学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

アランセーター伝説

2015-12-10 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月10日(木)09時53分4秒

前回投稿でも「伝説」と書いたように、アランセーターの模様が「家紋のような意味をもっていた。それぞれの家がそれぞれに、模様の組み合わせパターンを代々受け継いでいた」云々は史実ではなく、アランセーター販売業者が創作したものだそうですね。
この点は伊藤ユキ子氏の『紀行・アラン島のセーター』でも説明されていますが、より詳しくは野沢弥市朗という方の『アイルランド/アランセーターの伝説』(繊研新聞社、2003)に出ているようです。
既に絶版とのことで、私も未読ですが、野沢氏のサイトにその要約が紹介されていますね。

--------
伝説では6世紀とまでいわれていた発祥の時期は、実は20世紀初頭であった。アラン諸島の漁業基地に出入りしていたスコットランド人家族のガンジーセーターがベースとなり、そこにアメリカ帰りの天才的編み手の女性が持つ技巧が融合し、島独特の派手好みの美的感覚から、見事な装飾性あふれたセーターが出来ていったのだった。

http://www.savilerowclub.com/aran/aranstory.htm
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歌書よりも セーターに悲し アラン島

2015-12-08 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 8日(火)09時45分29秒

>筆綾丸さん
>ベケットに影響を与えた人
アイルランド文学愛好者はともかく、普通の人にとってはアラン島はセーターで有名な地名なんでしょうね。
『紀行・アラン島のセーター』(伊藤ユキ子著、晶文社、1993)という本の「プロローグ─伝説への旅立ち」は次のように始まります。

-------
 忙しさで煮詰まったような日常を放り出し、どこか遠くへ行きたくなったとき、ふと、アイルランドが浮かんだ。
 理由はひとつ、……アランセーターだった。あの乳白色の浮き彫り模様に秘められているというロマンチックな<伝説>を耳にしたときから、その生まれ故郷、アイルランドはたちまち心ひかれる地になってしまったように思う。
 かつてアランセーターは、アイルランド西方の小さな島、アランの男たちの労働着だったのだそうな。半農半漁の村の男たちは、畑を耕すときも魚を獲るときもそれを着こんで作業したという。
 一面にひろがる美しい浮き彫り模様。それらは、ただ模様というにとどまらず、家紋のような意味をもっていた。それぞれの家がそれぞれに、模様の組み合わせパターンを代々受け継いでいたのだ。だから、漁に出た男たちがよしんば怒り狂う海にのみこまれ、顔のない無残な溺死体で発見されたとしても、着ているセーターによってどこのだれかは確認することができる。
-------

このセーター<伝説>の形成にはシングの戯曲『海に騎(の)りゆく人々』も多少役立っているようですね。
司馬遼太郎の『街道をゆく 愛蘭土紀行』でもアラン島訪問記が相当の分量を占めていて、アランセーターや『海に騎りゆく人々』への言及もあります。


>なぜヴェルディのナブッコなのか
これは調べればいろいろ出てきそうですね。

>香淳皇后に似ているなあ
「田舎のお母さん」はさすがに言いすぎでしたね。
品はありますからね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり 2015/12/07(月) 12:56:28
小太郎さん
https://fr.wikipedia.org/wiki/Rue_Corneille_(Paris)
コルネイユ・ホテルが気になりましたが、Rue Corneille を挟んでオデオン座の対面にあったものとすれば、写真の右側がオデオン座だから、左側の建物の一部がホテルだったのかもしれません。
文学部のあるソルボンヌ大学(パリ第?)は、ホテルから歩いて数分の距離にあり、パリのテロ(11月13日)の後、オランド大統領が追悼集会を開いたところですね。正式な国家による追悼はアンヴァリッドで後日行われましたが、なぜソルボンヌ大学(パリ第?)が会場になったのか、こういうときのフランス文化の背景にはわからないものがあります。

http://www.rfi.fr/france/2min/20151127-direct-suivez-hommage-victimes-attentats-paris-invalides
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%B3
この写真はアンヴァリッドでの追悼(11月27日)のもので、大統領退席後(11時30分)、Cœur des esclaves (Nabucco) de Verdiの曲が流れたとありますが、なぜヴェルディのナブッコなのか、この文化的背景もわかりません。
---------------------------------
Va, pensiero, sull'ali dorate;
Va, ti posa sui clivi, sui colli,
Ove olezzano tepide e molli
L'aure dolci del suolo natal!
行け、想いよ、金色の翼に乗って
行け、斜面に、丘に憩いつつ
そこでは薫っている。暖かく柔かい
故国の甘いそよ風が!
---------------------------------

ウィキのシングのサイトに、
Beckett was a regular member of the audience at the Abbey in his youth and particularly admired the plays of Yeats, Synge and O'Casey.
とありますが、ベケットに影響を与えた人なんですね。

『東京物語』の東山千栄子は香淳皇后に似ているなあ、と思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%A6%99%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E8%B2%9E%E6%B0%8F
原節子が半世紀過ごした隠遁の地は足利氏所縁の浄妙寺の隣ですが、浄妙寺殿貞氏の祥月命日(9月5日)は、旧暦ながら、原節子の命日と同じなんですね。

http://gendai-shinsho.jp/
『鄧小平』を読みましたが、あまり面白くないですね。
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『アラン島』

2015-12-06 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 6日(日)09時45分45秒

2日の投稿で紹介した石母田正氏の「私の読書遍歴」に「シングへのうちこみ方は相当なもので、英文科に行こうかななど考えたことがある」とありますが、これが直ちに「だから、よほど生意気だったのであろう」という評価につながる過程が今ひとつ分からないですね。
ま、それはともかく、そもそもシングとはいかなる人物かというと、みすず書房「大人の本棚」シリーズの一冊、『アラン島』(栩木伸明訳、2005)の「訳者あとがき」によれば(p261)、

-------
『アラン島』の著者ジョン・ミリントン・シングは、お坊ちゃん育ちである。一八七一年四月十六日、ダブリン近郊の旧家に五人兄弟の末っ子として生まれたが、この家は十七世紀にイングランドからアイルランドへ渡ってきた裕福な地主階級に属しており、英国教会派に連なるプロテスタント教会、アイルランド聖公会の聖職者を多数輩出した家系である。シングが一歳のときに天然痘で死去した父は法廷弁護士で、兄たちもみな技師や伝道師など堅実なキャリアを積み上げていった。ところが、体格には恵まれていたのに幼いときから病弱で内気だった末っ子のシングだけが、どういうわけか文学・芸術にとりつかれてしまった。ダブリンのトリニティカレッジでアイルランド語とヘブライ語を学んだ後、ヨーロッパ各地を転々としてドイツ語、イタリア語にも手を出すかたわら、音楽で身を立てようと本気で考えたりもした。しかし、どれもものにならず、パリのソルボンヌ大学でフランス文学を学びながら、コルネイユ・ホテルの最上階に宿泊してくすぶっていた。一八九六年、冬のこと。シングは二十五歳であった。
-------

