学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

六波羅団地の悪夢

2014-04-09 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 9日(水)19時23分43秒

>筆綾丸さん
「自戒をこめて」だと、「将来に向かって注意しましょう」みたいな感じで受け取る読者も多いでしょうね。
自説の撤回をするときは、きちんと過去の記述を特定し、これこれの理由で考え方を改めました、とはっきり書くのが一番良いと思いますが、小川剛生氏も偉くなりすぎてプライドが邪魔をしているのですかね。

高橋昌明氏は「推論が合理性の範囲を超えて暴走したかもしれない」と言われているので、自分が変なことを言っているとの自覚はあるのでしょうね。
「分かっちゃいるけどやめられない」という植木等の心境でしょうか。
昔はけっこう高橋氏の本を読んだのですが、「六波羅団地」で窒息死しそうになって以降、一冊も買っていません。

カテゴリー「高橋昌明『平家物語 福原の夢』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「ザムザのように」 2014/04/08(火) 15:46:16
小太郎さん
「物語を先例とするような悠長な雰囲気」という表現には、ザムザのように、ある朝、気がかりな夢から目覚めてみると、「丁寧な考証」をすっかり忘れていた、えーい、忌々しい、彼らはまだ、あの浪漫的な幻想に酔い痴れているのだろうか、といったような感情がよく出ていますね。

---------------------------
よく知られているように、一一世紀末~十二世紀初頭以降『源氏物語』第一次受容の波が見られた。そしてここが肝心な点だが、『源氏物語』と海幸・山幸説話の重なりを念頭に置くと、後白河が後者を通して自らを光源氏、平清盛を明石入道、徳子を明石の君になぞらえていた可能性が高い。つまり、コインに喩えると、絵巻はあくまで表の意匠、裏面の図柄は『源氏物語』で、そこには実は表とは別の同時代政治へのアレゴリーが刻印されている、といいたいのである。
(中略)
吉森佳奈子氏は、南北朝期の『源氏物語』古注釈書である『河海抄』の注釈にあげる例が、『源氏物語』成立以前のものだけでなく以後の例に及んでいる事実に注目する。そして、『源氏物語』以前に例はないのに、物語に書かれたことがすぐ後の時代に実現しているとして、「『源氏物語』のありようが享受者を引きつけ、現実をうごかすことになった」「謂わば、物語の史実化、先例化」があったと、主張している。『源氏物語』という言述の世界の広がりが、先蹤や史実になって現実社会を創造する関係である。もし、光源氏のふるまいが、清盛にとっての先例や行動の準則になっていたとすれば、後白河はそれを冷たく見据えながら、清盛が光源氏などとはとんでもない、お前は所詮明石入道に過ぎないのだ、と手のこんだ手法で決めつけていることになるだろう。
推論が合理性の範囲を超えて暴走したかもしれない。だが清盛が自らを光源氏に擬した云々はともかく、平家にとって『源氏物語』が予想以上に大きな意味を持っていた面は否定できない。
(?橋昌明氏『平清盛と福原の夢』130頁~)
---------------------------
(注)絵巻とは彦火々出見尊絵巻のこと。

高田信敬氏は、「『源氏物語』の例をどれほど集めてみても、それはそれで貴重な仕事ではあるにせよ」と穏やかに云われていますが、本音は、位相ということを知らんのか、そんなこと、ただの暇潰しさ、ということかもしれませんね。

追記
河添房江氏の「准母(女院)」ですが、以下によれば、准母から女院までには背後に政治的な駆引きがあったことになりますね。
----------------------------
経嗣たちが想像した通り、夫妻とも准三后であるのは清盛夫妻に倣うことになり、不吉でけしからぬ、と不満を匂わせたのであろう。改めて義満は自身への尊号を求めたが、それは難しい。むしろ、女院の制は「太上天皇に准じた」一種の待遇を意味するのだから、どうせ異例であるならば、当初予定されていなかった女院号宣下が、急遽発議されて実現した、と知られる。荒暦の記事は三月五日の院号定へと続き、康子の住居の名を取って「北山院」の号に決したとある。(小川剛生氏『足利義満 公武に君臨した室町将軍』247頁)
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「承久の乱後の六波羅」

