学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その19)

2020-01-25 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月25日(土)20時04分14秒

副島種臣とニコライの宗教観はかけ離れているので、そもそも二人が何故に親しくしていたのかが不思議に感じられるほどですが、その事情は1905年1月、副島が亡くなったときのニコライの日記に出ています。
遥か昔、後に東京復活大聖堂が建てられる土地を正教会が利用できるよう便宜を図ってくれたのが、当時外務大臣だった副島だったそうです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p157以下)

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一九〇五年一月二〇日(二月二日)、木曜。

 会計報告につける領収書の翻訳。【中略】
 一月一八日(三一日)、副島種臣伯爵逝去。わが良き知人で、一八七二~七三年には外務大臣だった。当時、宣教団が現在の地をたいした苦労もなく取得できるよう助けてくれた。わたしは副島にキリストの教えについていろいろ話した。かれも進んで聞き、喜んでわたしからの贈り物としてキリスト教の書物を受け取っていた。あるときなど救世主キリストのイコンをほしいと言うほどであった。その後わたしはそのイコンがかれの家の目立つところにかけてあるのを見たことがある。しかしながら、儒教を奉ずる者の自己充足的で、誇り高い魂には、キリストの教えは入らなかった。キリストの教えは、人間にたいし、まず第一に、謙遜と神の前に自己の罪を認める心を求めるものだ。だから、副島は霊的には眼が開かれないまま亡くなってしまった。一八七三年、副島は紫色の上質の絹の布地をわたしに贈ってくれた。清国に対する功績(清国人を乗せたチリの船の難破の件で)に対し、清朝政府から贈り物として受け取った布地の一部であった。いただく際、わたしはかれにこう言った。「この布地で、あなたに洗礼を施すとき、祭服をつくるつもりです」と。一昨年、副島が訪ねてきたとき、そのことを思い起こさせて、聞いてみた。「布地はそのときに備えてずっとしまってありますが、どうしたものですか」と。すると、伯爵は静かな微笑を浮かべて、「捨ててください」と答えた。しかし、私は捨てはしない、柩覆い布〔ポクロフ〕、そして宝座および奉献台に置いておく祭服を作るつもりだ。もしかして、無意識にしたこの贈り物によってかれの魂が安寧を得、キリストの光をいささかでも受けることができるかもしれない。かれはもちろん善良な気質の持ち主だった。しかし、この善なる金も、天の御父を知らない子の場合には、御父の前にもたらされることはなく、戸外に積まれていたのだ。天の御父はかれを非難されることもないし、誉めもなさらないだろう。なぜなら、この金が得られたのは天の御父を思う思いからでも、御父を敬う思いからでもなかったのだから。
 わたしは、副島伯爵の逝去にたいし、直接ご遺族に哀悼の意を表すこと、あるいは葬儀に出席することはできない。警察官を尻尾のように従えて行かねばならないのは不愉快だから。きょう、ご遺族に弔意を表すべく、わたしの名刺を持たせて宣教団書記のダヴィド藤沢〔次利〕を遣わした。
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日露戦争が継続中で、正教会に対する脅迫めいた事件も頻繁に起きていた時期ですから、ニコライは不測の事態を避け、警備側に負担をかけないために副島の葬儀には出席しなかった訳ですね。
ちなみに1904年3月15日の記事によれば、東京復活大聖堂は「昼も夜も三人あるいは四人の警官があらゆる方面から教団を護っていてくれるのだ。それに加えて憲兵が二人、警護のために教団内に住んでいる」という状態だったそうです。(第8巻、p36)
なお、当掲示板でも筆綾丸さんの投稿をきっかけに副島種臣について少し言及したことがありますが、それは副島の書家としての側面についてでした。
副島の書は極めて独創的で、書家としては殆ど天才と言ってよい水準にある思いますが、「儒教を奉ずる者の自己充足的で、誇り高い魂には、キリストの教えは入らなかった」にもかかわらず、副島がニコライに「救世主キリストのイコンをほしいと」言い、それを「かれの家の目立つところにかけて」いたのは、あるいは芸術的な観点からの行為なのかもしれません。

副島の血(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5327
副島種臣の後半生
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1ba3c6090fd154b02bac6d8674f62e56
「副島種臣の借金問題について」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/84c59163c3cf887eaff31e829c897388

なお、去年、日露戦争中の松山ロシア兵捕虜収容所を舞台にした『ソローキンの見た桜』という映画が公開されたそうですが、私は全然知りませんでした。

https://sorokin-movie.com/

ソローキンは『宣教師ニコライの全日記』にもほんの少しだけ登場しますが、あまり好意的な描かれ方ではないですね。
1904年7月31日の記事です。(第8巻、p103)

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【前略】松山にいる捕虜の一人、ミハイル・ドミートリチ・ソローキンという少尉から手紙がきた。英語を学びたいので本を送ってほしいという。すぐに、ロベルトソンの本を二冊、レイフの辞書、そして英語で書かれた世界史を送った。手紙に親切に助言も書いて、先生としてミス・パーミリーを教えてやった。しかしこの少尉の短い手紙のぞんざいな態度やものの考え方から、これが宗教心のない若者だということがわかり、悲しい気持ちになる。
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ソローキンについてはこれだけですが、その後、ニコライの悲痛な心情が縷々語られます。

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 日本人はわれわれを打ち負かしている。あらゆる国の人びとがわれわれを嫌っている。主なる神はわれわれに怒りを注いでおられるようだ。それもむべなるかなだ。われわれには、愛され褒められる理由はない。
 わが国の貴族は何世紀にもわたって農奴制に甘やかされ、骨の髄まで堕落してしまった。一般民衆はその農奴制に何世紀にもわたって圧しひしがれ、手のつけようのない無知蒙昧で粗野な者になってしまった。軍人階級と官吏は、賄賂と公金横領で暮らしてきた。いまやかれらは上から下まで一人残らず良心のかけらもなく公金着服の風習に染まってしまい、機会さえあればところ嫌わず盗みに精を出している。上層階級はさまざまな狼の集まりであって、ある者はフランスを、ある者はイギリスを、ある者はドイツを、そしてその他もろもろの外国を崇拝してそのまねをしている。聖職者階級は貧困にさいなまれ、教理問答集だけはやっと手放さないでいるという有り様だ。そういう聖職者がキリスト教の理想を広め、それによって自分や他人を啓蒙していくことなど、できるわけがない。
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まだまだ続きますが、この辺で止めておきます。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その18)

2020-01-24 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月24日(金)11時34分13秒

それでは1889年1月14日の記事を見てみます。(『宣教師ニコライの全日記 第2巻』、p240以下)

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一八八九年一月二日(一四日)、月曜。

 副島伯が新年の挨拶に来た。「議会(来年開催予定の)では、おそらく、日本にとっての信仰の問題が取り上げられるのでしょうね」というわたしの問いに答えて曰く。「そうはならないでしょう。なんとなれば、信仰に政府は関与しないのです。信仰は個人の意思に委ねられることになるでしょう」。「しかし、天皇はどんな信仰を持つことになるのですか」。「これはかれの個人的な問題です」。─「しかし、信仰は国家の見地から見てたいへん重要ですし、政府も信仰に対して無関心でいるわけにはいかないでしょう。日本は今、自分の信仰を模索する時期ですよ。ただ政府だけがどんな信仰が真の信仰であるかを調査し決める権限をもっているのです。個々の人間にとってこれを決めるのは難しいことです。手段も十分ではありません。個人は真理を見つけても、これを国家に伝える権威を持っていません。もし政府がこの問題で国民を助けることがないならば、ここにはあらゆる宗派が入り込んできて、日本を分断してバラバラにしてしまうでしょう」などなど。こうしたことをかれに説明したのは初めてではないが、きょうはわがヴラヂミル聖公〔九八八年にロシアが正教を国教と定めた時のキエフの大公〕がいかに真の信仰を探し出したか、話して聞かせた。政府に対するキリスト教諸派の対応のしかたの違いについても話した。ここにカトリックが入ってきたら、日本の天皇は教皇の僕〔しもべ〕(奴隷)になってしまうことだろう。もしプロテスタントが入ってくれば、信仰は政府に奉仕することになるだろう。さもなければ、今のアメリカ(「自由な国家における自由信仰」を標榜している)やフランスのように、政府によって殲滅されてしまうだろう。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
ニコライの日記を読んでいると、その思考の明晰さ、実務処理能力の高さ、更には悪口雑言罵詈讒謗の面白さから、ついついニコライを現代人のように錯覚してしまいますが、宗教と国家の関係について「ただ政府だけがどんな信仰が真の信仰であるかを調査し決める権限をもっているのです」などと論ずるこのあたりの記述を見ると、発想の根本が全く異質な人であることに改めて驚かされます。
ただ、それは日本国憲法下の現代日本人にとって常識的な国家と宗教の関係が、漠然とアメリカ・フランスの「政教分離」観をモデルにしているからであって、現代でもドイツなどは「政教分離」にほど遠い状態ですね。
そして、帝政ロシアは国家と宗教が密着し、国家が宗教を監督し、財政的にも丸抱えする宗教国家であって、ニコライにとっては当然これが日本にとっても望ましい国家と宗教のモデルです。
さて、副島の反応をもう少し見ておきます。

