学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

佐藤進一と東大紛争

2017-07-31 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月31日(月)11時46分51秒

先日、ツイッターで佐藤進一について熱く語っている人がいて、

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佐藤進一の『南北朝の内乱』が1970年代の著作であることを考えれば、この2017年の『観応の擾乱』における亀田先生の佐藤説への批判も、いかに佐藤進一の戦後歴史学に果たした役割が大きかったかを逆説的に物語るものかと思われます。
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と書いていたのですが、『南北朝の動乱』の初版は1965年、中公バックスが71年、中公文庫が74年ですね。


ま、これ自体はつまらないことなのですが、佐藤進一は東大紛争をめぐる軋轢から1970年に東大教授を辞していて、1970年前後はあまり落ち着いて研究できる環境にはなかったようですね。
私は東大紛争における佐藤進一の立場を知りたくて、少し調べたことがあるのですが、結局よく理解できませんでした。

尾藤正英氏「戦争体験と思想史研究」
「かの学園紛争」
林健太郎氏「国史学界傍観」

ところで、山崎正和の近著『舞台をまわす、舞台がまわる - 山崎正和オーラルヒストリー』のおかげで大学紛争終息の舞台裏が分かるようになり、鹿島茂氏の書評を借用すると、

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ある日、首相秘書官の楠田實から連絡が入って総理官邸に呼び出され、佐藤栄作のブレーンに加えられる。京極純一、衛藤瀋吉らと話しあううち、ショック療法として東大入試中止のアイディアが出る。「それでは演出も必要だろうと、安田講堂攻防戦の終了後(一九六九年一月二十日)、佐藤さんに作業服を着せて、長靴を履かせて、安田講堂の前を歩いてもらいました。(中略)その上で『東大入試をやめる』と出したら、一発で山が動きました」


といった経緯だったそうですが、このあたりは山崎正和の知識人としての明晰さと政治的判断の鋭さが光りますね。
山崎正和は1934年生まれで大学紛争時は若干三十代半ばですが、1916年生まれの佐藤進一は五十代半ばを過ぎていながら暴力学生の支援という「不可解な行動」を続けており、その頑固さ・依怙地さ・執念深さは、佐藤の足利尊氏評を借りるならば、まるで「精神疾患を患っていた」のではないかと思われるほどです。
佐藤は古文書職人としては立派な人だったのでしょうが、知識人と呼べるようなレベルの存在ではなかったな、というのが私の最終的な評価です。

>筆綾丸さん
京大の事情は全然知りませんが、歴史研究者の就職難はどこも厳しいようですね。
私も十年くらい前までは一応事情を把握していたものの、最近の厳しさは別の段階に入っているようで、当然のことながら大学院に残って研究を続けようと思う人も減少しているそうですね。
今年2月の『史学雑誌』に「敗戦直後における大串兎代夫の憲法改正論」という論文が出ていたので、石川健治氏の「7月クーデター」説を検討する過程で大串兎代夫に少し興味を持った私はパラパラ眺めてみたのですが、その内容から著者の大谷伸治氏は大学の准教授クラスだろうなと思ったら肩書が札幌市の小学校教諭となっていて、驚愕しました。
大谷氏個人の事情は知りませんが、本来なら大学に残るべき研究者が生活のために小学校教諭を選択しているのだとしたら、社会的には大変な損失ですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

共産党>国家 2017/07/30(日) 14:07:03
小太郎さん
「現在、京都大学文学部非常勤講師」(2017年7月現在)ですが、四十代半ばまで非常勤講師に据え置かれているのは、つまるところ人間関係がこじれたのでしょうが、なんとも残酷な大学ではありますね。こんな冷遇をしていると、優秀な学生はますます歴史学から離れてゆくでしょうね。一生を棒に振るほどの価値が歴史学なんかにあるわけないですから、おそらく。

--------------
 直義は尊氏に毒殺されたとする説が、古くから有力である。しかし、筆者はこの見解には懐疑的である。
(中略)
 管見の限りでは、筆者以外に毒殺説を否定する論者に峰岸純夫氏がいる。峰岸氏は、黄疸が出たとする『太平記』の記述に基づいて、直義の死因を急性の肝臓ガンであったと推定する(『足利尊氏と直義』)。(『観応の擾乱』174頁~)
--------------
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E7%99%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%A1%80%E7%97%85
直義の死因に関して、亀田氏は「・・・幽閉先で失意を紛らわせるために酒を飲みすぎるなどして黄疸が出たことは十分にあり得ると思う」(175頁)として、黄疸以上のことに言及していないのは賢明ですね。
峰岸説の「急性の肝臓ガン」というのは、素人ながら、妙な病名だと思います。肝臓癌は進行性のもので、進行に早い遅いはあっても急性などありえず、「急性」と言い得る癌は白血病くらいではないか、たぶん。峰岸氏も、意識的にあるいは無意識的に、佐藤説に影響されたのか、つまらぬことを言ったものですね。

キラーカーンさん
https://en.wikipedia.org/wiki/Taiwan
西欧流の国家とは相違して、中国では「国家主席」より「党主席」のほうが格上で、つまり(?)、党は国家の上位概念だから(国家は党の機関)、台湾が「中華民國(Zhōnghuá Mínguó)」などと一人前に国家風の名を称しても、さほど頓着しないのかもしれませんね。
重要なのは、台湾を国家と承認する諸外国をひとつひとつ潰してゆくことで、最終的にはゼロにすることですね。台湾を国家と認める国がすべてなくなれば、台湾を省として統合しても、国際法上、何の問題もあるめえ、という理屈になるんでしょうね(中国が国際法を持ち出すのは、党の矜持に係わる問題なので、case by case になりますが)。
航空識別圏とか排他的経済水域とかの線引きが若干変わるかもしれないけれど、我が国としては、文字通り、対岸の火事として眺めておればいいのだろうな。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%95%AC%E4%B9%85
傍流とは言え、殿様の末裔が旧領地の知事を務めるのは、この人くらいですかね。県の職員は、知事などという平凡な名称は使わずに殿と呼んでいるかもしれないですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%BA%95%E5%86%85%E8%B2%9E%E8%A1%8C
曾祖父の和井内貞行は惚れ惚れするような美男子ですね。

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『観応の擾乱』の「あとがき」

2017-07-29 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月29日(土)14時45分37秒

また投稿に間が空いてしまいました。
先週、前橋市の女子高生で構成されるミュージカル同好会「BaMbina」の第7回公演『ロミオとジュリエット』を観てから小田島雄志訳の『ロミオとジュリエット』(白水社、1983)を通読し、ついで大塲建治氏の『対訳・注解 シェイクスピア選集5 ロミオとジュリエット』(研究社、2007)を見て、気になった部分の英文を確認しているのですが、やはりシェイクスピアは面白いですね。
シェイクスピアと並行して、苅部直『歴史という皮膚』所収の「平和への目覚め─南原繁の恒久平和論」に紹介されている南原繁の短歌、例えば、

三週間の絶対安静をわが命ぜらる世界に何事も起りてあるな
二十日あまり臥(こや)りてをれば窮まれる米ソ外交の行く方知れずも
病むわれの久にして見る外電ニュース世界は何事も起りて居らざりき

といった下手な歌を読むのは、単に精神的に重荷であるばかりか、殆ど肉体的苦痛を感じるほどなので、『歴史という皮膚』の読了は当分先になりそうです。

歌人としての南原繁
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cabcef3a47943005fc6d46793f9291d

>筆綾丸さん
>しかし、『園太暦』の原文は「「降人の身として見参するは恐れあり」と称して謁せず」であり、

亀田氏の説明を読んだ後で佐藤説を見ると、ずいぶん無理な読み方をしているのが分かりますね。
歴史上の人物に対し、医学の素養もないのに精神疾患を患っていた云々と判定するのも無茶な話です。

>「17年8月より国立台湾大学日本語文学系助理教授」

「主要参考文献」の亀田氏の著作リストを見ると、これほどの業績があっても日本の大学は受け入れないのか、と思ってしまいますね。
『観応の擾乱』の「あとがき」には、

-------
 本書で筆者が特に伝えたかったのは、細川顕氏や佐々木導誉など魅力あふれる室町幕府の諸将の姿や、訴訟制度を根本的に変革した足利義詮の優れた政治力もそうだが、やはりなんといっても将軍足利尊氏の変化である。擾乱以前には基本的に無気力であった尊氏が、擾乱以降はきわめて積極的に活動しているのだ。このときの尊氏は、四〇代半ばである。当時としてはかなりの高齢であろうし、現代でもこの年齢で性格が変化することは滅多にないであろう。
 だが人間は、努力すれば必ず変わることができる。尊氏の変化は、個人的には勇気を与えられるし、読者の方々にも同じように感じていただければ、それだけでも本書の存在意義はあると考えている。
-------

とありますが、著者自身が「四〇代半ば」であることを考えると、これは新天地での新たな人生への静かな決意表明であるとともに、日本への縁切状的要素が僅かに含まれているようにも感じてしまいます。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

