学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

最後のご挨拶

2022-07-31 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月31日(日)23時30分38秒

>筆綾丸さん
>ザゲィムプレィアさん

こちらこそ大変お世話になりました。
ま、あくまでこの場所がなくなるだけですので、引き続き宜しくお願いします。
ブログの方のコメント欄の使い勝手が悪ければ、また考えたいと思います。

※下記投稿へのレスです。

「御礼」(筆綾丸さん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11352
「区切りの挨拶」(ザゲィムプレィアさん)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11353
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

teacup掲示板、今までありがとう。

2022-07-31 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月31日(日)10時17分37秒

「鎌倉時代史掲示板」の時代から二十年以上も利用させてもらったteacup掲示板が、明日、2022年8月1日(月)13:00に終了となります。
本当に使いやすい掲示板だったので何とも残念ですが、流行の変化が激しいネットの世界で、これだけ長く続いたのは本当にすごいことですね。
私も最後の最後まで粘って投稿してみましたが、さすがにこのあたりで終わりにしたいと思います。
今後は、今まで掲示板投稿の保管場所という位置付けだったgooブログ「学問空間」をメインの投稿場所としますので、御意見等はそちらのコメント欄でお願いします。

「学問空間」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin

また、2007年6月以降の過去投稿は「したらば掲示板」に保管しています。

「Japanese Medieval History and Literature」
https://jbbs.shitaraba.net/study/13414/

「したらば掲示板」についての注意事項は下記記事を参照して下さい。

「掲示板の今後について(その2)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ba96675c24351dee5e94b701ee7ca1cc
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東国の真宗門徒に関する備忘録(その6)

2022-07-29 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月29日(金)16時40分1秒

井上見淳氏が『真宗悪人伝』(法蔵館、2021)で紹介された十人のうち、普通の意味での「悪人」に一番近いのは唯善ですね。
何しろ(覚恵・覚如側から見れば)唯善は文書偽造・詐欺・建造物損壊・窃盗・横領の犯罪者ですから。
しかし、覚恵・覚如と唯善の間で紛争が起きていた時期の大谷廟堂は「寺」ではなく、「留守職」の役割もそれほど明確だった訳でもありません。
そもそも、この時期には親鸞の子孫がその血縁関係だけで尊重されるというようなことは全くなくて、東国門徒は経済面で親鸞の子孫を圧倒していたばかりか、それぞれの初期指導者が親鸞から直接に教えを受けたことを誇りとしていて、宗教面でも親鸞の子孫に全く依存していません。
要するに、親鸞の子孫のどなたかが大谷廟堂の管理をして下さるのは結構なことで、必要なお金も出しますが、親族間で変なトラブルを起こして私たちに迷惑をかけないで下さいね、というのが大半の東国門徒のスタンスだったと思います。
ただ、親鸞の子孫の側から見れば、東国門徒には地域ごとに派閥があって、相互にあまり仲が良くないのが付け目ですね。
さて、続きです。(p133以下)

-------
 はたして翌年、覚恵は関東の門弟中へ覚如を向かわせ、今回の事情説明と訴訟費用の協力願いを行わせました。その結果、唯善の言い分はくつがえり、従来の廟堂の管理体制を支持する後宇多院の院宣を取ることに成功したのでした。ちなみに有房が、「この大谷廟堂に関する院宣の宛名は覚恵でよいか」と尋ねた所、覚恵は「母の思いからすれば《門弟中》として欲しい」と述べたそうです。この院宣は鹿島門徒が預かるところとなりました。
-------

『本願寺史 第一巻』によると、唯善の言い分を書いた正安三年(1301)十二月の「言上書」が専修寺に伝わっているそうですが、唯善の得た最初の院宣は残っていないそうですね。(p154)
また、覚恵側が得た二番目の院宣については、

-------
【前略】この院宣の正本は本願寺に現存するが、初めの一行を欠逸しているので、案文をもって補うと、次の通りである。
  親鸞上人影堂敷地事、依山僧之濫妨、唯善歎申之間、雖被下院宣、所詮任尼覚信置文、
  門弟等沙汰不可有相違由、依院宣所仰如件
     正安四年二月十日              参議(花押)
       親鸞上人門弟中
-------

とのことですが(p155)、怪しいといえば怪しい感じがしないでもないですね。
ま、この参議の花押が本当に六条有房のものかどうかが一番のポイントでしょうが。
さて、井上著に戻って、続きです。(p133以下)

-------
 二年後の嘉元元(一三〇三)年。関東では、時宗門徒が中心となり、諸国へ群参しては横暴にふるまうとのことで、幕府の禁制を受ける事件がありました。ところが、当時はどの門流の念仏者か区別が難しい時代で、中には親鸞聖人の門流の者も含まれていたのでした。
 さて、そのことを知った唯善はすぐに関東へ赴くと、横曾根門徒の数名と協力して、鎌倉幕府にはたらきかけるための莫大な資金を集めることに成功します。それをもって幕府へ出向き、「親鸞の門徒はその限りではない」との旨を記した安堵状を取ってきたのでした。その中には、自らを親鸞聖人の正統な後継者「遺跡(ゆいしゃく)」と明記させていました。彼の、一連の見事な立ち回りの狙いはここにありました。つまり廟堂の管理者として自分こそふさわしい子孫だという既成事実を作り出す所にあったのです。
-------

井上氏は唯善の「一連の見事な立ち回りの狙い」を非難されますが、客観的に見て、幕府の禁制の対象から親鸞の門徒を除外させた唯善の功績は大変なものですね。
このように唯善は極めて政治的に有能ですが、横曾根門徒と一体となっての幕府への働きかけは、私には性海の『教行信証』開板事業を連想させます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東国の真宗門徒に関する備忘録(その5)

2022-07-29 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月29日(金)13時38分21秒

唯善が性海の『教行信証』開板事業に協力し、正応四年(1291)、二十六歳の時点で相当の政治的経験を積み、幕府中枢との人脈も形成した後で京都に移住したと仮定すると、唯善と覚恵・覚如間の紛争の経緯も、『本願寺史 第一巻』(浄土真宗本願寺派宗務所、1961)が描く展開とはかなり異なるものとして見えてきます。
この問題は『本願寺史 第一巻』を引用しつつ説明すると相当に長くなるので、現在の研究水準を反映しつつ、コンパクトに説明してくれる文献がないかなと探してみたところ、龍谷大学准教授・井上見淳氏の『真宗悪人伝』(法蔵館、2021)は良いですね。

-------
善信房親鸞、熊谷直実、弁円、慈信房善鸞、唯善、蓮崇、顕如、教如、智洞、金子大榮。浄土真宗の歴史に輝く、「悪人」たちの物語!

https://pub.hozokan.co.jp/book/b590347.html

浄土真宗本願寺派の僧侶でもある井上見淳氏が言われる「悪人」にはもちろん含意があって、その概要は「好書好日」の著者インタビューで知ることができます。

-------
井上見淳さん「真宗悪人伝」インタビュー 善人ではないという自覚、物語で表現

https://book.asahi.com/article/14491033

さて、五番目の「悪人」である唯善の章は、

-------
1 衝撃の決断
   覚信尼さまの家族
   親鸞聖人のお墓
   小野宮禅念の思い
   覚信尼さまの決断
   臥薪嘗胆の日々
2 激突の代償
   大谷北地と大谷南地の緊張
   唯善うごく
   執念の攻防
   覚如上人の護法への思い
-------

と構成されていますが、「唯善うごく」から少し引用します。(p131)

