『海道記』では、前回紹介した部分の少し後に、「高倉宰相中将」藤原範茂を悼む記述が新日本古典文学大系本で9行、「一条宰相中将」藤原信能を悼む記述が13行、更に補足的な記述が5行、合計27行ありますが、これは必要に応じて後で言及するつもりです。
さて、藤原(中御門)宗行関係の流布本『承久記』の記述は、
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中御門前中納言宗行は、小山新左衛門尉具奉りて下りけるが、遠江の菊河に著給ふ。「爰をば何と云ふぞ」と問給へば、「菊河」と申。「前に流るゝ川の事か」。「さん候」と申ければ、硯乞出て、宿の柱に書付給ふ。
昔南陽県之菊水、酌下流延齢
今東海道之菊河、宿西岸失命
昔、南陽県の菊水、下流を酌んで齢〔よはひ〕を延ぶ
今、東海道の菊河、西岸に宿して命を失ふ
と書て過給へば、行合旅人、空き筆の跡を見つゝ、涙を流ぬは無けり。
次の日、浮嶋原〔うきしまがはら〕を通らせ給に、御供なる侍、「最後の御事、今日の夕部〔ゆふべ〕は過させ給はじ」と申ければ、打諾〔うなづ〕き、殊に心細計〔げ〕にて、木瀬河〔きせがわ〕の宿に御手水〔てうづ〕の為に立寄給ふ様にて、角〔かく〕ぞ書付給ける。
今日迄は身を浮嶋が原に来て露の命の消んとぞ思ふ
其日の暮方にあふ澤にて被切給ぬ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/980e422d8b3b66cdab3b0f448eba8b3c
というものであって、「菊河」で漢詩を作った「次の日、浮嶋原を通」り、「木瀬川の宿」で和歌を詠んだ「其日の暮方」に「あふ澤」で処刑されています。
『吾妻鏡』では菊川が七月十日、藍沢原での処刑が十四日ですから、『吾妻鏡』で五日間の出来事が流布本では二日に圧縮されてしまっています。
菊河宿と藍沢原の距離を考えると、さすがに二日は無理な感じがしますが、その点を除けば流布本の記述は『海道記』、そして『吾妻鏡』と概ね一致していますね。
しかし、繰り返しになりますが、慈光寺本は
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中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。
昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命
按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、
今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8ea8e8bf40b6d72010639241e816639
という具合いに宗行と光親の処刑地が両方とも間違いで、かつ光親が詠んだとされる和歌は宗行の歌です。
慈光寺本の作者は、なぜこんなに誤謬を重ねたのか。
まあ、Yes/Noチャートを作れば様々な可能性は考えられますが、私としては
(1)宗行・光親にさほど興味がなく、『海道記』のような史料をきちんと調査しなかった。
(2)それなりに調査はして、『海道記』に描かれたような「感動ストーリー」も知っていたが、そういう話は好きではなかった。
のいずれかかなと思っています。
さて、宗行・光親の処刑に関しては、慈光寺本と『吾妻鏡』は無関係と考えてよさそうですが、流布本と『吾妻鏡』はどうか。
それを検討するため、流布本の光親処刑の場面を見ると、
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又、按察使中納言光親卿は、武田五郎信光相具奉りて下けるが、富士のすそ加胡坂と云所に下し奉り、鎌倉よりの状に任せて、「最後の御事、只今候」と申ければ、兼てより被思儲けれ共、期に臨では、流石〔さすが〕今生の名残只今計と思ければ、何計〔いかばかり〕心細くも被思けん、「出家せばや」と有ば、「子細有間敷候」とて、僧一人尋出て、髪剃落し奉る。其後暫く暇乞、年比信じ給へる法華経一部取出し、一部迄は遅かりなんとて、一の巻を披き、真読畢て後、一向称名に住し候へば、他念も無りけり。太刀取は武田五郎郎等に内藤(と云者)也。居給所、山の岨〔そは〕にて片下りなる(に)、知識の僧の衣を脱で著せ奉る(間)、数多の僧共、後ろに立覆ひ、座敷も片下りに物打所悪く見へければ、太刀取後ろに近付て、「角ては御宮づかひ、悪く候ぬ」と申ければ、念仏を留め見返て、「汝可思し、幼少より君に仕へ、死罪・流罪をも多奉行せしぞかし。去共〔されども〕今可懸とは、争でか兼て可弁ふ、されば存知の旨に任せて申」と有ければ、太刀取も目昏〔くらみ〕て覚けれ共、「兎こそ能候へ」と申ければ、其言葉に随て、髪をも押除〔のけ〕、膝を立直し首を延、念仏の声不怠、殊勝に被切給ひにけり。見人感嘆せぬ者無けり。
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という具合いに非常に詳細です。(松林靖明校注『新訂承久記』、p131以下)
これと『吾妻鏡』承久三年七月十二日条を比較すると、処刑の場所は『吾妻鏡』が「加古坂」、流布本は「加胡坂」で一致していますが、
(1)『吾妻鏡』には「去月出家。法名西親」とあり、流布本では処刑当日に出家。
(2)『吾妻鏡』には鎌倉の使者が駿河国の車返の辺りで出会ったとある。
(3)『吾妻鏡』には、光親は後鳥羽に繰り返し諫言していたとある。
という具合いに『吾妻鏡』の独自情報も多く、絶対量としては流布本の情報の方が多いからといって、流布本が『吾妻鏡』に一方的に影響を与えたとは考えにくいですね。
ただ、野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」のように、流布本は『吾妻鏡』が1290年代以降に成立した後に成立しており、『吾妻鏡』から情報を得るとともに、別の独自情報を付加しているのだと考えると、光親処刑場面に関しては付加情報が膨大となるので、承久の乱が終わってから長期間が経過しているのに、そんな情報をどこから入手したのか、が問題となります。
まあ、それは永遠の謎でしょうが、私としては、流布本が『吾妻鏡』に遅れて成立したという前提が不自然なように感じられます。
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248