碩学の誤読 2017/07/26(水) 22:25:59
小太郎さん
佐藤進一氏への疑義については、次ような記述もありますね(116頁~)。
----------------
 翌三日、細川顕氏が上洛して尊氏を訪問した。しかし尊氏は面会を拒否し、顕氏を恐怖させた。これも比較的著名な逸話である。
 敗北したにもかかわらず恩賞を要求するなど、厚かましいにも程がある。特に顕氏との一件を見ると、尊氏は自分を勝者であると勘違いしている。尊氏は不可解な行動をすることがあり、精神疾患を患っていたとする佐藤進一氏の見解がかつて存在し(『南北朝の動乱』)、このときの顕氏に対する言動もその根拠に挙げられることがあった。しかし筆者は、その説は誤りであると考えている。
 そもそも佐藤氏は、尊氏の発言を「(顕氏が)降参人の分際で見参を望むとは何ごとか」と現代誤訳した。しかし、『園太暦』の原文は「「降人の身として見参するは恐れあり」と称して謁せず」であり、「「(私尊氏は)降参人の身であるので、(顕氏と)面会するのは恐れ多い」と称して対面しなかった」と訳すべきあると考える。「見参」は、目下の者が目上の人にお目見えするという意味だけではなく、逆に目上が目下に対面する用法も存在する。本例は後者の用例であろう。
----------------
亀田氏の説くとおりであるとすれば、『古文書学入門』という屈指の名著を有する佐藤進一氏ですら、たかが六百数十年前の和臭の漢文を正確に読めていなかったことになり、これはこれで驚くべきことですね。ましていわんや異国の言語においてをや・・・以て他山の石とすべき、と言えるのかもしれませんね。

正否の判断をできるほどの知識はありませんが、室町幕府草創期の訴訟制度を論じた箇所(141~144頁)を最も興味深く読みました。また、佐藤氏が高く評価した足利直義を亀田氏がさほど評価していないのも、なかなか面白いものがありますね。さらに、「観応の擾乱に関しては、やはり本書が今後の必読文献になることができればと考えている」という自ら恃むところの厚い表明については、おそらくそうなるんだろうな、と思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6
亀田氏の経歴に「17年8月より国立台湾大学日本語文学系助理教授」とありますが、「国立」台湾大学という表記は台湾を「国家」として承認していない日本国の立場からすれば微妙であり、中国本土からイチャモンをつけられそうな感じもしますね(It's not your business.ですが)。

https://en.wikipedia.org/wiki/Geography_of_Taiwan
英語のウィキには台湾の標題は Geography of Taiwan とあって(仏語、西語、独語も同様)、地理や風土や動植物相や資源などに関する一通りの記述があるだけで、「国家」としての解説は一切ないのですね。

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橋本芳和氏と『政治経済史学』

2017-07-26 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月26日(水)11時21分42秒

ちょっと投稿に間が空いてしまいました。
苅部直氏の『歴史という皮膚』、少し真面目に検討しようかなと思って、ところどころ拾い読みしてみたのですが、どうにも相性が良くない感じがして、暫く離れることにしました。
気分転換のため、筆綾丸さんも話題にされた亀田俊和氏の新刊『観応の擾乱─室町幕府を二つに割いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書)を読んでみたところ、これは非常に面白い本でした。

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観応の擾乱は、征夷大将軍・足利尊氏と、幕政を主導していた弟の直義との対立から起きた全国規模の内乱である。室町幕府中枢が分裂したため、諸将の立場も真っ二つに分かれた。さらに権力奪取を目論む南朝も蠢き、情勢は二転三転する。本書は、戦乱前夜の動きも踏まえて一三五〇年から五二年にかけての内乱を読み解く。一族、執事をも巻き込んだ争いは、日本の中世に何をもたらしたのか。その全貌を描き出す。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/07/102443.html

『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)で一世を風靡し、半世紀の間、それなりに権威を保持していた佐藤進一説も歴史的な役割を終えたようですね。
亀田氏は「あとがき」で、

------
 同じ時期を扱っているため、内容的には今までの拙著と重複する部分も多く、その点は御容赦いただきたい。ただし、筆者の見解を変更した点もいくつか存在する。
 そしてもちろん、今までの本では言及しなかった事柄も新たに大量に紹介した。その際、参考にしたのが、主要参考文献にも掲げた橋本芳和「南北朝和睦交渉の先駆者、足利直義(Ⅰ)~(Ⅵ)」(『政治経済史学』五九二~五九七、二〇一六年)である。
 しかし、本論文は学術雑誌に掲載された学術論文であり、一般の読者にはなじみが薄いものである。また題名からあきらかなとおりに直義による南朝との講和交渉を主題とする論文であり、観応の擾乱そのものは論点ではない。史料解釈に関しても、筆者の見解とは異なる部分が多い。何より、基本的には従来の定説に依拠している。以上の理由から、観応の擾乱に関しては、やはり本書が今後の必読文献になることができればと考えている。
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と書かれていますが(p251以下)、失礼ながら橋本芳和氏は、専門研究者の間でもそれほど有名ではない人かもしれないですね。
私は鎌倉後期の貴族社会を調べていたとき、橋本芳和氏が『政治経済史学』に載せた論文をいくつか読んでいて、特に「遊義門院姈子内親王の一考察─東二条院所生の後深草法皇皇女と後宇多上皇の後宮」(『政治経済史学』283号、1989)は、自分が追求していた課題に直接関係するタイトルだったので、苦労して入手した後、むさぼるように読みました。
しかし、率直に言って、橋本氏の推論の過程はあまり丁寧ではなく、貴族社会に対する洞察力にも欠けている感じがして、結果的にはあくまで資料集として参考にさせてもらった論文でした。
また、『政治経済史学』も「学術雑誌」というには若干微妙な雰囲気があり、きちんとした査読がなされているとは思えず、執筆者が固定された同人誌みたいだなあ、という印象を受けました。
国会図書館サイトで検索してみたら、橋本芳和氏には45本の論文があり、その全てを『政治経済史学』に載せているようで、ちょっと珍しい人ですね。

>ザゲィムプレィアさん
いえいえ。
私も棚田を環境破壊の観点から考えたことはなかったので、ご投稿は大変参考になりました。

コメント (5)
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「皇国史観による武家政権観の臭味を帯びない表現を採用」(by 苅部直)

2017-07-22 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月22日(土)11時17分43秒

>筆綾丸さん
『歴史という皮膚』(岩波書店、2011)を図書館で借りてパラパラ眺めてみました。
いささか気味の悪いタイトルに反して、南原繁・田中耕太郎や山口昌男など、私も以前から興味を持っている人々についての情報がそれなりに豊富なようなので、少し真面目に取り組んでみるつもりです。
最終章の「「利欲世界」と「公共之政」─横井小楠・元田永孚─」の注31には、

------
(31) 本章では「幕府」ではなく「徳川政権」の呼称を用いる。徳川時代には、(最末期を例外として)江戸の「御公儀」を、京都の「禁裡様」からの委任を受けて権力を行使する「幕府」と呼ぶなどということは一般にはなかったことを重視し、皇国史観による武家政権観の臭味を帯びない表現を採用したのである。ちなみに、一八七七-八二(明治十-十五)年刊行の田口卯吉『日本開化小史』(岩波文庫、一九六四年)は「徳川政府」と呼んでおり、明治時代には徳富蘇峰や山路愛山も「徳川政府」の語を用いている。一九三八(昭和十三)年の長谷川如是閑『日本的性格』第五章(『近代日本思想大系15 長谷川如是閑集』筑摩書房、一九七六年、所収)にも「徳川政府」の呼称が見えることを考えると、歴史叙述用語として使われるのが「幕府」のみとなったのは、いくぶん新しいことと思われる。
------

とありますね。(p269)
歴史学研究会や歴史科学協議会系の研究者もごく当たり前に使っていて、特に「皇国史観による武家政権観の臭味を帯び」ていると思っていない「幕府」という表現に執拗にこだわるのは、それ自体が別の「臭味を帯び」ているような感じもしますね。
渡辺浩名誉教授の偉大な法燈を受け継ぐ東大法学部系の政治思想史研究者にとっては、「幕府」を用いるか否かが正統か異端かを分ける踏み絵となっているのでしょうか。

渡辺浩氏について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c98d53b1b8c239d74840025286625cc
「公儀」と師弟愛
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ddd3bf147869a0ba31c9d500db9c45e6

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

歴史という皮膚 2017/07/19(水) 15:14:13
小太郎さん
ご引用の速水融氏の発言の後半は、人として普通の感性だと思いますが、水谷・苅部両氏も普通の人の子でかつ普通の子の親のはずなのに、なぜ普通の歴史が見えないのか、不思議な気がしますね。自分はなにか特別な存在だ、と勘違いしているのか。

https://www.iwanami.co.jp/book/b261414.html
-----------------
書名は,たまたま全集が刊行中でもある田村隆一の詩からとったものである.この詩人の作品には,小学生のころに新聞でエッセイを読んだときから親しんできた.生まれ育った東京都内の場所も,わりあいに自分と近い.「歴史という皮膚」という言葉の含意については,離れがたい歴史というものに囲まれている思想のありさまと取ってもいいし,そうした「皮膚」を脱ぎ捨てて,理想の大空へとはばたきたい願望を示したと読んでもらっても構わない.いずれにしろ,切ったら血が出る「皮膚」が,「歴史」の形容に使われているところが気に入ったのである.
-------------------
『歴史という皮膚』「あとがき」の一部ですが、苅部氏の江戸時代史像は「切っても血が出ない紛い物の皮膚」とも言えますね。気になるのは、ここでも「東京っ子」を自慢していることで、ボクには地方の歴史なんてわからないし興味もない、ということなのかもしれませんね。ちなみに、詩とは次のようなもので、まあ、毒にも薬にもならぬような代物です。