-------
 唯善が京に戻ってから五年後の正安三(一三〇一)年、関東の門弟の中で高田門徒、横曾根門徒に次ぐ大集団となっていた鹿島門徒から、長井導信という人物が北地を訪ねてやってきました。その目的は、親鸞聖人が「真宗の教証、片州(日本)に興す」(「正信偈」、『註釈版』二〇七頁)と讃嘆され、生涯お慕い続けた法然聖人の伝記制作を依頼するためでした。法然聖人は今もなお、阿弥陀如来の本願の救いを説き広められた中心人物として、多くの人に尊崇されていました。覚如はそれをわずか二十日足らずで書き上げると、『拾遺古徳伝』(全九巻)と名づけられたのでした。
 ところで、この導信が滞在中に南地を訪れた時、驚くべき情報を入手します。それは北地の相続に関して、唯善が父小野宮禅念の譲状を所持していると主張しており、自らの所有とするべく画策して、すでに院宣を得つつあるというのです。院宣とは、上皇が発給する文書で、当時の社会で大きな法的効力を持ちました。
 この情報は事実でした。彼は朝廷に、「自分は父禅念の逝去以来、その《一子》として管理に努めてきており、その任を全うする為に院宣を得たい」と大胆な虚構を交えて訴え、ついに院宣を得ていたのです。まさに奇襲でした。
 事態は急を要します。覚恵は後宇多院の側近の一人であった参議、六条有房と接触し、「唯善がいう禅念の譲状などというのはまったくの虚構で、もし何か差し出したのなら偽造したに過ぎません。一方で、母覚信尼が関東の門弟中へ差し出した寄進状はたしかなものです。ご覧になりましたか?」と尋ねたところ、「見ていない」といいます。ならば、ということで寄進状を提出したことで、有房から「今回の件で院宣はすでに出されたが、重ねて説明すれば正理に帰した院宣を得ることは可能だ」とする回答を引き出したのでした。
-------

いったん、ここで切ります。
六条有房は久我通光の孫で、後深草院二条の七歳上の従兄ですね。
京都と鎌倉を頻繁に往復していた点でも二条と似た存在です。

六条有房(1251-1319)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E6%9C%89%E6%88%BF
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東国の真宗門徒に関する備忘録(その4)

2022-07-28 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月28日(木)14時36分21秒

性海が見た四度の夢は本当に綺麗に整理されていて、単純に事実の記録という訳ではないでしょうね。
おそらく性海は同種のストーリーを平頼綱にも提供して、最高権力者のプライドを巧妙に刺激しつつ、開板事業への協力を要請したのだと思われます。
この夢の内容は今井氏が次のように解説されていますが、私が奇妙に思うのは第四番目の夢です。(p158以下)

-------
第一回の夢-正応三年十二月十八日の夜の夢
 「当副将軍相州太守平朝臣(執権の北条貞時)」の乳人である「平左金吾禅門法名
  杲円(平頼綱)」が七人の僧侶を招き、『大般若経』を書写させた時、性海もその
  人数に加えてもらって、白馬一匹・金銭一裹を布施として与えられた。

第二回の夢-正応四年一月八日の夜の夢
  北条貞時の息子で十二、三歳位の童子が性海の膝の上で正坐した。

第三回の夢-正応四年一月二十四日の夜の夢
  先師性信法師が現われて、『教行信証』を開板する時はその旨を平頼綱に申し出、
  その援助を得てから実施しなさい、とおっしゃった。

第四回の夢-正応四年二月十二日の夜の夢
  二人の僧が五葉松一本と松笠一つを持ってきて、性海に与えた。

 右の四回の夢は、性海、さらには横曾根門徒がいかにも北条貞時・平頼綱とのかかわりがありそうなことを思わせる。ただし、「相州息男、年齢十二三許童子」というのは、誰に当たるのかよくわからない。貞時は文永八年(一二七一)の生まれであるから、正応四年(一二九一)には二十一歳である。その息子が十二、三歳というのはいかにも不審である。貞時には北条時基・同煕時・同師時に嫁した三人の娘と、その下に五人の男子がいた。長男の菊寿丸は永仁六年(一二九八)の生まれ、貞時のあとを継いだのは四男の成寿丸(高時)で、嘉元元年(一三○三)の生まれである。このほかに頼綱に養われていた娘がいたという。
 さて性海はこれらの夢を「浄教感応之先兆、冥衆証誠之嘉瑞也」と判断した。『教行信証』を開板しようという自分の計画について、阿弥陀仏が感動してくれる前ぶれであり、他の仏・菩薩もそれに賛成してくれるありがたいしるしである、というのである。そこで「機縁時至、弘通成就者歟」と、喜んだ。よい機会が来た、『教行信証』の教えが広まるときだ、という。
 性海は平頼綱に開板のことを申し上げたところ、許可され、その援助を得て出版することになった。性海は「勧進沙門性海」と署名しているので、頼綱はじめ他の人びとからも資金の援助を求めたのであろう。付言しておけば、性信は『教行信証』に「沙門性信」と署名しており、「沙門」と名のるのは初期横曾根門徒の一つの風潮だったようである。これに対し、鹿島門徒では「沙弥順性」などと名のっている。これは自分自身の名のりであるが、広くいえば、初期真宗教団全体では、「親鸞法師」「性信法師」と、他の僧を呼ぶことも一般的であった。「法師」については、存覚の『存覚一期記』『存覚袖日記』などを見れば明らかである。
 平頼網の「聴許」を求める必然性というのは、やはり横曾根地方が頼綱の支配下にあったからであると考えたい。信頼する次子助宗の名字にするほどであるから、横曾根を南半地域に含む飯沼を、頼綱は重要視していたと判断すべきであろう。また、日蓮の熱原の信者たちに対して、助宗が「可申念仏之旨」「再三」にわたって責めたということから考えても、阿弥陀信仰は頼綱が同意する要素を十分に有していたのである。

http://web.archive.org/web/20061006213546/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imai-masaharu-yorituna-03.htm

三回目の夢までは非常に分かりやすいと思いますが、四回目の夢、「有二人僧、而持五葉貞松一本松子一箇、来与於性海覚、而夢惺畢」は何を表現しているのか。
この二人の僧は誰なのか。
「五葉貞松」、即ち常緑の五葉松(の盆栽?)と「松子」は何の象徴なのか。
この点、今井氏は何の見解も示されていませんが、峰岸純夫氏は「鎌倉時代東国の真宗門徒-真仏報恩板碑を中心に-」(北西弘先生還暦記念会編『中世仏教と真宗』所収、吉川弘文館、1985)の注(20)において、

-------
(20)この夢告は意味を解し難いが、親鸞入胎の時、母が菩薩から五葉の松を授かったという夢告が伝えられている(「親鸞聖人正統伝」(真)七巻三一五・三一六頁)。また二人の僧とは、親鸞と性信であろうか。

http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm

とされています。
しかし、性信(1187-1275)は第三回目の夢に出てきているので重複は変ですし、性信・親鸞とも、わざわざ名前を隠す理由もないはずです。
ところで、「当相州息男、年齢十二三許童子」に該当者がいないということは、性海は北条貞時の家族構成を正確に知っている訳ではないこと、即ち、仮に性海が出家した御家人だとしても幕府の中枢に近いような存在ではないことを示していると思われます。
そこで、性海の希望を平頼綱に伝えるためには幕府中枢との仲介者が必要となるはずであり、この二人の僧はその仲介者を暗示しているのではないかと私は考えます。
そして、義姉の後深草院二条を介して唯善は平頼綱・飯沼助宗と極めて強力なコネを有していますから、二人の僧のうちの一人は唯善の可能性があるのではないか、と私は考えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東国の真宗門徒に関する備忘録(その3)

