学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

宥勝寺の「荘小太郎頼家供養塔」と「廣松渉之墓」

2023-12-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私の陰気な趣味のひとつに掃苔、といっても中世人の墓参りがあるのですが、今年の二月、「笑う埴輪」の展示で有名な「本庄早稲田の杜ミュージアム」に行ったとき、そういえば近くの宥勝寺に児玉党の「荘小太郎頼家供養塔」があったなと思って寄ってみました。

「本庄早稲田の杜ミュージアム」
https://www.hwmm.jp/
「荘小太郎頼家供養塔」(『四季・めぐりめぐりて』ブログ内)
https://blog.goo.ne.jp/ihcirot/e/baa46949282171fb870a79c2260ed8a0

この供養塔の前に置かれた説明板には、

-------
  荘小太郎頼家の墓
         所在地 本庄市栗崎一五五
 荘小太郎頼家は、児玉党の祖遠峰惟行より五代宗家を継ぎ、平家物語によると一ノ谷の合戦(一一八四)で源氏に従い平重衡を生捕った家長の嗣子である。
 家長は軍功を立てたが、頼家は戦死してしまった。夫人妙清禅尼は、夫の冥福を祈るため建仁二年(一二〇二)宥勝寺を建立したと伝えられる。墓は五輪塔で、本堂西北の墓地内にある。
 児玉郡内に多く分布する児玉党支族の真下、四方田、蛭川、今井、富田その他の各氏等は九郷用水水系に住んでいたという。
 また、荘小太郎頼家の墓は、昭和三十八年県指定の文化財となっている。
         昭和六十一年三月
                 埼玉県
                 本庄市
-------

とありましたが、雉岡論文の末尾の「児玉党略系図と三人の「庄四郎」」を見ると、「(庄太郎)家長」の父「(庄権守)弘高」と「(庄四郎)家定(左兵衛尉)」の父「庄三郎忠家」が兄弟で、家長と家定は従兄弟の関係ですね。


ま、訪問時にはそこまでの知識もなく、また、供養塔はずいぶん小さくて造形的にも平凡なものに思えたので、無駄足だったなと思って帰りかけたところ、近くに「廣松渉之墓」とだけ書かれて戒名も何もなく、周囲から浮いた感じの墓があることに気づきました。
廣松渉は「新左翼」(という言葉も古語?)の哲学者で、そんな人の墓が埼玉の田舎の真言宗智山派の寺にあるというのも妙な感じなので、同姓同名なのだろうか、と思いましたが、墓石の裏に回ってみると、没年も哲学者の廣松に近いような感じがして、不可解な思いを抱きつつ帰宅しました。
そして、自宅に戻ってあれこれ検索してみたところ、宥勝寺の住職が東大哲学科卒で、廣松と同世代であり、廣松と共著も出していることが分かりました。

廣松渉(1933-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89

最近、宥勝寺のサイトを見たら、「宥勝寺だより」の最新版、「2023秋彼岸号.pdf」に廣松渉のことが出ていました。

-------
 今年は特別に暑い夏で、聞けば十月まで平年より暑い陽気が続くそうで、秋彼岸になっても暑いままなのかと思うと少々げんなりする今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 さて当山宥勝寺は児玉党旗頭、庄小太郎頼家の墓所として開山したことはご存知かと思いますが、ここで一つ当山に墓所がある、とある有名人についてお話をさせて頂こうと思います。
 日本の代表的な哲学者であり、東京大学名誉教授の廣松渉先生。西洋哲学の碩学であり、日本の現代思想の旗手として没後三十年を経ても、その高い評価とともに、多くの著名人に影響を与えた人物です。
 廣松先生は当山住職と東京大学文学部哲学科在学中の学友でございまして、先生は西洋哲学、そして当山住職は印度哲学と分野は違いますが、卒業後も縁があり、昭和五十四年には仏教と西洋哲学という枠組みでの対談本『仏教と事的世界観』を共著で出版しております。
 その後長らくお付き合いが続きましたが、残念なことに平成六年に行年六十一歳にてご逝去されてしまい、生前のご縁から当山に墓地を取り今では新墓地と旧墓地の南端に埋葬されております。
 今年になり生誕九十年を記念して、生前の著作が復刻される流れとなり、住職との対談本も復刊される運びとなりまして、八月十五日に作品社より出版されました。右QRコードよりアマゾンの購入サイトへアクセスできますので、もし興味のある方は是非お手にとって頂ければ幸甚です。【後略】

https://sites.google.com/view/yushoji

廣松が東大教養学部の助教授だった頃、私は廣松の哲学史の講義を聴講したことがあり、若かりし廣松の颯爽たる姿を記憶しているので、六十一歳で逝去というのはずいぶん早いなあ、などと改めて多少の感懐を覚えました。
自分のブログで「廣松渉」を検索してみたら、東島誠や斎藤幸平の話題の際に何度か名前を挙げていましたね。

樋口陽一と廣松渉
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb2d5588014471bf79fe5deb5ef86396
マルクスの青い鳥
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0538ac45b7dc4a14628bb3f552a56496
マルクスの青い鳥(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/528e2c3ee75efff95a402193dc3f04b6
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雉岡恵一氏「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動」(その3)

2023-12-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
長村祥知氏の「承久の乱と歴史叙述」(松尾葦江編『軍記物語講座第一巻 武者の世が始まる』所収、花鳥社、2020)によれば、「前田家本は、室町幕府を開創した足利氏の周辺で成立したという理解が有力」で、流布本との関係については、

 A 共通の祖本を想定する兄弟関係・従兄弟関係とする説
 B 一方から他方が成立した親子関係とする説

があり、更に後者には、

 ①前田家本→流布本
 ②流布本→前田家本

という説があって、以前は長村氏もBの②、即ち流布本が先行し、前田家本は流布本を改変したとの立場であったものの、近年、原田敦史氏(東京女子大学教授、1978生)がB説を批判し、「共通祖本から枝分かれした兄弟関係」説を主張され、長村氏も「原田氏の論は説得力が高く、基本的には妥当な見解」(p216)と考えるようになったのだそうです。

https://www.twcu.ac.jp/main/academics/sas/teacherlist/harada.html

原田氏の『承久記』に関する論文のうち、「前田家本『承久記』論」(『日本文学』119号、2023)は国会図書館サイトからのリンクでPDFで読めるので、私もざっと読んでみましたが、慈光寺本が「最古態本」との前提の下、西島三千代説の延長での議論なので、私はあまり感心しませんでした。

「前田家本『承久記』論」
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000025-I008765572-00

ただ、「かつて前田家本は流布本を改作したものだといわれたことがあったが、それが成り立たないことは論理的にも実例の上からも明白」(p20)であることを論証されたらしい原田氏の論文は未読なので、それを見てから、必要に応じて検討したいと思います。
私には、「木造の人丸」ひとつとっても「前田家本は流布本を改作したもの」であることは自明に思われるので、原田氏の「論理的にも」云々は非常に奇妙な議論のように感じます。
ま、それはともかく、原田氏のような立場もあるので、流布本と前田家本で内容的に重複する記事に関し、論点に応じていずれを選んでも良いのかもしれませんが、しかし、雉岡氏が「庄四郎」については流布本、「藤四郎入道」については前田家本と使い分けるのは一貫性を欠く態度のように思われます。
前田家本にも流布本の「庄四郎」に対応する記事はありますが、それは、

-------
一院仰けるは、「義時が為命をすつる者東国にいかほどか有なんずか。朝敵と成て後何ほどの事有へき」ととはせ給ひけれは、庭上ニなみ居たる兵ども推量候ニ幾クか候べきと申上る中に、城四郎兵衛なにがしと云者進み出て申けるは、「色代申させ給ふ人々かな。あやしの者うたれ候だにも命すつるもの五十人百人は有ならひにて候。まして代々将軍の後見日本国副将軍にて候時政義時父子二代の間、おほやけ様の御恩と申、私の志をあたふることいく千万か候らん。就中、元久畠山をうたれ建保ニ三浦を滅しゝより以来、義時が権威いよ/\重してなびかぬ草木もなし。此人々の為ニ命を捨ル者ニ三万は候はんずらむ。家定も東国にだに候はゝ義時が恩を見たる者にて候へば死なんずるにこそ」と申せば御気色あしかりけれ共、後ニハ色代なき兵也と思召合られけり。
-------

というものです。(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本承久記』、汲古書院、2004、p232以下。ただし、原文は読みづらいので、私意で句読点と括弧を付加)
これと流布本を比較すると、

(1)登場人物は「兒玉の庄四郎兵衛尉」ではなく「城四郎兵衛なにがし」。ただし、「家定」は共通。
(2)三浦胤義の「朝敵となり候ては、誰かは一人も相随可候。推量仕候に、千人計には過候はじ」という具体的は発言が消えている。
(3)「平家追討以来、権大夫の重恩」が「代々将軍の後見日本国副将軍にて候時政義時父子二代の間おほやけ様の御恩」と大袈裟な表現となっており、更に「私の志をあたふることいく千万か候らん」も付加。
(4)「就中、元久畠山をうたれ建保ニ三浦を滅しゝより以来、義時が権威いよ/\重してなびかぬ草木もなし」が付加されている。
(5)「如何なる事も有ば、奉公を仕ばやと思者社多候へ。只千人候べきか。如何に少しと申共、万人には、よも劣り候はじ」が「此人々の為ニ命を捨ル者ニ三万は候はんずらむ」と増加。

という具合に、全体的に詳しく、というか少々くどい表現になっていますね。
ただ、前田家本では「城四郎兵衛なにがし」が三浦胤義を直接批判する形にはなっていないので、「庄四郎」(ないしその縁者)と「藤四郎入道」を同一人物に比定する雉岡氏の立場にとっては前田家本の方が都合が良さそうです。
しかし、何といっても登場人物が「城四郎兵衛なにがし」ですから、「庄」と「城」で音は通じるものの、前田家本の引用は躊躇されたのでしょうね。
以上、前田家本との関係で細かなことを言ってしまいましたが、私は雉岡論文の「三 承久の乱直後の備前国の動向と庄氏」以降は非常に高く評価できるものと考えます。
雉岡氏が紹介された史料で、承久の乱後に「庄四郎」が実在することが明らかになりましたが、これは流布本に描かれた「兒玉の庄四郎兵衛尉」と同一人物と考えてよさそうです。
従って、私は「彼は無駄死を恐れ、幕府方に逃亡したのではないだろうか」(p3)との雉岡氏の見解に賛成します。

https://www.city.honjo.lg.jp/material/files/group/28/2-kijioka.pdf
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雉岡恵一氏「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動」(その2)

2023-12-07 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私は前田家本にはあまり言及していませんが、前田家本は足利氏に関する記述が多く、室町幕府の成立後、流布本を改変したものであることが明らかです。
慈光寺本が「最古態本」だとする通説的見解に対し、私は「原流布本」が慈光寺本に先行すると考えていますが、いずれにせよ前田家本は相対的に新しい本なので、流布本と重複する記事については前田家本を参照する意味はあまりないと考えます。
さて、雉岡氏が、