ということで、五人兄弟は石母田氏と一緒ですね。
ま、石母田氏は二男ですが。
さて、シングは「同じホテルに泊まっていた六歳年上の詩人W・B・イェイツとはじめて出会」い、「この年の八月にアラン諸島を訪問したばかり」のイェイツにアラン島行きを勧められ、「一年半ほどたってシングはようやく腰をあげたが、一度おとずれたが最後、彼はアラン諸島に完全に惚れ込んでしまい」、1898年から1902年まで、計五回にわたって毎年通い詰めたのだそうです。
訳者によれば、

------
シングの島暮らしは、組織的で学問的なフィールドワークとはほど遠いものだったけれど、彼は島人たちを警戒させず、厭きさせず、得意な体操の技やら手品やら、しまいにはフィドルの演奏まで繰り出して、島の共同体に密着した資料収集をおこなった。島の文化から検挙に学ぼうとする彼の姿勢は誠実で、偽りのないものだった。その結果、ときに臨場感あふれる、ときに彫琢をこらしたスタイルで、島の風俗、海との闘い、人物観察、物語や詩、はては個人的に経験した超常現象にいたるまで、自在に物語ってみることに成功した。
------

とのことで(p263)、私はまだ最初の方を少し読んだだけですが、確かにシングの観察力は鋭くて面白いですね。
民間伝承が紹介されている部分は特に興味を惹かれます。

John Millington Synge
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Millington_Synge
Aran Islands
https://en.wikipedia.org/wiki/Aran_Islands
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緩募(その2)─石母田正が滞在した「牡鹿半島の漁村」について

2015-12-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 2日(水)11時50分43秒

11月28日の「緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について」は自分が行ってみればよいだけのことですが、こちらはもう少し曖昧な話です。
石母田正著作集第16巻の「私の読書遍歴」というエッセイ(p283以下、初出は『日本読書新聞』1952年12月1日号)に次の記述があります。

--------
【前略】仙台の高等学校に入学したが、学校の図書館が充実していたので、受験勉強で抑えられていた読書欲を充分にみたすことができた。授業はできるだけサボり、暗い書庫にはいるのが楽しみであったが、和漢洋の書籍がぎっしりつまった高い書棚のあいだを歩き、手あたり次第本を抜きとって見ることは、それだけでなんともいえぬ充たされた気持で、その昂奮は今でも忘れられない。その時代の青年のつねとして、主として外国の思想や文学に魅力を感じたのは当然であって、翻訳書ばかり系統もなく読み漁った。【中略】
 文学も翻訳物ばかりで、日本の現代作家のものはほとんど読まなかった。それも十九世紀までの有名な古典にかぎられていたが、今になってみれば、その方がよかったと思う。『神曲』は今になっても分からないが、『ファウスト』は今でも傍をはなせない書物になっている。
 アイルランドの劇作家は多少例外で、菊池寛、松村みね子の翻訳で読み、たちまち好きになった。ことにシングのものは原書で読みたいと思って、辞書と首っぴきで読んだが、もちろんよく解るはずもなかった。いつか木下順二さんから、あれは方言を多く使っているという話しを聞いて、なるほどと思った。菊池寛たちの翻訳は方言を生かしてないのだそうである。シングの『アラン島』を一冊もって、牡鹿半島の漁村で一ヶ月暮した夏の想い出は、今でもなつかしく、この本は、高等学校時代に解りもしないのに原書を読み通した少数の本であった。シングへのうちこみ方は相当なもので、英文科に行こうかななど考えたことがあるのだから、よほど生意気だったのであろう。シングの作品は日本人に好かれる面があると思う。今でも読みかえしたいものの一つである。
-------

1952年ということは石母田氏がまだ40歳の頃の回想ですね。
シングはJohn Millington Synge(1871-1909)で、検索してみたら『アラン島』は姉崎正見訳が岩波文庫に入っており(第1刷は1937年)、2005年にはみすず書房から栩木伸明氏の新訳が出ているようです。
さて、私のプチ疑問は石母田氏が「シングの『アラン島』を一冊もって」夏の一ヶ月を暮らしたという「牡鹿半島の漁村」が具体的にどこかという、まあ、我ながらどーでもいいだろと思わない訳でもない話です。
震災の翌年、『河北新報』に津波被災地の今昔、みたいなタイトルのシリーズ記事が載り、萩浜という漁村は戦前はずいぶん栄えていたらしいと知ったのですが、昭和初期、旧制二高の学生が夏休みを過ごすとして、本当に鄙びた漁村だったら食事の準備も大変だろうから、まあ、ある程度栄えた町の安い旅館みたいなところを利用するのじゃなかろうかと想定してみると、それだったら萩浜などぴったりではなかろうか、という感じもしてきます。
ま、本当に小さな疑問なのですが、石母田氏と同世代の人の回顧録とか、あるいは地元の地誌みたいなものに何かヒントになりそうな記事を見た覚えのある方がいらっしゃれば、是非ご教示願いたく。

宮城県石巻港湾事務所・萩浜港
http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/is-kouwan/port-oginohama.html

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緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について

2015-11-28 | 石母田正の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月28日(土)10時20分18秒

この掲示板の投稿を保管しているブログ「学問空間」には閲覧者が多い記事上位10位までを表示してくれる機能があるのですが、一週間ほど前から一昨日まで、「石母田正氏が母に海に突き落とされかけた?」という記事(2014年3月2日付)が10位以内となっていました。
これは石母田五人兄弟の末弟、元衆議院議員(日本共産党)の達(たつ)氏が1968年に書いたエッセイに、共産主義運動に走った次兄の正氏に関して、

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母はたまりかねて、次兄を生まれ故郷の北海道につれて行き、その心をひるがえさせようとしたが、成功せず、ついに青函連絡船で兄を海につきおとして自殺しようと決心した。しかし母にはそれができなかった。
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f19bea7aac2b683a3883575c49695278

とあることについて、達氏の記憶の混乱ではないかと疑念を呈したものですが、いろいろ考えると、これは記憶の混乱ではなく、政治家である達氏が選挙目当てに作った格好良い物語の一部であって、自殺云々は意図的な創作と捉える方が自然ですね。
正氏が実践的な「運動」に関与していたのは東京帝大文学部哲学科に在籍していた3年間だけで、史学科に移ってからは勉強に専念し、卒業後は直ぐに出版社に就職して結婚も早く、表面的にはごく普通の市民でしたから、特高による継続的監視があったとしても、石巻の実家まで、

