学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)

2022-05-30 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月30日(月)12時23分10秒

『三宝院伝法血脈』(『続群書類従 第二十八輯下 釈家部』)には、「第廿六代祖実勝法印」の「附法弟子」が、

 聖雲親王<遍智殷>  聖尊親王<同>
 頼瑜<甲斐法印重受。根来寺中性院。>
 実紹<法印。根来寺蓮花院>
 延證<アサリ。定聴甲衆末座。讃頭散花兼勤之。>
 禅意<心一上人。鎌倉極楽寺真言院>
 静基上人<重受。東山白豪院長老妙智房。>

と列挙されていますが、「禅意」に何か見覚えがあるような気がしました。
そこで、微かな記憶を辿って福島金治氏の『金沢北条氏と称名寺』(吉川弘文館、1997)を見たところ、「第三章 金沢北条氏・称名寺と鎌倉極楽寺」の「第三節 鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」に禅意と並んで「静基上人」の説明もありました。

-------
『金沢北条氏と称名寺』

金沢文庫を創設した金沢北条氏が、本拠地の武蔵国六浦に開いた称名寺。鎌倉中期成立以降の寺の推移、金沢文庫文書の管理形態を解明し、金沢氏による支配関係や寺院の組織と運営、本寺の極楽寺との関係などを考察する。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32704.html

「第三節 鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」は、

-------
はじめに
一 禅意とその法脈
二 『宝寿抄』の伝授と内容
三 『宝寿抄』の法説とその教学
おわりに
-------

と構成されていますが、「一 禅意とその法脈」から少し引用します。(p252以下)

-------
 禅意は、『宝寿抄』に「禅弁大徳<改名禅意>」とみえ前名は禅弁であった。禅意の経歴は、額安寺忍性塔出土の禅意正一房骨蔵器に次のようにみえる。

  奥州磐城郡東海道□□相州極楽律寺真言院住持比丘禅意正一房遺骨也、
  嘉元三年<巳乙>八月三十日□ □於真言院入滅<十年>六十五歳、先師和尚之遺□
  納遺骨於額安寺之墳墓□是□□□遺命也、

 正一房禅意は、嘉元三年(一三〇五)、鎌倉極楽寺真言院で没、六十五歳。生年は仁治二年(一二四一)。忍性墓塔への合葬は「遺命」であり禅意の命によるものであった。嘉元元年の極楽寺の忍性骨蔵器には、住持の栄真とともに石塔の願主として禅意が連署している。忍性没後の極楽寺で、栄真とならぶ高僧であった。法流をみると、西園寺公経の息で醍醐寺覚洞院の実勝の伝法灌頂の記録「実勝授与記」に、弘安三年(一二八〇)に鎌倉甘縄無量寿院で実勝から伝授されており鎌倉極楽寺長老と見える(賜芦文庫文書、金文五八五九)。『密宗血脈抄』の勧修寺血脈次第には、禅恵として「心一上人、鎌倉極楽寺、第二祖」、『野沢大血脈』の勧修寺流血脈次第や『野沢血脈集』は「禅意 心一上人」とある。上記の禅恵は禅意のことをさしている。「心一上人」「禅恵」と誤記されたのは、「正」「意」の草書が「心」「恵」と類似することで生じた錯誤であろう。微妙なのは次のものである。

 (1)実勝─┬──禅意   鎌倉極楽寺真言院
       └──静基上人 重受 東山白毫院長老(『血脈私抄』)

 (2)実證─┬──静基上人 重受 妙智房
       └──心一上人 白毫院長老 極楽寺真言院坊主(『野沢大血脈』)

 禅意は、京都白毫院長老を経歴したのであろうか。白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院で、禅意と静基は兄弟弟子であった(金文五八五九)。また、禅意は『宝寿抄』巻十の金剛界の房中作法に「先師円光上人」と記し、静基は『密宗血脈抄』を編纂するとともに口伝集『秘鈔聞書表題<円光上人良含口説妙智房静基類聚>』を残し(『東寺観智院金剛蔵聖教目録』一九)、円光房良含を共通の師匠としており同様の立場の律僧の阿闍梨と判断できるので検討しておこう。(2)は『密宗血脈鈔』にもみえるが、「心一上人血脈、道教・親快ツレリ、此親快悉道教雖無受法、大概計受法歟、血脈為成近、如此連之、但不審相残レリ」と疑念を抱いている。静基は、房号が妙忍房【ママ】、正応二年(一二八九)に蓮乗院で良含から伝法され、正安四年(一三〇二)に極楽寺で華厳僧智照に伝法し極楽寺止住の経歴がある(金文六五四六・六四一五)。正和元年(一三一二)に正法蔵寺(鎌倉松谷寺)で剱阿に伝授した印信には「小僧、幸、蒙先師白毫院上人灌頂印可矣」と記し(金文六五四九)、静基の白毫院長老からの伝法は確かである。一方、禅意の住した極楽寺真言院は、永仁五年(一二九七)に忍性が草創したとされ(『性公大徳譜』)、室町前期まで灌頂堂として使用されていた(金文六六八四)。永仁五~嘉元三年(一二九七~一三〇五)の間、静基【ママ】は極楽寺におり、貞顕は乾元元年(一三〇二)に六波羅探題として上洛している。禅意は、この間、先述の禅意の骨蔵器の銘に「十年」と記されている点からみても、極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう。
-------

二箇所に【ママ】としましたが、「静基は、房号が妙忍房」の「妙忍房」は「妙智房」の単なる誤記だと思います。
また、(1)では静基が「東山白毫院長老」、(2)では「心一上人」禅意が「白毫院長老」となっていて、二人の経歴が混同されている可能性があるため、福島氏は「禅意は、京都白毫院長老を経歴したのであろうか」否かを考証された訳ですが、「額安寺忍性塔出土の禅意正一房骨蔵器」の銘文から、禅意は十年(ほど)極楽寺真言院にいたことが明らかなので、「永仁五~嘉元三年(一二九七~一三〇五)の間、静基は極楽寺におり」では意味が通らず、ここは「静基」ではなく「禅意」の誤りだろうと思います。
ま、結論として、京都の「東山白毫院長老」は静基で間違いない訳ですね。
さて、『興福寺略年代記』に永仁六年(1298)の「正月七日、為兼中納言并に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ畢んぬ。また白毫寺妙智房同前」と記された「白毫寺妙智房」が静基上人だとすると、「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」なので、「白毫寺妙智房」が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕されたことは政治的に随分微妙な話となります。
ちなみに「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院で」に付された注(14)には、

-------
(14)林幹弥氏「律僧と太子堂」(『太子信仰の研究』、一九八〇年)。櫛田良洪氏は静基を南都白毫院の僧とされる(「関東に於ける東密の展開」『真言密教成立過程の研究』第六章五四四頁)。『密宗血脈鈔』の基礎となった静基の『血脈鈔』は、徳治二年(一三〇九)に東山白毫院で完成とされており、南都作成とは考えられないので記しておく(小田慈舟氏解説、『仏書解説大辞典』)。良含が、東山白毫院の僧であることは、田中久夫氏「持戒清浄印明について(二)」(『金沢文庫研究』一二〇、一九六六年)紹介資料にもみえる。
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とあります。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)

2022-05-29 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月29日(日)18時38分8秒

今谷説と、その核心的な部分に対する小川氏の批判は既に紹介済みです。

今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52057127f53e26a9eb1704085e098c55
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ed4b667f07c50b08a053c15fdc1b58d

(その4)で紹介済みの、

-------
 そして何より聖親法印は石清水八幡宮寺の執行であり、東大寺八幡宮の僧ではない。石清水八幡宮に執行という職階が見えないことを理由に、聖親を石清水の僧ではないとするのは粗笨に過ぎる。この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる。とりわけ永仁七年(一二九九)正月二十三日の『正安元年新院両社御幸記』に「導師<宮寺僧執行聖親>参上啓、給布施<裹物一>」と見えることは注目される。つまり聖親は事件後まもなく赦免されて、執行の地位に復帰し、伏見院の御幸を迎えていることが知られるのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe

に続けて、小川氏は、

-------
 後深草院や伏見院は石清水八幡宮にしばしば御幸しており、聖親は自然両院と接する機会が多かった。とすれば聖親はその治世に為兼とともに容喙するところがあって(あるいはみなされて)捕縛されたとするのが、現時点では最も適当かと思われる。少なくとも聖親がもし南都抗争の中心人物であるならば、為兼よりずっと早く赦免される筈がない。佐渡配流事件は為兼一人が標的であったと断じてよいのである。
-------

と書かれていますが(p41)、この部分、私は小川氏に全面的には賛成できません。
というのは、今谷著に、

-------
為兼に連座した僧二人

 籠居中の為兼が、永仁六年正月に六波羅探題に拘引されたときの記録『興福寺略年代記』(以下『略年代記』と略す)は、南都興福寺に伝来する古記録を同寺の僧が編年総括した、信頼できる年代記である(永島福太郎「奈良の皇年代記について」(『日本歴史』一三八号)。それは為兼の拘引について次のように記している。

 正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b85486c1244833471cf4e06e87fb13a

とあるように、「為兼に連座した僧二人」のうち、小川氏は聖親については解明されましたが、「白毫寺妙智房」については言及すらされていません。
今谷氏が言われるように、「白毫寺妙智房」が大和(奈良)の人であれば、為兼流罪と「南都擾乱」の関連の可能性が、ごく僅かであれ残されることになります。
今谷氏は永仁頃に「妙智房」が「白毫寺」に属していた根拠を示さないばかりか、

-------
やや後年の史料ではあるが、長禄三年(一四五九)九月の記録に、

 一、一乗院祈祷所白毫寺、絵所の者大乗院座の吐田筑前法眼重有相承せしむ。
                        (『大乗院寺社雑事記』)

