投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 2月27日(木)19時12分12秒
>筆綾丸さん
一時的に宮城に戻っているのですが、今日は石巻市へ行って市立図書館で石母田正輔翁とその五人の息子たちについて調べ、ついでに石母田氏の生家跡に行ってきました。
石母田氏の生家は志賀直哉の生家のすぐ近くであることは分かっていたので、付近の酒屋さんで話を聞いてみたら、どうも道路を挟んで志賀直哉の生家の反対側だったようですね。
リンク先に志賀直哉生家の写真が出ていますが、この建物は既になくて更地になっており、石母田氏生家跡らしい場所も比較的新しい住宅と更地になっていました。
酒屋さんによれば東日本大震災では近辺は1メートル強ほど浸水したそうで、殆どの建物は修理で済んだようですが、志賀直哉の生家、および石母田氏の生家の一部?が大震災の影響で取り壊されたのかは分かりませんでした。
石母田氏の生家は本当に北上川のすぐ近くで、家から釣り糸を垂らせば魚を釣れるような位置ですね。
きちんとしたレスはまた後ほど。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
Selbstrechtfertigung と神の不在 2014/02/27(木) 14:38:52
小太郎さん
水林氏の「「支配のLegitimität」概念再考」(『国制と法の歴史理論』290頁~)を読んでみました。
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・・・日常生活においてごく普通に見受けられる「自己義認(Selbstrechtfertigung)」現象を土壌として、その上に、秩序と支配の Legitimation 現象が展開するのだということ、「支配の Legitimität 」問題は、人々の社会的行為の一つたる「自己義認」行為のもっとも強度な形態なのだということ、このような観察は、ヴェーバーならではの大局的視座設定であり、「支配の Legitimität 」論は、そのような広大な視界の中に位置づけられた理論なのであった。(317頁~)
--------------------------------
この直前にあるヴェーバーの引用文は、宿命的というか運命的というか、かなりイライラする考察ですが、人間社会を冷静に観察すれば、こういうことなのかもしれませんね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Justification_(theology)
Selbstrechtfertigung の内の rechtfertigung の神学上の英訳は、ウィキには、
-------
Justification, in Christian theology, is God's act of removing the guilt and penalty of sin while at the same time declaring a sinner righteous through Christ's atoning sacrifice.
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とあり、本来は神の行為だから、冒頭の Selbst は邪教的な異質な発想とでもいうべきもので、カトリック世界からみれば、Selbst+rechtfertigung という用語(ヴェーバーの造語?)は、神の行為を人間が簒奪したような響きを有する、本来は不可有な自己矛盾の用語なのかもしれませんね。とすれば、なぜヴェーバーはこのような用語を用いたのか、支配の Legitimität の根幹にかかわるだけに、ぜひ知りたいところではあります。「自己義認」は誰の訳語なのか、わかりませんが、神学上の矛盾をも織り込んだ一種の名訳なのかもしれませんね。また、ヴェーバーとはさしあたって関係ありませんが、「Rechtfertigungsgrund」を「違法性阻却事由」としたのは、やはり名訳というべきなんでしょうね。
「Legitimität および Legalität は本来ドイツ語ではなくラテン語起源であり、これらの語の担う概念の歴史は、まずは、ドイツよりもフランスにおいて展開した」(318頁)として、フランス民法典(1804年)と比較しているのは、とても興味深いですね。(イタリア法を調べれば、同じような現象があるのでしょうね)丸山眞男が誤解した原因は、カール・シュミットの「Legalität und Legitimität」ではあるまいか、という指摘には、じつに鋭いものがありますね。
いわゆる主従制的支配権と統治権的支配権という佐藤説は、ヴェーバーの学説を換骨奪胎したものと考えてきましたが、はたしてそうなのか、だんだんわからなくなりました。ヴェーバーの「支配の Legitimität 論」と権門体制論を接木した「中世 hybrid 論」のようなものを考えていますが、上手くいきません。
追記
『国制と法の歴史理論』の巻末補注(616頁)に、『思想』掲載時と変更したものとして、Selbstrechtfertigung(自己正当化→自己義認)とあるので、自己義認は水林氏自身の訳のようですね。ただ、義認というような宗教的ニュアンスのある訳語になぜ代えたのか、真意はわかりません。
小太郎さん
水林氏の「「支配のLegitimität」概念再考」(『国制と法の歴史理論』290頁~)を読んでみました。
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・・・日常生活においてごく普通に見受けられる「自己義認(Selbstrechtfertigung)」現象を土壌として、その上に、秩序と支配の Legitimation 現象が展開するのだということ、「支配の Legitimität 」問題は、人々の社会的行為の一つたる「自己義認」行為のもっとも強度な形態なのだということ、このような観察は、ヴェーバーならではの大局的視座設定であり、「支配の Legitimität 」論は、そのような広大な視界の中に位置づけられた理論なのであった。(317頁~)
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この直前にあるヴェーバーの引用文は、宿命的というか運命的というか、かなりイライラする考察ですが、人間社会を冷静に観察すれば、こういうことなのかもしれませんね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Justification_(theology)
Selbstrechtfertigung の内の rechtfertigung の神学上の英訳は、ウィキには、
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Justification, in Christian theology, is God's act of removing the guilt and penalty of sin while at the same time declaring a sinner righteous through Christ's atoning sacrifice.
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とあり、本来は神の行為だから、冒頭の Selbst は邪教的な異質な発想とでもいうべきもので、カトリック世界からみれば、Selbst+rechtfertigung という用語(ヴェーバーの造語?)は、神の行為を人間が簒奪したような響きを有する、本来は不可有な自己矛盾の用語なのかもしれませんね。とすれば、なぜヴェーバーはこのような用語を用いたのか、支配の Legitimität の根幹にかかわるだけに、ぜひ知りたいところではあります。「自己義認」は誰の訳語なのか、わかりませんが、神学上の矛盾をも織り込んだ一種の名訳なのかもしれませんね。また、ヴェーバーとはさしあたって関係ありませんが、「Rechtfertigungsgrund」を「違法性阻却事由」としたのは、やはり名訳というべきなんでしょうね。
「Legitimität および Legalität は本来ドイツ語ではなくラテン語起源であり、これらの語の担う概念の歴史は、まずは、ドイツよりもフランスにおいて展開した」(318頁)として、フランス民法典(1804年)と比較しているのは、とても興味深いですね。(イタリア法を調べれば、同じような現象があるのでしょうね)丸山眞男が誤解した原因は、カール・シュミットの「Legalität und Legitimität」ではあるまいか、という指摘には、じつに鋭いものがありますね。
いわゆる主従制的支配権と統治権的支配権という佐藤説は、ヴェーバーの学説を換骨奪胎したものと考えてきましたが、はたしてそうなのか、だんだんわからなくなりました。ヴェーバーの「支配の Legitimität 論」と権門体制論を接木した「中世 hybrid 論」のようなものを考えていますが、上手くいきません。
追記
『国制と法の歴史理論』の巻末補注(616頁)に、『思想』掲載時と変更したものとして、Selbstrechtfertigung(自己正当化→自己義認)とあるので、自己義認は水林氏自身の訳のようですね。ただ、義認というような宗教的ニュアンスのある訳語になぜ代えたのか、真意はわかりません。