学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(その2)

2017-10-30 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月30日(月)10時06分40秒

「シンビルスク郊外にあるチェレンガという田舎町」のモロゾフ家の出自については次のような説明があります。(p19以下)

------
 ワレンティン一家は姓をモロゾフといった。先祖は農民の出であったが、フョードルの祖父の代に商人に転じた。フョードルの父の代はまだ蝋燭を造って教会に納めていた程度だが、フョードルの時代になると故郷のチェレンガで雑貨商をいとなむいっぽう、広く交易に手を染めた。
 いちばん大きな仕事は犂などの農耕具をドイツから輸入することだった。次いで繊維製品。こちらは大部分がモスクワ製だが、高級品は英国から輸入する。金持の地主向けにフランスから<クリコ>印シャンパンを取り寄せたりした。
 日露戦争が終わり一九一〇年代に入ると、ロシア経済はめざましい成長をとげ、穀物などは年毎に輸出高を伸ばしていた。野心家で次々と新しい仕事に手を伸ばしたフョードルは、この波に乗った。そして一九一四年、第一次世界大戦が始まると政府の委託を受け、軍馬の徴用や軍服製造などの兵站活動も始めるようになった。町で初めて自転車というものを輸入して乗りまわしたのもフョードルなら、学校のなかった近郊農村のために資金を捻出して学校創設にこぎつけたのもワレンティンの父フョードルであった。いまではチェレンガの町で、フョードルは神父、獣医、農業技師などとならんで押しも押されぬ名士となっていた。
 しかしこの名士一家も、いまは人の目をのがれるように町を離れ、東へ、シベリアへ向かっている。この年三月、ペテルブルグで勃発し、じりじりと不吉な烽火を広げている革命のためである。
-------

「先祖は農民の出」とありますからユダヤ系ではないですね。
帝政ロシアではユダヤ人に農地経営を認めていませんから。
ま、要するに洋菓子のモロゾフ家の先祖は「田舎町」の小金持ちの商人であって、モスクワのモロゾフ財閥とは全く関係ない訳ですね。
チョコレートとの縁については、少し前にシルビンスクに住む「ナターシャ叔母さん」に関する記述があります。(p14以下)

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 ナターシャ叔母さんは父の妹にあたる人だった。家はシルビンスクの大通りに面していて、ピカピカに磨かれた硝子窓がはまっていた。町でいちばん早く電気を引いたのは叔母さんの家で、その夜は見物人が山のように押し寄せたそうだ。叔母さんは小さなチョコレート工場をもっていて、町一番の高級チョコレートを売っている。ワレンティンの家もチェレンガ一の雑貨商だが、とても叔母さんのところの比ではない。
-------

ただ、ワレンティン一家が洋菓子店をやろうと決めたのは、ハルビン、アメリカ・シアトルでの流浪の生活の後、やっと落ち着いた神戸で様々な商売の可能性を探り、洋菓子店がそれなりに有望そうだったからであって、「ナターシャ叔母さん」がチョコレート工場を持っていたこととの直接の関係はないですね。
ワレンティン一家とモロゾフ株式会社の関係については九年前にあれこれ書きましたが、少し検索してみたら現在はウィキペディアにもずいぶん詳しい記述がありますね。
ま、出典を見ると川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン』に全面的に依拠しているようですが。
ロシア語版も出来ていたので、リンクはそちらに張っておきます。

ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ(1911-99)

川又一英氏についても九年前はウィキペディアの記事はなかったはずで、私はご著書の奥付やカバーの著者略歴から僅かな知識を得ていただけだったのですが、2004年に亡くなられていたのですね。

川又一英(1944-2004)

>筆綾丸さん
>レーニンの血筋の複雑さ
ユダヤの血筋が入っている点については、レーニン没後、相当経ってからも政治的意味を持ち、公表すべきか否か問題になりましたね。
サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち(上・下)』(染谷徹訳、白水社、2010)を読み始めたので、次の投稿が少し遅くなるかもしれません。



※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ウリヤノフ家 2017/10/28(土) 15:43:30
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3
--------------
父方の祖父は解放農奴出身の仕立屋で民族的にはチュバシ系で、曽祖父はモンゴル系カルムイク人(オイラト)であった(曾祖母はロシア人であったという)。この様に幾つもの民族や文化が混じるウリヤノフ家は帝政ロシアの慣習から見て「モルドヴィン人、カルムイク人、ユダヤ人、バルト・ドイツ人、スウェーデン人による混血」と定義された。
--------------
レーニンの血筋の複雑さには目が眩みますね。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784004316749
抵抗のある岩波新書ですが、高橋敏氏の『一茶の相続争い―北国街道柏原宿訴訟始末』は面白く読めました。一茶の場合、幕府の公的機関による公事(民事訴訟)ではないから、正確には「訴訟(始末)」とは言えないのでしょうが。

句碑の撰文末尾の五絶、
感神松下詠 知命暮鐘声
一自茶煙絶 科山月独明
を、
神を感ぜしむ松下の詠 命を知る暮の鐘声
一自茶煙絶え 科山の月独り明らかなり
と訓じていますが、これでは「一自茶煙絶」の意味が通じない(164~165頁)。「一自」はおそらく天保期の筆写の間違いで、「一度」であれば、「ひとたび茶煙絶え(一茶を火葬に附した煙が消えて)」となり、意味がわかります(あるいは「一目」か)。

http://www.sankei.com/life/news/171027/lif1710270034-n1.html
尊氏の肖像は、これでほぼ決まりでしょうね。
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『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(その1)

2017-10-27 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月27日(金)09時30分2秒

『自壊する帝国』を読み終えてから、久しぶりに川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)を手に取ってみました。
「プロローグ」から少し引用してみます。

-------
 物語の主人公はワレンティンという名である。フル・ネームはワレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフと少々長い。名のとおりロシア人であるが、滞日すでに六十年になるから準日本人と呼んでもさしつかえあるまい。
 ワレンティンは英語読みではヴァレンタイン、今日の日本語表記ではバレンタインとすることが多い。そこで同人もみずからをバレンタイン・F・モロゾフと名乗っている。
 ひょっとして<バレンタイン・デー>に関係があるのではないか。勘のするどい読者は、ワレンティン(バレンタイン)の聖名〔クリスチャン・ネーム〕をもつ主人公に、そう思われるかもしれない。語り手〔わたし〕はここで結論を出すのは控えておく。
 ひとつだけ申し添えておくと、ワレンティンは日本におけるチョコレート菓子の創始者〔パイオニア〕として知られており、その手になる<コスモポリタンのチョコレート・キャンディ>といえば、今日高級洋菓子の代名詞ともなっている。それゆえ、チョコレートが飛び交う二月十四日〔バレンタイン・デー〕の珍現象もまんざら迷惑ではないことは容易に想像がつこう。
 さて、ワレンティンは大正十五年、父とともに洋菓子店を開業して以来、神戸に住んでいる。経営するコスモポリタン製菓の工場も本店も神戸にある。しかし毎年、バレンタイン・デーだけは上京して銀座支店の店頭に立つ。これはある新聞に<クラーク・ゲーブルとグレゴリー・ペックを足して二で割ったような>と書かれたワレンティンの恒例行事となっている。昭和四十九年のバレンタイン・デーすなわち二月十四日もそうであった。
-------

ということで、同日、投宿先の帝国ホテルでソルジェニーツィンがソ連政府によって西ドイツのフランクフルトに追放されたという新聞記事を見たワレンティンが、宛先も知らないままソルジェニーティンに無事の出国を祝福する電報を打とうとするエピソードが紹介されます。
次いで、

-------
 ワレンティンには国籍がない。いまは亡き父も母も同様である。一家は帝政ロシアに国籍を残したまま、二度と故国に戻らない亡命者〔エミグラント〕であった。亡命者にとって喪った故国の重みがどんなものか、島国で国家の保護下に生きてきた語り手〔わたし〕には想像の域を超える。
 われらの主人公がなぜ見ず知らずの作家ソルジェニーツィンに電報を打たずにはいられなかったか。語り手〔わたし〕はチョコレートとシャンパンの話をして以来、温厚な紳士に問いただしたことはない。
-------

