学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

大晦日のご挨拶

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
今年は1月8日にユーチューブを始めて、大晦日の今日、237回目の配信となりました。
最初は配信ソフトの利用方法が分からず、マイクを入れ忘れたまましゃべって撮り直しをするようなことも一度ならずあって、本当に試行錯誤の連続でしたが、一応の自分なりのスタイルを確立できてからは結構順調に進んだように思います。
当初は大河ドラマとの連動みたいなことも少し考えたのですが、まあ、それは他に大勢やっている人がいることなので自分がやる必要もないと思い直し、結局、視聴者の都合は一切考えず、「新東国国家論」、キリスト教と日本人論、「国家神道」論、廃仏毀釈の実態、赤橋登子論、平雅行氏の実質的な「権門体制」否定論の検討、小川剛生氏『兼好法師』批判、東島誠氏の亀田俊和氏批判の検討、『梅松論』の作者と成立年代論など、その時々に自分が話したいことだけを語ってきました。
十二月に入って、東島誠氏の謀反と謀反論の検討を始めたあたりでは、さすがに問題意識がマイナーすぎて、誰もついてきてくれないだろうな、などと思っていたのですが、東島誠説批判が載っていた古澤直人氏の『中世初期の<謀叛>と平治の乱』をきっかけに平治の乱を少し検討してみたところ、芋づる式に面白いことが次々出てきて、それなりに新しい展望を開くことができたように思っています。
これで今まで手薄だった院政期から鎌倉初期にかけても橋頭保が出来たので、来年に入っても、もう少し平治の乱の続きをやってみるつもりです。
また、地味に継続している「『増鏡』を読む会」については、少しずつ参加者を増やして行けたら良いなと思っています。
ということで、来年も宜しくお願いいたします。
皆様、良いお年をお迎えください。
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0237 桃崎説を超えて(その3)─『玉葉』建久二年十一月五日条の「君」は誰か?

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第237回配信です。


一、『玉葉』建久二年十一月五日条の信西文書は偽文書か?

資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

『玉葉』建久二年十一月五日条の信西文書に「この図を以て永く宝蓮華院に施入し了んぬ」とあるが、「宝蓮華院」はあまり聞かない寺院なので検索してみたところ、松下健二氏の「静賢の生涯」という論文に出会った。

資料:松下健二氏「静賢の生涯」〔2024-12-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92a1210a1c055f1b2a4e767b8c227d72

松下氏
「信西死後、異能を強調するために捏造された偽文書とも考えられる」
「信西の死から歳月を経て現れた『長恨歌絵』は伝説化しつつあった故信西に仮託して作成された可能性があり、信西自筆という反古を額面通り受けとるわけにはいかない」

棚橋光男氏を始め、多くの歴史研究者が信西文書の文面を怪しんではいないので、同時代の古文書としては不自然ではなさそう。
問題はむしろ「此図為悟君心、予察信頼之乱、所画彰也」という九条兼実の解説・感想ではないか。


二、信西は平治の乱を予知したのか。

通説では信西は平治の乱の二十四日前に「信頼之乱」を予知していながら、何の対策も取らず、むざむざと殺されてしまったことになる。
合理的な説明は可能か。
桃崎有一郎氏の「オカルト理論」に納得できる人はいるのか。

資料:桃崎有一郎氏「残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c80f4a87aa01c3479590f27a8fbfa4b4
資料:桃崎有一郎氏「相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1934dc8760b565013ce4b612ca54070a

平治の乱の勃発時の様子を伺うことが出来る史料は実質的に『愚管抄』のみ。
『愚管抄』によれば、信西は後白河院御所・三条殿にいた自分の妻(紀二位)や息子に警告することもなく、自分だけ逃げている。
本当に直前になって気づいたと考えるのが自然。
また、自分を殺害しようと狙っている者たちが襲うのは自邸であって、三条殿まで襲うとは思っていなかったのではないか。

資料:川合康氏「平治の乱の第一段階」〔2024-12-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f6e9fc3d913489d81280402fff984a5
資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「信西の最期」〔2024-12-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/386ad2e790e7d8e2c044bfd90d1d2bb7

信西が自殺した状況を知るのは西光等の従者と美濃源氏・源光保のみ。
二条天皇の親衛隊的な存在である源光保は永暦元年(平治二、1160)六月に捕縛され、流罪・処刑されている。

源光保(?‐1160)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%9D

『愚管抄』の情報源は西光ではないか。
全くの作り話ではないにしても、相当の脚色がありそう。


三、『玉葉』建久二年十一月五日条の「君」は誰か?

棚橋光男氏は「この図、君心を悟らせんが為、予〔かね〕て信頼の乱を察し、画き彰はせるところなり」の「君心」に「(後白河)」とルビを振っている。(『後白河法皇』、p69)
しかし、二条天皇と考えるのが自然ではないか。
二条天皇であれば、兼実は平治の乱の主役が二条天皇だと知っていたことになる。
九条兼実は平治の乱の時点で十一歳。
平治の乱の「真相」を知っていてもおかしくはない年齢。
また、僅か二年の流罪の後、宮廷に復帰し、左大臣を長く勤めた大炊御門経宗とは仕事の上で接触が多く、後日、「真相」を教えてもらった可能性も十分ある。
というより、平治の乱の第一段階の首謀者が二条天皇であったことは周知の事実だったのではないか。
平治の乱の「真相」は、美女にトチ狂った、プライドだけは異常に高い莫迦息子(二条)と、政治家として無能で息子にも軽蔑されていた莫迦親父(後白河)の壮大な親子喧嘩。
みっともない出来事であるとともに、天皇が「治天の君」である父に対して起こしたクーデターであり、法的な説明が難しい「主上御謀叛」。
「信頼之乱」的な曖昧な表現で説明されることになり、時の経過とともに実態も分かりにくくなってしまったのではないか。

九条兼実(1155‐1207)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
大炊御門経宗(1119─89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97
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資料:川合康氏「平治の乱の第一段階」

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
川合康氏『源頼朝 すでに朝の大将軍たるなり』(ミネルヴァ書房、2021)
https://www.minervashobo.co.jp/book/b575019.html

p78以下
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平治の乱の第一段階

 その反信西勢力の中心となったのは、後白河院の寵愛を受けて正三位権中納言、右衛門督に急速に昇進した藤原信頼と、保元の乱で後白河方の第一陣として軍功をあげた源義朝であった。しかし、信西政権の打倒に立ち上がったのは、何も後白河側近の信頼・義朝だけではない。二条天皇の外戚であった権大納言藤原経宗や天皇の乳母子にあたる参議藤原惟方も首謀者の一員であったし、また、武士も義朝だけでなく、有力な京武者であった国房流美濃源氏の源光保・光基や重宗流美濃源氏の源重成、河内坂戸源氏の源季実らもこれに加わった。信西を打倒する平治の乱の第一段階は、このように広範な貴族・武士が連携して引き起こしたものであり、後白河・二条のどちらの派閥とも距離を置いていた平清盛は、こうした信西打倒の動きを知らぬまま、平治元年(一一五九)十二月四日に熊野参詣に出発したのである(元木 二〇〇四)。清盛の一行は、次男基盛・三男宗盛と家人十五人ほどであったという(『愚管抄』巻第五「二条」)。
 平治元年十二月九日の夜、藤原信頼と源義朝らの軍勢が、信西が子息とともに伺候していた院御所の三条東殿を急襲した。襲撃を察知した信西はかろうじて逃げ出したが、院御所に同宿していた後白河院とその姉上西門院は、源重成・光基・季実ら京武者の軍勢に護衛されて大内の一本御書所(貴重書を書写・保管する宮中の書庫)に移され、三条東殿には火が放たれた(『百錬抄』同日条、『愚管抄』巻第五「二条」)。この日、二条天皇は大内にいたから、天皇・院はともに大内で信頼・義朝らの監視下に置かれることになった。翌十日には、信西の子息である参議俊憲や権右中弁貞憲らが解官され、十四日に行われた臨時除目では、前章でも述べたように義朝が播磨守に、そして義朝から嫡男と認定された頼朝が従五位下右兵衛佐に任じられた。
 一方、左衛門尉師光(法名西光)ら数人の従者とともに逃走した信西は、慈円の『愚管抄』によれば、山城国田原荘(京都府宇治田原町)の土の中に穴を掘って潜んでいたところを、源光保の軍勢に発見され、自害したと伝えられる(巻第五「二条」)。信西の首が京に運ばれ、大路渡が行われて西獄門の前の木に首が懸けられたのは、十二月十七日のことであった(『百錬抄』同日条)。なお、熊野詣のために京を留守にしていた平清盛が、政変を知って途中の紀伊国田辺から引き返し、同国の有力武士湯浅宗重が提供した三十七騎の加勢を得て無事に帰京を果たしたのも、同じ十七日のことであった(『愚管抄』巻第五「二条」)。
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資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「信西の最期」

