学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

尾身茂氏と内村祐之『わが歩みし精神医学の道』

2020-05-13 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月13日(水)11時25分31秒

ツイッターでコロナ対策専門家の尾身茂氏と立憲民主党幹事長・福山哲郎のやり取りがちょっと話題になっていて、私も動画を見たのですが、福山のあまりの無知と専門家に対する傲岸なふるまいにちょっとびっくりしました。

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京都新聞2020年5月13日
立憲民主党の福山幹事長、詰問口調を釈明「申し訳ない」 新型コロナの参院予算委

 福山氏は11日の予算委で、感染者総数は政府の報告よりも潜在的に多いという推測について尾身氏に3回にわたり認識をただした。最後の質疑で尾身氏が東京都の陽性率を引き合いにして説明を加えようとしたところ、途中で「私が言っていることについて答えてください」「短くしてください」と言葉を挟んだ。尾身氏が説明を終えると「全く答えていただけませんでした。残念です」と述べた。
 会見では、京都新聞社が政治家同士のやりとりではなく、専門家の立場にある尾身氏への態度としてどう思うかを聞いた。福山氏は質疑の冒頭で尾身氏の尽力に敬意を述べたとした上で「予算委は時間の制約がある。私の質問にストレートに答えていただけなかったので」などと説明した。

ま、それはともかく、尾身茂氏は自治医大の第一期生とのことで、進学の経緯もちょっと珍しい方ですね。
去年8月に放送されたTBSラジオでの久米宏とのやり取りの記録に、

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尾身さんは慶應義塾大学法学部に進みますが、当時の大学は権力を敵視する学生であふれていましたから、外交官志望だった尾身さんは「この仕事は権力の手先なんだろうか…」と悩んでしまいました。学生運動で授業はほとんどなく、本屋で哲学や人生論の本を立ち読みをする毎日。そんなとき、たまたま手にしたのが精神科医・内村祐之(うちむらゆうし)が書いた『わが歩みし精神医学の道』という本。それまで微塵も考えたことがなかった「医師」という仕事が、尾身さんの胸に強烈に刻まれました。
「悩みを系決してくれる救世主のような感じで、『これだ!』と思っちゃった。すぐに退学届けを出して。父親は激怒です(笑)」(尾身さん)
1冊の本との出会いが尾身さんの人生を変えたのです。ちなみに内村祐之という人は内村鑑三の長男で、東京帝国大学教授から国立精神衛生研究所の所長となった人物。1960年代にはプロ野球のコミッショナーも務め、プロ野球の発展にも大きく貢献したのです。


とあります。
内村祐之はスポーツ万能、性格は明朗で、父親とは微妙な関係を保ち、信仰は引き継がなかったようですね。
「精神医学」の研究対象として、父親はなかなか興味深い存在だったのではないかと思われます。

内村祐之(1897-1980)

>筆綾丸さん
井上日召をカルタにしたら、やはり「一人一殺 井上日召」ですかね。
ただ、私の曖昧な記憶では、確か井上の父親は熊本かどこかの出身で、維新後の混乱の中で川場村に流れてきて、医者もどきをやっていたようですね。

井上日召(1886-1967)

ついでに「資本論初訳 高畠素之」などを加えると「ブラック上毛かるた」が出来そうです。
こちらは前橋藩士の家系ですね。

高畠素之(1886-1928)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

基督教と日蓮宗 2020/05/12(火) 15:06:48
小太郎さん
馬主の星野壽市氏と沼田の星野家が繋がると面白いですね。
沼田市に隣接する川場村は血盟団の井上日召が生まれた所で、ウィキを見ると、沼田も川場も旧沼田藩領なんですね。ヌタ場とカワ場、似てるような似てないような。
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星野光多とその一族

2020-05-12 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月12日(火)10時54分8秒

三月末から課題としている後鳥羽院宮内卿や、公名を「宮内卿」とした善鸞については、今の状況ではちょっと手が出せないので、せめて鎌倉時代の上杉氏だけでも少しまとめておこうかと思ったのですが、やはり気になることが多くて、なかなか筆が、というかキーボードの打ち込みが進みません。
別に論文を書いている訳ではありませんが、それでもある程度の水準は確保したいと思っているので、あの本を見ればきちんと確認できるはず、といった事項をそのままに書き進めるのは抵抗があります。

>筆綾丸さん
>馬主は三栄商事株式会社(高崎市)会長の星野壽市という人

その馬主さんが星野姓である点、単なる偶然かもしれませんが、ちょっと気になります。
というのは、プロテスタントの世界では、星野家はけっこうな名門なんですね。
群馬県沼田出身の星野光多という人が横浜でジェームス・ハミルトン・バラ(1832-1920)から受洗し、牧師となって、家族・親戚の多くがプロテスタントになります。

星野光多(1860-1932)

光多の年の離れた妹には津田塾大学の第二代学長になった星野あい(1884-1972)がいますし、南原繁の最初の妻、星野百合子は姪ですね。
星野百合子の兄、鉄男と南原繁は共に内村鑑三門下で仲が良く、その縁で百合子と南原繁は結婚したそうです。

星野鉄男(1890-1931)

また、東条英機内閣の書記官長だった星野直樹(1892-1978)は光多の長男ですね。

内閣書記官長・星野直樹

深井英五(1871-1945)も『回顧七十年』において、

-------
第三章 人生観、基督教、新島先生

 郷里に在りし幼少の時に於て、私の心境の発育に最大の影響を与へたのは、父景忠の外には、堤辰二先生であつた。【中略】
 又堤先生は、自ら英語に通ぜざるを遺憾とし、私には是非之を学べと勧めた。私はその勧めに従つて星野光多先生の教を受けるやうになつたが、更らに之を機縁として一たび基督教を信じたことは私の一生に於ける大事実の一である。星野先生は矢張群馬県の沼田より出て、横浜に於て米国宣教師と交はり、其の教を受けた。さうして私の従兄弟菅谷正樹(前掲清允の子)の知人たりしことを後から知つた。先生から伝へられた所の基督教は、狭く統一せられたる米国風の教理と先生自身の宗教的体験に立脚するものであつた。私が洗礼を受けたのは多分十四歳の時であつたと思ふ。当時信仰の友として最も親密であつたのは、同藩士にして同齢の長坂鑑次郎である。彼は後に同志社神学校に学び、組合教会の牧師となり、敬虔熱情を以て教化に力を効しつゝある。


と書いていますね。
数年前、私は星野あいの自伝に出ていた星野一族の古い写真だけを手掛かりに、光多が生まれた戸鹿野村(現沼田市)を車でグルグル回ってみたことがありますが、生家の所在も分かりませんでした。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

馬の名前ーバフンベルト・エーコ  2020/05/11(月) 12:16:54
https://db.sp.netkeiba.com/owner/265006/
数年前から、競馬のテレビ中継(土日)を録画して欠かさず観賞していますが、とりわけ、馬の名前に興味があります。
① ヘイワノツカイ(♂ 15戦2勝) ←平和の使い 新島襄
②ライトカラカゼ(♂ 19戦1勝)←雷と空風 義理人情
③ココロノトウダイ(♂ 5戦2勝) ←心の燈台 内村鑑三
馬主は三栄商事株式会社(高崎市)会長の星野壽市という人で、敬虔なクリスチャンというわけではなく、たんに「上毛かるた」の愛好家なのでしょうね。

『ヨハネの黙示録』には四騎士が乗る馬の話があって、白い馬、赤い馬、黒い馬、青白い馬の四頭のうち、青白い馬に乗った騎士は疫病のメタファなので、現在では、さしづめ、コロナウイルスになるのでしょうね。

内村鑑三のデスマスク(国際基督教大学所蔵)の写真を見ると、因業爺のような風貌で、どうも好きになれず、間違って弟子になったとしても、イスカリオテのユダのように、どこかで裏切ると思います。
パリ郊外シュヴルーズにあるポール・ロワイヤル修道院跡の記念館で見たパスカルのデスマスクは端正で、美しいなあ、と思ったことがあります。ジャンセニスムに興味はないのですが。
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「上毛かるた」とキリスト教

