぱい人が集まってきました。ハルトゥーニアンさんがシカゴ大学にいたのでシカゴ学派というのですが、そのとき大学院生だったのが酒井直樹さんやフジタニ・タカシさんたちです。
 ハルトゥーニアンさんのアウトプットの仕方は歴史像というよりも歴史理論を出すというやり方ですので、フジタニさんなどは歴史像を描くなかで、「日本」の自明性を壊し、あらたな日本研究のありようを探っています。
── 今回成田さんのご紹介でこの特集号に文章を寄せてくださったウィリアム・ジョンストンさんは、そのへんの人脈とは違いますか?
成田 少し違います。(後略)
--------

36ページに渡る討議の記録の全文を再確認してみましたが、実にここ一箇所だけ、発言者の名前がない謎のコメントが記録されています。
事情は知りませんが、おそらくこれは(Mz)として「編集後記」を書き、奥付に「編集人 水木康文」と出ている人物の発言なんでしょうね。
成田龍一氏が紹介したというウィリアム・ジョンストン氏の「封建漁民から列島の人々へ 網野善彦の歴史叙述の旅路」(p232以下)は、前にも少し書いたように事実関係が間違いだらけですが、まあ、アメリカの研究者だから仕方ありません。
私が丁寧に添削してあげたら多少は感謝してもらえそうですが。

久しぶりに網野善右衛門氏について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae3a13aa850fef5f5f521e511cc01377

>筆綾丸さん
>時頼の遺偈は浅ましいコピペ
日本有数の巨刹である建長寺には、その権力と財力で集めた最強の弁護団が数百年間存在していますから、いくらブチブチ言っても蟷螂の斧ですが、それだけに細々と文句を言う楽しみは格別ですね。

>佐藤優氏
図書館で基督教関係の本棚を眺めていて気づいたのですが、佐藤優氏は新教出版社からけっこう本を出していますね。
私には神学関係の内容の適否を判断する能力は全くありませんが、佐藤氏の文章には同志社大学大学院神学研究科修了という経歴はダテではないな、と思わせる迫力がありました。
インテリジェンス関係で社会から受け入れられなくなっても、宗教関係で生きてゆくこともできそうで、なかなか生命力の強い人ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

軽業師の Sein と Sollen 2015/01/22(木) 12:31:18
小太郎さん
『東アジアのなかの建長寺』が開山に多くの頁を割きながらも遺偈については何も語らない、という不自然さは、いつにかかって遺偈の奇怪さにある、ということなんでしょうね。時頼の遺偈は浅ましいコピペで、道隆の遺偈は忍者もどきの曲芸で、こんなものが鎌倉期の禅思想の到達点だとすると、大文明国の本物の知識人は南宋に殉じてみんな死に絶え、東アジアの果ての辺鄙な国に亡命してきたのは傍流の変人ばかりだったのではあるまいか、という気もしてきますね。それでは中世の研究者として身も蓋もないので、鎌倉期の禅僧たちをなにがなんでも持ち上げねばならぬ、それは禅的哲学者云うところの絶対矛盾的自己同一としてのアクロバティック・ゾレン(軽業師的な当為)であって・・・。

『捏造の科学者』の著者(須田桃子氏)は優秀な方で、早大時代の専攻が物理学というのも頷けます。しかし、読了後も、小保方晴子という女は何者だったのか、という謎は残りました。女教祖のような存在・・・。

http://www.shinchosha.co.jp/book/610600/
『賢者の戦略』で、佐藤優氏が次のように述べています。
--------------
佐藤 理研の小保方さんの問題が起きたとき、僕がまず心配になったのは、彼女がイランや北朝鮮などにリクルートされたら、とても面倒なことになる、ということでした。彼女には研究者としての一定の能力がある、理系の能も持っている、恐らく日本に対して恨みも持っている。三条件が揃っています。そんな彼女に、「あなたは研究が好きでしょう。わが国の新しい研究施設で生物兵器の研究をやりませんか。恨みも晴らせるんじゃないですか」などと声をかけてこないこと限らないのです。荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、世界ではそんなことが日常茶飯で起きているんですよ。「情報屋」も同じことです。それなりの能力のある人間が、海外から引きぬかれたらどうするか。これを一番に心配するわけです。(263頁~)
--------------
これが自称「インテリジェンスの専門家」の心配なんだそうですが、こんなバカなことを考える能力には吃驚しました。「イランや北朝鮮」はそれほどバカではあるまい。理研のCDBを解体に導いたという華々しい実績からすれば、敵国に潜入して「破壊工作」をする「コツ」「や「レシピ」は持っているかもしれませんが、ただそれも、日本国内だからできたのであって、臨戦態勢にある「イランや北朝鮮」では難しいだろうなあ、とは思います。
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"East Asian Historical Thought in Comparative Perspective"

2015-01-22 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月22日(木)13時09分53秒

コロンビア大学のウェブサイトによれば、成田龍一氏がアメリカで参加したという「シンポジウム」は、正確には"East Asian Historical Thought in Comparative Perspective: What History Is, Knows, Does" という"Lecture Series"(連続講義)だそうですね。
「比較を通しての東アジアの歴史的思考 歴史とは何であり、何を知り、何をなすのか」とでも訳せばよいのでしょうか。

---------
Lecture Series

"East Asian Historical Thought in Comparative Perspective: What History Is, Knows, Does"
October 2014 - December 2014