   ぼくらは死に至るまで
   なおも逃走しつづけなければならない
   歴史という皮膚におおわれているばかりではない
   存在そのものが一枚の皮膚なのだから
       田村隆一「父 逃走ーホルスト・ヤンセン展にて」より

追記
http://www.yumebi.com/acv04.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AC
ホルスト・ヤンセンはこんな人なんですね。昔、ハンブルク美術館は訪ねたことはありますが、記憶にありません。北斎というよりも、エゴン・シーレの影響が強いような気がします。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/
明日発売予定の中公新書の内、亀田俊和氏の『観応の擾乱』は楽しみにしています(呉座氏の『応仁の乱』ほどのベストセラーにはならないと思いますが)。また、著者の吉原祥子氏は知らないものの、『人口減少時代の土地問題』は面白そうですね。 

歴史観の公害 2017/07/22(土) 09:22:21
--------------
フルイン ここで、江戸時代についていろいろ話をしたわけですが、この四人のうち三人は外国人ですけれども、それはどういう意味があるかということを、最後にお聞きしたいんですけど。
速水 だいたいこのような座談会自身が日本独特の発想であり、一種のコミュニケーション手段でしょう。私は別に三人の方々が外国の人だという意識は、そんなに強くはないんですけどね。ただ、まあ多少毛色の変った人だとは思いますがね(笑)。
 さっき、どなたが言われたように、皆さんは日本の歴史教育、歴史観の公害に侵されていないわけですね。私は日本での歴史の教え方や普及している歴史観には一種の公害があるのではないかと思うんです。それに侵されていない人が、日本の歴史、とくに江戸時代を見るとどうなるかということでお集まりいただいたわけなのです。(『歴史のなかの江戸時代』「第12章 外から見た江戸時代」381頁)
--------------
苅部氏たちの珍奇な学説が「日本の歴史教育、歴史観の公害」になることはないと思いますが、「公儀」や「古層」や「執拗低音」などを通過儀礼とするゲマインシャフトが、社会の片隅にひっそりと残るような気がしないでもないですね。
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棚田について

2017-07-22 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月22日(土)11時06分10秒

>ザゲィムプレィアさん
『国史大辞典』を見たところ、

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耕地の傾斜が一定の限界を超えているため、自然の地形のままでは耕作できない場合、山腹などの傾斜地に階段状に耕地を造成したもの。梯田・膳田ともいわれる。このようなものは必ずしも水田に限らず畑にもあるが、その場合は棚畑とか段々畑といわれる。中世における耕地の開発は、平坦な平野部の開発から山間谷あいの棚田に象徴される山田の開発に進み、畿内周辺部や辺境の谷状地形の地域で、谷戸(やと)田・迫(さこ)田とも呼ばれる小規模の開発が行われることが多かった。棚田は山腹や沢の傾斜面に石積みなどして階段的に切り開いた田畑で、湧水や溜池の灌漑を中心に古くから発達したものである。近世の検地においては山間などの棚田数枚を一筆にまとめて縦何間、横何間、総坪数何坪の田地と野帳に記すのであって、これを拾歩(ひろいぶ)と呼び、石盛も下々田より下げて付け、取箇もともに低かった。
-------

とありますね。
また、「棚田学会」サイトの「棚田の起源」には、

-------
検証1:和歌山県立博物館学芸員の高木徳郎氏の「棚田の初見資料」について」
棚田学会誌「 日本の原風景・棚田」7号(pp111~115,2006)の報告では、以下(事務局にて要約)のようである。

「覚鑁上人によって建立された高野山の大伝法院が領有する荘園の一つとして、平安時代末期の康冶~久安年間(1142~1151)にスタートした「高野山領志富田荘」を、高野山が、建武5(1338)年、正平11(1356)年、長享3(1489)年のそれぞれ三回検注(耕地の面積、地味、耕作者、作柄などを調査すること)を行ったが、最も古い建武3(1338)年の検注帳が現存しており、以下のように「棚田」の文字が見える。」
「棚田一反御得分四十歩ハ余田・・・・・・・・・(略)」 (かつらぎ町史編集委員会編「かつらぎ町史  古代・中世資料編に収載)


とあり、棚田が中世に遡ることは史料的にも確実のようです。
もっとも、数としては近世の事例が多いのでしょうね。
そして、中には相当強引な開発を行って環境破壊を惹き起こしたような事例もあったのでしょうが、少なくとも現在残っている棚田、特に観光地として有名な棚田は周辺の自然と安定的な関係を築き上げているので、開発当時の状況を想像するのはなかなか困難ですね。
「棚田学会」サイトの「棚田の意義」には美辞麗句が並んでいますが、意地悪く裏読みすることもできそうですね。


※ザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

Re:<江戸時代の最初の百年間は、むしろ凄まじい「環境破壊の時代」> 2017/07/20(木) 23:58:19

標題の文は初めて見たと思いますが、それで思い出した語があります。棚田です。多くの日本人が棚田に愛着を示しますが、私はそれに違和感を禁じ得ません。
江戸時代に人口が増加したものの新たに水田を開拓することに適した土地が無いという条件のもと、効率が悪い(単位面積当たりに投入する労働が大きくなる)ことが分かっていても作らざるを得なかったのが棚田でしょう。
ひょっとすると少なくとも棚田の一部は環境破壊の証拠なのかもしれません。

それから江戸時代の山と林と聞くと、尾張藩や秋田藩が代表的ですが藩が積極的に植林して林を管理したイメージがあります。
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「何か政治的意図があってこの減少を隠そうとしたのではないか」(by 森嘉兵衛)

2017-07-20 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月20日(木)13時08分34秒

盛岡藩(南部藩)の人口について、速水融氏が何か書かれているのではないかなと思って探してみたところ、『歴史人口学研究 新しい近世日本像』(藤原書店、2009)の「第12章 近世─明治期奥羽地方の人口趨勢─農村における「近世」と「近代」─」に出ていました。
初出時の原題は「近世奥羽地方人口の史的研究序論」で、『三田学会雑誌』75巻3号、1982年6月ということですから、ハンレー/ヤマムラ『前工業化期日本の経済と人口』が出たのと同じ年ですね。
結論として、盛岡藩の公式統計資料は信頼性が乏しく使えない、その理由は不明、ということですが、歴史人口学者がどのように資料を取り扱っているのかを知るための参考として、関係部分を引用しておきます。(p367以下、図・注記省略)

