学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「自戒を込めて」(by 小川剛生氏)

2014-04-08 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 4月 8日(火)10時12分41秒

>筆綾丸さん
桜井英治氏と小川剛生氏は、確かに以前は「義満が光源氏幻想を生きた」みたいな訳の分からないことを口走っていたのですが、少なくとも小川剛生氏はそのような考え方を撤回していますね。
河添房江氏はご存知ないようですが、『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年)には次の記述があります。(p257)

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光源氏は先例にならない

 ところで、近年、義満の行動は、源氏物語を意識していたとみる向きもある。とくに光源氏は栄華の絶頂に「太上天皇になずらふ御位」を賜って、以後、「六条院」と院号で呼ばれていることから、臣下が上皇となる先例たり得たとするものである。
 しかし、この一件においては、義満の年頭に光源氏があったとするのはどうであろうか。「太上天皇になずらふ御位」とはいかなるものか、さまざまに穿鑿されてはいる。もっとも、中世最高の水準にある注釈書、一条兼良の花鳥余情が「太上天皇と号せぬばかりにて、院司・年官・年爵・封 戸などは太上天皇に一事かはる所なし。これによりてこの物語に薄雲女院(藤壺中宮)ならびに六条院の御事には太上天皇になずらふるといふ詞をそへたり。これはまことの脱屣(退位)の御門の尊号にあらざるが故なり」と明確にする通り、太政天皇と同格の待遇を与えられたゆえ、院号をもって称されたと解すべきである(女院と同様である)。義満はあくまで尊号を求めていたのであるから、先例とするには足りない。そもそも、後亀山院への尊号宣下すら、荒暦によれば、過去の史実を踏まえたシビアなものであり、物語を先例とするような悠長な雰囲気はなかったであろう。
----------

まるで他人事のような記述ですが、小川剛生氏は『南北朝の宮廷誌』(臨川書店、2003年)では次のように書かれています。(219p以下)

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 先日、ある中世史研究者の方と話をしていた時、足利義満が『源氏物語』を読んでいたという記録はないか、と尋ねられました。まあ義満が熱中したという明徴はないけれど、あの頃なら梗概書がたくさんありますし、『河海抄』の著者もすぐ側にいますから筋くらいは熟知していたのでは、と答えると、政治的な軌跡を眺めると義満の脳裡には光源氏の姿が浮かんでいたのではないか、周囲の人たちも物語の登場人物そのままではないか、といくつかの例を挙げられました。
 なるほど、光源氏は澪標巻で右大将から内大臣に昇進して権力を掌握し、やがて冷泉帝の実父として(それは絶対の秘密でしたが)太政天皇に准ぜられて六条院という院号を奉られるのですが、これは義満が後小松天皇の父として法皇に准ぜられる過程によく一致します。同じく後小松の准母として女院となった妻の北山院康子(裏松資康の女)は紫の上に対置されます。夫より年長の正妻がいること(義満の正妻は康子の伯母にあたる業子で、義満より七歳上で早く寵を失った)、実子がいないこと、北山に縁が深いことなど、紫の上と奇妙に共通する点が多いのです。
 その驥尾に附していえば、もはやただのこじつけになってしまいますが、二条良基は、光源氏の後見で岳父でもあった摂政太政大臣に相当するようです。(下略)

「北山に集う人々」

ということで、百八十度、見解が変わっていますね。
小川氏は、『足利義満』の上記引用部分に続けて、

---------
 中世、源氏物語が強い発信力を持ち続けたことは喋々するまでもない。実際、源氏物語を意識したとおぼしき文学作品は枚挙に遑がない。王朝盛代の最良の遺産として、物語の内容は公家の「先例空間」のうちに入り込み、あたかも現実が物語を追うように叙述する手法もとられている。鎌倉時代の宮廷の歴史を源氏物語と重ねつつ描いた増鏡などはその好例であろう。しかし、それは創作という前提があるからで、現実社会において源氏物語の世界を再現したとまでは、断じがたいようである。あらゆる文化的創造の根源に源氏物語があったと見るのは、あながち間違いではないにしても、抑制した姿勢と、丁寧な考証が求められる。自戒を込めて次の文章を読まなくてはならない。「作品に刻印された『源氏物語』の例をどれほど集めてみても、それはそれで貴重な仕事ではあるにせよ、源氏愛好熱の高さは文学としての権威を確かめることなのであって、表現の対象たる個別の行事や儀式が、『源氏物語』を典拠として計画実施されたことの証左にはならないのである」(高田信敬「朱雀院の行幸」)。
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と書かれていて、この「自戒を込めて」の六字を見て、私はニヤニヤ笑ったのですが、果たしてこれだけ読んで小川氏が自説を撤回したことに気づいた人がどれだけいたのか。
最後の高田信敬氏(鶴見大学教授)の論文は森一郎ほか編『源氏物語の展望 第十輯』(三弥井書店、平23)に載ったものだそうですが、小川氏は平成23年(2011)になって、高田信敬氏の教示を受けて初めて自説の誤りに気づいたのですかね。
また、桜井英治氏は今でも「義満が光源氏幻想を生きた」みたいな妄想を抱いているのでしょうか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「中世幻想交響曲」 2014/04/07(月) 08:53:17
小太郎さん
http://forkn.jp/book/7378/page/1
佐野眞一氏の『渋沢家三代』は、いま手元になくて確認できないのですが、「にこやかな没落」は、「私の家はほとんど鼻歌まじりと言いたいほどの気楽な速度で、傾斜の上を滑りだした。」(三島『仮面の告白』)や、「平家は明るい。明るさは滅びの姿だろうか?」(太宰『右大臣実朝』)などを意識しているのかもしれないですね。