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伯はこうしたことをみな聞いていたが、ただときおり「わたしは自分で信仰をこしらえますよ」などという、愚にもつかない反論で話の腰を折るのであった。あるいはどうやら、聞いていても耳に入らず、自分の考えに耽っているといった様子であった。というのは、この人はいい年をして、どんな宗教的信念の影響もいささかなりとも受けていないのである。かれを見ていると、日本がかわいそうになる。日本の最良の人々のうちの一人が、どうやら民衆の精神を代表し表現する人と見なされかねない。はたして(外国人が皆、日本人について評しているように)この国民は本気で宗教というものに期待するところがないのか、本性からして無関心あるいは無信心なのだろうか。
 いま東京で伝道活動をしているアメリカ渡来のユニテリアン派のナップ〔一八八七年来日、福沢諭吉の支援を受けて伝道した〕がどうやらかれのお気に入りらしいが、そのナップは、驚くほどに多数の聴衆と上流階級にも信奉者を持っているということだ。もしかりにほとんどゼロに等しい宗教信仰のひき割り麦の粒を、かれ〔副島〕がその精神の胃袋によって消化しおおせるとしても、真の信仰を渇望するほどに成長するには、まだ長い時間がかかることだろう。
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1月14日の記事はこれで終りです。
1月2日の記事では、副島は「わたし自身のことは別にして、─と彼は答えた─他の人たちの言うところによれば、プロテスタントです。官吏はみなそういっています。政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れています」などと言っていますが、これは客観的分析に止まらず、別にそうなってもかまわない、なるようなればよいのだ、といったニュアンスを感じさせます。
そして、1月14日の記事では、政府が個人の信仰に関与しないのはもちろん、天皇の信仰ですら「かれの個人的な問題」だと言う訳ですから、副島のサバサバした個人主義的宗教観は本当に徹底していますね。
副島自身は「いい年をして、どんな宗教的信念の影響もいささかなりとも受けていない」無神論者であり、「本気で宗教というものに期待するところが」なく、「本性からして無関心あるいは無信心」な人だと思いますが、副島のような宗教観を持った人は明治政府の高官に相当多かったのではないかと思います。
「政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れて」いて、それを親の政府高官たちが許容していたのは、宗教など極めて軽いもので、個人の趣味みたいなものだから、各自が好きなようにやればいいのだ、といった認識を前提にしていますね。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その17)

2020-01-24 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月24日(金)10時29分38秒

続きです。(p235)

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 プロテスタンチズムが日本人には「一番都合がいい」のではないかという予想は、ニコライの日記にくりかえし現われる。
 「日本人はきわめて皮相的で、浮気で、真剣ではない。その意味ではプロテスタントがかれらに合っている。……きょう、副島〔種臣。ニコライの友人だった〕に、<日本にはどの信仰が入ると、あなたは見ているか>と尋ねた。かれは<自分のことは別として、他の連中はプロテスタントだろうと言っている。役人たちはみなそう言っている。身分の高い人々の娘がたくさんプロテスタントになった。教師たちが実に大勢来ておるからな>と言った。副島のことばによれば、ユニタリアンも日本へどんどん入りこんでくるだろうという」(一八八九年一月二日)
 「何百人もの外国人宣教師が日本のあらゆる町に、津々浦々に広がっている。外国人だらけだ。かれらはいたるところで文明と実利性と上昇志向の魅力をふりまいている」(一八八九年八月一六日)
 ここに、正教布教の困難と苦しさがあった。ニコライは宗教を伝えたかったのに、日本人は文明と上昇志向の魅力に惹かれていた。
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副島種臣の発言は些か奇矯な感じもするので、『宣教師ニコライの全日記 第2巻』を確認したところ、次のような内容です。(p237)

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一八八八年一二月二一日(一八八九年一月二日)、水曜

 上野の例のお気に入りの二つの並木道を散歩しながら決心した。今度は大聖堂の周りに塀をめぐらそう。神学校の校舎のほうはしばらく待とう。なぜならば、古くはなったがまだ手狭というわけではないからだ。【中略】
 神は日本にどのような運命を定めておいでなのだろう。正教の日本であろうか。それとも他会派の日本であろうか。それを誰が知ろう。日本は物質的で卑小だ。外見には飛びつくが、外見をとれば、数百人の宣教師や男女の教師がいて、文明のあらゆる魅力を備えた他会派のほうに分がある。正教にできることはただ、自分たちの内面的な力、内面的な説得力、内面的な強固さを確信させることだけだ。深く究明し、体験してみて初めて信心を起こそうというのだから。こんな教えに耳を貸そうという者がいるだろうか。これが問題だ。日本人というのはほんとうに皮相的でせっかちで軽薄だ。その意味ではプロテスタントが連中には似合っている。だが、果たして神を前にして、かれらには、プロテスタントと呼ばれるこの腐臭を発しつつある死体を抱かされている程度の取り柄しかないのだろうか。この死体はプロテスタントの昨今の印刷物(Japan Mail─この軽蔑すべき召使ら)のなかでなんという悪臭を放っていることだろう。いったいまだ何人の人々が、bishop Williams〔聖公会の監督ウィリアムズ〕や Bickeit〔Bickersteth?〕等々と言った連中に騙されなければならないのか。そして騙された当の連中が、今度は別の連中を騙し、愚かにしているのだ。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
ニコライは「上野の例のお気に入りの二つの並木道」がよほど好きだったようで、日記に頻繁に登場します。
1月2日の次に記されている1月10日の記事では「朝上野の、わたしの話し相手であるわたしの並木道を散歩」といった具合に、並木道を擬人化しているほどです。
ま、それはともかく、「プロテスタントと呼ばれるこの腐臭を発しつつある死体」といった表現はあまりに強烈で、ちょっとびっくりしますね。
そして、この後に副島種臣が登場します。

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わたしはきょう副島に訊いてみた。「あなたのお考えでは、どんな信仰が日本に合っていますか」。「わたし自身のことは別にして、─と彼は答えた─他の人たちの言うところによれば、プロテスタントです。官吏はみなそういっています。政府高官の娘たちの多くがプロテスタントを受け入れています。教師もたくさんいます」。いやはや、なんということだ。そんな理屈があるものか。「官吏」と「娘たち」によって日本がプロテスタントの国になると決められるなんて。もし、こうした連中が決めるというなら、日本などもはや哀れむにも値しない。副島の言によれば、ユニテリアニズムがきわめて強く浸透しているのだそうだ。(このことはきのう長沢がユニテリアンの徳川公爵のところでの晩餐会の話をした時にも言っていた。)と言うのもアメリカ人教師ナートと四〇人の客人がいたからだ。長沢の話だと、ナートのところにはもう上流階級の中から四〇人もの改宗者がいる。徳川はもうユニテリアニズムを受け入れ、洗礼名も「イマヌイル」というのだそうだ。(やがては心霊術も浸透することだろう。副島はヨーロッパでベネトとかいう人物のところで、この信仰とそのからくりに蒙を啓かれた津田某のことを話してくれた。)不幸な日本、一日も早く正教を選ばねば。悪魔の弟子たちがみなで寄ってたかってその肉体に食い入り、その体液を吸い取り、毒で汚染してしまうだろう。……主よ、この国に哀れみを。この苦い杯からこの国を救いたまえ。もし、この国がこの苦い杯を首尾よく免れたなら、この国をしてなによりもまず、あなたの唯一の救済的真理の光によって、毒と闇から癒したまえ。至純なるあなたの母とあなたのすべての聖人の祈りによって、この国の上に平安を賜らんことを。
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副島種臣は1828年生まれなので、1836年生まれのニコライより八歳年上、1889年1月時点では61歳ですね。
1887年に宮中顧問官、翌1888年に枢密顧問官になっています。
副島は1月14日の記事にも登場するので、そちらも見てから少し検討したいと思います。
なお、ユニテリアンになったという「徳川公爵」は德川家達のことです。

德川家達(1863~1940)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%81%94
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その16)

2020-01-22 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月22日(水)12時04分36秒

続きです。(p231)

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 ニコライは沢辺や酒井についても「かれらは頭がよく、日本的意味合いにおいて教育もあり、きわめて道徳的で」あると言っている。もちろんニコライは日本人の入信の動機を詮議しているのではない。ニコライはとにかく正教を宣教し信徒を獲得したいのであって、何に動かされたのであれ正教徒になった日本人はニコライにとって実りでありわが羊群であった。ただ、おそらくかれは、自分に近づいてきた「頭のいい」沢辺たちの動機の根が宗教的な寄りすがりではないことは感じとっていただろう。
 沢辺も仙台藩士たちも、新しい日本の支配体制のバスに乗ることはできなかったが、その形成に参加しようとする意欲に燃える国士たちであった。仙台藩士たちが正教へ向かうきっかけを作った金成善右衛門は後に自由民権運動に強く共鳴していった。かれらは、ニコライのもたらした「ハリストス教」を新しい時代へ漕ぎ出す新しい船と見て、日本社会に新たな益をもたらし自分たちも雄飛できるはずの「事業」と想像して、それに近づいたのであろう。
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「酒井」は沢辺琢磨が函館で親しくしていた医師、酒井篤礼のことで、沢辺・酒井と浦野大蔵の三人が、まだキリスト教が禁止されていた1868年5月にニコライから最初の洗礼を受けます。

酒井篤礼(1835-82)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E7%AF%A4%E7%A4%BC
金成ハリストス正教会(栗原市公式サイト内)
https://www.kuriharacity.jp/w038/010/010/010/100/668.html

武士階級出身で、この種の「国士」的信念を持ち、身分制秩序の解体後も農業や商工業その他の職業に転ずることのできなかった人々の一定割合がキリスト教に流れ込んで初期の指導層を形成した、という事情はプロテスタントも全く同様ですね。
信者の社会的階層が広がってくると、もちろん「国士」タイプではない人も増えますが、それでもプロテスタントとの「互換性」は継続します。
そしてニコライは、次第に正教会がプロテスタント的な方向に変質するのではないかと心配するようになります。(p234以下)

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 そうであるからニコライには、自分は、いわば合わないものを無理に合わせようとしているという感覚があった。自分の「本当のキリスト教」は日本には適さないのではないか、特に欧米の新しい知識を求める日本の知識人は「本当の宗教」になじまないのではないか、かれらはプロテスタンチズムへ向かうのではないかという予感を持っていた。
 「ひょっとすると日本は実際に本当のキリスト教にふさわしくないのかもしれないという考えが、ますます頻繁に頭に浮かんでくるようになった。日本人は、とりわけその上層は、もっぱら西欧の文明を追っている。信仰については、かれらは考える様子も、配慮する様子も見えない。……〔文明化のためには〕日本人にはプロテスタントが一番都合がいいのだ。なんといっても、プロテスタントの宣教師たちは教育の高い国々の人々であり、日本人はそれらの国々にぺこぺこ頭を下げている。
 しかし、そんなことはみんな、本当のキリスト教からなんと遠いことか! <霊的目的><永遠の救い>、これらは日本のリーダーたちの考えからなんと遠いことか!」(一八八五年一月二三日)。
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この後、ニコライが親しく付き合っていた副島種臣のエピソードが引用されますが、『宣教師ニコライの全日記 第2巻』で当該箇所を確認したところ、非常に興味深い内容だったので、次の投稿で併せて紹介します。
ま、副島も年をとって、ちょっとボケてしまったのかな、と思わせるような部分もあるのですが。

