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学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)

2020-11-25 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月25日(水)18時46分28秒

昨日の投稿では桃崎有一郎氏『室町の覇者足利義満』の記述について、「桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です」などと息巻いてしまいましたが、これは『大日本史料』ですね。
私の場合、『大日本史料』は某大学図書館で閲覧できるのですが、コロナの関係でちょっと行きづらくなってしまっていて、代わりに何かないかなと考えて、『続史愚抄』を見て昨日の投稿となりました。
ただ、結果的には『大日本史料』を見ないまま色々考えたことが良かったようです。
というのは、『大日本史料』の記述にも少し問題がありそうだからです。
まず、『大日本史料 第六編之二』の建武二年八月一日条を見ると、

-------
一日、<庚戌>成良親王ヲ征夷大将軍ト為ス、

〔相顕抄<前田侯爵家本>〕<鎌倉将軍次第> 成良親王<自元弘三十二、至建武二年、>建武二八一、為征夷大将軍云々、

〔神皇正統記〕<後醍醐天皇> <〇上文、足利直義、成良親王ヲ奉ジテ鎌倉ニ赴キシコトヲ記セリ、元弘三年十二月十四日ノ条ニ収ム。>
此親王、<〇成良>後にしばらく征夷大将軍を兼させ給ふ、

〔職原抄〕征夷大将軍一人、元弘一統之初、兵部卿護良親王暫任之、其後上野太守成良親王令兼之給、建武三年二月、被止其号畢、<〇号ヲ止メラレシコトハ、明年二月々末ニ本条アリ>

  〇是ヨリ先、親王出デゝ、鎌倉ニ鎮セラレ、執権以下ノ諸職ヲ補セラ
  レシモ、仍ホ上野太守ニテ在シゝガ、<元弘三年十二月十四日、建武元年正月十三日ノ条参看、>此ニ
  至リテ、遂ニ征夷大将軍ニ兼補セラレ給ヒシナリ、是時、尊氏自ラ東伐
  セントシテ、征夷大将軍タランコトヲ請ヒ奉リシモ、聴サレザルコト、
  二日ノ条ニ見ユ、参看スベシ、
-------

となっています。
『相顕抄』『神皇正統記』『職源抄』のうち、成良親王が建武二年(1335)八月一日に征夷大将軍になったことを明示するのは『相顕抄』だけで、北畠親房の『神皇正統記』は「後にしばらく征夷大将軍を兼させ給ふ」、同じく北畠親房の『職原抄』は「建武三年二月、被止其号畢」と終期のみ記し、始期ははっきりしません。
とすると、『相顕抄』がどれだけ信頼できる史料なのかが問題となりますが、今の私には判断材料がないので、後日の課題とします。
『大日本史料』の編者はもちろん『続史愚抄』の存在を知っていて、他の箇所では引用していますが、成良親王の征夷大将軍任免に関しては『続史愚抄』の引用はありません。
そして、南北朝時代の研究者にとって、『続史愚抄』など所詮は近世の編纂物でしょうから、『大日本史料』で採用していないのにわざわざ見ようとする人は少ないでしょうね。
さて、『大日本史料』の編者が、この時、尊氏が征夷大将軍にしてくれと言ったけれども後醍醐の勅許はなかったことについては二日条を参照せよ、と書いているので、二日条を見ると、「前中納言従二位久我通定出家ス」関係の記事が少し、ついで「西園寺公宗、及ビ日野氏光、三善文衡ヲ誅ス」関係の記事が延々と続いた後、

-------
足利尊氏、自カラ往キテ北条時行ヲ伐タント請ヒ、且、征夷大将軍総追捕使タランンコトヲ望ム、未ダ許サズ、是日、命ヲ待タズシテ発ス、尋デ、尊氏ヲ征東将軍ニ補ス、

〔元弘日記裏書〕建武二年八月二日、尊氏卿出京、

〔武家年代記〕<下 裏書>今年七月先代一族、并諏訪祝、自信州令蜂起、打入鎌倉ノ間、足利源宰相家、蒙征夷将軍ノ宣旨、同八二進発、為凶徒追伐関東御下向、

〔神皇正統記〕<後醍醐天皇> 高氏ハ申うけて東国にむかひけるか、征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望けれと、征東将軍<〇印本征夷ニ作レルハ誤レリ、>になされて、ことことくはゆるされず、<〇下文十一月十八日ノ条ニ収ム>

〔梅松論〕<〇前文七月二十二日ノ条ニ収ム> 扨関東の合戦の事、先達て京都へ申されけるに依て、将軍<〇尊氏ヲ指ス、>御奏聞有けるは、関東にをいて、凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、ふせき戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加へき旨、御申たひたひにをよふといへとも、勅許なき間、所詮私にあらす、天下の御為のよしを申し捨て、八月二日京を御出立あり、此比公家を背奉る人々、其数をしらす有しか、皆喜悦の眉をひらきて、御供申けり、三河の矢作<〇三河碧海郡>に御著有て、京都鎌倉の両大将御対面あり、<〇下文十八日ノ条ニ収ム、>

〔太平記〕【中略】

〔保暦間記〕<〇前文七月二十五日ノ条ニ収ム、> 京都ノ騒動不斜、其時尊氏可罷向由仰ラル、直義打負テ落上ハ、申請テ可罷向由存候、但頼朝カ任例、征夷将軍ノ宣旨ヲ蒙ラント申ス処ニ、不叶シテ征夷<〇征夷ハ征東ノ誤リ、>将軍ノ官ヲ送ラル、無念ニ乍存、既ニ高氏<〇尊氏ニ作ルベシ>ハ発向シケリ、直義ニハ三河国ニシテ行合、共下向ス、<〇下文十八日ノ条ニ収ム、>

〔保暦間記〕【中略】
〔難太平記〕【中略】
〔応仁記〕【中略】
〔源氏系図〕【中略】
〔吉野御事書案〕【中略】
〔室町家伝〕【中略】
〔石川系図〕【中略】

  〇尊氏ノ東下、諸書或ハ勅許ヲ得タリトセルモノアリ、今、梅松論ニ従
  ヒテ掲書ス、又、尊氏ノ征東将軍ニ補セラレシハ、九日ナレドモ、文連ナ
  ルヲ以テ、此ニ合叙ス、其征夷大将軍ニ補セラレシハ、南朝延元三年、北
  朝暦応二年八月十一日ニ在リ、諸書往々征夷征東ヲ混ゼルハ非ナリ、
  此後、尊氏連戦シテ、凶徒ヲ破リ、鎌倉ニ入ルコトハ、十八日ノ条ニ見ユ、
  参看スベシ、
-------

とあります。
編者が一番信頼したらしい『梅松論』には尊氏が征夷大将軍を望んだという記述はなく、『太平記』を除いて、尊氏が何らかの地位を望んだと記すのは、

『神皇正統記』:「征夷将軍ならひに諸国の総追捕使を望けれと」
『保暦間記』:「頼朝カ任例、征夷将軍ノ宣旨ヲ蒙ラント申ス処ニ、不叶シテ征夷<〇征夷ハ征東ノ誤リ、>将軍ノ官ヲ送ラル、無念ニ乍存」

だけです。
『梅松論』が「直義朝臣無勢にして、ふせき戦ふへき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加へき旨」云々と記すように、尊氏にしてみれば愛する弟が死ぬかもしれない緊急事態ですから、下向の勅許はともかく、その際にあれこれ官職を望むものなのか。
「征夷大将軍」の肩書に敵を撃退する魔法の力があればともかく、北条時行らの「凶徒」にそんな肩書は全く通用しないでしょうから、『太平記』が強調するところの「征夷大将軍」をめぐる尊氏と後醍醐の厳しい折衝は後付けの作り話ではなかろうか、という疑問を感じます。
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西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その4)

2020-11-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月24日(火)11時02分45秒

※『大日本史料』を見ないで書いたので、最初の方で「桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です」などと頓珍漢なことを述べていますが、事情は次の投稿で説明しています。

『難太平記』評価の一環として、今川家関係者が青野原合戦でどのように描かれているかをざっと見るつもりだったのですが、成良親王はなかなか興味深い存在なので、もう少し寄り道を続けます。
私が成良親王を調べるきっかけとなったのは桃崎有一郎氏の『室町の覇者足利義満 朝廷と幕府はいかに統一されたのか』(ちくま新書、2020)です。

-------
足利一門大名に丸投げして創立された室町幕府では、南北朝の分断などに後押しされて一門大名の自立心が強すぎ、将軍の権力が確立できなかった。この事態を打開するために、奇策に打って出たのが足利義満である。彼は朝廷儀礼の奥義を極め、恫喝とジョークを駆使して朝廷を支配し、さらには天皇までも翻弄する。朝廷と幕府両方の頂点に立つ「室町殿」という新たな地位を生み出し、中世最大の実権を握った。しかし、常軌を逸した彼の構想は本人の死により道半ばとなり、息子たちが違う形で完成させてゆく。室町幕府の誕生から義満没後の室町殿の完成形までを見通して、足利氏最盛期の核心を描き出す。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072795/

同書には、

-------
成良親王は後に征夷大将軍になるが、それは約二年後に、京都に送り返された後である。(p26)

直義を救うため、尊氏は出陣の許可と征夷大将軍への任命を後醍醐に要請した。しかし後醍醐は却下し、京都に戻った成良親王を征夷大将軍にした。一〇歳の彼に将軍など務まらないが、「尊氏だけには与えない」というあてつけだ。(同)
-------

という指摘があったので出典を探したのですが、なかなか見つからず、『続史愚抄』に何か出ているかもと思って確認したところ、前回投稿で紹介したような記述があり、桃崎氏はいったい何を根拠にこんなことを言っているのだろう、と不思議に感じた次第です。
『続史愚抄』は柳原紀光(1746~1800)を編者とする非常に詳細な年表のようなもので、本格的に成良親王を研究するには不充分ですが、その人生を概観するには便利ですね。
また、近世の公家の著作ですから、北朝を正統とする視角が一貫していて、北朝から見るとこの出来事はこんな風に見えるのか、といった新鮮な驚きを感じることもできます。

続史愚抄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E5%8F%B2%E6%84%9A%E6%8A%84