とあり、白毫寺は興福寺の三箇院家の一つ、一乗院の祈祷所となっており、一乗院系列の寺院であったことがわかる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ec8b159a880202a90dc21956a0bfe3e

などと言われますが、「白毫寺妙智房」が逮捕された永仁六年(1298)の百六十一年後の記録は「やや後年の史料」とは言い難いところがあります。
ところで、私自身も(その5)では、

-------
小川氏が「妙智房」まで南都と無関係と論証されたのなら、今谷説は成立の余地は全くありませんが、白毫寺が南都の寺であることは確実です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe

などと書いてしまったのですが、再考の結果、私は「白毫寺」は京都の東山太子堂白毫寺(速成就院・大谷堂)の可能性が高いのではないかと考えます。
即ち、『三宝院伝法血脈』の「第廿六代祖実勝法印」の「附法弟子」の一人に、

 静基上人<重受。東山白豪院長老妙智房。>

とあって(『続群書類従 第二十八輯下 釈家部』、p356)、「東山白豪院」ではあるものの「妙智房」という僧侶は実在します。
そして、実勝(1241-91)は、

-------
仁治(にんじ)2年生まれ。西園寺公経(きんつね)の子。真言宗。醍醐(だいご)寺にはいり,覚洞院の親快から灌頂(かんじょう)をうける。弘安(こうあん)10年(1287)醍醐寺座主(ざす)となる。正応(しょうおう)4年3月13日死去。51歳。通称は西南院法印,太政大臣法印。著作に「求聞持法」「灌頂私記」など。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E5%8B%9D-1080211

という人物ですから、その「附法弟子」の「妙智房」は永仁六年(1298)に登場してもおかしくありません。
「東山白豪院」は「東山白毫寺」の別表記ないし誤記でしょうね。
ということで、小川説に私見を加味すると、「為兼に連座した僧二人」はいずれも南都ではなく京の僧侶ということで、結論的には今谷説は「南都騒擾」との関係では全然駄目、ということになります。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その13)

2022-05-28 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月28日(土)15時23分5秒

先日、ツイッターの投票機能を利用して、

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明らかに脱落・錯簡のある「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」に関し、私は小川剛生氏の復元案に若干の疑問を呈してみましたが、どのように思われますか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e7c34e5955f4966a808387e1a62f652f

という質問をしてみたところ、

□ 小川剛生氏の復元案が正しい。         14.3%
□ 鈴木小太郎の見解が正しい。            0%
□ 鈴木説は疑問だが、小川説にも問題がありそう。 28.6%
□ 分らない。                  57.1%

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1528981773455343617

という結果でした。
細かい数字になっていますが、全投票数が7票なので、順に1・0・2・4票ということですね。
私見は、小川氏自身が認めておられる第二項のバランスの悪さについて、思い付き程度の解決策を示したものですが、古文書・古記録の専門家が「事書案」に関心を持たれて、もう少し議論が深められることを期待したいと思います。
さて、為兼の第二次流罪に金沢貞顕が関与しているのではないか、という問題を検討する前に小川論文の続きをもう少し見て行きます。
小川論文は、そのサブタイトルに「土佐配流事件を中心に」とあるように第二次流罪をメインとしていますが、世間的には第一次流罪に関する今谷明氏の新説を粉砕してしまったことの方が話題になりました。
その概要は既に紹介済みですが、改めて小川氏の見解を正確に引用しておきます。(p39以下)

-------
五 佐渡配流事件の再検討

 ところで「事書案」は遡って為兼の永仁六年の佐渡配流事件についても触れているところがあるので、これについても検討したい。
 まず「如重綱法師申詞者、不悔永仁先非云々」というのによれば、佐渡配流も土佐配流と同じ原因、すなわち「政道巨害」をなした点にあることが明瞭となる。
 なお、「彼度有陰謀之企由一旦及其沙汰」とあるのは、『花園院宸記』の「頗渉陰謀事」と符合し、為兼の「陰謀」が取沙汰されたことが分かる。当時の用法から「陰謀」とは幕府の首長に対する反逆計画を指すのは明らかで、伏見院の周辺にそういう雰囲気が醸成されていたと推測することもできようが、「政道之口入」が誇張されて言い立てられた結果とみなせばよいであろう。なおこの事件の後でも伏見院は親書を遣わし、北条貞時から「慇懃」な返事があり、都鄙の「合体」を確認したことも初めて知られる。
 また、「納言二品、彼二品事、永仁不可及沙汰之由関東被申之」とあることから、朝廷の側でも一旦為子を罪科に処することを検討したのであろう。為兼・為子の姉弟が処罰されるということは、先に縷説したように、両人が伏見院の治世に容喙したことを弾劾したものとみなされる。
-------

いったん、ここで切ります。
「この事件の後でも伏見院は親書を遣わし、北条貞時から「慇懃」な返事があり、都鄙の「合体」を確認したことも初めて知られる」に対応するのは、「事書案」の、

-------
永仁御合躰事、最勝園寺禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e

という箇所ですが、これは「永仁御合躰事」「最勝園寺禅門慇懃御返事」「正和御発願子細」の三つを「きっとご存じのことでしょうが」と言っているように見えます。
小川氏は第一次流罪の後、「最勝園寺禅門」(北条貞時)から「慇懃御返事」があり、それで「御合躰」が確認されたと解されていて、それは正しいと思いますが、「正和御発願」とは何なのか。
「御発願」なので正和二年(1313)十月十四日、伏見院が出家して政務を後伏見院に譲ったことだと思いますが、その「子細」とは、幕府側が伏見院と後伏見院の不仲の噂を知っていることを前提に、別に問題はなかったのですよ、と言っているのか。
深読みのし過ぎかもしれませんが、ちょっと気になります。
ま、それはともかく、続きです。(p40)

-------
 ところで最近、今谷明氏は、為兼の佐渡配流を永仁の南都擾乱、すなわち永仁元年から三年にかけて最も激化した、興福寺院家の大乗院と一乗院との抗争事件の責任を負わされたとする新見解を提示された。
 その根拠は南都関係者の処罰を申し入れる東使の入洛と、為兼が権中納言を辞したことが時期的に近接していることと、佐渡配流を伝える唯一の史料というべき『興福寺略年代記』に為兼の連繋者として見える「八幡宮執行聖親法印」を、騒動の中心となった東大寺八幡宮の執行と推定されてのことであった。今谷氏の説は従来曖昧であった配流の実情を明解に言い切っており、もしこの説が認められるならば、今後の為兼研究には種々修正すべき点が生じてくる。たとえば南都の問題に因があるならば、為兼が在島中に『鹿百首』を詠んで春日大明神に自らの無罪を訴え帰京を祈願した動機もよく説明されるからである。
 しかし、残念ながらこの説は成立し難い。まず右の程度では、為兼の辞官と永仁の南都擾乱を積極的に結びつける根拠は薄弱と言わざるをえず、「事書案」が説く以上の事情を想定するには及ばない。氏が幕府への敵対行動として配流の直接の因をなしたと強調される、一乗院門徒による蔵人平信忠の宿所破壊事件は、為兼の籠居中のことであり、かつ佐渡配流はそれから一年も後である。
 また為兼はしばしば伏見院に奏事する役目を勤めていることから、「後年の南都伝奏・山門伝奏を兼ねた地位にあった」とまで断定されるのであるが、伝奏が当時そのような責務を帯びた証はなく、後述するように為兼は明らかに伝奏ではないのだから、南都の問題で罪に問える筈がない。
-------

このように小川氏は細かいジャブを刻んだ後、聖親が東大寺八幡宮の僧ではない、というアッパーカットをくらわせ、今谷新説をノックアウトしてしまいます。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その12)

2022-05-27 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月27日(金)12時18分34秒

続きです。(p39)
為兼の第二次流罪についてのまとめとなります。

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 このように「事書案」は、伏見院と後伏見院の不和、関白の交替など、当時の廷臣の日記・消息などによってのみ知られるところとよく符合する上、その事実をより具体的に伝えるものであって、実に興味深い内容である。為兼の土佐配流事件については、ほぼ以下のような経過を辿ったことが導き出されよう。
 幕府はかねて持明院統の治世の数々の失政があるとにらんでいたが、「凡政道事、就謳哥説可被糺明之由、度々被申之処」とあるように、まずは伏見院自身でそれを是正することを期待した。すなわち、為兼らを院の判断を曇らせ様々な「非拠」を行わせる元凶として、暗にこれを退けるよう求めたのである。しかしながら、伏見院にはもとよりそのような考えはなかった。幕府は苛立ちを強めたであろう。その間にも関白交替の一件が起こり、為兼を「政道巨害」とみなす説はいよいよ確乎たるものとなり、遂に重綱の入洛、為兼の逮捕という事態に至った。その契機には西園寺実兼の讒言があったかもしれないが、「成政道巨害之由、方々有其聞」うちの、一つに過ぎないのである。伏見院と幕府とでは事態に認識に相当な隔たりがあり、「事書案」においてもそれはなお解消されていなかった。巷説は止むことなく、やがて伏見院は幕府に対し、重ねて異心なき旨を陳弁する告文を送ることを余儀なくされたのである。
-------

「伏見院と後伏見院の不和」に関して、小川氏や井上宗雄氏は辻彦三郎「後伏見上皇院政謙退申出の波紋─西園寺実兼の一消息をめぐって」に好意的ですが、私はかなり疑問を感じます。
辻氏は『藤原定家明月記の研究』(吉川弘文館、1977)の「あとがき」の一番最後に、「いまや校了に当り、恩師龍粛氏の御霊に本書出版のことを御報告申上げるよりほかないわが身を省みつつ、後悔の念を鎮めようと思う今日この頃である」と書かれるように、「恩師龍粛氏」の影響を非常に強く受けている方です。
そのため、上記論文にも龍粛(りょう・すすむ、東京大学史料編纂所・元所長、1890-1964)の「西園寺家中心史観」の影響が顕著で、例えば、

