学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その9)

2023-01-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『海道記』では、前回紹介した部分の少し後に、「高倉宰相中将」藤原範茂を悼む記述が新日本古典文学大系本で9行、「一条宰相中将」藤原信能を悼む記述が13行、更に補足的な記述が5行、合計27行ありますが、これは必要に応じて後で言及するつもりです。
さて、藤原(中御門)宗行関係の流布本『承久記』の記述は、

-------
 中御門前中納言宗行は、小山新左衛門尉具奉りて下りけるが、遠江の菊河に著給ふ。「爰をば何と云ふぞ」と問給へば、「菊河」と申。「前に流るゝ川の事か」。「さん候」と申ければ、硯乞出て、宿の柱に書付給ふ。
   昔南陽県之菊水、酌下流延齢
   今東海道之菊河、宿西岸失命
       昔、南陽県の菊水、下流を酌んで齢〔よはひ〕を延ぶ
       今、東海道の菊河、西岸に宿して命を失ふ
と書て過給へば、行合旅人、空き筆の跡を見つゝ、涙を流ぬは無けり。
次の日、浮嶋原〔うきしまがはら〕を通らせ給に、御供なる侍、「最後の御事、今日の夕部〔ゆふべ〕は過させ給はじ」と申ければ、打諾〔うなづ〕き、殊に心細計〔げ〕にて、木瀬河〔きせがわ〕の宿に御手水〔てうづ〕の為に立寄給ふ様にて、角〔かく〕ぞ書付給ける。
   今日迄は身を浮嶋が原に来て露の命の消んとぞ思ふ
其日の暮方にあふ澤にて被切給ぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/980e422d8b3b66cdab3b0f448eba8b3c

というものであって、「菊河」で漢詩を作った「次の日、浮嶋原を通」り、「木瀬川の宿」で和歌を詠んだ「其日の暮方」に「あふ澤」で処刑されています。
『吾妻鏡』では菊川が七月十日、藍沢原での処刑が十四日ですから、『吾妻鏡』で五日間の出来事が流布本では二日に圧縮されてしまっています。
菊河宿と藍沢原の距離を考えると、さすがに二日は無理な感じがしますが、その点を除けば流布本の記述は『海道記』、そして『吾妻鏡』と概ね一致していますね。
しかし、繰り返しになりますが、慈光寺本は

-------
 中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。
  昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命
 按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、
  今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8ea8e8bf40b6d72010639241e816639

という具合いに宗行と光親の処刑地が両方とも間違いで、かつ光親が詠んだとされる和歌は宗行の歌です。
慈光寺本の作者は、なぜこんなに誤謬を重ねたのか。
まあ、Yes/Noチャートを作れば様々な可能性は考えられますが、私としては

(1)宗行・光親にさほど興味がなく、『海道記』のような史料をきちんと調査しなかった。
(2)それなりに調査はして、『海道記』に描かれたような「感動ストーリー」も知っていたが、そういう話は好きではなかった。

のいずれかかなと思っています。
さて、宗行・光親の処刑に関しては、慈光寺本と『吾妻鏡』は無関係と考えてよさそうですが、流布本と『吾妻鏡』はどうか。
それを検討するため、流布本の光親処刑の場面を見ると、

-------
 又、按察使中納言光親卿は、武田五郎信光相具奉りて下けるが、富士のすそ加胡坂と云所に下し奉り、鎌倉よりの状に任せて、「最後の御事、只今候」と申ければ、兼てより被思儲けれ共、期に臨では、流石〔さすが〕今生の名残只今計と思ければ、何計〔いかばかり〕心細くも被思けん、「出家せばや」と有ば、「子細有間敷候」とて、僧一人尋出て、髪剃落し奉る。其後暫く暇乞、年比信じ給へる法華経一部取出し、一部迄は遅かりなんとて、一の巻を披き、真読畢て後、一向称名に住し候へば、他念も無りけり。太刀取は武田五郎郎等に内藤(と云者)也。居給所、山の岨〔そは〕にて片下りなる(に)、知識の僧の衣を脱で著せ奉る(間)、数多の僧共、後ろに立覆ひ、座敷も片下りに物打所悪く見へければ、太刀取後ろに近付て、「角ては御宮づかひ、悪く候ぬ」と申ければ、念仏を留め見返て、「汝可思し、幼少より君に仕へ、死罪・流罪をも多奉行せしぞかし。去共〔されども〕今可懸とは、争でか兼て可弁ふ、されば存知の旨に任せて申」と有ければ、太刀取も目昏〔くらみ〕て覚けれ共、「兎こそ能候へ」と申ければ、其言葉に随て、髪をも押除〔のけ〕、膝を立直し首を延、念仏の声不怠、殊勝に被切給ひにけり。見人感嘆せぬ者無けり。
-------

という具合いに非常に詳細です。(松林靖明校注『新訂承久記』、p131以下)
これと『吾妻鏡』承久三年七月十二日条を比較すると、処刑の場所は『吾妻鏡』が「加古坂」、流布本は「加胡坂」で一致していますが、

(1)『吾妻鏡』には「去月出家。法名西親」とあり、流布本では処刑当日に出家。
(2)『吾妻鏡』には鎌倉の使者が駿河国の車返の辺りで出会ったとある。
(3)『吾妻鏡』には、光親は後鳥羽に繰り返し諫言していたとある。

という具合いに『吾妻鏡』の独自情報も多く、絶対量としては流布本の情報の方が多いからといって、流布本が『吾妻鏡』に一方的に影響を与えたとは考えにくいですね。
ただ、野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」のように、流布本は『吾妻鏡』が1290年代以降に成立した後に成立しており、『吾妻鏡』から情報を得るとともに、別の独自情報を付加しているのだと考えると、光親処刑場面に関しては付加情報が膨大となるので、承久の乱が終わってから長期間が経過しているのに、そんな情報をどこから入手したのか、が問題となります。
まあ、それは永遠の謎でしょうが、私としては、流布本が『吾妻鏡』に遅れて成立したという前提が不自然なように感じられます。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その8)

2023-01-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『海道記』の続きです。(新日本古典体系本、p105以下)

-------
 ヤガテ按察使〔あんざつし〕 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同〔おなじ〕ク此〔この〕原ニテ末ノ露本ノ滴〔しづく〕トヲクレ先立ニケリ。其〔それ〕人常ノ生〔しやう〕ナシ、其家常ノ居〔きよ〕ナシ。此ハ世ノ習〔ならひ〕事ノ理〔ことわり〕ナリ。サレドモ期〔ご〕来テ生ヲ謝セバ、理ヲ演〔のべ〕テ忍ヌベシ。〔縁つきて家をわかれば、ならひを存〔そんし〕てなぐさみぬべし。〕別〔わかれ〕シ所ハ憂所ナリ、城〔みやこ〕ノ外ノ荒々〔くわうくわう〕タル野原ノ旅ノ道、没セシ時ハイマダシキ時ナリ、恨ヲ含シ悄々〔せうせう〕タル秋天〔しうてん〕ノ夕〔ゆふべ〕ノ雲。誠ニ時ノ災蘖〔さいげつ〕ノ遇〔たまさか〕ニ逢〔あへり〕ト云ドモ、是ハ是先世〔せんぜ〕ノ宿業〔しくごふ〕ノ酬〔むく〕ヘル酬〔むくひ〕也。抑〔そもそも〕彼人々ハ、官班〔くわんはん〕身ヲ餝〔かざ〕リ、名誉聞〔きき〕ヲアク。君恩飽〔あく〕マデウルホシテ降〔ふる〕雨ノ如シ、人望カタガタニ開ケテ盛ナル花ニ似タリキ。中に黄門都護〔くわうもんとご〕ハ、家ノ貫首〔くわんす〕トシテ一門ノ間ニ楗〔とぼそ〕ヲ排〔おしひら〕キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調〔ととのへ〕キ。誰カ思〔おもひ〕シ、天俄〔にはか〕ニ災〔わざはい〕ヲ降シテ天命ヲ滅シ、地忽〔たちまち〕ニ夭〔わざはい〕ヲアゲテ地望〔ちばう〕ヲ失ハントハ。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「中に黄門都護〔くわうもんとご〕ハ、家ノ貫首〔くわんす〕トシテ一門ノ間ニ楗〔とぼそ〕ヲ排〔おしひら〕キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調〔ととのへ〕キ」の「黄門」は中納言、「都護」は按察使の唐名ですから、これは光親のことですが、この表現は『吾妻鏡』七月十二日条の「此卿爲無雙寵臣。又家門貫首。宏才優長也」に類似していますね。
ところで、『海道記』は藤原(中御門)宗行に加えて藤原(葉室)光親と源有雅も藍沢原で処刑されたとしていますが、これは『吾妻鏡』の記述とは異なります。
既に紹介済みの『吾妻鏡』承久三年七月十二日条には、光親は「於加古坂梟首訖」とあり、「加古坂」(籠坂峠)は静岡県駿東郡小山町と山梨県南都留郡山中湖村との県境です。
ここには光親を祭神とする加古坂神社が鎮座し、近くには光親の墓もあるそうですが、宗行の処刑地とされる御殿場市の藍澤五卿神社からは直線距離でも十数㎞離れています。

籠坂峠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E5%9D%82%E5%B3%A0

また、源有雅は、『朝日日本歴史人物事典』の本郷和人氏の解説によれば、

-------
没年:承久3.7.29(1221.8.18)
生年:安元2(1176)
鎌倉前期の公卿。父は参議雅賢。母は伊予守藤原信経の娘。文治5(1189)年に侍従,翌年右少将となる。建仁3(1203)年に権右中将,元久1(1204)年正四位下,承元2(1208)年蔵人頭。翌年参議に昇り,公卿に列する。有雅の家は代々雅楽をよくし,彼もまた神楽,和琴,催馬楽に巧みであった。後鳥羽上皇の側近くに仕え,権臣藤原範光の婿となることによって昇進の機会を得,建暦2(1212)年に検非違使別当,また権中納言となる。承久の乱(1221)では後鳥羽上皇方の将として宇治に戦って敗退。出家して恭順の意を示すが六波羅に囚われ,鎌倉に送られる。途中甲斐国(山梨県)稲積庄において処刑された。

https://kotobank.jp/word/%E6%BA%90%E6%9C%89%E9%9B%85-1112941

という人物ですが、『吾妻鏡』七月二十九日条には、

-------
入道二位兵衛督〔有雅。去月出家。年四十六〕爲小笠原次郎長淸之預。下着甲斐國。而依有聊因縁。可被救露命之由。申二品禪尼間。暫抑死罪。可相待彼左右之由。雖令懇望。長淸不及許容。於當國稻積庄小瀬村令誅畢。須臾可宥刑罰之旨。二品書状到來云々。楚忽之爲體。定有亡魂之恨者歟。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあって、甲斐の「稲積庄小瀬村」で処刑されています。
北条政子と何らかの縁があったらしい有雅は、処刑は暫らく待ってほしいと懇願したにもかかわらず、小笠原長清がさっさと処刑してしまった後、政子から赦免を認める書状が届いた、とのことで、なかなかの悲劇ですね。
ま、それはともかく、「稲積庄小瀬村」は藍沢原からかけ離れていて、このあたりは『海道記』も不正確です。
ただ、十三日条の「若出於虎口。有亀毛命乎之由」云々から窺えるように、『吾妻鏡』の編者が『海道記』を参照しているのは明らかであって、他の史料も参照しながら、信頼できそうな部分を採っている、ということだろうと思います。
さて、『海道記』の続きです。

