学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

石母田正氏の生家

2014-02-27 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月27日(木)19時12分12秒

>筆綾丸さん
一時的に宮城に戻っているのですが、今日は石巻市へ行って市立図書館で石母田正輔翁とその五人の息子たちについて調べ、ついでに石母田氏の生家跡に行ってきました。
石母田氏の生家は志賀直哉の生家のすぐ近くであることは分かっていたので、付近の酒屋さんで話を聞いてみたら、どうも道路を挟んで志賀直哉の生家の反対側だったようですね。
リンク先に志賀直哉生家の写真が出ていますが、この建物は既になくて更地になっており、石母田氏生家跡らしい場所も比較的新しい住宅と更地になっていました。
酒屋さんによれば東日本大震災では近辺は1メートル強ほど浸水したそうで、殆どの建物は修理で済んだようですが、志賀直哉の生家、および石母田氏の生家の一部?が大震災の影響で取り壊されたのかは分かりませんでした。
石母田氏の生家は本当に北上川のすぐ近くで、家から釣り糸を垂らせば魚を釣れるような位置ですね。
きちんとしたレスはまた後ほど。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Selbstrechtfertigung と神の不在 2014/02/27(木) 14:38:52
小太郎さん
水林氏の「「支配のLegitimität」概念再考」(『国制と法の歴史理論』290頁~)を読んでみました。
--------------------------------
・・・日常生活においてごく普通に見受けられる「自己義認(Selbstrechtfertigung)」現象を土壌として、その上に、秩序と支配の Legitimation 現象が展開するのだということ、「支配の Legitimität 」問題は、人々の社会的行為の一つたる「自己義認」行為のもっとも強度な形態なのだということ、このような観察は、ヴェーバーならではの大局的視座設定であり、「支配の Legitimität 」論は、そのような広大な視界の中に位置づけられた理論なのであった。(317頁~)
--------------------------------
この直前にあるヴェーバーの引用文は、宿命的というか運命的というか、かなりイライラする考察ですが、人間社会を冷静に観察すれば、こういうことなのかもしれませんね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Justification_(theology)
Selbstrechtfertigung の内の rechtfertigung の神学上の英訳は、ウィキには、
-------
Justification, in Christian theology, is God's act of removing the guilt and penalty of sin while at the same time declaring a sinner righteous through Christ's atoning sacrifice.
-------
とあり、本来は神の行為だから、冒頭の Selbst は邪教的な異質な発想とでもいうべきもので、カトリック世界からみれば、Selbst+rechtfertigung という用語(ヴェーバーの造語?)は、神の行為を人間が簒奪したような響きを有する、本来は不可有な自己矛盾の用語なのかもしれませんね。とすれば、なぜヴェーバーはこのような用語を用いたのか、支配の Legitimität の根幹にかかわるだけに、ぜひ知りたいところではあります。「自己義認」は誰の訳語なのか、わかりませんが、神学上の矛盾をも織り込んだ一種の名訳なのかもしれませんね。また、ヴェーバーとはさしあたって関係ありませんが、「Rechtfertigungsgrund」を「違法性阻却事由」としたのは、やはり名訳というべきなんでしょうね。

「Legitimität および Legalität は本来ドイツ語ではなくラテン語起源であり、これらの語の担う概念の歴史は、まずは、ドイツよりもフランスにおいて展開した」(318頁)として、フランス民法典(1804年)と比較しているのは、とても興味深いですね。(イタリア法を調べれば、同じような現象があるのでしょうね)丸山眞男が誤解した原因は、カール・シュミットの「Legalität und Legitimität」ではあるまいか、という指摘には、じつに鋭いものがありますね。

いわゆる主従制的支配権と統治権的支配権という佐藤説は、ヴェーバーの学説を換骨奪胎したものと考えてきましたが、はたしてそうなのか、だんだんわからなくなりました。ヴェーバーの「支配の Legitimität 論」と権門体制論を接木した「中世 hybrid 論」のようなものを考えていますが、上手くいきません。

追記
『国制と法の歴史理論』の巻末補注(616頁)に、『思想』掲載時と変更したものとして、Selbstrechtfertigung(自己正当化→自己義認)とあるので、自己義認は水林氏自身の訳のようですね。ただ、義認というような宗教的ニュアンスのある訳語になぜ代えたのか、真意はわかりません。
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石母田氏の法律論

2014-02-25 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月25日(火)21時02分46秒

>筆綾丸さん
真面目な話、石母田氏は法解釈学について基礎的な勉強をしないまま独学で法制史に関する膨大な知識を詰め込んでいるので、ものすごくバランスが悪い議論をする人ですね。
文学部の人だと、難しい法律用語を次から次へと繰り出す石母田氏の迫力に圧倒されて、石母田氏が何か非常に緻密な議論をしているように感じるでしょうが、実際には石母田氏は近代法の基礎的な法律概念、例えば「所有権」というような本当に基礎的な概念をきちんと詰めて考えたことがない人なので、全ての議論が曖昧模糊とした、しかし無駄に迫力がある議論になってしまっていますね。
筆綾丸さんが「東大寺におけるローマ法的なるもの」で紹介された箇所など、石母田氏の思考の曖昧さが現れている典型的な部分なのですが、それをいちいち批判するのは生産的な作業ではないでしょうね。
なお、筆綾丸さんも「何の義務も負わない権利というけれども、そもそも、そんな権利があるのだろうか。ふつう、それは権利とはいわない」と言われていますが、これは筆綾丸さんの勘違いですね。
ある人AがBに対して権利を持つということはBがAに対して義務を負うということで、権利と義務はコインの裏表のような関係に立ちますが、これは権利に義務が伴っているわけではなくて、ひとつの事象を二つの方向から見ているだけですね。
石母田氏が東大寺の権利は「領主として農民に何らの義務も負わないところの抽象的権利」と言われているのは、一般の在地領主が農民との間に複数の権利義務の束から成る法律関係を形成しているのに対し、東大寺は農民に対して一方的に権利のみを有し、義務は負わない関係にあること、すなわち一方的な収奪のみが行われているという意味なんでしょうが、「所有権」やさらに国家の領土高権などと絡めてくるので、いろいろ分かりにくい議論になっていますね。

>権門体制論
仮に権門体制論が「国家はひとつ」論で、東国国家論が「国家は二つ」論ならば、私も権門体制論者なのですが、黒田俊雄氏は「王家」「帝王」「国王」について無駄に複雑なことを言われていて、理念型を析出する能力に問題があるような感じがします。
ま、私に理解能力がないだけかもしれませんが。

>『権利のための闘争』
村上淳一氏に『「権利のための闘争」を読む』という著書がありますが、実に面白いですね。


(追記)
『中世的世界の形成』については後続の研究が山ほどあり、石母田氏の法律論についても様々な形で検討が加えられているのでしょうが、石母田氏の議論には問題が多いので、『中世的世界の形成』そのものについての訓詁学的な研究はあまり意味がないだろうと思っています。
もちろん、それは黒田荘や東大寺に関する法的研究の意味がないということではありません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

権利のための闘争? 2014/02/25(火) 19:36:06
小太郎さん
『中世的世界の形成』は、読み終えるのに相当の苦痛を伴いますね。再読してみて、なんとなく白土三平氏の『カムイ伝』に似ていると感じたので、『カムイ伝』を読み直してみようかとも思いますが、途中で挫折しそうな気がします。

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1402/sin_k755.html
岡田温司氏の『黙示録』に、「三位一体の三つの円」(106頁)の紹介があって、三つの円は父(PATER)と子(FILIVS)と聖霊(SPS SCS[=SPIRITVS SANCTVS])を象徴していますが、真ん中の円を公家、左右の円を寺家と武家にすれば、権門体制論に対する私のイメージは丁度こんな感じですね。

http://www.tokyodoshuppan.com/book/b80182.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0
佐藤和彦氏の『中世の一揆と民衆世界』をひもとくと、第?部は「荘園制社会と農民闘争」で、まるでイェーリングの『権利のための闘争(Der Kampf ums Recht)』のような感じですね。
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『脱税的世界の形成』

2014-02-25 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月25日(火)13時39分0秒

>筆綾丸さん
あちこち浮気しながら読んでいるので『中世的世界の形成』がなかなか進まないのですが、この本は宗教団体が如何に念入りに節税・脱税の工夫を重ねてきたかを描く感動ストーリーではなかろうか、という疑念がいったん生じると、なかなか真面目に読むのもつらくなってきますねー。
まあ、故・伊丹十三監督の『マルサの女』程度にはダイナミックでスリリングな物語なので、一応最後まで見ようかな、とは思っていますが、文学部の変態どもは、こんなのを読んでハーハー興奮しているのか、という感じがしないでもありません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

窓の外は近世 2014/02/22(土) 12:51:03
小太郎さん
『中世的世界の形成』は、再読することはあるまいと考えていましたが、あらためて通読してみて、やはり、ものすごくよくできた「物語」だと思われました。若い頃は、おそらく、最後の二行、「われわれはもはや蹉跌と敗北の歴史を閉じねばならない。戸外では中世はすでに終り、西国には西欧の商業資本が訪れて来たのである」(417頁)に感動したのかもしれないのですが、現在では、素直に納得できない表現です。

『室町時代公武関係の研究』の序論は、仰る通り、読もうという意欲を殺ぐものがありますね。
若い研究者たちの勉強範囲はどんどん先細りになっているようで、そのことに対する危機感は感じられません。まあ、行くところまで行けばいいのだろうけれども。
「悪党は前記の如き固有の頽廃性と孤立性の故に、東大寺に代るべき新しい体制を樹立し得ず、かかるものとしての悪党は東大寺とともに没落すべき性質のものであった」(『中世的世界の形成』398頁)
悪党と比べたら、悪党が怒るでしょうね。
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誰が言葉を奪ったのか─「佐藤史学」の罪

2014-02-24 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月24日(月)20時48分56秒

石母田氏の古典文学作品、『中世的世界の形成』と平行しつつ、1970年代以降の比較的若い世代の中世に関する著書をいくつか読んでみたのですが、桜井英治氏が「「網野史学」と中世国家の理解」(小路田泰直編『網野史学の越え方-新しい歴史像を求めて-』、ゆまに書房、2003年)で書かれていた「失語症」の問題、本当に深刻だなあと改めて感じました。
2月10日の投稿では桜井氏の提言部分を引用しましたが、その前提となる研究の個別分散化の原因分析も引用してみます。(p17)

-------
 なぜこのような状況がうまれてしまったのか。これはもちろん歴史学全体に共通する問題ではありますが、とりあえず日本中世史に即して具体的な経過をたどってみますと、根本的な原因はやはり一九七〇年代半ば─人によってはもっと早い六〇年代後半あたりに求める人もいるかもしれませんが─そのころにおこったマルクス主義史学、階級闘争史観の急速な退潮・行き詰まりにあったことはまちがいありません。そしてこの点については関西の学界では異論があるかもしれませんけれども、その後の学界をリードしたのがそれまで少数派であったところの笠松宏至・石井進・勝俣鎮夫氏ら、佐藤進一氏の門下生であったということに注目してみたいと思います。
(中略)
 ところで、佐藤進一氏の門下生としていまお名前をあげた方々は、私にとっては恩師でもあり、その実証主義的方法は私のなかにもいわば初期設定として染みついています。その意味では一〇年、二〇年経てばわれわれの世代も「佐藤史学」に含められるかもしれませんが、いまは、あえてそういった個人的な関係をはずして考えてみますと、「佐藤史学」の研究はいずれも一通の文書を、先入観をできるだけ排除して丹念に読み込むことからはじめるのを特徴としています。そしてそこから通説とは異なる斬新で大胆な歴史像を提示してみせるところに最大の魅力がありました。この方法は、さまざまな抽象的概念が飛び交うマルクス主義史学のそれよりもはるかにわかりやすく、地に足がついているように感じられたはずです。
 しかし、功罪の罪のほうをあえてあげるとすれば、「佐藤史学」は─石井進氏などは少し違いますが─戦後マルクス主義史学との関係をあえて断ち切ったところから出発しているために、この方々がマルクス主義史学にたいして抱いていたであろう緊張感は意識のうえでは相当なものであったはずなのに、その文章のなかには直接あらわれてこない。この言及関係の不在が研究史に断絶をもたらし、わたしたちの座標軸を結果的に失わせた面があることも否定できないと思うのです。
(後略)

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戦後歴史学二首

2014-02-24 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月24日(月)00時13分17秒

 桜井英治氏の「「網野史学」と中世国家の理解」
 (小路田泰直編『網野史学の越え方-新しい歴史
 像を求めて-』、ゆまに書房、2003年)を読みて

持ち前の力強さと明るさで
  全てを壊し逝きし人あり


 『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館、2003年)
 における永原慶二氏の長大な網野善彦批判を読みて

ダークサイドに堕ちし網野と闘うため
  フォース駆使するヨーダ永原

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呉座勇一氏『戦争の日本中世史』

2014-02-23 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月23日(日)21時40分29秒

>筆綾丸さん
今日はまた浮気して、少し前に購入したものの、目を通していなかった呉座勇一氏の近刊、『戦争の日本中世史』(新潮社)を220頁あたりまで読んでみました。
冒頭から「唯物史観」・「マルクス主義の歴史観」・「階級闘争史観」・「戦後歴史学」への攻撃が続き、まあ、気持ちは分からない訳ではないのですが、石母田正・永原慶二氏やその直接の後継者・自称後継者だけならまだしも、佐藤進一氏や網野善彦氏らも一緒くたにして唯物史観だ、マルクス主義だと攻撃するのは、ちょっとマッカーシーの「赤狩り」を連想させて、嫌な気分になりました。
ま、それはともかく、欧米を含め、軍事史関係の多数の文献を踏まえて、「平和ボケ」の「戦後歴史学」の人々が犯した認識の誤りを正して行く手際の良さは見事なものですね。
悪党に関しては、『峯相記』は信頼できないこと、訴訟文書は「盛る」のが基本であって、有名な寺田法念の兵力など実際は微々たるものであったことなどは、今まで漠然と、何か変な話だなあ、と思っていた部分が非常にクリアーになりました。
四条隆資とその息子たちへの言及はこの種の一般書では珍しいと思いますし、今川了俊と比較しての北畠親房の評価も公平だと思います。
最近の私の関心からは、一揆契状が戦時立法だったとの指摘(p183以下)が一番気になるのですが、このあたりは次の著書、『日本中世の領主一揆』に詳しく述べられていそうですね。

平田俊春 「四條隆資父子と南朝」
『日本中世の領主一揆』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

窓の外は近世 2014/02/22(土) 12:51:03
小太郎さん
『中世的世界の形成』は、再読することはあるまいと考えていましたが、あらためて通読してみて、やはり、ものすごくよくできた「物語」だと思われました。若い頃は、おそらく、最後の二行、「われわれはもはや蹉跌と敗北の歴史を閉じねばならない。戸外では中世はすでに終り、西国には西欧の商業資本が訪れて来たのである」(417頁)に感動したのかもしれないのですが、現在では、素直に納得できない表現です。