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 伏見天皇は文永二年(一二六五)四月の降誕。洞院実雄の女で玄輝門院藤原愔子の所生である。実雄は実兼にとって祖父実氏の異母弟に当り、西園寺家では彼が後嵯峨天皇や亀山天皇の特別の信任を蒙って優勢であることを無論快しとしなかった。すなわち俗言を弄せば、実氏の孫の実兼と実雄の外孫の伏見天皇とでは前世から打解け得ない宿命にあったといえよう。況んや実兼が両統を二股にかけると見做されるにおいてをやである。
-------

などとあります。(p306)
辻氏の論文には基礎的な部分に「西園寺家中心史観」という歪みがあり、この歪みが実兼の伏見院宛て消息等の解釈などの個々の論点の分析にも反映されているように思えるのですが、議論を始めると長くなるので、後日の課題としたいと思います。
さて、私は「幕府はかねて持明院統の治世の数々の失政があるとにらんでいた」等の小川氏の幕府に関する認識に基本的に賛成しますが、ただ、小川氏の書き方だと、まるで幕府が非常に公平な、いわば現代の裁判官のように中立的な観点から持明院統の「失政」を観察し、「非拠」を「是正」するように「期待」し、それができないならば大覚寺統への交替という鉄槌を下す存在のようにも見えます。
もちろん、実際にはそんなことはなくて、幕府は中立的な存在でないのはもちろん、朝廷が持明院統・大覚寺統の対立のみならず、大覚寺統内部での更なる分裂、また同一系統内でも伏見・後伏見のような世代間の対立があるように、幕府も決して一枚岩ではありません。
小川論文を含め。従来の研究では、為兼の流罪が幕府内でどのように決定されたのか、具体的に誰が為兼の流罪を主導し、そしてその際には当該人物と京都側の誰が連絡を取り合っていたのか、といった事実が明確になっておらず、そうした問題意識も窺えません。
しかし、史料的限界はあるとはいえ、手がかりが皆無という訳でもなさそうです。
例えば正和四年(1315)十二月の為兼逮捕、翌五年正月の土佐配流の時点で幕府の実質的な最高権力者は長崎円喜・安達時顕とされており、この二人が為兼流罪を承認していることは間違いありません。
しかし、両人はあくまで最終的な裁定者であって、個別の問題の政策立案者・責任者という訳でもなさそうです。
当時の幕府首脳部(寄合衆)の中で京都事情に一番詳しいのは、乾元元年(1302)から六波羅南方、延慶三年(1310)から六波羅南方と、二度にわたって合計十年も六波羅探題を勤め、正和四年七月に連署となったばかりの金沢貞顕です。
為兼流罪の決定に際しては貞顕の意見は相当に重視されたはずですが、後宇多院との関係が深い貞顕こそが為兼流罪を主導した可能性も充分に考えられます。
この点、まだまだ準備は不充分ですが、とりあえず貞顕周辺の気になる事実をいくつか指摘してみたいと思います。

金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その11)

2022-05-26 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月26日(木)13時54分18秒

「事書案」については、伏見院が幕府に送った文書が何故に二条摂関家に伝わったのか、という問題もありますが、その理由は第三項から推定することができます。
この点、小川氏は前回投稿で引用した部分に続けて、次のように書かれています。(p38)

-------
 さて幕府から伏見院の「非拠」の最たるものとして突き付けられていたのが、第三項の「執柄還補事」であった。
 これは正和四年夏、関白近衛家平が辞意を洩らし、左大臣二条道平と前関白鷹司冬平が後任を競望したことに始まる。関白の任免も幕府の意向を確認するのが当時の慣例であった。五月二十日には伏見院が「可被仰合関東云々」と関東申次に諮り、ついで六月十九日には院宣と冬平の款状二通、および道平の祖父・師忠・父兼基の款状が伝達されている(『公衡公記』)。
 やがて幕府は「事書案」にある如く、「任道理可為聖断」というこのような場合の決まり文句を返答して来た。それは、八月十日に幕府評定が開かれ、二条摂関家に対して「御先途御理運之条、雖勿論候、勅書之趣、暫可令期便宜給之由、被戴候上者、可令相待 公家御計給歟」という回答がなされたことからも裏付けられる。こうして九月二十一日鷹司冬平の還補となった。翌年に予定されていた新内裏への遷幸を控え、「有識之仁」が適任であるとの主張が通ったが、もともと冬平は伏見院の覚えめでたい人物であった(『井蛙抄』巻六)。
 ところが、この関白交代が幕府の心証をひどく害した。「事書案」には「執柄還補事、猥被申行非拠之由、世上謳哥之旨、有其聞、被痛思食」とある。驚いた伏見院は、幕府が「可為聖断」というから冬平を還補させたのである、意が道平に在ったのならば最初からそう申せばよいではないか、と述べている。幕府が態度を硬化させた原因には二条摂関家が何らかの働きかけをしたことも推測されよう。そして関白の決定には為兼が容喙したとみなされたこともまた容易に想像できる。為兼が以前から伏見院の行う任官に大きな影響力を有することは、当時の廷臣間では常識に属した。そして冬平は結局在任一年にも満たず正和五年八月二十三日に退けられ、道平が関白となった。なお、二条摂関家にこの「事書案」が伝来したのは、以上のような経緯と関係があるのかもしれない。
-------

登場人物を整理すると、正和四年(1315)現在、関係者の年齢は、

 二条師忠(1254-1341)六十二歳
 二条兼基(1267-1334)四十九歳
 鷹司冬平(1275-1327)四十一歳
 近衛家平(1282-1324)三十四歳
 二条道平(1287-1335)二十九歳

となっていて、二条道平は辞意を洩らした近衛家平よりも五歳若く、他方、鷹司冬平は近衛家平より七歳年長、二条道平よりは十二歳年長です。
「関白の任免も幕府の意向を確認するのが当時の慣例」であったので、伏見院はきちんと事前に幕府の意向を問い合わせ、「任道理可為聖断」という回答を得たので、「翌年に予定されていた新内裏への遷幸を控え、「有識之仁」が適任」と考えて経験豊富な鷹司冬平を還補した訳ですね。
伏見院としてはきちんと手続きを踏んだ上で適切な人事を行ったはずなのに、結果的に「この関白交代が幕府の心証をひどく害」することになってしまいます。
一体全体、これは如何なる事態なのか。
まあ、おそらく幕府側としては、「任道理可為聖断」という建前通りの回答はしたけれども、実際には幕府の意向が二条道平にあることは諸事情から当然に推知すべきであったのに、わざわざ鷹司冬平を選ぶなんて、伏見院は政治家としてあまりに無能なんじゃないの、莫迦なんじゃないの、という感じだったのではないかと思います。
なお、「為兼が以前から伏見院の行う任官に大きな影響力を有することは、当時の廷臣間では常識に属した」に付された注(20)を見ると、

-------
(20)『実躬卿記』永仁二年三月二十七日条・同年四月二日条・三年三月二十五日条に、伏見院在位の蔵人頭の任官に為兼が決定的な影響力を行使する様子が記される。このことは井上氏「一条法印定為について」(國學院雑誌101-1 平成12・1)に既に言及されている。
-------

とありますが、これは永仁二・三年(1294・95)の出来事ですから二十年前の話です。
井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』によれば、具体的には、

-------
 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6

という話ですが、蔵人頭と関白では重要性が異なるので、正和四年(1315)の「関白の決定には為兼が容喙したとみなされたこともまた容易に想像できる」訳でもなさそうです。
いずれにせよ、これが「非拠」の最たるものとなると、「讒言」とかは実はどうでも良くて、要は幕府は伏見院を見限った、ということではないかと思います。
伏見院政はもう終わらせるしかない、だったらその理由が必要だ、理由が特になければ作り出せばよい、寵臣の為兼に幕府への叛意があったことにしよう、という話なのではないかと私は考えます。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その10)

2022-05-25 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月25日(水)11時57分9秒

小川氏は、

-------
 しかし、事が為兼への讒言から起きたために伏見院は讒者を処罰しようとしている、という風に受け取られ、幕府にも伝わったらしい。ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない。実兼も讒臣呼ばわりされることには堪え難かったのであろう、幕府にこれを伝え、さらなる反発を招いたのである。伏見院は「凡讒諂臣、(中略)偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」と、そういう不心得の輩を探し出して罰するのは当然であって、為兼を処罰したのとはおのずと別事であると述べたのである。そして再び為兼一門への処罰の厳しさを強調し、それでも誠意を疑うのであれば、親しく宸翰を書いて遣わすつもりであるとする。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9d79dfe0a7c50869f81ac165a24df2a

とされますが、西園寺実兼か「讒諂臣」かどうかはともかくとして、実兼が「讒諂臣」云々の話を幕府に伝えた、という事実は「事書案」のどこにも書かれておらず、これは小川氏の勇み足ではないかと思います。
とにかく、窮地に陥っていた伏見院が、この時点でわざわざ永福門院の父である実兼を敵に回そうとするとは私には思えず、「讒諂臣」候補の筆頭は、「事書案」冒頭の「御治天間事」で皇統を持明院統から大覚寺統へ転換させようと工作していると名指しで糾弾されている六条有房と考えるのが素直だと思います。
さて、(その7)で引用した部分の続きです。(p38)

-------
 後文にはさきに為兼の「政道巨害を成す」といわれたことへの陳弁が連ねられる。

  此条入道大納言、不可相縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、
  此御方有御御許容、依被執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、
  存凶害驚遠聞歟、御老後恥辱何事如之哉、