---------------------
むしろ義満が国内でねらっていたのは、『源氏物語』の光源氏、つまり准太上天皇の再来のような立場であったのであろう。自分の妻の日野康子を後小松天皇の准母(女院)とし、義満自身も後小松天皇の父親代わりとなり、臣下の立場を超えた権力・権威をふるおうとしたのである。義満が光源氏幻想を生きたといわれる所以でもある。(中略)
和と漢の文化の統轄者としての義満は、その点でも『源氏物語』の光源氏像の後裔であり、再来であったといえよう。
そもそも、この北山殿行幸じたいが、『源氏物語』の藤裏葉巻の六条院行幸をイメージさせるもので、光源氏のような院政になぞらえた政治支配を、義満が後小松天皇行幸という儀礼空間で確認するものであった。(河添房江『唐物の文化史』134~136頁)
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巻末の参考文献には、三田村雅子氏の例の『記憶の中の源氏物語』などがあり(他に桜井英治氏や小川剛生氏の名もある)、「北山クヮルテット」はクィンテット、セクステット・・・と、野放図な拡がりをみせていますね。現在の日本における「源氏学」の目も眩むような(目の覚めるような?)深遠さ。三島の深遠な表現を借りれば、「暗い衝動のように燃え盛る病的な虚栄(?)」。また、どのような読者層を想定しているのか不明ですが、「准母(女院)」という書き方は、准母と女院が同値であるかのような印象を与えてしまいますね。
蛇足ながら、引用文中の「権力・権威をふるおうとした」ですが、「権威をふりかざす」とは云うものの、権威は Gewalt ではないのだから、「権威をふるう」とは云えないのでは? 権力と権威について、国文学者にヴェーバーのような緻密さは期待できないけれども。

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ところで、清盛をはじめとする平家一族の栄華は、高橋昌明氏により『源氏物語』のとある一族に擬えられているが、誰だかおわかりだろうか。その答えは明石一族である。出家した清盛は明石入道に重なり、国母となった中宮徳子は、明石の君と明石の女御(中宮)の両者を兼ねた役割ということになる。そもそも清盛と明石入道は、播磨守という官歴でも共通している。(河添房江『唐物の文化史』97頁)
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巻末の参考文献によると、これは高橋昌明氏の『平清盛、福原の夢』(講談社選書メチエ)に拠るらしいのですが(未読なので不明ですが)、こうなるともう、室内楽を飛び越えて、歴史学・国文学・美学綯い交ぜの「幻想交響曲」のようで、絶版の名曲「交響曲第1番 HIROSHIMA 」(伝佐村河内守作曲)を密室でひそやかに聴くような感じですね。枯尾花も見様によってはお化けに見える・・・。
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「壮大な知の探究の旅」

2010-04-30 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 4月30日(金)01時56分43秒

検索してみたら、毎日新聞の書評で渡辺保氏が『源氏物語とその作者たち』を絶賛していますね。

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小説ならば読む方もこれはフィクションだと思って読む。しかし著者は小説を書いているわけではない。自由な空想をめぐらしながらもシッカリ実証している。実証の上に立つ空想は小説よりもはるかに面白い。ナマナマしい。これは事実に違いない(あるいはそれに近い)と読者に思わせるからである。

http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20100418ddm015070012000c.html

