学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

石川憲法学の「土着ボケ黒ミサ」

2017-03-15 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 3月15日(水)10時11分48秒

前回投稿で「日本史の場合、もともと歴史理論の分野以外ではポン引き的「紹介者」は少ない反面、ある意味、大半が「土着ボケ」の「黒ミサ」研究者」とか書いてしまいましたが、まあ、日本語の壁の中でチマチマと実証的な研究をしている人が大半であることは間違いないので、それほど的外れな評価でもないと思います。
日本史学と対照的なのは憲法学の世界で、ここは本当に「ポン引き」だらけですね。
「ポン引き」が下品すぎる比喩だとしたら「出羽守」に代えてもよいですが、憲法学者には「アメリカでは」「フランスでは」「ドイツでは」という研究をしている人が沢山います。

政教分離論議におけるドイツ出羽守の不在(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cdd56ed6e2392024e84a98319fba59d5
政教分離論議におけるドイツ出羽守の不在(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7d20f8f704404b77bf37a4f30dc0e8bb

そうした出羽守の集団の中で異彩を放っているのが清宮四郎研究に打ち込んでいる東大教授の石川健治氏で、石川氏の「7月クーデター説」の論理を追って行くうちに私も清宮四郎に妙に詳しくなってしまいました。
実は今、山口昌男『本の神話学』とピーター・ゲイ『ワイマール文化』を起点にドイツ・東欧・ロシアの近現代史を調べる上で石川健治氏の論文を丁寧に読んだことが非常に役に立っていて、個人的には石川氏に大変感謝しているのですが、改めてワイマール共和国に存在した綺羅星のごとき知識人の群れの中に清宮四郎を置いてみると、石川氏は何でこの程度の人を一生懸命追いかけているのかなあ、という素朴な疑問も湧いてきます。
ワイマールの知識人たちの中ではハンス・ケルゼンでさえも形式論理をひたすら追求した「小物」の一人程度のような感じがしてくるのですが、そういう目で見ると、後世に残る学問的業績といえばケルゼン『一般国家学』の邦訳程度しかない清宮など単なる翻訳業者であって、知識人の範疇にも入らない人になりそうですね。
前にも石川氏の清宮四郎研究は「憲法考古学」「憲法郷土史」ではないか、と書いたことがありますが、「土着ボケ黒ミサ研究」の方が適切かもしれません。

石川健治教授の「憲法考古学」もしくは「憲法郷土史」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cf4f5a44c409b736631232d49b35e0f1
「学問空間」カテゴリー:石川健治「7月クーデター説」の論理
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/c/acc8623b1062539f5d4cf51384c012da

>筆綾丸さん
中世の伊勢神宮を調べていたときに三重大学教授・山田雄司氏の論文をいくつか読んだことがあります。
個人的には「怨霊」など全然興味がありませんが、何を研究対象とするかは学問の自由の問題ですから、他人が口出しするような話ではありません。
ただ、山田氏が行政や地元経済界の意向を汲んで、方向性が非常に限定された研究施設を大学内に設けることを主導しているのは何だか嫌な感じですね。

ピーター・ゲイの『神なきユダヤ人』が非常に良い本だったので、同じ著者の『フロイト』も入手してみたのですが、ここまで手を広げると収拾がつかなくなりそうな予感もして、ちょっと迷っているところです。

-------
「ぼくの内部ではぐつぐつと発酵がすすんでいる」「きっとぼくはいま繭の中にいるんだ。ここからどんな生き物が這いだすのか、想像もつかない」1897年にフロイトは、親友フリースに宛てて書いている。それから2年余、1900年という象徴的な年に、精神分析の誕生を世に知らしめた『夢判断』は刊行された。本書は、20世紀最大の事件の生みの親について書かれた伝記の文字通りの決定版であり、名だたる歴史家の執念の傑作である。
1856年、モラヴィアの小さな町で、貧しいユダヤ人毛織物商人の家庭で生を享け、4歳でウィーンに移る場面からはじまるこの伝記は、世紀末ウィーンの細部から精神分析の胚胎、『夢判断』の衝撃、ユングをはじめ弟子たちとの出会いと別れ、アンナ・Oやドーラ、鼠男、狼男といった患者の様子など、フロイトにまつわるありとあらゆる出来事が、時代のうねりとともに描きつくされる。L巻は1856-1915まで。全2冊。

http://www.msz.co.jp/book/detail/03188.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

猫忍 2017/03/13(月) 13:35:04
小太郎さん
万城目学『とっぴんぱらりの風太郎』の冒頭に、柘植屋敷の八十近い長老の至言がありますが、平成の忍者学とは。「地域創生」などという馬鹿なことはやめて、そっと寝かせておけばいいのに、と思います。
-----------------
「忍びの連中がまだ何とかまともだったのは永禄生まれまでだな。あとはもう、どうしようもないハズレばかり。天正生まれはとにかく腕が悪い。文禄生まれはそれに加えて頭まで悪い」
-----------------

http://www.athome-academy.jp/archive/culture/0000001114_all.html
http://www.kadokawa.co.jp/product/321412000235/
田舎の大学はそんな調子で落ちてゆくんですね。逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず。『忍者の歴史』という本を上梓した人もいますね。近い将来、私の専門は、忍者の中でも、抜け忍とくノ一です、というような奴が出てくるかもしれません。

http://www.bsfuji.tv/nekonin/pub/
落ち目のフジテレビが満を持して放つドラマ、『猫忍』。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石川健治教授の「憲法考古学」もしくは「憲法郷土史」

2016-06-26 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月26日(日)10時01分23秒

講談社学術文庫で佐々木惣一(1878-1965)の『立憲非立憲』が復刻されましたが、これはおそらく石川健治氏の強力な推奨によるものなのでしょうね。
書店で手に取ってみて、正直、佐々木惣一の本文はどうにも古くさい感じがしたのですが、とりあえず石川氏の「解説」を読むために購入してみました。

『立憲非立憲』
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062923668

巻末の31ページにわたる「解説」は、

------
一九一六年一月

 いまから一〇〇年前、一九一六年の新春を期して、三本の言論の矢が放たれた。それぞれの仕方で大正デモクラシーを演出すべく、あたかも示し合わせたかのように。
 一つは、東京帝国大学法科大学で政治学・政治史を講じた、吉野作造の論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」である。【中略】
 いま一つは、京都帝国大学文科大学で哲学・哲学史を講じた、朝永三十郎の著作『近世に於ける「我」の自覚史─新理想主義と其背景』(東京宝文館、一九一六年一月)。【中略】
 そして、ほかの二人に比べても一層華々しかったのが、京都帝国大学法科大学で行政法を講じていた、佐々木惣一の言論活動であった。『大阪朝日新聞』は、一九一六年の元旦第一面を、ひとり佐々木のためだけに提供した。本書の標題にもなった論説「立憲非立憲」がそれである。【中略】
-------

と始まっていて(p223以下)、「三本の言論の矢が放たれた」という、いかにも石川氏らしい華麗で躍動的なレトリックが見事です。
朝永三十郎(1871-1951)はノーベル賞を受賞した物理学者・朝永振一郎(1906-79)の父親ですね。
この後、「三者の連環」「ハイデルブルクの契り」「イェリネックの影」「『立憲非立憲』の成立過程」「その後の佐々木惣一」という石川氏らしいロマンチックな小見出しに従って物語が展開します。
一番ドラマチックなのはやはり佐々木惣一のドイツ留学時代で、ハイデルブルクにおける三人の交流が詳細に描き出されています。
ま、石川氏の華麗なレトリックの魅力もあって、決してつまらない訳ではない、というか結構面白いのですが、「解説」を読み終わった後でも、百年前の佐々木惣一の著書を復活させる現代的意義がどこにあるのか、私にはよく分かりませんでした。
私の見るところ、石川氏がやっているのは「憲法考古学」ではないですかね。
石川氏自身はもちろん自身の研究に重要な現代的意味があると思っていて、例えば清宮四郎の「違法の後法」という八十年前の論文が、ものすごい理論的射程を持っていて、現代の難問を解決する偉大な力があるのだ、と力説するのですが、私はバッカじゃなかろか、と思っています。

