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学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

ダンテ生誕750周年

2015-12-24 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月24日(木)10時02分5秒


昨日は群馬県立土屋文明記念文学館で行われた浦一章氏(東京大学大学院教授、イタリア文学)の「『神曲』に描かれた中世イタリア―ダンテ生誕750周年に寄せて」という講演を聴講してみたのですが、このテーマで人が集まるのかなあと他人事ながら心配していたところ、軽く百人以上来ていて、ちょっとびっくりしました。
やはり年齢層は高いのですが、別にヒマを持て余した人達がテーマに関係なく集まって来たという雰囲気ではなく、浦氏のかなり高度な内容の講演を熱心に聴いている人が多かったですね。
質疑応答の時間では、初心者が読むのは誰の翻訳がよいか、という質問に対し、浦氏は、多くの翻訳があるけれども読みやすいのはやはり平川祐弘氏でしょうか、との穏当な回答をしていました。
また、入門書として何か適当な本は、という質問に、職場の同僚だという松村真理子氏の本が良い、とのことでしたが、肝心の書名は失念したそうで、けっこういい加減な紹介でしたね。
検索してみたら『謎と暗号で読み解く ダンテ「神曲」』(角川書店、2013)という新書版の本のようですが、ちょっと胡散臭い感じがしないでもないタイトルですね。


掲示板投稿の保管庫にしているブログ「学問空間」で、昨日の閲覧者が多かった記事ベストテンの中に7年前に書いた「中世京都首都論」(大村拓生氏の同名の著書の感想を書いたもの)が入っていたので、何でかな、と思いましたが、大村拓生氏のブログを見たところ、700冊印刷した同書が200冊ほど売れ残って近く断裁予定なのだそうですね。


それを伝え聞いた人が内容確認のために検索をかけて私のブログにも来られた、ということでしょうか。
『中世京都首都論』は非常に良い本で、私はもちろん購入済みですが、今は歴史の専門書はせいぜい500部という時代になってしまったようですね。

『中世京都首都論』

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La Mort de Marat

2014-08-22 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月22日(金)21時29分39秒

>筆綾丸さん
図書館でご紹介の『デスマスク』を手に取り、適当にページを開いたら、いきなりマリー・タッソー作のマラーのデスマスクが出てきて、ちょっとドキッとしました。
最近、竹中幸史氏の『図説フランス革命史』(河出書房新社、2013年)を読んでいて、マラー暗殺を描いた絵には有名なダヴィド作以外にもいくつかあり、時代によって画面構成が変化していることを知ったばかりだったのですが、巧妙に美化できる絵画と違ってデスマスクは本当に生々しいですね。

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 一九七三年七月一三日、「人民の友」ジャン=ポール・マラーがパリの自宅で入浴中に、ジロンド派の支持者シャルロット・コルデによって暗殺される。即死だったと言われる。さっそくそのデスマスクがとられることになるが、その任にあたったのが、マダム・タッソーの通称で知られる、ストラスブール生まれのアンヌ・マリー・グロスホルツ(一七六一-一八五〇)。次から次へとギロチンの露と消えていった革命の犠牲者たちのデスマスクや、それにもとづく蝋人形の製作で一世を風靡した女性である。今日も彼女の名前を冠した人気の蝋人形館がロンドンにあることは、皆さんもご承知のところであろう。
 そのマリー・タッソーが、『フランス革命の思い出と回想』(一八三九)という自伝を残しているが、それによると、マラー暗殺の一報を受けた彼女は、「要請に応じて、デスマスクの型をとるために必要な準備を抜かりなく整えて、マラーの家に一目散で直行せねばなりませんでした」、という。「彼はまだ生暖かく、血に染まった身体と、ほとんど悪魔のような顔立ちの青ざめた様相は、まるで恐怖に満ちた絵画のようでした」。彼女は、「ひじょうに痛ましい感情に襲われつつも自分の仕事を遂行したのです」。(p142)
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率直に言ってマラーの顔は若干貧相な感じが否めませんが、恐怖政治の主役であるロベスピエールは迫力のある顔をしていますね。(p151)