さて、前回投稿と若干重複しますが、『続史愚抄』によれば、建武元年(1334)十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」とのことで、後醍醐の意向で僅か九歳の成良が鎌倉に滞在したまま征夷大将軍に任ぜられます。
これがいつまで続くかというと、建武三年(1336)二月七日までですね。
この日、後醍醐は尊氏が摂津打出・豊島河原で正成・義貞に敗れたのを確認した後、「四品上野太守成良親王罷征夷大将軍<〇職原抄>」ということで、成良の征夷大将軍在任期間は一年二か月ほどとなります。
尊氏・直義の西走で後醍醐は一安心だったでしょうが、この後、九州へ逃げた足利軍は驚異の巻き返しに成功し、五月には湊川で楠木正成・新田義貞を破ります。
そして八月に尊氏の奏請で光明天皇が践祚し、十月に後醍醐が尊氏と和睦、十一月十四日、「新院第七皇子四品上野太守成良親王<御年十一。前征夷大将軍。母准后従三位藤原朝臣廉子。>冊為皇太子。」とのことで、光明天皇の皇太子に阿野廉子を母とする「新院」後醍醐の皇子、「前征夷大将軍」の成良親王が就きます。
まあ、北朝・南朝のねじれに加え、「前征夷大将軍」が天皇となる可能性が現実味を帯びていた訳ですから、何とも異例な人事との印象は否めず、尊氏・直義のあまりの強引さに不快感を抱いたのは必ずしも北朝関係者に限られないのではないか、と思われます。
さて、約九か月間のブランクを経て皇太子となった成良がいつまでその地位にあったかというと、建武四年(1337)四月一日までであり、その在任期間は四か月半ほどですね。
この間の事情を『続史愚抄』で概観すると、成良が皇太子となった翌月の十二月二十一日に「今夜。新院<後醍醐院。>窃帯三種神器。自花山院第幸大和路。自稲荷辺有赤雲燭幸路。侍従忠房及勾当内侍某等供奉云。」(『続史愚抄』)という事態となり、後醍醐と尊氏の束の間の和睦はあっさり破れます。
翌建武四年(1337)三月六日、「越前金崎城陥。執前坊恒良親王。中務卿尊良親王<南主第一皇子。母贈従三位藤原朝臣為子。御子左前大納言入道為世女。>自殺。<廿七歳云。未詳。>前大膳大夫行房朝臣。前越後守源義顕<前左中将義貞朝臣子。>已下数百人死之。」、そして同日「前坊恒良親王自越前入洛。<或作七日。不取。>故中務卿尊良親王首級到京師。僧智曜<後号疎石。字夢窓。>葬禅林寺云。」ということで、金崎城陥落、尊良親王自殺、前皇太子恒良親王帰洛との展開となります。
そして四月一日、「廃皇太子成良親王。<南主皇子。十二歳。或作去年十二月。謬矣。>而与前坊恒良親王幽入道前右大臣<家定。>花山院第。此日。内大臣<経通。>罷皇太子傅。<春宮坊補任、公卿補任、諸家伝、紹運録、類本太平記、或記<南>」とあります。
「南主皇子」の成良親王(十二歳)が皇太子を廃され、前皇太子で越前金崎城から連れ戻された恒良親王と一緒に花山院家定邸に幽閉された、とのことですが、同日、皇太子傅・一条経通が罷免されているので、廃皇太子は事実と思われます。
しかし、成良が恒良と一緒に花山院邸に幽閉された、という点はどうなのか。
この出典が『太平記』だけであればどうにも疑わしく、もう少し調べる必要がありそうです。

一条経通(1317~65)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E7%B5%8C%E9%80%9A
花山院家定(1283~1342)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E5%AE%9A
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西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その3)

2020-11-22 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月22日(日)18時28分59秒

成良親王は西源院本『太平記』に二回しか登場しませんが、最初は第十三巻第四節「中先代の事」です。(兵藤校注『太平記(二)』、p321)

-------
 今、天下一統に帰して、寰中〔かんちゅう〕無事なりと云へども、朝敵の与党、なほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人置かでは悪〔あ〕しかりぬべしとて、当今〔とうぎん〕第八宮を、征夷将軍に成し奉つて、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬頭直義、その執権として東国の成敗を司る。法令皆旧を改めず。
-------

前回投稿で引用した第十九巻第四節では「連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮」でしたが、ここでは何故か「第八宮」になっていますね。
ま、それはともかく、『太平記』には成良が足利直義に伴われて鎌倉に下った年次は記載されていませんが、これは元弘三年(1333)十二月で、このとき成良は僅か八歳の無品親王です。
そして、翌建武元年十月二十二日、尊氏と対立していた「征夷大将軍二品兵部卿護良親王」が後醍醐の命令で逮捕され、同日、征夷大将軍の地位を剥奪されると、翌十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」(国史大系『続史愚抄 前篇』、吉川弘文館)とのことで、九歳の成良が鎌倉に滞在したまま征夷大将軍に任ぜられます。
更に翌十五日には「流二品護良親王于鎌倉」(同)とのことなので、この一連の措置は、例え前官であろうと護良親王が「征夷大将軍」の権威を帯びて鎌倉に入るのを許さない、という意思表示のようですね。
さて、成良が「征夷大将軍」となった翌建武二年(1335)六月に西園寺公宗の陰謀が発覚し、続いて七月には北条高時の遺児・時行が信濃から鎌倉に攻め込んできます。(兵藤校注『太平記(二)』、p321以下)

-------
 かかる処に、西園寺大納言公宗の陰謀露顕して誅せられ給ひし時、京都にて旗を挙げんと企つる平家の余類ども、皆東国、北国に逃げ下つて、なお素懐を達せんと謀る。【中略】
 時行、その勢を率して五万余騎、俄かに信濃より起こつて、時日〔ときひ〕を替へず鎌倉に攻め上るに、渋川刑部大夫、小山判官秀朝、武蔵国に出で合ひて支へんとしけるが、戦ひに利無くして、渋川と小山判官秀朝、ともに自害しければ、郎従三百余人、同所にして皆討たれにけり。また、新田四郎が上野国蕪川〔かぶらがわ〕にて支へてこれを防きけるも、敵目に余る程の大勢なれば、一戦に勢力〔せいりき〕を摧〔くだ〕かれて、二百余人討たれにけり。
 その後、時行、いよいよ大勢になつて、三方より鎌倉へ押し寄する。直義朝臣は、事の急なる上、折節、用意の兵少なかりしかば、「なかなか戦ひては、敵に利を付けつべし」とて、将軍宮を具足し奉つて、建武二年七月二十六日の暁天に、鎌倉をぞ落ちられけり。
-------

この鎌倉逃亡の際、直義が淵野辺義博に命じて「前征夷大将軍二品護良親王」を殺害したことは有名ですが、「征夷大将軍成良親王」は直義に護られて鎌倉を脱出します。
そして直義は後醍醐の制止を無視して東下した尊氏と三河で合流し、反転して時行から鎌倉を奪還しますが、成良は鎌倉には戻らず、八月三日、「征夷大将軍成良親王自鎌倉帰洛。大江時古<相模守直義朝臣家人>守護云<〇元弘記裏書、南方紀伝、五大成>」(『続史愚抄』)とのことで、成良は京都で直義の家人・大江時古の保護下に置かれます。
この後の軍事・政治情勢の変転は目まぐるしく、十月、尊氏は後醍醐の召喚命令を拒否し、十一月、直義は新田義貞討伐を号して諸国の兵を募り、義貞は後醍醐の命を受けて鎌倉に向かうも、十二月、箱根竹下で敗れます。
足利軍は敗走する義貞を追って西上しますが、陸奥の北畠顕家はその足利軍を追撃し、翌建武三年(1336)正月、義貞・顕家は足利軍を破って入京、更に翌二月六日、足利軍は摂津打出・豊島河原で義貞・楠木正成に敗れます。
そして、翌七日、「自山門<坂本歟。>内侍所渡御花山院仮皇居。今日。官軍重討破足利前宰相尊氏。於湊川」、更に同日「四品上野太守成良親王罷征夷大将軍<〇職原抄>」(『続史愚抄』)とのことで、叡山から花山院仮皇居に移った後醍醐は征夷大将軍成良親王を更迭します。
足利軍の没落が確実と見えたから、これでやっと安心して尊氏・直義に近い成良親王を罷免できるとの判断だったのか、あるいはもっと早く罷免したかったけれど、後醍醐もいろいろ忙しかったのでこの日まで延びたのかは分かりませんが、とにかく成良親王と尊氏・直義の関係は密接ですね。
さて、尊氏は遠く九州まで落ちて行きますが、三月、多々良浜で菊池武敏を破り、四月に東上開始、五月に義貞・正成を湊川で破ります。
そして八月、尊氏の奏請で北朝の豊仁親王(光明天皇)が即位しますが、叡山で頑張っていた後醍醐も十月に尊氏と和睦し、十一月二日、「自花山院殿<先帝御座。>被渡剣璽内侍所等<兼各被作置偽物云。>于東寺仮皇居。此日。被献太上天皇尊号于先帝。」(『続史愚抄』)となります。
ついで同月十四日、「新院第七皇子四品上野太守成良親王<御年十一。前征夷大将軍。母准后従三位藤原朝臣廉子。>冊為皇太子。」(同)とのことで、北朝の天皇の皇太子に後醍醐天皇の皇子で「前征夷大将軍」の成良親王が就きます。
何とも不思議に思えるこの人事は今まであまり注目されていませんでしたが、亀田俊和氏は『南朝の真実』(吉川弘文館、2014)において、若干の分析をされていますね。
ただ、亀田氏も成良が「前征夷大将軍」であることには触れられていません。

「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d9df0c885a87bff89426d3b64d452ef
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西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その2)

2020-11-21 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月21日(土)13時03分16秒

第十九巻の第一節から第三節まで見て、『太平記』の作者が設定する年次は本当にいい加減で、改元の年すら間違っている上、重祚していない光厳院は重祚したことにされ、尊氏・直義の経歴は間違いだらけ、しかも直義が「日本〔ひのもと〕の将軍」になったという訳の分からない記述まであることを確認しました。
兵藤裕己氏は『太平記』の作者に「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」があったと言われますが、事実を正確に記録しようとする態度に乏しい『太平記』の作者にそんなものが本当にあったのか。
私自身は、『太平記』全巻を通じて「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」を感じたことは一度もないので、兵藤氏が論じている『太平記』はどこのパラレルワールドに存在しているのだろうかと疑問を感じるほどです。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その10)~(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61a0b004c656b87b9a80b4ab5225644
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

さて、第四節「金崎の東宮并びに将軍宮御隠れの事」も、『太平記』の作者に「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」が全然ないことを示す好例のように思われるので、丁寧に紹介してみます。(兵藤校注『太平記(三)』、p315以下)