-------
哀哉〔あはれなるかな〕、入木〔じふぼく〕ノ鳥ノ跡ハ、千年ノ記念ニ残リ、帰泉〔くゐせん〕ノ霊魂ハ、九夜ノ夢ニマヨヒニキ。サレドモ善悪心ツヨクシテ、生死ハタゞ限アリト思ヘリキ。終ニ十念相続シテ他界ニウツリヌ。夏ノ終〔おはり〕秋ノ始〔はじめ〕、人酔〔ゑひ〕世濁〔にごり〕シ其間ノ妄念ハ任他〔サモアラバアレ〕、南無西方弥陀観音、其時ノ発心等閑〔なほざり〕ナラズハ来迎タノミアリ。是ヤ此人々ノ別〔わかれ〕シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起〔たち〕テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷〔さと〕トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナゝ。有為ノ堺トハ思ヘ共、憂カリシ世カナゝ。官位〔くわんゐ〕ハ春ノ夢、草ノ枕ニ永ク絶、栄楽ハ朝ノ露、苔ノ席〔むしろ〕ニ消ハテヌ。死シテ後ノ山路ハ隨ハヌ習〔ならひ〕ナレバ、後ルゝ恨モ如何セン。東路ニ独リ出テ、尤武者〔ケヤケキモノゝフ〕ニイザナハレ行ケン心ノ中コソ哀ナレ。彼冥吏〔みやうり〕呵責ノ庭ニ、独リ自業自得ノ断罪ニ舌ヲマキ、此妻息別離ノ跡ニ、各不意不慮ノ横死〔わうし〕ニ涙ヲカク。生テノ別レ死テノ悲ミ、二〔ふたつ〕ナガライカゞセン。真ヲ移シテモヨシナシ、一生幾〔いくばく〕カミン、魂ヲ訪〔とぶらひ〕テ足〔たる〕ベシ、二世〔にせ〕ノ契〔ちぎり〕ムナシカラジ。

 思ヘバナウカリシ世ニモアヒ沢ノ水ノ淡〔あわ〕トヤ人ノ消〔きえ〕ナン
-------

以上で『海道記』における宗行・光親・有雅関係記事、新日本古典文学大系本で24行(菊川宿)・18行(黄瀬川宿)・34行(藍沢原)、合計76行の全てを紹介しました。

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その7)

2023-01-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』によれば、承久三年(1221)七月十日に菊河宿(現在の島田市〔旧榛原郡金谷町〕菊川)で漢詩を作り、十三日に黄瀬川宿(現在の沼津市大岡)で和歌を詠んだ藤原(中御門)宗行は、十四日に「藍沢原」で処刑されます。
『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』の今野慶信氏の訳を引用すると、

-------
十四日、丙申。藍沢原で、黄門(藤原)宗行はとうとう白刃を逃れることが出来なかったという。年は四十七歳。最後まで(法華経の)読誦を決して怠らなかったという。
-------

ということで(p143)、宗行は菊川宿で漢詩を作ってから四日目に「藍沢原」で処刑されています。
さて、私は『海道記』にしつこくこだわっていますが、これは慈光寺本の藤原(中御門)宗行と藤原(葉室)光親の記述に非常に奇妙な点があるので、それがいかに奇妙かを明確にするためです。
即ち、慈光寺本では、

-------
 中御門中納言宗行卿ハ遠江国菊川ノ宿ニテ切ラレ給ヒヌ。御手水〔てうず〕メシケル人家ニ立入〔たちいり〕、カクゾ書附〔かきつけ〕給ヒケル。
  昔南陽県菊水 汲下流延齢 今東海道菊川 傍西岸終命
 按察卿ヲバ、駿河国浮島原ニテ切奉ル。御経アソバシテ、又カクナン、
  今日過〔すぐ〕ル身ヲウキ島ガ原ニ来テ露ノ命ゾコゝニ消ヌル
-------

という具合いに、宗行と光親の処刑についての記事の分量は極めて僅かです。
そして、実際には「藍沢原」で処刑された宗行が菊川宿で処刑されたことになっており、「加古坂」(籠坂峠)で処刑された(『吾妻鏡』承久三年七月十二日条)光親は「駿河国浮島原」で処刑されたことになっています。
更に、光親が詠んだとされる歌は、承久の乱の僅か二年後に成立した『海道記』によれば宗行の歌です。
慈光寺本のこれらの度重なる誤謬はいったい何を意味しているのか。
まあ、これらの誤謬が意図的なものかどうかはともかくとして、慈光寺本の作者が宗行や光親の運命には何の興味もなく、適当に聞きかじったことを適当に纏めただけであることは明らかだと思います。
ところで、『海道記』における宗行・光親への言及の分量は大変なもので、(その5)で引用した菊河宿の場面は新日本古典文学大系本で24行、黄瀬川宿の場面は同じく18行、合計45行となりますが、黄瀬川宿の場面に連続して、宗行が処刑された「藍沢原」での感懐を述べる叙述が34行もあります。
少しずつ紹介してみると、まず、『海道記』作者は黄瀬川宿から北上し、足柄峠に向かいますが、このルートに広がっているのが「藍沢原」です。

-------
十五日、木瀬川ヲ立ツ。遇沢〔あひざは〕ト云〔いふ〕野原ヲ過〔すぐ〕。此野何里トモ知ズ遥々ト行バ、納言〔なうごん〕ハ、コゝニテハヤ暇〔いとま〕ウベシトキコヘケルニ、心中ニ所作〔しよさ〕アリ今シバシト乞請〔こひうけ〕ラレケレバ、猶遥ニ過行〔すぎゆき〕ケン、実〔まこと〕ニ羊〔ひつじ〕ノ歩〔あゆみ〕ニ異ラナズ。心ユキタルアリキナンリトモ、波ノ音松ノ風、カゝル旅ノ空ハイカゞ物哀〔ものあはれ〕ナルベキニ、况〔いはむ〕ヤ馬嵬〔ばくわい〕ノ路ニ出テ、牛頭〔ごづ〕ノ境〔さかひ〕ニ帰ラントスル涙ノ底ニモ、都ニ思ヲク人々ヤ心ニカゝリテ、有〔あり〕ヤナシヤノコトノハダニモ、今一タビキカマホシカリケン。サレドモ澄田川ニモアラネバ、事トフ鳥ノ便〔たより〕ダニナクテ、此原ニテ永ク日ノ光ニ別〔わかれ〕、冥〔くら〕キ道ニ立カクレニケリ。

 都ヲバイカニ花人〔はなびと〕春タエテ東〔あづま〕ノ秋ノ木葉〔このは〕トハチル
-------

宗行が処刑された具体的な場所は『海道記』でも特定はされていませんが、東名高速御殿場ICの近くには「藍澤五卿神社」があり、ここが宗行の処刑地との伝承があるようですね。

-------
「まちなかパワースポット八箇所めぐり」(御殿場市公式サイト内)

藍澤五卿神社(あいざわごきょうじんじゃ)
鎌倉幕府の北条氏により執権政治が行われていた承久3年(1221)、後鳥羽上皇は政権を朝廷に取り戻そうと倒幕計画を進めた。これを知った幕府が直ちに兵を挙げ京を攻め落としたのが「承久の乱」である。首謀者である上皇は隠岐島へ流され、主だった上皇方の公卿や御家人を含む武士達が粛清された。藤原宗行は捕えられた5人の公家の内の1人で、京より鎌倉に送られる途中、鮎沢で最期を遂げたと「吾妻鏡」に記されている。
宗行は上皇の信任厚く、上皇に中国の帝王学の書「貞観政要」を進講するなど、学識深く文学に秀で多くの詩歌を残しており、地元の人々は藍澤神社を創建し祭ることとした。現在では、他の4人の公家、藤原光親・源有雅・藤原範茂・藤原信能を合わせて藍澤五卿神社として祭っている。
宗行卿の墓、五卿慰霊塔のほか、浩宮殿下がお立ち寄りになられたことを記念する記念樹が植栽されている。

https://www.city.gotemba.lg.jp/appeal/appeal-1/384.html

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一次史料の『葉黄記』が二次史料の『承久記』に「汚染」された可能性について

2023-01-30 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

1月25日の投稿「『葉黄記』寛元四年三月十五日条は葉室光親の「院宣」発給の証拠となるのか。(その2)」に、「愛読者」氏より、

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うーん。定嗣が所持した光親の日記に、承久の乱の時期の部分があったかどうかはわかりませんが、あった可能性は否定できませんし、後嵯峨院や定嗣、「或人」みんなが、『承久記』を読んでいたという憶測よりは、少なくとも蓋然性は高いと思われます。あと『定家本公卿補任』の存在も忘れてはいけないと思いました。
『承久記』の成立年代や著者がはっきりと確定されていない上、流布状況がどの程度だったか、説得的な解明がなされていないので、後嵯峨院や定嗣、あるいは「或人」がこれを読んだというのは、あくまでも憶測の域にとどまるでしょう。ここの仮説を補強することが望ましいですね。問題の性格を考えますと、仮説を示すのは悪くないですが、これを裏付ける確かな材料なり、説得的な説明が欲しいのです。手続き上、「小役人」的な作業を積み重ねないと。でも考えたら、研究者の書く論文じゃなくてブログなので、そんなことを求めるのが野暮かもしれませんが。
-------

というコメントをもらい、私の方は、

-------
西田友広氏の書評は読まれましたか。
西田氏は「著者も論じているように、葉室光親が、義時追討の官宣旨の発給を蔵人頭─太政官機構へと命じる後鳥羽院の院宣を作成したことは藤原定家本『公卿補任』の記述から証明されたと評者も考える。しかし、同じく光親が奉者となり東国の有力御家人に義時追討を命じたとされる、慈光寺本『承久記』が引用する院宣(以下、慈光寺本院宣とする)については、なお慎重な検討が必要と思われる」とのことで、「慎重な検討」の結果、西田氏は創作説ですね。
私は古文書学的素養がないので、最初は西田氏の見解がよく分らなかったのですが、呉座勇一氏が西田説に賛成されているので、呉座氏の見解も踏まえて再考した結果、今は西田説で良いと考えています。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb541a7acb9f83e2f97658944be699e

と回答して、対応待ちの状態です。
少し補足すると、私も別に「後嵯峨院や定嗣、あるいは「或人」」全員が『承久記』を隅から隅まで熟読していた、と言っている訳ではありません。
1月26日の投稿、「『葉黄記』寛元四年三月十五日条の「或人」のことなど。」で、

-------
私としては、流布本も慈光寺本も明らかに一定の読者を想定しており、その内容は間違いなく面白いですから、「或人」や後嵯峨院が直接・間接に『承久記』から光親の「院宣」発給の話を知ったと推定することは充分合理的だと思います。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e2d39376be5361026cada799b379ceb7

と書いたように、特に後嵯峨院の場合は、近臣との会話の中で間接的に聞いた程度のことだろうと思います。
天皇・上皇が近臣から情報を得ていた例はいくらでも挙げられるでしょうが、たまたま私が去年、少し検討した「善空事件」の場合、『実躬卿記』正応四年(1291)五月二十九日条と六月一日条によれば、五月二十九日、正親町三条実躬は「家君」(父親の公貫)と一緒に嵯峨殿に行ったところ、亀山法皇の御前に「帥」(中御門経任)・高倉茂通・藤原宗親・藤原宗氏・良珍法眼が伺候しており、公貫・実躬父子もその場に加わったところ、善空上人に関する話題となります。

善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その5)(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b3a378b3f45cafb7dcd0d576f747f963
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/431e63846f34b0f5d9b75cd0d27215df
坂口太郎氏「禅空失脚事件」への若干の疑問(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7d295ec22dffdd32c01dbd66fc7f53e2