との説明の後、ワレンティンの出生地について、

-------
〔カスピ海から〕この中部ロシアの大動脈ヴォルガ河を遡ること緯度にして十度弱、樺太の最北端に当たる地点にウリヤーノフスクという町がある。町出身の革命家レーニンの姓をとって現在はこう名づけられているが、革命前まではシンビルスクと呼ばれていたヴォルガ河畔有数の町である。
 物語の主人公ワレンティンが生まれたのは、このシンビルスク郊外にあるチェレンガという田舎町である。奇しくも愛の守護聖人ヴァレンティヌスと同じ聖名をなづけられたロシア少年がいかにしてチョコレート造りを始めるようになるか。またなぜ、地球を四分の一も東漸し、日本で暮らすようになるか。
 話はロシア革命が勃発した一九一七年、シンビルスクの町に遡る─。
-------

とあって、「プロローグ」が終わります。

ウリヤノフスク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%8E%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF
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『自壊する帝国』

2017-10-25 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月25日(水)22時41分4秒

>筆綾丸さん
私は『自壊する帝国』(新潮社、2006)は未読だったのですが、今日、半分ほど読んでみました。


モロゾフの話は佐藤氏が「モスクワ大学哲学部学生。沿バルト三国ラトビア共和国出身で金髪の美青年」であるサーシャに誘われて、リガ中心部から「車でニ十分程走った市の郊外」にある分離派の「白壁で囲まれた大きな修道院」を訪問した際の会話に出てきますね。(p166以下)

------
「サーシャ、スターリン時代にこの修道院はどうして閉じられなかったんだい」
「スターリンが教会を激しく弾圧したのは、一九二〇年代終わりから三〇年代初めまでだ。この時期にバルトはソ連に併合されていなかった。その後は教会には手をつけていない。スターリン自身が中退だけれども神学教育を受けているので、宗教の強さをよくわかっている。だから、弾圧すれば徹底的に抵抗する面倒な分離派には手をつけなかったんだ」
「フルシチョフ時代に相当数の教会が閉鎖されたけれど、あの嵐をどうやって乗り切ったんだい」
「モスクワのイデオロギー官僚は、リガに分離派の修道院があることを知らなかったのだと思う。知っていたら弾圧されていた。ラトビア共産党の官僚はこの修道院について、モスクワに告げ口をしなかったんだと思うよ」
「温情からかい」
「それも少しはあると思うが、分離派と構えると面倒なので、引いてしまったのだと思う」
「そうだろうな。ここの人たちは信念が強そうだからな。ところで分離派出身のインテリはいないのか」
「もちろんいるとは思うが、分離派はそもそも知性自体に悪魔性が潜んでいると考えるから、インテリとして社会的に認知されるとどうしても分離派の宗教共同体とは距離が出来る」
「この修道院の人々はどうやって食べているのだ」
「集団農場(コルホーズ)をもっているので、食糧はそこで自給し、それ以外の人々は工場で勤務している。帝政ロシア時代にも分離派出身の技師や労働者は結構いた。それから商人に多い。帝政ロシアのモロゾフ財閥も分離派だ」
「モロゾフ一族の一人が日本に亡命し、お菓子屋を作った。モロゾフという会社で、今もロシア風のチョコレート菓子(コンフェエート)を作っている」
「マサル、それは話の種になる。いちど土産にもってこい」
「わかった」
 私はモロゾフのチョコレート菓子を土産にし、日本の食文化にロシアが入っている例としてロシア人に説明すると、とても好評だった。北方領土を訪れるときもモロゾフのチョコレート菓子を必ず土産にもっていった。外交の世界で食に絡む話はよい小道具になる。
-------

時期は明確に特定されていませんが、1988年冬か翌89年春頃の話のようで、この当時から佐藤氏はモロゾフ財閥一族の亡命者が洋菓子のモロゾフを創業したと思い込み、社交の小ネタに使用していた訳ですね。
佐藤氏はこの修道院の名前を明示していませんが、

-------
 余談だが、後にこの修道院を訪問したことが、私の情報収集活動に思わぬ影響を与えることになる。前に述べたソ連維持運動の中心人物だった「黒い大佐」アルクスニスは、この修道院の関係者だったのである。
 政治犯として祖父が銃殺された後、中央アジアのカザフスタンに流刑になったアルクスニスの父親は、一九五六年、ソ連共産党第二十回大会のスターリン批判の結果、名誉回復がなされ、リガに戻った。このときこの修道院に住んでいた女性と知り合い、彼女がアルクスニスを産んだ。アルクスニスはこの修道院で洗礼を受けているのである。
-------

とのことで(p168)、特定は簡単にできそうです。

ヴィクトル・アルクスニス

佐藤氏は特に説明を加えていませんが、「黒い大佐」ヴィクトル・アルクスニスの祖父、ヤーコフ・アルクスニスは著名な将軍で、ソ連空軍の育成に大変な功績があったにも拘らず、大粛清に巻き込まれてしまった人ですね。
トハチェフスキー元帥の秘密裁判に審判団の一員として加わった後、自身もラトビアのファシスト組織を創設した疑いで逮捕され、銃殺されてしまったとか。

-------
In June 1937 Alknis sat on the board of the show trial against members of Trotskyist Anti-Soviet Military Organization; he himself was arrested on 23 November 1937, expelled from the Communist Party,charged with setting up a "Latvian fascist organization" and shot 28 July 1938.


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ぐだぐだ感 2017/10/23(月) 13:22:43
小太郎さん
今も進歩はありませんが、10年前の私もトンチンカンなことを言っていたのですね。やれやれ。

今日の日経朝刊(社会面)の「私はこう見る」に、ベストセラー作家の呉座勇一氏の寸評が掲載されています。
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 室町時代の応仁の乱は、「幕府内野党」の西軍が「与党」の東軍に挑んだ戦いだった。しかし双方の大将に政策的な対立軸はなく、勝ち馬に乗ろうと諸将が離合集散した理念なき乱だった。そのぐだぐだ感は、500年以上たった今回の総選挙にも通じる。(後略)
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歴史家という人種は、なぜ、自分の専門分野にかこつけて、つまらぬ我田引水の言を弄するのか。新聞社が望んでいることを「忖度」して冗談を言ったまでさ、というのが本音かもしれないが、きっぱり断ればいいのに。優秀な研究者ですが、こんなことを言い始めると、バカだと思われますね。過去は過去、現在は現在です。
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>佐藤優さん、「洋菓子のモロゾフは、もともと分離派のモロゾフ財閥」ではありませぬ。

2017-10-23 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月23日(月)10時23分26秒

まだ本調子ではないので、気晴らしに五木寛之・佐藤優氏の対談集『異端の人間学』(幻冬舎新書、2015)を眺めていたら、次のような記述がありました。(p86以下)

------
佐藤 【中略】五木さんが言うように、確かに分離派の動きを見ると、いままで見えなかったロシア帝国史の姿が浮かび上がってくると思います。たとえば、ロシアには分離派の資本家が大勢います。日本で知られているところでは洋菓子のモロゾフは、もともと分離派のモロゾフ財閥で、ここがレーニンたちに資金を供給していました。分離派は、官吏や地主にはなれなかったので、商業面で頭角をあらわす人が多かったんですね。

五木 そうなんだよね。帝政ロシアに資本主義は育っていないというけど、初期の資本主義は、この古儀式派から生まれています。モロゾフ一族のほか、リャブシンスキー一族など、繊維工業から出発して、やがて石油、自動車産業にまで発展した資本家がいた。初期の工場労働者は、多く分離派から出ています。彼らは古くから共同生活をし、労働で生きる人たちでしたから。このネットワークがソヴェート(会議)と呼ばれた。
------

「洋菓子のモロゾフは、もともと分離派のモロゾフ財閥」というのは佐藤氏の積年の思い込みですね。
川又一英氏の『大正十五年の聖バレンタイン─日本でチョコレートをつくったV・F・モロゾフ物語』(PHP研究所、1984)によれば、神戸に来たモロゾフ一家はヴォルガ河畔のシンビルスク郊外にあるチェレンガという町の出身で、モロゾフ財閥とは関係ありません。
この点は9年前、筆綾丸さんが佐藤氏の『自壊する帝国』(新潮社、2006)を引用されたのをきっかけに洋菓子のモロゾフと野坂参三の関係などを調べていたときに気づいたのですが、逆にモロゾフ財閥や古儀式派(分離派)については基礎的な知識も乏しいままです。