-------
 そこで、この藤四郎入道(三浦胤義の昔の郎等)を前述した庄四郎(家定)、あるいはその縁者(ちなみに家定の叔父の高家は七党系図によれば承久二年十月十七日に出家している)に比定したい。


とされる理由を見て行きます。(p4)

-------
 その理由として、一つは、すでに平安時代末に児玉経行の娘で、秩父重綱の妻となった女性が、永治元年(一一四一)に三浦義明の娘を母に生まれた源義平の乳母となって鎌倉に出仕し、「乳母御前」と呼ばれていた。つまり、十二世紀前半には児玉党や秩父氏が相模国の三浦氏と連繋していたのである。もう一つは、弘安六年(一二八三)から同八年にかけて、備中庄氏は同国小坂庄の地頭として「庄藤四郎入道行信」と名のっている。つまり、庄氏は藤原姓にもとづく藤四郎入道を名のっていた可能性がある。
-------

うーむ。
ここに挙げられた二つが何故に、

 「藤四郎入道」=庄四郎(家定)or 縁者

の理由となるのか、私には理解できません。
児玉党庄氏の本姓が藤原だとしても、それは庄四郎(家定)と「藤四郎入道」がともに藤原姓だというだけの話です。
ここで流布本で、「藤四郎入道(頼信)」の登場場面を確認してみると、先ず、

-------
 さて胤義、太秦にある幼稚の者共、今一度見んとて、父子二人と人丸三人、下簾懸たる女車に乗具して、太秦へ行けるが、子の嶋と云ふ社の前を過けるに、敵充満たりと云ければ、日を暮さんとて、社の中に父子隠れ居たり。人丸をば車に乗て置ぬ。去程に古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信とて有しが、事の縁有て家を出、高野に有けるが、都に軍有と聞て、判官被討てか御座す覧、尸をも取て孝養せんとて、京へ出て、東山を尋けるに、太秦の方へと聞て尋行程に、子の嶋の社を過けるに、「あれ如何に」と云声を聞けば、我主也。是は如何にと思て、入て見れば、判官父子居給へり。「如何に」と申せば、「軍破れて落行が、太秦にある幼稚の者共を、今一度見るかと思て行程に、敵充満たる由聞ゆる間、日の暮を待ぞ」と云へば、藤四郎頼信入道、「日暮て、よも叶ひ候はじ、天野左衛門が手の者満々て候へば」と申ければ、太郎兵衛、「今は角ぞ、自害可仕也。頼信入道よ、(汝うづまさに参て)母に申んずる様は、『今一度見進らせ候はんとて参候が、(敵、路次に満て)叶間敷候程に、御供に先立、自害仕候。次郎兵衛胤連は高井太郎時義に被懸隔て、東山の方へ落行候つるが、被討て候哉覧、自害仕て候哉らん、行衛も不知候。去年春の除目に、兄弟一度に兵衛尉に成て候へしかば、世に嬉し気に被思召て、哀命存へて是等が受領・検非違使にも成たらんを、見ばやと仰候しに、今一度悦ばせ進らせ候はで、先立進らせ候こそ口惜く覚候へ』と申せ」とて、念仏申、腹掻切て臥ぬ。未足の動らきければ、父判官、是を押へて静に終らせて、「首をば太秦の人に今一度見せて、後には駿河守殿に奉り、云はん様は、『一家を皆失ふて、一人世に御座こそ目出度候へ』と申」とて、西に向十念唱へ、腹掻切て臥ぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dabce5398462e9aa0f6732cf70330845

ということで、「古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信」は、「事の縁有て家を出、高野に」いたそうですが、「都に軍有と聞て、判官被討てか御座す覧、尸をも取て孝養せんとて」都に出ます。
そして、「判官父子」に出会った「藤四郎頼信入道」は、周辺には「天野左衛門が手の者満々て」いて、太秦まで行くのは困難であることを伝えます。
すると、「太郎兵衛」は自害を決意し、太秦の「母」への伝言を「頼信入道」に託して自害、ついで「父判官」も「首をば太秦の人に今一度見せて、後には駿河守殿に奉り、云はん様は、『一家を皆失ふて、一人世に御座こそ目出度候へ』と申」と「頼信入道」に命じてから自害します。
流布本では「判官父子」は自発的に自害しており、前田家本のように「藤四郎入道」が自害を説得する場面はありません。
さて、この場面から明らかなように「藤四郎頼信入道」は相当以前に出家して高野に滞在しており、承久の乱が勃発してから「宮方の中心人物である後鳥羽院や三浦胤義とも対等に話ができた」(p3)はずがありません。
特に、「古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信」が、後鳥羽院の面前で胤義を批判するはずがありません。
従って、

 「藤四郎入道」=庄四郎(家定)

の可能性は皆無ですね。
では、

 「藤四郎入道」=庄四郎(家定)の縁者(特に「承久二年十月十七日に出家している」「家定の叔父の高家」)

の可能性はどうか。
まあ、こちらは「家定の叔父の高家」を含め、家定の周辺に、三浦胤義に長く仕えたか、あるいは出家後に高野にいたような人物がいた証拠があればともかく、普通に考えれば無理筋ですね。
流布本の「兒玉の庄四郎兵衛尉(家定)」と「藤四郎頼信入道」はいずれも非常に強い印象を与える人物であり、私も以前から、もしかしたら流布本作者はこの二人から直接に話を聞いているのではなかろうか、などと思っているのですが、二人が同一人物ないし縁者との可能性は考えたこともありませんでした。
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雉岡恵一氏「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動」(その1)

2023-12-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
流布本の「兒玉の庄四郎兵衛尉(家定)」のエピソードは以前から気になっていたのですが、あまり参考になりそうな文献を見つけることができずにいたところ、今日、雉岡恵一氏の「児玉党庄氏の承久の乱での立場とその後の在京人・西遷御家人としての政治的活動-執権政治の確立期における北武蔵御家人の在京活動と関連させて-」(『本庄早稲田の杜ミュージアム 調査研究報告』第2号、2023)という論文がネットで読めることに気づきました。

https://www.hwmm.jp/publications/kenkyu_houkoku_vol2/

雉岡氏は「本庄市文化財保護審議会委員」で、「付記」には「本稿は令和元年度、放送大学大学院に提出した修士論文の一部に加筆し、補訂を加えたものである。作成にあたっては、放送大学教授近藤成一先生から懇切な御指導を賜った」とありますね。
この論文の全体の構成は、

-------
はじめに
一 承久の乱以前の児玉党及び庄氏の在京活動
二 承久の乱における庄四郎と児玉党
三 承久の乱直後の備前国の動向と庄氏
四 執権北条泰時の権力確立と児玉党四方田氏・庄氏
五 北条泰時と在京人庄四郎
おわりに
-------

となっていますが、第二節に、

-------
【前略】それでは、まず京方(後鳥羽院側)に属していた庄四郎家定の特異な動きについて述べよう。彼の出自は『七党系図』によれば、庄三郎忠家の四男で左兵衛尉家定とされ、一ノ谷の戦いの平重衡生け捕りの勲功や藤原友実の殺害事件の当事者であった庄四郎高家とは別人とされる。
-------

とあって(p3)、この後、流布本のエピソードが紹介されています。
そして、

-------
ここで注目しておきたいのは庄四郎は、地方出身の一武士にすぎないが長い在京経験により、宮方の中心人物である後鳥羽院や三浦胤義とも対等に話ができたことである。しかし、その後の庄四郎の記録は見あたらない。彼は無駄死を恐れ、幕府方に逃亡したのではないだろうか。
-------

とあります。
ま、正確には「後鳥羽院や三浦胤義とも対等に話ができた」と流布本に描かれているだけですが、戦時には身分秩序の混乱は生じるでしょうから、流布本のような場面が実際にあったとしても不思議ではないですね。
それはともかく、続きを見ると、

-------
 次に幕府方の児玉党と宮方の尾張国住人山田重忠との戦いについて記そう。それは『承久記、慈光寺本、下』の記事である。要約すれば、同年六月八日、宮方の主力山田次郎重忠(重定)と小玉党三千騎が戦い、山田軍を退けたという。その児玉党の中心人物は児玉與一であった。このことを裏付ける史料として室町時代の公家中原師守の日記『師守記』貞治三年(一三六四)七月五日の条に「(児玉党)真下(氏)が尾張国山田庄に在国した」ことが記されている。
-------

とのことですが、雉岡氏はそもそも慈光寺本の「小玉党三千騎」エピソードを史実だと考えておられるのでしょうか。
私には宇治河合戦の「埋め草」として置かれている「小玉党三千騎」エピソードが史実とは思えないのですが、仮に史実だとしても、それを「裏付ける史料として」「『師守記』貞治三年(一三六四)七月五日の条」が出て来る理由が分かりません。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その52)─「小玉党三千騎ニテ寄タリケリ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/707b870911ddacde83650b8458368cb6
宇治川合戦の「欠落説」は成り立つのか。(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1a09b7880933a681cfc1707a0aa140
盛り付け上手な青山幹哉氏(その2)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddb79082206b07a41b9c10cae3a4954d
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2f8221aa36d7a0cc50a54c22b941c7d

さて、続いて雉岡氏は、

-------
 一方、宮方の中心武将で敗者となった三浦胤義と山田重忠は壮絶な最期をとげた。そこで特に注目したいのは三浦胤義の最後の場面である。宮方敗戦の中で『承久記 前田家本』に藤四郎入道という興味深い人物が登場する。その内容について、松林靖明氏は的確な解説をしておられる。要約すると、敗軍の将となった三浦胤義は、後鳥羽院に門前払いを受け、東寺に籠り戦うが敗れ、さらに東山から妻子のいる太秦へ向かう。しかし、敵が多く、木島神社の境内に「車の傍に立て、女のよしにて木造の人丸を」載せて隠れた。そこへ胤義の昔の郎等、藤四郎入道が通りかかり、敵が充満していることや汚名を残すべきでないことを説いて自害を勧めた。具体的には、藤四郎入道は、「高野にこもりたるが、軍をも見、主の行衛をみんと」上京し、偶然胤義父子に出会う。西山にいる妻子に一目会いたという胤義に、「妻子のことを心にかけて、女車にて落行を、車より引出されて討たれたるといはれ給はんこそ、口おしく候へ。昔より三浦一門に疵やは候。入道知識申べし。此社にて御自害候へかし」と説得し、胤義もこれに従ったという。
 そこで、この藤四郎入道(三浦胤義の昔の郎等)を前述した庄四郎(家定)、あるいはその縁者(ちなみに家定の叔父の高家は七党系図によれば承久二年十月十七日に出家している)に比定したい。
-------

と書かれますが、ここは飛躍がありすぎるように感じます。
まず、雉岡氏は何故に前田家本を用いられるのか。
流布本にほぼ同じエピソードがあるにもかかわらず、わざわざ流布本に遅れる前田家本を使う理由が私には分かりません。
また、雉岡氏は「木造の人丸」を変に思われなかったのか。
流布本では、