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各藩領の人口

 奥羽地方の各藩は、他地方に比較して、人口減少という問題に直面したからか、藩領を単位とした人口調査をしばしば行い、人口維持政策を実施し、幸い記録も多く残されている。すでにこれらの資料を用い、高橋梵仙氏は浩瀚な業績を公刊されており、数値自身について再掲する必要はないだろう。すなわち、南部藩、一ノ関藩、仙台藩、中村(相馬)藩、泉(磐城)藩、会津藩、秋田藩の各例が明らかにされている。また、同氏の業績以外にも、二本松藩、米沢藩について、かなり長期間にわたる数値系列が得られ、津軽藩、八戸藩に関しても藩領人口を知ることができる。おそらく、一つの地方で、藩領人口をこれだけ知ることのできるところは他にはないだろう。さらに藩領以外にも、天領人口について、会津の南山御蔵入領の事例も得ることができる。
 ただ、これらの数値の内容は、決して一様なものではない。武士身分の人口が含まれる場合があったり、藩領域の変更によって、対象地域に変化が生じたり、さらには、南部藩のように、そのままではどうみても事実とは首肯し難いケースを含んでいる。また、カヴァーする年代や、密度もまちまちで、統一的な把握は著しく困難である。しかし、それらに目をつぶり、比較的長期の数値シリーズを得られる藩領人口の推移を図12-5にまとめた。ここで、今まで最も多く取り上げられてきた南部藩領の人口を掲げなかったのは、その数値に疑問が多いからである。すなわち、南部藩領人口は『南部家雑書』(南部藩の日誌)から承応二(一六五三)年─天保一一(一八四〇)年の間、二〇〇年近くにわたって記録されているのであるが、宝暦二(一七五二)年以降は、記載人口数にあまりにも変動が少なすぎる。すなわち文化一三(一八一六)年を除いて三五万人台を維持し続けているのである。この間には宝暦・天明の飢饉があり、南部藩領は奥羽地方でも最も大きな被害を出した地方と考えられ、事実、宝暦五(一七五五)年の飢饉による餓死者は、約五万二〇〇〇人、天明三(一七八三)年の飢饉では餓死・病死約七万五〇〇〇人に達したという報告もある。したがって、この間に人口は大きく落ち込み、おそらく三〇%前後の減少をみたのではないかと想像される。しかし、藩の公式記録にはそのようには記述されていない。『盛岡市史』の著者、森嘉兵衛氏は、そこに「何か政治的意図があってこの減少を隠そうとしたのではないかと見られる」とされている。南部藩人口の研究に力をそそがれた高橋梵仙氏の解釈は、宝暦飢饉による領内人口の減少を幕府の眼から隠すべく、従来人口数にカウントされていなかった水呑・名子を、それ以後加算することによって数字の辻つまを合わせたのではないか、とされている。しかしこの解釈にはいささか無理があるのではなかろうか。というのは、天明飢饉の影響が全く出ていないことが説明できないし、記録上、人口数が固定してしまったのは宝暦二(一七五二)年で、宝暦五(一七五五)の飢饉前のことだからである。ここではやはり森嘉兵衛氏の解釈をとっておきたい。なお、宝暦・天明の飢饉による死者数を、公式人口数から差し引いた領内人口の推計(宝暦三─寛政一〇年、一七五三─一七九八)が行われている。しかしこれも、元の数値に疑問があるし、また、寛政一〇(一七九八)年以降の人口をどう考えるか、問題が多い。
 さらに、南部藩の公式人口記録に対する疑問は、その男女比率についてである。安永六(一七七七)年から寛政二(一七九〇)年に至る一四年間、一年を除いて性比は、一一二・九に固定されている。この間には天明飢饉もあり、男女数が全く変化しないまま推移したとはとうてい考えられない。やはり、折角高橋氏によって「白眉」とされた南部藩の公式人口記録も、信頼性の点では問題の多い資料なのである。ただし、このことは、この記録が全く利用するに値しないということを意味するものではない。武家人口や郡別人口の記載もあり、他に利用の方法はいくつか考えられる。また、逆にそれでは他藩の人口記録は信頼できるのか、ということになると、積極的な回答はできない。ただ今のところ、はっきりとした否定的な証拠はないので、本稿では南部藩の資料は用いないが、他藩のそれは利用した。また、利用可能な数値の少ない藩領・蔵入領人口の数値を図12-6に示した。
------

森嘉兵衛(1903-81)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B
森嘉兵衛(盛岡市公式サイト内「盛岡の先人たち」)
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/moriokagaido/rekishi/1009526/1009629/1009639.html
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『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』の位置づけ

2017-07-20 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月20日(木)11時33分8秒

>筆綾丸さん
カルベ教授は経済史の大局的な把握ができていませんね。
『「維新革命」への道』には、次のような記述があります。(p97以下)

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 現代では、世界不況やエネルギー問題を背景にして、もう経済成長はあきらめ、ゼロ成長や循環型の経済をめざすべきだと説く議論が一方では盛んである。徳川時代は人口も増加せず、経済成長率も低い社会で、二百年以上ものあいだ平和を維持していた。その社会のあり方は、これからゼロ成長型の社会へとむかうための、未来へのモデルになるのである。─かつては成長戦略を率先して説いていたエコノミストが、そんなことを堂々と語る例すら見つかるほど、経済停滞社会としての徳川時代のイメージは執拗に流布している。
 しかし、速水融・宮本又郎編『日本経済史Ⅰ 経済社会の成立 19-18世紀』(岩波書店、一九八八年)に代表されるような、現在の日本経済史研究が描きだす徳川時代像は、これとはまったく逆である。同書の巻頭論文、共編者による「概説 一七-一八世紀」は、「経済社会化」が徳川時代においては広く進んでいたと説明している。この時代の農村では、米の増産とともに、多くの商品作物の開発が進んでいた。そして十七世紀には、大坂を中心にして全国規模の商品流通のネットワークが形成され、そこで生産物が取引されるようになり、さらに商品の開発・生産を促進する。そうした形で、最小の費用で最大の効用を得ようとする経済的な価値観が、多くの人々の行動を支える「経済社会」へと、日本社会は変貌していった。やがてそのことが近代において工業技術を西洋から導入するさい、定着を容易にしたのであった。
--------

速水融・宮本又郎編『日本経済史Ⅰ 経済社会の成立 19-18世紀』は未読であり、念のため後で内容を確認してみようと思いますが、三十年も前の本を「現在の日本経済史研究」の「代表」としている点だけでも、カルベ教授の浮世離れの程度はひどいですね。
丸山眞男の「古層」だの「執拗低音」だのを horse & deer の一つ覚えで繰り返している日本政治思想史の世界と違い、速水氏が先導した歴史人口学、そして日本経済史の世界は遥かに学説の進歩が速く、それはカルベ教授の上記要約と、前回投稿で紹介した速水氏の『歴史のなかの江戸時代』(藤原書店、2011)における認識が全く異なることからも明らかです。
1988年の時点ではまだまだ戦後歴史学の陰気な江戸時代像も有力で、速水氏等は旧来の学説への対抗上、明るい江戸時代像を打ち出す必要があったのでしょうが、その後、歴史人口学の一部でも、例えば鬼頭宏氏の「環境先進国・江戸」論のような行き過ぎがあり、更に「バラ色一色」の江戸時代像を説く通俗的な歴史書が広まってしまったことへの懸念から、反対方向への若干の揺り戻しが起き、バランスの取れた歴史認識に転化しているのが「現在の日本経済史研究」の状況ですね。
武井弘一氏の『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』も、そのような研究状況を反映した一冊です。
以前、カルベ教授が同書に「盛んな水田開発や肥料の投入の結果として、耕地が荒廃し、百姓がその土地を捨てて移住するという事例」が出ていると書いたことについて、それは誤読と指摘しましたが、そもそもカルベ教授が同書を自分の「バラ色一色」の江戸時代像を補強する材料として用いている点に根本的な誤解がありますね。

武井弘一『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29f80f692bd7de5a39785d877cf69951

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

歴史という皮膚 2017/07/19(水) 15:14:13
小太郎さん
ご引用の速水融氏の発言の後半は、人として普通の感性だと思いますが、水谷・苅部両氏も普通の人の子でかつ普通の子の親のはずなのに、なぜ普通の歴史が見えないのか、不思議な気がしますね。自分はなにか特別な存在だ、と勘違いしているのか。

https://www.iwanami.co.jp/book/b261414.html
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書名は,たまたま全集が刊行中でもある田村隆一の詩からとったものである.この詩人の作品には,小学生のころに新聞でエッセイを読んだときから親しんできた.生まれ育った東京都内の場所も,わりあいに自分と近い.「歴史という皮膚」という言葉の含意については,離れがたい歴史というものに囲まれている思想のありさまと取ってもいいし,そうした「皮膚」を脱ぎ捨てて,理想の大空へとはばたきたい願望を示したと読んでもらっても構わない.いずれにしろ,切ったら血が出る「皮膚」が,「歴史」の形容に使われているところが気に入ったのである.
-------------------
『歴史という皮膚』「あとがき」の一部ですが、苅部氏の江戸時代史像は「切っても血が出ない紛い物の皮膚」とも言えますね。気になるのは、ここでも「東京っ子」を自慢していることで、ボクには地方の歴史なんてわからないし興味もない、ということなのかもしれませんね。ちなみに、詩とは次のようなもので、まあ、毒にも薬にもならぬような代物です。

   ぼくらは死に至るまで
   なおも逃走しつづけなければならない
   歴史という皮膚におおわれているばかりではない
   存在そのものが一枚の皮膚なのだから
       田村隆一「父 逃走ーホルスト・ヤンセン展にて」より

追記
http://www.yumebi.com/acv04.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AC
ホルスト・ヤンセンはこんな人なんですね。昔、ハンブルク美術館は訪ねたことはありますが、記憶にありません。北斎というよりも、エゴン・シーレの影響が強いような気がします。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/
明日発売予定の中公新書の内、亀田俊和氏の『観応の擾乱』は楽しみにしています(呉座氏の『応仁の乱』ほどのベストセラーにはならないと思いますが)。また、著者の吉原祥子氏は知らないものの、『人口減少時代の土地問題』は面白そうですね。 
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「江戸時代の最初の百年間は、むしろ凄まじい「環境破壊の時代」」(by 磯田道史)

2017-07-19 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月19日(水)09時37分5秒

速水融編『歴史のなかの江戸時代』(藤原書店、2011)は、速水氏が1977年に東洋経済新報社から出した同名の対談集に、その後行なわれた若干の対談・座談を付加して仕立て直した本ですが、末尾の磯田道史との対談を読み直してみたところ、非常に良い内容でした。
実は去年3月、ちょこっと否定的なことを書いてしまったのですが、これは言い過ぎでしたね。

速水融氏とエマニュエル・トッド
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b239c22e2246c22f0345a734821afb09

ミズタニ名誉教授やカルベ教授の著書を読んだ後では、例えば次のような箇所に注目してしまいます。(p414)

