学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

蘭渓道隆の適当な夢語り

2013-08-30 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月30日(金)20時58分58秒

>筆綾丸さん
律宗の悪口を言ってしまいましたが、禅宗も当時の新興宗教であり、怪しい人が大勢いますね。
兀庵普寧が蘭渓道隆に批判的だったことは高橋氏もp190で言及されていますが、蘭渓道隆の鎌倉地震後のエピソードは本当に胡散臭い話です。

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 正嘉元年(一二五七)八月二十三日、鎌倉は大地震に襲われた。菅原昭英氏によれば、その翌日に、蘭渓は地震にちなむ説法をおこなったと見られるという(「蘭渓道隆の夢語り」)。説法の内容は、「もし人が悟りに達せば、大地はことごとく震動する。昨夜の地震は、私の杖が悟りを開いたことによるもので、日本諸国の山川草木は喜びにみちて美しくかがやき、つられた八幡菩薩と若宮王子が談合し、これ以後は戦乱を起こすことはやめて平和が訪れるようにしようと決めた」という不思議なものであったが(『大覚禅師語録 巻上』)、菅原氏によればこれは一種の夢語りであり、地震を平和の予告とすることで、鎌倉住民の不安を払拭し、人心を落ち着かせる役割を果たしたという。蘭渓が説法によって地震による動揺を抑えようとした対象には、前年に蘭渓により受戒して出家したばかりの時頼も、もちろん含まれていたであろう。(p183~184)
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東京大学史料編纂所名誉教授の菅原昭英氏はご自身が狛江市にある曹洞宗の泉龍寺というお寺さんのご住職で、宗派は違っても名僧の悪口は言いにくい立場の方ですが、それにしてもずいぶん好意的な解釈をされていますね。
ま、宗派に関係ない立場から言えば、蘭渓道隆のこの説法はご都合主義そのものの適当な作り話ですね。
当時これを聞いた「鎌倉住民」の中には、不安を払拭してくれてありがとう、人心を落ち着かせてくれてありがとう、と感謝した人がどれほどいたのか、日蓮さんあたりにインタビューしてみたいところです。
こういう浅薄なところが、後に時頼の信頼を失う原因にもなったんじゃないですかね。

泉龍寺
泉龍寺・仏教文庫

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

連署重時のこと 2013/08/30(金) 20:01:25
小太郎さん
仰るとおり、『関東往還記』は胡散臭い代物ですね。

時頼を離れて恐縮ですが、森幸夫氏の『北条重時』を眺めてみました。
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足利泰氏が所領下総埴生庄(千葉県成田市など)で突然の出家を遂げている・・・(133頁)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%B4%E7%94%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%88%90%E7%94%B0%E5%B8%82)
埴生(はぶ)とあり、これは、「はにゅう」ではなく「はぶ」と読むようですね。

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徳治三年(一三〇八)八月、幕府奉行人平(紀)政連は得宗北条貞時の酒浸り生活を諫めるため・・・(179頁)
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森氏は、佐藤(進一)説を認めていないようですね。

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ただこの『吾妻鏡』の記事は極楽寺の地について考える上で重要である。それは時宗が「鎌倉御亭」から呼び出されて極楽寺山庄に参上し、小笠懸を射た後「直に鎌倉に帰参」したと書かれているからである。ここから極楽寺が鎌倉内でなかったことがわかる。とすれば極楽寺はどのような地であったのか。それは少し西方の聖福寺が大庭御厨(神奈川県藤沢・茅ヶ崎市など)内であったことから判断して(『吾妻鏡』建長六年四月十八日乗)、同御厨内の地と考えるのが自然であろう。(155頁~)
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http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/122412.html
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/123512.html
元仁元年12月26日条と嘉禎元年12月20日条の四角四境祭を考えると、極楽寺の地を大庭御厨内とするのには、やや無理があるような気がします。

重時に、
あふまでの人の心のかたいとに なみだをかけてよるぞかなしき
というのがあるそうですが(180頁)、定家風の佳い歌ですね。
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律宗マジック

2013-08-29 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月29日(木)22時21分31秒

>筆綾丸さん
律宗側の史料が描く時頼像と禅宗側の史料が描く時頼像は、とても同一人物とは思えないほどの相違がありますね。
どちらが信頼できるかとなると、ご指摘のように時頼が基本的には「禅の人」であることに加え、草創期の律宗には非常に胡散臭いところがあるので、やはり禅宗側ではないかと思います。
律宗が驚くべきスピードで勢力を拡大した要因のひとつは叡尊が次々と起こす舎利増殖の奇跡ですが、まあ、これは叡尊本人または側近が関与しているに違いないマジックですね。
高橋慎一朗氏は『関東往還記』について「多少の誇張もあるかもしれない」と書かれていますが、この種の手品を平気でやれる図太い教団の記録ですから、時頼関係の部分は8割引きぐらいで考えるとちょうど良いような感じがします。

細川涼一氏「王権と尼寺」

ま、それにしても時頼が律宗にも好意的だったことは間違いありませんが、これも時頼個人の資質・趣向というより、院政期の天皇・上皇の仏教に対する接し方を直接の参考とした統治者としての自覚の反映ではないかと思います。

>最明寺
浄光明寺は北京律の系統で、現在も真言宗泉涌寺派ですね。
同音の西明寺の場合、天台宗(湖東三山)、真言宗(益子)等、宗派はバラバラなので、「明」は特定の宗派に限られる文字ではなさそうですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「禅の人」 2013/08/29(木) 15:26:59
小太郎さん
私には、最明寺という名と禅宗との関係が、依然としてよくわかりません。寺の名の由来について、何か言及してくれるのではないか、と淡い期待をしていたのですが。