2022-07-28 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月28日(木)12時08分39秒

『本願寺史 第一巻』(浄土真宗本願寺派宗務所、1961)には、前回引用した部分に続いて「大谷の紛擾と恢復」、即ち唯善による「大谷北地」「大谷南地」と大谷廟堂「留守職」の「横領」の試みとその失敗についての長大な記述がありますが、その点は後で必要に応じて参照することとします。
本願寺側の記録には疑わしい点が多々ありますが、一番変なのは唯善一家が東国での生活に困窮し、それを哀れんだ覚恵が京都に招いた、というストーリーになっている点ですね。
覚恵が唯善一家のために「大谷南地」を用意してあげたのなら、このストーリーも説得力を持ちますが、実際には唯善に近い東国の真宗門徒がわざわざ京都に来て「大谷南地」を買ってくれた訳です。
つまり唯善には経済的に豊かな保護者がいた訳で、東国で困窮していたはずがなく、これは唯善の忘恩を強調するための創作ですね。
さて、親鸞の子孫でありながら、本願寺側から極悪非道、獅子身中の虫として糾弾された唯善(1266-1317)は、中院雅忠(1228-72)の猶子なので、後深草院二条(1258生)にとっては八歳下の義理の弟となります。
そして、後深草院二条は平頼綱・頼綱夫人と直接の面識があり、飯沼助宗とは男女の仲を疑われるほど親しかった訳ですから(本人談)、鎌倉にいた唯善にしてみれば、義姉の持つコネクションを利用しない手はないだろうと思われます。

「新将軍久明の東下」
http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm
「飯沼判官との惜別、熱田社」
http://web.archive.org/web/20150514084840/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-12-iinumahangan.htm

そこで気になるのは、正応年間、横曾根門徒の性海が平頼綱の助力を得て『教行信証』を開版したという話です。

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfef6c92f27660acfc5a871d76b993d7

この事業の詳細については今井雅晴氏「平頼綱と『教行信証』の出版」(『親鸞と東国門徒』所収、吉川弘文館、1999)が参考になります。
まず、今井著で関係の史料を確認しておきます。(p157以下)

-------
ロ 横曾根門徒の『教行信証』の開板

 真宗高田派の本山である専修寺蔵の『教行信証』二本および同派の中山寺蔵の『教行信証』の化身土巻奥書によって、『教行信証』が平頼綱の援助によって開板されたことが明らかとなっている。平松令三氏や重見一行氏の功績である(37)。中山寺本には、その奥書が次のようにある。

(第一面)
  今此教行信証者、祖師親鸞法師選述也、立章於六篇、調巻於八軸、皆引経論真文、
  各備往生潤色、誠是真宗紹隆之鴻基、実教流布之淵源、末世相応之目足、即往安
  楽之指南也、而去弘安第六暦歳癸未春二月二日、彼親鸞自筆本一部六巻、従先師
  性信法師所令相伝畢、為報仏恩、欲企開板於当時伝弘通於遐代之刻、有度度夢想
  之告矣、于時正応第三天歳次庚寅冬臘月十八日夜寅剋夢云、当副将軍相州太守平
  朝臣乳父平左金吾禅門<法名杲円>
(第二面)
  屈請七口禅侶、被書写大般若経、彼人数内被加於性海、而奉書写真文畢、爰白馬
  一疋金銭一裏〔裹〕令布施之覚、而夢惺畢、同四年正月八日夜夢云、当相州息男、
  年齢十二三許童子来、而令正坐於性海之膝上覚、而夢惺畢、同廿四日夜夢云、先
  師性信法師化現、而云、教行証開板之時者、奉触子細於平左金吾禅門可刻彫也言
  已、乃去覚、而夢惺畢、同二月十二日夜夢云、有二人僧、而持五葉貞松一本松子
  一箇、来与於性海覚、而夢惺畢、依上来夢想、倩案事起、偏浄教感応之先兆、冥
  衆証誠之
(第三面)
  嘉瑞也、若爾者、機縁時至弘通成就者歟、仍奉触子細於金吾禅門、即既蒙聴許、
  而所令開板也、然此本者、以親鸞自筆御本校合、令成邦板者、庶幾後生勿令加減
  於字点矣、
  于時正応四年五月始之、同八月上句終功畢、
                       勧進沙門性海

 右の奥書によれば、性海は弘安六年(一二八三)二月に『教行信証』を「先師性信所」から相伝した。この「先師性信所」が性信自身を指すのか、性信の後継者とされている証智尼を指すのかは議論の分かれるところであるが、ここでは触れないこととする。性海は横曾根門徒と考えられるが、親鸞の門弟に関する諸交名牒には現われないので、いかなる人物か不明である。その性海は、『教行信証』を出版して教えを広めようと考えていたところ、正応三年(一二九○)から翌年にかけて四回の夢を見た。この時期はまさに平頼綱の全盛期である。

http://web.archive.org/web/20061006213546/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imai-masaharu-yorituna-03.htm

いったん、ここで切ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東国の真宗門徒に関する備忘録(その2)

2022-07-27 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月27日(水)12時12分33秒

全くの門外漢である私などが真宗教団の研究史に新知見を付け加える余地など有り得ないように思っていたのですが、唯善が後深草院二条の父・中院雅忠の猶子であることに特別な注意を払っているのは私くらいではないかと思いますので、この観点から少し論じたいと思います。
まず、前提として唯善がいかなる人物かを確認しておくと、『本願寺史 第一巻』(浄土真宗本願寺派宗務所、1961)の「第三章 大谷廟堂の建立と推移」「五、大谷南地の買得」には次のようにあります。(p150以下)

-------
 唯善は覚恵の異父弟、文永三年の誕生、幼名を一名丸と称したこと等は、すでにこれを述べた。『慕帰絵詞』(巻五)に、「鎌倉の唯善房と号せしは、中院少将具親朝臣の孫、禅念房の真弟也、幼年のときは少将輔時(〇中院具親の子)猶子とし、成仁の後は亜相雅忠卿(〇久我通光の子)の子の儀たりき、仁和寺相応院の守助僧正の門弟にて、大納言阿闍梨弘雅とて、しばらく山臥道をぞうかゞひける」とある。『敬重絵詞』(巻五)にも唯善の出家後のことについてほぼ同様のことを伝えているが、また後には隠遁して常陸河和田の唯円に師事したことを述べ、『交名牒』にも唯円の下に唯善を列ねている。
 しかるに『存覚一期記』(正安元年の条)に

 唯善房者、本山臥也、仁和寺相応坊守助僧正弟子也、号大納言阿闍梨弘雅、而落堕之後、
 居奥州河和田、嫁或仁、子息等出来、無足窮困之間、太々上(〇覚恵)被喚上令同宿給、
 北之敷地闕少、被加南敷地者可宜之由、唯公於門弟中連々被相語之間、夏比奥郡人々有
 上洛、及沙汰、

とある。すなわち覚恵は唯善一家の困窮を知って、河和田から京都に召し上せて同居せしめたが、大谷は二家族が居住するには狭隘であった。よって唯善は南隣の地を買い添えることを発議し、永仁四年夏常陸奥郡の門徒が上京して、その間の処置をとった。おそらく唯善と既知の奥郡の門弟が協力したのであろう。
-------

いったん、ここで切ります。
唯善(1266-1317)は親鸞の末娘・覚信尼(1224-83)が小野宮禅念(?-1275)との再婚後に生んだ子供で、出産時には覚信尼は四十三歳であり、当時としては、というか今でも相当に珍しい高齢出産ですね。
ちなみに覚信尼も母の恵信尼(1182-1268)が四十三歳の時に生んだ子で、高齢出産が二代続いています。
そして、覚信尼は先夫・日野広綱との間に覚恵(1239-1307)を産んでおり、覚恵・唯善は二十七歳違いの異父兄弟であって、覚恵の息子・覚如(1270-1351)が唯善とほぼ同世代ですね。
また、唯善は「亜相雅忠卿」中院雅忠の猶子であり、「大納言阿闍梨弘雅」の「雅」も雅忠から一字をもらったものと思われます。
『慕帰絵詞』には「成仁の後は亜相雅忠卿(〇久我通光の子)の子の儀たりき」とありますが、中院雅忠は文永九年(1272)、唯善が七歳のときに死去しているので、猶子になったのは唯善が幼児の時期ですね。
ところで、京都で生まれた唯善は、時期は不明ですが、『歎異抄』の作者とされる常陸河和田の唯円(1222-89)のもとで生活するようになり、結婚して子供も出来た後、一家で京都に戻って来ることになります。
『存覚一期記』には、唯善一家の困窮を見かねて覚恵が京都に招いたとありますが、別に覚恵が住居(大谷南地)を用意してあげた訳ではなく、その資金は「門弟」「奥郡人々」が出しているのですから、唯善困窮ストーリーも存覚(覚如の息子、1290-1373)の創作の可能性が高いですね。
さて、続きです。(p151以下)