--------
 平九郎判官、(所々にて)散々戦程に、郎等・乗違或は落、或は被討て、子息太郎と父子二騎に成て、(今はかなはじとて)東山なる所、故畠山六郎最後に、人丸と云者の許へ行て、馬より下て入たり。疲れて見へければ、干飯を洗はせ、酒取出て進めたり。暫く爰に休息して、判官、鬢の髪切て九に裹分て、「一をば屋部の尼上に奉る。一をば太秦の女房に伝へ給へ。六をば六人の子共に一宛取すべし。今一をばわ御前をきて、見ん度に念仏申て訪ひ給へ」とて取すれば、人丸泣々是を取、心の中こそ哀なれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dabce5398462e9aa0f6732cf70330845

と「人丸」は「故畠山六郎」ゆかりの女性であって、事実かどうかはさておき、ストーリーに不自然さはありません。
しかし、前田家本では、

-------
胤義は東山にて自害せんと思ひつるが便宜あしかりければ太秦に小児あり其をかくし置ける所へ落行かさきには又大勢入乱るゝと申ければ是ニ隠れ居て日をくらし太秦に向はんと此島と云社の内ニかくれゐて車の傍に立て女車のよしにて木造の人丸をぞのせたりける【後略】
-------

とあって(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本承久記』、汲古書院、2004、p274)、「木造の人丸」は意味不明です。
前田家本は流布本を簡略化している部分が多いのですが、ここは圧縮しすぎて訳が分からない文章になってしまっていますね。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その72)─「たとえ多くの恩賞を受けずとも、この相論に関しては承服できません」(by 芝田兼義)

2023-12-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
幕府側で参戦した人々は、いったい何のために戦ったのか。
考え方としては、参戦者の幕府における地位を区分し、類型的に検討する方が良さそうです。
例えば、

(1)最前線で戦う一般御家人
(2)大将軍から戦場での采配を任された指揮官クラス
(3)大将軍
(4)幕府中枢

と四段階に区分した場合、(1)の最前線で戦う一般御家人には、長村祥知氏が言われるように「所領獲得の論理」で動いている人もけっこういると思います。
よっしゃ、千載一遇のチャンスだ、ここで頑張って実入りの良い荘園の地頭になるぞ、という人々ですね。
市河六郎宛ての承久三年六月六日「北条義時袖判御教書」は、義時も一般御家人が「所領獲得の論理」で動くだろうと考えていることを示しています。
ただ、先に紹介したように、流布本で北条泰時が宇治橋での戦闘を止めさせた場面では、長村氏の言われる「所領獲得の論理」が、「軍功を挙げんと逸る武士の思考」としてではなく、逆に戦闘行為を止めさせようとする大将軍側の論理として登場しています。
宇治橋合戦の発端の場面では、参戦者は北条泰時の代理人である平盛綱から、お前たちは「所領獲得の論理」で戦うべきなのに何をやっているのか、冷静になれ、と諭されて、やっと、そういえばそうだった、冷静になろうと反省した訳ですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その69)─「私的利益を追求する個の集合体」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37a21c707e7a3abf2257dc87644d73ae

では、この場面で参戦者を突き動かしていたのはいったい如何なる「論理」ないし感情だったのか。
私は、生死を懸けた極限状況で武士を突き動かすのは、経済的利益よりもむしろ名誉感情なのではないかと思います。
あいつは凄い奴だ、立派な武士だ、と思われたいという感情ですね。
名誉感情を経済的利益に優先した典型としては、宇治川先陣を佐々木信綱と争った芝田兼義の例を挙げることができます。
『吾妻鏡』承久三年六月十七日条には、

-------
於六波羅。勇士等勲功事。糺明其浅深。而渡河之先登事。信綱与兼義相論之。於両国司前及対決。信綱申云。謂先登詮者入敵陣之時事。打入馬於河之時。芝田雖聊先立。乗馬中矢。着岸之尅。不見来云々。兼義云。佐々木越河事。偏依兼義引導也。景迹為不知案内。争進先登乎者。難决之間。尋春日刑部三郎貞幸。々々以起請述事由。其状云。
【中略】
武州一見此状之後。猶問傍人之処。所報又以符合之間。招兼義誘云。諍論不可然。只以貞幸等口状之融。欲註進関東。然者。於賞者定可為如所存歟者。兼義云。雖不預縱万賞。至此論者。不可承伏云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、渡河の先陣について佐々木信綱と芝田兼義が相論し、「両国司」(北条時房・泰時)の前で対決します。
泰時は二人の言い分を聞いた後、春日貞幸に証言を求めます。
そして、

-------
武州(北条泰時)はこの文書を一見した後、さらに側にいた者に尋ねたところ、答えもまた一致していたので、兼義を呼んで勧めて言った。「言い争うのは良くない。ただ貞幸らが申した通りに関東へ注進しようと思っているので、勲功の恩賞については、きっと思い通りになるだろう」。兼義が言った。「たとえ多くの恩賞を受けずとも、この相論に関しては承服できません」。
-------

とのことで(『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』、p123)、先陣争いについては兼義の言い分は認めないが、勲功の恩賞はたっぷり上げるので我慢しろ、と泰時は提案しますが、兼義はこれを断固拒否します。
兼義が何故に「所領獲得の論理」で動かないかというと、それは宇治川先陣は自分なのだ、という名誉感情が優先されているからですね。
この後、芝田兼義は『吾妻鏡』から姿を消し、他の史料からも兼義が承久の乱後にどのような生涯を送ったのかは不明ですが、多大な恩賞を受けていれば所領関係の史料も多少は残ったでしょうから、まあ、意地を貫いた結果、恩賞もたいして得られなかったようですね。
さて、流布本には、一般御家人が参戦した理由について、もう一つ興味深いエピソードがあります。
それは、京都守護・伊賀光季が討たれた後、後鳥羽院が、関東では義時と一緒に死ぬ覚悟のある人間はどれくらいいるのか、と尋ねた場面です。(『新訂承久記』、p69以下)

-------
 抑一院尋ね被下けるは、「当時関東に、義時と一所にて可死者は何程かある」。胤義申けるは、「朝敵となり候ては、誰かは一人も相随可候。推量仕候に、千人計には過候はじ」と申ければ、兒玉の庄四郎兵衛尉、「あはれ判官殿は、僻事を被申候物哉。只千人しも可候歟。平家追討以来、権大夫の重恩を蒙り、如何なる事も有ば、奉公を仕ばやと思者社多候へ。只千人候べきか。如何に少しと申共、万人には、よも劣り候はじ。角申す家定程の者も、関東にだに候はゞ、義時が方に社候はんずれ」と申ければ、一院真に御気色悪げなる体にて、奇怪に申者哉と被思召ける。後にぞ能申たりけると被思召合ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c74e61eb721e04c0363e74362b47319e

後鳥羽院が「関東で義時と一所に死ぬ覚悟がある武士は何人くらいいるのか」と下問すると、三浦胤義は「朝敵となった以上、味方をする者は千人に満たないでしょう」と答えます。
これを聞いた「兒玉の庄四郎兵衛尉(家定)」は、「そんなに少ないはずがない、源平合戦以来、義時(権大夫)の恩顧を蒙り、何事があろうと義時のために奉公すると決意している者は大勢いる、千人どころか、どんなに少なくとも万人はいるだろう、自分だって関東にいれば義時のために戦う」と反論したので、後鳥羽院の機嫌は悪くなったが、敗北後、あの者はよくぞ申したなと感心した、ということですが、このエピソードは一般御家人の義時への感情を反映しているのか。
この点、次の投稿で検討したいと思います。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その71)─北陸道軍への一万余騎の加勢は史実なのか。

2023-12-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「勝者随従・所領獲得の論理」という表現は長村祥知氏の論文以外では見かけないように思いますが、長村氏の造語なのでしょうか。
まあ、言いたいことは正確に伝わるので特に奇異な表現とも思いませんが、長村氏が「勝者随従・所領獲得の論理」に関連して述べられていることは、幕府軍の勝利が予め決定済みの予定調和の世界のような感じがして、どうにも違和感を禁じ得ません。
例えば長村氏は、承久三年六月七日の時点で、野上・垂井の軍議参加者に「北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていた」などと言われる訳ですが、この時点では戦争の見通しは全く不透明です。
例えば後鳥羽院が叡山の説得に向かったのは翌八日ですが、仮に後鳥羽院の叡山説得が成功し、叡山の全兵力が京方に付いたなら、宇治河合戦の帰趨も微妙だったかもしれません。
少なくとも実際の経過ほど短期では終わらなかったはずで、その間に西国から京方に加わるものが増加したらどうなったのか。
あるいは後鳥羽院が叡山に立て籠もったらどうなったのか。
戦争はやってみなければ分からない不確実性に満ちた世界であり、六月七日の時点で「北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていた」云々は、私には「捕らぬ狸の皮算用」のように思われます。
ところで、野上・垂井の軍議に関する『吾妻鏡』六月七日条の記述は、

-------
相州。武州以下東山東海道軍士陣于野上垂井両宿。有合戦僉議。義村計申云。北陸道大将軍上洛以前。可被遣軍兵於東路歟。然者勢多。相州。手上。城介入道。武田五郎等。宇治。武州。芋洗。毛利入道。淀渡。結城左衛門尉。并義村可向之由云々。武州承諾。各不及異儀。駿河次郎泰村従父義村。雖可向淀手。為相具武州。加彼陣云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

と極めて簡略ですが、流布本には、

-------
 東山(東海両)道の大勢一に成て上りければ、野も山も兵共充満して、幾千万と云数を不知。野上・垂井に陣を取て、駿河守軍の手分けをせられけるは、「相模守殿は勢多へ向はせ御座候へ。供御の瀬へは武田五郎被向候へ。宇治へは武蔵守殿向はせ給ひ候へかし。芋洗へは毛利蔵人入道殿向はれ候べし。義村は淀へ罷向候はん」と申せば、相模守殿の手の者、本間兵衛尉忠家進出て申けるは、「哀れ、駿河守殿は悪う被物申哉。相模(守)殿の若党には、軍な仕そと存て被申候か」。駿河守、「此事こそ心得候はね。義村昔より御大事には度々逢て、多の事共見置て候。平家追討の時、関東の兵共被差上候しに、勢多へは(大手なればとて)三河守殿向はせ御座して、宇治へは(搦手なれば)九郎判官殿向はせ給ひ、上下の手雖同、三河守殿、勢多を渡して、平家の都を追落し、輙く軍に打勝せ給ふ。是は先規も御吉例にて候へばと存てこそ、加様には申候へ。争か軍な仕そと思ひて、角は可申候。加様に被申条、存外の次第に候。勢多へは敵の向ふ間敷にて候歟。軍は何くも、よも嫌ひ候はじ。只兵の心にぞ可依」と申しければ、本間兵衛尉、始の申状は由々敷聞へつれ共、兎角申遣たる方もなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/504cbf7657594c9ee392bd5d52dce132