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時頼にはまた、信濃善光寺への信仰もうかがわれる。善光寺は、阿弥陀如来を本尊とする浄土信仰の中心であり、「東国の守り本尊」として東国武士の信仰を広く集めていた。弘長三年(一二六三)三月十七日、時頼は信濃国深田郷の田地を買得して善光寺に寄進し、不断経衆と不断念仏衆への手当とさせている(『吾妻鏡』)。
こうした時頼の善光寺信仰が背景となっていると思われるのが、神奈川県大井町の最明寺の事例である。最明寺は、鎌倉時代初めに御家人出身で善光寺信仰を広めた源延の建立とされ、善光寺式阿弥陀三尊などを伝えている。のちに時頼が堂・所領を寄進して最明寺と名づけたとも伝えられ、南北朝期作の木造時頼像が残されている(略)。時頼が、善光寺の阿弥陀如来を信仰したことと、善光寺信仰の寺が結びついて、時頼創建の寺と同名の「最明寺」という名が残されたのである。(202頁)

七月十七日、将軍宗尊親王が山ノ内の最明寺を参詣した。時頼が出家の準備を内々に進めていたので、この日の将軍参詣となったという(『吾妻鏡』)。つまり、時頼が出家に備えて建立したのが最明寺で、この日からさほど遠くない時期に、時頼の山ノ内の別荘に隣接して建てられたものである(『鎌倉廃寺事典』)。(152頁)

・・・時頼は最明寺で出家した。ときに、三十歳である。出家の戒師は蘭渓道隆、法名は「覚了房道崇」であった(『吾妻鏡』)。(154頁)
----------

最初の文からは、確実なことは言えず、また、出典も不明ですが、浄土宗の浄光明寺(扇ヶ谷)や光明寺(材木座)等の名称の類推から(200頁~)、最明寺は浄土宗に由来する名称のような気がします。もしそうならば、なぜ時頼は自分の寺に浄土宗風の名を用いたのか。
出家も禅宗系、悟達も禅宗系、遺偈も禅宗系と禅宗尽くしなので、時頼は基本的には禅の人のようですが、律宗をはじめ他宗派が熱病のように時々憑依するので、各宗派の長老達は薄氷を踏むような思いで一喜一憂(迷惑)したのではあるまいか。そんな気がします。もし基督教が伝来していたら、これにも入れあげたであろう、とまでは思わないのですが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

禅の人 2013/08/29(木) 15:26:59
小太郎さん
私には、最明寺という名と禅宗との関係が、依然としてよくわかりません。寺の名の由来について、何か言及してくれるのではないか、と淡い期待をしていたのですが。

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時頼にはまた、信濃善光寺への信仰もうかがわれる。善光寺は、阿弥陀如来を本尊とする浄土信仰の中心であり、「東国の守り本尊」として東国武士の信仰を広く集めていた。弘長三年(一二六三)三月十七日、時頼は信濃国深田郷の田地を買得して善光寺に寄進し、不断経衆と不断念仏衆への手当とさせている(『吾妻鏡』)。
こうした時頼の善光寺信仰が背景となっていると思われるのが、神奈川県大井町の最明寺の事例である。最明寺は、鎌倉時代初めに御家人出身で善光寺信仰を広めた源延の建立とされ、善光寺式阿弥陀三尊などを伝えている。のちに時頼が堂・所領を寄進して最明寺と名づけたとも伝えられ、南北朝期作の木造時頼像が残されている(略)。時頼が、善光寺の阿弥陀如来を信仰したことと、善光寺信仰の寺が結びついて、時頼創建の寺と同名の「最明寺」という名が残されたのである。(202頁)

七月十七日、将軍宗尊親王が山ノ内の最明寺を参詣した。時頼が出家の準備を内々に進めていたので、この日の将軍参詣となったという(『吾妻鏡』)。つまり、時頼が出家に備えて建立したのが最明寺で、この日からさほど遠くない時期に、時頼の山ノ内の別荘に隣接して建てられたものである(『鎌倉廃寺事典』)。(152頁)

・・・時頼は最明寺で出家した。ときに、三十歳である。出家の戒師は蘭渓道隆、法名は「覚了房道崇」であった(『吾妻鏡』)。(154頁)
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最初の文からは、確実なことは言えず、また、出典も不明ですが、浄土宗の浄光明寺(扇ヶ谷)や光明寺(材木座)等の名称の類推から(200頁~)、最明寺は浄土宗に由来する名称のような気がします。もしそうならば、なぜ時頼は自分の寺に浄土宗風の名を用いたのか。
出家も禅宗系、悟達も禅宗系、遺偈も禅宗系と禅宗尽くしなので、時頼は基本的には禅の人のようですが、律宗をはじめ他宗派が熱病のように時々憑依するので、各宗派の長老達は薄氷を踏むような思いで一喜一憂(迷惑)したのではあるまいか。そんな気がします。もし基督教が伝来していたら、これにも入れあげたであろう、とまでは思わないのですが。

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時頼をめぐるシーソーゲーム

2013-08-28 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月28日(水)15時52分0秒

>筆綾丸さん
『北条時頼』巻末の「略年譜」を眺めていて、時頼が兀庵普寧の指導により悟りを得たとされる弘長二年(1262)は時頼と叡尊との関係も極めて濃厚な時期であることに少し奇妙な印象を受けました。
この年は『吾妻鏡』が欠落していて時頼の動向が分かりにくいのですが、律宗の立場からは時頼が異様なまでに叡尊に傾倒していたことになっていますね。

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 弘長二年二月四日、六十二歳の叡尊は、弟子の定舜・盛遍・性如・性海らを従えて鎌倉へ向けて出発した。以後の一行の様子は、性海の『関東往還記』に詳しいので、これによって時頼との関係を中心に記していくことにする。(p206)