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特高警察が家のまわりをいつもうろうろし、“国賊、非国民“と、石を投げ込む者もいた。“愛国婦人会長“として、毎日のように紫のたすきをかけて、戦地に他人の息子たちをおくりだす母に、非難の声は集中した。
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というのは話を盛りすぎです。
当時は正氏程度の活動歴の人はいくらでもいて、特高だって人員に限りがありますからね。
ま、それはともかく、石母田家についてそれなりに熱心に調べた私にとって、母親のまつ氏はいったい何年生まれなのだろう、というプチ疑問が未解明のまま残っています。
父親の石母田正輔翁は1861年生まれですが、1908年から1924年までの間に五人兄弟を生んだ母親は、少し(当時としての)婚期に遅れて年の離れた夫と結婚したとして、1885年生まれくらいですかね。
石母田正輔翁の墓は仙台の古刹・江厳寺にあるそうなので、おそらく正輔翁の墓石の裏にはまつ氏の戒名・生没年も彫られているでしょうから、何かの機会に江厳寺付近に行かれる方があれば、探して教えていただけると有難いですね。

「石母田五人兄弟」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d21499ad28acdbaaa95fb037546497e
「石巻市史 第二十七篇 人物 石母田正輔」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d19416d66cbc10de95ee69cfc7c0799

「伊達家ゆかりの寺・微笑山江厳寺公式サイト」
http://kouganji.or.jp/index.htm

>筆綾丸さん
>出しゃばりな編集者
優れた本を沢山出している優秀な編集者で、講談社でも有名な人らしいですが、自分の意見をここまで主張するのだったら、やはり責任の主体を明確にしてほしいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

abbreviation 2015/11/27(金) 18:33:26
小太郎さん
『歴史と哲学の対話』は出しゃばりな編集者がいて面白そうですが、まだ入手していません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%A0%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6
西研氏の名を知らず、はじめ、西洋哲学研究所の abbreviation かと思いましたが、西研は abbreviate しようがなく、フッサールの「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!)というべきなのかもしれませんね。

『第3次世界大戦の罠』は、オマーンやイエメンなどの事情もわかって助かりますね。 

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「国家の死滅」だなんて、僕もう疲れたよ、パトラッシュ・・・。

2014-08-28 | 石母田正の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月28日(木)21時51分4秒

まあ、私も石母田氏の歴史理論が全て素晴らしかった、などと思っている訳ではないのはもちろんです。
ひょんなことから石母田氏の著作の面白さに嵌ってガバガバ論文を読み始めた俄か石母田ファンの私ですが、それでも「国家の死滅」みたいな表現に出会うと、何だかなーという興醒め気分を味わざるをえません。
あれだけ頭の良い人が、なぜ「国家の死滅」みたいな妄想を生涯抱き続けることができたのか。

歴史学研究会や歴史科学協議会あたりで頑張っていた人々の中にも、「国家の死滅」などと聞くと、いささか気恥ずかしい思いを抱く方は多いようで、最近では早稲田大学名誉教授の深谷克己氏が次のように書かれていますね。(「『戦後歴史学』を受け継ぐこと」(『岩波講座日本歴史第10巻近世1』月報、2014年)

---------
(前略)
 私自身がその末端につながっている─と自認している─「戦後歴史学」の中の「戦後近世史研究」は、「グランドセオリー」と呼ばれたりもするような「世界史仮説」に牽引されて、「発展段階の規定」にこだわり、「先進・後進の規定」にこだわってきた。こうしたこだわりからの自由さが、「現代近世史研究」だと私は理解している。刊行され始めた『岩波講座日本歴史』は、執筆者に多少の年齢差はあっても、この自由さを力にして、一つの方向だけを向かない個性的な研究成果を発表してきた世代によって担われていると私は見ている。
 新しい歴史学の担い手層に、私は問題意識が薄いとか「個別分散」的であるというようには思わない。むしろ「現代歴史学」世代の問題意識は、たとえば「国家の死滅」というような見えない目標をあえて見ようとしていた「戦後歴史学」世代よりも、より率直であり、生活性が濃い。生活的な問題意識とは、環境破壊から環境歴史学を構想し、都市問題から都市史を対象にし、高齢化社会から介護やライフスタイルの歴史的研究に進み、地震・津波から災害史に取り組む等々、眼前の状態に対する不満や批判、ないしは強い興味から直接にテーマを立てて取り組んでいくあり方である。「戦後歴史学」も「現代歴史学」も、どちらも「課題」を引き受けるという点では同じだが、前提に強い「進歩の仮説」や概念の網をはりめぐらすかどうか、言いかえればアプリオリな「歴史理論」を前提にする度合いが大きいか小さいかの違いだと私は考えている。
---------

「「個別分散」的であるというようには思わない」というのは、強がりも些か度を越しているような感じがします。
また、将来の歴史学界が「歴史理論」などどうでも良い、「国民の生活が第一」「市民の生活が第一」といった方向に進むとしたら、それもずいぶん寂しいことですね。

>筆綾丸さん
金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』、少し読み始めたのですが、どうもしっくりこないですね。
感想はのちほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

a house of cardsー御内書の集合体としての 2014/08/27(水) 13:42:14
小太郎さん
受信料の上に胡坐をかくNHKは、余計なことはせず、報道に徹してもらいものですね。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/08/102278.html
谷口克広氏の『信長と将軍義昭』を読みましたが、以下のような考えが昨今の主流のようですね。ただ、この書の読後の感想は、将軍義昭という人は、要するに、傍迷惑なパラノイアではなかったか、というものです。氏は「鞆幕府」説を否定していますが、この説などはパラノイアの上に聳えたつ a house of cards(砂上の楼閣)の如きもので、この場合の cards とは義昭が乱発した御内書の集合体ですね。
--------------------
ところが近年、久野雅司氏・山田康弘氏の論考では、従来には見られなかったほど義昭政権の政治力を見直す結論がなされている。久野氏が、義昭時代の幕府の関係文書の分析から幕府の機能を検証したのに対し、山田氏は、室町幕府の本来の性格から信長と義昭との関係に迫っているのが特徴である。論法はまったく異なるけれど、久野・山田両氏の結論は、義昭政権と信長政権とは「相互補完関係」にあった、したがって、「二重権力」もしくは「連合政権」と呼びうるものということで一致している。ごく最近に出された堀新氏の論考も、山田氏の信長・義昭連合政権論に対して賛意を表明している。(42頁)
信長政権と義昭政権の関係について論じる時、従来の「傀儡政権」論はもう通用しがたいのではなかろうか。今後は久野氏・山田氏の説、すなわち「二重政権(連合政権)」論に基づいて、信長・義昭による政権を語ってゆくのが適当と考えられる。(45頁)
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追記
---------------
本丸一つに追い詰められながらも、長政は二日間持ち堪えた。その間にあたるが、元亀四年(一五七三)八月二十九日付けで、家臣片桐孫右衛門尉に宛てた感状が残っている(『成簣堂古文書』)。家臣たちがみな逃げ出してゆく中で、最後まで忠節を通した片桐に心の底から感謝を表した一通である。そして九月一日、長政もまた自決した。(168頁)
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この年の七月二十八日に天正に改元されているから、「元亀四年(一五七三)八月二十九日」は「天正元年・・・」とすべきですが、それはともかく、この感状の末尾はたしか「長政(花押)」とあるものですね。信長に叛旗を翻した後、信長の偏諱「長」(及び「長」を崩した花押)を変更してもよさそうなんですが、浅井長政は「長政(花押)」として腹を切って死ぬのですね。お市を配慮したとも思えず、こういう戦国大名の感性は私には大きな謎です。このあたりの事情に言及した研究書は寡聞にして知らず、誰か解明してくれないかな、と思います。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/08/102281.html
山田雄司氏の『怨霊とは何かー菅原道真・平将門・崇徳院』は、もう夏が終ろうとしているのに怨霊でもあるまい、と買うのはやめました。
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歴史研究者のアリエッティ化