2020-05-11 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月10日(日)23時58分57秒

>筆綾丸さん
「上毛かるた」は群馬県のキリスト教史を考える上でも、ちょっと面白い素材ですね。
終戦直後の混乱期に「上毛かるた」の作成・普及の中心となったのは浦野匡彦という人物ですが、この人は二松学舎出身で、後に日本遺族会や靖国神社と深く関わることになる「国士」タイプの人です。

浦野匡彦(1910ー86)

他方、浦野より十六歳年上で、この時期の浦野に強い影響を与え、「上毛かるた」に内村鑑三と新島襄を採用することを主導した須田清基(1894-1981)は、戦前は「非国民」と呼ばれたであろう一種独特の、まあ、ちょっとヤバ目のキリスト者ですね。
日外アソシエーツの『20世紀日本人名事典』によれば、須田は、

-------
生年 明治27(1894)年8月21日
没年 昭和56(1981)年2月20日
出生地 群馬県安中市
経歴 大正3年受洗、入営、除隊後、救世軍士官学校を経て台北神学校に学んだ。教派から自立した伝道を始め、トルストイの影響を受け軍隊手牒を焼いた。12年13カ条の軍籍離脱届を陸軍大臣に送ったが受け付けられず、当局の監視付きとなった。13年台湾に帰り、結婚、伝道を続け、神社参拝を拒否。戦後、安中に引き揚げ紙芝居で全国を伝道。昭和3年「唯一の神イエス」を刊行、真イエス会長老と称した。著書は他に「聖霊を受くる途」「隠れたる教育者」など。


といった経歴の人物で、私が郷土史関係の何かの本で読んだ曖昧な記憶では、須田は長身で肉体労働者のようにがっしりとした、インテリとは程遠い風貌の人物だったようです。
新島襄や内村鑑三と違い、須田は今では忘れ去られた人物ですが、意外なことにその主張は内村鑑三にけっこう近いところもあります。
というか、内村鑑三自身が、特に晩年はけっこうヤバ目の人ですね。

「心の燈台 内村鑑三」(上毛かるた)

ま、私は常に宗教の表面的な現象を眺めているだけで、教義の内実に立ち入る意思も能力もありませんから、信仰の面で内村を批判することはできませんが、それでも日本のキリスト教信者が全人口の僅か1パーセント程度に止まっている原因の相当程度は、信者が集う教会の存在自体を否定した内村の無教会主義に帰せられるべきではないかと思っています。
また、新島襄も、アメリカの資金提供者には日本におけるキリスト教指導者を育てると言いながら、実際には立身出世のための語学学校もどきの同志社を運営していた国際的な二枚舌、詐欺師の一歩手前のような人物ですね。
ま、森鴎外が「かのやうに」で描いた日本の風土では、誰がやっても同じ結果だったのかもしれませんが、遥か昔、とにかく郷土の偉い人として名前を覚えさせられた一群馬県民としては、内村や新島の活動を知れば知るほど、いささかシニカルに眺める傾向が強くなってしまいます。
その点、群馬県にも足跡を残しながら、今ではすっかり忘れさられた存在となってしまったニコライのロシア正教は、日露戦争とロシアの共産化がなければ、意外に日本に根付く可能性があったのではなかろうか、などと夢想もしてしまいます。

「元伝教者で離教者のイサイヤ杉田」について(その1)~(その3)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ドラえもん 2020/05/10(日) 17:21:17
http://www10.plala.or.jp/yukoike/nakuta&nakanojohistory/Jomo%20Karuta%20(English%20Version).htm
磔茂左衛門は、白土三平『カムイ伝』の登場人物を思わせますが、英語版『上毛かるた』(群馬文化協会 1998)によれば、
Gunma's own native son, Mozaemon, tragic hero of the poor.
となっていて、もしかすると、ドラえもんの親戚筋ではあるまいか、と錯覚させるような味わいがありますね。
なお、ヘボン式表記であれば、Gunma ではなく Gumma とすべきですが、梅毒のゴム腫を意味する gumma を避けて Gunma にした、ということのようですね。
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「天下の義人 茂左衛門」(上毛かるた)

2020-05-09 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月 9日(土)23時21分51秒

>筆綾丸さん
>渋川氏(足利氏一門)の本貫の地

渋川氏はけっこう家格が高かったらしい、という話は聞いていたのですが、先々月、閉鎖前の某図書館で谷口雄太氏の『中世足利氏の血統と権威』(吉川弘文館、2019)をパラパラ眺めてみたところ、渋川氏の家格は私の想像より相当上だったらしく、ちょっとびっくりしました。

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中世後期、足利氏とその一族(足利一門)は尊貴な存在であると、室町幕府・足利将軍側のみならず、全国の大名・武士側からも位置付けられていた。なかでも別格の家格・権威を有した吉良・石橋・渋川の三氏(御一家)を具体的に検証。足利一門を上位とする武家の儀礼的・血統的な秩序の形成から、三好氏や織田信長の武威による崩壊までを描く。


>安芸や上野の沼田(ぬた)
時節柄、沼田城址を散策していたのも地元の人が大半で、観光客は僅かでしたが、それでも立ち止まって真田一族について熱く語っている人たちを若干見かけました。
まあ、地元に金を落としてくれる熱心な真田ファンは有難い存在ですが、「磔茂左衛門」事件など聞いたこともない人たちも多そうです。
真田の沼田藩支配は苛斂誅求の典型で、その支配下の民衆は「のたうちまわる」状態だったようですね。

「磔茂左衛門」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

温泉と猪 2020/05/09(土) 14:53:18
小太郎さん
渋川市は、渋川氏(足利氏一門)の本貫の地ですね。現在は、伊香保温泉への通過地点にすぎないようですが。

柳田国男『後狩詞記』によれば、安芸や上野の沼田(ぬた)は、猪のヌタ(ノタ)場に由来し、「のたうちまわる」の語源らしいですね。
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久保田順一氏「第二章 上杉氏の成立」(その3)

2020-05-09 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月 9日(土)22時34分18秒

それでは久しぶりに鎌倉時代の上杉氏について検討します。
久保田順一氏の『上杉憲顕』(戎光祥出版、2012)に掲載されている「系図2 勧修寺流と土御門流王家との関係」(p22)を見ると、右側に顕憲・盛憲・清房以下の上杉一族が並び、左側に源通親を中心とする、久保田氏の造語らしい「土御門流王家」のメンバーが並んでいてなかなかの壮観ですが、両者を繋ぐ位置に存在するのが「能円」という僧侶です。

https://twitter.com/koottayokan/status/1253331156675616772

顕憲の子の盛憲と能円が兄弟で、この能円に「承明門院 在子」と「信子」の二人の娘がいて、「承明門院 在子」は後鳥羽妃となり、「信子」は通親の子の(堀河)通具の室となって嫡子・具実と僧籍に入った行空を生み、行空の女子が承明門院と後鳥羽天皇の間に生まれた土御門天皇の孫の宗尊親王に嫁して「永嘉門院 瑞子」と真覚という僧侶を生んでいます。
私はこの図を見るまで永嘉門院と(堀河)通具の関係に気づいていなかったので、なるほどな、と感心したのですが、しかし、改めて能円がいかなる人物であったを考えると、果たして能円は上杉一族と「土御門流王家」を繋ぐ存在たり得たのか、上杉一族と「土御門流王家」との間に、当事者が強く意識するような関係が本当にあったのか、極めて疑問に思えてきます。

能円(1140-99)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%86%86

能円についてはウィキペディアあたりにもそれなりの説明がありますが、より正確を期すため、橋本義彦氏の『人物叢書 源通親』(吉川弘文館、1992)を少し引用したいと思います。

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平安末から鎌倉初期、乱世を積極的に生きぬいた公家政治家。通説を排し足跡辿り全体像を描く。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b33549.html

同書は、

はしがき
第一 村上の源氏
第二 朝廷出仕
第三 朝政参議
第四 源平争乱の渦
第五 天下草創の秋
第六 院近臣の歩み
第七 朝幕関係の新展開
第八 源博陸
第九 続発する都下騒擾
第十 栄光の晩年
むすび─通親以後
(附)久我源氏中院流家領と通親

と構成されていますが、「第五 天下草創の秋〔とき〕」の第二節の冒頭を引用します。(p78以下)

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二 御乳父〔おんめのと〕

 ところで後鳥羽天皇が践祚するや、通親の地位に一つの変化が起った。天皇の御乳母〔おんめのと〕の一人、藤原範子を妻に迎えて、御乳母の夫、すなわち御乳父〔おんめのと〕となったのである。範子は従三位刑部卿藤原(高倉)範兼の女で、法勝寺執行能円に嫁し、在子(のちの承明門院)を生んだ。範子は藤原氏南家の末流に属する儒臣であるが、長寛三年(一一六五)四月没したので、以後範子は範兼の養子(実は弟)範季の庇護のもとにあった。また能円は少納言藤原顕憲の男で、その母は二条大宮すなわち太皇太后令子内親王の女房であるが、この女房はのちに平時信に嫁して、時忠や清盛妻時子を生んだので、能円は時忠・時子と異父兄弟の関係にあって、清盛に近侍していた。『愚管抄』には、能円は時子が「子ニシタル者」にて、その縁で範子が皇子(後鳥羽)の乳母になったのであると説明している。
 ところが平氏一門の西下に際して、能円は平氏と行を共にしたが、範子は都に留まって範季とともに幼少の皇子の養育に当り、程なくその皇子が践祚したので、範季の地歩は一挙にたかまり、法皇の近臣の列に加わった。のちに『愚管抄』の著者慈円は、「コノ範季ハ後鳥羽院ヲヤシナイタテマイラセテ、践祚ノ時モヒトヘニサタシマイラセシ人也」と述べている。通親はこの範子を迎えて妻室とし、在子をも引き取って養女としたのである。その時期はいま確定できないが、範子が通親の妻となって最初に生んだ男子通光は文治三年(一一八七)の誕生であるから、平氏西下の寿永二年八月以後、文治三年以前、恐らく平氏滅亡後の文治元年ないし二年の間ではなかろうか。なお、能円は西下後も範季に平氏の情勢を通報しているが、檀浦合戦後、宗盛・時忠らととともに捕えられて帰洛し、ついで備中に配流された。それはとも角、後鳥羽天皇の御乳母を妻とした通親は天皇の御乳父ということになったが、御乳父が天皇の後見として宮廷内外に勢威をふるった例は少なくなく、これが爾後の通親の活躍を支える重要な足場となったことは疑いない。
-------

要するに藤原範子の先夫である能円は平家とともに滅んだ過去の人で、能円に代わって藤原範子を正室に迎え、後鳥羽天皇の「御乳父」として「活躍を支える重要な足場」を得た源通親、そして通親の子孫である村上源氏やその周辺の人々にとっては能円などどうでもよい存在、というか忘れ去りたい過去の遺物ですね。
また、上杉一族にとっても、別に能円は自慢できる先祖ではなく、その血縁があることをもって有力者への接近の材料とできるような存在でもなかったはずです。
綺麗な系図を描いて、その系図だけで人間関係をあれこれ想像するのは、中世史研究者が嵌りやすい陥穽の一つではないかと思います。
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奥利根紀行

2020-05-08 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月 8日(金)22時29分9秒

>筆綾丸さん
>国会図書館の遠隔複写サービス
コロナ軍の急襲に際し、しんがりを務めるくらいの気概があるのかと思ったら、真っ先に降参してしまいましたね。

今日は渋川市に所用があったついでに、同地の天台宗の名刹、真光寺に参詣してみました。


そして、あまりに天気が良かったので吾妻川と利根川の合流地点にある白井城址まで行くと、今度は利根川を遡ってみたくなり、いつもの17号ではなく、利根川東岸の宮田不動尊・沼尾川親水公園・棚下不動を経て、ところどころ極端に細くなる山道を沼田までドライブしてきました。
雪解けの利根川の水は蒼く輝き、沼田城址はツツジが満開で、なかなか良い気分転換になりました。
ずいぶん長く投稿を休んでしまいましたが、また、明日からボチボチ書いて行きます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

戦後余話 2020/05/06(水) 16:19:27
小太郎さん
国会図書館の遠隔複写サービスくらいは、文化国家として、非常時における最低限の仕事だと思いますが、もう、なりふりかまわぬ心慌意乱ですね。

--------------
「古暦」というのは三成が秀吉の死後剃髪して名乗っていた入道名である。(前掲書120頁)
--------------
恥ずかしながら、三成が剃髪していたことも、入道名が古暦ということも、知りませんでした。
年が変われば、普通、古暦は不要になりますが、三成の場合、秀吉の死(慶長3年8月18日)から自身の処刑(慶長5年10月1日)まで、実に2年以上も有効に機能した、というのは歴史の皮肉です。
古暦が冬の季語として定着した年代は不明ですが、
服部嵐雪の、
古暦ほしき人には参らせん
は、案外、三成への追善供養なのかもしれず、祥月命日が初冬の朔日というのも平仄が合います。
六条河原で斬首された敗北者(三成、行長、恵瓊)のうち、禿頭は二人で、このような打ち首を晒すときは、両耳を掴んで持ち上げるのだろうか、と思いました。
また、行長はクリスチャンなので、斬首された三人の最大公約数は形式的には宗教だ、と云えなくもないですね。
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若くないハムレットの悩み

2020-05-04 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 5月 4日(月)21時32分21秒

コロナで自粛疲れの世間の皆様には申し訳ないですが、私はけっこう元気です。
ただ、近隣の公共図書館・大学図書館が全く利用できなくなって一ヵ月近く経過し、4月15日には国会図書館の遠隔複写サービスも中止されてしまって、必要な論文を入手できないのは本当に痛いですね。
今やっている鎌倉時代の上杉氏についても書くべき内容はある程度まとまっているのですが、念のため確認しておきたい事項も多く、どうしようかなと思っています。
正確を期すために暫くはきっぱり断念するか、それとも後日修正することを前提に、多少は粗っぽくとも一応文章の形にしておくか。
うーむ。
なかなか悩ましいところです。

>筆綾丸さん
>山本博文『「関が原」の決算書』(新潮新書)
同書の担当編集者によれば、

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 本書の著者、山本博文さんは2020年3月29日の早朝、帰らぬ人となりました。本書の最後の校正を私に送って下さってからわずか3日後。青天の霹靂でした。
 がんであるとは仰っていました。腎盂がんというのが正式な病名であるようですが、最後にお目にかかった際、「実はがんでね」と。これから入院する東大病院1階のタリーズで、コーヒーをすすりながら。肝臓にも、肺にも、転移しているようなんだよ、といつもの山本さんの穏やかな声音と顔色で、淡々と仰っていたのが3月5日のことでした。それからわずか3週間。【後略】

とのことで、ずいぶん慌ただしい出来事だったようですね。

>ザゲィムプレィアさん
お久しぶりです。
山本氏、六十三歳というのは若過ぎますね。

※筆綾丸さんとザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

閑話 2020/05/31(日) 05:34:09
山本博文『「関が原」の決算書』(新潮新書)をアマゾンに注文するときに知ったのですが、氏は亡くなられたのですね。

以下は、コロナ疲れによる戯言です。
『プラダを着た悪魔 (The Devil Wears Prada) 』という映画があるが、現在、プラダは医療用防護服も製造しているので、さしづめ、The Doctor Wears Prada's Hazmat Suitといった感じである。
Virexit (virus+exit) は、BrexitとMegxitと同じように、exorcismの一種である。
鬼才Quentin Tarantino監督は、コロナウイルスを踏まえ、新作『Quarantine Tarantula (検疫中の蜘蛛)』を構想中である。

山本博文氏を惜しむ 2020/05/04(月) 09:41:47(ザゲィムプレィアさん)
亡くなられたことを知りませんでした。新聞の宅配は何年も前に止めていて、そのせいでしょうか。

世の中に素人向けの歴史の本は文字通り山ほどありますが、その多くは資料と照合するまでもなく「胡散臭い」或いは「一方的な記述だ」の感想を
抱かせるものです。その中で氏の著作は長年史料編纂所に勤務してきた専門家らしく安心して読めるものでした。
Wikipediaによれば63才。ご健在ならまだまだ著作が期待できたはずで、惜しい方を亡くしたものです。
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久保田順一氏「第二章 上杉氏の成立」(その2)

2020-04-29 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月29日(水)10時57分30秒

細かな話になりますが、『尊卑分脈』には源通親(1149-1202)の「女子」として二人を記していて、その一人は「国母 後鳥羽院妃 土御門院母 承明門院 在子 母同通光公」です。
もっとも、「但依勅為猶子実者法印能円女也」ということで、承明門院(1171-1257)の本当の父親は平家との縁故により仏教界で出世し、法勝寺執行になった能円ですね。
平家が没落すると能円も流罪となり、妻の範子は源通親に再嫁して久我通光・土御門定通・中院通方を産む、という関係です。

能円(1140-99)

そして、もう一人の「女子」は「従二位 後嵯峨院御乳母 親子 大納言二位」です。
久保田氏は「宗尊の父後嵯峨の乳母であった西御方」と書かれているので、「西御方」が「大納言二位 親子」と同一人物と考えておられるのは明らかですが、本当にそうなのか、一応問題にはなります。
というのは、「大納言二位 親子」は後嵯峨院にとって相当に重要な存在だったからです。
二年前の投稿で引用済みですが、秋山喜代子氏の「養君にみる子どもの養育と貢献」(『史学雑誌』102-1号、1993)に次のような指摘があります。(p80)

-------
【前略】かくして後嵯峨の即位が実現したのである。その結果、大殿九条道家の勢力は後退し、代わって外戚定通の勢威が増した。定通は天皇の後見として内裏を管領したが、寛元四年院政開始後も嫡子顕定を院の執事別当の地位につけて、実際には彼が院中を統括した。
 さて、注目したいのは大納言二位こと乳母源親子(通親女で定通、通方の妹)である。親子は重要案件の取次役であって、摂関家や関東申次の西園寺家などの重臣と後嵯峨との交渉を殆ど申し次いだ。そして、そうした立場から貴族の最大の関心事である人事に深く介入した。
 この点で特筆すべきは、院宣と変らぬ女房奉書、「二品奉書」が重事、人事に関して数多く確認できることである。中世前期では、天皇(院)の乳母は天皇に密着し、その身辺の事柄、奥向きの事をとりしきる立場に位置付けられた。したがって必然的に乳母は内々の事、重事の取次役となった。とはいえ、親子のように女房奉書を多く出した者は稀である。このことは親子の政治的影響力が強大だったことを意味しているのである。こうした親子の権勢を考慮にいれるならば、後嵯峨の即位後は、政治の顧問として内裏、院の表向きのことを統括した外戚定通と、奥向きをとりしきった乳母親子の兄妹が、共に後嵯峨を支える後見だったと捉えられよう。


「西御方」が「大納言二位 親子」ならば、後嵯峨院は相当の大物を鎌倉に送り込んだことになりますが、それにしては『吾妻鏡』に格別のエピソードもなさそうな点が気になります。
ま、別に深く疑っている訳ではありませんが、学説の状況はどうなっているのか、別人説はないのか、後で確認したいと思います。
さて、久保田氏は「西御方の実父は通親であるが、母は承明門院と同じ藤原範兼(南家貞嗣流)女の範子である。従って、承明門院と西御方は同母姉妹に当たる。範兼女は能円死後、通親に嫁いで通光・定通・通方らを生んだとみえる」(p22)と書かれていますが、『尊卑分脈』には「大納言二位 親子」には「母 通方卿女」と記されていて、「承明門院と西御方は同母姉妹」ではありません。
実はこの『尊卑分脈』の記述は極めて奇妙で、「大納言二位 親子」の母が中院通方(1189-1239)の娘ということは世代的にあり得ません。
『尊卑分脈』に何らかの混乱があることは明らかですが、詳しい事情は分かりません。

中院通方(1189-1239)

>好事家さん
>上杉重能その父勧修寺道宏なる人物の系譜
私も武家社会は疎くて、上杉一族のことはつい最近調べ始めたばかりであり、勧修寺道宏についても特段の知識はありません。
ウィキペディアに黒田基樹編『足利基氏とその時代』(戎光祥出版、2013)が参照されているので、ひとまずこれを御覧になったらいかがでしょうか。

上杉重能

※好事家さんの下記投稿へのレスです。

教えて下さい 2020/04/28(火) 20:13:10
鈴木小太郎様
観応の争乱で1350年殺された上杉重能その父勧修寺道宏なる人物の系譜が判りません。
お判りなら教えて下さい。
重能自身も実子おらず養子が2人いたようですが。
対立した高師直って織田信長に230年先んじて革新的な人間のようです。
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久保田順一氏「第二章 上杉氏の成立」(その1)

2020-04-27 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月27日(月)12時58分42秒

三日ほど投稿を休んでしまいましたが、またボチボチと書いて行きます。
この間、「宗尊親王鎌倉御下向記」に出てくる「びてう」が気になって、古文書・古記録に詳しい知人に質問してみました。
「びてう」ではどうにも意味が取れず、もともとは「仕丁」ではないか、という指摘を頂くなど、材料不足の中で種々ご教示いただき、感謝しております。
あるいは誰かが既に、書誌的事項を含め、「宗尊親王鎌倉御下向記」に関する精緻な研究をされているかもしれないので、図書館の閉鎖が解除されたら自分でももう少し調べてみるつもりです。
また、ツイッターで相互フォローしている竹帛さんから、久保田順一氏『上杉憲顕』(戎光祥出版、2012)の「第二章 上杉氏の成立」の内容を教えてもらいました。

https://twitter.com/koottayokan/status/1253331156675616772

そこで、「宗尊親王鎌倉御下向記」の記述に関する久保田説を少し検討してみたいと思います。
久保田氏は『吾妻鏡』建長四年四月一日条の、

-------
寅一点、親王自関本宿御出、未一剋、着御固瀬宿、御迎人人参会此所、小時立行列、先女房、<各乗車、下臈為先、>美濃局、別当局、一条局、<大納言通方卿女、>西御方、<尼土御門内大臣通親公女也、布衣諸大夫侍各一人在共、此外女房雑色外無僮僕>

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma42-04.htm

という表現、特に「西御方」に関する「布衣諸大夫侍各一人在共、此外女房雑色外無僮僕」と「宗尊親王鎌倉御下向記」を照らし合わせて、

-------
 「吾妻鏡」との違いをみると、「吾妻鏡」では諸大夫については一人だけで、右馬権助親家とみえるが、こちらでは官途が「日向武者介」と異なる。官途が異なるものの、実名は親家とみえるので、同一人であることは間違いない。後者の、もう一人の諸大夫「おとゝはうぐわんだい」は「大臣判官代」であろうか。侍は「とうしんざゑもん」とみえ、藤原新左衛門尉」という人物である。各々「ねうばうのかいしやく(さく)」(女房の介錯)と説明があるが、これは「吾妻鏡」にみえる西御方に付き添う諸大夫と侍と同一人であろう。「大臣判官代」は西御方の父源通親が内大臣であったので、これに因んでそう呼ばれていた人物であろう。
 藤新左衛門尉について、これが重房の可能性がある。重房は「上杉系図」には「左衛門督(尉)」とみえ、官途は一致する。そうであるならば、重房はこの西御方に仕える侍であったことになる。上杉系図では、重房は宗尊に供奉して関東に下向したとのみ記されているが、実際は西御方の「介錯」(介添え)の一員として下向したことになる。重房は宗尊に直接仕える立場ではなかったことになる。
-------

とされています。(p21)
関係部分だけ見ればそれなりに筋の通った解釈といえそうですが、ただ、「宗尊親王鎌倉御下向記」の記述は、武士の名前に「おゝすみの。子一人。」「けしの。子一人。」といった雑なメモ書きのような記述も多く、そもそもどこまで信頼できる記録なのか不安を感じます。
また、「べたうどの」(別当殿)のグループの「はたのゝいつきのぜんじ」は『吾妻鏡』の「自京供奉人々」四人中の一人「波多野出雲前司義重」と思われますし、「にしの御方」(西御方)のグループの「ながゐのさゑもん」は「長井左衛門大夫泰重」かもしれませんが、残りの「自京供奉人々」二人のうち、「左近大夫將監長時」は上臈女房のグループではなく、「所たいう」「さぶらひ」の次に「ぶし」として登場する「六はらのさこんのだいぶ」のようです。
そして「佐々木加賀守親淸」の場合、対応する人が「宗尊親王鎌倉御下向記」には見当たりません。
更に、例えば「にしの御方」グループの「のせのはんぐわんだい」「さニらうざゑもん」「えびのさゑもん」は『吾妻鏡』での対応者がはっきりしませんし、「御むかへの人々」「かりぎぬにてまいる人々」と『吾妻鏡』の人名を比較しても、分類・序列などに明確な規則性は存在しないようです。
総じて「宗尊親王鎌倉御下向記」と『吾妻鏡』の対応関係がはっきりせず、久保田氏の言われるように「とうしんざえもん」が「西御方の「介錯」(介添え)の一員」と断定できるのかどうか、私はかなり疑問に感じます。
また、久保田氏は「藤新左衛門尉について、これが重房の可能性がある」としながら、その後の記述は重房に確定しているような書き方となっており、これも些か奇妙です。
本姓が藤原氏で左衛門尉に任ぜられた人は大勢いますから、いくら「上杉系図」と官途が一致するからといって、そこから出てくる結論は「重房の可能性がある」に止まるはずです。
さて、久保田論文の続きです。

-------
 式乾門院の死後、主人を失った重房は、宗尊の父後嵯峨の乳母であった西御方に拾われて仕えていたのであろう。そのようにみると、重房は土御門家に深く関わっていることが浮かびあがる。まず、先述したように重房の父清房は後鳥羽院に仕え、その死後も慰霊に関わっていたが、その背景として能円女で通親の養女で後鳥羽院の妃となった承明門院がいる。彼女はこの時期もまだ存命であった(正嘉元年=一二五七、没)。承明門院や西御方らの土御門一族が重房を保護する立場にあったのである。
 西御方の実父は通親であるが、母は承明門院と同じ藤原範兼(南家貞嗣流)女の範子である。従って、承明門院と西御方は同母姉妹に当たる。範兼女は能円死後、通親に嫁いで通光・定通・通方らを生んだとみえる。これらの人々も重房にとって主筋に当たることになる。なお式乾門院の女房として通親の子通光の女に「式乾門院御匣」がおり、重房はこの女性とともに式乾門院に仕えたのであろう。
-------

細かな問題点は次の投稿で少し書くとして、私は久保田氏の基本的な発想に若干の疑問を感じます。
久保田氏が作成された「系図2 勧修寺流と土御門流王家との関係」(p22)は、『尊卑分脈』を素材に分かりやすくまとめられており、大変参考になったのですが、ただ、貴族社会は武家社会以上に狭い範囲で人間関係が交錯しているので、数世代にわたって調べれば大抵の人は何らかの形で結びつくといっても過言ではありません。
従って、貴族社会を分析するにあたって、一部を抽出した系図で人間関係を追って行くと過度の思い込みとなる危険性がつきまといます。
そしてこの危険性は、鎌倉時代の上杉一族が四条家の家司だったとする山田敏恭氏の議論とも関係してきます。
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「重房は、建長四年(一二五二)三月に宗尊親王に供奉して関東へ下向した」のか?

2020-04-23 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月23日(木)11時27分27秒

山田氏の論文の「重房は、建長四年(一二五二)三月に宗尊親王に供奉して関東へ下向した」に付された注(9)を見ると、「『上杉系図』(『続群書類従』系図部所収)」とあります。
宗尊親王の関東下向については、一行が鎌倉に入った『吾妻鑑』建長四年四月一日条に相当詳しい記事があり、ここに供奉者のリストがありますが、公卿は土御門顕方、殿上人は花山院長雅、諸大夫は藤原親家、そして医者二名で、他に女房として美濃局・別当局・一条局(中院通方女)、そして源通親の娘である西御方の四人が載っています。

「吾妻鑑入門」(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma42-04.htm

一般に系図だけに出てくる事実の信憑性には若干の疑念が免れないのですが、上杉重房は果たして本当に一行の中にいたのか。
この点、ウィキペディアには、

-------
『吾妻鏡』建長4年(1252年)4月1日条に記される宗尊親王の鎌倉下向に従った人々の記載には重房の名は見られないが、「宗尊親王鎌倉下向記」『続国史大系』には源通親娘で後嵯峨院の乳母であった「西御方」の介添えとして重房と官位の一致する「とうしんざゑもん(藤新左衛門尉)の存在が記され、重房は式乾門院の没後に西御方に仕え鎌倉へ下向し、宗尊親王に直接仕える立場ではなかった可能性が指摘される[3]。
なお、『尊卑分脈』では重房を式乾門院の蔵人とし、官位については記載されていない。鎌倉期の上杉氏は五位以上の官位を得られずに没落しており、重房は村上源氏土御門流の家人であった可能性が指摘される[4]。

上杉重房
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%87%8D%E6%88%BF

とあり、これは久保田順一氏の『上杉憲顕』(戎光祥出版、2012)からの引用のようですね。
久保田順一氏は群馬県の高校に勤務し、『群馬県史』『高崎市史』などの編纂に関わってこられた郷土史家で、『上杉憲顕』も私がいつも利用している図書館に存在することは分かっているのですが、コロナの影響で確認できません。
ただ、『続国史大系 第五巻 吾妻鑑』所収の「宗尊親王鎌倉御下向記」は国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。
リンク先で「コマ番号」を399とすると、「附録」の筆頭に「宗尊親王鎌倉御下向記」が出てきます。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991112

全部で六頁あり、最初の方は宿泊・昼休憩の地名と、当該場所における接待の責任者のリストですね。
例えば「やはぎ(矢作)」と「みやぢのなか山」の担当者「あしかゞのにうだう」(足利入道)は足利義氏だろうと思います。
そして、

-------
御ともの上らう。
 にしの御方。
 女房三人。御かいさく。
  一人。  のせのはんぐわんだい。
  一人。  さニらうざゑもん。
  一人。  ながゐのさゑもん。
 びてう一人。 えびのさゑもん。
一てうどの。
 女ばう二人。
  一人。  おがさはらのにうどう。
  一人。  すわうの入道。
 びてう一人。 ゆきのはんぐわんだい。内藤ゑもん。
べたうどの。
 女ばう二人。
  一人。  はたのゝいつきのぜんじ。
  一人。  みまさかのにうどう。
 びてう一人。 おほうちのすけ。 あさやたのさゑもん。
一ねうばう一人。みのどの。 またのゝなかづかさ。
一びてう一人。 まつもかの人々。
一とし一人。  志をやのへいざゑもん。
くぎやう。
 さいしやうの中じやう。あきかた。
てんじやう人。
 くわさんのゐんの中じやう。ながさだ。
所たいう。
 ひうがのむさのすけ。ちかいゑ。
 おなじきおとゝはうぐわんだいねいばうのかいしやく。
さぶらひ
 とう志んざゑもん。ねうばうのかいさく。
ぶし。
 六はらのさこんのだいぶ。 をなじきけんそく。
御むかへの人々。
 をはりのかみ。  むさしのかみ。 あしかゞ二郎。
【以下略】
-------

とあります。
『吾妻鑑』の記述と比べると、おそらく「宗尊親王鎌倉御下向記」は『吾妻鑑』の記述の基礎となった史料のひとつなのでしょうね。
さて、私には公卿・殿上人・諸大夫の次に「さぶらひ」(侍)として登場する「とう志んざゑもん。ねうばうのかいさく。」をどのように理解すべきかが分からないのですが、少なくとも、この記述からは、ウィキペディアの「「西御方」の介添えとして重房と官位の一致する「とうしんざゑもん(藤新左衛門尉)の存在が記され」云々の解釈は無理ではないですかね。
まあ、所詮ウィキペディアですから、久保田順一氏の『上杉憲顕』を正確に反映しているのかも分からず、久保田著を見るまでは何ともいえません。
ただ、西御方との関係はともかくとして、「とう志んざゑもん」が本当に上杉重房だと言えるかというと、他に補強する史料があればともかく、この文言からだけではかなり苦しいのではないですかね。
上杉重房はあくまで「とう志んざゑもん」の候補者の一人であって、それ以上は分からない、というのが素直な解釈ではないかと思います。
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「上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できるのではないだろうか」(by 山田敏恭氏)

2020-04-22 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月22日(水)22時23分26秒

それでは山田敏恭氏の「南北朝期における上杉一族」(『関西学院史学』37号、2010)を見て行きます。
この論文は、

-------
はじめに
第一章 鎌倉期の上杉一族
第二章 南北朝期の上杉一族
 第一節 南北朝期の上杉四家の政治的動向
  一 扇谷家
  二 宅間家
  三 山内家
  四 犬懸家
 第二節 南北朝期の上杉一族
 第三節 上杉一族と足利直義
おわりに
-------

と構成されています。
タイトルと構成から明らかなように、この論文の主眼は南北朝期の上杉一族にあり、鎌倉期は南北朝期を考える前提としての扱いですね。
私にとっての当面の関心は鎌倉期の方なので、第一章の冒頭から少し引用します。

-------
 本章では鎌倉期の上杉一族と足利氏との関係の再検討を行い、続いて南北朝期の上杉一族を分析する前提として、鎌倉末期から建武新政期にかけて惣領であった上杉憲房の分析を行う。
 上杉氏は勧修寺流藤原氏の流れをくむ一族であり、重房の時に上杉を名乗るようになった。重房は、建長四年(一二五二)三月に宗尊親王に供奉して関東へ下向した。そして重房の娘が足利頼氏に嫁し家時を産んでいる。
 ここで問題となるのが、何故重房が関東へ下向したのかという点とどのような契機で重房の娘が頼氏と姻戚関係を結んだのかという点である。先行研究では、重房の関東下向について、重房が蔵人をつとめた式乾門院が宝治元年(一二四七)に宗尊を猶子にしており、建長三年(一二五一)の式乾門院の没後に重房が宗尊に接近したとして、式乾門院を介して関東下向を説明している。姻戚関係については、先行研究ではその契機について言及されていない。そこで本稿ではこれらの問題について、四条家を介して検討する。
 四条家は藤原氏北家魚名流の本宗であり、隆季から四条を称した。この四条家と足利氏には姻戚関係があり、四条隆親に足利義氏の娘が嫁し、隆顕を産んでいる。この義氏の娘は、後嵯峨天皇の典侍となり、仁治三年(一二四二)三月十八日の後嵯峨の即位の儀において褰帳をつとめているが、寛元二年(一二四四)三月一日以前に死去している。義氏の娘が嫁した隆親は、四条隆衡の子であり、母は坊門信清の娘である。この隆親は後嵯峨に近い人物であり、仁治三年一月廿日に後嵯峨の践祚の儀が、隆親の冷泉万里小路殿で行われ、冷泉万里小路殿は後嵯峨の御所となっている。また隆親の姉の四条貞子は西園寺実氏の室であり、貞子の娘の大宮院は後嵯峨の中宮となり後深草天皇と亀山天皇を産み、もう一人の娘の東二条院は後深草の中宮となるなど、四条家と後嵯峨周辺は関係が深い。
 四条家と上杉氏の関係は、室町幕府初期に扇谷家の上杉重藤は、「別当家人重藤」や「家僕前大蔵少輔藤重藤朝臣」と見え、重藤は四条家の一流の四条隆蔭の家司となっており、上杉一族には四条家の家司となる人物がいた。この上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できるのではないだろうか。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
私は決して山田氏の「上杉氏が四条家の家司であるという関係は、鎌倉期まで遡及できる」という結論に否定的ではないのですが、ただ、鎌倉期の四条家は相当に巨大な存在であって、複数の家に分かれていたこと、また、山田氏が言及される四条隆蔭は四条隆親の系統ではなく、母が家女房であるために隆親に嫡子の地位を奪われた兄・隆綱の系統であって、油小路家という分家の人である点が気になります。

四条隆蔭(1297-1364)
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%94%AD-1080091

また、山田氏がサラッと「この義氏の娘は、後嵯峨天皇の典侍となり、仁治三年(一二四二)三月十八日の後嵯峨の即位の儀において褰帳をつとめているが、寛元二年(一二四四)三月一日以前に死去している」と書かれている部分、実は私は足利義氏の娘「能子」がけっこう長生きしたものと考えていたので、非常に驚きました。
注記は省略しましたが、山田氏は『平戸記』寛元二年三月二日条を根拠とされているので、この『平戸記』の記述について、後で少し検討してみたいと思います。
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上杉一族は四条家の家司なのか?

2020-04-22 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月22日(水)11時32分29秒

夭折した天才歌人・後鳥羽院宮内卿の名前の由来を調べるため、藤原定家の同母姉・健御前が著した『たまきはる』の女房名寄せを参考に、当時の女房名の名付け方を検討している途中、4月10日から四条家に大幅に脱線してしまいました。
そろそろ後鳥羽院宮内卿に戻ろうかとも思うのですが、コロナの影響で近隣の公共図書館・大学図書館が利用できないばかりか、4月15日に国会図書館の遠隔複写サービスも止まり、必要な文献を全く入手できない状態です。
そこで、この機会に、かねてからきちんと整理しておきたかった四条家の問題をもう少し検討したいと思います。
さて、最近、少し気になっているのは鎌倉時代の上杉一族と四条家の関係です。
この問題を考えるきっかけとなったのは山田敏恭氏の「高一族と上杉一族、その存亡を分けた理由とは?」(日本史史料研究会監修・亀田俊和編『初期室町幕府研究の最前線』、洋泉社、2018)という論文です。
少し引用してみます。(p89以下)

-------
鎌倉期の上杉一族
 上杉一族は、藤原高藤(八三八~九〇〇)を祖とする勧修寺流藤原氏の流れをくみ、上杉氏の祖とされる重房(生没年不詳)の時に上杉を名乗るようになった。
 上杉重房は、後高倉院(一一七九~一二二三)の皇女の式乾門院(一一九七~一二五一)の蔵人(秘書役)をつとめていた。建長三年(一二五一)一月に式乾門院が亡くなると、重房は、建長四年(一二五二)三月に式乾門院の猶子(相続権のない養子)であった宗尊親王(鎌倉幕府第六代将軍。一二四二~七四)に供奉して関東へ下向した。
 鎌倉期の上杉一族は、藤原北家の魚名流の本流である四条家の家司であった。四条家と足利家には姻戚関係があり、足利義氏(一一八九~一二五四)の娘が、四条隆親(一二〇二~七九)に嫁し、四条隆顕(一二四三~?)を産んでいる。
 四条家の正妻の生家である足利氏に、四条家の家司である重房の娘が、家女房として仕えた。そしてこの重房の娘が、義氏の孫の足利頼氏に嫁し、足利家時を産み、上杉氏と足利氏との間に姻戚関係が生じたのである。
 重房の関東下向後も、上杉一族は京において院や女院の蔵人をつとめている。重房の子の上杉頼重は、順徳天皇(一一九七~一二四二)の皇女で母が四条隆親の姉妹である永安門院(一二一六~七九)の蔵人をつとめている。
 頼重の子の上杉重顕は、伏見院(一二六五~一三一七)の蔵人をつとめ、同じく頼重の子の上杉頼成(一二七八~一三四六)は、後嵯峨天皇(一二二〇~七二)の皇女の延政門院(一二五九~一三三二)の蔵人をつとめた。同じく頼重の子の上杉憲房(?~一三三六)は、宗尊親王の娘の永嘉門院(一二七二~一三二九)の蔵人をつとめている。
 重房の後に、上杉一族の惣領となったのが頼重である。頼重は当初在京していたが、後に関東に下向し、足利氏の家政機関である政所の奉行の筆頭をつとめた。頼重は、足利氏及び高一族との間に姻戚関係を結び、頼重の娘の上杉清子(一二七〇~一三四二)は、足利貞氏に嫁し、足利尊氏(一三〇五~五八)・足利直義(一三〇七~五二)兄弟を産んだ。頼重の三女は、高師泰に嫁している。
 頼重の後に上杉一族の惣領となったのが憲房である。憲房は、尊氏に鎌倉幕府討幕の挙兵を勧め、幕府討幕に尽力した。また、憲房も高一族と姻戚関係を結び、憲房の養女が、高師秋に嫁し、高師有(?~一三六四)を産んでいる。
-------

少し、といいながら結構長く引用してしまいましたが、私が最も気になったのは「鎌倉期の上杉一族は、藤原北家の魚名流の本流である四条家の家司であった」という箇所です。
私は山田氏の論文で初めて、このような見解を知ったのですが、新書版の書籍ということもあり、特に注記はありません。
ただ、参考文献に山田氏の「南北朝期における上杉一族」(黒田基樹編著『関東管領上杉氏』戎光祥出版、2013年、初出は2010年)という論文が載っていたので、おそらくこれに出ているだろうと思って、初出の方の同名論文(『関西学院史学』37号、2010)を入手してみました。
すると、鎌倉期には上杉一族の人が四条家の家司だったことを示す直接の史料はなくて、山田氏は室町幕府初期の扇谷家の上杉重藤の例が鎌倉期に遡及するものと考えておられるようですね。
次の投稿でその点を確認します。
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大田友紀子氏「四條隆資卿物語」について(その2)

2020-04-20 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
さて、この後の記述はちょっと理解に苦しみます。

-------
 さて、本題の隆資の生母についてですが、『祇園祭・蟷螂山由来記』(昭和61年11月改訂)では、四條隆資は「(伏見)天皇の乳母である四条識子(さとこ)が皇統の御子を孕み、出生した男子が四条本流の隆実の子として継承されたことは、後に(識子が)従一位に叙せられていることをみても」とあり、隆資卿は伏見天皇の御落胤である、とする書き方をされています。その証拠として、『常楽記』を取り上げて「観応二年辛卯 五月十一日 八幡宮方没落合戦。四條(一品)資卿他界。六十。今日此類多之」と引用しています。ただ「一品」の語は、常楽記にはありませんでしたが。
-------

『祇園祭・蟷螂山由来記』の著者は誰かなと思って国会図書館サイトで検索してみましたが、分かりませんでした。
ご落胤云々はともかく、その証拠が『常楽記』の「一品」という記載だと言われると、何故それが証拠になるのか全く理解できません。
『尊卑分脈』を見ても、隆資は「於南朝叙一品」と書かれていて、『常楽記』における記載の有無はともかく、それ自体は単なる事実ですね。
更に大田氏は、

-------
 ただし、『平家後抄』には、「貞子の弟で、四条家を継いだ隆親(1202-1279)は、妻が後嵯峨天皇の乳母の典侍であった関係も加わって、政界における実力者の一人となり、これまでの家格を破って大納言まで昇進した。後嵯峨天皇はしばしば彼の鷲尾の山荘(金仙院)に御幸された。また彼の娘の識子は、伏見天皇の乳母になり、後には従一位に叙され、「鷲尾の一品(いっぽん)」と呼ばれた。その関係から金仙院には、持明院統の上皇や女院の御幸が度々みられたのである。」と書かれていて、識子が「鷲尾の一品」と呼ばれていたことが判ります。この「一品」ですが、親王や皇室に関係が深い特別な人に贈られるもので、乳母であることだけで贈られることは考えられません。識子に「一品」が贈られていることは、天皇の御子の生母であるからかも知れません。あくまでも可能性の問題ですが。
-------

とされていますが、「あくまでも可能性の問題」としても、かなり苦しい説ですね。
ところで、「識子」の問題とは離れますが、大田氏は、

-------
 行方をくらました二条を探し出して、隆顕は後深草上皇に奏上しました。二条の母である大納言典侍と同母弟である隆顕は、後深草上皇の臣下としての引き立てを受けていたことがわかります。父の隆親との不和に関係なく、上皇のお呼びがあれば、殿上人として院御所へ上がることが出来ました。実姉の娘である二条の世話をすることは、善勝寺長者である隆顕にとっては当然のことでした。
-------

とも言われています。
しかし、「二条の母である大納言典侍」は寛元四年(1246)の後深草天皇即位式に褰帳の役を勤めているので、寛元元年(1243)生まれの隆顕とは年齢が相当離れています。
そして『とはずがたり』の「母方の祖母権大納言」に関する記述からも、二条の母は房名の母と同じく坊門信家女であって、隆顕は二条の母の異母弟と考えるべきですね。

二人の「近子」(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f2a26745f54da5d6e93f44843e49ad

その後の記述も、多々問題を含んでいます。

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 四條隆資は、父の早世のため、祖父である隆顕に育てられたことになっています。隆顕を頼ってやって来た後深草院二条の腕に抱かれることもあったのでしょうか。識子との因縁を思うと、複雑な気持ちになったのでは、と想像してしまいます。
 その隆顕が引き籠っていた妻女の邸は、出雲路神楽町か、俵町にあったようで、何度も二条が通っています。このことから、私は、隆資が幼児期を過ごしたのはこの辺りではないか、と思っています。六条院の女楽があった同じ年の5月4日に出家した隆顕を、二条は見舞っています。二条が、東二条院公子(後深草中宮)の命により御所を退出させられた弘安6年(1283)の秋、78歳で隆親は死去します。
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「弘安6年(1283)の秋、78歳で隆親は死去」云々は『とはずがたり』の記述に基づいていますが、『公卿補任』によれば隆親は四年前の弘安二年(1279)九月六日に七十七歳で死去しています。
また、「四條隆資は、父の早世のため、祖父である隆顕に育てられた」云々は『公卿補任』の記載に基づいていますが、大田氏が依拠する『とはずがたり』によれば、隆顕は父・隆親より先に死んでいて、正応五年(1292)生まれの隆資を育てるのは無理です。
「識子との因縁を思うと、複雑な気持ちになったのでは、と想像」することは自由ですが、その前提として、大田氏は『とはずがたり』と『公卿補任』の記述の関係について、それなりの検討をする必要があるように思われます。

善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb7aa8e0d799f8d99bd2b7bf1a7f17a3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/384ce32a71c0e831d5d007c2d0967bfb
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大田友紀子氏「四條隆資卿物語」について(その1)

2020-04-20 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月20日(月)21時30分14秒

京都の祇園祭山鉾行事が中止になるというニュースを聞いて思い出したのですが、山鉾の「蟷螂山」は四条隆資にゆかりがあるそうですね。
公益財団法人祇園祭山鉾連合会サイトによれば、

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蟷螂山は、「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事にちなんでいる。その起源は南北朝時代で、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿、四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことから、渡来人で当町居住の陳外郎大年宗奇が卿の死後25年目の永和二年(1376)、四条家の御所車にその蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれる。
http://www.gionmatsuri.or.jp/yamahoko/toroyama.html

のだそうです。
私はこの話をつい最近知ったばかりなのですが、少し検索してみたところ、この話題に関連して、大田友紀子氏(京都産業大学日本文化研究所上席研究員)が「八幡の歴史を探求する会」サイトで興味深い指摘をされています。
ただ、私は大田氏の見解にあまり賛同できないので、少し検討してみたいと思います。
「四條隆資卿物語 その2~四條隆資卿の出生秘話」において、大田氏は、

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そんな四条家(流)の栄達の歴史は、3人の女性を抜きには語れません。まずは美福門院得子、生母は村上源氏の出身です。次に挙げる四条貞子には、不思議な血の縁を感じてしまいます。貞子の父・隆衡(たかひら)の母は平清盛の八女で、彼女には平家の血が流れています。婿となった西園寺実氏の母・全子(またこ)は、坊門姫と呼ばれた源義朝の娘で、もちろん頼朝の実妹です。つまり、かつて相争った源平の血がここで一つになったことになります。その貞子は、関東申次である西園寺家の正室となって二人の娘を生みました。長女の姞子(よしこ)は後嵯峨天皇の中宮・大宮院となります。その姞子が生んだ二人の皇子が共に即位したことから、貞子は「今林准后」または「北山准后」と呼ばれ、その権勢は絶大でした。その縁からか、その弟の隆親は、後嵯峨天皇の乳母である源(足利)能子(よしこ)を妻に迎えました。
https://yrekitan.exblog.jp/27980877/

と書かれています。
足利義氏女「能子」が後嵯峨天皇の「乳母」とされていることはその通りですが、この時代の乳母は現実に養育する女性ではなく、後見人の親族の女性ですね。
乳母が複数存在することも多いのですが、足利家関係者が皇子の後見人になれるはずもなく、四条隆親が「乳父」であったから、その妻が「乳母」と記録されたものと考えるのが自然です。
隆親と能子の結婚時期は不明ですが、隆親には先妻として坊門信家女がおり、また能子が隆顕を生んだのは寛元元年(1243)なので、二人の結婚はおそらく後嵯峨践祚の少し前くらいだと思います。
ついで、大田氏は、

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貞子の娘・大宮院は、弟皇子の恒仁(後の亀山天皇)を可愛がり、その利発さを愛して、夫である後嵯峨天皇に働きかけ、恒仁親王の登極を実現させます。
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と書かれていますが、これは史料的根拠に基づかない想像ですね。
また、大田氏は、

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四条家4代目の隆親の識子(さとこ)への偏愛により、隆資の祖父で、育ての親である隆顕(たかあき)は早々と出家してしまい、四条家は次男・房名の系統に移ります。父・隆親の識子への思いによって生まれた禍根ですが、隆親の老いが生み出したものであると言えるでしょう。それはひとえに識子の地位の向上を願い、それのみに執着した結果、その後の多くの悲劇を生み出して行きます。そのことについては、またいつか、後深草院二条の生涯を書くことができたら、その時に触れてみたいと思っています。
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と書かれていますが、房名は隆顕より十四歳上の長男です。
それと、『とはずがたり』によれば確かに「今参り」(隆子=識子)の登場と隆親・隆顕の不和は同時期の出来事とされていますが、前者が後者の原因とは考えにくいですね。
その直接の原因は不明ですが、背景には幕府において足利家の地位が義氏期より低下し、隆親が足利家の利用価値に見切りをつけた、という事情があったように思います。
かつて隆親は坊門家の没落を見て前妻を捨てましたが、同じパターンが再現されたのだと思います。
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四条隆良と四条房名、そして四条隆康

2020-04-20 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月20日(月)12時50分8秒

『とはずがたり』巻二で、建治三年(1277)の出来事とされる「女楽事件」に続く場面を見ると、

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 さるほどに、四月の祭の御桟敷の事、兵部卿用意して、両院御幸なすなどひしめくよしも、耳のよそに伝へ聞きしほどに、同じ四月の頃にや、内・春宮の御元服に、大納言の年のたけたるがいるべきに、前官わろしとて、あまりの奉公の忠のよしにや、善勝寺が大納言を、一日借りわたして参るべきよし申す。神妙なりとて、参りて振舞ひまゐりて、返しつけらるべきよしにてありつるが、さにてはなくて、ひきちがへ経任になされぬ。さるほどに善勝寺の大納言、故なくはがれぬること、さながら父の大納言がしごとやと思ひて、深く恨む。当腹隆良の中将に、宰相を申すころなれば、この大納言を参らせ上げて、われを超越せさせんとすると思ひて、同宿も詮なしとて、北の方が父九条中納言家に、籠居しぬるよしを聞く。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94ad4b4ff6bb7ee3aa12fd9c11b0297d

ということで、四条隆親(1203-79)は隆顕(1243-?)に替えて「当腹隆良の中将」を新たな嫡子にするつもりだったようです。
しかし、隆親は弘安二年(1279)九月六日に死んでしまいます。
そして『公卿補任』で隆良の経歴を見ると、どうにも順調とは言い難い状況が続きます。
そもそも隆良が『公卿補任』に登場するのはかなり遅くて、弘安十一年(正応元、1288)になってからです。
この年の七月十六日に従三位に叙された隆良の尻付を見ると、「故兵部卿隆親卿末子」とあり、母は不明、年齢も不明ですが、叙爵が康元二年(1257)なので、生まれは建長元年(1249)前後くらいですかね。
叙爵後は順調に位階を進め、文永六年(1269)に正四位下に叙せられますが、そこから実に十九年間停滞し、弘安十一年にようやく従三位です。
隆良の経歴の特徴は正元二年(1260)正五位下、文永二年(1265)従四位下、文永四年(1267)従四位上、文永六年(1269)正四下と四回にわたる昇叙の理由がいずれも「新院御給」となっていることで、この時期の「新院」は後深草院ですから、後深草院との関係が極めて強いですね。
そして建治元年(1275)十月、鎌倉幕府の意向で熈仁親王(伏見天皇)が皇太子になると、翌十一月、隆良は春宮亮に補せられており、ここでも後深草院との緊密な関係が明らかです。
しかし、この後、位階は全く停滞、官職も翌年に左中将になれたくらいで、パッとしない期間が長く続きます。
弘安十年(1287)に十二年に及ぶ春宮生活を終えた熈仁親王(伏見天皇)が皇位に就き、後深草院政が始まると、隆良は翌年に従三位、正応四年(1291)正三位(朝覲行幸・院司賞)・右衛門督、正応五年参議、正応六年侍従、永仁二年(1294)従二位(院当年御給)、永仁三年権中納言という具合いに華々しく昇進を重ねますが、結局、これが極官で、永仁四年(1296)、前権中納言従二位で死去してしまいます。
隆良は後深草院と共に不遇の時期を耐え忍んだ近臣中の近臣と言ってよさそうですね。
さて、隆良と全く対照的なのが房名の経歴です。
前々回の投稿で隆顕と房名の経歴を比較しましたが、康元二年(1257)九月、二十九歳で正二位に叙せられて以降、房名の昇進は止まり、非参議のまま実に二十二年が経過して、弘安元年(1278)にやっと参議になります。
そして翌年に兼加賀権守、弘安六年(1283)に兼左兵衛督・補使別当、弘安七年権中納言、弘安八年大納言ということで、これが極官ですね。
大納言は翌年辞して、弘安十一年(1288)六月、前大納言正二位で死去となります。
ちょっと面白いのは弘安五年(1282)に「正月五日依元日節会不参解見任。同十七日還任。即日射礼参行」とあることで、房名は元日の節会に参加しなかったので参議を解任されてしまい、十二日後に寛恕され、謝礼のために御所に伺ったということのようです。
当時の治天である亀山院が房名の任務懈怠に激怒し、房名はひたすら謝罪して、やっと許してもらったのでしょうね。
ということで、四条家の隆親・隆顕父子の不和をじっと眺めていた亀山院は、隆親が死ぬと、隆親に愛された末子の隆良は後深草院に近すぎるという理由で冷遇する一方、隆親の長男でありながら二十年以上前に嫡子の地位を奪われていた房名の復権を図り、官位官職とも大変に優遇してあげています。
そして、房名がちょっと増長すると、「お前はいったい誰のおかげでメシが食えていると思っているんだ」と鉄槌を下したりする訳ですね。
また、『公卿補任』で房名の経歴を辿ってみると、房名の直ぐ後ろに常に四条隆康(1249-91)がいることが気になります。
四条隆康は隆親の異母兄で、母が家女房のために隆親に嫡子の地位を奪われてしまった隆綱(1189-?)の孫ですが、弘安元年(1278)十二月二十五日、五十歳の房名とともに三十歳の隆康も参議に任ぜられます。
そして、翌弘安二年正月二十四日には房名は「兼加賀権守」、隆康は「美作権守」といった具合で、この後、房名のすぐ後ろを隆康が追いかけるような関係が続きます。
これも亀山院が四条家の房名と隆康を意図的に競わせて、自分への忠誠を尽くすように仕向けているのでしょうね。
なお、隆良は『とはずがたり』では上記「女楽事件」に名前が出るほか、北山准后九十賀の場面にもチラッと顔を出します。

後深草院との歌の贈答
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/55637ad3bae6e5109bac7d840c50a293
後深草院二条の叔父・隆良の役割
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20abfbde943fb38071e27fb435c49e03

また、隆良は『増鏡』の後嵯峨法皇崩御の場面に極めて奇妙な形で登場しています。

「巻八 あすか川」(その12)─後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5b59c05f74d7e9e2a48cd4a1cac23b0
『とはずがたり』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c92d56320b834026aea6cfd673d3fcc

房名と隆康は『とはずがたり』には全く登場しません。
『増鏡』では房名は行事参加者の中で名前が出てくるだけですが、隆康は露骨な愛欲エピソードのひとつに登場します。

「巻十 老の波」(その15)─後嵯峨院姫宮他界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cff81b83b5579beabef9fe74b37293da
「弘安の御願」論争(その6)─「まことにやありけん」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92a528ed0cbbed8ed09aca6b9dcc82a6
『増鏡』にしか存在しない記事の取扱い─「愛欲エピソード」の場合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62e72a615210d297b62aebcbb0d770e3
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