 まず幕府は為兼の「張行」を伏見院が「許容」し、数々の「非拠」を行わせた結果、政治が乱れていると指摘し、伏見院は既に入道している為兼が現在の政務に関与するはずがないと弁解した。幕府の持明院統の治世に対する懸念が容易ならざるものであったことが分かる。
 つぎに「政道雑務御親子之間、被申合之条、代々芳躅也」以下は、伏見院と後伏見院の不和を背景とする。即ち、伏見院は正和二年十月に後伏見院に政務を譲り出家していたが、なお後伏見院を後見することが多かった。しかし後伏見院は父院の存在が重荷となり、この頃には政務の返上を申し立てる程であった。これも「謳哥説」の一つであり、持明院統の不協和音には幕府も関心を寄せたのである。ところで辻彦三郎氏は、当時の西園寺実兼が為兼を信任する伏見院からは距離を置き、逆に為兼を嫌う後伏見院を巧みに篭絡することで、伏見院の発言力の低下を意図していたことを看破し、『花園院宸記』の記事からは窺えなかった、為兼を取り巻く謀略を明らかにされている。「事書案」は辻氏の論が正鵠を射ていたことを裏書きする。闕文のために詳細は知り得ないが、つまりここは、法皇がなお政務に関与することに対する幕府の批判をうち消すべく記されたものなのである。
-------

「後文」の「不可相縡」という表現は、「縡」では意味が通らないので、これは「綺」(口出しすること、干渉)の誤りなんでしょうね。

「綺・辞・弄(読み)いろう」
https://kotobank.jp/word/%E7%B6%BA%E3%83%BB%E8%BE%9E%E3%83%BB%E5%BC%84-2009047

小川氏も「現在の政務に関与するはずがない」とされているので、そう解されているのだと思います。
ところで、「政道雑務御親子之間、被申合之条、代々芳躅也」云々には非常に複雑な背景があるので、「事書案」だけ読んでも全く理解できないはずです。
「為兼を取り巻く謀略を明らかにされている」に付された注(17)には、

-------
(17)『藤原定家明月記の研究』(吉川弘文館 昭和52・5)「後伏見上皇院政謙退申出の波紋─西園寺実兼の一消息をめぐって」参照。
-------

とあり、私も前々からこの論文が非常に気になっていました。
今回、改めてきちんと読み直してみたのですが、私にはとても辻彦三郎氏(元東京大学史料編纂所教授、1921-2004)が「当時の西園寺実兼が為兼を信任する伏見院からは距離を置き、逆に為兼を嫌う後伏見院を巧みに篭絡することで、伏見院の発言力の低下を意図していたことを看破」したとは思えず、それは辻氏や小川氏の「邪推」だろうと考えます。
また、「「事書案」は辻氏の論が正鵠を射ていたことを裏書きする」訳でもなかろうと思います。
総じて私は辻論文に極めて批判的なのですが、辻論文を批判しようとすると十回くらいの投稿が必要になるので、今は止めておきます。

-------
『藤原定家『明月記』の研究』

歌聖藤原定家の分身といってもよい「明月記」は鎌倉時代史研究に不可欠の史料である。本書は明月記自筆本が辿ったあとを歴史的に考察し、彼の感情の起伏をその行間に求めた。さらに江戸時代の貴紳が描く定家像をも論述。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32580.html
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その9)

2022-05-24 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月24日(火)14時16分48秒

私も自分に古文書学の素養がないことは十分に自覚しており、古文書や古記録そのものについて専門家の領域に踏み込むことは遠慮しているのですが、小川剛生氏の「事書案」の復元については、本当に小川氏の見解が正しいのだろうか、という疑問が拭えません。
というのは、小川氏の復元案によると、三項目のうち、二番目の「京極大納言入道間事」があまりに肥大して全体のバランスが極めて悪くなり、しかも「京極大納言入道間事」の内容に異様に重複が多くなってしまいます。
率直に言って、こんなまわりくどい文書を送ったら相手はイライラして突き返しても不思議ではなく、とても有能な廷臣が書いた文章とは思えません。
そもそも小川氏の復元の手順はどのようなものだったかというと、次の通りです。(p35)

-------
 「事書案」は『二条殿秘説』の、第五丁表から第九丁裏にわたって書写されているが、原本は文書であり、「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」というのは原本の端裏書ないし注記ではなかったかと想像される。
 ところが、鵞峰が「則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉」とする通り、この資料には脱落・錯簡がある。それは親本に由来するものであり、写本が行詰め等必ずしも親本の形態をとどめているものではないため、内容に即して復元する必要がある。
 現在の「事書案」は、それぞれ「御治天間事」「京極大納言入道間事」「執柄還補事」に始まる三項目からなっている。「執柄還補事」には、別項の文章が途中に紛れ込んでいるが、これを除去することでこの項は完全に復元できる。ついでその別項に属する文章は、これ自体二つの部分からなるようであるが、ともに第二項の「京極大納言入道間事」の一部と判断される。後で触れるように、この項は東使安東重綱の申し入れを引用しつつ釈明を行なったものと考えられるからである。結果的に第二項が著しく長大となり、かつ文章の脱落が二箇所以上に認められることになるが、まずその骨子は伝えていよう。この他の項が立っていたかは分からないが、一応この三項で完結していると見てよいのではないか。
 それでは以下に私案として錯簡を正し、「事書案」の全文を翻刻した。脱落と考えられる箇所は[     ]で示した。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e

ということで、第三項に交じっていた「別項に属する文章」を便宜的に【文章A】【文章B】とすると、

【文章A】

〔政〕]道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東
  使沙汰之次第、超過先規、已及流刑、随而如重綱法師申
  詞者、不悔永仁先非云々、彼度有陰謀之企由一旦及其沙
  汰、今度若為同前者、殊所驚思食也、然者云子孫云親類、
  重猶可被加厳刑歟、分明子細未被聞思食、御不審尤多端、
  若被疑申叡慮者、旁被歎思食、永仁御合躰事、最勝園寺〔北条貞時〕
  禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、此上猶
  可染 宸筆、都鄙之間、雖聊不可有隔心、仍就永仁

【文章B】

 [            ]字及委細、随分明左右可被思
  食定也、但又成政道巨害云々、此条入道大納言、不可相
  縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、此御方有御御許容、依被
  執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、存凶害驚遠聞歟、御
  老後恥辱何事如之哉、政道雑務御親子之間、被申合之条、
  代々芳躅也、万機無私之叡情、併任宗廟冥鑑、然而若有
  不慮之御違[             ]

となります。
私は【文章A】【文章B】は正和五年(1316)三月四日の「事書案」ではなく、「事書案」に先行する別の文書の一部の可能性があるのではないかと思います。
まず、「事書案」の第一項「御治天間事」は極めて短いものですが、「子細前々事旧畢、定有御存知歟」とあり、以前に何らかの通知をしたことを前提に、六条有房が下向したと聞くが、当方の見解を歪めるような主張をしているならば糺されねばならず、軽々に信用しないでください、と言っているように見えます。
また、「事書案」第二項「京極大納言入道間事」には、「讒諂臣」を処罰したいとする主張の中に「委細被戴七〔去カ〕年事書了」とありますが、これも先行する文書に「委細」が書かれていたことを前提としているように見えます。
そして、為兼流罪の後、伏見院から【文章A】【文章B】を含む第一の文書が提出済みだとすると、「事書案」第二項の冒頭に、いきなり為兼の養子・忠兼と姉・大納言二品(為子)に関する細かい話が出てくることも分かりやすくなります。
即ち、第二項の冒頭では、為兼の養子・忠兼の所領は悉く没収したが、ただ忠兼に養育させている「姫宮」の「御扶持」のため「一所」だけは残している、とずいぶん細かい弁解をしています。
更に為兼の姉「納言二品」(為子)についても、処分をしなかった理由として、「彼二品事、永仁不可及沙汰之由関東被申之、仍今度不及其沙汰」と、永仁の第一次流罪のとき、幕府は為子の責任を免じたから、今回もその措置に従ったのだ、と弁解し、「当時之次第如此、此上可為何様乎」(事情はこのようなものです。これ以上何をしたら良いのでしょうか)と訴えています。
これらは【文章A】が先行の文書だとして、そこで「云子孫云親類、重猶可被加厳刑」と約束したにもかかわらず、忠兼には所領を残しているし、為子は放置しているのはおかしいではないか、と難詰されて、それへの弁解と考えると分かりやすいように思われます。
仮に【文章A】【文章B】が先行する別の文書の一部だとすれば、第二項はほぼ半減し、「結果的に第二項が著しく長大となり、かつ文章の脱落が二箇所以上に認められることに」はなりません。
また、第二項の前半で言い尽くしている内容を後半でクドクドと繰り返すこともなく、非常にすっきりした、読みやすい文章となります。
まあ、これは本当に古文書・古記録の専門家の世界の話で、私のような素人が口を挟むのは僭越の至りですが、小川氏の復元案にはどうにも納得できないので書いてみました。
専門家の御意見を伺えれば幸いです。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その8)

2022-05-23 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月23日(月)12時53分31秒

小川氏は「『続本朝通鑑』為兼配流の記事を、その原拠たる「事書案」とを比較するに、相当に自由な解釈を行っていることが分かる。とくに先に触れた、為兼配流後の朝廷の対応と幕府の執奏の経緯などは都合よく辻褄を合わせており、正確な記述にはなっていない」(p36以下)と書かれていますが、『続本朝通鑑』の記事と小川氏復元の「事書案」を読み比べると、確かに正確な要約とは言い難いですね。
例えば「事書案」は大きく三項目に分かれ、

一、御治天間事
一、京極大納言入道間事
一、執柄還補事

という順番なのに、『続本朝通鑑』の記事では、筆頭の「一、御治天間の事」に相当する部分が一番最後に、

-------
又一説曰、六条前大納言源有房者、大覚寺法皇幸臣、頃間含密詔赴鎌倉、時人皆疑、催禅代之事也。故上皇殊懐憂懼。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed299e0d9a26605e19fd0e10d474f343