ドストエフスキー(筆綾丸さん)
モロゾフ財閥

正直、9年前は佐藤優氏が訳の分からんことを言っているなあ、程度の認識だったのですが、『ロシアの歴史を知るための50章』(明石書店、2016)を見ると、下斗米伸夫氏は古儀式派の重要性を力説されていますね。
ちょっと検索してみたら、東京新聞の2017年9月23日記事で、下斗米氏は、

------
 「ソビエト」とは日本語で「会議」と訳されますが、本来は古儀式派の会合の場を指します。当局に弾圧されて教会を持てない古儀式派が、長老を選んで宗教行事を行ったりする場です。
 古儀式派の拠点はモスクワやその近郊のイワノボ・ボズネセンスク(現イワノボ)などが有名です。繊維産業が栄え「ロシアのマンチェスター」の異名をとったイワノボは、革命期にできたソビエト発祥の地。労使交渉の場から生まれました。
 日露戦争では古儀式派のコサックも大量動員されたが、信仰が違うという理由でお弔いの儀式をしてもらえなかった。これに古儀式派が激怒。反帝政に動き一九〇五年の民主化革命を主導します。一七年の二月革命で実権を握ったのも古儀式派の資本家です。
 レーニンは古儀式派をうまく利用しました。第一次世界大戦で動員された七百万の農民兵たちに分かりやすく説いた。「働かざる者食うべからず」とか「一人は全員のため、全員は一人のためという精神が社会主義だ」と。こうしたスローガンは古儀式派の持つ社会倫理観です。レーニンはそれをパクって農民を味方につけたわけです。「全権力をソビエトへ」と。


などと熱く語っています。
下斗米氏の説明には分かりにくいところもけっこうあるのですが、従来のソ連史研究には欠けていた視点であることには間違いないので、少し調べてみようかなと思っています。

「カテゴリー:佐藤優『国家の罠』&モロゾフ・野坂参三」
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今週はダメダメだった。

2017-10-21 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月21日(土)23時29分20秒

暫く風邪気味だったのですが、熱はそれほどなくて本を読もうと思えば読めたはずなのに、ついついサボってしまいました。
ロシア・ソ連史は全くの門外漢なので、当面の手がかりにと思って読み始めた栗生沢猛夫氏の『図説 ロシアの歴史 増補新訂版』(河出書房新社、2014)がやっと八割程度、下斗米伸夫編著『ロシアの歴史を知るための50章』(明石書店、2016)が二割ほど、アーチー・ブラウン著・下斗米伸夫監訳『共産主義の興亡』(中央公論新社、2012)に至っては約800ページのうちの30ページ程度を眺めただけです。
ただ、この掲示板でナチズムとスターリニズムを、素人なりにある程度納得できるような形でやろうと思ったら前者・後者でそれぞれ半年、ティモシー・スナイダーを参考にして両者の関係を調べて更に半年くらいかかりそうなので、どこまでやるかはけっこう悩みますね。

書評『共産主義の興亡』、東京大学教授・塩川伸明氏
同、ノンフィクション作家・保阪正康氏

>筆綾丸さん
1932年生まれというと、峰岸純夫氏は85歳ですか。
私も何度かお見かけしたことがありますが、峰岸氏は気さくな人柄で、研究者だけでなく一般のファンも多いようですね。
ま、私はもともと戦国時代に全然興味がないので、『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』も特に読みたいとは思いませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

天才と苦役 2017/10/16(月) 20:34:27
小太郎さん
http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/17_bloom.html
https://de.wikipedia.org/wiki/Die_Blumen_von_gestern
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC
脈絡がなくて恐縮ですが、『ブルーム・オブ・イエスタディ(Die Blumen von gestern)』のホロコーストを巡るブラックユーモアは凄まじいもので、この映画をみたドイツ人やユダヤ人がどんな感情を抱いたのか、想像もつきません。
主人公の男性(ラトビア・リガの強制収容所の責任者親衛隊ブルーメン大佐の孫)と女性(収容所で殺されたユダヤ人女性ローゼンクランツの孫)の性愛は、なんとも際どいものでした。女性が言う、加害者と被害者が融合して無意識の超自我に達するのだ、というフロイト的言説は、Blumen(花々)=ゲルマン民族とRosenkranz(薔薇のロザリオ)=ユダヤ人が孫の世代で交配して超越的な何かを残す、という暗喩のように思われました。
ラストシーンには不満が残りましたが、レベルの高い秀作ですね。

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000885322017.html
-------------------
 学校が生徒に宿題を課すのはおかしいのではないか、というのが藤井の自説である。宿題となれば、答えを引き写して提出する子もいる。そういう不合理が生じるよりも、授業を真面目に聞いている方がいいし、それで十分ではないか、という趣旨の理屈だ。
 「宿題が終わらないと、居残りしてくる時もあるんですけど、その居残りについてまた文句があるらしくて。これは憲法に違反しているんじゃないか、とか(笑)」(裕子)
 藤井も、母にそんなことを言ってもしょうがないのはわかっている。実際に、学校の先生に向かって直談判したこともあった。(同書214頁)
-------------------
憲法第18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」が該当するのでしょうが、天才はさらりとオシャレなことを言ってのけるものですね。

追記
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062586641
少し立ち読みしてみました。あとがきに、40万部を超えるベストセラーである呉座勇一氏『応仁の乱』における東国への無関心(?)にいささかの不満を覚えた、というようなことが書いてあり、なんとも元気な爺さん(1932生)ではありますね。飽きもせず同工異曲のことを続けられる、その地獄のような不気味な情熱はどこから来るのか。九十歳に垂んとすれば、享徳の乱なんて、もう、どうでもいいじゃねえか、と思うのですがね。
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「飢饉はウクライナ民族主義の撲滅をねらったものだという説」の可否

2017-10-16 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月16日(月)10時44分49秒

法政大学教授・下斗米伸夫氏は、『図説 ソ連の歴史』(河出書房新社、2011)において、スターリン夫人の亡骸の写真に付されたキャプションで、

-------
アリリュエバの自殺
 スターリン夫人アリリュエバは革命15周年記念日後の1932年11月9日に夫の女性関係などがあって自殺したが、背景にリューチンなどスターリン反対派との関係など政治的なものがあったといわれる。
-------

と書かれていますね。
夫の女性関係云々はフルシチョフの証言などを元にしているのでしょうが、リューチン云々については何が根拠なのか。
ま、死因はともかくとして、彼女が死んだ時期は本当に微妙ですね。
『図説 ソ連の歴史』の記述を少し引用してみると、

-------
深まる飢饉

 食糧危機は労働者のあいだにも広がり、一九三二年四月にはイワノボの繊維工がストを起こし、配給の破綻と飢餓に対抗してデモを敢行した。党員も労働者と連帯、労働組合活動家も参加した。首都モスクワの繊維工による同情ストを当局は警戒した。スターリンはこのこともあって三二年春に政策を緩和、コルホーズ市場も五月に解禁した。だが緩和策は幻想だった。穀物は当時最大の外貨獲得手段であって、スターリンは輸出強化を指示し、国家や公共の所有物は神聖不可侵であるという、悪名高い社会主義財産保護法を八月自ら執筆した。飢餓のなかコルホーズや輸送途中の穀物を奪取する者から公園の花を折った者までが極刑になった。
 一九三二年秋には飢饉がいっそう深刻化し、ウウクライナ【ママ】で党幹部が調達計画を緩めた。危機感を深めた政治局が強硬策をとることに決めた。一一月モロトフ首相が飢餓のウクライナに派遣され、調達を督促した。このため飢饉はウクライナ民族主義の撲滅をねらったものだという説がソ連崩壊後にウクライナ政府側から出された。実際には飢饉はカザフ共和国、ボルガ河沿岸などすべてのソ連農民を痛打した。カガノビッチ書記はロシア南部のクバン地方でコサック村を一六も追放することを決定、こうして調達を渋った農民は極北などに追放された。多くの農民が生死の境におかれ、わずかな付属地で糊口をしのいだ。
 この強硬策は農村党員やスターリン支持派だった地方党書記にすら疑問を抱かせた。飢饉のさなかの穀物輸出は行き過ぎだった。ドン出身の作家ミハイル・ショーロホフが緩和策をスターリンに提言したが、彼も農民ではなく馬が抑圧されたと注意しただけだった。結局第一次五カ年計画は目標からはるかに下回り、一九三〇年代末まで達成されなかった。予定された党大会すら延期された。三三年一月党総会では、中央直轄の非常機関である政治部を機械トラクター・ステーションに設置、これが飢饉の農村での支配のてことなり、また地方党官僚を粛清(チストカ)した。指導者スターリンに対する懐疑が再燃、三二年なかばには書記長解任を主張したリューチン綱領が密かに回し読みされた。だが三二年後半から旧右派が逮捕され、ルイコフ、トムスキーら旧右派、ジノビエフら左派も譴責された。こうしたなか、革命一五周年記念日にはスターリン夫人ナデジダ・アリリュエバが自殺する事件が起きたのは偶然ではなかった。
-------