ジャン=ポール・マラー
La Mort de Marat

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Richard III ・・・骨は語りすぎる? 2014/08/20(水) 19:11:10
小太郎さん
「古代国家のことについて多くの論文を書きながら、さて、『国家とは何か』とDさんにきいたら、あの人は高校生以上のことは言えないでしょう」ですが、Dさんが誰なのか、知りたいところですね。

http://www.bbc.com/news/uk-england-leicestershire-28825653
http://www.cnet.com/news/richard-iii-bone-chemistry-reveals-royal-life-of-luxury/
現代の bone chemistry なるものは、これほど精密な情報を遺骨から抽出できるものなのか、ちょっと信じ難いものがあります。bottle-a-day drinker くらいならば、なんとなくわるのですがね。
歯と大腿骨と肋骨の isotope analysis により継時的な生活の場所や食事内容を特定できる、肋骨の分析では白鳥・鶴・鷺の類を食べていたこともわかる・・・というような話になると、これはもう科学への過度の信仰にすぎないのではあるまいか、という気がしてきます。
追記
http://www.lemonde.fr/sciences/article/2014/08/21/richard-iii-peut-etre-tyrannique-certainement-fetard_4473999_1650684.html
--------------
La prémolaire donne ainsi des indications sur son enfance, la molaire sur le début de son adolescence, le fémur sur l'ensemble de sa vie et la côte sur ses dernières années.
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ル・モンドは、骨の部位について、より詳しく書いています。小臼歯からは幼少期の、大臼歯からは青年期始めの、大腿骨からは生涯全般の、肋骨からは晩年の情報が得られる、と。ますます眉唾っぽい感じです。
リチャード三世は苦笑し、シェークスピアは戯曲の一部を変更し・・・死後もなかなか忙しい。

追記
http://gendai-shinsho.jp/
本屋さんで、どれにしようかと思いましたが、仲正昌樹氏の『マックス・ウェーバーを読む』はやめて、金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』を買いました。帯には次のようにありますが、新史料とはどのようなものなのか、これから読んでみます。
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新史料があきらかにする最も新しい信長像
1.「天下布武」は「全国統一」の宣言ではなかった
2.信長は改革者ではなく、室町幕府の継承者だった
3.東大寺正倉院の秘宝「蘭奢待」の切り取りは、天皇の権威簒奪のために行われたのではなかった
4.天皇は信長を征夷大将軍に推任した
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「正義の審判者たち」

2012-09-09 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 9月 9日(日)11時42分44秒

ツイッターで1934年に盗難に遭ったゲントの祭壇画の左下隅「正義の審判者たち」の部分が発見されたという新聞記事を見かけたのですが、オランダ語なので正確な事実関係が理解できません。
本当なら直ちに英語のニュースで出てくるような大発見だと思うのですが。

https://twitter.com/TOMOKOamsterdam/status/244518415522488320

http://www.volkskrant.nl/vk/nl/3372/beeldende-kunst/article/detail/3313305/2012/09/08/Gestolen-schilderij-ligt-in-boedel-oud-minister.dhtml

"The Just Judges"(ウィキペディア)
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Just_Judges

"The theft of the Just Judges"というサイトもありました。

http://judges.mysticlamb.net/

1934年のニューヨークタイムズの記事も読めるんですね。有料だけど。

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ALL BELGIUM HUNTS VAN EYCK PAINTING; Borders and Departing Ships Are Watched for Trace of Panel Stolen in Ghent.

