投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月31日(月)20時07分26秒
本年のまとめとして、もう一つ投稿するつもりでいたのですが、久しぶりに立花隆『日本共産党の研究』上下二巻を手にとったら、面白くてついつい読み耽ってしまいました。
大晦日の過ごし方として、『日本共産党の研究』とコミンテルンのテーゼ集を突き合せて内容を検証するのは些か間違っているような感じがしないでもないので、少し休んで、久しぶりに日本酒でも飲んでみるか、などと思っています。
いうことで、特にまとめもありませんが、本年の投稿はこれで終わりとします。
このようなマニアックな掲示板に訪問して頂いた親愛なる同志諸君!!
どうぞ良いお年をお迎えください。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月31日(月)13時03分6秒
杉浦明平が「中越さん」と会った時期は明確ではありませんが、すぐ後に大学入学後の話になっているので、一高の三年時のようですね。
とすると、杉浦・伊藤は1930年入学ですから1932年の出来事となり、いわゆる「非常時共産党」の時期となります。
非常時共産党
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E6%99%82%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
戦前の共産党は、1922年の創立以降、「武装共産党」の一時期を除くと基本的にはコミンテルンの資金援助に頼ることが多かったようですが、「非常時共産党」の時期はシンパのカンパの比重が高まっていたそうです。
その集金システムについては、立花隆『日本共産党の研究(下)』(講談社、1978)の「党を支えたシンパの資金網」(p55以下)が分かりやすいのですが、
-------
問題は小口カンパを集める場合、資金集めのコストがかなりかかることだった。後に松村にかわいがられて、家屋資金局の武器部、資金部などのキャップになる今泉善一は、昭和六年はじめ、大蔵省営繕局管財課の一職員をしていたとき(当初は臨時雇で日給一円)に、共産党との接触がはじまり、月に三円のカンパをする最末端のシンパとしてスタートして、二年もたたないうちに、資金網の総元締になった男である。この今泉が詳細な手記を書き残している。その中から、資金網に関するくだりを少し拾ってみると、その実態がよくわかる。
-------
ということで(p65)、引用はしませんが、要するに小口カンパは集金する専従党員の生活費に喰われてしまって全然効率が良くなかったそうですね。
そこで、実際には富裕な文化人・知識人シンパへの依存度が高かったのですが、その代表格が河上肇です。(p70以下)
-------
前にちょっと紹介したように、河上が共産党のシンパとして資金カンパをはじめるのは、三一年の夏のころである。日大で民法の教授をしていた杉ノ原舜一が、「死んでも秘密を漏らすようなことはないから……」と、共産党への毎月一定のカンパを頼んだ。河上がそれを受けて、月百円から百五十円のカンパを引き受けたことはすでに述べた。三二年に入ると、
「党の要求は次第に逓増して来て、約束の定期寄付金の月額を殖したばかりではなく、千円、二千円と纏った臨時の寄付をせねばならぬ場合が何回か重なってゐた。その度毎に家内は銀行の預金を引出して来た」(『河上肇自叙伝』)
河上はやがて党活動にどんどん深入りしていき、この夏には入党してしまう。そして九月上旬、党からのさらなる要請に応えて、実に一万五千円ものカンパを行なう。
「私は当日行はれたそんな事件の輪廓を聴き取りながら『これまで杉ノ原君の手を通して党に提供した資金は恐らく一万円近くに達してゐるだろうから、今度の分を加えると、彼れ此れ二万何千円といふものになる筈だ。新労農党時代に随分無駄な金を使つたものだが、それでもまだそれだけの金を提供することが出来たのか』と満足に思ふと同時に、『しかし後にどれほどの金が残してあるのだらう』と、家内の今後の生活のことがひどく気に懸つた」(同前)
-------
遥か昔、初めて『日本共産党の研究』を読んだときは、河上肇の豊かさに吃驚しました。
さて、1932年当時の「彼れ此れ二万何千円といふもの」がどれくらい価値があるのかというと、1978年の立花は四千倍くらいに換算しています。
-------
いまの貨幣価値でいえば、ほとんど一億円に近いカンパをしたことになる。どうして河上肇のような学者にそんなに金があったのだろうかと疑問に思われるかもしれない。しかし、戦前のインテリ(大卒サラリーマンを含む)はみんな金持だったのである。第一にインテリの給与が高かった。河上のように、大学を定年までつとめなかった教授でも恩給が月に百五十円も貰えたという時代である。第二に、いまのように累進所得税制度がないために、売れる本を書く著述家は、巨額の印税がそのまま所得として残り、産をなすことができたのである。
河上の場合、『経済学大綱』の印税が一万五千円、『マルクス主義の基礎理論』と『第二貧乏物語』の印税はそれぞれ一万二千円にもなった。共産党が大口カンパを求めるのに好んで著述家たちのところをまわったのは、こういう理由もあったのである。
-------
ということで、こうした背景を考えると、伊藤律は杉浦明平を介して土屋文明等のアララギ派の歌人をシンパに組織することを狙ったのではないか、と疑うことも十分合理的ではないかと思います。
だいたい杉浦明平は、伊藤と同じく中学四修で一高・東大という秀才とはいえ、文学部国文学科でアララギ派ですから、人間的にはちょっとトロいところがあり、伊藤から見たら杉浦など、いつもぼんやり日向ぼっこをしている阿呆に近い存在だったのではないかと思います。
なお、私は今泉善一の後半生を全く知らなかったのですが、建築の世界では有名な人だそうですね。
今泉善一(1911-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B3%89%E5%96%84%E4%B8%80
杉浦明平が「中越さん」と会った時期は明確ではありませんが、すぐ後に大学入学後の話になっているので、一高の三年時のようですね。
とすると、杉浦・伊藤は1930年入学ですから1932年の出来事となり、いわゆる「非常時共産党」の時期となります。
非常時共産党
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E6%99%82%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
戦前の共産党は、1922年の創立以降、「武装共産党」の一時期を除くと基本的にはコミンテルンの資金援助に頼ることが多かったようですが、「非常時共産党」の時期はシンパのカンパの比重が高まっていたそうです。
その集金システムについては、立花隆『日本共産党の研究(下)』(講談社、1978)の「党を支えたシンパの資金網」(p55以下)が分かりやすいのですが、
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問題は小口カンパを集める場合、資金集めのコストがかなりかかることだった。後に松村にかわいがられて、家屋資金局の武器部、資金部などのキャップになる今泉善一は、昭和六年はじめ、大蔵省営繕局管財課の一職員をしていたとき(当初は臨時雇で日給一円)に、共産党との接触がはじまり、月に三円のカンパをする最末端のシンパとしてスタートして、二年もたたないうちに、資金網の総元締になった男である。この今泉が詳細な手記を書き残している。その中から、資金網に関するくだりを少し拾ってみると、その実態がよくわかる。
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ということで(p65)、引用はしませんが、要するに小口カンパは集金する専従党員の生活費に喰われてしまって全然効率が良くなかったそうですね。
そこで、実際には富裕な文化人・知識人シンパへの依存度が高かったのですが、その代表格が河上肇です。(p70以下)
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前にちょっと紹介したように、河上が共産党のシンパとして資金カンパをはじめるのは、三一年の夏のころである。日大で民法の教授をしていた杉ノ原舜一が、「死んでも秘密を漏らすようなことはないから……」と、共産党への毎月一定のカンパを頼んだ。河上がそれを受けて、月百円から百五十円のカンパを引き受けたことはすでに述べた。三二年に入ると、
「党の要求は次第に逓増して来て、約束の定期寄付金の月額を殖したばかりではなく、千円、二千円と纏った臨時の寄付をせねばならぬ場合が何回か重なってゐた。その度毎に家内は銀行の預金を引出して来た」(『河上肇自叙伝』)
河上はやがて党活動にどんどん深入りしていき、この夏には入党してしまう。そして九月上旬、党からのさらなる要請に応えて、実に一万五千円ものカンパを行なう。
「私は当日行はれたそんな事件の輪廓を聴き取りながら『これまで杉ノ原君の手を通して党に提供した資金は恐らく一万円近くに達してゐるだろうから、今度の分を加えると、彼れ此れ二万何千円といふものになる筈だ。新労農党時代に随分無駄な金を使つたものだが、それでもまだそれだけの金を提供することが出来たのか』と満足に思ふと同時に、『しかし後にどれほどの金が残してあるのだらう』と、家内の今後の生活のことがひどく気に懸つた」(同前)
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遥か昔、初めて『日本共産党の研究』を読んだときは、河上肇の豊かさに吃驚しました。
さて、1932年当時の「彼れ此れ二万何千円といふもの」がどれくらい価値があるのかというと、1978年の立花は四千倍くらいに換算しています。
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いまの貨幣価値でいえば、ほとんど一億円に近いカンパをしたことになる。どうして河上肇のような学者にそんなに金があったのだろうかと疑問に思われるかもしれない。しかし、戦前のインテリ(大卒サラリーマンを含む)はみんな金持だったのである。第一にインテリの給与が高かった。河上のように、大学を定年までつとめなかった教授でも恩給が月に百五十円も貰えたという時代である。第二に、いまのように累進所得税制度がないために、売れる本を書く著述家は、巨額の印税がそのまま所得として残り、産をなすことができたのである。
河上の場合、『経済学大綱』の印税が一万五千円、『マルクス主義の基礎理論』と『第二貧乏物語』の印税はそれぞれ一万二千円にもなった。共産党が大口カンパを求めるのに好んで著述家たちのところをまわったのは、こういう理由もあったのである。
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ということで、こうした背景を考えると、伊藤律は杉浦明平を介して土屋文明等のアララギ派の歌人をシンパに組織することを狙ったのではないか、と疑うことも十分合理的ではないかと思います。
だいたい杉浦明平は、伊藤と同じく中学四修で一高・東大という秀才とはいえ、文学部国文学科でアララギ派ですから、人間的にはちょっとトロいところがあり、伊藤から見たら杉浦など、いつもぼんやり日向ぼっこをしている阿呆に近い存在だったのではないかと思います。
なお、私は今泉善一の後半生を全く知らなかったのですが、建築の世界では有名な人だそうですね。
今泉善一(1911-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%B3%89%E5%96%84%E4%B8%80
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月31日(月)11時40分34秒
もう少しジタバタと投稿するつもりです。
>筆綾丸さん
秋頃から従前にも増してマニアックの度合いを高めて行った当掲示板に御付き合い頂き、ありがとうございました。
良いお年をお迎えください。
>美川圭氏の『公卿会議』
気になってはいたのですが、暫くは頭が中世モードに戻りそうもないので、当分は未読のままとなりそうです。
美川氏、鎌倉時代の朝廷に興味を持ったきっかけは橋本義彦氏の論文だそうですね。
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美川:橋本義彦さんという長年宮内庁書陵部につとめておられた学者が「院評定制について」という鎌倉時代の公卿会議についての優れた論文を書かれています。その論文を学部の卒業論文執筆の際に、ひとつひとつ史料を確認しながら熟読して勉強したことがきっかけです。40年ほど前、鎌倉時代の朝廷なんてテーマで卒論を書こうとする学生は皆無でした。指導教授にもけっこう不思議な目で見られました。でも、人がやらないテーマを研究するのは楽しかったです。
橋本氏も亡くなられて三年経ちますね。
橋本義彦(1924-2015)
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
佳いお年を 2018/12/30(日) 13:51:41
小太郎さん
閑話で邪魔ばかりしてましたが、一年間、お世話になりました。
佳いお年をお迎えください。
付記
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102510.html
美川圭氏の『公卿会議』を購入したものの、読む気がしません。
将棋界では、羽生九段と竹俣紅の引退が話題になりました。
小太郎さん
閑話で邪魔ばかりしてましたが、一年間、お世話になりました。
佳いお年をお迎えください。
付記
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/10/102510.html
美川圭氏の『公卿会議』を購入したものの、読む気がしません。
将棋界では、羽生九段と竹俣紅の引退が話題になりました。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月29日(土)14時48分2秒
杉浦明平「伊藤律」は竹山道雄と平沢道雄という二人の「道雄」が興味深かったので長々と引用しましたが、冒頭に登場する中越可末(かずえ)なる女性については、話の展開は若干奇妙ですね。
「錚々たるメンバー」とはあまり関係ないので省略しようかなとも思いましたが、ついでなので、最後まで紹介してみます。(p189以下)
-------
その話が終ると、みんなで写真をとったが、伊藤は加わらなかった。そして鳥打帽を目深にかぶり、外套の襟を立ててその中に頭部を産めるようにして寒い夜の中に消えていった。それからまもなく、土曜日の授業がおわったとき、こんどは安藤次郎という同級生─じつは一年先輩なのだが、左翼運動で停学処分をうけて同級生になった─の、「いっしょに昼めしでも食べないか」という誘いに応じて、銀座へ出かけた。コロムビアレコードの喫茶部でランチを食べていると、伊藤律がつかつかと入ってきた。安藤と打合わせてあったのだ。伊藤は、中越可末さんに会うように、と住所を教えてくれた。そのさい、短歌のこともいったが、何をいったかおぼえていない。ただ左翼系の同級生は、わたしが短歌をつくっていることを多少軽蔑した口調で話をするのがつねだったが、伊藤はもっと一生けんめいやれ、とおだててくれたようにおぼえている。
その後わたしは中越さんと会った。二人で湯島天神の坂をおりて、上野広小路の汁粉屋で休んだ。じつをいうとわたしは女性といっしょに歩くのははじめてだったので、ぎこちなくて仕方なかった。話題もないので、もっぱら伊藤律のことだった。彼女は伊藤が胸を病んでいることを心配していたし、もし伊藤に会いたかったら、いつでもじぶんに連絡してくれといった。ひょっとしたら、ハウスキーパーだったのかもしれない。
しかしわたしの方から伊藤に会わねばならぬという理由はなかったので、その後、中越さんと会うこともなかった。あるいは中越さんがもっとはでな女性だったら、何とか口実をつけて会ったかもしれないが、まもなく中越さんは郷里へ引揚げてしまった。その後どうしているかしらないが、アララギ会員であり伊藤律の友だちであったゆえに、学生生活中、わたしの唯一回のデートの相手として登場したのである。
大学へ入ってから、ある日、経済学部にいる平沢が、「ちょっとめずらしい人が君に会いたいというから」と、わたしを水道橋近くの大衆食堂へ連れていった。夕方で、仕事帰りの労働者でにぎやかだった。そこへ伊藤律がせかせかと入ってきて、愛想よくわたしたちとしゃべってあわただしく夜の中に立ち去った。その晩の話では、伊藤は警察におそわれてアジトを逃げだして夜中逃げまわった。途中で痰を吐いたが、朝になったら、喀血したことに気がついたという話だけが強く記憶に残った。わたしは、それを歌によんだりした。
-------
「みんなで写真をとったが、伊藤は加わらなかった」云々の描写には、いかにも地下活動っぽい緊張感が漂っていますね。
杉浦が「伊藤の指示によって」出会った「中越さん」との関係が「わたしの唯一回のデートの相手」程度であったのは些か物足りない感じがしますが、視点を杉浦から見た伊藤ではなく、伊藤から見た杉浦に変えてみると、そもそも何故に伊藤は、「続々赤化」する同級生の中で一向に「赤化」せず、「秘密読書会のメンバー」でもなく、「毎月彼のために五十銭ずつカンパ」を出す程度のシンパに過ぎない杉浦に、危険な地下活動の中で何度も会い、そして「中越さん」と会わせたのか。
「中越さん」の証言が得られない以上、今となってはその理由を明らかにすることは困難ですが、まあ、やっぱり目的は金ではないですかね。
杉浦は土屋文明(1890-1990)と高崎中学の同窓生だという友人の紹介で土屋文明を訪ね、門下生に加えてもらったのだそうで(「土屋文明との出会い」、p151以下)、伊藤は杉浦を介して土屋文明を始めとするアララギ派の歌人との間にコネクションを作り、資金カンパの獲得を狙ったのではないか、と想像するのは穿ち過ぎですかね。
新進気鋭のドイツ文学者である竹山道雄すら小馬鹿にしていた伊藤は、歌人、特にアララギ派みたいな古臭い連中は軽蔑していたに決まっていますが、杉浦にはそんなそぶりは全く見せず、「もっと一生けんめいやれ、とおだててくれた」上に、「伊藤と同郷で、女子大を出て、田舎で小学校の先生をしていたらしいが、ちょうど、そのころ東京に出てきていた」、短歌を趣味とする「中越さん」との出会いを設定してくれます。
これは、「あまり美男子とも思えなかったのに女性には人気があったらしい」世慣れた伊藤が、杉浦を籠絡するのに適当と考えた「中越さん」を派遣したものの、杉浦があまりに朴念仁すぎてうまくいかなかった、ということではないですかね。
杉浦も「あるいは中越さんがもっとはでな女性だったら……」などと妄想しているので、このハニートラップが成功する可能性が乏しかった訳でもなさそうです。
少なくとも、僅かな材料だけで「中越さん」を「ひょっとしたら、ハウスキーパーだったのかもしれない」と疑う杉浦よりは、私の想像の方が蓋然性が高いような感じがします。
ハウスキーパー (日本共産党)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A)
伊藤千代子と土屋文明
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d88dc05a507461ab7b64e20ec5043f0f
なお、安藤次郎は統計学者で金沢大学名誉教授ですね。
ただ、「社会統計学論文ARCHIVES(人生という森の探索)」というブログによれば、
-------
安藤は、冒頭、自分は統計学者ではない、統計学の勉強もしっかりしたことがない、このインタビューも内心忸怩たる思いであることを、繰り返し述べている。その安藤がなぜ金沢大学で統計学の教鞭をとっていたかというと、それは全くの偶然で、東京大学で有澤広巳のゼミにいたという経歴があったというただそれだけの理由で、むしろさせられたのだと言う。【中略】しかし、有澤のゼミでは統計学の話はほとんど出なかった。有澤は博識な人だったが、統計学のことはあまり知らなかったようだと、安藤は述懐している。ゼミでは工業統計表の加工をし、山田盛太郎『日本資本主義分析』を輪読した。
https://blog.goo.ne.jp/kisawai_2007/e/b75a6768dc52f39e82a863384e273b89
のだそうです。
杉浦明平「伊藤律」は竹山道雄と平沢道雄という二人の「道雄」が興味深かったので長々と引用しましたが、冒頭に登場する中越可末(かずえ)なる女性については、話の展開は若干奇妙ですね。
「錚々たるメンバー」とはあまり関係ないので省略しようかなとも思いましたが、ついでなので、最後まで紹介してみます。(p189以下)
-------
その話が終ると、みんなで写真をとったが、伊藤は加わらなかった。そして鳥打帽を目深にかぶり、外套の襟を立ててその中に頭部を産めるようにして寒い夜の中に消えていった。それからまもなく、土曜日の授業がおわったとき、こんどは安藤次郎という同級生─じつは一年先輩なのだが、左翼運動で停学処分をうけて同級生になった─の、「いっしょに昼めしでも食べないか」という誘いに応じて、銀座へ出かけた。コロムビアレコードの喫茶部でランチを食べていると、伊藤律がつかつかと入ってきた。安藤と打合わせてあったのだ。伊藤は、中越可末さんに会うように、と住所を教えてくれた。そのさい、短歌のこともいったが、何をいったかおぼえていない。ただ左翼系の同級生は、わたしが短歌をつくっていることを多少軽蔑した口調で話をするのがつねだったが、伊藤はもっと一生けんめいやれ、とおだててくれたようにおぼえている。
その後わたしは中越さんと会った。二人で湯島天神の坂をおりて、上野広小路の汁粉屋で休んだ。じつをいうとわたしは女性といっしょに歩くのははじめてだったので、ぎこちなくて仕方なかった。話題もないので、もっぱら伊藤律のことだった。彼女は伊藤が胸を病んでいることを心配していたし、もし伊藤に会いたかったら、いつでもじぶんに連絡してくれといった。ひょっとしたら、ハウスキーパーだったのかもしれない。
しかしわたしの方から伊藤に会わねばならぬという理由はなかったので、その後、中越さんと会うこともなかった。あるいは中越さんがもっとはでな女性だったら、何とか口実をつけて会ったかもしれないが、まもなく中越さんは郷里へ引揚げてしまった。その後どうしているかしらないが、アララギ会員であり伊藤律の友だちであったゆえに、学生生活中、わたしの唯一回のデートの相手として登場したのである。
大学へ入ってから、ある日、経済学部にいる平沢が、「ちょっとめずらしい人が君に会いたいというから」と、わたしを水道橋近くの大衆食堂へ連れていった。夕方で、仕事帰りの労働者でにぎやかだった。そこへ伊藤律がせかせかと入ってきて、愛想よくわたしたちとしゃべってあわただしく夜の中に立ち去った。その晩の話では、伊藤は警察におそわれてアジトを逃げだして夜中逃げまわった。途中で痰を吐いたが、朝になったら、喀血したことに気がついたという話だけが強く記憶に残った。わたしは、それを歌によんだりした。
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「みんなで写真をとったが、伊藤は加わらなかった」云々の描写には、いかにも地下活動っぽい緊張感が漂っていますね。
杉浦が「伊藤の指示によって」出会った「中越さん」との関係が「わたしの唯一回のデートの相手」程度であったのは些か物足りない感じがしますが、視点を杉浦から見た伊藤ではなく、伊藤から見た杉浦に変えてみると、そもそも何故に伊藤は、「続々赤化」する同級生の中で一向に「赤化」せず、「秘密読書会のメンバー」でもなく、「毎月彼のために五十銭ずつカンパ」を出す程度のシンパに過ぎない杉浦に、危険な地下活動の中で何度も会い、そして「中越さん」と会わせたのか。
「中越さん」の証言が得られない以上、今となってはその理由を明らかにすることは困難ですが、まあ、やっぱり目的は金ではないですかね。
杉浦は土屋文明(1890-1990)と高崎中学の同窓生だという友人の紹介で土屋文明を訪ね、門下生に加えてもらったのだそうで(「土屋文明との出会い」、p151以下)、伊藤は杉浦を介して土屋文明を始めとするアララギ派の歌人との間にコネクションを作り、資金カンパの獲得を狙ったのではないか、と想像するのは穿ち過ぎですかね。
新進気鋭のドイツ文学者である竹山道雄すら小馬鹿にしていた伊藤は、歌人、特にアララギ派みたいな古臭い連中は軽蔑していたに決まっていますが、杉浦にはそんなそぶりは全く見せず、「もっと一生けんめいやれ、とおだててくれた」上に、「伊藤と同郷で、女子大を出て、田舎で小学校の先生をしていたらしいが、ちょうど、そのころ東京に出てきていた」、短歌を趣味とする「中越さん」との出会いを設定してくれます。
これは、「あまり美男子とも思えなかったのに女性には人気があったらしい」世慣れた伊藤が、杉浦を籠絡するのに適当と考えた「中越さん」を派遣したものの、杉浦があまりに朴念仁すぎてうまくいかなかった、ということではないですかね。
杉浦も「あるいは中越さんがもっとはでな女性だったら……」などと妄想しているので、このハニートラップが成功する可能性が乏しかった訳でもなさそうです。
少なくとも、僅かな材料だけで「中越さん」を「ひょっとしたら、ハウスキーパーだったのかもしれない」と疑う杉浦よりは、私の想像の方が蓋然性が高いような感じがします。
ハウスキーパー (日本共産党)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A)
伊藤千代子と土屋文明
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d88dc05a507461ab7b64e20ec5043f0f
なお、安藤次郎は統計学者で金沢大学名誉教授ですね。
ただ、「社会統計学論文ARCHIVES(人生という森の探索)」というブログによれば、
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安藤は、冒頭、自分は統計学者ではない、統計学の勉強もしっかりしたことがない、このインタビューも内心忸怩たる思いであることを、繰り返し述べている。その安藤がなぜ金沢大学で統計学の教鞭をとっていたかというと、それは全くの偶然で、東京大学で有澤広巳のゼミにいたという経歴があったというただそれだけの理由で、むしろさせられたのだと言う。【中略】しかし、有澤のゼミでは統計学の話はほとんど出なかった。有澤は博識な人だったが、統計学のことはあまり知らなかったようだと、安藤は述懐している。ゼミでは工業統計表の加工をし、山田盛太郎『日本資本主義分析』を輪読した。
https://blog.goo.ne.jp/kisawai_2007/e/b75a6768dc52f39e82a863384e273b89
のだそうです。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月28日(金)12時33分31秒
杉浦明平「伊藤律」の続きです。(p188以下)
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しかしそのころ、一高ではクラス対抗のボート競争が春秋二回おこなわれたが、一年一学期のとき体の小さい伊藤はコックスをつとめて優勝した。そのときボートを漕いだ選手の中にずっとボートをつづけてオリンピックに出場したものがいたが、後で「伊藤律のコックスほど漕ぎやすかったことはない」と述懐していたところから判断すれば、伊藤には集団を巧妙に操縦する才能があったにちがいない。
それはともかく、彼は一学期の末ごろから姿を消して、ときたましか教室に姿を見せなくなり、やがて停学、さいごに退学処分をうけたけれど、わたしの同級生は続々赤化していった。わたしも伊藤に神秘的な畏敬の念を抱いていた。だから伊藤が地下にもぐってからまで、毎月彼のために五十銭ずつカンパを出していた。同級生のだれかがそっと集金にくるのであった。とくに中心となっていたのは平沢道雄だった。平沢はこのあいだまで法政大学経済部長をしていた宇佐美誠次郎たちの仲間で、東大卒業後日銀に入ったが、赤としてつかまり、その後フィリピンで戦死したが、たいへんな秀才だった。わたしは彼と仲がよかったので、かれの誕生日に高輪の平沢邸(彼の父は会社社長だった)に招待されたことがある。同級生七、八人いっしょだったが、わたしをのぞけばいずれも秘密読書会のメンバーだった。だからわたしをのぞいて、全員がその後、同時にあるいは別々に、警察に検挙される運命をもった(しかし戦死したもの以外は、今では銀行取締役、大学教授、全農連指導者などになっている)。それはともかく、みんながごちそうを食べてトランプでも遊ぼうとしているところへ、伊藤律が突然姿をあらわした。そしてソヴェトはスターリンの下にゆるがしがたい勢力となり、もう十年もたたぬうちに日本にも新しい社会ができるのだという話をした。わたしは感激して耳を傾けた。
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平沢道雄の名前は丸山眞男のエッセイでも見かけたことがありますが、「丸山眞男手帖の会」サイトによると、
-------
平沢道雄(ひらさわ・みちお 1916-45) 一高を経て一九三八年東大経済学部卒。大内兵衛のゼミに属した。助手に採用されたが、その後滝川事件反対運動に参加したことで警察に勾留された。平賀粛学の犠牲となる。大内の紹介で日本銀行に入り、国際局に勤務。一九四一年五月治安維持法違反(日本共産党再建準備委員会東大関係)で起訴され、四二年三月懲役三年の実刑判決。徴兵されフィリピン・ルソン島で戦死。一九三八年五月頃よりマルクス『資本論』の読書会(隅谷三喜男、遠藤湘吉ら)に顧問格で参加している。雑誌『東大春秋』『図書評論』などは滝川事件後発刊され、それに参加した学生たちの編集・執筆の中心となった。
http://www.maruyama-techo.jp/techo/correction/50/index.html
http://www.maruyama-techo.jp/techo/index.html
という人物だそうですね。
ただ、1916年生まれで伊藤律・杉浦明平と一高の同級生、つまり14歳で一高入学ということはあり得ず、この点は誤記ではないかと思われます。
また、少し検索してみたところ、「本と奇妙な煙」というブログによれば、伊東祐吏氏の『丸山眞男の敗北』(講談社選書メチエ、2016)に、
-------
また当時、戸谷とともに二大秀才と言われ、一高時代にすでにマルクス『資本論』をドイツ語で読破したとの逸話をもつ平沢道雄も、フィリピンのレイテ島で戦死した。(略)丸山は「資本論」の分からないところはすべて年下の平沢に聞きにいったという。だが、彼もまた思想問題で大学から停学処分を受けており、そのせいで研究室に残ることが叶わず、(略)日本銀行に就職したのちも、大学時代の処分を再び咎められてクビになるなど、国家体制と思想問題に人生を翻弄された秀才のひとりである。
https://kingfish.hatenablog.com/entry/20161120
という記述があるそうです。
また、同書には、
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[留置場で一緒になった戸谷敏之は]東京府立第一中学校を首席で卒業して一高に進んだ正真正銘の秀才である。しかし、このときの思想問題で卒業取り消し処分を受け、すでに合格していた東大の経済学部への入学の道は閉ざされた。そこで戸谷は、法政大学の予科を経て大学に進学し、卒業後は渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)でさらに研究を進める。大学時代には指導教官の大塚久雄と互角にわたりあい、アチックでも八面六臂の活躍を見せた。だが(略)フィリピンの山岳地帯で無念の戦死を遂げた。大塚久雄は彼の復員を信じて、東大にポストを空けて待っていたという。大日本帝国によって人生を大きく狂わされた戸谷は、まさに典型的な悲運の天才と言えよう。
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という記述もあるそうで、伊藤律と戸谷敏之の関係を考える上で参考になるかもしれないので、後で確認してみるつもりです。
杉浦明平「伊藤律」の続きです。(p188以下)
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しかしそのころ、一高ではクラス対抗のボート競争が春秋二回おこなわれたが、一年一学期のとき体の小さい伊藤はコックスをつとめて優勝した。そのときボートを漕いだ選手の中にずっとボートをつづけてオリンピックに出場したものがいたが、後で「伊藤律のコックスほど漕ぎやすかったことはない」と述懐していたところから判断すれば、伊藤には集団を巧妙に操縦する才能があったにちがいない。
それはともかく、彼は一学期の末ごろから姿を消して、ときたましか教室に姿を見せなくなり、やがて停学、さいごに退学処分をうけたけれど、わたしの同級生は続々赤化していった。わたしも伊藤に神秘的な畏敬の念を抱いていた。だから伊藤が地下にもぐってからまで、毎月彼のために五十銭ずつカンパを出していた。同級生のだれかがそっと集金にくるのであった。とくに中心となっていたのは平沢道雄だった。平沢はこのあいだまで法政大学経済部長をしていた宇佐美誠次郎たちの仲間で、東大卒業後日銀に入ったが、赤としてつかまり、その後フィリピンで戦死したが、たいへんな秀才だった。わたしは彼と仲がよかったので、かれの誕生日に高輪の平沢邸(彼の父は会社社長だった)に招待されたことがある。同級生七、八人いっしょだったが、わたしをのぞけばいずれも秘密読書会のメンバーだった。だからわたしをのぞいて、全員がその後、同時にあるいは別々に、警察に検挙される運命をもった(しかし戦死したもの以外は、今では銀行取締役、大学教授、全農連指導者などになっている)。それはともかく、みんながごちそうを食べてトランプでも遊ぼうとしているところへ、伊藤律が突然姿をあらわした。そしてソヴェトはスターリンの下にゆるがしがたい勢力となり、もう十年もたたぬうちに日本にも新しい社会ができるのだという話をした。わたしは感激して耳を傾けた。
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平沢道雄の名前は丸山眞男のエッセイでも見かけたことがありますが、「丸山眞男手帖の会」サイトによると、
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平沢道雄(ひらさわ・みちお 1916-45) 一高を経て一九三八年東大経済学部卒。大内兵衛のゼミに属した。助手に採用されたが、その後滝川事件反対運動に参加したことで警察に勾留された。平賀粛学の犠牲となる。大内の紹介で日本銀行に入り、国際局に勤務。一九四一年五月治安維持法違反(日本共産党再建準備委員会東大関係)で起訴され、四二年三月懲役三年の実刑判決。徴兵されフィリピン・ルソン島で戦死。一九三八年五月頃よりマルクス『資本論』の読書会(隅谷三喜男、遠藤湘吉ら)に顧問格で参加している。雑誌『東大春秋』『図書評論』などは滝川事件後発刊され、それに参加した学生たちの編集・執筆の中心となった。
http://www.maruyama-techo.jp/techo/correction/50/index.html
http://www.maruyama-techo.jp/techo/index.html
という人物だそうですね。
ただ、1916年生まれで伊藤律・杉浦明平と一高の同級生、つまり14歳で一高入学ということはあり得ず、この点は誤記ではないかと思われます。
また、少し検索してみたところ、「本と奇妙な煙」というブログによれば、伊東祐吏氏の『丸山眞男の敗北』(講談社選書メチエ、2016)に、
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また当時、戸谷とともに二大秀才と言われ、一高時代にすでにマルクス『資本論』をドイツ語で読破したとの逸話をもつ平沢道雄も、フィリピンのレイテ島で戦死した。(略)丸山は「資本論」の分からないところはすべて年下の平沢に聞きにいったという。だが、彼もまた思想問題で大学から停学処分を受けており、そのせいで研究室に残ることが叶わず、(略)日本銀行に就職したのちも、大学時代の処分を再び咎められてクビになるなど、国家体制と思想問題に人生を翻弄された秀才のひとりである。
https://kingfish.hatenablog.com/entry/20161120
という記述があるそうです。
また、同書には、
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[留置場で一緒になった戸谷敏之は]東京府立第一中学校を首席で卒業して一高に進んだ正真正銘の秀才である。しかし、このときの思想問題で卒業取り消し処分を受け、すでに合格していた東大の経済学部への入学の道は閉ざされた。そこで戸谷は、法政大学の予科を経て大学に進学し、卒業後は渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所)でさらに研究を進める。大学時代には指導教官の大塚久雄と互角にわたりあい、アチックでも八面六臂の活躍を見せた。だが(略)フィリピンの山岳地帯で無念の戦死を遂げた。大塚久雄は彼の復員を信じて、東大にポストを空けて待っていたという。大日本帝国によって人生を大きく狂わされた戸谷は、まさに典型的な悲運の天才と言えよう。
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という記述もあるそうで、伊藤律と戸谷敏之の関係を考える上で参考になるかもしれないので、後で確認してみるつもりです。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月28日(金)11時21分31秒
『明平、歌と人に逢う』(筑摩書房、1989)には「伊藤律」というタイトルのエッセイもあります。
これもアララギ派、土屋文明門下の短歌雑誌『放水路』に1966年1月から66年6月の間に載ったエッセイの一つですね。
-------
中越可末〔かずえ〕といっても、もう誰も記憶していないだろう。結城哀草果選歌にしばらく載っていた女性で、大沢寺安居会にも出席していたようにおもう(そういえば「短歌新聞」七月号かに大沢寺歌会の写真がのっていたから参照されたい)。しかし地味で目立たぬ存在だった。たぶん、中越さんの郷里が岐阜県中津川か恵那のあたりで、信州の隣だったから出席したのだろう。
わたしが中越さんと会ったのは、伊藤律の指示によってであった。中越さんは伊藤と同郷で、女子大を出て、田舎で小学校の先生をしていたらしいが、ちょうど、そのころ東京に出てきていたのだろう。
伊藤律はいまだ消息不明だが、一時は徳田球一のふところ刀として日本共産党で実権をにぎっていた。わたしは戦後は一九四九年一月、共産党に入党したとき代々木の本部で一度伊藤律に会ったきりで、前にも後にもあったことがないし会おうとも思わなかった。というのは彼は中央委員も党内最高の実力者だったから、わたしはそういうえらい人と話をするのがきらいだったので、敬遠することにきめていたのである。しかし、後で暴露されたような女たらしで節操のない人物だとは思わず、苦節十年、革命に青春をささげてきた英雄として尊敬はしていた。
伊藤律は一高の同級生で、中学四年からの入学組で、せいもわたしと同じくらい低かった。色は青白いが下顎骨が発達しているので顔面が四角形をなして、あまり美男子とも思えなかったのに女性には人気があったらしい。中越さんも弟のように伊藤を愛していたようである。
伊藤が学校で秀才であったかどうか知らない、というのは彼は入学まもなく左翼運動に入ったらしく、一度も試験を受けていないので一度も成績がつかなかったからである。それでもときどき教室に出てきて、ドイツ留学から帰朝したばかりのドイツ語の竹山道雄教授が、ソフォクレスの「アンチゴーネ」独訳本をテキストにして購読をはじめたとたん、「ああ、つまんねェな」と大きな声でつぶやいたりした。竹山先生はさっと顔色をかえて、「伊藤君、つまらんですか。教科書に使ったら、どんな傑作でもつまらんですよ。よろしい、ソフォクレスはやめます。どうせつまらんなら、次の時間からアイヒェンドルフの『タウゲニヒツ』をやりますから用意してきてください」とパタンと本をとじて出ていってしまった。
-------
ということで(p186以下)、伊藤律は一高に入学早々、竹山道雄を激怒させていますね。
竹山道雄は1903年生まれなので、伊藤律・杉浦明平らが一高に入学した1930年にはまだ27歳の若さです。
竹山についてはこの掲示板でも何回か好意的に取り上げていますが、新進気鋭のドイツ文学者とはいえ、左翼思想が熱病のように流行していた当時の一高では、竹山も古臭い教養主義の代弁者のように思われていたのかもしれません。
「アイヒェンドルフの『タウゲニヒツ』」は1938年、『愉しき放浪児』のタイトルで岩波文庫から出ていますが、
-------
アイヒェンドルフ(1788‐1857)の代表作で,ドイツ・ロマン主義文学の白眉ともいうべき佳品.その美しくまとまった巧みな構想とほがらかな抒情的気分とによって,読者は,自由に憧れ旅を愛するこの愉快な放浪児とともに自分もまた1梃のヴァイオリンに生涯を託して神の広い世界へさまよい出で,やがてほほえみかけてくる幸運を待ちながら春の陽に心の窓を開く思いを抱くであろう.
https://www.iwanami.co.jp/book/b247808.html
という内容なので、これを用いた講義はソフォクレスの「アンチゴーネ」よりは面白かったでしょうね。
ま、伊藤は竹山の講義には二度と出席しなかったのかもしれませんが。
竹山道雄(1903-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E9%81%93%E9%9B%84
『愉しき放浪児』(「新ヴィッキーの隠れ家」サイト内)
http://sekitanamida.hatenablog.jp/entry/ausdemlebeneinestaugenichts
『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1cef11eac16b0c7e7faf16b7d215aa98
平川祐弘著『竹山道雄と昭和の時代』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f84af123d6a7256514b434d80254ef63
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed97972995a39f43ede99e8143ac49d1
『明平、歌と人に逢う』(筑摩書房、1989)には「伊藤律」というタイトルのエッセイもあります。
これもアララギ派、土屋文明門下の短歌雑誌『放水路』に1966年1月から66年6月の間に載ったエッセイの一つですね。
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中越可末〔かずえ〕といっても、もう誰も記憶していないだろう。結城哀草果選歌にしばらく載っていた女性で、大沢寺安居会にも出席していたようにおもう(そういえば「短歌新聞」七月号かに大沢寺歌会の写真がのっていたから参照されたい)。しかし地味で目立たぬ存在だった。たぶん、中越さんの郷里が岐阜県中津川か恵那のあたりで、信州の隣だったから出席したのだろう。
わたしが中越さんと会ったのは、伊藤律の指示によってであった。中越さんは伊藤と同郷で、女子大を出て、田舎で小学校の先生をしていたらしいが、ちょうど、そのころ東京に出てきていたのだろう。
伊藤律はいまだ消息不明だが、一時は徳田球一のふところ刀として日本共産党で実権をにぎっていた。わたしは戦後は一九四九年一月、共産党に入党したとき代々木の本部で一度伊藤律に会ったきりで、前にも後にもあったことがないし会おうとも思わなかった。というのは彼は中央委員も党内最高の実力者だったから、わたしはそういうえらい人と話をするのがきらいだったので、敬遠することにきめていたのである。しかし、後で暴露されたような女たらしで節操のない人物だとは思わず、苦節十年、革命に青春をささげてきた英雄として尊敬はしていた。
伊藤律は一高の同級生で、中学四年からの入学組で、せいもわたしと同じくらい低かった。色は青白いが下顎骨が発達しているので顔面が四角形をなして、あまり美男子とも思えなかったのに女性には人気があったらしい。中越さんも弟のように伊藤を愛していたようである。
伊藤が学校で秀才であったかどうか知らない、というのは彼は入学まもなく左翼運動に入ったらしく、一度も試験を受けていないので一度も成績がつかなかったからである。それでもときどき教室に出てきて、ドイツ留学から帰朝したばかりのドイツ語の竹山道雄教授が、ソフォクレスの「アンチゴーネ」独訳本をテキストにして購読をはじめたとたん、「ああ、つまんねェな」と大きな声でつぶやいたりした。竹山先生はさっと顔色をかえて、「伊藤君、つまらんですか。教科書に使ったら、どんな傑作でもつまらんですよ。よろしい、ソフォクレスはやめます。どうせつまらんなら、次の時間からアイヒェンドルフの『タウゲニヒツ』をやりますから用意してきてください」とパタンと本をとじて出ていってしまった。
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ということで(p186以下)、伊藤律は一高に入学早々、竹山道雄を激怒させていますね。
竹山道雄は1903年生まれなので、伊藤律・杉浦明平らが一高に入学した1930年にはまだ27歳の若さです。
竹山についてはこの掲示板でも何回か好意的に取り上げていますが、新進気鋭のドイツ文学者とはいえ、左翼思想が熱病のように流行していた当時の一高では、竹山も古臭い教養主義の代弁者のように思われていたのかもしれません。
「アイヒェンドルフの『タウゲニヒツ』」は1938年、『愉しき放浪児』のタイトルで岩波文庫から出ていますが、
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アイヒェンドルフ(1788‐1857)の代表作で,ドイツ・ロマン主義文学の白眉ともいうべき佳品.その美しくまとまった巧みな構想とほがらかな抒情的気分とによって,読者は,自由に憧れ旅を愛するこの愉快な放浪児とともに自分もまた1梃のヴァイオリンに生涯を託して神の広い世界へさまよい出で,やがてほほえみかけてくる幸運を待ちながら春の陽に心の窓を開く思いを抱くであろう.
https://www.iwanami.co.jp/book/b247808.html
という内容なので、これを用いた講義はソフォクレスの「アンチゴーネ」よりは面白かったでしょうね。
ま、伊藤は竹山の講義には二度と出席しなかったのかもしれませんが。
竹山道雄(1903-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E9%81%93%E9%9B%84
『愉しき放浪児』(「新ヴィッキーの隠れ家」サイト内)
http://sekitanamida.hatenablog.jp/entry/ausdemlebeneinestaugenichts
『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1cef11eac16b0c7e7faf16b7d215aa98
平川祐弘著『竹山道雄と昭和の時代』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f84af123d6a7256514b434d80254ef63
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed97972995a39f43ede99e8143ac49d1
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月27日(木)23時09分57秒
杉浦明平の『明平、歌と人に逢う』(筑摩書房、1989)に「文圃堂の人々」という六回シリーズのエッセイがあって、その第一回に明石博隆が出てきますね。(p238以下)
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文圃堂の人々(一)
大学正門と一高前(今の農学部前)のあいだ、やや正門寄りに二間間口の文圃堂という古本屋が開店したのは、昭和八年から九年かであった。【中略】
文圃堂という新しい古本屋ができたので、さっそく見にゆくと、むっつりした大きな男が座っていてじろりとにらんだので、わたしは並んでいる本棚もよく見ないで逃げだすように出てしまった。その店には三、四人の店員がかわるがわる座っていたが、どれも人相がよくなく、店に入ってゆくのが気おくれするのだった。毎日一回は、本郷通りに並んだ十数軒の古本屋をのぞくのがつねであったのに、文圃堂だけはたいてい素通りすることにしていた。
ところが、ある日、薄暗い店の奥から「おおい、明平くん」と呼びとめる声がした。そこにはわたしより一級下で、丸山真男や立原道造と同級生だった、明石博隆君が座っていた。明石君は寮の食堂や教室の往きかえりに出あうと、目礼する程度の関係にすぎなかったが、一目見ると左翼だなとわかるような鋭い目付き(後でわかったところでは、かなり強い近視なのに眼鏡をかけず、見るとき目を据えるせいであった)が印象に残っていた。伊藤律の組織したグループに属していて、検挙されたうわさをきいていた。
「退学になってなぁ」と、着流しに手入れしないバラバラの髪が眼の所まで落ちてくるのをかきあげながら、アッハッハとわらった。これも後できいたところによると、逮捕された伊藤律が保釈と引換えに自白したため、明石君たちのグループ十数人が一せいに検挙されてしまったのだそうだ。転向を肯じないで退校処分をうけた数名のうち、明石君は郷里の神戸にちょっともどっただけで、再起をはかって上京して、どういう関係でか、この文圃堂に勤めることになった。新学年になったら、どこか学校に入りたいといっていた。
翌年の三月、わたしは神戸にもどった明石君の代りに、東京物理学校に入学願書をとどけにいったことをおもいだす。物理学校は無試験で全員入学させたうえ、成績のわるいものは片っぱしから落第させるので有名な学校だった。事務室の窓口から書類と写真を提出すると、事務員は紺がすりの着物を着て、バサバサのこわそうな髪を伸ばして、目をひそめている明石君をじっと見ていたが、「ハァ、この人アカですな」と一言の下にいってのけたのである。
-------
明石は1914年(大正3)生まれ、1933年(昭和8)一高中退(放校)で、「文圃堂という古本屋が開店したのは、昭和八年から九年かであった」のであれば、中退になったその年か翌年あたりのことになりますね。
文圃堂の経営者は野々上慶一で、古本屋以外に出版業も手掛け、宮沢賢治の最初の全集を出したので有名な人だそうですね。
多数の著書があるようですが、私は一冊も読んだことがありません。
ウィキペディア情報では「1931年に早稲田大学専門部政経科を中退、同年春に父の出資で本郷の東大前に古本屋・文圃堂を開業」とありますが、開業時期については杉浦の情報とは若干のずれがありますね。
野々上慶一(1909-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E3%80%85%E4%B8%8A%E6%85%B6%E4%B8%80
ま、それはともかく、文圃堂がどのような雰囲気の店だったかというと、
-------
それはともかく、明石君がいることがわかってから、わたしは文圃堂に出入りするようになった。
主人の野々上慶一氏というより慶ちゃんは、広島の松本組の息子だった。松本組の長男は、後に外務次官やソヴエト大使になる松本俊一氏、次男は東大助教授、三男は呉市長で現参議院議員という秀才一家だけれど、慶ちゃんは反逆児で、母方の家を継ぎ、早稲田大学に入ったけれど、左翼運動に関係して追い出されたという話だった。からだは大きくないが、同じ長髪でも明石君とちがって色が白く、ギロリと目玉をむいて入ってくる客をにらみつける。たいていの客は、慶ちゃんににらまれると足がすくんでしまうようだった。その慶ちゃんは、学校をほうり出されてぶらぶらしていても仕方ないと、おやじさんから金を出してもらって本郷通りに古本屋をひらき、同時に出版にも野心を抱いていた。そのために幾人かを雇ったのだが、どれもみんな変わっていた。
その一人、大きな体の北さんは、いつも店番というより読書をしていた。客が何かたずねると、おこったように「知りません」と答えるだけだし、値引きを交渉すると「できません」とぶっきらぼうに一言いうだけだった。北さんも、プロ文学運動崩れで、『唯物論研究』という雑誌だの、リャザノフだのをいつも読んでいた。そして夜は外国語学校の夜学に勤勉に通って、ロシア語を習っていた。わたしたちが明石君としゃべっていても、ふりかえりもしないで、勉強している。北さんはその後外務省嘱託になったが、今では福井研介という本名にもどって、ソヴェトの児童文学や教育学の研究者として知られている。
-------
ということで、かなり怪しい店ですね。
明石の「東京外語専修科露語部終了」という学歴は、あるいは福井研介の影響を受けたためかもしれません。
東京物理学校(現・東京理科大学)の方は入学しなかったのか、入学して落第したのかは分かりませんが、少なくとも卒業はしていないようですね。
福井研介(1908-2000)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%A0%94%E4%BB%8B
文圃堂にはいろんな人物が入って来たそうですが、「いずれもプロレタリア文学運動やプロ演劇運動、あるいはプロ美術の関係者」で、「明石君や北さんをべつとして、みんな運動の崩壊によって人間的にも歪みの強い奇怪な連中」であり、「ひどく卑下したかと思うと、ちょっとしたことばに侮辱を感じていきりたつ自尊心を秘めている、ドストエフスキー的な人物たちであった」とのことです。(p241)
以上、面白いので長々と引用してしまいましたが、当面の関心の点から重要なのは、「これも後できいたところによると、逮捕された伊藤律が保釈と引換えに自白したため、明石君たちのグループ十数人が一せいに検挙されてしまったのだそうだ」という記述ですね。
誰から聞いたかを明記している訳ではありませんが、まあ、文章の流れから言えば明石から聞いたということなのでしょうね。
なお、「文圃堂の人々」の執筆時期ですが、多数のエッセイとひとまとめに(以上63・1~66・6「放水路」)と雑に記録されています。(p260)
伊藤律が中国に渡ってから十年以上経った頃のことで、もちろん杉浦はじめ誰も伊藤律の置かれていた状況を知る由もなかった時期ですね。
杉浦明平の『明平、歌と人に逢う』(筑摩書房、1989)に「文圃堂の人々」という六回シリーズのエッセイがあって、その第一回に明石博隆が出てきますね。(p238以下)
-------
文圃堂の人々(一)
大学正門と一高前(今の農学部前)のあいだ、やや正門寄りに二間間口の文圃堂という古本屋が開店したのは、昭和八年から九年かであった。【中略】
文圃堂という新しい古本屋ができたので、さっそく見にゆくと、むっつりした大きな男が座っていてじろりとにらんだので、わたしは並んでいる本棚もよく見ないで逃げだすように出てしまった。その店には三、四人の店員がかわるがわる座っていたが、どれも人相がよくなく、店に入ってゆくのが気おくれするのだった。毎日一回は、本郷通りに並んだ十数軒の古本屋をのぞくのがつねであったのに、文圃堂だけはたいてい素通りすることにしていた。
ところが、ある日、薄暗い店の奥から「おおい、明平くん」と呼びとめる声がした。そこにはわたしより一級下で、丸山真男や立原道造と同級生だった、明石博隆君が座っていた。明石君は寮の食堂や教室の往きかえりに出あうと、目礼する程度の関係にすぎなかったが、一目見ると左翼だなとわかるような鋭い目付き(後でわかったところでは、かなり強い近視なのに眼鏡をかけず、見るとき目を据えるせいであった)が印象に残っていた。伊藤律の組織したグループに属していて、検挙されたうわさをきいていた。
「退学になってなぁ」と、着流しに手入れしないバラバラの髪が眼の所まで落ちてくるのをかきあげながら、アッハッハとわらった。これも後できいたところによると、逮捕された伊藤律が保釈と引換えに自白したため、明石君たちのグループ十数人が一せいに検挙されてしまったのだそうだ。転向を肯じないで退校処分をうけた数名のうち、明石君は郷里の神戸にちょっともどっただけで、再起をはかって上京して、どういう関係でか、この文圃堂に勤めることになった。新学年になったら、どこか学校に入りたいといっていた。
翌年の三月、わたしは神戸にもどった明石君の代りに、東京物理学校に入学願書をとどけにいったことをおもいだす。物理学校は無試験で全員入学させたうえ、成績のわるいものは片っぱしから落第させるので有名な学校だった。事務室の窓口から書類と写真を提出すると、事務員は紺がすりの着物を着て、バサバサのこわそうな髪を伸ばして、目をひそめている明石君をじっと見ていたが、「ハァ、この人アカですな」と一言の下にいってのけたのである。
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明石は1914年(大正3)生まれ、1933年(昭和8)一高中退(放校)で、「文圃堂という古本屋が開店したのは、昭和八年から九年かであった」のであれば、中退になったその年か翌年あたりのことになりますね。
文圃堂の経営者は野々上慶一で、古本屋以外に出版業も手掛け、宮沢賢治の最初の全集を出したので有名な人だそうですね。
多数の著書があるようですが、私は一冊も読んだことがありません。
ウィキペディア情報では「1931年に早稲田大学専門部政経科を中退、同年春に父の出資で本郷の東大前に古本屋・文圃堂を開業」とありますが、開業時期については杉浦の情報とは若干のずれがありますね。
野々上慶一(1909-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E3%80%85%E4%B8%8A%E6%85%B6%E4%B8%80
ま、それはともかく、文圃堂がどのような雰囲気の店だったかというと、
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それはともかく、明石君がいることがわかってから、わたしは文圃堂に出入りするようになった。
主人の野々上慶一氏というより慶ちゃんは、広島の松本組の息子だった。松本組の長男は、後に外務次官やソヴエト大使になる松本俊一氏、次男は東大助教授、三男は呉市長で現参議院議員という秀才一家だけれど、慶ちゃんは反逆児で、母方の家を継ぎ、早稲田大学に入ったけれど、左翼運動に関係して追い出されたという話だった。からだは大きくないが、同じ長髪でも明石君とちがって色が白く、ギロリと目玉をむいて入ってくる客をにらみつける。たいていの客は、慶ちゃんににらまれると足がすくんでしまうようだった。その慶ちゃんは、学校をほうり出されてぶらぶらしていても仕方ないと、おやじさんから金を出してもらって本郷通りに古本屋をひらき、同時に出版にも野心を抱いていた。そのために幾人かを雇ったのだが、どれもみんな変わっていた。
その一人、大きな体の北さんは、いつも店番というより読書をしていた。客が何かたずねると、おこったように「知りません」と答えるだけだし、値引きを交渉すると「できません」とぶっきらぼうに一言いうだけだった。北さんも、プロ文学運動崩れで、『唯物論研究』という雑誌だの、リャザノフだのをいつも読んでいた。そして夜は外国語学校の夜学に勤勉に通って、ロシア語を習っていた。わたしたちが明石君としゃべっていても、ふりかえりもしないで、勉強している。北さんはその後外務省嘱託になったが、今では福井研介という本名にもどって、ソヴェトの児童文学や教育学の研究者として知られている。
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ということで、かなり怪しい店ですね。
明石の「東京外語専修科露語部終了」という学歴は、あるいは福井研介の影響を受けたためかもしれません。
東京物理学校(現・東京理科大学)の方は入学しなかったのか、入学して落第したのかは分かりませんが、少なくとも卒業はしていないようですね。
福井研介(1908-2000)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%A0%94%E4%BB%8B
文圃堂にはいろんな人物が入って来たそうですが、「いずれもプロレタリア文学運動やプロ演劇運動、あるいはプロ美術の関係者」で、「明石君や北さんをべつとして、みんな運動の崩壊によって人間的にも歪みの強い奇怪な連中」であり、「ひどく卑下したかと思うと、ちょっとしたことばに侮辱を感じていきりたつ自尊心を秘めている、ドストエフスキー的な人物たちであった」とのことです。(p241)
以上、面白いので長々と引用してしまいましたが、当面の関心の点から重要なのは、「これも後できいたところによると、逮捕された伊藤律が保釈と引換えに自白したため、明石君たちのグループ十数人が一せいに検挙されてしまったのだそうだ」という記述ですね。
誰から聞いたかを明記している訳ではありませんが、まあ、文章の流れから言えば明石から聞いたということなのでしょうね。
なお、「文圃堂の人々」の執筆時期ですが、多数のエッセイとひとまとめに(以上63・1~66・6「放水路」)と雑に記録されています。(p260)
伊藤律が中国に渡ってから十年以上経った頃のことで、もちろん杉浦はじめ誰も伊藤律の置かれていた状況を知る由もなかった時期ですね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月26日(水)12時12分32秒
12月15日の投稿で書いたクーシネン発言ですが、『現代史資料(14)』(山辺健太郎解説、みすず書房、1964)を見たところ、56番目に、「日本帝国主義と日本××〔革命〕の性質─一九三二年三月二日のコミンテルン執行委員会常任委員会会議における同志クーシネンの報告から」が載っていて(p582以下)、その中に中村政則が引用する「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」という表現が出てきますね。
「クーシネン発言の出典について」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff6401da35561176f60af2c5a7ae50da
このクーシネン報告は上下二段組みで12ページほどの分量がありますが、最初の方、2ページ目に当該表現が出てきます。
文脈を見るために少し前から紹介すると、
-------
日本は自国産の棉花をもたない。そしてこのことは、紡績業が最も重要な産業部門であるところの国にとつて特に痛感される。
化学産業の原料の欠如が特に強く感じられてゐる。
日本資本主義の弱点は、原料資源が全く不十分なことである。これが、日本資本が領土拡張に努力する動機の一つである。
だがこのことは、その動機の一つに過ぎない。国内市場の狭隘さが遥かに重要な意義をもつてゐる。国内市場の微弱な受容力は、それとしては、一方において労働者の、他方において農民の異常に高度な搾取に原因する。日本では労働力の信じられないやうな略奪的搾取がおこなはれてゐる。こゝでは労働者の生活水準は植民地におけると同様に低い。若干の労働者層の状態、特に厖大な数の勤労婦人および勤労青年の状態は言葉の完全な意味において奴隷性を想起させる。
他方において我々は、日本における全く強力な封建制の残存物によつて条件づけられた不断の限界を知らない農民の搾取を見る。日本の農村は、日本資本主義にとつて自国内地における植民地である。
-------
ということで(p583)、「日本の農村は、日本資本主義にとつて自国内地における植民地である」ですから、「つ」と「っ」の違い以外は全く中村と同一の表現です。
ついでにもう少し引用してみると、
-------
この植民地の搾取は二種の方法によつて行はれてゐる。第一に、農民への工業製品販売者として、また農民から農産物の購買者として立ち現はれてゐるところの資本主義トラストによつて実施されてゐる価格政策によつて、第二に高い租税および農村の到る処を支配してゐる最も無慈悲な高利貸によつて。搾取のこの資本主義的方法は、それと前資本主義的搾取形態との結合によつて、より一層強められてゐる。大地主も矢張り、農民を非常に激しく破壊させてゐる。これは小作料の形態で行はれてゐる。小作料は、農民搾取の半封建的形態である。多くの場合小作料は収穫の半分、またそれ以上にさへ達してゐる。小作料は、自分自身は農業に従事しないで全く寄生的存在をなしてゐるところの大地主によつて年々直接農民から取上げられてゐる。日本農民のどえらい貧困化は、このことによるのである。日本の工業が発展しても、それは農民の窮乏化した層を生産過程へ引入れる何等の可能性をも与へてゐない。農民の窮乏化はさらに益々進行してゐる。
-------
といった具合で、「日本農民のどえらい貧困化」という表現は、妙な感じで俗語が紛れ込んでいて、ちょっと笑えますね。
ま、それはともかく、1935年生まれで、『労働者と農民』を執筆した1976年当時、41歳で一橋大学経済学部助教授だった中村にとって、こうしたクーシネンの理解が日本資本主義の本質を「喝破」するものと思われ、中村自身の「まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである」という認識の基礎になっていた訳ですね。
なお、クーシネン報告の最後の方で、クーシネンは、
-------
さて革命の推進力─農民とプロレタリアートについて若干述べよう。
日本農民の基本的大衆は半封建的搾取と賦役の条件下に生活してをり、かつこゝに支配してゐるところの高利貸群の搾取の対象である。約四万の大地主は完全に、農民に寄生してゐる。だがすでにこゝにもまたはつきりとして分化の第一歩、その最初の萌芽が認められる。しかしこの発展については我々は今の所まだあまりにも貧弱な知識しかもつてゐない。
-------
などと言っていて(p592)、この点については「資料解説」を担当した山辺健太郎も、
-------
ところが、『政治テーゼ草案』を批判したコミンテルンにも、日本社会のおくれた面だけを強調する傾向のあったことも事実である。たとえば、クーシネンの報告(五六)で「日本農民の基本的大衆は半封建的搾取と賦役の条件下に生活してをり……」といっているが、賦役の条件に生活しているという状態にはなかった。
-------
という具合に(xix)、些か当惑、というか、呆れている感じですね。
さて、クーシネン報告の内容はともかくとして、中村がそれを何で見たのか、という我ながらどーでもいいだろ的な感じがしないでもない疑問についてですが、この点については『現代史資料(14)』月報に出ている犬丸義一「これまでの日本共産党テーゼの資料集と研究の概観」が参考になります。
犬丸によれば、1947年11月7日、日本共産党は創立二五周年記念事業のひとつとして党史資料委員会編「日本問題に関する方針書・決議集」を「非売品」として刊行したそうで、その中にクーシネン報告も含まれていますね。(p4)
そして1954年、
-------
前述の党史資料委員会編「コミンテルン日本問題にかんする方針書・決議集」が改訳、公刊された。(五月書房)内容は、前述のものと同一であったが、商業出版社から市販されたので普及され、版を重ねた。
-------
のだそうで(p6)、おそらく既に革命青年であったはずの中村も五月書房版を入手し、熟読玩味したのでしょうね。
12月15日の投稿で書いたクーシネン発言ですが、『現代史資料(14)』(山辺健太郎解説、みすず書房、1964)を見たところ、56番目に、「日本帝国主義と日本××〔革命〕の性質─一九三二年三月二日のコミンテルン執行委員会常任委員会会議における同志クーシネンの報告から」が載っていて(p582以下)、その中に中村政則が引用する「日本の農村は、日本資本主義にとって自国内地における植民地である」という表現が出てきますね。
「クーシネン発言の出典について」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff6401da35561176f60af2c5a7ae50da
このクーシネン報告は上下二段組みで12ページほどの分量がありますが、最初の方、2ページ目に当該表現が出てきます。
文脈を見るために少し前から紹介すると、
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日本は自国産の棉花をもたない。そしてこのことは、紡績業が最も重要な産業部門であるところの国にとつて特に痛感される。
化学産業の原料の欠如が特に強く感じられてゐる。
日本資本主義の弱点は、原料資源が全く不十分なことである。これが、日本資本が領土拡張に努力する動機の一つである。
だがこのことは、その動機の一つに過ぎない。国内市場の狭隘さが遥かに重要な意義をもつてゐる。国内市場の微弱な受容力は、それとしては、一方において労働者の、他方において農民の異常に高度な搾取に原因する。日本では労働力の信じられないやうな略奪的搾取がおこなはれてゐる。こゝでは労働者の生活水準は植民地におけると同様に低い。若干の労働者層の状態、特に厖大な数の勤労婦人および勤労青年の状態は言葉の完全な意味において奴隷性を想起させる。
他方において我々は、日本における全く強力な封建制の残存物によつて条件づけられた不断の限界を知らない農民の搾取を見る。日本の農村は、日本資本主義にとつて自国内地における植民地である。
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ということで(p583)、「日本の農村は、日本資本主義にとつて自国内地における植民地である」ですから、「つ」と「っ」の違い以外は全く中村と同一の表現です。
ついでにもう少し引用してみると、
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この植民地の搾取は二種の方法によつて行はれてゐる。第一に、農民への工業製品販売者として、また農民から農産物の購買者として立ち現はれてゐるところの資本主義トラストによつて実施されてゐる価格政策によつて、第二に高い租税および農村の到る処を支配してゐる最も無慈悲な高利貸によつて。搾取のこの資本主義的方法は、それと前資本主義的搾取形態との結合によつて、より一層強められてゐる。大地主も矢張り、農民を非常に激しく破壊させてゐる。これは小作料の形態で行はれてゐる。小作料は、農民搾取の半封建的形態である。多くの場合小作料は収穫の半分、またそれ以上にさへ達してゐる。小作料は、自分自身は農業に従事しないで全く寄生的存在をなしてゐるところの大地主によつて年々直接農民から取上げられてゐる。日本農民のどえらい貧困化は、このことによるのである。日本の工業が発展しても、それは農民の窮乏化した層を生産過程へ引入れる何等の可能性をも与へてゐない。農民の窮乏化はさらに益々進行してゐる。
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といった具合で、「日本農民のどえらい貧困化」という表現は、妙な感じで俗語が紛れ込んでいて、ちょっと笑えますね。
ま、それはともかく、1935年生まれで、『労働者と農民』を執筆した1976年当時、41歳で一橋大学経済学部助教授だった中村にとって、こうしたクーシネンの理解が日本資本主義の本質を「喝破」するものと思われ、中村自身の「まさに日本資本主義は、自国の農村をあたかも植民地のように支配し、搾取し、収奪することによって「高度成長」をとげたのである」という認識の基礎になっていた訳ですね。
なお、クーシネン報告の最後の方で、クーシネンは、
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さて革命の推進力─農民とプロレタリアートについて若干述べよう。
日本農民の基本的大衆は半封建的搾取と賦役の条件下に生活してをり、かつこゝに支配してゐるところの高利貸群の搾取の対象である。約四万の大地主は完全に、農民に寄生してゐる。だがすでにこゝにもまたはつきりとして分化の第一歩、その最初の萌芽が認められる。しかしこの発展については我々は今の所まだあまりにも貧弱な知識しかもつてゐない。
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などと言っていて(p592)、この点については「資料解説」を担当した山辺健太郎も、
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ところが、『政治テーゼ草案』を批判したコミンテルンにも、日本社会のおくれた面だけを強調する傾向のあったことも事実である。たとえば、クーシネンの報告(五六)で「日本農民の基本的大衆は半封建的搾取と賦役の条件下に生活してをり……」といっているが、賦役の条件に生活しているという状態にはなかった。
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という具合に(xix)、些か当惑、というか、呆れている感じですね。
さて、クーシネン報告の内容はともかくとして、中村がそれを何で見たのか、という我ながらどーでもいいだろ的な感じがしないでもない疑問についてですが、この点については『現代史資料(14)』月報に出ている犬丸義一「これまでの日本共産党テーゼの資料集と研究の概観」が参考になります。
犬丸によれば、1947年11月7日、日本共産党は創立二五周年記念事業のひとつとして党史資料委員会編「日本問題に関する方針書・決議集」を「非売品」として刊行したそうで、その中にクーシネン報告も含まれていますね。(p4)
そして1954年、
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前述の党史資料委員会編「コミンテルン日本問題にかんする方針書・決議集」が改訳、公刊された。(五月書房)内容は、前述のものと同一であったが、商業出版社から市販されたので普及され、版を重ねた。
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のだそうで(p6)、おそらく既に革命青年であったはずの中村も五月書房版を入手し、熟読玩味したのでしょうね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月25日(火)11時39分32秒
宇野脩平や明石博隆に関して私が入手できた情報はまだまだ不充分なのですが、結論として、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」などという事態は、客観的にはおよそありえなかったでしょうね。
それは当時の共産党が置かれていた政治情勢と、その中における伊藤律の活動状況を見れば自ずと明らかです。
戦前の共産党の活動一般については多数の参考文献があるので、それに譲るとして、伊藤律に関しては、野坂参三(1892-1993)や宮本顕治(1908-2007)に近かった人々の著書・論文は疑問が多く、現時点で一番信頼できるのは、やはり渡部富哉の『偽りの烙印─伊藤律・スパイ説の崩壊』(講談社、1993)ですね。
渡部富哉(1930生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E5%AF%8C%E5%93%89
同書から少し引用してみます。(p127以下)
-------
伊藤律は一九一三(大正二)年六月二十七日、岐阜県土岐郡土岐村(現・瑞浪市)で生まれた。一九三〇(昭和五)年四月、同県立恵那中学から四年終了で第一高等学校に入学する。一高同期の作家・杉浦明平の語るところによると、
「普通一高生は東京大学新人会から来る学生によって"洗脳"されて左翼運動に入るのだが、彼は入学したときからすでに社会主義に強い関心を持っていた。一年のとき早くも読書会を主宰しその影響をうけた者が多かった」
という。
一九三一(昭和六)年初秋、伊藤律は共産青年同盟に加入し、国際反帝反戦同盟日本支部の東京中央委員会印刷局に入った。そこで彼は、昼は学校と家庭教師、夜はアジトでガリ切りと印刷、そして配布と、典型的な活動家としての生活を送り、まもなく印刷局の責任者となる。
当時、一高の共青組織は特高警察によって破壊されていた。そのため、伊藤は共産党の指示をうけて組織の再建に当たっていたのである。その後、組織が再建されると、伊藤の主導で非合法の共青細胞新聞「自由の柏」が発行された。この再建活動に参加した者の中に、同期生で長谷川浩の弟である長谷川治がいた。その頃、兄の長谷川浩は獄中におり、伊藤は彼の活動や非転向を貫いた獄中生活をその弟を通して詳しく耳にし、多大な感銘を受けていた。これ以後、長谷川浩は、伊藤律と生涯にわたって重要な関わりを持つ人物となる。そのあたりのことは、伊藤律の講演録「戦時下における党再建活動─長谷川浩を偲んで」に詳しい(巻末付録参照)。
同年の夏になると、一高の非合法組織は探知され、メンバーは次々と逮捕されていった。伊藤にも危機が迫り、九月には地下に潜行、十二月に入ると一高当局から放校処分を受けた。ちなみに、一高で伊藤の一級下だった小野義彦の著書『昭和史を生きて』によると、一九三〇(昭和五)年の一高入学者のうち三十二名が、翌一九三一(昭和六)年には入学者のうち四十二名が、中途退学になっていたという。
地下潜行後、伊藤は反帝同盟の任務を、級友の佐々木正治に引き継いで、共産青年同盟学生対策部のオルグとなり、東京城西地区を担当した。城西地区とは、東京帝国大学をはじめ東京商科大学(現・一橋大学)や早稲田大学などをかかえる全国でも最大級の組織だった。その時の学対部長が、後に戦後の日本共産党教育宣伝部を担当していた小松雄一郎であった。プロローグでも述べた朝日新聞連載の「故国の土を踏みて」のインタビュアーは、この小松であったのだ。
一九三三(昭和八)年の二月、伊藤は共青の中央事務局長となり、正式に日本共産党に入党する。彼の主な任務は、共青中央と下部組織との連絡、中央機関紙をはじめ、その他の印刷物の全国配布、アドレスの管理などであったが、まだ二十歳にもなっていなかった時のことである。
-------
ということで、まるで革命運動をするために生まれてきたかのような早熟ぶりですね。
このように伊藤律は組織を運営する非凡な能力を有していましたが、これは宇野脩平には全く欠落していた能力です。
伊藤律(1913-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BE%8B
なお、「同年の夏になると」とありますが、これは1932年(昭和7)のことですね。
また、小松雄一郎については、この掲示板でも一度触れたことがあります。
もっとも音楽研究者、『ショパンの手紙』(白水社、1965)の翻訳者としての小松についてですが。
「ベートーヴェンに魅せられた日本共産党最高幹部」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc125b11a74cca3bcb23ee6d6a0ba92f
小松雄一郎(1907-96)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E9%9B%84%E4%B8%80%E9%83%8E
宇野脩平や明石博隆に関して私が入手できた情報はまだまだ不充分なのですが、結論として、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」などという事態は、客観的にはおよそありえなかったでしょうね。
それは当時の共産党が置かれていた政治情勢と、その中における伊藤律の活動状況を見れば自ずと明らかです。
戦前の共産党の活動一般については多数の参考文献があるので、それに譲るとして、伊藤律に関しては、野坂参三(1892-1993)や宮本顕治(1908-2007)に近かった人々の著書・論文は疑問が多く、現時点で一番信頼できるのは、やはり渡部富哉の『偽りの烙印─伊藤律・スパイ説の崩壊』(講談社、1993)ですね。
渡部富哉(1930生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E5%AF%8C%E5%93%89
同書から少し引用してみます。(p127以下)
-------
伊藤律は一九一三(大正二)年六月二十七日、岐阜県土岐郡土岐村(現・瑞浪市)で生まれた。一九三〇(昭和五)年四月、同県立恵那中学から四年終了で第一高等学校に入学する。一高同期の作家・杉浦明平の語るところによると、
「普通一高生は東京大学新人会から来る学生によって"洗脳"されて左翼運動に入るのだが、彼は入学したときからすでに社会主義に強い関心を持っていた。一年のとき早くも読書会を主宰しその影響をうけた者が多かった」
という。
一九三一(昭和六)年初秋、伊藤律は共産青年同盟に加入し、国際反帝反戦同盟日本支部の東京中央委員会印刷局に入った。そこで彼は、昼は学校と家庭教師、夜はアジトでガリ切りと印刷、そして配布と、典型的な活動家としての生活を送り、まもなく印刷局の責任者となる。
当時、一高の共青組織は特高警察によって破壊されていた。そのため、伊藤は共産党の指示をうけて組織の再建に当たっていたのである。その後、組織が再建されると、伊藤の主導で非合法の共青細胞新聞「自由の柏」が発行された。この再建活動に参加した者の中に、同期生で長谷川浩の弟である長谷川治がいた。その頃、兄の長谷川浩は獄中におり、伊藤は彼の活動や非転向を貫いた獄中生活をその弟を通して詳しく耳にし、多大な感銘を受けていた。これ以後、長谷川浩は、伊藤律と生涯にわたって重要な関わりを持つ人物となる。そのあたりのことは、伊藤律の講演録「戦時下における党再建活動─長谷川浩を偲んで」に詳しい(巻末付録参照)。
同年の夏になると、一高の非合法組織は探知され、メンバーは次々と逮捕されていった。伊藤にも危機が迫り、九月には地下に潜行、十二月に入ると一高当局から放校処分を受けた。ちなみに、一高で伊藤の一級下だった小野義彦の著書『昭和史を生きて』によると、一九三〇(昭和五)年の一高入学者のうち三十二名が、翌一九三一(昭和六)年には入学者のうち四十二名が、中途退学になっていたという。
地下潜行後、伊藤は反帝同盟の任務を、級友の佐々木正治に引き継いで、共産青年同盟学生対策部のオルグとなり、東京城西地区を担当した。城西地区とは、東京帝国大学をはじめ東京商科大学(現・一橋大学)や早稲田大学などをかかえる全国でも最大級の組織だった。その時の学対部長が、後に戦後の日本共産党教育宣伝部を担当していた小松雄一郎であった。プロローグでも述べた朝日新聞連載の「故国の土を踏みて」のインタビュアーは、この小松であったのだ。
一九三三(昭和八)年の二月、伊藤は共青の中央事務局長となり、正式に日本共産党に入党する。彼の主な任務は、共青中央と下部組織との連絡、中央機関紙をはじめ、その他の印刷物の全国配布、アドレスの管理などであったが、まだ二十歳にもなっていなかった時のことである。
-------
ということで、まるで革命運動をするために生まれてきたかのような早熟ぶりですね。
このように伊藤律は組織を運営する非凡な能力を有していましたが、これは宇野脩平には全く欠落していた能力です。
伊藤律(1913-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BE%8B
なお、「同年の夏になると」とありますが、これは1932年(昭和7)のことですね。
また、小松雄一郎については、この掲示板でも一度触れたことがあります。
もっとも音楽研究者、『ショパンの手紙』(白水社、1965)の翻訳者としての小松についてですが。
「ベートーヴェンに魅せられた日本共産党最高幹部」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc125b11a74cca3bcb23ee6d6a0ba92f
小松雄一郎(1907-96)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E9%9B%84%E4%B8%80%E9%83%8E
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月24日(月)12時24分35秒
私は今回、改めて「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」を読み直した時点でも、「丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバー」の中で、ただ一人、明石博隆については名前すら聞き覚えがなかったのですが、明石博隆・松浦総三を編者とする『昭和特高弾圧史』全八巻(太平出版社、1976~77)の奥付、「編者紹介」を見ると、
-------
明石博隆<あかしひろたか> 1914年兵庫県に生まれる。1933年旧制一高文科を中退、1938年東京外語専修科露語部終了。1933年および43年治安維持法違反のため検挙。戦前は『文学界』(文圃堂発行)の編集、国際問題調査会でのアジア・中国問題研究に従事、戦後は世界評論社などの出版社勤務をへて、現在はフリーの文筆活動
-------
とあります。
ついでに共編者の松浦総三は、
-------
松浦総三<まつうらそうぞう> 1914年山梨県に生まれる。1936~39年中央大学に学ぶ。1939年竜門社・渋沢栄一伝記資料編纂所へ入所。1944年東京外語専修科露語部終了。1946~55年改造社に勤務、以後フリーのジャーナリスト。1971年「東京空襲を記録する会」事務局長となり、74年『東京空襲・戦災誌』(菊池寛賞受賞)をまとめる。著書に『占領下の言論弾圧』など
-------
となっていて、明石と松浦はともに「東京外語専修科露語部終了」ですね。
松浦はウィキペディアにも立項されていて、世間的には明石より松浦の方が知名度が高いのではないかと思います。
松浦は大月書店から多数の編著を出していますから共産党系の人で、明石も、党員であったかはともかくとして、少なくとも代々木と敵対する立場の人ではなさそうですね。
松浦総三(1914-2011)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E7%B7%8F%E4%B8%89
明石博隆の名前で国会図書館サイトで検索しても、1958年、「石炭綜合研究所」の『炭研』という雑誌に4回にわたって掲載された「ドイツ石炭鉱業にたいする国家経済政策の歴史的概観」という論文があるくらいで、他は殆ど『昭和特高弾圧史』関係です。
明石は『昭和特高弾圧史』全八巻を出して直ぐ、1978年に亡くなっており、大原勇三他編『海鳴りのように : 明石博隆追悼』(私家版、1979)があるそうです。
丸山眞男の「明石博隆君のこと」(『丸山眞男集』第11巻、岩波書店、1996)は、この追悼集に寄せられた短いエッセイで、『昭和特高弾圧史』を誰かが無断転載したという著作権がらみのトラブルで明石から相談を受けた、みたいなことがちょっと書かれているだけで、一高時代については特に参考になりそうな記述はありませんでした。
少し脱線しますが、『昭和特高弾圧史』は、その「刊行のことば─『昭和特高弾圧史』の刊行にあたって」を見ると、
-------
一九四五年、十五年戦争における日本帝国主義の全面的敗北とともに特高警察が解体されて三〇年が経過した。特高警察は、一九一〇年、幸徳秋水らの大逆事件を機に社会主義運動の抑圧を目的として設けられたが、この年はまた日本による韓国「併合」の年でもあった。「昭和」時代にはいると、治安維持法を改悪して弾圧立法を整備し、「満州事変」後の一九三二年には外事・労働・内鮮(朝鮮人弾圧)・検閲などの機構を強化し、やがて上海・ロンドン・ベルリンにまで組織をひろげて海外情報の収集と外地における逮捕・弾圧を企てるなど、ついに世界に冠たる政治・思想警察として君臨した。【中略】
このように特高警察は、悪名高い憲兵とともに、天皇制=日本ファシズム権力の中枢にあって、アジア侵略の尖兵の役割を果たしたのである。
しかも今日、特高警察の亡霊とその政治的・思想的遺産は、一方において、現代日本の警備・公安警察、アメリカのCIA、およびKCIAをはじめとする韓国の警察機構によって継承され、他方また、靖国法案・入管法・刑法「改正」にみられる日本ファシズムの再編成のなかに生きつづけている。
-------
といった具合で、問題意識はそれなりに高邁かつ深遠ですが、内容はいわゆる歴史書ではなく、資料集ですね。
-------
本書は、このような今日的状況のなかに特高警察のかつての弾圧活動とその本質を、まさにかれら自身の記録によって語らせようとするものである。われわれは、膨大な「厳秘」資料─旧内務省警保局「特高月報」、同「特高外事月報」、および十五年戦争の末期において「特高月報原稿用紙」に書かれたナマ原稿─整理・編集して提供することにした。このナマ原稿は、十五年戦争の全面的敗北を目前にして印刷するいとまのないままアメリカ占領軍によって押収され、今日まで全く研究者の眼にふれる機会のなかったものであるが、編者松浦総三がアメリカ議会図書館・国立公文書館から発掘・入手して、とくに本書に収めることができた。
本書では、天皇制権力が十五年戦争の推移とともに渾身の力をこめて弾圧にあたったものが何であったかが浮き彫りになるように配慮しつつ、弾圧の各事項を問題別・時期別に編集した。権力者自身の記録による民衆弾圧の犯科帳たる本書は、同時に権力にたいする糾弾・告発の書ともなって、絶望と暗黒のなかでさまざまな抵抗をつづけた日本と朝鮮の民衆のすがたを明らかにするであろう。
戦前昭和史の研究に利するところ少なくないであろうことにひそかな自負をこめて、本書をおくりだすものである。
一九七五年五月
編者 明石博隆
松浦総三
刊行者 太平出版社
-------
ということで、大変な手間と時間をかけた書籍であることは間違いありませんが、個々の資料は公的機関が作成した公用文書であり、「弾圧の各事項を問題別・時期別に編集」した程度では「編集著作物」としての「創作性」があるかというと、それも疑問です。
丸山眞男が明石から相談を受けたトラブルの具体的内容は分かりませんが、他人が編者に無断で利用したとしても、著作権法で争うのは無理筋かな、という感じがします。
私は今回、改めて「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」を読み直した時点でも、「丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバー」の中で、ただ一人、明石博隆については名前すら聞き覚えがなかったのですが、明石博隆・松浦総三を編者とする『昭和特高弾圧史』全八巻(太平出版社、1976~77)の奥付、「編者紹介」を見ると、
-------
明石博隆<あかしひろたか> 1914年兵庫県に生まれる。1933年旧制一高文科を中退、1938年東京外語専修科露語部終了。1933年および43年治安維持法違反のため検挙。戦前は『文学界』(文圃堂発行)の編集、国際問題調査会でのアジア・中国問題研究に従事、戦後は世界評論社などの出版社勤務をへて、現在はフリーの文筆活動
-------
とあります。
ついでに共編者の松浦総三は、
-------
松浦総三<まつうらそうぞう> 1914年山梨県に生まれる。1936~39年中央大学に学ぶ。1939年竜門社・渋沢栄一伝記資料編纂所へ入所。1944年東京外語専修科露語部終了。1946~55年改造社に勤務、以後フリーのジャーナリスト。1971年「東京空襲を記録する会」事務局長となり、74年『東京空襲・戦災誌』(菊池寛賞受賞)をまとめる。著書に『占領下の言論弾圧』など
-------
となっていて、明石と松浦はともに「東京外語専修科露語部終了」ですね。
松浦はウィキペディアにも立項されていて、世間的には明石より松浦の方が知名度が高いのではないかと思います。
松浦は大月書店から多数の編著を出していますから共産党系の人で、明石も、党員であったかはともかくとして、少なくとも代々木と敵対する立場の人ではなさそうですね。
松浦総三(1914-2011)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E7%B7%8F%E4%B8%89
明石博隆の名前で国会図書館サイトで検索しても、1958年、「石炭綜合研究所」の『炭研』という雑誌に4回にわたって掲載された「ドイツ石炭鉱業にたいする国家経済政策の歴史的概観」という論文があるくらいで、他は殆ど『昭和特高弾圧史』関係です。
明石は『昭和特高弾圧史』全八巻を出して直ぐ、1978年に亡くなっており、大原勇三他編『海鳴りのように : 明石博隆追悼』(私家版、1979)があるそうです。
丸山眞男の「明石博隆君のこと」(『丸山眞男集』第11巻、岩波書店、1996)は、この追悼集に寄せられた短いエッセイで、『昭和特高弾圧史』を誰かが無断転載したという著作権がらみのトラブルで明石から相談を受けた、みたいなことがちょっと書かれているだけで、一高時代については特に参考になりそうな記述はありませんでした。
少し脱線しますが、『昭和特高弾圧史』は、その「刊行のことば─『昭和特高弾圧史』の刊行にあたって」を見ると、
-------
一九四五年、十五年戦争における日本帝国主義の全面的敗北とともに特高警察が解体されて三〇年が経過した。特高警察は、一九一〇年、幸徳秋水らの大逆事件を機に社会主義運動の抑圧を目的として設けられたが、この年はまた日本による韓国「併合」の年でもあった。「昭和」時代にはいると、治安維持法を改悪して弾圧立法を整備し、「満州事変」後の一九三二年には外事・労働・内鮮(朝鮮人弾圧)・検閲などの機構を強化し、やがて上海・ロンドン・ベルリンにまで組織をひろげて海外情報の収集と外地における逮捕・弾圧を企てるなど、ついに世界に冠たる政治・思想警察として君臨した。【中略】
このように特高警察は、悪名高い憲兵とともに、天皇制=日本ファシズム権力の中枢にあって、アジア侵略の尖兵の役割を果たしたのである。
しかも今日、特高警察の亡霊とその政治的・思想的遺産は、一方において、現代日本の警備・公安警察、アメリカのCIA、およびKCIAをはじめとする韓国の警察機構によって継承され、他方また、靖国法案・入管法・刑法「改正」にみられる日本ファシズムの再編成のなかに生きつづけている。
-------
といった具合で、問題意識はそれなりに高邁かつ深遠ですが、内容はいわゆる歴史書ではなく、資料集ですね。
-------
本書は、このような今日的状況のなかに特高警察のかつての弾圧活動とその本質を、まさにかれら自身の記録によって語らせようとするものである。われわれは、膨大な「厳秘」資料─旧内務省警保局「特高月報」、同「特高外事月報」、および十五年戦争の末期において「特高月報原稿用紙」に書かれたナマ原稿─整理・編集して提供することにした。このナマ原稿は、十五年戦争の全面的敗北を目前にして印刷するいとまのないままアメリカ占領軍によって押収され、今日まで全く研究者の眼にふれる機会のなかったものであるが、編者松浦総三がアメリカ議会図書館・国立公文書館から発掘・入手して、とくに本書に収めることができた。
本書では、天皇制権力が十五年戦争の推移とともに渾身の力をこめて弾圧にあたったものが何であったかが浮き彫りになるように配慮しつつ、弾圧の各事項を問題別・時期別に編集した。権力者自身の記録による民衆弾圧の犯科帳たる本書は、同時に権力にたいする糾弾・告発の書ともなって、絶望と暗黒のなかでさまざまな抵抗をつづけた日本と朝鮮の民衆のすがたを明らかにするであろう。
戦前昭和史の研究に利するところ少なくないであろうことにひそかな自負をこめて、本書をおくりだすものである。
一九七五年五月
編者 明石博隆
松浦総三
刊行者 太平出版社
-------
ということで、大変な手間と時間をかけた書籍であることは間違いありませんが、個々の資料は公的機関が作成した公用文書であり、「弾圧の各事項を問題別・時期別に編集」した程度では「編集著作物」としての「創作性」があるかというと、それも疑問です。
丸山眞男が明石から相談を受けたトラブルの具体的内容は分かりませんが、他人が編者に無断で利用したとしても、著作権法で争うのは無理筋かな、という感じがします。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月23日(日)13時38分19秒
宇野脩平に関しては、亡くなった二年後の1971年、和歌山県粉河町の「宇野脩平先生追悼録会」から『宇野脩平先生追悼録』が出ていて、また、橘川俊忠氏に「文書館にかけた夢─宇野脩平の人と業績」(神奈川大学日本常民文化研究所編『歴史と民俗』19号、2003)という論文があるそうですが、ともに旧制一高時代の共産党活動については、あまり詳しい記述は期待できそうにないですね。
他方、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という網野の発言は、今谷明が網野と「よく飲み歩いた」際に聞いたという「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を担っていた云々という話よりは信頼性がありますが、では、網野はこの話を誰から聞いたのだろうか、という疑問が生じます。
なかなかの難問ですが、旧制一高という学歴エリートが集う非常に狭い空間での、しかも治安維持法下の非合法活動に関係する話ですから、信頼できる情報源は自ずと限られますね。
そして、「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」には、若干のヒントになりそうな記述があります。
網野によれば、日本常民文化研究所月島分室が行なった、宇野脩平をリーダーとする漁村資料の蒐集・整理事業は、水産庁のバックアップの下、当時としては潤沢な予算を得て活動しており、網野ら常勤の研究員以外に、蒐集した資料を筆写するため、多数のアルバイトを雇っていたそうです。(『網野善彦著作集』第18巻、p129以下)
-------
この筆写をした方には、有名な歴史家が非常に多いのです。佐藤進一さん、長倉保さん、佐々木潤之介さん、岡光男さん、須磨千頴さん、稲垣敏子さん、能の研究者として有名な戸井田道三さんも筆写しています。坪井洋文さんの奥様のお父様、坪井鹿次郎さんなど、この筆写者のリストを作ると、当時のいろんな人間関係がわかってきます。確か杉浦明平さんも筆写していると思います。筆写料が多少ともよかったので、アルバイトとしてかなりの数の、また優秀な筆写者を組織できたのです。それが公称三十万枚という厖大な筆写本になって現在まで残っているのです。
-------
ここに登場する人物の中で、作家の杉浦明平はおよそ「有名な歴史家」とは言い難い人ですが、1931年に一高に入学した宇野脩平の同級生として出てきた、「丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバー」(p118)に含まれます。
何で杉浦明平が漁村資料の筆写などをやっていたのかは分かりませんが、まあ、旧知の宇野から割の良いアルバイトを紹介してもらった、ということなのでしょうね。
杉浦明平(1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E6%98%8E%E5%B9%B3
そして、更に読み進めると、もう一人の一高の同級生が登場します。(p131)
-------
五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
そういう状況で、さきほどもいいましたように、全国にわたって数百万点の文書が借用、寄贈され、月島分室の一室は全部、文書のつめこまれたリンゴ箱でうずめつくされるという事態になったわけです。一九四九年、五〇年、五一年、五二年までは調査も非常に活発で、研究所の仕事も前向きだったのです。しかし私はこの頃は最も不誠実な研究員でしたが、五三年に入りますと、予算の打ち切りもなんとなく切迫してきたという感じもしてきましたし、仕事上も矛盾だらけなことが明白になってきました。すべてを採訪して、一点ずつ整理するという方針で仕事をしていたら、矛盾は到底解決できない、仕事は山積するばかりではないか、それからまた整理に追われて自分の勉強がまったくできない。これはどこの研究所でも問題になることだと思いますけれども、研究所の日常の仕事と自分の研究との間の矛盾もでてきました。こうしたさまざまな問題が研究員たちのなかで五三年頃に表面化します。
それまで研究所の仕事の水産庁への報告の意味で『漁業制度資料目録』をつくってきたのですが(これは明石博隆氏がガリ版でプリントされたものです)、この目録のつくり方自体、方針が極めて曖昧だという批判が起こり、宇野さんの方針に対するきびしい批判が出てきました。【後略】
-------
ということで、明石博隆(1914-78)の名前が出てきます。
p157以下に「資料6」としての1951年6月付「漁業制度資料の調査保存について」が載っており、「四 資料の調査保存の仕事は誰がおこなうか」には、財団法人日本常民文化研究所の名簿(桜田勝徳所長以下14名)、同研究所の漁業制度資料収集委員会の名簿(宇野脩平以下18名)、「各種連絡、資料の整理、複写、保存の仕事」にあたる者の名簿(宇野脩平以下17名)がありますが、明石はどこにも登場せず、明石がどのような資格で『漁業制度資料目録』を作っていたのかは分かりません。
多くの研究員から批判が噴出した「宇野さんの方針」に沿って『漁業制度資料目録』を作成していた明石には『昭和特高弾圧史』全八巻(太平出版社、1976~77)という編著がありますが、佐藤進一以下の「有名な歴史家」とは異質な人物で、研究者というよりは社会運動家に分類される人ですね。
そして、渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律スパイ説の崩壊』(五月書房、1993)によれば、杉浦明平は明石を「戸谷〔敏之〕の検挙に伊藤律が関わっているという噂」の出所だとしています。(p143)
ということで、網野に「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」と言った人物として、伊藤律の同級生であり、一高の共産主義運動の内情に詳しく、かつ伊藤律に敵意を持っていた明石博隆が捜査線上に浮上してきたのであります。
宇野脩平に関しては、亡くなった二年後の1971年、和歌山県粉河町の「宇野脩平先生追悼録会」から『宇野脩平先生追悼録』が出ていて、また、橘川俊忠氏に「文書館にかけた夢─宇野脩平の人と業績」(神奈川大学日本常民文化研究所編『歴史と民俗』19号、2003)という論文があるそうですが、ともに旧制一高時代の共産党活動については、あまり詳しい記述は期待できそうにないですね。
他方、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という網野の発言は、今谷明が網野と「よく飲み歩いた」際に聞いたという「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を担っていた云々という話よりは信頼性がありますが、では、網野はこの話を誰から聞いたのだろうか、という疑問が生じます。
なかなかの難問ですが、旧制一高という学歴エリートが集う非常に狭い空間での、しかも治安維持法下の非合法活動に関係する話ですから、信頼できる情報源は自ずと限られますね。
そして、「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」には、若干のヒントになりそうな記述があります。
網野によれば、日本常民文化研究所月島分室が行なった、宇野脩平をリーダーとする漁村資料の蒐集・整理事業は、水産庁のバックアップの下、当時としては潤沢な予算を得て活動しており、網野ら常勤の研究員以外に、蒐集した資料を筆写するため、多数のアルバイトを雇っていたそうです。(『網野善彦著作集』第18巻、p129以下)
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この筆写をした方には、有名な歴史家が非常に多いのです。佐藤進一さん、長倉保さん、佐々木潤之介さん、岡光男さん、須磨千頴さん、稲垣敏子さん、能の研究者として有名な戸井田道三さんも筆写しています。坪井洋文さんの奥様のお父様、坪井鹿次郎さんなど、この筆写者のリストを作ると、当時のいろんな人間関係がわかってきます。確か杉浦明平さんも筆写していると思います。筆写料が多少ともよかったので、アルバイトとしてかなりの数の、また優秀な筆写者を組織できたのです。それが公称三十万枚という厖大な筆写本になって現在まで残っているのです。
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ここに登場する人物の中で、作家の杉浦明平はおよそ「有名な歴史家」とは言い難い人ですが、1931年に一高に入学した宇野脩平の同級生として出てきた、「丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバー」(p118)に含まれます。
何で杉浦明平が漁村資料の筆写などをやっていたのかは分かりませんが、まあ、旧知の宇野から割の良いアルバイトを紹介してもらった、ということなのでしょうね。
杉浦明平(1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E6%98%8E%E5%B9%B3
そして、更に読み進めると、もう一人の一高の同級生が登場します。(p131)
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五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
そういう状況で、さきほどもいいましたように、全国にわたって数百万点の文書が借用、寄贈され、月島分室の一室は全部、文書のつめこまれたリンゴ箱でうずめつくされるという事態になったわけです。一九四九年、五〇年、五一年、五二年までは調査も非常に活発で、研究所の仕事も前向きだったのです。しかし私はこの頃は最も不誠実な研究員でしたが、五三年に入りますと、予算の打ち切りもなんとなく切迫してきたという感じもしてきましたし、仕事上も矛盾だらけなことが明白になってきました。すべてを採訪して、一点ずつ整理するという方針で仕事をしていたら、矛盾は到底解決できない、仕事は山積するばかりではないか、それからまた整理に追われて自分の勉強がまったくできない。これはどこの研究所でも問題になることだと思いますけれども、研究所の日常の仕事と自分の研究との間の矛盾もでてきました。こうしたさまざまな問題が研究員たちのなかで五三年頃に表面化します。
それまで研究所の仕事の水産庁への報告の意味で『漁業制度資料目録』をつくってきたのですが(これは明石博隆氏がガリ版でプリントされたものです)、この目録のつくり方自体、方針が極めて曖昧だという批判が起こり、宇野さんの方針に対するきびしい批判が出てきました。【後略】
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ということで、明石博隆(1914-78)の名前が出てきます。
p157以下に「資料6」としての1951年6月付「漁業制度資料の調査保存について」が載っており、「四 資料の調査保存の仕事は誰がおこなうか」には、財団法人日本常民文化研究所の名簿(桜田勝徳所長以下14名)、同研究所の漁業制度資料収集委員会の名簿(宇野脩平以下18名)、「各種連絡、資料の整理、複写、保存の仕事」にあたる者の名簿(宇野脩平以下17名)がありますが、明石はどこにも登場せず、明石がどのような資格で『漁業制度資料目録』を作っていたのかは分かりません。
多くの研究員から批判が噴出した「宇野さんの方針」に沿って『漁業制度資料目録』を作成していた明石には『昭和特高弾圧史』全八巻(太平出版社、1976~77)という編著がありますが、佐藤進一以下の「有名な歴史家」とは異質な人物で、研究者というよりは社会運動家に分類される人ですね。
そして、渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律スパイ説の崩壊』(五月書房、1993)によれば、杉浦明平は明石を「戸谷〔敏之〕の検挙に伊藤律が関わっているという噂」の出所だとしています。(p143)
ということで、網野に「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」と言った人物として、伊藤律の同級生であり、一高の共産主義運動の内情に詳しく、かつ伊藤律に敵意を持っていた明石博隆が捜査線上に浮上してきたのであります。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月21日(金)11時34分4秒
網野の「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という発言、私にはどうも疑わしいような感じがするので、一高時代の伊藤律と宇野脩平に言及している文献を探したのですが、今のところ小野義彦(大阪市立大学名誉教授)の『「昭和史」を生きて』(三一書房、1985)くらいしか見当たりません。
小野義彦(1914-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%BE%A9%E5%BD%A6
小野義彦は「伊藤律とは第一高等学校で、同じ文科甲類の一年ちがいの同窓生」(p25)という関係です。
同書から、まずは時代の雰囲気を感じさせる部分を少し引用してみます。(p25以下)
-------
さて、私が第一高等学校に入りましたのは一九三一年(昭和六)四月、仙台二中からであります。一年のときは文学青年で、ロシア文学に熱中していました。新潮社の『世界文学全集』なども続篇までほとんど読んだことなど自慢していました。別に左翼的な学生では決してありませんでした。
しかし、その頃から、店頭に派手な表装でならんでいるブハーリンの「史的唯物論」がいい本だということを聞いて読んでみたのですが、さっぱりわかりませんでした。
はじめてマルクス主義というものがわかったような気がしたのは、河上肇の『第二貧乏物語』を読んでからでした。もう一つは太田黒訳の××(伏字)だらけの『共産党宣言』です。当時は検閲で、まともな翻訳がなかったので、英語の本を東大赤門前の島崎書店─のちに作家となった島木健作が、この書店主でした─で購入して勉強しました。ニューヨークのバンガードプレス社の『エッセンシャルズ・オブ・マルクス』という選集ですが、これは「マニフェスト」などマルクスの主要著作で入門的なものを、コンパクトに一冊にまとめてあるもので、これを読んで私は、はじめて世界がひっくりかえるような衝撃を受けました。一高二年の春頃だったと思いますが、この本は今でも大切に保存して、時々読み返しては、自分自身の思想遍歴の原点を考えてみています。
-------
小野の父は陸士第15期の高級軍人で、1932年1月に始まった上海事変では金沢第九師団の敦賀旅団長として出征しますが、敦賀旅団はチェコ製機関銃を持つ一九路軍に圧倒され、多数の犠牲者を出したそうですね。
-------
それで親父らの軍隊は大きな損害をうけて撤退したわけですが、その年の三月、私は第一高等学校の一学年を終了して、敦賀の町に帰っていました。その敦賀は、町中日の丸の旗の下に、喪章をつけた半旗におおわれていまして、父が町に帰ってきて重々しい空気のなかで、慰霊祭が行われるなど、私は大変ショックを受けました。
新学年になって学校へ帰ってから、私はその敦賀でのことを校内新聞(当時、伊藤律が編集に参加していた『広陵時報』)に、「慰霊祭」という題のコントとして投稿したところ、これが評判になって、伊藤律がすぐ私のもとにやってきて、私の思想調査のようなことをやられたのを覚えています。
-------
ということで、伊藤律が登場します。
小野は伊藤律とウマが合わなかったようで、伊藤律の描写は一貫して冷ややかですね。
-------
私はその時までに、マルクスの本の若干は読んでいたといても、まだはっきりしたマルキストではなかったので、律は私をオルグするつもりだったのでしょう。彼は私の思想があいまいだとか、矛盾だらけだとか、しきりに先輩風を吹かせて、私を批判しました。その態度がひじょうに押しつけ的だったので、私はその時から彼を警戒し、彼との接触をできるだけ自分から避けるようにしたと思います。
全寮制だった一高で、私は西寮五番という部屋にいまして、同じ部屋には、のちに有名になった立原道造という詩人がおり、フランス語の詩を、ペラペラ朗読などしていました。そのまた隣の西寮七番には、水泳部の選手が多く入っていましたが、当時一高では、この水泳部と柔道部が左翼の巣だったのです。一年先輩の伊藤律よりは、むしろ又隣りの西寮七番の水泳部の連中の方が明るく、いろんなことを教えてくれたり、人間的にも親しみを感じましたので、私はむしろ西寮七番の連中とつきあうようになりました。そんな関係から校内の非公然新聞『自由の柏』の存在を知り、その読者になりました。【中略】
そういう形で、昭和七年(一九三二)の春から、私は左翼運動に関係をもつようになりました。
-------
ということで、伊藤律の名前は何度も出てきますが、宇野脩平は登場しません。
この後、小野は当時の一高における中途退学者の数を列挙し、「党の全盛期と、その後の崩壊期を、実によく反映している数字だと思います」(p29)と述べます。
そして、その次にやっと宇野脩平が登場します。
-------
当時一高を中退せず卒業して東大などに進んだ人たちの中にも現在進歩的な仕事をしている知名の人たちがいます。私の一級上には作家の杉浦明平氏や東大教授になった磯田進氏がおり、戦死した平沢道雄君は東大時代にすぐれたマルクス経済理論家として頭角をあらわしていました。また中退組でも戦後に早死にした戸谷敏之、宇野脩平、明石博隆の諸君は、それぞれ思想的な面で戦後の運動に無視できない足跡をのこしました。二~三回の留年で私と同級になった森敦氏は芥川賞の小説を書いて今ではよく知られています。
私は昭和六年入学組の中途退学者ですが、伊藤律の場合は一年先輩ですから、昭和五年入学組の中退者に属します。この中退者のすべてがマルキストだったというわけではありませんが、大部分が検挙による退学処分ないし放校処分者です。
-------
うーむ。
一高の左翼事情に詳しい小野は、「それぞれ思想的な面で戦後の運動に無視できない足跡をのこし」た三人の中の一人として宇野脩平に言及しているだけなので、網野の言うように「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」かは疑問です。
また、網野は宇野脩平が「当時、一高に組織された日本共産青年同盟(共青といいます)のキャップになったと聞いています」と言いますが、小野著にはそのようなことは一切出て来ませんし、私の狭い探索の範囲ではありますが、今のところ他にそのような事実を述べている文献も見当たりません。
網野の宇野情報は些か怪しいですね。
なお、「戦後に早死にした戸谷敏之」は変だなと思いましたが、ウィキペディアを見ると、戸谷は「1945年(昭和20年)9月、フィリピンにて敗走中に戦死」とのことなので、不正確ではないようですね。
また、明石博隆は『昭和特高弾圧史』全八巻(太平出版社、1976~77)の編者の一人ですが、この人については丸山眞男が「明石博隆君のこと」というエッセイを書いているそうなので(『丸山眞男集』第11巻、岩波書店、1996)、宇野脩平への言及がないか、後で確認してみるつもりです。
※(追記)伊藤律と小野義彦との間には深刻な確執があり、小野の伊藤律に対する評価は極めて厳しいものになっている。
網野善彦を探して(その14)─「アカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏」(by 犬丸義一)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55df5fe0ededf1647343b74dda223146
網野の「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という発言、私にはどうも疑わしいような感じがするので、一高時代の伊藤律と宇野脩平に言及している文献を探したのですが、今のところ小野義彦(大阪市立大学名誉教授)の『「昭和史」を生きて』(三一書房、1985)くらいしか見当たりません。
小野義彦(1914-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%BE%A9%E5%BD%A6
小野義彦は「伊藤律とは第一高等学校で、同じ文科甲類の一年ちがいの同窓生」(p25)という関係です。
同書から、まずは時代の雰囲気を感じさせる部分を少し引用してみます。(p25以下)
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さて、私が第一高等学校に入りましたのは一九三一年(昭和六)四月、仙台二中からであります。一年のときは文学青年で、ロシア文学に熱中していました。新潮社の『世界文学全集』なども続篇までほとんど読んだことなど自慢していました。別に左翼的な学生では決してありませんでした。
しかし、その頃から、店頭に派手な表装でならんでいるブハーリンの「史的唯物論」がいい本だということを聞いて読んでみたのですが、さっぱりわかりませんでした。
はじめてマルクス主義というものがわかったような気がしたのは、河上肇の『第二貧乏物語』を読んでからでした。もう一つは太田黒訳の××(伏字)だらけの『共産党宣言』です。当時は検閲で、まともな翻訳がなかったので、英語の本を東大赤門前の島崎書店─のちに作家となった島木健作が、この書店主でした─で購入して勉強しました。ニューヨークのバンガードプレス社の『エッセンシャルズ・オブ・マルクス』という選集ですが、これは「マニフェスト」などマルクスの主要著作で入門的なものを、コンパクトに一冊にまとめてあるもので、これを読んで私は、はじめて世界がひっくりかえるような衝撃を受けました。一高二年の春頃だったと思いますが、この本は今でも大切に保存して、時々読み返しては、自分自身の思想遍歴の原点を考えてみています。
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小野の父は陸士第15期の高級軍人で、1932年1月に始まった上海事変では金沢第九師団の敦賀旅団長として出征しますが、敦賀旅団はチェコ製機関銃を持つ一九路軍に圧倒され、多数の犠牲者を出したそうですね。
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それで親父らの軍隊は大きな損害をうけて撤退したわけですが、その年の三月、私は第一高等学校の一学年を終了して、敦賀の町に帰っていました。その敦賀は、町中日の丸の旗の下に、喪章をつけた半旗におおわれていまして、父が町に帰ってきて重々しい空気のなかで、慰霊祭が行われるなど、私は大変ショックを受けました。
新学年になって学校へ帰ってから、私はその敦賀でのことを校内新聞(当時、伊藤律が編集に参加していた『広陵時報』)に、「慰霊祭」という題のコントとして投稿したところ、これが評判になって、伊藤律がすぐ私のもとにやってきて、私の思想調査のようなことをやられたのを覚えています。
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ということで、伊藤律が登場します。
小野は伊藤律とウマが合わなかったようで、伊藤律の描写は一貫して冷ややかですね。
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私はその時までに、マルクスの本の若干は読んでいたといても、まだはっきりしたマルキストではなかったので、律は私をオルグするつもりだったのでしょう。彼は私の思想があいまいだとか、矛盾だらけだとか、しきりに先輩風を吹かせて、私を批判しました。その態度がひじょうに押しつけ的だったので、私はその時から彼を警戒し、彼との接触をできるだけ自分から避けるようにしたと思います。
全寮制だった一高で、私は西寮五番という部屋にいまして、同じ部屋には、のちに有名になった立原道造という詩人がおり、フランス語の詩を、ペラペラ朗読などしていました。そのまた隣の西寮七番には、水泳部の選手が多く入っていましたが、当時一高では、この水泳部と柔道部が左翼の巣だったのです。一年先輩の伊藤律よりは、むしろ又隣りの西寮七番の水泳部の連中の方が明るく、いろんなことを教えてくれたり、人間的にも親しみを感じましたので、私はむしろ西寮七番の連中とつきあうようになりました。そんな関係から校内の非公然新聞『自由の柏』の存在を知り、その読者になりました。【中略】
そういう形で、昭和七年(一九三二)の春から、私は左翼運動に関係をもつようになりました。
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ということで、伊藤律の名前は何度も出てきますが、宇野脩平は登場しません。
この後、小野は当時の一高における中途退学者の数を列挙し、「党の全盛期と、その後の崩壊期を、実によく反映している数字だと思います」(p29)と述べます。
そして、その次にやっと宇野脩平が登場します。
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当時一高を中退せず卒業して東大などに進んだ人たちの中にも現在進歩的な仕事をしている知名の人たちがいます。私の一級上には作家の杉浦明平氏や東大教授になった磯田進氏がおり、戦死した平沢道雄君は東大時代にすぐれたマルクス経済理論家として頭角をあらわしていました。また中退組でも戦後に早死にした戸谷敏之、宇野脩平、明石博隆の諸君は、それぞれ思想的な面で戦後の運動に無視できない足跡をのこしました。二~三回の留年で私と同級になった森敦氏は芥川賞の小説を書いて今ではよく知られています。
私は昭和六年入学組の中途退学者ですが、伊藤律の場合は一年先輩ですから、昭和五年入学組の中退者に属します。この中退者のすべてがマルキストだったというわけではありませんが、大部分が検挙による退学処分ないし放校処分者です。
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うーむ。
一高の左翼事情に詳しい小野は、「それぞれ思想的な面で戦後の運動に無視できない足跡をのこし」た三人の中の一人として宇野脩平に言及しているだけなので、網野の言うように「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かった」かは疑問です。
また、網野は宇野脩平が「当時、一高に組織された日本共産青年同盟(共青といいます)のキャップになったと聞いています」と言いますが、小野著にはそのようなことは一切出て来ませんし、私の狭い探索の範囲ではありますが、今のところ他にそのような事実を述べている文献も見当たりません。
網野の宇野情報は些か怪しいですね。
なお、「戦後に早死にした戸谷敏之」は変だなと思いましたが、ウィキペディアを見ると、戸谷は「1945年(昭和20年)9月、フィリピンにて敗走中に戦死」とのことなので、不正確ではないようですね。
また、明石博隆は『昭和特高弾圧史』全八巻(太平出版社、1976~77)の編者の一人ですが、この人については丸山眞男が「明石博隆君のこと」というエッセイを書いているそうなので(『丸山眞男集』第11巻、岩波書店、1996)、宇野脩平への言及がないか、後で確認してみるつもりです。
※(追記)伊藤律と小野義彦との間には深刻な確執があり、小野の伊藤律に対する評価は極めて厳しいものになっている。
網野善彦を探して(その14)─「アカハタ記者を伊藤律問題でやめていた小野義彦氏」(by 犬丸義一)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55df5fe0ededf1647343b74dda223146
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月19日(水)11時41分25秒
内田力氏は注31において、「なお、網野はつぎの文献で宇野脩平とともに左翼運動に入った人物として伊藤律に言及している。網野『歴史としての戦後史学』一八三頁」と書いていますが、これは「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」という講演録で、初出は神奈川大学日本常民文化研究所編『歴史と民俗』13号、1996年9月ですね。
全体の構成は、
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はじめに
一 漁村資料の蒐集・整理事業の発足
二 宇野脩平氏について
三 月島分室の発足
四 月島分室での仕事
五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
六 放置された借用文書
七 借用文書の一部の返却作業
八 三田の日本常民文化研究所
九 研究所の大学への移行をめぐって
むすび
-------
となっていて、問題の部分は「二 宇野脩平氏について」の冒頭です。
-------
宇野脩平さんは、一九一三年(大正二)に和歌山県の粉河の大きな造酢業の家で生まれました。「酢家のナカボン」といわれていたそうですが、秀才の誉れが高かったようです。実際、大変頭の切れる方だと思いますけれども、一九三一年に一高に入学します。その当時の同級生には丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバーがいたわけですが、その翌年、宇野さんは一年上級の伊藤律氏(共産党の幹部で最近亡くなりました。この方も宇野氏の同窓です)や戸谷敏之氏(すぐれた近世史家で、のちにやはり日本常民文化研究所の所員になりますが、フィリピンで戦死されました)とともに左翼運動に入り、当時、一高に組織された日本共産青年同盟(共青といいます)のキャップになったと聞いています。伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります。ところが、その十一月に宇野さんが逮捕されて、翌一九三三年に一高を除籍されます。退学ではなく放校処分を受けたわけです。それから一九三四年まで獄につながれておりまして、病を負うとともに、上申書を書いて転向を誓って刑務所から出てくることになります。
-------
内田氏の書き方は何やら思わせぶりな感じがしたので、網野の伊藤律に対する特別な感情を窺わせる記述でもあるのかと期待しましたが、そんなものは一切ありませんね。
仮に内田氏の言うように、「伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まったことは想像に難くない」のだったら、伊藤律について、もう少し何か書きようがあると思いますが、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という具合に、単に宇野の比較の対象であり、しかも宇野の方が共産党活動の面で伊藤より有能だったと示唆しているような感じもします。
うーむ。
おそらく内田氏は網野が伊藤律に言及した資料を探して膨大な文献を渉猟したものの、発見できたのはこれだけだったのでしょうね。
ちなみに、日本共産党は、1955年の中央委員会常任幹部会発表の「伊藤律について」において、伊藤の処分理由の一つとして、
一九三三年、伊藤律は大崎署に検挙された。当時、伊藤律は第一高等学校の学生で共産青年同盟の事務局長をしていた。伊藤律は警視庁特高課長の宮下弘の取調べを受け、完全に屈服し、共青中央の組織を売り渡して釈放された。
ことを挙げています(渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律・スパイ説の崩壊』、p120)。
そして、杉浦明平の小説『三とせの春は過ぎやすし』(河出書房新社、1974)には伊藤律と戸谷敏之をモデルとする人物が登場しており、ルポライターの上之郷利昭は、「伊藤律はなぜ生きていたか」(『月刊宝石』1980年12月号)において、戸谷敏之の検挙が伊藤律の情報提供によるとの噂があり、これが「仲間を売ったユダ」として疑われた初めてのケースだったと書いているそうです。
ただ、これらを否定する渡部富哉の主張は、私には説得的に思われます。(渡部、上掲書)
宇野脩平(1913-69)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E8%84%A9%E5%B9%B3
戸谷敏之(1912-45)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E8%B0%B7%E6%95%8F%E4%B9%8B
杉浦明平(1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E6%98%8E%E5%B9%B3
内田力氏は注31において、「なお、網野はつぎの文献で宇野脩平とともに左翼運動に入った人物として伊藤律に言及している。網野『歴史としての戦後史学』一八三頁」と書いていますが、これは「戦後の日本常民文化研究所と文書整理」という講演録で、初出は神奈川大学日本常民文化研究所編『歴史と民俗』13号、1996年9月ですね。
全体の構成は、
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はじめに
一 漁村資料の蒐集・整理事業の発足
二 宇野脩平氏について
三 月島分室の発足
四 月島分室での仕事
五 事業の行き詰まりと月島分室の解体
六 放置された借用文書
七 借用文書の一部の返却作業
八 三田の日本常民文化研究所
九 研究所の大学への移行をめぐって
むすび
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となっていて、問題の部分は「二 宇野脩平氏について」の冒頭です。
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宇野脩平さんは、一九一三年(大正二)に和歌山県の粉河の大きな造酢業の家で生まれました。「酢家のナカボン」といわれていたそうですが、秀才の誉れが高かったようです。実際、大変頭の切れる方だと思いますけれども、一九三一年に一高に入学します。その当時の同級生には丸山真男、堀米庸三、猪野謙二、寺田透、杉浦明平、塙作楽、明石博隆という錚々たるメンバーがいたわけですが、その翌年、宇野さんは一年上級の伊藤律氏(共産党の幹部で最近亡くなりました。この方も宇野氏の同窓です)や戸谷敏之氏(すぐれた近世史家で、のちにやはり日本常民文化研究所の所員になりますが、フィリピンで戦死されました)とともに左翼運動に入り、当時、一高に組織された日本共産青年同盟(共青といいます)のキャップになったと聞いています。伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります。ところが、その十一月に宇野さんが逮捕されて、翌一九三三年に一高を除籍されます。退学ではなく放校処分を受けたわけです。それから一九三四年まで獄につながれておりまして、病を負うとともに、上申書を書いて転向を誓って刑務所から出てくることになります。
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内田氏の書き方は何やら思わせぶりな感じがしたので、網野の伊藤律に対する特別な感情を窺わせる記述でもあるのかと期待しましたが、そんなものは一切ありませんね。
仮に内田氏の言うように、「伊藤の除名が日本に伝えられた時点で、共産党内において網野の進退が窮まったことは想像に難くない」のだったら、伊藤律について、もう少し何か書きようがあると思いますが、「伊藤律氏よりもむしろ宇野さんのほうが、一高の運動の中では地位が高かったと聞いたことがあります」という具合に、単に宇野の比較の対象であり、しかも宇野の方が共産党活動の面で伊藤より有能だったと示唆しているような感じもします。
うーむ。
おそらく内田氏は網野が伊藤律に言及した資料を探して膨大な文献を渉猟したものの、発見できたのはこれだけだったのでしょうね。
ちなみに、日本共産党は、1955年の中央委員会常任幹部会発表の「伊藤律について」において、伊藤の処分理由の一つとして、
一九三三年、伊藤律は大崎署に検挙された。当時、伊藤律は第一高等学校の学生で共産青年同盟の事務局長をしていた。伊藤律は警視庁特高課長の宮下弘の取調べを受け、完全に屈服し、共青中央の組織を売り渡して釈放された。
ことを挙げています(渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律・スパイ説の崩壊』、p120)。
そして、杉浦明平の小説『三とせの春は過ぎやすし』(河出書房新社、1974)には伊藤律と戸谷敏之をモデルとする人物が登場しており、ルポライターの上之郷利昭は、「伊藤律はなぜ生きていたか」(『月刊宝石』1980年12月号)において、戸谷敏之の検挙が伊藤律の情報提供によるとの噂があり、これが「仲間を売ったユダ」として疑われた初めてのケースだったと書いているそうです。
ただ、これらを否定する渡部富哉の主張は、私には説得的に思われます。(渡部、上掲書)
宇野脩平(1913-69)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%87%8E%E8%84%A9%E5%B9%B3
戸谷敏之(1912-45)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E8%B0%B7%E6%95%8F%E4%B9%8B
杉浦明平(1913-2001)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E6%98%8E%E5%B9%B3
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月18日(火)12時12分49秒
今谷明「時局下の網野先生」の続きです。(p5以下)
-------
先生のいわゆる「国民的歴史学の運動」とは、五一-五三年頃に山間へき地で展開された山村工作隊を指す。そのことは、先生も晩年に「学生達は本気でリュックを担いで山村に入ったんです。(中略)僕は歴研の運動などを通してその督戦隊みたいな役割をしていたことになります」(『歴史としての戦後史学』二八六-二八七頁)と言及されている。関東地区では小河内ダム付近の三ツ尾根がその拠点で、かつて党員として網野先生と同僚であり、脱党後読売新聞社に入社した渡邊恒雄氏が、奥多摩の工作隊拠点に単身潜入して署名記事を発表し、それが渡邊氏の社内昇進のきっかけとなったことはよく知られている(『読売新聞』五二年四月二七日朝刊社会面、「渡邊恒雄政治記者一代記」<月刊『中央公論』九九年一一月号>、魚住昭「「日本の首領」渡邊恒雄の「栄光」と「孤独」2」<月刊『現代』九九年六月号>)。関西地区では、脇田憲一氏の手記(『運動史研究4』)によると、和歌山県伊都郡花園村、奈良県吉野郡迫川村、同十津川村といったところで、紀州大水害の救援活動を機として根拠地づくりに入ったものだが、南北朝時代を思わせる"超"のつくへき地である。また猟銃等による軍事訓練基地として、丹波の五箇荘(現・京都府南丹市)の山林以下、各地で訓練が行われたことが地検の報告書等によって知られている。しかし一般には吹田事件、皇居前の血のメーデー事件、大須事件等の影にかくれ、山村工作隊の実情は華やかな目立った事件としては扱われていない。一体、『国史大辞典』で引いても「山村工作隊」は項目にすら上がってこない。私の遇目の範囲では、平凡社の『日本史大事典』で「一九五二年日本共産党が山村地帯に「遊撃隊」をつくる目的で行った組織活動」として十数行に亘り書かれている(佐々木隆爾氏執筆)程度である。
-------
「国民的歴史学の運動」が「山村工作隊を指す」というのは一般的な用法ではありませんが、網野の言及の仕方は確かに山村工作隊を強調していますね。
一般的な定義としては、ウィキペディアの「民主主義科学者協会(民科)歴史部会が1950年代初頭から半ばにかけて、歴史学ひいては大衆運動の分野において展開した諸運動」でよいのでしょうが、記事の内容は小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002)に拠りすぎている感じがします。
「国民的歴史学運動」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%9A%84%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E9%81%8B%E5%8B%95
「山村工作隊」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E9%9A%8A
なお、小熊著において、国民的歴史学運動の中心的指導者であった石母田正に関する記述に問題があることは以前少し書きました。
『〈民主〉と〈愛国〉』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7f480af2378383efecffa996008979a3
「ピンクの田中角栄」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5e375cdace50dc0715694478e414fdbf
それと、つまらないことですが、「かつて党員として網野先生と同僚であり、脱党後読売新聞社に入社した渡邊恒雄氏」とある点、共産党の場合は「同僚」という表現は少し間が抜けている感じがしますね。
やはりここは「同志」でないと気分が出ません。
渡邊恒雄(1926生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%89%E6%81%92%E9%9B%84
ちょっと脱線しましたが、「時局下の網野先生」に戻ります。
-------
冒頭に掲げた先生の両論文を一見すると、封建制度が当時の切実な克服の対象として強調されており、先生がまさに革命運動の渦中におられた様子が言外に伝わってくる。「運動に距離をおきはじめた」時期の論文とは到底思われない。とすれば、網野先生は山村工作隊運動が終息する五三年頃までは革命隊伍の人であったのではなかろうか。確かに先生は自ら、五三年が「転機」「回心」となったことは幾度か述懐しておられるが、活動(運動)の幅は戦後八年と広く、回心の契機も私には今一つ判らなかった。しかし、時系列を追って回顧してみると、活動のピークはやはり五三年の山村工作隊への"督戦"であったかと推測される。先生自身も、中国へ逃げた徳田球一、伊藤律などの言動に疑問を抱かれ、諸般の事情もあって次第に運動から身を引かれていったのであろうか。
ともかく、五一-五三年といえば、私自身が小学校三-五年生の時代で、少年期とはいえ同時代で、時代の雰囲気は感じられた頃である。従って山村工作隊の問題には関心を持ち続けてはいるものの、学界では強固なタブーの殻にとじ込められており、公然とこの問題が議論される雰囲気ではなかった。網野先生を永年苦しめた悔悟の念も、今となっては痛い程よくわかる。知らぬ顔をして頬かむりしている歴史家が多い中で、ともかくもそのことを強調され続けた先生に、私は今更の如く畏敬の念を深くするのである。(いまたに あきら・国際日本文化研究センター教授)
-------
国民的歴史学運動はともかく、山村工作隊は共産党関係者にとってはあまり思い出したくない恥かしい過去なので、共産党関係者の影響がかなり強い歴史学界においては、確かに「強固なタブーの殻にとじ込められており、公然とこの問題が議論される雰囲気ではなかった」のでしょうね。
今谷明「時局下の網野先生」の続きです。(p5以下)
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先生のいわゆる「国民的歴史学の運動」とは、五一-五三年頃に山間へき地で展開された山村工作隊を指す。そのことは、先生も晩年に「学生達は本気でリュックを担いで山村に入ったんです。(中略)僕は歴研の運動などを通してその督戦隊みたいな役割をしていたことになります」(『歴史としての戦後史学』二八六-二八七頁)と言及されている。関東地区では小河内ダム付近の三ツ尾根がその拠点で、かつて党員として網野先生と同僚であり、脱党後読売新聞社に入社した渡邊恒雄氏が、奥多摩の工作隊拠点に単身潜入して署名記事を発表し、それが渡邊氏の社内昇進のきっかけとなったことはよく知られている(『読売新聞』五二年四月二七日朝刊社会面、「渡邊恒雄政治記者一代記」<月刊『中央公論』九九年一一月号>、魚住昭「「日本の首領」渡邊恒雄の「栄光」と「孤独」2」<月刊『現代』九九年六月号>)。関西地区では、脇田憲一氏の手記(『運動史研究4』)によると、和歌山県伊都郡花園村、奈良県吉野郡迫川村、同十津川村といったところで、紀州大水害の救援活動を機として根拠地づくりに入ったものだが、南北朝時代を思わせる"超"のつくへき地である。また猟銃等による軍事訓練基地として、丹波の五箇荘(現・京都府南丹市)の山林以下、各地で訓練が行われたことが地検の報告書等によって知られている。しかし一般には吹田事件、皇居前の血のメーデー事件、大須事件等の影にかくれ、山村工作隊の実情は華やかな目立った事件としては扱われていない。一体、『国史大辞典』で引いても「山村工作隊」は項目にすら上がってこない。私の遇目の範囲では、平凡社の『日本史大事典』で「一九五二年日本共産党が山村地帯に「遊撃隊」をつくる目的で行った組織活動」として十数行に亘り書かれている(佐々木隆爾氏執筆)程度である。
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「国民的歴史学の運動」が「山村工作隊を指す」というのは一般的な用法ではありませんが、網野の言及の仕方は確かに山村工作隊を強調していますね。
一般的な定義としては、ウィキペディアの「民主主義科学者協会(民科)歴史部会が1950年代初頭から半ばにかけて、歴史学ひいては大衆運動の分野において展開した諸運動」でよいのでしょうが、記事の内容は小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002)に拠りすぎている感じがします。
「国民的歴史学運動」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%9A%84%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E9%81%8B%E5%8B%95
「山村工作隊」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E9%9A%8A
なお、小熊著において、国民的歴史学運動の中心的指導者であった石母田正に関する記述に問題があることは以前少し書きました。
『〈民主〉と〈愛国〉』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7f480af2378383efecffa996008979a3
「ピンクの田中角栄」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5e375cdace50dc0715694478e414fdbf
それと、つまらないことですが、「かつて党員として網野先生と同僚であり、脱党後読売新聞社に入社した渡邊恒雄氏」とある点、共産党の場合は「同僚」という表現は少し間が抜けている感じがしますね。
やはりここは「同志」でないと気分が出ません。
渡邊恒雄(1926生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%89%E6%81%92%E9%9B%84
ちょっと脱線しましたが、「時局下の網野先生」に戻ります。
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冒頭に掲げた先生の両論文を一見すると、封建制度が当時の切実な克服の対象として強調されており、先生がまさに革命運動の渦中におられた様子が言外に伝わってくる。「運動に距離をおきはじめた」時期の論文とは到底思われない。とすれば、網野先生は山村工作隊運動が終息する五三年頃までは革命隊伍の人であったのではなかろうか。確かに先生は自ら、五三年が「転機」「回心」となったことは幾度か述懐しておられるが、活動(運動)の幅は戦後八年と広く、回心の契機も私には今一つ判らなかった。しかし、時系列を追って回顧してみると、活動のピークはやはり五三年の山村工作隊への"督戦"であったかと推測される。先生自身も、中国へ逃げた徳田球一、伊藤律などの言動に疑問を抱かれ、諸般の事情もあって次第に運動から身を引かれていったのであろうか。
ともかく、五一-五三年といえば、私自身が小学校三-五年生の時代で、少年期とはいえ同時代で、時代の雰囲気は感じられた頃である。従って山村工作隊の問題には関心を持ち続けてはいるものの、学界では強固なタブーの殻にとじ込められており、公然とこの問題が議論される雰囲気ではなかった。網野先生を永年苦しめた悔悟の念も、今となっては痛い程よくわかる。知らぬ顔をして頬かむりしている歴史家が多い中で、ともかくもそのことを強調され続けた先生に、私は今更の如く畏敬の念を深くするのである。(いまたに あきら・国際日本文化研究センター教授)
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国民的歴史学運動はともかく、山村工作隊は共産党関係者にとってはあまり思い出したくない恥かしい過去なので、共産党関係者の影響がかなり強い歴史学界においては、確かに「強固なタブーの殻にとじ込められており、公然とこの問題が議論される雰囲気ではなかった」のでしょうね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年12月18日(火)10時59分41秒
今谷明「時局下の網野先生」(『網野善彦著作集』第六巻「月報」、2007)の続きです。(p5以下)
-------
ところで、佐野ルポにいう、先生が卒業と共に党務、運動を離れたとするのは、明らかに佐野氏の誤解であろう。先生自身が、常民研の仕事をサボり、「人々を(中略)運動に駆り立てる役割をするようになった」と明言されているからである。また、私は名古屋大学時代の先生とよく飲み歩いたが、当時先生から「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を担っていたと承ったことがある。徳田球一の右腕といわれた伊藤律が北京に亡命するのは五一年秋のことで、先生のいう「伊藤律の指令」が民学同時代のことなのか、五六年以降の武装共産党時代のことなのか不明であるが、先生の激しい自己否定の言と悔恨に満ちた言葉からして、私は恐らく伊藤律の離日直前の頃ではあるまいかと推測するのである。
-------
私も網野が今谷に「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」云々と言ったこと自体を疑う訳ではありませんが、「よく飲み歩いた」際の発言であることは留意すべきですね。
また、網野は自身が共産党内のヒエラルヒーの中で伊藤律のすぐ近くにいて、伊藤律から直接に「指令」を受ける立場だったとは言っていない点にも留意すべきだと思います。
なお、内田氏の言うように「五六年以降の武装共産党時代」は明らかに「五一年以降」の誤記ですね。
当時の状況を簡単に整理すると、1950年6月6日、連合国軍総司令部(GHQ)は日本共産党中央委員24名全員の公職追放を指令し、同年7月15日、団体等規制令による出頭命令に応じないとして、最高検察庁は徳田球一・野坂参三・伊藤律ら9名に逮捕状を出します。
8月上旬、徳田指導下の最後の政治局会議で国内指導は志田重男・伊藤律・椎野悦朗の三者合意を中心とする指導体制を取ることを決定し、徳田は同年10月に北京に渡り、ついで野坂参三・西沢隆二らも北京に移って「北京機関」をつくります。
そして、国内でも北京でも深刻な路線対立が続いた後、1951年10月15・16日の第五回全国協議会で新綱領と軍事方針が採択されることになり、正確にはこれ以降が「武装共産党時代」ですね。
伊藤律は第五回全国協議会に出席した後、10月中に日本を密かに出て(『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』、文藝春秋、1993、p19、なおp66注20)、北京に到着したのは11月17日です。(渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律・スパイ説の崩壊』、五月書房、1993、p419)
今谷は「伊藤律の指令」が「恐らく伊藤律の離日直前の頃ではあるまいかと推測」していますが、「伊藤律の指令」の具体的内容すら不明なのに、このように「推測」してよいかについては若干の疑問があります。
徳田球一(1894-1953)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80
「北京機関」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%A9%9F%E9%96%A2
「51年綱領」
https://ja.wikipedia.org/wiki/51%E5%B9%B4%E7%B6%B1%E9%A0%98
-------
その後、私は先生がどうやら戦後運動史上の重要人物であったと気付き、しきりに先生に回顧録の執筆を勧め、また先生の著書の書評等でも提言した。しかし先生は「迷惑を蒙る人が多いので」として承知されず、それでは「A氏、B氏」など匿名ででも残されてはどうかと申し上げたが、ついに執筆されなかった。このことも、先生の時局が、五一-五三年頃と私が推測する根拠の一つである。
-------
51年10月に伊藤律は出国するので、それ以降は網野が「伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を務めるのは無理ですね。
もっとも、今谷は「時局」という表現を曖昧に使っていて、網野が「伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を務めた期間に限定している訳ではありませんが。
今谷明「時局下の網野先生」(『網野善彦著作集』第六巻「月報」、2007)の続きです。(p5以下)
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ところで、佐野ルポにいう、先生が卒業と共に党務、運動を離れたとするのは、明らかに佐野氏の誤解であろう。先生自身が、常民研の仕事をサボり、「人々を(中略)運動に駆り立てる役割をするようになった」と明言されているからである。また、私は名古屋大学時代の先生とよく飲み歩いたが、当時先生から「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を担っていたと承ったことがある。徳田球一の右腕といわれた伊藤律が北京に亡命するのは五一年秋のことで、先生のいう「伊藤律の指令」が民学同時代のことなのか、五六年以降の武装共産党時代のことなのか不明であるが、先生の激しい自己否定の言と悔恨に満ちた言葉からして、私は恐らく伊藤律の離日直前の頃ではあるまいかと推測するのである。
-------
私も網野が今谷に「自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役」云々と言ったこと自体を疑う訳ではありませんが、「よく飲み歩いた」際の発言であることは留意すべきですね。
また、網野は自身が共産党内のヒエラルヒーの中で伊藤律のすぐ近くにいて、伊藤律から直接に「指令」を受ける立場だったとは言っていない点にも留意すべきだと思います。
なお、内田氏の言うように「五六年以降の武装共産党時代」は明らかに「五一年以降」の誤記ですね。
当時の状況を簡単に整理すると、1950年6月6日、連合国軍総司令部(GHQ)は日本共産党中央委員24名全員の公職追放を指令し、同年7月15日、団体等規制令による出頭命令に応じないとして、最高検察庁は徳田球一・野坂参三・伊藤律ら9名に逮捕状を出します。
8月上旬、徳田指導下の最後の政治局会議で国内指導は志田重男・伊藤律・椎野悦朗の三者合意を中心とする指導体制を取ることを決定し、徳田は同年10月に北京に渡り、ついで野坂参三・西沢隆二らも北京に移って「北京機関」をつくります。
そして、国内でも北京でも深刻な路線対立が続いた後、1951年10月15・16日の第五回全国協議会で新綱領と軍事方針が採択されることになり、正確にはこれ以降が「武装共産党時代」ですね。
伊藤律は第五回全国協議会に出席した後、10月中に日本を密かに出て(『伊藤律回想録─北京幽閉二七年』、文藝春秋、1993、p19、なおp66注20)、北京に到着したのは11月17日です。(渡部富哉『偽りの烙印─伊藤律・スパイ説の崩壊』、五月書房、1993、p419)
今谷は「伊藤律の指令」が「恐らく伊藤律の離日直前の頃ではあるまいかと推測」していますが、「伊藤律の指令」の具体的内容すら不明なのに、このように「推測」してよいかについては若干の疑問があります。
徳田球一(1894-1953)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E7%90%83%E4%B8%80
「北京機関」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%A9%9F%E9%96%A2
「51年綱領」
https://ja.wikipedia.org/wiki/51%E5%B9%B4%E7%B6%B1%E9%A0%98
-------
その後、私は先生がどうやら戦後運動史上の重要人物であったと気付き、しきりに先生に回顧録の執筆を勧め、また先生の著書の書評等でも提言した。しかし先生は「迷惑を蒙る人が多いので」として承知されず、それでは「A氏、B氏」など匿名ででも残されてはどうかと申し上げたが、ついに執筆されなかった。このことも、先生の時局が、五一-五三年頃と私が推測する根拠の一つである。
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51年10月に伊藤律は出国するので、それ以降は網野が「伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を務めるのは無理ですね。
もっとも、今谷は「時局」という表現を曖昧に使っていて、網野が「伊藤律の指令を下部へ伝達する役」を務めた期間に限定している訳ではありませんが。