2014-08-26 | 石母田正の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月26日(火)10時49分22秒

ツイッターで大阪府立大学教授の住友陽文氏が「石母田正氏との対話─自説を撤回することについて」に関し、次のように言われていますね。(8月22日)

--------
この石母田正の話は「自説撤回」云々が論点というより、「実証主義への復帰」(1946年)などで論じられた、歴史研究に見られる、史料と手垢にまみれた世俗の常識にだけ基づく実証主義の問題点が論点ではないか。
https://twitter.com/akisumitomo

別にこの見方が間違いとは言いませんが、1973年7月の発言なので、ヨーロッパ留学(1965~66)を踏まえた認識の部分が一番重要ではないかと思います。
以前の投稿では余計なことを書いてしまったので、石母田氏の発言だけを再掲すると、

----------
 実証をおろそかにしてはいけません。必要欠くべからざる作業です。しかし、それで終ってしまってはね・・・。
 まったく、日本の学者に未熟さを、海外で思い知らされます。イギリスでもフランスでもドイツでも。実証とかのレベルでは決して劣りませんが、問題関心・見識で到底かないません。日本的というか、小さく小さく完成された小世界ばかり作っているのです。
 ドイツの、ある有名な学者は、最初のうちは学生に史料など、さわらせないそうです。ギリシャやローマの古典を徹底的にやらせて、十分基礎固めをしてから、初めて史料を見せるのです。日本は、初めから史料を見せてしまうものだから、小実証本位の、スケールの小さい研究者ができてしまうんです」
----------

という部分ですね。
古代史のことはよく知りませんが、中世史においては「日本的というか、小さく小さく完成された小世界ばかり作っている」傾向は強まるばかりのような感じがします。
もちろん40年以上の経過の中で相当の新史料が発見され、分析は精緻になって、小さな小さなアリエッティ的世界がそれなりに素晴らしく、居心地も良さそうなのは理解できるのですが。

>筆綾丸さん
金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』、早速読んでみます。
金子氏は先月9日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」に出演されていましたが、派手好きの女性アナウンサーを中心とする番組構成はいささか下品で、最後に少しだけ登場された金子氏が気の毒でした。
金子氏のムーミン的風貌とのんびりした話し方は好きなので、下らないコントは省略して金子氏の解説だけ放映してほしかったですね。

http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/207.html

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

信長のユーモア 2014/08/23(土) 21:50:36
小太郎さん
ロベスピエールはなんとなく優男のようなイメージがありましたが、強面のデスマスクからは、こいつ、何人くらい殺めたのだろう、という感じがしてきますね。
ちなみに、マラーの暗殺現場は、パリ6区、メトロのオデオン駅を出てすぐ、パリ第5大学の構内のどこかで、むかし探検したとき、何の案内版もなくて、歴史にうるさいパリにしては珍しいな、と思ったものです。この大学は通称ルネ・デカルト大学という医学校ですが、マラーの死と何か関係があるのか、医師マラーを踏まえたものなのか、これもわかりませんでした。

金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』は、ひさしぶりに良書に出会えた、という感じです。キーパーソンは三条西実枝で、この人物の分析はとても面白いですね。ただ、「終章 信長の「天下」」は残念ながら尻切れトンボのような気がします。
興福寺別当職相論に関して、信長が正親町天皇を叱責し、誠仁親王が天皇に代わって詫びる、という書状の中に「瓜」が出てきますが、本文を能とすれば、これは狂言に相当するのでしょうね。
信長「・・・さりながら冥加のために候あいだ、この瓜親王様へ進上候。些少候といえども、濃州真桑と申し候て、名物に候あいだ、かくのごとく候。・・・」
誠仁「・・・まずまずこの瓜名物と候えば、ひとしお珍しく眺め入り候。・・・」
信長のとぼけたユーモア感覚といい、親王の返しといい(すぐ食べないで眺め入る、というところがよく、ひょっとすると、ポンポンと鼓のように叩いている気配すらあります)、狂言の名場面のようです。この場合、親王はシテ、信長はアド、ということで君臣の秩序は保たれているのかな。
大蔵流あたりで、この話を適当に脚色し新作狂言として上演してほしい。題はもちろん、真桑瓜、です。
注記
金子氏は、「さりながら冥加のために候あいだ、この瓜親王様へ進上候」を「とはいえ冥加のため、この瓜を親王様に献上します」と訳していますが、「冥加」のニュアンスが掴みにくいですね。神の御加護を得るために、あるいは、神の御加護に謝するために、と理解したとしても、神の御加護に対して、名物とはいえ、なぜたかが瓜なんだろう、神の御加護と瓜ではバランスがとれまい、という気がします。

些末なことですが、「塙直政」に「はのう なおまさ」とふりがなしてありますが(81頁)、塙保己一は「はなわ ほきいち」、塙直政は「ばん なおまさ」と記憶している者としては、この「はのう」の根拠は何なのか、知りたいと思いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E7%9B%B4%E6%94%BF
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%99%E4%BF%9D%E5%B7%B1%E4%B8%80

