慈光寺本『承久記』の作者がものすごく正直な人で、制作の時点で自分が得ていた全ての情報を用いて正確無比な記述を試みた、という仮定が正しければ、慈光寺本は1240年までの成立したということになりますが、実際はどうなのか。
血湧き肉躍る誇張表現も多い軍記物語の作者が、そこまで正直者なのか。
ま、私も「侍従殿」のエピソードについて、慈光寺本の作者が成立時期を誤魔化すために、意図的に挿入したものとまで強く疑っている訳ではありません。
しかし、普通の古記録・古文書と異なり、歴史物語は作者によって入念に構成された創作物であり、どの部分が正確な事実の記録で、どの部分が創作なのかを厳密に区別することは極めて困難です。
そのため、作品内部の僅かな記述を手掛かりに作品の制作時期を推定して行くという手法は、そうした手掛かりに作者による意図的な改変が含まれていたら機能しなくなります。
作品は作者が自由に作れる世界ですから、作品内部の僅かな記述をめぐってあれこれ想像しても、結局は観音様の掌の内側を飛び回っている孫悟空になりかねません。
これが内部徴憑で作品の成立時期を探ろうとする手法の根本的・原理的な欠陥ですね。
さて、野口実氏は「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」の「はじめに」で、「本稿は『 承久記』諸本のうち、最古態本とされる慈光寺本について、歴史資料としての側面から検討を加えることを目的とするものである」とされます。(p46)
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1917/1/0160_018_003.pdf
そして、第一節「従来の研究における慈光寺本の評価」に入ると、前回投稿で引用した部分の後、
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東国武士の描かれ方については、松尾葦江「承久記の成立」( 同『 軍記物語論究」若草書房、一九九六年)が、慈光寺本には京都の王権に決して全人格的に隷従しては行かない東国武士の生態が描き出されていて、古態性として評価されることが多いことを述べており【後略】
なお、荻原さかえ「 慈光寺本『 承久記』における政子呼称に関する一考察」(『駒澤国文』第三四号、一九九七年)は、慈光寺本において『蒙求』に見える「孟光」が政子の姿に重層化された点に注目するが、これは中世前期における妻の地位に関する歴史学の成果と照合すれば、慈光寺本の古態たることを示す根拠の一つとなるものとなるのではなかろうか。
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といった具合に(p48)、「古態性」を極めて重視された指摘を重ねた上で、
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以上、本稿の意図に基づいて、しかもまったく表面をなぞったに過ぎないが、慈光寺本『 承久記』に関する研究史を概観してみた。鎌倉時代政治史研究の立場からこれらの成果の中で関心が持たれるのは、言うまでもなく、その成立時期の古さやイデオロギーの束縛を受けていないという史料としての純粋さ、そしてその成立に三浦氏関係者が関わっている可能性のあることである。まさしく、この慈光寺本こそ承久の乱解明のための基礎的な史料足りうるものであり、鎌倉御家人中唯一、北条氏に対抗しうる実力を有したとされながら不明な点の多い宝治合戦以前の三浦氏の幕府内における位置を再検討する上で、重要な役割を果たしうると思われるのである。
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とされ(p49)、慈光寺本の「成立時期の古さやイデオロギーの束縛を受けていないという史料としての純粋さ」を強調されます。
しかし、ごく素直に考えれば、「古態」かどうかは、当該史料が事実の記録として正確かどうかとは別問題で、偏った見方をする人が書いたら、どんなに「古態」であっても、その史料は事実の記録としては信頼性に乏しいものとなります。
諸本間の細かな異同はさておき、巨視的に慈光寺本の最大の特徴を考えると、やはり勢多・宇治の合戦を無視し、尾張・美濃の戦闘描写しか存在しないことが第一です。
承久の乱の経緯を知っている人が素直に書いたら、宇治川合戦を無視するなどありえません。
従って、常識的な見方をする人が慈光寺本以外の本(の元となった一番最初に成立した本)を書いたあと、いやいや尾張・美濃の戦闘こそ重要なのだと考える特異な立場の人が自己流に修正したのが慈光寺本だ、とする方が自然ではないか、と私は考えます。
また、慈光寺本は他の諸本に比べて余りに面白エピソードが多すぎます。
これも慈光寺本が一番最初に成立して、他の諸本が慈光寺本から面白エピソードを丁寧に削ぎ落した、と考えるよりは、慈光寺本以外の本(の元となった一番最初に成立した本)の成立後、それに飽き足らない慈光寺本の作者が面白エピソードを追加的に満載した、と考える方が自然ですね。