旧知の方から頂いたメールに返信するために瀬田勝哉氏の 「伏見即成院の中世-歴史と縁起」(『武蔵大学人文学会雑誌』第36巻3号,2005.1)を読み直しているところなのですが、実に優れた論文ですね。
瀬田氏は即成院の歴史の中で宣陽門院(1181~1252。 後白河皇女、母丹後局)の果たした役割が忘れ去られていること、宣陽門院に関する重要な記述が『とはずがたり』に存在することを指摘されています。
『とはずがたり』によると、つまらない理由から職場放棄をして行方不明となってしまった不良娘は、
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局(つぼね)へすべりて、「御尋ねあらば消息(せうそく)を参らせよ」といひおきて、小林といふは、御ははが母、宣陽門院(せんやうもんゐん)に伊予殿(いよどの)といひける女房、おくれ参らせさまかへて、即成院(そくじやうゐん)の御墓近く候ふところへ、たづねゆく。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-18-shuppon.htm
という行動を取りますが、実にこの一節から宣陽門院の墓が即成院にあったことがわかるんですね。
即成院には那須与一の墓とされる巨大な石塔があり、瀬田氏は那須与一に関する伝承についても詳細に分析されています。
瀬田氏が解明された事実を前提とすると、伝那須与一墓=宣陽門院墓ないし供養塔の可能性が高いのでしょうが、石塔の専門家が瀬田論文をどのように評価するのか、気になります。
即成院ホームページ
http://www.mitera.com/
伝那須与一墓
http://www.mitera.com/yoichi/images/ohaka-dai.jpg
>筆綾丸さん
某ブログの那須つながりということで。