学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『エルンスト・トレルチの家計簿』の謎

2018-11-12 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月12日(月)09時27分4秒

>筆綾丸さん
小柳敦史氏が2013年の『日本の神学』52号で疑問を呈して以降、五年間はぐらかし続けているそうですから、限りなく真っ黒に近い灰色ですね。


また、『週刊新潮』によれば、深井氏にはもうひとつの疑惑があるそうです。

-------
「深井先生が雑誌『図書』の2015年8月号に寄稿した『エルンスト・トレルチの家計簿』という論考で、彼が依拠した資料が存在しているか疑わしいこと。その論考を読むと、深井先生はあたかもドイツにあるトレルチ資料室の管理責任者から資料を入手したように書いていますが、私が確認したところ、そうした事実はなかったのです」


奇怪な事件ですが、学院長解任は当然としても、それで済むのか。
小柳敦史氏には、

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『トレルチにおける歴史と共同体』(知泉書館、2015年9月)
「共同体形成としての学問」(『21世紀の信と知のために キリスト教大学の学問論』茂牧人・西谷幸介編、新教出版社、2015年2月、132-165頁)
「京都帝国大学文学部基督教学講座の成立」(『近代日本の大学と宗教(シリーズ 大学と宗教I)』江島尚俊・三浦周・松野智章編、法藏館、2014年2月、105-135頁)
「キリスト教と「運命」-プロテスタント神学における『西洋の没落』の残響-」(『宗教研究』第390号(日本宗教学会)、2017年12月、1-24頁)
「ドイツ・プロテスタンティズムにおける前衛と後衛」(『基督教学研究』第33号(京都大学基督教学会)、2013年12月、213-231頁)


といった著作があるそうで、「京都帝国大学文学部基督教学講座の成立」は読んでみたいですね。
キリスト教神学そのものにはあまり興味を持てないのですが、このタイトルには何となく思想のドラマが観られそうな予感がします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「フリッツ・レーフラーの墓」 2018/11/11(日) 23:24:13
小太郎さん
背景がわかりませんが、狐につままれたような感じですね。

https://de.wikipedia.org/wiki/Fritz_L%C3%B6ffler
ドレスデンの名士のようですが、Das Grab von Fritz Löffler (フリッツ・レーフラーの墓)とは、Das Grab von Carl Fritz Löffler (カール・フリッツ・レーフラーの墓)のことですかね。
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「カール・レーフラー」を探して(その2)

2018-11-11 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)22時39分52秒

小出しにする理由もないので、続きも全部引用してみます。(p197以下)

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 レーフラーも、ニーチェのキリスト教批判がその矛先を向けているのは、カントの影響を受け、神を実践理性の要請として理解し、キリストの神性は宗教的な価値判断であると考えたリッチュル学派、とりわけヴィルヘルム・ヘルマン的なキリスト教の再構築にあると見ている。そこでは既に述べた通り、人間の意志が行う価値評価がキリスト教信仰の生みの母であると理解されているので、リッチュル学派はニーチェのキリスト教批判に対して完全に無防備であり、逆にこの神学に対してはニーチェのあらゆる価値の転倒というプログラムは完全な破壊力を持っていたというのである。つまりこの神学は、ニーチェの前提、すなわち宗教的言表は価値評価をする意志による決断であるという前提を基盤として成り立っているのであり、ただリッチュル学派はニーチェとは逆の結論を出しただけなのである。それ故にレーフラーはヴィルヘルム期に神学者たちをニーチェと共にトータルに否定することができたのである。
 ところがレーフラーは、このリッチュル学派の傾向は、リッチュルとヘルマン、そしてさらにはマルティン・ケーラーを経由してカール・バルトの神学の前提となっているというのである。バルトはこのような人間学的、心理学的な神学批判、あるいはニーチェのように意志としての主体性による神学批判を克服するために、神が語るという啓示の真理性、上からの、超自然的な神学の開始点を学としての神学の営みの中に確保しようとしたのであるが、実はこのような超自然主義的な神学が可能になるのは、バルトが神学において「信仰の決断」という一点を必死に確保しているからであり、そこにバルトの神学は土台を置いているからである。それ故にバルトの超自然主義的な思惟の中には、真理を意志に基礎付けたニーチェの考え方が既に前提とされているにもかかわらず、バルトはリッチュルを批判することでニーチェの問題から解放されたと考えてしまったのである。レーフラーによればそれは間違いなのである。
 バルトの神学はリッチュルの問題を克服することができなかっただけはなく、むしろそれはリッチュルの神学の先鋭化、あるいは帰結なのであり、リッチュルにおいてもバルトにおいても、実践的な要求が超自然的な真理へと飛躍する動機を与えているという点では同じことなのだという。バルトはそれを「信仰の決断」と表現しただけなのである。この線でニーチェを克服することはできないのであり、むしろバルトの神学そのものがニーチェの神学批判の標的であり、それによってその誤りが明らかにされるものであることが分かるとさえ言うのである。つまり、決断としての信仰がその内容の真理性にとって決定的になっているような神学では、ひとはニーチェの意志の形而上学の地平から自由になっていないのであり、ニーチェによってその欺瞞性が解明された教会的キリスト教宗教そのものがバルトであり、さらにはゴーガルテンの決断主義だということになるのである。それ故にバルトやゴーガルテンは共に、ニーチェがもっとも鋭く批判したキリスト教の姿であり、ニーチェの批判がそこで明らかになるような神学なのである。
 バルトは自らの神学的立場を確立するためにリッチュルを批判し、その過程で合わせてニーチェを批判した。ニーチェのリッチュル批判はまったく正しいと述べ、その後で神学を超自然主義によって開始することで、リッチュルとニーチェを抱き合わせで批判し、処理しようとしたのである。そこでなされていることは、ニーチェが正しかったのはリッチュルに対してであり、自らが再構築するキリスト教はそれとは別だという考え方である。
 レーフラーはそのニーチェを使ってバルトを批判したが、しかしその後でニーチェを否定することはしなかった。むしろ彼は、ニーチェはあらゆる時代の教会的なキリスト教に対して正しかったのであり、その意味でニーチェは真のキリスト教を知る者だと考えたのである。
 このように、この時代のニーチェの流行は、単なるキリスト教批判のためのニーチェの援用ではない。ニーチェ自身のキリスト教批判は既に述べた通りリッチュルとその学派の神学を標的にしたものであるが、この時代のニーチェの思想の利用は、同じ神聖フロント世代が、主流派に転向したかつての同志たちを批判し、その唾棄すべき行為を告発するために用いられたもので、適応範囲がきわめて明確に限定されているのである。それ故に、カトリックの神聖フロント世代のひとりエーリヒ・プシィヴァラは、転向したフロント世代に対して次のように述べたのであった。「似合わない服を着てキャヴァレーから出てきて舞踏会に出てみたが、踊っているうちに相手も自分も悪臭を放つ死体になっていることに気が付いていなかった。」かつての同志への批判である、彼らの思想に対する「弔辞」をあえて書いて、「私はニーチェの言葉を引用し、彼らの冥福を祈ることにしよう」とまで書いたのである。
-------

うーむ。
正直、私もきちんと理解しないまま文字を追っているだけなのですが、「カール・レーフラー」が実在しないのであれば、ここまでの分量を重ねて「捏造」する理由は何なのか。
小柳敦史氏の発端の書評や関係論文を読んでみたい気もしますが、不慣れな分野でもあり、年内はちょっと無理ですかね。
まあ、もう少しすれば東洋英和女学院の学内調査委員会の結論も出るでしょうけど。
それにしても、こうした事態になってみると、「似合わない服を着てキャヴァレーから出てきて舞踏会に出てみたが、踊っているうちに相手も自分も悪臭を放つ死体になっていることに気が付いていなかった」はずいぶん気味の悪い予言のような感じもします。
それと、「キャヴァレー」が cabaret のことであれば、「キャバレー」の方が良さそうですね。
どうでもいい話ですが。

https://en.wikipedia.org/wiki/Cabaret
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「カール・レーフラー」を探して(その1)

2018-11-11 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年11月11日(日)21時56分18秒

深井智朗氏の件、ちょっとびっくりですね。

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東洋英和女学院院長に研究不正疑い 引用論文存在せず?