『室町時代公武関係の研究』の序論は、仰る通り、読もうという意欲を殺ぐものがありますね。
若い研究者たちの勉強範囲はどんどん先細りになっているようで、そのことに対する危機感は感じられません。まあ、行くところまで行けばいいのだろうけれども。
「悪党は前記の如き固有の頽廃性と孤立性の故に、東大寺に代るべき新しい体制を樹立し得ず、かかるものとしての悪党は東大寺とともに没落すべき性質のものであった」(『中世的世界の形成』398頁)
悪党と比べたら、悪党が怒るでしょうね。
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『室町時代公武関係の研究』

2014-02-21 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月21日(金)09時44分34秒

>筆綾丸さん
そういえば昨日、水野智之氏の『室町時代公武関係の研究』を少し読んでみたのですが、「第一章 室町時代公武関係論の視角と課題─王権概念の検討から─」「はじめに」の3行目、「前近代の国家を、人民からの収奪を保障する機構の総体とするならば...」でいきなりストップしてしまいました。
前近代の国家を「人民からの収奪を保障する機構の総体」と定義する学説があれば知りたいのですが、特に注記はありません。
「国家」については、『国史大辞典』・『日本史大事典』・『歴史学事典第12巻 王と国家』等で、その基礎の基礎だけは押さえているつもりだった私としては、ここでそっとページを閉じるという選択肢もあったのですが、それでも「一 王権概念と公武関係論・天皇論の変遷」を読んでみたところ、「国家」概念以上に多くの学者が好き勝手に用いている「王権」概念についてダラダラと「研究史」が書かれていました。
更に「ニ 公武関係論の視角と課題」に入ると、冒頭に石母田氏の「礼」の秩序論が登場したのですが、水林彪氏の石母田説批判(「幕藩体制における公儀と朝廷」、『日本の社会史』3、岩波書店、1987)への言及がないことを確認し、退却を決定しました。
注で参照されている文献をみても石母田氏以降の日本の学者しか登場せず、「国家」「王権」を論ずるには素養の面で無理がありますね。
桃崎有一郎氏の著書にも水林彪氏の論文への言及は全くありませんでしたが、水林氏が無視されている理由が何なのか、少し気になります。

※筆綾丸さんの下記投稿への子亀レスです。

国家的公権の表象的決定主体者? 2014/02/13(木) 19:02:57
小太郎さん
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32790.html
関係ない話で甚だ恐縮ですが、水野智之氏の『室町時代公武関係の研究』をパラパラ眺めてみました。
------------------------
すると、国家的領域支配権の実質を把握せず、「権力の代表者であること」とは、どのようにして維持されるのかが問題となる。
この点については様々な要因や諸行為が挙げられよう。例えば、位階・官職制や各種儀礼のもたらす君臣関係・身分制、荘園制的「職」の知行制、戦乱の調停・和解命令、神話・伝承等による荘厳化、寺社のいわゆる教権に対する優位等々を指摘できるが、究極的には国家的領域支配権における宗教的・儀礼的要素をも含んだ支配観念によるものと考える。実際に統治しえなくても、国土支配の正当性の源泉は天皇にあるとする観念、換言すれば天皇の保持する国家的公権が、畿内、京都といった中央に至るほど、そして上位の国家的権力機構に関わる人々ほど濃厚に意識されざるを得ない状況があったと思われる。(29頁~)
------------------------
国家的領域支配権とか、支配観念とか、国土支配の正当性とか、国家的公権とか、上位の国家的権力機構とか、意味不明の表現がやたら出てきて、かなりイライラする序論です。もう少し、なんとかならんものか。
「国家的公権の発動において、義満は公権行使の表象的決定主体者の立場に位置しえたわけではない」(182頁~)、「天皇を表象的な決定主体とする国家的公権」(185頁)、「将軍権力がきわまったかにみえる時期でも、天皇の国家的支配権は維持されており、将軍と天皇・関白は対立しつつも、共同して国家的公権を行使している」(191頁)
要するに、国家的公権とか国家的支配権とは何なのか。表象的決定主体者に至っては、お手上げですね。理論的な話になると、なぜこうも、益体もないお経のような調子になってしまうのか。中世史における大きな謎のひとつですね。
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石母田二首

2014-02-21 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月21日(金)08時32分25秒

>筆綾丸さん
石母田氏が若い頃に用いていた語彙・表現は、最近の研究者にとっては社会科学の論文に使ってよいのか躊躇わざるをえないものが多いですから、歴史学を外から眺めている私のような者にとっても、通読するだけで殆ど障害物競走に参加している気分になれますね。
もちろん時折現れる卓見にハッとすることは多いのですが。

昨日は『中世的世界の形成』はお休みして水林彪氏の「「支配のLegitimität」概念再考」(『思想』995号、2007年)を読んでいました。
丸山真男のマックス・ウェーバー理解を根本的に批判するもので、本当に鋭い内容なのに実に淡々と書かれていますね。


 石母田の泥にまみれしレンコンの白き色にぞ驚かれぬる

 石母田の濁りに魚もすみかねて水の林の清さ恋しき

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

東北のブッデンブローク家 2014/02/19(水) 16:11:44
小太郎さん
石井進氏は解説で「日本歴史学の最高傑作の一つ」と評されていますが、数え年33の時、僅か一ヶ月の執筆とは、なんとも天才的な人ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85
「実遠は古代領主の伝統につながる最後の領主として没落したのである」(63頁)
この前後の記述には、トーマス・マン『Buddenbrooks』の副題「Verfall einer Familie」を思わせるものがあって、実にいいところですね。氏は原文で読まれていたかどうか。『Buddenbrooks』を大規模にすると、『平家物語』になりますね。

http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-glasgow-west-26243567
Edward Snowden has been elected to the post of student rector at Glasgow University(エドワード・スノーデン氏、グラスゴー大学の学生自治会長に選出される)とのことで、スコットランドは、現在、イギリス連邦から独立してEUに加盟するかどうか、もめているようですが、学生もまた柔軟な思考をするものですね。日本のような野暮な社会では想像もできないことです。


