学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「内閣法制局という超エリート集団」(by 南野森氏)

2016-08-31 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月31日(水)22時25分17秒

長谷部恭男氏等は内閣法制局の憲法9条解釈を「国民的熟議の賜物」を絶賛されていますが、憲法学者の中には内閣法制局自体を絶賛される人もいて、その代表は南野森氏(九州大学教授)ですね。
南野氏と内山奈月氏の共著、『憲法主義─条文には書かれていない本質』(PHP研究所、2014)には次のような記述があります。(p171以下)

------
内閣法制局という超エリート集団

 この内閣提出法案をつくる過程に、日本の法律がきちんとできている理由、違憲判決が少ない理由があるのです。
 唐突ですが、法律の文章って難解だと思いませんか?

◆内山 難解です。

 そうですよね。理解するのも難しいけれども、書くのもすごく難しいのです。
 たとえば、「又は」と「若しくは」の意味の違いってわかりますか?

◆内山 え? 同じじゃないんですか。どっちも「or」ですよね。

 普通の日本語ではそうですが、法律の言葉では使い方が違うのです。詳しいことは、もっと法律に興味が出てきたら調べてほしいのですが、「又は」と「若しくは」で条文の意味する内容が変わってきてしまう。

◆内山 へー!! そうなんですか!

 法律をつくるお役所の役人は専門家ですから、法律の言葉づかいには詳しくなります。それでも間違えてしまうことはあるのです。そこで、閣議に出す前に、内閣法制局という法律のプロに審査してもらいます。
-------

法律用語としての「又は」と「若しくは」の用法は非常に複雑で、以前少し検討した特定秘密保護法の「テロリズム」の定義の場合、著名弁護士や一橋大学名誉教授・村井敏邦氏あたりですら誤解するような事態になっていますね。

「サカルトヴェロ」(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8122
ベートーヴェンに魅せられた日本共産党最高幹部
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dc125b11a74cca3bcb23ee6d6a0ba92f
犬も歩けばテロリズム
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e598f84f3344562d0dea26bca15a45bc
一橋大学名誉教授・村井敏邦氏の見解
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e64f166b1041ad56604cd8bf9b132789
民科法律部会の人
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b24999bfbff8dff89e26d857784b9af5

上記投稿をした時点では、私も誤解した側を批判していましたが、考えてみれば法律の専門家ですら誤解しかねない複雑な言い回しをする内閣法制局の側にも問題がありますね。
数字を使ったり、意味の上で纏まっている部分を括弧で括るといった新しい表現方法を工夫すれば、誤解の余地のない文章にすることは充分可能ですし、場合によっては複雑な文章構造の部分について条文とは別の解説を付するといった手段もあるはずです。

ま、それはともかくとして、南野氏の内閣法制局絶賛はまだまだ続くのですが、いったんここで切ります。
なお、「著者略歴」によれば、共著者の内山氏は次のような方です。

------
内山奈月(うちやま・なつき)

1995年神奈川県生まれ。人気アイドルグループAKB48のメンバー。愛称なっきー。2012年5月AKB第14期研究生オーディションに合格。13年6月日本武道館における研究生コンサートで日本国憲法を暗唱して話題となる。同年8月に昇格してAKB48Team4に所属。14年4月AKB48TeamBに移籍、慶應義塾大学経済学部に入学。同年6月AKB48選抜総選挙で初のランクイン。
------

内山氏が生年を明記しているのに対し、併記された南野森氏については「京都府生まれ」とあるのみなのがちょっと不思議ですね。
ま、別の本には1970年生まれと書いてありましたが。

>筆綾丸さん
>「ゲゲゲの鬼太郎」に出てきそうな感じ

小熊英二氏は、もしも世の中に貧乏神というものが存在するとしたら、きっとこんな風貌なのだろうなと思わせる人ですね。

>「明確な基準と厳格な手続き」

手続きはともかくとして、「明確な基準」について木村草太氏は定年制みたいなことを考えているのですかね。
私はそんなのは不要だと思いますが。
特別法ではなく皇室典範の改正で、という方向には賛成です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ゲゲゲの鬼太郎 2016/08/30(火) 12:54:10
小太郎さん
「熟議」という奇妙な造語は「熟女」の影響かもしれませんが、「熟議の積み重ね」となると、奇妙を通り越して間抜けな感じがしますね。日本語として変だ、というごく普通の言語感覚はないのでしょうか。すでに「熟議」なのだから、「積み重ね」は不要です。漢語に通じた昔の知識人ならば、fined and refined に適切な訳語を与えたと思います。熟れ過ぎれば、あとは腐るだけ、というのが自然現象です。熟れ過ぎたメロンのような美徳のよろめき(?)。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12526867.html
25日付朝日新聞の同一紙面に、小太郎さんのお嫌いな小熊氏の写真がありますね。「ゲゲゲの鬼太郎」に出てきそうな感じで、いまどき、なぜ、こんな格好をして町中をうろついているのか、まったくもって不可解です。背後の電車が東急東横線だとすれば、慶應日吉キャンパスにおける講義の帰途かもしれませんが、車内の影が無賃乗車した歴史社会学的な妖怪のように見えてきます。
追記
小熊氏の『生きて帰ってきた男』(岩波新書)は、僭越ながら、良書だと思いました。

木村氏は、「生前退位のための明確な基準や厳格な手続きを設ける工夫が必要になるだろう」「生前退位を認めるなら、明確な基準と厳格な手続きを確立し、皇室典範にきちんと書き込むべきだろう」とされていますが、皇室典範をどのように修正すればいいのか、具体例が知りたいところですね。

追記
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO003.html
皇室典範第4条を、
「天皇が崩じたとき又は退位したときは、皇嗣が、直ちに即位する。」
とし、
摂政を規定した第16条は1項のみ残し、第2項を
「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、又は高齢により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議を経て、退位する。」
とした上で独立の条文として第4条の前に置く・・・というようなことが考えられますが、これが「明確な基準と厳格な手続き」と言えるかどうか。また、退位後の身分規定は必然ですが、ニュートラルな巧い表現はないものか。なお、国事行為に含まれない公務に関しては、一切言及しないほうがいいと思います。国事行為に含まれない公務というのは語義矛盾かと思われるので、法としては従来通り見て見ぬふりをする・・・。
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「熟議」の人(その2)

2016-08-30 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月30日(火)10時41分53秒

(その1)で引用した「214年7月の閣議決定は,こうした長年にわたって維持され,多くの専門家の知恵と熟議の積み重ねを経て紡ぎだされてきた確立した憲法解釈を無視するもので」に注記があり、注2を見ると、

------
2)サー・エドワード・クックのことばを借りるならば,「幾世代にもわたり,数えきれないほどの権威と学識を備えた人々により繰り返し研ぎ澄まされた by many succession of ages, it hath been fined and refined by an infinite numuber of grave and learned men」解釈である(Coke, 1 Inst., 97b).クックの法解釈観については,長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』(東京大学出版会,2000)第3章「コモン・ローの二つの理解」で触れたことがある.
------

とあります。
正直、私など内閣法制局の憲法9条解釈は、所謂「55年体制」下での自民党と万年野党の社会党の政治的妥協の産物と思っていたので、「熟議」という表現だけでかなりびっくりなのですが、それが「幾世代にもわたり,数えきれないほどの権威と学識を備えた人々により繰り返し研ぎ澄まされた」解釈だと言われると、びっくりを超えて若干コミカルな印象を受けますね。
ま、「熟議」以外にも長谷部氏の「補章Ⅰ」論文と2014年9月29日の「国民安保法制懇」報告書には共通する表現が多いので、後者の主たる執筆者は長谷部氏なのだろうなと推測します。
愛敬浩二・青井未帆・小林節・長谷部恭男・樋口陽一の五名のうち、樋口陽一氏(東北大学・東京大学名誉教授)は相当ご高齢ということもあり、一種の象徴的存在でしょうし、愛敬浩二氏(名古屋大学教授)は「民主主義科学者協会法律部会」の人ですので、若干立場が異なるはずです。
青井未帆氏(学習院大学教授)のことはよく知りませんが、まだ若くて、この種の運動の主導的立場にはなさそうですし、小林節氏(慶応大学名誉教授)は文体が全然違う上に、そもそも憲法学界の指導的立場にある人ではなく、一種の名物男ないし単なる変人ですから、意見の集約は無理でしょうね。
ということで、消去法で行っても「国民安保法制懇」報告書を主導したのは長谷部恭男氏なのだろうと思います。

「国民安保法制懇」メンバー
http://kokumin-anpo.com/#member

55年体制
https://ja.wikipedia.org/wiki/55%E5%B9%B4%E4%BD%93%E5%88%B6
エドワード・コーク(1552-1634)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%AF
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「熟議」の人(その1)

2016-08-30 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月30日(火)10時13分2秒

こちらの掲示板は誰が何を見ているのか全然分かりませんが、投稿保管用ブログ「学問空間」では、日々閲覧数が多い記事が10位まで表示されて、この二週間ほどは「藤田宙靖氏の怒り」を見に来る人が非常に(といってもマニアックな私のブログの割には)多いですね。
私は藤田氏の見解はしごく穏当だと思っていますが、憲法学者の間では極めて評判が悪いようです。
藤田氏への批判の中で、水島朝穂氏(早稲田大学教授)のような共産党系の憲法学者の反論は、賛成はできないにしても言っていることは理解できますが、私にとって長谷部恭男氏の批判(「補章Ⅱ 藤田宙靖教授の『覚え書き』について」(『憲法の理性 増補新装版』、東大出版会、2016、p237以下)はけっこう謎です。
そこで、あまり理解できないなりに、ちょこっとだけ検討しようと思います。
まず、昨年、本当に久しぶりに憲法の勉強を始めた私にとって奇妙に思われたのが、憲法学者の中で内閣法制局を極めて高く評価する人が増えたことですね。
山元一氏(慶応大学教授)は Synodosn に寄せた論稿(「集団的自衛権容認は立憲主義の崩壊か?」2015.08.20)で、かつては清宮四郎らの「憲法学者の圧倒的多数」によって「ニセ解釈」とされていた内閣法制局の憲法9条解釈が、今や<指導的な憲法学者の間でむしろ「国民的熟議の賜物」とまで高く評価されるように>なったと指摘されていますが、この「指導的な憲法学者」とは具体的には「国民安保法制懇」の愛敬浩二・青井未帆・小林節・長谷部恭男・樋口陽一の五名ですね。
この「熟議」という表現自体、私にはずいぶん新鮮、というか奇異な感じがするのですが、『憲法の理性 増補新装版』の藤田批判論文のひとつ前、「補章Ⅰ 攻撃される日本の立憲主義」の中で「熟議」という表現が登場します。(p223)

-------
補章Ⅰ 攻撃される日本の立憲主義
─安保関連法制の問題性

1 はじめに
 第2次安倍内閣は,2014年7月1日の閣議決定で憲法9条に関して長年にわたって維持されてきた有権解釈を変更し,集団的自衛権の行使を容認した.閣議決定の内容は,2015年5月に国会に法案として提出され9月19日に成立した安保関連法の核心部分として具体化された.この行動は,本書で扱われた様々な論点と関連する.
 憲法9条の下で武力の行使が許されるのは,個別的自衛権の行使の場面に限られる.すなわち日本に対する急迫不正の侵害があり,これを排除するために他に適当な手段がない場合に行使される必要最小限のやむを得ない措置に限られるとの政府解釈は,1954年の自衛隊創設以来,変わることなく維持されてきた.集団的自衛権の行使は典型的な違憲行使であり,憲法9条の改正なくしてあり得ないことも,繰り返し政府によって表明されてきた.
 2014年7月の閣議決定は,こうした長年にわたって維持され,多くの専門家の知恵と熟議の積み重ねを経て紡ぎだされてきた確立した憲法解釈を無視するもので,立憲主義に反する正面からの攻撃と考えざるを得ない.立憲主義という概念も多様な意味で用いられるが,ここでまず問題となるのは,憲法による政治権力の拘束という最低限の意味における立憲主義である.ある一定時点でたまたま政権の座にある人々の判断で憲法の意味内容を変更できるとなれば,この最低限の意味における立憲主義が崩壊する.
-------

いったん、ここで切ります。

「憲法九条解釈というフィールド」(by 山元一)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a1051b697302a98498adc0eb7e6d4a2d
内閣法制局の解釈が「国民的熟議の賜物」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/15c688020d3f88ce5cc3f1d12e78175c
藤田宙靖氏の怒り(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5cda33cb55a0afa763821f94c6193e9
水島朝穂氏と「民主主義科学者協会法律部会」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f3ea9eabd264b5f188cd29e4b71612d3

国民安保法制懇・報告書「集団的自衛権行使を容認する閣議決定の撤回を求める」
http://kokumin-anpo.com/59
「集団的自衛権容認は立憲主義の崩壊か?」(山元一氏)
http://synodos.jp/politics/14844
「憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて」(水島朝穂氏)
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0307.html

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団地の人

2016-08-29 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月29日(月)11時01分18秒

生前退位関係の新聞記事や雑誌記事は、話題になっているものはそれなりに読んでいるつもりですが、24日の投稿で紹介した南野森氏(九州大学教授)の見解は一般的なものでしたし、木村草太氏(首都大学東京准教授)の25日付朝日新聞のコラムも、意外なことに、と言っては失礼かもしれませんが、まあ穏当な見解ですね。

(あすを探る 憲法・社会)生前退位、明確な基準必要 木村草太

天皇制に関しては、憲法の条文数は少ないとはいえ、基本的な枠組みはがっちり固まっており、重要論点は殆ど制定時に議論され尽くされている感がありますから、若手研究者もさほど斬新な見解を出せる訳でもなさそうですね。
憲法学者以外では、『中央公論』9月号の原武史氏と河西秀哉氏の対談「『生前退位』は簡単ではない」で、両氏が生前退位には憲法改正が必要だ、みたいなことを言っていて、しょうがねーな、文学部の莫迦どもは、と思いましたが、念のためと思ってウィキペディアを見たら、原武史氏は早稲田大学政治経済学部卒、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中退とのことで、文学部出身ではないんですね。
ウィキの来歴には「東京都渋谷区出身。西東京市のひばりが丘団地、東村山市の久米川団地、東久留米市の滝山団地、横浜市青葉区の田園青葉台団地を転々とする。44歳にしてようやく団地生活から脱し、橋川文三が最晩年を過ごした借家にほど近い横浜市青葉区の一戸建てに転居」という妙な記述がありますが、これは『滝山コミューン一九七四』等の団地研究がウィキ執筆者に過剰に評価されたためでしょうか。
1962年生まれの若さで明治学院大学名誉教授という立派な肩書も、若干妙な感じですね。
色んな点でバランスの悪い人、というのが私の原武史氏に対する基本的認識です。

原武史

>筆綾丸さん
いえいえ。
私の崩し字読解能力は筆綾丸さんより遥かに下のレベルで、全ては画像検索のおかげです。
ネット誕生前だったら、相当充実した図書館を利用できる人でも一日・二日くらい平気でかかった作業が、今では本当に一瞬ですから、グーグル様々ですね。

>キラーカーンさん
>伊藤と山田なら伊藤を取るという程度ではなかったかと推測します

そうですね。
そんな感じですね。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記三つの投稿へのレスです。

・・・信教ノ自由ヲ有ス 2016/08/27(土) 13:16:05(筆綾丸さん)
小太郎さん
ご丁寧にありがとうございます。
有朋なんですね。崩し字は、そう思い込むと、そうとしか読めなくなるような魔力があり、若い時にもっと勉強しておけばよかった、と反省しています。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E6%86%B2%E6%B3%95
春畝公にすれば、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」(帝國憲法第26条)を何と心得ているのか、といった心境にちがいなく、「知の政治家」の見識というべきなんでしょうね。あの時代のことを考えれば、大変な理性の持ち主だ、と思います。

駄レス 2016/08/27(土) 22:00:08(キラーカーンさん)
>>この問題は相対的に重要ではない

相対的に重要ではないし、山田が言うのだからと、閣議で強いて反対する理由がなかったが、
伊藤が消極的な姿勢を見せたので、伊藤と山田なら伊藤を取るという程度ではなかったかと推測します

山縣が国会開設時の首相として議会に対峙する「開幕投手」となるので、
第一議会を乗り切るという最重要課題の前には、神祇官は瑣末な問題だったのでしょう

駄レス(続) 2016/08/27(土) 22:04:36(キラーカーンさん)
>>(帝國憲法第26条)を何と心得ているのか

「政治活動家」に堕している今日の憲法学者には、そういうものも見えなくなっているのでしょう

『「憲法とは何か」を伊藤博文に学ぶー「憲法義解」現代語訳&解説』(相澤理(著)のように
「立憲主義」が騒がれていたころに、伊藤博文の思想に注目した人は憲法学者以外にはいたようですが

その条文も、今日では評判の悪い「法律の範囲内」も
今日では「公共の福祉に反しない限り」と読み替えることも可能です。
また、国会の議決によらなければ人権を制限できないという点では、
「公共の福祉」であれば、法律外でも人権を制限できる日本国憲法よりも
「民主的」で「立憲的」な人権保障規定であるということもできます。

現行憲法でも緊急時に人権を制限できる法律も制定できるのだから憲法改正不要という
野党議員は、護憲のために帝国憲法的人権制限も可能だと主張していると言われても「自業自得」です
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伊藤博文と宗教

2016-08-27 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月27日(土)09時38分42秒

『伊藤博文─近代日本を創った男』には伊藤博文の宗教観を伺わせる箇所はそれほどありませんが、伊藤の子どもの英語家庭教師として伊藤家に住み込んでいた津田梅子の回想は興味深いですね。(p230)

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伊藤公は人間性に深い関心を持っていた。彼はその人の身分にかかわらず、訴える力を持つ人間の言葉に耳を傾けた。召し使いであろうと、女子供であろうと、…(中略)…「生も死もわたし〔伊藤〕にとっては同じようなものだ。これから先、何が起こるかを怖れたことは一度もない」といった言い方で、彼は自分を宗教心のない人間だと決めつけていたが、私に言わせれば、彼は、何と言ったらよいか、わけのわからない力(生命の?)といったものを信じていた。彼の多くの言動にはしばしば、信仰と名づけたくなるようなそうした途方もない神がかり的なものがあった(大庭みな子『津田梅子』一五二~一五三頁)。
-----

ここはもう少し丁寧に見たいので、大庭著を確認しようと思います。
個人の内面的な信仰はともかく、伊藤が国家に過度な宗教的色彩を与えることを断固拒否した点については、神祇官再興問題の経緯に明らかですね。(p264)

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神祇官再興を止める

 伊藤の影響力の強さは、一八九〇年(明治二三)一〇月上旬の神祇官復興問題でもわかる。神祇官は、祭祀と行政を行うものとして明治初年に置かれた機関である。祭政一致の復古主義の象徴的な官庁であったが、明治四年(一八七一)八月には廃止された。
 ところが、山田顕義法相(長州)・吉井友実枢密顧問官(宮内次官兼任、薩摩)・佐野常民枢密顧問官(佐賀)・海江田信義貴族院議員(薩摩)らが、国会開設を前に神祇官を復興しようと建白した。これは、全国の神官や敬神党の人心を皇室と藩閥側に結集させようというものだった。
 一八九〇年一〇月二日、閣議でも「内決」したが、土方久元宮相〔伊藤系〕は、異論があることについて、伊藤に意見を聞くべきであると、天皇に奏上した。そこで同三日、元田が伊藤に意見を問い合わせた。元田自身も神祇官の再興には賛成であり、どうか早く賛成の「御明答」を下さいという手紙で、伊藤に懇願している(伊藤博文宛元田永孚書状、一八九〇年一〇月三日、『元田永孚関係文書』)。
 しかし翌日、伊藤は神祇官の再興に関し、閣議で決まり官職を制定することについては「当局の御原議」があるので、「局外之小臣」が何か汚いくちばしを入れるべきではないと考える旨を、土方宮相・吉井次官に回答する、と元田に返答した(元田永孚宛伊藤博文書状、一八九〇年一〇月四日、『元田永孚関係文書』)。実際伊藤は、神祇官を尊崇するのは当然のことであるので、さらに「愚見」を申し上げることはないと、土方宮相・吉井宮内次官に回答を拒否した。その上で、内閣で「深議」を尽くした上は、「御宸断」〔天皇の判断〕が下されるべきだと述べた(土方・吉井宛伊藤書状、一八九〇年一〇月四日、「吉井友実関係文書」、国立国会図書館憲政資料室所蔵)。
 伊藤は、下問に答えない形で、神祇官再興に反対の意思を示したのである。この結果、閣議で決まったにもかかわらず、神祇官再興は具体化しなかった。
------

山県内閣の閣議で「内決」したことを伊藤の意向でひっくり返されたのでは山県も愉快ではなかったでしょうが、結局、山県も伊藤の判断を受け容れたことをどう評価すべきなのですかね。
山県は神祇官復興を希望していたけれども、同時期に伊藤とは対立の火種をいくつか抱えていたので、この問題は相対的に重要ではないとして事を荒立てるのを避けたのか、それとも山県自身も復古的な発想とは多少距離を置きたいと考える人で、伊藤の対応を見て「内決」が軽率だったと反省したのか。

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「含雪」or「有朋」

2016-08-26 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月26日(金)20時37分49秒

>筆綾丸さん
>額装された和歌二首の写真があり(445頁、451頁)、末尾の署名はふつたとも「含雨」としか読めないのですが、

私も伊藤之雄氏の『山県有朋─愚直な権力者の生涯』(文春新書、2009)を半分ほど読んでみました。
445・451頁の写真を見たところ、これは「含雪」ではなく「有朋」のようですね。
<山県有朋&書>で画像検索したところ、徳富蘇峰記念館にあるという<「国民新聞」創刊にあたり山県有朋より送られた書『言有物行有恒』>の署名は「含雪」です。


そして、こちらのブログに出てくる<昭憲皇太后御歌>を見ると、「公爵山県有朋謹書」となっていますが、この「有朋」は445・451頁の署名と似ていますね。


また、こちらのブログに出てくる書の署名も445・451頁の署名と似ていて、「有朋」としか読めません。


>花柳界に通じていた艶福家博文

この種のイメージは当時の新聞が広めたようですが、伊藤もそうしたイメージの拡散を楽しんでいたかもしれないですね。
ただ、『伊藤博文─近代日本を創った男』(講談社、2009)p232の、

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 一八八七年四月二〇日、伊藤首相の主催で官邸で行われた仮装舞踏会で、伊藤が岩倉具視の娘である戸田氏共夫人を強姦したという話が、当時の新聞記事を根拠として作り上げられている。これらの新聞は、現在の大衆週刊誌的な噂にすぎない記事を掲載している。
 しかし、前田愛『幻景の明治』等は、「伊藤の戸田夫人強姦事件」を事実であるかのような叙述をしている(一一一~一三六頁)。【後略】
-----

となると洒落では済みませんが、これを否定する伊藤氏の論証は説得的です。
私も『幻景の明治』を読んだのはずいぶん昔で、こんな話題が載っていたことすら忘れてしまっていましたが、前田愛氏もずいぶんいい加減な人ですね。
伊藤氏も、わざわざこんな話まで丁寧に否定しなければならないのは些か情けない思いだったかもしれません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

春画のような、万葉集のような 2016/08/26(金) 14:46:08
キラーカーンさん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3_(%E5%89%8D%E7%BD%AE%E8%A9%9E)
https://nl.wikipedia.org/wiki/Gracht
『新潮45』を拾読みしてみました。
Verbeek は小川という意味とありましたが、Ver(=van der)+beekで、beek は運河(gracht)の一形態なのかもしれないですね。有名な画家フェルメール(Vermeer)の meer は海(湖)ですが。

小太郎さん
瀧井氏の『伊藤博文』に、
-------------
だがそもそも、”総裁”伊藤は、なぜ”統監”となったのだろうか。それは、よく言われるような「初物食い」(徳富蘇峰)の功名心に駆られてのものだったのか。(289-290頁)
-------------
とあって、この「初物食い」には別の含意がありますが、花柳界に通じていた艶福家博文を考えると、「春畝」には春画的な意味もあるような気がしてきますね。
あるいは、万葉集が隠されているのかもしれないですね。

香具山は 畝火ををしと 耳成と 相あらそひき 神代より・・・(中大兄皇子)
玉襷 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ・・・(柿本人麻呂)

伊藤之雄氏『山県有朋』には、額装された和歌二首の写真があり(445頁、451頁)、末尾の署名はふつたとも「含雨」としか読めないのですが、この雨は雪の略字ということなのでしょうか。和歌の崩し字は詠み下しがあるものの、二字の署名(含雨?)への言及はありません。

なからへばまたいかならんすき(過)し世は
おも(思)ひの外のこと(事)はかりにて

秋も又わか(我)ものかほ(顔)にきた(北)山の
ふもとのさくらもみち(紅葉)しにけり

蛇足
http://www.kadokawa.co.jp/product/200702000369/
『武士はなぜ歌を詠むか』という妙な題名の本がありましたが、軍人山県有朋はなぜ歌を詠んだのか、尋ねてみたいところです。
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「俊輔と字音相通ずるに因る」

2016-08-25 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月25日(木)21時38分45秒

>筆綾丸さん
>春畝という号の由来は何なのでしょうね。

子亀レスで恐縮ですが、『伊藤博文伝 上巻』(春畝公追頌会、統正社、1940)を見たところ、冒頭に次のような記述がありました。(p1)

-----
伊藤博文伝 上巻
 第一編 家系と修養
  第一章 出生と祖先

 従一位大勲位公爵伊藤博文公は、天保十二年九月二日周防国熊毛郡束荷〔ツカリ〕村字野尻に生れ、初め曾祖父の幼名利八郎と祖父助左衛門との両頭字を取り幼名を利助といひしが、後ち利介、利輔又は俊輔、舜輔と署し、諱を義詮、正光又は博詢と称した。尚ほ公は一時氏名を林宇一と改め、又吉村荘蔵、花山春輔、花山春太郎等の変名を用ひた。維新後暫く俊助と称し、間もなく俊介に換へ、更に名を博文と改め、字を子簡と称し、春畝(俊輔と字音相通ずるに因る)の号を用ひた。
-----

変名も「花」や「春」に溢れていますが、これは伊藤の明るい性格によるのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

典憲徧成奏御前 2016/08/21(日) 17:08:05
「典憲体制」という聞き慣れぬ用語ですが、伊藤博文が八幡製鉄所に寄贈した掛軸(274頁)の中に、「典憲」という言葉があるのですね。憲法発布(1889)の紀元節に伯爵が詠んだ七言律詩です。

 萬機獻替廿餘年
 典憲徧成奏御前
 放眼泰西明得失
 馳心上世極精研
 中興大業縄天祖
 開國宏謨駕昔賢
 更始偕民至尊志
 千秋瞻仰帝威宜

典憲徧成奏御前(皇室典範と憲法が全て成って明治帝に上奏した)という表現には、断じて憲典ではない、憲法の上位法としての皇室典範なのだ、というような勁い響きがありますね。
この七律は、掛軸用なので、行を分けず続けて書かれていますが、本来なら、数ヵ所、闕字があってしかるべきものの、19世紀末の世に、よもや闕字でもあるまい、ということなんでしょうね。

瀧井氏『伊藤博文』は労作です。
春畝という号の由来は何なのでしょうね。山縣有朋の含雪という号と並べると味わい深いものがありますが、松の木陰に(松陰先生)雪を含んだ春の畝がある、という萩城下の一風景・・・そんな気がしてきます。
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水島朝穂氏と「民主主義科学者協会法律部会」

2016-08-25 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月25日(木)09時41分10秒

時々利用している大学図書館の蔵書検索で「伊藤之雄」を調べたら、

Th.W.アドルノ著、三浦永光・伊藤之雄訳『キルケゴール─美的なものの構成』(イザラ書房、1974)

というのが出て来て、あの伊藤之雄氏の若き日の翻訳だろうかと不思議に思い、実際に同書を確認してみたのですが、訳者紹介などは特になく、謎が残りました。
そこで国会図書館サイトで検索してみたら、1952年・福井県生まれの伊藤之雄氏とは別に1924年生まれ、80年没の伊藤之雄氏がおられ、『神なき時代』(日本YMCA同盟出版部、1967)という著書、複数の共訳書を持ち、「キリスト教理解を拓く無神論─ハイデガーとサルトル」「キリスト教と社会主義」「キルケゴールと聖書─現代神学との関連で」といった論文を雑誌に寄稿されていたのですね。

>キラーカーンさん
>水島朝穂氏
ご紹介の記事、私は一度読もうとしたものの、長すぎるので3分の2くらいで挫折したことがあるのですが、今回、再度挑戦して一応全部読んでみました。
木村草太氏批判は当たっていると思いますが、後はあまりに「保守的」「伝統的」で、いささか退屈ですね。
水島朝穂氏を含め、憲法学界には共産党系の「民主主義科学者協会法律部会」会員が極めて多く、これが南野森氏の、

------
一般的に世の中から憲法学者がどのように見られているかということで言いますと、おそらく政治運動をやっている人が多いと見られているでしょうし、憲法学者は法律学者とはかなり違うと見られているでしょう。そういう意味では、言葉は悪いですが、馬鹿にされているというのが、日本における憲法学者の置かれた状況なのだろうという気がいたします。
------

という評価につながっているように思います。
民科法律部会の人はどこを切っても同じ金太郎飴的な安心感があるのが通常ですが、水島朝穂氏は自衛隊批判のために軍事を研究しすぎて、今や一種の軍事オタク化している感じもして、若干異質ですね。

藤田論文については長谷部恭男氏も『憲法の理性(増補新装版)』(東大出版会、2016)の「補章Ⅱ」で<同稿は、「公理」と呼ばれるきわめて不安定な前提群によって、不必要に強い結論を支えようとしているように見受けられる>と批判していますが、若干哲学的というかペダンチックというか高踏的な文章なので、理解できる人は少ないかもしれません。
私はあまり理解できず、賛成もできませんでした。

「長谷部先生は、世の中の上澄みの部分を見ておられる」(by 南野森)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce8b37462a3ca44ee103a929f86883d

民主主義科学者協会法律部会
http://minka-japan.sakura.ne.jp/main/

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス キラーカーン:2016/08/24(水) 21:29:26
(組織としての)内閣法制局が過去の国会答弁を踏まえない意見表明を「するわけがない」
というのが第一感です。

>>日本国民の総意に基づく
これなら、「皇室会議若しくは内閣の発議により、国会の承認を得る」で何とかなりそうです。
(「総意」に配慮するなら「両院の(出席議員の三分の二」にすればいいと思います)

日本国憲法を読み返してみましたが、皇室典範は
「国家の議決による(「法律」とはいっていない)
というのもびっくりしました。

といっても、法律以外の形式はいろいろ面倒そうなので、法律でよかったと思いますが

>>藤田論文
水島朝穂氏が反論文をネットにアップしているようです。
「憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて」
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0307.html
(読まなくても「結論」は想像出来ます)
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藤田宙靖氏の怒り(その2)

2016-08-24 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月24日(水)10時28分13秒

こちらは別に新しい話題ではないのですが、8月21日、朝日新聞に次のような記事が出たので、ちょっと驚きました。

------
安保法巡る元最高裁判事の論文、法律家の機関誌が不掲載
2016年8月21日12時42分

 安全保障関連法を違憲とする憲法学者らの議論に再考を促し、安倍内閣批判も交えた元最高裁判事の論文を、法曹関係者からなる財団法人・日本法律家協会の機関誌が掲載しなかった。協会は「予定されている特集テーマに直接関連しないから」と説明するが、元判事は「理解不能」として協会を退会した。
 論文の著者は元最高裁判事で行政法の重鎮、藤田宙靖(ときやす)・東北大名誉教授。当初は日本法律家協会の機関誌「法の支配」(季刊)に掲載を求めたが、昨年12月に協会の編集委員会から当面応じられないと伝えられて退会し、月刊誌「自治研究」(第一法規)の今年2月号に同趣旨を寄稿した。
 藤田氏は、協会の編集委員長から説明を受けたという不掲載の経緯を「自治研究」で紹介。掲載に賛成論もあったが、「多数の現職裁判官、検察官が会員の協会の機関誌という性格と、元最高裁判事という(藤田氏の)地位に伴う影響力の強さが考慮された結果」と伝えられたという。
【中略】
 藤田氏は「法の支配」への不掲載について、「元最高裁判事の新安保法制を素材とする論稿を現職の裁判官、検察官に読ませることはできないということか。日本法律家協会の名が泣く」と「自治研究」に記した。
 協会は朝日新聞に対し、藤田氏が編集委員長から伝えられたという内容は「(昨年12月の)編集委員会の議論で出た意見だろう」としつつ、不掲載は「予定されている直近号や近い号の特集テーマに藤田論文が直接関連しないことから」だったと説明している。
 日本法律家協会は1952年に、新憲法下で法曹関係者が協力してより民主的な司法運営を目指すとして発足し、会員は弁護士、裁判官、検察官、学者など約1700人。「法の支配」の編集委員会には現職の裁判官や法務省幹部もいる。(藤田直央)

http://www.asahi.com/articles/ASJ8N72LWJ8NUTFK00J.html

この件については私も5月8日に書いていますが、出来事自体は去年の年末から今年初めにかけての話なので、私も少し出遅れ気味でした。
今回の記事は更に間延びした感じがしないでもないですが、新安保法制に極めて批判的で、社会部を中心に質の悪い煽動記事も多かった朝日新聞に出たこと自体に意味があるのでしょうね。
なお、たまたま記者が藤田姓ですが、「藤田一族の怒り」という訳でもないんでしょうね。

藤田宙靖氏の怒り
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/800fd04b7f8fbc3acda54ff2cc302729

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皇室ティンパニ

2016-08-24 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月24日(水)09時41分13秒

井上武史氏(九州大学准教授)のツイートで、日本テレビが22日、

------
 天皇陛下の生前退位をめぐり、内閣法制局などが、将来にわたって生前退位を可能にするためには、「憲法改正が必要」と指摘していることが新たに分かった。
 天皇陛下のお言葉について安倍首相は「重く受け止める」と表明したが、政府は憲法との整合性をいかに保つか、難題に直面している。政府関係者によると、憲法と法律との整合性をチェックする内閣法制局などは、生前退位を将来にわたって可能にするためには「憲法改正が必要」と指摘しているという。
 これは憲法第1条で天皇の地位は日本国民の総意に基づくと定めていて、天皇の意思で退位することはこれに抵触するという理由。
 一方、生前退位を今の天皇陛下にだけに限定するのであれば、特例法の制定で対応が可能だと説明しているという。政府は来月にも有識者会議を設置し、特例法の立法を軸に議論を進める考え。【後略】

http://www.news24.jp/articles/2016/08/22/04338719.html

と報道しているのを知り、奇異に思いましたが、さすがに憲法学者から反発があり、南野森氏(九州大学教授)は、改正必要説は通説でもないし、従来の政府見解とも異なる旨を書かれていますね。(ヤフーニュース、23日)

http://bylines.news.yahoo.co.jp/minaminoshigeru/20160823-00061405/

この記事の中で、南野氏は1978(昭和53)年3月16日の参議院予算委員会での真田秀夫内閣法制局長官の答弁、

------
真田長官:「その点もおっしゃるとおりでございます。もちろん、学説の中には、退位は憲法上できないんだという説もないこともないのですけれども、通説としては、憲法上その退位ができるかできないかは、法律である皇室典範の規定に譲っているというふうに言われておりますから、おっしゃるとおり皇室典範の改正が必要だということに相なります。」
------

を引用していますが、この「ないこともない」程度の扱いを受けているのがおそらく田上譲治説で、単独説である上に、正直、何を言っているのかよく分からない説でもありますね。
ま、私は園部逸夫氏の『皇室法概論─皇室制度の法理と運用』(第一法規、2002)の中で田上説が引用されているのを読んだだけですが。

園部逸夫『皇室法概論─皇室制度の法理と運用』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2f42faf616613c63cd51f4eb38963506

仮に内閣法制局が従来の通説・政府見解に反して改憲必要説を主張しているのだとしたら、天皇陛下の「お気持ち」をきっかけに、殆ど「不磨の大典」と化していた日本国憲法の初めての改正が行われる事態も予想されることとなり、大変な話ですが、ま、私としては日本テレビの単なる誤報ではなかろうかと思っています。

>筆綾丸さん
>なお、皇典研究所は皇典講究所の間違いでしょうか。

全然気づきませんでした。
チェックが厳しいですね。

>キラーカーンさん
>『近代日本の軍部と政治』

ご紹介、ありがとうございます。
早速読んでみます。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記三つの投稿へのレスです。

皇典講究所 2016/08/23(火) 18:26:16(筆綾丸さん)
キラーカーンさん
『新潮45』のフルベッキ伝のご紹介、ありがとうございます。

小太郎さん
伊藤之雄氏『山県有朋』に、
--------------
その後十二月二四日、三条は首相兼官を辞任し、山県が第三代首相に任命された。これは、さきに黒田首相や閣員らが山県を後継首相に推したことを、天皇が尊重したものである。また山県は、これまでの陸軍に対する功労が大きいということで、天皇の特旨で、首相になってからも現役軍人でいることを許された。(243-244頁)
--------------
とあります。
「他方、三条内閣の最後の日に、伊藤を失望させる政治決定もなされている」という記述からすると、十二月二四日の内閣官制の改正が三条内閣の置土産のように読めてしまいますが、それはむしろ山県新内閣の初仕事とすべきで、軍部を首相に掣肘されるわけにはいかん、という山県の強い意思が働いていたような気がしますね。あるいは、二度目の渡欧(1888年12月2日~1889年10月2日)で何事かを新たに学んだ山県が、内閣官制の改正を組閣の条件のひとつにしたのかもしれないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%B4%BE
瀧井氏『伊藤博文』に、
----------
そもそも有賀は、皇典研究所の一員として皇室制度の歴史研究に従事した経歴の持ち主でもあった。(216頁)
----------
とあります。
「二条派は大覚寺統(のちの南朝)と結んで保守的な家風を墨守」(ウィキ)と、「二条派(藤原為家の子為氏を祖とし、近世まで正統と見なされた流派)の歌風を信奉し」た先祖の有賀長伯(千人万首)とを重ねると、有賀長雄には後の南北朝正閏問題を家系的に先取りしているような趣と、中世二条派の正統歌学を近世独逸流の正統国家学に昇華せしめたような趣もありますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%85%B8%E8%AC%9B%E7%A9%B6%E6%89%80
なお、皇典研究所は皇典講究所の間違いでしょうか。

駄レス(補論) 2016/08/24(水) 01:30:00(キラーカーンさん)
補論

>>三条暫定内閣
個人的には、この事例は軽視すべきではないと思います。
三条の内大臣兼総理大臣は問題とされていませんが、その約20年後、桂が内大臣から三度首相に
就任した際には「宮中府中の別を乱す」として大正政変への「燃料投下」となってしまいました。
また、各元老も三条の首相就任を認め、その風下に立つことを是認していたということになります
(もし、太政大臣として「無能」ゆえに三条が内大臣に祭り上げられたのであれば、
 伊藤が班列国務大臣(枢密院議長)の資格で首相(臨時)兼任となるはずです。)

つまり、「元老間のバランサー」として三条は独自の存在意義があった(「(張出)元老」)

と見るべきではないかというのが私見です。

>>山縣監軍兼内務大臣

筆綾丸さんの投稿にも「天皇の特旨で、首相になってからも現役軍人でいることを許された」
とありますが、「政治家山縣有朋」の主要な資源は

現役軍人でいること

ですから、首相になったからといって、規則どおりに予備役編入とはならず、現役残留が「当然の前提」
だったことは容易に想像がつきます。だからこそ、山縣は「監軍が内務大臣を兼務する」という形で
内務大臣在任中も現役軍人の地位にありました
(類例として、児玉源太郎台湾総督兼内務大臣という有名な例があります、その後台湾総督兼参謀次長へ「降格転任」)
首相を兼任できる「現役武官職」が当時は存在しなかったため、特例で特旨をもって現役残留となりました。
(元帥創設後の第二次山縣内閣では元帥の資格で現役残留のまま首相に就任しています)

政治論から考えて、現役軍人政治家の政治家としての最大の資源は「現役軍人」であることですから、
首相就任と引き換えに予備役編入となれば「何のために首相になったのか分からない」という状態になります。
したがって、第一位山縣内閣以降、現役軍人が首相に指名された場合、現役残留の特旨を初出した上で首相に就任するのが
「異例の慣例」となります(ヒラ大臣就任の場合には予備役編のうえ大臣就任)

これについても、詳しいことは、永井前掲書第一部「軍人と内閣」を参照してください。

「大宰相主義」の終焉 2016/08/24(水) 01:32:43(キラーカーンさん)
>>三条暫定内閣
>>黒田首相や閣員らが山県を後継首相に推した

これは、内閣官房の歴代内閣のHPやwikiを見てもわからない事情がありまして、
実は、黒田内閣のほとんどの期間、山縣監軍兼内相は国外にいて、帰国したのが
黒田辞任の3週間ほど前という時期でした。その事情は内閣官房HP他では
触れられていません(同HPでは全期間「山縣内相」です)
筆綾丸さんの投稿の通り、山縣は1888年12月2日~1889年10月2日の間外遊で不在です
(山縣の肩書きについては、後ほど解説します)

時期はともかく、元老の序列から、山縣の「第三代総理」は事実上確定していました。
しかし、慎重居士の山縣は帰国直後を理由に後継首相を直ぐには引き受けませんでした
そして、その間、三条が首相兼任となるのは小太郎さんの投稿どおりです。

ここからが、本題です。
黒田内閣で帷幄上奏が増えるのは先の投稿の通りです。
詳しくは『近代日本の軍部と政治』第二部「内閣官制と帷幄上奏」を参照してください。
以下は永井説の解説です。

当時の制度は海軍の軍令組織が完全には独立しておらず、その結果として、
帷幄上奏は参謀本部長だけではなく、軍部大臣及び監軍(後の教育総監)も行っていました
(「内閣官制」制定時、海軍の軍令部門は海軍省の一部局でしたので、海相が帷幄上奏を実施
 それ以前は、参謀本部海軍部として、陸軍の軍令機関に吸収されていた時期もありました)

で、帷幄上奏に関する「内閣職権」と「内閣官制」の該当条文を見れば

内閣職権:第六條 各省大臣ハ其主任ノ事務ニ付時々状況ヲ内閣總理大臣ニ報告スヘシ
     但事ノ軍機ニ係リ參謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖モ陸軍大臣ハ其事件ヲ
     内閣總理大臣ニ報告スヘシ

内閣官制:第七條 事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付
     セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣總理大臣ニ報告スヘシ

となっています。
つまり、内閣職権の時代から「帷幄上奏」は認められていました。しかし

第一次伊藤内閣では、軍関連の勅令は、全て閣議決定を経た上で上奏
         (帷幄上奏は軍の指揮命令に関するもののみ)
黒田内閣では、軍の組織編制に係る勅令まで帷幄上奏が拡大

となっていました。ここにおいて、「大宰相主義」の形式面である
「主任の大臣と共に(全ての勅令の)副署を行う」との齟齬が生じてきました。
首相の関知しない帷幄上奏によって親裁を得た「勅令」に首相は副署しなければなりません
もちろん、伊藤はそういうことのないように、公布する「全て」の勅令は
閣議を経て制定・公布していました。
(公布を要しない軍内限りの勅令は例外的に伊藤も帷幄上奏を認めていた)
つまり、

公布する全勅令の制定には首相が関与する

ことによって、「総理の副署」の実を挙げていました
(なお、帷幄上奏勅令も上奏前には軍部大臣との協議が必要なので軍部大臣の副署は
 実質を伴っていました)
しかし、黒田内閣でその「憲法慣習」が崩れた以上、「大宰相主義」は変更を迫られます
その結果としての「内閣官制」制定であり、「大宰相主義の終焉」となります
言い換えれば、帷幄上奏による勅令制定に対する「首相無答責」の外形上の
担保が、「主任の大臣のみの副署」への制度変更となった。
以上が永井説の概要です。

ここからは「私見」となりますが
1 黒田内閣でなぜ「帷幄上奏勅令」が増加したのか
2 なぜ、「軍の組織編制」が帷幄上奏勅令となったのか
3 そのような「現状追認」に際して伊藤はどう対応したのか
という「疑問」が生じます。


>>官制改正を積極的に立案・主導したのは誰なんですかね

「セクショナリズム」あるいは伊藤と黒田との「宰相の権限」に対する見解の違いというのが私見です。
永井前掲書によれば、明治21(1888)年時点で陸軍が、

陸軍部内の組織編制も(通常の勅令ではなく)帷幄上奏による別形式の法令で定めるべき

との意見書を提出していたとの事です。
したがって、陸軍は帷幄上奏事項の拡大を狙っていたということです。
(「帝国陸軍将来必要ト認ムル案件」『秘書類纂 兵政関係資料』伊藤博文編所収)
伊藤はこれを認めなかったというのは既述の通りですが、黒田内閣では事実上認められるようになります

では、なぜ、黒田内閣でそうなったかという事情を想像してみるに

山縣、大山、西郷という軍の三巨頭が揃って入閣している以上、軍の統制も内閣で担保できる
というのが「暗黙の前提」であったものと思います。さらに、黒田は伊藤と異なり
「陸軍中将」でもあったので、そのような「(陸)軍のセクショナリズム」にも理解があった
のかもしれません(但し、黒田自身の軍への影響力は、山縣、黒田、西郷に比べると「無いに等しい」
と考えられます。その結果黒田は予備役制度創設と共に予備役に編入され名実共に軍を去ります)

一方、伊藤は面白くないでしょうが、自身の指導力で「何とかなる」と思っていたのかもしれません
ここで、永井説に戻るのですが、大日本帝国憲法制定時、井上毅は

軍内のみに効力を有し、公布の必要の無いもの(本来の「統帥権」に属するもの)を除いて、
軍の命令も一般の勅令によるべし

という立場に立っていました(前掲書364~368頁)
伊藤もこの立場であったのは説明の要はないでしょう。
で、伊藤の「大宰相主義」と黒田内閣における「帷幄上奏勅令」の増加という現実をの折衷案が
「内閣官制」の「単独輔弼主義」となったと考えられます。

頭が働かなくなったので、本題は、とりあえずはここまでにしておきます。
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「大宰相主義」の変遷

2016-08-23 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月23日(火)09時34分34秒

昨日は伊藤之雄氏の『伊藤博文─近代日本を創った男』を全部読もう、というくらいの気持ちでいたのですが、台風の影響も若干あり、遅々たる歩みでした。
それでも何とか「第十二章 見込み違い」まで進みましたが、この章の最後にキラーカーンさんが触れられている「大宰相主義」の後退が出てきますね。
1889年(明治22)、伊藤が大隈外相の条約改正交渉を止めさせる為に黒田内閣を倒し、三条実美内大臣が暫定的に首相を兼任した時期の出来事です。(p255)

-----
 他方、三条内閣の最後の日に、伊藤を失望させる政治決定もなされている。十二月二四日に内閣官制が改正され、首相は各大臣の「首班」であるが、内閣制度ができたときに制定された内閣職権のような強い権限を、法令上持たなくなった。
 伊藤はドイツのビスマルクのような強い権限を持った首相が内閣をリードし、君主を支える「大宰相」主義を理想としていた。このために制定された内閣職権では、首相が各大臣を「総督」し、法律・勅令一切の文書に主任(担当)大臣と共に副署(天皇のサインの左にサインすること)する、となっていた。首相は副署を拒否すると脅すことで、陸・海軍省はじめ各省に影響力を振るうことができた。
 伊藤の構想と異なって首相の権限が弱められたのは、首相として強い権限を持った黒田が大隈外相を支援し、他の閣員の意見を聞かなかったため、条約改正で大きな混乱が生じたからだろう。伊藤や井上は、条約改正による混乱に注意を奪われて、この官制改正の影響による、軍の自立の意味を深刻にとらえなかったようである。陸軍は山県・大山巌、海軍は西郷従道という、それぞれの長老を通してコントロールすれば良いし、陸・海相の人事にもこれまでどおり関与できる(伊藤之雄『山県有朋』第七章・八章)、と考えたからであろう。
-----

伊藤之雄氏にしては今一つすっきりしない書き方ですが、そもそもこの官制改正を積極的に立案・主導したのは誰なんですかね。
その人には特別な深謀遠慮があったのか。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2016/08/22(月) 01:49:30
>>クルメツキ
『新潮45』でフルベッキの連載が始まるようです
「近代日本が踏み台にした「フルベッキ先生」正伝/井上篤夫」
http://www.shinchosha.co.jp/shincho45/

>>「制度の政治家」としての伊藤博文に『元老』(伊藤之雄氏)を重ね合わせると、
>>制度外の元老としての伊藤博文

本来は、内閣(首相)による統制を考えていたのでしょう。

『近代日本の軍部と政治』(永井和著)によれば、いわゆる帷幄上奏は黒田内閣になって
件数が急激に上昇するようです。

また、大日本帝国憲法下の内閣制度における首相が「同輩者中の首席」というのは有名ですが、
そうなったのは山縣内閣になってからであり、内閣制度発足時は「大宰相主義」であり、
首相は各大臣を統督し、主任の大臣に加え首相の副署も必要とされていました。

また、第一次伊藤内閣から第一次山縣内閣までは「(山田を含むほぼ)全元老」が入閣しており
「内閣による統制」はその実を持っていました(この時代を「初期内閣」という人もいます)
しかし、第一次松方内閣で松方以外の元老が全員閣外に去り、松方自身の指導力欠如もあり、
伊藤、黒田、山縣の「元総理」を含めた元老による閣外からの支援を余儀なくされます

その第一次松方内閣の崩壊を受けた第二次伊藤内閣が「元勲総出」、「明治政府末路の一戦」
という悲壮な決意で発足するのも「内閣による統制」を回復したかったからなのでしょう
その「均衡解」がいわゆる「1900年体制」というものでした。

因みに、伊藤氏が批判した永井氏の「元老内大臣協議方式」については、
「西園寺公望はいかにして最後の元老となったのか」『京都大学文学部研究紀要』36、1997
で、本文はhttp://nagaikazu.la.coocan.jp/works/saionji.htmで読めます。

>>軍令の体系としての軍務法

当時は、戊辰戦争~西南戦争の後遺症で軍人と政治家との分離が完全ではなく「政軍分離」の
要請の優先順位が高かったことから、「指揮命令系統の一元化・明確化」を意味する「とうす権の独立」
が然程違和感なく受け入れられたのでしょう。
(それ以外の分野に関する「帷幄上奏」を伊藤が極力制限したいたのは上述の通りです)

>>「時間」が経過することによってかつて違憲と評価されていたものが合憲と見なされる
可能性があるとすれば、
1 「7条解散」
2 外国人参政権・公務就任権
でしょうか
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公家ではない歌道家

2016-08-22 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月22日(月)21時23分36秒

>筆綾丸さん
>「第五章 明治憲法の確立 一九〇七年の憲法改革」
このあたり、伊藤と山県の関係もずいぶん微妙ですね。
瀧井氏の『伊藤博文』は一応最後まで読んでみましたが、明治政治史の基礎知識が乏しい私には若干難しい本でした。
先に伊藤之雄氏の『伊藤博文─近代日本を創った男』を読んでおいた方が良かったな、と思って同書を入手し、読んでいる途中です。

>有賀長雄
ウィキペディア記事に「父:有賀長隣 - 有賀家7代目当主、高踏派歌人」とあったので、この名前を手掛りに検索してみたら、水垣久氏の「千人万首」、「有賀長伯」の項目が出てきました。
有賀家は公家の出自ではないものの、大阪で代々、二条派和歌の歌道家として続いた珍しい家柄なんですね。
それにしてもウィキペディアの「高踏派」はちょっと妙な感じがします。

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有賀長伯(1661-1737)

寛文元年(1661)、京都の医家に生れる。家業を嫌って家を出、住吉の平間長雅(松永貞徳門の望月長孝の門弟)に入門し和歌・和学を学ぶ。二条派(藤原為家の子為氏を祖とし、近世まで正統と見なされた流派)の歌風を信奉し、その立場から多くの和歌啓蒙書を著して世に知られた。つねづね全国の名所旧蹟を訪ね歩き、『歌枕秋の寝覚』を著わす。晩年は大坂に住んだという。多数の門人を抱え、伴蒿蹊もその一人。元文二年(1737)六月二日、没。七十七歳。墓地は大阪高津の正法寺。子の長川(のち長因に改名)が歌道家を継ぎ、その後、長収・長基・長隣と明治時代に至るまで有賀家は旧派和歌の伝統を伝えた。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

一九〇七年の憲法改革 2016/08/20(土) 16:42:20
瀧井氏『伊藤博文』の「第五章 明治憲法の確立 一九〇七年の憲法改革」は、この書の白眉とも言え、興味深い内容ですね。一部を引用します。
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 調査局は皇室典範増補が公布された二月一一日をもって廃止されるが、以後、皇室会議令(一九〇七年)、登極令、摂政令、立儲令(以上、一九〇九年)、皇族身位令、皇室親族令、皇室財産令(以上、一九一〇年)、皇室会計令(一九一二年)などの皇室の基本立法が皇室令として陸続として制定・公布される。言うならばこの一九〇七年という年、「帝国憲法を最高規範とする「政務法」の系統と、皇室典範を最高法規とする「宮務法」の系統という、二元的な憲法秩序が出現した」(大石眞『日本憲法史』〔第二版〕、二九一頁)のである。
 以上のように、一九〇七年という年は、明治典憲体制がその外観を確立したという意味で、法制史上重要な画期をなす。大石眞氏は、憲法の改正がなされずとも、「通常の議会制定法である憲法附属法の改廃によって憲法秩序を変える」ことがあるとして、それに「憲法改革」の語をあてがわれている(大石眞『憲法秩序への展望』)。帝室制度調査局は、まさに明治の時期にこの憲法改革に取り組んだ試みとして評価できよう。(210-211頁)

帝室制度調査局の改革は、途中中断を挟みながら、一九〇七年に成果を出す。通常、そこでは従来の憲法を戴く政務法の体系とならんで、皇室令という法令形式の成立に伴う宮務法の体系が造出され、憲法と皇室典範の二元的国法秩序(典憲体制)が確立したと説かれる。だが、他方で、国家秩序の実態として伊藤総裁が構想していたのは、内閣による一元的な国家統治であった。そのために伊藤は、伊東巳代治や有賀を駆使して公式令の制定と内閣官制の改正を行ったのである。
 だが、この構想は陸軍の反発を招き、これまでの帷幄上奏権を制度化した「軍令に関する件」が定められ、もうひとつの法令形式としての軍令が誕生することになった。調査局による一九〇七年(明治四〇)の憲法改革は、表層的には、政務法および宮務法とならんで、軍令の体系としての軍務法の三元体制を期せずしてもたらしたと言える。(241頁)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E7%9C%9E
「憲法改革」という用語をあてたとき、現行憲法第9条をめぐる諸々の事情が大石氏の脳裡を掠めたのかしらん、と思いました。さらに、典憲軍の三元体制という用語の連想から、似て非なるものながら、権門体制を思い浮かべました。主要なテーマと無関係で恐縮ですが。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%B3%80%E9%95%B7%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E8%B3%80%E5%B9%B8%E4%BD%9C
有賀長雄ですが、瀧井氏は「ありが」とされ(213頁)、伊藤之雄氏は「あるが」とされていますが(『伊藤博文』講談社学術文庫619頁)、どちらの読み方がいいのでしょうね。戦艦大和の最後の艦長である有賀幸作は、出身地からすれば、「あるが」のようですね。
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内閣法制局の解釈が「国民的熟議の賜物」

2016-08-20 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月20日(土)10時53分27秒

「集団的自衛権」や「立憲主義」騒動の最中での憲法学者の発言は、ある程度落ち着きを取り戻した現時点から見ると、何か「憑き物」に憑りつかれたような妙なものも多かったように思われますが、山元一氏の「集団的自衛権容認は立憲主義の崩壊か?」は非常に冷静かつ明晰な分析で、歴史の試練に充分耐えるものですね。
山元氏は、

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しかし、「時間」の経過とともに、憲法の下でも個別的自衛権は認められており、それを行使するための必要最小限度の実力であれば憲法9条2項の禁止する「戦力」には当たらない、という9条解釈が内閣法制局から出され、いわゆる55年体制の下で歴代内閣がこの解釈を踏襲することによって次第に定着していくことになりました。

その同時代の憲法学者の圧倒的多数は、このような解釈を許される法解釈の枠の外にある「ニセ解釈」だとして、このような解釈を主導した内閣法制局を強く批判しました。しかし、次第にそのような声は聞かれなくなってきました。現在では、内閣法制局による解釈は、指導的な憲法学者の間でむしろ「国民的熟議の賜物」とまで高く評価されるようになりました。

こうして自衛隊は、一定の「時間」を経て社会的・法的に承認され、いわば日本社会において市民権を得た、といえるでしょう。このようなプロセスの中で、もともとの憲法9条のもっていた最も核心的意味が否定されてしまったのですから、率直に事態を直視する限り、これを「解釈改憲」のプロセスである、と理解せざるをえません。

おそらく、日本で憲法9条以外の領域において、「時間」が経過することによってかつて違憲と評価されていたものが合憲と見なされるようになる事例はほとんど見当たらないように思われます。

http://synodos.jp/politics/14844

と言われていますが、この「ニセ解釈」は樋口陽一氏の師である清宮四郎の用語ですね。
私は山元氏とほぼ同世代で、憲法については1980年代に「お受験」憲法学の世界にちょこっと触れていただけなのですが、去年、本当に久しぶりに憲法の勉強を始めてみたら、内閣法制局を非常に高く評価する憲法学者が激増していることにびっくりしました。
昔は内閣法制局など全く無視・敵視されていて、自民党政権に媚びへつらう「法匪」みたいな扱いだったように記憶しています。
1980年代にタイムスリップして、昔の自分に、将来は内閣法制局の解釈が「国民的熟議の賜物」と評価される時代が来るよと伝えたら、20代の私は爆笑するかもしれません。
"Back to the Future"が公開されたのは1985年でしたが、本当に昭和は遠くなりにけり、「あれから〇十年」という綾小路きみまろ的感懐を覚えてしまう今日この頃です。

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「憲法九条解釈というフィールド」(by 山元一)

2016-08-20 | 天皇生前退位

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月20日(土)10時00分46秒

キラーカーンさんが17日の投稿で触れられた藤田宙靖氏の「覚え書き―集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について」(『自治研究』92巻2号、2016)は、以前、私もちょっと言及したことあります。

藤田宙靖氏の怒り
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/800fd04b7f8fbc3acda54ff2cc302729

久しぶりにこの論文を読み直してみたら、誤字をひとつ見つけました。(p4)

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 しかし、政治上の活動として如何に常識を欠いたものであり、不適切なものであったとしても、それが実定憲法に違反するか否かという法解釈論上の問題、すなわち法規範論理上の問題は、それとは別に存在し得るし、また、これこそが正に、実定法学としての憲法学によって、詳細に詰められなければならないところである。憲法学者の九割が違憲を主張しているということが重みを持つのは、まさに法規範学としての法律学の専門家である憲法学者が、そのような、(法律家でない者にとって容易に可能ではない)理論的かつ詳細な検討の積み重ねの上に、専門家として表明する見解であるということを前提としてのことであろうからである(違憲かどうかを決するのは、憲法学者の数の問題ではない、という政権の豪語も、その限りにおいて理論的に誤ってはいない)。仮に「<憲法九条解釈というフィールド>で示される憲法解釈は、憲法学者の政治的社会的選好や価値判断、更にはその時々の政治状況に対応した政治的ストラテジーが露骨に示される場であり、通常の法律問題についての専門家としての学理的見解とはかなり趣を異にするものである(山本一「集団的自衛権容認は立憲主義の崩壊か?」2015.08.20 Thu Synodos)とすれば、一〇〇人の憲法学者が主張する違憲は、単に一〇〇人の「憲法学者と自称する者」が主張する違憲というだけのこととなってしまうであろう。
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「山本一」とありますが、正しくは「山元一」ですね。
山元氏は新潟大学・東北大学教授を経て、現在は慶応大学教授です。

山元一(1961生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%85%83%E4%B8%80

Synodos の山元一氏の記事を見ると、藤田氏が引用された部分の直前に、

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さらに、自衛隊の合憲性をめぐる議論は、いきおい政治的ストラテジーの色彩を帯びたものとなりがちです。政府の安保法制懇に対抗して作られた国民安保法制懇の報告書(2014年9月29日)では、従来、自衛隊違憲論に立っていた著名・有力な憲法学者が合憲論に転換しました。これは、それらの憲法学者がそのように主張した方が現在の政府の憲法解釈変更により有効に対抗できると政治的に判断したからだ、と考えられます。

http://synodos.jp/politics/14844

とありますが、この「政府の安保法制懇に対抗して作られた国民安保法制懇の報告書(2014年9月29日)」もネットで見ることができますね。
そもそもこの「国民安保法制懇」のメンバーは、

愛敬浩二(名古屋大学教授)
青井未帆(学習院大学教授)
伊勢崎賢治(東京外国語大学教授)
伊藤真(弁護士)
大森政輔(元内閣法制局長官)
小林節(慶応大学名誉教授)
長谷部恭男(早稲田大学教授)
樋口陽一(東京大学名誉教授)
孫崎享(元外務省国際情報局長)
最上敏樹(早稲田大学教授)
柳澤協二(元内閣官房副長官補)

http://kokumin-anpo.com/59

だそうで、伊勢崎賢治氏は「平和構築・紛争予防学」、最上敏樹氏は国際法が専門ですから、憲法学者は愛敬浩二・青井未帆・小林節・長谷部恭男・樋口陽一の五名ですね。
自衛隊について、長谷部恭男氏が以前から憲法学界では比較的珍しい見解を表明されているのは知っていたのですが、この2014年9月29日の報告書で「従来、自衛隊違憲論に立っていた」にもかかわらず合憲論に転じた「著名・有力な憲法学者」とは、具体的に誰なんですかね。
長谷部氏を除く四名全員なのでしょうか。

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「御亭主はたすき掛なりおくさんは大はたぬきて珍客に逢ふ」(by 村垣範正)

2016-08-19 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 8月19日(金)10時14分9秒

朝日新聞記事で西村裕一氏が言及していた奥平康弘氏の天皇論、出典がありませんが、何を見ればよいのですかね。
ウィキペディアの著書一覧を眺めると、『「萬世一系」の研究―「皇室典範的なるもの」への視座』(岩波書店、2005年)あたりでしょうか。

奥平康弘(1929-2015)


>筆綾丸さん
>村垣範正の擬古文に興味を惹かれました(84頁~)

国務長官邸でのダンスの描写ですね。

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男はイボレット〔epaulet=肩章〕付け太刀を佩、女は両肩を顕し多くは白き薄ものを纏ひ、腰には例の袴のひろかりたるものをまとひ、男女組合て足をそはたて調子につれてめくることこま鼠の廻るか如く、何の風情手品もなく幾組もまはり女のすそには風をふくみいよいよひろかりてめくるさまいとおかし。是をダンスとて踊の事なるよし。
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ハワイ王妃の描写も見事です。(p141)

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しはしありて又最前の席に出る。手続前の如し。王の立し所に妃立たり。名はエレマ年頃二十四五、容顔色は黒しといへと品格おのつからあり。両肩をあらはし、薄ものを纏ひ乳のほとりをかくし、腰の方より末は美敷(うつくしき)錦の袴よふのものをまとひ、首には連たる玉の飾ありて、生けるあみた仏かとうたかふはかり。
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この後、歌を二首詠み、二首目は「御亭主はたすき掛なりおくさんは大はたぬきて珍客に逢ふ」だそうですから、村垣はなかなかのユーモアのセンスの持ち主ですね。
この歌を受けて、瀧井氏は「峻厳で堅物な村垣の気持ちをかように解きほぐすあたり、まことハワイは昔も今も日本人にとって憧れの楽園である」という一昔前の農協のおじさんみたいな感想を述べていますが、これはちょっとピント外れで、「峻厳で堅物な村垣」という評価自体を変えるべきでしょうね。

>悪代官のようなツラ

わはは。
学者の能力を顔で決める訳には行きませんが、あまり知識人っぽくないのは確かですね。
木村草太氏はいかにも頭の良さそうな美男子で、大川周明に似た、ある種危険な魅力すら感じさせますが、木村氏と共著『憲法学再入門』(有斐閣、2014)を出している西村裕一氏は、朝日新聞の記事を見ると何だか高校生みたいな風貌で、若干の不安を覚えます。
ま、顔はともかく、小林節氏の著作って、慶大関係者以外には殆ど読まれていないんじゃないですかね。
私も小林氏の学問的業績は全く知りませんが、少なくとも人徳のなさでは憲法学界有数の人のようです。
それでも政治運動ではとにかく声の大きい人が必要ですから、小林氏のような存在が前面に出てくるのでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

幕臣の優雅な擬古文 2016/08/18(木) 14:29:01
小太郎さん
『明治国家をつくった人びと』は、僭越ながら、良書ですね。

https://de.wikipedia.org/wiki/Johann_von_Chlumeck%C3%BD
https://www.wien.gv.at/wiki/index.php/Johann_Chlumeck%C3%BD
「明治立憲制の隠れた二人のアドバイザー」(236頁~)に関して、クルメツキ文書がなぜチェコ共和国のブルノ市に残されているのか、瀧井氏の著書ではわからず、ウィキなどをみてみました。

ウィキのクルメツキの兄の項に、
Er verlebte seine Jugend in Triest, Zara und Görz. Im Jahre 1837 zog er mit seinen Familie nach Brünn.
とあります。クルメツキはザダル(クロアチア)で生まれ(1834)、ゴリツィア(イタリア)を経て、三年後、一家はブルノに移住したのですね。クルメツキ家の故地でしょうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8E
プラハ発ウィーン行きの電車は、途中、ブルノに停車しますが、昔、車中から、ここがクルト・ゲーデルの故郷か、と感慨に耽ったことがあります。メンデルやクンデラに関心はなかったのですが。

『明治国家をつくった人びと』では、主題と関係ないのですが、村垣範正の擬古文に興味を惹かれました(84頁~)。旗本の俊才は、余裕綽々というか、優雅な文体を駆使していたのですね。明治憲法の文体が、あのような擬古文であったならば、「国のかたち」もずいぶん変わっていたでしょうね。漢文調は居丈高でよくないものの、擬古文の憲法では列強の植民地になっていたかもしれませんが。

悪代官のようなツラが気に喰わず、小林節氏の著書には全く関心を持てません。
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