Wireless to THE NEW YORK TIMES. ();
April 13, 1934,

GHENT, Belgium, April 12. -- Belgium put a strict watch today over her frontiers and over departing vessels while the police, called out in emergency numbers, made every effort to trace the panel from the van Eyck altarpiece, "The Adoration of the Lamb," missing from the Cathedral of St. Bavon here.
http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FA0B10FC395D167A93C1A8178FD85F408385F9
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『聖ヒエロニムス』

2009-10-18 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年10月18日(日)15時07分7秒

>筆綾丸さん
なるほど、未完成なんですか。
しかし、この絵自体、来歴はずいぶん奇妙なものですね。

http://www.lairweb.org.nz/leonardo/jerome.html

The story of this painting is a little unbelievable, but as interesting as one could hope for. Originally in the Vatican collection it passed into the hands of Angelica Kaufmann. Supposedly it was then mislaid and someone cut it into two pieces. One section was converted into a table top while a shoemaker used the other portion for the upper part of a stool. Joseph Cardinal Fesch recognised the table painting in 1820; it is assumed he had already seen a drawing of the work somewhere. He purchased it from the Roman junk shop hoping to locate the missing segment, something he succeeded in doing several years afterwards. The painting was restored though obvious evidence of the cut out section can still be clearly seen. Heirs of Napoleon Bonaparte's uncle (Cardinal Fesch) later sold the ochre groundwork for twenty-five francs to Pope Pius IX; it was then placed back into the care of the Vatican where it still resides today.

18世紀の女流画家、アンジェリカ・カウフマンの手元にあったとき、誰かがこの絵を二つに切り、ひとつはテーブル板、もうひとつは椅子の飾りに使われてしまっていた。ナポレオンの叔父である枢機卿ジョゼフ・フェッシェがローマのがらくた屋でテーブルを買い、数年後に残りも見つけた。修復されたけれども、切られてしまった痕跡は今でもくっきり残っている。ジョゼフ・フェッシェの相続人はローマ教皇ピウス9世に25フランで売った。かくしてバチカンに保管され、今日に至る、と。
これではこの絵の方がよっぽど怪しい感じがしますね。

This is one of the very few paintings attributed to Leonardo over which there has never been any question. No contemporary references to the work have been found yet it is considered unmistakably his painting methods and structure; the similarity to Adoration of the Magi is also obvious.

ただし、これだけ変な来歴にもかかわらず、この絵が真作であることには全く疑いが持たれていないのである、と。
ふーむ。
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指紋研究

2009-10-16 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年10月16日(金)00時50分36秒

今回、ダヴィンチの指紋を鑑定したPeter Paul Biro氏の「Biro」という名字は珍しい感じがしますが、ハンガリー系なんですね。

http://www.birofineartrestoration.com/about_us.htm

もちろんダヴィンチの指紋研究自体は別にこの人の専売特許ではなく、2006年の時点で、こんな記事もありました。
指紋からダヴィンチの母はアラブ系だったことがわかった、というイタリアの学者の研究ですが、反論もあるようです。

Leonardo da Vinci may have had an Arab heritage, according to Italian researchers who have isolated and reconstructed the Renaissance master's fingerprint.
The fingerprint represents the only biological trace of the Florentine genius, said Luigi Capasso, an anthropologist at Chieti University.
"It is actually the first evidence of Leonardo's corporeality," Capasso told Discovery News.

http://dsc.discovery.com/news/2006/10/28/leonardoprint_his.html?category=history
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Unrecognised Leonardo da Vinci portrait

2009-10-16 | ヨーロッパの歴史
下の投稿は筆綾丸さんご紹介のタイムズの記事に関連するものです。
リンク先の記事がいつまで残っているか若干不安なため、全文を保管しておきます。

http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/visual_arts/article6872019.ece#


From The Times October 13, 2009

Unrecognised Leonardo da Vinci portrait revealed by his fingerprint

The ghost of a fingerprint in the top left corner of an obscure portrait appears to have confirmed one of the most extraordinary art discoveries.

The 33 x 23cm (13 x 9in) picture, in chalk, pen and ink, appeared at auction at Christie’s, New York, in 1998, catalogued as “German school, early 19th century”. It sold for $19,000 (£11,400). Now a growing number of leading art experts agree that it is almost certainly by Leonardo da Vinci and worth about £100 million.