渡辺保氏の「実証」のレベルは相当高度ですね。
ついでに他の書評も眺めてみたら、山折哲雄氏の『愛欲の精神史』を激賞している方もいますね。

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 途轍(とてつ)もなくスケールが大きい。インドから説き起こし、ヨーロッパや中国にまで話を広げ、最終的には日本に帰着する。仏教の経典や西洋の思想書を博引旁証(ぼうしょう)しながら、日本の古典から現代の小説にいたるまで縦横無尽に語る。
(中略)
 自らの感性と体験に即して宗教思想を理解しようとする姿勢は、空海の密教を解き明かす過程でも貫かれている。ルーブル美術館を訪ねた際、著者はおびただしい裸体の彫刻を目にした。そのとき受けた衝撃は、密教に出会った空海の内面を探究するのに役に立った。
 空海密教という試薬を加えると、王朝文学の定性分析は自(おの)ずと結果が出る。ヒンドゥー教に由来し、密教になだれ込んだエロチシズムがどのように『源氏物語』の「色好み」と接続しているか、著者一流の語り口で巧みに読み解かれている。
 女性の愛欲とその行く末について考察するのも忘れていない。圧巻は『とはずがたり』と宗教思想の響き合いについての分析である。性愛の過剰はいつの間にか女人出家へと変わり、最後には鎮魂と懺悔(ざんげ)の交響となる。「女であることの無意味」を生きることを示唆して、壮大な知の探究の旅がここでようやく終わりを告げる。単なる愛欲の歴史にとどまらず、茫漠(ぼうばく)たる時空を超えた文明論であり、深遠な比較思想論にもなっている。

http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2010/04/20100411ddm015070004000c.html

世の中には「壮大な知の探究の旅」を『とはずがたり』で終わらせてしまった山折哲雄氏を「深遠」と評価する人もいるんですね。
この本は確か山折氏が国際日本文化研究センターの第三代所長だった時期に執筆したものですが、日文研には井上章一氏や平松隆円氏など、才能豊かな愛欲研究者が満ち溢れていますね。
井上章一氏が所長になるころには、国際愛欲文化研究センターに改名したりして。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-yamaori-aiyokunohate.htm
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「槻峯寺建立修行縁起絵巻」

2008-11-23 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年11月23日(日)16時39分48秒

石上英一氏は『室町絵巻の魔力』について「美術史の書ながら、室町幕府を舞台にした歴史小説を読むがごとくに引き込まれる」と言われていますが、石上氏が面白いと感じるのは、例えば次のような部分でしょうね(p107)。

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 フリーア本の舞台となるのは、瀬戸内海と剣尾山である。絵巻冒頭、剣尾山に発した霊光は、長洲の浜辺に注がれた。その後、月峯寺の開基に引き続き、長洲浦には遥拝のための燈炉堂が建立され、これは宗教施設であると同時に港湾における船舶の航行を導く灯台の役割も果たしている。さて、ここで日羅が聖徳太子に霊地捜索を命ぜられた理由にもう一度戻って考えてみる。その理由とは、異国調伏であった。つまり、月峰寺開基の主たる目的、そして修験の山に期待された霊験は、外敵からの国土守護ということになる。
 では、明応四年(一四九五)の細川政元にとって調伏すべき異国とはいずこにあたるのか。この時期の東アジアの国際関係を見渡しても、日本が明や朝鮮から直接的に軍事的圧力をかけられていたという徴証はない。むしろ、細川氏は対外貿易を通じて莫大な経済的恩恵を受けていたのである。一体、政元にとって最大の脅威とは何だったのか。
 そこで浮上するのは、西国の雄、大内氏の存在である。(中略)
 京都における大内氏の影響力が拡大するなかで、同氏が百済聖明王の第三子琳賢太子の末裔であるとする家系伝承は、政弘が喧伝したこともあいまって幅広く認知されるようになる。つまり、異国に出自を持つ大内氏と、政治・経済・軍事のすべてにおいて対立する細川氏の関係を考えたとき、異国調伏を行う適地としての剣尾山に対する期待は、大内氏に対する調伏であったに違いない。本絵巻に描かれた日羅は百済の僧侶ということになっているが、『日本書紀』における日羅は肥後国出身、百済王に仕えた高官で、敏達天皇が朝鮮半島対策のために召還した人物として造形されている。つまり、百済の事情に通じた日羅は、百済に対する戦争を行うために必須の存在であった、ということになるだろう。このような日羅と百済の関係を考慮に入れて、明応四年(一四九五)のフリーア本を読み込むならば、瀬戸内海の制海権をめぐって敵対する、百済王の末裔大内氏に対する調伏、という現実的な絵巻製作目的が浮上するのである。さらに付け加えるならば、燈炉堂の建つ長洲の地は、応仁・文明の乱以降、数年にわたり、大内政弘に占領されてきた因縁の地であった。
 修験の魔法による摂津・丹波という分国の支配、そして大内氏を調伏することによる瀬戸内海制海権の確立。絵巻冒頭に描かれた山と海は、山の霊力による海の支配を意味するのである。
----------

私も高岸氏が細川政元に着目したことは慧眼だと思います。
なぜそう考えるかについても、きちんと根拠が示されていますね。
しかし、そこから先は、歴史学ではなく「歴史小説」の世界に入っているんじゃないですかね。
なお、「京都における大内氏の影響力が拡大するなかで、同氏が百済聖明王の第三子琳賢太子の末裔であるとする家系伝承は、政弘が喧伝したこともあいまって幅広く認知されるようになる」という箇所に注記されているのは、須田牧子氏の論文、「室町期における大内氏の対朝関係と先祖観の形成」(『歴史学研究』761、2002年)です。

剣尾山月峯寺
http://www.eonet.ne.jp/~nosegetupoziki/T1.htm
尼崎・大覚寺(律宗)
http://www1.ocn.ne.jp/~sea-8/daikakuji/index.html
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書評の批評

2008-11-21 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年11月21日(金)10時47分37秒

石上英一氏が朝日新聞に『室町絵巻の魔力』の書評を書かれていますね。

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 義満は1394年に将軍を義持(よしもち)に譲り、翌年出家。次いで受戒して自らを法皇に、97年に造営した北山第(きたやまてい)を仙洞(せんとう)御所に擬したという。北山第は西園寺家の地、現在の金閣寺の地で、絵合はここで行われたと著者は推定する。南都の重宝は京に運ばれ、西園寺邸を継ぐ北山第に披(ひら)かれた。絵合に参じた皇族、春日社を氏神とする藤原氏の公卿(くぎょう)らは、秘宝を前に義満と源氏一統の力を再認識したに違いない。

http://book.asahi.com/review/TKY200810140181.html

私は同書に対して、これが学術論文なのだろうか、これを学問と言えるのだろうかという疑問を抱いたのですが、史料編纂所教授・元所長の石上氏は何の疑問もなく楽しく読めたそうで、受け止め方は人それぞれですね。
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貨幣史

2008-10-20 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月20日(月)22時39分40秒    

桜井氏の「非農業民と中世経済の理解」は非常に興味深いので、下に載せた部分の続きも引用してみます。

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 また、それと関連する問題だが、網野氏は南北朝時代の画期性をいうとき、私の信用経済に関する研究をじつによく引用してくれた。おそらく網野氏ほど私の研究を引用してくれた研究者はいないだろう。ところが、それだけ引用してくれながらも、中世の信用経済は十五世紀末をもっていったん沈静化し、近世にはつながらないという主張だけは、一度も引用してくれたことがなかった。そのとき、網野氏はひじょうにセレクティブな引用の仕方をする方だという印象をもったのだが、これは網野氏のいう「文明史的転換」の根幹にかかわる問題だけに、ぜひとも引用し、論評を加えてほしかったと思っている。
 同じような問題でいうと、網野氏は日ごろから学術雑誌にもよく目を通していて、若い研究者の論文もよく引用していた。大先生のなかには最新の研究をほとんどフォローしなくなってしまう方も多いが、その点、網野氏は文字どおり生涯現役で、亡くなる直前まで質の高い研究を世に送りつづけた稀有の歴史家であった。
 ところが、一九九〇年代以降もっとも著しい進展をみせた分野のひとつである貨幣史の成果だけは、ほとんど引用しようとしなかった。網野氏の引用は、固有名詞を出して申し訳ないが、一九八九年九月に発表された松延康隆氏の論文「銭と貨幣の観念─鎌倉期における貨幣機能の変化について」(『列島の文化史』六号)でほぼとまっている。
 十三世紀後半における年貢の代銭納制の普及が宋・元交代という中国国内情勢に端を発しているとする大田由紀夫氏の説はもはや通説といってよいと思うが、これは鎌倉末~南北朝の社会変動と直接かかわってくる問題だけに、本来なら言及せずに済ますというわけにはいかなかったのではないか。
 また十六世紀~十七世紀初頭の貨幣動向に関しては、当時すでに裏長瀬隆氏や黒田明伸氏らの研究があり、網野氏も明らかにその存在を知っていたはずだが、ここでも網野氏はその成果を正面からうけとめることをしなかった。もしその成果をふまえていたなら、江戸幕府が石高制を採用した理由も、「農本主義」云々の問題とはまた違ったかたちで説明できたはずである。(後略)
-------

貨幣史は面白そうですね。
ここに出てくる方の中では大田由紀夫氏と黒田明伸氏の論文をちょこっと読んだだけの全く不勉強な私ですが、少しずつ関係論文を読んで理解を深めたいと思っています。
ところで、桜井氏は十三世紀後半以降の貨幣の急速な普及・拡大が直ちに「呪術性からの解放」にはつながらず、「一世紀ないし一世紀半というけっして無視できない時間的ズレ」を経て、応仁・文明の乱を契機に精神史の変動が起こると考えておられるのだと思いますが、その場合、時間的ズレの原因をどのように説明されるのかが少し気になります。
私としては、日本列島の居住者たちがそれまで経験したことのなかった貨幣のスピード感が社会を根底から揺さぶって、精神史の変動に直接結びついて行ったのではないかという見通しを持っているのですが。
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「呪術性からの解放のエポック」