October 14
(Tuesday)
"Japan"
Narita Ryuichi, Professor, Japan Women's University
Harry Harootunian, Adjunct Senior Research Scholar, Weatherhead East Asian Institute, Columbia University
Carol Gluck, George Sansom Professor of History, Columbia University
6:00 PM - 8:00 PM
International Affairs Building Room 918
No registration required.
Co-sponsored by the Department of History

http://www.columbia.edu/cu/weai/events/brownbags/east_asian_historical_thoughts.html

2014年10月14日、11月18日、12月3日の3回、各2時間開催されて、テーマはそれぞれ「日本」「中国」「西洋」。
一回目はJapan Women's University教授の成田龍一氏とHarry Harootunian、Carol Gluck氏の三人が議論したらしいので、まあ、小なりといえども「シンポジウム」なのでしょうが、2回目はウィスコンシン大学歴史学部助教授のViren Murthy氏、3回目は"Moved by the Past"という本の著者Eelco Runia氏の名前しか出ていないので、単なる講演じゃないですかね。
検索してみたところ、Viren Murthy氏は東アジアの知識人、章炳麟や竹内好などを研究対象としている人だそうですね。

Viren Murthy
http://history.wisc.edu/people/faculty/murthy.htm

Eelco Runia氏は、ご本人のサイトによればオランダの小説家兼歴史哲学者だそうです。

Moved by the Past Discontinuity and Historical Mutation
http://cup.columbia.edu/book/moved-by-the-past/9780231168205
Eelco Runia
http://www.eelcorunia.nl/biography/

まあ、経歴・著作等をネットでざっと見ただけで判断するのは失礼かもしれませんが、両氏とも歴史学の主流を歩むというよりは、周辺のマイナーな分野にいる人のような感じがします。
この「シンポジウム」から「世界的に歴史学のあり方を見直そうという機運が出てきている」とまで言うのは、些かハッタリも度を過ぎているのではないですかね。

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成田龍一氏に学ぶ司会術

2015-01-21 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月21日(水)16時36分53秒

『現代思想』の桜井英治・保立道久・山本幸司・成田龍一氏による共同討議「網野善彦は歴史学をどう書きかえたか」は素晴らしい内容ですね。
中でも見事なのが成田龍一氏の水際立った司会振りです。
冒頭を少し引用すると、

-------
成田 私は先週までアメリカに行っており、「What History Is, Knows, Does.」というシンポジウムに参加してきました。歴史学者のキャロル・グラックさんとハリー・ハルトゥーニアンさんが主軸になって、毎回ゲストを招いて連続シリーズをつくるということで、一回目に私が呼ばれていったのですが、韓国でもイム・ジヒョンさんを中心に、歴史学の総括が企図されており、世界的に歴史学のあり方を見直そうという機運が出てきているように感じます。それは人文学が落ち目になってきていることに対して、歴史学の側からなにか反論していこうという動きであるでしょう。そういう手がかりが日本の中にどういう形であるのかということを考えた時に、真っ先に思い当たるのが、網野善彦さんの歴史学です。
-------

といった具合です。
Carol Gluck女史(1941-、コロンビア大学教授)とHarry Harootunian氏(1929-、ニューヨーク大学名誉教授)はアメリカの歴史学界ではマイナーな分野である日本研究の専門家ですね。

Carol Gluck
http://www.columbia.edu/cu/weai/faculty/gluck.html
Harry Harootunian
http://history.fas.nyu.edu/object/harryharootunian

イム・ジヒョン(林志弦、漢陽大学校比較歴史文化研究所所長)氏には、

-----
日本語による主要な業績として「六八年革命と朝鮮半島」(『環』33号、2008)、「『世襲的犠牲者』意識と脱植民地主義の歴史学」(三谷博・金泰昌編『東アジア歴史対話 国境と世代を超えて』東京大学出版会、2007)、「国民国家の内と外」(『現代思想』2005、6)、編著として『植民地近代の視座ー朝鮮と日本ー』(岩波書店、2004)等がある。
http://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20100626/1277642508

そうですが、ネットで見る限り、韓国でもあくまで少数派的存在みたいですね。

http://blog.goo.ne.jp/dalpaengi/e/236c58189ca4a910c629c7392958d2af

まあ、これらの方々の動向から「世界的に歴史学のあり方を見直そうという機運が出てきているように感じ」られるかは若干微妙ですが、共同討議の冒頭挨拶としては非常に格調が高くてよいですね。
『網野善彦対談集「日本」をめぐって』においても、成田龍一氏は殆どイヤミの一歩手前くらいのおべんちゃらを駆使して円滑に対談を進行させており、本当に司会者としての才能に恵まれた方ですね。
歴史学界の綾小路きみまろみたいな人、と言ったら誉めすぎでしょうか。
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人生が二度あれば合唱団

2015-01-21 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月21日(水)16時28分23秒

>筆綾丸さん
>「用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」
自分で訳す自信がないので検索してみたら、「陰陽術を用いて 30年あまり とんぼ返りをしたり 天地がぐるぐる回ったり」としている方のブログがありました。
ずいぶんと騒々しい、奇妙な遺偈ですね。