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』(講談社学術文庫、2012)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211593

p249以下
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信西の最期

 さてそうこうするうちに、平治元年(一一五九)十二月九日の夜、信頼・義朝は後白河上皇の御所であった三条烏丸の内裏を包囲し、火を放ったのである。信西が息子たちを引きつれていつもここに伺候していたので、とり囲んでみな討ち殺そうという計画であった。
 さて、信頼の一味の者であった師仲源中納言が御所の門中に御車を寄せて、後白河上皇と上西門院(統子)の御二方をお乗せした。その時、信西の妻で成範の母にあたる紀二位は小柄な女房であったから上西門院の御衣の裾にかくれて御車に乗ってしまったのを誰も気づかなかった。上西門院は御生母が後白河上皇と同じ待賢門院(璋子)であり、後白河天皇の准母(国母としての待遇を受ける)に立てられた御方であったという。そんなこともあってこの御二方は何かにつけて特に親密で、いつも同じ御所においでになった。ところでこの御車は、(源)重成・(源)光基・(源)季実などが警固して、一本御書所(世間に流布している書物を各一部書写して内裏に保管していた所)にお移しした。この重成はのちに自害したが誰であるかを人に知られなかったので称賛された人物である。
 さて、御所にいた俊憲・貞憲はともに難をのがれた。俊憲はもう焼け死ぬ覚悟をして北の対の縁の下に入っていたが、あたりを見まわすとまだ逃げることができるようなので焔の燃えさかる中を走りぬけて逃げたのである。信西は不意をうたれた敗北を感じとり、左衛門尉師光・右衛門尉成景・田口四郎兼光・斎藤右馬允清実をつれて人に感づかれないような輿かき人夫の輿に乗って、大和国の田原(京都府綴喜郡宇治田原町。大和は誤り)というところへ行き、地面に穴を掘ってすっかり埋まって隠れていた。従った者どもは四人とも髻を切って法名をつけよといったので、西光・西景・西実・西印と名づけたのであった。四人のうち西光・西景はのちに後白河上皇に仕えていた人物である。西光は「もうこうなったうえは中国に渡航なさる以外にありません。御供いたしましょう」といったが、信西は「行くとしても、星の方位を見るにもうどうしてみてものがれるすべはあるまい」と答えたという。
 ところで、信頼はこのような勝手なことをして大内裏に二条天皇の行幸を仰ぎ、当時在位の天皇である二条天皇をとりこんで政務を掌握し、後白河上皇の方は内裏のうち御書所という所にお据えして、さっそく除目を行なった。この除目で義朝は四位に上って播磨守となり、義朝の子で十三歳であった頼朝は右兵衛佐に任ぜられたりしたのであった。
 信西は巧みに隠れたと思っていたのに、あの輿をかついだ人夫が他人に秘密を洩らし、(源)光康(光保・光安)という武士に聞きつけられた。光康は義朝方であったから信西を探して差し出そうと、田原に向かったのである。田原で従者の師光が大きな木の上に登って夜明しの番をしていると、穴の中で声高く阿弥陀仏の名号を唱えるのがかすかに聞こえてきた。折しも遠くの方にあやしい火が数多く見えてきたので、木からおりて「あやしい火が見えております。御用心なさいませ」と、大きい声で穴の中にいいこんで、また木に登って見張りをしていると、多勢の武士どもが続々とあらわれ、あたりをあれこれと見まわしはじめた。信西が入っていた穴は、うまく埋めこんであると思っていたが、穴の口をふさいでいた板が見つけられてしまった。武士どもが掘ると、信西は持っていた腰の小刀をみずからの胸骨の上に強く突き立ててすでにこときれていたのである。武士どもは掘り出した信西の首をとり、得意顔にそれを掲げて都大路を行進したりした。信西の息子たちは、法師になっていた者まですべて流刑に処せられ、諸国に送られたのであった。
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※信西の最期の場面、『愚管抄』では西光の活躍が目立つが、『平治物語』陽明文庫本では西光は京都にいて信西に随行すらしていない。
そして随行者四名が信西から「各、西の字に俗名の片名をよせて」法名としてもらったことを聞いて、自身も出家し、「西光」と名乗ったとしている。

資料:『平治物語 上』「信西の首実検の事 付けたり 南都落ちの事 并びに 最期の事」〔2025-01-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2279690e570d3e975366a4674b26d469
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資料:松下健二氏「静賢の生涯」

2024-12-30 | 鈴木小太郎チャンネル2024
松下健二氏「静賢の生涯(上)」(『学習院高等科紀要』14号、2018)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/records/4562

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はじめに
一 出自と少年時代
二 配流まで
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p53
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 しかし、静賢の人物像を描き出すには、「黒衣の宰相」のような型にはまった政治家の顔だけでは不十分である。もうひとつの静賢の重要な側面は、後白河院の文化事業を主導する制作者・演出家としての顔である。そして、政治家としての顔と文化事業の制作者・演出家としての顔が不可分であるところに静賢という人物の真価がある。
 静賢は、虚構には現実を動かす力があるという信念を父信西から受け継いでいたのではないか。信西が、後白河に『長恨歌絵』を献上して藤原信頼への寵愛を諫めたという逸話は『玉葉』や『平治物語』にあって有名だが(4)、『伴大納言絵巻』や『彦火々出見尊絵巻』などの絵巻は静賢が政治的な意図をもって制作し、後白河に献上したものともいわれている(5)。また、信西が精力をかたむけて荒廃した大内裏の再建を果たしたことはよく知られているが、このとき再建された大内裏は、朝儀の際に正面の人々にだけ威容が現れるように計算された一種の舞台装置であった(6)。一方、静賢は、平治の乱後に後白河院の御所である法住寺殿の建設に深く関わることになるが、壮麗な法住寺殿の建築物もまた後白河院の権威を粉飾する舞台装置に他ならない。後白河院政の特徴として、しばしば蓮華王院宝蔵に代表されるような「文化の政治性」が取り沙汰されるが(7)、それは絵巻や今様を愛好した後白河院の人柄に起因している一方で、静賢が信西から継承した文化事業重視の姿勢にも発しているのである。
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(4)ただし、この逸話は一概に史実とは認めがたい。藤原兼実は、建久二年(一一九二)【ママ】十一月五日、実見した「通憲法師自筆」の「一紙之反古」に感激してこの逸話を日記に書き記しているが、この「反古」が本当に信西の自筆であったのか疑いが残る。信西死後、異能を強調するために捏造された偽文書とも考えられる。
(5)永井注(2)前掲論文
(6)桃崎有一郎『平安京はいらなかった』(吉川弘文館、二〇一六年)
(7)棚橋光男「後白河院序説」(『後白河法皇』講談社学術文庫、二〇〇六年 初出一九九五年)
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松下健二氏「静賢の生涯(中)」(『学習院高等科紀要』17号、2019)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/records/4995

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三 法住寺殿の繁栄
四 文化事業との関係
五 鹿ケ谷事件の前後
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p61
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四 文化事業との関係