Carbon dating and infra-red analysis of the artist’s technique are consistent with such a conclusion, but the most compelling evidence is that fragment of a fingerprint.

Peter Paul Biro, a Montreal-based forensic art expert, found it while examining images captured by the revolutionary multispectral camera from the Lumière Technology company, Antiques Trade Gazette reports today.

Mr Biro has pioneered the use of fingerprint technology to help to resolve art authentication disputes. Multispectral analysis reveals each layer of colour, and enables the pigment mixtures of each pixel to be identified without taking physical samples. The fingerprint corresponds to the tip of the index or middle finger, and is “highly comparable” to one on Leonardo’s St Jerome in the Vatican. Importantly, St Jerome is an early work from a time when Leonardo was not known to have employed assistants, making it likely that it is his fingerprint.

Martin Kemp, Emeritus Professor of History of Art at the University of Oxford, is convinced and recently completed a book about the find (as yet unpublished). He said that his first reaction was that “it sounded too good to be true — after 40 years in the business, I thought I’d seen it all”. But gradually, “all the bits fell into place.”

Professor Kemp has rechristened the picture, sold as Young Girl in Profile in Renaissance Dress, as La Bella Principessa after identifying her, “by a process of elimination”, as Bianca Sforza, daughter of Ludovico Sforza, Duke of Milan (1452-1508), and his mistress Bernardina de Corradis. He described the profile as “subtle to an inexpressible degree”, as befits the artist best known for the Mona Lisa.

If it is by Leonardo, it would be the only known work by the artist on vellum although Professor Kemp points out that Leonardo asked the French court painter Jean Perréal about the technique of using coloured chalks on vellum in 1494.

The picture was bought in 1998 by Kate Ganz, a New York dealer, who sold it for about the same sum to the Canadian-born Europe-based connoisseur Peter Silverman in 2007. Ms Ganz had suggested that the portrait “may have been made by a German artist studying in Italy ... based on paintings by Leonardo da Vinci”.

When Mr Silverman first saw it, in a drawer, “my heart started to beat a million times a minute,” he said. “I immediately thought this could be a Florentine artist. The idea of Leonardo came to me in a flash.”

Carbon-14 analysis of the vellum gave a date range of 1440-1650. Infra-red analysis revealed stylistic parallels to Leonardo’s other works, including a palm print in the chalk on the sitter’s neck “consistent ... to Leonardo’s use of his hands in creating texture and shading”, according to Mr Biro.
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聖ジェローム

2009-10-16 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年10月16日(金)00時35分32秒 編集済

>筆綾丸さん
いえいえ。
気が向いたときに書いてください。
私も11月に入ると投稿が減ると思います。

>ダ・ヴィンチの指紋
新聞記事をいくつか読み比べてみましたが、ご紹介のタイムズの記事が一番詳しいようですね。
vellumは上質の羊皮紙だそうですが、何故そんな素材に描かれたものが19世紀の作品と思われていたのか、不思議に感じました。
想像するに、19世紀のドイツでは懐古趣味的な観点からの類例がいくつかあるのでしょうか。

タイムズの記事の中で、

Martin Kemp, Emeritus Professor of History of Art at the University of Oxford, is convinced and recently completed a book about the find (as yet unpublished). He said that his first reaction was that “it sounded too good to be true— after 40 years in the business, I thought I'd seen it all”. But gradually, “all the bits fell into place.”,

とある部分、笑ってしまいました。
贋作や偽鑑定事件を何度も見た古狸の名誉教授も太鼓判を押してくれました、という訳ですね。

ダヴィンチが描いた聖ヒエロニムスは何だか薄気味が悪いですね。
相棒のライオンがいなければ、化け物か乞食のようにも見えます。

http://store.encore-editions.com/Leonardo%20Da%20Vinci%20Paintings%20and%20Drawings%20-%20St.%20Jerome%201483
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私がヒッグスの海で溺れかけた場所

2009-09-13 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 9月13日(日)19時41分42秒