天尽しの綸旨 2014/08/24(日) 17:36:00
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ところが最近、高木叙子氏によって、「麟」花押が示唆する聖人君主とは義昭であり、この花押は義昭による理想の世の中の達成を願望したものではなかったかという議論が提起された(「天下人『信長』の実像?」)。「麟」花押が見られるのは永禄八年(一五六五)頃に義昭から上洛への協力要請が届いた時期であることから、この頃の信長は義昭に仕え幕府に入りこもうと考え、「麟」花押を考案したというのである。信長が室町将軍による政治秩序の枠組みを継承して登場したことを考えると、高木氏の「麟」花押論はすこぶる納得のゆくものである。(「織田信長<天下人>の実像」267頁)
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天正改元の問題から、信長の天下静謐のための役割認識・考え方へと話が拡がった。これは、天正へと改元をうながしたことが、義昭追放後天下人の立場となった信長が最初に着手した行動であるとともに、かつてみずからが義昭に諫言した内容を誠実に履行したことを示す重要なできごとだからである。(同書55頁)
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高木説の論理によれば、義昭を追放した後、信長は「麟」花押を破棄し新たな花押にしてもよさそうですが、追放後も同じ花押を信長はなぜ使い続けたのか、という素朴な疑問が湧いてきて、「すこぶる納得のゆくものである」と金子氏はいうけれども、まったく納得がゆかないですね。当該論文を読むべきなんでしょうが、他人のために自らの花押を考案するなどというのは、非常識というか、私の感性にいたく抵触するものがあります。義昭追放直後、天皇に改元を迫った信長が、義昭のための「麟」花押をのんびりと使い続けますかね。人は何を信じてもいいけれども、私には寝耳に水のようなアンビリーバブルな話です。
一部の戦国大名が足利将軍家の武家花押のマネをして、似たような花押を使用していますが、この場合であれば、ひたすら将軍家の弥栄を念じたもので他意はない、と言えなくもないけれども、やはり牽強付会でしょうね。というような訳で、当該論文を読んでみようかしら、という意欲は湧いてきません。

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改元執行せられ、年号天正と相定まり候。珍重に候。いよいよ天下静謐安穏の基、この時にしくべからざるの条、満足に察し思し食さるるの旨、天気候ところなり。よって執達くだんのごとし。
   七月廿九日  左中将親綱
   織田弾正忠殿             (『東山御文庫所蔵史料』勅封三八函-六九)(同書56頁)
----------------
信長による蘭奢待の切り取りの時と同じように、『東山御文庫所蔵史料』の勅封も勅使派遣により開かれたのでしょうね。
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「石母田正氏との対話─自説を撤回することについて」 (補足)

2014-08-23 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月23日(土)21時06分53秒

17日に投稿した「石母田正氏との対話─自説を撤回することについて」、ツイッター経由で保管庫のブログ記事を見てくれた人が意外と多いようなのですが、私が引用した部分だけだと石母田氏の人柄を誤解される人がいるかもしれないので、若干補足しておきます。
まず、石母田氏は南部昇氏との会話が対外的に公表されるなどとは全く予想せずに発言しています。
次に記録の正確性ですが、「印象的な話が多かったので、私はその日の夜、会話の内容を詳しく日記に記録した。現在、読み直しても考えさせられることが多いので、以下、その一部を紹介したい」とのことなので、記録者が北海道大学名誉教授の南部昇氏であることを考えると、まあ、基本的に正確と思ってよいだろうと思います。
そして、石母田氏の人柄との関係ですが、南部氏は石母田氏が「でもF大学のG君なんか、よく勉強する人ですね。視野が広くて、多くのものをこなしています」と高く評価したG氏と後に会ったところ、次のようなやりとりがあったそうです。

---------
 石母田氏も、氏が厳しく評価した古代史家たちも、すべて鬼籍に入った。初対面だった私は、氏はこのように談論風発で「言いたい放題」の人物なのだと思い、数年後、東京でG氏に会った時、その時の話をした。
 G氏は大いに笑い、驚き、石母田先生は慎重で、他の学者のことを、そんなにあけすけには言わないよ、生まれ故郷(札幌)で気がかわったのかなあ、と言った。
---------

ま、私はもちろん石母田氏との直接の面識はありませんが、これはG氏の言われるとおりなのだろうなと思います。
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昨日の投稿の訂正

2014-08-19 | 石母田正の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月19日(火)10時23分12秒

昨日書いた「Eさん=佐藤進一氏」云々は撤回します。
南部氏のエッセイの後ろの方に「石母田氏も、氏が厳しく評価した古代史家たちも、すべて鬼籍に入った」とあるので、あくまで古代史家だけが対象ですね。
まして佐藤進一氏はご存命ですから、対象になりようがありません。
結局、ABC三氏は一応分かりますけど、DE氏は材料不足で分からないですね。

>筆綾丸さん
ご紹介の『韓国とキリスト教』、私も昨日、手にとってパラパラめくってみたのですが、どうも韓国関係はあまり深入りしても仕方ないような感じがして、結局購入しませんでした。
私も大学生の頃はT・K生の「韓国からの通信」などを深刻な顔をして読んだ覚えがありますが、今では人生の黒歴史の一部ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

余は如何にしてデスマスクとなりし乎 2014/08/18(月) 18:45:37
小太郎さん
---------------
もうひとつ、無教会主義を唱えた独自のキリスト者、内村鑑三(一八六一~一九三〇)のデスマスク(国際基督教大学図書館)にも注目しておこう。それは、ジャンセニストのパスカルのそれにも比することができるだろう。いわば聖遺物のようなものである。パスカルのものがポール・ロワイヤルの博物館に大切に保管されているとすれば、内村のものは、桐の箱のなかに納められて、ゆかりの深い国際基督教大学に眠っている。それを製作したのは、内村の勧めで東京美術学校洋画科に学び、内村を敬愛していた洋画家、石河光哉(一八九四~一九七九)である。石河はその後、東京大空襲の最中、記憶のなかの内村の肖像を描いている。やや強引かもしれないが、二人のつながりには、ジャンセニストと画家フィリップ・ド・シャンぺーニュのそれを連想させるところがある。(岡田温司『デスマスク』岩波新書227頁)
---------------
内村鑑三の思想信条からすれば、デスマスクなどはおそらく宗教者への冒瀆であり、光哉の大馬鹿者め、というようなことになるのでしょうね。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/07/102173.html
--------------
日本では、キリスト教というと、カトリックとプロテスタントの双方を含むが、韓国では両者は厳密に区別されている。一般にカトリックを「天主教(チョンジュギョ)」あるいは「カトリック」と呼び、プロテスタントを「基督教(キドッキョ)」あるいは「改新教(ケシンギョ)」と呼んでいる。現在の韓国では漢字はほとんど使われていないが、天主教と基督教の呼称は中国語(漢語)の影響がそのまま残っている。「天主」は、神を指す言葉であり、中国では十六世紀末に最初に伝播した時からそう呼ばれていた。「基督」は、英語の Jesus の音訳であり、漢字は中国語から来ている。プロテスタントの宣教にともなって、十九世紀以降に使われるようになった。韓国では、一般に「教会(キョフェ)」というとプロテスタント教会を指す。カトリック教会には「聖堂(ソンダン)」という表現が用いられる。(浅見雅一/安廷苑『韓国とキリスト教』9頁)
--------------
朝鮮半島へのキリスト教の伝播について(昔の景教はさておき)、韓国人の研究者は「朝鮮王朝は壬辰倭乱の際にキリスト教と接触はしたが、伝播には至らなかった」としていたそうですが、スペイン人イエズス会士ホアン・ルイズデメディナ(一九二七~二〇〇〇)が、ローマ・イエズス会文書館所蔵文書によって、それは文禄の役の結果であった、と実証的に解明したとのことです。(同書46頁~)韓国のキリスト教信者にしてみれば、悩ましくも忌々しい事実のようですね。