66年の人生で二度流罪というのも実に変な話で、建長寺公式サイトでは「叡山僧徒の反抗にあって二回にわたり甲斐に配流されたりした」などと奇麗事を言っていますが、これも流罪の時点での客観的な史料で裏付けられる訳ではありませんから、ま、伝記がまとめられた際の潤色でしょうね。
二度の流罪というと他に日蓮や京極為兼くらいしか思い浮かびませんが、日蓮の場合は筋金入りの強烈な体制批判者ですから幕府も流罪にせざるをえないでしょうし、また、京極為兼の流罪には持明院統・大覚寺統の対立という複雑な背景がありますから、詳しい事情はよく分からないにしても、まあ、不思議ではありません。
しかし、鎌倉中期にはまだ珍しかった中国渡来の超一流文化人で、幕府の最高権力者に密着していた蘭渓道隆が何で二度も流罪になるのか。
「叡山僧徒の反抗」や中国スパイ疑惑説などより、単純に本人が変な人だった、権力者を著しく刺激する奇矯な言動があった、と考える方が素直ではないですかね。


♪人生が二度あれば~ この人生が二度あれば~♪
♪流罪は四度~♪(日蓮)
♪流罪は四度~♪(京極為兼)
♪流罪は四度~♪(蘭渓道隆)


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

盆栽の水 2015/01/19(月) 13:25:14
小太郎卿殿
「京極派盆栽説」、まったく忘れていましたが(というより、あの当時、この説を理解できるほどの知識がなかったのですが)、いま読み返してみると、正鵠を射ているような気がします。

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福岡市の夏を彩る博多祇園山笠では6年前の祭から山笠の男衆を清める「勢(きお)い水」に静岡市の沢水も使う。福岡を結ぶ静岡空港開港を機に始まった交流だが、もともと縁は深い。山笠の起源を作ったとされる鎌倉時代の禅僧、聖一(しょういちこくし)国師の生家は静岡市内。近くの沢でくんだ水を届ける。
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今日の日経新聞35面『時流地流ー祭りが取り持つ縁』に円爾の話がありますが、かなり有名なんですね。
http://www.nishinippon.co.jp/hakata/yamakasa/2009/news/20090613/20090613_0002.shtml
http://www.nishinippon.co.jp/hakata/yamakasa/2009/news/20090716/20090716_0001.shtml
http://www.at-s.com/news/detail/1097914076.html
沢水は栃沢の水、国師の生家(米沢家)は今も続いているとのことで、おどろきました。
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「三井寺の甲之上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて」

2015-01-19 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月19日(月)11時12分22秒

>筆綾丸さん
ウィキペディアの日野資朝の項、

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文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、元亨元年(1321年)に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父俊光が資朝を非難して義絶したという。
------

と説明し、注記で『花園院宸記』元亨2年11月6日条と明記しており、なかなかの優良記事ですね。
以前、『徒然草』第154段に関し、「京極派盆栽説」というのを書きましたが、着想のときは冗談のつもりだったのに、書いている途中でまんざら冗談でもないような妙な感じになりました。
今読み返しても、けっこう真面目な議論として通用するのじゃないかなと思います。

京極派盆栽説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c65abdeea6bfda4faf8d355fcef4b301

『徒然草』第152段も、何だか最近同じようなことを書いたような妙な気分です。

-------
 三井寺の甲之上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて、内裏へまゐられたりけるを、昆野寺内大臣伸幸殿、「あなたふとの気色にや」とて、信仰の気色ありければ、小太郎卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。後日に、尨犬の浅ましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この気色尊くみえて候」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a5f5d31b7d8616eee31d6fbaf2c046d

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

寓喩? 2015/01/18(日) 23:09:56
小太郎さん
『網野善彦対談集「日本」をめぐって』の、石母田氏のパーキンソン病の話は痛ましいですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E6%9C%9D
第百五十段は持明院派と大覚寺派に関する寓喩なのかもしれないですね。前者は「不具に異様なる」「かたは者どもの」や「たぐひきなき曲者」どもの集まりで、後者は「すなほに珍しからぬ」者たちの集まりで、後醍醐は異形な王などではなく常識的な王であった、というような・・・。あるいは、この話は資朝の転向後の自己嫌悪の寓喩なのかもしれず、「さもありぬべき事なり」とは、兼好自身にも何か似たようなことがあったことを暗示しているのかもしれないですね。(あの時代、党派の変更など侍臣にとって転向(conversion)というほどのことではなかったかもしれませんが)

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163901916
須田桃子氏『捏造の科学者ーSTAP細胞事件』を読み始めましたが、これは面白いです。

『東アジアのなかの建長寺』「蘭渓道隆」(西尾賢隆氏)に、「四川の蘭渓邑生まれの道隆は、地名(ちみん)を道号とする」(166頁)とありますが、彭丹氏のコラム「道隆出蜀」が正しいなら、四川省に「蘭渓邑」などというものは存在しなかったことになりますね。
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「かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ」

2015-01-17 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月17日(土)21時32分17秒

>筆綾丸さん
今頃やっと『網野善彦対談集「日本」をめぐって』を入手し、読んでみました。
対談相手の写真を見る限り、田中優子氏は水商売風、成田龍一氏は中国共産党の幹部っぽいなど、それぞれ個性的な方々ですが、小熊英二氏はヨーロッパ中世絵画のデビルのような風貌で、特に異彩を放っていますね。
原発事故後の小熊氏の行動を見ていて、ちょっと莫迦にしていたこともあり、正直、全然期待していなかったのですが、小熊氏は思想の整理整頓が得意な人で、網野氏の相手もそつなくこなしていますね。
以前から少し気になっていた点についての説明も見つけることができました。(p182)