-------
 いま新しく買い添えた地は、後に大谷南地と称されたところであるが、『一期記』や南地の手継目録・沽却状等に、この地の来由や買得の際の事情等を察せしめるものがある。元来この地は長楽寺隆寛の孫弟に当たる慈信房澄海が文永四年二月照阿弥陀仏から買得して居住し、弘安元年十月その子禅日房良海に譲ったので、爾来良海が領有していた。良海にはこれを売却する意志はなかったが、唯善がしきりに懇望したので、これを譲ることになった。その時良海は沽却状の宛名について照会したところ、唯善宛を希望する門弟も少々いたが、覚恵はそれは当然門弟中とすべきで、大谷の敷地を拡張したのであるから、門弟中とすることが覚信尼の素志にかなうことであり、もし個人宛としておくと将来紛擾を起す恐れがある、またたとい敷地が門弟中の管領であっても、そこに唯善が居住して一向差支えがない、と主張した。これは後述の唯善の大谷横領の意図を妨げるものであるから、その座にいた唯善は顔色を変じ、すこぶる立腹の態であった。しかし結局覚恵の意見通り良海の沽却状には、「彼遺弟御中」と記された。かくてこの後新加の地にも新しく坊舎が建てられて唯善が居住したので、大谷に参詣するものは、廟堂を拝して後、まず覚恵を北殿に、次に唯善を南殿に訪ねるのを例としたという。
-------

この「大谷南地」獲得に関するストーリーも、あくまで覚恵・覚如側から語られていることに留意する必要があります。
唯善から見たら、素材は殆ど同じでも全く違う光景が見えたかもしれないですね。
そして、この後、覚恵・覚如と唯善の間で大谷北地・南地と「留守職」を巡る一大紛争が勃発し、結局は唯善が負けてしまうことになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東国の真宗門徒に関する備忘録(その1)

2022-07-25 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月25日(月)12時34分32秒

暫く投稿を休んでいましたが、またボチボチとやって行きたいと思います、てなことを書くのは今月二回目ですね。
この一週間、鎌倉・南北朝期の浄土真宗の動向をチマチマと探っていたのですが、概ね今井雅晴氏(筑波大学名誉教授)の研究をなぞった程度の出来具合です。
二年前は善鸞の公名であった「宮内卿」と女流歌人の「宮内卿」の名前の由来を考えていたあたりで迷宮に入ってしまいました。

二人の「宮内卿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa2b899cb15e8906fc13509f17b2c57d
ミスター宮内卿を探して
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d226c24b2af0c6b9dac3e9af550da63

今回、今井氏の『親鸞と浄土真宗』(吉川弘文館、2003)所収の「如信の子孫と大網門徒」を読んでみたところ、親鸞に義絶された善鸞の息子でありながら、後に本願寺二世と称されることになる如信の末子・範昭について、

-------
④祖父の跡をついだ?範昭
 末の男子とみられる範昭も、京都で活動したようである。『日野一流系図』『尊卑分脈』『大谷系図』には「宮内卿」と注記がしてある。範昭の祖父善鸞も「宮内卿」と称した。『慕帰絵詞』第四巻第一段に、「慈信房<善鸞宮内卿公>」とあるから、善鸞がさる寺院での修業時代には公名として宮内卿公(くないきょうのきみ)を名のっていたのである。範昭も善鸞と同じ寺院で修業したかどうかはわからないが、祖父の由緒で宮内卿公と名のったものと考えられる。
-------

とありました。(p230)
やはり善鸞の家系では「宮内卿」が相当意識されているようですが、日野氏には宮内卿となった人は見あたらないので、これは善鸞の母方(不明)に「宮内卿」がいることを示唆しているようです。
そして、その家系が小野宮の系統と交錯しているのではなかろうか、と私は推測しています。
ま、「宮内卿」自体はそれほど重要な問題ではありませんが、小野宮禅念と覚信尼の結婚は二つの家系の初めての接触ではなく、更に前の時代に遡ることを推測させますので、もう少し探ってみたいと思います。
次に、やはり二年前の疑問として、本願寺第三世・覚如を称揚する『慕帰絵詞』に、何故に稚児時代の覚如の男色記事がやたらと出てくるのだろう、という問題がありました。

今井雅晴氏「若き日の覚如」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4202e02e274c369f47c699f70c68404a
重松明久『人物叢書 覚如』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c860bee63eefcce083e9a8a8f899a57
『慕帰絵詞』に登場する「小野宮中将入道師具」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/35e717946835992c753bed16d75f6da3

この問題と直接に関係する訳ではありませんが、今井氏は『親鸞と浄土真宗』所収の「覚如と唯円」において次のように書かれています。(p182以下)

-------
③ 覚如の親鸞子孫の尊重と唯円
 初期浄土真宗史を見ていく場合、長い間、親鸞と善鸞の争い、覚恵・覚如と唯善との争いという親鸞一族の骨肉の対立の図式で論じるのが常識となっていた。ただ、近年、それにしては『最須敬重絵詞』や『慕帰絵詞』に善鸞や唯善の事跡が大きく取り上げられているのはなぜだろうか、という疑問が出された。そしてそこには、それらの対立を超えて、親鸞の一族は尊重されるべきであるという主張があるのではなかろうか、というのである。
 確かに、善鸞について批判を加えつつも、『最須敬重絵詞』第四巻第十六段には、

   さればこの慈信大徳も今のありさまは釈範に達し、その行状は幻術に同すれども、
   しらず御子巫等の党にまじはりて、かれらをみちびかんとする大聖の善巧にもや
   ありけん、外儀は西方の行人にはあらざれども、内心は弥陀を持念せられければ、

と完全否定はしていない。むしろ讃めるべき部分を探している。『慕帰絵詞』第四巻第一段にも同じ逸話を載せ、また、

   炉辺にして対面ありて、聖人と慈信法師と、御顔をさしあはせ、御手と手ととり
   くみ、御顔を指合て何事をか物を密談あり。

と、親鸞と善鸞の親しさを説いている。
 唯善についても、同じく批判を加えつつ、『最須敬重絵詞』第五巻第十八段に、

   とりわき一宗を習学の事などはなかりけれども、真俗に亘てつたなからず、万事
   につけて才覚をたてられける人なり。

と、これも唯善の長所を認める発言をしている。
-------

鎌倉時代には、高田・横曾根・鹿島などの東国門徒はそれぞれの初期指導者が親鸞から直接の教えを受けたことを誇りにしていて、親鸞の子孫を特別に尊敬するようなことは全くなかった訳ですが、そうした状況を変え、本願寺一族の特別な地位を確立するために終生努力したのが覚如です。
『慕帰絵詞』『最須敬重絵詞』も覚如とその周辺のそうした努力の一環であって、稚児時代の覚如の男色話も、覚如が東国門徒の連中などとは隔絶した高貴性を有することをアピールするためのエピソードなのだろうと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その3)

2022-07-18 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月18日(月)12時23分26秒

続きです。(p284)