巻末の「Juan Ruiz-de-Medina」(201頁)が正しいならば、「ホアン・ルイス=デ=メディナ」くらいの表記か。「Ruiz de Medina,Juan G」であれば、「ホアン・ガルシア・ルイス・デ・メディナ」か。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/31/pub_kaigai-iezusu-genbun-02.html
東大の史料編纂所は「ホアン・ルイズ・デ・メディナ」としてありますが、スペイン語としての Ruiz の z は濁音ではなく清音です、たぶん。

http://asianews.seesaa.net/article/390709412.html
三権のトップクラスが出席する「国家朝餐祈祷会」(同書119頁~)というのは、はじめて知りました。韓国憲法が政教分離を明記しているにもかかわらず、大法官(最高裁判所裁判官)も出席するとのことです。主催者は誰なのか。・・・ヴァチカンの韓国重視も宜なるかな。

http://www.bbc.com/news/world-asia-28801253
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One of the women gave the pontiff a gold butterfly pin - a symbol of their continuing struggle for justice - which he wore during the Mass.
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金(色)の蝶がシンボルになるというのは、日本ではあまり考えられないですね。
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Eさん=佐藤進一氏?

2014-08-18 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月18日(月)09時12分11秒

古代史限定の話かなと思ったので最初はE氏の名前が思い浮かばなかったのですが、南部昇氏の「Eさんの論文など、手堅く手堅く、まとめられていて、そういうものをたくさん書いていますが」という表現を素直に受け取れば、これは佐藤進一氏なんでしょうね。
佐藤進一氏が石母田著作集月報に寄せたエッセイによれば、石母田氏と佐藤氏は一時期、二人だけで週一回の勉強会を行っていたそうで、また共編の論文集も出していますから、互いに相当強く意識していた存在ですね。
そして、「最近、手紙が来て、何か、するようなことを言っていましたが、しないでしょう」という石母田氏の予想に反し、佐藤進一氏が1983年に出したのが『日本の中世国家』なんでしょうね。

参考までに前回投稿の続きの部分も引用しておきます。

----------
 実証をおろそかにしてはいけません。必要欠くべからざる作業です。しかし、それで終ってしまってはね・・・。
 まったく、日本の学者に未熟さを、海外で思い知らされます。イギリスでもフランスでもドイツでも。実証とかのレベルでは決して劣りませんが、問題関心・見識で到底かないません。日本的というか、小さく小さく完成された小世界ばかり作っているのです。
 ドイツの、ある有名な学者は、最初のうちは学生に史料など、さわらせないそうです。ギリシャやローマの古典を徹底的にやらせて、十分基礎固めをしてから、初めて史料を見せるのです。日本は、初めから史料を見せてしまうものだから、小実証本位の、スケールの小さい研究者ができてしまうんです」
(後略)
-----------

※この記述は誤りで、翌日撤回しています。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b47d050edcfcb904f19fcda01e9f3996
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「石母田正氏との対話─自説を撤回することについて」

2014-08-17 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月17日(日)22時44分27秒

『日本歴史』765号(2012年2月号)に南部昇氏の「石母田正氏との対話─自説を撤回することについて」というエッセイが載っていますね。
私は『日本歴史』は定期購読しておらず、今日、図書館で歴史学関係の雑誌をいくつかめくっていて、初めて気づきました。

---------
 一九七三年七月、石母田正氏が集中講義のため、北大文学部にやって来た。博士課程の学生で、当時二十七歳だった私は、元気と積極性だけが取り柄であった。その日の講義の終了した七月十七日午後、私は「先生、コーヒー飲みに行きませんか」とさそって喫茶店に入り、二時間ほどさまざまな話をした。
(中略)
 私にとって特に意外だったことの一つは、氏が学者というものは自説の撤回など、しないものだ、と述べたことである。

「先生、古代史の論争なんか見ていると、明らかにこちらの勝ち、向こうの負け、ってことありますね」
「うむ」
「そういう時、どうして、負けた方は『まいった。撤回する』って言わないんでしょうか。そうした方が学問の進歩のためになるでしょう」
「いや、学者というものは滅多に自分の説を撤回しませんよ。Aさんなんか、あんな大学者ですが、誰も、あの人の近江令に関する説なんか認めなくなっているのに『今に地下から近江令が発見されて、私の正しさが証明されるでしょう』って言ってがんばってましたからね。撤回なんかしませんよ。僕は、そんな例、知らないなあ」
「Bさんなんか、郡評論争に参加して、Cさんと対立しましたけど、もう木簡がどんどん出てCさんの方が正しかったことが明らかなのに、まだ自説に固執して撤回しませんね」
「自説に固執する・・・。そう、Bさんもね。女性的な人ですが、人柄や、やっている内容にもよるんです。細かいことを調べあげて、こうだ、という結論を出すだけですから、それを否定されたら後に何も残りません。それでオシマイですから、固執するでしょう。
 史料のあるところばかり選んで、細かく完成されたものを書いて、そして、それをほめる人がいるものだから、ますます、そうなります。史料のない所も覆えるような仮説を論じることも必要でしょう。あちらこちら、小さな実証のことをいくらやっても、その人間の歴史というものに対する見識が高まるわけではありません。
 古代国家のことについて多くの論文を書きながら、さて、『国家とは何か』とDさんにきいたら、あの人は高校生以上のことは言えないでしょう。みんな、そうです。
 それでいて、そういう人たちのやっていることが無価値かというと、そうではない、有用なものです。歴史学というものが、そんな人たちで成り立っている。何とも不思議です」
「Eさんの論文など、手堅く手堅く、まとめられていて、そういうものをたくさん書いていますが、それらをまとめて、何か大きな理論を展開する、ということはしないのでしょうか」
「ああ、しませんね。最近、手紙が来て、何か、するようなことを言っていましたが、しないでしょう。C君だって、しないでしょう。
(後略)
---------