 学校法人・東洋英和女学院(東京都港区)が、学界や論壇で受賞を重ねる深井智朗(ともあき)院長の著書に「研究活動上の不正行為の疑いがある」として、学内調査委員会を設置することが9日わかった。深井氏が引用した神学者の論文の存在が確認できていないという。
 問題の著書は「ヴァイマールの聖なる政治的精神――ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム」(岩波書店、2012年刊行)。4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されているが、当の論文の書誌情報は示されていなかった。【後略】

https://www.asahi.com/articles/ASLC972PYLC9UCLV013.html

この掲示板でも『ヴァイマールの聖なる政治的精神』に少し言及したことがありますが、私自身の関心は森鴎外の「かのやうに」に出てくるアドルフ・フォン・ハルナックという神学者について知りたいというだけのことだったので、「カール・レーフラー」が登場する部分は斜め読みで済ませていました。

五條秀麿の手紙(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/35e6dcdccbb3df021601109a5670b320
五條秀麿の手紙(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/749396dca7e34e24dd7faf3f62eba3aa
「かのやうに」とアドルフ・ハルナック
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30c61f6e07014e1938162323f7670929
『ヴァイマールの聖なる政治的精神─ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/05c17e6a9f9523a67d4f569559ed713a

『ヴァイマールの聖なる政治的精神』を確認してみると、問題の「4ページにわたり、「カール・レーフラー」という名の神学者が書いたとされる論文「今日の神学にとってのニーチェ」に基づいて論考が展開されている」のはp196~199ですね。
同書の全体の構成は、

-------
プロローグ 聖なる政治的精神
――近代ドイツ・プロテスタンティズムの二つの政治神学
第1章 アドルフ・フォン・ハルナックとマックス・ヴェーバー
――世紀末の二人のリベラル・ナショナリスト
第2章 ゲオルク・ジンメルが見た転換期のドイツ神学
――ヴィルヘルム帝政期の国家神学とヴァイマールの神聖フロント世代の政治神学
第3章 学問の市場化としての「学問における革命」
――大学神学部と大学の外の神学
第4章 ニーチェは神学を救うのか
――ヴィルヘルム期からヴァイマール期の神学におけるニーチェの奇妙な流行
第5章 ヴァイマールの神聖フロント世代の殿を戦うディートリッヒ・ボンヘッファー
第6章 神聖フロント世代の両義的な政治精神
――パウル・ティリッヒとエマヌエル・ヒルシュにおける「民族的なもの」
エピローグ プロテスタンティズムとナショナリズム

https://www.iwanami.co.jp/book/b261288.html

となっていて、「第4章 ニーチェは神学を救うのか ヴィルヘルム期からヴァイマール期の神学におけるニーチェの奇妙な流行」は、

-------
1 「表現主義」批判としての「新即物主義」の時代
2 ニーチェのキリスト教批判はどのように解釈されるべきなのか
3 新即物主義の画家オットー・ディックス
4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用
5 神聖フロント世代における二つのニーチェ利用
-------

の五つの節に分れています。
問題の4頁は「4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用」ですね。
参考までに冒頭を少し引用してみると、

-------
4 ニーチェのキリスト教批判の神学的援用

 神学史のもうひとつの事例を取り上げてみよう。ヴィルヘルム期末期から既存の教会や神学への批判を繰り返していた『ディ・タート』誌に論文をしばしば投稿していた、ディックスと同年代の神学部外の神学者カール・レーフラーは、一九二四年に書かれた「今日の神学にとってのニーチェ」という論文の中で、ニーチェのキリスト教批判を分析した上で、今日のカール・バルトの神学はニーチェの批判したリッチュルの神学と同じ構造を持っているが故に、その批判を免れることはできず、ニーチェの批判によってカール・バルトの神学は消滅するという議論を展開している。レーフラーはかつて「パトモス・クライス」にさえ参加したバルトが、いつの間にかゲッティンゲン大学を皮切りに大学の教授となり、教義学大系に興味を持ち始めたということに疑念を持った神学者のひとりであった。彼自身は堅信礼教育における使徒信条の使用を拒否したために、牧師としての地位を剥奪され、自由キリスト者同盟という雑誌上の交流グループを一九二九年に立ち上げたひとりである。彼は神聖フロント世代のひとりであったが、二〇年代以降「転向」を果たした神学者たちの裏切りを批判した、フロントにとどまった神学者のひとりである。
-------

といった具合です。
このレベルの文章であれば「今日の神学にとってのニーチェ」には何らかの形で出典の明示が必須でしょうが、本文にも注記にも、それは見当たりません。
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深井智朗『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』

2017-08-17 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 8月17日(木)09時15分23秒

>筆綾丸さん
来月、深井智朗氏の『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』というタイトルの本が出るそうですね。

-------
今を遡ること500年、1517年にマルティン・ルター(1483-1546年)は「贖宥の効力を明らかにするための討論」を公表した。これこそが、ヨーロッパに激震を走らせる宗教改革の発端となる歴史的文書「95箇条の提題」にほかならない。
この文書によって時代は確実に動き始めた。ルターはバチカンの教皇から審問を受けて、自説を撤回しなければ破門とする旨を告げられ、皇帝カール5世にも厄介者とみなされた。それらに屈することなく強い意志を持ち続けたルターは、「95箇条の提題」で説かれた内容を、その後の変化や論争を踏まえつつ、より正確に、そしてより多くの人々に伝えることを目指す。そうして不眠不休で執筆を続けたルターが頂点を迎えるのは、3年後の1520年である。この年に発表された『キリスト教界の改善について』(8月刊)、『教会のバビロン捕囚について』(10月刊)、『キリスト者の自由について』(12月刊)の三冊は、のちに「宗教改革三大文書」と称されるに至る。
本書には、従来、文庫版では『キリスト者の自由について』しか読むことができなかった「宗教改革三大文書」をすべて収めるとともに、「95箇条の提題」をも収録した。
キリスト教思想はもちろん、ドイツ思想史にも知悉した第一人者が手がけた決定版新訳、ここになる。必携の1冊がついに登場!

http://comingbook.honzuki.jp/?detail=9784062924566

講談社学術文庫は他の形態で出した評判の良い本を集めているのかと思ったら、直接出す場合もあるのですね。
「チャリン」「ヂャリン」に関する解説も楽しみです。

贖宥(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8826
「ちゃりん」は27・28条?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/42b60627402cb17aa1762e720082a166
Luthers とは俺のことかと Luter 言い(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8829

>ザゲィムプレィアさん
「計量文献学」と名乗るかどうかは別として、『太平記』に出てくる語彙の数量的な分析を扱う論文などはけっこうありますね。
ま、個人的にはあまり興味がない分野ですが。
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三谷太一郎『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』

2017-05-10 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月10日(水)14時19分43秒

つまらないことに拘っているようですが、引用の仕方が変な人間は信用できない、と私は思っているので、出典を細かく追っているところです。
さて、早川喜代次著『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、1968)は未だに入手できていないのですが、三谷太一郎『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』(東京大学出版会、2009)の「3 日本の国際金融家と国際政治─高橋是清・井上準之助と国際金融資本」<初出は佐藤誠三郎、R・ディングマン編『近代日本の対外態度』(東京大学出版会、1974)所収(原題「日本の国際金融家と国際政治」)>に、深井英五と徳富蘇峰に関して次のような記述があるのに気づきました。(p44以下)

------
 高橋に随行して終始高橋の外債募集交渉を補佐した深井英五もまた、日露戦争を契機として登場した国際金融家の一人に数えられる。小学校生徒であった頃から英語を学ぶためにキリスト教会の門を叩き、牧師の感化によって洗礼を受けた深井は、同郷の先覚新島襄の経営する同志社に学び、同校卒業後、当時台頭しつつあった新神学運動に参加するために一八九一年に金森通倫の紹介で普及福音教会に属する新教神学校に入ったが、信仰に動揺を生じ、一年半でこれを中退した。しかしながら深井はこの間に後年米国駐日大使ジョセフ・グルーが「米国人の如く話す日本代表」(26)と評したような英語についての抜群の語学力を習得すると共に、ドイツ系の新教神学校においては新神学の実証的文献批判の方法に深く啓発された。そしてそれが後年の実務家としての深井をつくり上げる基礎となった。深井によれば、古文書の考証の方法は、文書の背景や含蓄に深い注意を払う習慣を体得させ、後年契約の作成援用あるいは外交文書の取扱いの上に有益な教訓を与えた(27)。
 新神学の影響という点では、深井の体験は、深井よりも六歳年少で、金森通倫と同じ熊本バンド出身の海老名弾正を通してその影響を受けた吉野作造の場合ときわめて類似している。吉野もまた新神学の実証的文献批判の方法によって、信仰よりもむしろ学問(歴史学)の面で啓発されるところが大きかったとのべている(28)。
 しかしながら吉野が新神学を通して信仰と学問との間に調和を見出し、キリスト者としての立脚地を得たのに対して、深井はついにそれを見出すことができなかった。そして深井は一八九三年(明治二六年)国民新聞社および民友社に入り、一九〇〇年に退社するまで徳富蘇峰の眷顧を受け、主として外国関係を担当する記者として働いた。その間、後年の国際金融家としての深井の対外意識の形成に影響を与えたのは次の二つの体験である。
 第一は日清戦争に際して通信員として蘇峰と共に大本営のおかれた広島に出張し、さらに総司令部が旅順に進発するのに随行して、現地において従軍記者を体験したことである。戦争が終り、三国干渉によって遼東半島還付が決定された時、ちょうど深井は蘇峰と共に川上操六参謀次長、樺山資紀海軍軍令部長らに随行して新領土に予定されていた遼東半島を視察旅行中であり、旅順に在った。蘇峰は悲憤を抑えきれず、旅順口の海岸から一握りの小石と砂利とをハンカチに包んで持ち帰ったが、その帰途夕陽に映える旅順の山々を望みながら、蘇峰は深井をかえりみて、「深井君、よく考えてみると露帝も独帝もわが輩を改宗せしめた恩人だよ」と語ったといわれる。つまり深井は、蘇峰の有名な「帝国主義」への転向の場面に親しく立ち会ったのである(29)。このことが深井にも少なからぬ影響を与えたことは、深井がその自伝の中で国民新聞および民友社時代にもっとも有益であったことの一つとして、「日清戦争の前後に亙る時勢の変遷に新聞記者として応接したこと」を挙げ、「それが国家本位の現実主義を私の心に植付けた」とのべているところにもうかがえるであろう(30)。
-------

そして(26)~(30)の注記の内容は、

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(26) Joseph C.Grew, Introductory Address at the Dinner tendered by the America-Japan Society to Viscount Ishii and Mr.Fukai, Tokyo, Dec.7,1933, The Papers of Joseph C.Grew, Houghton Library,Harvard University, Vol,65.
(27) 深井『回顧七十年』(岩波書店、一九四一年)三二-三三頁。
(28) 三谷太一郎「思想家としての吉野作造」(三谷『新版 大正デモクラシー論─吉野作造の時代─』東京大学出版会、一九九五年)一三五-一三七頁。
(29) 早川喜代次『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、一九六八年)一一〇頁。
(30) 深井『回顧七十年』前掲、三九頁。
-------

となっています。
ということで、「深井君、よく考えてみると露帝も独帝もわが輩を改宗せしめた恩人だよ」云々の話は早川喜代次『徳富蘇峰』のみに基づくもので、深井の『回顧七十年』は関係ないですね。
三谷氏は『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』の記述を『日本の近代とは何だったのか』に簡略化して転載したときに引用文献も圧縮してしまった訳ですが、まあ、間違いとは言い切れないものの、ちょっと誤解を招きやすい表現になっていますね。

私は『日本の近代とは何であったか』をかなり期待して読み始めたのですが、最初から細かい点で違和感を感じる部分が非常に多く、最後の数十ページは読み通すのに苦痛を感じるほどでした。
岩波書店の宣伝文句、

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政党政治を生み出し,資本主義を構築し,植民地帝国を出現させ,天皇制を精神的枠組みとした日本の近代.バジョットが提示したヨーロッパの「近代」概念に照らしながら,これら四つの成り立ちについて論理的に解き明かしていく.学界をリードしてきた政治史家が,日本近代とはいかなる経験であったのかを総括する堂々たる一冊.


とは異なり、三谷氏の過去の代表的著作『大正デモクラシー論』『日本政党政治の形成』『ウォールストリートと極東』などを特に「総括」することもなく適当に寄せ集めた貧弱な一冊、というのが私の率直な読後感です。
複数の古い革袋に残った酒を新しい小さな革袋に詰め込んで、ラベルだけ新しくしたような感じですね。
まあ、文章はしっかりしていますから、三谷氏は東大法学部の同僚だった樋口陽一氏のように老化が進んでいる訳ではないのでしょうが、かといって特に円熟味を増した訳でもなさそうですね。

「黙れ兵隊!」(by 岸信介)

>筆綾丸さん
>ロバート・シンクレア・ディーツ

「大覚寺海山」も変ですが、神功皇后にちなんだ「神功海山」も奇妙な感じがしますね。
ウィキペディアの日本語版には「1953年、フルブライト研究者として東京大学に留学し、海上保安庁水路部においても研究を行った。このときに天皇海山群の海山に歴代天皇の名をつける」とありますが、戦前の文献を参考にしたのかもしれないですね。

Robert Sinclair Dietz (1914-95)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Emperor Seamount Chain 2017/05/09(火) 19:59:36
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%B5%B7%E5%B1%B1%E7%BE%A4
NHKBSプレミアム(5月8日)で、久しぶりに『クリムゾン・タイド』を見ました。朝鮮半島近海に原潜ミシガンが展開している時期に、この映画を放映するNHKの真意は不明ですが、これはやはり名作ですね。
原潜アラバマのSLBM発射予定海域として、Emperor Seamount Chain(天皇海山群)という名が出てきます。形成時期が一番古いのが「明治海山」というのは変ですが、「大覚寺海山」の大覚寺とは、後宇多天皇のことなのか、嵯峨天皇のことなのか。
ドビュッシーの「La cathédrale engloutie」を「沈める寺」と訳したのは、はたして正しかったのかどうか、わからぬものの、Emperor Seamount Chain の命名時期を考えると、海洋学者ディーツに「沈める天皇」という意図があったのかもしれぬ、という気がしないでもありません。
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1954年にアメリカ合衆国の海洋学者ロバート・シンクレア・ディーツにより、海山の一つ一つに日本の天皇(主に古代)の名前が付けられ、海山群を総称して天皇海山群と付けられた。
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「君は寧ろ小心に過ぐると云ふべき程、堅実性に富んだ人」(by 徳富蘇峰)

2017-05-08 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 8日(月)22時59分12秒

早川喜代次著『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、1968)はちょっと入手が難しいので、代わりに『蘇峰自伝』(中央公論社、1935)を見てみたところ、「第十章 日清戦役時代と予(明治二十七年─明治二十八年)」に次の記述がありました。(p308以下)

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五 遼東半島視察中桂公と相識る
 ◇遼東還付の報に猛然旅順より帰る

 予は日本内地以外には、今度初めて足を踏出したもので、遼東半島の旅行は、予に取つて実に愉快であつた。固より交通機関とても無く、又た所謂る支那内地の旅行に必要なる、蒲鉾形の馬車さへも無く、徒歩をするか、さもなくば普通の荷車に毛布を一枚敷いて、それに乗つて行くかの外に方法が無つた。
 尤も当時は休戦最中で、兵站部の連絡はあつたから、予等は兵站部から兵站部へと、その線路を辿つて歩いたのだ。当時四月の下旬で、遼東半島には初めて春が訪れ、大木の柳は漸く芽をふき、北方特有の花たる杏花は、今を盛りと咲きつゝあつた。広き野原に何物も目を遮へぎるものなく、悠々として春風に吹かれながら、吾が新領土とも思ふ、大陸の土を踏みつゝ旅行した事は、予にとつては実に大なる愉快でもあり、満足でもあつた。
【中略】
 帰つて見れば、出発当時の形勢とは打つて変り、恰も火の消えたる状態で、これは何事である乎と聞けば、愈々遼東還付であると云ふ事にて、予は実に涙さへも出ない程口惜しく覚えた。予は露西亜や独逸や仏蘭西が憎くは無かつた。彼等の干渉に腰を折つた、我が外交当局者が憎かつた。一口に云へば、伊藤公及び伊藤内閣が憎かつた。
 かねて伊藤内閣とは外交問題で戦つたが、今更らながら眼前に遼東還付を見せつけられたには、開いた口が塞らないと云ふばかりでは無かつた。此の遼東還付が、予の殆ど一生に於ける運命を支配したと云つても差支へあるまい。此事を聞いて以来、予は精神的に殆ど別人となつた。而してこれと云ふも畢竟すれば、力が足らぬ故である。力が足らなければ、如何なる正義公道も、半文の価値も無いと確信するに至つた。
 そこで予は一刻も他国に返還したる土地に居るを屑しとせず、最近の御用船を見附けて帰へる事とした。而して土産には旅順口の波打際から、小石や砂利を一握り手巾に包んで持ち帰つた。せめてこれが一度は日本の領土となつた記念として。
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ということで、三谷氏の「旅順港の海岸から一握りの小石と砂をハンカチに包んで持ち帰ります」に相当する記述はありますが、深井英五は登場しません。
ちなみに深井英五に関する蘇峰の人物評は少し前の「三 大本営の移動と予 ◇広島に於ける人々」に出ています。(p304以下)

------
 当時予と終始行動を一にしたるは、即ち今日日本銀行総裁である深井英五氏であつた。君は予に先発して広島に出掛けた。有体に言へば、予は君を予の理想的の新聞記者に作上げようと思つたが、その方面では予は聊か予の考が間違である事を悟つた。君は寧ろ小心に過ぐると云ふべき程、堅実性に富んだ人であつて、山気たる事とか、冒険的の事とかは好まない。頭脳は全く論理的に出来てゐて、自ら先づ酔うて、而して後人を酔はしむる等と云ふ手際は、望むべきで無かつた。併し君の英語の知識は極めて精確であつて、君の翻訳でさへあれば、一々原文と対照せずとも安心であり、又た問題を与へれば、それを研究的に調査し、調査的に研究し、徹底せしむるに就いては、普通の新聞記者の及ぶ所で無く、特に如何なる難題でも、君に理解の出来無い事は無かつたから、粗枝大葉の予に取つては、縦令神速、機敏などゝいふ点には、予の誂向きでは無かつたにしろ、無二の調法なる人であつたに相違は無い。
 其処で予はつらつら考ふるに、君を日常的の探訪とか、通信とかに使用するのは、材を用ゐる所以で無いと悟つた。然も当時川上将軍から、大本営に英語を解する者が少いとて、その推薦を頼まれたを幸に、君を推薦し、斯くて深井君は、毎日銀色の徽章を佩け、大本営に出掛ける事とした。
-------

非常に堅実で、「頭脳は全く論理的に出来てゐ」るといった蘇峰の評価は、『回顧七十年』の極めて明晰な文章に照らして、なるほどな、と思えます。
なお、『蘇峰自伝』には深井が写った二葉の写真、「明治二十八年広島に於ける記念撮影」(p305、深井・蘇峰を含む4名)と「外遊当時コンスタンチノープルに於ける蘇峰翁及び深井英五氏」(p313)が載っていますが、スーツ・ネクタイの洋装ながら、御世辞にも深井に洗練された紳士的雰囲気はなく、生真面目な表情には煩悶する哲学青年の残り香が漂っていますね。

さて、三谷氏の引用の正しさを確認するためには、やはり早川喜代次著『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、1968)を見るしかなさそうですが、「徳富蘇峰記念館」サイトによれば早川喜代次氏は1903年福島県生まれ、職業は「福島民報 報知本社記者 弁護士 徳富家の法律顧問 白虎隊記念館創立」という方だそうで、徳富蘇峰・深井英五に比べればずいぶん若い世代になりますね。
おまけに「徳富蘇峰伝記編纂会」は会津若松に所在するとのことなので、出版年も考えると、私が確認したい事項について正確な記述があるのかなあ、という不安も生じてきます。

http://www.soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/6633
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「深井君、よく考えて見ると、露帝も独帝もわが輩を改宗せしめた恩人だよ」(by 徳富蘇峰)

2017-05-07 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 7日(日)21時42分24秒

>筆綾丸さん
深井智朗氏は専門のドイツの宗教事情に関しては正確、というか仮に誤りがあっても一般読者との学識の差がありすぎるので読者が気づかないでしょうが、日本については要注意ですね。
出典の明示についてもちょっと雑なところがあり、『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』の「解題」のように全然出典を示さない場合もあるので、これまた警戒が必要です。

>明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰

たまたま三谷太一郎氏の最新刊、『日本の近代とは何であったか─問題史的考察』(岩波新書、2017)を読んでいたところ、徳富蘇峰と深井英五に関して少し変な記述を見つけました。(p146)

------
 三国干渉によって遼東半島還付が決定された時、民友社や国民新聞社を主宰する先進的なジャーナリストであった徳富蘇峰は、当時彼の下で国際関係担当記者として働いていた後年の日銀総裁深井英五と一緒に、川上操六参謀次長、樺山資紀海軍軍令部長らに随行して遼東半島を視察旅行中で、その要衝である旅順にいました。その時、蘇峰は悲憤を抑えきれず、旅順港の海岸から一握りの小石と砂をハンカチに包んで持ち帰ります。その帰途、夕陽に映える旅順の山々を望みながら、蘇峰は深井をかえりみて、「深井君、よく考えて見ると、露帝〔ロシア皇帝ニコライ二世〕も独帝〔ドイツ皇帝ウィルヘルム二世〕もわが輩を改宗せしめた恩人だよ」と語ったといわれます(深井英五『回顧七十年』岩波書店、一九四一年、早川喜代次『徳富蘇峰』徳富蘇峰伝記編纂会、一九六八年)。かつて一八八六(明治一九)年ベストセラーとなった『将来之日本』において、経済的視点から国際的平和主義を唱えた蘇峰は、三国干渉に遭遇して一転して軍事的視点に立つ「帝国主義」へ「改宗」したのでした。
------

徳富蘇峰の「改宗」のエピソードについて出典が二つ明示され、しかも深井英五『回顧七十年』が先に置かれていますから、普通の読者は『回顧七十年』にこの話が載っているのだろうと思うでしょうが、私は実際に同書を読んだばかりなのに、こんな話を見た覚えがありません。
何じゃこれ、と思って目を皿のようにして『回顧七十年』を読み直してみたところ、やっぱりありません。
同書の「第五章 蘇峰門下」には「国民新聞社及び民友社に在る間私にとりて特に重要なる事柄」として三つの出来事が記され、「第一は、日清戦争に際し通信員として大本営広島に出張し、次で関東州に渡り従軍記者となつたこと」なのですが(p40以下)、そこに書かれているのは軍艦で旅順に向かう際に起きた奇妙なトラブルだけですね。
生真面目な深井にとっては珍しい一種の冒険譚、というか滑稽譚なのですが、三国干渉とは全く関係ありません。
ちょっと狐につままれたような気分ですね。
念のため、徳富蘇峰伝記編纂会『徳富蘇峰』を確認してみるつもりです。

『日本の近代とは何であったか─問題史的考察』
三谷太一郎(日本学士院サイト内)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Mass of all bombs 2017/05/07(日) 12:16:17
小太郎さん
ご教示、ありがとうございます。
「新教神学校」にしては「独逸ドイツ語を教える私立学校」というのは変だな、と思いましたが、やはり別物なんですね。

-----------
同志社卒業後、明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社し、明治33年、外報部長の時、蘇峰の推薦で当時の大蔵大臣松方正義の秘書官に転じます。しかし、3か月後、松方蔵相の辞職にともなって職を失し、1年間の浪人生活の後、松方の推薦により日本銀行に入行し、当時副総裁だった高橋是清に大いに能力を認められます。
-----------
ご紹介の日銀の説明を読むと、ジャック・アタリの紹介で政界入りした新星エマニュエル・マクロンと、どこか似ているところがありますね。
ENA出身の秀才も École Normale Supérieure の試験では挫折したそうですが、次期大統領の学位論文がヘーゲルとは驚きです。

法王の政治好きにはうんざりしますが、こんな寝言に何の意味があるのだろう、と思います。Massive Ordnance Air Blast Bomb の Massive を Mass に置き換えれば(文法的にはともかく)、Mass of all bombs(すべての爆弾のミサ)になりますね。

------------
Why should I respect a capricious, mean-minded, stupid god who creates a world which is so full of injustice and pain?"
------------
Defamation Act により冒瀆罪として最高25,000ユーロの罰金、とのことですが、この程度の発言で罰金刑とは窮屈な社会ですね。ギリシャの多神教の神々(gods)に比べ、一神教の神(god)は偏執狂的で身勝手だ、という指摘は正鵠を射ているような気がします。
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金森通倫の「不穏な精神」

2017-05-07 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 7日(日)10時31分4秒

プロテスタントの立場から日本のキリスト教史を描いた一般読者向けの本を読むと、普及福音教会等の「自由基督教」に対する非難や嫌悪に満ちた表現に出会うことが多くて、私のように全く外部からプロテスタントの世界を眺めている人間にとっては聊か不思議な感じがします。
正直、百数十年前の事象にそんなに興奮することもないのになあ、みたいな感想を抱いてしまうのですが、ま、信仰の世界に生きている人たちには外部には分かりにくい様々な事情があるのでしょうね。
さて、あまり寄り道する訳にもいかないなと思いつつ、「自由基督教」のキーマンである金森通倫(1857-1945)だけは少し調べておきたいと思って文献を探したところ、杉井六郎氏(同志社大学名誉教授、1923-2011)の『明治期キリスト教の研究』(同朋舎出版、1984)で金森の信仰と思想の検討がなされていることに気づきました。
「第五章 明治のキリスト者群像─金森通倫を中心として─」の冒頭部分を少し引用すると、

------
 『日本組合基督教史』(大正十三年九月、未定稿)によると、「金森通倫組合協会を去る」として、「金森の如く極端に馳せたものはなかつた。金森は何時も極端より極端に馳る人で、信仰と云へば飽く迄信仰を高調し、自由と云へば飽く迄自由を遂行した。キリストの神聖、奇蹟は勿論、終には神の存在をも霊魂の不滅をも否定せねば止まない如き勢であつた」としるされている。これは熊本洋学校以来の友人である小崎弘道の筆になり、さらに金森の同僚・後輩の眼を通して成稿されたものである。未定稿ながら、この本が、日本組合基督教会本部から出版された年代には、かれは、すでに信仰を復活し、ニュージーランド伝道に出かけ、再び三面六臂の大伝道活動をおこなっていた。かれにおとずれた、第二、第三の信仰の高潮が渦巻いていたときであった。

 かれは自らを≪私は太平の子ではない。擾乱の子である≫といっている。【中略】かれの師事した対象は竹崎茶堂からアメリカ人ジョーンズに移り、ついで新島に移っていった。その流動的な精神のあり方は、その対象に全精魂を投入して、そこに自己を焼き尽す体のはげしさをもちつつ、しかも、一所に固定、定着しない、躍動的な変り身の恬淡さが、「不穏な精神(レストレス・スピリット)」の大きな特徴といえる。
 こうした、ある意味で柔軟で自由な精神の持ち主に支えられ、担われる信仰・思想も、また、同じような枠組み、定型化、固定化をきらう性格を必然的にしたことも当然であろう。
------

といった具合です(p285以下)。
杉井六郎氏の論文を読み進めて行くと、「一事背教し、棄教し、やがて、約二十年の後、再び信仰に復帰した」(p286)金森は、常識的なプロテスタント信者には全く理解不能な軌跡を描いているようでありながら、その宗教的・思想的変動には金森なりに極めて一貫した方向性が確かに存在していたことが伺われます。

金森通倫(「歴史が眠る多磨霊園」サイト内)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kanamori_t.html
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深井英五と井上準之助

2017-05-06 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 6日(土)15時22分23秒

>筆綾丸さん
>本郷壱岐坂にあった、独逸語を教える私立学校

これは1887年(明治20)に設立された新教神学校ではなく、「進文学社」という学校だそうですね。
「白鴎書院」というタイトルの個人ブログに、坪内祐三氏の『極私的東京名所案内』などを参照した上で「進文学社」の正確な位置を熱心に探求した過程が書かれています。


深井智朗氏の「ベルリンの日本人と東京のドイツ人:日本におけるアドルフ・ハルナック」(『聖学院大学総合研究所紀要』No.50、2011.3)には「小説『ヰタ・セクスアリス』などにもこの学校〔新教神学校〕の様子を描いている」とありますが、これは深井氏の勘違いで、『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015)の深井氏による「解題」には「新教神学校の場所が、鴎外がかつて一〇代で上京しドイツ語を習った進文学社の近く」とあります。(p275以下)
深井氏は見解を修正していますね。

「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」(by 三並良)
鴎外の「序文」代筆の先行例?

>深井は血盟団には狙われなかったのでしょうか。

『回顧七十年』には特に自身が右翼から攻撃対象とされていたようなことを伺わせる記述はありませんが、それ以上のことは私も知りません。
ウィキペディアには「歴代日銀総裁でもっとも経済理論に精通し、金融恐慌時は副総裁として井上準之助をサポートした。ぎりぎりのところで日本経済を救った立役者として知られている」などとありますが、特に出典も根拠も示されておらず、全体として意味不明の記述のような感じがします。
深井と井上準之助の関係は時期に応じて変化しており、深井が政治からは一定の距離を置いた金融のテクノクラートであったのに対し、井上は金融恐慌発生以降、日銀の第11代総裁の時期(昭和2年5月10日~昭和3年6月12日)を含め、民政党の政治家として行動していますから、深井が一方的に「サポート」するような関係ではないですね。
『回顧七十年』においても、深井の井上に関する記述にはかなり冷ややかな視線を感じます。
例えば次のような箇所ですね。(p232以下)

-----
 補償法融通は金融界動乱を鎮静し、財界立直しの途を開くに効があつたけれども、成るべく国庫の損失を少なくするやうに融資を回収し、同時に財界の堅実なる進展を誘導するのが、後に残された所の大なる課題である。然るに井上氏は融資貸出を了りたる後幾もなく、昭和三年七月〔ママ〕に突如として辞職した。さうして土方副総裁は総裁に、私は副総裁に任命された。是より先高橋大蔵大臣は特別融資法の施行後間もなく、昭和二年六月に辞職し、三土忠造氏が之に代つた。高橋氏が老躯を以て後輩田中義一男の下に大蔵大臣に就任したのは、金融界動乱鎮静の為めに挺身したので、応急措置と基礎工作の成りたる後、其の信任する後進に地位を譲りたる心事は諒とすべきものがある。井上氏が特別融資の実行に強く自己の方針を発揮した上、其の終を完くすべき地位に留まらざりしは如何なる事情があつたのか。浩瀚なる伝記にも此の疑問は解けて居ない。
------

「第9、11代総裁:井上準之助」(日本銀行サイト内)
「第13代総裁:深井英五」(同)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

VITA SEXUALIS 2017/05/05(金) 13:23:57
小太郎さん
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/695_22806.html
ご引用の深井氏の文に、
--------------
そのため、この学校は小さいが、当時大変有名になり、森鴎外などはしばしば出入りしており、小説『ヰタ・セクスアリス』などにもこの学校の様子を描いている。
--------------
とあり、数十年ぶりに『ヰタ・セクスアリス』を眺めてみました。

金井君が十一歳の時のこととして、
---------------
同じ年の十月頃、僕は本郷壱岐坂にあった、独逸ドイツ語を教える私立学校にはいった。これはお父様が僕に鉱山学をさせようと思っていたからである。
---------------
とあって、これが新教神学校のことですね。(本郷壱岐坂の名は小笠原壱岐守の下屋敷に由来するようですね)そして、
--------------
十三になった。
去年お母様がお国からお出になった。
今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代ったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだったとの為めである。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分益に立った。
--------------
と続きます。独逸語は小さい頃にほんの少し齧っただけだが、俺はこんなにも独逸語にできるのだ、という鴎外らしい嫌味な文ですね。

-----------------
こんな深い意味ある哲学論をしたり、或は純文学論をする深井は傍ら相場をやつたり、色町を漁り歩く実業家と断然類を異にして居ることは明らかである。
-----------------
という三並良の深井評に、医学者鴎外の「Vita Sexualis」を重ね合わせると、なかなか味わい深いものがあります。『ヰタ・セクスアリス』は、悪く言えば、暇になった老人が若い頃の神童ぶりを自慢してみた、というだけの小説ですが、当時の読書界には新鮮だったのでしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E4%BA%95%E8%8B%B1%E4%BA%94
---------------
歴代日銀総裁でもっとも経済理論に精通し、金融恐慌時は副総裁として井上準之助をサポートした。
---------------
とウィキにありますが、深井は血盟団には狙われなかったのでしょうか。
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『日本に於ける自由基督教と其先駆者』

2017-05-04 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 4日(木)14時01分47秒

『日本に於ける自由基督教と其先駆者』 から、三並良が深井英五を評した部分を引用してみます。(p277以下)

------
 深井はシュミーデル先生に愛されて居た。その頃私はもう神学校には居なかつた。併し彼をよく知つて居た。それで自分には外に志す所があるが故に、学校を止めると、私が市ヶ谷で伝道して居た時に、わざわざ訣別に来てくれたことを今でも忘れない。人には各志がある。惜しいとは思つたが、それを止めやうもない。私は彼とシュウェグラーの「哲学史」と、カントの「純理批判」とを記念の為め交換した。爾来私はこのレクラム本のカントを時より開いて読んで居る。深井が神学校を出たのは、彼自身には出世の初めである。けれども基督業界から云ふと、惜しい人材を失つたものである。
 基督教を私は「いゝ意味で」と附け加へたい─清算した深井は、学校を出て、色々努力もし苦労もしたらうが、それが報いられて現に日本銀行総裁の栄職に居る。併し我が神学校に来る前には数年間同志社に学んだ彼に、どうして基督教が喰ひ入らないで居る筈はない。彼が私に贈った「蘇峰先生古稀祝賀知友新稿」中にある彼の「唯物論批判」を読むと、そのことが明かに分る 此の研究論文中には、明言がしてはないが、確かに一方にはカール、マルクス等の唯物史観を排して居ることは明かである。他方では理想主義に賛意を表して居ることも亦認められる。そして彼の議論は価値論に進展する。さうすると価値論に就てはリッケルトやトレルチさてはマックスウェバーなど近代の独逸の碩学が大に議論を闘はして居るのだ。トレルチもウェバーも決して宗教を排斥するものではない。否之を代表する論者である。リッケルトと雖価値論丈けで済ます訳には行かなくなつた。深井の論文丈けでは、私は彼を評して、理想的懐疑者とでも云ひたいが、それでは丁度水の上に浮く藻のやうなものであつて、精神的安定は得られない。此の場合もっとも有力に働くのは我々の純な「感情」である。感情の大に重んずべき理由あることは、私が前篇で述べた通り、ルードルフ、オットー博士が喝破して居る。一度深井に喰ひ入つた宗教的情操は彼をして遂に断然懐疑を排して理想主義に導き入れるであらうと私は信ずるものである。
 こんな深い意味ある哲学論をしたり、或は純文学論をする深井は傍ら相場をやつたり、色町を漁り歩く実業家と断然類を異にして居ることは明らかである。
------

『日本に於ける自由基督教と其先駆者』は全部で640ページの大著ですが、あまり宗教家らしくないキビキビした文章で綴られていて、非常に読みやすいですね。
<「蘇峰先生古稀祝賀知友新稿」中にある彼の「唯物論批判」>は『人物と思想』(日本評論社、1939)に載っていますが、タイトルは「唯物史観の批判」に変更されています。

さて、普及福音教会は一時的に相当な人気を誇り、他のプロテスタント諸派に脅威を覚えさせるほどだったのですが、間もなく寂れてしまいます。
三並良は没落の原因についても率直に語っていて、深井英五同様の醒めた知性を感じさせますね。
参考までに同書の詳細な目次から大項目を抜粋して載せておきます。

-----
目次
日本に於ける自由基督教と其先駆者  三並良

  前篇
 宗教的信念の進展
第一章 宗教と思想及文化
第二章 初代基督教時代
第三章 民族大移動と文化及び宗教
第四章 文藝復興より啓蒙時代へ
第五章 近代の動き

  後篇
 日本の自由基督教
第一章 ドイツ普及福音新教伝道会の伝道開始
第二章 スピンナー先生とザクセン、ワイマール大公爵
第三章 スピンナー先生の伝道開始とその共力者
第四章 宣教新方面の開展とシュミーデル先生の到着
第五章 普及福音伝道会の主義方針
第六章 伝道会の施設
第七章 伝道事業発展の跡を顧みて
第八章 我日本の新文化と独逸人の協力
第九章 我主義の宣伝と「真理」の発行
第拾章 スピンナー先生の帰国
第拾壱章 帰国後光るムンチンガー先生
第拾弐章 独逸伝道会の危機
第拾参章 先生達の宣伝とそれに不足したもの
第拾四章 自由基督教と自由主義
第拾五章 ユニテリアン及ユニバーザリスト
後記

僕の思出 丸山通一

   附録
一、五十年前の思出
 一、深井英五
 二、佐藤徳介
 三、谷泰吉
 四、宮入慶之助
 五、小川尚義
 六、古谷新太郎
二、伝教五十年々表
三、普及福音教会出版書目
四、巻末の辞 原田瓊生
-------
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「マルクスの著作の訓詁」の謎、回答編

2017-05-04 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 4日(木)11時00分23秒

図書館で三並良著『日本に於ける自由基督教と其先駆者』(文章院出版、1935)を閲覧してみたところ、「マルクスの著作の訓詁」の謎等のプチ疑問は概ね解消できました。
同書には「附録 一、五十年前の思ひ出」として深井英五を筆頭に六人が文章を寄せていて、深井英五のそれを見ると『人物と思想』の「独逸学風の一端」とは相当違っていますね。
内容の重複を厭わず冒頭から引用してみると、

-------
 シュミーデル、ムンチンゲル両先生に就いて思出を述べよとの御注文を受けましたが、私は僅か一年足らずの間接触の機会を得たばかりですから、単に御参考として断片的な印象を提供するに止まります。私自身のことを交へなければ、印象がまとまりませぬから、其点御容赦願ひます。
 私は基督教信者として京都の同志社に入学し、出来れば主として思想の方面で基督教の伝道に貢献したいと志して居ました。然るに普通部の終に近ずいた頃から、基督を神の権化だとする教義に疑を挟み、同校の神学部に進むことを屑とせざる心境になりました。然し其時は基督の説かれたといふ教の主要部分を信ずる心に変りはなかつたのです。さうして其頃スピンネル、三並良丸山通一等の諸氏の論文を読み、所謂自由主義基督教の立場が私の初志を遂ぐるに適当だらうと考へたのであります。それで東京に出て来て御相談を試みたのですが、其時スピンネル氏は既に帰国せられたので、シユミーデル先生にお目に懸つて新教神学校に入れて頂きました。
 シユミーデル先生からは基督伝を眼目とせる新約聖書の抜粋的釈義を教へられ、ムンチンゲル先生からはデカルト以降の近世哲学史を学びました。哲学史に就いては私も其前既に多少の知識を有つて居りました、又其後も独りで多少の研究を続けましたが、先生の要約の肯綮に当つて居たことを今に感心して居ます。シユミーデル先生の新約釈義は所謂古文書の高等批判なるもので私にとつては全く未知の新境地でありました。其の微細なる考証が宗教の信仰に果してどれだけの交渉を有するかと云ふことを考へさせられましたけれども、学問としては深甚の興味を感じました。先生は他人の研究の結果を私共に伝へられるばかりでなく、自ら研究しつゝ私共を指導して居られたやうです。先生から学んだ研究方法は、其後種々の方面に応用することが出来ました。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は、先生に負ふ所が多いと今に思つて居ます。マルクス著作の訓詁や、外交文書の取扱、契約の作成援用などにも効果的です。【後略】
--------

ということで(p599以下)、最後の部分は『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015)の深井智朗氏による「解題」の記述と完全に一致しますね。
また、新教神学校における講義がいかなる言語で行われたかについては、

------
 学生中には可なり有望なものが多かつた。丁度時勢が変化しつゝあるので、多くは落ちつきを欠いで居たやうにも思ふが、一方独逸伝道会の貧弱さに失望もし、又ある不一致を感知して将来の希望を失つたものもあると思ふ。全部独逸語で授業を受けたのは、向、丸山及び関屋と私丈けである。他は英語であつて、傍ら独逸語を学んだのである。その中で藤田と深井は完全に独逸語を支配するに至つた。先生達の英語がどれ丈けのものであつたか、私は知らない。後に来た宣教師中には、左程達者でもなかつたものがあつたやうだ。
------

とのことで(p275以下)、深井智朗氏の「驚くべきことに、その講義の多くはドイツ語でなされていた」は、時期と受講者を限定すれば間違いではないものの、若干大袈裟ですね。
深井の「又学校の講義は英語で聴いたのだが、独逸人の仲間に交つて居たから、独逸文及び独逸語実習の機会を得た」との証言は三並良の説明と完全に一致します。
しかし、深井智朗氏の「後に日銀総裁となり、さらには枢密院の構成員となった深井英五はこの神学校の教育が、それ以前に受けた同志社の普通教育よりもはるかに高度なものであったことを証言している」については、「五十年前の思ひ出」にもこれに該当する直接的な「証言」はありません。
この部分は深井英五の「証言」ではなく、深井英五の「五十年前の思ひ出」を読んだ深井智朗氏の評価ないし感想ではないかと思います。
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「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」(by 三並良)

2017-05-02 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 2日(火)07時47分44秒

深井智朗氏の「ベルリンの日本人と東京のドイツ人:日本におけるアドルフ・ハルナック」(『聖学院大学総合研究所紀要』No.50、2011.3)には、

------
 さらにはシュミンナー〔ママ〕は門下の学生を教育するために新教神学校を設立している。この学校は小さな学校であったが、ドイツの諸大学の神学部のカリキュラムを見本とし、ドイツ語の他にも、古典語や哲学、そしてもちろん神学の諸科を教育した。三並良の『日本に於ける自由基督教と其先駆者』は普及福音教会五〇年を記念して出版されたものであるが、その中にこの神学校のカリキュラムに触れた箇所があり、聖書学や教会史は当時の宗教史学派の影響のもとに、歴史的=批判的な研究が講義され、組織神学や倫理学、宗教哲学のみならず、哲学史の講義なども充実していたことが読み取れる。たとえば後に日銀総裁となり、さらには枢密院の構成員となった深井英五はこの神学校の教育が、それ以前に受けた同志社の普通教育よりもはるかに高度なものであったことを証言している。驚くべきことに、その講義の多くはドイツ語でなされていた。そのため、この学校は小さいが、当時大変有名になり、森鴎外などはしばしば出入りしており、小説『ヰタ・セクスアリス』などにもこの学校の様子を描いている。
------

とありますが(p197)、この記述はちょっと奇妙ですね。
『回顧七十年』と『人物と思想』の「独逸学風の一端」を素直に読む限り、「後に日銀総裁となり、さらには枢密院の構成員となった深井英五はこの神学校の教育が、それ以前に受けた同志社の普通教育よりもはるかに高度なものであったことを証言して」はいません。
また、深井智朗氏は「驚くべきことに、その講義の多くはドイツ語でなされていた」と書かれていますが、「独逸学風の一端」には「又学校の講義は英語で聴いたのだが、独逸人の仲間に交つて居たから、独逸文及び独逸語実習の機会を得た」とあり、明らかに事実関係に齟齬があります。
うーむ。
いろいろ細かい疑問が出てきたので、三並良の『日本に於ける自由基督教と其先駆者』に当たってみた方がよさそうですね。

なお、参照の便宜のため、『回顧七十年』の「第四章 新釈基督教」で最後に残った部分を引用しておきます。(p33以下)
これは「独逸学風の一端」の後半部分とほぼ同内容です。
三並良への言及も少しありますね。

------
 新教神学校在学には右の如き副産物があつたけれども、宗教に対する根本的の見解及び基督教信仰の基礎たるべきものに就いて新たに得る所はなかつた。宗教に就いて教へられる所は、西洋哲学者の多くが、有神論に結び付けて各自の構想を表現すべく工夫したのに類するものであつた。其の間私の思想は同志社在学中に発芽せる方向に急進し、宗教に対する熱は益々冷却した。さうなつて見ると、依然基督教信者と称して在学するのは甚だ心苦しい。それで心境を告げて退学の許を乞うた。シユミーデル先生に対しては、新島先生に対する程の濃厚なる関係はないが、私の方で畏敬の念を生じ、先生の方からも私に特別の注意を向けて居たらしいので、先生の感情がどうであらうかと頗る心配した。然るに「それは惜しいことだが已むを得ない、是れからあなたはどうする積もりか」と云ふのが温情を込めた先生の挨拶であつた。「目下何も定まつた見込はありませぬ、只自ら欺くことなく境遇に応じて最善を尽して見たい」と答へたら、先生は更らに「あなたは定まつた仕事を為すべき人だ、彼此屋になつてはいけない」と訓戒した。私は心からの感謝を以て之を銘記した。
 其後三十年、独逸が通貨価値崩落によつて困窮せるとき、シユミーデル先生の慰問の為めに旧弟子等が或物を贈呈した。私も之に名を列したところが、先生から細字で書いた葉書の返事があつた。其中に「あなたは考へるたちの人だつたが、どうなつたかと思つて居た、近状を聞いて喜ぶ」と云ふ言葉があつた。接触の時間は短かく而して先生の期待に背いた所の私が此の如く先生の記憶に留まつたことは、意外でもあり、非常に嬉しかつた。其の葉書は日本銀行で受取り、机の側の手文庫に収めて置いたが、大震火災のとき焼失したのは実に惜しい。
 尚新教神学校関係の先輩中に三並良氏があつた。氏は数十年新釈基督教に終始し、病の為めに身体が不自由となつてからも、文筆を以て宗教、哲学、社会等に関する所信を発表することを死に至るまで止めなかつた。私は退学の後も長く交を続け、益を受けたことが多い。宗教を信ずる能はざることを告白したとき、氏は「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」と云つた。
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「マルクスの著作の訓詁」の謎

2017-05-01 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 5月 1日(月)22時43分27秒

昨日、「ここでやっと4月11日の投稿で書いたエルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015)の深井智朗氏による「解題」につながります」と書いたばかりですが、実は深井智朗氏の記述に若干の疑問があります。
深井智朗氏は、

-------
第一三代日本銀行総裁となり、戦時中は枢密顧問官であった深井英五はこの学校の学生であったが、彼は当時の教育について次にように回顧している。「〔オットー・シュミーデル〕先生から学んだ研究方法は其の後種々の方面に応用することが出来ました。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は、先生に負う所が多いと今に思って居ます。マルクスの著作の訓詁や、外交文書の取扱、契約の作成援用などにも効果的です。」
-------

と書かれていますが、出典の明示はありません。
先に引用したように『回顧七十年』でこれに相当すると思われる箇所は、

-------
其の内容にも感興したが、鋭利にして精細なる古文書考証の方法は特に私を啓発した。それによつて一般に歴史を読むときの心構へが改まつた。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は此の時の修練に負ふ所が多い。それが後に契約の作成援用又は外交文書の取扱の上で大に役に立つた。
-------

となっていて、「マルクスの著作の訓詁」への言及は全くありません。
実は『回顧七十年』の新教神学校に関係する部分の記述は深井英五『人物と思想』(日本評論社、1939)所収の「独逸学風の一端」(p345以下)を流用しているのですが、内容的な重複の煩わしさを厭わず、こちらも関係部分をそのまま引用してみると、

-------
 シュミーデル(Schmieder)、ムンチンゲル(Munzinger)両先生に就いて思出を述べよとの御注文を受けましたが、私は僅か一年足らずの間接触の機会を得たばかりですから、単に断片的な印象を提供するに止まります。私自身のことを交へなければ、印象がまとまりませぬから、其点御容赦願ひます。
 私は明治二十四五年の頃耶蘇を神の権化だとする所謂正統派基督教の教義に疑を挟み、所謂自由基督教の立場が私の心境に該当するものだらうと考へ、シュミーデル先生に御相談して新教神学校に入れて頂きました。
 シュミーデル先生からは基督伝を眼目とせる新約聖書の抜粋的釈義を教へられ、ムンチンゲル先生からはデカルト以降の近世哲学史を学びました。哲学史に就いては私も其前既に多少の知識を有つて居りました、又其後も独りで多少の研究を続けましたが、先生の要約の肯綮に当つて居たことを今に感心して居ます。シュミーデル先生の新約釈義は所謂古文書の高等批判なるもので、私にとつては全く未知の新境地でありました。其の微細なる考証が宗教の信仰に果してどれだけの交渉を有するかと云ふことを考へさせられましたけれども、学問としては深甚の興味を感じました。先生から学んだ研究方法は、其後種々の方面に応用することが出来ました。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は、先生に負ふ所が多いと今に思つて居ます。外交文書の取扱、契約の作成援用などにも大いに有益でありました。私が独逸学風に少しでも親しく接し得たのは両先生の賜物です。【後略】
--------

となっています。
こちらではシュミーデル・ムルチンゲルの「両先生」に関する記述になっているため、若干の分かりにくさはあるものの、深井智朗氏の「解説」と照らし合わせてみると、深井智朗氏は直接的には『回顧七十年』ではなく、『人物と思想』の「独逸学風の一端」を参照していることが明らかです。
しかし、こちらにも「マルクスの著作の訓詁」への言及はありません。
いったい何故なのか。
「独逸学風の一端」は、その末尾に、<(「日本に於ける自由基督教と其先駆者」より)>とあって、検索してみたら、これは新教神学校で深井英五の先輩であった三並良の著書らしいですね。

三並良(みなみ・はじめ、1865-1940)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%A6%E8%89%AF

あるいは深井英五は三並良からその著書『日本に於ける自由基督教と其先駆者』(文章院出版部、1935)へ一文を寄せることを頼まれ、そこには「マルクスの著作の訓詁」への言及があったものの、『人物と思想』への転載にあたって何らかの事情で削除してしまったのか。
細かいことですが、ちょっと気になります。

なお、「日本に於ける自由基督教と其先駆者」で検索すると、3月29日の投稿で触れた深井智朗氏の論文、「ベルリンの日本人と東京のドイツ人:日本におけるアドルフ・ハルナック」(『聖学院大学総合研究所紀要』No.50、2011.3)が出てきます。
一ヵ月前は全くチンプンカンプンでしたが、今読むとけっこう理解できますね。

「かのやうに」とアドルフ・ハルナック
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30c61f6e07014e1938162323f7670929

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「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」

2017-04-30 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月30日(日)10時51分32秒

深井英五の宗教的・思想的変遷の続きです。(p31以下)

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第四章 新釈基督教

 私がまだ同志社に在つて、耶蘇を神とする教義に疑を懐き始めた頃、独逸から伝はつた普及福音教会では、従来の信条なるものに拘泥せずして基督教の真髄を宣揚せんとする新解釈を鼓吹して居た。米国から伝つたユニテリアン及びユニヴァーサリストの両派も之と方向を同じくした。英国にも類似の思潮があつて、特に之を標榜する教派の発生には至らないが、其の趣旨を筋書に織込んだハンフレー・ワード夫人の小説「ロバート・エルスミーヤ」が読書界の大評判になつた。教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張であつた。同志社出身長老の一人たる横井時雄氏は多分東京の何れかの教会の牧師であつたと思ふが、何かの雑誌で其の梗概を紹介した。尤も之に対して意見は示さなかつた。同志社に於て私の親接した金森通倫先生は、当時既に東京に移り番町教会の牧師であつたが、基督教の新解釈を公表して世を驚かし、次で番町教会を辞して前記独米系の三派に接近した。私も、ルナンの「耶蘇伝」や「ロバート・エルスミーヤ」の影響を受けたに相違ないが、私の思想の変転は我国に於ける上記の運動とは関係なしに進展したのである。然しながら既に思想の変転を来たし、而して尚宗教と理性とを調和するの望を捨てざりし時に於ては、新釈基督教の運動に参加するのが、一番初志に近いと思つた。金森先生からは曩に所謂正統基督教信仰の鼓吹を受けたのだが、其後図らず新らしき方向を一にすることになつたので、同志社卒業後先生の紹介により、普及福音教会の経営する新教神学校に入学した。それが明治二十四年の秋であつた。
------

横井時雄は横井小楠の息子で、同志社の第3代社長にもなった人ですが、後に官界・政界に転身していますね。
内村鑑三(1861-1930)は同志社関係者からはトラブルメーカーとして嫌われることの多かった人ですが、横井時雄とは一貫して良い関係だったそうですね。

横井時雄(1857-1927)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E6%99%82%E9%9B%84

金森通倫は横井時雄と同年の生まれですが、「基督教の新解釈を公表して世を驚かし」た後、1898年に棄教を宣言します。
しかし、大正期になって再入信して救世軍に加わり、次いで昭和に入ると今度はホーリネス教会に入会。
しかし、ここも暫くして脱会するなど信仰面で激烈な変遷を重ねた人ですね。
息子の金森太郎(1888-1958)は内務官僚になり、その娘は内務官僚の石破二朗(1908-81)と結婚し、前自民党幹事長の石破茂氏を産んだとか。
そして石破茂氏は母方の影響でプロテスタントになったそうですね。

金森通倫(1857-1945)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kanamori_t.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A3%AE%E9%80%9A%E5%80%AB

ま、それはともかく、深井英五の信仰の変遷をもう少し追います。
深井が「普及福音教会の経営する新教神学校に入学した」のは「明治二十四年の秋」だそうですから、1871年(明治4)生まれの深井は数えで21歳、満年齢なら20歳の若さですね。

------
 私が遂に此の段階に留まり得なかつたことは前章で述べた通りで、宗教に対する最後の執着も空に帰したが、新教神学校に於ける約一ヶ年半の在学は、別の方向に於て私に多大の益を与へた。私が教授を受けたのは基督伝を眼目とせる新約聖書の抜粋釈義と哲学史であつた。哲学史は既に独習せる所を詳しくしたゞけであつたが、所謂高等批判の方法による新約釈義は私に新境地を開いた。殊に之を担任せるシユミーデル(Schmieder)先生は学識に於ても人格に於ても凡庸を抜いて居たと思ふ。研究の目標は耶蘇が自己の使命に就いて如何なる自覚を有つて居たかを検討するにあつた。其の内容にも感興したが、鋭利にして精細なる古文書考証の方法は特に私を啓発した。それによつて一般に歴史を読むときの心構へが改まつた。文書の背景及び含蓄に慎重の注意を払う習慣は此の時の修練に負ふ所が多い。それが後に契約の作成援用又は外交文書の取扱の上で大に役に立つた。又石垣を積上げる如く、煩瑣と思はれる程緻密な独逸流の学風に書籍以外接触したのは、他の方面にも応用し得べき収穫であつた。又学校の講義は英語で聴いたのだが、独逸人の仲間に交つて居たから、独逸文及び独逸語実習の機会を得た。
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ということで、ここでやっと4月11日の投稿で書いたエルンスト・トレルチ『キリスト教の絶対性と宗教の歴史』(春秋社、2015)の深井智朗氏による「解題」につながります。

「ドイツ普及福音伝道会」と深井英五
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd168ff37949c37c3fb6e1b1e281018d

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「得意は無し、趣味は無し、主義は厭世、希望は寂滅」

2017-04-29 | 深井智朗『プロテスタンティズム─宗教改革から現代政治まで』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 4月29日(土)12時03分18秒

前回投稿の引用文中に「激越の言動を以て熱信を表示する人々には共鳴し得なかつた」とあり、これは所謂「同志社リバイバル」への感想かと思ったら、時期的にちょっとずれますね。
「リバイバル」はキリスト教史において特殊な意味を与えられているので部外者には分かりにくい表現ですが、少し検索してみたところ、「同志社大学キリスト教文化センター」サイト内の同志社大学名誉教授・北垣宗治氏のエッセイ、「一八八〇年代前半の同志社英学校」に詳しい説明がありました。
北垣氏は池袋清風(1847-1900)という人物の日記を素材として、深井英五が入学する少し前の時期の同志社の様子を描いています。
その中でリバイバルに関係する部分を引用すると、

------
同志社のリバイバル
 池袋の日記が貴重な記録であることはおわかりいただけたと思いますが、なかでも最も貴重であると考えられるのは、この一八八四年二月の終りから三月にかけて、同志社英学校で起こった顕著なリバイバル、信仰復興の事実を池袋が詳細に記述しているからです。皆さんは「リバイバル」といえば、リバイバル映画、あるいはリバイバル・ソングの事を考えられるかもしれませんが、本当のリバイバルというのは、人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していくことを指します。キリスト教の歴史には世界の各地でしばしばこういうリバイバルが起こりました。【中略】
 同志社のリバイバルのことが池袋の日記に初めて登場するのは三月二日の記録からです。

http://www.christian-center.jp/dsweek/09sp/0604.html

ということで、この後、同志社で「人びとが聖霊に感じて信仰に目覚め、じっとしていることができなくなって、熱狂的に福音宣教に猪突猛進していく」様子が詳細に描かれるのですが、最初のうちは単なる興奮状態だったのがだんだん危険な雰囲気になり、

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 こうして池袋にも聖霊が下ったのでしたが、学校内は異常事態へと移っていきました。チャペルで夜通し祈る者、まだ聖霊を受けていないクラスメートに聖霊が下るようにと攻撃的に攻め立てる者、今ただちに学校を飛出して、伝道に出掛けようとする者が続出して、同志社英学校は大混乱に陥りました。新島校長は、地方伝道に出掛けるのは、春休みになるまで待つようにと説得しましたが、生徒たちは聞き入れません。とうとう妥協が成立し、二年生の海老名一郎、四年生の原忠美、邦語神学生の辻籌夫の三人が、代表ということで大阪に向けて出発し、それから三田、神戸、岡山、高梁、今治等を巡回することになりました。他方英語神学生の綱島佳吉と、五年生の木村恒夫は狂信的な言動をするようになりました。綱島の如きは「池袋清風!」と大声で呼び、「貴様は悪魔かそれとも聖霊か? おれはイエス・キリストだぞ」と言って睨みつけ、とたんに大声を上げて泣き出し、その場で倒れてしまう、といった出来事も起こりました。綱島はやがて回復しましたが、木村恒夫の方は精神を病み、新島邸に収容され、精神病院に入れられ、ついに七月四日に息を引き取りました。
-------

という事態にまで発展します。
深井英五が数え16歳で同志社に入学したのはリバイバルの二年後、1886年(明治19)なので、このような異常事態は終息していたはずですが、一部にはその名残もあったのでしょうね。

さて、深井英五の宗教的・思想的変遷をもう少し追ってみます。(p29以下)

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 右の心境の変化は同志社卒業の前年頃から卒業後の一二年に亙つて漸次に進展した。宗教と理性を調和せんことを期した所の思索は逆の結果を生じ、私の数年間心に懐きたる念願は破滅したのである。私は失望落胆せざるを得なかつた。新島先生の眷顧は私が基督教信者たりしことに基因したに違ひないから、先生に対して相済まぬと云ふ感が深刻であつた。然るに既に先生逝去の後であるから、報告して諒解を求むる由もない。私は実に甚だしく煩悶した。或は宗教の定義及び基督教の教理を微妙に解釈し、或は信仰と理性とを全然別個の範疇に属せしめ、心境の変化に拘らず依然として基督教信者たる名分を標榜すべき途も考へて見た。その例とすべきものも多くある。然しながら自己の信念に立脚せよと誨へられた所の先生は決して此の如き糊塗を嘉みせられないだらうと確信した。それで、普通学校入学のとき心中に予定せる進路を変じ、神学校に入ることを止めて同志社を去り、其後或る時、最早基督教信者と称し得ざることの諒解を郷里の所属教会に求めて立場を明かにした。
 同志社卒業後の私は当分明白なる目当なしに種々の経路を彷徨した。其間尚哲学上の思索を続けたが、主観論的傾向が極端に走り、真理及び人生価値の標準に就いて全然懐疑に陥つて仕舞つた。同時に当面の生計を如何にすべきやの問題にも心を労し、神経衰弱になるか、又は大脱線をするかも知れないやうな心境になつた。それが青年の危機たる二十三、四歳の時であつた。結城礼一郎氏が蘇峯先生古稀祝賀文集に発表した民友社金蘭簿中に私の名もあつて、指定項目の下に、得意は無し、趣味は無し、主義は厭世、希望は寂滅と書いてある。多分入社後間もなき頃のことで、少し茶目気分も交つたのであらうが、自棄に傾いた懊悩の心境が現はれて居る。其の間母に心配を掛けることを惧れて自戒もしたが、私を危機から救つた所の主因は、嘗て新島先生から誨へられた所の実践的人生観であつた。私は「仕事をしなければならぬ」と云ふ訓言を想起して之に邁進すべく決心したのである。仮令人生価値の規準は徹底的に判らなくとも、行住坐臥、一々理由を糺すの遑はない。現存する社会の常識と自己の直観とを調合し、環境の遭遇に応接して出来るだけの実践を期すべきのみと観念した。必ずしも方向を予定して焦慮することなく、広い意味の実行本位に立脚する。而して之と相並んで「世の中の為めになる」と云ふ訓言は固より私の心に浸みて渝らない。基督教の信仰に就いては新島先生の期待に背いたが、人生の心構へに就いて先生に負ふ所は広大である。平凡でもあり、又薄志とも云はれるだらうが、余り深く考へずに当面の実践に重きを置くと云ふのが、私の人生観として一応固まつた。更らに其の合理的根拠を求めんとして思索に還つたが、それは後年の事である。
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