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 新田義貞、義助、杣山より打ち出で、尾張守、伊予守、府中その外〔ほか〕所々落とされぬと聞こえければ、尊氏卿、直義朝臣、大きに怒つて、「この事はひとへに、東宮の宮の、かれらを御扶〔おんたす〕けあらんとて、金崎にて皆腹を切りたりと仰せられけるを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差し下しつるによつてなり。この宮、これ程に当家を失はんと思し召しけるを知らで、ただ置き奉らば、いかさま不思議の御企てもありぬと覚ゆれば、ひそかに鴆毒〔ちんどく〕をまゐらせて失い奉れ」と、粟飯原〔あいばら〕下総守氏光に下知せられける。
 東宮は、連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮と、一つ御所に押し籠められて御座ありける処へ、氏光、薬を一裹〔つつ〕み持参して、「いつとなくかやうに打ち籠りて御座候へば、病気なんどの萌〔きざ〕す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候。毎朝に一七日〔ひとなぬか〕の間聞こし召し候へ」とて、御前にぞ差し置かれける。
-------

いったん、ここで切ります。
建武四年(1337)三月、金埼城が落ち、尊良親王は自害しますが、「東宮」恒良親王は京都に連れ戻されます。
第十八巻第十節「東宮還御の事」では、「金埼にて討死、自害の頸八百五十四取り並べて、実検せられけるに、新田の一族の頸には、越後守義顕、里見大炊助義氏の頸ばかりあつて、義貞、義助二人の頸はなかりけり」という状況で、「足利尾張守」斯波高経が恒良親王に、「義貞、義助二人が死骸、いづくにあるとも見え候はぬは、何となつて候ひけるやらん」と聞いたところ、恒良親王は「御幼稚の御心にも、かの人々杣山にありと敵に知らせなば、やがてこれより寄する事もこそあれ」と思って、「義貞、義助二人は、昨日の暮れ程に自害したりしを、手の者どもが、役所の中にて、火葬にすると曰ひ沙汰せし」と答えたので、斯波高経はその答えに騙されて二人の追及を止めた、とあります。(p254以下)
足利尊氏と直義は、「これ程に当家を失はんと思し召しける」恒良親王を放置できないと考えて、鴆毒を用いて毒殺することを粟飯原氏光に命じ、「将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮」成良親王と二人纏めて毒殺しようとしますが、その毒は「三条殿」即ち直義が「調進」したことが明言されています。

-------
 氏光罷り帰つて後、将軍宮、この薬を御覧ぜられて仰せられけるは、「病の未だ見えぬ前に、かねて療治を加ふる程に、われらをいたはしく思ふならば、この一室の中に押し籠めて、朝暮〔ちょうぼ〕物を思はすべしや。これ必ず病を治〔じ〕する薬にはあるべからず。ただ命を縮〔しじ〕むる毒なるべし」とて、庭に打ち捨てんとせさせ給ひけるを、東宮、御手に取らせ給ひて、「そもそも尊氏、直義等、それ程に情けなき所存を挟〔さしはさ〕むものならば、たとひこの薬を飲まずとも、遁るべき命にても候はず。これ元来〔もとより〕願ふ所の成就なり。ただこの毒を飲んで、世を早くせばやとこそ思ひ候へ。「それ人間の習ひ、一日一夜を経〔ふ〕る程に、八億四千の思ひあり」と云へり。富貴栄花の人に於て、なほこの苦しみを遁れず。況んや、われら籠鳥〔ろうちょう〕の雲を恋ひ、涸魚〔かくぎょ〕の水を求むる如くになつて、聞くに付け見るに随ふ悲しみの中に、待つ事もなき月日を送らんよりは、命を鴆毒のために縮めて、後生善処〔ごしょうぜんしょ〕の望みを達せんには如〔し〕かじ」と仰せられて、毎日に法華経を一部あそばされて、この鴆毒をぞまゐりける。将軍宮、これを御覧じて、「誰とても浮世に心を留むべきにあらず。同じ暗き路に迷はん後世〔ごせ〕までも、御供申さんこそ本意〔ほい〕なれ」とて、もろともにこの毒を七日までぞまゐりける。
 やがて東宮は、その翌日〔つぎのひ〕より御心地〔おんここち〕例に違〔たが〕はせ給ひけるが、御終焉の儀閑〔しず〕まりて、四月十三日の暮程に、忽ちに御隠れありてけり。将軍宮は、二十日余りまで恙〔つつが〕もなくて御座ありけるが、黄疸〔おうだん〕と云ふ御労〔おんいたわ〕り出で来て、御遍身〔ごへんしん〕黄にならせ給ひて、これもつひにはかなくならせ給ひにけり。
 あはれなるかな。尸鳩樹頭〔しきゅうじゅとう〕の花、連枝一朝〔れんしいっちょう〕の雨に随ひ、悲しいかな、鶺鴒原上〔せきれいげんじょう〕の草、同根〔どうこん〕忽ちに三秋〔さんしゅう〕の霜に枯れぬる事を。去々年、兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、また去年の春は、中務卿親王御自害ありぬ。これらをこそ、例〔ためし〕少なくあはれなる事に聞く人心を傷〔いた〕ましめつるに、今また、東宮、将軍宮、同時に御隠れありぬれば、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人ごとに、悲しまずと云ふ事なし。
-------

ということで、「東宮」恒良親王と「将軍の宮」成良親王は、直義が「調進」した鴆毒を、それと承知で七日間飲み続け、結局二人とも死んでしまったのだそうです。
しかし、少なくとも成良親王は康永三年(1343)まで生存していたことが確実で、恒良親王についても、この時期に死去したことが他の史料で裏付けられる訳ではなく、この毒殺記事の信頼性は相当に疑問です。
そして、この同母兄弟が鴆毒で毒殺されたとする記事は、観応二年(1352)二月、尊氏に敗北して鎌倉に幽閉されていた直義が鴆毒で毒殺されたとの話を連想させます。
この点、次の投稿でもう少し検討します。

恒良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
成良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
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西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その1)

2020-11-20 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月20日(金)11時18分43秒

それでは青野原合戦から見て行きたいと思います。
ただ、『難太平記』の「建武四年〔1337〕やらん。康永元年〔1342〕やらんに」という曖昧な記述との関係で、いきなり合戦の場面ではなく、年次に関係する部分も確認しておきます。
さて、青野原合戦は第十九巻に出ていますが、同巻の構成は、

1 光厳院殿重祚の御事
2 本朝将軍兄弟を補任するその例なき事
3 義貞越前府城を攻め落とさるる事
4 金崎の東宮并びに将軍宮御隠れの事
5 諸国宮方蜂起の事
6 相模次郎時行勅免の事
7 奥州国司顕家卿上洛の事、付新田徳寿丸上洛の事
8 桃井坂東勢奥州勢の跡を追つて道々合戦の事
9 青野原合戦の事
10 嚢砂背水の陣の事

となっています。
第一節のタイトル「光厳院殿重祚の御事」は何とも妙な感じですが、冒頭を少し見ておきます。(兵藤校注『太平記(三)』、p303以下)

-------
 建武四年六月十日、光厳院太上天皇、重祚の御位に即かせ賜ふ。この君は、故相模入道崇鑑が亡びし時、御位に即けまゐらせたりしが、三年の内に天下反覆して、関東亡びはてしかば、その例いかがあるべからんと、諸人異儀多かりけれども、この将軍尊氏卿筑紫より攻め上り給ひし時、院宣をなされしもこの君なり。今また東寺へ潜幸なりて、武家に威を加へられしもこの御事なれば、いかでかその天恩を報じ申さぬ事なかるべきとて、尊氏卿平〔ひら〕に計らひ申されける上は、末座の異見、再往の沙汰に及ばず。
 されば、その比〔ころ〕、物にも覚えぬ田舎者ども、茶の会、酒宴の砌にては、そぞろごとなる物語しけるにも、「あはれ、この持明院殿ほど大果報の人こそおはしまさざりけれ。軍〔いくさ〕の一度をもし給はで、将軍より王位を給はらせ給ひたり」と、申し沙汰しけるこそ、をかしけれ。
-------

このように第十九巻は建武四年(1337)六月に始まります。
しかし、この記事の内容は相当変で、そもそも光厳院が重祚した史実はありません。

光厳天皇(1313~64)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%8E%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

兵藤氏の脚注によれば、「建武三年八月の光明帝(豊仁親王。光厳院の弟で猶子)の践祚にともなう光厳院の院政を重祚としたものか(「梅松論」も光厳院「重祚」とする)」とのことですが、ともかく西源院本の第十九巻は建武四年六月に始まります。
そして、続く第二節「本朝将軍兄弟を補任するその例なき事」も、タイトルからして奇妙です。(p304以下)

-------
 同じき年十月三日、改元あつて、暦応に移る。その霜月五日の除目に、足利宰相尊氏、上首十一人を越え、正三位に上がり、大納言に遷つて、征夷大将軍に備はり給ふ。舎弟左馬頭直義は、五人を超越して、位〔くらい〕従上四品に叙し、官〔つかさ〕宰相に任じて、日本〔ひのもと〕の将軍になり給ふ。
-------

まず年次ですが、暦応への改元は「同じき年十月三日」ではなく、翌建武五年(1338)八月の出来事です。
また、尊氏は建武元年に正三位参議、同二年に従二位、同三年に権大納言、同五年(暦応元)八月に正二位、そして征夷大将軍ですから、「その霜月五日の除目に、足利宰相尊氏、上首十一人を越え、正三位に上がり、大納言に遷つて、征夷大将軍に備はり給ふ」は全部間違いです。

足利尊氏(1305~58)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F

直義の場合、確かに暦応元年八月に従四位上左兵衛督となっていますが、宰相(参議)任官の事実はなく、「日本〔ひのもと〕の将軍」も意味が分かりません。
この後、「それわが朝に将軍を置きし首〔はじめ〕は」云々と将軍に関する蘊蓄が語られるのですが、そもそも直義は「将軍」ではないので、第二節の「本朝将軍兄弟を補任するその例なき事」というタイトル自体意味不明です。

足利直義(1306~52)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%9B%B4%E7%BE%A9

ま、それはともかく、第三節「義貞越前府城を攻め落とさるる事」に入ると、金崎城没落の後、「杣山の麓、瓜生が館」で逼塞していた「左中将義貞朝臣、舎弟脇屋右衛門佐義助」が「国々所々に隠れ居たる敗軍の兵を集めて」、「馬、物具なんどこそきらきらしくはなけれども、心ばかりはいかなる樊噲〔はんかい〕、周勃〔しゅうぼつ〕にも劣らじと思ひける義心金鉄の兵ども、三千余騎になりにけり」(p306)という事態になります。
これを聞いた京都では、「将軍より、足利尾張守高経、舎弟伊予守二人を大将として、北陸道七ヶ国の勢六千余騎を差し添へて、越前府へぞ下されける」(p307)と対応しますが、加賀でも「宮方」が蜂起して越前と連動し、斯波高経は芳しい戦果を挙げることができません。
そして、冬場は雪のために互いに身動きが取れず、小競り合いに終始しますが、「さる程に、あらたまの年立ちかへつて、二月中旬にもなりければ、余寒も漸く退きて」(p309)、新田義貞・脇屋義助の活動が活発になり、越前府中をめぐる激しい攻防戦の末、斯波高経は敗北・逃亡してしまいます。
ところで、何とも奇妙なのは年次です。
「さる程に、あらたまの年立ちかへつて、二月中旬にもなりければ、余寒も漸く退きて」とあるので、素直に読むと、年明け以降の一連の出来事は暦応二年(1339)の話となりますが、史実ではこれらは暦応元年の出来事です。
ということで、青野原合戦に至るまでの西源院本『太平記』の年次はかなりいい加減であり、仮に今川了俊が西源院本『太平記』を持っていて、それを確認しつつ『難太平記』を書いたとしても、青野原合戦を建武四年(1337)の出来事と間違う可能性はありそうです。
しかし、いくら何でも康永元年(1342)と間違うことはないはずで、結局、了俊は手元に『太平記』を置いておらず、あくまで自分の記憶の中の『太平記』を語っているのだろう、と私は推測します。
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今川了俊が見た『太平記』

2020-11-19 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月19日(木)11時07分50秒

先に兵藤裕己・呉座勇一氏の対談を検討した際には引用しませんでしたが、この対談では『太平記』の成立過程について、次のようなやり取りがあります。(『アナホリッシュ国文学』第8号、p28以下)

-------
兵藤 つぎの段階は、『難太平記』に「後に中絶なり」とあるように、直義周辺での改訂作業が中断したことです。中断の原因は、貞和五年(一三四九)に直義が失脚したことでしょう。直義のこの失脚事件を、『太平記』は巻二十七に記します。このことからも、直義周辺で改訂された『太平記』は、「三十余巻」ではなくて「二十余巻」であって、その改訂作業は観応の擾乱で「中絶」したとみるのが自然です。
 直義周辺で改訂された『太平記』の前半部に、後半部(第三部)が書き継がれたのが、第三段階です。『難太平記』に「近代重ねて書き継げり」とありますが、『難太平記』が書かれたのは応永九年(一四〇二)ですから、「重ねて書き継」がれた「近代」とは、三代将軍義満の時代です。
 足利義満の時代に現存する四〇巻までが書き継がれたわけですが、『難太平記』によれば、その際、「ついでに入筆ども多く所望して書かせければ、人の高名、数を知らず」とあります。足利方の大名が、自分たちの「高名」の書き入れを「数を知らず」「所望」したわけです。今川了俊の『難太平記』も、今川氏の「高名」書き入れ要求の書物という面がありますね。

呉座 そうなりますよね。自分の父親である範国をはじめとする今川一族がこんなに手柄を立てたのに、『太平記』には書かれていない。そのこと自体を書き残しておく必要が今川了俊にはあった。
-------

この後、兵藤氏が「足利方大名が「高名」の書き入れを要求したのは……」と応じますが、その部分は既に引用済みです。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cef9693be40e9a4ec751aedf869b236

兵藤説に従うと、足利直義周辺での改訂作業が直義失脚により「中断」した後、『難太平記』が書かれた応永九年(1402)年まで、即ち「三代将軍義満の時代」まで実に半世紀以上も「書き継」き作業がダラダラ続き、その間、足利方大名による「高名」の書き入れ要求もダラダラ続いたことになります。
そして、「三代将軍義満の時代」に『太平記』の編集作業が完結したのかというと、兵藤氏は、

-------
オーセンティック(真正)な原本、権威あるオリジナルが不在のまま、『太平記』の編纂事業は放棄された、未完のまま放置されたことに関係すると思います。なんらかの政治的理由で削除された巻二十二の欠が補訂されない、未完の草稿本のようなテクストが残された。テクストの真正性を担保するオリジナル(原本)が不在のまま、転写と改訂がくり返され、新たに生まれた本も互いに影響し合って新しいテクストが作られる。そんな状態が二百年以上続いた結果だと思います。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc06c6a477e7273102fc2816e5682446

などと言われていて、「三代将軍義満の時代」以降のどこかの時点で「『太平記』の編纂事業は放棄」され、「未完のまま放置」されたけれども、その後も「転写と改訂がくり返され」、「新しいテクストが作られる。そんな状態が二百年以上続いた」のだそうです。
うーむ。
まあ、出発点である『難太平記』のあらゆる表現を素直に受け止めて、更に論理を積み上げて行けばこのような境地に至るのかもしれませんが、正直、「講釈師見てきたような嘘を言い」という印象を禁じ得ません。
和田琢磨氏が強調されるように、『難太平記』の「六波羅合戦記事が『太平記』の作者・成立に関する貴重な情報を具体的に伝える唯一の資料」なので、ここの解釈を誤ると、とんでもない方向に彷徨ってしまうことになります。
私には、兵藤説はまさにそうしたトンデモの限界を極めた学説なのではないかと思われます。

和田琢磨氏「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d91b38bb8daf4d395033ffc3fc7c0702

さて、『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事を自分なりに丁寧に検討してみた結果、私としては、了俊が見た『太平記』は現存の古本系の写本とそれほど違っていないのではないか、という印象を受けています。
『太平記』の諸本のうち、最古の写本である永和本について、兵藤氏は、

-------
 永和本は、古本系の巻三十二に相当する巻だけが伝わる『太平記』の零本(本文の一部だけが伝わる端本)である。紙背に記された『穐夜長〔あきのよなが〕物語』の末尾に、永和三年(一三七七)二月の書写年次があり、そのおもてに書写された『太平記』巻三十二(に相当する巻)が、それ以前の書写であることはたしかである。すなわち、永和本の下限は、永和三年二月であり、それは『太平記』の末尾、巻四十「細川右馬頭西国より上洛の事」の年時貞治六年(一三六七)十二月から九年後であり、『洞院公定日記』で「太平記作者」「小嶋法師」が死去したとされる応安七年(一三七四)四月からは三年たらずである。零本ではあっても、『太平記』の成立直後ないしは当時の写本として貴重である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/08cde34f6467b40fc5afb2c868f48b53

と言われていますが、古本系の巻三十二が扱っているのは観応三年(1352)八月、後光厳天皇が三種の神器のないまま践祚した後、京都をめぐる目まぐるしい争奪戦を経て、南朝方の足利直冬が京都から没落する文和四年(1355)三月までです。
従って永和三年(1377)に巻三十二まで出来ていることは確定していますが、残りの八巻も次々に生ずる紛争を概ね時系列に従って描写しているだけなので、永和三年の時点で全て完成していたとしても不思議ではありません。
私としては、義満が独裁的な権力を振るい始める前に『太平記』は既に完成していて、以後は多少の改訂があった程度であり、従って了俊が見た『太平記』は現在の古本系と大体同じようなものと考えています。
そして、例の「降参」を除けば、そう考えても『難太平記』の記述と矛盾はしないであろうことを、西源院本の青野原合戦と細川清氏没落記事に即して、少し検討してみたいと思います。
まあ、所詮は印象論で終わってしまう程度の話かもしれませんが。
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その7)

2020-11-18 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月18日(水)12時49分6秒

「15.青野原合戦事」の冒頭、暦応元年(1338)一月に起きた青野原合戦を、今川了俊が「建武四年〔1337〕やらん。康永元年〔1342〕やらんに」という具合いに二つとも間違えている点、特に注目している研究者はいないようですが、私はこれはけっこう重要な問題ではなかろうかと思います。
というのは、この誤解は了俊が手元に『太平記』を置いて、その記載を確認しつつ意見を述べているのではなく、あくまで自分の記憶の中の『太平記』を語っていることを示唆しているからですね。
実は青野原合戦あたりの『太平記』の記述は、個々の事件の発生年次についてはけっこういい加減で、手元に置いていても建武四年(1337)と間違う可能性はありそうです。
しかし、いくら何でも康永元年(1342)と間違うことは考えにくくて、了俊は自分の記憶の中の『太平記』を語っており、そしてそれは一番重要な足利尊氏の「降伏」についても同様なのだろうと思います。
この点は後で改めて論じるつもりです。
さて、『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事の最後、「18.範国欲使貞世刺清氏事」に移ります。

-------
 細川相模守御不審の時。故入道殿随分奉公忠節人に越給ひしかども。彼太平記には只新熊野に入御とばかり書たるにや。其時の事は既及御大事べかりける間。右御所にひそかに故入道殿申給ひて。貞世は清氏に無内外申承者也。かれをめし上せて清氏に差ちがへさせらば。御大事にも及べからず。人をもあまたうしなはるべからずと申請給ひて。其時は我等遠州に有しを。以飛脚めし上せ給ひしかば。参川の山中まで上りしに。清氏若狭国に落けるとて重て飛脚下き。上着の時こそかかる御用にめされつるとは語給ひしか。言語道断の事なりき。此事を故殿申請給ひける故に。清氏野心の事は無実たる間。歎申さむために越州直世を清氏内々よびけるを依怖畏まからざりける時。貞世在京あらばさりとも可来物をと清氏楽所の信秋に申けると聞て。思ひ寄て申出られけるとかや。是は随分故入道忠と存て。子一人に替て此御大事を無為にと存給ひし事無隠しを。などや此太平記にかかざりけん。是も此作者に後に申ざりけるにや。其時の落書に。
 細川にかかまりをりし海老名社 今川出て腰はのしたれ
是は相模守に海老名備中守にくまれて無出仕也しかば。如斯よみけるとかや。比興の事なれども。その時の事なれば書の侍ばかりなり。
-------

「細川相模守御不審の時」とは、康安元年(1361)九月、義詮の執事であった細川清氏が失脚し、若狭に逃げた事件ですね。

細川清氏(生年不詳~1362)

背景事情を知らないと分かりにくい記述ですが、例によって「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)を参照させてもらうと、

-------
 細川相模守(清氏)が御不審をこうむった時、故入道殿はずいぶん奉公忠節を尽くされたけれども、かの太平記には新熊野に入御としか書かれていない。
 あの時は既に御大事に及びそうだったので、故入道殿(範国)が密かに右御所(義詮)に、
「貞世(今川貞世。了俊の俗名)が清氏と親しいとうけたまわっております。彼を召し上らせて清氏と刺し違えさせれば、御大事には至らずに済みましょう。人を多数失うこともないでしょう。」
と申し上げられて、その時は遠州にいた我らを飛脚で召し上らされた。
 三州の山中まで上ったところで、「清氏は若狭国に落ちた」という飛脚がまた下って来た。どのような御用で召されたのかは、上洛してから教えられた。言語道断のことであった。
 清氏の野心のことは無実だったので、清氏は無実を訴え申し上げるために越州直世(今川直世。了俊の弟)を内々に呼んだが、恐れて行かなかったという。その時、清氏が、「貞世が在京であれば、こんな時でも来るだろうに」と、楽所(楽事を教え、事務をとる役所)の信秋に言ったと聞いて、(故入道殿は)思い立って申し出られたという。
 これなどは故入道殿(範国)のずいぶんな忠であり、子一人に替えてこの御大事を何事もなく終わらせようと思われたことは明らかなのに、どうして太平記には書かないのだろうか。これも、あとからこの作者に言わなかったからであろうか。


といった状況です。
今川範国は細川清氏の反逆を犠牲なしに治めるために、了俊を清氏のもとに行かせて「清氏に差ちがへ」させるという提案を、当事者である了俊の了解もなしに勝手に義詮にして、了俊に使者を送って上洛を促したが、到着前に清氏が若狭に没落したのでその必要もなくなった、という話ですが、了俊の書き方が妙に淡々としている点、やはり中世の武士だなあ、という感じがして、なかなか味わい深いですね。
文中に「言語道断」という表現がありますが、ここは「とんでもないことだ」といった否定的な意味合いではなく、「言葉で言いようもないほど、りっぱなこと」といった肯定的な意味だと思います。
了俊は父の提案を見事な策だと評価し、弟の直世は躊躇したけれども、自分が在京していたら恐れずに清氏のもとに行って、立派に刺し違えてみせたのだ、と言いたいのでしょうね。

「言語道断」(コトバンク)

さて、この話は今川家関係者だけでなく、広く一般の興味を惹きそうな話題ではありますが、結局のところ関係者の密談に終始し、具体的な結果をもたらさなかった試案であって、『太平記』の「作者」にとっても華々しいストーリー展開は困難です。
了俊は「是は随分故入道忠と存て。子一人に替て此御大事を無為にと存給ひし事無隠しを。などや此太平記にかかざりけん。是も此作者に後に申ざりけるにや」と憤っていますが、仮に今川家関係者が『太平記』の「作者」に提案しても、関係者の密談だけじゃ証拠もないしねー、などといった理由で採用を拒否されたかもしれません。
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その6)

2020-11-17 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月17日(火)11時35分56秒

「故殿」今川範国が「米倉八郎右衛門」から「如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじ」と罵倒されたという話、高師直の「御所巻」などにも通じるような感じがして、面白いエピソードではありますね。
さて、「15.青野原合戦事」の続きです。

-------
桃井申けるは。戦の間互にしりぞかざれば身を全する事なし。先ずる敵には水ばなにすこし退て。亦味方たて直してかかるには敵も退也。物あひにより勝利するを高名と云ける。此事を後に故殿被仰しは。桃井は強からん敵には幾度も負軍せむずる人なり。人の天命は左様に故実によりて遁るる事不可有。先たたかひて力なく自力尽時。退は習也と被仰し也。
-------

この部分、「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)を参照させてもらうと、

-------
 桃井(直常)が、「戦(いくさ)の時、どちらも退かなければ身をまっとうすることはできない。敵が先手を取ったらまず少し退いて、味方をまた立て直して攻めかかれば敵も退くものだ。」と、言った。このことについて、後に故殿が仰せになった。
「桃井は、強そうな敵には何度も負け戦をするような人だ。人の天命は、そのように故実によって逃れることはできない。まず戦って、どうしようもなくなって力尽きた時に退くものである。」

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki13.html

ということですが、これは今川範国が「如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじ」と罵倒された話とどのようにつながるのか、今一つ分からないですね。
ま、それはともかく、この後に『太平記』に触れて、「15.青野原合戦事」は終わります。

-------
さて土岐打出しかば。黒地は京都より切ふさぎて支。海道は御方もみ合しかば。奥勢は青野原の軍の後伊勢路にかかりて。奈良天王寺の合戦も有し也。京勢伊勢雲津河に馳合て戦有しか共。御方打負しなり。青野原の軍は土岐頼遠一人高名と聞し也。自身手負けるかや。是も太記平には書たれども。故入道殿など如此。随分手をくだき給ひし事。注さざるは無念也。但作者不尋間又我等も不注間書ざるにや。後代には高名の名知る人有べからず。無念也。望申ても可書入哉。
-------

「太記平」は「太平記」の誤記、というより活字を組んだ際の誤植かと思います。
「青野原の軍は土岐頼遠一人高名と聞し也」とありますが、この後の記述を見ると、誰かから聞いたという話ではなくて、『太平記』には青野原合戦では土岐頼遠ばかり活躍したと書いてある、ということなのでしょうね。
西源院本の青野原合戦の記事を見ると、今川範国などの名前も出てはいますが、土岐頼遠自身の負傷が特記され、全体的に土岐頼遠の活躍が目立つ書き方がなされています。
結局、『太平記』で「土岐頼遠一人高名」であり、父・範国あたりもずいぶん活躍したのに、それが詳しく記されないことが了俊の具体的な「無念」の内容ですね。
「無念」はすぐ後にまた繰り返されていますから、よっぽど悔しかったのでしょうが、しかし、「但作者不尋間又我等も不注間書ざるにや」はどう考えたら良いのか。
『太平記』の「作者」が「我等」に尋ねず、「我等」も注文をつけなかったから、と断定している訳ではなく、疑問形となっているのは何故なのか。
『難太平記』を根拠に『太平記』の成立論を展開する研究者は、了俊が『太平記』の「作者」と成立過程に通じていることを前提として論を進めているように見えますが、了俊はそうした「作者」側の事情を本当に知っていたのでしょうか。
また、最後に「望申ても可書入哉」とありますが、現存する『太平記』の諸本には、青野原合戦に限らず、了俊の希望は全然反映されていません。
今川範国・了俊父子のみならず「我等」、即ち今川家には『太平記』に介入するノウハウが全くなかったようにも見えますが、そうだとすれば、了俊の希望が実現しなかったという客観的事実も、了俊が実際には『太平記』の「作者」と成立過程に通じていなかったことを示す間接証拠なのかもしれません。
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その5)

2020-11-16 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月16日(月)10時30分51秒

『難太平記』で『太平記』に言及している七つの記事の内、最後の二つは読み応えがありますね。
まず、「15.青野原合戦事」は暦応元年(1338)、北畠顕家が二度目の上洛軍を率いてきて青野原で合戦になったとき、了俊の父・範国が配下から「こんな馬鹿な大将は焼き殺した方がましだ」と言われたという強烈なエピソードを載せています。

「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki13.html

面白いので、原文(『群書類従』第二十輯、合戦部)を丁寧に紹介してみます。

-------
 建武四年やらん。康永元年やらんに。奥勢とて北畠源大納言入道の子息顕家卿三十万騎にて押て上洛せしに。桃井駿河守に<今播磨守>。宇津宮勢三浦介以下為味方自跡おそひ上りしに。故入道殿は其時は遠江国三倉山に陣どりて。此御方の勢に馳加て海道所々にて合戦なり。自三河国又吉良右兵衛督<于時兵衛佐>。満義朝臣。高刑部大輔。三河勢など馳加て。二千余騎にて美濃国黒田に着けるに。当国の守護人土岐弾正少弼頼遠。土岐山よりうち出て。青野原にてもみ合べしと申けるに。明日の合戦一大事とて海道勢三手に分て。一二三番の籤を取て入替々々せらるべしとてくじをとられしに。桃井。宇津宮勢は一くじ。故殿。三浦介は二のくじ。吉良。三河勢。高刑部は三籤也。桃井勢はみなたかの鈴をつけたり。故殿笠じるしを思案し給ひけるに。あか鳥を馬に付ばやとて其夜俄に付られき。
-------

建武四年(1337)も康永元年(1342)も両方間違いなので、了俊の記憶力に若干の疑念を抱かざるを得ない始まり方です。
顕家が率いた軍勢が三十万騎というのは過大な感じがしますが、『太平記』(西源院本)では五十万騎と書いた直ぐ後に六十万騎にしています(兵藤校注『太平記(三)』、p331・332)。
まあ、三十万騎でも大幅な水増しであることは間違いなく、了俊も軍勢の数についてはそれほど正確さを求めないようですね。
また、幕府側が籤で出陣の順序を決めたという話は『太平記』にも出てきますが、こちらは五番に分けていて、

 一番 小笠原信濃守(貞宗)・芳賀清兵衛入道禅可
 二番 高大和守(重茂)
 三番 今川五郎入道(範国)・三浦新介(高継)
 四番 上杉民部大輔(憲顕)・上杉宮内少輔(憲成)
 五番 桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠

となっています(兵藤校注『太平記(三)』、p334以下)。
さて、「15.青野原合戦事」の続きです。

-------
稲垣八郎。米倉八郎左衛門。かが爪又三郎。平賀五郎など云若者共申けるは。籤はさることなれ共。当手の人の中に少々一番勢の前がけをすべしとて。以上十一騎桃井より先に赤坂口あめ牛山と云処に駆上けるを。御方は敵の馳上事かと見けるに。一番に上ける蘆毛なる馬に乗たる武者切落され。次々の武者皆切殺されて麓にころびたる時。味方とみければ一番勢合戦始けるに。桃井。宇津宮勢等うち負しかば。赤坂宿の南をくゐ瀬河に退けり。故入道殿入替られて敵山内と云けるもの以下打とり給ひて。西のなはて口にてほろかけ武者二騎を故殿射落し給ひし也。猶敵支ける間。くゐ瀬川の堤の上にの家ありけるにおりゐ給ひけり。夜に入て雨降しかば。敵重てかからぬ時。黒田の味方に加り給べしと人々申けるを。只是にて明日御方を可待と被仰ければ。米倉八郎右衛門。手負ながら有けるが云く。如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじとて火を付ければ。力なく此あかりにて黒田に被加けり。
-------