といった具合です。(p39以下)
私は「飢饉はウクライナ民族主義の撲滅をねらったものだという説」はそれなりに説得力があるように思うのですが、下斗米氏は、「飢饉1930-1934」という資料の写真のキャプションに、

-------
2008年プーチン政権は、1932-34年飢饉の原因をめぐるウクライナ政府との責任論争に関し史料公開を行い、ロシアや中央アジアも被害を受けたという反論を行った。その公開史料集。
-------

と記していて、プーチン政権の説明に納得されているようですね。
他でもいっぱい死んでいるからウクライナだけを狙った訳ではないのだ、というプーチン政権の反論はなかなか豪快ですが、これを機会にウクライナ民族主義を根絶やしにしてやれ、という意図はなかったと言い切れるのですかね。

ホロドモール
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AB
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ジュゼッペ・ボッファ『ソ連邦史』(その2)

2017-10-14 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月14日(土)13時03分48秒

続きです。(p265以下)

-------
こうして命を失った最も著名な将軍たちの名簿だけでも、ここであげるにはあまりに長い。とにかく、最も著名な人々がほぼ全員命を落とした。参謀総長エゴーロフ元帥、海軍司令官オルローフ、空軍司令官アルクスニス、秘密機関司令官ベルヂンら、各軍管区のほとんど全部の指揮官とほとんど全部の政治史指導者が銃殺された。国防人民委員部、陸軍大学、海軍大学、中央および地方の諸機関もまた蹂躙された。政治指導者(「政治委員〔コミサール〕)は、これら軍人たちよりもさらに過酷に迫害された。計算によれば、ソ連邦の五名の元帥中の三名、第一級の司令官四名中の三名、第二級の軍司令官一二名全員、軍団司令官六七名中の六〇名、師団司令官一九九名の一三三名、旅団司令官三九七名中の二二一名、連隊司令官の半数、海軍大将一〇名全員、海軍中将一五名中九名、陸軍政治委員一七名全員、軍団政治委員二八名中の二五名、師団政治委員九七名中の七九名、旅団政治委員三六名中の三四名、そしてその他の将校数千名が命を失った。一つの戦争でさえも、軍隊のなかでこれほど多くの者が命を失ったことはなかった。
-------

「秘密機関司令官ベルヂン」はレオポルド・トレッペル、アイノ・クーシネン、そしてリヒャルト・ゾルゲの上司ですが、ゾルゲも帰国命令に素直に従っていたら間違いなく死刑になったでしょうね。

アイノ・クーシネン『革命の堕天使たち―回想のスターリン時代』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a9d4ba65a710347e3260c84b339e75b6

軍人だけで以上の数字ですが、大テロル全体での犠牲者数について、ボッファは、

-------
 犠牲者の数はどれだけだったのか? 正確な数字は存在しない。ソヴェトの公式筋はそれについて語らない。一般にソヴェト市民のあいだでは、その数は「数百万」であろうと言われている。ユーゴスラヴィアの共産党当局は、その数字を三〇〇万とした。歴史家メドヴェージェフの慎重な計算によれば、「少なくとも」四〇万ないし五〇万人が銃殺され、四〇〇万ないし五〇〇万人が逮捕された。西側の研究者による数字はこれを上まわっている。これがスターリンの絶対権力の代償であった。
-------

と書いています(p272)。
ソ連崩壊後に公表された統計資料では、

-------
According to the declassified Soviet archives, during 1937 and 1938, the NKVD detained 1,548,366 persons, of whom 681,692 were shot - an average of 1,000 executions a day (in comparison, the Tsarists executed 3,932 persons for political crimes from 1825 to 1910 - an average of less than 1 execution per week).


ということで、1937・1938の二年間で約155万人が逮捕され、その内約68万人が銃殺されたことになっていますが、これでは少なすぎると批判する研究者も多いようですね。
仮にこの数字が最低限だとしても、1日平均1,000人銃殺しなければ2年で約68万人にはなりませんから、なんともすさまじい話です。
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ジュゼッペ・ボッファ『ソ連邦史』(その1)

2017-10-14 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月14日(土)11時38分39秒

ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』を読んで以来、東欧・ソ連史をある程度きちんとやっておかないとまずいなと思ってボチボチ読んでいるのですが、基礎知識が乏しいので、なかなか大変です。
ソ連については、ちょっと古いものの、イタリアのジャーナリスト、ジュゼッペ・ボッファが書いた『ソ連邦史』が読みやすいですね。
二巻の原著が出版されたのが1976年と1979年、翻訳は四巻で1979・1980年に大月書店から出ており、遥か昔、私も大学生協書籍部で手に取った覚えがあります。
当時はソ連が崩壊するなどとは誰も思っておらず、もちろんボッファ自身もそんなことは全く予想せずに書いているので、いささか古風な表現に微苦笑を誘われる部分もありますね。
ボッファの名前で検索してみたら、ウィキペディアもイタリア語とロシア語版しかなく、既に過去の歴史家という扱いなのでしょうか。

Giuseppe Boffa(1923-98)
https://it.wikipedia.org/wiki/Giuseppe_Boffa

ソ連邦史の中でもひときわ大きな謎は1937・38年の大テロルですが、特に軍人も大量に粛清している点は本当に不思議です。
「第4篇第5章 党に対する大量テロル」から少し引用してみます。(第2巻、p263以下)

------
軍人の大虐殺
 三七年五月から六月にかけて、軍隊への攻撃が炸裂した。たしかに、軍隊内には、政治警察にたいする古い怨恨も手伝って、抵抗を起こしかねない─しかもこの場合には、黙過できるようなものではけっしてなかった─勢力があった。スターリンとトゥハチェフスキーとの間の摩擦は、ソ連邦で最近出た回想録によって確認される。トゥハチェフスキーは、内戦期に成長した他の軍首脳と同様、当時まさに弾圧の矛先が向けられていた指導者たちの大部分とかたく結びついていた。【中略】
 この時期に、軍は力と威信を獲得しつつあった。したがって、スターリンには軍の反対を恐れる理由があったわけである。しかし、この件についてなされた多くの調査結果では、これまでのところ、軍人の側からの真の組織的抵抗がおこなわれた形跡はなに一つ見られず、いわんや「行動」計画の形跡は全く見られない。【中略】
 六月一一日から一二日にかけて、ソ連邦と全世界は、最も高名な「赤い」司令官たち─トゥハチェフスキー、ウボレーヴィチ、ヤキール、エイデマン、コルク、フェリドマン、プリマコーフ、プートナ─のグループが逮捕され、祖国への裏切りをおこなったとして銃殺されたことを、簡単なコミュニケによって知らされた。最高位の軍事指導者であるもうひとりの人物─軍政治指導部の長であるヤン・ガマールニク─は、自殺して果てた。【中略】全員が内戦の英雄であった。ヤキールとウボレーヴィチは、国の最も重要な二つの軍管区、すなわち、ソ連邦ヨーロッパ側国境の城塞ともいうべきウクライナとベロルシアの軍管区を指揮していた。
 軍隊でも、弾圧はトゥハチェフスキーの逮捕以前に始まっており、共産党員指揮官中の、孤立した、しかしすでにかなり著名な人物を狙い撃ちした。六月以後、弾圧はその幅を大きく広げるにいたり、すべての軍管区、すべての大部隊に、うちつづく大波のように襲いかかった。そして、国の他の地域で見られたように、一九三八年までつづいた。すなわちこの年の秋には、日本軍の攻撃を撃退したばかりであった極東軍の声望高い指揮官ブリュッヘル元帥さえも、逮捕され銃殺された。しかも、このときには裁判もおこなわれず、公示もなかった。
--------