私は古代史に疎いので、ABCDE氏全員の名前は分かりませんが、石母田氏もなかなか辛辣ですね。

※補足があります。(8月23日追記)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/7470
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尾藤正英氏「戦争体験と思想史研究」

2014-05-20 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月20日(火)22時32分19秒

今日は尾藤正英氏の「国史学会の今昔 戦争体験と思想史研究(上)(下)」(『日本歴史』第790・791号)を読んでみましたが、次の部分、理解できませんでした。(第791号、p44)

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尾藤 (前略)
 昭和二十九年(一九五四)四月に教養学部の助手になった。本郷の助手はそれまで安田元久さんがやっていましたが、この時に青木和夫君(一九二六~二〇〇九、お茶の水女子大教授)に代わりました。
高村 その前の昭和二十八年にご結婚されていると思うんですが、佐藤進一先生(名古屋大学)が媒酌だったという。
尾藤 さき子が佐藤先生の弟子です。佐藤さんはその頃、皆から好かれていましたね。ところが、どうして、あんなふうになったか分からないなぁ。
高村 紛争がらみでしょうか。
尾藤 紛争の時は何とか両方に納得がいくような形でおさめようと考えてましたけれどもね。
 安田さんにはいろいろな意味で世話になりましたが、あの大学紛争の時に「自分の立場だけ守っていればいいんだよ」とおっしゃられて、「教授なら教授の立場で物を言っていれば向こうも付け入りがたいのだから、大学がどうとか余計なことを口に出すな」と忠告を受けました。
----------

「何とか両方に納得がいくような形で」とありますが、そもそも「両方」とは佐藤進一氏と誰なのか。
また、その後の安田さん云々の話とつながりがあるのか。

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詩人国文学者と詩人歴史学者

2014-05-15 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月15日(木)21時22分36秒

>筆綾丸さん
武笠三は文部省唱歌「雪」の作詞者でもあるそうですね。
「雪やこんこん」ではなく、正しくは「雪やこんこ」なのだとか。

一、雪やこんこ霰やこんこ。
   降つては降つてはずんずん積る。
  山も野原も綿帽子かぶり、
   枯木残らず花が咲く。
二、雪やこんこ霰やこんこ。
   降つても降つてもまだ降りやまぬ。
  犬は喜び庭駆けまはり、
   猫は火燵(こたつ)で丸くなる。

Cora's Music Journey
『尋常小学唱歌』

>瀬木氏
40歳で寒々としたロウソク哲学(?)に到達したということは、瀬木氏はウェーバーの言う「精神なき専門人」の典型でしょうね。
裁判官はその身分保障が憲法に定められている点で公務員の中でも別格の存在であり、給与もまた別格に良いので、常識的には裁判所は非常に恵まれた職場ですが、それすら「上命下服、上意下達の宮仕え」で耐え切れないとしたら、瀬木氏には普通の国家公務員は全然無理、一般企業など問題外の更に外になってしまいますね。
結局、瀬木氏が定年まで裁判所で過ごせたのは、皮肉なことに裁判官が「天職」だったからじゃないですかね。

>五味氏の著作
暫く前から五味氏の著作は目次が定型詩になってしまっていますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

伊藤の補題 2014/05/14(水) 14:03:27
小太郎さん
浄土真宗系ですが、笠智衆のような名ですね。
氷川女体神社・・・恥ずかしながら、この思わせぶりな名の神社は知りませんでした。
世の中には、やはり、化物のような知性の持主がいるものなんですね。

---------------------
三重県にある私の父の生地は瀬木という比較的珍しい姓の発祥地であるが、その創姓者は今川氏の分流であると伝えられ、父の一族には、独立独歩の自由主義者、合理主義者が多かった。私は、そのような意味では、日本社会における少数派の血を色濃く引いた一族の末裔でもあった。そのような人間にとって、上命下服、上意下達の宮仕え、役人生活は、元々かなり無理があった。(『絶望の裁判所』199頁)
---------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%B8%85
瀬木氏の高踏的な辯疏はともかく、今川氏の一族が流れ着いたという瀬木は、ウィキでみると、三重県最北端の「いなべ市(旧員弁郡北勢町)」にあって、数学者伊藤清の出身地なんですね。

----------------
ピタゴラスの定理は別格として、「伊藤の補題」(Ito's Lemma)以上に世界中に知れ渡り応用されている数学の成果は思い浮ばない。この成果は、古典解析におけるニュートンの微分積分学の基本定理と同様の役割を、確率解析において果すものであり、「必要不可欠なもの」(sine qua non)である。ー 米国科学アカデミー
----------------

「『枕草子』の歴史学―春は曙の謎を解く」は、途中で挫折しました。五味氏の著作は、最後まで読み終えるのが、失礼ながら、どうにも苦痛です。
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武笠三(むかさ・さん)

2014-05-14 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月14日(水)09時04分22秒

有朋堂文庫版「宇津保物語」の校訂者は「たけ・りゅうぞう」かと思ったら、「むかさ・さん」だそうですね。
「発祥の地コレクション」というブログによれば、この人は文部省唱歌「案山子」の作詞者で、さいたま市の「見沼氷川公園」にある詩碑には、

--------
 明治四年 当地にある氷川女体神社の神官を代々勤めていた武笠家の長男として 三室村(現浦和市宮本)に生れた。東京帝国大学卒業後 旧制四高, 埼玉県第一中学(現浦和高) 旧制七高で教鞭をとる。明治四十一年文部省によばれ, 十七年間にわたり国定教科書の編さんにたずさわった。「案山子」は第二学年用として作詞された。昭和四年没。
--------

と記されているそうです。
旧制高校も七番目くらいになると、それどこだっけ、という感じになりますが、旧制七高は鹿児島でしたね。


それにしても丁寧に「さん」付けで読んだら呼び捨てになる訳ですから、ずいぶん紛らわしい、ハタ迷惑な名前ですね。


唱歌「案山子」発祥の地

>筆綾丸さん
最高裁調査官の期間が僅か1年というのは奇妙な感じがしたのですが、なるほど、そういう事情でしたか。
歴史学者で言えば石母田正氏や永原慶二氏クラスの知性が芋のようにゴロゴロ転がっている世界ですから、競争の重圧に耐えられない人も多いのでしょうね。
私も仕事で知り合った弁護士さんにアメリカ留学後、最高裁調査官・高等裁判所判事を経て40台の若さで退官した方がいたのですが、その人は書類を読むスピードが半端ではありませんでした。
私が訴訟の基礎資料を何日もかけて作成して送ったら、即日、こんなものではとても裁判所に出せません、と言わんばかりに徹底的に添削されて送り返されたことがありますが、直ったものは殆ど芸術品でしたね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