攻撃の順番を籤で決めたのに、今川範国配下の「稲垣八郎。米倉八郎左衛門。かが爪又三郎。平賀五郎など云若者共」合計十一騎が勝手に「桃井より先に赤坂口あめ牛山と云処に駆上」ったものの、「次々の武者皆切殺されて麓にころびたる」という悲惨な状況になってしまった、ただ、それが開戦のきっかけとなった、とのことで、まあ、今川家にとってはそれなりに大事な話ですね。
そして、「故入道殿」範国の活躍が少し描かれた後、再び「米倉八郎右衛門」が登場します。
範国が「くゐ瀬川の堤の上」の「の家」で休んでいて、そのまま夜に入って雨になり、敵の重ねての攻撃が止んだとき、「黒田の味方に加り給べし」と「人々」が言ったにも拘らず、範国が「只是にて明日御方を可待」などとグズグズしていたところ、手負いの「米倉八郎右衛門」が、こんな馬鹿な大将は焼き殺した方がましだ、と言って「の家」に火を付けたので、範国も仕方なく「此あかりにて黒田に被加けり」という展開です。
死んだはずの「米倉八郎左衛門」が「米倉八郎右衛門」になって再登場していますが、まあ、「皆切殺されて」は言葉の綾で、「左衛門」と「右衛門」の違いも単なる誤記なのでしょうね。
途中ですが、いったんここで切ります。
それにしても、了俊は父親が配下から「如此のおこがましき大将をば焼ころすにしかじ」と罵倒されたという不名誉なエピソードを、何故こんなに淡々と記すのか。
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その4)

2020-11-15 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月15日(日)12時03分10秒

川添昭二氏の古典的業績により『難太平記』の基礎知識を確認し、ついで和田琢磨氏の見解に即して現在の『難太平記』研究の水準を垣間見てきましたが、改めて『難太平記』は難解な史料だなと感じます。
さて、『難太平記』の本格的な検討は後の課題として、了俊にとってどんな『太平記』が望ましかったのか、どんな記事が『太平記』に入っていれば了俊は満足だったのかを確認した上で、何故そのような記事が実際には『太平記』に入らなかったのかを少し検討してみたいと思います。
まず、『難太平記』の構成ですが、これは前々回投稿で紹介した和田琢磨氏の論文「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」に適切に整理されているので、ちゃっかり利用させて頂くことにします。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/3/57_KJ00009521771/_article/-char/ja/

-------
校正本総目録(1~25)と私の分類(A~H)

A 昔人の発言の重要性
 1.人可知己先祖事
B 源氏の歴史と足利将軍家は特別であるということ
 2.神代唯有二人子事
 3.八幡太郎義家子孫取天下事
C 今川家と今川荘の由来
 4.今川家系譜事
 5.寄進今川荘於正法院事
D 尊氏・直義に起こった奇瑞
 6.尊氏直義産湯時有奇瑞事
 7.尊氏上洛於三河有奇瑞事
E 『太平記』の成立環境と批判
 8.太平記多謬事
 9.従尊氏九州退陣人数漏於太平記事
 10.尊氏篠村八幡宮願書時事
 11.可入太平記落書事
 12.範国所持太刀号八八王事
 13.細川今川異見事
 14.今川頼国討死事付<基氏子共事>
 15.青野原合戦事
 16.富士浅間神女託宣事
   (15の戦功として駿河国等を貰った旨を述べるA)
 17.貞世辞駿州事
   (駿河国を譲った泰範の裏切り。義満批判)
 18.範国欲使貞世刺清氏事
 19.清氏野心非実事
G 足利将軍家の絶対性と義満批判─応永の乱関係記事─
 20.鎌倉管領氏満謀叛事
 21.貞世被止九州探題子細事<付貞世隠居事>
 22.大内義弘謀叛時勧貞世事
H 追加項目
 23.
 24.
 25.
-------

以上の記事のうち、『太平記』に言及しているのは8・9・10・11、そして13・15・18の七つですね。
まず、「8.太平記多謬事」(和田氏の表現では「六波羅合戦記事」)は『太平記』関連記事の総論的部分で、「降参」の記述を削除せよ、とはありますが、それ以外の具体的な要求はありません。

「現代語訳 難太平記」(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html

「9.従尊氏九州退陣人数漏於太平記事」は建武三年(1336)、尊氏が「九州に御退の時の事。御供申たりし人もおほく太平記に名字不入にや。子孫の為不便の事か」とあるだけで、具体的に誰々の名前を載せろ、といった要求はありません。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki08.html

「10.尊氏篠村八幡宮願書時事」は、元弘三年(1333)、「丹州篠村八幡宮の御前にて御旗揚給ひし」時に、「両御所の御上矢を一宛神前に被進しに。役人二人有けり。一人は一色右馬介。一人は今川中務大輔也。此事は子細有事にて無口伝人は誤も有にや。此事などは尤書入られて気味可有にや。此中務大輔とは我等が兄の範氏の事也」という話ですね。
ずいぶんもったいぶった書き方をしていますが、「両御所」(尊氏・直義)が矢を奉納する際、その儀礼の担当者二人のうちに了俊の兄、今川範氏がいたというだけの話で、今川家関係者以外にはどうでも良さそうな話です。
「11.可入太平記落書事」は何時の話かも書いてありませんが、「今川に細川そひて出ぬれば堀口きれて新田流るる」という落書を『太平記』に入れてくれれば「此人々の子孫の為面目ならまし」とのことで、今川・細川家関係者以外の人にとってはどうでも良い話ですね。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki09.html

「13.細川今川異見事」は建武二年(1335)の「駿河国手河原の戦に御方打負けし」時と翌年の「九州御退の時。兵庫魚御堂と云所にてみな腹切の着到付られし」時、即ちいずれも「錦小路殿」直義が敗北を認めて切腹しようか迷ったときに、了俊の父「故入道」今川範国と細川定禅の助言が正反対で、直義が「きよき武士の心は同じかるべしと思ふに。此ちがひめは今に不審也と仰有し也」という話で、了俊は「此事などは殊更無隠間。太平記にも申入度存事也。若さる御沙汰やとて今注付者也」と書いています。
まあ、これは単に今川・細川家関係者だけでなく、それなりに多くの人の関心を惹きそうなエピソードですね。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki11.html

ちょっと長くなったので、いったんここで切ります。
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日文研シンポジウム「投企する太平記―歴史・物語・思想」

2020-11-14 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月14日(土)11時25分21秒

荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』(文学通信)が11月6日に出ましたが、近くの図書館が発注済みであることを知って、わざわざ買うまでもないか、と未だに購入していないセコい私です。
まあ、税込み8,800円と結構高価な本ですし、私が読みたいのは「Ⅱ 特論―プロジェクティング・プロジェクト」「第1部 「投企する太平記―歴史・物語・思想」から」の和田琢磨・谷口雄太・亀田俊和氏の三論文だけですからね。

荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』(文学通信)
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-39-5.html

また、三氏の論文の概要は日文研の『大衆文化研究プロジェクトニューズレター』第3号(2019)の「古代・中世班 H30年度共同研究会 ④シンポジウム「投企する太平記―歴史・物語・思想」レポート」(呉座勇一氏)で知ることができます。
これによると、

-------
 初日1本目の報告、和田琢磨(早稲田大学)の「『太平記』と武家―南北朝・室町時代を中心に―」は、近年国文学で急速に進展している『太平記』諸本論の成果と課題を総括したものである。従来の研究では、『太平記』諸本における合戦場面の叙述の揺れ(本文異同)については、諸大名が自身・先祖の戦功を『太平記』に書き入れるよう個々に要求したため、と解釈されてきた。この考えは、『太平記』を「室町幕府監修あるいは公認の歴史書、いわば南北朝の動乱に関する正史」と捉える通説と密接に結びついていた。しかし上記の説の史料的根拠は、『太平記』に先祖の武功が記されていないので書き足して欲しいと嘆く今川了俊の『難太平記』(1402)しか存在しない、と和田は指摘する。和田は『太平記』諸本の中で最も特異な伝本である天正本や現存最古の伝本である永和本の再検討を通じて、功名書き入れ要求―『太平記』正史説に疑問を呈し、『太平記』の生成過程・異本派生の過程を再考すべきと主張した。質疑では、常に本文が流動する中世軍記と、出版によってテキストが固定される近世軍記との違いについての議論などが行われた。

https://taishu-bunka2.rspace.nichibun.ac.jp/wp-content/uploads/2019/07/NewsLetterVol.3.pdf

とのことですが、前回投稿で紹介した「今川了俊のいう『太平記』の「作者」」(『日本文学』57巻3号、2008)では、和田氏は「『太平記』を「室町幕府監修あるいは公認の歴史書、いわば南北朝の動乱に関する正史」と捉える通説」に賛成していたはずです。
現在の和田氏は、この通説を根本的に批判する立場に転じたのか、それとも「功名書き入れ要求」と「『太平記』正史説」を結び付けることに反対するだけで、「『太平記』正史説」自体は維持されているのか。
ま、これは『古典の未来学』を読んで確認したいと思います。
また、

-------
 2本目の報告、谷口雄太(立教大学兼任講師)の「「太平記史観」をとらえる」は、『太平記』が提供した歴史認識の枠組みが現代に至るまで南北朝史研究を規定してきたことを論じた。谷口がこれまで進めてきた足利氏研究を題材に、足利尊氏と新田義貞が武家の棟梁の座をめぐって争ったという『太平記』の構図が、新田氏を足利氏と並ぶ源氏嫡流と捉える歴史認識を生み出し、新田氏は足利一門であるという歴史的事実の発見を妨げてきたと説く。その上で、『太平記』の史料としての活用法を自覚的に追究せず、結果的に『太平記』の歴史観に絡め取られてきた中世史学界の問題を鋭く批判した。質疑では、仏教思想・無常観というひとつの思想・構想で貫かれた『平家物語』と異なり『太平記』には一貫した歴史観が見出せないにもかかわらず、「太平記史観」という概念を設定することは適切かとの意見が提出され、白熱した討論が行われた。
-------

とのことですが、これは『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文館、2019)に含まれていたか、その延長線上の議論ですね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b475200.html

そして、亀田氏の発表については、

-------
 シンポジウム2日目には亀田俊和(台湾大学)が「『太平記』に見る中国故事の引用」という報告を行った。『太平記』の特色として、中国故事の大量の引用が挙げられる。国文学では古くから注目され、研究が積み重ねられてきた。しかし、出典はどの作品かという点に関心が集中し、引用の意図などの考察は少ないと亀田は批判する。亀田報告は『太平記』において本筋の話を遮ってまで延々と中国故事を紹介する長文記事を「大規模引用」と名付け、その分布傾向や引用方針の変化を分析した。そして大規模引用、特に政道批判型の大規模引用が巻を追うごとに増加する傾向があると指摘した。さらに大規模引用が観応の擾乱を叙述する巻でピークに達して、日本の南北朝史との対応関係も複雑でひねったものになることに着目し、一見無関係に見える故事を引用するという“道草”によって読者の興味関心を引くという逆説的な演出があったのではないかと論じた。質疑では、中世の日本人がどのようにして漢籍を学んだかという問題も視野に入れる必要があり、幼学書の研究も参照すべきではないかとの意見が提出された。他にも、混沌とした『太平記』の叙述に対して予定調和を排したものとして積極的・肯定的な評価を与えることはできないかなど、興味深い意見が寄せられた。
-------