-------
 江戸前期は環境破壊の時代

〔速水〕いま日本の論壇は、一種の「江戸時代ブーム」が真っ盛りです。江戸時代というのは、少なくとも初めと終わりを除けば、何かとても幸せで、平和で、日本古来の文化にあらゆる層が浸ることができた時代であった、と。とくに文化史では、そうした面が強調されがちです。しかし、歴史人口学の立場から言えば、江戸時代がそう語られるほど幸せな時代だったとは決して言えません。
〔磯田〕そうした通俗的江戸論については、僕自身も、いくつかの問題点を論じています。もちろん立派な面もあったけれども、環境にしても、識字率にしても、過大評価されすぎている。
〔速水〕たとえば平均寿命。諏訪地方の例で言えば、十七世紀前半で平均三十歳未満です。それが幕末になると、おおよそ三十歳代後半くらいまで伸びる。明治期になると、四十歳前半というところです。実際は、もっと長く生きた人もたくさんいたわけですが、平均寿命がこうした値になるのは、疫病などで働き盛りの二十代、三十代の死亡が多かった一方で、一歳、二歳といった乳幼児の死亡がとくに多かったからですね。諏訪藩の宗門改帳を見ても、一組の夫婦が八人から一〇人の子供を産んでも、多くの場合、その半分は二歳、三歳で死んでいる。こういう事態を、当時、生きていた人々はどう思ったか。当たり前だと思って、悲しみもしなかったのか。自分たち夫婦が産んだ子供が生まれてすぐ死んでしまえば、やはり悲しかったはずだと僕は思うんですよ。現に、子供を弔う小さな墓が東京にもたくさんある。そういうこと一つとっても、江戸時代は決して幸福なだけな時代ではない。ある限定的な意味では、「江戸時代にすでに近代は始まっていた」とは言えるにしても、もっと注意して江戸時代史像をつくっていかなければならない。決して、バラ色一色にしてほしくないと思います。
------

ミズタニ名誉教授やカルベ教授は、単に地域差に鈍感なだけでなく、専ら文化史に着目したために「バラ色一色」の江戸時代史像を描くことができた訳ですが、宗門改帳のような史料を地道に分析している歴史人口学者から見れば、こうした江戸時代史像は虚像に近いものでしょうね。
この後に続く磯田氏の発言は、まるで武井弘一氏の『江戸日本の転換点 水田の激増は何をもたらしたか』(NHKブックス、2015)の要約のようです。

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〔磯田〕「江戸時代は環境に配慮した時代だった」といった議論もよくなされますが、少なくとも江戸時代の最初の百年間は、むしろ凄まじい「環境破壊の時代」です。山の植生を調べても、荒れに荒れている。それこそ、速水先生が経済社会の誕生を支えるものとして、耕地面積の拡大を指摘されていますが、耕地がわずか百年ほどで二倍近くに増えるというのは、一体何を意味したか。肥料をとるために、山も、八合目、九合目より上の方だけ、やっと木を残して何とか治山するような状態です。だから洪水が何度も襲ってくる。日本の十七世紀は、まさに環境破壊の世紀だった。自然とさんざん戦って、環境を破壊した後の一七〇〇年頃にようやく、人口増加も落ち着き、ある意味で「閉鎖系」としての日本列島の中で環境と折り合いをつけるところにまで達した、というのが、実は正確なところです。
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「慶応大学の速水融教授は日本での私の最初の助言者」(by スーザン・B・ハンレー)

2017-07-17 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月17日(月)11時19分5秒

『江戸時代の遺産─庶民の生活文化』(中公叢書、1990)は、ウィキペディアには対応する英文著書がないので、あれれ、と思ったのですが、指昭博氏の「訳者あとがき」によれば「本書は著者が日本の読者を対象として新たにまとめられたもの」(p233)だそうですね。
同書「あとがき」には、日米の歴史研究者間の交流が具体的にどのように展開されたのかを知る上で、なかなか興味深い記述が続きます。(p230以下)

------
 著者というものは、だれしも自分自身の作品は独力で作り上げたものだと考えたいものです。しかし、実際にはだれであれ他の多くの人々に負うところがかなりあります。本書もその性格上、日本の多くの方々の助力がなければ完成することはできなかったでしょう。一〇年以上親しくしていただいている京都の歴史学者のご夫妻にいちばん初めにお礼を述べたいと思いますが、どちらの御一方に先に感謝すべきか決めかねますので、西洋流に「レディ・ファースト」で、まず鳴門教育大学の脇田晴子教授に謝意を表したいと思います。そして、大阪大学の脇田修教授にお礼申し上げます。ご夫妻には生活史研究の最初から助けていただきました。さまざまな史料をお示しいただき、その解読を助けていただいたばかりか、西日本各地の案内もしていただきました。それに、お宅に泊めていただいた回数も数えきれません。ご夫妻は私にとって「良き助言者」以上の存在です。
------

ということで、脇田晴子・修氏への謝辞が最初に挙がっています。
脇田晴子氏は去年亡くなられましたね。

「女性史研究の歴史学者、脇田晴子さん死去 文化勲章受章」(朝日新聞、2016.9.28)
http://www.asahi.com/articles/ASJ9X3FT0J9XPTFC006.html

ついで、翻訳者と編集者への謝辞の後、速水融氏の名前が出てきます。

------
 慶応大学の速水融教授は日本での私の最初の助言者で、先生のもとで歴史人口学と宗門改帳を読むことを学びました。生活史を研究するうえで、慶応大学の速水教授を中心とするグループから受けた影響の大きさをいまさらながらに認識しています。というのも、当時は、生活史の研究は自分自身の考えで決めたことだと思っていたのです。大阪大学の安場保吉教授には前近代の生活水準について、公での、しかし温かい学問的議論を通じて、私が自分の立場を形成し、練り上げるのを助けていただきました。金沢大学の中野節子さんは江戸時代の原史料、とくに他人に読ませようとして書かれたのではない─ましてや二〇世紀のアメリカ人が読むようには書かれていない─日記類を通じて、私の研究の進展を助けて下さいました。
------

「エール大学のいくぶん生意気な大学院生であった一九六〇年代」の若手アメリカ人研究者にとって、「マルクス主義の枠組みを用いている日本の歴史家たち」が作り上げた「封建的な江戸時代の後進性や停滞、さらにこの封建制度のもとでの農民の苦労や搾取を強調する」歴史像は本当に息苦しいものに感じられたでしょうが、その息苦しさを突破する上で先ず参考になったのは、やはり速水融氏の歴史人口学なんですね。
速水氏は1929年生まれでスーザン・ハンレー氏より10歳上ですが、速水氏自身も若い頃は自らが進むべき学問的方向がなかなか見つからず、三十代半ばでの留学を契機に歴史人口学に目覚めるまではけっこう苦労されたようなので、時期的にはそれほど先行していた訳でもなさそうですね。

【復活!慶應義塾の名講義】
「苦しかった講義、楽しかった講義~歴史人口学・勤勉革命・経済社会~」
http://keio-ocw.sfc.keio.ac.jp/j/meikougi_5.html
http://keio-ocw.sfc.keio.ac.jp/j/meikougi/Prof_Hayami_lec.pdf

さて、著者は「特に次の方々にはお礼申し上げたいと思います」として、生活史研究に助力してくれた石毛直道・平井聖・大河直躬・鬼頭宏・桑原稔・白木小三郎・小泉和子・田中綾子氏の名前を挙げた後、アメリカの研究者へも謝辞を述べます。

------
 また、アメリカ合衆国の何人かの人々にも感謝しなくてはなりません。エール大学名誉教授ジョン・W・ホール先生には、最初に人口研究を勧めていただき、物質文化についての論文を書くように求めていただいたのも最初でした。『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・スタディーズ』編集部のマーサ・レインからいろいろ有意義な論争をふっかけられてきたことにも謝意を表したいと思います。最後に、夫のコーゾー・ヤマムラについて一言。彼はもっとも厳しい批判者で、おかげで私の仕事の進展は何度もスピード・ダウンすることになりました。しかし、結局は、その批判によってさらに良い作品を生み出すことができました。
------

ということで、日本の研究者夫妻への謝辞に始まった「あとがき」は「夫のコーゾー・ヤマムラ」への謝辞で大団円を迎えており、なかなか均整美がとれていますね。
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「エール大学のいくぶん生意気な大学院生であった一九六〇年代」(by スーザン・B・ハンレー)

2017-07-17 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月17日(月)10時07分47秒

スーザン・B・ハンレー氏、ウィキペディアには日本語版はなく、英語版もあっさりした記述ですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/Susan_Hanley

『江戸時代の遺産─庶民の生活文化』(中公叢書、1990)の脇田修氏による「解説」の冒頭には簡明な著者紹介があります。(p220)

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 著者であるスーザン・B・ハンレー氏は一九三九年アメリカ合衆国に生まれ、ハーバード大学のラドクリフ・カレッジの出身で、イェール大学大学院でジョン・W・ホール教授の指導を受けた。現在はワシントン大学教授で、海外でも唯一といってよい日本研究の専門誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・スタディース』の創設に参加し、その編集長を務めるアメリカにおける第一線の日本研究者である。著書・論文としては、これも日本研究者として令名の高い夫君コーゾー・ヤマムラとの共著である Economic and Demographic Change in Preindustrial Japan 1600-1868, Princeton U.P.1977.(邦訳『前工業化期日本の経済と人口』速水融・穐本洋哉訳、ミネルヴァ書房、一九八二年)などがある。
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また、著者自身の「序」には、『前工業化期日本の経済と人口』執筆に至る経緯として、

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 一九五〇年代末に、ハーバード大学で日本についての研究を始めたとき、二つの点が気にかかっていた。まず第一に、日本も欧米諸国もともに封建制と工業化を経験したという事実にもかかわらず、なんと日本人は欧米人とは違っているのだろう、ということであり、もうひとつは、一九世紀には、たいへん貧しい国民であり、西洋に遅れをとっていて、そのため工業化も遅れた日本人が成し遂げたことが、まさに「日本の奇跡」というべきものであった、という点である。
 日本が工業国として経済的に成功を収めるとともに、こういった思いが解消されていくどころか、むしろ、ただ人並みにというばかりでなく、学問的なレベルでも、その思いは強まった。マルクス主義の枠組みを用いている日本の歴史家たちは、封建的な江戸時代の後進性や停滞、さらにこの封建制度のもとでの農民の苦労や搾取を強調する。日本およびアメリカの非マルクス主義的な研究者も、伝統的な経済と急速に工業化した近代日本とを切り離して、明治維新を日本史における大きな分水嶺のひとつと考える。
 エール大学のいくぶん生意気な大学院生であった一九六〇年代、既成の学者の結論に疑問をいだき、再解釈しようとしていた私は、ジョン・ホール教授の勧めによって、新しい研究が示していたように江戸時代の経済が成長していたのであれば、人口学者のいうような「堕胎や間引き」が日本人のあいだで広く行われていたのはなぜか、という謎を追究することになった。
 この問題についての私の最終的な結論は、日本人は人口増加を調整していたのであり、それも赤貧のためではなく、自分たちの生活水準を維持、向上させようとしていた。「堕胎・間引き」といった過激な方法をとったのは一部で、それよりは、一家に一人の息子にしか結婚を認めないとか、経済的な後退期には結婚を遅らせる、農村では一家を養うのに十分な一定の土地がなければ新たな世帯を作らせない、といった社会的コントロールがごく普通に行われていたことのほうが重要である、というようなものであった。このような発見は、夫のヤマムラ・コーゾーの協力を得て、一九八二年、ミネルヴァ書房から『前工業化期日本の経済と人口』として日本語訳を出版した。
-------

との説明があります。(p3以下)
『前工業化期日本の経済と人口』はスーザン・ハンレー氏が主導したもので、ヤマムラ・コーゾー氏は協力者という位置づけなのですね。
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E・H・ノーマンと「戦後日本の倒錯した悲喜劇」

2017-07-15 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月15日(土)11時18分57秒

私はもともと近世史に全く疎く、去年、エマニュエル・トッドの『家族システムの起源』に登場する「中切」の謎を追いかけていた頃は、まるで暗闇の中をトボトボと歩むような気分だったのですが、今回、 渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』を出発点として少し勉強してみて、なんとか近世史への橋頭堡は築けたような感じがしてきました。
反面、飢饉の歴史などを追ってみて些か疲れもしたので、そろそろ別の方面に行こうかな、と思っています。

さて、歴史そのものより歴史研究者に着目するのが私の流儀ですが、水谷三公氏と苅部直氏はなかなか興味深い研究対象ですね。
水谷氏の場合、江戸への過度の思い入れの原因ははっきりしています。
高階秀爾・田中優子編『江戸への新視点』(新書館、2006)所収の同氏の「3 体制と役人」では、英国外交官オールコックとパークスの幕府役人への悪口を紹介した後、次のような記述があります。(p50以下)

------
【前略】また、革命政権が旧体制を褒めないのは政治的に当然だが、江戸体制を救いようのない頑迷固陋と斬って捨てた明治の政治的指導層の言動にも、超大国英国の口移しの気味が感じられる。
 こうして定着した江戸のイメージは、歴史研究と叙述の指針としては不適切だが、たとえば旧ソビエト・アカデミーの官製史学に比べれば、なお我慢のしようはあった。ところが、明治末(ニ十世紀初頭)以降に登場する社会主義理論家やマルクス主義学者たちは、明治の「絶対主義的官僚国家」をやかましく非難する反面で、江戸の体制を歴史の進歩に取り残された、非人道的な封建的専制体制と批判する点で、英国外交官や明治政府の上をいった。その結果、マルクス主義史観は明治国家の官制史観と奇妙な癒着を起こし、歴史認識の複雑骨折に輪を掛けることになった。
 たとえば、『日本における近代国家の成立』(岩波文庫、一九九三年)の著者として知られ、第二次大戦後、カナダ人外交官として占領期日本に滞在したE・H・ノーマンは、マルクス主義が欧米知識人のあいだに流行していた当時の英語圏読者の間に、江戸の庶民が虚偽と抑圧の政府によって収奪され、苦悩していたという画像を広めた一人である(ちなみに、日本の「進んだ」読者が、長くこの本を参考に江戸を考え、論じるという、戦後日本の倒錯した悲喜劇が、私の背を江戸研究に押しやった)。ノーマンの本を今日なお手にとる読者がいれば、その青春と歴史叙述に深い刻印を刻んだマルクスも、オールコック同様、ヴィクトリア英国の空気をたっぷり吸い込んだ人だった事情に思い当たるだろう。つまるところ、これらのひとびとにとって歴史は、神に導かれて正義の王国に進撃する「真の文明」と、悪魔に誘われ右往左往はするが、最後には「進歩」から見離され、破滅を免れない人間との抗争にほかならない。だとすれば、江戸の役人には、悪の帝国を支える小悪魔以外の役どころは残らない。
------

「進んだ」読者がE・H・ノーマンの『日本における近代国家の成立』のような偏った書物を「参考に江戸を考え、論じるという、戦後日本の倒錯した悲喜劇」への憤りが、水谷三公氏の江戸時代研究の出発点なんですね。
このような動機は分からないでもない、というか非常に良く分かるのですが、まあ、ハンレー/ヤマムラの『前工業化期日本の経済と人口』を見ただけで盛岡藩には天明飢饉などなかったと思い込んでしまう水谷氏にも相当な問題があります。
水谷氏が一番駄目なのは日本国内における地域差への感受性が絶望的に乏しい点で、『ラスキとその仲間』の著者略歴によれば「三重県に生れて、奈良県に移」り、東大入学以降はずっと東京で暮らしているらしい水谷氏には、巨大都市江戸への繊細な感受性はあっても、地方、特に水稲栽培の北限だった盛岡藩あたりへの感受性は皆無ですね。
安場保吉氏の書評を読む限り、ハンレー/ヤマムラの『前工業化期日本の経済と人口』は、それ自体は決して悪い本ではないようですが、都会人ミズタニの感受性の偏りを妙に刺激してしまったようです。
上記引用に続く部分にもハンレーの名前が登場するので、水谷氏はハンレーに相当影響を受けているようですね。

-------
 ただ、江戸の役人を生理的に嫌悪したオールコックすら、「専制体制」にもかかわらず、江戸時代の庶民が平和で豊かな生活を享受していることを認めていた事実を忘れるならフェアではない。幕末のある日、首都江戸を遠く離れて田園を旅行したオールコックは、ヨーロッパの農村に見られない豊かで満ち足りた生活を送る庶民たちの姿を実見する。そのとき受けた印象について、これが「圧政に苦しみ、苛酷な税金を取り立てられて窮乏している土地だとはとても信じられない」と述べている。
 オールコックが農村観察から得た直感的印象が大筋で正しく、当時の農民が比較的軽い税負担と緩やかだが確実に上昇する生活水準を享受していた事情は、たとえばS・ハンレー『江戸時代の遺産』(中央公論社、一九九〇年)による検証がある。
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私もスーザン・B・ハンレー『江戸時代の遺産─庶民の生活文化』をパラパラ眺めてみましたが、この本もそれ自体は決して悪い内容ではありません。
しかし、日本に生れた研究者であれば、地方によっては、およそ「比較的軽い税負担と緩やかだが確実に上昇する生活水準を享受」できない農民も多かったことへの想像力は持っていただきたいものですね。
さて、ミズタニ名誉教授の場合、要するに野暮ったい戦後歴史学の「貧困史観」への反動、ということで説明できそうですが、ソビエト連邦崩壊の翌年、1992年に出た『江戸は夢か』の内容を四半世紀後、2017年になっても疑わないカルベ教授についてはどう考えるべきなのか。
ドン・キホーテに無批判に追随するサンチョ・パンサ、カルベ教授については別途検討が必要かもしれません。

>筆綾丸さん
>常習犯の盛岡藩

盛岡藩、いろんな点でけっこう変わっていますね。
妙な興味が湧いてきたので、継続的に少しずつ調べてみるつもりです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