枕二種 2014/05/13(火) 23:30:54
小太郎さん
瀬木氏は、最高裁判所調査官時代(40歳)の時、鬱病で入院したそうです。
-----------------------
入院していた病院で私が悟ったのは、人生の単純さということだった。一本のロウソクが小さく点り、しばらくの間輝き、やがて燃え尽きる。結局、人生というのは、それだけのことであり、そういう単純なものなのだ。私は、なぜ、ただそれだけのことを、こんなに難しくしているのだろう?(199頁)
-----------------------
ここで図らずも挫折して出世競争から下りたけれども、この文章とは裏腹に、あのとき鬱病に罹らなければもっと出世できたはずだ、という思いが愈々強く、水口氏の言われるように「裁判所に対するルサンチマン」となり、倒錯的な逆恨みの書を出してみた、というところですね。退職後の仕事などに汲々とせず、入院時の悟りのように早く燃え尽きてしまえばいいだろうに、とも言えますね。

http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784022630162
今日は、五味文彦氏の「『枕草子』の歴史学―春は曙の謎を解く」を、半分ほど読んでみました。『枕草子』は昔からあまり興味がないのですが。
-----------------------
 宮の御前に、内の大臣の奉りたまへけるを、これになにを書かまし、上の御前には、しきといふ文をなん書かせ給へる、などのたまはせしを、枕にこそ侍らめ、と申しかば、さは得てよとてたまはせたりしを、(後略)
 宮とは、一条天皇の中宮定子のことで、そこに内大臣から何かに使って欲しい、と紙が献呈されたことから、宮より清少納言にお尋ねがあった。天皇の御前に献呈された紙には中国の「しき」(『史記』)が書かれることになったのだが、こちらでは何を書くことにしようか、と。
 そこで清少納言が「枕にこそ侍らめ」と申し出たところ、では紙を与えるので書くように、と命じられ、(後略)(11頁)
-----------------------
当時、「しき」の連想から何が浮かんでくるのかと考えるならば、「四季」もある。少納言は、四季を枕にして書いてみましょう、と答えたのではなかったか。天皇の下で唐の『史記』が書写されたことを踏まえ、その「しき」にあやかって四季を枕にした和の作品を書くことを宮に提案したものと考えたらどうであろうか。(18頁~)
-----------------------
これが五味氏の新説です。また、文中の内大臣は通説では中宮の兄藤原伊周とするが藤原公季とすべきだ(12頁)という点と、清少納言は大納言で中宮大夫の道長の推挙で宮仕えした(63頁)という点が、新しい視点のようです。(余談ながら、冒頭の略系図に、平珍材、という文字通り珍しい名があるのですが、この平氏は何と読めばよいのでしょうか)

---------------------
本書執筆中、不慮の事故によって、三カ月の休養を余儀なくされたが実はその期間がなければ本書はならなかったであろう。枕を友とし、朝・夕に杖をついて散歩するなか、自然の息吹を吸った経験が本書を生み出したといってもよい。(273頁)
---------------------
これは、もうひとつの枕です。
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有朋堂文庫「宇津保物語」

2014-05-13 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 5月13日(火)09時10分5秒

図書館で実物を見たら、大きさは新書版を縦方向だけ少し縮めた程度で、それほど厚い訳ではないのですが、辞書のような薄くて丈夫な紙を使っており、(上)が730ページ、(下)が782ページ、合計1512ページという充実振りでした。
「緒言」には、

--------
(前略)宇津保物語は古来難解の書として伝へられ、其の名徒らに高くして之を読む者甚だ稀なり。これ其の文の錯簡と巻の順序の錯誤と共に甚だしきに因るものなり。本書は文化二年補刻の刊本を以て底本とし、左記の諸本を参照して、義の通じ易きもの、又は詞づかひの最も穏やかなるものを採り、上欄に異同を註せり。但し上欄の甚だ窮屈なるを以て、一々には異同を註せず。これ一には重きを通俗に置く本文庫の主意に拘せられたる也。
本書の参照に用ひたる本左の如し。
 村田春海校正本
  山岡俊明校正本及び小山田与清校正本に拠りて刊本を正したるもの。
 宇津保物語玉琴(巻三以下)細井貞雄
  契沖校正本、山岡俊明校正本、田中道麻呂校正本、菅原久樹校正本、
  苅谷望之校正本及び古写本二本に拠りて刊本を考へ、異同を抄出
  したるもの。
 宇津保物語新治(巻五以下)古勢利和
  塙検校本、久永氏本、土佐家本及び一本に拠りて刊本を考へ、
  異同を抄出したるもの。
 久米幹文本
  田中道麻呂本、羽倉在満本、塙検校本、馬陽本、古写本及び他の二本に
  拠りて刊本に異同を註したるもの。
 東京帝国図書館蔵古写本二本
之を数ふるに、若し一本又は古写本などと記せるものにして相重複することなくば、本書の本文は二十一種の本を以て対校したるものと謂ふを得べし。
(中略)
本書の校正につきては塚本哲三星野亮太郎二氏を煩はしたること多し。爰に記して謝意を表す。
  大正四年五月病中に記す     校訂者 武笠 三
--------

とあって、実にしっかりしたものですね。
さすがに受験参考書ではありませんでした。
なお、塚本哲三は校正の協力者の一人で「校訂者 武笠 三」となっていますが、このあたりの事情はよく分かりませんでした。
有朋堂文庫に関しては、国会図書館でもデータ上は塚本哲三編となっていながら、実際には別の校訂者が存在するものが多いようですね。

>筆綾丸さん
>瀬木比呂志氏
国会図書館で論文をあたってみましたが、民事訴訟法、特に民事保全法関係の論文しか書いていない人で、狭い範囲の法律の職人さんですね。
中国の歴史についても、何か特別の情報源があって、独自の分析ができる人とは思えません。

https://ndlopac.ndl.go.jp/F/YN876KLJLSQJ51INUPRF3DLSE9FDIRKGXDUEJMHHBH9RE6R97V-35996?func=short-jump&jump=1

他方、矢口洪一氏(1920-2006)は、自由法曹団などの左翼の弁護士さんたちからは厳しい批判を浴びていますが、非常に視野の広い司法行政の専門家で、優秀な裁判官たちの中でも知的水準では別格の人ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%8F%A3%E6%B4%AA%E4%B8%80

裁判所という特に強固な官僚制度の下で、実質的に強い影響力を持つ人がいたとしても、それを瀬木氏が「ソ連の収容所群島の類似性」と結びつけるのは飛躍の程度が過ぎて、洞察力が鋭いというよりは、単にスターリン体制の残酷さへの無知ないし鈍感さの表れではないかと思います。
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