2008-10-20 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月20日(月)00時08分47秒

ついつい脱線してしまいましたが、桜井英治氏の『室町人の精神』に話を戻しますと、桜井氏の

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 けれども、応仁・文明の乱がはじまるころにはもののけもほとんど目撃されることがなくなった。もののけたちにとっても住みにくい時代がやってきたのである。応仁・文明の乱とは、日本人の精神史にとってそのような呪術性からの解放のエポックでもあったことを、まずここで銘記しておきたい。この転換期を経て、日本の歴史ははじめて近代化への道をしずかに歩みはじめるのである。
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という見解は、もちろん「もののけ」の記録をいくつか見かけたことから導いた結論ではなくて、時期区分論の反映ですね。
桜井氏は「非農業民と中世経済の理解」(『年報中世史研究』32号)において、網野善彦氏が鎌倉末~南北朝時代の画期性を強調し、「民族史的転換」「文明史的転換」「人類史的転換」があったと言われたことについて、次のように書かれています。(p45)

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 網野氏の時期区分論の最終的な有効性については今後の研究のなかでじっくり検証していけばよいと思うが、ただ網野氏の論証プロセスにはいくつか手続き上の不備・不満があって、そのことについては、結論の有効性をただちに損なうものではないにしても、一応認識しておく必要があろう。
 私が研究している流通経済史に即して、そうした疑問を二、三紹介しておくと、これは疑問というよりも、むしろ謎といってほうがぴったりくるのだが、なぜ網野氏がそのときそういう態度をとったのか、いまだに理解できないことがいくつかある。
 たとえば、網野氏のいう「文明史的転換」が、応仁・文明の乱に歴史の大きな分水嶺を認めた内藤湖南の二分論とひじょうに近いことは周知の事実だが、ただ、双方のあいだには一世紀ないし一世紀半というけっして無視できない時間的ズレがある。けれども網野氏はこの時間差についてはほとんど頓着しておらず、もうちょっと画期を引き上げてもよいのではないかという一言で、内藤説を自説のなかに呑み込んでしまう。別ないい方をすれば、十五世紀の扱いがひじょうにぞんざいなのである。私のようにどちらかといえば応仁・文明の乱のほうに画期性を感じている者、あるいは十五世紀をある種突出した時代と考えている者には、それが何とも物足りない。網野氏には、十五世紀をもっと丁寧に扱ってほしかったというのが正直な気持ちである。
----------

『太平記』や狂言、物語草紙の滑稽話などから考えると、私としては「呪術性からの解放のエポック」は南北朝期ではないかと思うのですが、性急に結論を出さず、じっくり考えて行きたいと思います。
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大避神社連歌

2008-10-18 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月18日(土)12時35分4秒

句碑になったという梅原猛氏の作品、「ひょんの実に 似たるうつぼで 流れ着き」は、背景を知らないと意味が分からないし、「流れ着き」で終わっているので、何となく落ち着かないですね。

--------
ひょんの実に 似たるうつぼで 流れ着き
  ハタ迷惑な 怨霊の人
--------

なんて付けるのはどうですかね。
更に続けて、

--------
縄の目に 搦めとられて ぬらりひょん
--------

とか。


「坂越船祭り」
http://kobe-mari.maxs.jp/ako/osakejinja_matsuri.htm

「聖徳太子のブレーンを祀る・大避神社」
http://golog.nifty.com/cs/catalog/golog_article/catalog_004008_1.htm

↓のサイトには「生島の右側に浮かぶ島」の写真があり、その姿がなかなか美しいのですが、地図を見ても生島近くには特に島がないようなので、ちょっと謎です。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/ryokoukioosakejin.shtml
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困った人

2008-10-18 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月18日(土)11時49分4秒

梅原猛氏は『神仏のしづめ』の下に紹介した松岡氏の発言に続けて、「去年(二〇〇五)の五月に赤穂の大避神社に秦河勝の事跡を訪ねてフィールドワークしたのが能に深入りした契機ですが、能というものは本当に素晴らしい。日本文化の精髄じゃないかと思うようになりました」と言われていますが、翌2006年の10月には、大避神社に梅原氏の句碑が建ち、更に今年8月には、「聖徳太子の重臣、秦河勝(はたのかわかつ)を主人公にして、哲学者の梅原猛氏が書き下ろした新作能「河勝」が27日、大阪城西の丸庭園(大阪市)での「大阪城薪能」で初演」されたそうで、相変わらずギルガメッシュ、じゃなくてエネルギッシュな方ですね。

大避神社
http://blog.goo.ne.jp/kue-biko/e/6e631477e8f258e593004aca885a21cb

「梅原猛の原作、和の精神説く」(日経新聞)
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news001540.html

梅原氏が立命館大学で行った講義によると、

--------
室町時代に観阿弥、世阿弥という親子が足利義満に寵愛され、能は盛んになったのですが、観阿弥は川の民。じっと縄文文化を保持していた一族の出身者でした。
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/ritsumei/ro70622a.htm

のだそうですが、なぜ「じっと縄文文化を保持していた」と言えるのか、訳わからんですね。
梅原猛氏の縄文文化論、変なおじさんのタワゴトだった頃は私も面白く読んでいたのですが、地球環境問題が深刻化する時流に乗って、マスメディアの世界でもそれなりの影響力を持つようになってきたようなので、何か妙な感じです。
私としては、いくら頑張っても縄文人の精神文化を復元するのは実際上無理だし、復元したところで特に高度な思想が構築されているわけではないから、地球環境問題の解決等にも役立たないだろうなと思っているのですが、少なくとも表面的には梅原氏への批判は意外と少ないみたいですね。
リンク先は東京大学東洋文化研究所教授・菅豊氏のブログで見つけた梅原氏批判ですが、当然の理性的判断であり、学者はこうであってほしいなと思いますね。

http://suga.asablo.jp/blog/2005/10/25/119632
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~suga/
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変なおじさん

2008-10-17 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月17日(金)00時39分22秒

中沢新一氏に『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)という、古いフランス映画をもじった洒落たタイトルの本があります。
中沢のような胡散臭い人間はだいっきらいだ、という人にとっても、奇矯なレトリックはなく、淡々と網野氏との交流を描いている本なので読みやすいですし、何より網野善彦氏の思想形成過程の一端が窺われて面白いので、けっこうオススメですね。
ところで、私は梅原猛氏の本はかなり読んでいるのですが、中沢氏の著書のタイトルを又借りして私にとっての梅原氏を一言で表現すると、「変なおじさん 梅原猛」となりますね。
頭はものすごく良いのだろうけど、いつも訳のわかんないことを言っている愛すべき奇人、てな感じです。
「九条の会」の発起人になるなど、今ではすっかり朝日文化人と化した梅原氏にも、危険な国粋主義者ではないかと疑いの目で見られていた時代があり、例えば『日本史研究』のバックナンバーを見ると、梅原氏が主導して設立された国際日本文化研究センターへの猛烈な批判や、同センター設立記念講演会に、危険思想が吹聴されているのではないかと偵察に行ったスパイもどきの方の報告が載っていたりして、時の流れを感じさせますね。
『梅原猛「神と仏」対論集第四巻 神仏のしづめ』で久しぶりに梅原猛氏の語り口に接してみたら、朝日文化人となった今でも梅原氏自身は単なる「変なおじさん」だった頃から殆ど変化していなくて、面白く読めました。

『梅原猛「神と仏」対論集第四巻 神仏のしづめ』
http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=200604000161

映画「ぼくの伯父さん」
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/ojisan.htm
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もののけ学者

2008-10-16 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月16日(木)00時34分23秒

『ZEAMI―中世の芸術と文化〈04〉 特集 足利義満の時代』(松岡心平・小川剛生編、森話社)は、巻頭に梅原猛氏のエッセイがどーんと横たわっているので、梅原氏の文章に慣れていない人はきっとびっくりするでしょうね。

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 私は今年八十二歳になったが、最近日本の中世が私に乗り移って困っているのである。かつて四十代の末に、日本古代が私に乗り移って、立て続けに大部の極めて問題的な著書を書かしめた。それが『神々の流竄』『隠された十字架─法隆寺論』『水底の歌─『柿本人麻呂論』である。
 私の学問は「梅原日本学」と言われているが、この日本学は主として古代学であった。ところが最近かつてのように中世が、特に能が、観阿弥や世阿弥や禅竹が、私に乗り移ってしきりにものを書かせるのである。(後略)
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何の予備知識もない人がこの文章を読んだら、「ちょっと危ない人かな?」「ボケ老人?」といった反応になるのではないかと思いますが、梅原氏は四十年前からこんなことばかり言っている一種の名物男ですから、ま、変てこな言動があっても許されるんでしょうね。
さて、『梅原猛「神と仏」対論集第四巻 神仏のしづめ』(角川学芸出版、2008)によれば、松岡心平氏と梅原猛氏の出会いは、「先生と怨霊鎮魂についてお話をしたかったのです。私は能を鎮魂劇と考えています」という松岡氏が梅原氏に手紙を送ったのがきっかけだそうです。
同書には、

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梅原 あなたのような学者がこれまでにいたことはいましたけど、意外に少ないと思います。
松岡 そうかもしれません。そういう意味では、歴史的な実証主義を中心とする能の世界では、私も異端でしょう。私は能の本質や、世阿弥の魂、禅竹の魂に、歴史的なテキストなども使いながら迫りたいと思っています。それには実証主義の限界を破らないと迫れないと思うのです。それをやるとかなり反発がくるという面もあります。でも、そこを考えないことには、何も始まらない。
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といったやり取りがあり、松岡氏には「実証主義の限界」を超えたいという松岡氏なりの切実な事情があるんでしょうね。
ただ、そういう方向に進むと、足もとをすくわれる危険も大きくなりますね。
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grass pillow

2008-10-15 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月15日(水)00時31分51秒

>筆綾丸さん
いってらっしゃい。
私もこれから室町に重点を移すにあたり、足利尊氏に敬意を表して、九州・瀬戸内の尊氏戦跡めぐりでもしようかなと思っています。
鹿児島も行ってみたいですね。

ところで、『容疑者χの献身』を私も観ました。
邦画にあまり興味を持てない私にとって、筆綾丸さんの高い評価がなければ見向きもしないはずの映画でしたが、確かによく出来た作品ですね。
ネタバレになるので書けない部分に後味の悪さは残りますが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「旅」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4792
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『室町人の精神』への違和感

2008-10-14 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月14日(火)00時01分17秒

このところ桜井英治氏の論文をいくつか集めて読んでいるのですが、さすがに東京大学准教授だけあって優秀な方ですね。
『年報中世史研究』32号(2007)に掲載されているシンポジウム「中世史家・網野善彦-原点の検証-」の桜井氏報告部分、「非農業民と中世経済の理解」など、網野氏が本当に言いたかったであろうことを明確に整理した上で、なお網野氏を厳しく批判されており、網野善彦氏の見解は矛盾だらけで訳が分からないと放り投げていた私のような素人にとっては大変参考になりました。
ただ、御専門の流通経済史に関する論文については、門外漢の私のような者でもフムフムと素直に読み進めて行けるのに、一般読者向けに書かれたはずの『室町人の精神』(講談社「日本の歴史」第12巻、2001年)に限っては、桜井氏がこれこそ室町人の精神だと言われる部分に、何故か私はザラザラとした違和感を感じてしまいます。
例えば、「はじめに-室町亭のもののけ」には、以下の記述があります。

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(前略)
 ところでこれはあまり知られていない事実だが、この室町亭は当時有名な心霊スポットであった。室町亭にもののけが出没するようになったのは、義教が室町亭に移ってまもない一四三二年(永享四)ごろからであり、以後、一四五九年(長禄三)ごろまで四半世紀にわたってもののけは出没しつづけた。襲われるのは大概女房たちであり、髪や衣服を切られることが圧倒的に多かった。それはときには野狐のしわざとされ、ときには将軍に捨てられた女房たちの生霊のしわざと考えられた。義政の時代には、義政の母日野重子をはじめ、女房たちがもののけを恐れて室町亭に近づきたがらなかったために、一時室町亭が廃棄されていた時期もある。彼らにとってもののけはそれほど身近で現実性を帯びた存在だったということである。
 けれども、応仁・文明の乱がはじまるころにはもののけもほとんど目撃されることがなくなった。もののけたちにとっても住みにくい時代がやってきたのである。応仁・文明の乱とは、日本人の精神史にとってそのような呪術性からの解放のエポックでもあったことを、まずここで銘記しておきたい。この転換期を経て、日本の歴史ははじめて近代化への道をしずかに歩みはじめるのである。
 室町亭のもののけといえば、義教の嫡男で義政の兄にあたる七代将軍義勝の死がやはり彼らのしわざと信じられていたことにも触れておく必要があろう。義勝はわずか十歳で世を去ったために、十九歳で父義持に先だった五代将軍義量とともに歴史的には影の薄い存在となっているが、当時の人びとは、義勝の死を幕府によって抹殺された足利持氏・一色義貫・赤松満祐らの祟りと解釈したのである。義勝の死の直前、幕府が室町亭に霊媒師を招いて口寄せをおこなったところ、一色義貫の霊は「のびのびになっている一色家の相続を早く実現せよ」と語ったという。
 けれども彼らが発したこれらの言葉は、現代を生きる私たちにとっては少々意外なものであろう。怨霊たちにとっては殺された恨みよりも、家が存続するか否かのほうがはるかに大きな関心事だったのである。このような彼らの価値観をふまえておかないと、彼らの痛みも本当に理解できたことにはならない。彼らが死んでまでこだわりつづけた家とは何か、そのことも念頭においたうえで、さっそく室町時代の歴史をひもといてゆくことにしよう。(後略)
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概説書の執筆にあたって、歴史学者の多くは、概説書は論文とは違う特別の緊張感がある、と言われるようですが、桜井氏の初めての概説書である本書の巻頭言はその3分の2が「もののけ」で占められていて、まあ、ここまで緊張感の乏しい巻頭言も珍しい感じがします。
そして、この程度のことが「室町人の精神」を語る上で本当に必要なことなのか、適切なのかについて、私にはかなり疑問があるのですが、自分自身が勉強不足の段階であれこれ言っても仕方ないので、いつかきちんとした批判ができるように、少しずつ勉強を進めたいと思っています。