 御願寺領の管理とともに静賢は法住寺殿における文化事業の制作(製作)者としても力量を発揮した。平安末期の法住寺殿が、絢爛たる院政期文化の中心地であったことは論を俟たない。正倉院や平等院経堂に倣って建立された蓮華王院宝蔵には典籍・聖教・仏画・絵巻・楽器等あらゆる宝物が納められ、建春門院の最勝光院には後白河院と女院の蜜月を称える障子絵が常盤源二光長の手で描かれ、御所法住寺殿では童舞・闘鶏・呪師・散楽・相撲などの諸芸が、また三十人もの名手を集めた今様合わせや後白河院五十御賀が盛大に催された。この法住寺殿という場所は、爛熟期を迎えていた古代文化と胎動する中世文化の結節点に位置し、身分の枠を越えた雑多なエネルギーを吸収して文化史上でも稀な光彩を放っている。
 後白河院政期の文化への静賢の貢献は、蓮華王院宝蔵の管理と絵巻物の制作という二点において特筆すべきものがある。そして、その二つの活動は、どちらも信西の文化事業重視の方針を継承したものといえる。蓮華王院宝蔵における網羅的な典籍・美術品等の収蔵は、蔵書家の聞こえ高い藤原頼長と親交を結び、『通憲入道書目録』を作成して典籍の蒐集に注力したと伝えられる信西の衣鉢を継いだものであり、「後三年合戦絵」等の絵巻物の制作は、後白河に『長恨歌絵』を進上して信頼への過信を諌めたとされる信西の行動に倣ったものと静賢は意識していただろう(36)。
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(36)「静賢の生涯(上)」注(4)でも述べたが、信西が『長恨歌絵』を後白河院に献じたことは『玉葉』や『平治物語』上にあって有名であるが、これは一概に生前の信西の事績としては認め難いように思う。藤原兼実は、『玉葉』治承三年(一一七九)九月四日・六日条で高倉天皇から「玄宗皇帝絵六巻」を借り受けたことを記しており、建久二年(一一九一)十一月五日条で、その「長恨歌絵」に添えられていた「通憲法師自筆」の「一枚之反古」を思い出して、「末代之才子、誰比信西哉」という感想を述べるとともに、その反古を転写して「後代聖帝明王」の政道を正すために絵巻を作成したという信西の意図を伝えている。信西の死から歳月を経て現れた『長恨歌絵』は伝説化しつつあった故信西に仮託して作成された可能性があり、信西自筆という反古を額面通り受けとるわけにはいかない。なお、兼実が転写した反古の文面では、信西は平治元年(一一五九)十一月十五日に『長恨歌絵』を「宝蓮華院」に施入したとされているが、この「宝蓮華院」は存在がたしかめられない。信西死後に創建した蓮華王院と混同したとは考え難く、混同するとしたら静賢が執行を務めた宝荘厳院か、白河の蓮花蔵院であろうか(宝荘厳院・蓮華蔵院については、杉山信三「白河御堂」『院家建築の研究』吉川弘文館、一九八一年初出一九五四年を参照)。ただ、『長秋記』天承元年(一一三一)八月二十五日条によれば、白河泉殿内の二つの阿弥陀堂と鳥羽殿内の一つの阿弥陀堂の院号を定める際に、蓮花蔵院・浄菩提院・浄金剛院・宝荘厳院など九つの候補名を記した注文が記主の源師時のもとに寄せられており、その中に「法蓮華院」の名がみえる。このとき「法蓮華院」は採用されなかったのだが、挙げられた九つの候補には後に別の御願寺の院号に採用されたものも多く、あるいは信西存命中に法(宝)蓮華院という御願寺が存在していたのかもしれない。
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0236 桃崎説を超えて(その2)─平治元年十一月十五日、信西は「白鳥の歌」を歌ったのか?

2024-12-29 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第236回配信です。


一、前回配信の補足

『長恨歌絵』についてコメントをいただいた。

0235 桃崎説を超えて(その1)─「二代后」問題の発生時期〔2024-12-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/374251d95ee52146acc518fa6fba966d

則天武后
https://kotobank.jp/word/%E5%89%87%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%90%8E-89919

確かに楊貴妃は「二代后」の例ではない。
しかし、『平家物語』では則天武后だけが言及されているのではなく、

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 故近衛院の后、太皇太后宮と申しは、大炊御門の右大臣公能〔きんよし〕公の御娘也。先帝にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の外〔そと〕、近衛河原の御所にぞ移りすませ給ける。さきのきさいの宮にて、幽〔かすか〕なる御ありさまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、御歳廿三にもやならせ給けむ、御さかりもすこし過させおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸〔ひそか〕に行力使〔かうりよくし〕に詔〔ぜう〕じて、外宮〔ぐわいきう〕にひき求めしむるに及で、この大宮へ御艶書あり。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a

とあって、作者は「行力使(高力士)」云々の表現により読者に楊貴妃を想起するように求めている。
平治元年(1159)、僅か十七歳の未熟な二条天皇が「二代后」という非常識な事態を招こうとしている状況において、それを諫言しようと思ったら則天武后では役に立たず、楊貴妃が適切。


二、平治元年十一月十五日、信西は「白鳥の歌」を歌ったのか?

私は「二代后」を阻止するために信西が『長恨歌絵』を作成して二条天皇に諫言したと考えるが、その際、信西は自分が殺されることを覚悟していたのか。
棚橋光男氏は、

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 ここで、信西がその経史、とくに〈史〉の蘊蓄を傾けた〈白鳥の歌〉─君側の佞臣・信頼を弾劾し"暗君"後白河を強く諫めた言葉を掲げておこう(『玉葉』一一九一年〈建久二〉十一月五日条)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

と言われる。
しかし、『玉葉』の「此図為悟君心、予察信頼之乱、所画彰也」はあくまで九条兼実の解説・感想に出て来る表現であり、信西自身の表現ではない。
信西の文章そのものから、果たして「白鳥の歌(Swan song)」が聞こえてくるのか?
平治元年(1159)十一月十五日、信西は「信頼之乱」の勃発を予想し、自分が殺されると覚悟していたのか?

白鳥の歌
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%AD%8C

資料:桃崎有一郎氏「残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c80f4a87aa01c3479590f27a8fbfa4b4
資料:桃崎有一郎氏「相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1934dc8760b565013ce4b612ca54070a

素直に考えてみれば、『長恨歌絵』を作るなど随分のんびりした話。
信西の息子に静賢という僧侶がおり、絵巻作成のための人脈を持ち、『後三年合戦絵詞』など多くの作品に関与したらしい。
『長恨歌絵』も「永施入宝蓮華院」するための作品であるから、静賢を製作統括者として、有名な絵師や能書家に依頼し、完成までに相当の時間と費用をかけたであろう。
とても「信頼之乱」の勃発という切迫した事態を予想しての対応とは思えない。

静賢(1124~?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E8%B3%A2

平治元年(1159)十一月十五日の信西は、大内裏造営などの様々な実績を上げ、有能な多くの子供たちも立身出世しており、後白河院政を取り仕切る自分の立場は盤石だと安心していたのではないか。
政治家として全盛期を迎えていた五十四歳の信西から見れば、二十七歳の藤原信頼など歯牙にもかけない存在。
まして十七歳の二条天皇など、まだまだ子供であり、自分が少し説得すれば直ぐに「二代后」のような無茶な行動は止めるだろうとみくびっていたのではないか。
『長恨歌絵』は、二条天皇への説得材料であるとともに、自分の優れた業績を後世に残すための記念碑的作品だったのではないか。

信西の説得に二条天皇がどのような反応をしたかは分からない。
激怒したかもしれないし、内心でははらわたが煮えくり返るような怒りを覚えつつも「ご指導ありがとうございます」と取り繕ったかもしれない。
しかし、二条天皇は特異な生活環境の中で育った異常にプライドの高い十七歳。
周囲の誰もが二条天皇の父親である後白河院を馬鹿にしており、二条も無能な後白河院に代わって早く自分が「治天の君」になるべきだと確信していたのではないか。
「天子に父母なし。吾十善〔じうぜん〕の戒功によッて、万乗の宝位をたもつ。是程の事、などか叡慮に任せざるべき」と確信していた二条は、人から説得されるのが大嫌いで、邪魔をする信西を何が何でも排除しよう、殺してやろう、と思ったのではないか。
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資料:桃崎有一郎氏「相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主」

2024-12-29 | 鈴木小太郎チャンネル2024
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第六章 保元の乱の恩賞問題と源義朝

信頼の信西への憎悪は三条殿襲撃事件の動機になり得るか。
院政期に進んだ平家の優勢、源氏の劣勢─義朝が大博打を打つ動機
義朝の縁談を断った信西の洞察力を問題視する『愚管抄』
相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主
義朝・信西の縁談問題は結果(三条殿襲撃)と釣り合わない
保元の乱における義朝の恩賞問題─裏づけなき通説
保元の乱当日の恩賞
報酬への満足度は主観で決まる
義朝と義康、最初の恩賞に不満を表明し追加させる
清盛は国守の権益を拡大したが地位を上昇できず
清盛も流れに乗って追加の恩賞を要求・獲得
家格差を考慮すると恩賞は清盛にこそ薄い
源義康と平家が繰り広げる恩賞の追加要求競争
義朝のみ恩賞追加を要求せず─恩賞問題を動機とする通説は誤り
義朝と重盛の間で均衡させられる源平の勢力バランス
義朝一家の猛追─嫡子が平家に追い着く
義朝の恩賞不満説は成り立たず─二条に奉仕する動機あり
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p106以下
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相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主