「日本軍の攻撃を撃退したばかりであった」というのは張鼓峰事件のことですね。

ヴァシーリー・ブリュヘル(1889-1938)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%98%E3%83%AB
張鼓峰事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%BC%93%E5%B3%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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『ジューコフ元帥回想録─革命・大戦・平和』

2017-10-10 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月10日(火)15時06分41秒

>筆綾丸さん
>ノモンハン
ウィキペディアのジューコフの記事は言語によってずいぶん内容が異なりますが、英語版は戦後の活動についても相応の分量の説明があって、バランスが取れていますね。


日本語版はノモンハンばかりが目立ちますが、「逸話」の「またジューコフ元帥は日本の下級士官、下士官、兵の戦意、能力を高く評価した一方、高級士官たちの能力に対する疑問を回想録で書いている」という記述の注を見ると、『ジューコフ元帥回想録─革命・大戦・平和』の該当ページが出ているのかと思いきや、朝日新聞編集委員・田岡俊次氏が『軍事研究』という雑誌に寄稿した概括的テーマの記事の一文だけをそのまま丸写ししていて、手抜き仕事感に溢れています。

「部外との知的交流を妨げるな! 自衛官よ、他流試合を恐れるなかれ」(『軍事研究』1999年12月号)

東京外大卒の朝日新聞モスクワ特派員三人組が訳したジューコフ回想録は上下二段組みで六百ページあり、さすがに全部読む気にもなれませんが、「第七章 ハルハ川(ノモンハン)の宣戦なき戦争」をパラパラ眺めたところ、ジューコフの日本軍への評価というのは次の部分みたいですね。(p132以下)

-------
 一九四〇年五月はじめ、私は他の職務に任命されるため国防人民委員部に出頭するようモスクワから命令を受けとった。私がモスクワへ帰還したころ、赤軍の最高指揮官の将官称号にかんする政府決定が公布された。私は三人の同志とともに軍大将の称号が授けられた。
 数日後私はスターリンに直接引見され、キエフ特別軍管区司令官に任命された。スターリンとはこれまで会ったことがなかったので、私は強く興奮して引見にのぞんだ。
 部屋にはスターリンのほか、カリーニン、モロトフその他政治局のメンバーたちがいた。あいさつしたのち、スターリンはパイプたばこを吸いつけながら直ちにたずねた。
「君は日本軍をどのように評価するかね」
「われわれとハルハ川で戦った日本兵はよく訓練されている。とくに接近戦闘ではそうです」と私は答え、さらに「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決ったように捕虜として降りず、『腹切り』をちゅうちょしません。士官たちは、とくに古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです。
 日本軍の技術については、私は遅れていると思います。わが軍のMS1型に似た日本軍の戦車は老朽となり、装備も悪く、行動半径も小さい。また戦闘の初期には日本空軍がわが空軍機を撃墜したことは確かです。日本軍飛行機は、わが軍に『チャイカ』改良型やⅠ16型を配備しない前にはわが方より優勢でした。しかし味方にスムシケビッチを代表とするソ連邦英雄の飛行士団が加わってからは、わが空軍の優勢は目に見えてきました。
 総じてわれわれが日本軍のいわゆる皇軍部隊と呼ばれる精鋭と戦わねばならなかったことは強調せねばなりません」
 スターリンは非常に熱心にきき終ってから、またきいた。
「わが部隊はどんな戦いぶりだったか?」
------

ということで、この後、ジューコフはソ連軍の活躍を具体的に人名・部隊名を挙げて詳述します。
日本軍があまりに弱体だったらソ連軍の活躍も目立たないので、いわば引き立て役として日本側も少し余分に褒めたような感じがしないでもありませんが、ま、ジューコフは政治家ではなく叩き上げの軍人ですから、このあたりは基本的に率直な分析として受け取って良いのでしょうね。

>ただの勘ですが、スターリンが殺したのだろう、という感じがしますね。

『フルシチョフ 封印されていた証言』を含め、三冊のフルシチョフ回想録の位置づけについては種々議論がありますが、アリルーエワの死に関しては、フルシチョフ自身にはわざわざ事実を捏造・改変する動機もないだろうと思います。
ただ、フルシチョフがこの話を聞いた「スターリンの護衛長のウラシク」は、原注によると、

------
ニコライ・ウラシクはスターリンの最初の最も長続きした護衛官。スターリンの部屋のドアの外で居眠りをしながら赤軍につとめるようになり、中将の位まで昇進した。背が低く、小作人あがりで無教育のウラシクは、ほとんど字が読めなかった。彼はスターリンの"敵"を抹殺することと、ゴーリキー街のアパートで裸の女性や「その朝運ぶのにトラックが要ると彼らが言ったほど大量のワイン」(クレムリンのもと護衛官、ピョートル・ジェリアビンによる)でパーティーをやることで悪評が高かった。
------

という人物だそうで(p41)、スターリンの死後であっても、フルシチョフの質問に対して全て誠実に答えるようなタイプとも思えないですね。
そもそもフルシチョフはウラシクから何時、どのような状況で聞いたのかも明確にしていないのですが、前回投稿で引用した部分の後にあまり品の良くない話が続いていることも考慮すると、どうも正式な調査の機会ではなく、酔っぱらった席での下品な話題程度のような感じもしてきます。
いずれにせよ、フルシチョフの話とアリルーエワの娘のスヴェトラーナが乳母から聞いたという話、そしてアイノ・クーシネン『革命の堕天使たち』の三つの選択肢しかないとすれば、その中ではアイノ・クーシネンが一番信用できそうな感じはしますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

神は死んだふりをするー或る日のニーチェアン 2017/10/07(土) 14:59:47
小太郎さん
6月に中国東北部に旅したとき、長春からノモンハンまで列車で行こうかなと思いましたが、あまりに遠くて諦めました。

ご引用の幾つかの文を読むと、ただの勘ですが、スターリンが殺したのだろう、という感じがしますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%8A
リュドミラ・プーチナは、まだ殺されていないとして、何をしているのだろうか。

https://www.msz.co.jp/topics/08624/
日経の書評欄に岡田温司氏の『映画とキリスト』が紹介されていましたが、面白そうですね。
-------------
・・・西洋近代が理性によって悪魔祓いしたと考えていたキリスト教――広くは宗教――をめぐる諸問題が、今ふたたびあらゆる局面で再浮上し、あらためて問い直されようとしている。
・・・。「死んだ」と思っていたはずの神は、実はそんなに簡単には死んでいなかったのである。
-------------
http://eikaiwa.dmm.com/uknow/questions/11090/
要するに、神は死んだふりをしていた、ということになりますか。英語では、play opossum とも言うのですね。

追記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3:_%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88
https://www.youtube.com/watch?v=El_s9SJv9B8
帰国便の機内で見た『エイリアン: コヴェナント』はまさに聖書の世界で、ワーグナーの『ラインの黄金』の使い方などは心憎いばかりでした。
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『フルシチョフ 封印されていた証言』

2017-10-07 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 7日(土)12時16分40秒

スターリンの妻の死因は別にそれほど重要な問題ではありませんが、ついつい興味本位でいろいろ見てしまいますね。
ジェロルド・シェクター、ヴァチェスラフ・ルチコフ編『フルシチョフ 封印されていた証言』(福島正光訳、草思社、1991)には次のような記述がありました。(p38以下)

-------
 私はスターリンの妻、ナジェージダ・セルゲーエヴナ・アリルーエワに、彼女が死ぬ前日に会った。たしか、十月革命記念日のときだったと思う。
 その日はパレードがあり、私はモスクワ市の党活動家のグループとともに、レーニン廟の横に立っていた。アリルーエワもそこにいた。われわれは隣合って立っていたので言葉を交わした。それは冷たい、風の強い日だった。いつものようにスターリンは、軍隊の大外套を着ており、上のボタンは外されていた。彼女がスターリンの方を見て、「あの人はスカーフをして行かなかったわ。風邪を引いて病気になるかもしれない」と言ったのを覚えている。私はその口ぶりから、彼女の機嫌がいいことがわかった。パレードが終わるころ私は家に帰った。
 翌日、カガノヴィチが党の書記たちを会議に招いて、ナジェージダ・セルゲーエヴナが急死したと告げた。私は自問した。「そんなことがあるものだろうか。彼女と話をしたばかりだ。あんなにきれいな女性だったのに」。しかし、ひとはしばしばそういうふうに死ぬ。
 一日か二日して、またカガノヴィチが同じグループを集めて言った。「私はスターリンの代わりに話している。彼は私に、君らを集めて、何が起こったか話してくれと言った。あれは自然死ではない。自殺なのだ」。むろんカガノヴィチはグループの前では詳しいことを説明しなかったし、われわれも彼に聞きただしはしなかった。
 われわれは彼女を埋葬した。スターリンは墓のかたわらで苦しんでいるように見えた。彼が内心どう感じていたかはわからないが、外目には悲しんでいるように見えた。
-------

フルシチョフはスターリン側近のカガノ-ヴィチに引きたてられて出世した人ですね。

ニキータ・フルシチョフ(1894-1971)

関係者の生年だけざっと見ておくと、スターリンが1878年、カガノーヴィチが1893年、フルシチョフが1894年、アリルーエワが1901年なので、1932年のアリルーエワの死去当時、スターリンは54歳、カガノーヴィチ39歳、フルシチョフ38歳、アリルーエワ31歳ですね。
フルシチョフはアリルーエワの死の前日に会っていたとのことなので、詳しい事情の説明があるのかなと思ったら、話はいきなりスターリンの死後に飛んでしまいます。

-------
 彼女の死の原因がわかったのは、スターリンの死後のことである。これが文書になっていないことは言うまでもない。われわれはただ、スターリンの護衛長のウラシクに、何がナジェージダ・セルゲーエヴナの死因だったかを尋ねただけだ。彼は、パレードのあとで、みんなはヴォロシーロフの大きなアパートに晩餐に行ったと言った。パレードのあとでは、いつもヴォロシーロフのところへ食べに行く習慣があったのだ。
 それは、パレードに出た軍の高官や政治局員など、限られたメンバーのグループだった。彼らは赤の広場から真っ直ぐそこへ赴いた。当時は、パレードやデモが長々と続いたのだ。むろん、こういう場合の習慣に従って、みなは晩餐で飲んだくれた。スターリンはぽつねんとしていた。ようやくみなが去り、スターリンも去った。だが、彼は家に帰らなかった。
 時間は遅く、誰もいま何時かわからなかった。ナジェージダ・セルゲーエヴナは、「スターリンはどこにいるの」と心配していた。彼女は、ズバーロヴォ〔モスクワ郊外〕のダーチャに電話をかけてスターリンを探しはじめた。それはいまカガノヴィチのダーチャがあるところでも、ミコヤンが最近住んでいたところでもなく、そこから半キロメートルほど行った、小さな谷を越えたところにある。彼女はそこに電話をかけて、当直の将校に、「スターリンはいますか」と聞いた。
「はい、同志スターリンはここにおられます」と将校は答えた。
「一緒にいるのは誰ですか」。
 将校は、ある女性の名前を言った。
 朝、正確には何時かわからないが、スターリンが家に帰ったとき、ナジェージダ・セルゲーエヴナはもう生きていなかった。
 彼女は遺書を残さなかった。残していたとしても、われわれには明らかにされなかった。
 このもう一人の女性は、同じく晩餐に出席していたグーセフの妻だった。晩餐の席を去るとき、スターリンはグーセフの妻を連れていったのだ。グーセフは軍の出身者だったが、私は彼のことは知らないし、彼の妻に会った記憶もない。ミコヤンは私に、彼女が非常な美人だと教えてくれた。
 というわけで、スターリンが彼女とダーチャで寝ていたとき、アリルーエワは当直将校からそのことを知ったのだ。ウラシクは、「あの当直将校は未熟な愚か者でした。彼女に聞かれて、洗いざらいしゃべってしまったのです」と言った。
------

p41の注3によると警護長のニコライ・ウラシクは「小作人あがりで無教育」のあまり評判の良くない人物だそうで、スターリンの護衛を長く勤めることができたという一事だけでも信頼性に疑問が生じてきます。
また、注4によると「当時の軍隊には、重要人物のグーセフが少なくとも三人いた」そうで、特定はできないようですね。
ということで、詳しいことは詳しいのですが、果たしてこの話を信じることができるかというと、何とも胡散臭い感じは否めないですね。
アリルーエワの娘のスヴェトラーナが乳母から聞いたという話やアイノ・クーシネン『革命の堕天使たち』の記述とも全く違った内容ですが、ま、今となっては藪の中というしかないですね。

スターリンの妻の死因(その1)(その2)
『スベトラーナ回想録─父スターリンの国を逃れて』(その1)(その2)
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「グーデルリアン」

2017-10-07 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 7日(土)10時51分24秒

独ソ戦をソ連側からも見たいなと思って「ソ連邦元帥・四回ソ連邦英雄 ゲ・カ・ジューコフ」著の『ジューコフ元帥回想録─革命・大戦・平和』(清川勇吉・相場正三久・大沢正 共訳、朝日新聞社、1970)をパラパラ眺めているのですが、この本では Guderian を一貫して「グーデルリアン」と表記していますね。
奥付の「訳者略歴」で三人の経歴を見ると、清川勇吉・相場正三久(しょうさく)氏は昭和13年東京外大卒、大沢正氏は昭和23年東京外大卒で、三人とも朝日新聞モスクワ特派員(相場氏は支局長)だったそうですが、1970年当時の話としても「グーデルリアン」はちょっと妙な感じですね。
同書には、バルバロッサ作戦発動当初のソ連側の反撃不足に関連して、

-------
 つぎに今日、われわれが戦争開始の具体的な日付とその計画を知っていたとか、知らなかったという憶説が存在している。私はスターリンが真実の通報をうけていたかどうか、彼に開戦の日が実際に通知されていたかどうか、正確なことはいえない。スターリンが直接受けとっていたかも知れないこの種の重要な資料を彼は私に通報しなかった。
 確かに、彼はあるとき私にいったことがある。
「ある人がヒトラー政府の意図について際めて重要な情報をわれわれに伝えている。しかしわれわれには若干の疑問がある……」
 これは戦後になって私が知ったリチャード・ゾルゲのことをいったのかも知れない。
-------

とありますが(p177)、いくら何でも「リチャード・ゾルゲ」はないだろ、という感じがします。

ゲオルギー・ジューコフ(1896-1974)

>筆綾丸さん
>加藤一二三はニヒルな世阿弥と違って敬虔なクリスチャン

ウィキペディア情報ですが、「1986年に聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受賞している」ほどの熱心なカトリックなんですね。
もっとも、この聖シルベストロ教皇騎士団勲章の日本人受賞者一覧を見たら、電通の故・成田豊氏や日本テレビの故・氏家斉一郎氏など、どういう基準で選ばれているのか部外者には分かりにくい人もけっこういますが。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

修羅物と「ひふみんアイ」 2017/10/05(木) 17:23:21
小太郎さん
ありがとうございます。
構成要件を正確に読めば、内乱罪はやはり無理ですね。

https://www.shogi.or.jp/match/ryuuou/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E7%BE%85%E8%83%BD
竜王戦第1局の舞台は渋谷の「セルリアンタワー能楽堂」で、将棋の対局が能楽堂で行われるのは初めてかもしれないですね。スポンサーの読売新聞は詰まらぬ記事とは裏腹になかなか憎い設定をするものですが、昨年は不正疑惑で揺れた竜王戦なので、修羅物のように激しくなると面白いですね。キツネ目の現竜王をシテとする負修羅が本筋というものですが。

https://ginza6.tokyo/news/9117
http://db2.the-noh.com/jdic/2013/07/post_377.html
渋谷の能楽堂は観劇で行ったことがありますが、最近では、GINZA SIX の観世能楽堂が話題になりました。来年の竜王戦は銀座六丁目ですかね。歴史上、観世と将棋界には何の関係もないと思いますが。世阿弥の言う「離見の見」は、将棋界ではさしずめ「ひふみんアイ」になるのかな。もっとも、加藤一二三はニヒルな世阿弥と違って敬虔なクリスチャンですが。
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「グーデリアン」or「グデーリアン」

2017-10-04 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 4日(水)12時30分58秒

>筆綾丸さん
>グーデリアン(Guderian)
昔は「グーデリアン」と呼び習わしていたようですが、今は「グデーリアン」派が多いみたいですね。
ま、どっちも違う、「グデリアン」じゃ、という人もいますが。


>独立投票や独立宣言が「暴動」に該当するのかどうか
これは明かに非該当ですね。
古い教科書で恐縮ですが、大塚仁『刑法概説(各論)』(有斐閣、1980)を確認したところ、内乱罪の「暴動」については、

------
多数者が結合して、暴行・脅迫を行い、少なくとも一地方の平穏を害する程度にいたることをいう。暴行・脅迫は、いずれも再広義におけるそれを意味する。すなわち、暴行は、人に対するものであると、物に対するものであるとを問わず、また、殺人・生涯・放火などをも含む。脅迫も告知される害悪の種類に制限がない。なお、暴動は、朝憲紊乱の目的を遂げるのにふさわしい規模のものでなければならない。そのため、少なくとも一地方の平穏を害する程度のものであることを要するのである(通説)。
------

とあります。(p)
「朝憲紊乱」はかつての条文にあった古めかしい表現ですが、このあたりは学説の進展は特にない分野なので、現在の通説も同様でしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Puigdemont と内乱罪 2017/10/03(火) 16:03:56
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
映画『ハンナ・アーレント』は、公開先の岩波ホールが気に喰わぬので見なかったのですが、見ておけば良かったな、と反省しています。
グーデリアン(Guderian)は、響きがヘーゲリアン(Hegelian)のようで、グーダー(Guder)派の、という意味かと錯覚しますが、経歴からすれば、グーダー主義の、と云ってもいいような戦績を残しているのですね。つまらぬ話で恐縮ですが。

キラーカーンさん
https://en.wikipedia.org/wiki/Carles_Puigdemont
http://portal.triado.com/archives/8056
渦中のカタルーニャ州政府首相 Puigdemont のプチデモンという発音はカスティーリャ語からも南仏のフランス語からも出て来ないもので、カタルーニャ語独得の表記ですね。demont はフランス語風に de + mont と思われ、puig も「山」の意味のようなので、Puigdemont は「山の中の山」つまり「主峰」というような意味になるのかもしれません。近い内、中央政府により逮捕されるだろう、と言われていますね。
(余談ながら、引用文では Ripoll を「リポル」としていますが、カタルーニャ語では「リポイ」と発音します。バルセロナのテロ事件関連で、この地名も登場しました)

https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95%E7%AC%AC77%E6%9D%A1
有り得ぬ仮定の話になりますが、基地問題で激昂した沖縄県が投票結果に基づいて独立を宣言した場合、知事や議長や県民を罰するのは刑法第77条の内乱罪である、と解釈すればいいのかな。
付記
77条1項の構成要件には、「・・・目的として暴動をした者」とあるので、独立投票や独立宣言が「暴動」に該当するのかどうか、疑問ではある。民主主義に基づき、粛々と投票し、粛々と宣言すれば、「暴動」にはなるまい、とも云えるが、政府としては、投票や宣言は無根拠として無視し、従来通り、国の統治下にあるとして振る舞えばよく、大山鳴動して鼠一匹、別段どうということはない、と淡々と終息するだけのことかな。

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-10-03/OX7ZTM6K50XW01
憲法155条による自治権停止について(具体的な条文はわかりませんが)、憲法上、こんな規定があること自体、スペインのお国事情は大変なんだな、と思いますね。
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「リヒヤルド・ゾルゲの手記(二)」の成立事情(その2)

2017-10-04 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 4日(水)11時58分1秒

前回投稿の「そのわけはこの供述で、……」以降、意味のとりにくい部分がありますが、原文のままです。
この後、小尾俊人氏は「一九五一年八月のアメリカ下院非米委聴問会における吉河光貞氏の証言」を引用しますが、そこでは、

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 私のドイツ語と英語はいづれも不完全です。私はドイツ語英語をブロークンで話します。取調べには時間がかかりましたが、ゾルゲは通訳をいれることを望まなかったのです。彼にその理由を彼に尋ねました、彼は通訳は話をむつかしくするからと申しました。
 こうして、我々の間で、理解が困難になったときは、いつでも紙を用いました、ゾルゲは紙に書いて説明しました。
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といった状況が説明されています。(p10)
取調べといっても、吉河検事の語学力が不足しているために、ゾルゲの供述に疑問があったら即座に矛盾を指摘して問い質す、といった厳しいやりとりは全然なく、旧制高校でドイツ語を習った帝大生がゾルゲ教授に個人講義を受けているようなものですね。
ゾルゲとしては吉河検事が喜びそうな撒き餌をしつつ、肝心の部分は誤魔化す余裕が充分にあった訳で、実際に中国関係など非常に曖昧です。
この「手記」は日本の司法当局に完全敗北を認めた犯人の赤裸々な告白ではなく、逮捕されてもなお国際諜報戦の最前線で闘う軍人ゾルゲが創作した攪乱工作用文書としての側面がありますね。
ま、それはともかく、

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 取調べが終了したとき、ゾルゲは一枚の紙をとり、この取調べはミスター・吉河に依ってなされたむねをタイプで打ち、自ら署名しました。
 それから正式の通事(通訳)が決まりました。東京外国語学校の生駒教授がそれです。生駒氏は拘置所に来られ、ゾルゲがタイプに打った手記が事実彼のものに相違ないことを確認しました。
 宣誓ののちに生駒さんがそれを日本語に翻訳しました。コピイ一部がつくられました。このコピイに生駒教授と私が署名しました。そして翻訳と手記は証拠に加えられました。【中略】
 これは法律に基づく正式の訊問調書であります。
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ということで、「リヒヤルド・ゾルゲの手記手記(ニ)」は「正式の訊問調書」の一部ですね。
なお、『現代史資料』に掲載されているのは生駒訳ではなく、

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 ここに収められたのは、生駒訳のテキストではなく、一九五三年十月、外務省情報文化局による省内資料として印刷されたもの、また同じく一九五三年十一月公安事務室資料として印刷されたもの(この二つはA5版九ポ二段組一〇九ページで同じ紙型に基づくものである)と同文であるが、ドイツ語の唯一の原文テキストが司法省の戦災で亡失しているため、原文からの新訳とすることは不可能である。司法省訳との異同も本書巻末に加えられているので、生駒訳のGⅡによる英訳を基とし生駒訳日本文を参考として、戦後の文章をもって分かりやすく書き直されたものと見るのが、至当ではなかろうか。本テキストのみが新カナ遣いであるのは、そのためである。
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といった事情があるそうです。
さて、私はゾルゲに情報入手先の軍人の名前を記した「著書」があるはずがないと思ってザゲィムプレィアさんに疑問を呈したのですが、

・外務省編『ゾルゲの獄中手記』山手書房新社、1990年9月
・『ゾルゲ事件獄中手記』(岩波現代文庫)、岩波書店、2003年5月

を実際に確認してみたところ、前者はみすず書房『現代史資料』の「リヒヤルド・ゾルゲの手記(二)」を丸写ししたものですね。
「外務省編」となっているのは「一九五三年十月、外務省情報文化局による省内資料として印刷されたもの」という事情を反映しているものと思いますが、同書には資料の性格についての説明はなく、まあ、率直に言って不誠実な作りの本ですね。
また、岩波現代文庫の『ゾルゲ事件獄中手記』はみすず書房『現代史資料』から「リヒヤルド・ゾルゲの手記(一)」と「リヒヤルド・ゾルゲの手記(一)」の両方を収録したもので、小尾俊人氏が「解題」を執筆していますが、これは小尾氏自身のみすず版「資料解説」から手記(一)(ニ)に関係する部分を抜粋し、(ニ)については若干の追加情報を付したものですね。
巻末には映画監督・篠田正浩氏の「私のゾルゲ体験」というつまらないエッセイも載っています。
岩波が何で2003年にこんな本を出したのかと思ったら、

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 『現代史資料』(みすず書房刊)として,これらを含めたゾルゲ事件資料が62年に公刊されたとき,耕治人氏は「スパイの供述書というよりも学術書という印象すら与えられるのは確乎たる人生観,世界観のためだろう」(『東京新聞』9月26日)といい,橋川文三氏は「そこには針路を見失って狂奔する日本国家の姿が,ほとんど生体解剖のような無残さで描き出されている」(『図書新聞』10月6日)と評した.また,藤田省三氏は「第一次世界大戦の終結から第二次大戦の終結までの世界の歴史的構造を彼(ゾルゲ)は体現しているのだといってもよい」と書いている.9.11からイラク戦争へ,国際通をきどる研究者,ジャーナリストの目に余る浮薄の言動横行の現在こそ読まれるべき,文字通り命をかけた書物である.

https://www.iwanami.co.jp/book/b256326.html

という事情だそうです。
ま、篠田正浩氏の『スパイ・ゾルゲ』の公開が2003年だったので、ついでに少し儲けようかな、という下心もあったのでしょうね。
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「リヒヤルド・ゾルゲの手記(二)」の成立事情(その1)

2017-10-03 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 3日(火)11時40分51秒

『現代史資料(1)ゾルゲ事件Ⅰ』(小尾俊人編、みすず書房、1962)には「リヒヤルド・ゾルゲの手記」と題する資料が二つあって紛らわしいのですが、(一)はゾルゲの供述を司法警察官が手記形式にまとめたものであって、ゾルゲ自身が書いた「手記」は(二)のみですね。
小尾俊人氏の「資料解説」から少し引用してみます。(p8以下)

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 三 「リヒヤルド・ゾルゲの手記」(二)

 本手記は、一九四一年十月以降、ゾルゲ自身がタイプで打った原稿(ドイツ語)に基づくものである。生駒佳年氏によるその邦訳全文は一九四二年二月、司法省刑事局刊「ゾルゲ事件資料」(二)に前半を、一九四二年四月司法省刑事局刊「ゾルゲ事件資料」(三)に後半が印刷され、政府の関係者に配布された。占領軍GⅡの押収したものは極秘として配布番号一九一であった。(戦前の政府関係極秘文書は配布番号がナンバーリングで打たれており、番号によって配布先が判明することになっていた。)なお、これには、刑事局の手によって、目次と索引が加えられていた。
 生駒氏の訳された日本文は英訳されて、一九五一年八月のアメリカ下院非米委聴問会において、証拠書類として提出された。ゾルゲ事件担当検事であった吉河光貞氏が一九四九年二月十九日、極東米軍GⅡの命によって提出した供述書〔ステートメント〕は、この手記の成立事情を詳しく述べているので、左に全文を引用する。(英文よりの訳)

 私は、私の良心に基づき、私は真実を述べ、何ものも付加せず何ものも秘匿しないことを確言いたします。
 私はすすんで次のごとく供述します。
 一九四一年十月私は東京地方裁判所検事局に勤務を命じられていた検事でありました。そのとき、私の法的資格において、当時東京拘置所に拘禁されておりましたリヒアルト・ゾルゲに関し、検事の取調を行うよう命ぜられました。私は取調を一九四二年五月まで行いました。ゾルゲに関する私の取調は、東京拘置所の検事取調室において行われました。取調の進行中、リヒアルト・ゾルゲは、すすんで私に対し、彼の諜報活動の全体のアウトラインに関する記述を作成の上、提出したいと提議しました。この提案によって、リヒアルト・ゾルゲは私の目前で検事取調室において、ドイツ語でその供述を作製しました。ゾルゲが供述の作製に用いたタイプライターは検挙前、彼が自分の家で使用していた彼の私有物でしたが、証拠として押収されたものであります。その供述の一章または一節のタイプが終ると、ゾルゲは私の前で読み、私のいる前で、削除や追加や訂正をしたのち、私の方へ手渡したのです。この供述の唯一の原本はゾルゲが作製したのですが、そのわけはこの供述で、上海での彼の行動に関する部分が充分でなかったので、ゾルゲは、その部分に、さらに不充分の箇所を書き加えて新しくタイプしなおし、私にそれを提出いたしました。私は、原本のその部分を入れかえました。本供述書に附録としてつけた記録は、二十四ページですが、これは私が原本から削除した部分であって、上述のように、ゾルゲがあとでタイプしなおした部分を原本にさし入れたからです。
 この記録は、一九四一年十月と十一月に、東京拘置所の検事取調室で、ゾルゲが私の目前でまず作製し、訂正し、そして私に手渡した供述の一部であります。この記録にはゾルゲの署名がありませんが、そのわけは、この記録がゾルゲの供述の一部に過ぎないもので、リヒアルト・ゾルゲは記録全体が完成した際、最後に署名を付したので、供述の一部である記録に署名することを彼は特に望まなかったからです。上記の記録は、上述の日より一九四九年二月十三日まで私の所有でしたが、この日より、合衆国軍隊、極東軍総司令部GⅡの Lt.Col.Paul.Rutch 氏に対しその希望により、ひき渡したものであります。 吉河光貞
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「吉河光貞についてのメモ」(その1)
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『電撃戦─グデーリアン回想録』

2017-10-03 | ナチズムとスターリニズム
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年10月 3日(火)10時38分6秒

>筆綾丸さん
>『The Bloom of Yesterday』
リンク先サイトを見ましたが、これは『ハイドリヒを撃て!』のようなちょっと古臭い作りの映画に比べると新鮮な感じがしますね。
ただ、群馬県での公開はないようなので、わざわざこれだけを観に東京あたりに行くのも億劫です。

人類が生み出した二つの深淵、ナチズムとスターリニズムについてきちんと勉強したいという気持ちはあるのですが、あまり深入りしても掲示板には反映しづらいような感じがして、ちょっと迷っているところです。
ティモシー・スナイダーの『ブラックランド』にはハンナ・アーレントの全体主義論を超える視点が示唆されていたので、同書を読み終わった後、その続編らしい『ブラックアース─ホロコーストの歴史と警告』を少し読んでみたのですが、こちらは翻訳がどうにも相性が悪い感じがします。

『ブラックアース─ホロコーストの歴史と警告』

そこで、仕方なく一時ストップして、そういえば自分は独ソ戦の実態もあまり知らないなと反省し、ハインツ・グデーリアンの『電撃戦(上)─グデーリアン回想録』(本郷健訳、中央公論新社、1999)を読み始めたところ、これは非常に面白い本でした。
特にヒトラーとの間での詳細で、時に激烈な議論を踏まえた上での人物評が面白いですね。
ただ、私は東欧やロシアの地名に疎いので、巻末の地図を眺めつつ、あたかも泥濘に嵌ったドイツ戦車程度のスピードで進軍中であり、下巻の最終ページに到達するのは暫く先になりそうです。

Heinz Guderian(1888-1954)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Bildung für Nazis 2017/10/11(水) 05:41:30
小太郎さん
『ハイドリヒを撃て!』は、結局、見られませんでした。

http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/17_bloom.html
渋谷のル・シネマで『The Bloom of Yesterday』という映画が始まりましたね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8A%9E%E8%82%A2
フランクフルト滞在時はドイツの選挙直後でした。各政党への投票の分布図を新聞で見ると、極右政党AfDの得票率の増加傾向は旧東独地域に偏在していますね。統一後も分裂の傷跡はまだ癒えておらず、ドイツの不安定要因は依然として東部にあるようです。ナチズムの後にスターリニズムが来たという点ではドイツでも特異な地域だから、住民の精神構造を想像するのは難しい。メルケル首相が旧東独の出身というのも不可解ですが。
AfD支持の女性が掲げる Bildung für Nazis(ナチズム教育を)というプラカードをテレビで見て魂消たのですが、某国の副総理と相性が合うような奴はいるんですね。ナチズム礼讃の動きは予想以上に強いようで、エマニュエル・トッドの分析が知りたいところです。
件の女性は、ナチズムの時代が再来すれば自分は体制側の人間として振る舞う、と自惚れているのかもしれませんが、こんな単純な人間は、狡猾な権力には邪魔であり、走狗の役割を終えた者として真っ先に処分されるような気がしますね。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171001/k10011163621000.html
バルセロナ市内ではデモが賑やかでした。カスティーリャ語とカタルーニャ語はさほどの違いはあるまいと舐めていたのですが、現地で実際の表記と発音に触れてみると、ずいぶん違うことがわかりました。カタルーニャ語のテレビ放送を聞くと、当たり前ながら全くわからず、スペイン語とポルトガル語の間以上の差があるのではないか、と思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/2017%E5%B9%B4%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E4%BD%8F%E6%B0%91%E6%8A%95%E7%A5%A8
Daesh と同じように、恐ろしく困難な国際問題ですね。

付記
深井氏の新訳で、ルターの「九五箇条の提題」を読んでみましたが、これは要するに、教皇(教会)の贖宥は詐欺で欺瞞だ、と言っているにすぎす、たかだか、その程度の問題提起が、なぜかくも大きな影響を与え得たのか、わからない。ルターなんぞより、その方がずっと大きな問題だろう、と思われました。
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