-------
 次に倉栖氏と下河辺庄に進出した唯善与同位の真宗門徒との関係をみていくことにしよう。鎌倉後期、真宗教団に大きな亀裂を生じさせることとなった唯善事件は、親鸞の娘覚信尼が東国門徒の付託を受けて管理する大谷廟堂留守職を、先夫日野広綱との子覚恵と後夫小野宮禅念との子唯善のいずれに譲るかという後継争いである。覚信尼は大谷廟堂留守職を覚恵に譲ったが、この敷地はもともと小野宮禅念の所有であっただけに、唯善は大谷廟堂留守職を競望し、実力行使に出て覚如とその家族を退去させた。それに対し、覚恵の子覚如は訴訟を起こして延慶二年(一三〇九)に勝訴して大谷廟堂を取り戻した。一方、敗訴した唯善は鎌倉に下向して常葉を新たな拠点として活動を始めた。この間、唯善は嘉元元年(一三〇三)に鎌倉幕府が「専修念仏停廃事」の沙汰を定めたことに対し、横曾根門徒木針智信をはじめとした関東の門徒から多くの勧進を集めて沙汰撤回を求める働きかけを幕府に行い、成功している。それによって唯善に対する東国門徒の評価は高まり、「唯善与同位也」といわれる支持勢力が形成されていった。その中核にいた親鸞の弟子性信が下総国横曾根・飯沼を中心に教線を拡げた横曾根門徒で、それ故に本願寺側の史料には横曾根門徒の記述が少ないと考えられている。
-------

親鸞の末娘・覚信尼(1224-83)は日野広綱との間に覚恵(1239-1307)、小野宮禅念との間に唯善(1266-1317)を生み、この二十七歳違いの異父兄弟が大谷廟堂留守職をめぐって壮絶な相続争いを展開した訳ですね。
訴訟では、最終的には覚恵の息子の覚如(1270-1351)が勝利しますが、覚恵・覚如側の弱みは、大谷廟堂の敷地(「大谷北地」)が元々は唯善の父・小野宮禅念の所有だったことです。
小野宮禅念は正嘉二年(1258)に「大谷北地」を「平氏女」から購入し、文永九年(1272)頃、その地に大谷廟堂が建立されます。
そして禅念は文永十一年(1274)、当該土地を覚信尼に譲り、翌年に死去しますが、禅念の譲状には、覚信尼がその土地を「一名丸」(唯善)に譲るかどうかは覚信尼の意思に任せる、とあって、後日の紛争の火種を残した訳ですね。
ま、それはともかく、続きです。(p284以下)

-------
 唯善事件によって大谷廟堂との関係を絶って鎌倉に下向した唯善は、その後、大谷廟堂に拠る人々から「永削当流号了」という扱いを受けた。しかし、鎌倉の常葉に新たな拠点を構えた唯善が「ソノアトマコニ善宗シモヲサノクニシモカウヘ」(『親鸞上人門徒交名牒<京都光薗院本>』)というように孫の善宗を下河辺庄に移して東国の真宗門徒との結び付きを強めたため、大谷廟堂による人々と唯善与同位の人々との亀裂は次第に深まっていったとみられる。この段階では、大谷廟堂による人々には親鸞墓所を守護するという大義名分があったが、鎌倉に拠点を移した唯善の側にも「親鸞影像」を守護するという主張があった。東国門徒が「親鸞影像」を守護し、また鎌倉幕府の念仏弾圧令を撤回させた唯善を正統な後継者とみなして支持していくのは自然な流れであったかもしれない。その唯善支持派の人々の痕跡と考えることのできるものが、下河辺庄野方の中戸山常敬寺(千葉県野田市)所蔵の親鸞上人像である。初期真宗教団の分布をみると、「シモオサタカヤナキ(下総国下河辺庄高柳郷<埼玉県栗橋町>)」の入願や下河辺庄川辺の西光寺(埼玉県吉川市)を建立した野田西念のように、下河辺庄内への教線の広がりを伝えるものがある。倉栖氏が関東に展開した初期真宗の外護者となったのは、下河辺庄に下向して支持者を固めていった善宗とその門流に入っていった人々との関係からとみてよいであろう。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
倉栖氏と下河辺庄との関係は第二節に詳しく述べられていますが、「北条氏一門の金沢氏が下河辺庄地頭職を獲得したのは、北条実時の時代」(p276)で、宝治合戦(1247)が契機だったようですね。
倉栖氏が金沢氏の被官となったのも同時期と考えられていて、「倉栖兼雄の所領として確認できるのが、下河辺庄築地郷地頭代職(埼玉県松伏町)である(金文五三二九号)」とのことです(p277)。
さて、続きです。(p285)

-------
繰り返しになるが、大谷廟堂を守り抜いた覚如と、鎌倉の常葉に新たな拠点を構え、下河辺庄に孫を送り込んで楔を打ち込んだ唯善が袂を分かった段階では、どちらが正統でどちらが異端だとはまだいえない状態にある。この事実を確認すると、本願寺を中心とした宗教史としての真宗史の枠組みを越えた中世東国真宗史の構想が可能になり、その重要拠点として下河辺庄のもつ意味の重要性が明らかになってくる。本願寺の側が提供する本願寺を正統として記された文脈の中から、本願寺と対立した人々の歴史を復元するためには、ある種の技法のもとにテキスト・リーディングの熟練が必要なことは事実であるが、慣れてしまえばそれほど難しいことではないであろう。筆者は倉栖氏に関する史料の収集の過程でこの問題と出会ったが、鎌倉の常葉と下河辺庄に拠点を置いた唯善一派を異端として排斥した宗派史の壁を越えて中世東国真宗史を再構築する作業は、まだ端緒についたばかりである。
-------

ということで、第四節はこれで全部です。
私自身はもともと浄土真宗に全く興味がなく、ただ、後深草院二条が平頼綱息の飯沼助宗とずいぶん親しく交流していた(と本人が語っている)ことから平頼綱の宗教関係の事績を調べ始め、意外にも平頼綱が浄土真宗の後援者だったらしいという話を知り、峰岸論文等を読むまでに深入りしてしまいました。
ただ、何か新しい知見を得ることが出来そうな手がかりはなく、旧サイト時代以降、手詰まり状態が続いていた訳ですが、二年前に唯善が後深草院二条の父・中院雅忠の猶子であったことを知り、今回、倉栖兼雄と唯善にもそれなりの縁があったことを知ったので、若干の進展があったと感じています。
その点、次の投稿で纏めておきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その2)

2022-07-16 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月16日(土)14時18分18秒

峰岸純夫氏の研究は本当に広範囲に及んでいますが、その中でも東国の真宗門徒の研究は若干異色な感じがしますね。

峰岸純夫(1932生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B0%E5%B2%B8%E7%B4%94%E5%A4%AB

峰岸氏自身の述懐によれば、当該研究の動機は、

-------
 一九五六年(昭和三十一)の平松令三「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(17)を出発点として、一九七四年の重見一行氏の教行信証研究(18)に至る一連の研究は、高田専修寺本の二本および中山寺本の化身土巻奥書を紹介し、教行信証が得宗の御内人平頼綱の助成を得て開板されたことを明らかにした。このことは誤解かも知れないが、権力の弾圧にも屈せず、在家農民層の間に深く根をおろしていく真宗教団の姿という私の真宗観(中世後期の一向一揆観の投影かも知れない)に少なからぬ衝撃を与えたのである。重見氏が、「親鸞の主著教行信証が、従来指摘されて来たような、史的徴証に見られる真宗門徒の置かれた位置にもかかわらず、すでに親鸞の滅後二十数年にして、しかも時の権力者とのかかわりにおいて出版されたとすれば、それは真宗史上一つの重要な視点を提供するといえよう」(19)と述べているが、まさに「重要な視点」と考えられ、権力による抑圧の側面と同時に、権力との結びつきの側面も視野に入れ、政治と宗教の関係を全体として把握する必要を感じた。

http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm

とのことです。
峰岸論文はなかなか難しいと思いますが、菅原多喜夫氏がリンク先のブログで八回にわたって解説されているので、併せて参照していただきたいと思います。

峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読む
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-155.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-156.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-157.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-158.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-159.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-160.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-161.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-162.html