という具合いに、まるで付け足しのように書かれていたりします。
また、細かいことを言えば、「事書案」では、「先於忠兼朝臣〔京極〕者被解却所職、所有勅勘也、朝恩所々悉被改知行、為姫宮御扶持一所被預置也」と、為兼の養子・忠兼の処分が書かれているのに、『続本朝通鑑』では「勅責為兼収其領地」と、為兼に対する処分になってしまっています。
ただ、『続本朝通鑑』の記事で、『花園院宸記』と比較して一番重要な部分、即ち西園寺実兼が積極的に讒言したのではなく、あくまで幕府の判断を消極的に容認しただけ、という部分は、「事書案」の解釈としては間違いではないように思われます。
この点、次田香澄氏が重要な指摘をされており、(その4)では要約引用で済ませていましたが、改めて引用すると、「これを機会に皇太子尊治親王の践祚を待望する大覚寺統の運動があり、後宇多院の寵臣六条有房が鎌倉に下向したので、伏見院は深く憂慮した、というのである」の後に、

-------
 早く次田香澄氏はこれについて「『本朝通鑑』では、『花園院宸記』に見えてゐるやうに実兼自ら讒陥したのではなく、幕府に相談を持ちかけられてその提議に同意したといふことになつてゐるのである」と述べ、実兼が幕府に讒言したのではなく、あくまでも幕府の主体的な意志として為兼の逮捕が実行されたとする。つまり幕府は伏見院の失政を鳴らして朝廷政治に介入してきたとみなされる訳である。
 ただ正和五年三月に東使が入洛した事実は確かめられず、また為兼の捕縛と配流はそれ以前であるから、ここに述べられているような経緯が実際にあったとは考えにくい。それと江戸前期に成立した『続本朝通鑑』は、史論としてはともかく、史書としての信憑性にはたぶんに疑問が伴うため、次田氏もあくまで異説として触れたに過ぎず、肝腎の「二条殿の旧記」がいかなる資料か不明である以上、この記事から為兼の配流事件の真相を論ずるのは難しく、これまで顧みられることは無かったのである。
-------

と続きます。(p34)
ただ、「事書案」には、

-------
去年十二月廿八日東使上洛、如彼沙汰者、頗厳密、令驚耳歟、翌日重綱
法師令申之趣、入道相国〔西園寺実兼〕以按察[葉室頼藤]如奏聞者、
入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶不悔先非、成政道巨害之由、方々
有其聞之間、可配流土佐国云々、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e

とあるだけですから、より正確には「去年十二月廿八日」の「翌日」、西園寺実兼は安東重綱が言った内容を葉室頼藤を使者として伏見院に報告しただけですね。
安東重綱は正和四年(1315)十二月二十八日に上洛して六波羅に入り、直ちに「六波羅数百人軍兵、毘沙(門)堂に馳せ向い、為兼を召取り候」(『鎌倉遺文』25702、「玄爾書状」)なので、「去年十二月廿八日」の時点では一体何が起きているのか誰も正確には理解しておらず、実兼も「翌日」に安東重綱から為兼逮捕の理由を聞き、それを伏見院に伝えた、という順番です。
従って、次田香澄氏の「『花園院宸記』に見えてゐるやうに実兼自ら讒陥したのではなく、幕府に相談を持ちかけられてその提議に同意したといふことになつてゐるのである」という解釈も不正確であり、事前の「相談」などなかった訳ですね。
さて、小川氏は「ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない」(p37)とされますが、これは私にはあまりに不自然な発想のように思われます。
もちろん実兼も為兼の専横、特に『公衡公記』に記された正和四年四月の「南都西南院和歌蹴鞠の会」での傲慢な態度などは面白くなかったでしょうから、為兼逮捕の前に幕府からの「相談」はなかったとしても、関東申次という立場である以上、あるいは何らかの意図を幕府に伝えたことはあったかもしれません。
しかし、ここで問題となっているのは実兼の意図ではなく、正和五年(1316)三月四日、伏見院が幕府に送った正式な文書中の「凡讒諂臣、縦対大納言入道、雖挿私之宿意、被引奸詐之我執、忘公私之礼、偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」という表現の解釈です。
この時点で、伏見院が「讒諂臣」は実兼だ、処罰しなければならない、などと内心で思っていたとしても、それを匂わせるような文書を幕府に送ることがあり得るのか。
窮地に追い込まれている伏見院にとって、自身の正室・永福門院の父であり、関東申次の要職にある実兼をわざわざ敵に回すようなことを書いて、何か得になることがあるのか。
伏見院の政治的判断能力については些か懐疑的な私ですが、さすがに伏見院も、この文書で実兼の責任追及を匂わすような真似をするとは、私には到底思えません。
では、ここで伏見院が処罰したいと思っている「讒諂臣」は誰なのか。
まあ、私としてその筆頭候補は文書の冒頭に、

-------
一、御治天間事、子細前々事旧畢、定有御存知歟、六條前大納言〔源有房〕下向
  云々、若有掠申之旨者、可被糺決、不可有物忩沙汰乎、
-------

と登場する六条有房だろうと思います。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その7)

2022-05-21 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月21日(土)13時18分35秒

それでは第四節に入ります。(p37)

-------
 第一項「御治天間事」は、持明院統の治世が事件によって終わりかねないことを憂えたものである。ここには、敵失に奇貨居くべしということで、早速大覚寺統の後宇多院が腹心の六条有房を幕府に派遣した事に言及している。有房が使者に立ったことは、後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく。伏見院は、幕府がくれぐれも早まった判断をしないようにと訴えているのである。
 第二項は「京極大納言入道間事」である。まず東使安東重綱は為兼を捕縛した翌日、西園寺実兼を通じ、
  入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶不悔先非、成政道巨害之由、
  方々有其聞之間、可配流土佐国云々
という申し入れを行った。東使が為兼を処罰した理由を「政道巨害を成す」としたのが第一に注意されよう。『花園院宸記』の為兼薨伝には別に「得罪之故者、政道口入之故之由、関東已書載之」とあるのはこれを指し、また「事書案」の後文で「如重綱法師申詞者、不悔永仁先非云々」あるいは「但又成政道巨害云々」などとあるのは、全てこれを受けている。「政道巨害」の具体的な内容については後述する。
-------

いったん、ここで切ります。
「後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく」に付された注(14)には「拙稿「六条有房について」(国語と国文学73-8 平成8・8)参照」とありますが、この論文を見ると、六条有房が鎌倉を訪問した頻度に驚かされます。
先ず、

-------
 正応五年から永仁二年にわたる、鎌倉滞在中の醍醐寺座主親玄の日記によれば、有房がほぼ毎年東下し、幕府要人と面会している事実が知られる。「有房朝臣使者入来了、為訴訟下向」(正応五・十一・十五)、「今日羽林向相州〔北条貞時〕亭、御書等持参」(永仁元・九・十八)、「有房朝臣書状到来了、廿七日罷立京都由也」(同・十二・九)、「今日羽林出仕了」(同・十二・十七)、「羽林向佐々目[頼助]了」(同・十二・廿)、「播阿使入来了、有房朝臣状到来了云々」(永仁二・九・廿五)等。亀山院の指令をうけて大覚寺統復権の為の政治工作にあたっていたと見て誤りはあるまい。
-------

とありますが(p32)、親玄(1249-1322)は久我通忠の子なので六条有房とは従兄弟の関係にあり、生年も有房(1251-1319)と近いですね。
ちなみに有房と従兄弟ということは、親玄は後深草院二条(1258-?)の従兄でもあります。
『親玄僧正日記』は正応五年(1292)から永仁二年(1294)までの三年分しか残っていないので、この前後の期間に有房が鎌倉を訪問していたのかは分かりませんが、三年間に限っても慌ただしいほど京都・鎌倉を往復していますね。

高橋慎一朗氏「『親玄僧正日記』と得宗被官 」
http://web.archive.org/web/20150107053657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm
土谷恵氏「東下りの尼と僧 」
http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm

また、嘉元三年(1305)九月の亀山院崩御後の恒明親王騒動の際も、有房は後宇多院側の立場から同年十一月に東下し、翌年、帰京後再び慌ただしく東下しています。
記録に残っていない事例を含めたら、有房は生涯にいったい何度、京都・鎌倉を往復したのか。
ま、それはともかく、続きです。(p37以下)

-------
 為兼は配流されたものの、その後の伏見院の処置が軽微でとかく公正を欠くものとみなされたため、幕府から重大な疑念を呈された。この「関東時議」に驚いた伏見院はさきの処置がいかに厳密であるかを詳しく説明し、幕府の疑念を払拭しようとしたのである。
 これによって、為兼の周辺に罪科が及んでいる事が知られる。忠兼は解官され所領も一箇所を遺して没収された。また「納言二品」は為兼の姉従二位為子である。老齢ながら当時権勢のあった女房であるらしく、幕府はその責を糺したが、伏見院は「今度不及其沙汰」と不問に処したのである。為子が罪に問われたのは事件の性格をおのずと窺わせよう。なお、同じく養子の俊言・為基も連座したらしい。
 しかし、事が為兼への讒言から起きたために伏見院は讒者を処罰しようとしている、という風に受け取られ、幕府にも伝わったらしい。ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない。実兼も讒臣呼ばわりされることには堪え難かったのであろう、幕府にこれを伝え、さらなる反発を招いたのである。伏見院は「凡讒諂臣、(中略)偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」と、そういう不心得の輩を探し出して罰するのは当然であって、為兼を処罰したのとはおのずと別事であると述べたのである。そして再び為兼一門への処罰の厳しさを強調し、それでも誠意を疑うのであれば、親しく宸翰を書いて遣わすつもりであるとする。
-------