とのことですが、「一見無関係に見える故事を引用するという“道草”によって読者の興味関心を引くという逆説的な演出」との指摘は興味深いですね。
ただ、「読者」はそれでよいとしても、『太平記』が語られるのを聞いた聴衆にとってはどうだったのか。
「大規模引用」を聞いて理解できる人は当時としてもごく少数だったはずで、『太平記』を語る場合、演者は「大規模引用」など殆ど省略してしまったのではないか、という感じもします。
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和田琢磨氏「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」

2020-11-13 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月13日(金)13時12分43秒

今川了俊の晩年の著作活動の活発さは驚異的で、川添著でも230頁から269頁まで延々と解説が続きますが、『難太平記』に関する記述は前三回の投稿で紹介した六頁分ほどです。
川添氏の古典的研究は今でも新鮮ですが、『難太平記』に関する最近の研究状況を概観するには和田琢磨氏(早稲田大学教授)の「今川了俊のいう『太平記』の「作者」:『難太平記』の構成・思想の検討を通して」(『日本文学』57巻3号、2008)という論文が便利ですね。
この論文はリンク先からPDFで読めますが、全体の構成は、

-------
一、はじめに
二、難太平記の構成
三、了俊の思想
四、恵鎮と玄恵─了俊の認識─
五、「作者は宮方深重の者」の解釈
六、むすび

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/3/57_KJ00009521771/_article/-char/ja/

となっています。
第一節には、

-------
 『難太平記』の研究は、右の記事(以下、「六波羅合戦記事」と称する)を中心に進められてきた。 それは、六波羅合戦記事が『太平記』の作者(作者圏の中心人物を示す場合がある。以下同)・成立に関する貴重な情報を具体的に伝える唯一の資料であるため、『太平記』研究の基礎資料とされてきたからである。
-------

とありますが(p52)、「唯一の資料であるため」に付された注(2)を見ると、近世の『太平記秘伝理尽鈔』には『太平記』の作者・成立に関する記述があるものの、それは『難太平記』の影響を受けている可能性があることが指摘されています。
また、第二節の冒頭に、

-------
 研究史を整理していくと、『難太平記』全体を見渡した論が少ないことに気づかされる。 管見に入った限りでは、寺田弘氏の論を筆頭に、武田昌憲氏・市沢哲氏が作品全体に目を向け検討しているが、それでもまだ応永の乱に関する記事を持つ後半部については、考察の余地が残されているようである。そこで本節では、『難太平記』を政道批判の書として読むべきだという桜井英治氏の提言を踏まえた上で、『難太平記』全体の中での六波羅合戦記事の位置を明らかにすることを目指したい。
-------

とありますが(p53)、「『難太平記』全体を見渡した論が少ないこと」は、確かに『難太平記』の俄か勉強を始めたばかりの私も気になっている点です。
なお、「『難太平記』を政道批判の書として読むべきだという桜井英治氏の提言」は、注(8)をみると『室町人の精神』(講談社、2001)に出ていて、全般的に和田氏は桜井氏の影響を強く受けておられるようです。
ついで、『太平記』の基本的性格については、

-------
『太平記』を足利政権の管理下で成立した公的な史書と認識する了俊が、その『太平記』について言及する最初において、『太平記』の間違いの具体例として六波羅合戦の記事を引いている点に注意したい。足利将軍家にとって最も重要な事件についてさえも間違えがあるとすることによって、以下に指摘・批判する『太平記』に関する自説の信憑性を増そうとする意図が感じられるからである。
-------

とあり(p54)、「公的な史書と認識する了俊が」に付された注(11)を見ると、

-------
(11) 加美宏氏「『難太平記』─『太平記』の批判と「読み」」(『太平記享受史論考』桜楓社、一九八五年。初出一九八四年)参照。
-------

とのことで、和田氏も『太平記』が室町幕府の公的な史書であるとの立場ですね。
この点は、「公的史書である『太平記』には間違いがあるという了俊の主張」(p55)、「『難太平記』所載の「作者」情報を簡潔にまとめると、①了俊は、「近代」書き継ぎ後も作者圏は足利将軍家周辺にあり将軍家が管理していると考えていた」(p57)、そして「「かの」「だに」という言葉からは、以下に語られる今川家の忠節を保証する、足利将軍家の公的史書と信じる『太平記』の作者を重んじる了俊の姿勢が感じ取れる」(p59)という具合いに何度か繰り返されます。
細かいことを言うと、和田氏は『太平記』が公的な史書だと了俊が「主張」しているだけ、即ち客観的に『太平記』が公的な史書であるか否かとは別問題、とされているようにも読めない訳ではありませんが、まあ、客観的にも公的な史書なのだ、と考えるのが和田説なんでしょうね。
さて、私がしつこく検討してきた「降参」については、

-------
 ここで論旨を明確にするために、以上述べてきたことを再度まとめ直しておこう。 A~Cには、足利将軍家の絶対性と、将軍家と今川家の関係を中心とした系譜が語られている。そして、Dで、足利家が天下を取ることが運命づけられた存在であることが再確認され、六波羅合戦も神仏に保証されていた事件であることが述べられている。それを受け、Eでは、それにもかかわらず『太平記』は六波羅合戦で尊氏が「降参」したと間違っていることを批判して、公的史書である『太平記』には間違いがあるという了俊の主張は、客観的事実であることを印象付けようとしている。
-------

とあり(p55)、「降参」に付された注(15)を見ると、

-------
(15)この記事は現存『太平記』にはない。了俊が読んだ本にこの記事があったのか、了俊が読み違えたのか、不明である。
-------

とのことなので、「降参」については和田氏には特別の意見はないようですね。
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その3)

2020-11-12 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月12日(木)11時41分32秒

『難太平記』は著者が子孫以外の披見を禁じ、本来は外部への流出が予定されていなかった秘密の書ですが、兵藤裕己氏はそうした特性を持つ『難太平記』の表現を素直に受けとめて独自の前提を形成し、その前提をゴリゴリと演繹的に『太平記』の世界に押し込んで行きます。
これに対し、川添昭二氏は『太平記』の内容を帰納的に、例えばそれが「宮方深重」の内容であるかを第一部・第二部・第三部ごとに分析し、第一部はともかく全体的にはとても「宮方深重」とは言えないな、という結論を出して、そこから『難太平記』の「宮方深重」という語句が、文字通りには受け取れない特異な表現である可能性を探って行きます。
川添氏の方法であれば、後続の研究者は、例えば第二部・第三部にも「宮方深重」を思わせる表現が多々あるではないか、といった形で川添氏の分析が正しいか否かを検証することができます。
兵藤氏の方法は一見極めて論理的で、歴史研究者の発想になじみやすいのかもしれませんが、出発点の『難太平記』は扱いが極めて難しい史料であり、『太平記』の叙述の帰納的分析を通じて『難太平記』の曖昧な語句を慎重に解釈すべきではなかろうか、と私は考えます。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9fcca15b7d2136c654f634d3edd676e

さて、川添著の続きです。(p235以下)

-------
 次に、法勝寺(京都市)の恵鎮上人が三十余巻の『太平記』を足利直義のもとに持参し、直義はこれを玄慧法印に読ませた、という了俊の記述は、『太平記』の作者と成立とに関して重要な事実を提供する。現存四十巻本の巻二十七「左兵衛督欲被誅師直事 付師直打囲将軍屋形事 并上杉畠山死罪事」に直義の死を記しているから、恵鎮持参の『太平記』は現存本とは違ったものであったか、あるいは桜井好朗氏が言われるように、「三十余巻」というのが了俊の思い違いか誤写である、ということになる。ともあれ、この記事から、玄慧を監修者として小島法師をはじめ多くの作者が草案を持ち寄り、足利直義の監督下に討議を重ねた、という意味を読みとることは許されよう(岩波、日本古典文学大系三四『太平記』一解説一一ページ)。
-------

「恵鎮持参の『太平記』は現存本とは違ったものであったか」は変な表現で、違っているに決まっていますね。
直義が自分の死を記した『太平記』を読めるはずはありません。
また、恵鎮持参の『太平記』は現在の『太平記』より巻数が多く、実際に「三十余巻」あったのだ、という可能性も論理的には考えられますが、まあ、これは「了俊の思い違いか誤写」であり、おそらく「二十余巻」だったのでしょうね。
先に『アナホリッシュ国文学』の兵藤・呉座対談を検討した際には引用しませんでしたが、同対談の小見出しの九番目、「『太平記』成立の三段階」で、兵藤氏が「「三十余巻」は、たぶん「二十余巻」の誤写と思われます。「二」と「三」の書き間違いは写本ではよくありますが、歴史をやっている方も、そのへんはよくご存じかと思います」と発言し(p27)、呉座氏も「はい」と肯定しています。
さて、川添氏は岩波古典文学大系『太平記』の後藤丹治・釜田喜三郎氏による「解説」を参照した上で「ともあれ、この記事から、玄慧を監修者として小島法師をはじめ多くの作者が草案を持ち寄り、足利直義の監督下に討議を重ねた、という意味を読みとることは許されよう」と言われますが、この点は疑問です。
少なくとも『難太平記』には、

-------
昔等持寺にて。法勝寺の恵珍上人。此記を先三十余巻持参し給ひて。錦小路殿の御目にかけられしを。玄恵法印によませられしに。おほく悪とも誤も有しかば。仰に云。是は且見及ぶ中にも以の外ちがひめ多し。追て書入。又切出すべき事等有。其程不可有外聞有之由仰有し。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377

とあるだけなので、同書から分かるのは恵鎮が「原太平記」を持参し、玄慧は直義に命じられて検閲を試みたという事実だけですね。
『洞院公定日記』に出てくる小島法師は『難太平記』とは関係はなく、「玄慧を監修者として小島法師をはじめ多くの作者が草案を持ち寄り、足利直義の監督下に討議を重ねた」には相当量の想像がミックスされています。
ま、この点は後で改めて検討することとし、川添著に戻ります。(p236)