「国民」と「国民」の相違 2014/02/20(木) 22:12:33
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衆徒は荘園内の領主的豪族が交替に寺院に出仕した者であるが、庄内の治安維持、寺院の警備については興福寺は衆徒国民に依存していた。衆徒は官符衆徒ともいわれ、寺家の被官であるが、寺外に居住して寺務の指揮の下にあり、その内には筒井、古市、高条、飯高、小泉、竜田、六条、櫟原等その他の大小の豪族が属し、国民は春日社の神人、白人であって、同社の門跡の支配に属し、そのなかには越智、十市、片岡、箸尾、布施、万才、豊川、柳本等その他多数の豪族が属していた。これら豪族の多くは大和の国の同寺領の庄園の下司職、給主職、公文職等を勤めていた在地の庄官であるとともに、所当を滞納する百姓や犯過人等の検断、寺院の警備等、興福寺領内の秩序維持のために寺務の指揮下に組織された軍事的警察的機構であり、傭兵であった。中世の興福寺の領内百姓に対する統治を支えていたものは、この衆徒国民であったといっても過言でない。(『中世的世界の形成』308頁~)
・・・衆徒国民はけっして興福寺の支配機構そのものを破壊しようとしなかった。彼らはあくまで興福寺の組織に依存し、それに寄生することによって成長したのである。尋尊が「学侶・六方は悉くもつて衆徒国民の子共か、或いは被官人の子共なり。よつてかくのごとく雅意に任すの条も尤の事なり」と嘆じた如く、有力な衆徒国民はその子弟を次々に興福寺の僧侶となすことによって学侶六方らの旧勢力を従属せしめたのである。(同311頁)
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永享年間、衆徒国民を糾合して大和の覇権を掌握したのは筒井一族で、これが興福寺を内部から解体し古代政治を没落させたとして、次のような物騒な記述になります。
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瀕死の状態にある巨大な古代の怪物に寄生して、その腐肉を喰いつつ成長して来た大和国の無数の虫螻どもが今やその体内から生々と解放されて来る。興福寺はその傭兵のために死命を制せられた。西ローマ帝国もゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされたのである。興福寺の末路は古代から中世への転換にとって運命的なものを暗示しているように思われる。(313頁)
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ここまでの「国民」の意味はほぼ一貫していますが、「第4章 黒田悪党」で『平家物語』論を展開するあたりから本来の意味が変化し、最後の方は近世の nation のような意味になっているような感じがします。
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貴族的な作家が念頭に置かざるを得なかった広汎な庶民、国民層が成長して来ること、これが中世に外ならない。この庶民、国民層は抽象的な概念ではなく、具体的には領主=武士団に率いられた庶民層である。(354頁)
『平家物語』は国民的文学であるが、この国民的なものの成立の前史が同じく平安時代の後期にあったことは注目すべきことである。(355頁)
『貞永式目』と『平湖物語』と『歎異抄』は日本の中世的世界を支えている三本の柱である。そこに共通しているものは国民の発見であり、国民との生々とした連関である。(359頁)
国民はけっして発見されたものでない。それは古代専制主義の基礎をなしたあらゆる制約を克服して来て初めて、貴族に対して国民となったのである。みずからの努力によって国民の形成なくして、古代支配の基礎をなした大陸文化を揚棄することはけっして出来なかった。中世を国民的と規定することに意味があるのでなく、そこにいたる過程と条件を農村社会の歴史のなかに深く探究することに意味がある。(略)中世を国民的とすることは勿論異論が伴うであろう。(略)それは古代的専制的体制に対立する広い諸階層を代表する意味において、国民的なのである。(360頁)
かかる観念に基づく体制が、広汎な地域を占めるようになれば、それは国民的資質となり、国民は後世長くそれを重荷として背負わねばならない。(390頁)
----------------------------------
国民とは、「腐肉を喰いつつ成長して来た大和国の無数の虫螻ども」の末裔のことである・・・。
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「当国の猛者」藤原実遠と「石巻の猛者」石母田正輔

2014-02-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月19日(水)10時10分38秒

>筆綾丸さん
敬して遠ざけてきた『中世的世界の形成』、ちょうどよい機会ですので少し真面目に取り組もうと思っています。
石母田正氏が僅か一ヶ月間でこの本を書いたのは「昭和十九年十月」で、1912年生まれの石母田氏は数えで33歳。
大変な才能には違いありませんが、時代の危機感なしにはここまでの作品にはならなかったでしょうね。
「頽廃」の連発も古代・中世人への倫理的非難のようでいて、実際には「天皇制に呪縛された多数の日本人民」(『国民のための歴史学』おぼえがき)への非難なんでしょうが、まあ、この種の特異なレトリックは歴史学のカリスマだから許容される訳であって、今どきの歴史研究者が自分の論文で真似をしたら、学会誌に掲載されないどころか危ない人と思われかねないですね。

p63には藤原実遠の譲状末文に触れて、「当国の猛者として鋭意経営に努めた先祖相伝の所領が荒廃してゆくのを見る倣岸な老人の晩年の感懐がそこにこめられているように思う」とありますが、何となくこの「倣岸な老人」には石母田正氏の父親、正輔翁のイメージが重なっているような感じもします。
石母田正輔氏は1861年生まれで、二男の正氏が生まれた1912年には数えで52歳であり、親子というより孫くらい離れた年齢差ですね。
「石巻Wiki」によれば、正輔氏は宮城師範学校を卒業した後、新聞人・官界・財界・地方政界とめまぐるしく活動領域を変えたそうです。
奥羽日日新聞(仙台市)入社→茨城県龍ケ崎警察署長→島根県警察部長→台湾・新竹州知事→札幌電燈会社社長という経歴を経て、正氏が生まれた1912年に第九代石巻町長となったものの、地方政界の激しい政争に巻き込まれ僅か1期4年で退任。
そしてその後、実に13年半のブランクを経て1929年に石巻町長にめでたく再任となった翌年10月、仙台の第二高等学校に通っていた二男が左翼活動によって検挙され、無期停学処分を受けた訳ですね。
石母田氏はこのときに父親から厳しく怒られたそうですが、これも壮年の父親にブン殴られる光景を想像するのは間違いで、数えで70歳、古希を迎えた老人に叱られたことになります。
そしてこの石巻町長の老人は、息子には内緒で第二高等学校に行き、「人の思想は自由なものだから、それによって処分するのはけしからん」と学校当局を叱りつけた訳ですが、そのあたりの経緯を簡単に纏めた今谷明氏の「石母田正」(『二十世紀の歴史家たち(1)』、刀水書房、1997)には肝心の父親の年齢・経歴が書かれていないので、読者が連想するであろう家族模様と実際の光景は少しずれてきそうですね。
ま、それはともかく、石母田正氏は父親を「家庭では専制的で、厳格で、家族のものをおしつぶして生きてきたような人間」と評していたそうなので、石母田正輔氏の経歴を考えると、「当国の猛者」である「倣岸な老人」に、石巻の猛者である正輔翁の面影を見るのもまんざら的外れではないように感じます。
正輔翁は1941年(昭和16)に亡くなっているので、『中世的世界の形成』の「初版序」は「しかし今はこの書物をもって郷里に独り住む母を訪ねる時の悦びで一杯である」で終わっていますが、正輔翁がご存命であれば、ここに父親への何らかの言及があったかもしれないですね。

石母田正輔(石巻Wiki)

銅像(住吉公園内)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

悪徳の栄え 2014/02/18(火) 17:47:23
小太郎さん
石母田氏の東大寺批判にはルサンチマンのようなものがあるので、南都焼討の張本人重衡をどう評価しているのかと、「第3章 源俊方」を確認するも残念ながら何の言及もなく、代わりに東大寺を再建した頼朝を「中世的倫理の体現者」として卓越してはいたが、所詮、「天平の貴族の後裔」にすぎず、「貴族的伝統のために圧倒された」のだ、という表現に出会います(256頁~)。
『中世的世界の形成』のバッソ・オスティナートは頽廃ではないかと思わせるほどですが、388頁などは頽廃がゲリラ的豪雨のように氾濫しています。フェアドルベンハイト(Verdorbenheit)、デカデンツ(Dekadenz)、エンタルトゥング(Entartung)・・・中世の東大寺がサドの『悪徳の栄え』のような様相を呈していますね。
「神人・公人の腐敗は中世東大寺の腐敗の表現にすぎない」
「神人の腐敗が東大寺の政治の腐敗の必然的な結果である」
「東大寺の政治のあらゆる頽廃の根源が存在した」
「黒田庄の世界を支配していたものはこの頽廃以外にはない」
「政治の頽廃以上の道徳の頽廃を端的に表現するものがありうるだろうか」
「庄民は道徳的頽廃をも一部東大寺と分ち合わねばならなかった」
『中世的世界の形成』を眺めて驚くのは、これほど東大寺に言及しながら、肝心要の華厳宗ひいては宗教について殆ど何も語らない、という石母田氏の方法論であって、これほど卓抜な東大寺批判はないかもしれないですね。

それはそれとして、東大寺におけるローマ法的なるものについて、先の引用文を前後を含めて再読してみたのですが、なんだかよくわからない表現ばかりですね。
何の義務も負わない権利というけれども、そもそも、そんな権利があるのだろうか。ふつう、それは権利とはいわない。抽象的権利というけれども、権利の具象性はともかく、権利の抽象性とは何なのか。自己の意志を絶対的なものとするならば、そもそも立法などを必要とするだろうか。庄民が自己自身の法を形成するというけれども、寺奴の末裔にすぎぬ庄民が形成する法とは何なのか。・・・・・・
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「ミネルヴァの梟は夕暮れ時に飛翔する」

2014-02-18 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月17日(月)21時13分36秒

>筆綾丸さん
石母田氏は「頽廃」という言葉をけっこう気楽に使うので、ドキッとすることがありますね。
「宇津保物語についての覚書」では、「平安京における大部分の人間は、歴史的に不要な人間の集団であって、この世界に組み入れられた者は、その出身と階級を問わず、頽廃の運命を背負わされていた」「古代ローマと同じように外部からの力で破砕されるまではともに身を腐朽させる以外にはなかった」てなことを言って、数十年後に井上章一氏を激怒させていますね。(『日本に古代はあったのか』)

「東帝疫」

石母田氏は丸山真男と非常に親しかったそうですが、水林彪氏によれば、丸山真男は「原型(古層)論」を宿命論と片付ける立場への反論として、次のように考えていたそうです。(大隈和雄・平石直昭編『丸山真男論』所収、原型(古層)論と古代政治思想論」p13)
この発想は石母田氏にも影響を与えたのかもしれませんね。

-----
 このような議論は、宿命論のように響きます。宿命論だから展望が開けない、与しえない議論だというような感想を漏らされる方は、結構多いように思います。しかし、当の丸山は、宿命論とは考えていませんでした。「過去をトータルな構造として認識することそれ自体が変革の第一歩」である。「日本の過去の思考様式の構造をトータルに解明すれば、それがまさに、basso ostinato を突破するきっかけになる」というのが丸山の考えでありました。丸山はこのことを、ヘーゲルとマルクスの関係についてのカール・シュミットの解説から学んだと言っています。ヘーゲルは、哲学というものは、ある時代が終幕に近づいた頃に遅れて登場してその時代を把握するものである、という趣旨のことを述べました(「ミネルヴァの梟は夕暮れ時に飛翔する」)。マルクスはこの論理を反転させて、ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体その時代が終焉に近づいている兆候を示すというように読み替え、資本制社会の学的な解剖に情熱を傾けたというのです。原型(古層)的伝統を克服する第一歩は、原型(古層)それ自体の全的解明にあるというわけです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

歴史学の頽廃性と統治者の頽廃 2014/02/17(月) 14:32:33
小太郎さん
いまではかすかな余韻しかないのですが、兼子一『実体法と訴訟法』は法学者の中で別格の文体のような気がしたものです。

--------------------------------
歴史学のみならず學あるいは思想そのものの性格についてもっとも深刻な考察をしたものはおそらくヘーゲルであろうが、彼がその『歴史哲学』や『法哲学』において考察しているところによれば、学や思想はかならず歴史における一定の時をまって出現する、それらは民族がその行動と事業の建設に忙しい時代には出現せず、かえってその行動が完了し、民族の人倫生活が解体し頽廃しはじめるような危機の時において出現するものである。かかる学の成立の運命的といってよい性格は、学そのものが存在から乖離し、また現実の世界への情熱を喪失し、自己の概念の世界にとじこもることであり、そのために学にはつねに観念性とともに頽廃性が固有の性格とならざるを得ない。ヘーゲルのいう学や思想のもつ固有の観念性と頽廃性がもっとも典型的なあるいは鋭いかたちをとって現われるのは、その学問としての性質上歴史学においてであろう。完了した事態の反省と観想としての歴史学が成立する時期は、現実が既に矛盾をはげしくし、解体と頽廃にとらえられている時であり、かかる時に成立する歴史学は必然的にヘーゲルのいう頽廃性を多かれ少かれ固有の性格とせざるを得ない。古いドイツの危機と頽廃のなかから生まれたランケの歴史学はこの歴史学の頽廃性の古典的表現であった。彼が概念や思弁や法則から解放して、擁護し救済しようとした「事実」や「存在」は彼のいうごとく生命的具体的な現実でなければならないが・・・」(平凡社ライブラリー『歴史と民族の発見』「歴史家について」123頁)
--------------------------------
歴史的に与えられた社会的機能をすでに果たし終えた一箇の統治形態が存続しようとする場合、その統治手段は頽廃的となり、統治者は道徳的に腐敗するということは歴史の教える必然的現象であるが、しかしこの現象は単に統治者の内部の問題にとどまらないのである。庄園の政治は興福寺のみで行うのではない。領主とともに庄民がその統治を承認せざるを得ないが故に、それは具体的に政治として機能するのであるから、庄民は統治者の頽廃を多かれ少なかれ分かち持たねばならない。政治の頽廃とはその世界全体の頽廃として現象せざるを得ないので、庄民のみ独り清潔であることは出来ない。庄民はその頽廃を彼らの政治的敗北の結果として、すなわち遺産として背負わされるのであるが・・・(岩波文庫版『中世的世界の形成』「第4章 黒田悪党」290頁~)

石母田氏の中で、歴史学の頽廃性と統治者の頽廃はどのような関係になっているのか、どうもよくわからないですね。「統治者は道徳的に腐敗するということは歴史の教える必然的現象」とあるけれども、歴史学が「必然的にヘーゲルのいう頽廃性を多かれ少かれ固有の性格」を有するならば、頽廃的な学から導かれる教訓は所詮頽廃的なものにならざるをえぬだろうから、「統治者は道徳的に腐敗する」とは「歴史学の頽廃性の古典的表現」にすぎぬのではなかろうか、というような疑問が湧いてきますね。歴史学を学ぶ統治者は二重に頽廃的で、もはや擁護しようもなく救済しようもない・・・と?
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「原型(古層)論と古代政治思想論」

2014-02-16 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月16日(日)20時40分15秒

水野智之氏の『室町時代公武関係の研究』の内容を確認したいと思っているのですが、今日は大雪の影響でいつも利用している図書館へ行けず、地味に雪かきなどをして過ごしました。

>筆綾丸さん
>バッソ・オスティナート
執拗低音といえば、ついつい丸山真男を連想してしまいますね。
今回、中世国家論を真面目に考える直接のきっかけになった新田一郎氏の『中世に国家はあったか』を振り返ると、同書には次の記述があります。(p27以下)

-------
 日本の「古代」は、中国の強い影響のもと、律令を継受することによって形成され、モデルとしての中国との緊張をはらんだ関係において展開した。そうした認識のゆえもあろう。「古代」にではなく「中世」にこそ「日本的なもの」のエッセンスを見いだそうとする論調を、史学史上にしばしば見いだす。いうなれば、日本は、外在的な古代との対抗関係において、みずからを中世として成型した、ということにもなろうか。
 日本の古代は自生的なものではなく、外部からの触発を受けて、在来の層に外来の層が重なることによって、層をなして形成されたのだ、とする解釈に立ち、外来の層に覆い隠されつつもその基底をなした在来の層を、丸山真男は「古層」と表現した(丸山、一九七二)。丸山の議論と呼応する形で石母田正は、古代以前の日本固有の層を想定したうえで、中国からの律令制の移入によって形づくられた古代の層が、日本固有の原型(古層)を覆い隠し、中国的国家体制、君主専制の体制として日本社会に君臨した、とする図式を描いている(石母田、一九七二・七三)。中国から継承された舶来の古代においていったんは覆い隠された原型(古層)が、中世には「中国的なものはほとんど法律の面からは消滅してしまう」ことによって再隆起し、「日本固有のものが前面に出てくる」という石母田の認識。そうした「中国的なもの」の否定と結びついた「古層の隆起」が、一方で近代をめざす「突破」の契機を内包していた、という、外来の古代を排し、中世と近代とを順接的に関係づけることが、石母田の議論を特徴づけている(水林、二〇〇二)。
-----------

ということで、以下、石母田氏と水林氏の見解が、新田氏の立場から要約・紹介されています。
ここで「丸山、一九七二」は「歴史意識の『古層』」(『日本の思想6 歴史思想集』、筑摩書房)、「石母田、一九七二・七三」は「武家法解説」(『中世政治社会思想 上』、岩波書店)と「歴史学と『日本人論』、岩波文化講演会、石母田正著作集8所収)、「水林、二〇〇二」は「原型(古層)論と古代政治思想論」(大隈和雄・平石直昭編『丸山真男論』、ぺりかん社)ですが、実際にこれらの論文を読むと、石母田氏は新田氏のように要約されても仕方ない書き方をしているものの、水林氏の方はずいぶん違った印象を受けますね。
少なくとも水林氏には<「古代」にではなく「中世」にこそ「日本的なもの」のエッセンスを見いだそうとする>ような生ぬるい情緒性はありません。
ウェーバーやマルクス・エンゲルスの硬質な歴史理論を基礎に、法律学者らしい明晰さで武装した水林氏の主張は徹頭徹尾論理的で、情緒のかけらもないですね。
新田氏は東大文学部で日本史を専攻し、法学部の石井紫郎氏に認められて石井氏の後継者になった人ですから、まあ、優秀な方には違いないんでしょうけど、法制史という法学の一分野を担っているにもかかわらず、どうも文章が法律学者らしくなくて、少々イライラします。
筆綾丸さんの言われるところの「クネクネ」した感じは、私に言わせると「文学部臭さ」ですかね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

知盛のように・・・死にたいものだ 2014/02/15(土) 18:20:34
小太郎さん
石母田氏の『平家物語』(初版1957年)を、高校の時以来、数十年ぶりに開いてみました。
第一章「運命について」を読むと、物語のバッソ・オスティナートは運命で、平家の滅亡にギリシア悲劇をダブらせているような感じで、氏がいちばん惹かれたのは知盛のようですね。
---------------------------------
平家物語ほど運命という問題をとりあげた古典も少ないだろう。この物語を読んだ人は、運命、運、あるいは天運、宿運というような言葉がくりかえしでてくることに気がついたにちがいない。(1頁)
人間の力のおよび得ないもの、予見しがたい力、歴史と人間を背後にあって動かしている漠然とした力を、この時代の人びとは運命という言葉で表現したのである。(1頁)
知盛は重盛のように平氏が滅亡すべき運命にあると予言しているのではない。(12頁)
彼は重盛のように運命について哲学的な言葉をつらねることはしなかった。歴史と経験が彼に教えた人間にたいする洞察を通して運命というものをとらえていたように描かれている。(13頁)
知盛は平氏一族の没落の必然性を知り得るはずはなかったから、それを漠然と運命という観念でとらえていたのであるが・・・(13頁)
「見べき程の事は見つ、今は自害せん」という知盛の言葉は、平家物語のなかで、おそらく千鈞の重みをもつ言葉であろう。彼はここで何を見たというのであろうか。いうまでもなく、それは内乱の歴史の変動と、そこにくりひろげられた人間の一切の浮沈、喜劇と悲劇であり、それを通して厳として存在する運命の支配であろう。あるいはその運命をあえて回避しようとしなかった自分自身の姿を見たという意味であったかもしれない。知盛がここで見たというその内容が、ほかならぬ平家物語が語った全体である。(16頁)
---------------------------------

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E7%A9%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%B6
「あとがき」に、「巻頭の写真版は、いずれも学友むしゃこうじ・みのる氏の配慮によるものである」(227頁)とありますが、この人は実篤の娘婿なんですね。旧姓はわかりませんが。
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「石母田さんとの出会い」

2014-02-14 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月14日(金)21時41分36秒

>筆綾丸さん
>「権力の代表者」
ご紹介のような用法だと、なかなか議論の土台にはなりそうもないですね。
「代表」という概念は、法律学では憲法や民法・商法などの分野で緻密な議論がなされており、また、政治学などでも独自の議論があって、いくら歴史学は別だ、概念の相対性だといっても、あまりにチープな概念操作は受け入れがたいですね。

>『京都の寺社と室町幕府』
この「あとがき」は確かにのほほんとした面白さがありますね。

『石母田正著作集』の「月報」は面白いので、今日も少し紹介してみます。
昨日と同じく第2巻より、村田静子氏の「石母田さんとの出会い」というエッセイです。

-----------
 長いまつげのやさしい目とあたたかい声のひびきの石母田さん。敗戦後の思想的さまよいの中で、相談相手になって頂いた石母田さんの思い出をたどりながら、そのころの日記をひらいてみました(以下、「 」内は日記からの抜書き)。
(中略)
 一九四六年一月二四日には慶応大学で開かれた自由大学で石母田さんの講義「歴史科学の方法」をききます。ヴォルテール、モンテスキューの歴史学の方法に関するものでした。

 「四時少し前に終った時、石母田さんは、次回の土曜日は
 日比谷で野坂参三の歓迎国民大会があり、私も国民の一人
 として参列したい。そういう歴史的な意味ある行事があ
 る時、この壇上でモンテスキューを語るには、たえられな
 い。皆さんもどうかこぞって大会に列席して頂きたい。そ
 してマルセイエーズをききながらと言われ、休講にしたい
 がといわれ、皆異議なしとした。」

 一月二十六日、私は行きつもどりつして迷いながらも、とうとうその国民大会に参加し、自分と同じような大群衆の中に安心して身を置いて、「故国をはなれていても、一日として故国の人々を忘れたことはなく、又民衆の生活を救う努力をしなかった日はないという、そして後半生を人民大衆を救うために帰って来た」という野坂参三のことばにきき入りました。
 翌日は歴研の天皇制についての講演会が、教育会館で開かれ、イギリス・ドイツ・フランス・ロシアの君主制についてと、日本の古代・中世・近世・現代の報告がありました。この日石母田さんから、私を民主主義科学者協会歴史部会の書記に推薦したときかされ、心を躍らせたのでした。
(中略)
 一九四八年十一月三日、山口啓二との結婚式を東大の山上会議所でひらこうとした時、学術的会合でなければ許可がとれず、急遽石母田さんに講演をお願いして「山口啓二・村田静子結婚記念講演会」としてひらくことができました。演題は「学問と家庭と正義」。録音テープのなかった時代のこととて、その内容を再現させることができないのは、かえすがえすも残念でなりません。
(元東大史料編纂所所員)
----------

終戦の翌年、混乱した時代であっても、石母田氏にとってはある意味、わが世の春到来といった明るい雰囲気が感じられますね。
実は当時大学生だった私の父親も、別に共産党の関係者ではありませんが、野坂参三歓迎国民大会に見物に行ったそうです。
野坂参三は1892年生まれなので石母田氏より20歳上、帰国時は54歳ですね。
徳田球一のような野人タイプとは異なり、慶応大学理財科卒の野坂は洗練された国際派の紳士だったので、共産党支持者以外の一般市民の間にも一種独特の人気や期待があったようです。
林基氏のエッセイに出てきた野呂栄太郎(1900~34)も同じく慶応大学理財科卒で、この時期、慶応からも多数の共産党関係者が出ていますが、これは戦前の共産主義が最先端のファッショナブルな思想であったことを反映していますね。
石母田氏は1986年に74歳で亡くなりますが、まさか野坂参三が1992年、百歳で日本共産党名誉議長を解任され、更に除名処分を受けるとは想像もしなかったでしょうね。

野坂参三
野呂栄太郎

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

中世の Much Ado About Nothing と春の雪 2014/02/14(金) 16:26:58
小太郎さん
『室町時代公武関係の研究』の前回の引用の直前は、以下のようになっています。
--------------------------------
では、天皇が独自に保持する支配権とは、具体的にどのような役割をもつのか。
かつて、「実質的権力である王権を掌握すること」と「権力の代表者であること」は、一体的に考えられていた。このような認識は、黒田氏の中世天皇制論でも窺えるが、特に東国国家論、領主制理論の立場にある研究者にとって、評価の前提条件となっていた。しかし、現在では両者は意味するところが大いに異なると認識されつつある。先述した伊藤氏の議論からも窺えるように、実権が弱く、世俗的矛盾をあびる側面が少ないからこそ、天皇は「権力の代表者」でありえたとされる。ここには、「実質的権力である王権を掌握すること」と「権力の代表者であること」の連関はみられない。峰岸氏の議論も同様である。そもそも、黒田俊雄氏の権門体制論も、本来は、国王(天皇)の実権が弱く、その権力を保持しなくとも、国家的な統合性を果たしうる「権力の代表者」としての側面に注目していたのであった。この点こそ、議論の始点となすべきである。(29頁)
--------------------------------
「権力の代表者」という括弧書きの表現は、黒田俊雄氏の「中世天皇制の基本的性格」を引用した中に「(国王とは)支配権力の代表者としての尊厳性を具備」(18頁)とあり、これを水野氏は「国王とは権力の代表者を指」(18頁)すとしているので、黒田氏の用語を改変した著者の用語ということになるようです。そして、「天皇がいかにして国家的公権の保持者、つまり「権力の代表者」と認識され続けたのか」(31頁)とあるので、要するに、
天皇=権力の代表者=国家的公権の保持者=国家的支配権の保持者=国家的領域支配権の保持者=公権の表象的決定主体者=至高の権威=権威の源泉=最高封主=荘園的知行体系の最上位者=秩序付与者=超越権門=法の観念的体現者=統治権的正統性の観念的源泉=・・・・・・・・・∞
というようなことになり、意味不明の表現はすべて天皇の別名だったのですね。なんだ、泰山鳴動してなんとやら。シェイクスピアなら Much Ado About Nothing(空騒ぎ)と云うところですね。空虚な中心と喝破したバルトの偉大さが身に沁む春の大雪は、しんしんと皇居にも降り積んでいるのだろうな。
どうでもいいことながら、引用文中の「世俗的矛盾をあびる」という表現は初めて見るもので、意味がわかりません。憶測を逞しくすると、楯と矛が集中砲火のように俗世間から飛んで来るとは、民衆が武器を全部放棄したので世の中がとても平和になった、というような意味なのかしら。(24頁には、伊藤喜良氏に言及して、同様の表現が出てきます)

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b51662.html
細川武稔氏の『京都の寺社と室町幕府』を眺めていますが、「あとがき」のGFC(義堂周信ファンクラブ)とあるように、語弊のある言い方になりますが、寺マニアというか Bonzomania(?)の本ですね。
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「嗤うべき権威志向的な在地領主の一側面」

2014-02-14 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月14日(金)13時51分4秒

>筆綾丸さん
いえいえ。
私も桃崎氏による引用の仕方が気になって、水野氏の『室町時代公武関係の研究』の内容を確認しようと思っていたところです。
ただ、「権力の代表者」という表現を見ただけでも、法的に厳密な議論をするタイプの人には見えないですね。

石母田氏の毛利元就・北条早雲・伊達稙宗を素材とする人間類型論、実に面白いですが、石母田氏は明らかに自分を「有るをば有るとし、無きをば無きと」する北条早雲タイプと位置づけていますね。
若くして多数の論文があるのが自慢で、後輩に説教するのが大好きな丸島和洋氏は「つねに自己の経験と家の歴史をよりどころとして訓戒していた」「綿々と経験を語ってやまない」毛利元就タイプですかね。
他方、石母田氏がラフなスケッチとして書いた「礼の秩序」論をやたらと持ち上げ、自分のフラクタル理論だかツリー理論だかの先例として引用する桃崎有一郎氏は「頼朝の奥州征討にさいして武勲を立てたという祖先の歴史をつくりあげ、おそらくそれと関連して、塵芥集の制定にさいしては、必要以上に御成敗式目を模倣した」伊達稙宗タイプかもしれません。

少し検索してみたら、扇谷正造氏の石母田氏についての回想は『現代ビジネス金言集』(PHP、1986年)という本に出ているようですね。
左翼運動と学生新聞の記者活動に忙しくて全く講義に出ていなかった扇谷正造氏に対し、平泉澄助教授が怒って、ちゃんと出席するように指導したところ、さすがにその後、三・四回は出席したものの、結局、試験で不可をもらったとか、扇谷正造氏の卒論は石母田氏が代筆したとかのけっこう面白そうな話が載っているようです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

国家的公権の表象的決定主体者? 2014/02/13(木) 19:02:57
小太郎さん
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32790.html
関係ない話で甚だ恐縮ですが、水野智之氏の『室町時代公武関係の研究』をパラパラ眺めてみました。
------------------------
すると、国家的領域支配権の実質を把握せず、「権力の代表者であること」とは、どのようにして維持されるのかが問題となる。
この点については様々な要因や諸行為が挙げられよう。例えば、位階・官職制や各種儀礼のもたらす君臣関係・身分制、荘園制的「職」の知行制、戦乱の調停・和解命令、神話・伝承等による荘厳化、寺社のいわゆる教権に対する優位等々を指摘できるが、究極的には国家的領域支配権における宗教的・儀礼的要素をも含んだ支配観念によるものと考える。実際に統治しえなくても、国土支配の正当性の源泉は天皇にあるとする観念、換言すれば天皇の保持する国家的公権が、畿内、京都といった中央に至るほど、そして上位の国家的権力機構に関わる人々ほど濃厚に意識されざるを得ない状況があったと思われる。(29頁~)
------------------------
国家的領域支配権とか、支配観念とか、国土支配の正当性とか、国家的公権とか、上位の国家的権力機構とか、意味不明の表現がやたら出てきて、かなりイライラする序論です。もう少し、なんとかならんものか。
「国家的公権の発動において、義満は公権行使の表象的決定主体者の立場に位置しえたわけではない」(182頁~)、「天皇を表象的な決定主体とする国家的公権」(185頁)、「将軍権力がきわまったかにみえる時期でも、天皇の国家的支配権は維持されており、将軍と天皇・関白は対立しつつも、共同して国家的公権を行使している」(191頁)
要するに、国家的公権とか国家的支配権とは何なのか。表象的決定主体者に至っては、お手上げですね。理論的な話になると、なぜこうも、益体もないお経のような調子になってしまうのか。中世史における大きな謎のひとつですね。
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革命的語学力

2014-02-13 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月13日(木)12時06分39秒

『石母田正著作集』(岩波書店)の「月報」をパラパラ見ているのですが、林基氏の「最初の出会い─石母田史学の胎生期─」(第2巻、1988)には、石母田氏の青春時代が描かれていますね。

------
 石母田正君とはじめて会ったのは、一九三一年春のことであるから、かれが東京帝大文学部国史学科へ入学して、はっきり歴史学の道に立つのは、それから三年後のことである。それ以後の石母田君のあゆみはかなりよく知られているが、歴史家石母田正を準備した、それ以前の数年については、ほとんど知られていない。一昨年四月に作られた「略年譜」に、

 一九二八年四月(一五歳)石巻中学四年終了で、第二高
 等学校文科甲類に入学
 一九三〇年一〇月(一八歳)「ニ高生の思想の解剖─より
 生きんとするニ高生に─」を二高尚志会雑誌『尚志』第一
 四五号に発表、マルクス主義の立場に立つことを表明、加
 えて社会科学研究会での活動によって検挙され、無期停学
 処分を受ける
 一九三一年三月 第二高等学校を卒業。四月 東京帝国
 大学文学部西洋哲学科入学。在学中非合法の全協(日本労
 働組合全国協議会)の活動に参加。『通信労働者』の発行・
 配布に関与し、逮捕二回。

というのが、これまで知られているすべてであろう。前半の三年間については、さいきん同窓の扇谷正造氏の回想が発表されて、いくらか詳しくわかってきたが、後半の三年間については、新しく追加されたところはまったくないようである。
--------

とありますが、この扇谷正造氏の回想はどこに出ているのか。
調べてみるつもりですが、ご存知の方はご教示ください。

ちなみに、この後は、林基氏の入った『無産者政治教程』をテキストとする勉強会の第一回会合に「ひとりの帝大生がチューターとして来てくれていた。それが石母田正君であることは、あとで知るのであるが、石巻中学で松田〔清太郎〕君の二年先輩だった縁故によったのであろう」といった思い出が続きます。
そして、

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 石母田正の歴史学の最大の課題は「天皇制の問題」「天皇制に呪縛された多数の日本人民との対決の問題であり、同時に自己との対決でもあった」とかれ自身が語っているが、そのような歴史学をかれが生涯の仕事にえらんだのは、国史学科入学に先だつ一九三三年だったことが、さいきん明らかになってきた。マルクス主義歴史学への関心自体は、おそらく二高入学直後からきざしていて、そのころから現われる野呂、羽仁、服部などの著作はただちに読んでいたにちがいない。
(中略)
 ニ高社研での活動がすでに一九二八年四月の大学社研の解散以来の天皇制権力による禁止に抗する運動であり、それ故に三〇年一〇月の検挙、停学処分となったのであるが、まだ主として思想の自由のためのたたかいであった。しかし三一年四月以後の全協での活動は、広く勤労諸階級の生活と権利をまもるためのたたかいとなっており、さらに九月一八日の柳条湖事件による満洲侵略戦争の開始以後、天皇制日本の戦争から日本やアジアの諸民族をまもるたたかいにも参加することになるのであって、このようなたたかいのなかで、天皇制の害毒から日本人民を解放するための歴史学研究への道が準備されていったのであり、われわれの出会いは、まさにこの方向への転換期にあたったのであろう。そしてまた、だからこそ、何も知らぬわたしにも前述のような大きな影響を与えることになったのではなかったろうか。
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という具合に終わります。
まあ、内容とは関係ありませんが、「まもる」「たたかい」くらいは漢字にしてもらわないと、ちょっと読みづらいですね。
この古典芸能的な文章を書かれている林基(はやし・もとい)氏は1914生まれで、慶応大学史学科卒。
『歴史評論』の編集長等を経て専修大学教授を長く務め、1988年の執筆時点では74歳ですね。
まことに元気溢れる革命老人ですが、正直、単に頭が固いだけのような印象も受けます。
ただ、ウィキペディアによれば「中高生時代既に英・独・仏各語に通暁していたが、通交史研究に当たってはオランダ語やポルトガル語、スペイン語も学んだ」そうで、語学力はすごいですね。
石母田氏と同世代の人々は語学も革命のためですから、気合が全く違う感じがします。
石母田氏は第二高等学校の「文科甲類」なので、専攻は英語ですが、それ以外に何ヶ国語できたのですかね。
独仏は当たり前でしょうけど、ロシア語あたりも読めたのでしょうか。

扇谷正造
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%87%E8%B0%B7%E6%AD%A3%E9%80%A0
林基
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%9F%BA

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「反歴史的な類型の人格」 (その2)

2014-02-12 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月12日(水)10時52分51秒

どうも石母田餅は食わず嫌いだったのか、食べ始めたらだんだん好きになってきました。
餅ろん、私もいろんな学者が、石母田氏はこんなことを言っているよ、と要約したものは読んでいたので、その主張自体に全く無知だった訳ではありませんが、やっぱり石母田氏本人の文章を読むと、人が着目するのとは別の部分に味わいを感じますね。
石母田氏が「(北条早雲の)その出自その他はいまだ判明せず」と書かれてから40年が経ち、後北条氏研究は大幅に進展し、「廿一箇条」の性格やその文言の解釈については研究が深められているのでしょうが、前回投稿で引用した続きの部分などは、石母田氏のような「人間類型」でなければ書けず、また石母田氏の「人格との関連を断つことのできない」文章なんでしょうね。

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 後北条氏がなぜ塵芥集のような法典を制定しなかったかという問題を考えるとき、私は「廿一箇条」から連想される早雲の右のような性格、それによって定礎された後北条氏の伝統と家風を、唐突であるが、想起するのである。後北条氏の大名領は、ここにこそ戦国家法の制定があってしかるべき統治構造をもっていたようにみえるが、ここでは法典的な法の制定がみられない。しかし後北条氏は領国一般を対象として発布された「国法」的なものを個々に制定しており、かかる特別法の分化と集積は、いずれは一般法としての法典を必要とする段階にいたることは、法の発展史をみても、また後北条氏の権力構造からみても、当然予想されなければならない。そのような条件をそなえ、その方向に向かいながら、なお法典を制定しなかったとすれば、あるいは伊達の塵芥集にみるような堂々たる家法の制定は、後北条氏の伝統にあわないところがあったのではなかろうか。伊達稙宗は、大永三年(一五二三)に、南北朝以来足利一門の独占してきた奥州探題職を継承して奥州守護代に補任され、頼朝の奥州征討にさいして武勲を立てたという祖先の歴史をつくりあげ、おそらくそれと関連して、塵芥集の制定にさいしては、必要以上に御成敗式目を模倣した。早雲の精神からすれば嗤うべき権威志向的な在地領主の一側面である。「有るをば有るとし、無きをば無きと」する精神にとって、この戦国期において「有るもの」は、自己をふくめて諸国の封建主君が、その領域の人民にたいして全一的な支配権を行使しているという事実だけであり、天皇と室町幕府をふくむ上位の権力がすでに「無き」ものに属しているという事実だけである。この精神にとっては、右の歴史的な事実を、今川仮名目録のように昂然と言挙げする必要もなければ、結城氏法度のように、すでに「無き」ものに属する公権力のまえに、自己の法典を「私法度」と卑下する必要もなく、また甲斐武田氏のように、隣国の法典をモデルとして基本法を制定することもいさぎよしとしなかったのではなかろうか。後北条氏が法典を制定したとすれば、右のいずれとも異なった形のものであったろうことが、早雲の家訓を伝統とする後北条氏の家風から予想されるのである。中世領主層の一面をそれぞれしめしている毛利元就・北条早雲・伊達稙宗等の異なった人間類型は(それはさらに多くあげられるだろう)、家法よりも家訓に生き生きと表現されるのであり、法制定者の人格との関連を断つことのできない家法の性質上、両者はあわせ読まれる必要があるのである。

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