桜井英治氏
http://www.c.u-tokyo.ac.jp/jpn/kyokan/new_06_04_sakurai.html
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定家と公経

2008-10-11 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月11日(土)22時42分50秒

三田村氏が「北山の山荘を源氏物語の滝をイメージしながら造園したらしい西園寺公経は、藤原定家の舅であり」と書かれているのを見て、一瞬、何か変だなと思ったのですが、滝の音に紛れて、そのままにしていました。
正確には公経は定家の妻の弟であって、舅ではないですね。
年齢も定家は応保2年(1162)、公経は承安元年(1171)生まれで、定家が9歳上です。
村山修一氏『藤原定家』には、
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政治的・社会的背景が悪化したのと併行して、定家自身の家庭事情にも種々の重要な変化が起った。これよりさき、定家は建久五年のころ、先妻である藤原季能の女を離別し、新たに内大臣西園寺実宗の女を娶ったが、当時西園寺家に対し、遥かに下風に立つ御子左家が縁組したことは、御子左家にとって非常なプラスであった。こうした不釣合な婚姻がどうして成立したか、恋愛によるものか、九条家あたりの仲介によるものか明らかでない。とにかくプラスにはなったものの当面の政局は九条家のみならず、西園寺家にも不利であったから、この縁組も最初はその実効を発揮するに至らず、むしろ民部卿典侍・香(かおる)・為家などの子供が相ついで生れることによって、家計は膨脹せざるをえなかった。
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とあります。
実宗が公経の父ですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/murayama-shuichi-teika-kantoheno-shuchaku.htm

>筆綾丸さん
イタリア語は全然駄目な私ですが、記事をじっと見ていると、Green Fluorescent Protein の発光程度には意味が感じられます。

http://www.corriere.it/scienze_e_tecnologie/08_ottobre_07/nobel_fisica_italiani_traditi_d9993120-946d-11dd-a0d8-00144f02aabc.shtml
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081010-00000078-sph-soci

実は私、イタリア語訳『とはずがたり』を持っていまして、こちらも書かれているであろう内容は熟知しているのでクラゲ並みに理解はできるのですが、いつかきちんと読めるようになりたいと思っています。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「Nicola Cabibbo さん」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4789
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ポールソン 仲代達矢 平相国

2008-10-09 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月 9日(木)16時28分8秒

>筆綾丸さん
南部氏も下村氏も、国籍など意味を持たない世界で生きている人たちですね。
http://www.asahi.com/special/08015/TKY200810080230.html

アマゾンで中村直勝『日本古文書学』(上)を購入しました。
ずっしり重くて、存在感がありますね。
また、松岡心平氏が中沢新一氏の『精霊の王』を激賞していたので購入してみたのですが、昔は面白いと思った中沢氏のレトリックがやたら鼻について、なかなか読み進められません。
中沢氏は昔のままで、自分が変わっただけなんでしょうが。
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_437/yurin4.html

株価暴落の未曾有の経済危機の中、ポールソン財務長官は仲代達矢に似ているなあ、などと思っている私は、ビジネスマンとしてどうなのか。
http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20081009AT3K0900309102008.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「アメリカ人」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4787
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ミナカタ神社の仁王像

2008-10-08 | 高岸輝『室町絵巻の魔力』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月 8日(水)07時26分47秒

>筆綾丸さん
>本年度のノーベル物理学賞
「賞金は1000万スウェーデン・クローナ(約1億4000万円)で、南部氏がその半分を、小林、益川氏が4分の1ずつを分ける」そうですが、微妙なバランスが面白いですね。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20081007-OYT1T00543.htm?from=main1

仁王といえば、先に紹介した伊作太鼓踊りのビデオの冒頭場面、鳥居の前に変なものが映っていますが、これは石造の仁王像ですね。
リンク先は「南方神社」で検索して見つけたサイトですが、大変な充実ぶりです。

http://homepage2.nifty.com/edononagori/fumoto%20izaku.html
http://homepage2.nifty.com/edononagori/fumoto.html

南方神社は諏訪大社の系列で、祭神がタケミナカタだからミナカタ神社なんですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
http://www.synapse.ne.jp/t-fuku/kamisama.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「クォーク
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/4785
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