「苦しまぎれにやった」(by清宮四郎)─「窮極の旅」を読む(その35)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae3ac8c2d691fa04bb1adb15a675d757

まあ、時代は全く変化しているのですから、清宮四郎の古い論文を読んだところで現代的課題は解決できないのは明らかであり、石川氏が清宮四郎に関してやっているストーカー的研究は、現代的意義は特にない「憲法考古学」じゃないですかね。
「憲法考古学」が言い過ぎだとしたら、「憲法郷土史」と言い換えても良いと思います。
佐々木惣一や清宮四郎は、当時の日本においては秀才中の秀才で、ヨーロッパに留学して当時の最先端の学問に触れ、それぞれの才能を精一杯生かして立派な学問的業績を上げた人たちですが、評価の視点を日本ではなく世界に広げてみれば、当時においても所詮は学問的に遅れた辺境地域の二流・三流知識人ですね。
その学問がいかに形成されたかをどんなに詳細に再現しても、結局は郷土の偉人の顕彰以上のことはできないと思います。

>筆綾丸さん
新書では物足りなくなって、宇野氏の論文集『政治哲学的考察─リベラルとソーシャルの間』(岩波書店、2016)を読み始めました。
硬い文章ですが、こちらの方がむしろ分かりやすい箇所も多いですね。
レスは後ほど。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

Remain(護憲派) vs. Leave(改憲派) 2016/06/24(金) 16:31:50
小太郎さん
------------
来週発売の新刊「保守主義とは何か」の見本刷りが届く。食卓に置いておいたら、小2の次男が読んで(眺めて?)いる。「なかなか面白いよ」とのこと。どのへんがと聞いたら、「出てくる名前が面白い」。小2も推薦、ぜひご期待を。
------------
早熟な小学2年生に敬意を表して、早速、購入しました。

ザゲィムプレィアさん
ありがとうございます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)
ヨークシャーは白薔薇、労働党のシンボルは赤薔薇ということなんですね。トーリー党に対して、ホイッグ党の流れを汲む自由党はほとんど消滅状態のようですね。

EU離脱派(Leave)の勝利に刺激され、日本でも憲法をめぐって、Remain(護憲派)と Leave(改憲派)の対立に拍車がかかるかもしれないですね。

http://www.bbc.com/news/politics/eu_referendum/results
国論を二分するほど大きな問題でも、Turnout(投票率)は72.2%で、約30%は投票に行かない、というのは面白い現象です。日本の国民投票でも、ほぼ同じような結果になるかもしれないですね。

T・S・エリオットいわく 2016/06/25(土) 23:03:34
宇野重規氏の『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』を読みました。
チェスを連想させるのでチェスタトンは面白く、オークションのようなオークショットは面白く、エリの夫を連想させるのでエリオットは面白く、ハイエナのようなハイエクは面白い。これらが、小学2年生が「出てくる名前が面白い」と感じた理由ではあるまいか。

--------------
 興味深いのは、エリオットが英国の文化をサブカルチャーとして位置づけていることである。彼にとって、英国教会がローマ・カトリックから独立したことは、いわば英国文化がヨーロッパのメインカルチャーから離脱したことを意味した。その意味で、英国文化はまさしくサブカルチャーであった(この場合の「サブカルチャー」はもちろん、現代日本でいう「サブカルチャー」とは異なる。あくまでヨーロッパのメインカルチャーに対するサブカルチャーとしての英国文化と意味する)。
 この場合、この離脱が良かった、あるいは悪かったと評価するつもりはないとエリオットは強調する。また、サブカルチャーが必ずしもメインカルチャーに劣るともいわない。ただ彼は、メインカルチャーから離れることでサブカルチャーが損なわれると同時に、メインカルチャーもまた構成要素を失うことで損なわれたと述べるのみである。ここにヨーロッパと英国の関係についての、彼のニュアンスに富んだ評価を見てとることができるだろう。(76頁~)
--------------
T・S・エリオットがEU離脱の国民投票を論じているようで面白いですね。

--------------
 ハイエクはこのような法観念の下に「法の支配」を強調した。ハイエクによれば、法の支配が発展したのは十七世紀イングランドである。ただし、興味深いことに、ハイエクはその起源を中世ヨーロッパではなく、古代ギリシアにおける「イソノミア」に見出す。この言葉は「デモクラシー」よりも古く、デモクラシーが「民衆による支配」を意味するとすれば、イソノミアは「市民の間の政治的平等」を指すものであった。
 この言葉は十七世紀イングランドに導入され、やがて「法の前の平等」や「法の支配」といった言葉に置き換えられていく。人民は恣意的な国王の意志ではなく、法によって支配されるべきである。この観念の定着によって、はじめて英国における近代的自由が発展していったというのが、ハイエクの思想史観である。ハイエクの思想史では、デモクラシー(民主政治)より、はるかにイソノミア(法の支配)が重視された。ハイエクの見るところ、権力による恣意的な立法の危険性は民主政治ではむしろ大きくなる。個人の自由を守るのは、権力を拘束する上位のルールを重視する「法の支配」の伝統であった。(92頁)
--------------
フランスではラテン語起源のエガリテがエガリテとして現代まで続いているのに、イギリスではギリシア語起源のイソノミアがイソノミアとして残らず、なぜ「法の支配」という理念に置き換えられたのか。ハイエクを読めばいいのでしょうが、宇野氏の説明を読むかぎりでは、その論理過程がよくわかりませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年のプチ反省

2015-12-31 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月31日(木)11時39分10秒

今年は南原繁の『国家と宗教』などを素材にして国家と宗教の関係について少し勉強しようかなと思っていて、多少は本を読んだのですが、この掲示板への反映は全くできませんでした。
その原因のひとつは世間の安保法制騒動に影響されて、シールズのようなあまり知性を感じさせない運動に親和的な憲法学者たち(以下、「アザラシ系憲法学者」という)の代表格である東大教授・石川健治氏の「窮極の旅」の分析を長々と続けたことですね。
石川健治氏が絶賛する清宮四郎は、憲法学者としてはそれなりの実績を残した人ではありますが、南原繁や田中耕太郎、あるいは河合栄治郎・竹山道雄といった同時代の他の知識人と比較すれば別にそれほど優れた人ではないので適当に受け流せばよかったのですが、結果的に石川氏に引き摺られて無駄につきあってしまった感じは否めません。
しかし、後から振り返って別のルートがあったことに気付いても、実際に歩いているときにはそうそう効率的に進めないのが普通ですし、無駄足の過程でそれなりの副産物も多々あったので、まあ、これで良しとしたいと思います。
「窮極の旅」の謎として最後まで残ったのが、アザラシ系憲法学者の頂点に位置する樋口陽一氏が清宮のあまり出来の良くない論文、清宮自身が「苦しまぎれにやった」と告白する「違法の後法」を「恩師の最高傑作」と評価していたという石川氏の証言をどのように評価すべきか、という点です。
「最高傑作」に言及した自分の投稿を数えてみたら七つもありましたが、これも分かってみれば単純なことで、樋口氏は「(清宮四郎先生にしてみれば)最高傑作」と「冗談めかして」言ったのでしょうね。
樋口氏の清宮学説に対する最終評価は「国法秩序の論理構造の究明─清宮四郎先生の戦前の業績─」(『ジュリスト』964号、1990年)」に出尽くしていて、まあ、結論として、「戦前、戦後を通して実定法学の土俵で終始」した人で、そこそこ頑張ったけど理論的にはあんまりたいした人じゃないよね、ということですね。
樋口氏も聞き手の一人として参加している清宮の回顧座談会記録「憲法学周辺50年」の第三回(『法学セミナー』1979年7月号)によれば、ドイツ語に比べると清宮のフランス語能力はあまり高いものではなかったようで、憲法学界屈指のフランス通である樋口氏から見れば、清宮は既に基礎学力の点でそれほど評価できる人でもありません。
清宮の学士院会員・東北大学名誉教授という社会的地位は、通常人を基準にすれば目の眩むほど高い場所にありますが、同じく学士院会員であって、更に東北大学名誉教授と東京大学名誉教授を兼ね(そんな人は今までいなかったし、これからも出そうもない)、また「ポーランドアカデミー法学部門名誉会員・比較法国際アカデミー正会員・フランス学士院人文社会科学アカデミー連携会員」といった、何だかよく分からないけれども立派そうで清宮には全く縁遠かった各種資格を有する樋口氏から見れば、清宮は高く仰ぐのではなく、低く見下ろす位置にある人ですね。
ま、要は樋口氏は清宮をちょっと軽く見ていて、それが「最高傑作」という「冗談めかした」表現に繋がったものと私は考えます。
石川氏は、

------
清宮の弟子のなかでも末っ子にあたる樋口陽一は、一九三四年の論文「違法の後法」を、かねて恩師の最高傑作として推していたものである。「タイトルからして格好いい。清宮先生のものとは思えないほど格好いいね」と、樋口は冗談めかして本稿筆者に語ったことがある。
------

と書いていますが、資料に「熊谷次郎直実」をあるのを勝手に「熊谷三郎直実」と変えてしまう石川氏の習性も考慮すると、「冗談めかして」は「恩師の最高傑作として推していた」にも掛かっているものと私は考えます。

日本学士院・会員個人情報・樋口陽一
http://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/2/higuchi_yoichi.html

「恩師」の水浸し(10月11日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8514e7f64e3d4284564f634d1d8865bd
「ケルゼンをいわば換骨奪胎」(by 樋口陽一) (10月7日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/76855f281318a3938c88a50f0c8ad1e0
「苦しまぎれにやった」(by清宮四郎)─「窮極の旅」を読む(その35)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae3ac8c2d691fa04bb1adb15a675d757
ショムロー『法学の根本理論』─「窮極の旅」を読む(その25)(9月9日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f0669597928b69979b622502af43f03
「永久法」の問題─「窮極の旅」を読む(その17) (9月2日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e22cf60e4607821a6979f0bbabac883a
「一見すると規範論理の骸骨」─「窮極の旅」を読む(その14) (8月30日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed46085a2b557fa192e657c150c29fe5
違法の後法─「窮極の旅」を読む(その11)(8月28日)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/166a3d2d745e0d4b969ab3cac22c04f4

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「モスクワ横丁」こと駒場寮中寮二階

2015-12-28 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月28日(月)13時33分21秒

『竹山道雄と昭和の時代』の「第十一章 『昭和の精神史』」には平川祐弘氏の次のような思い出話が出てきます。(p263以下)

-------
 ここで個人的な思い出を挟ませていただく。私は一高では社会科学研究会の部屋で暮して、上級生から唯物史観の正しさを自明の真理のように聞かされていた。同じ部屋には後に不破哲三の名前で日本共産党書記長になった上田建二郎もいたが、後に共産党から追放されて不遇のうちに人生を了えた者もいた。昭和二十三年当時の私は、竹山ら一高教授連が蔭で「モスクワ横丁」と揶揄して呼んでいた駒場の中寮二階の住人だったのである。中寮二階の二室続きの十六名の社研の隣はソビエト研究会の部屋で、その少し先には中国研究会の部屋があった。もちろん共産主義中国を待望する若者の部屋で、後に魯迅研究者となる丸山昇もそこにいた。そうした一連の赤の巣窟のような部屋が並ぶ中で珍奇とすべきは社研の隣の中寮十八番がカトリック研究会であったことで、ときどき神妙なお祈りの声が聞こえた。紀念祭のときの出し物は窓に洗面器が一つ、水をなみなみと張ってそれに丸木が浮かべてあるだけである。「マルキシズムハ誤リナリ」という冷やかしであった。
-------

ここで個人的な思い出を挟ませていただくと、私は平川祐弘氏が駒場寮で暮らした31年後の昭和54年、同じ駒場寮の中寮二階、23番Bという部屋に住んでいました。
政治の季節は完全に過去のものとなり、「モスクワ横丁」の面影など全く失われていて、私はこの言葉も知りませんでした。
旧制一高が本郷向ヶ岡から駒場に移転したのは昭和10年ですから、平川氏の時代はまだ建物は良かったのでしょうが、大学紛争期に相当荒れてしまったようで、私が入った当時は殆ど廃墟に近いような雰囲気でしたね。
ま、そんな状態だったので生活環境は決して良くはありませんでしたが、とにかく大学に近い、というかキャンパスの中ですから交通費はかからず、寮費も安くて経済的には非常に助かりました。
その駒場寮も今は撤去されて、中寮跡は生協の施設になってイタリアン・トマトか何かが入っているそうですが、私はまだ行ったことがありません。

いにしえの モスクワ横丁の 華やぎを
 仄かに偲ぶ 赤きトマトに

イタトマや つわものどもが 夢の跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安倍能成と船田享二

2015-12-28 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月28日(月)12時37分24秒

>筆綾丸さん
>安倍能成は碌な者じゃないですね
いえいえ。
前回投稿で中途半端に引用してしまったのですが、私が省略した部分に、まず林健太郎の『昭和史と私』から、

-------
 橋田に比べて安倍は大きないかつい体で、容貌も魁偉というような感じであったが、橋田が演説口調であったのに反して普通の穏やかな語りぶりで、私は先ずそれに好感を持った。この「戦時中」を私が安倍校長の下の一高教授として過ごしたのは幸せなことであった。安倍は期待に背かない名校長であった。歴代校長の中でも、安倍ほど慕われた校長はなかったであろう。【後略】
-------

という絶賛が引用され、更に、

-------
 三十七歳のとき安倍校長を迎えた竹山は晩年「安倍さんはよほど特別な人で、没後十何年たった今になっても懐かしい。思い出さない日はほとんどないかもしれない」といい、去る者日々に遠しでなく、「去る者日々に近しである」と回想した。竹山は戦後、安倍に望まれて平凡社の雑誌『心』の編輯に関係し、いわゆる大正教養派の人びとに接した。その中で和辻哲郎と小泉信三には大いに敬意をもったが「安倍さんにほど人間的に惹かれた人はなかった。一つには、安倍さんが戦中戦後に一高校長であったときに近く親炙してこきつかわれたからでもあったろうが、何よりも先生がその独特の天稟からこちらの魂をつかみとってしまったからであった」。
-------

という具合に竹山道雄自身の絶賛が紹介され(p163)、その後に船田享二の話が出てくるんですね。
そのため、どうにもこのエピソードが奇妙なものに感じられます。
ちなみに船田享二は栃木の作新学院創立者の一族で、兄は元衆議院議長の船田中(1895-1979)ですね。
ということは、この夏の安保法制騒動の最中、衆議院憲法審査会において長谷部恭男氏を自民党推薦の参考人として招き、その後の悲喜劇的な大混乱の元凶となった船田元議員の大叔父でもあります。
船田享二については石川健治氏が丁寧な紹介をどこかに書いていて、私はその文献を確かにコピーしたはずなのですが、何故か見当たりません。
安倍能成との関係で何か面白そうなことが書いてあれば、後で紹介したいと思います。

船田享二(1898-1970)

>提琴独奏会
検索してみたら、大正12年の「ヤシャ・ハイフェッツ氏提琴独奏会プログラム」とか昭和29年の「諏訪根自子提琴独奏会パンフレット」などというものが出てきて、「提琴」は敵性語の言い換えとして一時的に用いられたのではなく、かなり長期的に使用されたようですね。
「洋琴」は戦後の用法がヒットしないので、「提琴」と同様に考えてよいのか、ちょっと分かりませんが。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「安川加壽子洋琴独奏会(1949年)」 2015/12/27(日) 19:05:27
小太郎さん
映画を見続けて、感情がやや緩んでいるようです。

平川祐弘氏の話が本当だとすれば、安倍能成は碌な者じゃないですね。まあ、教師に人格を求めるのは野暮な話ではありますが。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%8C%E6%9C%AC%E7%9C%9F%E7%90%86
小津の『晩春』(1949年)に「巖本真理提琴独奏会」というシーンがあり、年代的には、「安川加壽子洋琴独奏会」も有り得たのではないかと思いましたが、ハーフとして差別を受けたという背景を考えると、巖本でないと風刺にならなかったのかもしれません。1949年ともなれば、適性語などというバカなものはもう滅びていただろうと思われますが、ヴァイオリンではなく提琴としたのは小津の皮肉でしょうか。観客は、「・・・提琴独奏会」という表現を見て苦笑したかどうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%88%80%E9%AD%9A%E3%81%AE%E5%91%B3
『秋刀魚の味』(1962年)には、旧制中学卒業生たちの40年ぶりの同窓会に落ちぶれた元漢文教師(渾名は瓢箪)が招かれ、歴史の教師(本名は塚本、渾名は後醍醐天皇)の話になりますが、1962-40=1922(年)前後の大正デモクラシーの時代の渾名だから、それも有り得たのでしょうね。もう少し時代が下っていれば、不敬罪ものですね。

天皇はどうしてます、のあと一拍おき、後醍醐天皇、と続くのですが、あの絶妙な間には当時の観客もぎくっとしたかもしれない。ああいう冴えは小津ならではのものですね。あの先生は御壮健で鳥取にいます、いまも年賀状をいただいています、と瓢箪が言うのですが、鳥取は島根(隠岐島)を、年賀状は綸旨を、たぶん暗示しているはずで、1962-1332(隠岐流罪)=630と丁度キリのいい数字になります。もし『秋刀魚の味』の続編が撮られていたとしたら、塚本先生は鳥取を脱出して東京に姿を現し、みんなを驚かせたろう、と妄想させるものがありますね。映画とは何の関係もありませんが、秋刀魚は昭和天皇の好物だった。

笠智衆は海兵出身で駆逐艦(朝風)の元艦長という設定ですが、この人では戦争には勝てなかっただろうという感じで、小津が随所にちりばめた表現はシニカルでいいですね。

追記
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%95
https://www.youtube.com/watch?v=-G2WfG3KdQ4
「巖本真理提琴独奏会」のシーンで流れている曲は、ヨアヒム・ラフのカヴァティーナなんですね。伴奏のピアノは安川加壽子ではないでしょうが。小津はこの曲に晩春を感じたのか、なるほど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平川祐弘著『竹山道雄と昭和の時代』

2015-12-27 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月27日(日)13時39分16秒

先日、浦一章氏の講演で聴いたダンテとのつながりで平川祐弘氏の最近の著作をいくつか拾い読みしているところなのですが、『竹山道雄と昭和の時代』(藤原書店、2013)は特に面白いですね。

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=1311

ただ、安倍能成に関してちょっと妙なエピソードが出ていたので、備忘のためメモしておきます。(p161以下)

------
 昭和十五年は一九四〇年、皇紀二千六百年と称する大祝典をした年である。その夏休みが終わって二学期が始まるころ、後に駒場の九〇〇番教室と呼ばれた倫理講堂で一高の新旧校長交代の式が行われた。それまでの校長は橋田邦彦で、この人は「科学する心」という新語を作って評判となった。その橋田が近衛首相によって文部大臣に任ぜられ、後任として京城帝国大学教授だった安倍能成が着任した。【中略】
 大正十一年に一高生として倫理の講義を聞いたときは、内容ゆたかな立派な講義だったが、安倍は痩せて太い眉の下に目がくぼんで、ひどく神経質な印象を受けた。「ところが昭和十五年の秋に一高校長としてこられたときには、丸々と豊頬で白髪が立派で威風あたりをはらうがごとく、エネルギッシュなカリスマ性を発散していた。「五十七じゃ」と言っていた」。挨拶がすんで懇談となると安倍は竹山の前に来て「あんたは船田君の奥さんの兄さんじゃそうですね」と言った。船田享二は京城大学でローマ法を担任、後に芦田内閣の無任所大臣もつとめた。道雄の妹の文子がその妻だった。安倍はそれまで京城大学法文学部長をしていて同僚だった。竹山は「はい、そうです。先生は京城で船田とよくおつき合いをなさいましたか?」すると安倍は答えた。「いや、つき合わん。気が合わんからつき合わん。あれは先天的な嘘つきじゃ」 竹山は驚いた。初めて会った者(竹山は生徒のときには個人的に接しなかった)にむかって、こういうことを言う人があるのだろうか。
-------

初対面の竹山道雄(1903-84)に対し、自分から竹山の義兄・船田享二(1898-1970)の名前を出しておいて「あれは先天的な嘘つきじゃ」と言い放つ安倍能成(1883-1966)も相当な奇人ですね。
たまたまこの夏、石川健治氏の清宮四郎ストーキング四部作を読んで妙に京城帝国大学に詳しくなってしまった私としては、ちょっと気になるエピソードです。
ま、現代憲法学界のドイツロマン派、石川健治東大教授が、まるでそこに理想的な学問世界が存在したかのように美しく描き出す京城帝国大学法文学部の実態については私もある程度調べたつもりですが、さすがにこの種の人間関係の機微にかかわる部分はなかなか表に出ませんからねー。

『偉大なる暗闇 岩元禎と弟子たち』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1cef11eac16b0c7e7faf16b7d215aa98
意外な改変者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc7b788d8cc835f0fff35b9087bbdc0d

>筆綾丸さん
>小津のニヒリズムが年の暮れにはずいぶんと心地よい。
このところ筆綾丸さんの文章がちょっと渋すぎる感じがして、心配といったら大袈裟ですが、どうされたのかなあ、などと思っております。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「もののあはれ」 2015/12/26(土) 14:43:44
小太郎さん
最近は小津安二郎の映画を自分でも呆れるほど繰り返し見ています。どうでもいいような細部が延々と続き、そうして人は死んでゆき、あとには何もない・・・というような小津のニヒリズムが年の暮れにはずいぶんと心地よい。鎌倉円覚寺の小津の墓には「無」とだけ刻まれているそうですが、その無さえも、たぶん、あらずもがなのこと。思わせぶりに電光影裏斬春風と吟じた開山無学祖元の禅宗臭い嫌味な無とは無縁の無だと思いたい。

百年前の自費出版の前衛的詩集が歴史に消え去ることを詩的哀れといい、現代の歴史学の専門書が歴史に消え去ることを史的哀れといい、発行部数ともども妙に symmetrical だ、というところが現象学的に涙ぐましいですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民科法律部会の人

2015-12-19 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月19日(土)09時42分27秒

>筆綾丸さん
>村井敏邦氏
ウィキペディアには書いてありませんが、民主主義科学者協会法律部会の中心メンバーで、共産党系の学者さんですね。
ただ、別に思想的な面を批判している訳ではありませんからねー。
ということで、ここで村井氏に捧げる歌を一首。

古希又は 七十過ぎて ひとつばし
 名誉若しくは 不名誉教授

ついでに映画評論家の方にも一句。

犬彦や 棒に当たって 自爆テロ

>青柳氏の博士論文『ドビュッシーと世紀末の美学』
青柳氏の『ドビュッシー=想念のエクトプラズム』(東京書籍、1997)は、筆綾丸さんご指摘の論文をベースにして、「未発表の『ドビュッシーとオカルティズム』その他を加え、より広範囲の読者を対象に読み物風に書き下ろしたもの」(p332)で、私も半分ほど読んでみましたが、初心者の私にとっては少し難しい内容なのでいったんストップし、他の著書を読んでいるところでした。
後半部分もざっと眺めてみましたが、墓碑のデザインへの言及はないようですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

骨たちよこんにちは(Bonjour des os) 2015/12/18(金) 14:37:10
小太郎さん
村井敏邦氏をウィキで見ると、刑事法関連の論文が大量にありますが、その人にしてこの為体ですか。ボケでないとすれば、恐るべき知的荒廃で、言葉がありません(岩波書店も同断)。これでは官僚に馬鹿にされても仕方がないですね。
園田寿氏による条文の因数分解のとおり、殺傷行為又は破壊行為という要件を充たさぬかぎり「テロリズム」にはならんだろう、と刑法をほんの少し齧っただけの私のような素人でもわかることです。とりわけ刑法ではタートベシュタントを厳密に論ずる訳ですから。因数分解は数学以前の算数です。

http://jp.france.fr/ja/events/35519
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E5%A2%93%E5%9C%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%94%E3%82%A2%E6%95%B0
むかし、ドビュッシーの生家と墓を訪ねたことがありますが、墓石に刻まれた円の中の記号の意味がいまだに分かりません。青柳氏の博士論文『ドビュッシーと世紀末の美学』に言及があるかどうか。音楽記号ではなくネイピア数(オイラー数)ではあるまいか、というのが何の根拠もない私の仮説です。
(ちなみに、日本では Passy をパッシーと表記しますが、フランス語の発音では促音にはならずパシーですね。この墓地は何度か行きましたが、あるとき、改葬のため墓堀人が骨を土中から掘り出していて、驚いたことがあります。もちろん、ドビュッシーの骨ではありません)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一橋大学名誉教授・村井敏邦氏の見解

2015-12-18 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月18日(金)10時45分55秒

>筆綾丸さん
昨日の投稿で触れた海渡雄一・清水勉・田島泰彦編『秘密保護法 何が問題か─検証と批判』(岩波書店、2014年)に村井敏邦氏の「刑事法から見た秘密保護法の問題点」という論文が載っていますが、これもちょっとすごいですね。
肝心の部分は短いのですが、恣意的な引用ではないことを明確にするため、周辺を含めて引用してみます。(p185)

-------
 「特定有害活動」と「テロリズム」については、適正評価の項目のところで、その定義が出てくる。そこでは、前者は「公になっていない情報のうちその漏えいが我が国の安全保障に支障を与えるおそれがあるものを取得するための活動、核兵器、軍用の化学製剤若しくは細菌製剤若しくはこれらの散布のための装置若しくはこれらを運搬することができるロケット若しくは無人航空機又はこれらの開発、製造、使用若しくは貯蔵のために用いられるおそれが特に大きいと認められる物を輸出し、又は輸入するための活動その他の活動であって、外国の利益を図る目的で行われ、かつ、我が国及び国民の安全を著しく害し、又は害するおそれのあるものをいう。」とされ、後者は「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう。」とされている。
 前者のうち、「公になっていない情報のうちその漏えいが我が国の安全保障に支障を与えるおそれがあるものを取得するための活動」というのは、「外国の利益を図る目的」ということで限定されるにしても、戦時下ならば、いわゆる利敵行為一般である。九条下の日本が前提であるから、利敵行為という概念ではなく、日本以外の国一般の利益を図る目的ということになり、はなはだ広い概念である。
 テロリズムは、もともと定義が難しい概念である。ここでは、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要」する行為がテロリズムとされており、思想の自由を侵害する規定である。
 以上のように、この法律で保護の対象とされている秘密事項は、あまりにもあいまいで広すぎる。憲法の保障する明確性の原則に反する。
---------

ということで、「特定有害活動」に関する部分にも若干の疑問を感じますが、<「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要」する行為がテロリズム>は、やはり清水勉弁護士(の旧説?)と同じく三類型説と判断せざるを得ないですね。
うーむ。
清水氏は『世界』851号で紹介されているプロフィールによると(p147)、

-------
一九五三年生まれ。東京弁護士会所属。日本弁護士連合情報問題対策委員長・秘密保全法対策本部事務局長。共著に『プライバシーがなくなる日』(明石書店)『「マイナンバー法」を問う』(岩波ブックレット)他。
-------

というそれなりの肩書きを持った人ですが、村井敏邦氏は一橋大学名誉教授だけでも立派な肩書きなのに、元日本刑法学会理事長でもあるそうで(ウィキペディア)、そんな人でも<「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要」する行為がテロリズムとされており、思想の自由を侵害する規定である>と断定するんですねー。
びっくりしましたが、特定秘密保護法のテロリズムの定義を誤解していたのはこの二人だけではなく、まだまだ沢山いそうですね。

村井敏邦(1941-)

>青柳瑞穂
ちょうど『青柳瑞穂の生涯─真贋のあわいに』(新潮社、2000年)を読んでいるところなのですが、骨董に関する薀蓄をちりばめたほのぼの物語かと思ったら、祖父を怜悧なメスで解剖して行く孫娘の手術記録みたいなもので、ちょっと恐ろしい作品ですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ホワイト・ゴッド 2015/12/17(木) 11:25:45
小太郎さん
清水弁護士の迷解説を読むと、本当に司法試験に合格した人なのか、信じられないですね。弁護士資格を返上したほうがいいかもしれません。
四方田氏も、テロルと映画を論じながらテロリスムの定義を誤解しているようでは、話になりません。ボケるにはまだ早すぎます。

http://www.whitegod.net/
犬と言えば、映画『ホワイト・ゴッド』は面白かったです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9F%B3%E7%91%9E%E7%A9%82
青柳いづみこ氏の祖父は青柳瑞穂ですか。ドビュッシー好きは祖父の影響が強いのでしょうね。青柳氏と村上春樹氏の対談が実現すれば面白くなりそうです。

YouTubeはとても便利で、最近はCDを買わなくなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬も歩けばテロリズム

2015-12-17 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月17日(木)10時19分53秒


園田寿氏が2013年12月27日付の「条文はこう読む―特定秘密保護法の『テロリズム』をめぐる誤解」で批判する『世界』851号(2014年1月1日号)の記事、たぶん内田樹のような何にでも口を挟む評論家が書いているのだろうなと予想していたのですが、実際に問題の箇所(149頁)を確認してみたところ、意外にも弁護士の発言でした。
記事タイトルは「秘密保護法は公安警察の隠れ蓑だ」というもので、「2013年11月9日に行われた『明るい警察を実現する全国ネットワーク』主催のシンポジウムを元に構成」したものだそうですが、当該シンポジウムのパネリストは原田宏二(元北海道警察幹部職員、警察の「裏金」告発で有名)、清水勉(弁護士)、青木理(ジャーナリスト)の三人となっています。
そして最初に清水弁護士が「基調報告」を行っており、その中に園田教授が引用する、

-------
次に「テロリズム」ですが、これは2つの要件からなっています。1つ目は『政治上その他の主義主張に基づき』で、これには「政治上」だけではなく「その他の主義主張」も入りますから、無限に範囲が広がります。2番目の要件は、3類型を規定しています。「国家若しくは他人にこれを強要」するための活動、「社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷」するための活動、「重要な施設その他の物を破壊」するための活動です。つまり、何らかの主義主張に基づいて国や他人に対して―「他人」が1人なのか10人なのかわかりませんが―強要することはテロリズムになってしまいます。一般人の常識からはかけ離れた定義の仕方です。

という発言がありますね。
そして『世界』のこの記事は、タイトルを「座談会 社会を侵食する公安警察」と変更した上で、清水弁護士が編者の一人である岩波の『秘密保護法 何が問題か─検証と批判』(2014年3月28日第1刷発行)という本にそっくりそのまま転載されています。
ただ、奇妙なことに同書において清水弁護士本人が担当している「第3部 秘密保護法逐条解説」を見ると(p291)、