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 更に了俊は、右の記事に続き『太平記』の増補過程について「後に中絶也、近代重て書続けり」とのべている。了俊の『難太平記』にいう「細川相模守御不審の時云々」の事件は、現存本三十六「清氏反逆 付相模守子息元服事」に拠っているから、右の書続本は、およそ応安四-五年の間に成立したといわれる現存本四十巻本を指すものであろう。即ち、了俊の見たこの『太平記』は、直義披見本を増補したものであった。
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「細川相模守御不審の時云々」とは康安元年(1361)九月、佐々木導誉と対立した執事の細川清氏が、導誉の陰謀に乗せられた足利義詮の軽率な判断により失脚を余儀なくされ、若狭に逃亡後、南朝方に転じてしまった、という大事件です。
『難太平記』によれば、この時、今川了俊の父・範国は、細川清氏と親しい了俊を清氏のもとに送って差し違えさせる、という物騒な提案を義詮にしたのだそうですね。
結果的に息子を犠牲にするこの提案は実現することはなかったものの、了俊自身もこれが結構な名案であり、こんな良い提案がされたことを何で『太平記』は書かないのだろう、などと淡々と記しています。
ま、この記述があるので、了俊が現在の巻三十六とほぼ同一内容の『太平記』を見ていたことは確実ですが、「了俊の見たこの『太平記』は、直義披見本を増補したものであった」かどうかは議論の余地があります。
この点は改めて論じます。

現代語訳『難太平記』(『芝蘭堂』サイト内)
細川清氏のこと・その1、その2
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki16.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki17.html
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その2)

2020-11-11 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月11日(水)09時53分28秒

繰り返しになりますが、『難太平記』は国会図書館デジタルコレクションで読めます。
リンク先ページの「コマ番号」に「351」を入れると『難太平記』の最初のページが出てきます。

『群書類従. 第拾四輯』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783

また、現代語訳は『芝蘭堂』サイトが大変分かりやすく、参考になります。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/index.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html

さて、川添昭二氏『今川了俊』の続きです。(p232以下)

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 応永の乱後、上京してからの了俊の事蹟は、歌道と仏道とそして子孫への教訓に明けくれるが、それは一連の述作活動を通してしか知ることができない。以下、諸著の解題をつなぎ通すことによって晩年の事蹟にふれて行こう。
 応永九年(一四〇二)二月、了俊は『難太平記』をあらわした。『群書類従』第十三輯には瀬名貞如本を収めるが、『新校群書類従』第十七巻は瀬名本を書陵部本で校合したものである(全二十三条)。この書は、後人加筆の了俊の年齢記載「于時〔ときに〕七十八歳」の箇所を除き、了俊の著作として疑う余地はない。著作の目的は「をのれが親祖はいかなりし者、いかばかりにて世に有けるぞとしるべきなり」という立場から、父範国から聞いた今川家に関する所伝をのべ、特に応永の乱に際しての了俊自身の立場がいかなるものであったかを子孫に書き残そうとしたもので、子孫以外の他見を戒めているのもそのためである。総じて真実の今川家の歴史を子孫に伝えようとする意欲が行間に溢れている。
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著作の目的は一番最初に出てきますね。
この段での山名時氏の教訓はなかなか深く重いものがあります。

http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki01.html

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 このため、父・兄および一族の武功・忠節が『太平記』に書いてなかったり、記してあっても極めて不十分であることを「無念」とし、正確かつ十分に記入すべきであると再三強調している。足利将軍に対する父・兄および一族の忠誠が広く世間に確認されることは、単にその面目=名誉にかかわるばかりでなく、一族の繁栄をも保証することになる。了俊自身「此太平記事、あやまりも空ごともおほきにや」「此記は十が八九はつくり事にや」と『太平記』の性格がフィクションを基調とする文学作品であることを認めながら、しかもなおかつ今川一門の功績事実の記述を、この異質の場所にもちこもうと深く執着しているのは、一にかかってここに原因がある。この種の、記録としての正確さを期待する精神が数多く『太平記』に集中し、同書を武功羅列の軍忠状の世界に引きこもうとする傾向が強いことは、『太平記』評価の際忘れてはならない精神風土の問題である。
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「無念」、「此太平記事、あやまりも空ごともおほきにや」、「此記は十が八九はつくり事にや」という箇所は原文を紹介済みです。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2bdfb8e70f1853746d3cf35e2a023377

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 同書はこのように、一門の武功顕彰の立場から、たまたま『太平記』に筆を及ぼしたのであるが、後人命名の書名とも相まって、あたかも『太平記』批判を主目的とする書物であるかのように喧伝されている。しかし、了俊の同書述作の主目的がそこになかったにせよ、その言及箇所は、現在に至るまで『太平記』研究の基本的な問題である作者論・成立論に種々の問題を投げかけている。『難太平記』についてはいままで随所でふれてきたので、ここではその問題だけにふれておこう。
 先ず、了俊が本書で『太平記』に関し、「此記の作者ハ、宮方深重〔しんちょう〕の者にて」(因みに、『禰寝文書』『入来院家文書』『斑島文書』等の了俊書状に「御方深重の人々」という用語がみえる)と書いたことが、『太平記』の作者を、宮方=南朝の立場に立つ者、という半ば定説化した作者論を形作らせた。だがかりに、現存四十巻本『太平記』の構成を、一部(巻一-巻十二)・二部(巻十三-巻二十一)・三部(巻二十二欠巻、巻二十三-巻四十)に分けると、事実上一部の辺は「宮方深重」の者の手になるとみてもよいが、二部ではその傾向が薄らぎ、殊に第三部になるとその気配はない。近来、了俊のこの記述の箇所を、『太平記』が「宮方深重の者」が書いたかと思われるくらいに「無案内」であり、「尾籠のいたり」であると責めているだけである、と解する人もある(桜井好朗「太平記の社会的基盤」『日本歴史』七五号、同「太平記論」『文学』二五巻六号、同「難太平記論」『日本歴史』一三二号)。
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川添著は昭和三十九年(1964)に刊行されていますが、当時は『太平記』の作者を「宮方=南朝の立場に立つ者」とする学説が「半ば定説化」していて、それに桜井好朗氏あたりが異論を唱えていた訳ですね。
現在では『太平記』の作者が「宮方=南朝の立場に立つ者」どころか、『太平記』そのものが室町幕府の「正史」だと説く兵藤裕己説が多くの歴史研究者に支持されていて、文字通り隔世の感があります。
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今川了俊にとって望ましかった『太平記』(その1)

2020-11-09 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 9日(月)09時36分48秒

ここで視点を変えて、今川了俊にとってどのような『太平記』が望ましかったのかを、『難太平記』などを素材に探って行きたいと思います。
そもそも今川了俊とは何者かが一番最初に問題になりますが、これは私には大きすぎる課題なので、川添昭二氏の『今川了俊』(吉川弘文館人物叢書、1964)などを参照していただきたいと思います。
同書の構成は、

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はしがき
第一 今川氏一門
第二 その父─今川範国
第三 九州探題となるまで
第四 九州探題として
第五 九州探題解任以後─晩年─
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となっていますが、その内容を「はしがき」から少し引用すると、

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 今川了俊(俗名「貞世」)は、南北朝時代の後半二十五年間を、北朝方の九州探題として、九州の南朝勢力を制圧し、室町幕府の基礎を築いた足利一門の武将である。応永二年(一三九五)讒にあって帰東し、没するまでの約二十年間の隠遁生活を、主として歌論書の述作に捧げ、冷泉歌風の宣揚と連歌指導につとめた歌人でもあった。
 性格は慎重で、いわゆる遠謀深慮であり、軍略用兵に秀で、教養は多方面にわたり、雄勁な書を書いた。まさに当代第一級の人物である。その指導的性格と相まち、啓蒙的エンサイクロペディストとして多角的な活動をし、多くの業績を残した。彼が九州に下ってきたことは、文化施設の移動ともいうべき観があり、南北朝時代の政治・軍事の問題だけではなく、中世の中央文化と地方文化の関係についても種々の興味ある問題を提供している。中世動乱の時代がえらんだこの人物の、誠実で多様な活動の全貌を、総合的・統一的に叙述したいというのが、本書のねらいである。
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といった具合です。
軍人にして「啓蒙的エンサイクロペディスト」という存在は日本史では本当に稀有ですが、著者の川添氏は歴史学だけでなく文学にも本当に詳しくて、ご自身が「啓蒙的エンサイクロペディスト」の趣がありますね。
昭二というお名前は、たぶん昭和二年生まれだからなのでしょうが、『今川了俊』は執筆時に著者がまだ三十代だったとは思えない円熟した筆致で描かれています。

川添昭二(1927~2018)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%B7%BB%E6%98%AD%E4%BA%8C

さて、『難太平記』はなかなか扱いが難しい史料であり、その解釈に当たっては成立事情を慎重に考慮する必要がありそうなので、川添著から参考になりそうな部分を丁寧に紹介したいと思います。
「第五 九州探題解任以後─晩年─」の第三節「述作活動」から引用します。(p230以下)

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 冷泉為尹〔ためまさ〕が、参議に在任中、すでに出家していた父の為邦〔ためくに〕や了俊とともに、東山に花を見に行き、慶運の子慶孝が黒谷にいたのを訪ねて、ともに歌を詠んだというのは(『正徹物語』)、了俊が『難太平記』を書き終わったころであろう。長い年月を経て、武将・歌人了俊の、武将の外皮は破れ去ったが、歌人了俊の真実・裸形の数寄生活が始まったのである。当時の歌壇は、二条為右の死を契機として、為秀の孫為尹を中心に、冷泉家復興の気運が顕著になっていた。為尹の支持後援と、歌・連歌学びの後進に対する指導は、了俊に課せられた責務であり、了俊の徒らな老残を許さなかった。完全な政治的敗北を代償に、老いの晩年を一途で旺盛な述作活動に燃焼させることとなった。
 了俊が正徹をつれて石山寺に詣でたのも、応永の乱の宥免のあと余り遠くないころのことであったろう(『草根集』巻三)。御堂の正面の柱に「はるかなる南の海の補陀らくの石の山にも跡はたれけり」という歌を書きつけているが、ここには、応永の乱の生々しい、そして苦々しい記憶がまださめ切らぬうちに書かれた『難太平記』に見られるような「人は其身の位にしたがひて忠を致すべき事なりけり、身の程より忠功の過たるは、かならず恨の可出来かと思ふ故也」という、臍をかむような敗北感は見られない。この歌は勿論、平安末・鎌倉時代のような熱狂的な補陀落山信仰を表明したものではなく、政治的な世界を捨離した隠者の、静かな諦念と仏に近づこうとする祈りをあらわすものである。
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今川了俊の「完全な政治的敗北」の内容は川添著を見ていただきたいと思います。
ウィキペディアにもそれなりに詳しい説明がありますね。

今川貞世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E8%B2%9E%E4%B8%96
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