 しかし、慈円の同母兄九条兼実は、全く逆の証言をしている。兼実は、信西の才能を不世出と認めた。信西が著した『長恨歌絵』と、その製作意図を述べた信西の文書を読んだからだ〔『玉葉』建久二年一一月五日条〕。信西は、信頼に対する後白河の度を越した寵愛が、忠誠心どころか驕り高ぶる反逆心を育てると見抜いたが、何度そう諫めても後白河は聞かず、絶望した。そこで信西は、唐の玄宗と楊貴妃に関する史書を調べ上げ、挿絵入りの教訓書を著した。玄宗の度を越した寵愛は楊貴妃の一族を増長させ、その楊氏一族が、地方から台頭した実力者の安禄山を陥れようとして逆襲され、唐王朝を丸ごと潰滅寸前に追い込んだ。その教訓を活かせない後白河の治世は破滅するだろう。しかし、せめて未来の天皇たちは同じ過ちを繰り返さないで欲しい、と信西は述べている。
 興味深いのは『長恨歌絵』を完成させて王家の宝庫「宝蓮華院」に納めた日付で、それは平治元年一一月一五日、つまり平治の乱勃発のわずか二四日前だった(一条天皇の大嘗会の八日前)。詳細は不明ながら、その段階で、信西ははっきりと動乱の予兆を察知していた可能性が極めて高い。
 信西は、身に余る栄華が信頼の人格をどう変え、それがどう朝廷を没落させるかを見抜き、平治の乱まで察知したが、今の朝廷を諦めて未来に託した。それらはすべて、深い洞察力なくして行い得ないことだ。信西は希代の博識家だったが、頭でっかちの詰め込み型の知識人ではなく、同時代人の大多数が持たない洞察力を備えた人だった。しかも、そうした評価を下したのは、摂関家の三男でありながら長男基実の近衛家と対等な九条家を新たに興した兼実や、偉大な外記(太政官の文書行政官)として後世回顧された清原頼業など、トップクラスの政治家・実務家たちだった。その中で、信西が義朝からの婚姻の提案を無下に蹴り、あてつけのように清盛と婚姻関係を結ぶ、という行動がいかに重大な結果を招くか考えもせず、洞察力が欠けていた、という慈円の評価は浮いている。
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資料:桃崎有一郎氏「残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?」

2024-12-29 | 鈴木小太郎チャンネル2024
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第十一章 残された謎─信西・清盛・後白河の動向

残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?
平治元年の異常天体現象
信西は天文道の第一人者─輸入書の最新学説で死期を悟る
信西は易の第一人者─三善清行以来の学説を相承
執政の責任を取り梟首の恥を避ける自殺
自殺の邪魔と息子たちの落命を避けるための単独逃避行

残された謎②─二条一派はなぜ信頼を抹殺したか?
三条公教、信西政権に代位できる体制構築を二条親政に要求
朝廷政治再起動のため二条の悪行を信頼らに責任転嫁

残された謎③─清盛の動向と清盛黒幕説
義朝は天皇が動員すれば嬉々として戦うが、清盛は違う
二条一派は清盛を味方と確信できず
清盛が入京後も動かなかったのは九州の平家貞の上洛を待つため
清盛が警戒された理由─清盛は後白河院政派

残された謎④─後白河の動向と一本御書所
一本御書所に滞在することは何を意味するか
鳥羽院政期の一本御書所は天皇が皇位継承儀礼に出席する拠点
一本御書所は天皇の便利な定宿
傍観を強いられた後白河が巻き返して当事者に
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p203以下
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残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?

 平治の乱における大きな謎の一つは、信西の自殺だ。
 信西は三条殿襲撃を察知して、逃亡に成功した。それまでの社会通念では、彼はたとえ謀反の罪で逮捕されても、死刑に処せられた可能性はまずない。保元の乱でも、武士しか処刑されなかった。ならばなぜ、信西は逃亡し、容疑を裏づける印象を与えたのか。そしてなぜ、逃亡に成功したのに、早々に生存を諦めたのか。
 『愚管抄』によれば、腹心の西光が国外逃亡を進めたが、信西は拒否した。理由はこうだ。「自宅を出た時、天体の配置が本星命位にあった。命がここで尽きるという天命を意味する。逃れる術はない」と。この会話は、その場にいて生き残った西光たちでなければ知り得ない。『愚管抄』の記述態度から考えて、彼らのうち誰か、恐らく後白河院の近臣として後に羽振りがよかった西光が、自ら周囲に語った内容を収録したものと思われ、信憑性は高い。
 「信西をこの世から抹殺した点では源光保が最大の功労者である」という見解があるが[須藤94‐四九〇頁]、それは史実と違う。西光の証言らしき『愚管抄』の記述による限り、信西の死は間違いなく自殺で、光保は信西の遺骸を墓穴から暴いて首を持ち帰ったにすぎない。
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p205以下
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信西は天文道の第一人者─輸入書の最新学説で死期を悟る

 平治の乱の年に、天文道の専門家を戦慄させる珍しい天変が起きた。そして信西は、天文道の達人だった。彼は、天文道を専門に修めて天文博士を世襲する一族ではないが、世襲の天文博士たちさえ知らない、信じがたいほどの学識を持っていた、という証言がある〔玉葉』建久二年一一月一九日条〕。
【中略】
 ではなぜ信西は、世襲の天文博士たちが知らない最新の説、それも「秘説」を知っていたのか。基業が活用した『百注経』は、詳細不明だが、中国からの輸入書に違いない。そこに最新の学説が書かれ、信西だけが知っていたとなれば、答えは一つだ。信西は鳥羽院から、宋の貿易船が有明海で出入りする肥前国神崎荘の管理責任者の地位を預かっていた。信西は日宋貿易を通じて最新の学術書を入手し、理解し、儒者たちに伝授していたのである。
 その信西が、平治の乱の年に、〈熒惑が太微に入る〉という「希代」の天変を見た。信西は、それが「希代」の大混乱の前兆だとすぐい結論したに違いない。そして同時に、自分の宿命を示す「本星」が、命の終わりを示す「命位」にあったのを見た。希代の天文家だからこそ、天文学が示す自分の宿命を逃れられるとは露ほども思わなかった、ということなのだろう。

信西は易の第一人者─三善清行以来の学説を相承

 信西はもう一つ、予知能力を持っていた。「易」である。「易」は卜筮〔ぼくぜい〕の一種で、最も重要な儒教経典「五経」の一つ『易経』を学ぶことによって、世界の運行を把握し、未来を予測する技術だ。それは儒学の一部だが、易に通じる者は、日本にはほとんどいない。
【中略】
 これらの事実を踏まえれば、信西が襲撃を逃れられたのも説明がつく。信西は、天変を見て、恐らく易も併用して、近日中に自分を巻き込む大混乱が起こると予測した(先に述べた通り、平治の乱勃発の二四日前の一一月一五日までに、信西は動乱の前兆を察知していた)。そして、混乱の前兆をできるだけ素早く察知できるようアンテナを張り、世間を観察し、いつでも逃亡できる準備をしていた。だからいち早く事変に気づき、素早く逃亡できた。そういうことだろう。

執政の責任を取り梟首の恥を避ける自殺

 では、事前に事変を知り得た信西は、なぜ自分だけ逃亡したのか。逃亡先で速やかに自殺したのだから、自分だけ助かる利己的な行動ではない。すると、次のように考えられるだろう。
 信西は、逃亡を始めた時から自殺する予定だった。『愚管抄』によれば、理由は二つあった。一つは、天体観察によって死を逃れられないと観念していたこと。もう一つは、捕縛や拷問、あるいは梟首のような恥辱を公衆の前で晒したくないというプライドである。
 儒者は、学識によって政治を任されるのを栄誉とするが、政治に失敗すれば責任を取るべきで、それが君主を危険に晒すほどの大失敗なら、責任の取り方は自殺であるべきだ。それが、儒教経典や史書に数多く伝えられた、儒者の正しい責任の取り方だった。すでに信西は、平治の乱の前月の段階で、後白河の信頼に対する無軌道な鍾愛が、破滅的な混乱を招くと予想して『長恨歌絵』を著していた。信西が担う後白河院政は、あたかも安禄山の乱で唐の玄宗が蒙ったような、帝王が恥辱に塗れる形で破綻すると予見していたのだ。信西はそれを避けるべく全力で努力すべきだったが、果たせなかった。それで責任を感じ、自殺を選んだ、というのが、希代の儒学者として信西が取りそうな選択だ。
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0235 桃崎説を超えて(その1)─「二代后」問題の発生時期

2024-12-28 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第235回配信です。


一、前回配信の補足

0234 頼まれもしないのに桃崎有一郎氏の弁護を少ししてみる。(その4)〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fab6c6be790cc92503632ecc9731075

「二条天皇黒幕説」は桃崎氏自身が用いている表現。
しかし、律令法の大系において、天皇は究極の正統性(正当性)の根拠。
→建前としては無謬であり、黒くはなれない存在。

あえて言うならば「二条天皇白幕説」が妥当。
信頼・義朝は山賊・海賊の類ではない。
十二月九日の後白河院御所・三条殿襲撃事件の時点において、信頼・義朝は二条天皇を(監禁していたか否かはともかくとして)身近に確保していた。
そして十四日に義朝・頼朝親子らに恩賞人事、二十二日に信西の息子12人に流刑宣告。
これらはいずれも(二条天皇が信頼・義朝に強要されたか否かはともかくとして)二条天皇の名前でなされた。
三条殿襲撃も、少なくとも形式的には二条天皇の「王命」に従った行動であることは明らかではないか。
問題はその「王命」が実質を伴ったか。
信頼・義朝によって強制された「王命」だったのか、それとも二条天皇の真意に基づく「王命」だったのか。


二、「二代の后」問題の発生時期

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平治元年(1159)
 11.15 信西が動乱を察知し『長恨歌絵』を王家宝蔵に納める。
 12.9  藤原信頼・源義朝らが後白河上皇の三条殿を襲撃。
 12.10 早朝、信西宅に放火。信西の息子らを解官。
 12.14 義朝・頼朝親子らに恩賞人事。
 12.17 信西の首を梟首。平清盛が熊野詣から六波羅亭へ戻る。
 12.18 清盛が婿の藤原信親を父信頼のもとへ護送。
 12.22 信西の息子12人に流刑宣告。
 12.25 未明、二条天皇が六波羅亭へ、後白河が仁和寺へ脱出。
 12.26 京都合戦。清盛が義朝を破る。
 12.27 信頼を斬首。
平治二年(永暦元年、1160)
 1.9  尾張から届いた義朝の首を梟首。
 1.21  義朝の子義平を梟首。
☆1.26  藤原多子、入内。
 2.9  義朝の子頼朝を逮捕
 2.20  大炊御門経宗・葉室惟方を逮捕。
 2.22  信西の子らを赦免し京都に召還。
 3.11  経宗・惟方・師仲と源頼朝・希義兄弟に流刑宣告。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a04c8647d7e26e37c6003e2bbbebf7fe

従来、『平家物語』は平治の乱の史料としては全く無視されていた。
河内祥輔氏は①『百錬抄』②『愚管抄』③『平治物語』という史料の優先順位をつけていた。

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101

桃崎氏は『今鏡』を(あまり信頼できないとの留保付きで)加えているが、『平家物語』は無視。(p34)
しかし、『平家物語』の「二代后」エピソードは興味深い内容。

資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a

「二代后」は極めて異例な出来事であり、そこに描かれた公家社会の人々の反応は自然。
入内は平治二年(1160)一月二十六日。
二条天皇が藤原多子を入内させたいと思い、人々の反発を買ったのは前年十二月九日の三条殿襲撃以前であろう。
そうだとすれば、信西が『長恨歌絵』を作らせた時期とぴったり重なる。

資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

信西は何のために『長恨歌絵』を作ったのか。
『平治物語』でも「信西、せめてのことに、大唐、安禄山がおごれるむかしを絵にかきて、院へまいらせたりけれども、げに思しめしたる御こともなかりけり」とある。

資料:『平治物語』「信頼・信西不快の事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1199656886c30a33fc6572492b1fae3a

五十四歳の練達の政治家である信西が、臣下、それも僅か二十七歳の信頼の危険性を警告するために手間と費用をかけて『長恨歌絵』を製作するのは奇妙ではないか。
信頼の経歴・行動には安禄山を直接に連想させる要素はない。
皇帝が絶世の美女に執着し、国を危うくしたという状況は、むしろ「二代后」と重なる。
信西は「二代后」を止めさせるために、『長恨歌絵』を製作したのではないか。
コメント (6)
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資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」

2024-12-27 | 鈴木小太郎チャンネル2024
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『後白河法皇』(講談社選書メチエ、1995)

彼は〈日本一の大天狗〉だったのか?
中世胎動期に屹立する政治的巨人が透視したもの
源頼朝に対抗し、守旧勢力を巧妙に操った老獪な〈大天狗〉。はたまた『梁塵秘抄』を編纂した粋狂な男。後白河がいなければ、天皇制は存続しなかったかもしれない。古代王権を中世王権へと再生させるために、法皇は何を考えていたのか? 王権の機能を再編成し、文化情報の収集・独占と操作の意味を透視した天才の精神に迫る。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151368

p68以下
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学問と技芸のアウトライン

 信西の"博覧強記""諸芸通達"ぶりについては、古来さまざまな逸話(神話)が生まれ、また、さまざまな事実が伝えられている。その関心のひろがり・雑駁さ・実際性、そして芸道への深い傾倒は、頼長の学風とは好対照だ。
 逸話はしばらく措く。学問の分野では、鳥羽上皇の命をうけ六国史のあとをつぐ歴史書『本朝世紀』(未定稿。現存四五巻)や、律令格式の実際的運用のための判例およびケース別法律問答集、すなわち"律令格式百科大全"というべき『法曹類林』(現存四巻。もと二三〇巻)などの精力的な編纂が、事実の領域だ。そして、この二書こそ、「信西政権」の政策展開(後述)と密接不可分の著述・編纂作業の結晶であった。
 ここで、信西がその経史、とくに〈史〉の蘊蓄を傾けた〈白鳥の歌〉─君側の佞臣・信頼を弾劾し"暗君"後白河を強く諫めた言葉を掲げておこう(『玉葉』一一九一年〈建久二〉十一月五日条)。

【以下、二字下げ】
……そもそも長恨歌絵に相具して一紙の反古〔ほご〕有り。披見の所、通憲法師の自筆なり。文章褒むべく、義理悉く顕はる。感歎の余、之を写し留む。その状に云く、
【以下、三字下げ】
唐の玄宗皇帝は近世の賢主なり。然れども、その始めを慎み、その終りを弃〔す〕つ。泰岳の封禅(=皇帝が泰山〈山東省〉で天を祭る儀礼)有りと雖も、蜀都の蒙塵(=安禄山・史思明の乱で玄宗が楊貴妃の故郷蜀〈四川省〉に敗走したこと)を免れず。今、数家の唐書及び唐暦・唐紀・楊妃内伝を引き、その行事(=先蹤・事績)を勘へ、画図に彰はす。伏して望むらくは、後代の聖帝・明王、この図を披き、政教の得失を慎まんことを。また、厭離穢土の志有らば、必ずこの絵を見、福貴常ならず、栄楽夢の如きこと、之を以て知るべきか。この図を以て永く宝蓮華院に施入し了んぬ。時に平治元年十一月十五日、弥陀利生の日なり。
                           沙弥(信西)在判
【以下、二字下げ】
この図、君心を悟らせんが為、予〔かね〕て信頼の乱を察し、画き彰はせるところなり。当時の規模(=現在の規範)、後代の美談たるものなり。末代の才士、誰をか信西に比べん哉。褒むべく感ずべき而巳〔のみ〕……

 玄宗の治世前半は〈開元の治〉と称えられた聖代。しかし、後半は楊貴妃とその一族を寵愛し、安史の乱を呼び込んだ。信西は傍点部の史書を動員し、玄宗と楊貴妃をうたった白楽天の叙事詩長恨歌の絵を制作して後白河を諫めた。そして、〈開元の治〉に比すべき後白河の治世とは、すなわち信西自身の治世にほかならなかったから、この諫言はすなわち自らの政策展開に対する自讃の言葉にほかならない。
 ちなみに、信西の後白河批判については、もう一つ有名な史料がある。やはり『玉葉』の一一八四年(寿永三)三月十六日条だ。

【以下、二字下げ】
……大外記(清原)頼業来り……語らひて云く、「先年、通憲法師語らひて云く、『当今〈法皇を謂ふなり〉、和漢の間、比類少なきの暗主なり。謀叛の臣傍らに在るも、一切覚悟の御心無し。人(信西)これを悟らせ奉ると雖も、猶以て覚らず。かくの如きの愚昧、古来未だ見ず未だ聞かざるものなり。但し、その徳二つ有り。(a)もし叡心、事を果たし遂げんと欲すること有らば、敢て人の制法に拘らず、必ずこれを遂ぐ。〈この条、賢主においては大失なれども、今は愚暗の余りこれを以て徳となす〉。(b)次に、自ら聞こし食し置くの事、殊に御忘却無し。年月遷ると雖も、心底に忘れ給はず。この両事、徳と為せり』と云々。……」

