学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

『月に吠える』も500部

2015-12-26 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月26日(土)10時02分41秒

たまたま少し前に読んだ青柳いづみこ氏の『青柳瑞穂の生涯─真贋のあわいに』(新潮社、2000)で知ったのですが、大正六年(1917)、萩原朔太郎が出した『月に吠える』の初版部数は500部だったそうですね。
詩人・フランス文学者で古美術収集家でもあった青柳瑞穂(1899-1971)は山梨県の地主の家に生まれた人ですが、学業成績がものすごく優秀というほどでもなく、

-------
 大正六年(一九一七)に県立甲府中学校を卒業した瑞穂は、高等学校には進学せず、初恋を経験したり、詩作のまねごとをしたり、暁星中学発行の文法書でフランス語を独習したりしていた。【中略】
 大正八年春、二十歳の年に東京に出てきた瑞穂は、慶応の仏文予科に入学した。当時の教育事情は現在とは違い、東京や京都などの帝大には旧制高校を卒業しなければ入れなかったが、それ以外の者には、私学の予科が門戸を開いていた。ここで二年間勉強すれば大学に進めるのである。慶応予科の文学部の入試は英語と国語の作文だけで、数学がなく、三人に一人の割合で合格していた。このとき瑞穂が隣り合わせたのが、のちの『東洋の満月』の詩人蔵原伸二郎である。
-------

とのことで(p54以下)、ひたすら欧米に追いつくことだけを目指した明治の御代は去り、ある意味社会にも余裕が出てきて、高等遊民も増えた大正デモクラシー期に青春を過ごした人ですね。
青柳瑞穂の詩作の目標となった詩人の一人は13歳上の萩原朔太郎(1886-1942)で、

--------
 「蔵原伸二郎との交遊」によれば、瑞穂と蔵原は、新橋から京橋まで、一軒のコーヒー店にもはいらず、朔太郎を論じながら何往復もしたことがあった。当時朔太郎の詩集は大正六年刊の処女作『月に吠える』のみで、しかもこの詩集は、初版五百部がたちまち売り切れたのに再版しなかったため、古本屋で法外な値段がついていた。仕方なく二人は、朔太郎が室生犀星と編纂していた詩誌『感情』を捜してきては、もっぱら朔太郎の詩を大学ノートに書きうつした。
-------

のだそうです。(p55)
旧制前橋中学で早くも落第し、浪人して入った旧制五高(熊本)でも落第し、転校した旧制六高(岡山)でまた落第し、更に慶応予科では落第する前に退学した萩原朔太郎は群馬県を代表する高等遊民で、裕福な医者の親のスネをかじりつつ詩作とマンドリン演奏に耽り、31歳で出した『月に吠える』ももちろん自費出版、というか親のスネかじり出版ですね。
まあ、萩原朔太郎の場合は一発当たったから良いようなものの、当時の多少なりとも前衛的な詩集は殆ど自費出版で、500部くらい刷って大半は返品の山というのが普通だったのでしょうね。
百年前の高等遊民たちが出した自費出版の前衛的詩集と、現代の歴史学の専門書の出版部数がだいたい同じようなものという事実は、なかなか味わい深いものがありますね。

『青柳瑞穂の生涯─真贋のあわいに』
http://ondine-i.net/books/201

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原因

2015-12-26 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月25日(金)12時39分25秒

>筆綾丸さん
大村氏は断裁に至った原因を丁寧に分析されていますが、まあ、それは700刷って200くらいしか売れなかったときの話で、500が700に伸びなかった原因は単純に値段ですね。
352頁の本が8500円+消費税=9180円では、必要とする人もなかなか手が出せません。
高いから売れない、売れないから高くなるという悪循環で、構造的なものだから個人の努力ではどうしようもないですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「憂きことを 海月に語る 海鼠かな」 2015/12/24(木) 11:26:13
小太郎さん
断裁には豊作の高原キャベツを処分するようなイメージがありますが、500部というと、日本国民の殆ど誰も読まないということで、一読した者は、非国民とは言わぬまでも反国民なのかもしれませんね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%AE%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AA
ラヴェンナにあるダンテの墓は訪ねたことがあります。意味不明の官僚用語「持続可能な発展 Développement durable(仏)」の durable は Durante Alighieri の durante と同じですね。また、アナール派の歴史家 Le Roy Ladurie の Ladurie(La+durie)の durie もたぶん同じで、この姓は「王即ち永続するもの(永代王)」くらいの意味になるのでしょうね。日本の永代供養は有限で、せいぜい数世代で終りだよ、という無常を意味しますが。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433114/
書店で『建築の大転換 増補版』を眺めてみたのですが、伊東豊雄氏はザハ・ハディド氏に負け(さらに隈研吾氏に負け)、鬱積した不満が色々あるようですね。A案もB案も明治神宮外苑にユラユラ浮遊するクラゲのような感じですが、

憂きことを 海月に語る 海鼠かな

という黒柳召波の名句を思い出すとともに、恐れ多くも畏くも、

よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ

皇后に後継者はなく、皇室の和歌はこれから衰微するばかりですね。東宮夫妻には呆れるほど歌才がないですし、召人は勝手に変な歌を詠んでるし・・・Développement durable は望むべくもなく、陛下の御心境は、玉の緒よ絶えなば絶えね、かと拝察します。
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東山千栄子と笠智衆の年齢差

2015-12-04 | 増鏡

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 4日(金)10時05分42秒

>筆綾丸さん
>岡田暁生氏
最近は岩波の『現代の起点 第一次世界大戦』全四巻の共編者になるなど、音楽を超えた活動が目立ちますね。

>『東京物語』
東山千栄子(1890-1980)、笠智衆(1904-93)、原節子(1920-2015)の三人は『東京物語』が公開された1953年の時点でそれぞれ63歳、49歳、33歳ですから、実年齢では東山千栄子より14歳下の笠智衆の老けぶりはすごいですね。
また、この映画を見る限り、東山千栄子はいかにも田舎のお母さん的な純和風の存在であって、かつて商社支社長夫人としてロシア革命直前のモスクワに8年いたという珍しい経験の持ち主だとはなかなか想像できません。
ラネーフスカヤを演ずる姿を舞台で見ていた人は、きっと全く違う印象を受けたのでしょうが。

東山千栄子『新劇女優』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6efb326d3c49463f950caf22065447d8
Bolshevik Revolution
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/046e1ea2baf55c3b2c97d525bb6d2570
「モスコー芸術座へ行くと頭が痛くなるよ」(by河野通九郎)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/699ffb657ac6df6d31cf9f1ba7ac53a7

>「TSUDA READERS」
ネットで少し検索してみましたが、1952年にNew Tsuda readers(津田塾大学編修部著、三省堂出版)というのが出ているそうなので、これですかね。
国会図書館で津田梅子(1864-1929)の著作を見ると『女子大正りーだず = Girls’ taisho readers. 第1卷』(開成館、1916)などというものも出てきます。
本当に表紙に「りーだず」などと書いてあったとは思えませんが、奥付の表示かもしれません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

『東京物語』の浄土寺 2015/12/02(水) 18:38:43

小太郎さん
岡田暁生氏の著作は、昔、何冊か読みましたが、あらかた忘れてしまいました。

『歴史と哲学の対話』の後半では、フッサールの生まれ変わりを自称する(121頁)竹田青嗣氏が、普遍闘争、普遍戦争、普遍支配、普遍交換、普遍分業、普遍消費、普遍暴力・・・と普遍を連発し、興醒めして読むのをやめました。竹田氏の伝でゆけば、普遍国家、普遍人間、普遍経済、普遍宗教、普遍政治、普遍学問、普遍哲学、普遍歴史・・・要するに、なんでもありそうですね。やれやれ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%89%A9%E8%AA%9E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%BE%E9%81%93%E5%B8%82)
NHKのBSプレミアムで追悼番組『東京物語』をみましたが、普遍的な名作ですね。
尾道の老夫婦が暮らす家は、以前訪ねたことがあるのでわかりましたが、浄土寺に隣接しているのですね。国宝の多宝塔も映像に出てきました。なぜそういう設定にしたのか、小津安二郎の意図が知りたいですね。
東京の中学生が父親の診療室で英語の自習をする場面で、教科書の表紙に「TSUDA READERS」とあるのですが、津田梅子が考案したものなのか。映画の製作は1953年で、サンフランシスコ講和条約発効(1952)の翌年だから、晴れて堂々と日本の子供たちも英語の勉強をしてよい、とする日本国政府への皮肉と解すべきなのか。あるいは変わり身の早い浅ましい国策(?)への皮肉か。
ウィキには紀子(原節子)の夫は戦死とありますが、映画では、死んだに決まっている、というような言い方をしているので、日ソ国交回復(1956)を考慮して、戦死ではなくシベリア抑留を暗示している、と考えるべきなのかもしれません。

笠智衆が台東区「だいとうく」と発音していて少し驚きましたが、こちらの方が由緒正しいようですね。

笠智衆が演ずる老人の家の紋は三つ引両なので、吉川氏の末裔、そして、浄土寺の大檀那、という含みになるのでしょうか。
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「お見捨てなく。」(by 本郷和人氏)

2015-12-04 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 4日(金)08時51分55秒

>筆綾丸さん
>編集者は少なくとも三人はいて、それぞれが別々に発言
本郷・西対談を読んだだけですが、私は名無しさんの発言に人格の一貫性を感じます。
事情を知らない読者から見ると、『哲学と歴史の対話』は名無しさんがずいぶんエラソーな発言を繰り返すヘンテコ対談集ですが、これも名無しさんと著者との間に特別な「友情」ないし信頼関係があってこそ、ではないですかね。
「おわりに」の末尾に、

-------
 それから、こうした場をプロデュースして下さった編集の山崎比呂志さんに、改めて感謝したいと思います。こう書くといつもと変わり映えがしないので自分の表現の拙さを恥じるばかりですが、本当にありがたく思っているのです。今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。お見捨てなく。
-------

とあって、本郷氏がお礼を言っているのは山崎比呂志氏だけ、ということも傍証になりそうです。

>フッサールの生まれ変わりを自称
フッサールも変な人ですよね。
斎藤慶典氏『フッサール 起源への哲学』(講談社メチエ、2002)の「プロローグ 『頭の悪い』哲学者、フッサール」には次のようにあります。(p6以下)

-------
 私自身、現象学者の端くれとして、かれこれ二十年以上にわたってフッサールを読みつづけてきたわけだが(こんなことは別に自慢にも何にもならないが)、読めば読むほど思わずにいられないのは、自分のことを棚に上げれば、いったいこの人は何と不器用で、何と頭が悪いのか、ということなのである。彼の場合、その生前に刊行された著作の多くは、現象学とはこのような哲学ですよ、というプログラム的・綱領的なもので、個々の具体的で事象に即した記述と分析は(ここにこそフッサール現象学の真骨頂があるのだが)、そのほとんどが研究草稿のかたちで未公刊のまま、死後に残された。この膨大な数にのぼる研究草稿を読むとき(これは彼の没後六十年以上を経たいまでも『フッサール全集』《Husserliana》として刊行がつづいており、完結の目途すらたっていない)、ことさら先の「頭の悪い人だなあ」という感が強い。何でこんなものを読まなきゃならないのか、と思わずにはいられないのである─頼まれもしないのに読むほうが悪いのだが。
 もともとこれらの草稿は公刊を意図して書かれたものではなく、日々の哲学的営為の作業現場にほかならないことを割り引いても(ちなみにフッサール自身、現象学の基本的性格を「作業哲学〔アルバイト・フィロゾフィー〕」と呼んでいた)、その論述は行きつ戻りつを繰り返し、ときに脇道にそれ、ときに堂々めぐりに陥り、ときに突如として途切れ、飛躍し、……といった具合なのである。それでも彼にとってこうした研究草稿を書きつづけるとき、その思考はフル回転しているのであって、通常の正書法での記述では思考の展開に筆が追いつかず、それが為に彼はある種の速記法をマスターし、それでもって猛烈なスピードで草稿を書きつづけたほどなのである。だがそこには華麗で魅惑的な文体(たとえばニーチェのような)もないし、透徹した思考がもたらす鋭い洞察(たとえばヴィトゲンシュタインのような)もない。つまり、そこには天才的なひらめきは皆無なのであって、一言でいえば鈍重なのである。掘り出されたばかりの原石やら土くれやらがあちらにもこちらにもうずたかく積み上げられたまま、とぐろを巻いているかのようなのだ。【後略】
-------

「鈍重」はご丁寧にも太字になっています。
ま、もちろんこの後にはフッサールを哲学者として高く評価する記述が続く訳ですが、個人的にはこういう面倒な人に関わるだけの時間があれば何か別のことをやってみたいと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

テンノリアン 2015/12/01(火) 12:47:54
小太郎さん
『歴史と哲学の対話』を半分ほど読みました。

--------------
本郷ーうーん、そうかもしれませんね。ただ、そこで問題になってくるのは、カンタベリー大司教は世襲ではないでしょう?
ーー世襲かどうかはどうでもいいでしょう。王権を承認する機能として、「構造」が同じではないか、という話なんですから。しかも王権と括弧つきの「聖性」との上下関係というか力関係も同じじゃないかと。どちらも、王権のほうが、すでに地位が高くなっていて。(84頁)
--------------
対談者の発言をこうもあからさまに否定したら、これはもはや編集者の立場を逸脱していますね。本郷氏は、この野郎、とムッとしたのではないかな。じゃ、君が議論を続けろよ、と。
編集者は少なくとも三人はいて、それぞれが別々に発言しているため無記名とせざるをえず、とりあえず傍線で代表させた、というような事情なんでしょうね。あるいは、この無記名の傍線は対談者のための補助線なんだよ、と己惚れているのかもしれません。

--------------
ーー権力は握ったとしても、その正当性を認証してくれる「機関」がやはり必要になってくる。それで秀吉は、そういう「機関」として天皇を使ったということではないでしょうか。(78頁)
--------------
編集者Xのこの発言は、戦前の「天皇機関説」などを意識したものなんでしょうが、うるせえな、という感じですね。
66頁以降は国家と権力の話で、正統性と正当性という言葉が頻出するのですが、正確に使い分けられていない印象を受けました。編集者は、こういうところこそ注意すべきなんですが、対話に補助線を引くことに夢中で、散漫になっているのかもしれません。
水林彪氏の著書に、マックス・ヴェーバーをめぐり、丸山真男は正統性と正当性に関して誤訳している、というような記述があることを思い出しました。

前半の対談ははじめの方にフッサール現象学の話が少し出てくるものの、あとはホッブスとロックとルソーを中心にした歴史の話で、ほとんど哲学の香りがせず、期待が外れました。
いちばん面白かったのは、本郷氏の「テンノリアン」という造語です。Tennorian と綴るのでしょうが、Tennoriant と綴れば(発音は同じ)、微笑む天皇、を含意し、Tennorien と綴れば、無の天皇、を含意します。後者の Tennorien はバルトの空虚の中心をも含意できるかもしれません。

これから、後半の対談を読みます。
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『天皇制史論』との比較

2015-12-02 | 増鏡

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 2日(水)12時12分35秒

>筆綾丸さん
>水林彪氏
私は去年検討した『天皇制史論―本質・起源・展開』の論理にけっこう納得しているので、同書と比べると『歴史と哲学の対話』はいろいろな点で物足りない感じがしました。
といっても後半、竹田青嗣氏との対談はまだ読んでもいないのですが。

『天皇制史論─本質・起源・展開』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f54a9a6b71d2a71d719efd5573fc5382
「天皇制の超時代的存続の秘密」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3186f4845f0d08ed1683a49f509cfde9
<支配の正当性>史論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2a70643647ae5e286dbf566e472a9be


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

テンノリアン 2015/12/01(火) 12:47:54
小太郎さん
『歴史と哲学の対話』を半分ほど読みました。

--------------
本郷ーうーん、そうかもしれませんね。ただ、そこで問題になってくるのは、カンタベリー大司教は世襲ではないでしょう?
ーー世襲かどうかはどうでもいいでしょう。王権を承認する機能として、「構造」が同じではないか、という話なんですから。しかも王権と括弧つきの「聖性」との上下関係というか力関係も同じじゃないかと。どちらも、王権のほうが、すでに地位が高くなっていて。(84頁)
--------------
対談者の発言をこうもあからさまに否定したら、これはもはや編集者の立場を逸脱していますね。本郷氏は、この野郎、とムッとしたのではないかな。じゃ、君が議論を続けろよ、と。
編集者は少なくとも三人はいて、それぞれが別々に発言しているため無記名とせざるをえず、とりあえず傍線で代表させた、というような事情なんでしょうね。あるいは、この無記名の傍線は対談者のための補助線なんだよ、と己惚れているのかもしれません。

--------------
ーー権力は握ったとしても、その正当性を認証してくれる「機関」がやはり必要になってくる。それで秀吉は、そういう「機関」として天皇を使ったということではないでしょうか。(78頁)
--------------
編集者Xのこの発言は、戦前の「天皇機関説」などを意識したものなんでしょうが、うるせえな、という感じですね。
66頁以降は国家と権力の話で、正統性と正当性という言葉が頻出するのですが、正確に使い分けられていない印象を受けました。編集者は、こういうところこそ注意すべきなんですが、対話に補助線を引くことに夢中で、散漫になっているのかもしれません。
水林彪氏の著書に、マックス・ヴェーバーをめぐり、丸山真男は正統性と正当性に関して誤訳している、というような記述があることを思い出しました。

前半の対談ははじめの方にフッサール現象学の話が少し出てくるものの、あとはホッブスとロックとルソーを中心にした歴史の話で、ほとんど哲学の香りがせず、期待が外れました。
いちばん面白かったのは、本郷氏の「テンノリアン」という造語です。Tennorian と綴るのでしょうが、Tennoriant と綴れば(発音は同じ)、微笑む天皇、を含意し、Tennorien と綴れば、無の天皇、を含意します。後者の Tennorien はバルトの空虚の中心をも含意できるかもしれません。

これから、後半の対談を読みます。

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「その点を本郷さんにはより深く考えていただきたいですね」

2015-11-27 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月27日(金)10時11分47秒

昨日の投稿では「編集の方」=「友人の編集者、山崎比呂志さん」と書いてしまいましたが、19pの西研氏の発言の中に、

-------
本郷さんと二人で納得していても、あちらで僕らを見ている三人の編集部の方々が、僕らがありもしないものを指さしてあれこれ話している姿をみて、「本郷さんも西さんも大丈夫ですか? そこには何もありませんが」と言い始めれば、僕ら二人は幻覚を見ていたのかな、ということになりかねない(笑)。
-------

とあるので、二人とは離れたところに「三人の編集部の方々」がいて、「編集の方」(p24)=「三人の編集部の方々」(p19)みたいですね。
ただ、そうすると、二人から離れたところにいる三人の誰かが突然会話に入り込んできてしゃべりまくる、というのも随分奇妙な状況なので、実は二人の近くにもう一人、名無しの発言者=「友人の編集者、山崎比呂志さん」がいて、「三人の編集部の方々」はその部下で、少し離れた場所で録音とかの作業をしている、ということなのでしょうか。
謎は深まりますね。
ついでに名無しさんの発言をもう少し拾ってみると、

------
現象学の「学」と、その元気になる、つまりエロスだと思いますけれども、それら二つの関係はどうなるのでしょうか。レベルが違う話なのだから、「学」は理性だけで話し合ってよい。エロスなしでやりましょう、でいいのでしょうか。現象学的にはどうでしょう。エロスは、あまり入っていないのでしょうか。(p43)

シンプルな理論のほうがエレガントだということは、歴史学でも成り立ちそうですか。(p47)

ただ、たとえば中世を見ると、天皇の力の大きさよりも武家の力の大きさのほうがここでは働いているよな、というようなファクターはいろいろと実例を挙げることはできるわけでしょう。そういうことを細かくやっていけばいいのではないでしょうか。(p48)
-------

などとあり、まあ、このあたりは発言内容の確認や論点の整理といった編集者の役割の範囲内でしょうね。
ただ、更に、

--------
「国主」だから、ともかく昔からおれがこの「国」の王様なんだからお前たちはつべこべ言わずに税金を払え、という理屈も、いちおうは考え方として成り立つわけじゃないですか。だから、そう言われたら、それはそうだな、と思うということはあり得ると思うんですね。でも一方では、ここはおれがつくった土地なんだからおれのものだ、という考え方のほうもまた、これはこれで成り立つわけですよね。これをルソーの思想に照らして見ると、どうなのでしょうか。お互いに言っていることの正当性を、どのように見て、どちらのほうがより正しいと判断することができるのか、ということを教えていただきたいのですが。(p67)
--------

となると、形の上では質問であっても、語気がずいぶん強いので、まるで「王様」が臣下に詰問しているような感じもしてきます。
更に、ここからは本郷氏の発言も交えて引用すると(p79)、

--------
本郷──そうしたら、たとえば秀吉の主体的な働きかけみたいなことを強調しようと思えば、先ほど編集さんが言ったみたいに、そこで秀吉が天皇をつくり直したと考えればいい、ということですかね。
──ヘンリー八世とカンタベリー大司教ですね。要るから一応つくっておくけれども、どちらが上かといったら、絶対に王様のほうがもう上になっているじゃないですか。
本郷──ヘンリー八世は、カンタベリー大司教を完全に否定はしませんよね。
──いや、むしろヘンリー八世にはカンタベリー大司教が要るのではないでしょうか。カンタベリー大司教はイギリス国教会の頂点に立って、カンタベリー大主教に衣替えする。権力にはこういう装置が必要なんじゃないですか? その点を本郷さんにはより深く考えていただきたいですね。
本郷──覇者とか実権力がだいすきな僕こそ、そういう「権威」を考えに入れて、理屈を組み立てろ、と。
--------

ということで、東京大学史料編纂所教授に向って「その点を本郷さんにはより深く考えていただきたいですね」=「お前の考えはまだまだ浅い」と指摘する編集者というのはなかなか興味深い存在ですね。
ヘンリー八世を編集者、カンタベリー大司教を本郷氏に見立てると、「どちらが上かといったら、絶対に王様のほうがもう上になっているじゃないですか」みたいな感じもします。
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「編集の方」

2015-11-26 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月26日(木)09時26分23秒

内容の問題ではないのですが、『歴史と哲学の対話』は少し奇妙な本ですね。
p39以下から引用してみると、

------
本郷──現象学でも、やはり後世にゆだねるということになるんですか。
西──後世にゆだねる、というのは正確な言い方ではないですね。史料と史実を踏まえたより説得力のある史像がつくられるか、ということで決まる、というのがより正確です。でももしそういうものがつくられると、何か権力的な力が働かないかぎり、だんだんに認められて広がっていくと思うのですね。ですから「後世に」と言ったのですが。
──たとえば、今の清盛皇胤説ですが、この説に関しては、共通の信憑が成立する土俵はできないのではないでしょうか。そもそもが、事実として確定することができないですよね。
本郷──たしかに、史実としては確定できないものがありますね。
西──そう、まったくの思い描きですね。史実としては確定できない。
──事実として確定できないことを基盤にして史像を組み立てるのは、現象学的にはOKなんですか。そこが歴史の難しいところかな、と思いますので、お尋ねしますが。
西──そうですね。かなり無理な推論をしていると言えるかもしれません。
 しかしやはり、相手の説を打ち砕くためには、「武からする説明」のほうがより首尾一貫し、より歴史のダイナミックな動きを説明し得るということを、打ち出していかないといけないのではないでしょうかね。
──清盛皇胤説は、事実としてはどうしても確認しようのないことだから、今一つ弱いですね。
西──その点は弱いです。明らかに弱い。
──だからこれで説明できる清盛の出世の早さよりも、違うファクターで説明したほうが、より説得力があるとは言えないでしょうか。皇胤説を立てる人は、それが事実かどうかわからないけれども、これなら出世の早さなどを合理的に説明できると言うわけですよね。とすれば、こちらのほうがさらにいっそう合理的に説明できるという理論を立てられれば、そちらのほうが強いということになりますよね。
西──なります。そうだと思います。
──仮説というのは、そういうことではありませんか。要するに、理論の上での話ですから。
西──そうです、仮説の話ですね。
-------

ということで、明らかに本郷和人・西研氏以外の誰かが参加して相当の分量の発言をし、実質的には鼎談になっているのに、その人の名前があるべき場所には何も記されていない。
この幽霊のような存在は何かというと、p24の西氏の発言で、

------
西──やっとここで歴史学に移りますが、歴史学も基本は同じです。僕も本郷さんも、編集の方も、「だれもが同一の時間・空間を生きてきたはずだ」という信憑を持っている。その信憑があるからこそ、「共通の過去」としての歴史が問題となるわけですね。
------

と出てくる「編集の方」であり、「はじめに」に登場する「友人の編集者、山崎比呂志さん」なんでしょうね。
まあ、直ちに誤解を生むような書き方ではないにしても、責任の主体が不明確な発言が混在しているのは非常に気持ちが悪いですね。
p24だって、実際には「編集の方」ではなく、「山崎さん」みたいな言い方をしているはずで、「山崎さん(編集者)」てな具合に書けばいいだけじゃないですかね。
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「いちばん最低な国がギリシア」(by 山内昌之氏)

2015-11-25 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月25日(水)09時52分53秒

>筆綾丸さん
>反美学的な帯
はずして読んでいます。
山内昌之氏相手だと倣岸不遜な佐藤勝氏にも緊張感が漂い、なかなか充実した対談ですね。
トルコによるロシア機撃墜があったばかりなので、トルコに関する冷ややかな分析(p31以下)は参考になります。
また、山内氏のギリシア批評は面白すぎますね。

-------
「銀行が窒息状態にあるのにどうやって支払えと言うのか」と、デフォルトになっても他人事なのがすごい。どうも、「グリーク・キャラクター」(ギリシア人気質)とでもいう他ない特異体質があるらしい。〔p172〕

古典古代のギリシア史や文化を引き合いに出して、タカリやゴネを正当化する権謀術策だけは凄かった。その逆ギレ感覚だけは継承されています。〔p177〕

私はEU国民でもなく、歴史学者や社会学者なのに、何故か現代ギリシアのことになるとすぐに不快感がこみあげてきます(笑)。〔p178〕

歴史に戻れば、オスマン帝国からいろいろな国がバルカン半島で分離独立し、アラブも独立していきました。しかし、オスマン帝国から独立した国のなかで、いちばん最低な国がギリシアのような気がします。〔p178〕
--------

佐藤氏の発言かなと思って発言者を見直した箇所もありますが、山内先生もなかなか強烈なキャラですね。
そういえば以前、山内氏の『イスラムとロシア その後のスルタンガリエフ』(東大出版会、1995)の献辞が「勝俣鎮夫先生に」となっているのを見て不思議に思ったことがありますが、山内氏は他の著書でも内容と全然関係なさそうな人に献辞を書いているので、まあ、そういう趣味なんでしょうね。

「勝俣鎮夫先生に」(by 山内昌之氏)

>『鎌倉将軍・執権・連署列伝』
未読ですが、親王将軍については内容を確認してみたいですね。
宗尊親王・惟康親王は新しい情報が期待できそうですが、久明親王はちょっと難しいですかね。
守邦親王となると、以前調べた時はぺんぺん草も生えていないような状況でしたが、新しい史料が何か出ているのか。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

琉球国王尚寧の花押 2015/11/24(火) 16:46:26
小太郎さん
本郷氏には、中世史の書のなかでザインとゾレンを論じたものがあり(書名は忘れました)、哲学にも関心があるのかな、と思ったことがあります。『歴史と哲学の対話』は、どこかで見かけた記憶があるのですが、探して読んでみます。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b209211.html
書店で『鎌倉将軍・執権・連署列伝』を見かけ、以前であれば、すぐ購入したのですが・・・。

佐藤優氏の本はいつも装幀が問題ですが、『第3次世界大戦の罠』は、反美学的な帯を引っ剥がして捨てると、シンプルで綺麗な本になりますね。

---------------
 やはり織田政権は、天下統一のスタート台に立とうとした寸前で、あっけなく倒れてしまったというほかない。たしかに信長派の武将たちの書状には、文中で「天下一統」と記されたものもあるが、いずれも「一統」に向けて連携を強化するなどの文脈で使われているにすぎない。信長は「天下統一」の看板を掲げることすらできなかったのであり、その向こう側に用意されていた天下統一という政治課題に本格的に着手することなく、あの世へと旅立ってしまったのだ。
 では、秀吉は誰から天下統一のバトンを受け継いだのだろうか。それは、全国政権の前任者である室町幕府と考えるのが自然だろう。(黒嶋敏氏『天下統一』18頁)
---------------
黒嶋氏は、「天下」の範囲に関する神田千里氏の説を紹介しながらも「天下」について詳しく言及せず、また、「統一」と「一統」について使い分けているように読めながらも厳密には使い分けておらず、要するに曖昧なのですが、それはともかくとして、秀吉が天下統一のバトンを室町幕府から継承したと考えるのは、私には不自然に思われます。

http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2014/10/post-b8b3.html
第三章の扉にある琉球国王尚寧の「日本風の花押」は初めて知りましたが、団子のような、おでんのような、雪見灯篭のような、五輪塔のような形なんですね。黒嶋氏の書で見るのと、ネットで見るのと、ずいぶん印象が違います。
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現象学的歴史学?

2015-11-24 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月24日(火)10時18分55秒

昨日、某図書館で本郷和人・西研・竹田青嗣氏の対談集『歴史と哲学の対話』(講談社、2013)を見かけ、本郷氏はこんな本も出しているのかと驚きました。
「はじめに」から少し引用してみると(p8)、

-------
【前略】
 私も石井先生にならって、中世史像を復元してみたい。できれば、先生とは異なる方法を模索しながら。天皇を安易に持ち出す「上から・外から」の歴史叙述は、ひとまず措いておこう。人間の内在的な欲求や成長しようとする精神など、「中から・内から」人の生を解き明かす学問は何だろうか。真剣に思い悩んだ結果、一つの結論に到達しました。それは、哲学に他あるまい、と。
 しかし、思い至ってはみたものの、中世史と哲学のコラボレーションなど、聞いたことがない。では、自分一人で一から哲学を学び直そうか。でも、表面だけなぞるならともかく、哲学の本体は難解をきわめます。ヘーゲル、マルクス、フッサールなど、とてつもなく高い山々が連なっていて、安易に近づくことを許しません。
 どうしよう。途方に暮れていると、友人の編集者、山崎比呂志氏さんが救いの手を差し伸べてくれました。竹田青嗣先生、西研先生に教えを請うのが良いのではないですか、と。お二人ともたいへん懐が深いから、本郷さんが真摯に問いかければ、答えてくれるに違いありませんよ。幸い私はお二人と懇意にしていますから、頼んであげましょう。
-------

という事情で出来た本だそうですね。
鼎談ではなく、本郷氏が西氏・竹田氏と個別に対談するという形式になっています。
そして「現象学という方法に助けをかりたらどういう地平が広がるのかなと、僕は前から思っていた」(p13)本郷氏の関心に基づき、現象学を中心とする「中世史と哲学のコラボレーション」が展開されるのですが、もともと哲学的素養のない私は、ちょっと前なら本郷さんは現象学などという難解な学問にも取り組んでいるのか、と感心したはずでした。
しかし、たまたまこの夏、石川健治氏の「窮極の旅」を検討する過程で法哲学者の尾高朝雄について調べる必要が生じたので、結果的に現象学についても少しだけ学ぶ機会がありました。
ま、周辺的なことを少し齧っただけですが。
そして、法哲学において尾高朝雄が生み出した成果を考えると、現象学的歴史学?の未来についても、まあ、袋小路とまでは言いませんが、けっこう厳しそうだな、とは思います。

>筆綾丸さん
歴史学を超えて華やかな社会的活動を展開する本郷和人氏と異なり、森茂暁氏は川添昭二氏の堅実な学風を受け継ぐ、ちょっと古風なタイプの研究者ですが、その森氏にして何で「赤裸々に告白した異色の日記」に簡単に誑かされてしまうんですかねー。
対象との知性のタイプの違い、ということでしょうか。

>フェルマーの式が引用され
この夏のアザラシ騒動でも新聞・雑誌で見かける保阪氏の発言はずいぶん硬直しているように感じたのですが、本当にボケてしまったみたいですね。

>『第3次世界大戦の罠』
カバーに佐藤優氏の写真が出ていたので美的な観点から購入を躊躇いましたが、勇気を振り絞って買ってみました。
これから読みます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

親不孝者 2015/11/23(月) 18:31:15
小太郎さん
『とはずがたり』や『増鏡』は歴史家が鼎の軽重を問われる試金石のようなもので、森氏のように言われたら、ふーん、そんなものですか、としか言いようがないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86
『昭和史のかたち』の最終章(十章)には、xのn乗+yのn乗≠zのn乗というフェルマーの式が引用され、次のように書かれています。
-----------------
xを国民にし、yを天皇にたとえ、zを政治体制と考えるのである。nに「象徴」という字句をあてはめると、「平時体制」という天皇と国民の良好な関係が生まれる。ところがnに「主権者」とか「大元帥」「現人神」などをあてはめると、歪みのあるファシズム体制やら、軍事主導体制が生まれるのではないかと思えるし、本来なら天皇自身が拒否してこの数式は成りたたないとなるはずである。(180頁)
-----------------
冗談ならともかく、こんなアホなことを本気で書いたら、数学教師であった泉下の父君への冒瀆になるはずであって、救いようのない痛ましい駄本と言うべきですね。・・・人間、長生きしても、あまり意味はないのかもしれません。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062883436
黒嶋敏氏の『天下統一 秀吉から家康へ』を、そういうもんかなあ、などと疑問を抱きつつ、半分ほど読み進めました。
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「赤裸々に告白した異色の日記」を信じる歴史学者

2015-11-22 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月22日(日)11時08分55秒

>筆綾丸さん
『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」ということは、譬えて言えば某大学文学部M教授の研究室にいた女子学生が、自分はM先生の愛人でした、M先生は私にあんな猥褻なことやこんな異常なことをさせた純度100%の変態男でした、しかし私は今でもM先生を愛しています、心からお慕い申し上げています、という手記を週刊誌に発表したとして、その「証言内容はすこぶる信頼性が高い」と評価するようなものですからねー。
ま、森氏がその程度の「赤裸々に告白した異色の日記」を信頼されるのは自由ですが、氏が他の史料を扱う際の極めて慎重な態度とは随分異なるので、ちょっと妙な感じは否めないですね。

さて、森氏自身は『増鏡』の作者について特段の意見を持たれていないようですが、念のためと思って、森氏による小川剛生氏『二条良基研究』(笠間書院、2005)の書評(『日本歴史』703号=平成18年12月号)を見たところ、『二条良基研究』全体に対する評価は、

-------
 ひとことで言うと、本書はなかなか骨太の力作である。著者小川氏はあえていえば、中世の国文学研究を専門とする新進気鋭の若手学究であるが、本書の内容は、決して国文学の範疇に収まるものではない。そのことは、小川氏独自の専門的な学識はむろんのこと、繰り出される諸指摘が日本中世史に対するじつに的確にして深い理解に裏打ちされていることによろう。歴史研究の成果を十分に取り入れる格好で、みずからの新知見を随所にちりばめつつ、本書は執筆されている。
-------

という具合に極めて高いですね。(p115)
ただ、『増鏡』の作者に関する小川説については特に言及はありません。
ま、小川説自体が何とも曖昧なものなので、評価のしようがないのかもしれませんが。

『二条良基研究』
「なしくずし」(筆綾丸さん)
「牛」

>保阪正康氏の『昭和史のかたち』
七十過ぎた人が十代の頃の父親との葛藤をグダグダ書いているのは、ちょっとみっともない感じがします。
ちなみに保阪家は加賀百万石前田家の支藩、といっても僅か一万石足らずの小藩である上州七日市藩の家老の家柄だそうで、正康氏は43歳のとき、死が迫った父親とやっと和解したそうですね。
父親の回想によれば、正康氏の祖父の人生は、

--------
第一高等学校医学科の第一期生であったが、放蕩三昧の生活をし勘当同然になったこと、それでも内務省の役人になったがすぐにやめて新事業を興して失敗したこと、第十三代藩主になるはずだった利定と同年齢で親しかったために横浜の済生会病院に職を得たこと、しかし関東大震災で高女教師だった母や姉をはじめ家族が全員死亡したこと、
--------

といったものだったそうで、良い家柄に生まれただけに悩みも深かったようですね。

「酒井美意子は加賀百万石のお姫さまなの」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

昭和史と幾何学の不思議な関係 2015/11/21(土) 13:59:46
小太郎さん
『南朝全史 大覚寺統から後南朝』の前半を読み返してみると、小太郎さんの言われるようにまさに「殆ど『増鏡』の注釈書の趣」で、歴史学とは思えぬナイーヴさに羨望の念を禁じ得なくなりました。男を騙すなんて訳ないわね、と中世の頭脳明晰な性悪女の神々しいまでの微笑が仄見えるようですね。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784198639723
山内昌之・佐藤優両氏の対談『第3次世界大戦の罠』を、興味深く読みました。両氏は池内恵氏を厳しく批判し、中田考氏を擁護する池内氏の文章を引用したあとに、こんな対話が続きます。
---------------------
佐藤 例えば、<中田さんをめぐる疑惑と紛議の嵐が去って、本書がこの解説を要さなくなる日が早く訪れることを望んでいる。>というくだりを読んで私は、「人は二つの椅子に同時に座ることができない」というロシアの諺を思い出しました。
山内 その表現もありますが、別の言い方もあります。「問題なのは君が同時に二つの椅子に座れないことではない。君が二つの椅子に挟まれたうつろな空間に座ろうとするのが問題なのだ」と。
佐藤 そう。座る場所がないんだと。
山内 そういうことです。これはレーニンがベール・ボロボフに対して言った言葉ですよ。
佐藤 僕の率直な池内氏の印象は、怖がりなんだと思うんですよ。あの人は攻撃的な文を書きますが、実際のところは小心だと思うんです。ISについて激しく非難したので、この人たちから殲滅対象にされるかもしれないという恐れが出てきた。
山内 つまり、保険をかけたということですか。(51頁~)
---------------------
一つの量子は二つの場所に同時に存在することができる、と言えるので(朝永振一郎『光子の裁判』におけるディラックの夢)、池内氏は量子力学の不思議な存在論に通じているのかもしれない、とは佐藤氏も理解が及ばず、それで、山内氏は二つの間の空虚について言及したのかもしれない、とも思われない。・・・・・・

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1510/sin_k850.html
保阪正康氏の『昭和史のかたち』は、まるで中学生の初歩的な幾何学の授業のような感じで、読むべきか、読まざるべきか、面食らっています。はしがきを読むと、まあ、そいう事情か、とは思うのですが。
----------------
 父親は高校の数学教師だった。戦時下には大学で研究者の道を歩んでいた。関東大震災時に片耳が聴こえなくなったため、研究者として配属将校に愚弄されることがあり、結局旧制中学の数学教師に転じた。それが口惜しかったのか、私を数学者にと幼年期から数学を教えた。
 しかし私は読書が好きな少年で、中学卒業時に父親に自分の進む道を決められるのはたまらないと、徹底して反抗に転じた。高校時代にはまったく勉強しなかった。父への苛立ちからである。
 父親の亡きあと、その備忘録を見つけたが、その中で私に詫びる一文があった。
 数学についての具体的な知識はないのだが、数学的発想には魅かれる。昭和史に関心をもって調べているうちに、これを図式化するとこうなるのではと考える。あるいはフェルマーの定理にまつわる歴史的エピソードなどにも関心をもっている。
----------------






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『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」(by 森茂暁)

2015-11-21 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月21日(土)09時31分16秒

三浦周行(1871-1931)・龍粛(1890-1964)くらいの論文しかなかった鎌倉後期公家社会の研究が進展したのは1980年代に入ってからで、私見ではその牽引車となったのは森茂暁氏と本郷和人氏ですね。
1990年代になると森氏が多くの論文を『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版、1991)に纏められ、本郷氏も『中世朝廷訴訟の研究』(東大出版会、1995)を出されますが、この二冊によって旧来の研究状況は一新され、鎌倉後期公家社会への関心が深まって若手研究者の論文も急に増えたように思います。
その後、森氏は多数の専門書・一般書を出され、私はその度に購入していたのですが、『南朝全史 大覚寺統から後南朝』(講談社選書メチエ、2005)は書店で手には取ったものの、未購入でした。
今回、恒明親王をきっかけに読んでみたら、「第一章 鎌倉時代の大覚寺統」において『増鏡』への言及が極めて多いのに驚きました。
まず、p13に、

-------
 持明院統・大覚寺統という言い方は、後世の研究者が考案した学術上の用語であり、当時の史料に登場する言葉ではない。当時それぞれの統派の主帥〔しゅすい〕の呼称としては、「持明院殿」「大覚寺殿」という言葉が用いられた。鎌倉時代を描いた歴史物語『増鏡』では、「持明院殿」と「大覚寺殿」の言葉が対比的に使用され始めるのは延慶元年(一三〇八)以降である(『増鏡』第一二「浦千鳥」)。むろん『増鏡』は一四世紀後半の成立とされ同時代史料ではないが、回想の中の歴史的表現として注意してよい。【後略】
-------

とあります。
そして、森氏は『増鏡』を次のように評価されます。(p17)

-------
後嵯峨院薨去直後の両統
 このポスト後嵯峨の地位をめぐる兄弟間の関係の推移をもっともよく伝えるのは、南北朝時代成立の歴史物語『増鏡』である。関白二条良基(一三二〇-八八)の作品ともいうが確証はない。この作品は後鳥羽・後嵯峨・後醍醐の三代の宮廷物語で、文学的な装飾を施してはいるが、史実を踏まえた歴史書としての内実を持つ。叙述の主体が後醍醐であるところからみると、この作品は後醍醐の物語たるを本質としているといってよい。その『増鏡』に両統の関係がどのように描かれているかをみてみよう。
-------

ということで、この後、「第八 あすか川」、「第九 草枕」、「第十 老のなみ」の引用と解説が10頁続き、殆ど『増鏡』の注釈書の趣です。
そして、その途中には『とはずがたり』への言及もあります。(p22以下)

-------
『とはずがたり』の証言
 右にみた後嵯峨院没後の、後深草─亀山両院間の「治天の君」をめぐる葛藤については『とはずがたり』の証言がある。『とはずがたり』とは、大納言久我雅忠の女〔むすめ〕、通称後深草院二条が記した鎌倉後期の女流日記で、後深草院および宮廷貴紳たちとの恋愛、本人が出家した後の諸国遍歴の体験など宮廷女性の恋愛と信仰を赤裸々に告白した異色の日記である。しかも、記主の二条という女性が後深草院の寵愛をうけた女官であっただけに、その証言内容はすこぶる信頼性が高い。『とはずがたり』巻一に、以下のようなくだりがある(講談社学術文庫本では第三一段)。
【中略】
 前掲の『増鏡』の記事と同様の内容で、『増鏡』はこの記事を素材にした可能性が高い。
【中略】
 右の文中の「御所さまにも世の中すさまじく」の部分には、後嵯峨院没後、亀山院側や鎌倉幕府との政治的交渉が思い通りにゆかない後深草院の厳しい立場をよくあらわしている。また「鎌倉よりなだめ申して」の部分は、鎌倉幕府の後深草院に対するスタンスが基本的にどのようなものであったかをよく表現している。この間の一連の後深草院の出家騒ぎを冷静に観察すると、それが幕府を動かすためのゼスチュアであった可能性も否定できない。
--------

森氏は『とはずがたり』と『増鏡』を「冷静に観察」した結果、『とはずがたり』の「証言内容はすこぶる信頼性が高い」と評価されたのでしょうね。
10年前、都内某書店で『南朝全史』を立ち読みしていた私は、この「証言内容はすこぶる信頼性が高い」との記述を見て、そっとページを閉じ、書棚に戻して静かに立ち去ったのでした。







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井沢元彦氏について

2015-11-20 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月20日(金)07時59分27秒

>JINさん
>「逆説の日本史」(小学館)
ご紹介の森茂暁氏『南朝全史』と岡野友彦氏『院政とは何だったのか』、そして岡野氏の『北畠親房-大日本は神国なり』(ミネルヴァ書房、2009)を読んで、恒明親王の周辺はけっこう面白いなとは思ったのですが、伊沢ファンのJINさんとの間で議論するのは、率直に言って私には無理です。
JINさんが、例えば職業として歴史を研究している専門家の講演会、あるいは一般公開されている歴史学会のシンポジウム等で、質疑応答の時間に「井沢元彦氏はこうおっしゃっているが・・」と質問したら、発表者は困惑すると思います。
いわゆる井沢ファンと専門的な歴史研究者の世界には埋め難い溝があります。
私は別に専門的な研究者ではなく、単に研究者の論文を読むのが好きなだけの人間ですが、私が個人的に運営するこの掲示板での議論のレベルはある程度高いものに保ちたいので、井沢氏の見解の引用、あるいはそれに基づく新たな主張は勘弁してほしいと思います。

>筆綾丸さん
>永井路子氏の『変革期の人間像』
ご紹介、ありがとうございます。
鋭い人ですし、黒板勝美の親族として歴史研究者の世界にも詳しい方ですが、さすがに参照できる文献が三浦周行・龍粛あたりに限られる1970年代では何も書けないですね。

※JINさんと筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「果てしなき遠心力」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8092
「蛇足で恐縮ですが・・・」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8090
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「自分のために苦労してくれた母への深い想い」

2015-11-18 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月18日(水)09時50分15秒

久しぶりに本郷和人氏の『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書、2009)を読んでみたのですが、後宇多院と後醍醐天皇の父子関係について、本郷氏は村松剛氏(1929-94)の『帝王後醍醐』(中央公論社、1978)と全く同じように考えておられるのですね。(p163以下)

---------
 上皇と天皇の不和には、理由は二つあったように思う。一つは政治手法の違いである。上皇は歴代の治天の君の中でも、とくに幕府との融和を心がける人であった。先に記したように、上皇の腹心の六条有房は、幾度も鎌倉に下向している。文書では済まさず、交渉を密に行う。上皇はそれにより、皇位も東宮の地位も独占する(天皇は後醍醐、皇太子は邦良親王)など、大覚寺統の利益確保に多大な貢献をしていた。これに対し、天皇の幕府嫌いは有名であった。これでは父子がうまくいくわけがない。
 不和の理由の二つめは、情緒的なことである。後宇多天皇の妻の一人は、参議藤原忠継の娘で忠子という女性であった。二人の間には尊治親王が生まれたが、忠子は天皇の愛情を確信できなかったらしい。このままでは、自分が生んだ可愛い皇子が皇位を得ることは覚束ない。そう判断するや、何と彼女は後宇多の父、大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った。実権を掌握する上皇の寵愛を得るために。やがて尊治親王はみごと皇太子の座を射止めたが、それが忠子に閨房でねだられ、相好を崩した亀山上皇の後援に拠っていたことは想像に難くない。
 忠子は亀山上皇に細やかに奉仕する。上皇が亡くなると、菩提を弔うため出家した。尊治親王には、自分のために苦労してくれた母への深い想いがあったのだろう。即位して後醍醐天皇となるや、直ちに母を女院に列し、談天門院の号を贈った。さしたる家の出ではない忠子は、女性としての栄誉を極めた。だがこうしたことは、事ごとに後宇多上皇に負の刺激を与えただろう。亀山と後宇多、後宇多と後醍醐。大覚寺統の父子はそれぞれに不和であった。やがて、これに後醍醐天皇と護良親王の対立が加わる。
--------

「やがて尊治親王はみごと皇太子の座を射止めたが、それが忠子に閨房でねだられ、相好を崩した亀山上皇の後援に拠っていたことは想像に難くない」とありますが、尊治親王が皇太子となったのは1308年で、亀山院はその3年前に亡くなっていますから、直接的な「後援」はありえないですし、最晩年の亀山院は尊治親王など全く無視して1303年に生まれたばかりの恒明親王の立坊を図っていた訳で、ちょっと奇妙な書き方ですね。
また、「母を女院に列し、談天門院の号を贈った」のが直接には後醍醐天皇の意向によるものだったとしても、それが「後宇多上皇に負の刺激を与えた」んですかね。
本当に忠子が無力な後宇多院の下にいることに嫌気がさして「大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った」のなら、臣下の前で大恥をかかされた後宇多院は忠子を嫌って「女性としての栄誉を極め」させるようなことはやめさせるのではないかと思いますが、後宇多院政下であるにも拘らず、後宇多院は拒否・妨害はしていません。
同時期の女院号授与の例を見ると、忠子が談天門院の号を得た翌元応二年(1320)、談天門院と同年(1268)の生まれの一条頊子という女性が万秋門院の号を得て、「女性としての栄誉を極め」ていますが、この人は後醍醐天皇とは全く縁がありませんから、後宇多院の意向としか思えません。
談天門院も万秋門院も後宇多院政下で女院号を得た点は共通ですから、後宇多院の意向に程度の差はあっても、いずれも後宇多院の意思に基づくと考えてよいのではないですかね。
そもそも忠子が「大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った」と考える史料上の根拠を求めると、本郷和人氏の場合も村松剛氏と同様に『増鏡』の叙述に行き着くはずですので、結局は『増鏡』がどれだけ信頼できるのか、という話になりそうですね。

村松剛「忠子の恋」

>JINさん
森茂暁氏の講談社メチエの本は、恒明親王に関する限り、氏が既に発表されていた論文に新しいことは付加していないはずですが、読み直してみます。
永井路子氏の『歴史の主役たち―変革期の人間像』は1978年刊行とのことなので、当時の公家社会研究のレベルを考えると、正直あまり期待できないのですが、探して読んでみます。

※JINさんの下記投稿へのレスです。
「南朝全史-大覚寺統から後南朝まで(講談社選書メチエ)」
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本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』

2015-11-16 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月16日(月)11時34分39秒

>JINさん
>「院政とは何だったか (PHP新書)」
未読ですが、これは岡野友彦氏の2013年の著書なんですね。


恒明親王のような極めてマイナーな存在に着目されたのは何故なのかな、と思いましたが、もう少し広く亀山・後宇多・後醍醐の関係あたりにご関心があるようですね。
本格的に勉強されるのであれば、前提として貴族社会をきちんと理解する必要があるので、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東大出版会、1995)をお奨めします。
決して易しい本ではありませんが、朝廷を実際に支えている実務官人の動きを知らないと鎌倉後期の朝廷社会は全く理解できないですね。
この本が難しければ本郷氏の一般向けの著書、例えば『天皇はなぜ生き残ったのか』(新潮新書、2009)などを先に読んだ方がよいと思います。
私の過去の投稿を見たら『天皇はなぜ生き残ったのか』に少し批判的なものもありましたが、今見るとちょっと書き方がまずかったような感じもします。
ま、本郷氏自身が後宇多・後醍醐の感情的対立を前面に出しているので、それに引き摺られた書き方になってしまったのですが。

「後宇多・後醍醐は不仲?」

※JINさんの下記投稿へのレスです。
「後宇多の院政停止」
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後宇多院のことなど

2015-11-14 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月14日(土)07時55分19秒

>JINさん
こんにちは。
恒明親王に興味を持たれているのであれば、最初は森茂暁氏の著書をお奨めしようかと思ったのですが、リンク先掲示板を拝見すると『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』が挙がっているので、森氏の他の著書も後存知でしょうね。
私はここ数年、日本中世史から離れていて、実は角川ソフィア文庫の『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』も未読ですが、これは新刊ではなく、旧著の文庫化でしょうか。
また、後宇多について「晩年の彼は力を付けた後醍醐に院政停止に追い込まれたという説も」あるとのことですが、これは具体的に誰の説でしょうか。
質問を重ねて恐縮ですが、どの範囲でお話しすればよいのかを知りたいので、宜しくお願いします。

※JINさんの下記投稿へのレスです。
「亀山院と恒明親王」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8073
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