 その後体調回復した時頼は、六月十三日に叡尊のもとを訪れた。「おいでになるのは難しいということでしたのに、今日のご訪問はどうしたことですか」と叡尊が尋ねると、時頼は「自分は、ありがたくも不肖の身で間違って幕府の実権を握ることになりました。戦々兢々とする思いは、まるで薄氷を踏むようなものです。そのため、わずかの距離の外出も容易ではなく、前回は私宅にお招きしました。しかし、よくよく考えてみれば、自分の安全ばかりを気にして参上しないのは、仏法を軽視するようなものです。前回のことを思い出しては、非常に後悔しております。地位や名誉のために何度か命を落とすほどの災いに遭いながら、仏法のためには少しも命を捨てようとはしてきませんでした。愚かなことこの上もありません。そこで、すべてをなげうって参上したのです」と言った。多少の誇張もあるかもしれないが、執権の職を去った後も、時頼が身の危険を感じるような政治的緊張状態が続いていたようである。(p209)

 こうしてみると、実にまめに、うるさいくらいに時頼が叡尊と連絡をとっていることがわかる。(p212)

 その後、叡尊が時頼に菩薩戒を授けたのがいつであったか、『関東往還記』が七月三十日条で終わっているため、不明である。ただし、結局叡尊は続く閏七月・八月も鎌倉に滞在することになり、『西大寺勅諡興正菩薩行実年譜』によれば、閏七月九日に鎌倉苑寺で聖徳太子開眼供養をおこなったことがわかる。時頼の再三の要請を断り切れなかったのであろう(和島芳男『叡尊・忍性』)。叡尊が鎌倉を発って西大寺へ帰り着いたのは、八月十五日であった(『感身学正記』)。
 西大寺に戻った叡尊に対して、十月五日付けの時頼の手紙が、十一月八日に届いた。内容は、いまだ叡尊が後嵯峨上皇のもとへ参上していないことを気遣い、『宗鏡録』と文殊菩薩の獅子のための彩色絵の具代を送る旨を知らせるものであった。(p213)
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高橋慎一朗氏は「多少の誇張もあるかもしれない」と書かれていますが、律宗という当時の新興宗教の記録をどこまで信頼できるのか、「多少の誇張」で済むのかは若干の疑問が残ります。

さて、時頼が悟りを得た時期はというと、前回投稿で引用したように、弘長二年十月十六日の朝ですね。
ということは、律宗側の史料では時頼が叡尊に絵具代がどうしたこうしたという細かい手紙を送った十月五日のわずか十一日後です。
この近接状況をどのように考えるべきなのか。
叡尊が鎌倉に滞在した半年の間、貴賤上下を巻き込んだ律宗の盛り上がり、殆ど熱病のような興奮状態を禅宗関係者がどのように眺めていたかを想像すると、まあ、そこは人間ですから、あまり良い感情は持ちようがなかったと思います。
とすると、十月に行われた兀庵普寧の時頼に対する教育的指導は、暫く叡尊に夢中になっていた時頼の頭が少し冷えた時期に、時頼を禅宗側に引き戻そうとした禅宗側の巻き返しの動きなのではないですかね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6895

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「心の傷」

2013-08-26 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月26日(月)20時49分38秒

>筆綾丸さん
『北条時頼』を読んでいて「もやもやした気持ち」になるのは、高橋慎一朗氏がいちいち時頼の心理分析をする点ですね。
例えば、宝治合戦に関し、高橋氏は

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 三浦泰村に和平の使者を派遣しながら、その直後に攻撃に転じた時頼の行動は、だまし討ちのようにも見え、後世の人々から非常に評判が悪い。(中略)
 実際には時頼が何とか全面的な合戦を回避しようとしていたのは本心であったと思われるし、先走ってしまった安達を押さえる力は当時の時頼にはなかったということであろう。逆に、いったん合戦が始まったのに躊躇していれば、安達を見殺しにするばかりか、三浦に味方する反時頼派(親頼経派)によって時頼自身が破滅する危険があったのである。時頼としては、しかたのない行動であったといえる。ただ、律儀で真面目な時頼にとって、心ならずも、誓約を破りだまし討ちにしたような結果となったことは、生涯にわたり強い心の傷となったであろうと想像される。(p80)
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という具合に、殺さなかったら殺される状況だったと丁寧に説明しているにもかかわらず、結論として「生涯にわたり強い心の傷となった」と言われる訳ですが、本当にそうなのか。
私は「武家の習い」の一言で解決したと思いますけどね。
時頼は私的なトラブルに巻き込まれた訳ではなく、伝統ある家、一族の代表として権力闘争を闘った訳で、過酷な武家の歴史を顧みれば、自己の行動の正当化は別に難しい話でもなんでもないと思います。

高橋氏の記述を辿ると、真面目な時頼は常に真剣に悩んで、結局37歳の若さでストレスにより早死にしました、みたいな感じになっていますが、良く分からないのは時頼の死と時頼が死の前年に「悟り」を得ていることとの関係です。

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 時頼は兀庵の指導により、弘長二年十月十六日の朝、悟りを得る。兀庵の「天下に道はただ一つであり、聖人の心もただ一つである」という助言を受けて、時頼は「森羅万象、山河大地のすべてが、自己とは区別ない一体のものだ」と語り、悟りの境地に達して全身から汗を流した。時頼は、「二十一年の間、朝夕望み続けてきたことを、この一瞬にすべて手に入れた」と感涙を浮かべ、九回礼拝した。兀庵は仏前に焼香して、時頼に法を嗣ぐ者と認めた(『東巌安禅師行実』)。
(中略)
 時頼は相当熱心に禅に帰依していたが、禅に何を求めていたかについては、諸説がある。近年は、禅に含まれる儒教的な教養(治世者の道徳)の習得が目的だったとする説が主流である(川添昭二『北条時宗』、村井章介『北条時宗と蒙古襲来』)。(中略)また、橋本雄氏は、時頼の禅の修行は、結果的に儒教的修養に役立ったが、自身の心の平安回復が本来の目的であったと主張する(「北条得宗家の禅宗信仰をめぐって」)。時頼の何事にも全力を注ぎこむ性格から考えて、儒教的教養と、精神の平安としての禅の悟りと、双方をともに求めていたのではなかろうか。そのなかでも、やはり心の平安を求める気持ちのほうがいくらかは勝っていたように感じられる。(p190~194)
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仮に「生涯にわたり強い心の傷」が続いたとしても、死の前年に「悟り」を得て「精神の平安」「心の平安」を確保したとすると、翌年の死亡はストレスや「心の傷」とは無関係の単なる病気じゃないですかね。
本人としては、「精神の平安」ばかりか「治世者の道徳」をマスターした以上、これからも元気一杯、国政の指導者として頑張ろうと思っていたのに、翌年、不運にも病気で死んじゃった、ということではないかと思います。
人生の最盛期に病気で死んでしまう人は現代にも多いし、まして医療レベルが格段に劣っていた中世では全く当たり前のことで、ストレスがどうのこうのと言うのは変じゃないですかね。
どうも高橋氏の描く時頼は、常に自分の内面を見つめて、「心の傷」がどうしたこうしたとウジウジ悩んでいる虚弱な現代人風で、何だかなあという感じですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

違和感 2013/08/24(土) 19:38:51
小太郎さん
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北条時頼といえば、その一生を幕府政治に捧げ、鎌倉を中心に生涯をすごしたようなイメージがあるが、少々意外なことに、実は京都で生まれている。(『北条時頼』1頁)
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そうか、時頼は帰国子女のような存在だったのか、と新鮮な感じがしました。

人物叢書は著者の自画像を何程か反映しているのかもしれませんが、北条時頼が同僚や下僚に万遍なく気配りする世渡り上手のサラリーマンのようで、なんだ、そんな奴を研究してもつまらんじゃないか、という感じはしました。なにか違うような気がします。

http://www.bbc.co.uk/news/uk-23822189
ジブラルタルの領有をめぐって、スペインとイギリスの緊張が高まっているようですが、地図を見るかぎり、ここがイギリス領というのはなんとも不自然で、スペインは不愉快でしょうね。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167859015
湯浅博氏『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』に、以下のような記述がありますが、機会があれば訪ねてみたいお寺です。
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辰巳の眠る賢崇寺は、佐賀藩鍋島家の菩提寺であり、陸軍皇道派の青年将校らのクーデター未遂二・二六事件で受難した「二十二士」も葬られている。死刑になった十九人に、自決した二人と相沢事件の相沢三郎が含まれる。皇道派には、真崎甚三郎大将はじめ佐賀藩出身者が多かったことに由来するようだ。
興国山賢崇寺の山を下りると、おしゃれな今の麻布に戻る。明治七年に出た『東京新繁昌記』のいう「麻布は虫声」は、もはや遠い昔になった。(379頁~)
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天台宗キャンペーンガール 2013/08/26(月) 20:43:16
http://www.bbc.co.uk/news/science-environment-23779561
外野席からは何とも言えますが、 the Japanese government も the Tokyo Electric Power Company (Tepco) も、もうお手上げという感じでしょうか。
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"Once it gets into the ground water, like a river flowing to the sea, you can't really stop a ground water flow. You can pump out water, but how many tanks can you keep putting on site?"
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http://www.shinchosha.co.jp/book/610532/
本屋で少し立ち読みしましたが、天台宗キャンペーンガールとは、一体、何を宣伝啓蒙するのかしら。法華経の尊さ? あるいは、一人でも多く、女よ尼になれ、と? 瀬戸内寂聴さんのようにはならないでね、と思いました。
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双葉町訪問記

2013-08-25 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月25日(日)22時37分10秒

昨日は5月28日の警戒区域再編で立ち入り可能になった双葉町の沿岸地区に行ってきました。
といっても、浪江町の立ち入り許可を得て請戸の苕野神社を訪問した後、双葉町の境界まで行ったら、普通に通行できたのでちょっと寄ってみただけですが。

区域再編直後の4月に浪江町に入ったときは警備員が車のナンバーを控えるだけで、そのまま入れましたが、今回は手続きが若干複雑になり、入口で警備員から、まず浪江町役場に行って「臨時通行証」を申請するようにと言われました。
そこで浪江町役場へ行き、氏名・住所・通行目的・車両ナンバーを申請書に記入して職員に渡すと、何故かその人がそれをファクス送信。
何をやっているのかなと思ったら、役場の建物にいる人は単なる窓口で、審査と交付は役場機能が移転した二本松市で行っているのだそうです。
そして、いい加減待ちくたびれたころファックスがギーコギーコと鳴り、やっと「臨時通行証」をもらうことができました。

私は申請書の通行目的欄に「苕野神社訪問」と書いたのですが、受け取った通行証には「自宅に一時帰宅するため、警戒区域及び帰還困難区域内の通行を認める。発行権者浪江町長 馬場有(町長印)」とあり、更にその下には「複写、加筆したものは無効になります」との添え書きがありました。
私はもちろん浪江町内に自宅は持っていないので、「自宅に一時帰宅するため」との表現に少しびっくり。
でもまあ、神社に行きたいなどという理由で申請する人はめったにいないでしょうし、面倒を避けてルーチンで処理したいという職員の気持ちも分からないではありません。
しかし、日中の立ち入りが可能な「避難指示解除準備区域」で充分満足な私に対して「警戒区域及び帰還困難区域内の通行」許可が出たのには、正直かなり驚きました。
ついでに言えば、二本松市内でハンコを押してファックス送信した「臨時通行証」を浪江町内で受信・印刷した書面が「複写」として「無効」にならないのかも疑問ですね。
もちろん私は紙切れをもらえれば満足なので、全ての疑問を封印して車に戻りました。