副島種臣(1828-1905)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E5%B3%B6%E7%A8%AE%E8%87%A3
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その15)

2020-01-21 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月21日(火)10時29分5秒

1904年7月17日の「公会」ではニコライが正教会の統計資料を読み上げているので、参考までにその記述を引用しておきます。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p98以下)

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一九〇四年七月五日(一八日)、月曜。

 八時から十字架教会において公会。全部で二〇名の司祭とわたしが参加した。他の司祭たちはさまざまな理由で公会に来ることはできなかった。
「景況表(統計資料)」はすでに司祭たちによって「内会」で検討されていたので、わたしはすぐに全体の統計だけを読み上げた。一年間の受洗者数の総計七二〇名、死者二八九名、よって現在の信徒に加わる増加分は四三一名。ということは現在の日本の信徒総数は二万八三九七名。これまでの教役者数は一八〇名であった。いまこれに、神学校卒業者四名、伝教学校卒業者一〇名が加わった。したがって現在の総数は一九四名。これだけでも神に感謝だ!【後略】
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1895年の三国干渉でロシアに対する国民の悪感情が顕在化して以降、日露戦争に至るまで、正教会にはなかなか厳しい状況が続いていたはずですが、開戦後も信徒が微増しているのはちょっと驚きです。
正教会の信徒数はこのあたりがピークだったようですね。
さて、『宣教師ニコライと明治日本』に戻って、(その10)で引用した部分の続きです。(p229以下)

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3a8825dc5b6cf2045a68834182ad52a

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 内村鑑三はニコライ師は「新教の宣教師の如く文明を利用することなく、赤裸々に最も露骨に基督を伝えた」と言ったが、たしかに、ニコライがもたらしたキリスト教は、西洋文明に寄りかかっていない宗教だった。ニコライの場合は、内村の流れの、明治以降の日本の「中産知識層」の個人的倫理主義としてのキリスト教とも異質な、生々しい宗教だった。奇蹟を約束し、歴史の終わりを告げ、あの世での死者との再会を約束し、イコンに接吻して聖歌に歓喜しかつ涙する宗教であった。
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これは一応もっともな説明ですが、ロシア正教を受容した側からすれば、やはり多くの人が正教も「西洋文明に寄りかかって」いるものと考えたのではないかと思います。
キリスト教を受容した人は、カトリック・プロテスタント、そして正教を全部合計したとしても、日本の全人口比から見れば圧倒的に少数派で、基本的には「西洋文明」への好奇心に満ち溢れた人々ですね。
そして、複数の選択肢の中から自分の必要とする宗派を選択した人よりは、たまたま最初に出会った宗派のキリスト教に入信した人が多く、また、正教からプロテスタントへ、といったキリスト教内部での移動もかなりあります。
もちろん、中村氏も正教に近づいた人と他の宗派のキリスト教に近づいた人との類似性には気づかれていて、次のように続けます。

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明治の日本人とキリスト教

 ドストエフスキーも言うように、プロテスタンチズムは宗教でありながら宗教的感性を非合理として批判する諸刃の剣であって、宗教として本質的な矛盾をはらんでいるのかもしれない。しかし、この「本当のキリスト教」であるロシア正教は、ニコライによって日本にもたらされて仙台藩士たちに伝えられた当初から、日本という地盤のゆえの布教上の困難と矛盾をかかえることになった。文明開化へ向かおう、必死に近代化の波に乗ろうとしている日本へ、豊かな前近代性をたたえた「本当の」宗教がやってきたのである。受け入れた日本人たちもいわばこの矛盾の創造に加担した。初期の正教徒となった仙台の人たちの入信の動機は、沢辺において見られたものと重なっている。
 「国家の事に当らんと欲せば、文明の知識なからざるべからずを以て、外国人と交り、其学問を修め、これによりて一事業を挙げ、名をなさざるべからず。……仙台藩の志士は一度函館に於ける宣教師の事を聞き、又人心の統一は真性の宗教に依らざるべからずとの沢辺の論を聴くや、彼らの理想は忽ちに此一事に向かつて進みたり」(『日本正教伝道誌』)
 函館での暗中模索の学習に見られるように、仙台藩士たちの正教受容の仕方は沢辺を先達とする半ば自力の教義学習であって、プロテスタントの、多数の外国人宣教師による宣教とは大分違っていた。西洋文明を宣教に利用する点でもニコライは最初から不利な立場にあった。
 しかし、そうではあったが、ニコライに近づいて「福音伝道の前駆」となったかれら仙台の士族の根にあった動機は、プロテスタントに向かった日本人のそれと基本的に同じであったと考えられる。それは儀礼や神秘に惹かれる宗教的感性ではなく、あるいは苦しむ者が救われようとして綱にすがる依頼の願望でもなく、「国家の事」「人心の統一」を思う武士の志であり、「一事業を挙げ、名をなさざるべからず」という実践的な向上の精神であった。
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いったん、ここで切ります。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その14)

2020-01-20 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月20日(月)22時37分51秒

1904年7月13日の記事の続きです。(『宣教師ニコライの全日記 第8巻』、p95以下)

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 実際、もし最初の「建議書」が沢辺両神父の入れ知恵で出されたのであれば、その衰退した精神と無力には、絶望しそうになる。教会の運営、その運営の基礎となっている教会の典範について、二人の神父は学んでいないのか。そして得られるかぎりの知識を与えられていないのか。しかも、日本の高度の文明開化という流砂の上ではなに一つしっかりと立ってはいられない。すべては崩れて塵となる! 教会運営がたちまちのうちにプロテスタンティズムにすべってゆきはしないかという懸念を感じないで日本教会の運営をまかせられるような、そういう人材がいつになったら育ってくるのだろうか。わたしの後継者は、日本人のこの精神的能力不足をしっかりと頭に入れて、忍耐強くかれらを教育すべきである。しかし、おそらくわたしの後継者も、日本教会がしっかりと自分の足で立つようになるまで、まだ数世代かかるだろう。
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パウェル沢辺琢磨(1834-1913)は幕末にニコライが最初に洗礼を施した最古参の信者で、アレキセイ沢辺はその息子です。

『ニコライの見た幕末日本』(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b88ed129f95780d03279dd85ffddcdf2

沢辺父子が背後にいそうな麹町教会の不穏な動きに関連して、三日後の7月16日には次のような記述があります。(p97)

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一九〇四年七月三日(一六日)、土曜。

 統計的報告書、請願、手紙、提案等々、公会に宛てて送られてきたものや集められたものについて、司祭たちは事前の打ち合わせ会を続けている。もう四日目である。きっとたくさん知恵が溜まったことでしょう。拝見いたしましょう。どうぞ、神さま、司祭たちが考えてことがすべて賢いことでありますように! ほんとうに賢い共同立案者がいてほしいと心から思う!
 麹町教会の信徒マトフェイ丹羽がやってきた。丹羽は長年伝教者として働いてきたが、妻と別れたことから教会の勤めもやめさせられてしまった。なんとも鼻もちならぬ性格である。あきらかにかれは、公会で提出された教会運営改変案の起草者の一人だ。
 遠まわしに、やや媚びた調子で話を切り出し、だんだん核心に近づいてきた。
「日本中の人がわれわれの教会をニコライの教会と呼んでおりますが、これはよいことじゃありません」
 わたしもそう思う、と言った。
「これは、あなたが他の者たちは加わらせないで一人で教会を取り仕切っておられるせいです」
「それは違う。教会の運営には常に司祭たちが加わっている。わたしは、いかなる教区においてもその教区を管轄している司祭とあらかじめ相談しないでは、なに一つ決めたことはない。そして重大な事柄はすべての教役者の加わった場で決定されている。そのためにわれわれは公会を開いている」
「しかし、司祭たちばかりでなく平信徒も加わった常設の会議が設けられるべきです」
「平信徒は、必要な場合には教会運営の仕事に加わることが認められている。たとえば、聖務執行者の選出に加わっている。さらにわれわれの公会において伝教者たちの任地の割り振りにも、また教会の資産の管理にも、必要なかぎりにおいて加わっている。あなたはそのことを知っているではないか……」
「日本は以前は天皇による統治がなされていました。しかし天皇は権限を国民に譲られた。われわれの教会でも同じようにする必要があります」
「教会の運営は不変の教会典範に基づいて行われている。われわれはそれから外れることは許されていない。もしそれを踏みはずせば、われわれは全世界正教会に属する者ではなくなってしまう」
「しかしですな……」とマトフェイは、堂々めぐりしながらもしゃべるわしゃべるわ。しばらく黙って聞いてやってから、司祭たちの集まりがあるから、そこで考えを述べるようにと言って立ち去らせた。
-------