とあって、三浦義村案に対し、「相模守の手者、本間兵衛尉忠家」が「勢多では時房の下の若党が活躍できない、我々に軍〔いくさ〕をするなと言うのか」と不満を述べます。
すると義村は、「自分は昔から大事な戦闘を何度も経験して、多くの事を見て来ている。平家追討の時、勢多は大手なので「三河守殿」(源範頼)が向かい、宇治は搦め手なので「九郎判官殿」(源義経)が向かった。そして三河守殿は勢多を渡って平家を都から追い落とした。先例も吉例だから、先の案を出したのだ。全く心外である。勢多には敵が向かわないとでも言うのか」と反論すると、威勢の良かった「本間兵衛尉忠家」も返答できなかったのだそうです。
このエピソードは、長村氏の立場からは、北条時房の側近クラスが「所領獲得の論理」で動いていることを示す貴重な事例になるのではないかと思われますが、流布本を重視しない長村氏の関心は惹かなかったようですね。
なお、この記事はちょっと変で、範頼・義経は木曽義仲を討ったのであり、平家の都落ちは義仲入京の時の話です。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74528293537a74d1a63127bd9d398ffe

ま、それはともかく、この後、

-------
武蔵守泰時は、駿河守の議に被同ぜ。其時に被申は、「宇治へ向はんずる人々は、皆被向候べし。但式部丞北陸道へ向ひ候しが、道遠く極たる難所にて、未著たり共聞へ候はず。都へ責入ん日、一方透ては悪かりなん。小笠原次郎殿、北陸道へ向はせ給へ」。「長清は、山道の悪所に懸て馳上候つる間、関太良にて馬共乗疲らかし、肩・背・膝かけ、爪かゝせて候、又大炊渡にて若党共手負て候へば、(無勢旁以て)叶はじ」と申ければ、武蔵守、「只向はせ給へ、勢を付進らせん」とて、千葉介殿・筑後太郎左衛門尉・中沼五郎・伊吹七郎・是等を始て一万余騎被添ければ、小関に懸りて伊吹山の腰を過、湖の頭を経て西近江、北陸道へぞ向ける。
-------

と、北条泰時が北陸道軍の進軍の遅れを懸念し、小笠原長清に北陸道軍への支援を命じますが、長清は馬が疲れている、大炊渡で若党の多数が負傷している、などと言って従おうとしません。
これも、長村氏の立場からは、小笠原長清が北陸道軍の支援などに行ってもたいした活躍はできそうもない、そんなところに行くよりは主戦場となりそうな宇治あたりで戦いたいと、「所領獲得の論理」で動いていることを示す典型事例になるのではないかと思いますが、長村氏の関心は惹かなかったようですね。
なお、泰時が小笠原長清ら一万余騎に北陸道軍の加勢を命じたことは『吾妻鏡』には出てきませんが、たとえ宇治川合戦に勝利したとしても、北陸道方面が京方の残存拠点となって、後鳥羽院が逃げ込むようなことになっては大変ですから、北陸道軍に加勢を送るのは戦争全体を俯瞰した合理的な判断であり、基本的には事実と考えて良いのではないかと思います。
ただ、「木内次郎」など千葉一族には宇治川合戦に参戦している人もおり、小笠原長清と「千葉介殿・筑後太郎左衛門尉・中沼五郎・伊吹七郎」の軍勢全てが北陸道軍の加勢に向かった訳ではなさそうです。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その17)─「紀内殿」と千葉一族の動向
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2c27b807375b7be34d898ac8ccb40ee
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その18)─千葉一族と宇治河合戦
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d0aa30e7ef06e8a4c8a2fbd7ba93eab9
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その70)─「北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思」(by 長村祥知氏)

2023-12-02 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「承久鎌倉方を単に組織的ということはできない。むしろ私的利益を追求する個の集合体という性格が顕著なのである」との長村祥知説に対して私が抱く根本的な疑問は、果たして「私的利益を追求する個の集合体」で戦争に勝てるのだろうか、勃発から僅か一か月での幕府軍の圧勝という結果を説明できるのだろうか、というものです。
長村氏は「三 鎌倉方武士の軍事行動」の「1 活動分担と勝者随従・所領獲得の論理」において、

-------
 しかし彼らには、主従関係以上に重要なものがあったと考えられる。『慈光寺本』には、涙を流して説得する北条政子に対して、「二位殿ノ御方人ト思食セ」と忠誠を誓った武田信光(『慈光寺本』上-三二六頁)が、東海道軍の大将軍として進軍した美濃国東大寺で、もう一人の大将軍小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ」と言ったとある。そこへ北条時房が「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」という文を飛脚で届けると、武田・小笠原が渡河したという(『慈光寺本』下-三四〇頁)。武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく、東国武士が最も重視したのは、主従の論理よりも勝者随従・所領獲得の論理であった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9f3b325a836d51d9ae52e2a8f72d017

と書かれていたように、最前線で戦う一般の武士だけでなく、武田信光・小笠原長清のような東山道軍の総大将クラスまで「勝者随従・所領獲得の論理」で動いていたとされ、その根拠は慈光寺本です。
そして、「2 司令官の指揮からの逸脱」においても、

-------
【前略】しかし義時が最前線で戦う鎌倉方を意の通り行動させるには、傍線④のごとく勧賞を提示せざるをえなかったのである。それは既述の『慈光寺本』に北条時房が武田・小笠原に六ヵ国を提示したことからも窺えよう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5be0acdaaa5c82ef3d7a816b881a77e

と、重ねて慈光寺本の武田・小笠原・時房エピソードに言及されます。
しかし、「いちかはの六郎刑部殿」への返信の末尾に記された④「おの/\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたきをもうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり」は、北陸道軍の先遣隊を統括していたと思われる市河六郎の配下の一般御家人が「所領獲得の論理」で動くと義時が思っていたことを示しているだけです。
この文章から、義時が市河六郎も「所領獲得の論理」で動いていると考えていたか否かは不明であり、むしろ、市河六郎自身には具体的なニンジンをぶら下げていないことから、お前が一般御家人のように「所領獲得の論理」だけで動く人間ではないことは分かっているよ、と市河のプライドを尊重・刺激しているような書き方に思えます。
まして市河の上にいる北陸道軍の大将軍(『吾妻鏡』五月二十五日条によれば名越朝時・結城朝広・佐々木信実)が「所領獲得の論理」で動いていると義時が考えていたかは④からは不明です。
従って、義時が東山道軍の大将軍(『吾妻鏡』同日条によれば武田信光・小笠原長清・小山朝長・結城朝光)も「所領獲得の論理」で動いていると考えていたかについても④は史料的根拠とはなりません。
また、長村氏が挙げる『吾妻鏡』の四つの事例、即ち、

-------
① 五月二十五日条:安東忠家が「此間有背右京兆〔義時〕之命事、籠居当国。聞武州〔泰時〕上洛、廻駕
  来加」。
② 五月二十六日条:春日貞幸が「信濃国来会于此所。可相具武田〔信光〕・小笠原〔長清〕之旨、雖有其
  命、称有契約、属武州云々」。
③ 六月十二日条:幸島行時が「相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処、運志於武州年尚、於所々令傷
  死之条、称日者本懐、離一門衆、先立自杜山馳付野路駅、加武州之陣」。
④ 六月十三日条:足利義氏と三浦泰村が「不相触武州、向宇治橋辺始合戦。(注、足利義氏が)相待暁天、
  可遂合戦由存之処、壮士等進先登之余、已始矢合戦」。
-------

のうち、①~③はそもそも「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」ではないと私は考えますが、仮に「逸脱」だとしても、ここから、

-------
【前略】むしろ各人の主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得にあり、泰時が最も早く進軍し京近郊では主戦場たる宇治を攻めることとなったために、泰時軍に属したというのが実態と考えられる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef3600fc31b631538c567ea702996d05

とするのは論理が飛躍しています。
泰時が宇治を担当することが決まったのは六月七日、野上・垂井の軍議においてであり(『吾妻鏡』同日条)、①②の時点では尾張河合戦の勝敗すら不明です。
③の幸島幸時の場合は、六月十二日の合流という点から見て「主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得」の可能性はあるでしょうが、『吾妻鏡』同日条に記された泰時の余りの歓待ぶりを素直に受け止めれば、ここはやはり泰時との人間関係が優先されていると考えるのが自然です。
更に、長村氏は、

-------
 鎌倉方東海道軍・東山道軍が美濃・尾張の合戦に勝利した直後、美濃国野上・垂井で合戦僉議を開いた際に、三浦義村が北陸道軍の上洛以前に兵を京に遣わすべきだと主張し、僉議参加者から異議がでなかったのも(『吾妻鏡』六月七日条)、北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていたからであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37a21c707e7a3abf2257dc87644d73ae

と、三浦義村を含め、野上・垂井の軍議参加者に「北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていた」とまで言われますが、まあ、北陸道軍(四万余騎)を待って戦うか、それとも東海道軍(十万余騎)と東山道軍(五万余騎)の合計十五万騎で戦うかは軍事的合理性で決めたと考えるのが自然ではないですかね。
尾張河合戦のあっけない敗北で京方が浮足立っている状況では、北陸道軍の僅か四万余騎をのんびり待つよりは、京方に立ち直りの機会を与えず、一気呵成に攻め立てた方が良いに決まっていると私は考えます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その69)─「私的利益を追求する個の集合体」(by 長村祥知氏)

2023-11-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
源頼朝が東大寺落慶供養のために上洛した時のように、平時であれば事前に参加者やその配属が細かく決められ、勝手な「逸脱行動」があれば「処罰」の対象ともなったでしょうが、承久の乱の勃発は鎌倉にとっては寝耳の水の事態です。
『吾妻鏡』五月二十一日条によれば、

-------
【前略】今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出来。令待武蔵国軍勢之条。猶僻案也。於累日時者。雖武蔵国衆漸廻案。定可有変心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之従竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信為宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。関東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而発遣軍兵於京都事。尤遮幾之処。経日数之条。頗可謂懈緩。大将軍一人者先可被進発歟者。京兆云。両議一揆。何非冥助乎。早可進発之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤沢左衛門尉清親稲瀬河宅云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とのことで、いったん早急な軍勢派遣が決定したのに、暫くすると消極策が首をもたげてきたので、最長老の大江広元と三善康信が改めて早期進撃を断固主張するといった具合で、基本的な方針すら揺れ動きます。
そして、進撃の決断が下された後も、総大将の泰時ですら、とにかく早く出発しさえすれば後から大勢付いてくるだろう、程度の見込みで、僅か十八騎の手勢で鎌倉を発ったという慌ただしい状況ですから(『吾妻鏡』五月二十二日条)、他の参戦者に対しても、〇〇国の御家人は誰々の指揮の下に入れ、程度のざっくりした指示があっただけで、一切の例外を認めない厳格な配属指示はなかったと考えるのが自然です。
従って、①の安東忠家のケースはもちろん、②の春日貞幸と③の幸島行時のケースも、そもそも「処罰」の対象となる「逸脱行動」などと意識されることはなかったと思われます。
④だけは「司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」であることは間違いないとしても、これも戦闘意欲の高さの現われであり、平時の形式的な論理には反していても、何が何でも勝つことが最優先の戦時には、およそ「処罰」の対象だなどとは誰も考えなかったでしょうね。
以前、私は、

