学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

もっとも危険なゲーム

2008-07-30 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月30日(水)23時33分59秒

>筆綾丸さん
>長年寺
ドキッとしました。
私の父方の先祖は榛名町室田に住んでいて、この長年寺にお墓があります。
長年寺は網野善彦氏の『無縁・公界・楽』にも、アジールの一例として出てきますね。

>密観宝珠形舎利容器
これも内藤栄氏にそのものズバリの論文がありますね。
http://www.narahaku.go.jp/resources/kiyo/01/kiyo-01-02.htm

>言葉の遊び
危険な遊びでもありますね。
下の投稿で引用した部分、内藤氏は「院政を陰で支えた秘法」という微妙な書き方をされていますが、愛染法は後冷泉天皇を殺したと噂された危険な修法ですからね。
少し検索してみたら、田中貴子氏の「小野仁海と中世王権の成立 ─ 『渓嵐拾葉集』所収「祇園女御説話」の背景・続攷─」がネットで読めるのに気づいたので、そこで田中氏が引用されている『阿娑縛抄』を孫引きしてみます。(p18)

-----------
此法(注・愛染法)以東寺為本事。聊有其故。憚尤多。不可外聞。後冷泉院御時。後三条院東宮御坐之時。小野成尊僧都東宮ノ御侍僧御前祇候之時。東宮御髪梳御之間。御白髪一筋梳落御覧。成尊如何祈是見被仰。有御落涙気。成尊見此御気色。日来不存知候。只任御運罷過候畢。然者賜身暇珠可祈精<ママ>之由申。入籠本寺。愛染王七箇日奉供之間。後冷泉院御悩無程 崩御。東宮令即位給了。但御在位不幾。然而如御本意成就云々。

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00021291
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00090146/kokubungakukou_115_13.pdf
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舎利・宝珠同体説

2008-07-30 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月30日(水)01時00分43秒

>筆綾丸さん
>頼印
『頼印大僧正行状絵詞』の頼印ですね。
私の先祖は榛名山の麓に暮らしていたので、頼印のことが以前から少し気になっています。
http://www.haruna.or.jp/401/57.html?*session*id*key*=*session*id*val*
http://www12.wind.ne.jp/nisikarasu/kurabuchi/bunkazai/bunkazai.html

>無節操な修法
まあ、確かにそうですね。
安産祈願といっても最初は皇胤専門だったらしいので、王権に関係する戦勝・安産限定という意味では多少節操もあったのでしょうが。
内藤栄氏の「生きている遺骨『舎利』-如法愛染王法を中心に」(『美術フォーラム21』第8号、2003)に関係する部分がありますので、少し長めに引用してみます。(p43)