--------
小熊 そこが非常に興味深いというか、別にアナール学派のものをお読みになっていたというわけではないんですね。
網野 全然読んでいません。だから、のちにアナール派との共通性とか、社会史とかいわれることに、私は非常に困りました。まったく事実に反しているからです。強いてフランスの学問の影響をあげれば、旧制高校生のころ、岩波文庫の『人文地理学序説』や『大地と人類の進化』という本を面白く読んだ記憶があります。あのころゲオポリティークというドイツの、ナチスとも関係のあった学問が流行ったのですが、それに対してフランスの人文地理学はとても新鮮でおもしろかったのです。いずれも飯塚浩二さんの翻訳なのですね。これはアナールとどこかでつながるものかもしれませんが、あとは、マルク・ブロックの『フランス農村史の基本的性格』を読んだ程度です。大体フランス語は読めないのですから直接の影響などまったくありません。
小熊 ブロックは五〇年前後に、アナール学派ということではなくて、レジスタンス活動に参加した歴史家として、石母田さんなどが紹介していましたからね。
--------

アナール派との関係云々の話はあちこちで聞きますが、本人が「大体フランス語は読めないのですから直接の影響などまったくありません」とまで言うのだから、まあ、信じてよさそうですね。
それにしてもここまで力強く言われると、まるでフランス語ができないことを自慢しているようにも聞こえます。
網野氏は自己の学説の独創性に極端にこだわる人ですが、これが例えば石母田氏だったら、たまたま生じた類似性を面白がって、フランスの論文を猛烈なスピードで博捜し、自説の更なる革新を図ったかもしれません。
個性と語学力の違いですから仕方ありませんが、網野氏の妙なこだわりはあまり格好良くないように感じます。
『現代思想』特集号をきっかけに網野善彦氏と中沢新一氏の本をいくつか読み直してみましたが、今の私の心境は『徒然草』第154段、東寺の門に雨宿りした日野資朝みたいな感じですね。不遜ですが。

------
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集まりゐたるが、手 も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりにたぐひなき曲者なり、もつとも愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただすなほに珍しからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。
 さもありぬべき事なり。

http://web.archive.org/web/20150502075504/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-154-amayadori.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Zen Road の hegemony  2015/01/16(金) 20:03:20
小太郎さん
http://www.kenchoji.com/?page_id=58
『東アジアのなかの建長寺』の「あとがき」(平成二十六年十月十五日 大本山 建長寺)の一部に、次のようにあります。
-------------
建長寺の開山様が中国から来日された七六八年前、日本を含めた東アジアはどの様な状況で、禅は日本に何をもたらしたのでしょうか。日本の”禅の源流”としての建長寺には、それを解明していく役割があります。禅ロードを通じて鎌倉に到達したあの頃を、今一度振り返り、これからの進路を考えるための大事な手がかりが、この本の中にぎっしりつまっています。(475頁)
-------------
「禅ロード」という言葉は初めて知りました。この本には開山の遺偈に言及した論文がなく、時頼の遺偈に関する恣意的な解釈はあるのに、不思議と言えば不思議なことです。
http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/archive/data/j3702-05/for_print.pdf
「用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」が開山の遺偈とのことで、菅基久子氏の「蘭渓道隆の座禅論」によれば、「用翳晴術」は「古代中国で眼光を眩ます術」を云い、「三十余年」は「日本で過ごした歳月であり、来日以前の活動は含まれていない」とのことですが、要するに、何が言いたいのか、よくわかりません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E6%96%97%E9%9B%B2
こういうことではあるまいか。来日してずっと、翳晴術で得宗家の連中を眩惑してきた、そして、筋斗は觔斗雲に通じ、孫悟空のように雲に乗り翩々と日本国を東奔西走して、地を転倒させ天を旋回せしめた(地はうつり天はめぐった)、つまり、凡庸な教えに満足していた日本の宗教界に禅宗によって目も眩むような革命を起こしたのだ・・・というような意味なのではあるまいか(?)。

高橋典幸氏の「北条時頼とその時代」に、次のような記述があります。
------------
・・・(九条)道家が四条天皇の外戚の地位を手にしたこともあって、安貞二年(一二二八)以降は道家とその子・婿たちによって摂関は独占されており、まさに朝廷においては道家の覇権が確立していた観がある。幕府も基本的には道家の覇権を支持しており、承久の乱後の朝幕関係は以上のような形でおおむね安定的に保たれていたと言えよう。(64頁)
------------
覇権は春秋五覇や国家のヘゲモニー(hegemony)というように使うのが普通で、道家の権勢とは言えても「道家の覇権」とは言えないはずで、高橋氏の語感はよくわからないですね。
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網野善彦氏の「みずみずしい感性」と後深草院二条

2015-01-15 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月15日(木)12時47分43秒

筆綾丸さんご紹介の毎日新聞のコラム、記念に『問はず語り』関係のみ保存しておきます。

---------
余録:鎌倉時代に書かれた「問はず語り」によれば…
毎日新聞 2015年01月14日

鎌倉時代に書かれた「問はず語り」によれば、女たちに組みつかれた後深草上皇は粥杖(かゆづえ)でさんざんたたかれたという。粥杖とは正月15日の粥を煮る時の薪(たきぎ)を削った杖。その日貴族たちは女も男もいり交じって、その杖でお尻をたたき合った▲平安時代の「狭衣物語」は書いている。「十五日には若い人たちが集まり、美しい粥杖を後ろに隠しながら互いの隙(すき)をうかがい、打たれまいと身構える姿やどうにかして相手を打とうと思っているさまが何ともおかしい」▲粥杖は邪気を払う呪力があると考えられ、お尻を打たれると子宝に恵まれるとの俗信があったそうな。後の世で嫁のお尻を柳の枝などでたたいて子宝が授かるよう願う小正月の風習のルーツらしい。その昔、多くが正月14日の夜から15日に行われた小正月の諸行事だ▲
http://mainichi.jp/opinion/news/20150114k0000m070102000c.html

『問はず語り』と『狭衣物語』に着目するとは、このコラムの執筆者はなかなかの古典通ですね。
『問はず語り』の粥杖の場面は網野善彦氏の『蒙古襲来』にも大量に引用されていますが、これは1974年という出版の時点を考えると驚くべきことです。
『問はず語り』の発見後、家永三郎氏が非常に早い段階で『問はず語り』に着目したのを唯一の例外として、生真面目な歴史学者たちは『問はず語り』など無視していたのですが、永原慶二氏の弟子である田沼睦氏が和知の場面を地方武士の生態を知ることのできる貴重な史料として紹介し、それに見た網野善彦氏が、おそらく当時参照できた唯一の注釈書である富倉徳次郎氏の筑摩叢書『とはずがたり』(1969、筑摩書房)を入手し、これは素晴らしい「史料」だと考えて『蒙古襲来』で大量に引用したのだろうと推測できます。

宮廷の左義長
http://web.archive.org/web/20150830053422/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino.htm
『とはずがたり』巻2.粥杖の報復に作者院を打つ
http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

『現代思想 総特集網野善彦』における呉座勇一氏の『蒙古襲来』書評によれば、五味文彦氏は『蒙古襲来』を「概説書であるが、鎌倉時代末期の社会をみずみずしい感性と精力的な実証で明らかにした」と賛辞を寄せているそうですが(五味文彦『大系日本の歴史5 鎌倉と京』)、この粥杖事件に関する記述など、まさに網野善彦氏の「みずみずしい感性」が伺われる部分ですね。
ただ、それが「精力的な実証」に基づいているかは別問題で、1970年頃、相生山の「生駒庵」において、自らが普通の学者莫迦に見られる程度の朴念仁や唐変木のレベルを超越した純粋なアンポンタンであることを実証した網野善彦氏が性悪女に騙されているだけのようにも見えます。
網野善彦氏は四十半ばになっても少年の心を持ち続けた人なので、『問はず語り』のような複雑な性格の書物を扱うのには無理が多かったのだろうなあと、不遜にも私は思います。
なお、網野氏は粥杖事件だけでなく、二条が鎌倉に下って平頼綱とその妻、息子たちと交流する場面も、全くの史実として『蒙古襲来』に取り上げていますね。

「得宗御内人の専権」-御内人と尼僧二条
http://web.archive.org/web/20061006211202/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-tokusou-miuchibito.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

粥杖と納豆と黍団子 2015/01/14(水) 18:35:32
小太郎さん
http://mainichi.jp/opinion/news/20150114k0000m070102000c.html
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_18.html
毎日新聞の一面下欄の「余録」に、『とはずがたり』の粥杖の話が引用されているので、びっくりしました。後深草院の名が全国紙の一面に載ったのは、もしかすると、空前の出来事かもしれませんね。『三人吉三廓初買』ではありませんが、こいつぁ春から縁起がいいわえ(?)。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13HAQ_T10C15A1CR0000/
歌会始の選者(篠弘)の歌ですが、新年に宮中で「古本市」を詠む感覚は遁世者のようで、なかなか凄味がありますね。また、入選歌のなかには「本」を詠み込まないルール違反で意味不明の歌がありますが、雉と云い鬼と云い島と云い、新年に何故なのかということはさておき、これは桃太郎の鬼退治の話でしょうか。(「桃太郎の鬼退治」という「絵本」が「日本」にはある、ということか。なぜこの歌が選ばれたか、新年の謎です)

http://www.nikkei.com/article/DGXKZO81829260Q5A110C1EL1P01/
http://www.akitafan.com/special/detail.html?special_id=80
日経新聞で初めて知ったのですが、真偽はともかく、納豆の発祥には後三年の役の八幡太郎が関係していたのですね。
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アミノ細胞とナカザワ細胞のコンタミネーション

2015-01-12 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月12日(月)10時58分37秒

>筆綾丸さん
>反自然の人工的な世界に生きてきた人
退廃と洗練が同居する遊廓は都市的であり、資本主義的であり、通常の社会の地位・身分が通用しない空間である点でアジール的でもあって、「網野史学」のキーワードが凝縮されているような感じもしますね。

>両氏の倒錯的な感覚
私はある時期まで、「アミノ史学」にはアミノ細胞とナカザワ細胞のコンタミネーションがあるから、これをきちんと切り分けなければならないと思っていたのですが、1970年頃まで遡っても「倒錯的な感覚」において両者は一体であり、互いに影響しあって「アミノ史学」を作り上げていったと考えざるをえないですね。
それにしても、「生駒庵」の一件が仮に1970年の出来事だとして、中沢新一はまだ20歳ですから世間を知らなくても仕方ありませんが、1928年生まれの網野善彦は42歳ですからね。
どうしてここまで「天然」でいられたのかは一個の謎ですが、この「天然」さをエネルギーに変えて論文を量産して行く力強さが網野善彦の凄みですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

時代精神の遊行 2015/01/11(日) 14:41:05
小太郎さん
小太郎さんの解釈のとおりだと思います。
現実の悪所を殆ど全く知らない二人が中世の性や悪党を本気で論ずるのは喜劇と言うべきで、現実は知らないが歴史はよくわかる、というパラドックスなのかもしれませんね。
http://dazai.or.jp/modules/novel/index.php?op=viewarticle&artid=93&page=69
太宰治『斜陽』に、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、という戯歌がありますが、鳥刺し、鳥刺し、しゅるしゅるしゅ、とパパゲーノとパパゲーナにデュエットさせてみたいところです。