-------
長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753

などと書いたことがありますが、ここでも長村氏の基本的な発想は事務方の小役人レベルで、戦争の実態から乖離した形式論理に終始しているように思われます。
さて、長村氏は「最古態本」の慈光寺本を偏愛し、流布本を軽視されるので、流布本で泰時が宇治橋での戦闘を止めさせた場面には注目されませんが、ここは長村氏の言われる「所領獲得の論理」の観点からも非常に興味深い箇所ですね。
安東忠家と足利義氏が攻撃中止を呼び掛けても静まらなかった連中を何とか沈静化させた平盛綱の論理は、

-------
「各軍をば仕ては誰より勧賞を取んとて、大将軍の思召様有て静めさせ給ふに、誰誰進んで被懸候ぞ。『註し申せ』とて盛綱奉て候也」

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

というもので、「お前たちは誰から勧賞をもらうつもりなのか。勧賞を下さる「大将軍」が攻撃中止を命じておられるのに、誰がそれを無視するのか。しっかり記録せよ、と私は「大将軍」から承っておるぞ」という訳ですから、長村氏の言われる「所領獲得の論理」が、「軍功を挙げんと逸る武士の思考」としてではなく、逆に戦闘行為を止めさせようとする司令官の側の論理として登場しています。
つまり、宇治橋合戦の発端の場面では、参戦者は「所領獲得の論理」以外の「論理」で行動していた訳で、司令官側から、お前たちは「所領獲得の論理」で戦うべきなのに何をやっているのか、冷静になれ、と諭されて、やっと、そういえばそうだった、冷静になろうと反省した訳ですね。
では、この場面で参戦者を突き動かしていたのはいったい如何なる「論理」だったのか。
もしかしたら、それは「論理」と呼ぶのも適切ではない一時的な感情や衝動なのかもしれませんが、それはいったい何なのか。
私は一応の回答を用意してはいますが、「2 司令官の指揮からの逸脱」はもう少し残っていますので、先にそれを見ておくことにします。(p245以下)

-------
 鎌倉方東海道軍・東山道軍が美濃・尾張の合戦に勝利した直後、美濃国野上・垂井で合戦僉議を開いた際に、三浦義村が北陸道軍の上洛以前に兵を京に遣わすべきだと主張し、僉議参加者から異議がでなかったのも(『吾妻鏡』六月七日条)、北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていたからであろう。
 すなわち、鎌倉方の軍事動員は、上級権力の「動員」に乗じて私的利益を追求する好機と捉えた武士達の、自発的・積極的行動に支えられていたのである。それゆえ、指揮を逸脱した彼らの行動を、鎌倉方の各司令官は否定することができず、京方を攻撃するという方向性の限りにおいて推奨せざるをえなかったのである。
 以上を勘案すれば、承久鎌倉方を単に組織的ということはできない。むしろ私的利益を追求する個の集合体という性格が顕著なのである。
-------

うーむ。
私はあまり賛同できませんが、検討は次の投稿で行います。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その68)─全ての「逸脱行動」が「処罰」の対象となるのか。

2023-11-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
幕府軍に死者・負傷者が続出する一方、京方はというと、

-------
 京方より奈良法師、土護覚心・円音二人、橋桁を渡て出来り。人は這々渡橋桁を、是等二人は大長刀を打振て、跳々曲を振舞てぞ来りける。坂東の者共、是を見て、「悪ひ者の振舞哉。相構て射落せ」とて、各是を支て射る。先立たる円音が左の足の大指を、橋桁に被射付、跳りつるも不動。如何可仕共不覚ける所に、続たる覚心、刀を抜て被射付たる指をふつと切捨、肩に掛てぞ引にける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

ということで、もちろん京方にも負傷者は出ますが、「奈良法師、土護覚心・円音二人」が、普通の人は這って渡る橋桁を、大長刀を振るって踊るように、曲芸を振舞うようにやって来る様子は、『吾妻鏡』の「官軍頻乗勝」という表現を連想させますね。
この後、

-------
 武蔵守、「此軍の有様を見るに、吃と勝負可有共不見、存旨あり、暫く軍を留めんと思也」と宣ければ、安東兵衛尉橋の爪に走寄、静めけれ共不静。二番に足利武蔵前司、馳寄て被静けれ共不静。三番に平三郎兵衛盛綱、鎧を脱で小具足に太刀計帯て、白母衣を懸、橋の際迄進で、「各軍をば仕ては誰より勧賞を取んとて、大将軍の思召様有て静めさせ給ふに、誰誰進んで被懸候ぞ。『註し申せ』とて盛綱奉て候也」と、慥に申ければ、その時侍所司にてはあり、人に多被見知(ければ)、一二人聞程こそあれ、次第に呼りければ、河端・橋の上、太刀さし矢を弛て静りにけり。
-------

ということで、橋板をはずされた宇治橋で戦っていても埒が明かないと見た泰時は、いったん攻撃の中止を命じます。
しかし、みんな興奮しているので、「安東兵衛尉」(安東忠家)、ついで「足利武蔵前司」(義氏)が攻撃中止を呼び掛けても静まりません。
そこで「平三郎兵衛盛綱」が「白母衣」を懸けて目立つようにした上で、「お前たちは誰から勧賞をもらうつもりなのか。勧賞を下さる「大将軍」が攻撃中止を命じておられるのに、誰がそれを無視するのか。しっかり記録せよ、と私は「大将軍」から承っておるぞ」と叫ぶと、平盛綱は「侍所司」なので多くの人が見知っており、また「勧賞」の響きの効果もあって、最初は一人二人聞く程度だったのが、叫び続けるうちに河端の人も橋の上の人も、太刀を鞘に戻し、矢を弛めて静かになって行ったのだそうです。
『吾妻鏡』では「武州以尾藤左近将監景綱。可止橋上戦之由。加制之間。各退去」とあって、泰時が尾藤景綱に命じて宇治橋での合戦を止めるように言うと皆は直ちに中止した、というあっさりした展開ですが、流布本では、安東忠家・足利義氏が制止しても全然戦闘が止まず、三人目の平盛綱の「勧賞」勧告で何とか収拾できたとのことで、リアルといえばずいぶんリアルな話ですね。
さて、私自身の関心は『吾妻鏡』と流布本の関係にあるので、長々と流布本の紹介をしてしまいましたが、長村論文に戻ると、足利義氏配下の「壮士」は「相待曉天。可遂合戦」と思っていた義氏の「指揮を逸脱」して勝手に合戦を始めてしまったことは間違いありません。
そして、「これらの逸脱行動に対して(義氏が)処罰を下した形跡はない」ようです。
しかし、敵前逃亡や戦闘への不参加などと異なり、戦闘意欲が高すぎて先走ってしまうような行動は、そもそも処罰の対象となるほどの「逸脱行動」なのか。
戦争では戦闘意欲の高さは極めて高く評価されるのであり、戦闘意欲が高すぎるが故の先走りは、それが原因で作戦全体の失敗をもたらしたような場合を除いては、処罰の対象だなどとは誰も考えないのではないか。
長村氏の「逸脱行動」→「処罰」という発想は、戦争の実態から遊離した、あまりに形式的な議論のように思われます。
ということで、④の場合は確かに「逸脱行動」はあったけれども、それはもともと「処罰」の対象となるような性質のものではなかった、というのが私の考え方です。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その67)─三浦泰村・足利義氏は泰時の「指揮を逸脱」したのか。

2023-11-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
④について、長村氏が省略されている部分を含めて、『吾妻鏡』六月十三日条には、

-------
【前略】酉刻。毛利入道。駿河前司向淀。手上等。武州陣于栗子山。武蔵前司義氏。駿河次郎泰村不相触武州。向宇治橋辺始合戰。官軍発矢石如雨脚。東士多以中之。籠平等院。及夜半。前武州。以室伏六郎保信。示送于武州陣云。相待曉天。可遂合戦由存之処。壮士等進先登之余。已始矢合戦。被殺戮者太多者。武州乍驚。凌甚雨。向宇治訖。此間又合戦。東士廿四人忽被疵。官軍頻乗勝。武州以尾藤左近将監景綱。可止橋上戦之由。加制之間。各退去。武州休息平等院云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあります。
例によって『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
酉の刻に毛利入道(西阿、季光)・駿河前司(三浦義村)は淀・手上などに向い、武州(北条泰時)は栗子山に陣を構えた。武蔵前司(足利)義氏・駿河次郎(三浦)泰村は泰時に伝えることなく宇治橋の辺りに向い合戦を始めた。官軍が矢を放つことは雨のようで、東国武士は多くがこれに当たり、(退いて)平等院に立て籠もった。夜半になって前武州(義氏)は室伏六郎保信を泰時の陣に送り、伝えて言った。「明け方を待って合戦を行おうと考えていたところ、勇士らが先陣を進むの余りに既に矢軍を始め、殺害された者がたいそう多くおります」。泰時は驚いたものの、激しい雨を凌いで宇治に向った。この間にまた合戦があり、東国武士二十四人がまたたく間に負傷し、官軍は頻りに勝った勢いに乗じた。泰時が尾藤左近将監景綱を遣わして橋上の戦いを止めるよう制止を加えたので、それぞれ退去した。泰時は平等院で休息したという。
-------

となりますが(p116以下)、『吾妻鏡』を読む限り、足利義氏の配下が義氏の指示に反して勝手に合戦を始めてしまったことは確かでも、足利義氏と三浦泰村が北条泰時の明確な指示に反して勝手に合戦を始めてしまったのかははっきりしないですね。
長村氏も「④には、足利義氏自身が待機を意図しながらも配下の者が先登を進んで戦闘を起こしたとあり、それを見た三浦泰村も遅れじと合戦を始めたと考えられ」とされていて、『吾妻鏡』の読解としては正確です。
この点、流布本では三浦泰村が、尾張河合戦ではたいして活躍できなかったことを悔しく思い、宇治河合戦では派手に戦おうと思っていたことが最初に語られます。
そして、

-------
 其後、駿河次郎、雨に余り濡れたりければ、馬より下り、物具脱かへ、腹帯しめ直しなど仕ける所に、徒歩人少々走帰て、「御前に進まれ候つる殿原、はや橋の際へ馳より、御手者名乗て矢合し、軍始て候。某々手負て候」と申ければ、小河太郎、「足利殿に此由を申ばや」と申。駿河次郎、「暫し申な」とて、物具の緒を縮、馬にひたと乗、轡取て行時、「はや申せ」と云捨て、急ぎ駿河次郎、宇治橋近押寄て見ければ、げに軍は真盛りなり。馬より下、橋爪に立て、「桓武天皇より十三代の苗裔、相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」と名乗て、甲をば脱で投のけ、差攻引攻射けり。【中略】武蔵前司義氏、馳来り相加てぞ戦ける。駿河次郎手者共、散散に戦ひ、少々は手負てぞ引き退く。日も暮行ば、武蔵前司、平等院に陣をとる。駿河次郎も同陣をぞ取たりける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aad4333b2b8633b4a16d80048069b7b5