正応四年(1291)の時点で亀山院は「治天の君」ではありませんが、大覚寺統の指導者ですから政治・社会の動向には当然に関心があり、近臣を通じて様々な情報を得るように努めていたでしょうね。
そして、それは寛元四年(1246)の後嵯峨院も同様だったと思います。
後嵯峨院の周辺で、世間では『承久記』という本が話題になっていて、そこには葉室光親が義時追討の「院宣」を発給したと書いてある、程度の話であっても、私の仮説は成り立ちます。
それと、私としては、一次史料が二次史料に「汚染」されている可能性について、誰かから反応していただけると有難かったのですが、今のところ、そちらには関心を持ってもらえなかったようです。
長村氏は慈光寺本『承久記』と定家本『公卿補任』、そして『葉黄記』寛元四年三月十五日条が別個独立の史料だということを当然の前提とされていますが、慈光寺本『承久記』の成立時期を考えれば、一次史料として信頼性が高いと思われている『葉黄記』が二次史料の『承久記』に「汚染」されている可能性は排除できません。
そして、今まであまり議論されていないようですが、私は『吾妻鏡』も『承久記』に相当「汚染」されているのではないかと疑っていて、現在、その仮説を検証中です。

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その6)

2023-01-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

藤原宗行に関する『吾妻鏡』の記事の拙訳を試みようかとも思いましたが、正確を期したいので、五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳を引用させてもらうと、まず承久三年七月十日条には、

-------
十日、壬辰。中御門入道前中納言(藤原)宗行は小山新左衛門尉朝長に伴われて下向し、今日は遠江国菊河駅に泊まったが、一晩中眠ることが出来ず、一人閑窓に向かって法華経を読んだ。また宿の柱に書き付けた。
  昔、南陽県では菊から下る水を汲んで寿命を延ばした。今、東海道の菊河は、その西岸
  に泊まって命を失う。
-------

とあります。(p141)
ついで十一日条に佐々木広綱の子、勢多伽丸の悲劇が描かれます。
勢多伽丸については流布本・慈光寺本『承久記』に極めて詳細な記事があり(『新訂承久記』で49行、新日本古典文学大系本で63行)、私は『吾妻鏡』は『承久記』から採っているのではなかろうかと疑っているのですが、その話を始めると長くなるので今はやめておきます。
十二日条には藤原光親の梟首が描かれますが、これも宗行の話に関係するので、今野訳を見ると、

-------
十二日、甲午。按察卿〔藤原光親。先月に出家。法名は西親〕は武田五郎信光が預かって下向した。そこに鎌倉の使者が駿河国の車返の辺りで出会い、誅殺せよと伝えたので、加古坂で梟首した。時に年は四十六歳という。光親卿は(後鳥羽の)並びない寵臣であった。また家門の長で、才能は優れていた。今度の経緯については特に戦々恐々の思いを抱いて、頻りに君(後鳥羽)を正しい判断に導こうとしたが、諫言の趣旨がたいそう(後鳥羽の)お考えに背いたので進退が極まり、追討の宣旨を書き下したのである。「忠臣の作法は、諫めてこれに随う」ということであろう。その諫言の申状数十通が仙洞に残っており、後日に披露された時、武州(北条泰時)はたいそう後悔したという。
-------

とのことで(p142)、光親が「書下追討宣旨」というのが『吾妻鏡』編者の認識ですね。
これは五月十九日条の、西園寺家家司・三善長衡の使者の報告にある「勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。関東分宣旨御使。今日同到着云々」に対応しています。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm

ただ、史実としては、「官宣旨」それ自体には光親の関与はなく、「蔵人某→上卿内大臣源通光→右大弁藤原資頼→右大史三善信直を経て発給」(長村著、p93)されています。

「書出を「右弁官下」とする官宣旨が追討等の「凶事」に用いられることは周知の通りであろう」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e729067bee8a32cc39835bbc43e817a6

ここがなかなか難しいところなのですが、極めて厳格な様式である官宣旨を発給するための事前手続きとして、長村氏の言われる「義時追討院宣」とは別の後鳥羽院の院宣が出されていたはずで(長村著、p94)、こちらは光親の関与の可能性が十分ある訳です。
そこまで含めれば、後鳥羽が光親に命じて「右京兆追討宣旨」を出させたとの三善長衡の認識が、幕府側としては、光親が「書下追討宣旨」ものとして認識された可能性はあります。
ま、こちらも話し始めると長くなるので、後日改めて検討することとして、十三日条を見ると、

-------
十三日、乙未。上皇(後鳥羽)は鳥羽の行宮から隠岐国に遷られた。甲冑の武士が御輿の前後を囲み、御供は女房が二、三人と内藏頭(藤原)清範入道であった。ただし清範は道中で急に召し返されたため、施薬院使(和気)長成入道・左衛門尉(藤原)能茂入道らが追って参ったという。
 今日、入道中納言(藤原)宗行は駿河国浮島原を過ぎ、荷物を背負った人夫が一人泣いているのに途中で出会った。黄門(宗行)が人夫に尋ねると、按察卿(藤原光親)の僮僕であった。昨日(光親が)梟首されたため、主君の遺骨を拾って京に帰ると答えた。はかない人の世の悲しみは他人の身の上とも思われず、ますます魂が消えそうであった。死罪を逃れられないことは以前から考えの中にはあったが、あるいは虎口を脱すれば亀毛の命があるのではと、なお希望を残していたところ、同罪の人(の運命)が既に定まったので、全く死んだようであった。その心中を察すると、まことに憐れむべきである。(宗行は)黄瀬川宿で休憩した際に文章を書く機会があったので、傍らに書き付けた。
  今日スグル身ヲ浮島ノ原ニテモ ツヰノ道ヲバ聞〔きき〕サダメツル
菊河駅では佳句を書いて長く伝えられ、黄瀬川では和歌を詠んで一時の愁いを慰めたという。
-------

とあります。
この部分を『海道記』の、

-------
サテモ此歌ノ心ヲ尋レバ、納言浮嶋原ヲ過ルトテ、モノヲ肩ニカケテノボル者アヒタリケリ。問ヘバ按察使〔あんざつし〕光親卿ノ僮僕〔とうぼく〕、主君ノ遺骨ヲ拾テ都ニ帰〔かへる〕ト泣々云ケリ。其ヲミルハ身ノ上ノ事ナレバ。魂ハ生テヨリサコソハ消ニケメ。本ヨリ遁ルマジト知ナガラ、ヲノヅカラ虎ノ口ヨリ出テ亀ノ毛ノ命モヤウルト、猶待レケン心ニ命ハ終〔つひ〕ニト聞定テ、ゲニ浮嶋原ヨリ我ニモアラズ馬ノ行ニ任テ此宿ニオチツキヌ。今日斗〔ばかり〕ノ命、枕ノ下ノ蛩〔きりぎりす〕ト共ニ哭明〔なきあか〕シテ、カク書留テ出ラレケンコソ、アハレヲ残スノミニ非ズ、無跡〔なきあと〕マデ情〔なさけ〕モフカクミユレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc34fda73d40fdf58285180a15cbf655

と比較すると、『吾妻鏡』の編者が『海道記』を参照しているのは明らかですね。
ちなみに『現代語訳吾妻鏡』で「亀毛」に付された注を見ると、「亀の甲に毛が生えることの意から、あるはずのないこと」という意味だそうです。

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その5)

2023-01-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『海道記』は『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店、1990)に収録されていますが、ウィキソースでも全文(群書類従本)が読めますね。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%81%93%E8%A8%98

ただ、肝心なところで新日本古典文学大系本と表記が異なることが多く、正確さは劣ります。
さて、新日本古典文学大系本は大曾根章介・久保田淳氏校注で、本文の前に置かれている解説が簡潔によく纏まっているので、少し引用させてもらうと、

-------
〔内容〕貞応二年(一二二三)四月四日の晩、都を出立した作者が鈴鹿越えの道筋で東海道を下り、同十八日鎌倉に到着、寺社などを遊覧したのち、五月初め帰京の途に就くまでの旅を、漢文訓読体に近い和漢混淆文で綴った紀行文。途中、二年以前の承久の乱で斬られた後鳥羽近臣達ゆかりの地でしばしば動乱を回顧し、犠牲者を悼む。また、末尾近くでは仏道信仰のあり方を論じ、単なる紀行文の域にとどまらない思想性を含んでいる。
〔作者〕京の白川付近、中山の麓に隠遁生活を送る遁世者。五十歳前後で、八十以上と思われる老母がいるということが作中の叙述から知られるが、それ以上は未詳である。【中略】作者は承久の乱の犠牲者に熱い涙を灑いでおり、中でも藤原(中御門)宗行の死を痛悼している。また自身も乱の余波を受けて落魄したかのごとく解される叙述も見出される。宗行は前名行光で、中山に家があった左代弁行隆の男である。その兄弟には下野守従五位下行長がいる。『徒然草』で『平家物語』作者とする信濃前司行長に相当すると見られる人物である。その経歴などは明らかではないが、儒学的教養を備えていたであろうことは十分想像しうる。本書の作者としてもふさわしいのではないか。
-------

ということで(p70)、作者不明ではあるものの、承久の乱から僅か二年後の成立なので信頼性は高いですね。
そして、藤原宗行についての記述は、まず、菊河において相当な分量で出てきますが、ここでは漢詩以外は『吾妻鏡』と類似の表現はありません。
ただ、なかなかの名文なので全部引用してみると、四月十二日の出来事として、

-------
 時ニ鴇馬〔はうば〕蹄〔ひづめ〕疲テ、日烏〔にちう〕翅〔つばさ〕サガリヌレバ、草命〔さうめい〕ヲ養ンガ為ニ、菊川ノ宿ニ泊ヌ。或家ノ柱ニ、中御門中納言宗行斯〔かく〕書付ラレタリ。
  彼南陽県菊水、汲下流延齢、此東海道菊河、宿西岸終命。
 誠ニ哀ニコソ覚ユレ。其身累葉〔るいえふ〕ノ賢キ枝ニ生レ、其官〔つかさ〕ハ黄門ノ高キ階〔はし〕ニ昇ル。雲上〔うんしやう〕ノ月ノ前ニハ、玉ノ冠〔かうぶり〕光ヲ交ヘ、仙洞ノ花ノ下〔もと〕ニハ、錦ノ袖色ヲ争フ。才〔さい〕身ニタリ栄〔さかえ〕分ニアマリテ時ノ花ト匂シカバ、人其ヲカザシテ近〔ちかき〕モ随ヒ遠〔とほき〕モ靡キ。カゝルウキ目ミムトハ思ヤハヨルベキ。サテモアサマシヤ、承久三年六月中旬、天下風アレテ、海內〔かいだい〕波サカヘリキ。闘乱ノ乱将ハ花域〔くわゐき〕ヨリ飛テ、合戦ノ戦士ハ夷国ヨリ戦フ。暴雷〔ぼうらい〕雲ヲ響カシテ、日月〔じつぐゑつ〕光ヲ覆ハレ、軍慮〔ぐんりよ〕地ヲ動シテ、弓剣〔きうけん〕威ヲ振フ。其間万歲〔ばんぜい〕ノ山ノ声、風忘テ枝ヲ鳴シ、ー清〔いつせい〕ノ河ノ色、波誤〔あやまち〕テ濁〔にごり〕ヲ立ツ。茨山汾水〔しざんふんすい〕ノ源流〔ぐゑんりう〕、高ク流テ遥ニ西海〔さいかい〕ノ西ニ下リ、卿相羽林〔けいしやううりん〕ノ花ノ族〔やか〕ラ、落テ遠ク東関〔とうくわん〕ノ東ニ散ヌ。是ノミニアラズ、別離宮〔べつりきう〕ノ月光〔ぐわつくわう〕処々〔ところどころ〕ニ遷ヌ、雲井ヲ隔テゝ旅ノ空ニ住〔すみ〕、鷄籠山〔けいろうさん〕ノ竹声〔ちくせい〕方々ニ憂タリ。風便〔かぜのたより〕ヲ絶テ外土〔ぐわいと〕ニ吟〔さまよ〕フ。夢カ現〔うつつ〕カ、昔モイマダキカズ。錦帳玉璫〔きんちやうぎよくたう〕ノ床〔とこ〕ハ、主ヲ失テ武宿トナリ、麗水蜀川〔れいすいしよくせん〕ノ貢〔みつきもの〕ハ、数ヲ尽テ辺民〔へんみん〕ノ財〔たから〕トナリキ。夜昼戯〔たはぶれ〕テ衿〔ころものくび〕ヲ重〔かさね〕シ鴛鴦〔ゑんあう〕ハ、千歲比翼〔せんぜいひよく〕ノ契〔ちぎり〕生〔いき〕ナガラタエ、朝夕ニ敬〔うやまひ〕テ袖ヲ収メシ僮僕〔とうぼく〕モ、多年知恩〔ちおん〕ノ志思〔おもひ〕ナガラ忘ヌ。実〔まこと〕ニ会者定離〔えしやぢやうり〕ノ習〔ならひ〕、目ノ前ニミユ。刹利〔せつり〕モ首陀〔しゆだ〕モカハラヌ奈落ノ底ノ有様、今ハ哀ニコソ覚レ。今ハ歎トモ助ベキ人モナシ。泪〔なみだ〕ヲサキダテゝ心ヨハク打出ヌ。其身ニ従フ者ハ甲冑〔かふちう〕ノ兵〔つはも〕ノ、心ヲ一騎ノ客〔かく〕ニカク。其目ニ立者〔たつもの〕ハ釼戟〔けんげき〕ノ刃〔やきは〕、魂ヲ寸神〔すんしん〕ノ胸ニケス。セメテ命ノ惜サニカク書付ラレムケムコソ、スル墨ナラヌ袖ノ上モ露〔アラハレ〕ヌベク覚〔おぼゆ〕レ。
 心アラバサゾナ哀〔あはれ〕ト水茎〔みづくき〕ノ跡カキツクル宿ノ旅人
-------

とあります。(p91以下)
菊河の後、「妙井渡〔しみつのわたり〕」「播豆藏〔はづくら〕ノ宿」「丘部〔をかべ〕ノ里邑〔さと〕」を過ぎて「手越〔てごし〕ノ宿」に泊まり、翌十三日は「宇度浜〔うどのはま〕」「江尻〔えじり〕ノ浦」「清見関〔きよみがせき〕」「息津浦〔おきつのうら〕「岫崎〔くきがさき〕」「湯居〔ゆゐ〕宿」を過ぎて「蒲原ノ宿」に泊まります。
翌十四日は「浮嶋原〔うきしまがはら〕」を過ぎると、作者は富士山の景色に誘われたのか、かぐや姫と竹取の翁の物語を延々と語り出してちょっと戸惑いますが、やがて「車返〔くるまがへし〕」を過ぎ、「木瀬川ノ宿」に着きます。(p104以下)

-------
 木瀬川ノ宿ニ泊テ、萱屋〔かやや〕ノ下ニ休ス。或家ノ柱ニ、又彼納言〔なうごん〕和歌一首ヲヨミテ、一筆ノ跡ヲ留〔とどめ〕ラレタリ。

  今日過〔すぐ〕ル身ヲ浮嶋ガ原ニキテツヰノ道ヲゾ聞〔きき〕サダメツル

 此ヲ見ル人、心アレバミナ袖ヲウルホス。夫〔それ〕北州ノ千年ハ、限〔かぎり〕ヲ知テ寿〔いのち〕ヲ歎ク。南州ノ不定〔ふじやう〕ハ、期〔ご〕ヲ知ズシテ寿ヲ楽シム。誠ニ今日計〔ばかり〕ト思ケム心ノ中ヲ推〔すい〕スベシ。大方ハ昔語リニダニモ哀ナルニ泪ヲ拭〔のご〕フ。何況〔いかにいはむ〕ヤ我モ人モ見シ世ノ夢ナレバ、驚カスニ付テ哀ニコソ覚レ。サテモ峰ノ梢ヲ払シ嵐ノ響ニ、思ハヌ谷ノ下草マデ吹シホレテ、数ナラヌ露ノ身モ置所〔おきどころ〕ナク成ニシヨリ、カク吟〔サマヨヒ〕テ命ヲ惜〔をしみ〕テ失〔うせ〕ニシ人ノ言端〔ことのは〕ヲ、存〔イケル〕ヲ厭フ身ハ今マデ有テ、ヨソニミルコソ哀レナレ。サテモ此歌ノ心ヲ尋レバ、納言浮嶋原ヲ過ルトテ、モノヲ肩ニカケテノボル者アヒタリケリ。問ヘバ按察使〔あんざつし〕光親卿ノ僮僕〔とうぼく〕、主君ノ遺骨ヲ拾テ都ニ帰〔かへる〕ト泣々云ケリ。其ヲミルハ身ノ上ノ事ナレバ。魂ハ生テヨリサコソハ消ニケメ。本ヨリ遁ルマジト知ナガラ、ヲノヅカラ虎ノ口ヨリ出テ亀ノ毛ノ命モヤウルト、猶待レケン心ニ命ハ終〔つひ〕ニト聞定テ、ゲニ浮嶋原ヨリ我ニモアラズ馬ノ行ニ任テ此宿ニオチツキヌ。今日斗〔ばかり〕ノ命、枕ノ下ノ蛩〔きりぎりす〕ト共ニ哭明〔なきあか〕シテ、カク書留テ出ラレケンコソ、アハレヲ残スノミニ非ズ、無跡〔なきあと〕マデ情〔なさけ〕モフカクミユレ。

  サゾナゲニ命モヲシノ劔羽〔つるぎば〕ニカゝル別〔わかれ〕ヲ浮嶋ガ原
-------

ここと『吾妻鏡』承久三年七月十三日条を比べると、『吾妻鏡』の編者は『海道記』を参照、というかそっくり真似ていることが明らかですね。

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その4)

2023-01-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

坊門忠信の後半生について、流布本では「さて都へ上りて後、一旦の誡めに越後国へ流れけり」となっているので、越後流罪はあくまで「一旦の誡め」であり、京に戻ったことを知っている書き方ですが、慈光寺本には、

-------
 坊門大納言ハ、鎌倉故右大臣殿ノ御台所ノ御セウト、強縁〔がうえん〕ニマシマセバ、命計〔ばかり〕ハ乞請〔こひうけ〕テ、浜名ノ橋ヨリ帰リ給フ。今ハト心安〔こころやすく〕テ、出家シテオハセシガ、又イカナル事カ聞ヘケン、後ニハ越後国ヘ流シ奉リケル。
-------

とあって(新日本古典文学大系、p361)、越後から京に戻ったことを知らないような書き方です。
とすると、この記述を根拠にして、慈光寺本は坊門忠信が越後に流されてから京に戻るまでの期間に成立した、という学説があってもよさそうなものですが、誰か書いているでしょうか。
ま、それはともかく、流布本の続きです。(p130以下)

-------
 中御門前中納言宗行は、小山新左衛門尉具奉りて下りけるが、遠江の菊河に著給ふ。「爰をば何と云ふぞ」と問給へば、「菊河」と申。「前に流るゝ川の事か」。「さん候」と申ければ、硯乞出て、宿の柱に書付給ふ。
   昔南陽県之菊水、酌下流延齢
   今東海道之菊河、宿西岸失命
       昔、南陽県の菊水、下流を酌んで齢〔よはひ〕を延ぶ
       今、東海道の菊河、西岸に宿して命を失ふ
と書て過給へば、行合旅人、空き筆の跡を見つゝ、涙を流ぬは無けり。
次の日、浮嶋原〔うきしまがはら〕を通らせ給に、御供なる侍、「最後の御事、今日の夕部〔ゆふべ〕は過させ給はじ」と申ければ、打諾〔うなづ〕き、殊に心細計〔げ〕にて、木瀬河〔きせがわ〕の宿に御手水〔てうづ〕の為に立寄給ふ様にて、角〔かく〕ぞ書付給ける。
   今日迄は身を浮嶋が原に来て露の命の消んとぞ思ふ
其日の暮方にあふ澤にて被切給ぬ。
-------

『朝日日本歴史人物事典』では秋山喜代子氏が藤原宗行も担当されていて、それによれば、

-------
藤原宗行
没年:承久3.7.14(1221.8.3)
生年:承安4(1174)
鎌倉前期の公卿。権中納言正三位。左大弁行隆の5男で,母は典薬助藤原行兼の娘(美福門院女房,のち八条院女房越前)。初名は行光。一門の権大納言藤原宗頼の子となり,宗行と改名。中御門中納言と号す。宗頼が後鳥羽上皇の腹心の女房卿二位と結婚して上皇の側近となったことから,宗行も上皇の近臣となった。有能な実務官僚で,院中の雑務を奉行し,伝奏を務めた。また上皇に『貞観政要』を進講した。土御門上皇の近臣ともなり,その年預別当を務めた。承久の乱(1221)に深くかかわり,乱後首謀者のひとりとして関東に送られ,駿河(静岡県)の藍沢で小山朝長により処刑された。

https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%97%E8%A1%8C-1106494

とのことで、宗行は卿二位に極めて近い人ですね。
ちなみに卿二位は流布本には登場しませんが、慈光寺本では、亀菊エピソードの最後、公卿僉議の場で近衛基通が義時追討に穏やかに疑問を呈すると、卿二位が「木ヲ切ニハ本ヲ断ヌレバ、末ノ栄ル事ナシ。義時ヲ打レテ、日本国を思食ママニ行ハセ給ヘ」と後鳥羽院を叱咤激励します。
そして、後鳥羽が陰陽師七人を呼んで鎌倉攻撃の日取りを占わせたところ、「当時ハ不快」で、今回は中止して「年号替ラレテ、十月上旬ニ思食立ナラバ、成就仕テ平安ナルベシ」との回答だったので、後鳥羽が悩んでいたところ、

-------
卿二位殿、又申サレケルハ、「陰陽師、神ノ御号〔みな〕を借テコソ申候ヘ。十善ノ君ノ御果報〔くわほう〕ニ義時ガ果報ハ対揚〔たいやう〕スベキ事カハ。且〔かつう〕ハ加様〔かやう〕ノ事、独〔ひとり〕ガ耳ニ聞ヘタルダニモ、世ニハ程ナク聞ユ。増シテ一千余騎ガ耳ニ触テン事、隠ス共隠アルマジ。義時ガ聞候ナン後ハ、弥〔いよいよ〕君ノ御為、重ク成候ベシ。只疾々〔とくとく〕思食立候ベシ」トゾ申サレタル。サラバ秀康召テ、先〔まず〕義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季ヲ可討由ヲ、宣旨ゾ下ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とあって、卿二位は再び後鳥羽を叱咤激励します。
このように、慈光寺本では卿二位は後鳥羽以上の強硬派として二度にわたって登場し、強烈な存在感をアピールしていますね。
さて、松林靖明氏の頭注によれば、宗行の漢詩は「昔、中国の南陽県の菊水では、下流の水を汲んで命を延ばしたという。今、私は東海道の菊河川の西岸に泊まって命を失なおうとしていることだ」という意味ですが、正直、それほどたいした作品とも思えません。
しかし、この漢詩は非常に有名だったようで、『六代勝事記』・『海道記』・『東関紀行』、そして『吾妻鏡』に出てきます。
即ち、『吾妻鏡』承久三年七月十日条に、

-------
中御門入道前中納言宗行相伴小山新左衛門尉朝長下向。今日。宿于遠江國菊河驛。終夜不能眠。獨向閑窓。讀誦法花經。又有書付旅店之柱事。
 昔南陽縣菊水。汲下流而延齡。  今東海道菊河。宿西岸而失命。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあります。
ついで、七月十二日条で葉室光親の処刑を記した後、翌十三日条に、

-------
今日。入道中納言宗行過駿河國浮嶋原。荷負疋夫一人。泣相逢于途中。黄門問之。按察卿僮僕也。昨日梟首之間。拾主君遺骨。皈洛之由答。浮生之悲非他上。弥消魂。不可遁死罪事者。兼以雖挿存中。若出於虎口。有龜毛命乎之由。猶殆恃之處。同過人已定訖之間。只如亡。察其意。尤可憐事也。休息黄瀬河宿之程。依有筆硯之次註付傍。
 今日スクル身ヲ浮嶋ノ原ニテモツ井ノ道ヲハ聞サタメツル
於菊河驛書佳句。留万代之口遊。至黄瀬河詠和歌。慰一旦之愁緒云々。
-------

とあります。
『吾妻鏡』には日付を始めとして流布本には見えない情報が相当ありますが、『海道記』の文章とはよく似ています。
その点は次の投稿で述べます。

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その3)

2023-01-28 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

鏡月坊の「勅なれば身をば寄てき武(士)の八十宇治河の瀬には立ねど」という歌のエピソードは、それなりに有名な話だったようなので『吾妻鏡』に登場するのは変ではないと思いますが、しかし、その位置が六月十六日条というのは些か奇妙な感じします。
幕府軍が京都になだれ込んできたのは前日の十五日ですから、熾烈な残党狩りの一方、後鳥羽院側との交渉も始まっており、六波羅に陣取った北条泰時は次から次へと押し寄せてくる重要案件の処理に忙殺されていたはずです。
そんな中で、さしたる勇士ではない「清水寺住侶敬月法師」の処分程度の話が、泰時の指示を仰ぐためにわざわざ上がってくるものなのか。
鏡月坊エピソードが事実だとしても、さすがに十六日ではなく、少し落ち着いてからの話ではなかろうかと思います。
『文机談』での語り方も、北条泰時・時房が六波羅に入った翌日、という雰囲気ではないですね。
とすると、何故に鏡月坊エピソードが『吾妻鏡』の六月十六日条に出ているかといえば、これは流布本『承久記』に早めに出てくるので、それに『吾妻鏡』の編者が引きずられてしまったためのような感じがします。
もちろん、これは『吾妻鏡』の編者が流布本を参照していた、という前提のもとでの話になりますが。
ま、それはともかく、流布本の続きです。(p129以下)

-------
 其比、西八条の尼御前と申は、坊門大納言忠信卿の妹〔いもう〕と、鎌倉の故(右)大臣殿の後室也。是に依て、二位殿へも武蔵守にも被申けるは、「尼が身にて、京・鎌倉何〔いづ〕れを分て思ひ侍ね共、二に取れば角て侍も、其方〔そなた〕の養〔はぐく〕みにてこそ候へ。其上故(右)大臣殿の御事を思進らすれば、鎌倉の傾かん事をば、一人の嘆と覚へて、光季が被討し朝〔あした〕より、宇治の落し夕〔ゆうべ〕迄、袖の下にて幣帛〔ぬさ〕をつき、神仏に祈精申、其にはより候はざれ共、鎌倉の穏〔おだ〕しき事と承はれば、身独〔ひとつ〕の悦にて社〔こそ〕候へ。其に付て彼大納言、一方の大将なれば、其罪難遁覚候へ共、指〔させ〕る弓矢取身にても不候。故大臣殿為聖霊〔しやうりやう〕に被宥〔なだめ〕候て、此度〔たび〕の命助けさせ可給る候覧」と被申ければ、二位殿憐て、「さらば坊門大納言をば助け奉れ」と云へり。御使、遠江の舞坂にて参合ふ。忠信卿、其より都へ帰給ふ。同様に被下按察使中納言、「御使にて帰る浪こそ浦山敷〔うらやまし〕けれ」と被申ければ、忠信卿、「是も夢にて哉覧〔やらん〕」と計答へて、互に分れ給ひける。さて都へ上りて後、一旦の誡めに越後国へ流れけり。
-------

実朝未亡人である「西八条の尼御前」は坊門忠信の妹なので、「二位殿」北条政子や「武蔵守」北条泰時に対して、自分は京都・鎌倉、どちらか一方をとりわけ重く考える訳ではありませんが、このように何不自由なく暮らしていることができるのも鎌倉のおかげであり、故実朝様の事に思いを廻らせば、鎌倉が傾くことは私自身の身の上のように嘆かれることでしたので、私は伊賀光季が討たれてから宇治川で京方が敗れるまで、ずっと人知れず神に幣帛を捧げ、神仏に鎌倉の勝利を祈っておりましたところ、もちろん私が祈ったためではありませんが、鎌倉が勝ち、安泰となったことは私自身の喜びのように感じられます、とした上で、兄の助命を願ったところ、北条政子が憐れんで、助命を命じた、ということですね。
そして、政子の使者が遠江の舞坂で忠信一行に出会い、忠信は京に戻ったが、その途中で「按察使中納言」葉室光親と会い、光親がうらやましいと言うと、忠信は「これも夢でしょうか」と答えて別れたと云々。
『朝日日本歴史人物事典』では秋山喜代子氏が坊門忠信を担当されていて、それによれば、

-------
坊門忠信
没年:没年不詳
生年:文治3(1187)
鎌倉前期の公卿。権大納言正二位。後鳥羽上皇の外戚として権勢を振るった内大臣坊門信清と権大納言藤原定能の娘との子。自身も後鳥羽上皇や伯母七条院の側近となった。妹(西八条殿)が鎌倉幕府の将軍源実朝の妻となったことから幕府と親密で,承久1(1219)年1月,鶴岡八幡宮で催された実朝の右大臣拝賀の儀式に参列し,実朝が暗殺されるのをまのあたりにした。同3年の承久の乱に際しては,院方の大将軍として宇治で幕府軍と交戦。敗れて幕府に捕らえられ関東に下されたが,西八条殿が北条政子に赦免を願い出たことによって斬刑を許され,帰京して出家。同年8月,幕府により越後(新潟県)に配流された。のち許されて京に戻り,太秦に住んだ。暦仁1(1238)年,将軍藤原頼経が上洛した折,忠信は承久の乱後の措置に報いるため,執権北条泰時に会見を求めたが,泰時はこれを辞退した。なお後鳥羽上皇の命により,院近臣で同門の信成を養子としたが,承久の乱後,信成は水無瀬家を興した。

https://kotobank.jp/word/%E5%9D%8A%E9%96%80%E5%BF%A0%E4%BF%A1-132474

とのことで、暦仁元年(1238)までの生存は確認されています。
流布本の作者が坊門忠信の晩年について何か書いていてくれたら、流布本の成立年代に関するヒントになったかもしれませんが、それはないものねだりですね。
西八条禅尼は建久四年(1193)に生まれ、元久元年(1204)に十二歳で実朝室となり、建保七年(1219)に実朝の死を受けて二十七歳で出家、その後は京都で暮らし、文永十一年(1274)に八十二歳で亡くなっており、当時としてはずいぶん長命の人ですね。
ネットでは山本みなみ氏が雑誌『サライ』に寄せた次の記事がよく纏まっていると思います。

「公武融和のために12歳で鎌倉に下った女性 蒙古襲来前月まで長命を保った3代将軍実朝未亡人」
https://serai.jp/hobby/1052608

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その2)

2023-01-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「勅なれば身をば寄てき武(士)の八十宇治河の瀬には立ねど」という歌が『吾妻鏡』にも登場するからといって、私はこの歌が『吾妻鏡』編者が流布本『承久記』を参照した証拠だ、と言うつもりはありません。
何故なら、この鏡月坊のエピソードは文永九年(1272)前後の成立とされている『文机談』にも載っているからです。
『文机談』第四冊には、承久の乱関係のエピソードとして、後鳥羽院の琵琶の師・藤原定輔の、

-------
定輔為比巴継命事
 承久の逆乱に、上達部おほく悪事にまじわりてほろび給ひぬ。これも君の御師範、朝恩あつき人にて、やすくゆり給ふべくもなかりしに、新帝<後堀川院>御則位ありて、清暑堂の御神楽に御遊あり、比巴にこの卿まいり給ふべきにてありければ、公家より関東へおほせ合せられたりける御返事に、「比巴の大納言定輔卿、御赦免を蒙りて清暑堂に所作あるべし」など申されたりける、藝によりて命を継ぐためし、これのみにあらず。漢家・本朝これおほしといへども、たち所にくびを継ぎ給ふも、比巴のゆへにあらずや。
-------

という話(岩佐美代子『文机談全注釈』。笠間書院、2007、p211以下)に続いて、

-------
教月依哥継命事
 この度の事ぞかし、清水の寺僧、教月ときこえしすき者侍りき。軍兵にかられて うぢの手にむかひ侍りぬ。御方のつは物やぶれにければ、なにとてかのこり侍らん、くものこをちらし侍りけるを、武蔵前司入道殿〔北条泰時〕、いまだ修理亮殿とて六波羅の守護にてわたらせ給ひけるに、めしとられまいらせぬ。のがるべきみちなければ、いましめをかせ給ふ。このたぐひあまた、あしたいとまを給ふべきにて侍りける。かなしさのあまりに、一首をかきつらねてまいらせあげゝり。その詞に云はく、
   勅なれば身をばすてにきものゝふのやそうぢ川のせにはたゝねど
これを御らんありて、「あはれ也、なにほどの事かはあらん」とて、やがてゆるされにき。さしもの重科をゆるされける御めぐみこそ、後代の物語にはかきつけ侍らめ。
-------

とあって(p212以下)、鏡月坊(教月)の和歌エピソードはそれなりに人口に膾炙した話と思われます。
ただ、ここに出てくる「後代の物語」とはいったい何なのか。
岩佐美代子氏は「承久記の類を意識するか」と注記されていますが(p213)、慈光寺本にはこのエピソードは存在しないので、「後代の物語」は流布本の可能性があります。
その場合は『文机談』が成立した文永九年(1272)前後には既に流布本も成立しており、さほどの教養人でもない『文机談』の作者・文机房あたりまで広く知られていたことになります。
ま、それはともかく、流布本に戻って、続きです。(松林靖明『新訂承久記』、p128以下)

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 去程に武蔵守・駿河守は院の御所へ参らんとて、已に打立んずる由、一院被聞召て、下家司以被仰下は、「な参そ、張本に於は(交)名〔けうみやう〕を註〔しる〕し出さんずるぞ」と被仰下けり。上の者を以て重て此様を被仰ければ、「御所に武士やある。見て参れ」とて、力者を一人進〔まゐ〕らせければ、走帰て、「一人も不候」と申ければ、「左有〔されば〕」とて不参。公卿六人の(交)名を誌し被下。坊門大納言忠信卿・中御門(前)中納言宗行・佐々木前中納言有雅・按察使前中納言光親・甲斐宰相中将範義・一条宰相中将信氏等也。何れも六原へ被渡ければ、坊門大納言を千葉介胤綱に被預。中御門前中納言は小山新左衛門尉友長に被預。按察使前中納言は武田五郎信光に被預。佐々木前中納言は小笠原次郎長清に被預。甲斐守宰相中将憲村は式部丞朝時(に)被預。一条次郎宰相中将信能は遠山左衛門尉景村に被預けり。
 此人々の跡の嘆き、譬〔たとへ〕ん方も無りけり。座を双べ袖を連ねし月卿雲客にも遠ざかり、枕をかはし衾〔ふすま〕を重ねし妻妾・子弟にも分れつゝ、里は有共人無、宿所々々は被焼払ぬ。徒らに山野の嵐に身を任せ、心ならぬ月を詠めて、故郷の空に遠ざかり、被切事は近くなれば、只悲の涙を流てぞ被下ける。
-------

『吾妻鏡』には、六月二十四日条と翌二十五日条に、

-------
相州。武州等任申請之旨。合戰張本公卿等被渡六波羅。按察使光親卿〔武田五郎信光預之〕。中納言宗行卿〔小山新左衛門尉朝長預之〕。入道二位兵衛督有雅卿〔小笠原次郎長淸預之〕。宰相中將範茂卿〔式部丞朝時預之〕。今日寅剋。安東新左衛門尉光成帶昨日事書。出關東上洛。於京都。可有沙汰條々。右京兆直示含光成云々。

合戰張本重被渡六波羅。大納言忠信卿〔千葉介胤綱預之〕。宰相中將信能〔遠山左衛門尉景朝預之〕。此外刑部僧正長賢。觀嚴〔結城左衛門尉朝光預之〕。二位法印尊長。能登守秀康等逐電云々。又熊野法印〔号小松〕。天野四郎左衛門尉等梟首云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、「合戦張本公卿」合計六人の名前と各々を預った武士の名前は出ていますが、「武蔵守」北条泰時と「駿河守」三浦義村が「院の御所」へ来ると聞いた後鳥羽院が、「下家司」と「上の者」を使者として、重ねて「な参そ、張本に於は(交)名を註し出さんずるぞ」(合戦張本の交名をこちらから提出するので、御所には来ないでくれ)と言ったという話はありません。
研究者もこの記述を重視する人はあまりいないようですが、これが本当だとしたら、後鳥羽院自身が葉室光親を含む六人を「合戦張本」だと太鼓判を押している訳ですから、幕府としてもそれを素直に受け取り、みんな死罪と判断するでしょうね。
ま、坊門忠信は源実朝の未亡人、西八条禅尼の兄なので、結果的に赦免となりましたが。

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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その1)

2023-01-27 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿で野口実氏の「承久宇治川合戦の再評価」まで行ってしまったのは、ちょっと進軍のスピードが速すぎたようです。
私は流布本の原型(といっても、現在の流布本から後鳥羽院・土御門院の諡号だけを「太上天皇」「本院」「新院」等に戻した程度のもの)は、慈光寺本より成立時期が早いのではないかと考えていて、更に『吾妻鏡』の編者は流布本を参照しており、流布本を他の史料と突き合わせて、それなりの重要性があり、かつ信頼できると判断した部分を『吾妻鏡』に採用したのではないか、と想定しています。
そして、この仮説に基づいて野口氏と同様に流布本と『吾妻鏡』の宇治川合戦の記述を比較した場合、野口氏が不明とする部分について、野口説よりも合理的な説明が可能となるのではないかと思って、野口論文を批判的に検討するつもりでした。
ただ、慈光寺本作者がいかなる人物であるかを考えるには絶好の素材である渡邊裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」の検討が終わっていませんので、あまり先走ることなく、着実に進軍する方針に転換したいと思います。
さて、渡邉論文は国文学側からの『承久記』研究の最先端とはいえ、ある程度の国文学の素養がある人にとっては決して難解な論文ではありませんが、古文書・古記録は読めても文化・芸術的素養に乏しい野蛮人が大半の歴史学研究者にとってはけっこう難しいはずで、いきなり藤原範茂の辞世の歌、とか言われても、ちょっと困ってしまうのではないかと思われます。
そこで、渡邉論文に戻る前の準備作業として、承久の乱で後鳥羽側の敗北が決定した後の戦後処理のうち、特に公卿・殿上人の処分が流布本と慈光寺本でどのように描かれているかを確認しておきたいと思います。
まず、流布本では、戦いに敗れた藤原秀康・三浦胤義・山田重忠が四辻殿に行ったところ、

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 去程に、京方の勢の中に、能登守秀安・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ参りて、某々帰参して候由、訇〔ののし〕り申ければ、「武士共は是より何方〔いづち〕へも落行」とて、門をも開かで不被入ければ、山田次郎、門を敲〔たたい〕て高声〔かうじやう〕に、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と訇ける。平九郎判官、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん。但し宇治は大勢にて有なり。大将軍の目に懸らん事も不定〔ふじやう〕なり。淀へ向ひ死ん」とて馳行けるが、東寺に引籠る。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da774d684b1b10a3a5402115adb045b1

という展開になります。
この後、山田重忠と三浦胤義の自害の場面の次に、

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 京方軍破て、さても一院は、去共〔さりとも〕と被思召しか共、忽〔たちまち〕に王法尽させ御座〔ましまし〕て、空く軍破ければ、如何なる事をか被思召べき。(あさましかりし事共也)。
-------

という、上巻の「同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる」に対応する重要な一文に続いて、

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 天野四郎左衛門尉、首を延て降人に出たりけるを、相模守、武蔵守へ被申ければ、可被切とて被切けり。後藤大夫判官基清、降人に成たりしを、子息左衛門尉基綱申受て切てけり。「他人に切せて死骸を申請、孝養したらんには、頗る劣り也」とぞ、人々私言〔ささや〕き申ける。駿河大納言判官惟宣は行衛も不知落失ぬ。二位法印尊長は、十津河に逃籠て有けれ共、不得搦取事。清水法師、鏡月坊・弟子常陸・美濃房三人、被搦取て、已に切れんとする所に、「聊〔いささか〕助給へ。腰折一首仕候を、見参に入度〔いれたき〕」由、申ければ、「さらば」とて見せ奉るに、
   勅なれば身をば寄てき武(士)〔もののふ〕の八十〔やそ〕宇治河の瀬には立ねど
武蔵守、此歌を感て、「助けよ」とて被免。纔〔わずか〕の一首にめで給ひて、師弟三人の命を続るゝこそ目出(度)かりける事也けれ。
 佐々木山城守広綱・同弥太郎判官高重、被搦出て、舎弟信綱に被預。後〔のち〕六条河原にて被切にけり。熊野法印田辺法印も落行けるを、被搦て被切ぬ。
-------

とあって、まずは武士・僧兵の処分から戦後処理が始まります。
ちなみに、「勅なれば」の歌は、『吾妻鏡』承久三年六月十六日条に、

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【前略】又謀叛衆於所々生虜之中。淸水寺住侶敬月法師。雖非指勇士。從于範茂卿。向宇治之間難宥。献一首詠歌於武州。仍感懷之余。減死罪。可處遠流之由。下知長沼五郎宗政云々。
 勅ナレハ身ヲハ捨テキ武士ノヤソ宇治河ノ瀬ニタゝ子ト

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

という具合いに、第二句が「身ヲハ捨テキ」となって登場しています。

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野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)

2023-01-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

野口実氏に「承久宇治川合戦の再評価」(野口編『承久の乱の構造と展開』所収、戎光祥出版、2019)という論文がありますが、野口氏は流布本『承久記』と『吾妻鏡』の関係について、基本的に杉山次子説に立脚した上で自説を展開されていますね。
その結果、

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 以上、両史料を対照させてみて、明らかなことは、『吾妻鏡』に書かれていることは古活字本(流布本)『承久記』(以下、『承久記』とのみ記す)に記されており、『承久記』にはさらに別の情報が付加されているということである。
-------

と判断されていますが(p79)、しかし、宇治川合戦についての情報量は『吾妻鏡』よりも流布本『承久記』の方が圧倒的に多いのですから、論理的には、流布本に「別の情報が付加」されたのではなく、逆に『吾妻鏡』が流布本の豊富な情報のうち、あまり重要とは思えないものを「除外」した可能性も充分考えられます。
結論として、私は後者が正しいと考えるのですが、野口論文に即して、少し検討してみたいと思います。
野口論文は、

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 はじめに
一、『承久三年四年日次記』など
 A.『承久三年四年日次記』
 B.『百錬抄』
 C.『皇代暦』巻四 九条廃帝
 D.『六代勝事記』
 E.『保暦間記』
二、『吾妻鏡』と流布本『承久記』
 F.『吾妻鏡』承久元年六月
 G.『古活字本承久記』
三、『吾妻鏡』と『承久記』の記事の検討
四、承久宇治川合戦の歴史的意義
 おわりに
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と構成されていますが、まずは野口氏の問題意識を確認するため、「はじめに」の冒頭を引用します。(p68以下)

-------
 東国方面から大軍が京都に進入する際に、京都側にとって最後の防禦機能を担った宇治川は、鎌倉幕府確立に至る過程で惹起されたいくつかの内乱において戦場となった。まず、治承四年(一一八〇)五月、平家打倒に蹶起した以仁王を擁した源頼政が平家の派遣した追討軍と対戦(a)、寿永二年(一一八三)七月には、平家を追って木曾義仲とともに入京した源行家が大和方面から宇治川を渡っている(b)。翌年正月には、源義経が守備にあたっていた志田義広の軍を破って入京を遂げて義仲を滅ぼし(c)、鎌倉幕府確立のメルクマールとされる承久の乱においては、承久三年(一二二一)六月に北条泰時の率いる大軍がここを突破したのである(d)。
 この四度の宇治川合戦のうち、(a)は浄妙房や一来法師ら超人的な異能を発揮する悪僧達の活躍、(c)は源頼朝秘蔵の名馬「生食」と「磨墨」を駆った佐々木高綱と梶原景季の先陣争いの話で広く人口に膾炙している。しかし、これらがいずれも歴史的事実とは見なしがたいことは、夙に明らかにされている。実のところ、(a)は以仁王・頼政の軍勢が五十騎、追討にあたった平家軍が三百騎ほどの戦いに過ぎず、(c)に至っては、義経軍はほとんど抵抗を受けることなく渡河し、難なく鴨川左岸を北上して京都に進攻を果たしているのである。(b)も平家軍は結局宇治防衛を放棄して都落ちしているから、ほとんど合戦らしいものは行われなかったと考えられる。
 かくして宇治川合戦のうち、本格的な激戦は(d)に集約される。この合戦における佐々木信綱の先陣渡河の事実が(c)における高綱のエピソードに反映されたという戦前の歴史学者大森金五郎氏以来の指摘は正鵠を射たものといえるのである(後述)。
 とするならば、これまで、一般においてのみならず、研究者の間でも関心の払われることの少なかった承久の乱における宇治川合戦(「承久宇治川合戦」)の実相は、歴史的事実として、もっと周知されるべきものであり、また、あらためて乱の過程における意味づけも行なわれなければならないであろう。本稿は、そのような目的意識に基づいて企図されたものである。また、私は先に慈光寺本『承久記』を主たる史料として承久の乱の全過程を追うことを試みたが、この合戦については慈光寺本『承久記』に記述がないため、詳細は省略に委ねた。本稿はその補足の目的もあわせ持つものである。【後略】
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「私は先に慈光寺本『承久記』を主たる史料として承久の乱の全過程を追うことを試みたが」に付された注(2)を見ると、これは「承久の乱」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』所収、新人物往来社、2009)のことで、『承久の乱の構造と展開』の冒頭に「序論 承久の乱の概要と評価」と改題して収録されていますね。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c25a682f90750c44c19caed426eb4141

慈光寺本に宇治川合戦が存在しないのは本当に奇妙で、杉山次子氏などは「欠落」があったとされますが、慈光寺本を通読する限り、「欠落」を思わせるような具体的記述は特にありません。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/718d04b83821cfc68496cbf7d0dcc487

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『葉黄記』寛元四年三月十五日条の「或人」のことなど。

2023-01-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

前回投稿について、光親が院宣の奉者をつとめたことは定嗣だけではなく「或人」の認識でもあった、また葉室定嗣は光親の日記を持っていた(『葉黄記』寛元5年正月2日条)、というコメントが寄せられました。
まず、『葉黄記』について述べると、私は、

-------
承久の乱に関する一次史料が極端に少ない理由として、「合戦張本」の責任追及のため、幕府軍が諸史料を接収したか、あるいは処罰を恐れて関係者が処分したと考えられていますから、「合戦張本」だった光親の記録が残されたとも思えません。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb541a7acb9f83e2f97658944be699e

と書きましたが、前半は多くの研究者が言っている一般論で、間違いではないと思いますが、光親については明らかに私の誤解でした。
私は『葉黄記』の同日条を読んでおらず、当該日記がいつの時期のものなのかを知らないので、後で確認したいと思いますが、ただ、少なくとも当該部分に承久の乱関係の記述はないだろうと思います。
あれば長村氏が言及されないはずはないですからね。
そして、光親が後鳥羽の寵臣であることは周知の事実であり、『吾妻鏡』承久三年七月十二日条には、

-------
承久三年(1221)七月小十二日甲午。按察卿〔光親。去月出家。法名西親〕者。爲武田五郎信光之預下向。而鎌倉使相逢于駿河國車返邊。依觸可誅之由。於加古坂梟首訖。時年四十六云々。此卿爲無雙寵臣。又家門貫首。宏才優長也。今度次第。殊成競々戰々思。頻奉匡君於正慮之處。諌議之趣。頗背叡慮之間。雖進退惟谷。書下追討宣旨。忠臣法。諌而随之謂歟。其諷諌申状數十通。殘留仙洞。後日披露之時。武州後悔惱丹府云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあります。
即ち、光親は後鳥羽の並びない寵臣でありながら義時追討には反対で、後鳥羽に何度も諫言を繰り返しており、その諫言の書状数十通が仙洞に残っていて、処刑してしまった後に発見されて泰時は後悔した、ということですから、光親については、処刑を決定した幕府首脳にとっては「合戦張本」であることは明白で、その処分を決定するのに日記を押収する必要など全くないと判断されたのだと思います。
幕府側から見れば、諫言のことなど一切弁解しなかった光親は「合戦張本」であることを自白したも同然であり、判断材料は充分すぎるほど充分だとされて、わざわざ家宅捜索までは行わなかったのでしょうね。
結果として光親の日記は残されたのでしょうが、承久の乱の勃発以降の光親は合戦対応に忙殺され、仮に問題の「院宣」発給が事実だったとしても、それに関してのんびり日記を書いている余裕もないまま、京都に押し寄せて来た幕府軍に逮捕・連行・処刑されてしまったものと私は考えます。
また、「或人」については、長村氏は「或人のみならず定嗣や後嵯峨院も光親追討「院宣」への関与自体は事実と認識している」と書かれており、それはその通りだと思います。
しかし、私が問題にしているのは、「或人」を含め、これらの人々が「院宣」と光親との関係についての情報をどこから得ていたのか、という点です。
光親等の処刑後も仙洞に残されていた記録を調査していた幕府側は、相当熱心に関係史料を調査し、接収したことが窺われますし、また、処罰に巻き込まれることを恐れた人々は、関係史料を破棄した可能性が高いでしょうから、四半世紀後の寛元四年(1246)三月十五日の時点でも関係史料は僅少だったはずです。
とすると、「或人」や後嵯峨院が当該事実を誰から、または何から知ったのか、という問題はやはり存在します。
私としては、流布本も慈光寺本も明らかに一定の読者を想定しており、その内容は間違いなく面白いですから、「或人」や後嵯峨院が直接・間接に『承久記』から光親の「院宣」発給の話を知ったと推定することは充分合理的だと思います。
慈光寺本作者については、杉山次子氏が源仲兼の一族、日下力氏が源仲遠説を提唱されており、私は賛成はできませんが、仮にこうした説が正しい場合であっても、狭い貴族社会ですから、定嗣や「或人」、後嵯峨院との何らかの接点はあったはずです。
『承久記』が鎌倉で武家社会の人によって作成されたのならともかく、少なくとも慈光寺本は「今日では、京畿内周辺を拠点として、武士と接点のある中下級官人層を想定する見解が主流」(長村祥知氏「研究展望『承久記』(二〇一〇年九月以前)」、p125)です。
そして、作者が「中下級官人層」であろうと、受容者が「中下級官人層」に限られなければならない訳ではなく、評判の高い物語であれば、上級貴族が興味を持って読んでも不思議ではないですね。
現代社会と異なり、物語の作者と受容者が極めて近いのが中世の貴族社会です。
ということで、結論として、私は前回投稿の「「合戦張本」だった光親の記録が残されたとも思えません」は撤回しますが、それ以外で自分の見解を修正する必要を認めません。

※なお、光親の処刑に関して、私は以前、長村説を次のように批判したことがあります。

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長村氏は文書の些末な文言だけにこだわり、その背後にある政治過程には驚くほど鈍感です。
基本的な発想が事務方の小役人レベルで、長村氏の論文のおかげで古文書学的な研究は進展したのでしょうが、政治史についてはむしろ後退している感じですね。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d387077e9ee7722ff6014ed3c25d5753

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『葉黄記』寛元四年三月十五日条は葉室光親の「院宣」発給の証拠となるのか。(その2)

2023-01-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『葉黄記』を書いた葉室定嗣については、本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)の「廷臣小伝」に、

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葉室定嗣
 承元二(一二〇八)~文永九(一二七二)・六・二十六

 父は葉室光親、母は参議藤原定経の娘で、順徳天皇の乳母の経子。父母共に承久の乱と深いかかわりをもった人であった。同母兄光俊は、朝廷に関東の威を恐れる風潮があったためか、右大弁で官を辞し、以後は歌人としてのみ活動している。一方定嗣は九条道家、二条良実に仕え、仁治三(一二四二)年に参議。後嵯峨上皇にも厚く用いられ、院中執権を務め、吉田為経とともに伝奏に起用された。宝治二(一二四八)年には権中納言に昇る。光俊の行跡と比べ考えるに、定嗣は抜群の才能を有した官人だったのではないか。光俊の子高定(のち高雅)を養子に迎え、彼を右少弁に任じるために建長二(一二五〇)年に辞任。知行国河内国も高定に譲り、出家して法名を定然といった。ところが正嘉元(一二五七)年ごろ、定嗣と高定は不和になる(1)。光俊が父権を主張し、高定も実父に与同したからである。後嵯峨上皇は高定を非とし、定嗣からうけつがれた伝奏の任を解いた。定嗣は上皇の措置に深く感謝したが(2)、このために彼の一流は後継者を失ったのである。
 (1)経俊卿記正嘉元年七月十一日。
 (2)経俊卿記正嘉元年九月四日。
-------

とあります。(p256)
定嗣の父・光親については、同じく「廷臣小伝」に、

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葉室光親
 安元二(一一七六)~承久三(一二二一)・七・十二

 父は権中納言光雅、母は右大弁藤原重方の娘。承元二(一二〇八)年に参議、建暦元(一二一一)年に権中納言。はじめ近衛家に仕え、やがて後鳥羽上皇の信任を得る。後世、院の執権は光親に始まるといわれる程(1)、上皇に重用された。上皇の妃修明門院や順徳天皇にも近侍し、また妻の経子(参議藤原定経の娘、吉田為経の叔母)と娘の満子はともに順徳天皇の乳母であった。承久の乱の首謀者の一人で、北条義時追討の院宣の奉者にもなっている。実は討幕に反対であったともいうが(2)、光親室が預所だった河内国甲斐庄で軍勢が集められている事実(3)もあり、確証はない。乱後捕えられ、駿河国で斬られた。法名は西親。
 (1)小槻季継記。
 (2)吾妻鏡承久三年七月十二日。
 (3)『鎌』四五一二。
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とあり、本郷氏は光親が「北条義時追討の院宣の奉者」だったとされますが、恐らくこれは長村氏が挙げる寛元四年(1246)三月十五日条が典拠だろうと思われます。
さて、承久の乱の「合戦張本」の一人として光親が承久三年(1221)に処刑されたとき、光親は四十六歳でしたが、承元二年(1208)年生まれの定嗣はまだ十四歳であり、朝廷で重要な職務についていたはずもありません。
とすると、定嗣はいったい誰から、または何から父・光親が義時追討の院宣の奉者だったことを知ったのか。
平穏な時代であれば、父から話を聞いたり、父が残した記録から父が行なった仕事の内容を知ることができたかもしれません。
しかし、義時追討の院宣の発給は、その時点では当然に最高度の機密事項であり、いくら息子だからといって、光親が自分の役割をべらべらしゃべったとも思われません。
大騒動の渦中に巻き込まれていた光親は、そもそも息子と語る時間すら持てないまま合戦対応に忙殺された後、大変なスピードで押し寄せて来た幕府軍に逮捕・監禁され、そのまま連行・処刑されてしまったのではないか、と私は想像します。
では、光親は自分の行動について何か記録を残していて、それを定嗣が読んだのか。
これも平穏な時代であれば十分あり得る話ですが、しかし、承久の乱に関する一次史料が極端に少ない理由として、「合戦張本」の責任追及のため、幕府軍が諸史料を接収したか、あるいは処罰を恐れて関係者が処分したと考えられていますから、「合戦張本」だった光親の記録が残されたとも思えません。
ところで、『承久記』のうち、少なくとも慈光寺本は1230年代に制作されたことが、長村氏を含む多くの研究者の認めるところです。
そして、慈光寺本は明らかに一定の読者を想定した作品であり、その内容は極めて面白いものなので、それなりに評判になったはずです。
他方、定嗣としては、十四歳で死に別れ、しかも斬首という貴族としては極めて数奇な運命を辿った自分の父親が、承久の乱でいったいどんな役割を演じて、どんな理由で処刑されたかは是非とも知りたかったはずです。
とすると、寛元四年(1246)三月十五日までのどこかの時点で、定嗣が慈光寺本『承久記』を読んでいた可能性は十分考えられます。
また、流布本についても1240年代成立と考える立場が有力であり、定嗣は流布本『承久記』を読んでいた可能性もあります。
仮に定嗣が慈光寺本を読んでいたとすれば、そこには父・光親が発給したとされる院宣そのものが載っており、流布本を読んだ場合でも、

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【前略】東国へも、院宣を可被下とて、按察使前中納言光親卿奉て七通ぞ被書ける。左京権大夫義時朝敵たり、早く可被致追討、勧賞請によるべき(趣)なり。武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西にぞ被下ける。
 院宣の御使には、推松とて究めて足早き者有ける、是を撰てぞ被下ける。平九郎判官、私の使を相添て、承久三年五月十五日の酉刻に都を出て、劣らじ負じと下ける程に、同十九日の午刻に、鎌倉近う片瀬と云所に走付たり。【中略】
 推松、人の気色替り、何となく騒ぎければ、有者の許に隠れ居たりけれを、一々に鎌倉中を捜しければ、笠井の谷〔やつ〕より尋出し、引張先に立てぞ参ける。院宣共奪取が如して、大概計読せて、後に焼捨られぬ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とありますから、これを読めば、そうか、父上は義時追討の「院宣」を書いて、「推松」を使者として「武田・小笠原・千葉・小山・宇都宮・三浦・葛西」の七人に伝えようとしたのだな、という話になります。
ということで、長村氏が慈光寺本の成立を1230年代と認める以上、『葉黄記』寛元四年(1246)三月十五日条を「承久の乱の際に光親の奉じた「院宣」が発給されたとする確実な史料」と主張するためには、定嗣が慈光寺本『承久記』も流布本『承久記』も読んでいなかったことを証明する必要がありますが、これは「悪魔の証明」ですから、事実上不可能ですね。

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『葉黄記』寛元四年三月十五日条は葉室光親の「院宣」発給の証拠となるのか。(その1)

2023-01-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

長村祥知氏の「研究展望 『承久記』(二〇一〇年九月以前)」(『軍記と語り物』52号、2016)には、「二 慈光寺本『承久記』」の最後に、

-------
 また長村祥知〔二〇一〇〕は、慈光寺本が引用する、北条義時追討を命ずる承久三年五月十五日「後鳥羽上皇院宣」が実在したことを解明した。
-------

とあります。(p127)
2010年の長村論文は『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015)に「第二章 承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨─後鳥羽院宣と伝奏葉室光親─」として収められており、同書の根幹をなす論文です。
その構成は、

-------
 はじめに
一 院宣と葉室光親
 1 院宣の様式
 2 院宣の命令内容と院宣発給を記す他の史料
二 官宣旨と葉室光親
 1 官宣旨と藤原定家本『公卿補任』
 2 後鳥羽院政期以前の院伝奏
三 葉室光親の死罪
 おわりに

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5324be4c2f35ba80e91d517552b1fd1

となっていますが、長村氏は「史料1」として慈光寺本の承久三年五月十五日付、「按察使光親」を奉者とする院宣を挙げ、これが本物だとの立場から詳しく説明されています。
この点については、東大史料編纂所准教授の西田友広氏が、

-------
 しかし、慈光寺本院宣がまず義時の奉行停止を命じている点は、慈光寺本『承久記』の物語展開との間の不整合のみならず、承久の乱自体の展開過程との間にも不整合があるのではなかろうか。慈光寺本院宣と同日付の官宣旨が明確に義時の追討を命じている段階にあって、義時追討の前段階としてその奉行停止を命じることはやはり不自然に思われる。また、恩賞に関する文言についても、慈光寺本院宣とは別に、胤義が京都で動員された際の情報と評価することもできよう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/45b6fef7f5e96b27cf804f5d30f893be

と批判されましたが(『日本史研究』651号、2016)、古文書学に疎い私は、西田氏の書評を読んだ後も、基本的には長村説で良いのではないかと思っていました。
しかし、呉座勇一氏が『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)で、西田説に賛同されているのを知り、過去の自分の投稿を読み直してみて、やはり院宣は慈光寺本作者による創作と考えるのが正しいのではないか、と思うようになりました。

後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/67ff8f511d6b4aedc9e71cb36bc4a6da

そして、渡邉裕美子氏の「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」(『国語と国文学』98巻11号、2021)を読むに至って、慈光寺本作者が後鳥羽院・順徳院・七条院・九条道家等の高貴な人々の歌を勝手に創作するような人物である以上、「按察使光親」を奉者とする院宣も慈光寺本作者が適当に作ったもので、こんなものを真面目に議論すること自体が莫迦莫迦しいと思うようになりました。

北条義時追討の「院宣」が発給されたと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94e39f6b117aa61c0aef682dc46feb0e

ただ、長村氏は自説を基礎づける史料として、「史料1」だけでなく、「院宣発給を記す他の史料」である「史料2」も提示されています。
即ち、

-------
 次に、史料1以外の史料に注目したい。実は、『慈光寺本』等の軍記以外にも、承久の乱の際に光親の奉じた「院宣」が発給されたとする確実な史料が存在する。

 史料2 『葉黄記』寛元四年(一二四六)三月十五日条(頭書は省略)

  一、関東申次。……就今度院中儀、有時議、先日被仰合子細於関東。件返事到来、一昨日、
  入道殿〔九条道家〕被進之。大納言入道殿〔九条頼経〕御返事也<御名行賀。改名歟>。去
  六日条也。秘事重事者入道殿下〔九条道家〕可被仰伝仰。僧俗官等事ハ可申摂政〔一条実経〕。
  於雑務者、奉行院司直可書下院宣之由也。謂奉行院司者定嗣事也。凡院中執権、以孤露不肖
  之身奉之。人々嫉妬之余、種々事等有讒言之疑。然而叡慮深思食入予謬。応知人之鑑誡、家之
  余慶歟。承久乱逆、故殿〔光親〕令書追討之 院宣給。仍或人以之為予〔定嗣〕難歟。然而
  更不可及子細之由、別被申入道殿下云々。

 史料2は、同年正月二十九日の後嵯峨院政開始から二ヶ月足らずの時期に、葉室光親の男定嗣が日記に記した記事である。関東の前将軍頼経から関東申次などのことについて申し入れがあり、「雑務」については奉行院司すなわち定嗣が直に院宣を書き下すようにとあった、それに対して人々が嫉妬のあまり種々の讒言をしているようである、承久の乱の際に父光親が「追討之院宣」を書いたことを定嗣の難点に挙げる者もいる、しかし定嗣で問題ない旨を後嵯峨院が大殿九条道家に伝えた、とある。ここでは、「或人」のみならず定嗣や後嵯峨院も光親追討「院宣」への関与自体は事実と認識している点を確認しておきたい。
 以上により、北条義時追討「院宣」の発給はほぼ確実になったと思われる。
-------

とのことですが(p90以下)、この「史料2」に関しては今まで誰も長村説を批判されていないようです。
しかし、これは本当に「承久の乱の際に光親の奉じた「院宣」が発給されたとする確実な史料」なのか。

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大津雄一「慈光寺本『承久記』は嘆かない」には賛成できる点がひとつもない。

2023-01-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

長村祥知氏の「研究展望 『承久記』(二〇一〇年九月以前)」(『軍記と語り物』52号、2016)は早く読みたいと思っていましたが、国会図書館側の製本の都合か何かでしばらく遠隔複写を依頼できず、一昨日、やっと入手して読むことができました。
この論文は、

-------
 序
一 諸本とその公刊
二 慈光寺本『承久記』
 1 作者論
 2 成立時期論
 3 作品論
 4 史料論
三 流布本と前田家本
 1 慈光寺本との関係
 2 親子か兄弟か
四 流布本と『承久軍物語』
 1 流布本の成立論と作品論
 2 『承久軍物語』と絵巻
五 前田家本と『承久兵乱記』
 1 前田家本の成立論と作品論
 2 『承久兵乱記』
六 近世に至る受容
 結
-------

と構成されており、本格的な検討は後で行いますが、「二 慈光寺本『承久記』」の「3 作品論」には少し気になる記述がありました。
即ち、

-------
 慈光寺本が、その他の『承久記』諸本はもとより、軍記諸作品のなかでも独自の性格を持つことは、冨倉氏〔一九四三〕をはじめとして早くから注目されてきた。
 中でも、特に高い評価を精力的に提示したのが大津雄一氏である。大津氏は、慈光寺本が、国王兵乱史における承久の変の特殊性を叙述することを主目的とし、因果論と冷徹な人間観を配した作品であること〔一九七七〕、強烈な個性を持つ後鳥羽院と北条義時の対立の構図のもとで、明確な一貫性と集中性を持つこと〔一九八一A〕を論じた。そして<終わり>に対する危機意識がなく、逸脱した<歴史>であること〔一九九九〕、王権の絶対性を相対化できる瞬間を用意する稀有な物語であることを重視する〔一九八九〕。こうした特色が、後出の流布本に変容する過程で、対立の構図が弱まり散漫な印象になったことや〔一九八一A・一九八五〕、凡庸な<王権の絶対性の物語>に交替したことを論じた〔一九八九〕。
-------

とのことですが(p126)、私は今のところ、大津氏の論文は『挑発する軍記』(勉誠出版、2020)所収の「慈光寺本『承久記』は嘆かない」しか読んでいません。
ただ、この論文は「異端の軍記物語─慈光寺本『承久記』考」(『悠久』151号、2017)と「慈光寺本『承久記』の世界観─嘆きの不在」(軍記物語講座第一巻『武者の世が始まる』、花鳥社、2019)という直近の二論文を「改稿し合わせて一編とした」(p344)とのことなので、大津氏の慈光寺本研究の到達点を示すものだろうと思います。
そこで、「慈光寺本『承久記』は嘆かない」を踏まえた上で、長村氏が要約されたところの大津説に若干の疑念を呈すると、まず、「国王兵乱史における承久の変の特殊性を叙述することを主目的」云々は、慈光寺本の最初に方に、神武天皇から後鳥羽院まで「八十五代ノ御門」の間に「国王兵乱、今度マデ具〔つぶさ〕シテ、已ニ十二ヶ度ニ成」として、十二回の「国王兵乱」に関して、あまり正確ではない略史が描かれていることを受けての指摘だろうと思います。
しかし、新日本古典文学大系本で三頁ほどのこの「国王兵乱」に関する記述は、承久の乱の話に入ってから参照される訳でもありません。
そして何より、慈光寺本には承久の乱を歴史的・思想的に総括する部分が皆無なので、他の「国王兵乱」と比較のしようがなく、「国王兵乱史における承久の変の特殊性を叙述することを主目的」としているとは私にはとても思えないですね。
また、「強烈な個性を持つ後鳥羽院と北条義時の対立の構図」とありますが、慈光寺本には流布本に見られるような承久の乱の根本的な原因の考察がないので、個人の資質の問題から「対立の構図」を描くしかないという限界がありますね。
流布本では、

-------
 同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる。故を如何〔いか〕にと尋れば、地頭・領家の相論とぞ承はる。古〔いにし〕へは、下司・庄官と云計〔いふばかり〕にて、地頭は無りしを、鎌倉右大将、朝敵の平家を追討して、其の勧賞〔けんじやう〕に、日本国の惣追捕使に補せられて、国々に守護を置き、郡郷に地頭をすへ、段別兵粮を宛て取るゝ間、領家は地頭をそねみ、地頭は領家をあたとす。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939

とあって、「領家」側の朝廷と「地頭」側の幕府との間には、源頼朝が「惣追捕使」に任ぜられて全国に守護・地頭を置いて以来の根本的な利害対立があり、これが承久の乱の根本的な原因であることが明確化されています。
他方、慈光寺本にはそんな考察はありませんが、しかし、実際に途方もない大乱が起きてしまったのですから、慈光寺本の作者としても、その原因を提示せざるを得ません。
そして、それは「強烈な個性を持つ後鳥羽院と北条義時の対立の構図」、即ち後鳥羽院と北条義時の政治家としての個人的な資質の問題に矮小化されてしまっています。
しかも、普通に考えれば承久の乱の直接的な原因は後鳥羽院の軽率な状況判断ですが、慈光寺本では、最初に北条義時の野心があって、それに後鳥羽院が反発した、とされており、後鳥羽院と北条義時の個人的資質に限っても、随分歪んだ「対立の構図」ですね。
また、「因果論と冷徹な人間観」と「明確な一貫性と集中性」については、私にはちょっと意味が分かりませんが、例えば慈光寺本の最終部分で、自害・処刑・流罪の記述が続いた直後に、「目出度い」を七回繰り返すような慈光寺本作者に、大津氏は「冷徹な人間観」と「明確な一貫性と集中性」を見出されているのでしょうか。
ま、私には慈光寺本作者に思想的な「一貫性と集中性」があるとは思えませんが、慈光寺本の刺激的な語彙・文体・内容からは、とにかく面白い作品を創りたい、たとえ歴史的事実とは離れようと、リアリティを持たせるために虚偽の手紙などの小道具を濫発しようと、躍動的で面白い歴史物語を作れればそれでよい、というエンターテインメント作品の創作者としての「一貫性と集中性」はありそうですね。
「<終わり>に対する危機意識がなく、逸脱した<歴史>であること」については、最後に「目出度い」を七回繰り返すくらいですから、確かに「<終わり>に対する危機意識」はないでしょうし、「逸脱した<歴史>」というか、作者がかなり変わった人であることも間違いないでしょうね。
「後出の流布本」が慈光寺本から「変容」したかはともかくとして、流布本では、幕府と朝廷の根本的な対立をきちんと押さえているので、「強烈な個性を持つ後鳥羽院と北条義時の対立の構図」を無理やり作り出す必要はないですから、大津氏のような極端に刺激的なものを偏愛する人が流布本に「散漫な印象」を受けることはやむをえないですね。
しかし、流布本が「凡庸な<王権の絶対性の物語>に交替した」というのはどういう意味なのか。
流布本の「王法尽させ給ひて、民の世となる」という認識は、「凡庸な<王権の絶対性の物語>」どころか、これこそ革命思想ですね。

大津雄一『挑発する軍記』
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101165

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