菅原氏は、平松令三氏以来、「教行信証が得宗の御内人平頼綱の助成を得て開板された」と考えられていた点について、

-------
正応年間の横曽根門徒は、『教行信証』開板の資金が足りなくて領主・平頼綱に援助を依頼したというより、開板にともなって生じることが予想されるトラブルの排除を頼綱に期待したのであって、この時も、門徒の側から頼綱に、なにがしかの金銭等がわたされたと考えるべきではないでしょうか。

http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-161.html

とされていますが、これは重要な指摘ですね。
なお、菅原氏はご自身の見解を「『教行信証』開版前後の親鸞教団」(『寺院史研究』11号、2007)に纏めておられます。
さて、永井論文に戻って、続きです。(p283以下)

-------
 倉栖氏と真宗との関係を最初に注目したのは、存覚上人の生涯をつづった「常楽台主老衲一期記」元弘元年(一三三一)条の「三月八日、於江州瑠璃光女生、十二月比、為倉柄沙汰留置、大晦日ニ着倉柄宿所」の倉柄を倉栖の誤字と考えた福島金治・津田徹英である。福島は、近江国柏木御厨の支配関係を地頭金沢貞顕(金沢家惣領)・地頭代薬師堂殿(一族の女性)・給主倉栖氏と想定し、御厨内に給主倉栖氏の館があったと考えている。倉栖氏は江州で誕生した存覚の娘を柏木御厨の館で庇護し、鎌倉に下っていた存覚は娘と対面するためにこの年の大晦日に倉栖氏の館を訪れている。この時代、海路による京都の鎌倉の往還は、鎌倉から伊勢国大湊まで船で移動し、大湊から鈴鹿路に入って東海道本道に合流した。柏木御厨(滋賀県水口市)は鈴鹿路の沿道にあり、元弘の乱では金沢貞冬が伊勢国の御家人を率いて柏木御厨に進出し、そこで軍勢を整えて入京した。倉栖氏は存覚の娘を館で保護したのであるから、両者の関係は浅くないと考えてよいだろう。
-------

いったん、ここで切ります。
存覚上人は本願寺第三世覚如(1271-1351)の息子で、父から二度も義絶された人ですね。
永井氏の表現を借りれば、存覚上人は「京都の大谷廟堂を拠り所とした人々(後の本願寺教団)」と「東国門徒の強い支持のもとに下河辺庄を拠点に新たな集団を形成した唯善与同位の人々」の間を行ったり来たりした人、とも言えそうです。

存覚(1290-1373)
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%98%E8%A6%9A-1086282
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E8%A6%9A
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その1)

2022-07-16 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月16日(土)12時34分23秒

二年前に鎌倉時代の「小野宮」と浄土真宗の関係について少し考えてみたときは永井晋氏の「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(『金沢北条氏の研究』所収、八木書店、2006)に気づいていなかったのですが、これも貴重な研究ですね。
この論文は、

-------
はじめに
一 倉栖氏の名字の地
二 倉栖氏と下河辺庄
三 金沢家御内祗候人倉栖氏
四 倉栖氏と真宗
おわりに
-------

と構成されていますが、第四節の冒頭部分を少し引用してみます。(p282以下)

-------
    四 倉栖氏と真宗

 倉栖氏に関する最も新しく、かつ大きな問題に発展しそうな気配をもつものが中世真宗との関係である。この問題の重要性について筆者は理解しているつもりであるが、いまだ独自の見解を出すほどに研究を深めていない。そのため、ここでは先行研究の整理と展望をのべることにしたい。
 親鸞の布教によって真宗は東国に多くの門徒を獲得した。そのことについては数多の蓄積があり、平松令三『真宗史論攷』第一章「関東真宗教団の成立と展開」(同朋社出版<一九八八年>)や内山純子『東国における浄土真宗の展開』(東京堂<一九九七年>)のような精緻な基礎研究によって、現段階の水準において到達できる基礎研究のレベルは終わったかにみえる。この研究の最大の問題点は、本願寺教団を真宗の正統とするようになったのが蓮如以後であるにも拘わらず、初期真宗の段階から後の本願寺教団に連なる系統を正統とみてしまっているところにある。それは、関東に展開した真宗門徒が戦国時代に衰微し、現存する史料の圧倒的な部分が本願寺教団側の視点から書かれたものであるという史料の偏在を意識せずにテキスト・リーディングしてきたためといえるが、その事について論じることが本節の目的ではない。
 鎌倉時代後期の唯善事件が発端となって、初期真宗教団は京都の大谷廟堂を拠り所とした人々(後の本願寺教団)と東国門徒の強い支持のもとに下河辺庄を拠点に新たな集団を形成した唯善与同位の人々に次第に分かれていった。倉栖氏が接点をもつのは下河辺庄に移って布教を始めた唯善の孫善宗や、覚如上人(本願寺三世)に義絶されて関東に下向した存覚上人であり、後に本願寺教団を形成して主流派となる人々から傍流ないし異端とみられた人々である。その事が、今まで倉栖氏と真宗との関係が一顧だにされなかった理由であろう。
-------

いったん、ここで切ります。
「その事について論じることが本節の目的ではない」に付された注(15)を見ると、

-------
(15)東国門徒の視点から行われている研究には、峰岸純夫「鎌倉時代東国の真宗門徒─真仏報恩板碑を中心に─」(『中世仏教と真宗』<一九八五年>)・津田徹英前掲論文・西岡芳文「阿佐布門徒の輪郭」(『三田中世史研究』一〇号<二〇〇三年>)がある。
-------

とあり、「津田徹英前掲論文」は「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(『美術研究』375号、2002)ですね、
これらの研究について一応の知識がないと永井論文の理解も困難ですが、概要については、例えば下記記事を参照してください。

今井雅晴氏「唯善と山伏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfd71231cec964dfed9964b7a203e5ac

そして、本格的に理解したい人にお奨めなのは何と言っても峰岸論文ですが、これは私が旧サイトに勝手に転載しており、今はリンク先で見ることができます。

峰岸純夫「鎌倉時代東国の真宗門徒-真仏報恩板碑を中心に-」(北西弘先生還暦記念会編『中世仏教と真宗』、1985)
http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm
http://web.archive.org/web/20150526225556/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto-02.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「姫前との関係を足がかりに、具親と輔通・輔時父子に「光華」がもたらされた」(その2)

2022-07-14 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月14日(木)11時11分9秒

7月8日に安倍元首相が亡くなって以降、何となく投稿の意欲が減退してしまい、暫く休んでいましたが、またボチボチと始めたいと思います。
ただ、あんな風に突然に生命が断ち切られてしまう出来事を見ると、まあ、私の場合は特に重要人物ではないので殺されるようなことはないにしても、交通事故で死んだりする可能性はそれなりにある訳で、やはり物事に優先順位を付けないといかんなあ、などと思ったりもしました。
私が投稿しているのは大半が遥か昔の時代に関する些末な考証ですが、実は前々から書きたいと思っているテーマもあって、これを先送りせず、ある程度纏めて置こうかなと考えています。
とはいっても、現在進行中のテーマをいきなり全て断ち切るのももったいないので、後日の再開の準備として、ほんの少しだけメモを残しておきたいと思います。
まず、『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』で長村祥知氏が執筆された部分についてですが、関東伺候廷臣に関する長村氏の小さな勘違いは、別に長村氏の論旨に影響を与えるようなものではありません。
ただ、源具親は私にとってなかなか興味深い存在で、二年前に北条義時とその正室「姫の前」の離縁の時期が気になって色々調べてみたとき、「姫の前」が源具親との再婚後に生んだ源輔通(1204-1249)の女子が後深草院二条の父・中院雅忠の後妻になっていることに気付き、びっくり仰天しました。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5425af06d5c5ada1a5f9a78627bff26e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/048db55d52b44343bbdddce655973612