-------------
 開祖空海が始めた後七日御修法は後世の真言僧の手本となり、平安時代から鎌倉時代にかけ舎利を本尊とする多くの修法を生み出すこととなった。中でも醍醐寺周辺の真言寺院の一派、小野流は舎利法や宝珠法の研究に熱心な学僧を輩出し、この種の法会に関して主導的な役割を果たした。ただし、小野流は舎利の解釈という点で大きく二つに分かれ、互いに強いライバル意識を有していた。一つは勧修寺を中心とする小野三流で、これは舎利を一字金輪仏頂の種子ボロンと同体と考え、舎利を一字金輪仏頂法の本尊とした。もう一つは醍醐寺を中心とする醍醐三流で、舎利を宝珠と同体と考え、舎利を宝珠法の本尊としてまつった。今日、真言寺院を中心に法珠形舎利容器が多数残されているが、これは舎利・宝珠同体説の中で生まれたものである。宝珠法は宝珠そのものを本尊とする如意宝珠法のほか、宝珠と関わりの深い様々なホトケを本尊とする宝珠法がある。たとえば、如意輪観音の如意輪宝珠法、尊勝仏頂の如法尊勝報、愛染明王の如法愛染法などである。このような法要では舎利は釈尊の遺骨という本来の意味を離れ、様々な密教尊のパワーを象徴する宝珠としての意味を有している。
 とりわけ、これから取り上げる如法愛染王法は、この明王特有の愛欲や煩悩を悟りに昇華させるという一面を備え、皇胤の誕生、政敵の呪詛や恋愛の成就に効験があるとされた。政権抗争うずまく院政期において皇室専有の修法とされ、院政を陰で支えた秘法であった。日本の舎利信仰が行き着いた一面を見せていると言うことができるだろう。
 如法愛染法を最初に行った人物は、勧修寺の鳥羽僧正範俊であるとされる。範俊は承暦四年(一〇八〇)白河天皇の厄除けと延命を祈願し六条内裏において同法を行った。道場には大壇、敬愛護摩壇、調伏護摩壇の三壇が築かれ、大壇には理趣会曼荼羅を敷き、その上に宝塔を安置し、正面に降三世明王の画像を懸けた。宝塔の中には仏舎利が安置されていたが、範俊によれば舎利は大日如来であり、しかも大日如来が愛染王三摩ちに入った姿であるという。すなわち、舎利・大日・愛染の三者を同体と見なしていた。なお、範俊はその後鳥羽離宮において白河法皇のために如法愛染法と如法尊勝法を修している。
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仏舎利の増減

2008-07-29 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月29日(火)01時07分51秒

>筆綾丸さん
舎利はまるで生き物のように増えたり減ったりしますね。
内藤栄氏の「叡尊の舎利信仰と宝珠法の美術」(日本の名僧シリーズ『叡尊・忍性』、吉川弘文館、2004)p76には、

-------
空海著と伝えられる『御遺告』によれば、仏舎利八〇粒の実体は恵果が自ら作った能作生宝珠(阿闍梨が舎利や香木、漆などを用いて練って作る宝珠)であったといい、空海はそれを大和の室生山に埋めたとも、東寺経蔵に納めたともいう。ただし、本書は空海自著とは認めがたく、平安中期に空海に仮託して成立したと考えられている。仏舎利八〇粒を能作生宝珠とする説も当時流布していた信仰を反映したものと思われるが、この説はその後の舎利信仰に多大の影響を与えることになった。
-------

との一文がありますが、増やす場合、実際に行う作業としては、元となる舎利に香木等を加えて漆でペースト状にし、適当な大きさに分けて形を整え、固まるのを待つということなんですかね。

能作生(のうさしょう)で検索すると、生駒市長福寺の国宝・金銅能作生塔が出てきますが、このお寺さんはやっぱり真言律宗ですね。

http://www.city.ikoma.lg.jp/dm/11/1102chofukuji/110202kongonosa/110202kongonosa.php
http://www.geocities.jp/nara_no_daibutu2/03-tera-kougai/chouhukuji.html
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仏舎利と宝珠

2008-07-27 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月27日(日)01時25分27秒

>筆綾丸さん
うーむ。
これほどの違いがあるとは。

http://jp.youtube.com/watch?v=DRuyhxsGYU8
NHK Symphony Orchestra conducted by Vladimir Ashkenazy.

http://jp.youtube.com/watch?v=2ZbJOE9zNjw
Simón Bolivar Youth Orchestra of Venezuela conducted by Gustavo Dudamel.

スラム街の子供たちに対する教育的効果の観点からは、ポピュラー音楽では全く駄目で、クラシック以外考えられないそうです。
日常生活と切り離された崇高な存在と結びつく可能性が、自分にも別の行き方があるのかもしれないという希望を生み出すのでしょうね。
他方、ラテン系特有の生命力がクラシック音楽の伝統的世界に相当の衝撃を与えているようですね。

>景山春樹氏『舎利信仰ーその研究と史料ー』(東京美術1986年)
これは未読ですが、基本的なことがしっかり書かれた本のようですね。
舎利信仰については、最近、内藤栄氏(奈良国立博物館工芸考古室長)の「生きている遺骨『舎利』-如法愛染王法を中心に」(『美術フォーラム21』第8号、2003)という論文を読みましたが、筆綾丸さんご紹介の事例は如法愛染王法に関連するのかもしれないですね。
正直言って、仏教の素養に乏しい私には内藤栄氏の論文はかなり難しいのですが、以前、この掲示板でも話題になった上川通夫氏の「如意宝珠法の成立」(『日本中世仏教史料論』所収)は内藤氏の見解を批判されており、こちらは更に難解で、素人の私の手には負えません。
ただ、最先端の面白い議論だと思いますので、さわりのみ紹介しておきます。(『日本中世仏教史料論』p277以下)

------------
(前略)舎利またはその変形された宝珠への信仰史として概括される研究史に、疑問を感じる点がある。
 内藤栄「『仏舎利と宝珠』展概説」は、現存遺物に即した美術工芸研究を主軸としつつ、儀礼修法にも注目した仏教史を、インド・中国・朝鮮・日本に目配りして論じられている。文献学の新研究にも留意し、仏舎利のみではなく宝珠との関係を歴史展開の問題として考察された点で、現研究水準を代表する論述だと思う。その論旨の骨格は次のようである(傍点は上川)。
 仏教の根源的信仰の姿たるインドの舎利崇拝は、仏教東漸にともなって東アジア諸国に伝来し、塔に埋納する伝統は日本でも継承された。ところが入唐帰朝した空海が後七日御修法を開始し、請来の舎利を本尊とした革命的転機以来、密教の本尊として浮上した。やがてその強い霊験は人々の願いをかなえる如意宝珠と見なされて期待され、平安後期にはその教義が顕著となって、宝珠を本尊とする儀礼が修されるなど、日本の舎利信仰の独自性へと変遷した。
 この議論には特徴がある。第一は、東漸、伝来、継承、やがて、変遷、といった半ば必然的で自然な信仰史が想定されていることである。革命的とまで位置づけられた空海さえ含めて、歴史的状況の中で価値意識をもち、判断し意志を示す人間主体は問題化されていない。第二は、始源の影響性を時代区分の基準とし、継続的・相互的な交流の歴史を追究しないことである。シャカないしアショカ王時代のインドを伝統の起点に置くことや、中国を媒ちとしてきた日本の舎利信仰の分岐点を空海に置くことは、同じ思考に基づくのであろう。
(※「根源的信仰の姿」「東漸」「伝来」「伝統」「継承」「やがて」「期待され」「変遷」に傍点あり)
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指揮する野獣

2008-07-26 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月26日(土)01時37分29秒

>筆綾丸さん
レスが遅れてすみませぬ。

>家司の通字
これは不思議ですね。
私も前から気になっていました。

>ドタバタ劇
後醍醐が正中の変で何の処分も受けなかったことは非常に奇妙ですが、幕府関係者からすると、持明院統に代えたくても何年か前の「ドタバタ劇」の記憶が邪魔をして、あんな連中は信用できん、てなことがあったのかもしれないですね。


クラシックに殆ど縁のない私ですが、英語学校で紹介されたドキュメンタリー番組をきっかけに、ベネズエラ出身の「指揮する野獣」Gustavo Dudamelと、彼を生み出した同国の音楽教育システム"El Sistema"のことなどを調べておりました。
世界は広く深く、知恵さえあれば変革の余地はたっぷりあるものだな、などと思っています。

http://www.universal-music.co.jp/classics/artist/gustavo_dudamel/gustavo_dudamel.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Gustavo_Dudamel
http://en.wikipedia.org/wiki/El_Sistema

演奏
http://jp.youtube.com/watch?v=S6q7RCAcaBk&eurl=http://blog.watanabe-makiko.com/archives/50535182.html
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院宣

2008-07-23 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月23日(水)01時02分30秒

>筆綾丸さん
古文書論は私のような素人が出る幕ではないですが、筆綾丸の書かれたことには基本的な誤解があるのではないかと思います。
院宣は院の意を奉じて出される書状であり、治天の君以外の院が院宣を出してはいけないということはないですね。
治天の君の立場で出す院宣が、実際上政治的に重要な意味を帯びることが多いだけだと思います。
両統迭立の時代にも、それぞれの所領の関係においては、本所としての立場からの院宣はいくらでも出ているはずです。
筆綾丸さんが紹介されている醍醐寺の例は、本所としての立場からの院宣が多いのではないかと思います。
また、所領関係の重要な判断以外に、例えば鎌倉で火事があったときのお見舞いのようなものも、形式的には院宣となりえますね。

-----------
関東申次と皇位をめぐって抗争中の持明院・大覚寺両統との文書伝達の関係について見れば、公衡の父実兼が関東申次の時、持明院・大覚寺両統宛ての幕府文書を関東申次が一括受理した事例を挙げて、実兼が両統と幕府とをつなぐパイプ(ただし公的なパイプ)のような役割を果たしたことについてはすでに述べたが、この役割は公衡の代になっても変化していない。そのことは、正和四年三月十六日、公衡が、鎌倉の大火を見舞う後伏見上皇院宣・伏見上皇院宣、それに後宇多上皇院宣を関東へ転送するよう六波羅探題に依頼している事実に明らかである(『公衡公記』同日条。記事は本書一三四頁に掲出)。

森茂暁氏『鎌倉時代の朝幕関係』
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-saionji-kinhira.htm

なお、院宣について、佐藤進一氏は「上皇、法皇に近侍する院の役人=院司が上皇、法皇の意をうけたまわって出す文書」と定義されていますが(『古文書学入門』p108)、この点については本郷さんの批判がありますね。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/home.htm
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「京極派歌人とはいかなる人々を指すか─大江茂重の異風─」

2008-07-21 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月21日(月)02時47分22秒

今日は小川剛生氏の『武士はなぜ歌を詠むか』に引用されていた小林一彦氏の上記論文(『国語と国文学』平成16年5月号)を読んでみましたが、京極派風の歌を詠めた尊氏は頭が良い、などと書いていた私にとっては、なかなかショッキングな内容でしたね。

---------
 以上、縷述してきたことを踏まえれば、もはや大江茂重が京極派歌人の一人であることを疑う人はいないであろう。茂重はこれまで京極派であるとは認識されていなかった歌人である。
 だが、はたしてほんとうに、そう断定してよいのであろうか。係助詞「ぞ」、三句末の「て」切れ、字余り、特異句の多さ。反面、掛け詞、縁語、そして歌枕の極端な少なさ。どれをとっても、あまりにも典型的な形で、京極派の特徴が鮮明に出過ぎているきらいがある。だからこそ、なお私としては、石橋を叩いてみたい衝動に駆られるのである。(p93)
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馬鹿同士の水魚の交わり

2008-07-21 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月21日(月)02時17分17秒

井上宗雄氏は「政界人としての為兼」について、

----------
『花園院記』元弘二年三月二十四日に、

抑(そもそも)、為兼卿は和歌・蹴鞠の両道に達し、家芸の[   ]に叶い、奉公多年昵近(じっこん)の間、愛君の志尤も甚し。茲に因りて(はなは)だ寵有り。而るに其の性は猜忌多く、己に附かざる人を以て偏(ひとえ)に不忠となす。権豪の家に於て憚らず、偏に愛君を以て至忠となし、民を御(おさ)むるの大体に暗し。是を以て罪を得。

とある。家芸(歌・鞠)によって伏見院に長く仕え、忠節の念は強烈で、君寵も甚だしかったが、「猜忌」(人の才能を疑い妬み、嫌うこと)の念が強く、権門も遠慮せず、愛君を以て至忠とし、民を治める(政務の)大筋には暗かった、というのである。為兼にとっては自分の仕える持明院統政権の延命・伸長のみ視野に入れて、広く民を治める政治的見識・手法をもたなかった、というのである。
 その出自(家柄)にも依るが、京都政界では君寵以外に政治的基盤の弱い身であってみれば、人事などによって味方を作り、身辺の人々をのみ信じたことなど、猜疑狭量の人とも見られ、政権延命のためには幕府とも妥協し、権謀、裏面工作などを行って、人々から恨み・譏(そし)りを買うことが多かったと思われる。忠君の情熱による自己主張の強さが他への顧慮を欠き、かえって持明院統を窮地に追い込む失敗も招いた(正安・文保の政変も、その失脚と関係があったとみれている)。この辺、政界人としての限界があったと見ることが出来よう。
----------

と書かれていますね(『京極為兼』p257)。
よく分からないのは為兼が二度も流罪になったことで、経緯と原因の不明確な一度目はともかく、正和四年(1315)十二月の二度目の捕縛に至るまでの為兼の行動、特に同年四月の南都西南院での蹴鞠会、春日社宝前和歌披講の豪奢さなど、摂関家や西園寺家の顰蹙を買うのは当然なのに平然とやってのける無神経さは尋常ではないですね。
そして為兼の増長に歯止めをかけない伏見院には、一度目の失敗を反省する知性がなかったのか、二度目の危機を察知するだけの神経の鋭敏さはなかったのか、という疑問を抱かざるを得ません。
結局は為兼のような人物を重用した伏見院が単に愚かだっただけなんでしょうね。
和歌・書道の両道に達してはいても、「其の性は猜忌多く、己に附かざる人を以て偏に不忠とな」し、自分の味方で恩義のあった「権豪の家に於て憚らず」、「民を御むるの大体に暗」かったのは伏見院ですね。
君が馬鹿なら臣も馬鹿。
馬鹿同士の水魚の交わりですね。
ま、花園院としては、仮にそう思っていたとしても、父親のことを悪く書けるはずもありませんが。

>筆綾丸さん
永仁六年(1298)正月七日の捕縛の時は、為兼は既に二年前の永仁四年五月に権中納言を辞して以降、籠居中でしたから、それほど急ぐ必要も大げさにやる必要もなかったんでしょうね。
ただ、捕縛の決定自体は六波羅の独断のはずはなく、鎌倉の明確な指示を受けてのものだったと思います。
正和四年十二月二十八日の捕縛の際は、永仁六年時よりは遥かに地位も高くなり、権勢を振るっていた為兼を、何らかの事情の変化により急遽逮捕する必要が生じたので安東重綱を派遣したのでしょうが、動員されたのはあくまで六波羅軍兵ですね。
しかし、一貴族を捕縛するのに「六波羅数百人軍兵」(玄爾書状)の動員はあまりに大げさであり、直接には伏見院、ひいては広く公家社会全体に向けられた示威ではないかと思います。

>それではなぜ、鎌倉の力を借りなければならぬのか
重事については公家社会では何も決定できず、いちいち鎌倉の判断を仰いでいたのが、この時期の実態ではないかと思います。
関東申次も幕府との連絡を独占していた訳ではなく、実兼からの情報や依頼も、幕府にとってはひとつの判断材料に過ぎなかったのではないですかね。
大覚寺統の関与は、私は当然あったと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ブルックナーを聴きながら 2008/07/19(土) 23:26:14
小太郎さん
ブルックナーの大袈裟な交響曲第五番を聴きながら、いろいろ、妄想してみました。
為兼捕縛について、永仁の時は、六波羅両探題の宗方・宗宣が出動し、正和の時は、両
探題ではなく安東重綱が六波羅の軍兵を指揮していますが、鎌倉のこの権力発動の相違
には、何か意味があるのか。
正和の時も両探題が出動すれば済んだと思いますが、特命全権大使の如き得宗被官が
なぜわざわざ上洛して拘引しなければならぬのか。たかが一廷臣の捕縛にしては、大袈裟
すぎないか。
大覚寺統は関与していないと仮定してのことですが、伏見院の寵臣を取り除くのに、いく
ら関東申次とは言え、実兼の独断でできるとも思えず、事前に後伏見の了解はあったろ
うとは思うものの、それではなぜ、鎌倉の力を借りなければならぬのか、これがわから
ない。朝廷の混乱について、六波羅からの報告を受けた鎌倉が、見せしめのために、
ズンと介入してきたということなのか。
後伏見の書状を眺めていると、為兼の失脚は、実兼の奏上ではなく、後伏見が実兼に命じ
たものではないか、そんな気がします。この書状の前に、伏見から後伏見への詰問状の
ようなものがあり、それを受けて、この書状があるのでしょうが、後伏見は嘘の弁明を
しているような気がしますね。
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radishのように。

2008-07-19 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月19日(土)01時37分5秒

>筆綾丸さん
日野資朝が京極派=持明院統をどのように考えていたのかという問題と、兼好が京極為兼の捕縛話の直後に盆栽の話を配列したのはどのような意図によるものなのか、という二つの問題がありますね。
前者は結局のところ日野資朝の内心の問題であり、判断材料があまりに少ないですね。
他方、二条派の「和歌四天王」のひとりである兼好が京極派に対して、要するに京極派など、ひねくれた盆栽にすぎないと思っており、その意図を日野資朝の二つのエピソードの配列によって示したのだと考えることは、それなりに説得的な推論ではないかと思います。
最近の国文学界では、岩佐美代子氏をはじめとして多くの有力学者が京極派を誉めるので、京極派の悪口は何となく言いづらいのですが、少なくとも兼好にとってみれば、京極派など狭い世界に閉じこもってチマチマした観念論をこね回している鬱陶しい連中であって、根こそぎ捨て去ることができたら気分がよかろう、くらいなことは思っていたような感じがします。

>後伏見上皇書状
辻彦三郎氏が「後伏見上皇院政謙退申出の波紋─西園寺実兼の一消息をめぐって─」で描き出した人間関係は不可解な部分がありますね。
以前読んだときは、どうにも落ち着かない気持ちになってそのままにしていたですが、丁寧に再読してみたいと思います。
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京極派盆栽説

2008-07-18 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月18日(金)01時57分7秒

>筆綾丸さん
伏見院は彼なりの徳政興行に熱意を傾け、和歌のみならず書道の達人でもあり、能力的には歴代天皇の中でも相当優秀なグループの中に入るのでしょうね。
特に、京極派の再評価に大きく貢献された岩佐美代子氏が伏見院を理想的な人物として描いたので、国文学関係者の間では非常に高く評価されていますが、しかし、為兼のような人物の増長を放置していたことだけをとっても、政治家としては問題の多い人ですね。
持明院統の人材不足は、伏見院が個人的に責任を負わなければならない面もあるのではないかと思います。

『徒然草』に登場する日野資朝は、伏見院側近で京極派歌人でもある日野俊光の子として生まれ、持明院統に非常に近かった人ですね。
しかし、彼はある時点で持明院統に見切りをつけて後醍醐天皇に走りますが、『徒然草』第153段と154段を続けて読むと、日野資朝が捨て去った盆栽は、京極派の比喩であり、持明院統の比喩のように思えてきます。
京極派に最も特徴的なのは自然詠ですが、「自然の微妙な動きを、時間の推移、明暗の対比、斜めの光線のうちにとらえた作品」(井上宗雄氏『京極為兼』p185)との評価は盆栽評にそのまま使えそうですし、珍しい素材を求め、字余りを多用することなどは「異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつる」行為のように見えますね。
資朝はある時期までは、京極派=持明院統を「愛するに足れりと思」っていたのに、ある日突然、そのすべてが嫌になり、自分は「かたはを愛するなりけりと、興なく覚え」て、「鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨て」るように、京極派を捨てたのではないか・・・。
うーむ。
冗談で書き始めたのに、我ながらあまり笑えないような気分になってきました。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-153-tamekane.htm
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-154-amayadori.htm
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『新後撰集』の謎

2008-07-16 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月16日(水)23時29分11秒

小川氏の本と並行して、井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)を少しずつ読んでいるのですが、この本で『新後撰集』は次のように紹介されています。

-------
 正安三年(一三〇一)に為世が後宇多院から下命された勅撰集は、約二年を経て嘉元元年十二月十九日に奏覧された。『新後撰集』である。
 歌人の入集数を見ると(算用数字で示す)、定家32、俊成29、為家・為氏28、実兼27首、御子左四代と権門とが上位を占める。亀山院25、伏見院・後宇多院20首、撰者為世11、源承8、定為・為道7、為藤・慶融6、為世女為子5首。京極・冷泉家では為兼・為教女
子9、為教・為相4、阿仏尼1首。
 為兼は上に述べたように、撰者父子(為氏・為世)の数が過分で、自己の入集数の少ないことの非を幾条かの理由を挙げてアピールしている。客観的に見て、為世、為兼・為子らの歌数は妥当と思われるが、為兼としては強力に自己の立場を鮮明にしておくことが絶対に必要なことであったのである。(p135)
-------

永仁六年(1298)正月、為兼は六波羅に捕縛され、同三月佐渡に配流。七月伏見天皇譲位。後伏見践祚。二年半後の正安三年(1301)正月に関東の意向で後伏見天皇がわずか14歳で譲位。後二条天皇践祚、後宇多院政開始、という具合に、この時期、公家社会では目まぐるしい変動があるわけですが、このような状況で正安三年十一月に下された後宇多院の勅撰集撰集の下命は、ある意味、大覚寺統の勝利宣言ともいえますね。
そして、嘉元元年(1303)閏四月に為兼が赦されて帰京。嘉元元年から翌年にかけて伏見院三十首が詠まれ(p126)、このうちの一首「我世にはあつめぬ和歌の浦千鳥むなしき名をやあとに残さん」が『新後撰集』に入集するんですね。
この歌は『増鏡』巻十二のタイトルにもなっているので、昔からちょっと気になっているのですが、これは「在位中に撰集を果たしえなかった痛恨の歌」(p138)であるのは明らかで、井上氏も言われているように、何で為世はこんな歌を『新後撰集』に入れたんですかね。
もちろん、存命中の上皇の歌を、本人が希望もしないのに勝手に入れることは考えられないですから、伏見院自身が選んで為世に出した候補作の中から為世が選んだはずですね。
伏見院が、内心ではどうせ採りはしないだろうと思ってイヤミを籠めて送ったら、為世がイヤミ返しであっさり受け容れて、ザマーミロと舌を出しているのでしょうか。
だとしたら、伏見院も為世も、お互い随分ひねくれた性格の持ち主ですね。

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-gonijotenno-sokui.htm
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu12-gyokuyoshu.htm
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『武士はなぜ歌を詠むか』

2008-07-16 | 日本文学
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月16日(水)00時12分48秒

>筆綾丸さん
武士論についての歴史学の近時の成果をすべて踏まえた上で、「武士とは何か」という問題について、国文学の立場から鋭く問いかけた著作ですね。
歴史学者による書評が楽しみです。

>尊氏
小川氏の最終的評価は、「尊氏の歌風は各所でふれてきたが、基本的に二条派の教えに忠実な、穏やかなもの」「上級武家の教養の域を出なかった」とのことですが(p127)、素人目にはいささか厳しすぎるような感じもします。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/sennin/takauji.html
(千人万首)

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禅僧夢窓疎石は、慈悲深く、勇敢で、物惜しみをしないと尊氏の人柄を称えたが(梅松論)、これは育ちが良くて人に乗じられやすいということでもある。同母弟直義は有能怜悧であり、執事の高師直も好んで悪役を引き受けた。かれらと比較すれば、尊氏は、混乱する状況にひきずられ続けた、いささか冴えない英雄であった。(p80)
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この点も個人的には賛成しがたいものがありますが、史料解釈の問題ではなく、基本的な人間観の違いでしょうね。

http://homepage1.nifty.com/sira/baisyouron/baisyou50.html
(芝蘭堂)
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真夜中にゴソゴソと。

2008-07-15 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月15日(火)02時01分15秒

>筆綾丸さん
>尊氏
後期京極派の光厳上皇が「二条家を排除するために選者は任命されず、文字通り上皇の親撰という、勅撰集としては極めて異例な形」(p.105)で風雅集を編もうすれば、「廷臣たちは治天の君の意を迎えて京極風を詠んでいる。二条良基は晩年になって『愚身貞和最初の御百首は為兼卿異風をよみ侍りしなり』(近来風躰)と述懐している。尊氏もそうであった」(p.106)とのことですが、ある程度勉強すれば詠めるようになる二条派と異なり、京極派風に詠むことは普通は相当の修練が必要なんでしょうね。
それをサラッとやってのける尊氏は本当に頭の良い人ですね。

>既に葡萄酒が醸造されていたことを示し、農業史の上でも貴重な史料となろう。
ここまでが小川氏の引用ですね。
質を問わなければワインの醸造はそれほど難しくはないので、ヨーロッパからの伝来を考える必要はないように思いますが、農業史でどう扱われているのか、気になります。
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師憲

2008-07-13 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月13日(日)00時37分5秒

>筆綾丸さん
弓削繁氏校注の『六代勝事記・五代帝王物語』(三弥井書店)には、「因幡前司師憲」の注として、
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村上源氏。権中納言兼忠の二男。「従五上、因幡守」(尊卑)。「次の太刀に伯耆前司師教、疵をかうぶりて次の日死す」(前田家本承久記)。
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とありますね。
『愚管抄』によれば、
-----
ヲイザマニ三四人ヲナジヤウナル者ノ出キテ、供ノ者ヲイチラシテ、コノ仲章ガ前駆シテ火フリテアリケルヲ義時ゾト思テ、同ジク切フセテコロシテウセヌ。
------
とのことなので、これを信じると、仲章は北条義時に間違えられて殺され、仲章の近くにいた師憲も、そのとばっちりで殺された、ということになりそうですね。


>英語学校
あと3ヶ月くらいで基礎を固めて、その後は翻訳者養成コースを取ろうと思っています。
自分で古典を英訳するのは難しくても、専門家とそれなりに議論できる程度の力はつけたいですね。
それと、人脈作りも必要ですからね。

>『武士はなぜ歌を詠むか』
これも面白そうですね。
早速、アマゾンに注文しました。
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「慈光寺本『承久記』の史料的評価に関する一考察」

2008-07-12 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 7月12日(土)00時13分24秒

>筆綾丸さん
今日は野口実氏の上記論文(『京都女子大学大学宗教文化研究所研究紀要』第18号、平成17年)を読んでみましたが、国文学者による人名比定の甘さを厳しく批判しており、なるほどな、と思いました。
慈光寺本と流布本の差異等から、まだまだ多くの情報が得られそうですね。

>弘仁寺
そのお寺さんなんでしょうね。
ホームページの「新倉山弘仁寺縁起」を読みましたが、絵に描いたような弘法大師伝説ですね。
縁起によれば、嵯峨天皇の弘仁年間に空海が来て「久保の小太郎」という地元の豪族に会い、小太郎を施主として伽藍を建立したのだそうです。近世には「小太郎久保の堂」と呼ばれていたとか。

7月に入ってから英語学校に通う回数を大幅に増やしたため、レスが若干遅れ気味になるかもしれませんが、ご容赦を。
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