-------
 それにしても、「テロリズム」の定義はわかりにくい。
 政府答弁によれば、以下のように分解できる。
①政治上その他の主義主張に基づき
②国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若
   しくは恐怖を与える目的で、
③ 人を殺傷し
  又は重要な施設その他の物を破壊するための活動
 「政治上の主義主張」だけでなく、「その他の主義主張」でもよい。「その他」には何でも含まれる。無限定である。「国家に強要する」というのは具体的にどのような場面を想定しているのか意味不明である。「他人に強要する」の「他人」の人数には下限がない。ひとりでも「他人」である。「他人に強要する目的」も無限定に広がる概念である。「重要な施設」は具体的にどこまで限定されるのか。「その他の物」は無限定である。
-------

という具合に、清水弁護士は細かい文言にぶーたらぶーたら文句はつけるものの、全体の構成については「政府答弁」に納得してしまっているのか、シンポジウムの「基調報告」に見られる独自の三類型説は姿を消していますね。
事情はよく分かりませんが、清水弁護士は2013年11月9日のシンポジウムの時点では「又は」「若しくは」を読み誤って独自の三類型説を唱えていたものの、その後、園田教授の指摘を受けてか否かはともかく、自分の誤解に気付いて三類型説を撤回したのですかね。
しかし、その点について誤りであることを周知するような手段も特に取らなかったため、四方田犬彦氏のような周回遅れの人が未だに三類型説を蒸し返している、という事態なのでしょうか。
ま、謎は深まりますが、出発点の誤解を周回遅れの人が反復しているだけのようなので、これ以上の詮索はやめておきます。

>筆綾丸さん
ご紹介、ありがとうございます。
このところ私は青柳いづみこ氏の著作に嵌っていて、青柳氏が言及する相当マニアックな曲や演奏についてYouTube で検索することが多いのですが、意外にヒットしますね。
本当に便利です。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ナブッコふたたび 2015/12/16(水) 22:40:54
小太郎さん
『テロルと映画』では「特別秘密保護法」となっていて、困ったものです。

https://www.youtube.com/watch?v=T2m_eqBQ10k
初めて知りましたが、シューマンには Davidsbündlertänze(ダヴィッド同盟舞曲集)というのがちゃんとあるのですね。シフの演奏は素晴らしい。

https://www.youtube.com/watch?v=y1fLFPLM2zY
リストの『ドン・ジョヴァンニの回想』はもうひとつの「ラ・チ・ダレム変奏曲」というべきものですね。ショパンのものと聴き比べてみると、ずいぶん違います。

https://www.youtube.com/watch?v=gaXE0v0bJoE
ダンディな指揮者ムーティのイタリア語が少ししかわからないので何ですが、聴衆の要望に応えての再演後、奴隷役のコーラスの女性たちが最後に涙を流しているのをみると、この曲がイタリア人にとって別格の曲だということがよくわかります。こういう曲は、残念ながらというべきか、日本には存在しないですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「不思議なレイアウト」の存続期間

2015-11-15 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月15日(日)10時30分30秒

12日の投稿「第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウト」で書いた疑問、即ち朝日新聞の第一面が全面広告であった期間は何時から何度までかについてですが、『朝日新聞社史 明治編』(朝日新聞、1995)を見たところ、明治38年(1905)から昭和15年(1940)まででした。
それも東京朝日新聞に限った話で、大阪朝日新聞は別ですね。
何故に日露戦争の最中の明治38年かというと、理由は経営状態の悪化で、「従軍記者の費用やその通信代など編集関係の出費が急増したのに加えて、戦争による広告界の萎縮で広告収入が激減、また部数増と号外頻発による用紙代がかさんだりして、朝日の経理は急速に悪化し」、また、「ロシア艦隊に撃沈された特別通信船「繁栄丸」への賠償金一万三千円の支払いがこたえた」こともあり、更に「三十七年七月一日から煙草専売法が施行され、これまで岩谷天狗をはじめタバコ業者から出されていた広告が姿を消したこともひびいた」のだそうです。(p487)
この経営危機に際し、当時の経営陣は大幅な人員整理を行う一方、広告料の増収を狙って紙面の大胆な刷新を図った訳ですね。
同書から直接関連する部分を引用してみます。(p488以下)

--------
東朝、第一面を広告ページに
 三十八年元旦から東朝は第一面を広告専用ページとした。第一面を広告にあてたのは時事新報が最初で、明治十九年後半から月、ニ、三回、同二十年元旦からは正式に第一面を広告ページとしている。したがって、東朝の新機軸とはいえないが、この時期これを断行したのは、なんとしても広告の募集効果を上げたいというねがいが強かったからだろう。また、これによって、新聞輸送中に第一面が損傷して、記事が読みにくくなるのを防ぐこともできた。これにともなって、紙面の編成も大きくかわり、第二面に内外電報、戦況、政治経済の重要記事をのせ、また、いわゆる三面記事といわれた社会面を第六面に移すなどした。第四面の内外電報や政治記事の下約一段にも社会記事の雑報を入れたが、これは今日おこなわれている「総合編集」のはしりともいえる。
-------

そしてこの改革の成果はどうかというと、

--------
 結果的に広告主から非常に好感をもたれ、三十八年上半期の東朝広告料収入は戦勝も手伝って四万七千三百七十四円の新記録(三十七年上半期は三万四千八百九十八円)をつくり、下半期にはさらに六万四千八百円にのびた。もっとも同下期の大朝の広告収入は、三十四日間の発行停止があったにもかかわらず、十四万四千七百円で圧倒的に多い。これは東朝にくらべて発行部数やページ数が多く、また、はやくから広告収入を重視して努力していたためである。
--------

ということで、経営面では素晴らしい改革だったのですが、反面、低劣な広告による紙面の品位低下も問題になり、明治38年9月からは広告の選別も行うようになったそうですね。
ま、どの程度選別されたかというと、「『処女懐胎』という、いかがわしい本の広告」や「月経帯」は全くOKという水準なんでしょうね。
そして、「東朝が、第一面を記事面に戻したのは昭和十五年九月一日、東朝、大朝の題号が「朝日新聞」に統一されたときである」(p489)とのことなので、「不思議なレイアウト」は明治38年(1905)から昭和15年(1940)まで、実に35年間も続いたことになりますね。
とすると、他の新聞の事情は分かりませんが、東京朝日新聞のような有力新聞がこのような状況であったのであれば、石川健治氏の「御用新聞だった『京城日報』は第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウト」という感想は、昭和10年(1935)の時点での一般人の感覚とは全く異なることになりそうですね。

>JINさん
これから外出するため、レスが少し遅れます。
すみませぬ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウト」

2015-11-12 | 石川健治「7月クーデター説」の論理
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月12日(木)09時59分16秒

昨日はまたまた憲法学者から逃げて村上春樹の『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社、2011)を読み始めたのですが、内容がけっこう高度なので、途中から骨休めに岩城宏之のエッセイ集『音の影』(文春文庫、2007)を読んでみたところ、次のような記述がありました。(p120以下)

--------
 何年か前、必要にせまられて、明治末期の明治天皇危篤のころから国葬までの、約一ヶ月半の、昔の『朝日新聞』のコピーを取り寄せたことがある。
 当時、『朝日新聞』は今でいうタブロイド判で、第一面の右上の隅は『朝日新聞』のロゴで、そして一面全部は広告だった。
 それも種々雑多な広告で、「文明の乗物・自転車!」のとなりが、『処女懐胎』という、いかがわしい本の広告で、その下が「月経帯」だったりする。
 二ページ目は、いわゆる第一面で、明治天皇危篤の第一報の日などは、現在のどんな号外の字より大きく、「聖上御不例」とある。
 病状のことや、内大臣の「国民は心を動ぜずに、通常の仕事に励め」という告示とかが、何ページも続く。
 しかし、あきれるというより、感心してしまうのは、この日以後、明治天皇が亡くなるその日まで、そして、その後の国を挙げての国葬までの第一面の広告の内容が、全く変わらないことだ。不敬にあたるからまじめな広告を、という気は全然なかったらしい。
-------