--------------
小熊 私も今回ご著作を通読していて、網野さんは直接に同時代の思想から影響を受けるというよりは、時代精神が網野の形をとって現われるというタイプの人かと思います。(「「日本」をめぐって」(講談社 173頁)
--------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%B2%BE%E7%A5%9E
小熊氏に倣って言えば、地方都市の団地を千鳥足で遊行する時代精神(Zeitgeist)と言ったところでしょうか。
中沢・網野両氏は、「生駒庵」の夫婦を「人間の『自然』」と規定していますが、私には、反自然の人工的な世界に生きてきた人というふうにしか見えず、両氏の倒錯的な感覚がよく理解できません。
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注文の多い料理店

2015-01-11 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月11日(日)10時20分8秒

殆どの学者は自分が常に対象を観察・分析する側にいると思っていますが、人間が対象である場合、相手もまた注意深く学者を観察・分析していることがありますね。

「生駒庵」の「ご主人」は珍しい「逸品」を次々と網野一家に見せてくれたそうですが、私にはその種の物品について特別な知識はなく、昔、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』か『陽炎座』で見たような覚えがあるだけです。
ただ、それらの「逸品」は相当に高度な技術を持った職人が手間隙かけて作ったものであることは間違いなく、また価格も高価でしょうから、好事家のための特注品か、あるいは性に関連する商売で何らかの用途に用いられていたものだと思います。
ま、私としてはそれなりに高級なクラスの遊廓で客寄せのために作ったと考えるのが素直なんじゃないかな、と想像します。
そして、店には「どことなく水商売風の雰囲気も漂って」いて、「小づくりな体つきをしたきれいなおばあさん」が「きちんと手をそろえて挨拶」してくれ、「小柄な体つきのご主人が粋な和服姿であらわれ」、その人の方言を中沢新一が標準語に直しているのかもしれませんが、とにかく非常に丁寧な、洗練された言葉で応接してくれるのだそうですね。
ま、これだけの材料があれば、「水商売」で相当の財産をためた「ご主人夫婦」が、金儲けのためというより半ば道楽でやっている店と考えてよいのではないかと思います。
そして、「若い頃は大須観音あたりで浪曲師をしていたというご主人夫婦の過去」が語られたそうですが、大須観音周辺にはかつて「旭遊廓」という大規模な遊廓が存在していたそうですね。
私は名古屋に全く土地カンのない人間ですが、「大須観音」プラス「遊廓」で検索すれば次のようなサイトが引っかかります。


「ご主人夫婦」にしてみれば、野鳥料理を提供しつつ、なじみ客の好事家と昔話などをし、ときには「霞網」にかかってやって来た新参の客に「自慢の収蔵品」を見せて反応を楽しむ、といった悠々自適の生活を送っていたところ、いかにも生真面目そうな学者タイプの親子連れが小生意気な理屈っぽい大学生と一緒にやってきて、少しピントはずれているものの旺盛な知的好奇心を剥き出しにして色々質問してくれるので、これは近年稀に見る素晴らしい「天然もの」だと気を良くして丁寧に対応してくれた、といったことではないかと思います。
「ご主人夫婦」も別に真面目な学者一家を積極的にだまそうとしていた訳ではなく、「若い頃は大須観音あたりで浪曲師をしていた」というような、まあ普通レベルの朴念仁や唐変木だったら、なるほどそうだったか、と気づくようなヒントを出してあげており、それでもこの学者一家が気づかないらしいので、世の中には本当に珍しい品種の「天然もの」がいるものだなあと改めて感動したのではないですかね。

>筆綾丸さん
>美濃の世界
これもよく分からない勘違いですね。
中沢新一って、ものすごく頭が良いのに変な思い込みが本当に多い人です。
中沢新一が「相生山の丘陵地に隠れ住む、もう一人の『鳥刺し』の人生を、みんなでほめたたえながら」「九州から持参したおみやげの芋焼酎をたらふく飲んで、大きな声でパパゲーノの歌を歌」っていた頃、同じ相生山の丘陵地の一画では、「ご主人夫婦」が、今日の学者一家は本当に面白い客だったなあ、と思い出し笑いをしていたかもしれないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

パパゲーノ とパパゲーナのデュエット 2015/01/10(土) 16:20:24
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%99%BD%E5%8C%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/Freudian_slip
昭和区(現天白区)相生山の丘陵地帯の団地に関して、「癖の強い古い美濃の世界が切り崩されて」とありますが(25頁)、ウィキに「中世には鳴海庄天白村であった」とあるように、そこは尾張国であって美濃国ではないですね。天白川を少し下れば、織田氏と今川氏が対立した鳴海城があります。「アミノ」に引きずられて「ヲワリ」を「ミノ」と言い間違えたのは、いわゆる Freudian slip( parapraxis )と考えられるかもしれませんね。つまり、フロイト風に云えば、網野さんの終わり(死)を受容したくないという無意識が働いたのだ、と。