とあって、宇治橋近辺で小競り合いが始まったことを聞いて真っ先にかけつけたのは三浦泰村であり、その際に泰村は足利義氏をも出し抜いています。
そして、遅れて義氏も合戦に加わります。
この後、

-------
 甲斐国住人室伏六郎を使者として、武蔵守へ被申けるは、「駿河次郎が手者共、早軍を始て、少々手負候。義氏が若党共、数多手負候。日暮候間、平等院に陣を取候。京方、向の岸に少々舟を浮て候。橋を渡て一定今夜夜討ちにせられぬと覚候。小勢に候へば、御勢を被添候へ」と被申ける。武蔵守、「こは如何に、明日の朝と方々軍の相図を定けるに、定て人々油断すべき、若夜討にせられては口惜かるべし。急ぎ者共向へ」と宣ければ、平三郎兵衛尉盛綱奉て馳参り、相触けれ共、「武蔵守殿打立せ給時こそ」とて、進者こそ無けれ。去共、佐佐木三郎左衛門尉信綱計ぞ、可罷向由申たりける。六月中旬の事なれば、極熱の最中也。大雨の降事、只車軸の如し。鎧・甲に滝を落し、馬も立こらヘず、万人目を被見挙ねば、「我等賎き民として、忝も十善帝王に向進らせ、弓を引、矢を放んとすればこそ、兼て冥加も尽ぬれ」とて、進者こそ無けれ。去共、武蔵守計ぞ少も臆せず、「さらば打立、者共」とて、軈て甲の緒しめ打立給けり。大将軍、加様に進まれければ、残留人はなし。
-------

という展開となり、三浦泰村・足利義氏の行動は泰時が「明日の朝と方々軍の相図を定」めたにもかかわらず、その指示に明確に反する独断専行であったことが分かります。
そして、この間にも合戦があり、

-------
 又、夜中に宇治橋近押寄て見れば、駿河次郎、昨日の軍に薄手負たる若党共、矢合始めて戦けり。武蔵前司手者共、同押寄雖戦、暫し支て引退。二番に相馬五郎兵衛・土肥次郎左衛門尉・苗田兵衛・平兵衛・内田四郎・吉河小次郎、押寄て散々に戦ふ、少々手負て引退。三番に新開兵衛・町野次郎・長沼小四郎、各、「其国住人、某々」と名乗て、橋桁を渡り掻楯の際迄責寄たりけるを、敵数多寄合て、三人三所にてぞ被討ける。四番に梶小次郎・岩崎七郎、押寄て散々に戦て引退。五番に波多野五郎信政、引たる橋の際迄押寄たり。是は、去六日、杭瀬川の合戦に、尻もなき矢にて額を被射たり。左有ればとて、只有べきに非ざれば、進出名乗る。「相模国住人、波多野五郎信政」とて、橋桁を渡し、向より敵の射矢、雨の如なるに、向の岸を見んと振仰のきたる右の眼を、健たかに被射て、河へ已に落とす。橋桁に取付て、心地を静めて、向んとすれば先も不見。帰んとすれば敵に後ろを見せん事口惜かるべしと思ければ、後ろ様にぞしざりける。橋の上へしざり上り、取て返ける所に、郎等則久、つとより、肩に引懸返りける。河端の芝の上に伏て、二人左右より寄て、膝を以押て矢を抜てけり。(眼より)血の出事、鎧に紅を流て、誠に侈敷ぞ見へける。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37c4ef520287abdd9ee698b7a5dc81ee

という具合に、幕府軍には多大な犠牲者が生じます。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その66)─幸島行時の華やかな登場と二日後のあっさりした戦死

2023-11-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
③の幸島行時の場合、『吾妻鏡』六月十二日条には、

-------
【前略】今日。相州。武州休息野路辺。幸島四郎行時〔或号下河辺〕相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処。運志於武州年尚。於所々令傷死之条。称日者本懐。離一門衆。先立自杜山。馳付野路駅。加武州之陣。于時酒宴砌也。武州見行時。感悦之余閣盃。先請座上。次与彼盃於行時。令太郎時氏引乗馬〔黒〕。剩至于所具之郎従及小舎人童。召幕際。与餉等云々。芳情之儀。観者弥成勇云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあります。
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
 今日、相州(北条時房)・武州(北条泰時)は野路辺りで休息した。幸島四郎行時〔あるいは下河辺ともいう〕は小山新左衛門尉朝長以下の親類に従って上洛しようとしていたが、長年泰時を慕っており「(一族とは)別の場所で(泰時のために)傷付き死ぬのは日頃の本懐である。」と言って一門の人々から離れ、前もって杜山から野路駅に駆け着けて泰時の陣に加わった。ちょうど酒宴の最中であったが、泰時は行時を見ると喜びの余り盃を置いて上座に招いた後、その盃を行時に与えて太郎(北条)時氏に乗馬〔黒〕を引かせた。そればかりか(行時が)伴っていた郎従や小舎人童に至るまで陣幕のすぐ側に召して食事などを与えたという。(泰時の)思いやりに、見る者はますます勇気を奮い立たせたという。
-------

ということで(p115以下)、幸島行時は本来は小山朝長の許にいたとのことですが、小山朝長は東山道軍の四人の大将軍の一人ですから(『吾妻鑑』五月二十五日条、他は武田信光・小笠原長清・結城朝光)、幸島行時も東山道軍として尾張河合戦を戦い、その後で小山朝長の許を離れて野路(現、滋賀県草津市野路町付近)で泰時に合流したということだろうと思います。
さて、本来所属すべきグループから離れて泰時の許に駆け付けるという幸島行時の登場の仕方は春日貞幸とよく似ていますが、泰時との間に事前の「契約」はなかったようであり、春日貞幸以上に「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」のように見えます。
ただ、泰時は幸島行時の郎従や小舎人童に至るまで陣幕近くで食事を与えたということですから、泰時と幸島行時の間には格別に親密な関係があったようです。
そして、そうした事情は小山朝長にも話したでしょうから、朝長の一応の了解もあったと考えてよさそうです。
そもそも、私には当初の配属命令が絶対に例外を許さない厳格なものだったとは思えず、泰時との特別な関係がある人物で、事後的であっても泰時が配属変更を了解している以上、これもたいした問題ではなかったのではないかと思います。
ところで、これだけ特別な処遇がなされている以上、このエピソードは何かの伏線であろうと思ってしまいますが、春日貞幸が後の場面で大活躍するのに対し、幸島行時は六月十四日条で、

-------
其後。軍兵多水面並轡之処。流急未戦。十之二三死。所謂。関左衛門入道。幸島四郎。伊佐大進太郎。善右衛門太郎。長江四郎。安保刑部丞以下九十六人。従軍八百余騎也。
-------

と死者九十六人の一人として名前が出て来るだけで、華やかな登場の僅か二日後にあっさり死んでしまいます。
この点、流布本では、幸島行時と泰時の関係についての記述は全くない代わりに、

-------
軈て続て渡しける若狭兵部入道・関左衛門尉・小野寺中務丞・佐嶋四郎、四騎打入て渡けるが、若き者共の馬強なるは、河を守らへて能渡す間、子細なし。関左衛門尉入道、身は老者なり、馬は弱し、被押落下り頭に成ければ、聟の佐嶋四郎難見捨思て取て返し、押双て馬の口に付たりけるが、被押入、二目共不見、共に流れて失にけり。是は佐嶋四郎国を立ける時、妻室云けるは、「我親は頼敷き子一人もなし。我に年比情を懸給ふ事誠ならば、此言葉の末を不違して、我父相構ヘて見放し給な」と、軍と聞し日より、打出る朝迄、鎧の袖を扣ヘて云ける事をや思ひ出たりけん、同く流れけるこそ哀なれ。故郷の者共、此事を伝聞て、「左云ざりせば、一度に二人には後れ間敷物を」と、歎けるこそ甲斐なけれ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8aed4432a3f320c381be1790d0f86cb2

とあって、妻から父を頼むと強く言われていた「佐嶋四郎」は舅の関左衛門尉政綱を助けようとして自分も流されて死んでしまった、とのことで、その死の経緯や関係者の後日談までが戦場悲話として詳しく描かれています。
『吾妻鏡』でも「関左衛門入道」の直ぐ後に「幸島四郎」の名前が出てきますから、二人の関係については流布本の記述は一応信頼できそうですね。
両者を読み比べると、元々は『吾妻鏡』の歓迎エピソードと流布本の戦死エピソードが両方揃った形で世間に流布され、「故郷の者共」もそれを「伝聞」いたのではなかろうかと想像してしまいます。
なお、私は「佐嶋四郎」エピソードは流布本の成立が相当早いことを示す一事例ではなかろうかと考えています。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/721310a854d5dc249800b59bb69b790e
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その65)─北条泰時と春日貞幸の「契約」

2023-11-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
②の春日貞幸について、『吾妻鏡』五月二十六日条には、

-------
【前略】武州者。着于手越駅。春日刑部三郎貞幸信濃国来会于此所。可相具武田。小笠原之旨。雖有其命。称有契約。属武州云々。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

とあります。
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
武州(北条泰時)は手越駅に到着した。春日刑部貞幸が信濃国からここにやって来て合流した。武田・小笠原に合流するよう命令があったが、契約があると言って泰時に従ったという。
-------

とのことで(p109)、春日貞幸は武田・小笠原の東山道軍に属するように命令があったにもかかわらず、手越駅(現、静岡県静岡市駿河区手越付近)で泰時と合流したとのことですから、確かに「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」のようにも見えます。
しかし、そもそも当初の配属命令は、絶対に例外を許さない厳格なものだったのか。
当初の命令の主体は義時ということでしょうが、実際に泰時と春日貞幸との間に事前の「契約」があったならば例外として許容されそうですし、そうでなかったとしても、泰時が了解すれば事後的に「契約」が成立したという扱いとなり、特に問題とされるような話ではないように思われます。
また、泰時と「契約」があると称して移動したのですから、武田・小笠原の一応の了解もあったのではないですかね。
ところで、『吾妻鏡』六月十四日条には、

-------
及夘三刻。兼義。春日刑部三郎貞幸等受命為渡宇治河伏見津瀬馳行。佐々木四郎右衛門尉信綱。中山次郎重継。安東兵衛尉忠家等。従于兼義之後。副河俣下行。信綱。貞幸云。爰歟瀬々々々者。兼義遂不能返答。経数町之後揚鞭。信綱。重継。貞幸。忠家同渡。官軍見之。同時発矢。兼義。貞幸乗馬。於河中各中矢漂水。貞幸沈水底。已欲終命。心中祈念諏方明神。取腰刀切甲之上帯小具足。良久而僅浮出浅瀬。為水練郎従等被救訖。武州見之。手自加数箇所灸之間。住正念。所相従之子息郎従等。以上十七人没水。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあって、これも今野慶信訳を参照すると、