マトフェイ丹羽の「日本は以前は天皇による統治がなされていました」以下の発言は面白いですね。
マトフェイ丹羽にとっては明治憲法の制定により「天皇は権限を国民に譲られた」ことは自明の歴史的事実なのでしょうが、明治憲法が「外見的立憲制」に過ぎないという、現在では些か賞味期限切れの感がある「戦後歴史学」の認識とはズレており、これ自体が興味深い発想です。
ま、それはともかく、マトフェイ丹羽は、現在の日本正教会ではニコライが統治権を掌握した「天皇」だが、帝国憲法の制定により天皇が権限を国民に譲ったように、「われわれの教会」でもニコライはその権限を信徒に譲るべきだ、と主張します。
世俗の動向をそのまま教会に反映させようとするこのような主張が「不変の教会典範」に基づく教会運営を行なってきたニコライに受け入れられるはずもありませんが、ニコライがこうした批判を頭から撥ね付けるのではなく、一応、マトフェイ丹羽にしゃべりたいだけしゃべらせ、司祭たちの集まりの場でも話すように仕向けているのはちょっと不思議ですね。
言いたいことは言わせてガスを抜く、というのがニコライの一貫した組織運営のコツなのか、それとも日露戦争が日本に有利に展開されている状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなっている」信徒をあまり刺激したくないという、この時期特有の事情の反映なのか。
さて、「内会」の準備の後、7月18・19日に「公会」が開かれますが、それが無事終了した翌20日の茶話会において、ニコライは、「わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない」云々という話をします。
ここまでの経緯を見ると、この話は決してニコライが唐突に持ち出したのではなく、「公会」の準備段階から多くの司祭が問題の所在を認識しており、沢辺父子などはともかくとして、おそらく司祭たちも多くはニコライの方針を受け入れていたのでしょうね。
そもそも経済的に「独立」しておらず、戦争中であっても運営資金を敵国ロシアに依存しているような状態で「独立した教会」を目指すなどというのはあまりに無理が多い話です。
ニコライの後継者にロシアから主教を招かなかったら、その時点でロシアからの資金援助がなくなり、教会組織は崩壊することになりますね。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その13)

2020-01-20 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月20日(月)11時21分57秒

(その10)で引用した、

-------
 ニコライが、日本人伝教者こそ教会の柱だと認めていながら、自分の後の日本正教会の教育を日本人にゆだねたくなかった理由はそこにあった。かれは、公会に集まった教役者たちに「正しい伝統」が築かれるまでは百年はロシアから主教を招くようにと教えた。日本人に任せておいたならば「プロテスタントの教会と同じようになってしまう」と予感していたのである(一九〇四年七月二〇日)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3a8825dc5b6cf2045a68834182ad52a

という部分ですが、『宣教師ニコライの全日記 第8巻』を見ると、これは日露戦争中の記事ですね。(p99以下)

-------
一九〇四年七月七日(二〇日)、水曜。

 朝から午後四時まで、松山の捕虜たちに送る本のリストを作った。すべて予備としてあった本である。返却不要ということで、今回、一四〇点の書籍と一〇〇〇冊のパンフレットを送った。書籍のうちの多くは複数部数である。たとえば新約聖書七冊、ロシア語の福音経二五冊、等々。全部で三五三冊。すべての書籍とパンフレットは、宗教道徳あるいは教理関係の内容のものである。例外として、数冊の文法、数学などの教科書がある。
 それらを、セルギイ鈴木神父とニコライ・イワーノヴィチ・メルチャンスキー〔ハルチャンスキーと同一人物か?〕大佐宛に送った。セルギイ神父には手紙を添えた。メルチャンスキー大佐には、セルギイ神父を助けて、本を将校たちと兵隊たちに分配してもらいたいと頼んだ。
-------

松山はロシア兵捕虜収容所が最初に設けられた土地ですね。
リンク先の論文にはロシア兵捕虜に対する正教会の活動が詳しく出ています。

平岩貴比古「日露戦争期・国内収容所におけるロシア兵捕虜への識字教育問題」
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/~kshiro/orosia13-4.html

さて、この後に主教後継者に関するニコライの発言が出てきます。

-------
 四時から、司祭全員、神学大学を卒業した神学校教師たち、そして翻訳局員たちと茶話会。かれらがわたしを招いてくれたのである。この機会を利用して、かれらに次のような話をした。すなわち、わたしのあとにはロシアから主教を招くようにせよ。また全体に日本教会は独立した教会になることを急いではならない。さもないと体質をゆがめることになり、プロテスタントの一派のようなものになりかねない。日本教会は一〇〇年以上は宗務院の監督下に留まり、ロシアから主教を迎えて、それらの主教たちの厳格な指導に従順に無条件に従わなければならない。そうしてこそ日本教会は成長して、「使徒以来の唯一の共同体なる教会」の一本の枝になってゆくのだ、と話した。
-------

ずいぶん傲岸で硬直的な考えのように見えるかもしれませんが、ニコライがこうした話をする必要を感じた背景としては、教会運営をめぐる内部の不満の存在があります。
この記事の一週間前、7月13日には、

-------
 きょうは「内会」である。司祭たちは公会前の事前の打ち合わせをしている。そのために「景況表」、公会に宛てた手紙と請願書、その他さまざまな提案(建議書や議案)を持っていった。提案はかなりたくさん集まっている。ありとあらゆることが提案されている!
 パウェル沢辺とアレキセイ沢辺が管轄する麹町教会の信徒たちから「教会運営の仕方を改善し、今日〔こんにち〕の文明開化された日本の状況に合ったものにすべきである」という要求書がだされた。これが両沢辺神父のすすめによって書かれたものであるなら、ご立派な指導者ですなと言ってやりたい。とりわけ最長老のお方〔パウェル沢辺琢磨〕は問題だ。
 柏崎から、教役者の教育のための機関を設けるべきだ、なぜなら現在の教役者は全員教養が足りず、今日の日本人の教育のたかさにぜんぜん応えていないからだ、という要求がなされた(あきらかに、いまの日本軍のロシア軍に対するうち続く勝利と、日本および外国の新聞にあふれるロシア人に対するどぎつい罵倒のために、日本人はうぬぼれで頭がおかしくなっているのだ)。
 パウェル新妻から次のような要求が出ている。
 一、日本教会の独立。
 二、宗務院と諸総主教に「勝利」ではなく「和解」を祈るよう提案する。なぜなら、ロシア人も日本人も勝利を与えたまえと祈ったら、主神はどちらの祈りを聴いたらよいのか。
 三、公会は日本人兵士の自殺を食い止める手段を講ぜよ。
 四、司祭たちの公会に輔祭の出席も認めよ。
 モイセイ葛西〔原衛。福島方面の伝教者〕が、宗務院は一〇〇年間日本教会を支える約束をせよという要請を出してきた。その間に、現在信徒一人がひと月一銭出している寄付が何百万円にもなるから、そうなれば日本教会は自らの力で自らを支えられるようになる、という。
 ニコライ高木〔久吉。米子、松江の伝教者。作曲家高木東六の父〕は、「教役者たちは筆紙に尽くし難い貧困のなかにある。ゆえにその妻と娘が産婆、付添看護婦、教師などになることを許可せよ」という要請を出してきた。
 ほかにもこの類の提案や要請が出ている。そのほとんどすべてはくだらないたわごとだ。しかし遠慮なく提案し論議するがよい。だめなものは実現しない。こうした「建議書」の意義は、それらが診断と警告になるということだ。現在出ているたくさんの「建議書」からわかるのは、日本教会は、物質的に無力だからもあるが、それ以上に内的状態がまだ「ドクリツ」(自立)からは遠いということだ。
-------

とありますが(p95)、日本の正教会は経済的に自立できていないどころか、現に戦争している敵国から運営資金を得ているという奇妙な存在です。
それにもかかわらず、日露戦争が自国優位に進展している状況の下で「うぬぼれで頭がおかしくなってる」信徒も多数いて、日本教会の「独立」を要求するパウェル新妻もその一人のようです。
「宗務院は一〇〇年間日本教会を支える約束をせよという要請を出してきた」というモイセイ葛西も同様ですね。
それに比べると高木東六の父、ニコライ高木の要請は伝教者の自立を促すものと思われるので、ニコライがこれについても否定的な書き方をしている理由がよく分かりません。
ウィキペディアを見ると高木東六は1904年7月7日生まれだそうですから、ニコライがこの記事を記した僅か六日前に誕生したのですね。

高木東六(1904-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E6%9D%B1%E5%85%AD
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鈴木範久『日本キリスト教史─年表で読む』

2020-01-18 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月18日(土)13時30分49秒

前々回の投稿で書いたように、ニコライが「イエス・キリストの神性を信じない人々は、たとえば、海老名や植村たちのようにたいていは組合派に属している」と書いている点は誤解、というかニコライの無関心の反映ですね。
海老名弾正(1856-1937)や植村正久(1858-1925)が日本のプロテスタント界でどれだけ大物だとしても、ニコライ(1836-1912)にとってみれば、つい最近本格的にキリスト教の導入を始めたばかりの国の、自分より20歳以上年下の若輩者に過ぎません。
ただ、両者の思想の違いは、明治日本の思想動向を見る上ではそれなりに重要なので、ウィキペディアへのリンクでお茶を濁すのではなく、日本キリスト教史の中での位置づけを確認しておきたいと思います。
そこで、立教大学名誉教授・鈴木範久氏の『日本キリスト教史─年表で読む』(教文館、2017)から少し引用します。(p174以下)

-------
  3 海老名・植村論争(一九〇一年)

 日本組合基督教会に属する海老名弾正と日本基督教会に属する植村正久との間に、一九〇一(明治三四)年から翌年にかけて交わされたキリストの神性をめぐる論争がある。前述の「自由キリスト教と新神学」を受け継いだ性格の論争ともいえる。
 論争の発端は、海老名がキリストを「神」とする植村の所論に疑問を唱えたことから始まる。両者の応答は、事実上海老名の主宰する雑誌『新人』と、植村が中心的存在の新聞『福音新報』を通じてなされた。
 海老名は植村らの奉じる「三位一体」の思想を時代的産物とみなし、キリストと「神」との間にある「宗教的意識」としての「父子有親」を強調、そこではキリストは「神にしては人、人に対しては神」とみた。だが、あくまでキリストは「神」ではないとした。したがって、海老名においては、三位一体を唱える植村らの思想のもつ罪と贖罪の考えもなく、したがってキリストを救済者とみる思想もない。
 両者のおもだった応答は次のとおり。

 植村正久「福音同盟会と大挙伝道」『福音新報』三二四号、一九〇一年九月一一日
 海老名弾正「福音新報記者に与ふるの書」『新人』二巻三号、同年一〇月一日
 植村正久「海老名弾正君に答ふ」『福音新報』三二八号、同年一〇月九日
 海老名弾正「植村君の答書を読む」『新人』二巻四号、同年一一月一日
 植村正久「挑戦者の退却」『福音新報』三三二号、同年一一月六日
 海老名弾正「再び福音新報記者に与ふ」『新人』二巻五号、同年一二月一日
 植村正久「海老名弾正氏の説を読む」『福音新報』三三七号、同年一二月一一日
 (これらの論争を集めたものとして福永文之助編『基督論集』(警醒社書店、一九〇二)がある)

