投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月30日(金)20時58分58秒
>筆綾丸さん
律宗の悪口を言ってしまいましたが、禅宗も当時の新興宗教であり、怪しい人が大勢いますね。
兀庵普寧が蘭渓道隆に批判的だったことは高橋氏もp190で言及されていますが、蘭渓道隆の鎌倉地震後のエピソードは本当に胡散臭い話です。
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正嘉元年(一二五七)八月二十三日、鎌倉は大地震に襲われた。菅原昭英氏によれば、その翌日に、蘭渓は地震にちなむ説法をおこなったと見られるという(「蘭渓道隆の夢語り」)。説法の内容は、「もし人が悟りに達せば、大地はことごとく震動する。昨夜の地震は、私の杖が悟りを開いたことによるもので、日本諸国の山川草木は喜びにみちて美しくかがやき、つられた八幡菩薩と若宮王子が談合し、これ以後は戦乱を起こすことはやめて平和が訪れるようにしようと決めた」という不思議なものであったが(『大覚禅師語録 巻上』)、菅原氏によればこれは一種の夢語りであり、地震を平和の予告とすることで、鎌倉住民の不安を払拭し、人心を落ち着かせる役割を果たしたという。蘭渓が説法によって地震による動揺を抑えようとした対象には、前年に蘭渓により受戒して出家したばかりの時頼も、もちろん含まれていたであろう。(p183~184)
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東京大学史料編纂所名誉教授の菅原昭英氏はご自身が狛江市にある曹洞宗の泉龍寺というお寺さんのご住職で、宗派は違っても名僧の悪口は言いにくい立場の方ですが、それにしてもずいぶん好意的な解釈をされていますね。
ま、宗派に関係ない立場から言えば、蘭渓道隆のこの説法はご都合主義そのものの適当な作り話ですね。
当時これを聞いた「鎌倉住民」の中には、不安を払拭してくれてありがとう、人心を落ち着かせてくれてありがとう、と感謝した人がどれほどいたのか、日蓮さんあたりにインタビューしてみたいところです。
こういう浅薄なところが、後に時頼の信頼を失う原因にもなったんじゃないですかね。
泉龍寺
泉龍寺・仏教文庫
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
連署重時のこと 2013/08/30(金) 20:01:25
小太郎さん
仰るとおり、『関東往還記』は胡散臭い代物ですね。
時頼を離れて恐縮ですが、森幸夫氏の『北条重時』を眺めてみました。
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足利泰氏が所領下総埴生庄(千葉県成田市など)で突然の出家を遂げている・・・(133頁)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B4%E7%94%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%88%90%E7%94%B0%E5%B8%82)
埴生(はぶ)とあり、これは、「はにゅう」ではなく「はぶ」と読むようですね。
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徳治三年(一三〇八)八月、幕府奉行人平(紀)政連は得宗北条貞時の酒浸り生活を諫めるため・・・(179頁)
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森氏は、佐藤(進一)説を認めていないようですね。
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ただこの『吾妻鏡』の記事は極楽寺の地について考える上で重要である。それは時宗が「鎌倉御亭」から呼び出されて極楽寺山庄に参上し、小笠懸を射た後「直に鎌倉に帰参」したと書かれているからである。ここから極楽寺が鎌倉内でなかったことがわかる。とすれば極楽寺はどのような地であったのか。それは少し西方の聖福寺が大庭御厨(神奈川県藤沢・茅ヶ崎市など)内であったことから判断して(『吾妻鏡』建長六年四月十八日乗)、同御厨内の地と考えるのが自然であろう。(155頁~)
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http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/122412.html
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/123512.html
元仁元年12月26日条と嘉禎元年12月20日条の四角四境祭を考えると、極楽寺の地を大庭御厨内とするのには、やや無理があるような気がします。
重時に、
あふまでの人の心のかたいとに なみだをかけてよるぞかなしき
というのがあるそうですが(180頁)、定家風の佳い歌ですね。
小太郎さん
仰るとおり、『関東往還記』は胡散臭い代物ですね。
時頼を離れて恐縮ですが、森幸夫氏の『北条重時』を眺めてみました。
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足利泰氏が所領下総埴生庄(千葉県成田市など)で突然の出家を遂げている・・・(133頁)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B4%E7%94%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%88%90%E7%94%B0%E5%B8%82)
埴生(はぶ)とあり、これは、「はにゅう」ではなく「はぶ」と読むようですね。
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徳治三年(一三〇八)八月、幕府奉行人平(紀)政連は得宗北条貞時の酒浸り生活を諫めるため・・・(179頁)
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森氏は、佐藤(進一)説を認めていないようですね。
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ただこの『吾妻鏡』の記事は極楽寺の地について考える上で重要である。それは時宗が「鎌倉御亭」から呼び出されて極楽寺山庄に参上し、小笠懸を射た後「直に鎌倉に帰参」したと書かれているからである。ここから極楽寺が鎌倉内でなかったことがわかる。とすれば極楽寺はどのような地であったのか。それは少し西方の聖福寺が大庭御厨(神奈川県藤沢・茅ヶ崎市など)内であったことから判断して(『吾妻鏡』建長六年四月十八日乗)、同御厨内の地と考えるのが自然であろう。(155頁~)
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http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/122412.html
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/123512.html
元仁元年12月26日条と嘉禎元年12月20日条の四角四境祭を考えると、極楽寺の地を大庭御厨内とするのには、やや無理があるような気がします。
重時に、
あふまでの人の心のかたいとに なみだをかけてよるぞかなしき
というのがあるそうですが(180頁)、定家風の佳い歌ですね。