そこで森幸夫氏の「歌人源具親とその周辺」(『鎌倉遺文研究』40号、2017)などを参考に、源具親を調べてみました。

(その3)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d700cdb46bad37044c1e151617aae601
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/224e32ebc96bd05bb37e911e224f9da0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/411da463a2627b80aa6b8470a3d379b4

源具親を理解するキーワードは「小野宮」ですが、高群逸枝の『招婿婚の研究』以来、小野宮第の伝領は女系継承となっている点に関心が持たれています。
しかし、男系継承となって以降の研究は希薄です。

(その7)~(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd10557d5d5004a8c2490580064024f1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e25ca33e2668e2a0f9757cf7c14db3cb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9cbbc1c9a4e22fdb093f80ab069920d8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9df962f6fffa8d9a9e13f51006887b4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3291b859ee77ebafc99191fc361a215d

具親は源通親との接点もあり、「親」は源通親からもらったのでなかろうかと私は考えています。

(その12)~(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2ddeb9ae84de5fe39385562f47939a3c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e708171f4e7efbc9a9592b6a1fce5211
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/46c1bc2dcb83e23319bf2e7efdcc0396

ところで具親の息子には「姫の前」が生んだ輔通・輔時以外に「小野宮禅念」がいて、この人は親鸞の娘・覚信尼の後夫であり、その息子が浄土真宗の歴史の上では極めて重要な人物である唯善なのですが、驚いたことに唯善は「大納言雅忠の猶子」であり、従って後深草院二条とも何らかの関係があったかもしれない人物です。

源具親の孫・唯善(大納言弘雅阿闍梨)について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65800c8bdbfcba6cde8d34f56280c945

そこで、浄土真宗は全く不得意な分野ながら、中院雅忠が浄土真宗の歴史の中で果たした役割の断片でも見つけることはできないだろうかと思って、素人なりにあれこれ調べてみたのですが、結局何も分からず、放置したままでした。

今井雅晴氏「唯善と山伏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfd71231cec964dfed9964b7a203e5ac
今井雅晴氏「若き日の覚如」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4202e02e274c369f47c699f70c68404a
重松明久『人物叢書 覚如』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5c860bee63eefcce083e9a8a8f899a57
『慕帰絵詞』に登場する「小野宮中将入道師具」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/35e717946835992c753bed16d75f6da3
二人の「宮内卿」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa2b899cb15e8906fc13509f17b2c57d
ミスター宮内卿を探して
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d226c24b2af0c6b9dac3e9af550da63

今回、もしかしたら浄土真宗の歴史に何か新しい知見を付け加えることができるかも、という微かな希望を持って、改めて最近の文献を少し集めてみたのですが、これはしばらく先の課題とします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

掲示板の今後について(その2)

2022-07-13 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月13日(水)10時02分1秒

teacup掲示板の消滅が近づいていますが、6月20日の投稿で書いた三つの選択肢のうち、新たに掲示板を運営するのは負担が大きいので、

-------
(3)「したらば掲示板」を保管庫とし、参加者とのやり取りはgooブログ「学問空間」の「コメント」機能で代替する。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/02c48009723d0ef975cd9bdf8ea36177

という方向で進めたいと思います。
「したらば掲示板」は検索機能が優れているので、gooブログ「学問空間」での新たな投稿も「したらば掲示板」に転載して行くことにします。

https://jbbs.shitaraba.net/study/13414/

なお、「したらば掲示板」の「利用規約」第3条(権利帰属)には著作権に関する下記のような独特の規定があります。

-------
利用者は、掲示板への書き込みを行った時点で、当該書き込みに関する一切の著作権(著作権法第27条および第28条に規定される権利も含みます。)が運営者に譲渡されることを承諾するものとし、かつ、運営者および運営者の指定する者に対し著作者人格権を行使しないものとします。

https://rentalbbs.shitaraba.com/rule/guideline.html

これは、もともと「したらば掲示板」が2chの系譜を継ぎ、膨大な数の匿名の参加者が書き込むことを前提とする掲示板で、トラブルも多かったことから、運営者のトラブル対応の便宜のために権利関係を非常に単純にしたものと私は理解しています。
そして、私自身の新たな書き込みについては、形式的には「当該書き込みに関する一切の著作権(著作権法第27条および第28条に規定される権利も含みます。)が運営者に譲渡されることを承諾」云々が適応されるように見えても、運営者側が単なるトラブル対応を超えて、例えば勝手に私の投稿を纏めて書籍を出版する、といった事態になった場合には、権利濫用等の理屈で抗議することになるはずです。
ただ、従来、teacup掲示板に投稿された個々の投稿についての著作権は当然に個々の投稿者に帰属しており、私が「したらば掲示板」への引っ越し作業を行ったことにより変動するはずもありません。
私の引っ越し作業は形式的にも「利用者」による「掲示板への書き込み」には該当しませんし、そもそも私はteacup掲示板に投稿された私以外の方の個々の投稿について著作権その他の権利を有しませんので、引っ越し作業は無権利者による単なる事実行為で、法的に特に意味のあるものではありません。
要するに過去のteacup投稿については何ら権利関係に変動はありません。
しかし、今後、「したらば掲示板」に新たに書き込みをしようとする方は、上記のような利用規約があることに一応留意していただきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「姫前との関係を足がかりに、具親と輔通・輔時父子に「光華」がもたらされた」(その1)

2022-07-07 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 7日(木)12時56分6秒

『京都の中世史3 公武政権の競合と協調』で長村祥知氏が執筆された部分(「四 承久の乱」と「五 九条家・西園寺家と鎌倉幕府」)については、以前、長村氏の『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)をかなり細かく検討したこともあって、今回は特に目新しく感じられる箇所はありませんでした。

長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)~(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b49e3e3c085bb25a0f3305bdb723de36
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20b70186a2269eaf108c2e6f58a0e302
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3914c11d525267ba7501ed247c806478
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/45b6fef7f5e96b27cf804f5d30f893be
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/45b6fef7f5e96b27cf804f5d30f893be
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4893cecdbe17efd08552b2c196e1a35

一箇所、ちょっと変だなと思ったのは「五 九条家・西園寺家と鎌倉幕府」「5 関東伺候の廷臣たち」の次の記述です。(p163)

-------
承久の乱後の増加
 こうした関東伺候廷臣は、承久の乱後に増加した。
 村上源氏の源具親は、建仁三年(一二〇三)末ごろ、北条義時の前妻姫前〔ひめのまえ〕と結婚した。彼は後鳥羽に見いだされて勅撰歌人となったが、怠惰で風変わりな人物だったらしく、廷臣としては父師光以来低迷していたところ、承久の乱後、姫前との関係を足がかりに、具親と輔通・輔時父子に「光華」がもたらされた。輔通・輔時は関東伺候廷臣としても活動することとなった(森幸夫 二〇一七)。
-------

あれれ、輔通・輔時は関東伺候廷臣だったっけ、と思って森幸夫氏の「歌人源具親とその周辺」(『鎌倉遺文研究』40号、2017)を確認してみたところ、やはりこの部分は不正確ですね。
森論文は、

-------
はじめに
一、源具親の父祖
二、歌人源具親の活動
三、源具親の結婚
四、源具親の子孫
 1 子息源輔通と同輔時
 2 子息禅念と孫唯善
おわりに

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/36f97f0c096f79dbb511b764f4e496f5