 痛烈な批判、痛烈な皮肉だ。そして、(a)(b)ともに乱世の君主としてのマキャベリスト的〈徳目〉を逆説的に表現した警句。信西のしたたかさを証明する寸言というべきか。
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※「傍線部」を太字とした。
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資料:『平治物語』「信頼・信西不快の事」

2024-12-27 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)p146以下

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(信頼・信西不快の事)

 いにしへより今にいたるまで、王者の人臣〔にんしん〕を賞ずるは、和漢両朝をとぶらふに、文武二道を先とせり。文をもつては万機のまつりごとをおぎのひ、武をもつては四夷のみだれをしづむ。しかれば、天下をたもち国土をおさむること、文を左にし、武を右にすとぞ見えたる。たとへば人の二〔ふたつ〕の手のごとし。一〔ひとつ〕も欠けてはあるべからず。なかんづく末代の流れに及びて、人おごつて朝威〔てうい〕をいるかせにし、民はたけくして野心をさしはさむ。よく用意をいたし、せん/\抽賞〔ちうしやう〕せらるべきは勇悍〔ようかん〕のともがらなり。しかれば、唐の太宗文皇帝は、鬚〔ひげ〕をきりて薬をやきて功臣に給ひ、血をふくみ傷をすいて戦士をなでしかば、心は恩のためにつかへ、命〔めい〕は義によつてかろかりければ、兵、身をころさんことをいたまず、たゞ死を至〔いたさ〕んことをのみ願へりけるとぞうけたまはる。みづから手をくださざれ共、こゝろざしをあたふれば、人みな帰しけりといへり。
 近来〔きんらい〕、権中納言兼中宮権大夫、右衛門督藤原朝臣信頼卿といふ人ありけり。天津児屋根尊〔あまつこやねのみこと〕の御苗裔〔べうえい〕、中〔なかの〕関白道隆の八代の後胤、播磨三位すゑたかが孫、伊予三位仲隆が子息なり。文にもあらず、武にもあらず、能もなく、又、芸もなし。たゞ朝恩にのみほこりて、昇進にかゝはらず、父祖は諸国の受領〔じゆりやう〕をのみへて、年たけ齢〔よはひ〕かたぶきてのち、わづかに従三位までこそ至りしに、これは近衛府〔こんゑづかさ〕・蔵人頭〔くらんどのかみ〕・后宮〔こうぐう〕の宮司〔みやづかさ〕・宰相の中将・衛府督〔ゑふのかみ〕・検非違使別当、これらをわづか二三ケ年が間にへあがつて、年廿七、中納言・衛門督〔ゑもんのかみ〕に至れり。一の人の家嫡〔けちやく〕などこそ、かやうの昇進はし給へ、凡人〔ぼんにん〕にとりては、いまだかくのごときの例をきかず。官途〔くわんど〕のみにあらず、俸禄も又、心のごとくなり。家にたえてひさしき大臣の大将〔だいしやう〕にのぞみをかけて、かけまくもかたじけなく、おほけなき振舞をのみぞしける。みる人、目をおどろかし、きく人、耳をおどろかす。弥子瑕〔びしか〕にもすぎ、安禄山にもこえたり。余桃〔よたう〕の罪をもおそれず、たゞ栄華にのみぞほこりける。
 その比〔ころ〕、少納言入道信西〔しんせい〕といふ人あり、山井〔やまのゐの〕三位永頼卿八代の後胤、越後守季綱の孫、進士蔵人〔しんじくらんど〕実兼〔さねかぬ〕が子なり。儒胤をうけて儒業をつたへずといへども、諸道を兼学〔かねがく〕して諸事にくらからず。九流をわたりて百家にいたる。当世無双〔たうせいぶさう〕、宏才博覧〔くはうさいはくらん〕なり。後白河の院の御乳母〔めのと〕紀二位の夫たるによッて、保元元年よりこのかた、天下の大小事を心のまゝに執行〔しゆぎやう〕して、たえたるあとをつぎ、廃れたる道をおこし、延久の例にまかせて記録所を置き、訴訟を評定し、理非を勘決す。聖断〔しやうだん〕、わたくしなかりしかば、人のうらみものこらず、世を淳素〔しゆんそ〕に返し、君を尭舜〔ぎやうしゆん〕に致したてまつる。延喜・天暦二朝にもはぢず、義懐〔ぎくわい〕・惟成〔ゐせい〕が三年にもこえたり。大内はひさしく修造せられざりしかば、殿舎、傾危〔けいき〕して、楼閣、荒廃せり。牛馬の牧、雉兎〔きじうさぎ〕の臥所〔ふしど〕となりたりしを、一両年の中に造出して御遷幸あり。外郭重畳たる大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、朝所〔あいたんどころ〕にいたるまで、花の榱〔はへき〕、雲の栭〔たゝりかた〕、大廈〔たいか〕の構へ、成風の功、年をへずしてつくりなせり。不日と云べかりしか共、民のついへもなく、国のわづらいもなかりけり。内宴・相撲〔すまひ〕の節〔せち〕、久くたえたるあとをおこし、詩歌・管絃のあそび、折にふれてあいもよほす。九重〔こゝのへ〕の儀式、むかしをはぢず。万事の礼法、旧〔ふるき〕がごとし。
 その保元三年戊寅〔つちのえとら〕八月十一日、主上〔しゆしやう〕、御くらゐをしりぞかせ給て、御子の宮にゆづり申させ給けり。尊宮〔そんぐう〕と申は二条の院の御ことなり。しかれども、信西が権勢もいよ/\かさねて、とぶ鳥もおち、草木もなびくばかりなり。信頼卿の寵愛もいやいづれにて、肩をならぶる人もなし。こゝに、いかなる天魔の二人の心にいりかはりけん、その中不快、信西は信頼を見て、なにさまにもこれをば、「天下をもあやぶめ、世上をもみださんずる人よ」と見てければ、いかにもして失はばやとおもへども、当時無双の寵臣なる上、人の心もしりがたければ、うちとけ申あはするともがらもなし、ついでもあらばと、ためらいけり。信頼も又、なに事も心のまゝなるに、此入道をいぶせきことにおもひて、便宜〔びんぎ〕あらばうしなはんとぞ案じたる。
 上皇〔しやうくわう〕、信西におほせられけるは、「信頼が大将にのぞみをかけたるはいかに。かならずしも重代〔ぢうだい〕の清華〔せいぐわ〕の家にあらざれども、時によッてなさるゝこともありけるとぞつたへきく」とおほせられければ、信西、心におもひけるは、「すは、この世を損じぬるは」となげかしくおもひ、申けるは、「信頼などが大将になり候なば、たれ人かのぞみ申さで候べき。君の御まつりごとは、司召〔つかさめし〕をおゐてさきとす。叙位・除目〔じよもく〕にひがごと出できたり候ぬれば、上、天聞にそむき、下、人のそしりをうけて、世のみだれとなる。その例、漢家本朝〔かんかほんてう〕に比類すくなからず。さればにや、阿古丸〔あこまる〕の大納言宗通卿を、白河院、大将になさんとおぼしめされしかども、寛治の聖主〔しやうしゆ〕、御ゆるしなかりき。故中御門藤中納言家成卿を、旧院、「大納言になさばや」とおほせられしか共、「諸大夫の大納言になる事は、たえてひさしく候。中納言にいたり候だにも罪に候物を」と、諸卿、いさめ申しかば、おぼしめしとゞまりぬ。せめての御こゝろざしにや、年のはじめの勅書の上書〔うはがき〕に、「中御門新大納言殿へ」とあそばされたりけるを、拝見して、「まことの大臣・大将になりたらんよりも、なを過ぎたる面目かな。御こゝろざしのほどのかたじけなきよ」とて、老の涙をもよほしけるとこそ、承〔うけたまはり〕候へ。古〔いにしへ〕は、大納言、なをもつて執しおぼしめし、臣もいるかせにせじとこそいさめ申しか。いはんや近衛大将をや。三公には列すれども、大将をへざる臣のみあり。執柄〔しつぺい〕の息、英才のともがらも、此職をもつて先途とす。信頼などが身をもつて大将をけがさば、いよ/\おごりをきはめて、謀逆の臣となり、天のために亡ぼされ候はんことは、いかでか不便〔ふびん〕におぼしめさでは候べき」と、いさめ申けれども、君にはげにもと思召たる御気色〔きしよく〕もなし。信西、せめてのことに、大唐、安禄山がおごれるむかしを絵にかきて、院へまいらせたりけれども、げに思しめしたる御こともなかりけり。
 信頼、信西がかやうに讒言し申〔まうしし〕事をつたへきゝて出仕もせず、伏見源中納言師仲卿をあいかたりて、伏見なる所にこもりゐつゝ、馬のはせひきに身をならはし、力技をいとなみ、武芸をぞ稽古しける。これ、しかしながら、信西をうしなはんがため也。
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資料:『平家物語』巻第一「二代后」

2024-12-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『新日本古典文学大系44 平家物語 上』(岩波書店、1991)p29以下
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   二代后〔にだいのきさき〕

 昔より今に至るまで、源平両氏、朝家〔てうか〕に召つかはれて、王化に従はず、をのづから朝権をかろむずる者には、互〔たがひ〕にいましめをくはへしかば、代の乱れもなかりしに、保元に為義きられ、平治に義朝誅せられて後は、末/″\の源氏ども、或は流され、或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌して、かしらをさし出すものなし。いかならん末の代までも何事かあらむとぞ見えし。されども鳥羽院御晏駕〔あんか〕の後は、兵革〔ひやうがく〕うちつゞき、死罪・流刑・闕官・停任〔ちやうにん〕常におこなはれて、海内〔かいだい〕もしづかならず、世間もいまだ落居せず。就中〔なかんづく〕に、永暦・応保の比〔ころ〕よりして、院の近習者をば内より御いましめあり、内の近習者をば院よりいましめらるゝ間、上下おそれをのゝいて、やすい心もなし。たゞ深淵にのぞむで、薄氷を踏むに同じ。主上〔しゆしやう〕、々皇〔しやうくわう〕父子の御あひだには、なに事の御へだてかあるべきなれども、思〔おもひ〕の外〔ほか〕の事どもありけり。是も世澆季〔げうき〕に及で、人梟悪〔けうあく〕をさきとする故也。主上、院の仰〔おほせ〕を常に申かへさせおはしましける中にも、人耳目〔じぼく〕を驚かし、世もッて大〔おほき〕にかたぶけ申事ありけり。
 故近衛院の后、太皇太后宮と申しは、大炊御門の右大臣公能〔きんよし〕公の御娘也。先帝にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の外〔そと〕、近衛河原の御所にぞ移りすませ給ける。さきのきさいの宮にて、幽〔かすか〕なる御ありさまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、御歳廿三にもやならせ給けむ、御さかりもすこし過させおはしますほどなり。しかれども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸〔ひそか〕に行力使〔かうりよくし〕に詔〔ぜう〕じて、外宮〔ぐわいきう〕にひき求めしむるに及で、この大宮へ御艶書あり。大宮敢てきこしめしもいれず。さればひたすら早〔はや〕ほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。此事天下にをいてことなる勝事〔せうし〕なれば、公卿僉議あり。各意見を言ふ。「先〔まづ〕異朝の先蹤をとぶらふに、震旦〔しんだん〕の則天皇后は、唐の太宗のきさき、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給へる事あり。是は異朝の先規たるうへ、別段の事なり。しかれども吾朝には、神武天皇より以降〔このかた〕、人皇〔にんわう〕七十余代に及まで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず」と、諸卿一同に申されけり。上皇もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上仰〔おほせ〕なりけるは、「天子に父母なし。吾十善〔じうぜん〕の戒功によッて、万乗の宝位をたもつ。是程の事、などか叡慮に任せざるべき」とて、やがて御入内の日、宣下せられけるうへは、力及ばせ給はず。
 大宮かくときこしめされけるより、御涙に沈ませおはします。「先帝にをくれまいらせにし久寿の秋のはじめ、同じ野原〔のばら〕の露とも消え、家をも出で、世をものがれたりせば、今かゝる憂き耳をば聞かざらまし」とぞ、御歎〔なげき〕ありける。父の大臣こしらへ申させ給けるは、「世に従はざるをもッて、狂人となす」と見えたり。既に詔命〔ぜうめい〕を下さる。子細を申にところなし。たゞすみやかに参らせ給べきなり。もし王子御誕生ありて、君も国母〔こくも〕と言はれ、愚老も外祖〔ぐわいそ〕とあふがるべき瑞相にてもや候らむ。是偏〔ひとへ〕に愚老をたすけさせおはします、御孝行の御いたりなるべし」と申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮其比〔そのころ〕なにとなき御手習の次〔ついで〕に、

 うきふしにしづみもやらでかは竹の世にためしなき名をやながさん

世にはいかにしてもれけるやらむ、哀〔あはれ〕にやさしきためしにぞ、人々申あへりける。
 既に御入内の日になりしかば、父の大臣、供奉〔ぐぶ〕のかんだちめ、出車〔しゆつしや〕の儀式なンど、こゝろことにだしたてまいらせ給けり。大宮物憂き御いでたちなれば、とみにもたてまつらず。はるかに夜もふけ、さ夜もなかばになッて後、御車にたすけのせられ給けり。御入内の後は、麗景殿にぞまし/\しける。ひたすらあさまつりごとをすゝめ申させ給ふ御ありさま也。彼〔かの〕紫宸殿の皇居には、賢聖〔げんじやう〕の障子を立てられたり。伊尹〔いいん〕・鄭伍倫〔ていごりん〕・虞世南〔ぐせいなん〕・太公望・角里先生〔ろくりせんせい〕・季勣〔りせき〕・司馬。手なが長足なが・馬形の障子、鬼の間、李将軍がすがたをさながら写せる障子もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子とかけるも、ことはりとぞ見えし。彼清涼殿の画図〔ぐわと〕の御障子には、むかし金岡〔かなおか〕がかきたりし遠山〔えんざん〕の在明の月もありとかや。故院のいまだ幼主にてまし/\けるそのかみ、なにとなき御手まさぐりの次〔ついで〕に、かきくもらかさせ給しが、ありしながらにすこしもたがはぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋しくおぼしめされけむ、
 
 おもひきやうき身ながらにめぐりきておなじ雲井の月を見むとは

其間の御なからへ、言ひ知らず哀〔あはれ〕にやさしかりし御事なり。
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※「行力使」についての脚注(p30)
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高力士。唐の玄宗皇帝の信任篤かった宦官。玄宗の命を受けて楊貴妃を探し求めた事が「長恨歌伝」に見えるが、以下の文は「詔高力士潜捜外宮、得弘農楊玄琰女于寿邱」という、その一節を踏まえ、二条天皇に対する非難の意をこめたもの。「詔じ」は正節本の濁点による。
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0234 頼まれもしないのに桃崎有一郎氏の弁護を少ししてみる。(その4)

2024-12-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第234回配信です。


一、近時の学説の動向(続き)

資料:河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(その1)(その2)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8ea4593a6466c0bf0bff9f5a0f7dead
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3c65bde7b539b65b93de7dc5c4eb50e

資料:元木泰雄氏『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)〔2024-12-25〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd803b458b8db69d2cc57c656efd6025

資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101


二、桃崎説で説明しやすくなる点

「二条天皇黒幕説」は桃崎氏自身が用いている表現だが、ネーミングとしてはあまり良くない。

律令法の大系において、天皇は究極の正統性(正当性)の根拠。
→建前としては無謬であり、黒くはなれない存在。

あえて言うならば「二条天皇白幕説」が妥当。
信頼・義朝は、少なくとも形式的には二条天皇の「王命」に従って行動したことは明らかではないか。
問題はその「王命」が実質を伴ったか。
信頼・義朝によって強制された「王命」だったのか、それとも二条天皇の真意に基づく「王命」だったのか。

冗談はともかく、「二条天皇黒幕説」で説明しやすい点。

二条天皇は後白河院政を終わらせるため、十二月九日、信頼・義朝に三条殿襲撃を命じた。
信西の梟首、信西の息子たちの配流も命じた。
しかし、敵の多かった信西への処分はともかく、三条殿襲撃、後白河院略取については非難の声が高まり、二条は責任を全て信頼・義朝に押し付けることにして、十二月二十五日、大内を脱出。
清盛に信頼・義朝の討伐を命令。