うーむ。
「ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない」とありますが、この状況で何故に小川氏が西園寺実兼を「讒臣」と考えるのか、私にはさっぱり理解できません。
その点を含め、次の投稿で私見を少し書きたいと思います。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その6)

2022-05-21 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月21日(土)10時17分22秒

小川論文はサブタイトルが「土佐配流事件を中心に」となっていて、為兼の第一次流罪についての新知見はあくまでも副産物という扱いです。
ただ、「事書案」から窺われる幕府側の姿勢は、結局のところ第一次流罪(佐渡)と第二次流罪(土佐)は同一原因、即ち為兼の「政道巨害」によるものだ、ということなので、第二次流罪に関する記述も丁寧に見ておきたいと思います。
ということで、続きです。(p36)

-------
 以上の復元により文意はほぼ明らかになったであろう。すなわち「事書案」は伏見法皇の意を体したものであり、為兼の配流をはじめとする一連の事件を受けて、その責任を詰問してきた鎌倉幕府に対して朝廷側の対応を説明し陳弁に努めたものである。その筆者は明らかではないが、院の近臣であり、このような文書の起草に当たることのあった平経親がその候補に挙げられよう。それから先に原本では端裏書かと推測した「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」という注記は、「事書案」を公武交渉の際の窓口となった鎌倉幕府の奉行人に附した年時を指す。当時奉行人で「信濃前司」といえば太田時連(道大)である。一方「刑部権少輔」には該当者がいないが、例の「文保の和談」で活躍した摂津親鑒が当時刑部権大輔であり、正和四年には奉行人として活動している。
-------

正和四年(1315)十二月二十八日に東使安東重綱が上洛し、六波羅の軍勢三百余りを率いて為兼を逮捕、翌五年(1316)正月十二日に土佐に向けて出発したとされるので、「事書案」が記された正和五年三月四日の時点ではまだまだ事態は収束せず、関係者は疑心暗鬼になっていたでしょうね。
なお、「平経親がその候補に挙げられよう」に付された注(12)を見ると、

-------
(12)森茂暁氏『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版 平成3・6)第二章第三節「皇統の対立と幕府の対応」は、経親の執筆した伏見院の「恒明親王立坊事書案 徳治二年」を紹介している。
-------

とあります。
徳治二年(1307)の事書案の端書には「不出之事書案 経親卿書之 徳治二年」とあり、書いたのは平経親で間違いないのですが、森氏は「平経親自身が立案・清書した可能性が全くないわけではないが、そう断定することはできない。むしろその背後に立役者がいるようにも思われる」とし、立案者=西園寺公衡説を唱えておられます。
三浦周行は立案者を京極為兼と考えていました。

http://web.archive.org/web/20150515165002/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm

さて、続きです。(p36以下)

-------
 さて『続本朝通鑑』為兼配流の記事を、その原拠たる「事書案」とを比較するに、相当に自由な解釈を行っていることが分かる。とくに先に触れた、為兼配流後の朝廷の対応と幕府の執奏の経緯などは都合よく辻褄を合わせており、正確な記述にはなっていない。ただ「事書案」の興味深い内容に対して、錯簡のため十分に活用できなかったものの、これを生かして記事を構成しようとした努力はやはり注意されよう。これによって『続本朝通鑑』の史料解釈、あるいは歴史叙述の態度の一班を伺うことができるであろう。
 それはともかく、為兼の土佐配流について考える時に、もはや『続本朝通鑑』の記事の替わりに、この「事書案」という一次史料を生かさない手は無かろう。また「事書案」は鎌倉後期の公武交渉史の空隙を埋めるものとしても、様々に活用される筈である。右の復元案に従って、次説では「事書案」の要旨をまとめてみたい。
-------
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その5)

2022-05-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月20日(金)17時25分51秒

林鵞峰が「按、此旧記残簡、出自二条殿、而無他可考証、則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉」と記していたように「事書案」には脱落・錯簡があり、小川氏はそれを次のように修正して翻刻されています。(p35以下)

-------
   『二條殿秘記内』(朱)
   正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔、信濃前司、>
    條々
  一、御治天間事、子細前々事旧畢、定有御存知歟、六條
  前大納言〔源有房〕下向云々、若有掠申之旨者、可被糺決、不可有
  物忩沙汰乎、
  一、京極大納言〔為兼〕入道間事、関東時議被驚思食之間、先於
  忠兼朝臣〔京極〕者被解却所職、所有勅勘也、朝恩所々悉被改知
  行、為姫宮御扶持一所被預置也、納言二品〔従二位為子〕、彼二品事、
  永仁不可及沙汰之由関東被申之、仍今度不及其沙汰、当
  時之次第如此、此上可為何様乎、凡政道事、就謳哥説可
  被糺明之由、度々被申之処、或承、或以重綱法師〔安東〕令言上
  之旨被申之間、去年十二月廿八日東使上洛、如彼沙汰者、
  頗厳密、令驚耳歟、翌日重綱法師令申之趣、入道相国〔西園寺実兼〕以
  按察[葉室頼藤]如奏聞者、入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶
  不悔先非、成政道巨害之由、方々有其聞之間、可配流土
  佐国云々、就成政失者、就其篇目、被改先非、可被慰人
  之愁歟、凡讒諂臣、縦対大納言入道、雖挿私之宿意、被
  引奸詐之我執、忘公私之礼、偽何可挙君非於遠方哉、如
  此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟、委細
  被戴七〔去カ〕年事書了、但成政道巨害之輩、被加懲粛之写〔ママ〕、更
  不可依親疎、尤可為御本意、惹起自讒者之凶害者、可被
  糾明之由、就謳歌説被触申許也、所詮今度沙汰之趣、被
  疑申 叡慮者、御合躰不変之次第、重染宸筆、可被顕御
  心底、将又為大納言入道一身罪科者、就其旨趣、且被散
  御不審、且可被休御愁鬱者也、[
  〔政〕]道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東
  使沙汰之次第、超過先規、已及流刑、随而如重綱法師申
  詞者、不悔永仁先非云々、彼度有陰謀之企由一旦及其沙
  汰、今度若為同前者、殊所驚思食也、然者云子孫云親類、
  重猶可被加厳刑歟、分明子細未被聞思食、御不審尤多端、
  若被疑申叡慮者、旁被歎思食、永仁御合躰事、最勝園寺〔北条貞時〕
  禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、此上猶
  可染 宸筆、都鄙之間、雖聊不可有隔心、仍就永仁
  [            ]字及委細、随分明左右可被思
  食定也、但又成政道巨害云々、此条入道大納言、不可相
  縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、此御方有御御許容、依被
  執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、存凶害驚遠聞歟、御
  老後恥辱何事如之哉、政道雑務御親子之間、被申合之条、
  代々芳躅也、万機無私之叡情、併任宗廟冥鑑、然而若有
  不慮之御違[             ]
  一、執柄還補事、猥被申行非拠之由、世上謳哥之旨、有
  其聞、被痛思食、再任之条、先例勿論之上、当時為有識
  之仁、為政道要須之間、且任勅約、且依器用、被還補之、
  左府〔二条道平〕為一上致公務、所申雖非無其謂、未至父祖先途之年
  齢、暫相待之条、不可有子細乎、再任毎度何時無理運之
  仁哉、且祖父〔鷹司兼平〕建治例在近歟、当時之用捨、可謂玄隔乎、
  抑関東御返事、任道理可為聖断云々、此條偏被任時議歟
  之由、被思召候間、被執申候間、若被存左府理運之由、
  被申此返事者、令沙汰之趣、令参差歟、可為何様乎、
-------

小川氏は「以上の復元により文意はほぼ明らかになったであろう」(p36)と軽く書かれていますが、これを見て大体の内容が把握できた方はどれくらいおられるでしょうか。

>㎞さん
こんにちは。
「議政官のインフレ化」、私もちょっと変なことを書いてしまったなと反省し、次の投稿で「私は漠然と両統迭立期に急激に官職のインフレ化が進んだように思っていたのですが、そうでもなさそうです」と書きました。
ただ、公卿の数量的把握は誰かやっているだろうから別に私がやらなくても、という気持ちもあって、全然フォローが出来ていません。


※㎞さんの下記投稿へのレスです。

議政官の定員 2022/05/20(金) 16:55:50
>議政官のインフレ化
正応5年の元旦現在の議政官は、
関白   九条忠教
左大臣  西園寺実兼
右大臣  鷹司兼忠
内大臣  二条兼基
大納言  堀川具守、土御門定実(2名)
権大納言 三条実実、久我迪雄、花山院家教、西園寺公衡、近衛兼教、大炊御門良宗、九条師教、、鷹司冬平(8名)
中納言  洞院實泰
権中納言 中院通重、御子左為世、花山院定教、中御門為方、一条内実、坊城俊定、洞院公尹、京極為兼、西園寺公顕(9名)
参議   花山院師藤、粟田口教経、衣笠冬良、滋野井冬季、中御門宗冬、鷹司宗嗣、二条資高、花山院師信(8名)
です。これは鎌倉前期の著である『官職秘鈔』の示す、大納言2名。権大納言8名(最大)、中納言(3人)・権中納言(最大10名 実際の補任例では正権を含めて10名)と比較しても、多いとはいえません。なお、参議は八の座と称されたように、実質定員8名です。どうやら昇進・辞任に伴う新任者も含めているようですね。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その4)

2022-05-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月20日(金)11時26分28秒

第二節には若干の続きがありますが、そこでは「廷臣の為兼がどうして武家によって処罰されたのであろうか」という問題提起がなされています。
続いて第三節に入ります。(p33以下)

-------
三 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(1)