と構成されていて、私自身は「四、源具親の子孫」の「2 子息禅念と孫唯善」に興味を惹かれていろいろ調べてみたのですが、「1 子息源輔通と同輔時」は特に検討していませんでした。
そこで、概要を掴むため、先ずはこの節の冒頭の部分を少し引用してみます。(p85以下)

-------
1 子息源輔通と同輔時
 源具親と姫前との間に、輔通と輔時の二人の子がいたことは先に見た。姫前は北条義時の前妻であり、義時の二男朝時と三男重時及び女子一人を産んでいたから、源輔通・輔時は、母親を介して北条朝時・重時と兄弟となった。いわゆる異父兄弟である。この北条氏一族の二人と血縁関係となったことにより、源具親と輔通・輔時の父子は有力な後援者を得ることとなった。特に北条義時率いる鎌倉幕府が、後鳥羽上皇軍に勝利した承久の乱以降、北条氏勢力の拡大とともに源具親一家にも「光華」がもたらされた。
 北条氏との関係もなく、また承久の乱も起きていなかったならば、具親は恐らく、公家社会で低迷する一歌人としてその生涯を終えていたことだろう。承元二年(一二〇八)十一月、後鳥羽院御所で皇弟雅成親王の読書始の儀があり、右少将源具親はその饗にて一献の瓶子役を奉仕していた。承久の乱以前では、これが具親の目を引く活動足跡といえるものであり、この乱がなければ、そのステップアップも望めなかったことだろう。
 嘉禄二年(一二二六)十一月、源輔通が幕府の推挙により侍従に任じられたことは先にみた。侍従は「四五位公達任之」ずる官職であり、輔通はこの任官により、祖父師光・父具親以来低下していた家格を上昇させたといえる。この任官を兄北条朝時・重時らがバックアップしたことは疑いない。天福元年(一二三三)十二月には弟輔時も侍従に任じている。この時、輔時は「朝時猶子」であった。同年八月二十四日、源具親は藤原定家の許を訪れたが、その日の『明月記』をみると、
  廿四日、丙申、天晴、少将入道<具親朝臣>、来臨、扶病相謁、両息〔輔通・輔時〕
  各光華之由、今日委聞之、近日物吉無極歟(後略)
とあり、具親は定家に、子息源輔通・輔時兄弟が「光華」つまり繁栄していることを話している。この「光華」はいうまでもなく、北条氏の血縁であったことによりもたらされたのである。【後略】
-------

ということで、「光華」は『明月記』の表現なんですね。
この後、森氏は『民経記』『平戸記』『葉黄記』等の諸記録を博捜され、輔通・輔時兄弟の履歴を追って行かれますが、全て二人が京都在住であることを示すものですね。
関東伺候廷臣となったのは二人の子孫ですが、その活動も森氏だから何とか手掛かりを掴むことができた程度のささやかなもので、特に華々しい活躍をしている訳ではありません。
長村氏が何故にこのような人たちを関東伺候廷臣の代表のように書いたのか、ちょっと不思議です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その2)

2022-07-05 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 5日(火)12時17分12秒

続きです。(p208以下)

-------
 乾元元年(一三〇二)十二月二十三日、遊義門院は、その御所伏見殿において、寿命経と薬師如来を供養し、後深草院六十歳の賀を行った。『吉続記』によれば、この盛挙には亀山・後宇多・伏見らの諸院が参列しており、両統の絆を深める催しとなった。多くの院が居並ぶなかで、遊義門院は銀の杖とともに、長寿を祈る和歌を老父の後深草に贈ったという。

   (後深草)
    法皇六十にみたせ給うけるに、寿命経供養せられけるついでに、しろがねの杖
    たてまつらるとて                       遊義門院
  つく杖にむそぢこえ行くことしより 千とせのさかの末ぞひさしき
                  (『新後撰和歌集』巻第二十 賀・一五九八)

 両統の媒介者として機敏に立ち回る遊義門院の姿には、卓越した政治的センスを感じとれる。彼女はたんなる深窓の佳人ではなく、両統の確執を沈静させようとした女性政治家と評してよいかもしれない。
 ともあれ、乾元年間は、熾烈な権力闘争を繰り広げた鎌倉後期の両統にとって、前後に比類ない融和の時代であった。しかし、それもまた束の間に過ぎず、やがて後深草や亀山ら旧世代の退場とともに、宮廷の空気は再び微妙な変化を遂げることになる。
-------

「乾元年間は、熾烈な権力闘争を繰り広げた鎌倉後期の両統にとって、前後に比類ない融和の時代であった」とありますが、他に融和の時代というと「北山准后九十賀」が行なわれた弘安八年(1285)も連想されます。
そして、この盛儀を描いた『増鏡』には、後宇多天皇(十九歳)と姈子内親王(十六歳)も、

-------
 姫宮、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・もえ黄の御ひとへ・赤色の御唐衣・すずしの御袴奉れる、常よりもことにうつくしうぞ見え給ふ。おはしますらんとおもほす間のとほりに、内の上、常に御目じりただならず、御心づかひして御目とどめ給ふ。

http://web.archive.org/web/20150918073835/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugo90noga-1.htm

という具合いに、妙に思わせぶりな感じで登場しますね。
さて、歴史研究者で遊義門院に注目している人は僅少です。
比較的新しい研究としては、伴瀬明美氏の「第三章 中世前期─天皇家の光と影」(服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』所収、小学館、2002)や三好千春氏の「遊義門院姈子内親王の立后意義とその社会的役割」(『日本史研究』541号、2007)という論文があって、当掲示板でも三年前に、これらの論文に即して遊義門院についてあれこれ考えてみたことがありました。

遊義門院再考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89f6135364af467d393614e15fd75662
「『盗み出した』ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fadd72cad3a95e02f94b4c3226bc95c
「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a4bec8713917f5e8f008bee409f16c

「その経歴が、江戸時代末期まで続く長い女院史上の中でも特に異彩を放つもの」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f687268c4cbbc96c57a94008f4c1d71f
「亀山の在位中でありながら今出河院宣下を受けて中宮位を降ろされて」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93daf494bf6aefbfc21bacf582ca56ef
「その誕生時からの注目は、異母兄・煕仁(のちの伏見)とは歴然の差があり」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a689d091ebc4c8620526543ca8d3142
「姈子立后の最大の疑問は、なぜ彼女の立后が後宇多朝において挙行されたのか、という点である」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f52826bc2846a089a72afe9ac6c574f
「姈子立后はその前哨戦として位置付けられるのではないだろうか」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6193485b684c896e0968dc010084f6f2
「東宮・煕仁とともに時期政権の代表として現政権に打ち込まれたいわば楔であり」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/812e359f74fe6d0fb4a995f48a7c9c46
「もう一つ大きな特徴は、後宇多朝から伏見朝になってもなお皇后であり続けたこと」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/10ec4258f9ab1736fc5e58b516e1ad3d
「不婚内親王皇后は、もともと院と天皇の二元王権を補完する性格を有し」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ff81568ac98d9709ee6dad8107376ed1
「北山准后九十賀」と姈子内親王立后の連続性
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcca058f73b52dbddad396df7fd28f3e
「正妻格として出現したのが遊義門院姈子内親王」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e0b691ccc5fa57eff6c585a2b8b1ce41
「この婚姻についても、残念ながらその事情を語る同時代の史料は皆無である」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf90a016e1ab969087a1594059f32ae6
「光武帝が微賤の時、南陽の美女である陰麗華を娶らんことを期し……」(by 三好千春氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4019876559ddfd716a81b3f4e7d26e9
新しい仮説:後宇多院はロミオだったが遊義門院はジュリエットではなかった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7510e924ed2c4eaf216c6d9643ebffef
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする