資料:栗山圭子氏「第三章 准母立后制にみる中世前期の王家」(その1)〔2025-02-17〕
p89以下
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また、後白河が准母に統子を選択したことの背景には、自身の同母姉という血統が大きな意味を有していたと考えられる。後白河および統子の母は鳥羽の妻后待賢門院璋子である。待賢門院は鳥羽の成人のみぎりから后位にあり、白河の権威を背景に絶大な勢力を誇ったが、鳥羽院政の展開の中で徐々にその影響力を低下させ、失意のうちに没した。残された待賢門院所生子は、鳥羽院による待賢門院・美福門院両流の「融合」の名のもとで利用され、兄弟間の連帯を分断された上で崇徳は敗死、そして、今また残された統子・後白河も美福門院を主軸とする体制の中に吸収されつつあった。後白河による姉の擁立には、待賢門院所生子間の連帯を復元するとともに、鳥羽の皇統とは異なる、母待賢門院および曾祖父白河の権威をひく別個の皇統を指向する後白河の意志が含意されていたのではないだろうか。
美福門院・二条そして後白河らをめぐる当該期の王家内部の状況は、もう一方の二条における養母・准母関係を検討するとより明確なものとなる。二条は生母の没後まもなく鳥羽・美福門院のもとで養育されており、その事実が鳥羽の直系の皇位継承者である近衛亡き後、最終的に二条が選択される大きな要因となった。その後、二条の周辺では鳥羽─近衛の後継者としての地位を盤石なものとすべくあらゆる補強手段が取られてゆくことになる。
二条は美福門院に養育され、その間に親子関係を取り結んでいたが、前述のように鳥羽・美福門院の二女である暲子(八条院)との間にも二重の親子関係を結んでいた。
(a)自襁褓中令奉養育御姫宮母儀之条者、彼院令申置御事也、帝王養母之儀者、始自延喜事也、所謂穏子<九条殿女>也、(中略)姫宮可有院号、而非后宮之院号無先例、可計申之由、先代被問仰、
引用史料は美福門院の周忌正日に関わるものなので、「彼院」は美福門院に比定することが妥当であろう。「姫宮」暲子と二条との間には、おそらくは鳥羽の容認のもと美福門院の主導により准母─養子関係が設定され、関係強化が図られたのである。
その後、永暦元年(一一六〇)に美福門院が没し、二条の側は有力な庇護を失うこととなるが、そのような状況の巻き返し策として二条がとったのが暲子への院号宣下である。
(b)入夜、重方参亜相殿、称勅使所申之事、姫宮院号之間、沙汰三箇条事也、
(c)今日無品内親王暲子<鳥羽院姫宮也>、被成母后之儀云々、仍可有院号之由、自去比沙汰出来云々、(中略)今日次第頗迷可否歟、予下宿所々間、補判官代之由、蔵人告送、又迷是非、可参賀之由、相公殿有返答、仍束帯(中略)、先参内、院司事畏申旨、付如〔女歟〕、奏聞、
暲子への院号宣下は二条により発議され(a)、その間の沙汰の子細は「勅使」にみられる二条の主導があり(b)、女院司の差配も二条により行われていたことが見てとれる(c)。暲子との准母関係そのものは美福門院らによって既に設定されていたものであるが、二条は暲子を女院となし、自身の准母として正式なかたちで処遇することで、美福門院没後の自身の陣営を補強し、鳥羽の皇統の正当な後継者であることをデモンストレーションしたのである。
以上、後白河そして二条のそれぞれの准母について、当該期の政局・皇統の在り方から検討してきた。幼帝の補助という准母の機能的役割からすれば解くことのできない成人天皇後白河の准母擁立は、それとは異なる准母立后のもう一つの意義を示している。後白河の同母姉統子を自己の母にいただくことで、自己を中継ぎと位置付ける鳥羽の皇統とは異なる白河・待賢門院の系譜をひく皇統の存在を明示したのである。対する二条も同様な手段でもって後白河に対抗した。二条の権威は父後白河に由来するのではない。二条は鳥羽─近衛に続く皇統の後継者としての立場を准母暲子との関係を展開することで明らかにしたのである。立場の違いこそあれ、准母(立后)の意味は両者の間で共通している。准母立后とは自身がいかなる皇統に属し、自己の権威がどこに由来するものかを明示する機能を果たしていたといえるのである。
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美福門院・二条そして後白河らをめぐる当該期の王家内部の状況は、もう一方の二条における養母・准母関係を検討するとより明確なものとなる。二条は生母の没後まもなく鳥羽・美福門院のもとで養育されており、その事実が鳥羽の直系の皇位継承者である近衛亡き後、最終的に二条が選択される大きな要因となった。その後、二条の周辺では鳥羽─近衛の後継者としての地位を盤石なものとすべくあらゆる補強手段が取られてゆくことになる。
二条は美福門院に養育され、その間に親子関係を取り結んでいたが、前述のように鳥羽・美福門院の二女である暲子(八条院)との間にも二重の親子関係を結んでいた。
(a)自襁褓中令奉養育御姫宮母儀之条者、彼院令申置御事也、帝王養母之儀者、始自延喜事也、所謂穏子<九条殿女>也、(中略)姫宮可有院号、而非后宮之院号無先例、可計申之由、先代被問仰、
引用史料は美福門院の周忌正日に関わるものなので、「彼院」は美福門院に比定することが妥当であろう。「姫宮」暲子と二条との間には、おそらくは鳥羽の容認のもと美福門院の主導により准母─養子関係が設定され、関係強化が図られたのである。
その後、永暦元年(一一六〇)に美福門院が没し、二条の側は有力な庇護を失うこととなるが、そのような状況の巻き返し策として二条がとったのが暲子への院号宣下である。
(b)入夜、重方参亜相殿、称勅使所申之事、姫宮院号之間、沙汰三箇条事也、
(c)今日無品内親王暲子<鳥羽院姫宮也>、被成母后之儀云々、仍可有院号之由、自去比沙汰出来云々、(中略)今日次第頗迷可否歟、予下宿所々間、補判官代之由、蔵人告送、又迷是非、可参賀之由、相公殿有返答、仍束帯(中略)、先参内、院司事畏申旨、付如〔女歟〕、奏聞、
暲子への院号宣下は二条により発議され(a)、その間の沙汰の子細は「勅使」にみられる二条の主導があり(b)、女院司の差配も二条により行われていたことが見てとれる(c)。暲子との准母関係そのものは美福門院らによって既に設定されていたものであるが、二条は暲子を女院となし、自身の准母として正式なかたちで処遇することで、美福門院没後の自身の陣営を補強し、鳥羽の皇統の正当な後継者であることをデモンストレーションしたのである。
以上、後白河そして二条のそれぞれの准母について、当該期の政局・皇統の在り方から検討してきた。幼帝の補助という准母の機能的役割からすれば解くことのできない成人天皇後白河の准母擁立は、それとは異なる准母立后のもう一つの意義を示している。後白河の同母姉統子を自己の母にいただくことで、自己を中継ぎと位置付ける鳥羽の皇統とは異なる白河・待賢門院の系譜をひく皇統の存在を明示したのである。対する二条も同様な手段でもって後白河に対抗した。二条の権威は父後白河に由来するのではない。二条は鳥羽─近衛に続く皇統の後継者としての立場を准母暲子との関係を展開することで明らかにしたのである。立場の違いこそあれ、准母(立后)の意味は両者の間で共通している。准母立后とは自身がいかなる皇統に属し、自己の権威がどこに由来するものかを明示する機能を果たしていたといえるのである。
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(a)姫宮可有院号、而非后宮之院号無先例、可計申之由、先代被問仰
(后でない者への院号宣下に先例はないが、可能かどうか、検討せよ、と鳥羽院は言われた)
(c)内親王暲子、被成母后之儀云々、仍可有院号之由
検討の結果、
(内親王をいちど母后とし、しかるのち、女院号宣下するのがよろしいかと)
と奏上したところ、母后之儀はすっ飛ばして、いきなり女院号宣下すればいいんじゃないの、と二条天皇は言われた。
と読めるとすれば、暲子は初例ということになる。しかし、形式的に准母立后があったことにして女院号宣下した、と読むことはできないものか。であれば、暲子は初例にはならない。