 林鵞峰編『続本朝通鑑』巻第一一六・正和五年三月の条に「東使入洛議事。上皇驚懼」という項文に繋けて、為兼の土佐配流について、他の資料には見えない記述がある。

  或記謂、東宮尊治春秋漸近三十、其侍臣等労待禅継、故謳歌多端、而時務有不愜
  武家之意者。旧臘東使入洛、抑損之。今年三月東使又来、與六波羅両職相議奏請
  曰、京極大納言入道<藤為兼。>往年貶謫、赦帰之後、猶不悔改、而為朝廷之巨害
  云々。上皇懼而不得已、勅責為兼収其領地。東使猶不慊之、告西園寺前相国実兼、
  実兼奏曰、宜任武家之請而流土佐国。然諸臣胥議謂、朝務不可隔親疎、若実有罪
  者、不可不罰、然亦讒愬之行、不可不察焉。東使又議改家平執柄復任冬平。上皇
  使侍臣解之曰、関白再任、先例惟多、冬平在当時、則有識之人、而熟政道、故還
  補之、左大臣道平雖可為一上、然暫猶豫云々。然東使猶嗷々、上皇使侍臣復解之
  謂、故最勝園寺入道<貞時。>推戴此皇統、而慇懃相約、則朝廷武家雖隔都鄙、何
  可齟齬哉、然今武家有所疑、則宜染宸筆告賜之、叡情不曲、万機無私者、任宗廟
  冥鑑云々。又一説曰、六条前大納言源有房者、大覚寺法皇幸臣、頃間含密詔赴鎌
  倉、時人皆疑、催禅代之事也。故上皇殊懐憂懼。<按、此旧記残簡、出自二条殿、
  而無他可考証、則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉。(下略)>

 この長文の記事は、最後に注されるように二条殿から出た旧記に基づいて書かれたものであり、その内容はかなり具体的である。
 すなわち、伏見院の政務には幕府の意に叶わぬところがあったため、前年冬に東使が入洛して勧告を行った。三月に東使は為兼は再び朝廷の巨害となっている、と申し入れた。伏見院は為兼の領地を没収したが、使者は満足せず実兼に諮った。このため為兼は配流された。廷臣たちは朝廷の沙汰に偏頗があってはならず、君は讒訴に気づかなくてはならないと囁いたが、東使は今度は関白に左大臣二条道平をさしおき前関白鷹司冬平を再任させたことを詰問した。院は冬平は有職の人で適任だと弁解したが、東使は納得しなかった。院は故北条貞時が持明院統を推戴してから君臣水魚の思をなしている、どうして異図を抱こうか、と弁解しなければならなかった。これを機会に皇太子尊治親王の践祚を待望する大覚寺統の運動があり、後宇多院の寵臣六条有房が鎌倉に下向したので、伏見院は深く憂慮した、というのである。
-------

この『続本朝通鑑』の記事は、もちろん従来の研究者も気づいていたものの、「ただ正和五年三月に東使が入洛した事実は確かめられず」、「江戸前期に成立した『続本朝通鑑』は、史論としてはともかく、史書としての信憑性にはたぶんに疑問が伴」い、かつ、「肝腎の「二条殿の旧記」がいかなる資料か不明」であったので、「この記事から為兼の配流事件の真相を論ずるのは難しく、これまで顧みられることは無かった」のだそうです。

林鵞峰(1618-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B5%9E%E5%B3%B0

ところが、小川氏はこの「二条殿の旧記」を発見された訳ですね。(p34以下)

-------
 しかし、この「二条殿の旧記」とは、東京大学史料編纂所に蔵される林家本『二条殿秘説 附卜部秘説』のことであり、そこに収載される「条々」と題する資料が『続本朝通鑑』の記事のソースとなっていることが判明する。
 『二条殿秘説』は、鵞峰が二条摂関家より採訪した文書・典籍を一冊にまとめた「二条殿秘説」と奉幣以下の次第を載せる「卜部秘説」よりなる。前者は以下の中世の記録の抜書で構成されている。その標題を順に示すと以下の通りである。

 (1)二条殿由来。
 (2)条々(正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>。
 (3)明徳二年三月十三日崇光院御幸長講殿宸記。
 (4)称名院ヨリ二条殿ヘ遣ス状。
 (5)三種神器伝来事。
 (6)中陪事。
 (7)二条殿甚秘御記<二條後普光院摂政良基記也>・当御流御即位御伝授之事。

 もとより写しであるから、その資料的価値は慎重に判断する必要がある。事実(7)は二条良基が永徳三年(一三八三)に即位勧請の由来につき記したものとされるものであるが、後世の偽作である。ただし(2)の場合は、敢えて偽書をなすような背景が見当たらず、また内容も当時のものとみてよく、文章も古態をとどめており、まずは信用できると思われる。以下、(2)を「正和五年三月四日伏見法皇事書案」ないし「事書案」と仮称したい。
-------

とのことで(p34)、これは本当に素晴らしい発見です。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その3)

2022-05-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月19日(木)14時19分41秒

為兼の養子・忠兼が登場する『槐御抄』は宮内庁書陵部の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」で読めますね。


リンク先で86コマ中の55コマを見ると、正和元年(1312)七月十二日の章義門院(伏見院皇女、母は洞院公宗女・英子)の御幸の記録に供奉者が列挙されていて、その中に忠兼(当時十六歳)も含まれています。
これを記した三条公秀(当時二十三歳)は「忠兼朝臣」の割注で、その華美な衣裳を批判的に記した後、「如市中虎莫言々々」と憤慨していますね。
元徳二年(1330)、従三位に叙せられて初めて『公卿補任』に登場した正親町忠兼(三十四歳)の尻付には「(正和四年)十二月廿八日東使召取為兼卿之時同車。但即赦免云々」とあり、正和四年(1315)、正四位下・蔵人頭の忠兼(十九歳)は養父・為兼と一緒に逮捕されてしまったことが分かります。
処罰されなかったとはいえ、忠兼の経歴には空白期間が続きますが、何故かこの間に忠兼は北条一門の中でも得宗家に次ぐ家格を誇る赤橋家のお嬢様、赤橋種子と結婚することになり、元亨二年(1322)には二人の間に忠季が生まれます。
種子は足利尊氏正室の赤橋登子の姉妹なので、忠兼は尊氏の義理の兄となりますが、ただ、忠兼が従三位に叙せられたのは元徳二年(1330)なので、鎌倉幕府崩壊前です。
となると、忠兼の復権は赤橋種子の兄・守時(第十六代執権、1295-1333)の口添えの可能性が高そうです。

赤橋種子と正親町公蔭(その2)

ま、それはともかく、小川論文の続きです。(p32以下)

-------
 このように為兼は鎌倉後期の廷臣としては珍しくも印象的な人間像を結びやすいが、それは主に『花園院宸記』の記事によって得られたものである。花園院は平生より為兼に言及すること少なくないが、とくに薨去の報に接した正慶元年(一三三二)二月二十四日条には、優に一千字を越える追討の辞を記しつけた。そこから一節を掲げる。

  伏見院在坊之時、令好和哥給、仍寓直、龍興之後為蔵人頭、至中納言、以和哥
  候之、粗至政道之口入、仍有傍輩之讒、関東可被退之由申之、仍解却見任、籠
  居之後、重有讒口、頗渉陰謀事、依武家配流佐渡国、経数年帰京、又昵近如元、
  愛君之志軼等倫、是以有寵、正和朕加首服之時、為上寿任権大納言、無幾旧院
  〔伏見院〕御出家之時、同遂素懐了、於上皇〔後伏見院〕并朕為乳父、(中略)
  而入道大相国<実兼公>自幼年扶持之、大略如家僕、而近年以旧院之寵、与彼相敵、
  互切歯、至正和□年□遂依彼讒、関東重配土佐国、

 春宮時代から伏見院に仕えた為兼は、親政が始まると蔵人頭・参議・権中納言と速やかに昇進したが、「粗ら政道の口入〔こうじゅ〕に至」り、傍輩の讒言で籠居を余儀なくされ、さらに「陰謀」が取沙汰されたため永仁六年(一二九八)に鎌倉幕府によって佐渡国に配流された。赦免後に花園院の即位と伏見院の再度の院政に会い、正二位権大納言に昇ったが、今度は若い頃に家僕のようにして仕えた西園寺家と拮抗するようになり、遂に実兼の讒言によって幕府が再び土佐に流したという。
 頻繁に利用される史料であり、為兼の経歴を語って間然とするところがない。それでも、ここでの為兼像は和歌の正道のために殉じた聖人とでもいうべきで、花園院一流の道学に裏付けられていることを、十分に承知しておくべきであろう。客観的ではあるが、鎌倉後期に生きた廷臣としての為兼の姿をじかに伝えるものでは必ずしもない。この整理された記述を、当時の史料をもとに検証し、肉付けしていく作業こそ重要である。
-------

いったん、ここで切ります。
細かいことを言うと、為兼が蔵人頭に補されたのは正応元年(1288)七月十一日、任参議は翌二年正月十三日なので、いずれも後深草院政下の人事ですね。
権中納言となったのは正応四年(1291)七月二十九日であり、こちらは伏見親政下です。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その2)

2022-05-19 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月19日(木)11時28分10秒

第二節は研究者にとっては一般的な知識を整理しているだけですが、小川氏の新発見を評価する前提として紹介しておきます。(p30以下)