2012-01-22 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 1月22日(日)20時32分10秒

アマゾンに注文していた野口実氏の『武門源氏の血脈 為義から義経まで』(中央公論新社)が来たのでパラパラ読んでみたのですが、「承久の乱後の六波羅」という小見出しのところで熊谷隆之氏の「六波羅探題考」(『史学雑誌』一一三-七、二〇〇四年)が極めて高く評価されており、ちょっと驚きました。(p162以下)

----------------
 承久の乱(一二二一年)の後、南北六波羅殿(六波羅探題府)が設置された。南殿は六条大和大路にあったことが分かっている。その結果、両六波羅殿の周辺には、六波羅奉行人や探題被官・家人等の宅や宿所が続々と構えられていったようである。
 その後の六波羅の将軍御所に関する史料所見を挙げておこう。

 暦仁元年(一二三八)四代将軍頼経の上洛に際し、建久の例に任せて六波羅に御所が
           新造される。
 寛元四年(一二四六)頼経が京都に送還されたとき、北条重時(義時の三男で六波羅
           探題北方)の六波羅「若松宅」に入る。
 建長四年(一二五二)五代将軍藤原頼嗣(四代将軍藤原頼経の子)が京都に送還された
           とき「若松殿」に入る。六代将軍宗尊親王(後嵯峨親王の第一皇子)
           は六波羅の北の檜皮屋(ひわだや)に渡ってから鎌倉に出立。
 正応二年(一二八九)八代将軍久明親王(後深草天皇の第六皇子)は六波羅の北に渡って
           鎌倉に出立。

『続史愚抄』という史料に、元弘元年(一三三一)八月、後伏見天皇・花園上皇・量仁親王(のちの光厳天皇)が六波羅に遷った時、六波羅の北方を御所としたが、ここにはかねてより「将軍の幕府」として檜皮屋一宇が造られており、ここに入れ奉ったという記事が見える。『増鏡』にも「六波羅の北に、代々将軍の御料とて造りをける檜皮屋一つあるに」とあって、六波羅には、頼朝・頼経が造営した御所に継続する形で代々将軍の「幕府」たる檜皮葺きの邸宅(御所)が用意されていたことが分かる。
 将軍(鎌倉殿)は必ず六波羅御所に移徙)してから東国に下向している。熊谷隆之氏はこの点に注目し、摂関家や王家に属した貴種が武家の長である鎌倉殿の地位につくにあたり、まず京都における征夷大将軍邸に移徙し、そのうえで鎌倉に下向するしきたりがあった。つまり、朝廷側の認識では鎌倉殿の本邸は六波羅に所在しており、観念上、鎌倉は征夷出征中の拠点にすぎなかったのだという注目すべき見解を示している。
(中略)
 熊谷隆之氏は「ある一面においてという限定つきであれ、六波羅のおかれた歴史的位置をつぎのように評価しても、けっして過言ではあるまい。─征夷大将軍の本邸が立地した「武家」六波羅は、鎌倉幕府の本拠であった、と」と述べている。右に述べたような京都の空間構造を俯瞰すると、やはり鎌倉時代の国家は京都の朝廷のもとに一元化されていたものと捉えざるをえない。(後略)
----------------

熊谷隆之氏の「六波羅探題考」については、以前、かなり細かく検討してみました。
そのときに檜皮屋の意味についても検討し、熊谷隆之氏の見解には賛成できない旨を述べました。
また、熊谷隆之氏が自説の史料的な根拠として『増鏡』を多数挙げていること、しかし『増鏡』は熊谷説の根拠にならないばかりか、むしろ熊谷説を否定する根拠を提供していることを述べました。
従って、熊谷隆之氏の見解を基礎としている野口実氏の説明にも、何一つ賛同できる点はないですね。
なお、「『続史愚抄』という史料」とありますが、『続史愚抄』は江戸時代の編纂物ですので、ここで何の断りもなく「史料」という表現を用いることは適切なんですかね。
また、野口実氏が引用する箇所は内容的に『増鏡』と同じなので、「将軍の幕府」と形容したのはおそらく『続史愚抄』の編者でしょうね。

カテゴリー「高橋昌明『平家物語 福原の夢』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/6106bb55e9dff7af0cdf7f8ccdacb231

「容疑者Mの献身」
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d4a1f9b005f64433725e626cc367b7f4
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「六波羅団地」

2011-11-26 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年11月26日(土)07時40分42秒

で検索すると私の投稿がトップになりますね。

http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5160
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/5159

二年たって、関西方面の歴史研究者の間では「六波羅団地」は学術用語として定着したのでしょうか。
最初にこの言葉に出会ったときの衝撃は今でも忘れることができません。
たまたまコーヒーを飲んでいたのでコーヒーを吹き出しそうになるだけですみましたが、ゆでたまごを食べる瞬間だったら窒息死するところでした。

最近、ニュース以外はテレビを殆ど見ない生活を送っていて、来年の大河ドラマについても特に関心がなかったのですが、時代考証は高橋昌明氏ではなく、本郷さんなんですね。

http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/special/br/index.html
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/special/br/02.html



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源氏物語研究の水分

2009-12-26 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月26日(土)13時30分21秒

>筆綾丸さん
『源氏物語』から流れ出た古注釈書は『水原抄』(源光行・源親行)、『河海抄』・『珊瑚秘抄』(四辻善成 )、『細流抄』(三条西実隆)、『山下水』(三条西実枝)、『岷江入楚』(中院通勝 )、『湖月抄』(北村季吟)という具合に非常に水分が多いですね。
幽斎は、細川という水っぽい家名は何と古今伝授にふさわしいのだろう、と笑みを浮かべたことがあったかもしれないですね。

古注釈の歴史(進藤重之氏「古典の窓」より)
http://www.cims.jp/star/kororin/kotyu.html
http://www.cims.jp/star/kororin/top.html

>北畠治房
町史にそんな書き方をされる人物も珍しいと思いますが、北畠治房が関わった小野組転籍事件の経緯を見ると、見識と豪腕を併せ持った人物ではありますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%B5%84#.E5.B0.8F.E9.87.8E.E7.B5.84.E8.BB.A2.E7.B1.8D.E4.BA.8B.E4.BB.B6

検索してみたら、薄田泣菫の「中宮寺の春」というエッセイに北畠治房が登場していました。
薄田泣菫は1877年生まれ、北畠治房は1833年生まれなので、44歳違いのコミカルなコンビですね。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000150/files/48325_31494.html

薄田泣菫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%84%E7%94%B0%E6%B3%A3%E8%8F%AB

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「黄庭堅とエクリチュール」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5258
「煙管屋鳩平 実は 北畠治房」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5259
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黄山谷

2009-12-23 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月23日(水)01時29分16秒

>筆綾丸さん
『源氏物語古註釈叢刊』で『岷江入楚』をパラパラ眺めてみましたが、大学受験用参考書を連想させるほどの懇切丁寧な注釈書ですね。
書名は北宋の黄山谷の詩「岷江初濫觴、入楚乃無底」に由来するものだそうです。
定家の『源氏物語奥入』が岷江の初めならば、この書は楚に入って底なきが如き河となったもので、それは「世くだり、人の心おろかにして、はかなきふしまでをもらさず注釈せんとするがゆゑなり」だそうです。

国会図書館の解説も簡明ですね。

-------------
『源氏物語』の代表的注釈を集大成したもの。細川幽斎(1534-1610)の勧めにより着手、約10年を費やして、慶長3年(1598)6月完成した。書名は宋の黄庭堅の詩句に基づき、長江の源流である岷江が下流の楚に入り大河になるように、初期の簡単なものから始まった注釈が、後世に到り膨大なものになったことを表わす。幽斎の命名である。

http://www.ndl.go.jp/exhibit60/copy1/1ise_2.html

黄山谷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%BA%AD%E5%A0%85

>Aki さん
19日に私が雪の中を走り回っていた場所は冬に事故が多いので有名だったようで、地元の人に呆れられてしまいました。

>満州
私の父は朝鮮の留学生と戦後も暫く親しくつきあっていたそうですが、やがて音信不通になったようです。
旧制中学の知り合いだったのか、連絡が取れなくなった事情は何だったのか等、後で聞いてみます。
コメント (5)
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新島のマリア・マグダレナ

2009-12-20 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月20日(日)10時53分42秒

検索してみたら、四日市のイタリアンレストラン「サンマルコ」の「ソムリエの夜話No.13 残花」に、次のような記述がありました。

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権典侍中院氏は、その後、御代が変わり、後水尾天皇の側近となり幕府との交渉をこなしていた兄の中院通村が江戸へ下向したおり、小田原の海を見て「妹がこの向うの島に流され今も存命している」と語っている事で、消息が確認できる。 “ひく人のあらでや終(ツイ)にあら磯の 波に朽ちなん 海女のすて舟”と妹を哀れんで、歌を書き付けている。その時すでに13年の歳月が通りすぎていた。兄妹ですら哀憐の歌を詠み、通り過ぎる術しかなかった。
この一連の話を書こうと思い立った頃、A紙の土曜版に八丈島に流された二人の上臈の後日譚が載っていて、その偶然に驚いた。なんと彼女らのその後の消息はスペインに残っていた。スペインの古都トレドのイエズス会記録所にマカオ駐在の神父よりもたらされた1619年の年次報告書にラテン語で“新島に内裏宮廷の異教徒の流罪になった婦人が何人かいた。その中の二人がキリシタンの名をつけマグダレナ、マリアと称した。二人を信仰に導いたのは、おたあジュリアと言う朝鮮出身の婦人で新島へ流され、そこで女官達と知り合った。この改宗事件でおたあは、神津島に、二人の女官は八丈島へと移されたと記載されているそうだ。おたあの流罪は慶長17年。同時期の流人、近藤富蔵と言う侍が、細かく書き記した「八丈実記」と合致する。さらに年報によるとマグダレナは島の代官に言い寄られ、拒んだ為、鼻と耳をそがれ首を刎ねられたとあり「自分の血で洗礼を受け殉教の栄冠を与えられた」と記されているそうだ。

http://www.munieru.com/sanmarco/yawa/yawa.html

何とも不思議な話ですが、「A紙の土曜版」を確認してみたいですね。
それにしても、二人合わせてマリア・マグダレナとは。
マリア・マグダレナの前身がprostituteであったことを考えると、深い意味がありそうに思わせる名前ですね。
全然深い意味はないのかもしれないですけど。

ジュリアおたあ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%8A%E3%81%9F%E3%81%82
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権典侍中院氏(也足女)

2009-12-20 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月20日(日)10時37分9秒

別にそれほど重要な話ではないのですが、中院となると捨て置けない感じもするので、引用してみます。(「也足軒・中院通勝の生涯」p25)

-------------
 帰洛以来、この頃までの十年間が也足の最も花やかな時期だったのではあるまいか。師幽斎の存在はもとより大なるものではあったが、晩年は耄碌し(智仁親王御記十四年十一月廿九日)、「十ヶ年以来玄旨耄碌無筋事ヲモ時々ハ被申ケル」(当代記)といった為体で、也足こそが、堂上はもとより京都文化界の最高指導者だったのである。
 慶長十三年頃から、或はそれ以前から後陽成天皇側近の女房、新大典侍広橋氏・権典侍中院氏(也足女)・中内侍水無瀬氏・菅内侍唐橋氏・さぬき等が傾城かぶき女の如く洛中に出行、花山院忠長・ 飛鳥井雅賢・難波宗勝・烏丸光広ら公家の輩並びに若干の武士もこれに応じて酒宴を張り、密通の事などがあり、世情の聞こえも喧しいものがあったが、就中広橋・唐橋は天皇寵愛の女性でもあったので、逆鱗は十四年七月四日に至って爆発し、女官を各々その家に錮した。重き者は死罪にすべしとの綸言であったが、家康がこれを宥め、多くは配流に決し、十月一日也足女は広橋氏らと共に雨中を駿府に送られ、取調べを受けた末、伊豆新島に配流された。也足の心情の推移は連々として家集(「新一人三臣」として大日本史料に掲出)にみえる。
 九月卅日、明日出立の日には、

  おもひやれながかるまじき老いの身の
  かぎりもまたぬこの別ぢを

と詠じたが、その如く、憂愁の堆積によって半年余を経て没しさるのである。また也足に深甚の同情を籠めて歌を取交したのは藤原惺窩で、この折の一連の歌が惺窩先生倭歌集に見えている。なおこの女の年齢は不明だが、通村の妹で、二十歳位か。広橋氏らと共に赦されて帰洛するのは、十五年を経た元和九年九月廿七日のことである。
-------------

ウィキペディアには「猪熊事件」として立項されていますが、ずいぶん古めかしい説明の仕方ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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流離の十余年

2009-12-20 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月20日(日)00時19分35秒

東京出張で青空を見上げてから戻ってくると、世界が一変していました。
十二月の雪の記録を遡れば、暖冬続きの昨今では今回が平成に入って以来最高の大雪だそうで、会社の駐車場の隅に止めてあった私の車は30センチ以上の雪をかぶっており、慣れないスノーブラシを使っての雪降ろしは車一台分だけでもかなりの労働でした。
作業終了後、やはり雪国では長靴が必需品だなと思って近所のショッピングモールに行き、除雪用のスコップも併せて購入しました。
まさかこの年になって長靴を買うとは思っていませんでしたが、長靴を履いて新雪を踏みしめていると、何だか小学生に戻ったような気分になります。
夕方からは雪道の訓練で4時間ほどドライブしてきたため、さすがに疲れました。

さて、東京出張のついでに国会図書館に1時間ほど寄り、井上宗雄氏の「也足軒・中院通勝の生涯」(『国語国文』448号、1971)を入手しましたので、少し紹介してみます。(p17)

-------------
 慶長三年は也足四十三歳、畢生の大作『岷江入楚』が完成を見た年である。幽細の慫慂を受け、実枝の講釈を頼りとし、不遇締緒の身を励ましつつ十年にして詳注五十五帖をまとめ終えた由の仮名序を、六月十九日付で書きつけている。屈折した心情を底に秘めた、見事な和文である。機械的に網羅した諸注集成ではなく、源氏物語を本質的に把握しうるように配慮された諸注の生かし方と自見とで貫かれていて、恐らく古注釈の最高峰であろう。王朝的雰囲気を解しえぬ層の拡大している時代なればこそ、十全なる古典理解にはかかる詳注が必要なのであった。流離の十余年の辛酸がその必要性を彼に体得せしめ、また述作の使命感を助長したものでもあったろう。幽斎は七月七日に真名の跋を与え、かつ「細川家記」によると「氷てもながれ底なき入江かな」の発句を贈った。なおこの後也足はしばしば源氏講釈を行い、その折々に追補などを行ったようである。
-------------

中院通勝が「流離の十余年の辛酸」を嘗めたのは正親町天皇の勅勘を受けたからですね。
そして丹後に逐電したのだそうです。
父も貴族としてはすごい人生を送っていますが、娘は更にすごいですね。
こちらは伊豆新島に十五年間流されていたそうです。

岷江入楚
http://www.ndl.go.jp/exhibit60/data/R/005/01/005-01-031r.html

>筆綾丸さん
「鎌倉殿」「将軍家」の使い分けについては論文がありそうですね。

>職人太郎さん
ご紹介、ありがとうございます。
こちらですね。

http://plaza.rakuten.co.jp/sozo9daime/

私の住所は新潟市からはかなり離れているのですが、機会を見つけて訪問してみます。
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食べ物と建物

2009-12-17 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月17日(木)01時15分46秒

『徒然草』では北条時頼と大仏宣時が味噌を肴に酒を飲んだというエピソードも倹約奨励の話として有名ですが、檜皮葺についての先の検討を踏まえると、これも少し微妙な話ですね。
食べ物は質素だったかもしれないけれど、建物自体は誰が見てもここに権力が存在しているのだなあと思えるような豪奢な大邸宅の、そのまた一番立派な建物で、ほぼ確実に檜皮葺だったでしょうね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-215-nobutokiason.htm

松下禅尼の障子の話も、建物が檜皮葺だったら、一点豪華主義ならぬ一点節約主義の相当いやみな話になりかねませんね。
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隠し題

2009-12-12 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月12日(土)11時51分19秒

『日本国語大辞典』のサイトに丁寧な解説がありますね。

-------------
第三の勅撰和歌集である『拾遺集』にも「物名」の部立があります。その中の荒船の御社

  茎も葉もみな緑なる深芹は
   洗ふ根のみや白く見ゆらむ(三八四。藤原輔相)
  茎も葉もみな緑である根が深い芹は洗う根だけが白く見えているのだろうか。

を、鎌倉時代の順徳天皇の歌論『八雲御抄』(一)では、五文字以下はやさしいが、これは
「あらふねのみやしろ」という九字がよく隠れていると賞賛しています。

http://www.nikkoku.net/ezine/asobi/asb04_01.html

「あかりしやうじ」は7文字で難しいので、現代風に少しアレンジして「ガラス窓」の題で作ってみようと思ったのですが、なかなか難しいですね。

 いにしへの熊野御堂の八咫烏
  惑ふ衆生のしるべなりけり

ま、鎌倉の武家歌人レベルですかね。
『源氏物語』を下敷きにしていろいろ考えてみましたが、私の才能では無理ですね。

 どちらから須磨と明石にお越しかと
  蛸や平目が清盛に聞く

和歌ではなく、狂歌になってしまいます。
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あかり障子

2009-12-12 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月12日(土)11時18分49秒

田渕句美子氏の『阿仏尼』、入手して少し読んでみました。
参考文献に井原今朝男氏の「中世善光寺平の災害と開発」(『国立歴史民族博物館研究報告』96号、2002年)が載っていますが、「中世」がついていなければ土木工事の報告書のような、この武骨なタイトルの論文は、意外なことに阿仏尼研究のみならず後深草院二条研究にとっても必読文献です。
このあたりもきちんと押さえているのはさすがです。

68頁の『井蛙抄』の挿話は面白いですね。

-------------
 また、次のようなエピソードが、『井蛙抄』巻六・雑談にある。
  或人物語云、中院禅門と阿仏とゐられたる所へ、為氏まかりて、縁にてこはづくり
  て、あかり障子をあけて入らんとせられけるを、阿仏房、障子の尻を押へて、「あ
  かり障子を隠し題にて一首あそばし候へ。あけ候はん」と申されければ、とりあへ
  ず、
     いにしへのいぬきがかひし雀の子飛びあがりしやうしとみるらん
  と詠まれければ、あけて笑ひて入られけり。たはぶれながら、にくき心にてやあり
  けん。源承法眼の説とてかたりき。
為家と阿仏が嵯峨中院で同居していた時であろうか。為氏が訪れてあかり障子をあけ
て入ろうとした時、阿仏が戯れに、「あかり障子を隠し題にして一首お詠みなさいませ、
そうすれば開けますよ」と言った。隠し題とは、ある事物を、和歌の意味に関係なく、
音節に詠み込むものだが、為氏が即座に、『源氏物語』若紫巻を下敷きにして詠んだ。
犬来(いぬき)という侍女が、飼っていた雀を逃がしてしまい、幼い紫上が悲しんだという場面
をふまえ、「上がりしや憂し」を「あかりしやうじ」と重ねたのである。
 この話は『岷江日楚(みんごうにっそ)』にも引かれている。ここでは為氏の才を示す風流譚として語
られているが、『源氏物語』の内容は、当然彼らの間で共有されていたわけである。
-------------

「あかり障子」と聞いて即座にこんな歌を詠むのですから、トップレベルの歌人たちの教養と技倆はたいしたものですね。

頓阿の『井蛙抄』は随分前にこの掲示板でも話題になりましたが、『岷江日楚』は時代がかなり下るので、私は名前に聞き覚えがある程度でした。
中院通勝の源氏物語注釈書なんですね。

http://www.asahi.com/ad/clients/ryukoku/200805/200805c2.html
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『阿仏尼』

2009-12-10 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月10日(木)22時30分41秒

>筆綾丸さん
今日は長距離ドライブをして少し疲れましたので、早めに寝ます。
田渕句美子氏の『阿仏尼』、早速注文しました。
田渕氏は国文学者ですが、歴史学の論文も丁寧に読んでいる方ですね。

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空欄補充問題、第2問

2009-12-09 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月 9日(水)00時38分49秒

【設問】 次の文章の空欄にあてはまる最も適切な用語を選択肢の中から択びなさい。

 ところで、清盛が福原に隠遁して後白河との距離を保とうとするなら、後白河側は幾度でも福原に出向いて、その間を詰める必要があるだろう。内実はどうであれ、院と清盛の密着ぶりを内外に宣伝する機会でもある。なによりも、かの地滞在中の清盛の応接のさまざまを通して、世間に両者が君臣・上下関係にあると再認識させ、清盛自身にも思い知らせる必要がある。これは鎌倉・室町幕府の政治用語でいえば「御成(おなり)」にあたるだろう。
 もちろん清盛もホームグランドという環境を生かして、たまさかの状況では言い尽くせない自らの抱負や要求を対置したに違いない。福原に流れる二人だけの〔   〕時間に、どのような主張が火花を散らし、息づまるつば迫り合いがあったかうかがう術もないが、僅かに承安元(一一七一)年一〇月の上皇・建春門院の福原御幸で、その年末に実現する徳子入内が談合合意された、と見通せる件についてはすでに述べた。

【出典】高橋昌明『平家物語 福原の夢』(講談社選書メチエ、2007、P156)

【選択肢】
 (1)秘密の
 (2)濃密な
 (3)濃厚な
 (4)緊密な
 (5)緊迫した
 (6)妖艶な
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第2問 解答と解説

2009-12-09 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月 9日(水)00時33分47秒

※上の投稿を先に読んでください。

筆綾丸さんが紹介された格調高い句に触発されて、空欄補充問題の第2問目を考えてみました。
今回は読者の読む順番を考慮して、設問を上にしています。

さて、通常の言語感覚を有している人ならば、まず、「濃密な」「濃厚な」「妖艶な」は冗談でしょ、と除外して、他から選ぶと思います。
「秘密の」は「二人だけの」を受けてですから不自然ではなく、また、「緊密な」も可能と思いますが、対立する政治家間の関係を示す表現としては「緊迫した」がベストであり、多くの人はこれを選ぶでしょうね。
しかし、正解は(2)、「濃密な」です。
第1問目の「六波羅団地」は単に言葉のセンスが悪いだけ、ボキャブラリーがプアーなだけで済んでしまいますが、「濃密な」はかなり深刻な問題をはらみます。
というのは、五味文彦氏の「院政期政治史断章」(『院政期社会の研究』所収)という極めて有名な論文によって、中世の研究者は後白河の時代の人間関係について非常に神経質になっているからです。
「二人だけの濃密な時間」となると、ついつい、あんなことやそんなことをやっているのではなかろうかと想像を逞しくさせてしまい、やっぱり後白河と清盛もそういう関係だったのか、と妙に納得してしまう危険があります。
清盛の「異例ずくめの昇進」(p58)も、白河法皇のご落胤(p8)ではなく、別の関係で説明がついてしまうのか、などと思いかねないですね。
高橋昌明氏の騒々しい文体は趣味の問題だから仕方ないとしても、誤解を与える表現は避けてほしいですね。
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コクソウバ

2009-12-07 | 高橋昌明『平家物語 福原の夢』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年12月 7日(月)00時30分30秒

大阪大学で黒田俊雄氏の同僚であった真田信治氏のホームページによれば、黒田氏は真田氏と同じく富山県・砺波高校の出身だそうですね。
正確に言えば、黒田氏より20歳下の真田氏は富山高校、黒田氏は旧制砺波中学の出身です。
旧制砺波中学出身者には、山崎豊子『不毛地帯』 の主人公のモデルとも言われる大本営参謀の瀬島龍三氏もいるそうですが、瀬島氏は1911年生まれなので黒田氏の15歳上になりますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B3%B6%E9%BE%8D%E4%B8%89

さて、真田氏の2008年8月のエッセイによれば、黒田氏は先の大戦時に富山県庄下村(現砺波市)で「兵事係」をやっていた人物の証言を集めた『村と戦争 兵事係の証言』(桂書房、1988)という本を編集されたとのことで、孫引きですが、その本には以下の記述があるそうです。

--------------
ただ、私が同じ兵隊でもかわいかった(真田注:かわいそうだった、の意) のは、一六や一七で志願させて、無理矢理ハンコを押させた若い連中です。兵事係が夜中に行って、ハンコ押させて。しまいには適任者全部ハンコ押させたもの。その時分は日本の海軍力は、ほとんどなかったくらいです。沈められて。そういう状況というのは我々は大体予想できたけれど、軍部というのは無茶なことをやったものです。海軍志願せ、海軍志願せと。それらの子供というのは、今は開国以来ない日本の重大危機なのだ、国のためにおまえたちの命がほしいのだといわれて、軍隊へ入ればまたそういうし。子供たちにはわからないのです。靖国神社で会いましょうという歌なんか歌っているけれども、これは夢を見ているようなもので。また帰ってくるのだというような。死とはどうなることか、人生がどうなることかということは、彼らにはわかっていない。私はこの年になって申し上げるのですけれど、それらの子供らというものは、我々の考え方とはまた違うものです。それだからそうやって死んでいった子たちが、私はかわいそうでどうにもならないのです。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~sanada/essay/essay.html

「一六や一七で志願」ということは、おそらく黒田俊雄氏と同世代の人たちだったのだろうと思います。
未成年者ですから、ここで「無理矢理ハンコを押させた」というのは、実際には親に押させたことになるのだろうと思いますが、ちょうど私の父親も全く同世代で、しかし、かなりニュアンスの異なる思い出を持っています。
群馬県で育った私の父親は、時代の趨勢に沿ってそれなりの軍国少年に成長し、かつ旧制中学でそれなりの成績だったので、当時のそれなりのエリートコースである江田島の海軍兵学校に入学を希望したのだそうです。
そして、入学には親の承諾が必要であったため、中学の先生が承諾を求めたところ、父親、即ち私にとっての祖父は承諾を拒否したため、中学の先生がわざわざ自宅まで何度も説得に来たそうですが、祖父は断固として拒否を貫き、結局父親は江田島に行けず、祖父を深く恨んだそうです。
しかし、結果として祖父の拒否のおかげで戦死することもなかった訳です。
父親によれば、祖父が承諾を拒否した理由は、「日本はアメリカに勝てるはずがない。まだ、若いのだから、死に急ぐ必要はない」というものだったそうで、正直、これを聞いたとき、私は少々興醒めしました。
私も疑り深い性格なので、きっとこれは父親が事後的に祖父についての記憶を美化し、いかにも祖父が先見の明があったように記憶をすり替えてしまっているに違いないと想像して、「おじいさんは何で日本がアメリカに負けると思ったの?」と聞いたところ、父親の答えは意外なものでした。
祖父は、「アメリカは世界の金(gold)の9割を持っている国だから、そんな国と戦って勝てる訳がない」と言ったのだそうです。
たいした学歴もなく、群馬の田舎でのんびり暮らしていた祖父が何でそんな認識を持っていたのかというと、「おじいさんはコクソウバ(穀物相場)をやる人だったから」だそうです。
戦前、群馬の養蚕地帯は絹製品が輸出産業の花形だったおかげでそれなりに豊かであり、かつ、国定忠治を生んだ博打好きの県民性から、相場に手を出す人がけっこういたそうですね。
私の祖父もそんな人たちの一人だったのですが、とにかく私の父親が戦死せず、私が生まれたのも相場のおかげかと思うと、ちょっと妙な気分ですね。
昭和史関係の映画やテレビドラマを見ると、戦争について醒めた認識を示す人にはすぐに「非国民」みたいな非難が浴びせられて、憲兵に逮捕されてしまう場面が出てきますが、それはそれで嘘ではないんでしょうけど、地域によってずいぶん違いがあったのかもしれないですね。
少なくとも私の祖父は、いろんな人に自分の戦争観を率直に話していたようですけど、別に「非国民」呼ばわりもされず、もちろん憲兵も来なかったそうです。
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