-------------
私はその夜、九州から持参したおみやげの芋焼酎をたらふく飲んで、大きな声でパパゲーノの歌を歌った。相生山の丘陵地に隠れ住む、もう一人の「鳥刺し」の人生を、みんなでほめたたえながら。(29頁)
-------------
https://www.youtube.com/watch?v=THsbW6bBK2U
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%88%BA%E3%81%97
上の文は、『チベットのモーツァルト』の著者が書かせた創作で、「パパゲーノの歌」の話は嘘ではあるまいか。網野氏が聞いていたのなら、Vogelfang(鳥刺し)に関するドイツの歴史的背景について何か言及したのではないか。「エロティシズムと聖性の関係」や「中世の遊女と天皇の妖しい関係」に関心を抱いていた二人が(21頁)、パパゲーノとパパゲーナの関係に興味を示さないはずがない。さらには、papageno と papagena には papa(教皇)と pappagallo(オウム)が含意されていて・・・とか、そんな話になったかもしれない。・・・というような訳で、「パパゲーノの歌」の話は中沢氏の単なる法螺話(自慢話)のような気がします。
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『血族』の世界

2015-01-09 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 9日(金)22時54分43秒

>筆綾丸さん
>東西に於ける紺屋の差別の有無
この話自体は興味深い内容ですね。
渋沢栄一だって家業は藍玉の製造・販売ですから、東国では紺屋への差別など本当に想像しにくいですからね。

渋沢栄一記念財団

さて、そもそも『僕の叔父さん 網野善彦』がどこまで信頼できるのか、という問題について少し検討しておきます。
意地の悪い見方をすれば、この本は中沢進一が<我こそ「網野史観」の正統な後継者なり>と宣伝するために作った本だから、そこに引用されている網野氏の発言も中沢が自分の都合の良いように創作・改変したものだ、という疑いが生じる余地はあります。
ただ、同書の「あとがき」には、

------
網野真知子さんは、私には叔母にあたる人であるが、この人が私の記憶違いや不正確な記述を指摘してくださったおかげで、この本は事実に関しても信用度の高いものになることができた。(p185)
------

とあり、特に相生山「生駒庵」の場面は網野真知子氏本人と息子・娘も登場するのですから、ま、相当に信頼できるものと扱ってよいように思います。
次に確認しておきたいのはこれが何時の話なのかですが、網野氏が名古屋大学文学部助教授として名古屋に単身赴任したのが1967年で翌年に家族が同居、そして1960年生まれの「徹哉君」(東京大学大学院総合文化研究科教授、ラテンアメリカ史)と1962年生まれの「房子ちゃん」(専修大学文学部准教授、文化人類学・民俗学)がともに小学生ということですから、1970年前後と考えてよさそうですね。
そして私の疑問は、中沢氏の集めた「生駒庵」の情報だけを見ても、「ご主人夫婦の過去」が「若い頃は大須観音のあたりで浪曲師をしていた」などというものでないのは明らかではないか、というものです。
私は、この「ご主人夫婦」は山口瞳の『血族』に登場する人たちと同じ立場の人ではなかろうか、つまり遊郭の関係者ではないだろうか、と思っています。
多少の説明は後でしますが、結論自体は自明であって、問題はむしろ、なぜ網野善彦氏と中沢進一氏がそれに気づかないのか、ということの方ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

彦阿彌 2015/01/09(金) 19:15:46
小太郎さん
『僕の叔父さん 網野善彦』には、東西に於ける紺屋の差別の有無に言及した後で、網野氏が網野町について語ったものとして、次のような記述がありますね。時宗まで動員するとは・・・。
---------
「中沢という家も、たぶん網野という家も、山梨に住みついてきたおかげで、差別を体験しなかったというだけなんだよ。網野の家は丹後の出身だと、ぼくはにらんでいる。日本海に面した小さな漁師町から、甲州にやってきたのが網野の一族だったんだよ、きっと。中世にはあのあたりは武田家の所領だった時代があるからね。アミというからには時宗と関係していたかもしれない。あきらかに常民ではないと思うよ。(後略)
---------

http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/kuzukahi1/kuzukahi1.htm
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。
 この山道を行きし人あり
釈超空の歌について、中沢・網野両氏が深読みを披露していますが(168頁)、折口の『自歌自註』は、
---------
壱岐は島でありながら、伝説の上では神代の一国である。それだけに海としても個性があり、山としても自ら山として整うた景色が見られた。蜑の村に対して、これは(島山)陸地・耕地・丘陵の側を眺めたものが集まってゐる。山道を歩いてゐると、勿論人には行き逢わない。併し、さういう道に、短い藤の紫の、新しい感覚、ついさっき、此山道を通って行った人があるのだ、とさういふ考えが心に来た。もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訳ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するやうな表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱ふべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌ったので、今も自信を失ってゐないし、同情者も相当にあるやうだが、この色あたらしの判然たる切れ目が、今言った論理的な感覚を起し易いのである。
---------
とのことなので、両氏の深読みを聞いたら、能登の海の彼方の幽世(かくりよ)に棲むマレビトはオオクニヌシとともに吃驚仰天しているかもしれないですね。それはともかく、折口の論理的かつ非論理的な文章は、例の如く何が言いたいのか、よくわかりません。人でもなく猿や鹿でもなく、物理に反するが、あんまり綺麗なので本当に道に踏まれたんだ・・・と? あるいは、葛の花を踏みしいたのは遊行中の一遍か。
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相生山「生駒庵」の謎(その3)