 このあと海老名が「三位一体の教義と予が宗教的意識」を『新人』二巻六号(一九〇二年一月一日)に発表後、論争は植村はもとより、三並良、小崎弘道、アルブレヒト(George E.Albrecht)、高木壬太郎も意見を発表、日本のキリスト教界の神学論争として稀有なほどの関心を集めた。
 また、右の海老名のキリスト観「神にしては人、人に対しては神」は、ユニテリアンたちのキリストをあくまで「神」ではなく人とみる思想との違いがわかりがたい。これに対し海老名は『基督教本義』(日高有隣堂、一九〇三)を著し、今少しわかりやすい説明を与えている。同書によるとキリストは「人類以上としての超絶ではない、人類其のものとしての超絶である」とみている。この言葉の限りでは、植村らのいう「神」ではない。
 さらにキリスト教の本義を、「正義公道の霊、博愛慈善の霊」とみて、その霊の完全な発露がキリストの「宗教意識」であり、そのキリストの「宗教意識」と一体化して生きることとする。ここにはキリスト教の儒教的、陽明学的理解がみられ、海老名の門より少なからぬ社会事業家の生じる一因となる。
-------

ま、長々と引用しましたが、私には海老名理論とユニテリアンの違いがきちんと理解できません。
ただ、これだけプロテスタントの本流と異質な考え方をする人が教会を離脱しないばかりか、後に同志社の総長にまでなることは、ちょっと不思議な感じがします。
この点、鈴木範久氏は次のように「自由キリスト教と新神学」の時代からの変化で説明されます。

-------
 植村・海老名の論争は、これまで日本のキリスト教界では見過ごされてきた「神学と信仰との関係」が関心を高める役割を果たした。それのみでなく、先の「自由キリスト教と新神学」の時代においては、「新神学」は金森通倫および横井時雄らが教職を去るほどの衝撃を与えたのに反し、今回の一方の中心人物である海老名は、教会内にとどまり同志社総長にも迎えられる。このことは、聖書の歴史的研究の浸透をもあらわすものとみてよい。
-------

ということで、信仰の深化と肯定的にとらえるのが多くのキリスト教史研究者の見方なのでしょうね。
ただ、こういう理屈っぽい話について行けない古くからの信者も相当いたように思われます。
かつて見られたようなプロテスタント信者の爆発的増大がなくなる原因のひとつとして、こうした理論的な争いの複雑・先鋭化を挙げてもよいのかもしれません。
なお、三並良・金森通倫・横井時雄については、以前、深井英五を検討した際に少し言及したことがあります。

「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dba8684a32224ba07f9d5669214ebcee
「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」(by 三並良)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/caa939de572224d0778a282b372bfddf
「マルクスの著作の訓詁」の謎、回答編
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34b1e7e6eca291c2adcbfaf5fcb38167
『日本に於ける自由基督教と其先駆者』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b7538250dc17e008116840e7344e915
金森通倫の「不穏な精神」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3714454a5575dd567a9c5144dab52b65
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その12)

2020-01-18 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月18日(土)10時17分11秒

次いで、前々回の投稿で引用した「正教青年会の会長ワシリー山田が「数名の大学教授も招いて、経済学、民族誌学〔エトノグラフィヤ〕などの講義をしてもらおう」と提案した。その提案を聞いてニコライは怒る」という記述ですが、中村氏はこれを1902年3月13日の記事としています。
しかし、『宣教師ニコライの全日記 第7巻』を見ると、関連する記事は二ヵ所に分かれていて、ニコライが怒ったのは同年5月11日ですね。
まず、3月13日に、

-------
一九〇二年二月二八日(三月一三日)。大斎第一週の木曜。

【中略】東京の「青年会」会長兼記者のワシリイ山田〔蔵太郎〕が計画書を持ってやって来た。それによると、「公会のため本会に集まる伝教者たちのために夏のセミナーを開催する。かれらの学術的、宗教的知識を一新する必要があるからである。神学校の指導者たち、たとえば瀬沼は道徳神学、パンテレイモン佐藤は教会史、編集長のペトル石川はキリスト教哲学の講義をすることを約束してくれた。それ以外の人々とはまだ話をしていないが、講義に備えることを断るものはまずあるまい。セミナーは公会後一週間行なう。そこにとどまる伝教者はおそらく少ないであろうが、かれらを一週間にわたりできるだけ安く生活させるために、神学校に住まわせることになる」。しばらく考えたのち、わたしは同意することにした。おもな問題点は出費である。このために三〇〇円は余分にかかるだろう。利益はもちろん少ないだろう。第一に、講師たちはそれを準備するために本職を怠ることになろう。第二に、聴講者は凡庸で、なにも記憶にとどめることはできまい。だがそこには、よい種ならば捨てられない、もしくは、いくらかでも頭を新鮮にし、浄めてくれるような、よい気晴らし、それになにかの息吹がある。【後略】
-------

とあります。(p92)
ニコライはもともとワシリイ山田の企画にそれほど乗り気ではなかったものの、この種の提案が自発的に出された点を高く評価して、まあ、一つの試みとしてやらせてみるか、みたいな感じで賛成したようですね。
そして、問題の記述が5月11日に出てきます。(p109以下)

-------
一九〇二年四月二八日(五月一一日)。携香女の主日。

【中略】イオアン・アキーモヴィチ瀬沼の言葉によれば、公会に集まる予定の伝教者のために青年会会長ワシリイ山田が企画している夏の講習会について、「すでに講義の準備を約束してくれた四人の博士候補と神学校の教授陣以外に、山田は経済学、民俗学などのテーマで講義をしてくれる大学〔東京帝国大学〕の教授も何人か招こうと企画しており、かれらへの謝礼として伝教者から一円五〇銭ずつ徴収しようとしている」という。くだらん。ワシリイ山田を呼びだして、浮かれることのないように、馬鹿な考えを起こさないように厳しく叱責した。しかもこれが、そうでなくとも金に苦しんでいる伝教者に負担を強いるとなればなおさらである。うちの教授陣に話させればよい。そうすれば、楽しみ以外にも、なんらかの利益をもたらしてくれるだろう。かれらの講義の内容は宗教についてであろうから、伝教者も居眠りせずに聞いていれば、自分にとってなにか新しい、必要な情報を得ることができようし、忘れていたことをおさらいすることもできよう。ところが、経済かなにかの話では、三〇分聞いたところで、馬の耳に念仏で、なんの役にも立たないし、今後それを生かすこともできない。しかもその話に一円五〇銭支払わねばならないとなれば、笑止千万である。しかも自分や人類全体を猿の子孫と考えているような無神論者に自分の汚らわしい思想を語ってもらうために呼ぶというのか。馬鹿馬鹿しい、こんなことは思いもよらないことだ。伝教者のなかで政治やあらゆる最新の夢物語について知りたいと思う者は、一円五〇銭でそのたぐいの本を買い込めば、そこから、三〇分の講義で得られるよりも五〇倍も多くを知ることができるだろう。
-------

うーむ。
第7巻の訳者は半谷史郎・清水俊之氏ですが、これと、

-------
「何と恥かしいことだ! ワシリー山田を呼びつけて気球で空中を旅するようなことをするな、ばかなことを計画するなときびしくしかった。……神学校の教師たちの講義は宗教に関するものだろうから、伝教者たちは、まじめに聴けば、何か新しいことや必要なことを学び、前に習ったが忘れたことを復習することにもなるだろう。しかし経済学その他について、益もなく後で活用することもできないおしゃべりを半時間聴いてどうなる。自分自身をも全人類をも猿の子孫だと思っているような無神論者たちを招いて、くだらないでっちあげをしゃべってもらうなんて! そんなことをするなんぞ、考えるのもごめんだ!」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3a8825dc5b6cf2045a68834182ad52a

という『宣教師ニコライと明治日本』の中村訳を比較すると、「浮かれることのないように」が「気球で空中を旅するようなことをするな」となっているなど、中村訳は全体的にかなり強烈な表現になっていますね。
もちろん私には翻訳の適否を判断する能力はありませんが、ニコライは3月13日の時点で「おもな問題点は出費である。このために三〇〇円は余分にかかるだろう」と懸念しており、5月11日の記事でも、ワシリイ山田が宗教とは関係のない話をする大学教授への「謝礼として伝教者から一円五〇銭ずつ徴収しようとしている」点を一番問題視しているように見えます。
新知識を学びたい者は勝手に学べばよいが、貧しい伝教者から1円50銭も徴収するのはダメだ、そんなことは許さない、というのがニコライの基本的な立場であって、様々な悪口はいつものニコライの習慣のように見えます。
この割と軽めの記事からニコライの「反啓蒙」性を強調するのは少し大げさなようにも感じます。
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その11)

2020-01-17 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月17日(金)12時09分25秒

前回投稿で引用した「神田の青年会館でプロテスタントの日本人牧師たちが集会を開き「イエス・キリストは神か、神ではないのか」という題で論議した」という記事ですが、『宣教師ニコライの全日記 第7巻』を見ると、

-------
一九〇二年四月二日(一五日)、火曜。

 ほとんどが日本人からなるプロテスタント牧師や伝道師たちが、今月の一一日からこの界隈にある青年会館で集会を開いている。さまざまな議題のなかで、「イエス・キリストは神か否か」という投票が行われた。「神であるに投票した者は一一〇人、神でないが六人、どちらとも言えないが三三人であった」。キリスト教の宣教にとってなんと恥ずべき結果であろう。プロテスタント教団は疑念によって、まるで錆のように蝕まれている。
-------