『磁力と重力の発見』でエーテルについて多少聞きかじった私は、ヒッグスの海ってエーテルとどこが違うのか、という初心者っぽい疑問を抱いたのですが、ま、そのあたりは親切な回答がありました。

--------------
 対称性が破れるという概念と、電弱ヒッグス場が実際に対称性を破っているという事実が、素粒子物理学と宇宙論の分野で重要な役割を果たしているのは間違いない。しかし、あなたはこんな疑問をもつかもしれない。普通はからっぽだと思われている空間がヒッグスの海で満たされており、しかもその海は目に見えないというなら、それはまるで、とうの昔に葬られたエーテルが復活したようではないか?この疑問に対する答えは「イエス」であり、「ノー」でもある。
 「イエス」だというのは、ヒッグスの海にはたしかにエーテルに似たところがあるからだ。凝結したヒッグス場は、エーテルと同様、空間を満たし、いたるところに存在し、あらゆる物質に染み込んでいる。それはからっぽの空間がもつ特徴であり、取り除くことは決してできない(宇宙を再加熱して※度よりも高い温度にしないかぎり、取り除くことはできない)。それは「無」の概念を再定義するものだ。しかし、音波が空気を伝わるように、光を伝える透明な媒質として導入されたエーテルとは異なり、ヒッグスの海は、光の運動とは関係がない。ヒッグスの海は、光の速度にはいかなる影響も及ぼさない。光の運動を調べることによりエーテルを葬り去った十九世紀末の実験は、ヒッグスの海に対しては何の意味もないのだ。
 さらに、ヒッグスの海は等速度運動をする物体には影響を及ぼさないため、エーテルとは異なり、どれかひとつの視点を特別なものとして選び出すことはない。それどころか、たとえヒッグスの海が存在しても、等速度運動をしている観測者は相変わらず対等の立場に立っているので、ヒッグスの海は特殊相対性論と矛盾しない。もちろん、だからといってヒッグスの海が存在する証拠にはならない。むしろ以上のことからわかるのは、ヒッグスの海にはエーテルに似たところもあるが、その存在はいかなる理論や実験とも矛盾しないということだ。(p39)
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「軽々とめぐり歩く」

2009-09-04 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 9月 4日(金)19時21分14秒

山本義隆氏『十六世紀文化革命』の2巻を読み進めて残りが50ページほどになりましたが、なんだか読み終えるのが惜しいような気持ちです。
第9章「16世紀ヨーロッパの言語革命」は迫力ある記述が静かに続きますが、次の一文は妙に私の心を騒がせます。

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 このようなヨーロッパの知識層における知の秘匿体質ともいうべきものの根っこは古代にまで遡る。古来ヨーロッパにおいては、神から与えられた真理は不心得な者の手に入らぬようにみだりに公開してはならない、という観念が広くゆき渡っていた。ピュタゴラスの弟子リュシスは、哲学を公にすることは師のピュタゴラスが禁じたと伝えている。同様に、アレクサンドル・コイレによれば「プラトンの哲学的教えというものは選ばれた少数者にだけ与えられるという、奥義とも言うべき性格をいくぶんもっている」のである。実際プラトンは対話篇『パイドロス』において「言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人のところであろうとも、ぜんぜん不適当な人のところであろうと、おかまいなしに、軽々とめぐり歩く。そしてぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない」との危惧をソクラテスの口から語らせている(275DE)。そして三世紀の教父オリゲネスが「神的な事柄は人間にはいくらか隠された形で知らされる。人が不信仰でふさわしくない状態にあればあるほど、ますます隠される」と語っているように、この点はキリスト教においても変わりがない。(p571-2)
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最近、ウィキペディアのことをいろいろ考えている私には、このプラトンの「危惧」は「希望」のように感じられます。
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医師>外科医>理髪外科医

2009-08-30 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月30日(日)17時41分14秒

現代人から見ると、命を救ってくれるはずの外科医の地位が非常に低かったというのは少し変な感じがしますが、さらにその下に「理髪外科医」がいたわけですね。

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 近代解剖学の端緒になった一五四三年のヴェサリウスの『人体の構造について』(通称『ファブリカ』)の序文には「上流階級の医師たちは古代ローマ人をまねて手の仕事を軽蔑し、・・・調剤は薬種商に、手術は理髪師に任せてしまった」とある。ここで「医師」というのは大学で教育を受けた内科医を指している。「彼らはまるでペストでも見るかのように手の仕事を忌避し」、薬の処方や食事の指示だけを与え、手術もふくめて手をもちいる治療のいっさいを「彼らが外科医と呼んでほとんど奴隷のように見下していた者たちに委ねていた」のである。(中略)
 そもそもが英語の「外科(surgery)」も、フランス語やドイツ語で「外科」をさすchirurgieとともにギリシャ語の「手仕事」を語源とし「手をもちいた治療(manuum operatio)」全般を意味し、「外科医」とは手作業に従事する「医療職人」を指していた。そして「長衣をまとった医師たちは、外科医や薬屋は自分たちより劣った存在であると考え、医師という名誉ある職業から排除しようとした」のである。ちなみに、ヴェサリウスの先の引用に「理髪師」とあるが、理髪師は事実上外科医の仕事を担っていた。実際、彼らは整髪や洗顔だけでなく、切開手術やヘルニアの整復から抜歯、はては梅毒の治療まで手広くこなす「理髪外科医」であり、外科医のさらに下に見られていた。(p109~110)

 外科と外科医が下級、医学と医師が上級というこの差別構造は中世から近代にかけてヨーロッパ全土に行き渡っていた。もちろんドイツでも状況は変わらない。いや、ドイツでは差別はより峻厳であった。(中略)ドイツにはサン・コーム学院にようなものはなく、外科は理髪師や浴場主の家業として受け継がれていたが、一三・一四世紀以降、理髪師と浴場主は皮剥ぎや羊飼い、森番、粉挽き、道路清掃人、捕吏、墓堀り人、犬革なめし工、娼婦、陶工、芸人などとともに差別の対象──とされていた。ドイツ社会においてその差別が生じたそもそもの由来についてはいくつかの説があるようだが、どもかくその差別の実態はかなり厳しいもので、例えば職人の徒弟となるには理髪師や浴場主の子ではないことの証明を必要としたと言われる。つまり職人以下であった。(p137)
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こうした状況が、ペストや梅毒に大学の医学が全く無力であったこと、そして重火器の登場で戦争の様相が一変し、外科医・理髪外科医が銃弾や砲弾による複雑で大量の戦傷に対処したこと等を通じて、急速に変化して行ったようです。

Andreas Vesalius
http://en.wikipedia.org/wiki/Andreas_Vesalius

↓のサイトでは、『ファブリカ』の内容を見ることができますが、「骨格人」「筋肉人」「静脈人」たちはなかなかユーモラスですね。

http://archive.nlm.nih.gov/proj/ttp/books.htm
http://archive.nlm.nih.gov/proj/ttp/vesaliusgallery.htm
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デューラーと知的所有権

2009-08-30 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月30日(日)16時24分52秒

先に引用した部分に続く記述も興味深いですね。

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 付け加えるならば、デューラーは一方では職人・技術者の根強い秘密主義に抗して知の公開を実践したが、それと同時に、今日言うところの「知的所有権」については、これを早くから認めていた。『人体均衡論』に触れて「〔本均衡論』に触れて「〔本書には〕他の書物から盗作されたものは何もない」と明言している。そして彼の死後に寡婦の手で出版された『人体均衡論』の末尾には、神聖ローマ帝国官房長官代理の名で、デューラー未亡人にたいして本書の著作権を一〇年間保証すること、さらには違反者は罰金を科せられる旨が記されている。『測定術教則』の一五三八年の第二版にも同趣旨の記載がある。どの程度実効性があったかは不明であるが、著作権の公的な保障が明記されたきわめて初期の事例である。(p79)
----------

ウィキペディアで著作権の歴史を見ると、

The earliest German privilege of which there is trustworthy record was issued in 1501 by the Aulic Council to an association entitled the Sodalitas Rhenana Celtica, for the publication of an edition of the dramas of Hroswitha of Gandersheim, which had been prepared for the press by Konrad Keltes.

とあるので、確かにデューラーのも早い事例のようです。
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民主主義者、デューラー

2009-08-29 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月29日(土)18時45分23秒 編集済

>筆綾丸さん
『十六世紀文化革命』第1巻を200ページほど読んでみました。
アルブレヒト・デューラーの画家以外の側面については『磁力と重力の発見』でも言及されていましたが、『十六世紀文化革命』第一章「芸術家にはじまる」では、デューラーが「知の積極的な公開を主張し、かつ実践した」ことがより詳細に描かれていますね。

--------------
  いく人かの人は種々の知識を学ぶことができるが、それは誰にでも許されているわけではない。・・・
  われわれが学び、それを隠さずに後世に正確に伝えることが、共通の利益のために必要である。・・・
  私はできるかぎりわかりやすく、しかも包み隠さず、私の意見を開陳したい。そしてできれば、金銀よりも
  このような知識を愛する若者たちのために、私の識るいっさいのことを公にしたい。

 それにデューラーは、イタリアの芸術家と同様に絵画に科学的基礎を与えようとしたけれども、イタリアの先行者のエリート主義と異なり、絵画と建築だけを自由学芸に位置づけることも、画家と建築家だけに優越的地位を与えるようなこともしなかった。そもそも彼の著書は知識階層に技術の知識を与えるものではなく、職人や技術者自身に自分たちの技術にとって必要な知識を教授し、ひいてはその科学的基礎を明らかにするためのものであった。実際『測定術教則』の「まえがき」には「本書は画家だけではなく、すべての金属細工師、彫刻家、石工、大工、すなわち技術を学ぼうとするすべての人々のために書かれたものである」とある。(中略)デューラーはすべての手工芸、すべての技術に数学的基礎を与えることで、すべての職種の手職人の教化と向上を目指していたのである。(p78~79)
--------------

http://en.wikipedia.org/wiki/Albrecht_D%C3%BCrer
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自問自答

2009-08-27 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月27日(木)12時03分44秒

京都・曼殊院に伝来し、現在宮内庁蔵となっているのが「天子摂関御影」で、徳川黎明会蔵のものは「天皇摂関御影」なんですね。

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読了

2009-08-27 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月27日(木)00時37分24秒

>筆綾丸さん
『磁力と重力の発見』、エピソードの数式はパスしたものの、何とか読み終えました。
素晴らしい本を紹介していたただいて、感謝しています。
直ちに山本義隆氏の別の著作にとりかかるつもりですが、どれからにしようか迷っているところです。

>似絵の出典
「天子摂関御影」のようですね。
文化庁のサイトではなぜか「天皇摂関御影」となっていますが。

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=71182
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『磁石論』

2009-08-21 | ヨーロッパの歴史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 8月21日(金)23時14分29秒

>筆綾丸さん
昨日はサボってしまい、今日、やっと3巻に進みました。
ウィリアム・ギルバートが先行研究からの影響を故意に抹殺していること、それを近代の学者が見逃してきたことへの批判は厳しいですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/William_Gilbert

>ラテン語
「あとがき」(p942)に、「文献を読む段になって、やはりきちんとしたラテン語の知識の必要性を痛感し、泥縄ではあるが、思いきって都内の外国語学校のラテン語講座に二年半通った。実際には、すでに記憶力が相当減退しているのか、それとももともと語学の才能が乏しいのか、笊で水を汲むようななさけない状態でたいして上達しなかったが、それでも必要最小限は確保したと思われる」とありますね。
ラテン語を学べる都内の外国語学校というと、日仏学院かアテネフランセあたりでしょうか。
ずいぶん謙虚に書かれていますが、山本氏の「必要最小限」のレベルがどのくらいなのか、私には見当もつきません。
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