学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

四月初めの中間整理(その17)

2021-04-17 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月17日(土)11時28分16秒

元弘三年(1333)十二月、後伏見院皇女珣子内親王が中宮となり、立后の屏風に歌人が詠を進めるという雅な行事が行われましたが、これが尊氏の「都の歌壇へのデビュー」です。
このデビュー作が掲載された『新千載集』は尊氏の執奏により撰集が進められた勅撰集で、その完成は尊氏没の翌延文四年(1359)ですから、珣子内親王立后の実に二十六年後です。
『新千載集』は従来の勅撰集とはかなり異質な存在ですが、ぞの特徴をひと言でいえば、『新千載集』は尊氏が歌の世界に造った天龍寺のようなものですね。
そして『新千載集』では尊氏詠が「後醍醐院御製」の直後に排列されています。

(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5674e4f0410cd34ca880aa604f23257
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e8a9417d6129f8d3aa749ddba5c58766

珣子内親王立后の屏風和歌はなかなか興味深いので、ここで石川論文を離れて、少し丁寧に検討してみました。
尊氏詠が「後醍醐院御製」と同じ場面に置かれたことは、後醍醐の尊氏に対する破格の優遇を可視化しているものと考えてよさそうです。

(その6)(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b7cb58999f6cfb1c349692b774b35aa5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bae56a59d702d0ba85024e2474e671c

石川論文に戻って、尊氏と二条派、特にその総帥である為世との交流を確認しました。

(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0507909968d110277ebbec09452f5e6c

そして、中先代の乱の直後に行われたと思われる「建武二年内裏千首」の検討に入りました。
この「建武二年内裏千首」は後醍醐と尊氏の関係を考える上で極めて興味深い素材で、従来の歴史学の通説的枠組みと国文学の歌壇史研究がどうにも整合的でないように思えてきます。
歴史的背景に関する石川氏の叙述は概ね佐藤進一説に拠っていますが、多少の誤解もありますね。

(その9)(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7af777a4ef4af1a8f901a142d74daca6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/70404a6c6ce74f0825a88c6a3bd3be77

ここで石川論文を離れて、「建武二年内裏千首」が行なわれた時期と尊氏の動向の関係を探るために、久しぶりに井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』を見ることにしました。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その10)~(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e5641a8f481ca68ea69e51099d3f706
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b94bd591114821266178563a1ae7d0f4
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0bf06ecacd790d39d7e14f7740533296

井上氏は「建武二年内裏千首」の題が尊氏に与えられた時期について「十月中旬、中院具光が勅使として関東に下るのであるが、それに付して奉ったのであろうか」とされていますが、中院具光の勅使云々は『太平記』には出てこない話です。
『梅松論』には「勅使中院蔵人頭中将具光朝臣」が登場しますが、その派遣時期は不明です。
ちょっと不思議に思って『大日本史料 第六編之二』を見たら、関係記事が十月十五日にありましたが、これは考証と記述の仕方に相当問題がある雑な記事でした。
私は中院具光の発遣は九月初めだろうと考えます。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/922a40e05ad18c71fbe1ac76dde7f549
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8

さて、「建武二年内裏千首」に寄せられた尊氏詠二首を見ると、この時点での尊氏の精神状態が極めて安定した、清澄とでもいうべき心境にあったことを窺うことができます。
しかし、これでは多くの歴史研究者の認識とのズレが大きくなります。
『太平記』や『梅松論』に描かれた中先代の乱後の尊氏の対応は極めて理解しにくく、多くの歴史研究者は尊氏を支離滅裂、頭のおかしい人とまで評価してきましたが、かかる評価は「建武二年内裏千首」の尊氏詠を素直に眺めた場合の尊氏像と食い違いが生じます。
この食い違いを確認したことが先月までの到達点です。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e5e689d008c3e6a59f3bbcd457b0b45
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四月初めの中間整理(その16)

2021-04-17 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月17日(土)10時43分9秒

ここまで準備して、やっと歌人としての足利尊氏の検討に入りました。
一般的に入手可能な文献の中で、私にとってもっとも参考になったのは石川泰水氏(故人、元群馬県立女子大学教授)の「歌人足利尊氏粗描」(『群馬県立女子大学紀要』32号、2011)という論文ですが、石川論文を検討する前に、予備的知識の確認を兼ねて小川剛生氏の見解(『武士はなぜ歌を詠むか』、角川叢書、2008)を少し見ておきました。

「かれの生涯は悪のパワーがいかにも不足している」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fcfa9ec73c0ad9ffb8b8e32b3321baa
「このような謙遜は、いっぱしの歌人にこそ許されるであろうから」(by 小川剛生氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e21bf79c1dfb7500af3033d3120fb18d

小川著の関東歌壇関係の記述は省略して、石川論文の検討に入りました。
とにかく尊氏の場合、歌人としてあまりに早熟であることがその一番の特徴ですね。
普通の武家歌人の場合、歌は清水克行氏の言われるところの「心の慰め」程度の存在ですが、尊氏は明らかに異質です。

石川泰水氏「歌人足利尊氏粗描」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95d43d153e815377a9b8dfaaa338d686

石川氏は「この時代、既に東国にも和歌に代表される都の文化が十分に浸透していた事は言うを俟たないが、それにしても十代半ばにして都の勅撰集撰者のもとに詠草を送る早熟さには驚きを禁じ難い」とされています。
尊氏が「十代半ばにして単に抒情の発露として和歌という手段を選んでいたに留まら」ず、「十代半ばにして勅撰集歌人となる栄誉を欲していた」「そういう野心を東国の地で育んでいた」ことは重要ですね。
もちろん、この「野心」を政治的野心に直結させることはできませんが、尊氏の視野が若年から極めて広かったことは注目してよいと考えます。
上杉家からは京都の最新情報が頻繁に寄せられたでしょうし、赤橋登子の姉妹、正親町公蔭の正室・赤橋種子からも京都情報が到来したはずです。
また、登子の兄・鎮西探題の赤橋英時と「平守時朝臣女」からは九州、そして海外情報ももたらされたはずですね。
尊氏のみならず、登子も視野の広い、極めて知的な女性だったと私は想像します。

(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83edabc3dd73379e3c1ff52f775a36ad

『臨永集』の尊氏の三首は紹介済みですが、『松花集』の尊氏詠二首も紹介しておきました。
『松花集』は、『新編国歌大観 第6巻 私撰集編 2』(角川書店、1988)の福田秀一・今西祐一郎氏の解題によれば、「撰者は未詳だが、おそらく浄弁(当時九州在住か)が関与しているであろう。作者の官位表記から、元徳三年(一三三一)夏秋頃、臨永和歌集と同時期の成立と推定されている」という歌集です。
しかし、全く同時期に浄弁が『臨永集』と『松花集』という「鎮西探題歌壇」を中心とする私撰集を二つ編むというのも少し変な話で、別人の方が自然です。
『松花集』では「同じ心を」という詞書のある歌がなかなか興味深く、私は『松花集』は赤橋英時が編者の可能性も大きいのではなかろうかと思っています。

(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04da7d29ffd4b8217df1b98e5b6ebbc4
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四月初めの中間整理(その15)

2021-04-17 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月17日(土)09時51分34秒

「平守時朝臣女」は実際には赤橋久時娘・守時養女であり、赤橋登子とは姉妹の関係にあるのではなかろうかという関心から、「鎮西探題歌壇」に戻って、『臨永集』に掲載された「平英時」(赤橋英時)・「平貞宗」(大友貞宗)・「藤原貞経」(少弐貞経)・「源高氏」(足利尊氏)、そして「平守時朝臣女」の歌を実際に確認してみました。
「平守時朝臣女」の歌は平明な二条派風で、しかもあまり若々しい雰囲気ではなく、やはりこの女性は赤橋英時・赤橋登子の姉妹ではないか、という感じがします。
ただ、種子の歌は残っていないようなので、両者の歌風を比較することはできず、結局、「赤橋三姉妹」なのか、それとも種子=「平守時朝臣女」なのかは今後の課題です。

軍書よりも 歌集に悲し 鎮西探題(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/33a2844d936f72223e9031a8676265e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c67ad23eea2cf42520501814bbcd4bc3

ついでに『太平記』に描かれた鎮西探題崩壊の過程も少し見ておきました。
元弘三年(1333)三月には少弐貞経・大友貞宗に裏切られた菊池武時が鎮西探題側に誅殺されますが、死に臨んだ菊池武時が「古里に今夜ばかりの命とも知らでや人のわれを待つらん」という歌を詠んだエピソードは「袖ヶ浦の別れ」として古来『太平記』でも屈指の名場面とされてきました。
ただ、菊池武時は歌人ではなかったようで『臨永集』にも登場しておらず、この歌は『太平記』の創作のようですね。

『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/744791400c717309a7ad7812b9744b66
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/72be48ea101ce58dfed89bf4991db12e

結局、鎮西探題崩壊の過程で『太平記』に魅力的な武人として描かれているのは菊池武時・武重父子だけで、大友貞宗と少弐貞経・頼尚父子は散々です。
ここだけ読むと、『難太平記』の「この記の作者は宮方深重の者にて」という表現もけっこう説得力があるように思えます。

(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0070c27456467a947a42b9914df9c636

さて、ここで尊氏周辺のそれぞれに個性的な「新しい女」たちをまとめておきました。
このような「新しい女」たちが尊氏周辺に集中しているように見えるのは果たして偶然なのか。
私はそれは決して偶然ではなく、尊氏そして直義は単なる血統エリートではなく、安達・金沢・赤橋・上杉という鎌倉の「特権的支配層」の中でも最も知的なグループが集中した地点に生まれた知的エリートであって、恵まれた教育環境の中で新しい時代を切り拓く準備を十分に重ねた上で歴史の表舞台に登場した存在だと考えます。

尊氏周辺の「新しい女」たち(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a7cd1f8dd39a682a958c4a884b266c1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f4e978a0ffdad8e70040c906f49a6e8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572

そして尊氏周辺の「新しい女」たちを検討することで、私の想定する尊氏像が清水克行氏の描く「八方美人で投げ出し屋」とは全く異なることも、より明確になりました。
清水氏が描いた「薄明のなかの青春」は大半が単なる妄想であろうと私は考えています。

「薄明のなかの青春」との比較
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f46cb25a9ded0de5ed0cd6a7f854c40
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四月初めの中間整理(その14)

2021-04-15 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月15日(木)09時54分49秒

尊氏周辺の女性シリーズ、釈迦堂殿とその母・無着、赤橋登子に続いて、登子の姉妹の赤橋種子を見て行きました。
といっても種子の事績は全然分からないのですが、その夫の正親町公蔭という人物は極めて興味深い存在です。
公蔭は京極派の歌人として国文学方面ではそれなりに有名ですが、歴史学では、家永遵嗣氏の最近の論文「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」(桃崎有一郎・山田邦和編『室町政権の首都構想と京都』所収、文理閣、2016)で初めて注目されるようになった人物と思われます。
家永氏は北朝崇光天皇の皇太弟・直仁親王との関係で公蔭に着目されたので、倒幕前の公蔭については特に検討されていませんが、私にとって興味深いのはむしろ鎌倉最末期に公蔭が置かれていた状況です。

赤橋種子と正親町公蔭(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a

公蔭の経歴で何といっても特徴的なのは「歌人京極為兼の養子となり、忠兼と名乗った」点です。
家格からいえば正親町家(洞院家)の方が京極家より遥かに高いのですが、忠兼は何故か京極為兼の養子(または猶子)となります。
そして正和四年(1315)、忠兼が十九歳のときに遭遇した京極為兼の失脚、ついで二度目の流罪という大事件により、それまで順調だった忠兼の人生も暗転し、以後十五年間、その官歴に長い空白期間が生まれます。
そして、「種子の産んだ忠季は元亨二年(一三二二)の誕生」なので、この空白期間に忠兼は赤橋種子と出会い、結婚したと思われます。
北条一門の中でも得宗家につぐ超名門、赤橋家のお嬢様である種子からすれば、流罪となった京極為兼の猶子で、公家社会における出世の見込みが全く閉ざされていた忠兼と結婚することに何のメリットがあったかというと、全くなかったと思います。
赤橋種子にとって全然メリットがなく、親や親族からは大反対されたであろうこの結婚に種子が踏み切った理由を考えると、もしかしてこの結婚は、当時の日本では稀な「恋愛結婚」なのではなかろうか、というのが私の想像です。

(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/546ccaccce6039b2783c37af31ff74c5

公蔭の経歴は井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)に的確に纏められているので、参照しました。

(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17cd878a675a47c28624985d51301d63

私も別に京極為兼の反幕府的思想が正親町公蔭、赤橋種子を通じて赤橋登子に、そして尊氏に影響を与えた、などと主張したい訳ではなくて、あくまで赤橋登子という(私の仮説が正しければ)日本史上稀有な「鉄の女」を生みだした知的環境を探っているだけです。

(その4)(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/588e84f3ea3f9104df0529410ddf29c0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4518f31a8cefeab913a45cf8cd28d541

『公卿補任』によると、正親町公蔭(忠兼)は正和四年八月蔵人頭となったものの、「十二月廿八日東使為兼卿を召し取りの時同車、但即ち赦免と云々、同五正十一頭を止む(宣下)。其の後辺土に籠居す」とのことです。
この「辺土」で公蔭と種子が婚姻生活を営んだと思われますが、具体的にどこかは分かりません。
ただ、やはり京都近郊ではなかろうかと思います。

(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39d230584728bf45b6a86b87eed73878

さて、「北条系図」(『続群書類従』系図部三十五)には赤橋久時に三人の女子がいたと書かれており、登子と種子は実在が明確ですが、もう一人の女子は系図自体に奇妙な点があります。
そして、「鎮西探題歌壇」で活躍した「平守時朝臣女」との関係も問題となってきます。
仮に「赤橋三姉妹」が実在したとすると、登子・種子以外の女子が守時の養女となり、「平英時にともなひて西国に」一時的に居住して、「平守時朝臣女」として鎮西探題歌壇の二つの歌集である『臨永集』と『松花集』、そして『新拾遺和歌集』に登場した可能性はあります。
また、仮に久時の女子が登子・種子の二人だけだとすると、種子が「平守時朝臣女」として二つの私家集、そして『新拾遺和歌集』に登場した可能性も一応は考えられます。

勅撰歌人「平守時朝臣女」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c91b274f8318bab508bec111024b3981
勅撰歌人「平守時朝臣女」について(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61c9760353c0c4f334014b78b8232f1
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四月初めの中間整理(その13)

2021-04-15 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月15日(木)08時35分46秒

鎌倉を脱出した後、千寿王(義詮)は新田義貞の軍勢に合流しています。
千寿王配下の人数は僅少で軍事的には殆ど意味がなかったでしょうが、尊氏の指揮で義貞が動いていたことを示す象徴的な効果があり、鎌倉攻めでは戦功抜群の義貞も後に鎌倉から京に拠点を移さざるをえなくなります。
この間、赤橋登子の動向ははっきりしませんが、僅か四歳の千寿王をめぐるこのような手際の良い采配が登子を蚊帳の外として行われたとは考えにくく、むしろ登子が積極的に主導したと考える方が自然だと思われます。

謎の女・赤橋登子(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2b878e24056e3a1c120263f82ca51606

実家の一族が皆殺しになった場合、中世の女性の生き方としては、おそらく出家して一族の菩提を弔うのが常識的ではないかと思いますが、登子は出家はしませんでした。
また、「親兄弟の仇の筋」である夫と離縁することがなかったばかりか、義詮を産んだ十年後の暦応三年(1340)には基氏を産み、もう一人、女子(鶴王)も産んだようで、尊氏とは終生仲良く暮らしたようです。
現代人の感覚では、自分の親兄弟を皆殺しにした夫と一緒に普通に生活し、普通に子供を産んだりするのは相当に気持ちが悪い、というか、サイコパス的な不気味さを感じますが、登子はなぜにこうした生き方を選んだのか。
登子は今まで歴史研究者に殆ど注目されていなかった存在で、国会図書館サイトで「赤橋登子」を検索すると論文は僅かに一つ、谷口研語氏の「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』所収、文献出版、1997)のみです。
谷口論文を読んでみた結果、率直に言って、私には谷口氏の見解に賛同できる部分は全然なかったのですが、従来、登子がどのように見られていたのかを確認するため、谷口論文を少し検討してみました。

(その5)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e90942d529b1b3a7d0e87c141516fea5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91ebebdda3a73c79bc24e9e45ff0b492
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6b9ea58a03901c6047d60f9cd0cfedcc

谷口氏の赤橋登子論は『太平記』だけを素材とするもので、ホップ・ステップ・ジャンプと軽やかに論理が飛躍する谷口氏の見解は、結局のところ『太平記』の読書感想文ではあっても歴史学の「論文」とは言い難いものですね。
ただ、『太平記』が全く参考にならないかというとそんなことはなくて、類似の状況におかれた女性に関する『太平記』の記事と比較して、登子がいかなる女性だったかを考えることはそれなりに有効な手法と思われます。
登子の場合、その立場が一番似ているのは正中の変(1324)に巻き込まれた土岐頼員の妻ですね。

(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0795e6a342f63fb541278853f7aab332

ちなみに『太平記』には自刃直前の赤橋守時が中国の古典を引用して縷々感懐を述べる場面がありますが、実際に戦闘の渦中に置かれた守時がのんびりと中国古典を引用したりするはずがないので、ここは『太平記』作者の創作です。
ところが谷口氏は、この守時エピソードに基づき、「たとえ、鎌倉が陥落せず、北条得宗の専制体制が安泰であったとしても、尊氏の寝返りがわかった時点で、守時はおそらく登子をみずからの手で殺したにちがいない。いや、みずからの手で殺さざるをえなかったであろう。兄守時もまた、他に選択する道はなかったはずである」と想像を重ねます。
谷口説は学問的には何の価値もありませんが、『太平記』はここまで歴史研究者を惑わせるのか、という事例の一つとしては興味深いですね。

(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4961756736d97a173f9a995df7c06a75

また、谷口氏は『太平記』の「継母の讒」エピソードに基づき、登子が直冬に冷酷だったとされるのですが、これも亀田俊和氏の直近の研究に照らすと、「継母の讒」自体が『太平記』の創作と考える方がよいのではないかと思われます。
ただ、登子に対する歴史研究者の関心が極めて低かった理由のひとつとして、この「継母の讒」エピソードの影響はかなり大きかったようにも思われます。

(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f523dc6318081a68d0d6786e192c21b2
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四月初めの中間整理(その12)

2021-04-14 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月14日(水)09時31分9秒

清水克行氏の描く尊氏は「病める貴公子」、即ち精神的に複雑に屈折した血統エリートですが、私は尊氏を恵まれた環境でのびのびと育った教育エリートと考えています。
この点を説得的に論証したいと思って、尊氏の周辺、特に女性たちに注目してみたところ、当初の予想より遥かに充実した知見を得ることができました。
まず最初に調べたのは尊氏の異母兄・高義の母方です。
私は以前、足利貞氏の正室・釈迦堂殿と側室・上杉清子が、高義遺児と尊氏のいずれを足利家当主とするかをめぐって厳しく対立していたと考えていたのですが、この点も根本的な誤りだったかもしれないな、と思うようになりました。
高義の母・釈迦堂殿は金沢顕時と安達泰盛娘の間に生まれていますが、生年も不明で、金沢貞顕の異母姉かそれとも妹かも分かりません。
ただ、母親の安達泰盛娘は法名を無着といい、無学祖元の弟子であって、京都で資寿院という寺を創建するなどして禅宗の発展に貢献した女性です。
私は無着を視野が広く、行動力に富んだ極めて知的な女性と考えています。

高義母・釈迦堂殿の立場(その1)(その2)

無着の履歴は無外如大という、やはり無学祖元の弟子の女性と混同されてしまっていて、非常に分かりにくいところがあるのですが、私は二十年ほど前に山家浩樹氏の論文に即して無外如大についてあれこれ考えてみたことがあります。
今回、釈迦堂殿の母である無着を中心に据えて再考してみたところ、無着は上杉清子や赤橋登子などの尊氏周辺の女性の生き方を考える上で本当に参考になる女性ですね。

(その3)(その4)

釈迦堂殿の母・無着の人生はある程度追えますが、釈迦堂殿の方は少し難しいですね。
経歴はともかく、その思想を窺う史料は全くありませんが、安達泰盛に関する知識や安達泰盛の理念が、娘の無着や孫の釈迦堂殿によって多少理想化されていたかもしれない形で尊氏や直義に伝わった可能性もあるのではないか、と私は想像しています。

(その5)

さて、次に尊氏の正室・赤橋登子について考えてみましたが、これはなかなか長大なシリーズになってしまいました。
まずは清水氏の見解を確認しましたが、清水氏は「尊氏を叛逆に走らせた決定的な要因は、やはり彼自身が北条氏の血をひかない、北条氏と距離のある人物であることにあったのではないだろうか」という立場です。
そして清水氏が描く尊氏像は一貫して「主体性のない男」であり、「主体性のない男」尊氏の「背中を押」して「叛逆に踏み切」らせたのは「上杉氏を中心として、家中で北条氏に特別な恩義を感じることなく、北条氏の風下に立つことを潔しとしないグループ」です。

謎の女・赤橋登子(その1)(その2)

清水氏は妻子を人質に取られた以上「幕府に叛逆するということは、彼女らを見殺しにするということを意味していた」と言われますが、人質といっても別に拘禁されている訳ではなく、足利邸に普通に住んでいただけですから、適当な時期に鎌倉を脱出すればよいだけの話で、実際に登子と義詮はそうしています。
清水氏は「母の実家をとるか、妻の実家をとるか。現代人の感覚からすれば尊氏は身を切られるような重大な決断を迫られていた」と言われていますが、別にそんなことはないですね。
また、妻を保護することと「妻の実家をとる」ことは全く別の話で、実際に尊氏は登子は保護したものの、「妻の実家」の人々は皆殺しにしています。

(その3)
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四月初めの中間整理(その11)

2021-04-13 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月13日(火)21時42分12秒

歌人としての尊氏を検討し始めて「鎮西探題歌壇」まで進みましたが、ここで清水克行氏が『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)で言及されていた『臥雲日件録抜尤〔がうんにっけんろくばつゆう 〕 』享徳四年(1455)正月十九日条に登場する「松岩寺冬三老僧」について検討しました。
私が歌人としての尊氏に拘る理由の一つは、清水著によって矮小化されてしまった尊氏像を修正することにあります。
清水氏が尊氏に関する新史料を発掘された功績は大変なものですが、それと清水氏が導き出した「お調子者でありながらもナイーブ」「八方美人で投げ出し屋」といった尊氏像が正しいかは別問題です。
私は清水氏の尊氏理解は基本的な部分で誤っていると思っていますが、清水氏の誤解の相当部分は『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」エピソードに由来すると思われます。
そこで、そもそもこのエピソードが信頼できるのか、「松岩寺冬三老僧」が誰で、尊氏とどのような関係にあるのかを検討する必要を感じたのですが、清水著には手掛かりはなく、暫く暗中模索状態が続きました。
しかし、いろいろ調べた結果、「松岩寺」は現在は天龍寺の塔頭となっている「松厳院」の前身「松厳寺」で、かつて「鹿苑院末寺」であり、その地は元々「四辻宮之離宮」であって、開基は四辻善成の子の「松蔭和尚」であることが分かりました。
四辻善成は足利義満の大叔父ですから、そのゆかりの寺に尊氏のエピソードが伝えられていることは不自然ではなく、『臥雲日件録抜尤』の「松岩寺冬三老僧」の記事は信頼してよさそうです。

「松岩寺冬三老僧」について
「彼の子息で禅僧となった松蔭常宗は、嵯峨の善成邸に蓬春軒、のちの松厳寺(松岩寺)を開いた」(by 赤坂恒明氏)

さて、この記事によれば「尊氏毎歳々首吉書曰、天下政道、不可有私、次生死根源、早可截断云々」とのことで、尊氏は毎年、年頭の吉書で「天下政道、不可有私」と「生死根源、早可截断」と書いていたそうですが、後者は難解です。
ただ、私はこの表現に一種の自殺願望を見る清水氏の見解にはとうてい従うことはできません。
そこで、清水氏の描く「病める貴公子」としての尊氏像を批判的に検討してみました。

「八方美人で投げ出し屋」考(その1)~(その3)

その過程で問題となったのが尊氏と赤橋登子の婚姻の時期で、清水氏は義詮誕生の元徳二年(1330)をあまり遡らない時期とするのですが、この点については細川重男氏の批判があり、私は細川説が妥当と考えます。

(その4)(その5)

ここで亀田俊和氏の「新説5 観応の擾乱の主要因は足利直冬の処遇問題だった」(『新説の日本史』所収、SB新書、2021)を読んで、直冬について考え直すきっかけを得ました。

「尊氏が庶子の直冬を嫌っていたと書かれているのは、『太平記』だけなのです」(by 亀田俊和氏)

尊氏が庶子の直冬を嫌っていた訳ではないとすると、清水氏が描く尊氏の「薄明のなかの青春」も、ますます奇妙な物語になってきますね。

(その6)

「薄明のなかの青春」の一番の問題は、清水氏が近代的・現代的な家族観・結婚観・「青春」観で中世人を見ている点です。

(その7)

清水氏が「妾腹の二男坊」という表現を繰り返す点も、私は相当に問題だと思います。

「貞顕は、生まれながらの嫡子ではなかったのである」(by 永井晋氏)
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四月初めの中間整理(その10)

2021-04-13 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月13日(火)12時14分41秒

森茂暁氏の『足利尊氏』(角川選書、2017)は、尊氏関係の古文書の分析では最新研究でしょうが、そこに描き出されているのが宣伝文句に言う「これまでになく新しいトータルな尊氏像」かというと、そんなことは全然なくて、むしろ佐藤進一氏が半世紀以上前に描いた古色蒼然たる尊氏像と瓜二つですね。
さて、佐藤氏の「公武水火」論を検討した後、井上宗雄著『中世歌壇史の研究 南北朝期』に戻るべきか、それとも奥州将軍府・鎌倉将軍府をめぐる佐藤氏の「逆手取り」論の検討に進むべきか、ちょっと迷ったのですが、歌人としての尊氏を検討することが、いささか遠回りではあっても『太平記』や『梅松論』などの二次史料によって歪められていない尊氏に近づく最適なルートだろうと考えて、前者の道を進むことにしました。
歴史学の方では歌人としての尊氏は全くといってよいほど研究されていなくて、例えば佐藤和彦門下の早稲田大学出身者が中心となって編まれた『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008)は、二十五人もの分担執筆者がいながら、誰一人として歌人としての尊氏について論じていません。
佐藤和彦氏自身、尊氏に尋常ならざる興味を持っておられたようですが、歌人としての尊氏に特に関心を持たれた様子はなさそうで、これは佐藤氏の立脚する基本的な歴史観(いわゆる「階級闘争史観」ないし「民衆史観」)の限界を示しているように私には思われます。

全然すべてではない櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』

ところで、この頃、清水克行氏『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)に出ていた『臥雲日件録抜尤〔がうんにっけんろくばつゆう〕』の享徳四年正月十九日条が気になって、少し調べていたので、

緩募:『臥雲日件録抜尤』の尊氏評について

という投稿をしてから、井上著に戻りました。
井上著については(その5)で「第二編 南北朝初期の歌壇」の「第五章 建武新政期の歌壇」の途中まで進んでいましたが、勅撰歌人を目指していた若き日の尊氏、そして尊氏の「北九州歌壇」での活動を確認するために該当箇所に戻りました。
尊氏は二条為冬という歌人と交流があったので、歌壇での為冬・為定の争いに関連して、この点も少し触れておきました。

井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その6)

森茂暁氏は尊氏の勅撰集初入集歌に関して、頓珍漢なことを言われていますね。

(その7)

ついで「北九州歌壇」で生まれたと思われる『臨永集』について概観しました。
「和歌四天王」の一人、浄弁が編んだと思われる私撰集『臨永集』は作者に武家歌人が多いのが特徴で、尊氏も三首入集しています。
なお、私は尊氏が元弘三年(1333)になって初めて大友貞宗と接触したのではなく、「北九州歌壇」の中で、二人が既に交流していた可能性も充分あるのではないかと思っています。

(その8)(その9)

「北九州歌壇」は井上氏の用語ですが、中世九州での文芸活動に詳しい川添昭二氏もこの歌壇(川添氏の用語では「鎮西探題歌壇」)について検討されているので、これも紹介しておきました。

川添昭二氏「鎮西探題歌壇の形成」(その1)(その2)
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四月初めの中間整理(その9)

2021-04-13 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月13日(火)10時46分13秒

従来、護良親王は後醍醐により征夷大将軍を「解任」、すなわち一方的にその地位を剥奪されたと考えられてきましたが、「解任」を裏付ける史料はなく、護良が元弘三年(1333)八月末ころに「将軍宮」といった称号を使わなくなったことが分かっているだけです。
そして、約一年の空白があって、建武元年(1334)十月に護良は逮捕・監禁されます。
「解任」後、直ちに護良が逮捕・監禁されてくれたら二人の関係は非常に分かりやすいのですが、この空白期間はいったい何なのか。
ちなみに白根靖大氏(中央大学教授)などは護良の逮捕・監禁が元弘三年十月のことだと誤解されていますね。

南北朝クラスター向けクイズ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f646366405cf851acf7b8cf9ee85c1b
南北朝クラスター向けクイズ【解答編】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6d0f6f585a180760d494ad4f9b0c01f

白根氏の錯覚の元をたどると佐藤進一氏の「公武水火の世」論に至るのですが、佐藤氏は『太平記』とともに『梅松論』を妄信していて、『梅松論』の作者を「一人の歴史家」などと呼んでいます。
しかし、『太平記』と同様、『梅松論』もそれほど信頼できる書物ではないばかりか、『太平記』の作者が相当なレベルの知識人であるのに対し、『梅松論』の作者はせいぜいルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。

「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

佐藤氏は『太平記』の「二者択一パターン」エピソードを信じ、かつ『太平記』流布本に従って護良の帰京は六月二十三日とするので、征夷大将軍任官も二十三日となります。
とすると、せっかく征夷大将軍に任官した護良が「解任」されるまでは実質僅か二か月であって、その僅か二か月の間に後醍醐・護良・尊氏間でものすごい政治的闘争があって、結局護良が敗退した、という極めて忙しいスケジュールになってしまいます。

佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ce17b3011e58911b01615de3e15c31
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77c04b04be9f0c36d0f780efee94d1e3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/786499f16170be4f041762c180b82c23

そして、この僅かな期間に「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」といった法令も出されていて、この法令の性格を巡っては佐藤氏と黒田俊雄氏、小川信氏の間で古い論争があります。
私も「旧領回復令」について少し書いていますが、それは後醍醐と護良の人間関係に着目した場合、佐藤説には何とも不自然な感じが漂うといった印象論に過ぎません。
このあたり、旧来の議論の評価は私には荷が重いのですが、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)の最後の方に、「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」、そして「綸旨万能主義」や雑訴決断所の機能などに関する近時の学説が簡潔に整理されていたので、少し紹介してみました。

美川圭氏『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e989657e9472e017aebd35c8dd0841e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932a4ebec574341dd46db74ab4c70443

また、私は吉原弘道説が後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思っているのですが、ただ、九大系の大御所・森茂暁氏は未だに頑固な佐藤進一派ですね。
森氏によれば、建武新政発足の当初から後醍醐・護良・尊氏の三つ巴の緊張状態がずっと続いていて、護良が失脚しても「後醍醐にとっては依然として問題は解決され」ず、「中先代の乱を契機に」、「尊氏と後醍醐との政治路線の食い違い」が「表面化したことはまちがいない」のだそうです。
ただ、森氏のこのような認識は『梅松論』に大きく依存しています。
森氏が一次史料の取り扱いには極めて厳格なのに、『太平記』や『梅松論』のような二次史料に対しては極めて甘いことが私にはどうにも不思議なのですが、この点でも森氏は佐藤氏の正統的な後継者ですね。

「発給文書1500点から見えてくる新しい尊氏像」(by 角川書店)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/47c3a5af51f71a59ad6472f5f65492c1
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四月初めの中間整理(その8)

2021-04-12 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月12日(月)11時06分33秒

既に「四月初め」ではなくなってしまいましたが、今さらタイトルを変更するのも面倒なので、このまま数回続けるつもりです。
歴史学と国文学を跨いであちこち手を広げて来たので、自分の頭を整理することが一番の目的ですが、リンクの都合も考えています。
今までも参照のために特定の投稿にリンクを張ることは頻繁に行ってきましたが、数が多い場合には手間ばかりかかって分かりにくいので、ひとまとまりの話題については今回の中間整理の投稿にリンクを張るようにしようと思っています。
さて、私はこの掲示板の主たる読者を歴史研究者と想定しているので、歌人としての尊氏を検討するに際して、国文学研究者には不要な基礎的事項も改めて確認しておきました。
その作業は主として井上宗雄氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987)に依拠しています。
井上著を引用した最初の投稿が次のもので、タイトルを井上著のままにしておけばよかったのですが、妙に凝り過ぎてしまいました。

「聞わびぬ八月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声」(by 後醍醐天皇)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cc6c2dccd1195ee9ba285085019fc05a

ついで井上著に後醍醐による珣子内親王の立后への言及があったので、この点についての歴史学の最近の進展について少し触れておきました。

「中宮が皇子を産んだとなれば、それも覆る可能性がある」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fcdc635cb066767fab95c29432fd9c41

この後、事実上の「その3」で恒良親王の立太子に触れて、事実上の「その4」からタイトルを変更しました。
そして「その5」に尊氏が登場します。

「先に光厳天皇が康仁を東宮とし、後に光明天皇が成良を東宮とした公平な措置」(by 井上宗雄氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d36788a856c4f606023cc810573c542c
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(事実上の「その4」)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7033564fcc0b9a7ae425378f77af987e
(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7df6a7439420b2aabfe07eef58997dbe

ここで井上著の紹介を中断して、護良親王について少し論じました。
私は細川重男氏が史料的根拠なく「むしろ幕府を開く可能性は、源氏の足利尊氏よりも、皇族の護良親王にあったと言えよう」と主張されているのかなと思ったのですが、呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018)を見たところ、呉座氏も細川氏と同様の主張をされています。
そして、その根拠として、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたことを挙げられています。

「後醍醐にとって、幕府を開こうとする護良親王は、そのようなそぶりを見せない尊氏よりも脅威だった」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8bcd536895cd87d1f5a532065d002158

そこで、護良が正式に征夷大将軍に任じられる前に「将軍家」を「自称」していたか否かについて、森茂暁氏の「大塔宮護良親王令旨について」という論文に即して、少し検討してみました。
森氏の研究によれば、護良親王は六波羅潰滅の直後、元弘三年(1333)五月十日付の令旨で「将軍宮」を称しています。
森氏は護良帰京をめぐる『太平記』の「二者択一パターン」エピソードに縛られているので、これが「自称」だとされるのですが、『太平記』を全く無視して、森氏が綺麗に整理された護良親王令旨の一覧表をごく素直に眺めれば、護良は「父帝の暗黙の了解」ではなく、正式の了解を得て征夷大将軍に任官したと考える方が自然ではないか、と思われます。
幕府が相当危なくなっているぞ、と多くの人が不安に思っている時期に、後醍醐が守邦親王から征夷大将軍の地位を奪って護良親王に与えたとなると、鎌倉幕府はもはや支配の正統性を失った存在なのだ、というけっこう強力な政治的・軍事的なアピールになって、親幕府側の武士に一層の心理的圧力を加えることが可能になります。
私は護良親王が僅か数か月間で征夷大将軍を解任された後も後醍醐との関係が決裂しなかった理由について、二人にとって征夷大将軍など名誉職的な地位であったからと思っていましたが、しかし、より正確には、征夷大将軍は討幕活動の最中には極めて重要な政治的・軍事的な意味を持ったものの、天下「静謐」が達成された結果、その重要性が低下し、護良が後醍醐と合意のうえで征夷大将軍を辞職したのではないかと再考しました。

森茂暁氏「大塔宮護良親王令旨について」(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03c87ed5d3659ae5cf21bff4531d6265
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2cfa778a3d9a8aa4b68f8e3fbcb5185d
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四月初めの中間整理(その7)

2021-04-11 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月11日(日)13時57分12秒

尊氏が鴆毒で直義を毒殺したという『太平記』のエピソード、田中義成・高柳光寿・佐藤進一・佐藤和彦・伊藤喜良・村井章介等の錚々たる歴史学者が信じ込んでいるのですが、中でも興味深いのは永原慶二氏の見解です。
歴史学研究会の重鎮で、容姿端麗、文章も極めて明晰な永原氏の『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)を読んでみたところ、いくら一般書とはいえ、ずいぶん安っぽい活劇風の文章が続き、永原氏の別の顔を見た感じがしました。

永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ca2ccc6f85cfed88d01dc069dfe90bd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d6e52e7952139f28d673368f17f89b0b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a22c3f571c22453c54d08f5fd20d160f

南北朝時代を現実に生きた「民衆」に比べると、永原氏を代表とする現代の生真面目な実証主義の歴史研究者たち、特に「科学運動」や「民衆史研究」が大好きな左翼インテリの歴史研究者たちは、『太平記』の作者にとって、どんな作り話にも感動してくれる理想的な読者・聴衆であり、良いカモだったカモしれない、と私は思います。

(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e51727326e03b4432bf1c159dba14ca8

さて、私は『太平記』の征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードをいずれも創作と考えますが、では、『太平記』が、建武の新政の入口と出口という重要なポイントに、こうした創作エピソードを置いた目的は何か。
私はそれを、建武の新政において後醍醐と尊氏は最初から最後まで対立していた、「公家一統」などというのは出発点から極めて無理の多い体制であって、所詮は短期間で崩壊する運命だったのだ、という歴史観を広めるためだったと考えます。
永原氏は、このような「『太平記』史観」のプロパガンダを最も素直に受け入れた研究者の一人と思われますが、では、このようなプロパガンダにより、どのような歴史の実像が消されてしまったのか。
私が考える建武新政期の実像は永原氏と正反対で、後醍醐と尊氏は最初から全く対立しておらず、後醍醐の独裁どころか実際には後醍醐と尊氏の共同統治といってもよい公武協調体制だった、しかし尊氏は権勢を誇らず、極めて控えめな立場で後醍醐の理想の実現に実務的に尽力していた、というものです。
「建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた」のは、むしろ足利家内部の尊氏派(公武協調派)と直義派(武家独立派)の対立であって、中先代の乱をきっかけに尊氏派が直義派の説得に負けて、足利家が武家独立派で一本化された、と私は考えます。

(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/170f21101bf62fca93341b8fe4239f88

このように考えると、天龍寺の建立なども従来の諸学説より合理的な説明ができるのではないかと思います。

「尊氏がこの寺の建立にかけた情熱は常軌を逸している」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/57f58c8bb19e2bba62a18017497c8651

そして、私は後醍醐と尊氏の人間関係の核心は和歌の世界に鮮明に現れていると考えているのですが、歌人としての尊氏を検討する前に、後醍醐と尊氏の関係について、呉座勇一氏編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)に基づき、近時の学説の状況を確認しておきました。

「支離滅裂である」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/622f879dac5ef49c38c9d720c9566824
「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61b3c1e6855c84111ec08862a7c0327b

呉座氏は「戦前以来の公武対立史観と戦後歴史学の基調である階級闘争史観が結びついて、復古的な公家と進歩的な武家が対立する図式が強調され、「建武政権・南朝は、武士の世という現実を理解せず、武士を冷遇したから滅びた」という評価が浸透した」とされますが、この戦後歴史学のいわば「保守本流」ともいうべきの歴史観は、実は『太平記』の歴史観と瓜二つ、全く同じですね。
従って、戦後歴史学は『太平記』と極めて親和的です。
他方、最近の学説は、これも呉座氏が強調されるように「足利尊氏は建武政権内で厚遇され、後醍醐天皇とも良好な関係を築いており、主体的に武家政権の樹立を志向していたとは考えられない」という認識で概ね一致しているようですが、護良親王の位置づけについてはどうなのか。
私の見るところ、後醍醐と護良との関係については、呉座氏や細川重男氏を含む殆どの研究者が「『太平記』史観」の影響から脱しておらず、脱出の可能性も見えていないように思われます。

「「建武政権・南朝は異常な政権」という思い込みから自由になるべき」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/894b71cf91605248a63c039c58a8f549
「「史料は無いが、可能性はある」という主張は、歴史研究において禁じ手」(by 細川重男氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8af9d296e77523b21f345d6f27ab22c
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四月初めの中間整理(その6)

2021-04-10 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月10日(土)09時29分20秒

従来、存在そのものが「通説」であった佐藤進一氏は、征夷大将軍が「諸国の武士の帰服をもとめるうえにもっとも有力な無形の権威」であって、尊氏が鎮守府将軍の「称号を与えられたのは、やはり高氏の要望の結果であり、あるいはかれが征夷大将軍を切望したのにたいして、後醍醐はむげにこれを拒むことができずに、一段低い権威の鎮守府将軍を与えたのかもしれない」とされていました。
この点、吉原氏は鎮守府将軍は「有名無実の官職」ではなく、「建武政権下でも鎮守府将軍職は、重要な官職と認識され軍事的権限と不可分の関係にあった」とされます。
私も基本的には吉原説に賛成ですが、ただ、吉原氏は鎌倉時代を通して鎮守府将軍も相当の権威が維持されていたことを前提とされているようです。
しかし、後醍醐は鎮守府将軍を「本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である」といった古色蒼然たる由緒から切り離して、新たな意味を与えたと考える方が自然ではないかと私は思います。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その13)

さて、『太平記』では護良親王も征夷大将軍を強く望んだされていますが、とすると護良が任官から僅か数ヵ月で解任されたにもかかわらず、その時点では特に後醍醐に反抗しなかったらしいことが奇妙に思えてきます。
この点、私は元弘三年の時点で征夷大将軍は別にそれほどの重職とは関係者の誰一人思っておらず、後醍醐は単なる名誉職としてこれを護良に与え、その僅か二・三ヵ月後、後醍醐はそれなりの理由をつけて護良に退任を求め、護良も素直に了解したのではないか、と考えました。
ただ、従来、護良は正式に征夷大将軍に任じられる前に既に征夷大将軍を「自称」していたとされていたのですが、私は「自称」ではないのではないか、と考えるようになり、その場合、「名誉職」に止まらない可能性も想定されます。
この点は、少し後で改めて論じています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)~(その16)

このように十六回に渡り2002年の吉原論文を検討しましたが、この論文は多くの歴史研究者が「建武政権における足利尊氏の立場」を見直す転機となったものの、吉原氏自身はその後、あまりこの関係の研究を深めることがなかったようですね。
私の場合、成良親王の征夷大将軍任官時期について従来の定説に疑問を抱いたことが「建武政権における足利尊氏の立場」に関わるきっかけでしたが、成良親王は『太平記』に記されたその死の状況、すなわち同母兄弟の恒良とともに足利尊氏・直義によって鴆毒により毒殺されたというエピソードでも興味深い存在です。
そして、このエピソードは、同じく『太平記』に記された尊氏による直義の鴆毒による毒殺というエピソードを連想させます。

帰京後の成良親王
同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)~(その3)

私は成良・恒良親王が尊氏・直義に毒殺されたという『太平記』のエピソードを創作と考えますが、そうすると尊氏が直義を毒殺したというエピソードも創作ではなかろうかという疑いが生じてきます。
実はこの点、中世史学界の重鎮と呼ぶべき複数の碩学から清水克行氏のような中堅・若手まで、極めて多くの歴史研究者が『太平記』の直義毒殺エピソードを史実と考えていて、ちょっと嘆かわしい状況です。

「直義の命日が高師直のちょうど一周忌にあたることから、その日を狙って誅殺したとする見解もある」(by 清水克行氏) .
峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)(その2)
「歴史における兄弟の相克─プロローグ」(by 峰岸純夫氏)
百科事典としての『太平記』
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四月初めの中間整理(その5)

2021-04-08 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月 8日(木)09時01分48秒

2002年の吉原論文の「はじめに」に置かれた「従来の研究では、建武政権の軍事・警察機構についてほとんど手付かずの状態であった。その中で、足利尊氏が鎮西軍事指揮権を公式に有していたとの網野善彦氏の指摘は注目に値する。さらに、網野氏は、通説化してきた政権内における尊氏の否定的な評価に対する見直しの必要性を提言された」という指摘は重要ですね。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aeac37a77f5bef1dc46ab4fab0e07184

「尊氏の否定的な評価」というのは具体的には佐藤進一説ですが、亀田俊和氏らの佐藤説批判が進んだ今日から見ると、佐藤説は典型的な「『太平記』史観」ですね。
大きな虚構を含む『太平記』の枠組みを疑うことなく、あくまでその枠組みの中で厳密な史料批判に基づく分析を行って行くので、一見すると極めて緻密な論理のように見えながら、実際には奇妙に歪んだ議論となっています。
例えば佐藤氏は尊氏が着到状の受理を行なったことを尊氏との個人的な主従関係の設定のためと捉えるのですが、これは誤りで、あくまで後醍醐の委任を受け、後醍醐のために行っているからこそ多くの武士が尊氏の下に集まってくるのであって、尊氏は私兵を集めている訳ではありません。
このあたり、吉原氏は緻密な古文書分析に基づいて、丁寧に論証されています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その4)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bf1d4692a37b7682187aecdf832d5e5e
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813

ただ、私にも吉原説に対する若干の疑問はあります。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d584465ee4d489be9f4e82000a77e4fa

そして、議論は「元弘の乱の戦後処理」に移ります。
後醍醐が帰洛した元弘三年(1333)六月五日に尊氏は「鎮守府将軍」に任じられますが、この地位がどのようなものかが問題となり、網野善彦氏の先駆的な論文「建武新政府における足利尊氏」も少し検討しました。
現在の私は「網野史観」にかなり批判的ですが、網野氏の古文書の博捜と緻密な分析はやはりすごいですね。
ただ、網野氏自身はこの短い論文の視点を特に発展させることはなかったようです。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa67201f95617db5380fa9988c67a99f
網野善彦氏「建武新政府における足利尊氏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/763c88e46033004a9ce28db22286ebe0
吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その10)~(その12)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d786a1c9c3f6ca793b91645bf32f9e1c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2f21d785a86111fa26b5cd3e4f374ec
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/031c49c87e35829cc636a75dc2970f3b
大晦日のご挨拶
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04e3942d265d3296c50decd120ed2dad

そして、年が明けて最初の投稿で若干の整理と今後の予定、特に清水克行氏『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)の批判を行なうことを予告しました。

新年のご挨拶(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/896f6f1d4184ed0b84f204fe8cddc712

「新年のご挨拶」はけっこう長くなってしまったのですが、これは『太平記』とはあまり関係なく、年末に読んだ佐藤雄基氏(立教大学准教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」という論文に触発されたものです。

新年のご挨拶(その2)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c17a2e0b20ec818c1ab0afd80862eb6f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d78d824db0eff1efeecc14e0195184d2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ea75a0c1ebee9f2337b054434882704
新年のご挨拶(補遺)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f7e604e47b3c0e59d1e30df10b5bf02
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四月初めの中間整理(その4)

2021-04-07 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月 7日(水)10時09分41秒

征夷大将軍については2004年に国文学者の櫻井陽子氏が「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」(『明月記研究』9号)という論文を発表し、中世史研究者に衝撃を与えました。
私が何となく踏み込んでしまった「『太平記』史観」の世界にも櫻井氏の指摘を応用できそうな部分があって、それは二つの「二者択一パターンエピソード」です。
『太平記』には信貴山に立て籠もった護良親王が後醍醐に征夷大将軍任官と尊氏追罰の二つを要求し、後醍醐は尊氏追罰を拒否した一方、「征夷将軍の宣旨」を下して護良を宥め、護良も了解して帰洛するという話が出てきます。
また、中先代の乱に際し、関東へ下向する尊氏が後醍醐に征夷大将軍任官と「東八ヶ国の管領」の二つを要求し、後醍醐は征夷大将軍任官は拒否する一方、「東八ヶ国の管領」は許可するという話が出てきます。
この二つのエピソードでは、後醍醐へ二つの要求がなされ、後醍醐はひとつだけ勅許するというパターンが共通していますが、いずれのエピソードでも後醍醐・護良・尊氏の三人全員が征夷大将軍を非常に重い存在と認識していることを前提としています。
しかし、このような認識は足利家の「支配の正当性」を確立するために行われた宣伝戦略によって形成されたものではなかろうか、というのが私の基本的な仮説です。
そこで、この仮説を検証するために二つの「二者択一エピソード」を検討してみました。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462

最初に検討したのは護良親王のエピソードで、護良が信貴山から帰洛した月日について従来の学説を整理し、『増鏡』に記された元弘三年(1333)六月十三日説が正しいだろうと考えました。

「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52
護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9fec18d6e38102c64a29557b42765002
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04cda2bd6423c12bba2963c1f71960e1
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

ここでちょっと話題を変えて、荒木浩編『古典の未来学 Projecting Classicism』(文学通信)に掲載された谷口雄太氏の「「太平記史観」をとらえる」という論文を少し検討してみました。
私は谷口氏と問題意識を共有しますが、谷口氏が提示された「「太平記史観」の超克へ向けた具体的な方法」には批判的です。

『古典の未来学』を読んでみた。(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/384b125bc3a1a4f2d42f4d21b9b6385d
【中略】
『古典の未来学』を読んでみた。(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3fafc43a5b77355ee906434193e6fb35
論文に社交辞令は不要。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9edff0971aa758cfeb4e3276cf926f6

そして征夷大将軍の問題に戻って、吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場」という論文を十二月下旬から年を越して一月上旬まで、全十六回に渡って検討してみました。
先ず、護良の帰洛が六月十三日だったとすると、この時期の護良・尊氏間の対立は『太平記』の創作となります。
そこで、建武新政期に尊氏と護良の関係がどのように変化したのかを吉原論文に即して検討してみました。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aeac37a77f5bef1dc46ab4fab0e07184
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/300eabcb23e83c14b1ce35d705dc23ce
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d1dd5123eeb460e1b8701cd9cfe6b08a
「ポイントとなるのは「遮御同心」である」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bdd807a1977d7e651e4fb6a56a81f192
「大友貞宗の腹は元弘三年三月二〇日の段階ではまだ固まっていなかった」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d5dfc5df2b095e05c6da24a62ee1e33
「このわずか一か月有余の大友貞宗の変貌奇怪な行動」(by 小松茂美氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe5560701dd33e1fefa4d23a6ebf9f42
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四月初めの中間整理(その3)

2021-04-05 | 四月初めの中間整理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月 5日(月)10時24分28秒

『大日本史料 第六編之二』は成良親王が征夷大将軍に任じられた時期について建武二年八月一日と断定していますが、少し調べてみたところ、『相顕抄』に基づくこの記述は信頼性に乏しいことが明らかでした。
この頃まで、私はあくまで国文学の範囲内で『太平記』について何か新しいことを言えればよいな、程度の気持ちでいたのですが、しかし、成良の征夷大将軍就任時期の問題は中先代の乱に際して尊氏が本当に征夷大将軍の地位を望んだのか、という新しい疑問のきっかけとなりました。
更に近時、呉座勇一氏や谷口雄太氏が論じておられるところの「『太平記』史観の克服」という課題にも関連してくることになったので、私の問題意識は国文学というより歴史学の方に集中することになりました。
とにかく従来の歴史学者にとって共通の盲点となっていたのが成良親王の征夷大将軍就任時期のように思われたので、私は改めてこの問題を相当しつこく検討してみました。
結果的に、この問題の解明に最も役立ったのは桃崎有一郎氏の「建武政権論」(『岩波講座日本歴史第7巻 中世2』、2014)という論文なのですが、私の結論は桃崎氏とは異なるものでした。

「(鎌倉将軍府は)制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fd0e1db7797023f427b1678eefaa60e
「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a
「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea248014a2858bfa1018cd6ee6c824e
「得宗の家格と家政を直義が継承」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3beb01268e2e2003427f19077e25c35a
護良親王の征夷大将軍解任時期との関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe78f236a9c90bb5ae313028bd0e3fed
成良親王の征夷大将軍就任時期についての私の仮説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e260a5e387875c10aefd0577bab9121

ここまで来て、南北朝史研究をリードする森茂暁氏と亀田俊和氏が共に注目されている直義下知状を検討する必要が生じ、古文書学には全くの素人で、『南北朝遺文 関東編』を手に取ったことすらなかった私が若干の古文書学的研究(?)をすることになりました。
その結果、私は建武元年二月五日が成良の征夷大将軍就任日の可能性が高いのではないか、という一応の結論を得ました。
これが正しいかはともかくとして、不動の定説であった建武二年八月一日説(田中義成説)は、実際にはかなり脆弱な基盤の上の推論であったことは明らかにできたのではないかと思います。

「前述の直義下知状は、その唯一の例外である」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d81f559d0c26eb98ee65324512ff7c0c
「大御厩事、被仰付状如件、 元弘四年二月五日 直義(花押)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9359c9afe80e23d85454c1e42ee4cf30
人生初の『南北朝遺文 関東編』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b

さて、以上の検討の結果は、意外にも桃崎説に近い部分もあったのですが、しかし、桃崎氏は征夷大将軍という存在を非常に重いものと捉えているのに対し、成良親王に関する近時の諸学説を概観した私は、建武政権期の征夷大将軍という存在は結構軽いものだったのではないかな、という印象を受けました。
建武政権期を生きた人々は征夷大将軍をけっこう軽く認識していたのに、むしろ後世の歴史学者が、それをけっこう重大なものと認識しているのではなかろうか、という疑いが生じてきた訳です。
そういう目でもう少し視野を広げてみると、例えば征夷大将軍を解任された後の護良親王の位置づけなども、ちょっと不思議に思えてきました。
そこで、護良親王の検討を始めました。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22bc2fda80bb8070e6da5425f64f3316
【中略】
征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5290706102cdc152ca6ace8485c7f606
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