源頼朝が東大寺落慶供養のために上洛した時のように、平時であれば事前に参加者やその配属が細かく決められ、勝手な「逸脱行動」があれば「処罰」の対象ともなったでしょうが、承久の乱の勃発は鎌倉にとっては寝耳の水の事態です。
『吾妻鏡』五月二十一日条によれば、
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【前略】今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出来。令待武蔵国軍勢之条。猶僻案也。於累日時者。雖武蔵国衆漸廻案。定可有変心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之従竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信為宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。関東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而発遣軍兵於京都事。尤遮幾之処。経日数之条。頗可謂懈緩。大将軍一人者先可被進発歟者。京兆云。両議一揆。何非冥助乎。早可進発之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤沢左衛門尉清親稲瀬河宅云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm
『吾妻鏡』五月二十一日条によれば、
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【前略】今日。天下重事等重評議。離住所。向官軍。無左右上洛。如何可有思惟歟之由。有異議之故也。前大膳大夫入道云。上洛定後。依隔日。已又異議出来。令待武蔵国軍勢之条。猶僻案也。於累日時者。雖武蔵国衆漸廻案。定可有変心也。只今夜中。武州雖一身。被揚鞭者。東士悉可如雲之従竜者。京兆殊甘心。但大夫属入道善信為宿老。此程老病危急之間籠居。二品招之示合。善信云。関東安否。此時至極訖。擬廻群議者。凡慮之所覃。而発遣軍兵於京都事。尤遮幾之処。経日数之条。頗可謂懈緩。大将軍一人者先可被進発歟者。京兆云。両議一揆。何非冥助乎。早可進発之由。示付武州。仍武州今夜門出。宿于藤沢左衛門尉清親稲瀬河宅云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm
とのことで、いったん早急な軍勢派遣が決定したのに、暫くすると消極策が首をもたげてきたので、最長老の大江広元と三善康信が改めて早期進撃を断固主張するといった具合で、基本的な方針すら揺れ動きます。
そして、進撃の決断が下された後も、総大将の泰時ですら、とにかく早く出発しさえすれば後から大勢付いてくるだろう、程度の見込みで、僅か十八騎の手勢で鎌倉を発ったという慌ただしい状況ですから(『吾妻鏡』五月二十二日条)、他の参戦者に対しても、〇〇国の御家人は誰々の指揮の下に入れ、程度のざっくりした指示があっただけで、一切の例外を認めない厳格な配属指示はなかったと考えるのが自然です。
従って、①の安東忠家のケースはもちろん、②の春日貞幸と③の幸島行時のケースも、そもそも「処罰」の対象となる「逸脱行動」などと意識されることはなかったと思われます。
④だけは「司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」であることは間違いないとしても、これも戦闘意欲の高さの現われであり、平時の形式的な論理には反していても、何が何でも勝つことが最優先の戦時には、およそ「処罰」の対象だなどとは誰も考えなかったでしょうね。
以前、私は、
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長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753
などと書いたことがありますが、ここでも長村氏の基本的な発想は事務方の小役人レベルで、戦争の実態から乖離した形式論理に終始しているように思われます。
さて、長村氏は「最古態本」の慈光寺本を偏愛し、流布本を軽視されるので、流布本で泰時が宇治橋での戦闘を止めさせた場面には注目されませんが、ここは長村氏の言われる「所領獲得の論理」の観点からも非常に興味深い箇所ですね。
安東忠家と足利義氏が攻撃中止を呼び掛けても静まらなかった連中を何とか沈静化させた平盛綱の論理は、
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「各軍をば仕ては誰より勧賞を取んとて、大将軍の思召様有て静めさせ給ふに、誰誰進んで被懸候ぞ。『註し申せ』とて盛綱奉て候也」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13
というもので、「お前たちは誰から勧賞をもらうつもりなのか。勧賞を下さる「大将軍」が攻撃中止を命じておられるのに、誰がそれを無視するのか。しっかり記録せよ、と私は「大将軍」から承っておるぞ」という訳ですから、長村氏の言われる「所領獲得の論理」が、「軍功を挙げんと逸る武士の思考」としてではなく、逆に戦闘行為を止めさせようとする司令官の側の論理として登場しています。
つまり、宇治橋合戦の発端の場面では、参戦者は「所領獲得の論理」以外の「論理」で行動していた訳で、司令官側から、お前たちは「所領獲得の論理」で戦うべきなのに何をやっているのか、冷静になれ、と諭されて、やっと、そういえばそうだった、冷静になろうと反省した訳ですね。
では、この場面で参戦者を突き動かしていたのはいったい如何なる「論理」だったのか。
もしかしたら、それは「論理」と呼ぶのも適切ではない一時的な感情や衝動なのかもしれませんが、それはいったい何なのか。
私は一応の回答を用意してはいますが、「2 司令官の指揮からの逸脱」はもう少し残っていますので、先にそれを見ておくことにします。(p245以下)
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鎌倉方東海道軍・東山道軍が美濃・尾張の合戦に勝利した直後、美濃国野上・垂井で合戦僉議を開いた際に、三浦義村が北陸道軍の上洛以前に兵を京に遣わすべきだと主張し、僉議参加者から異議がでなかったのも(『吾妻鏡』六月七日条)、北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていたからであろう。
すなわち、鎌倉方の軍事動員は、上級権力の「動員」に乗じて私的利益を追求する好機と捉えた武士達の、自発的・積極的行動に支えられていたのである。それゆえ、指揮を逸脱した彼らの行動を、鎌倉方の各司令官は否定することができず、京方を攻撃するという方向性の限りにおいて推奨せざるをえなかったのである。
以上を勘案すれば、承久鎌倉方を単に組織的ということはできない。むしろ私的利益を追求する個の集合体という性格が顕著なのである。
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うーむ。
私はあまり賛同できませんが、検討は次の投稿で行います。