とあります。(p101)
同日はこれで全文です。
ニコライは日付を最初にロシア暦(ユリウス暦)で、ついで括弧内に新暦(グレゴリウス暦)で記していますが、「今月の一一日から」以下を過去の出来事として描いているので、これはグレゴリウス暦の4月11日のことですね。
また、中村氏は「この界隈」を神田と解されたのでしょうが、同年6月8日の記事に、4月11日から横浜で開かれたプロテスタントの集会のことが出ていて、4月15日の記事と同じ集会のように読めます。
非常に細かな話になりますが、この当時のプロテスタントの状況を伺わせる記事でもあるので引用してみます。(p117)

-------
一九〇二年五月二六日(六月八日)、日曜。

 プロテスタント系の定期刊行物は日本福音同盟会(Japan Evangelical Alliance)の混乱を槍玉にあげている。新暦の四月一一日から横浜でこの同盟会の「第一一回総会(Eleventh General Conference)」が開催された。きのうの“Japan Daily Mail”〔『ジャパン・デイリー・メール』〕の Monthly Summary of the Religious Press〔宗教刊行物の月間要約〕の記事には、この一連の会議で起きたことが、プロテスタント系の新聞『福音新報』『六合雑誌』からの抜粋によって簡潔に描かれている。それよりも早く、六月三日の“Japan Daily Mail”紙に載ったあるプロテスタント宣教師(Reverend Wendt〔ヴェント師〕)の書簡にも同様の記述が見られる。
 同盟の憲法第一項にはこううたわれている。「福音同盟会の目的は、福音という共通名称で呼ばれる諸原理を有する全教会の相互関係をより緊密にし、社会にキリスト教の精神を示すことである(make known to societry the spirit of Christianity)」と。
 この同盟には今日までイエス・キリストを神であると信仰告白する人々も、その神性を認めない人々も所属していた。前者に属する多くの人々はこのような合同を好ましく思っていなかった。このため、四月一二日の会議では、この第一項に「福音の諸原理を保持する者とは、人々を救うためにこの世に降りしイエス・キリストは神であることを信ずる者のことである」という説明を補足すべしとの提案がなされた。熱い議論が起こった。結果としては、採決に必要な票数が不足したために、提案は否決された。同盟会の憲法にしたがえば、三分の二の賛成票がなければ、憲法の諸規則になにも付け加えることができないことになっていた。本提案にたいしては、賛成が八一票、反対が四四票であった。これは土曜日のことである。
 ところが四月一四日月曜日に、もし土曜日に否決された提案が採択されなければ、同盟会の議事は停止される(will be brought to a standstill)という口実により、それがふたたび総会で提案され、議論もなく投票され、三分の二を優に超える大多数の賛成によって採択されたのである。“Japan Evangelist”〔『ジャパン・エヴァンジェリスト』〕誌(Vol.IX,N5,May)は総会レポートのなかで、この決定を摂理(Providential)の働きと呼んでいるが、ヴェント師は摂理のこうした冒涜を嘲笑してこう言っている。「土曜日には摂理が一つの決定を下したが、月曜にはそれにまったく矛盾する決定を下した。ならば、組合派がとりわけ強く、数も多い大阪の次の総会では、摂理はおそらくまた以前の決定に戻ることだろう」。さらにヴェント師は同胞者の思想の自由を抑圧する人々と「福音」という語の定義の狭さにたいして憤慨している。
 これに関しては『六合雑誌』がそれにもまして憤激をあらわにする。この雑誌は正統派のこの決定を、中世を思わせる異端弾圧であると、論文「福音同盟会の異端征伐」のなかで称している。これは総じて、プロテスタント自身に「同盟会はキリスト教徒を緊密な絆で結びつけることを主たる目的としてはじまったものの、けっきょくはかれらをあらんかぎりの相互反目へと導く結果となった(The Alliance, which began by making it its chief object to unite Christians in closer ties, has ended by setting them at loggerheads as much as possible)」ことを自覚させようとするものである。イエス・キリストの神性を信じない人々は、たとえば、海老名〔弾正。日本組合監督教会牧師〕や植村〔正久。日本基督教会牧師〕たちのようにたいていは組合派に属している。そこでこれら本質的にはキリスト教徒でない人々を福音同盟会から除名しようという大がかりな憤激がわき起こっているのだ。まったくプロテスタントには唖然とさせられる。かれらは人類のキリスト教化を掲げながら、このような錆びついた俗信によって、核心から遠ざかっていくことになる。
-------

まったく同時期に、これだけの規模の会議が神田と横浜で開催されるということも考えにくいですから、同じ集会と見做してよいのでしょうね。
私もプロテスタントの理論面は全然分かりませんが、植村正久が組合派というのはちょっと変ですね。

海老名弾正(1856-1937)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%80%81%E5%90%8D%E5%BC%BE%E6%AD%A3
植村正久(1858-1925)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E6%AD%A3%E4%B9%85
植村・海老名キリスト論論争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E3%83%BB%E6%B5%B7%E8%80%81%E5%90%8D%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E8%AB%96%E8%AB%96%E4%BA%89
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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その10)

2020-01-16 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月16日(木)11時19分5秒

長縄光男『ニコライ堂の人々』、そして『宣教師ニコライの全日記 第3巻』のニコライ富岡訪問記に寄り道してしまいましたが、中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書、1996)に戻ります。

中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c78804ced09dd20c5ec03ecebd7d28b

(その9)で引用した部分の後、中村氏はニコライが「神の世界を讃えてそれに触れる儀礼」である「奉神礼」を重視したことを述べ、次のように続けます。(p226以下)

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 明治の史家竹越與三郎は明治末の正教会の教勢が衰えていったのは「その儀式繁縟にして、邦人に解せざりし」がためだと言っている(『新日本史』)が、しかし、ニコライに言わせれば、ニコライがトルストイを批判するのも、トルストイが教会の儀礼と神の世界の神秘を否定し、簡略化した聖書を編み道徳を説いたからであった。
 ニコライが、日本でアメリカ人やイギリス人のプロテスタントの宣教師たちと頻繁に往き来し、親しい友人もできて自身の見解も広がったにもかかわらず、「プロテスタントでは宗教的な渇きは癒されない」と感じたのは、当然なのである。
 プロテスタンチズムは、宗教とはいっても近代合理精神を肯定し、信仰の近代化を行ない、神秘や儀礼に依存する面を少なくし、新約聖書を倫理規範として個人の良心や合理的正義や知的向上性や実践倫理を強調する教えとなった。それは現世の人間中心の教えである。だがニコライは、そこが私には不思議な魅力なのだが、性質は開明的で勤勉で自立心も強いのに、そういう近代的宗教の人ではなかった。プロテスタントの教会の「メモリアル・サーヴィス」に参列するたびに、その式があまりに現世的であることに、儀礼があっさりしていて永眠者との親近感が薄いことに、ニコライは不満を感じている。
 ニコライが、日本人伝教者こそ教会の柱だと認めていながら、自分の後の日本正教会の教育を日本人にゆだねたくなかった理由はそこにあった。かれは、公会に集まった教役者たちに「正しい伝統」が築かれるまでは百年はロシアから主教を招くようにと教えた。日本人に任せておいたならば「プロテスタントの教会と同じようになってしまう」と予感していたのである(一九〇四年七月二〇日)。
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竹越與三郎は、少なくとも若い頃は自身が熱心なプロテスタントの信者ですから、竹越から見ればロシア正教は「その儀式繁縟にして、邦人に解せざりし」という評価になりますね。
竹越の評価がプロテスタント的偏向であるのに対し、「宗教とはいっても近代合理精神を肯定し」以下は、ドストエフスキーに心酔していた中村健之介氏のドストエフスキー的偏向の気味が若干あるような印象を受けます。
ま、プロテスタントの人から見れば、そんな単純ではないよ、と言いたくなる部分があるでしょうが、私にはよく分かりません。
「メモリアル・サーヴィス」、即ち葬儀については、正教の荘重な儀礼に魅力を感じた人は多いようですね。

竹越與三郎(1865-1950)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%B6%8A%E8%88%87%E4%B8%89%E9%83%8E

さて、プロテスタントとの関係について、もう少し中村氏の説明を見ておきます。(p228以下)

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反世俗化、反啓蒙

 そのような宗教らしい宗教の徒であるから、ニコライは当然、反世俗化であり、反啓蒙であった。
 一九〇二(明治三五)年四月、神田の青年会館でプロテスタントの日本人牧師たちが集会を開き「イエス・キリストは神か、神ではないのか」という題で論議した。そのことを知ったとき、ニコライは「キリスト教の伝道にとって恥辱というものだ! プロテスタントは、鉄が錆に侵されるように疑いによって蝕まれている」と怒り嘆いている(一九〇二年四月一五日)。
 同じ年の三月、その年七月に開かれる公会に全国の伝教者が駿河台へ集まるのを機会に、いわば伝教者の再教育のためのセミナーを開こうという計画が持ち上がった。神学校の教師たちに講義してもらうのはよかったのだが、正教青年会の会長ワシリー山田が「数名の大学教授も招いて、経済学、民族誌学〔エトノグラフィヤ〕などの講義をしてもらおう」と提案した。その提案を聞いてニコライは怒る。
 「何と恥かしいことだ! ワシリー山田を呼びつけて気球で空中を旅するようなことをするな、ばかなことを計画するなときびしくしかった。……神学校の教師たちの講義は宗教に関するものだろうから、伝教者たちは、まじめに聴けば、何か新しいことや必要なことを学び、前に習ったが忘れたことを復習することにもなるだろう。しかし経済学その他について、益もなく後で活用することもできないおしゃべりを半時間聴いてどうなる。自分自身をも全人類をも猿の子孫だと思っているような無神論者たちを招いて、くだらないでっちあげをしゃべってもらうなんて! そんなことをするなんぞ、考えるのもごめんだ!」(一九〇二年三月一三日)
 ロシア人宣教師ニコライは宗教の中にいた。日本人ワシリー山田は文明を求めていた。ニコライが拠って立っている「本当のキリスト教」からすれば、「キリストは神か否か」という議論はもちろん、伝教者に対する経済学の講義も、神を辱めるものであった。
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いったん、ここで切ります。
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「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その3)