私はそれなりにメディアの歴史に興味があるのですが、きれいに整理された論文を読むだけで新聞の実物を丁寧に当たったことはないので、朝日新聞の最初のページが全面広告だったことは知りませんでした。
これを読んで思い出したのが、石川健治氏の「統治のヒストーリク」(奥平・樋口編『危機の憲法学』所収、弘文堂、2013)の次の文章です。
天皇機関説事件前後、学者に対する思想統制が本土よりも若干緩かった京城においても圧迫が強まった時期の話です。(p29)

-------
 こうした中、清宮四郎がいかなる者か、社会に示さねばならぬ機会が訪れる。
 第1は、法文学部の公開講座『欧米問題講演』である。【中略】
 第2は、東北アジアの日本人社会でもっとも定評のある総合雑誌『朝鮮及満洲』への寄稿である。殊に、御用新聞だった『京城日報』は第1面の全面が書籍雑誌の広告という不思議なレイアウトで、『朝鮮及満洲』の広告は毎号1面トップを飾ることになっていたから、これは非常に目立つことになり、論文タイトルが独り歩きする虞れについても配慮しなくてはならなかった。連載予定は1935年12月号であるため、講演よりも原稿の準備が必要になったであろう。
-------

これを読んだときは、私も京城日報はずいぶん奇妙な新聞だなと思ったのですが、明治45=大正元年(1912)の朝日新聞の第一面が全面広告、それも「種々雑多な広告」で満ちていたのであれば、京城新聞には少し前の時期の新聞界の慣習が残っていただけではなかろうか、書籍広告だけならむしろ上品だったのでは、という感じもします。
朝日新聞では一体いつからいつまで第一面が全面広告というレイアウトが採用されていたのか、他の有力新聞はどうだったのか等の比較をしないと、京城新聞についても石川氏のような評価が正しいとは言えないですね。
また、人間には慣れというものがありますから、新聞の第一面が全面広告であれば普通の人はそれは全く無視して第二面から読み始めるだけの話かもしれないので、本当に「論文タイトルが独り歩きする虞れについても配慮しなくてはならなかった」のかも疑問が生じてきます。
もしかしたら「『処女懐胎』という、いかがわしい本の広告」や「月経帯」と同程度の配慮で充分だったかもしれないですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「根本通明、天兵に敵なし」

2015-11-12 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月12日(木)08時03分17秒

伊藤隆氏が「武藤章軍務局長」に特にこだわらなかった理由ですが、ま、インタビュー技術的なものなんでしょうね。
オーラルヒストリーに関しては魑魅魍魎相手に百戦錬磨、ご本人自身が煮ても焼いても食えないモンスター・インタビュアーと化した伊藤隆氏にしてみれば、陸軍中枢部の人事に詳しくない中田氏に細かいことを聞いても仕方ないと思って、本来の目的である国史編修院の話に行くまでは軽く流した、ということなのだろうと思います。
インタビューの最初の方は聞く側と聞かれる側が互いに相手の力量を量り合う段階と言ってもよいでしょうが、中田氏の「武藤章軍務局長」「あの頃」発言以降、ちょっとやり取りが弛緩してしまっていますね。
「文部省がリベラルであり皇国史観であった」の謎(その2)で引用した部分の続きです。

------
伊藤 私は『東京大学百年史』の関係で、昭和五十三年に平泉先生のオーラル・ヒストリーをやりました(後に『東京大学史紀要』に「旧職員インタビュー」として連載)。
中田 伊藤さんはポケットに手を入れて話を聞いていたので怒られたそうですね(笑)。そういった面では非常に厳しくて、講義の時に頬杖をついていたら怒鳴られたそうですよ。
伊藤 しかるべきところでガツンとやるのはヤクザがよくやる手口ですね。陸軍大学校で教えたときは、「何も言うことはない、大和魂はこれだ」といって、日本刀を示したというのです。
中田 日本思想史の講義のときに、「根本通明、天兵に敵なし」という話をされたので、次の日、実は通明は私の母方の親戚で、もらっていた白鞘の短刀をご覧に入れたのですけれど、決して信用されなかった(笑)。
伊藤 単純な方だと思うのですよ。
竹内 戦後、平泉寺(福井県勝山市)に帰り、白山神社の宮司をやっておられたでしょう。
中田 戦後すぐに東大を辞められて、さっと引き込まれた。しかし、なかなかの名門で、学界に登場したときは颯爽としていました。『中世に於ける精神生活』『中世に於ける社寺と社会の関係』(いずれも至文堂、昭和元年)は名著ですよ。
伊藤 インタビューの速記が『東京大学史紀要』に連載されていますが、「私がこれから日本を動かした時代について話をします」という出だしです。
-------

ちょっと漫談的なやりとりになってしまっていますが、あるいは更に辛辣な部分を省略したのかもしれないですね。
この昭和53年(1978)のインタビューは歴史研究者の間では有名ですが、1895年生まれの平泉澄はこのとき83歳ですから、少しボケてしまった老人を大勢でからかっているような後味の悪さもありますね。
なお、中田氏は「なかなかの名門」と言っていますが、白山神社(平泉寺)は中世に遡る古い由緒を持つものの、平泉家はそれほど古い訳ではありませんから、あるいは中田氏も白洲正子氏と同じような誤解をしているのかもしれないですね。
家柄でいったら、「本来は水戸の奥の方、御前山の長倉あたりから出てきた豪族」で、佐竹氏の家臣となり、「秋田に行ってから、大館藩の支藩で佐竹氏一族の小場氏に目付役として派遣され、その後三〇〇年続いた」中田家の方が「名門」じゃないですかね。

平泉寺白山神社、別当と宮司
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5ca31d04fefef8de18138265a0fa38c

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武藤章と岡部長景の在任期間

2015-11-11 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月11日(水)10時45分38秒

>筆綾丸さん
>花の眼、怪蛇(バジリスク)の眼・・・
あまり、というか全然関係ありませんが、私はチェーホフ『櫻の園』の「園の桜の実の一つ一つ、葉の一枚一枚、幹の一本一本から、人間の目があなたを見てはいませんか、声が聞こえはしませんか?」という一節を連想してしまいました。

「樹上から睨む目」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/398a624f52c7c649dee2850c58ad17ea

>武藤章軍務局長
ウィキペディア情報ですが、武藤章(1892-1948)の軍務局長在任期間は昭和14年(1939)9月30日から昭和17年(1942)4月20日までとなっていますね。
他方、岡部長景(1884-1970)が文部大臣だったのは昭和18年(1943)4月23日から昭和19年(1944)7月22日までです。

「歴代文部科学大臣」(文部科学省サイト内)
http://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki/rekidai/daijin.htm

とすると、中田易直氏の

--------
当時、岡部長景文部大臣が軍部から東大と京大の某教授の首を切れと言われたことがありました。担当である近藤寿治教学局長がそれに該当する人間がいるとは思えないとして、事情を聞くために武藤章軍務局長に面会を申し入れたのです。
--------

との記憶には明らかな誤りがありますね。
中田氏の文部省入省時期を考慮すれば、おそらく岡部文部大臣が正しくて、武藤軍務局長は後任の佐藤賢了あたりとの混同なのでしょうが、こういう基本的なミスがあると、どうしてもこの部分の信頼性に影響を与えてしまいますね。
陸軍に詳しい伊藤隆氏は当然この誤りに気付いたでしょうが、話の流れを妨げないようにそのままにしたのですかね。

>上大崎の長者丸
白金長者伝承に由来する地名なんでしょうね。
「東京些末観光」というブログにかなり詳しい記事がありますね。

http://tokyo.txt-nifty.com/tokyo/2003/09/1.html

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

霜の夜を 思い切ったる 門出かな 2015/11/10(火) 11:55:08
小太郎さん
シューマンほどの才能があれば、音楽と言葉は無関係だとわかるはずですが、なまじ文才があって、「花の眼、怪蛇(バジリスク)の眼、孔雀の眼、乙女の眼が妖しく僕をみつめている」など、後年の精神錯乱を思わせるようなことを言えば、クールなショパンから嗤われても仕方ないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%97%A4%E7%AB%A0
武藤章軍務局長は人徳がなくて絞首刑になったようですが、辞世の句はいいですね。

 霜の夜を 思い切ったる 門出かな

http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2013/11/post-1ee9.html

 振賣の 雁あはれなり ゑびす講

は芭蕉の発句で、恵比寿講の夜に振賣が死んだ雁の首をぶら下げて売り歩いている、というような意味でしょうが、武藤の辞世の句へと通ずるものがなくもないですね。武藤の時の「振賣」とは極東国際軍事裁判における裁判官であり、売られるものは雁ではなく巣鴨で、しかも品質はBC級ではなくA級だ、というところが味噌です。
補遺
?安東次男は、「もしかすると、この雁はまだ生きていたかもしれぬ。それなら白楽天の「旅雁ヲ放ツ」が句の恰好の地色になるだろう」、としています。
?白居易の詩の一節「江童持網捕將去 手攜入市生賣之」は、終戦直後のGHQと戦犯と裁判の関係を詠んだ対句ですが、「官軍賊軍相守老」は日本軍と連合国軍の関係を論じたものではありません、おそらく。

上大崎の長者丸は、地図を見ると、恵比寿ガーデンプレイスの近くなんですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「文部省がリベラルであり皇国史観であった」の謎(その2)

2015-11-10 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月10日(火)08時22分56秒

続きです。(p44以下)

---------
中田 私は、平泉先生と教学局は元々仲が悪いと思っています。後世の人は一緒に見ていて、平泉先生を皇国史観の元凶のように言うけれども、平泉先生は学問的であり、教学局の方が短絡的で浅薄な史観です。しかも、平泉先生の下には朱光会という右翼学生運動が存在していて、教学局思想課ではチェック対象になっていました。そうしたことからも、相容れない関係だったのでしょう。
 国史舘や国史編修院などの重要な案件で代表的な先生方を各大学から集めるとなれば、平泉先生は主任教授ですから必ず呼ばれます。そこで堂々と反対意見を展開をされるだけの勢いがある先生でした。他の人はみな皇国史観にハイハイと従うだけで、あとは山田【孝雄】先生が『大日本史料』を批判する程度でした。
伊藤 そのへんをもう少し説明してください。
中田 戦後追放されないで東大に残った和辻哲郎先生などと、教学局はかなり接触を持っています。そういう意味ではやはり教学局長は一廉の学者でした。
 しかし、あの頃の方が今より、インテリ層の間ではマルクス、エンゲルスその他の研究はずっと熱心でしたね。マルクスの著作を持っていると没収されるし、官憲にひっぱられたでしょう。しかしなんとか底辺に、とあの頃は熱心だったですね。今の学生にはそういった雰囲気はないですね。
竹内 あの時代はみな大学生のときに一番勉強したのではないですか。
--------

伊藤氏が「そのへんをもう少し説明してください」と言っているにも拘らず、中田氏は和辻哲郎と教学局の関係について少し触れただけで、その後はずいぶん変な展開になります。
「あの頃」は一体いつ頃を念頭に置いているのか。
竹内氏の「あの時代」も戦争末期とは思えず、妙に間延びした応答ですね。
ま、もう少し続けてみます。

-------
中田 みんなそういう勉強をしていたと思うのですが、それを指導するのが大学なら学生部、専門学校・高等学校は生徒課、生徒主事です。そのポストはだいたい文部省の人間が行っている場合が多く、文部省から高等学校・専門学校へ入るのは一つのルートでした。
 私が教学局に行ったときは、国史の卒業生は三島善鎧(良兼)、田名部貞宣、後藤四郎など四、五人いましたが、その連中と朱光会の関係は今もって分からない。われわれの時代には和辻色が非常に強く、平泉先生を一歩避けていましたね。今は皇国史観がもっぱら集中攻撃を受けていますが、本当は文部省が『国体の本義』(昭和十二年刊行、全国の学校・官庁に配布)を出したのが悪いのです。当時は悪いと思っておらず、大先生はみな皇国史観に異議がなかったのです。そういう時代だったのでしょう。戦前がみんな悪いと見なされているのは、占領政策の指導の結果です。
------

ここまで読んでも中田氏の言う「リベラル」の意味が今ひとつ分かりません。
和辻哲郎に親和的であれば「リベラル」なのか。
反平泉なら「リベラル」なのか。
このあたり、伊藤氏の問いを中田氏がはぐらかしているような感じもして、あるいは中田氏はアクの強い伊藤氏が嫌いなのかなとも思いましたが、すぐ後で伊藤氏が平泉澄にインタビューした話をすると、「伊藤さんはポケットに手を入れて話を聞いていたので怒られたそうですね(笑)」などとあるので、別にそんなこともなさそうですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「文部省がリベラルであり皇国史観であった」の謎(その1)

2015-11-10 | 石川健治「7月クーデター説」の論理

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月10日(火)07時32分48秒

中田易直氏は昭和16年に東京帝大文学部美術史学科に入学し、一年後に国史学科に移りますが、「その頃、私は和辻哲郎先生に心酔していました」とのことで、平泉澄を仰ぐ主流派とは距離を置き、「なんとなく主流でないところでうろうろして」、卒論(「近世武士道の成立」)の指導教授も中村孝也だそうですね。
そして昭和18年9月に繰り上げ卒業して文部省に入った一ヵ月後に入隊するも「ちょっと心臓が弱かったものですから、即日帰郷」となり、文部省に復帰して小沼洋夫(なみお)の下で『国史概説』の編纂を行ったそうです。
ということは、戦前の文部省を知っているといっても下っ端で二年間足らずであり、また、明らかに政治向きの性格ではない方なので、全体的にちょっと物足りない感じは否めません。
ま、それはともかく、興味深い箇所を少し引用してみます。(p43以下)

-------
伊藤 皇国史観についてもう少し具体的にご説明くださいますか。
中田 皇国史観は、そもそも文部省教学局が推進したもので、平泉澄先生を待つまでもないのです。ですから、平泉史学に責任を全部かぶせるのは間違っていると思います。ただ、教学局もどちらかというとリベラルな性格があって、軍部と合わないところがありました。
 当時、岡部長景文部大臣が軍部から東大と京大の某教授の首を切れと言われたことがありました。担当である近藤寿治教学局長がそれに該当する人間がいるとは思えないとして、事情を聞くために武藤章軍務局長に面会を申し入れたのです。
 指定された時刻に近藤局長と小関紹夫思想課長の二人が行くと、陸軍省の大きな部屋に関係諸官が大勢並んでいた。近藤局長が、左右極端な思想を持つ教育に堪えない者がいれば私に一番早く情報が寄せられるはずなので、どういうことですかと聞いたそうです。武藤局長は聞きたいことがあれば自由に言いなさいと秘書官に言ったところ、どこからも質問が出なかったので、そのまま帰ってきたことがあったそうです。そういう話が出て来るぐらい、教学局と軍部は合わなかったのです。
伊藤 今の説明で一般読者が理解しにくいのが、文部省がリベラルであり皇国史観であったということですね。それと平泉さんとの関係です。
-------

「皇国史観」という用語を通俗的な意味ではなく、あくまで当時の史料に即して考察すると、平泉澄とは特に関係がないということは昆野伸幸氏が明らかにされていますが(『近代日本の国体論』)、中田氏の回想も昆野氏の理解に沿ったものですね。
ま、引用部分に限れば、中田氏の用いる「リベラル」の意味が分かりにくくて、単に軍と親和的でなかっただけのようにも読めます。

平泉澄は「皇国史観」の理論的リーダーか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a390811d4a697b38ca1690a0451ca93

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする