背景がわかりませんが、狐につままれたような感じですね。
https://de.wikipedia.org/wiki/Fritz_L%C3%B6ffler
ドレスデンの名士のようですが、Das Grab von Fritz Löffler (フリッツ・レーフラーの墓)とは、Das Grab von Carl Fritz Löffler (カール・フリッツ・レーフラーの墓)のことですかね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 1日(月)22時43分27秒
昨日、「ここでやっと4月11日の投稿で書いたエルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015)の深井智朗氏による「解題」につながります」と書いたばかりですが、実は深井智朗氏の記述に若干の疑問があります。
深井智朗氏は、
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第一三代日本銀行総裁となり、戦時中は枢密顧問官であった深井英五はこの学校の学生であったが、彼は当時の教育について次にように回顧している。「〔オットー・シュミーデル〕先生から学んだ研究方法は其の後種々の方面に応用することが出来ました。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は、先生に負う所が多いと今に思って居ます。マルクスの著作の訓詁や、外交文書の取扱、契約の作成援用などにも効果的です。」
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と書かれていますが、出典の明示はありません。
先に引用したように『回顧七十年』でこれに相当すると思われる箇所は、
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其の内容にも感興したが、鋭利にして精細なる古文書考証の方法は特に私を啓発した。それによつて一般に歴史を読むときの心構へが改まつた。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は此の時の修練に負ふ所が多い。それが後に契約の作成援用又は外交文書の取扱の上で大に役に立つた。
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となっていて、「マルクスの著作の訓詁」への言及は全くありません。
実は『回顧七十年』の新教神学校に関係する部分の記述は深井英五『人物と思想』(日本評論社、1939)所収の「独逸学風の一端」(p345以下)を流用しているのですが、内容的な重複の煩わしさを厭わず、こちらも関係部分をそのまま引用してみると、
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シュミーデル(Schmieder)、ムンチンゲル(Munzinger)両先生に就いて思出を述べよとの御注文を受けましたが、私は僅か一年足らずの間接触の機会を得たばかりですから、単に断片的な印象を提供するに止まります。私自身のことを交へなければ、印象がまとまりませぬから、其点御容赦願ひます。
私は明治二十四五年の頃耶蘇を神の権化だとする所謂正統派基督教の教義に疑を挟み、所謂自由基督教の立場が私の心境に該当するものだらうと考へ、シュミーデル先生に御相談して新教神学校に入れて頂きました。
シュミーデル先生からは基督伝を眼目とせる新約聖書の抜粋的釈義を教へられ、ムンチンゲル先生からはデカルト以降の近世哲学史を学びました。哲学史に就いては私も其前既に多少の知識を有つて居りました、又其後も独りで多少の研究を続けましたが、先生の要約の肯綮に当つて居たことを今に感心して居ます。シュミーデル先生の新約釈義は所謂古文書の高等批判なるもので、私にとつては全く未知の新境地でありました。其の微細なる考証が宗教の信仰に果してどれだけの交渉を有するかと云ふことを考へさせられましたけれども、学問としては深甚の興味を感じました。先生から学んだ研究方法は、其後種々の方面に応用することが出来ました。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は、先生に負ふ所が多いと今に思つて居ます。外交文書の取扱、契約の作成援用などにも大いに有益でありました。私が独逸学風に少しでも親しく接し得たのは両先生の賜物です。【後略】
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となっています。
こちらではシュミーデル・ムルチンゲルの「両先生」に関する記述になっているため、若干の分かりにくさはあるものの、深井智朗氏の「解説」と照らし合わせてみると、深井智朗氏は直接的には『回顧七十年』ではなく、『人物と思想』の「独逸学風の一端」を参照していることが明らかです。
しかし、こちらにも「マルクスの著作の訓詁」への言及はありません。
いったい何故なのか。
「独逸学風の一端」は、その末尾に、<(「日本に於ける自由基督教と其先駆者」より)>とあって、検索してみたら、これは新教神学校で深井英五の先輩であった三並良の著書らしいですね。
三並良(みなみ・はじめ、1865-1940)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%A6%E8%89%AF
あるいは深井英五は三並良からその著書『日本に於ける自由基督教と其先駆者』(文章院出版部、1935)へ一文を寄せることを頼まれ、そこには「マルクスの著作の訓詁」への言及があったものの、『人物と思想』への転載にあたって何らかの事情で削除してしまったのか。
細かいことですが、ちょっと気になります。
なお、「日本に於ける自由基督教と其先駆者」で検索すると、3月29日の投稿で触れた深井智朗氏の論文、「ベルリンの日本人と東京のドイツ人:日本におけるアドルフ・ハルナック」(『聖学院大学総合研究所紀要』No.50、2011.3)が出てきます。
一ヵ月前は全くチンプンカンプンでしたが、今読むとけっこう理解できますね。
「かのやうに」とアドルフ・ハルナック
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30c61f6e07014e1938162323f7670929
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月30日(日)10時51分32秒
深井英五の宗教的・思想的変遷の続きです。(p31以下)
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第四章 新釈基督教
私がまだ同志社に在つて、耶蘇を神とする教義に疑を懐き始めた頃、独逸から伝はつた普及福音教会では、従来の信条なるものに拘泥せずして基督教の真髄を宣揚せんとする新解釈を鼓吹して居た。米国から伝つたユニテリアン及びユニヴァーサリストの両派も之と方向を同じくした。英国にも類似の思潮があつて、特に之を標榜する教派の発生には至らないが、其の趣旨を筋書に織込んだハンフレー・ワード夫人の小説「ロバート・エルスミーヤ」が読書界の大評判になつた。教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張であつた。同志社出身長老の一人たる横井時雄氏は多分東京の何れかの教会の牧師であつたと思ふが、何かの雑誌で其の梗概を紹介した。尤も之に対して意見は示さなかつた。同志社に於て私の親接した金森通倫先生は、当時既に東京に移り番町教会の牧師であつたが、基督教の新解釈を公表して世を驚かし、次で番町教会を辞して前記独米系の三派に接近した。私も、ルナンの「耶蘇伝」や「ロバート・エルスミーヤ」の影響を受けたに相違ないが、私の思想の変転は我国に於ける上記の運動とは関係なしに進展したのである。然しながら既に思想の変転を来たし、而して尚宗教と理性とを調和するの望を捨てざりし時に於ては、新釈基督教の運動に参加するのが、一番初志に近いと思つた。金森先生からは曩に所謂正統基督教信仰の鼓吹を受けたのだが、其後図らず新らしき方向を一にすることになつたので、同志社卒業後先生の紹介により、普及福音教会の経営する新教神学校に入学した。それが明治二十四年の秋であつた。
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横井時雄は横井小楠の息子で、同志社の第3代社長にもなった人ですが、後に官界・政界に転身していますね。
内村鑑三(1861-1930)は同志社関係者からはトラブルメーカーとして嫌われることの多かった人ですが、横井時雄とは一貫して良い関係だったそうですね。
横井時雄(1857-1927)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E9%9B%84
金森通倫は横井時雄と同年の生まれですが、「基督教の新解釈を公表して世を驚かし」た後、1898年に棄教を宣言します。
しかし、大正期になって再入信して救世軍に加わり、次いで昭和に入ると今度はホーリネス教会に入会。
しかし、ここも暫くして脱会するなど信仰面で激烈な変遷を重ねた人ですね。
息子の金森太郎(1888-1958)は内務官僚になり、その娘は内務官僚の石破二朗(1908-81)と結婚し、前自民党幹事長の石破茂氏を産んだとか。
そして石破茂氏は母方の影響でプロテスタントになったそうですね。
金森通倫(1857-1945)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kanamori_t.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A3%AE%E9%80%9A%E5%80%AB
ま、それはともかく、深井英五の信仰の変遷をもう少し追います。
深井が「普及福音教会の経営する新教神学校に入学した」のは「明治二十四年の秋」だそうですから、1871年(明治4)生まれの深井は数えで21歳、満年齢なら20歳の若さですね。
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私が遂に此の段階に留まり得なかつたことは前章で述べた通りで、宗教に対する最後の執着も空に帰したが、新教神学校に於ける約一ヶ年半の在学は、別の方向に於て私に多大の益を与へた。私が教授を受けたのは基督伝を眼目とせる新約聖書の抜粋釈義と哲学史であつた。哲学史は既に独習せる所を詳しくしたゞけであつたが、所謂高等批判の方法による新約釈義は私に新境地を開いた。殊に之を担任せるシユミーデル(Schmieder)先生は学識に於ても人格に於ても凡庸を抜いて居たと思ふ。研究の目標は耶蘇が自己の使命に就いて如何なる自覚を有つて居たかを検討するにあつた。其の内容にも感興したが、鋭利にして精細なる古文書考証の方法は特に私を啓発した。それによつて一般に歴史を読むときの心構へが改まつた。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は此の時の修練に負ふ所が多い。それが後に契約の作成援用又は外交文書の取扱の上で大に役に立つた。又石垣を積上げる如く、煩瑣と思はれる程緻密な独逸流の学風に書籍以外接触したのは、他の方面にも応用し得べき収穫であつた。又学校の講義は英語で聴いたのだが、独逸人の仲間に交つて居たから、独逸文及び独逸語実習の機会を得た。
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ということで、ここでやっと4月11日の投稿で書いたエルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015)の深井智朗氏による「解題」につながります。
「ドイツ普及福音伝道会」と深井英五
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd168ff37949c37c3fb6e1b1e281018d
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月29日(土)12時03分18秒
前回投稿の引用文中に「激越の言動を以て熱信を表示する人々には共鳴し得なかつた」とあり、これは所謂「同志社リバイバル」への感想かと思ったら、時期的にちょっとずれますね。
「リバイバル」はキリスト教史において特殊な意味を与えられているので部外者には分かりにくい表現ですが、少し検索してみたところ、「同志社大学キリスト教文化センター」サイト内の同志社大学名誉教授・北垣宗治氏のエッセイ、「一八八〇年代前半の同志社英学校」に詳しい説明がありました。
北垣氏は池袋清風(1847-1900)という人物の日記を素材として、深井英五が入学する少し前の時期の同志社の様子を描いています。
その中でリバイバルに関係する部分を引用すると、
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同志社のリバイバル
池袋の日記が貴重な記録であることはおわかりいただけたと思いますが、なかでも最も貴重であると考えられるのは、この一八八四年二月の終りから三月にかけて、同志社英学校で起こった顕著なリバイバル、信仰復興の事実を池袋が詳細に記述しているからです。皆さんは「リバイバル」といえば、リバイバル映画、あるいはリバイバル・ソングの事を考えられるかもしれませんが、本当のリバイバルというのは、人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していくことを指します。キリスト教の歴史には世界の各地でしばしばこういうリバイバルが起こりました。【中略】
同志社のリバイバルのことが池袋の日記に初めて登場するのは三月二日の記録からです。
http://www.christian-center.jp/dsweek/09sp/0604.html
ということで、この後、同志社で「人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していく」様子が詳細に描かれるのですが、最初のうちは単なる興奮状態だったのがだんだん危険な雰囲気になり、
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こうして池袋にも聖霊が下ったのでしたが、学校内は異常事態へと移っていきました。チャペルで夜通し祈る者、まだ聖霊を受けていないクラスメートに聖霊が下るようにと攻撃的に攻め立てる者、今ただちに学校を飛出して、伝道に出掛けようとする者が続出して、同志社英学校は大混乱に陥りました。新島校長は、地方伝道に出掛けるのは、春休みになるまで待つようにと説得しましたが、生徒たちは聞き入れません。とうとう妥協が成立し、二年生の海老名一郎、四年生の原忠美、邦語神学生の辻籌夫の三人が、代表ということで大阪に向けて出発し、それから三田、神戸、岡山、高梁、今治等を巡回することになりました。他方英語神学生の綱島佳吉と、五年生の木村恒夫は狂信的な言動をするようになりました。綱島の如きは「池袋清風!」と大声で呼び、「貴様は悪魔かそれとも聖霊か? おれはイエス・キリストだぞ」と言って睨みつけ、とたんに大声を上げて泣き出し、その場で倒れてしまう、といった出来事も起こりました。綱島はやがて回復しましたが、木村恒夫の方は精神を病み、新島邸に収容され、精神病院に入れられ、ついに七月四日に息を引き取りました。
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という事態にまで発展します。
深井英五が数え16歳で同志社に入学したのはリバイバルの二年後、1886年(明治19)なので、このような異常事態は終息していたはずですが、一部にはその名残もあったのでしょうね。
さて、深井英五の宗教的・思想的変遷をもう少し追ってみます。(p29以下)
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右の心境の変化は同志社卒業の前年頃から卒業後の一二年に亙つて漸次に進展した。宗教と理性を調和せんことを期した所の思索は逆の結果を生じ、私の数年間心に懐きたる念願は破滅したのである。私は失望落胆せざるを得なかつた。新島先生の眷顧は私が基督教信者たりしことに基因したに違ひないから、先生に対して相済まぬと云ふ感が深刻であつた。然るに既に先生逝去の後であるから、報告して諒解を求むる由もない。私は実に甚だしく煩悶した。或は宗教の定義及び基督教の教理を微妙に解釈し、或は信仰と理性とを全然別個の範疇に属せしめ、心境の変化に拘らず依然として基督教信者たる名分を標榜すべき途も考へて見た。その例とすべきものも多くある。然しながら自己の信念に立脚せよと誨へられた所の先生は決して此の如き糊塗を嘉みせられないだらうと確信した。それで、普通学校入学のとき心中に予定せる進路を変じ、神学校に入ることを止めて同志社を去り、其後或る時、最早基督教信者と称し得ざることの諒解を郷里の所属教会に求めて立場を明かにした。
同志社卒業後の私は当分明白なる目当なしに種々の経路を彷徨した。其間尚哲学上の思索を続けたが、主観論的傾向が極端に走り、真理及び人生価値の標準に就いて全然懐疑に陥つて仕舞つた。同時に当面の生計を如何にすべきやの問題にも心を労し、神経衰弱になるか、又は大脱線をするかも知れないやうな心境になつた。それが青年の危機たる二十三、四歳の時であつた。結城礼一郎氏が蘇峯先生古稀祝賀文集に発表した民友社金蘭簿中に私の名もあつて、指定項目の下に、得意は無し、趣味は無し、主義は厭世、希望は寂滅と書いてある。多分入社後間もなき頃のことで、少し茶目気分も交つたのであらうが、自棄に傾いた懊悩の心境が現はれて居る。其の間母に心配を掛けることを惧れて自戒もしたが、私を危機から救つた所の主因は、嘗て新島先生から誨へられた所の実践的人生観であつた。私は「仕事をしなければならぬ」と云ふ訓言を想起して之に邁進すべく決心したのである。仮令人生価値の規準は徹底的に判らなくとも、行住坐臥、一々理由を糺すの遑はない。現存する社会の常識と自己の直観とを調合し、環境の遭遇に応接して出来るだけの実践を期すべきのみと観念した。必ずしも方向を予定して焦慮することなく、広い意味の実行本位に立脚する。而して之と相並んで「世の中の為めになる」と云ふ訓言は固より私の心に浸みて渝らない。基督教の信仰に就いては新島先生の期待に背いたが、人生の心構へに就いて先生に負ふ所は広大である。平凡でもあり、又薄志とも云はれるだらうが、余り深く考へずに当面の実践に重きを置くと云ふのが、私の人生観として一応固まつた。更らに其の合理的根拠を求めんとして思索に還つたが、それは後年の事である。
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