-------
卯の三刻になって、兼義・春日刑部三郎貞幸らは(泰時の)命を受けて宇治河を渡るために伏見津の瀬に急行した。佐々木四郎右衛門尉信綱・中山次郎重継・安藤兵衛尉忠家らは兼義の後に従い、河俣に沿って下って行った。信綱・貞幸が言った。「ここが浅瀬か。ここが浅瀬か」。兼義はとうとう返答もせず、数町を経た後に鞭を揚げ(て渡り)、信綱・重継・貞幸・忠家も同じく渡った。官軍はこれを見ると同時に矢を放った。兼義・貞幸の乗った馬が河の中でそれぞれ矢に当たり、水に漂った。貞幸は水底に沈み、危うく死ぬところであったが、心の中で諏訪明神を祈り、腰刀を取って鎧の上帯と小具足を切ると、しばらくしてやっと浅瀬に浮かび出て、泳ぎが達者な郎従らによって救われた。泰時はこれを見て自分の手で数箇所に灸を加えたので、(貞幸は)意識を取り戻した。(貞幸に)従っていた子息・郎従以下十七人は水に溺れた。
-------

とのことで(p117)、春日貞幸は宇治河先陣争いに加わって死にかけるも泰時の灸治で息を吹き返したのだそうです。
そして、更に

-------
武州進駕擬越河。貞幸雖取騎之轡。更無所于拘留。貞幸謀云。着甲冑渡之者。大略莫不没死。早可令解御甲給者。下立田畝。解甲之処。引隠其乗馬之間。不意留訖。
-------

とのことで、貞幸は泰時の無謀な渡河を阻止するという重要な役割を果たしており、『吾妻鏡』の中ではなかなかドラマチックな人物として造型されていますね。
五月二十六日条は、こうした泰時と春日貞幸の劇的な場面の伏線となっているともいえそうです。
なお、流布本でも、

-------
 武蔵守、「あたら侍共を失て、泰時一人残止ても何かすべき。運尽たり共、具に相向てこそ死なめ」とて、河端へ被進けるを、信濃国住人、春日刑部三郎と云者、親子打入て渡しけるが、子は流れて死ぬ。親も被押入たりけるを、郎等未岳に有けるが、弓のはずを入て捜しける程に、無左右取付て被引上たるを見れば、春日刑部三郎也。(暫)河端に大息つきて休ける所に、武蔵守、河端へ被進けるを、立揚り七寸につよく取付て、「如何に角口惜き御計は候ぞ。軍の習ひ、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が一騎に成迄も、大将軍の謀に随ふ習にてこそ候へ。増て申候はんや、御方の御勢百分が一だに亡候はぬ事にてこそ候へ。如何に御命をば失はんとせさせ給候ぞ」と申ければ、武蔵守、「思様あり。放せ」とて、策にて腕を被打けれ共不放。去程に御方百騎計、河の端へ進み前を塞ける間、力不及給。此事鎌倉に伝聞て、「刑部三郎が高名、先を仕たらんにも増りたり」とぞ宣ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1476eee270aec73e5c09d504dbeec67b

とあって、あまりの戦死者の多さに逆上した泰時が、「むざむざと御家人たちを失って、私一人残り留まってどうしようか。私の武運は尽きたけれども、共に敵に向ってこそ死にたいものだ」などと言って渡河しようとしたところ、信濃国住人の「春日刑部三郎」貞幸が泰時を止めます。
『吾妻鏡』では、春日貞幸は泰時が鎧を脱いでいる間に馬を隠すといった姑息な手段を用いたことになっていますが、流布本では戦場の「道理」を説いた上での実力阻止ですね。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9c286cf251fc87f4071ae56b630d57e
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その19)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9bf941fce68e071e1289aca32116cdcf
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その64)─「各人の主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得」(by 長村祥知氏)

2023-11-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿では、以前、市河氏について少し調べたときの曖昧な記憶で、「市河氏は甲斐国の御家人ですが、信濃国北部にも所領を持っていたようなので、市河六郎はおそらく承久の乱勃発時には鎌倉ではなく信濃国北部にいたのではないかと思われます」などと書いてしまいましたが、長野県立歴史館サイトには、

-------
 市河氏は、甲斐国(山梨県)の出といわれる。鎌倉時代中期には信濃国に進出し、地元の中野氏と婚姻関係を結び、同氏の所領である高井郡志久見郷(現下水内郡栄村を中心とする一帯)を自らのものとしていった。

https://www.npmh.net/ichikawa/

とあり、承久の乱の時点で信濃国に市河氏の拠点があったとはいえないようですね。
この点、もう少し調べたいと思いますが、いずれにせよ、市河六郎は北条朝時率いる北陸道軍の先遣隊的な位置づけであったこと、そして朝時と連絡を取り合って行動していたことは間違いないと思います。
五月三十日付の書状を持って鎌倉を目指した市河六郎の使者も、途中で進軍中の朝時に出会い、朝時宛ての書状を渡すとともに、最前線の状況を朝時に報告した後、改めて鎌倉に向かったのではないですかね。
市河六郎が義時宛てに書状を送ったということは、別に市河が朝時をないがしろにして勝手に行動していたことを意味する訳ではないと私は考えます。
さて、市河六郎に関する長村氏の見解には他にも疑問がありますが、長村説をもう少し見てから改めて論じたいと思います。
ということで、続きです。(p244以下)

-------
 また、ここで予想された義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動は、実際に『吾妻鏡』から多くの事例を挙げることができる。

① 五月二十五日条:安東忠家が「此間有背右京兆〔義時〕之命事、籠居当国。聞武州〔泰時〕上洛、廻駕
  来加」。
② 五月二十六日条:春日貞幸が「信濃国来会于此所。可相具武田〔信光〕・小笠原〔長清〕之旨、雖有其
  命、称有契約、属武州云々」。
③ 六月十二日条:幸島行時が「相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処、運志於武州年尚、於所々令傷
  死之条、称日者本懐、離一門衆、先立自杜山馳付野路駅、加武州之陣」。
④ 六月十三日条:足利義氏と三浦泰村が「不相触武州、向宇治橋辺始合戦。(注、足利義氏が)相待暁天、
  可遂合戦由存之処、壮士等進先登之余、已始矢合戦」。

 これらの逸脱行動に対して義時や各司令官が処罰を下した形跡はない。それどころか『吾妻鏡』は、①②③の記事につき、各人と泰時との主従関係を称賛するかのごとく叙述する。確かに彼らの主従関係は他に比して強固だったかもしれないが、むしろ各人の主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得にあり、泰時が最も早く進軍し京近郊では主戦場たる宇治を攻めることとなったために、泰時軍に属したというのが実態と考えられる。④には、足利義氏自身が待機を意図しながらも配下の者が先登を進んで戦闘を起こしたとあり、それを見た三浦泰村も遅れじと合戦を始めたと考えられ、軍功を挙げんと逸る武士の思考と行動が窺えるのである。
-------

うーむ。
私には長村氏の言われることが全く理解できないのですが、各事例をひとつずつ確認してみたいと思います。
まず、①については、引用部分だけだと事情が分かりにくいので前後を含めて原文を見ると、

-------
今日及黄昏。武州至駿河国。爰安東兵衛尉忠家。此間有背右京兆之命事。籠居当国。聞武州上洛。廻駕来加。武州云。客者勘発人也。同道不可然歟云々。忠家云。存義者無為時事也。為棄命於軍旅。進発上者。雖不被申鎌倉。有何事乎者。遂以扈従云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

という話です。
正確を期すために『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

-------
 今日の夕方になって、泰時は駿河国に到着した。その時、安東兵衛尉忠家はこのところ義時の命令に背く事があって駿河国で謹慎していたが、泰時の上洛を聞くと、馬に乗ってやってきて(軍勢に)加わった。泰時が言った。「お前は譴責を受けている者である。同道するのはよくない」。忠家が言った。「手順を踏むのは平穏な時のことです。命を戦いで捨てるために出発した以上、鎌倉に申されずとも何事かありましょうか」。とうとう付き従ったという。
-------

となりますが、確かに形式的には安東忠家は義時の謹慎命令に反していますね。
しかし、義時も承久の乱のような大事件が勃発することを想定した上で、そのような場合であっても絶対に謹慎しておれ、と命じたはずもありません。
即ち、義時の謹慎命令はあくまで平時を前提としており、戦時となった以上、安東忠家の参加は歓迎すべき出来事です。
平時と戦時は違うのだという安東忠家の論理は理にかなったものであり、それを泰時が認めただけの話であって、これは別に「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」ではないですね。
まあ、義時の承認を得てから安東忠家の参加を認めれば形式的にも謹慎命令違反とならず、手続きとしては完璧でしょうが、そんなことは言ってられないのが戦争ですね。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その63)─「北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に」(by 長村祥知氏)

2023-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
『吾妻鏡』では、北陸道軍の合戦については六月八日条にごく僅かな記述があるだけです。
慈光寺本には記事が一切存在せず、比較的記事の分量が多い流布本でも、

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(去程に)式部丞朝時は、五月晦日、越後国府中に著て勢汰あり。枝七郎武者、加地入道父子三人・大胡太郎左衛門尉・小出四郎左衛門尉・五十嵐党を具してぞ向ける。越中・越後の界に蒲原と云(難)所あり。一方は岸高くして人馬更に難通、一方荒磯にて風烈き時(は)船路心に不任。岸に添たる岩間の道を伝ふて、とめ行ば、馬の鼻五騎十騎双べて通るに不能、僅に一騎計通る道なり。市降浄土と云所に、逆茂木を引て、宮崎左衛門堅めたり。上の山には石弓張立て、敵寄ば弛し懸んと用意したり。人々、「如何が可為」とて、各区の議を申ける所に、式部丞の謀に、浜に幾等も有ける牛を捕へて、角先に続松を結付て、七八十匹追続けたり。牛、続松に恐れて、走り突とをりけるを、上の山より是を見て、「あはや敵の寄るは」とて、石弓の有限り外し懸たれば、多くの牛、被打て死ぬ。去程に石弓の所は無事故打過て、夜も曙に成けるに、逆茂木近く押寄て見れば、折節海面なぎたりければ、早雄の若者共、汀に添て、馬強なる者は海を渡して向けり。又足軽共、手々に逆茂木取除させて、通る人もあり。逆茂木の内には、人の郎従と覚しき者、二三十人、かゞり焼て有けるが、矢少々射懸るといヘども、大勢の向を見て、(皆)打捨て山へ逃上る。其間に無事故通りぬ。
 (又)越中と加賀の堺に砥並山と云所有。黒坂・志保とて二の道あり。砥並山へは仁科次郎・宮崎左衛門尉向けり。志保へは糟屋有名左衛門・伊王左衛門向けり。加賀国住人、林・富樫・井上・津旗、越中国住人、野尻・河上・石黒の者共、少々都の御方人申て防戦ふ。志保の軍、破ければ、京方皆落行けり。其中に手負の法師武者一人、傍らに臥たりけるが、大勢の通るを見て、「是は九郎判官義経の一腹の弟、糟屋有名左衛門尉が兄弟、刑喜坊現覚と申者也、能敵ぞ、打て高名にせよ」と名乗ければ、誰とは不知、敵一人寄合、刑喜坊が首を取。式部丞、砥並山・黒坂・志保打破て、加賀国に乱入、次第に責上程に、山法師・美濃竪者観賢、水尾坂堀切て、逆茂木引て待懸たり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a671e2277afb72d206e58e26cb41f0b