-------
二 『花園院宸記』における為兼像

 為兼の失脚は、伏見院や花園院の寵愛を恃んだ僭上が募ったのと、これを嫌悪する入道太政大臣西園寺実兼が、関東申次としての自らの権能を生かして、鎌倉幕府に讒言した結果と説明されている。たしかに為兼の言動は世の耳目をそばだたせるものがあった。しばしば神仏の示現や夢想を受けたと喧伝し、擁護疑い無きものと主君の期待をくすぐる姿は怪しい験者のように映るし、傲岸不遜な自信家で摂関大臣の権勢さえ憚らず、配流事件の半年前、宿願ありと称して南都に参詣し、春日社頭での一品経供養および興福寺西南院における蹴鞠および延年舞を催した時には、あたかも廷臣を随従させた法皇のように振る舞い、「事之壮観、儀之厳重、不向〔異カ〕臨幸之儀、超過摂関之礼者歟」と記された。養子忠兼も驕慢な振る舞いは同様で、「市中虎」と罵られる始末であった。このことは自然宮廷の内外に多くの敵を作ることとなった。早く三浦周行が「是等の事蹟が、反対党に向つて、彼を陥擠すべき適当の口実を与へたりしや疑ふべくもあらず」と看破した通りである。
-------

いったん、ここで切ります。
「しばしば神仏の示現や夢想を受けたと喧伝し、擁護疑い無きものと主君の期待をくすぐる」例としては、『伏見院記』永仁元年(1293)八月二十七日条に記された宇都宮景綱が登場する夢を挙げることができます。
井上宗雄氏の要約によれば、「前夜、賀茂宝前で夢想があった。夢中に宇都宮入道蓮愉(前述)が、異国からの唐打輪を勧賞のため進める、といってきた。為兼が何の賞か、と問うと、叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰すべき事前の勧賞であり、また糸五両を献ずるが、これは五百五十両になるだろう、ということであった」という夢ですね。

京極為兼が見た不思議な夢(その1)(その2)

また、「事之壮観、儀之厳重、不向〔異カ〕臨幸之儀、超過摂関之礼者歟」は『公衡公記』正和四年(1315)四月二十四日条に記されています。
三浦周行『鎌倉時代史』は「第九十六章 京極為兼の勢力」「第九十七章 京極為兼の末路」と二章を為兼に割いていますが、小川氏が引用された部分には、

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為兼の恩人実兼との乖離
 彼れは政事上、文学上、多くの敵を有せるも、伏見法皇の御信任の前にはそは必ずしも深憂となすに足らざりしなり。然るに端なくも此に彼れの運命を呪ふべき一大勢力は現はれたり。これを彼れの恩人たり保護者たりし西園寺実兼其人となす。為兼は実兼の保護に依りて其顕栄を得たりしに拘らず、法皇の恩寵に誇りて往々実兼の意に乖り、終に其最も疾悪し嫌厭するところとなれり。而かも奮闘的生涯に馴れたる為兼は深く意に介することなく、一意報効を図りつゝありしに似たり。 正和四年四月、彼れは其宿願を果たさんが為め、一門を伴うて南都に赴き、西南院に於て蹴鞠会を催し、又神前に和歌を講ぜり。卿相雲客の進退さながら主従の如く、儀礼の盛んなる摂関にも超え、又臨幸に異らずと称せらる。彼れの目的は種々の祈の為めといふも、恐らくは持明院統の隆盛と家門の繁栄とに外ならざるべく、多少其得意に任せて、常軌を逸せし嫌なかりしにはあらざらんも、世に伝ふるところの如きは、反対党の誇張に係るもの蓋し多かるべし。然れども是等の事蹟が、反対党に向つて、彼れを陥擠すべき適当の口実を与へたりしや疑ふべくもあらず。


とあって、三浦周行の為兼評は後世の研究者に強い影響を与えていますね。
『鎌倉時代史』に、

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実兼、復関東申次となる
 六月、公衡は其職を辞し、応長元年八月出家す。法名を空性といひ、後静勝と改む。
 正和四年九月、西園寺公衡病んで薨ず、年五十二。竹林院左府と号す。彼れの病むや、伏見法皇為めに軽囚を赦し、又八万五千基の石塔を鴨河原に立てゝ其平愈を祈り給ひ、後伏見上皇も亦尊勝護摩を修せしめ給ふ。彼れ其異数の寵遇に感泣せり。中納言実衡、前権中納言季衡茲に父の喪に服す。これより後実兼は復幕府の申次となりて、公武の要路に立てり。
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とあるように、公衡は正和四年(1315)四月に為兼の専横を記した後、同年九月に死去してしまったので、十二月の為兼逮捕、翌年の流罪を知ることはありませんでした。
公衡死去の時点で嫡子・実衡は既に二十六歳でしたが、関東申次には六十七歳の実兼が復帰します。
そして実兼の復帰直後に為兼逮捕・流罪となるので、これは実兼が幕府を動かしたからだ、というのが従来の通説でしたが、この点についても小川氏は若干の疑問を示されています。
なお、「養子忠兼も驕慢な振る舞いは同様で、「市中虎」と罵られる始末であった」に付された注(6)を見ると、出典は「『槐御抄』(宮内庁書陵部蔵柳原本)御幸・正和元年七月十二日条」とのことです。
『槐御抄』(かいぎょしょう、別名「公秀公記部類」)は三条実躬の嫡子・公秀(1285-1363)の日記を公秀の孫・公豊(1333-1406)が分類・整理したものだそうですが、公秀は『増鏡』の成立年代を考える上でちょっと気になる存在です。
というのは、巻十六「久米のさら山」の末尾に「三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ」とあって、元弘三年(1333)六月、大塔宮護良親王の還京で大団円を迎えたはずの『増鏡』にとっては何とも唐突な追記ですね。

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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その1)

2022-05-18 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月18日(水)11時25分46秒

それでは小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)を検討して行きます。
予め私が気になっている点を述べておくと、小川氏は公家政権の内実を極めて詳細に、持明院統に対しては批判的に描く反面、幕府側についてはずいぶん甘い、というか単調で平面的な見方をされているように思われます。
即ち、小川論文は政権担当能力に乏しい持明院統を幕府が随時指導し、時に鉄槌を下す、というような描き方で一貫しているように見えるのですが、幕府側も一枚岩ではないのはもちろんで、公家政権に対する基本的姿勢を異にする派閥があるように思われます。
そして、その派閥の力関係に時期的な変動があるので、公家政権への対応も特に一貫している訳ではなく、時期を区分して、幕府と公家政権の相互関係を細かく追って行く必要があるのではないか、というのが私見です。
また、小川氏はこの論文に先行して「六条有房について」(『国語と国文学』872号、1996)という論文を書かれていますが、両者を合わせ読むと、六条有房の役割について、小川氏がずいぶんあっさりした書き方をしている点が気になります。
後宇多院の寵臣・六条有房(1251-1319)は久我通光の孫で、後深草院二条の七歳上の従兄なのですが、『増鏡』には宗尊親王の娘・掄子女王と有房の情事が膨大な分量で描かれていて、何故にそのような歴史的重要性に乏しい記事が詳細に描かれるのか、非常に奇妙な印象を受けます。
そのため、私は以前から六条有房に興味を持っていたのですが、二つの論文を合わせ読むと、有房こそが為兼の二度の流罪を背後で操っていたキーパーソンではないか、という感じがします。
私には小川氏が既に有房の政治的重要性を解明されているように見えるのですが、小川氏は何故かあまり踏み込んで書かれていないので、この点を私の立場から補足してみたいと思います。

『増鏡』第十一「さしぐし」「掄子女王と源有房」
http://web.archive.org/web/20150516000203/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-arifusa.htm

さて、この論文の構成は、

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一 はじめに
二 『花園院宸記』における為兼像
三 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(1)
四 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(2)
五 佐渡配流事件の再検討
六 鎌倉後期の公家徳政における「口入」の排除
七 おわりに
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となっていますが、冒頭から丁寧に見て行くことにします。(p30)

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一 はじめに

 鎌倉幕府の使者安東重綱父子が京極為兼を捕え、毘沙門堂の邸から六波羅探題に連行したのは、正和四年(一三一五)十二月二十八日申刻のことであった。西園寺家に近いある公家は「今夕戌剋大納言入道為兼自関東被召取、用車、頭中将忠兼朝臣同車、不審、於一条室町見物、如夢、見物後参今出川殿」と記している。また『徒然草』一五三段によれば、この一条大路で為兼と養子忠兼の乗った車を見物する群衆の中には日野資朝がいて、「あなうらやまし、世にあらむ思ひ出、かくこそあらまほしけれ」との、例の不敵な感想をつぶやいたことになる。翌年正月十二日土佐国に配流、為兼の政治生命はここに断たれた。
 影響は為兼周辺にとどまらず、主君の伏見法皇にも波及し、ひいては花園天皇退位の伏線となるなど、鎌倉後期の公家政権を揺るがす大事件となった。なぜ為兼が失脚しなければならなかったのかについて、これまでにも考察が重ねられている。ただ、これに加えて、廷臣としての為兼、二度の配流については、近年急速に進展した中世の公家政権や公武関係に関する研究成果を参照しつつ、持明院統の治世における為兼の位置を明らかにしておく必要があると思われる。本稿ではそうした問題意識に立って新たな史料を紹介し、為兼の生涯を再考することにしたい。
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『徒然草』第一五三段は、

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 為兼大納言入道召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一条わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思い出で、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。

http://web.archive.org/web/20150502075500/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-153-tamekane.htm

という短いものですが、第一五二段と第一五四段も日野資朝のエピソードで、『徒然草』が描く人物の中でも特に強烈な印象を残す人ですね。
なお、『徒然草』には為兼の養子・忠兼は登場していませんが、為兼とともに六波羅に逮捕された忠兼(正親町公蔭)は後に足利尊氏の正室・赤橋登子の姉妹・種子と結婚します。
従って、尊氏は為兼周辺の人間関係や為兼配流の事情についても熟知していたはずですね。

赤橋種子と正親町公蔭(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/546ccaccce6039b2783c37af31ff74c5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17cd878a675a47c28624985d51301d63
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/588e84f3ea3f9104df0529410ddf29c0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4518f31a8cefeab913a45cf8cd28d541
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39d230584728bf45b6a86b87eed73878

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