2015-01-08 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 8日(木)23時31分36秒

更に続きます。(p27以下)
これで一応完結ですが、解説は後ほど。

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 私たちの反応がよかったのに気をよくしたのか、ご主人はつぎつぎと自慢の収蔵品を取り出してきた。それはみごとな逸品ばかりだったが、中でも圧巻だったのは、薄布を被せた浮世絵がご開陳された瞬間で、そこには後光が射してくるほどに荘厳な、×××××があらわれたのである。×××××とそれを×××××××××、××は××××××××××××××、××××××××××××××××××××、××××××××××。さすがの網野さんも、ここまでくると得意の「ほおー」さえ出なかった。
 二時間ほどもそのお店にいただろうか、ぐったりした私たちはようやく「生駒庵」をあとにした。潅木の林を通り抜けて、団地の部屋に戻るあいだ、誰もが無口だった。気まずいものを見てしまったというよりも、そこで見せられた品々の迫力に、誰もが圧倒され、打ちのめされていたのだ。それはほとんど宗教的な感動といってもよかった。団地の一角にこんなとてつもない「悪の空間」がひそんでいようとは。そこでは、はっきりと悪は自然と結びついていた。
 部屋にたどり着くまでに、さっきまでの打ちのめされた状態からようやく立ち直った悪党の研究家は、今さっき自分たちが体験してきた世界の意味を、はっきり理解しようとつとめている様子だった。そこには、中世語の「悪」の本来的な意味が、まざまざと活動していたからである。霞網をつかっての「鳥刺し」、若い頃は大須観音のあたりで浪曲師をしていたというご主人夫婦の過去、けっして社会の表街道を歩こうとはしない強い意志、忍びの者のような動物的にしなやかな身ごなしとたたずまい、そしてむせかえるように濃厚なエロティシズム。すべてが「自然」であった。農業が手を加え穏やかなものに改造してきた「自然」とは異質な、なまなましく、荒々しく、美しい、別の種類の「人間的自然」が、そこには息づいていた。
「あれが人間の『自然』なんだよ。ああいう『自然』が没落していったあとに、今あるような世界がつくられてきたんだ。農業によってつくられてきた『日本』の向こう側に、ああいう『自然』によって生きてきた別の世界が、広がっているんだ」
「それが団地のすぐそばに生き残っていようとは思わなかったね」
 みんなが名古屋を見直したね、とうなずき合った。そのとき網野さんの心の中で、「非農業的自然」に対する鋭い感受性が、生き生きと活動しているのを、私ははっきりと見届けた。私はその夜、九州から持参したおみやげの芋焼酎をたらふく飲んで、大きな声でパパゲーノの歌を歌った。相生山の丘陵地に隠れ住む、もう一人の「鳥刺し」の人生を、みんなでほめたたえながら。
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相生山「生駒庵」の謎(その2)

2015-01-08 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月 8日(木)23時26分30秒

続きです。(p25以下)

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 入り口に立つと、小づくりな体つきをしたきれいなおばあさんが出てきて、きちんと手をそろえて挨拶したあと、私たちを奥の座敷へと案内した。叔母は「父ちゃん、この店高いんじゃない」と心配そうに小声でささやいていたが、私への手前もあってか網野さんは聞こえないふりをしていた。まだ小学生だった二人のいとこもいっしょに、座敷に座り込んでみると、私たちはみんな自分たちがいかに異様な世界にまぎれ込んでしまったかを、それぞれの体験と理解に合わせて知ったのだった。
 鴨居のところには大きな団扇が取りつけてあって、それが電動装置によってバッタンバッタンと上下して、客に風を送る仕組みになっていた。団扇には天狗の顔が描き込んであるのだが、その天狗の鼻が妙にいやらしい形と色をしているのである。目を違い棚のほうに移すと、そこにはお多福や舞子の人形がいくつも並んでいた。どれも一見するとふつうの人形のように見えて、何か仕掛けがあるようないかがわしさをたたえている。その横には、民俗学者でもある父親の書斎に置いてあるのとよく似た、××や×××をかたどった石や土の人形が鎮座しているし、壁にかけられてある浮世絵の上には、ご丁寧に薄い布が被せてあって、なにが描かれているのか見えないようになっていた。
 無邪気にニコニコしているまだほんとうに幼かったいとこの房子ちゃんを除いて、その場に居合わせた全員が「しまった!」と感じていた。まさか団地の脇に取り残された潅木林の中に、こんな粋な施設があろうとは、誰も想像していなかったからである。そのうちに「生駒庵」の小柄な体つきのご主人が粋な和服姿であらわれ、「ようこそいらっしゃいました」と、畳に手をついて挨拶するのだった。
「つぐみ、すずめ、はと、きじ、野鳥ならなんでも焼いてさしあげます」
「ほお、どうやって手に入れた野鳥なのですか」と網野さんが身の乗り出してたずねた。
「わたくしが霞網でつかまえてきたものでございます。めったなことでは口に入らなくなった野鳥もございます。ごゆっくりなさっていってくださいませ」
 しばらくして、大きな九谷焼の皿に盛られた野鳥の焼き鳥が運ばれてきた。つぐみ、すずめ、はと、それに名をあかしてくれない野鳥。焼き鳥はどれもおいしかった。食事がひととおり進んだところで、ご主人は私たちにビールをすすめたあと、立ち上がってお多福の人形を取り出してきた。
「ごらんくださいませ」とだけ言って、ご主人は人形を仰向けにしてみせた。すると人形の中から×××××××××××××があらわれた。舞子の人形の×××には、×××××××××××××××××××××××××しているところが、描かれていた。網野さんは大きな目を剥いて「ほおー」とうなり、叔母は絶句し、いとこの徹哉君は目を見張り、私は息を呑んだ。
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