2020-01-14 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月14日(火)22時25分21秒

ニコライの富岡訪問記、もう少し引用します。
「さまざまな真理を研究したいのです、いろいろな問題を解きたいのです」と語る杉田へのニコライの対応です。 (p238以下)

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 「おまえが解明したいと言っている問題が宗教的な問題であるならば、それを解くために永生〔来世〕があるのではないか。この世では、問題解決のよろこびを先取りして予感できるために、必要最低限の知識しかわれわれには与えられていない。問題の完全な解明がなされるのは、真理の源である神のもとに行ってからだ。おまえがこの世でできるかぎり研究をしたいというのなら、それならおまえのための道を教えよう。もう一度伝教学校へ来なさい。伝教学校ではいま、おまえが学ばなかった基礎神学を教えている。その他にも、おまえの在学中にはなかったいろいろな科目がある。教師たちはロシアの神学大学を卒業して、哲学によく通じている。そういう教師たちの助けがあれば、おまえは、ここで暮らしてやっているよりもずっとよいかたちで自分の疑念を鎮めることができるし、問題の解決もうまくやれるようになる。
 杉田は考え込んでしまった。どうやら杉田はすっかり道を見失った人間ではないらしい。杉田の友人のもう一人の離反者、パウェル西岡が杉田を惑いに引きずり込んだに違いないのだが、西岡のような頑迷な高慢さは杉田にはない。
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舌鋒鋭く杉田を批判したニコライは、口調を変えて、杉田にもう一度学校に戻って基礎神学その他を学び直すように提案します。
杉田は1892年(明治25)に26歳ですから、満年齢ならば1866年(慶応2)生まれです。
「教師たちはロシアの神学大学を卒業して、哲学によく通じている」とありますが、1883年にロシアに留学して87年に帰国し、神学校教授となった三井道郎(1858~1940)を始め、確かに既に複数のロシア留学組が存在していますから、かつて杉田が学んだ頃よりは相当充実した教育体制になっていたのでしょうね。
さて、次に杉田の再婚問題についてです。

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 「もう一つ言っておきたいことがある。キリスト教徒の家族を惑わすな、神のいましめに逆らう罪へ引き込むな。亡くなった妻の妹と結婚するという考えは捨てなさい。滝上の家の者たちの親切は、亡き妻の身内の親切だと思いなさい。その親切に対して、滝上の家の者たちを罪に引き込むという悪をもって報いてはならない」
 これに対しても杉田はなにも言わなかった。わたしはさらに長いことかれを説諭した。その後、杉田は物思いにふけっている様子で立って行った。「あしたの朝、お返事します」とかれは言った。わたしは、そんなに急いで返答しなくてもよい、ただし、よく考えて、揺るぎのない返答を持ってきなさいと言った。
 それからイオアン滝上を呼び、妹を杉田と結婚させないように、そんなことをして妹を傷つけないように、なぜなら神の命令にまったく反する結婚に神の祝福が与えられるはずがないし、その神の命令をよく知る人々からも祝福がえられるはずがないから、と説いた。すこしずつ母親と父親にはたらきかけて、この結婚について考えを変えてもらうようにせよ、とイオアンに助言した。
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急ぐ必要はないが「よく考えて、揺るぎのない返答を持ってきなさい」というニコライの指導は、厳格でありながら暖かみも感じさせます。
また、イオアン滝上に対する「すこしずつ母親と父親にはたらきかけて」云々との指導も、宗教上の原則を単純に押し付けるのではなく、人間関係に配慮した実際的な工夫を加味しており、ニコライの洞察力の鋭さを感じさせます。
そして、更に杉田が引き起こした信徒間の混乱をいかに終息させるか、という難題が残っています。

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 晩の七時から、ペトル滝上の家で異教徒を相手の説教がはじまった。集まったのは、信徒をふくめ、約六〇人。杉田はかつてここの伝教者であった。それがいまはキリスト教の信仰の敵となっている。その杉田のゆえに、ここは動揺が生じかねない状況になっている。説教の目的は、いくらかは、その動揺を抑えることであった。だから、信徒のほとんど全員が聞きにきていたのはよいことだった。
 まず伝教者のイグナティ向山が話した。上手だった。ただ、例と説明があまりに長すぎる。森に隠れて家が見えない、ということがしばしばあった。わたしは初心者向けの、神と救世主についての説教をした。ただしここでの必要に合わせて話した。
 説教が終わると、兄弟たちは簡単な親睦会を開いた。歓迎の辞が述べられた。わたしは「講義」を行なうよう説得した。ここには成人男性が一五人、女性が一三人もいるのだから。兄弟たちはすぐ聞き入れ、次の集まりのために、三人の「講義者」と「幹事」を選んだ。いまは完全に暇な時期だから、集まりは月に二回、第二と第四の日曜に開かれることになった。女性信徒たちは、そのあとで向山の助けを得て、「講義会」を開くことにする。今回は女性の出席者は少なかった。
 伝教者の向山は田篠を三週間に一度訪ねることにする。毎月第三日曜にここで兄弟たちとともに祈祷を捧げ、訓話をする。確実に実行するよう、向山に旅費を出すことを約束した。それ以上は、いまはこの教会にしてやれることはない。またすっかりさびれた富岡の教会のためには、何もしてあげられない。この大きな町に伝教者が必要なのだろうが、それがいない。
 夜の一二時、きびしい寒さのなかを富岡へもどり、そこに泊まった。
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ということで、ニコライの配慮のキメ細やかさには驚くばかりです。
この田篠の例から伺えるように、いったん相当数の信徒を獲得したとしても、それを安定的に維持するのは大変なことですね。
田篠の組織がどの程度続いたのかは知りませんが、おそらく日露戦争・ロシア革命を経て信徒は激減し、現在は一人も存在していないのではないかと思います。
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「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その2)

2020-01-13 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月13日(月)20時42分31秒

イサイヤ杉田がニコライから「おまえの知能はごく月並みなものだ」「おまえは学問の人間ではない」「おまえがいまやっている勉強は、単なる時間のむだ遣い」とボコボコに叩かれているのを見ると、「二六歳にもなって居候をしておる」立場とはいえ、杉田がいささか気の毒になってくるような展開ですね。
さて、前回投稿で杉田がユニテリアンの信者では、と書きましたが、「キリストは信じております。ですが至聖三者〔三位一体〕については、わたしにはわたしなりの考えがあります」とのことなので、「自由キリスト教」の他の二派、即ちドイツ普及福音教会またはユニバーサリストの可能性もありそうです。
もちろん杉田は特定宗派に確信を持てた訳ではなく、まだまだ宗教的・思想的な混乱の渦中にあるのでしょうが、「立派な背表紙の本を何冊も机に積み上げている。それが全部ドイツ語の本なのだ!」となると、ドイツ普及福音教会に一番親和的のように思われます。
とすると、同志社に学ぶ中でキリスト教に懐疑的になり、ドイツ普及福音教会を経て、やがて棄教して金融の世界に転じ、最後には日銀総裁にまでなった深井英五(1871-1945)を連想させますね。
「さまざまな真理を研究したいのです、いろいろな問題を解きたいのです」と語る杉田の心境は、宗教的・思想的変遷を重ねた深井英五と共通していそうです。

「ドイツ普及福音伝道会」と深井英五
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dd168ff37949c37c3fb6e1b1e281018d
「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dba8684a32224ba07f9d5669214ebcee
「マルクスの著作の訓詁」の謎
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5842d14e9ed0509c11313c5091ba93d
「宗教を信ぜずと言明する人の中に却て宗教家らしい人がある」(by 三並良)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/caa939de572224d0778a282b372bfddf
「マルクスの著作の訓詁」の謎、回答編
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34b1e7e6eca291c2adcbfaf5fcb38167
『日本に於ける自由基督教と其先駆者』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b7538250dc17e008116840e7344e915
深井英五と井上準之助
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/514e0313f20fb94a93256f796aa4e1c6

杉田がどのような人生を送ったのかは分かりませんが、深井英五レベルの知性ではなさそうですから、おそらく「哲学の著書」を出すこともなく、歴史の中に消えていったのだろうと思います。
ただ、この種の「高等遊民」的な「煩悶青年」がある程度の層をなしていたからこそ、例えば萩原朔太郎(1886-1942)のような優秀な「高等遊民」も生まれてくる訳で、文化的な観点からは杉田のような存在を必ずしも否定的に捉える必要はないように思います。

『月に吠える』も500部
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4c8b42f42e6f66175e30dbfabeb57b0

そして、富岡のような地域で、この種の「高等遊民」的な「煩悶青年」がブラブラ生活していることができたのは、結局は生糸のおかげですね。
杉田だって、養蚕で「金持ちの百姓」となった家の婿にでもなって金ヅルをしっかりつかんだら、「二冊も三冊も、いやもっとたくさんの本を出す」ことは充分可能だったはずです。
大雑把に言って生糸の製造原価の8割強は原料繭の購入代金であり、出荷額と比較しても、その8割弱が原料繭の購入代金です。
それだけの金が農村に廻って行きますから、近代製糸業は地域全体を豊かにしてくれる本当に特別な産業だった訳ですね。

「おーい中村君」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37e1ab65783dc1e9abdf21d4fc00b342
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「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その1)

2020-01-13 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月13日(月)12時02分38秒

早く「国家神道」を検討しなければ、と思いつつ、なかなかニコライ沼から抜け出すことができなくて、今は郷土史的な関心から、ニコライの群馬県内訪問の記事と『前橋正教会百年の歩み』(深沢厚吉、1985)等の地元の正教会関係の記録を照らし合わせる作業をしています。
ニコライは1892年12月5日、富岡製糸場も見学していて、その記述は、

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 きょうの廻家訪問のしめくくりに、日本最大というここの製糸工場〔富岡製糸場〕を見学した。二〇年前政府によって、国民に示すモデルとして建てられた工場である。いまだに官営である。これを建てここを運営するために、フランス人が招聘された。フランス人たちの長であるムッシューBrunat〔ブルナ〕の名は、いまも生糸の梱包の送り状に印刷されている。この工場には三〇〇人の若い女性が働いている。繭をほぐし、四本の絹糸を合わせて糸にし、糸を巻いた綛〔かせ〕を作り、一本一本のかせの重さを計り、アメリカとフランスに送るために梱包する。ここの生糸はすべて予約注文が入っている。動力は蒸気である。どうやら工場は最高の状態であるらしい。
-------

という具合に(『宣教師ニコライの全日記 第3巻』、p239)、筆まめのニコライにしては割とあっさりしています。
しかし、信者への観察は本当に細かいですね。
特に興味深いのは、富岡製糸場の少し東にある田篠という集落での「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」なる人物とのやり取りです。(p236以下)

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一八九二年一一月二二日(一二月四日)、日曜。富岡、田篠。

 朝、聖体礼儀代式を執り行うため田篠へ行った。【中略】質素な田舎の食事をいただいてから、信徒宅訪問に出かけた。福島で三軒、田篠で七軒の家を訪ねた。貧しい家は一軒もない。すべてが裕福な農民だ。すべての家が、農業の他に絹の生産にたずさわっている。【中略】
 イオアン滝上の家へ行ったとき、元伝教者で離教者のイサイヤ杉田に会った。信仰を失ったあと、うわさでは、神としてのキリストを信じない連中の仲間になったという。杉田の妻〔イオアン滝上の妹〕は最近亡くなったのだが、かれはその妻の妹と結婚しようとして、いま滝上の家に身を寄せている。伝教者の向山が杉田に、その結婚は教会法に反していると言ったところ、杉田は自分は教会を捨てたのであり、教会の法を信じてはいないと答えたという。滝上の家の者たちは信徒になったばかりで、教会の掟に服することがいかに重要かわかっていない。滝上の家族のなかで母親が断然この結婚を望んでいる。なぜか? 杉田は士族の生まれで、哲学を勉強しているのだ。立派な背表紙の本を何冊も机に積み上げている。それが全部ドイツ語の本なのだ! 百姓女が自分のこどものためにこの結婚を望まないでいられようか! 早く婚礼を挙げてしまいたかったのだが、運悪く花嫁がまだほんのこどもで、一四歳くらいなのだ。
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「神としてのキリストを信じない連中の仲間になった」というのは無神論者になったということではなくて、当時、プロテスタントの間に動揺をもたらしていた「自由キリスト教」のうち、聖三位一体を認めないユニテリアンの信者になった、ということのようですね。
1887年、アメリカのユニテリアン協会から宣教師ナップ(Arthur May Knapp)が来日して、慶應の福沢諭吉らに支援されて勢力を拡大しつつあったようです。

ユニテリアン主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9

もう少し引用を続けます。(p237)

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 しかし、わたしは杉田がかわいそうになった。かつてかれが熱心に働いたときのことが思い出された。現にこのメトリカには、伝教者としてのかれの名の下に一〇人以上の正教入信者の名が記されている。わたしは杉田を呼んでくるようにと言った。かれはやって来た。すっかり太ってしまって、髪をのばして総髪にし、やけにしゃれめかしたなりをしている。金持ちの百姓の家に居候するには都合がいい。
「すっかり信仰を失くしたのか?」と尋ねてみた。
「いいえ。キリストは信じております。ですが至聖三者〔三位一体〕については、わたしにはわたしなりの考えがあります」
「だが、むかしはいくらかでも至聖三者も信じておったのではないか」
「そうでした。そうでなかったら伝教者にはならなかったでしょう」
「ということは、信仰が弱くなり、やがてすっかり消えたということだ。至聖三者への信仰がなくては、神としてのキリストを信じることはできない。おまえはすっかり信仰を失ったのじゃ。しかし、回復することは可能だ。それを試みてみないか? わたしはおまえがかわいそうだ。キリストに背いて、おまえはユダの道に入ってしまった。永遠の滅びの道だ。もしキリストのもとへもどる努力をしないと、おまえは滅びの運命をたどる。もどりなさい。使徒たちでさえ信仰の弱さを感じて、<われらの信仰を強め給え>と祈ったことがあった。おまえも祈りなさい」
「いまわたしは学問をやっております。わたしにはわたしなりの目的があります」
「何の学問か?」
「哲学です」
「おまえはいまいくつになる?」
「二六です」
「二六歳にもなって居候をしておるのか! きれいな背表紙の本をたくさん買い、それでその上等な着物とおいしい食べ物を手に入れている。無駄遣いをする金を得て、好きなだけの安楽と怠惰を手に入れている。おまえはそれが好きなのだ」
「ぜんぜん怠けておりません。一所懸命勉強しています。三、四年もすれば、杉田が何者であるか、いかなる才能があるか、わかっていただけるでしょう」
「三、四年したら哲学の著書を出すというのだな。金持ちの百姓がそのために金を出してくれたら、二冊も三冊も、いやもっとたくさんの本を出すというわけだ。それで自分のうぬぼれ心をなぐさめるわけだ。おまえの書く本は三、四年もすればみんなから忘れられてしまうだろう。おまえにはしっかりした本を書く才能などはない。おまえの知能はごく月並みなものだ。わたしは学校で教えたから、おまえのことがわかっている。おまえは学問の人間ではない。だから、おまえがいまやっている勉強は、単なる時間のむだ遣いではないだろうか。人生の最良の時、働くようにと人に与えられた時間、神と周りの人たちに仕えるための時間、その時間をおまえは浪費しているのではないだろうか?」
「ですが、わたしはさまざまな真理を研究したいのです、いろいろな問題を解きたいのです……」
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いったんここで切ります。
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「みい」と「みつい」、そして長縄光男氏の誤解(その3)

2020-01-12 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 1月12日(日)12時19分14秒

昨日、長縄光男氏に対するイヤミを念入りに書いてしまったので、自分の方が何か誤解していたら恥かしいなと思って原杢一郎編『原敬日記 第8巻』(乾元社、1950)を確認してみましたが、やはり米騒動関係の話であることに間違いないですね。
「ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)」が登場するのは1919年(大正8)1月15日ですが、前年12月25日に、

-------
〇二十五日
【中略】
 田中陸相来訪(過日来病気)西伯利より半数已上撤兵の事は裁可を得たるに因り参謀本部に通牒して其処置を取る事となせり。予め参謀本部等に相談せば種々の議論もあるべしと思はれたれば決定後に之を公示し一切の議論を抑止せりと云へり、同時に田中は先頃より問題となり居る米輸入の件に付軍事協約を利用し支那内地より買入れて満洲に集むる事となせば約百万石は得べしと思ふと云ふに付予は賛成を表し速かに着手すべしと云ひ置けり。【中略】
 高橋蔵相田中陸相より米買入の内談を受けたりとて米産額等の諸表も携帯して来訪、山本農相も来会して種々の協議をなしたり、山本は高橋が農商務省の調査に反して米の不足にあらずと諸表に就き論ずるは不平にてもあらんか、米穀の事は価格に関係するが故に大蔵省にて爾後担任せば如何と云ふに付、余は官制上許さざる所なる事を説示し、尚ほ米穀の問題は内閣総掛にて措置を取るを要すれば閣僚中にも熱心に講究する事となりたれば力を合せて之が処置を取るべし、陸相の買入談も至急着手せしむべく又陸相が馬糧に是迄の麦使用を高粱使用に変更すと云ふことも直に実行するを要すとの趣旨を説示し、要するに余も産米の不足とは思はざるも上下不足を訴へ居る今日なれば米を潤沢にするは第一の急務にて、且つ政治の要は人心をして安定せしむるに在れば悲観説を述べて徒に人心を不安に陥る事を避くべしとの方針を縷示したり。
-------

とあります。(p121)
米騒動は1918年7月に始まりますが、原敬が首相となった同年年9月末の時点では暴動は既に終息しています。

1918年米騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95

そして、年末の時点では米それ自体も不足していないようですが、原は「余も産米の不足とは思はざるも上下不足を訴へ居る今日なれば米を潤沢にするは第一の急務にて、且つ政治の要は人心をして安定せしむるに在」るので、「内閣総掛にて措置を取るを要」し、田中陸相の「軍事協約を利用し支那内地より買入れて満洲に集むる事となせば約百万石は得べし」という提案も「至急着手せしむべく」と指示する訳ですね。
長縄光男氏が引用した記事だけでは、何故に陸軍大臣の田中義一が出て来るのかが分からず、あるいはシベリア出兵がらみなのかと思いましたが、シベリア出兵とは直接の関係はなく、米輸入が内閣全体の緊急課題なので田中も関与しただけですね。
年が明けて正月7日には、

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【前略】糧食問題に付高橋蔵相は決して米穀の不足なき事を主張したるも、産米の不足と否とを論ずるより先日決定通此際朝鮮台湾は勿論何れの国よりにても米を輸入して国民に安心を与ふるを必要とす、世間米価に付て騒然たるも実は数字の問題にあらずして世間は之を政略問題となし居れば其積にて考案するの外なし、閣員其心すべきものなりと注意したり。
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とあり(p128)、原の明晰かつ強力な指導力が窺えます。
また、10日には、

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 午前閣議を官邸に開らく、議会に於ける米問題に付山本高橋の意見根本的に相違に付答弁二途に出ては妙ならずと考へて両人に注意せしに、高橋蔵相は此問題は一切山本農相に譲りて自分は一言せざるべしと云へり。仏領印度は我政府の請求より米の輸出禁止を解除せりとの公報に接し内田外相之を披露せり、又田中陸相は支那に於て米輸出を承認したれば三井の手にて価の少々高き位は頓着なく速かに買入せしめては如何と云ひ一同異議なく、又前回問題となりし朝鮮米は兎に角陸軍に於て買入宇品港に輸入する事となしたり、山本農相如何にも熱なきも閣僚進んで其途を講じたれば米の輸入は益々増加するならん、
-------

とあり(p132)、ここに「三井の手にて価の少々高き位は頓着なく速かに買入せしめては如何」と初めて「三井」の名前が出てきます。
そして、これは15日に登場する「ニコライ教会の司教三井某(岩手の者)」ではありえません。
ということで、「みい」「みつい」問題は疑問の余地なく解決しました。
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