『三宝院伝法血脈』(『続群書類従 第二十八輯下 釈家部』)には、「第廿六代祖実勝法印」の「附法弟子」が、
聖雲親王<遍智殷> 聖尊親王<同>
頼瑜<甲斐法印重受。根来寺中性院。>
実紹<法印。根来寺蓮花院>
延證<アサリ。定聴甲衆末座。讃頭散花兼勤之。>
禅意<心一上人。鎌倉極楽寺真言院>
静基上人<重受。東山白豪院長老妙智房。>
と列挙されていますが、「禅意」に何か見覚えがあるような気がしました。
そこで、微かな記憶を辿って福島金治氏の『金沢北条氏と称名寺』(吉川弘文館、1997)を見たところ、「第三章 金沢北条氏・称名寺と鎌倉極楽寺」の「第三節 鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」に禅意と並んで「静基上人」の説明もありました。
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『金沢北条氏と称名寺』
金沢文庫を創設した金沢北条氏が、本拠地の武蔵国六浦に開いた称名寺。鎌倉中期成立以降の寺の推移、金沢文庫文書の管理形態を解明し、金沢氏による支配関係や寺院の組織と運営、本寺の極楽寺との関係などを考察する。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32704.html
「第三節 鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」は、
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はじめに
一 禅意とその法脈
二 『宝寿抄』の伝授と内容
三 『宝寿抄』の法説とその教学
おわりに
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と構成されていますが、「一 禅意とその法脈」から少し引用します。(p252以下)
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禅意は、『宝寿抄』に「禅弁大徳<改名禅意>」とみえ前名は禅弁であった。禅意の経歴は、額安寺忍性塔出土の禅意正一房骨蔵器に次のようにみえる。
奥州磐城郡東海道□□相州極楽律寺真言院住持比丘禅意正一房遺骨也、
嘉元三年<巳乙>八月三十日□ □於真言院入滅<十年>六十五歳、先師和尚之遺□
納遺骨於額安寺之墳墓□是□□□遺命也、
正一房禅意は、嘉元三年(一三〇五)、鎌倉極楽寺真言院で没、六十五歳。生年は仁治二年(一二四一)。忍性墓塔への合葬は「遺命」であり禅意の命によるものであった。嘉元元年の極楽寺の忍性骨蔵器には、住持の栄真とともに石塔の願主として禅意が連署している。忍性没後の極楽寺で、栄真とならぶ高僧であった。法流をみると、西園寺公経の息で醍醐寺覚洞院の実勝の伝法灌頂の記録「実勝授与記」に、弘安三年(一二八〇)に鎌倉甘縄無量寿院で実勝から伝授されており鎌倉極楽寺長老と見える(賜芦文庫文書、金文五八五九)。『密宗血脈抄』の勧修寺血脈次第には、禅恵として「心一上人、鎌倉極楽寺、第二祖」、『野沢大血脈』の勧修寺流血脈次第や『野沢血脈集』は「禅意 心一上人」とある。上記の禅恵は禅意のことをさしている。「心一上人」「禅恵」と誤記されたのは、「正」「意」の草書が「心」「恵」と類似することで生じた錯誤であろう。微妙なのは次のものである。
(1)実勝─┬──禅意 鎌倉極楽寺真言院
└──静基上人 重受 東山白毫院長老(『血脈私抄』)
(2)実證─┬──静基上人 重受 妙智房
└──心一上人 白毫院長老 極楽寺真言院坊主(『野沢大血脈』)
禅意は、京都白毫院長老を経歴したのであろうか。白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院で、禅意と静基は兄弟弟子であった(金文五八五九)。また、禅意は『宝寿抄』巻十の金剛界の房中作法に「先師円光上人」と記し、静基は『密宗血脈抄』を編纂するとともに口伝集『秘鈔聞書表題<円光上人良含口説妙智房静基類聚>』を残し(『東寺観智院金剛蔵聖教目録』一九)、円光房良含を共通の師匠としており同様の立場の律僧の阿闍梨と判断できるので検討しておこう。(2)は『密宗血脈鈔』にもみえるが、「心一上人血脈、道教・親快ツレリ、此親快悉道教雖無受法、大概計受法歟、血脈為成近、如此連之、但不審相残レリ」と疑念を抱いている。静基は、房号が妙忍房【ママ】、正応二年(一二八九)に蓮乗院で良含から伝法され、正安四年(一三〇二)に極楽寺で華厳僧智照に伝法し極楽寺止住の経歴がある(金文六五四六・六四一五)。正和元年(一三一二)に正法蔵寺(鎌倉松谷寺)で剱阿に伝授した印信には「小僧、幸、蒙先師白毫院上人灌頂印可矣」と記し(金文六五四九)、静基の白毫院長老からの伝法は確かである。一方、禅意の住した極楽寺真言院は、永仁五年(一二九七)に忍性が草創したとされ(『性公大徳譜』)、室町前期まで灌頂堂として使用されていた(金文六六八四)。永仁五~嘉元三年(一二九七~一三〇五)の間、静基【ママ】は極楽寺におり、貞顕は乾元元年(一三〇二)に六波羅探題として上洛している。禅意は、この間、先述の禅意の骨蔵器の銘に「十年」と記されている点からみても、極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう。
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二箇所に【ママ】としましたが、「静基は、房号が妙忍房」の「妙忍房」は「妙智房」の単なる誤記だと思います。
また、(1)では静基が「東山白毫院長老」、(2)では「心一上人」禅意が「白毫院長老」となっていて、二人の経歴が混同されている可能性があるため、福島氏は「禅意は、京都白毫院長老を経歴したのであろうか」否かを考証された訳ですが、「額安寺忍性塔出土の禅意正一房骨蔵器」の銘文から、禅意は十年(ほど)極楽寺真言院にいたことが明らかなので、「永仁五~嘉元三年(一二九七~一三〇五)の間、静基は極楽寺におり」では意味が通らず、ここは「静基」ではなく「禅意」の誤りだろうと思います。
ま、結論として、京都の「東山白毫院長老」は静基で間違いない訳ですね。
さて、『興福寺略年代記』に永仁六年(1298)の「正月七日、為兼中納言并に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ畢んぬ。また白毫寺妙智房同前」と記された「白毫寺妙智房」が静基上人だとすると、「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」なので、「白毫寺妙智房」が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕されたことは政治的に随分微妙な話となります。
ちなみに「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院で」に付された注(14)には、
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(14)林幹弥氏「律僧と太子堂」(『太子信仰の研究』、一九八〇年)。櫛田良洪氏は静基を南都白毫院の僧とされる(「関東に於ける東密の展開」『真言密教成立過程の研究』第六章五四四頁)。『密宗血脈鈔』の基礎となった静基の『血脈鈔』は、徳治二年(一三〇九)に東山白毫院で完成とされており、南都作成とは考えられないので記しておく(小田慈舟氏解説、『仏書解説大辞典』)。良含が、東山白毫院の僧であることは、田中久夫氏「持戒清浄印明について(二)」(『金沢文庫研究』一二〇、一九六六年)紹介資料にもみえる。
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とあります。