そして苕野神社参詣後、双葉町との境界まで行くと、車止めもなかったので、そのまま双葉町の「避難指示解除準備区域」内に車で入り、双葉町内の「帰還困難区域」との境で写真を撮っていたら、警備会社の車が来たので、警備員さんと少し立ち話ししました。
その後、いったん浪江町内に戻り、今度は県道254号線(広野小高線)に設置されていた車止めを乗り越えて双葉町の「避難指示解除準備区域」内に入り、徒歩で双葉海浜公園近くの「帰還困難区域」境界まで往復して戻ると、私の車の横に福島県警のパトカーが停まっていて、私は警察官2名と和やかに懇談することになりました。
まあ、明確にバリケードを乗り越えて入った訳ですけど、私が歩いていたのは「避難指示解除準備区域」内で、別に違法ではないですね。
警察官に本来なら双葉町の立ち入り許可を得ないといけないみたいなことを言われたのですが、その手続きを聞いたら警察官も答えられませんでした。
双葉町の役場機能は埼玉県加須市に移転後、今はいわき市にあるそうですが、仮に双葉町で何らかの立ち入りの手続きを定めていて、私がその手続きに反したために過料等の行政的な制裁の対象になったとしても、刑事責任の対象ではないですね。
ま、私は現場の警察官と細かい法律談義をするほど意地の悪い人間でもないので、ほどほどのレベルの話で終えました。

ところで浪江町は区域再編直後の4月にはそれなりに大勢の人が入っていましたが、昨日は工事関係の僅かな人に会っただけでした。
そして双葉町内では警備会社の人のみ。
人口の僅か4%の地区が立入可能になっただけなので当たり前といえば当たり前ですが。

国道6号線を南下すると、いったん警戒区域に入れられてしまった地域とそれ以外の地域の雰囲気の差を誰でも感じることができます。
同じ南相馬市でも原町区は活気がありますが、1年間警戒区域だった小高区は今でもひっそりとしていますね。
2年続いた浪江は再起不能とは言いませんが、住民が暮らせるようになるには相当の時間がかかりそうです。
そして双葉町はというと、ここは本当に厳しいですね。

写真は一番上が車止めもなかった浪江町と双葉町の境界。
二枚目は県道254号線(広野小高線)から見た双葉海浜公園周辺。
三枚目は双葉海浜公園近くの「帰還困難区域」との境界です。
このバリケードのすぐ左が二枚目の写真の白い建物ですね。

参考:2013年5月29日付産経新聞記事

※写真
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「もやもやした気持ち」

2013-08-24 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月24日(土)08時11分53秒

>筆綾丸さん
『北条時頼』、読了しました。
高橋慎一朗氏は「気配り」という表現が好きなようで、やたらめったら登場しますね。
ご自身も大変な気配り上手で、大勢の研究者の業績を丁寧に紹介し、コメントする様子はまるで『史学雑誌』「回顧と展望」の理想像を見るようです。
しかも、まあはっきり言ってたいしたことのない論文についても長所だけを好意的に紹介する姿勢は見事で、なかなかの人格者ですね。
少し「もやもやした気持ち」(p89)を感じた部分もあるので、後で書こうと思います。

>Chelsea Womanning
Manning上等兵は禁固35年でしたね。
私はアメリカの軍法会議について基礎知識がないので、これを機会に少し勉強しようと思っていたのですが、「今日から女として生きます。チェルシー・マニングと呼んで」宣言を聞いて、いささか学習意欲がそがれました。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

時に頼すぐれば民の嘆きなり・・・ 2013/08/22(木) 14:44:18
小太郎さん
ミシュランの『JAPON』には、時頼への言及が二回あります。廻国伝説ではありませんが。

明月院
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《L'Ermitage de la lune brillante》, Meigetsu-in, a été fondé en 1160 par Yamanouchi Tsunetoshi pour le repos de l'âme de son père, Toshimichi, disparu dans la bataille de Heiji(1159)opposant les clans Minamoto et Taira. Le site est repris par Hjo Tokiyori(1227-1263), cinquième régent de Kamakura, qui à sa retraite, le transforme en un temple bouddhique. Jardin sec et champs d'iris se répondent à travers la porte lune de l'édifice principal. Les tombes sont creusées dans la roche, pour épargner quelques arpents de méditation sous le ciel.(254頁)
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十一月二十二日、戌刻(午後八時ごろ)、時頼は最明寺北亭で息を引き取った。三十七歳であった。『吾妻鏡』が伝える臨終の様子は、以下のようである。時頼は、袈裟を着て椅子にのぼり、座禅をし、少しも動揺する気配を見せず、
 業鏡高く懸ぐ 三十七年
 一槌に打砕して 大道坦然たり
という遺偈を唱えて亡くなった。(高橋慎一朗『北条時頼』217頁~)
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ミシュランのいう「 Les tombes 」は、山内氏父子の墓(石)は含まず、時頼の墓(石)だけを指す、と読むべきだと思いますが、さすがに、墓石の形式は宝篋印塔と呼ばれるもので中国の影響が濃い、というような解説はないですね。

建長寺
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Ce temple(1253), achevé sous la période Kencho(1249-1255) dont il prend le nom, a pour fondateur le régent Hojo Tokiyori. Celui-ci confie la responsabilité du premier et plus grand temple zen de Kamakura au prêtre Rankei Doryu, maître chinois venu enseigner le zen au Japon.(254頁)
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時頼による建長寺創建は、当時から日本における禅宗興隆の一大画期と位置づけられている。( 高橋慎一朗『北条時頼』182頁)
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ミシュランには、建長寺の名が建長年間に由来するとはあっても、元号の権威に関する説明がないので、建長寺の有難さがいまひとつ感じられないのが、難と言えば難ですね。ないものねだり、ではありますが。


Chelsea Womanning ? 2013/08/23(金) 13:18:39
http://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-23798253
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Asked why Pte Manning was making this announcement now, the day after sentencing, Mr Coombs said: "Chelsea didn't want to have this be something that overshadowed the case."
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殊勝な言ですが、要するに、deséquilibré でしょうか。論点がずれて、茶番劇のようで、バカバカしくなってきました。

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Mr Coombs indicated the soldier was willing to take legal action to force the prison to provide hormone therapy if authorities refused.
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獄中でホルモン・セラピーなんて可能なのだろうか・・・。
Manning にある man というエクリチュールが、まるで stigma(聖痕)のように見えてきます。
Manning の支持者は、He is a hero と言ってましたが、これからは、She is a heroine としなければなりませんね。
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『北条時頼』

2013-08-21 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月21日(水)20時58分9秒

>筆綾丸さん
出遅れ気味ですが、やっと高橋慎一朗氏の『北条時頼』を購入して読み始めたところです。
最初に廻国伝説の部分を確認してみたのですが、やはり材料は出尽くしているようですね。
ま、当たり前ですが。

>漆を満たした風呂
これは誤解の発生経路を辿ると面白そうですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

legally and procedurally sound(逐語訳:法手続き上、何の瑕疵もあるめえ) 2013/08/20(火) 12:56:05
http://www.bbc.co.uk/news/uk-23763625
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He was detained under schedule 7 of the Terrorism Act 2000. This allows police to hold someone at an airport, port or international rail station for up to nine hours for questioning about whether they have been involved with acts of terrorism.
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スノーデン問題には様々な余波が続いていますが、ここでいう detention は、法律用語としては、拘留や拘禁や監禁や留置ではなく、抑留と訳すべきなんでしょうね。しかし、9時間というのはなんとも中途半端な感じがしますが、どのような根拠によるものなのか・・・。

http://www.dlife.jp/lineup/drama/homeland_s1/
現在、『ホームランド』を欠かさず見ていますが、たいへんレベルの高いテレビドラマですね。
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戦争の英雄は敵か味方か――二転三転するスピーディな攻防戦を描きながら、現在のアメリカ社会が抱える深い闇を浮き彫りにした「HOMELAND/ホームランド」。イラク赴任中に行方不明となっていたアメリカ海兵隊の軍曹が、8年ぶりに英雄として帰還した。だが、CIAの女性エージェントだけが、彼はアルカイダに洗脳されてテロリストに寝返った人物だと確信。ブロディの正体を暴こうと躍起になるが…。メインキャストには「ロミオ&ジュリエット」のクレア・デインズ、「バンド・オブ・ブラザーズ」のダミアン・ルイス、「クリミナル・マインド/FBI vs. 異常犯罪」のマンディ・パティンキンら実力派が集結。さらに、「24 -TWENTY FOUR-」のプロデューサーが手掛けているだけあって、緊張感MAXのシーンが満載!見始めたら止まらず、眠れない夜を約束してくれる。
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現役のCIA職員の多くも見たのだろうな、という気がします。
番組とは関係ないことですが、CIAに対して、日本政府はどのくらい協力しているのでしょうね。(CIAは、日本政府など端から相手にしていない、ということもありえますが)

http://www.lemonde.fr/ameriques/article/2013/08/19/wikileaks-le-gouvernement-requiert-60-ans-de-prison-contre-bradley-manning_3463572_3222.html
これは『ル・モンド』の記事で、国はブラドリー・マニングに最低60年の刑を求めるようですが、
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"Il a trahi les Etats-Unis" et "nous devons nous assurer que nous ne verrons plus jamais un tel cirque", a lancé le procureur militaire, Joe Morrow, si bien qu'"il mérite de passer la majorité du restant de sa vie en prison."
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量刑の確定前に、奴は余生の大半を監獄で楽しむことになるな、などと軍の検察官(ジョー・モロー)がペラペラ喋ってもいいのだろうか、という気がしますね。現在の日本には存在しない軍事法廷のことなので、実態がわかりませんが。マニング氏との類推から、スノーデン氏も合衆国内で裁判が行われれば、十中八九、余生は獄中でしょうね。

http://www.rfi.fr/ameriques/20130820-proces-manning-derniere-audience-avant-juge-decide-sentence
『rfi』によれば、軍事法廷の裁判官の階級は大佐(colonel)とのことですが、弁護人も当然軍人なんでしょうね。法廷での地位を考えると、大佐の裁判官に対して、検察官と弁護人はともに少佐くらいで、弁護人は出世街道から外れているのだろうな、という気がしますね。
(課されるかもしれない)罰金十万ドルというのは、まあ、蛇足のようなものですね。


漆の風呂と美の過剰 2013/08/21(水) 12:26:20
猛暑の中、ミシュランのガイドブック『JAPON』(2013版、679頁)を片手に、フランス人と、日光・鎌倉・京都の旅をしてきました。以下の二点につき、認識を新たにしたのが、ささやかな収穫でした。このようにして異国の歴史は誤解されてゆくのだな、と。

頼家暗殺について(288頁)。
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En 1203, Minamoto no Yoriie, 21 ans, fils du premier shogun, est obligé de s'exiler dans le temple Shuzen-ji. Il vient de comploter contre son grand-père maternel, le régent Hojo Tokimasa, qui l'a écarté du pouvoir. Un an plus tard, Yoriie est assassiné. Il aurait été empoisonné en s'immergeant dans une baignoire emplie de laque??à son insu・・・・・・
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最後の文は、「頼家は、それと知らず、漆を満たした風呂に入って毒殺された」という程の意味ですが、はじめて聞く珍説です。この文の後に、岡本綺堂『修善寺物語』が続くのですが、こういう暗殺シーンはないようです。漆と鴆(毒)を混同したとしても、珍妙な記述です。『愚管抄』によれば、周知のごとく、無残な惨殺の筈ですね。ミシュランの記述には、東洋的な神秘の匂いが漂っています。漆塗りの風呂なら(あるとして)、une baignoire laquée ですかね。頼家は漆アレルギーで、アナフィラキシー・ショックで死んだ、と言いたい訳ではないでしょうね。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1312_23045.html
http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/120407.html

金閣焼失について(380頁)。
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Il est cependant dévoré par les flammes en 1950, du fait d'un moine deséquilibré qui embrase ce qui embrassait tant de beauté.
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「過剰な美に取り憑かれた精神錯乱の僧侶の放火により、1950年、金閣は炎に呑まれた」というほどの意味ですが、 直後に、三島由紀夫の『金閣寺』への言及があり、「三島美学」の影響をもろに受けていることがわかり、面白いですね。なぜ坊主が火をつけたのか、実際のところは、不明としかいいようがないですね。
ミシュランの記述に触発されて、『金閣寺』の仏訳を読むフランス人にとって、義満建立の舎利殿であるということなどどうでもよく、三層の金閣はますます美学的な存在になるのだろうな、と思われました。

付記
ミシュランは、日光東照宮を「un silence ostentatoire」(これ見よがしの静寂)としてますが、これには、ブルーノ・タウトなどの詰まらぬ影響があるのかもしれませんね。

横須賀の三笠の紹介で、日本海海戦を「la bataille de Tsushima」としてますが、これは韓国などに配慮した記述なのでしょうね。対馬自体が戦場であったような感じがしてしまいます。

鎌倉の説明は、ancien village du grenier(kura)des faux(kama) とありますが、faux は死神のアトリビュートである大鎌をさすことが多いようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E7%A5%9E

鎌倉時代の始まりを 1185年としていますが、昨今の多数説に拠るのでしょうね。

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石巻・白浜海水浴場

2013-08-07 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月 7日(水)06時26分3秒   通報 編集済

『河北新報』に次のような記事が出ていました。

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海水浴場に復興託す 10、11日限定の海開き 石巻・白浜

 東日本大震災の津波で集落が流された宮城県石巻市北上町十三浜白浜の住民有志が10、11の2日間限定で、白浜海水浴場を再開する。地盤沈下を免れた美しい浜を、防潮堤の整備や集落跡の利用といった将来の地域づくりにどう生かせるかを検証し、提案する。「浜の復活を応援して」と大勢の来訪客を期待している。
 白浜海水浴場は国道398号沿いに延長約200メートルの砂浜が広がる。北上川河口に近く、遠浅で波が穏やかなのが特徴。ピーク時には海水浴客が年間1万人を超えた。
 北上地区復興応援隊と住民有志が7月上旬、3年ぶりの海水浴場開設に向けて活動をスタート。7月20日に運営母体となる「白浜海水浴場再開実行協議会」を設立し、東京のボランティアと海岸の清掃、草刈りをした。水質検査では海水浴に適していると判定され、5日に市の許可を得る見通しだ。(後略)

http://www.kahoku.co.jp/news/2013/08/20130803t15009.htm

白浜の鎮守・鹿島神社は「ビール神社」の通称を持ち、一部マニアには有名だったそうですね。
私も何度か参詣しているのですが、ちょうどよい機会なのでブログの方にまとめてみました。

「2011年8月の白浜・鹿島神社」
http://chingokokka.sblo.jp/article/71931678.html
「2012年4月の白浜・鹿島神社」
http://chingokokka.sblo.jp/article/71945223.html
「2012年8月の白浜・鹿島神社」
http://chingokokka.sblo.jp/article/71965846.html
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MIRATAの由来

2013-08-07 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月 7日(水)06時12分32秒

>筆綾丸さん
ご紹介の記事、最後に電通の名前が出てきたので、微妙なガッカリ感を覚えました。
命名は「KIROBO」と「MIRATA」の二体あわせて「未来へとつながるようにという思いが込められている」そうですが、「MIRATA」の「TA」はどこから来ているんですかね。
「トヨタ自動車」の「タ」とロボット開発者の高橋智隆氏の「タ」が共鳴しているのでしょうか。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1303/06/news104.html

>はぶ
高橋慎一朗氏の新刊は未読ですが、「埴生」にわざわざ「はぶ」と振っているのであれば、おそらくそれなりの根拠があるのでは、と思います。
埴生荘については荘園研究者の議論の蓄積がありますね。

ナショジオに「聖ヨハネ騎士団の大病院、遺構が公開に」という記事が出ていました。

---------
十字軍が派遣されていたおよそ1000年前、中東で最大の病院として使われていた巨大建造物の一部が、近く一般公開される。これは13年間にわたりこの遺構の調査にあたってきたイスラエル考古学庁(IAA)が、現地時間8月5日に発表したものだ。

 この遺構は11世紀に建設されたもので、エルサレム旧市街のキリスト教徒地区に位置し、ムスリムのワクフ(イスラム教に基づき、慈善あるいは宗教的な目的のために寄付された信託財産)が所有している。その面積は約1.4ヘクタール以上におよび、建物は巨大な柱と肋材で補強された丸天井を特徴とする。丸天井の高さは6メートル以上にも達する。

この遺構の発掘および遺構の調査は、東エルサレムのグランド・バザール・カンパニーが主導し、IAAとの協力のもとで行われた。同社では、この建物をレストランと観光案内所を備えた施設に生まれ変わらせる計画で、2014年内には一般公開される予定だ。

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20130806001&source=rss

ナショジオ英語版の方ではパノラマ写真へのリンクがあって、これはなかなか面白いですね。

http://www.360cities.net/image/refractorium-knights-hall-akko-acre-israel#-176.70,-25.62,70.0
http://news.nationalgeographic.com/news/2013/13/130805-archaeology-israel-jerusalem-crusader-middle-east-excavation/?now=2013-08-05-00:01


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6878
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ブログ更新

2013-08-05 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月 4日(日)20時51分25秒

久しぶりにブログを更新しました。
先週訪問した山元町・八重垣神社の夏祭り(地元の通称「お天王さん祭り」)の様子です。

「八重垣神社の夏祭り」(その1)
http://chingokokka.sblo.jp/article/71782616.html
「八重垣神社の夏祭り」(その2)
http://chingokokka.sblo.jp/article/71785361.html
「八重垣神社の夏祭り」(その3)
http://chingokokka.sblo.jp/article/71790168.html
「八重垣神社の夏祭り」(その4)
http://chingokokka.sblo.jp/article/71794993.html
「八重垣神社の夏祭り」(その5)
http://chingokokka.sblo.jp/article/71798487.html
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Times Haiku の来襲

2013-08-03 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月 3日(土)23時18分9秒

>ザゲィムプレィアさん
どうぞ、その呼び方でお願いします。
私はもともと中世文学・中世史が好きでホームページ『後深草院二条』を始め、その後、この掲示板を作ったのですが、今は時代・地域ともずいぶん拡散してしまっています。
でも、中世は相変わらず好きなので、けっこう細かい話にも対応できると思います。

>筆綾丸さん
私は9月の米ロ首脳会談までは放置しておくのかなと予測していましたが、外れてしまいましたね。
ジェイ・カーニー報道官が会談中止の可能性を示唆する発言をしていましたが、ロシア側はそこまではやらないだろう、という判断なんでしょうね。

http://worldnews.nbcnews.com/_news/2013/08/01/19815210-snowden-asylum-threatens-us-russia-talks?lite

ところで今日もニューヨークタイムズが次のようなツイートをしていました。

Times Haiku:

"But a lot of folks
just want that satisfaction
of killing a bug."

http://haiku.nytimes.com/post/57104259943/but-a-lot-of-folks-just-want-that-satisfaction-of?smid=tw-nytimes

虫を殺して満足だ、みたいなブキミな文言の三行詩を送りつけてきて、本当に変質者としか思えません。
アメリカで俳句が"Haiku"に変容する過程で一体何が起きたのか、不思議です。


※ザゲィムプレィアさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6871
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6870

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マニング上等兵に関する朝日新聞記事

2013-08-01 | その他
マニング上等兵に関する朝日新聞記事 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月 1日(木)12時32分14秒

7月30日の朝にNBCその他の記事を見て、次のようにツイートしました。

---------
ウィキリークスに膨大な秘密情報を漏洩したマニング、最も重い利敵行為では無罪、他の多数の罪で有罪判決。
マニングは終身刑の可能性がある利敵行為では無罪となったが、他の行為に関する刑の上限を単純に累積すると136年。実際の量刑を定める手続きは水曜日に始まり、数週間かかる予定。マニングは法廷では反応を見せなかったが、退廷後に微かな笑みを浮かべたと云々。

Manning acquitted of aiding enemy but convicted on other charges
http://nbcnews.to/13wA4KB

そして丸一日以上経った31日の朝日新聞の記事を見ると、

-------
2013年7月31日12時51分

ウィキリークスに機密情報提供、米陸軍上等兵に有罪評決
【ワシントン=望月洋嗣、ロンドン=伊東和貴】
民間告発サイト「ウィキリークス」に米外交公電などを流したとして、スパイ罪などに問われたマニング米陸軍上等兵に対し、米軍事法廷は30日、19の罪状で有罪とする評決を言い渡した。敵対勢力への支援については無罪とした。
 軍事法廷は米メリーランド州のフォート・ミード軍事基地内にあり、量刑は31日に言い渡される予定。(後略)

http://www.asahi.com/international/update/0731/TKY201307310122.html

とあります。
アメリカ東部時間でも、もう31日の23時30分ですが、未だに量刑は言い渡されていないですね。
ワシントン・ロンドン特派員といえば朝日新聞の中でもエリート中のエリートだと思いますが、なぜこんな基本的事実関係で間違うのか、ちょっと奇異に感じます。

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A coffin inside a coffin

2013-08-01 | その他
A coffin inside a coffin 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月 1日(木)12時16分49秒

リチャード三世の遺骨が発掘された場所の近くで石棺が発見され、非常に重い石棺の蓋を8人がかりで取ると、その中から更に鉛の棺が現れたそうですね。
この墓はリチャード三世の墓より古いもので、鉛の棺には素朴な十字が彫られています。

http://edition.cnn.com/2013/07/30/world/europe/uk-king-richard-coffin-mystery/index.html?iref=allsearch

埋葬されたと思われる人の候補者は3人いて、フランシスコ会修道士のPeter Swynsfeld は1272年、同じくフランシスコ会修道士の William of Nottingham は1330年、そして貴族の Sir William de Moton は 1356~1362年の間に亡くなったとか。
リチャード3世は1485年に殺されているので、少なくとも百年以上前の墓ですね。

http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-leicestershire-23487493

レスター大学のブログ
http://www.le.ac.uk/richardiii/blog/blog18.html
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時頼廻国伝説

2013-08-01 | 中世・近世史
時頼廻国伝説 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 8月 1日(木)11時52分56秒

>ザゲィムプレィアさん
いらっしゃいませ。

>筆綾丸さん
>人物叢書『北条時頼』
時頼関係の論文は殆ど読み尽くしているのですが、著者が史料編纂所の高橋慎一朗氏とあれば、ちょっと興味を惹かれますね。
高橋氏は宗教関係に強い人なので、特に「仏教諸派との関係(護持僧隆弁と園城寺/蘭渓道隆と建長寺/禅宗への帰依/日蓮との出逢い/浄土と大仏/叡尊の下向と律)」の部分は参考になりそうです。
東北に来てから時頼の廻国に関する伝承をあちこちの寺で見聞きするので、伝承の担い手と形成時期について何か進展があるのかも確認してみたいですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6863

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