豚に歴史はありますか 2017/07/13(木) 22:11:35
小太郎さん
前に引用された文に(7月9日)、
-----------------
われわれは、そうした政治が幕藩体制のなかで許容された理由、例えば幕府への人別書上(報告)の際は毎回ほとんど同じ数値を用いて憚らず、他方でそれが受理された根拠を知りたいと考える。
-----------------
とありますが、ほんとに知りたいところですね。常習犯の盛岡藩など取り潰されていても何の不思議もなかったはずなんですが。

本物の真珠と偽物の真贋と同じように、本物の豚に対して偽物の豚もあるはずですが、後者について、水谷氏はどのようなものを想定しているのか、よくわかりませんでした。著作は全部返却したので、確認できません。水谷氏とは無関係ながら、豚に歴史はありますか、という高名な宣命を思い出しますね。

https://abematimes.com/posts/2654173
水谷・苅部両氏の著作などどうでもいいのですが、この将棋にはしびれました。
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「ほら、あれがラスキさ。例のまがいの真珠をほんものの豚に撒いている」

2017-07-13 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月13日(木)11時07分45秒

天明飢饉に関する本や論文をまとめて読んでいると、さすがにちょっと気分が落ち込んできますね。
盛岡藩における天明飢饉時の状況については、例えばウィキペディアには、

-------
南部藩はそもそも生産性が低く気候条件も悪く、藩の治政も歴代目立ったものはないため、江戸時代230年間を通して約50回の凶作・飢饉があったと記録されている。これほどの飢饉を経験しながらなお、盛岡藩の飢饉対策はお粗末なままであった。 天明3年、土用になっても「やませ」によって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。また、気象不順という自然災害だけに原因があるわけでなく、農村に対する年貢収取が苛烈であり、それが限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥っていた。結果、7万5千人を超える死者を出した。これは盛岡藩総人口30万人の4分の1に相当する。飢えた領民は野山の草木や獣畜を食べ尽し、領内各所で人肉食の記録が残されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89

とあります。
この7万5千人という数字については特に研究者の合意はないはずで、あるいは諸史料を博捜してその誤りを正すことは可能かもしれません。
しかし、ハンレー/ヤマムラの『前工業化期日本の経済と人口』だけに依拠して、盛岡藩には飢饉は存在しなかった、むしろ人口が増えたのだ、と主張するのは、風車に向かうドン・キホーテ的な行為のような感じがして、ちょっと付き合いきれないですね。

>筆綾丸さん
8日の「本物の真珠と本物のブタ?」で筆綾丸さんが引用されていた『丸山真男ーある時代の肖像』の「本物の真珠が本物のブタに食い散らかされたような印象」という表現が気になって、『ラスキとその仲間─「赤い三〇年代」の知識人』(中公叢書、1994)を読み直してみたら、次のような記述がありました。(p311以下)

------
「なぜなのだろう、なぜなのか? この人たちはどうして全世界に嘘をついているのだろうか? 有名なヒューマニストたちがわたしたちを、わたしたちの生活を、名誉を、品位を無視するのはなぜだろうか?」。スターリン体制のもとで、いやいやながらも海外からの親善訪問客と会見を重ねていたらしい音楽家のショスタコーヴィチは、こんなふうに煩悶したと言われる(ソ連当局によれば、回想記は偽作であることになるらしい。しかし、たとえショスタコーヴィチ本人がいわなくとも、同じような疑問をひそかに胸にしまいこんだまま生きていたロシア人は多かったと思う)。ショスタコーヴィチ自身の回答は、これら外国から来るソ連讃美者はみな、自分たちの快適な生活だけしか考えない「いやらしい子供」に過ぎない、だから真面目にうけとったり、尊重してはならないということだった─つまりこれが、芥川を借用した理由でもある。
 安全地帯に身をおいたひとりであるこちらに、なにか言い訳があるとすれば、ソ連讃美時代にも、この手の「人道的進歩主義者」を醒めた目で見ていた人間が少なくなかったということくらいだろうか。スターリンとの会見も実現し、ソ連側の歓迎に気をよくしていたラスキが、モスクワでのパーティで大勢のソ連有力者からなる取り巻きに囲まれ、理性と説得によってスターリンの不安を取り除けば、世界平和と社会主義ヨーロッパの実現は目前と、「対ソ宥和」に意気盛んだった時のはなしである。その姿を離れた場所から眺めていた労働党訪ソ団員の一人が、「ほら、あれがラスキさ。例のまがいの真珠をほんものの豚に撒いている」と呟いたという。
------

水谷氏は「豚に真珠」の比喩が本当に好きなようですね。
なお、芥川を借用云々はp310に出てきます。

------
ラスキ同様、若者に愛読された芥川龍之介を借用すれば、ラスキに代表される「インテリはマッチ箱に似ている。重大に扱うのはばからしいが、重大に扱わなければ危険である」。
------

「ショスタコーヴィチの証言」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「本物の真珠と本物のブタ?」
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8994
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天明の浅間焼けと飢饉の関係

2017-07-12 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月12日(水)10時50分45秒

盛岡藩における天明飢饉の状況については細井計氏に「盛岡藩領における天明の飢饉」(『東北福祉大学研究紀要』第34巻所収、2010)というそのものズバリの論文がありますが、一般人には少し入手に手間がかかるかもしれないですね。
いくつか飢饉関係の本を見てみたのですが、天明の飢饉について詳しくて比較的入手しやすい本としては、おそらく菊池勇夫氏(宮城学院女子大学教授)の『飢饉の社会史』(校倉書房、1994)がベストではないかと思われます。
包括的なタイトルにもかかわらず、この本は実際には天明飢饉の研究であって、盛岡藩の状況と飢饉対策、というかその不在を他の東北諸藩と比較することができますね。
菊池氏には『近世の飢饉』(吉川弘文館、1997)という著書もあって、こちらも入手しやすいですね。
『近世の飢饉』を読んでいて、自分が天明の飢饉について、ひとつの大きな誤解をしていたことに気づきました。
群馬県出身の私にとって、天明三年(1783)という年は浅間山の大噴火の印象が強く、何となく天明飢饉も浅間山の噴火の影響のように思っていたのですが、浅間山の噴火は旧暦の7月ですから、当年の凶作にはそれほど影響はないんですね。
『近世の飢饉』には、

------
天明三・四年の大飢饉
 天明の飢饉は広く天明年間(一七八一~八九)における諸国の大凶作・飢饉・米騒動などを総称して使われることが多いが、餓死人を大量に出したという狭い意味では、天明三年秋作の冷害による大凶作を発端とし、翌年にかけておびただしく死者を出した東北地方を中心とする飢饉としてとらえるべきであろう。天明三年の幕府に届けられた被害は、弘前藩が皆無作、八戸藩が表高(本高)二万石のうち一万九二三六石余りの損毛、盛岡藩が表高一〇万石のうち六万五六七〇石の損毛、また新田高一四万八〇〇〇石のうち一二万三五五〇石の損毛、仙台藩が五六万五二〇〇石の損毛(支藩である一関藩三万石の損毛二万六三二〇石が別に届けられているので、表高五九万五六石のうちか)、中村(相馬)藩が表高六万石に新田改出高を合せた総石高のうち八万七六三〇石の損毛(新田高は三万八〇〇〇石か)などとなっている。
 損毛高の数字がどのように算出され、あるいは決められるのかについてはよく吟味しなければならないが、その点をひとまず捨象しても、東北地方の北部および太平洋側の地域がヤマセの影響によって壊滅的な損害を受けたことは間違いあるまい。浅間山噴火による微粒の火山灰が成層圏に達し、これが偏西風によって地球全体に広がり、太陽の照射をさまたげ、世界的な気温の低下を招く原因になったといわれる。そのために凶作が続き、一七八九年のフランス革命を勃発させたという説もあるくらいだが、天明三年の当該地方の大凶作に関していえば、七月の浅間山の噴火は新暦では八月にあたるので直接の因果関係が乏しく、基本原因はヤマセとみるべきである。
------

とあります。(p157以下)
前掲・細井計氏の「盛岡藩領における天明の飢饉」(『東北福祉大学研究紀要』第34巻所収、2010)にも、

------
 天明二年の寒中は暖気で雨がたびたび降ったようであるが、年が明けた天明三年正月からはかえって「余寒甚敷堪難し」といった状況になった。五月の田植時分は霖雨、冷気となり、田畑すべて「草生甚不宜、諸人眉をひそ」め、六月は土用になっても「暑気薄く、たまたま日の光りを見れハ間もなく曇り、辰巳風、丑寅ノ風、或ハ北風ニて浴衣用る日とてハ稀々ニして日々雨天」が続いた。七月に至っても雨天続きで「更ニ残暮〔暑〕なく秋涼弥増、稲の出るも有と雖、多分ハ穂不出」、「(七月)上旬ニ至て大に地震ひ、雷雨度々」、これは浅間山の噴火のためで、これ以来、「別て秋冷強く、二百十日前後丑寅の風強く、四、五日昼夜吹通し、凡夏の初より九月末迄霖雨ニて、終に田畑実のりなく大凶作」になったという。
-----

とありますね。(p23、出典注記略)