①三条殿襲撃事件の参加者相互の特別な結びつきを見つける必要がなくなる。
 →当今の二条天皇の命令に従った、で十分。
②京都合戦の直前、二条天皇が簡単に脱出できた理由。
 →そもそも信頼によって監禁されていなかったから。
③信頼が謀反人として処断された後も信西の息子たちが許されなかった理由。
 →信西排除は二条の命令によるものだったが、そのやり方(三条殿襲撃)が良くなかったとの形で、信頼・義朝の処断と切り離した。


三、桃崎説でなお残る疑問

信西は何故に梟首という残虐な処置を受けねばならなかったのか。
何故に二条はそこまで信西を憎んだのか。
また、後白河院政を終わらせたいとしても三条殿襲撃はあまりに強引。
後白河との対立の原因はいったい何だったのか。
→「二代の后」問題ではないか。
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資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」

2024-12-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』(吉川弘文館、2019)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b383077.html

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第四章 平治の乱の構図理解をめぐって―清盛黒幕説と後白河上皇黒幕説について─

一 課題
二 平治の乱の構図理解(1)─清盛黒幕説について─
 1 多賀宗隼による新説
 2 清盛と信西の関係
 3 清盛の帰京について
 4 親政派と清盛(経宗・惟方の行動)
三 平治の乱の構図理解(2)─後白河黒幕説について─
 1 平治の乱に関する歴史叙述について
 2 貴族社会の状況とくに親政派と院政派の対立開始時期(乱の要因)
 3 後白河上皇の「動機」について(乱の要因2)
結び
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p170以下
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 1 平治の乱に関する歴史叙述について

 河内祥輔氏は二〇〇二年に発表された『保元の乱・平治の乱』において平治の乱の全体像を叙述された。河内氏は平治の乱を議論する際にいくつかの前提をおいている。つまり、保元の乱については、『兵範記』という一級史料があるために、『保元物語』の誤謬を見極めるのは容易だが、平治の乱は依拠すべき日記を欠くので、『平治物語』に対する見方に甘さが生じ、ともすれば、事件の経緯が『平治物語』に全面的に依存して説かれる危険がある。軍記物語である『平治物語』の筋立てをすべて白紙にもどして見つめ直すべきである。以上の基本態度をとられたことである。こうした基本態度に立って、平治の乱については、
  ①『百錬抄』、②『愚管抄』、③『平治物語』
という史料の優先順位をつけ、─とくに②の『愚管抄』を主軸にすえ─事件の経緯そのものを調べ直す基礎的作業を行なわれた。河内氏の『保元の乱・平治の乱』における平治の乱に関する記述は、典拠表示を有する学問的著作としては近年唯一のものである。さらに、近代歴史学の長いスパンをとってみても、ほとんど唯一といってもよい学問的達成ではないかと思われる。保立道久氏はこの河内氏の新説について、「河内氏が『保元の乱・平治の乱』で展開した新説は、この二つの乱の詳細を描き出して間然するところがない」と評されている。しかし、その挑戦ゆえにいくつかの問題点を有し、その所論の有効性や射程の範囲、限界性、問題点を我々は慎重に検討し、吟味する必要がある。
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p173以下
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 3 後白河上皇の「動機」について(乱の要因2)

 後白河上皇の動機こそが河内氏の独自の見解でありまた氏の最大の主張である。それは「皇位継承問題」である。後白河は二条(子孫)を直系とした父鳥羽の遺志に反抗し、二条即位で空いた皇太子にひそかに次男(後の守覚法親王)を擁立しようとした。この次男は平治の乱の二ヶ月後に出家し皇位継承資格を失っており、平治の乱は次男の出家を止めるタイムリミットに起きた。この(守覚)擁立案を進めようとする場合、最大の反対者と予想されるのは信西であり、後白河にとって、信西は「邪魔な存在」であり、そこに信頼は信西のライバルとしてにわかに登場するとされる。後白河の鬱屈した衝動、すなわち鳥羽法皇の遺志の遵守という合意に対する反感がそこにみえると指摘された。
 実は筆者は以上の主張については是非の判断ができない。というのは、河内氏自身「文献上にその徴証を見出すことができるわけではない」が、「あえて想像を廻らして」、<皇位継承問題>が、後白河が信西排除に動いた動機と記されているからである。
 「後白河のような人物こそ、父に対して反抗する姿が似合っている」という記述も、<そうかもしれないがそうでないかもしれない>としかお答えしようがない。「皇位継承問題こそが一貫して政治の最重要課題であり、政治の主たる動因であったとみなければならない」という観点は、河内氏の一九八六年の『古代政治史における天皇制の論理』以来の一貫した観点であり仮説であるので、その観点から平治の乱についても解釈されたということは氏の研究の文脈に立てば十分理解できるのだが、筆者はその前提的理解を共有することできないので、本書の核心的な仮説であるこの「後白河上皇の動機」についても、残された具体的な痕跡から検討せざるをえないことになる。その結果として、具体的痕跡(おおよそが文献史料)にもとづく経験科学としての歴史学の問題としては、この命題はいまだ実証された問題ではなく、そしておそらく今後も実証不能な問題と考えざるをえない。河内氏ではこの記述に関して「想像」と断っているので、その点で問題は少ないのだが、筆者は以上の立場をとるゆえに、この河内氏の見通しについては受け入れることはできない。
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資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」

2024-12-26 | 鈴木小太郎チャンネル2024
『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』 p139以下
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上皇御所の襲撃を正当化できるのは誰か

 俊憲兄弟の脱出以前に、襲撃者がした行為は二つしかない。三条殿への放火と、後白河院・上西門院の連れ出しである。上西門院はたまたま後白河と同居していただけで、標的ではあるまい。標的は後白河だ。しかも、円満な連れ出しなら、御所に放火するはずがない。ならば、次のように考えるのが妥当だ。襲撃者の主目的は、後白河の拉致と三条殿の破壊だった、と。
【中略】
 もし信頼・義朝が、信西の邸宅を襲っただけなら、私戦で済んだ。私戦も殺人も違法なので処罰は免れないが、それまでの判例に照らせば、解官・流罪くらいで済む。しかし、上皇御所を襲えば国家への反逆となり、「追討」という形での死刑判決は避けられない。
【中略】
 それにもかかわらず、襲撃者たちは<当然生き延びられる>という大前提で事件を起こした。彼らは、襲撃が社会の反発を(あまり)買わず、正当化可能で、襲撃さえ成功すればひとまず一件落着で安心だ、と信じられる理由を持っていたことになる。それは何だったのか。
 上皇御所の襲撃を正当化できる者。そして、犯人たちがその正当化に全幅の信用を置けるほどの者。それに該当するのは、襲われた上皇と同等以上の存在しかなかろう。
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p142以下
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皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値

 黒幕をここまで絞り込んだ歴史学者は、私が初めてではない。すでに河内説が、三条殿襲撃事件の黒幕を後白河だと名指ししている[河内02─一三四頁]。ただ、河内説は元木説・古澤説によって批判されている。【中略】
 ただ、それでも河内説には捨てがたい、価値ある指摘がある。
 一つは、後白河の皇子で二条の異母弟だった守覚の出家に着目したことだ[河内02─一一四~一一五頁、一三五頁]。守覚の出家は、京都合戦のわずか一ヵ月半後であり、その時期にはまだ最後の戦後処理(頼朝・希義兄弟や経宗・惟方・師仲の流罪処分)が完了していない。ならば、平治の乱と無関係ではないと考えるのが順当である。皇族は、出家すれば皇位継承権を失う。二条の異母弟がこの時期に出家した事実は、平治の乱に皇位継承問題が絡んでいたと推定するのに十分な根拠となる。これは、従来の学説の中で最大の価値があった着眼といっていい。
 もう一つ河内氏の着眼で重要なのは、信西の息子たちの断罪処分(解官・流罪)が、京都合戦で信頼が滅亡した後も、何と二ヶ月間も有効であり続け、撤回されなかった事実を指摘したことだ[河内02─一三〇頁]。信西の息子たちの断罪処分は、三条殿襲撃を果たした直接の結果として襲撃者一派が下した、信西一家を謀反人と断定する決定である。もしそれが、通説のいうように信頼による不正な人事だったのなら、信頼側が謀反人と断定されて滅亡した段階で、ただちに撤回されるのが当然だ。それが撤回されなかったということは、信頼でない別の誰かが信西一家を謀反人と断定し、その判断が信頼の滅亡後も揺るがなかった、ということだ。
 ならば、その"誰か"とは何者か。河内氏のいう通り、「その人物が九日事件(桃崎注─三条殿襲撃)の真の主役であろう」。そして、私見と同じく、河内氏もこう推測した。「そこに思い浮かぶのは、高位にある一人の人物ではなかろうか」と。
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