という程度なので、市河文書の承久三年六月六日「北条義時袖判御教書」は本当に貴重な史料ですね。
地名・人名等、流布本とも相当に重なります。
さて、前回引用した部分の①~④には傍線があります。
即ち、

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①しきふのせう〔北条朝時〕をあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたきおひおとしたるよし
 申されたる、返々しむへう〔神妙〕に候。

②いかにもして一人ももらさすうたるへく候也。山なとへおひいれられて候はゝ、山ふみをもせさせて、め
 しとらるへく候也。さやうにおひおとすほとならは、ゑ中〔越中〕・かゝ〔加賀〕・のと〔能登〕・ゑち
 せん〔越前〕のものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、

③うちすてゝなましひにて京へいそきのほる事あるへからす。

④又おの/\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたき
 をもうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり、
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の部分に傍線があります。
そして、続きです。(p244以下)

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 傍線①から、市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたことがわかる。そして傍線②に見るごとく、越中・加賀・能登・越前の中小規模の在地領主は日和見状態であり、初期段階の軍事的制圧が雪達磨式に彼等の動向を決することを、義時は理解していた。そのためには傍線③のごとく、市河らの上洛を止めて、京方たることの明確な者を確実に討たせる必要があった。しかし義時が最前線で戦う鎌倉方を意の通り行動させるには、傍線④のごとく勧賞を提示せざるをえなかったのである。それは既述の『慈光寺本』に北条時房が武田・小笠原に六ヵ国を提示したことからも窺えよう。
 なお、義時が市河らの上洛を止めようとしたことにつき、浅香年木氏は、東国御家人に対する北陸道の地元群小領主層の抵抗が根強かったことから、この機に彼らを掃討せんとしたと解する。しかし、六月初頭段階の鎌倉では乱の勝敗の行方自体が不透明だったに違いない。義時は、長期的政策よりも、越中以下の者が「しかしながら御かたへこそまい」ることによる、乱の勝利そのものを意図していたと考えるべきである。
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うーむ。
いくつか疑問が生じるのですが、最大の疑問は長村氏が市河六郎の行動を「司令官の指揮からの逸脱」の代表例とされている点です。
「市河六郎が、鎌倉を発した北条朝時率いる北陸道軍の到着以前に、越後国西部の蒲原(頚城郡。現在の新潟県糸魚川市)や越中国東部の宮崎(新川軍。現在の富山県朝日町)で軍事行動を開始していたこと」は間違いないでしょうが、果たして市河六郎は北条朝時の指揮に反して勝手に「軍事行動を開始」したのか。
市河氏は甲斐国の御家人ですが、信濃国北部にも所領を持っていたようなので、市河六郎はおそらく承久の乱勃発時には鎌倉ではなく信濃国北部にいたのではないかと思われます。
そして、いわば自動的に北陸道軍の先遣隊のような形になったものと思われますが、そうした立場に置かれた市河は、別に勝手に「軍事行動を開始」したのではなく、北条朝時と連絡を取った上で「軍事行動を開始」したと考える方が自然ですね。
五月三十日の子刻に市河が発した書状が六月六日の申刻に鎌倉に到達するくらいの連絡網が出来ているのですから、市河が蒲原・宮崎を攻撃する前に、進軍中の北条朝時に「蒲原・宮崎を攻撃していいですか」と連絡して、「いいよ」という返事をもらうまでさほど時間がかかったとも思えません。
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「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その62)─「司令官の指揮からの逸脱」(by 長村祥知氏)

2023-11-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回投稿で引用した部分に、

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『慈光寺本』には、涙を流して説得する北条政子に対して、「二位殿ノ御方人ト思食セ」と忠誠を誓った武田信光(『慈光寺本』上-三二六頁)が、東海道軍の大将軍として進軍した美濃国東大寺で、もう一人の大将軍小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ」と言ったとある。そこへ北条時房が「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」という文を飛脚で届けると、武田・小笠原が渡河したという(『慈光寺本』下-三四〇頁)。
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とあるので、長村氏は野口実・坂井孝一氏と同じく、武田信光と小笠原長清の密談エピソードに加え、時房に巨大なニンジンを目の前にぶら下げられた武田馬と小笠原馬が、ニンジン目当てに尾張河を渡河したとの話も史実とされる立場のようですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その16)─「リアルな恩賞を提示して裏切りを阻止した時房の眼力と決断力」(by 坂井孝一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f8b69695f82ad48a840c818343941ca
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その17)─坂井孝一説に「リアリティ」はあるのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d6de74a2adca331d2c2d08e1e3659a7
「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その42)─「当時の武士の天皇観をよく示したエピソード」(by 野口実氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/abff121a8a617f1805adb1ee94c7d761

従って、長村氏はメルクマールの三番目、

 (3)武田信光と小笠原長清の密談エピソードを引用するに際し、慎重な留保をつけているか。

をクリアーされていますが、興味深いのは、長村氏が武田信光の「二位殿ノ御方人ト思食セ」という発言と「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ」云々の発言を対比させておられる点です。
これは大津雄一氏が「慈光寺本『承久記』は嘆かない」(『挑発する軍記』所収、勉誠出版、2020)で、

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 山道の大将軍であった武田信光と小笠原長清は尾張川に至る。川を前にして、小笠原が武田に、「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」と尋ねる。武田は、「ヤ給ヘ、小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ、小笠原殿」と答える。そこへ、北条時房から、両人が渡したならば美濃以下六か国を与えようとの書状が届くと、それならば渡せと川を渡す。まことに功利的である。しかも、鎌倉で北条政子が三代将軍の恩を訴え、「京方ニ付テ鎌倉ヲ責ン共、鎌倉方ニ付テ京方ヲ責ン共、有ノマゝニ被仰ヨ、殿原」と武士たちに迫ったさい、真っ先に進み出て、「昔ヨリ四十八人ノ大名・高家ハ、源氏七代マデ守ラント契リ申シテ候ケレバ、今更、誰カハ変改申候ベキ。四十八人ノ大名・高家ヲバ、二位殿ノ御方人ト思食セ」と頼もしく言ったのは、ほかならぬ武田である。建前と本音とをしたたかに使い分けている。そして、武田の本音を見透かしたように甘言で誘う時房もまたしたたかである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/28b4e0e9fbdd8014e7cffa6f5bea75c2

と書かれていることと発想が共通していますね。
大津氏はずいぶん前から慈光寺本に関して「したたか」を連発されているので、あるいは長村氏も大津氏の悪影響を受けておられるのかもしれません。
さて、長村氏は「武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく、東国武士が最も重視したのは、主従の論理よりも勝者随従・所領獲得の論理であった」と言われますが、もう少し分かりやすく、格調の低い表現にすると、

 勝者随従の論理=「長い物には巻かれろ」の論理
 所領獲得の論理=「世の中、ゼニやで」の論理

ということかと思います。
私には、これらは「論理」というより、むしろ単純な欲望の全面肯定に過ぎないように思われますが、果たして本当にこれらの「論理」を「東国武士が最も重視した」のか。
もしかすると、これらは長村氏の人間観・世界観を反映しているだけで、東国武士の人間観・世界観とは殆ど関係がないのかもしれませんが、そう決めつける前に、もう少し長村氏の「勝者随従・所領獲得の論理」の内実を見ておきたいと思います。(p242以下)

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 2 司令官の指揮からの逸脱

 ここで想起されるのは、戦争状態の中で、鎌倉方武士勢力が独自の判断で謀叛人所領の発見即没収を遂行し、それが平時に地頭職として追認されたことである。東国武士は、治承・寿永の内乱や頼朝没後の比企・梶原・畠山・和田等の大規模御家人の度重なる没落を通じて、戦争という特殊な状況下においてこそ所領・諸職が獲得できることを知っていたのであろう。かかる理解を踏まえて、鎌倉方の軍事動員の実態を確認したい。

 史料3 (承久三年)六月六日「北条義時袖判御教書」
             (花押)
  五月卅日ねのときに申されたる御ふみ、けふ六月六日さるのときにたうらい。五月つこもりの日、かん
  はら〔蒲原〕をせめおとして、おなしきさるのときに、みやさき〔宮崎〕をゝいおとされたるよし、き
  こしめし候ぬ。①しきふのせう〔北条朝時〕をあひまたす、さきさまにさやうにたゝかひして、かたき
  おひおとしたるよし申されたる、返々しむへう〔神妙〕に候。又にしなの二らう〔仁科盛朝〕むかひた
  りとも、三百きはかりのせいにて候なれは、なにことかは候へき。又しきふとの〔北条朝時〕も、いま
  はおひつかせ給候ぬらん。ほくろくたう〔北陸道〕のてにむかひたるよし、きこえ候は、みやさきのさ
  ゑもん〔宮崎定範〕・にしなの二郎〔仁科盛朝〕・かすやのありいしさゑもん〔糟屋有石左衛門〕・く
  わさのゐんのとうさゑもん〔花山院藤左衛門〕、またしなのけんし〔信濃源氏〕一人候ときゝ候。②い
  かにもして一人ももらさすうたるへく候也。山なとへおひいれられて候はゝ、山ふみをもせさせて、め
  しとらるへく候也。さやうにおひおとすほとならは、ゑ中〔越中〕・かゝ〔加賀〕・のと〔能登〕・ゑ
  ちせん〔越前〕のものなとも、しかしなから御かたへこそまいらむする事なれは、大凡山のあんないを
  もしりて候らん、たしかにやまふみをして、めしとらるへく候。おひおとしたれはとて、③うちすてゝ
  なましひにて京へいそきのほる事あるへからす。又ちうをぬきいてゝ、さやうに御けんにん〔御家人〕
  をもすゝめて、たゝかひして、かたきをゝいおとされたる事、返々しむへうにきこしめし候。しんたの
  おとゝの四らうさゑもん六らうなと、あひともにちうをつくしたるよし、返々しむへうに候。④又おの
  /\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたきを
  もうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり、そのよしをふれらるへく候。あな
  かしこ。
       〔承久三年〕
        六月六日<さるのとき>  藤原兼佐<奉>
    いちかはの六郎刑部殿<御返事>

 この文書は信濃の御家人である市河六郎からの軍功の報告に対する義時の返書である。この文書を発した義時の立場は、信濃守護ではなく幕府の最高権力者とみるべきであろう(宮田A論文)
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長くなったので、いったんここで切ります。
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