「天明3年の大噴火」(浅間火山博物館サイト内)
http://www.asamaen.tsumagoi.gunma.jp/eruption/
「天明3年(1783年)浅間山噴火」(国土交通省利根川水系砂防事務所サイト内)
http://www.ktr.mlit.go.jp/tonesui/tonesui00023.html
「天明の浅間焼け」(「群馬風便り」サイト内)
http://www.geocities.jp/gunmakaze/column/08asamayake1.html
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山川出版社・新版県史シリーズ『岩手県の歴史』より(その2)

2017-07-11 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月11日(火)11時28分13秒

つづきです。(p227以下)

-------
盛岡藩の四大飢饉●

 盛岡藩の飢饉のちでも、とくに元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は被害が甚大で、四大飢饉と称されている。
【中略】
<天明の飢饉> 天明三(一七八三)年から同七年にかけて発生した全国的な大飢饉で、とくに奥羽地方の被害が甚大であった。毎年のように気候不順で霖雨が続き、夏の土用中にも綿入れを着るほどの典型的な冷害となった。天明三年の盛岡藩は、「五月中旬より雨繁々降り候て稲長じかね、土用入り候ても北風吹き、暑気これなく、不時の冷気にて不順に御座候故、田畑不熟出穂あい後れ候上、八月十七日、十八日の両朝雪霜降り候場所もこれあり」(『雑書』)といわれ、十八万九二二〇石の減収となった。
 盛岡藩では、城下の東顕寺と報恩寺に救小屋を設けて飢人の救済に乗り出したが、それも有名無実に近く、飢人はおびただしい数に達した。東顕寺境内には文化七(一八一〇)年建立の餓死者供養塔があるが、それには天明三年十一月から翌年三月までのあいだに、餓死者四九〇人を供養したと記されている。全領ではついに餓死者四万八五八人、病死者二万三八四〇人、空家一万五四五軒、他領への逃散者三三三〇人を数えるに至った。そのうえ火付け・盗賊・米騒動などが各地に発生し、牛馬の肉はおろか人間の肉まで食べるものさえでるありさまであった。天明五年と六年も霖雨・低温・大風雨が原因で、それぞれ約一九万石と一八万石の減収となって、大飢饉に発展した。江戸時代中期の紀行家としても有名な菅江真澄は、『そとが浜風』のなかで北奥の農民の逃散の状況を伝えている。
------

一般書なので、各種数字についての出典の明示は特になされていません。

東顕寺・餓死者供養塔

>筆綾丸さん
ご引用の箇所は、『江戸は夢か』の中でも特に奇妙な饒舌に流れている部分ですね。
1932・33年のウクライナの大飢饉にはずいぶん同情的な水谷氏が、なぜにハンレー・ヤマムラ著だけに基づいて盛岡藩における天明の大飢饉を夢まぼろしと主張できるのか。
ちょっと不思議な感じがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

時間の無駄? 2017/07/10(月) 22:40:01
『江戸は夢か』をパラパラ捲ってみました。
先に小太郎さんが引用された箇所のすぐ後で(162頁~)、
--------------
 しかしなんのことはない、これらは貴族や関係者が、様々な目的から「粉飾」を加え、自分たちの困窮を訴える目的で作成した記録・文書でしたから、そこに残された貴族窮乏化の世界は、ずいぶん「内実」とはかけはなれたものになりました。
(中略)
「文書はそれによって利益を得るところに残る」というのが古文書学の常識だそうですが、その手前に「文書はその作成者に利益をもたらすように書かれる」という常識を確認する必要があるかもしれません。
--------------
などと言っておきながら、「藩が内部行政に用いたと思われる「藩日誌」によると、この間僅かに二五〇人ほどですが、人口は逆に増加していることになります」(160頁)とあって、「藩日誌」の記述をまるで疑っていないのは、批判精神の欠如という以前に、ただただ呆れるばかりです。
水谷氏の杜撰な記述を引用して、
--------------
 これに対して、当時の農村は貧しく、百姓たちは重い年貢負担に苦しめられ、貧困にあえいでいたという歴史像が、いまだに根強く流布しているのはなぜなのか、水谷三公『江戸は夢か』(一九九二年初刊、ちくま学芸文庫、二〇〇四年)は、その問いに対して、興味深い解答を提示している。(『「維新革命」への道』116頁)
--------------
と賛同している苅部直氏も同類ですね。つまり、「軽薄も業界の通弊であるらしい」(『江戸は夢か』299頁)。そうして、『「維新革命」への道』を絶賛する細谷雄一氏は、「仲間同志の内輪褒めに余念がない」(『江戸は夢か』298頁)ただのお調子者ということになりそうです。こんな人たちの著作を読むのは、だんだん、時間の無駄のような気がしてきました。

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20170710_28/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%BB%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6
劉暁波の入院先をNHKが報道していて、どうも見たことがある建物だなと思ったら、瀋陽の中国医科大学附属第一病院でした(山崎正和氏の父君の元勤務先)。
ウィキに「新生中国で最初に設置された国立の医科大学」とあるので、死ぬときくらいは名門の大学病院にしてやるよ、という中国政府の有難い配慮と考えていいのでしょうね。

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山川出版社・新版県史シリーズ『岩手県の歴史』より(その1)

2017-07-11 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月11日(火)11時06分22秒

国会図書館サイトで検索した限りでは、『前工業化期日本の経済と人口』の書評は安場保吉氏のもの以外ないですね。
そこで、『前工業化期日本の経済と人口』の内容の検討はひとまず終えて、一般的には盛岡藩の天明飢饉時の状況がどのようなものだったと言われているかを紹介したいと思います。
入手の容易さも考慮して、最初は山川出版社の新版県史シリーズの一冊、細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏著『岩手県の歴史』(1999)から少し引用します。(p226以下)

『岩手県の歴史』
https://www.yamakawa.co.jp/product/32031

--------
9章 社会の動揺と学問文化
1 くりかえす飢饉と一揆

周期化する凶作・飢饉●

 東北地方の太平洋側では、初夏にヤマセとよばれる冷涼な北東風が毎年のように吹く。ヤマセは霧や霖雨をともなって、藩政時代にしばしば凶作・飢饉をもたらした。明治期以降になっても、ヤマセによる冷害が凶作をひきおこしたことがある。この被害をうけた農民の実態を、詩人の宮沢賢治は『雨ニモマケズ』のなかで、「サムサノナツハ、オロオロアルキ」と表現した。
 凶作の原因は霖雨・低温などによる冷害をはじめ、旱魃・風水害・病虫害・霜害などの自然的な災害を中心として、ときには野獣による被害の場合もあった。凶作を契機にして、食料が欠乏し多数の飢人と餓死者を出す現象を飢饉という。下野(栃木県)黒羽藩の家老鈴木正長は「きゝんは人間世界の大変なり」といって、貯穀の必要性を力説した。
 盛岡藩領の不作は江戸時代に大小あわせて九二回発生している。実に三年に一度の割合で不作にあっていた。減作率が前年比五〇%以上の凶作は、四年に一度の割合で発生し、さらに飢饉化した年は一七回を数える。これは一六年に一度の割合で大凶作・飢饉に襲われたということになる。「近ければ三、四十年の間にあり、遠くとも五、六十年の内には来るとおもうべし」(『農諭』)と指摘されているように、一般に近世の飢饉は周期的に来襲した。ところが盛岡藩の場合は、それを上回って発生頻度数では国内最高を示し、それだけ餓死者も多かったということになる。
 北奥に位置する盛岡藩は、領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野に占められて耕地が少なく、生産力も低い状態にあった。しかも盛岡以北は水稲経営の限界といってもよい地帯であった。にもかかわらず、石高制にもとづく幕藩制社会はつねに財政的基盤を水稲生産力に求め、畑作より水田を中心とした水稲経営を強制したために、盛岡藩では気象条件に左右されて、畑作よりも田作を中心に凶作の発生率が高くなった。そのうえ、盛岡藩では剰余部分をすべて年貢として収奪しようとしたので、農民の生活は苦しく、そのために凶作の程度は軽くとも、つねに飢饉に転化する恐れをはらんでいた。
 江戸時代の領主権力は、幕藩制的市場構造の特質に規定されて、飢餓移出ともいうべき領内米の江戸や上方への販売を余儀なくされていた。このことが飢饉をうみだす要因の一つでもあった。一方、凶作時に実施された大名領ごとの津留は、他領の飢饉をいっそう激化させた。また凶作や飢饉の対策にしても、それが領主単位で個別に行われたために、政策のいかんによっては飢饉の程度も大きく異なっていた。これらのことを考えあわせると、飢饉は幕藩領主支配のあり方とも深くかかわっており、そういった意味で前近代社会における人為的災害であったともいえよう。
-------

ひとまずここで切ります。
「あとがき」によれば、引用部分の執筆者は岩手大学教育学部教授(当時)の細井計(ほそい・かずゆ)氏ですね。
細井氏は1936年群馬県生まれ、1967年東北大学大学院文学研究科博士課程修了とのことで、語彙や文体から、いわゆる戦後歴史学系の人のような感じはします。
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