学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「ジュディ」のユダヤ人性

2015-01-31 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月31日(土)11時19分57秒

>筆綾丸さん
>彼女が捨てたのは Cohen という典型的なユダヤ人の姓で、
>Judith は Judy として残した
これはご指摘を受けるまで全く気づきませんでした。
ジュディ・シカゴの改名について、井野瀬久美恵氏は本文(p232)と注(25)で次のように書かれています。

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 かつてシカゴは、女性たちが集い、自分の物語を語るというこの作品のコンセプトについて、キリストの「最後の晩餐」と重ねながら、「食事や酒の準備をしたのは女性たちであろうに、最後の晩餐に女性は登場しない」と語っていた。シカゴにとって、「ディナー・パーティ」は、それに対する異議申し立てでもあったはずである。
 しかしながら、リサ・ブルームは、この作品のモチーフが「最後の晩餐」と重ねられたことに別の読みを提示し、こう問いかける。ジュディ・シカゴが、自らのエスニシティを露にする「ゲロウィッツ(Gerowitz)」という名字から、エスニシティに関して中立的な「シカゴ」に改名したのはなぜか。ブルームは、家父長制に対する抵抗というシカゴ自身が語る理由をしりぞけ、この改名に「白人クリスチャンというアイデンティティ」へ自らを組みこもうとするシカゴの意図を読み取り、ジェンダーと他の差異との複雑な絡みあいを問題にするのである(25)。ブルームのこの視線は、「黒人性」同様に、「白人性」もまた、それぞれの歴史的、地域的なコンテクストのなかで構築されるものであるという考え方が、歴史学や人類学、文学などの研究において注目を集めるようになった一九九〇年代の動向を反映するものであろう。

注(25) シカゴのユダヤ人家庭に生まれた旧姓Judy Cohen は、一九六一年に結婚し、夫の姓であるGerowitzを名のっていたが、夫の死後、七〇年にChicagoに改名した。シカゴ自身は、自伝のなかで、この改名を「家父長制への抵抗」と語っている。シカゴ、前掲訳書、八二-八三頁。しかしながら、ブルームは、そこにユダヤ人性という彼女のエスニシティが抱える問題を読み取ったのである。詳細は、Lisa Bloom, "Ethnic Notions and Feminist Strategies of the 1970s: Some Works by Eleanor Antin and Judy Chicago." 城西国際大学で口頭発表されたこの原稿(一九九七年九月二〇日)は、北原氏の好意で論者も目を通すことができた。北原、前掲論文、一〇七-一〇八頁、リサ・ブルーム「民族性という亡霊─一九四〇年代と一九八〇年代のアートに関する言説を再考する」(斉藤綾子訳、リサ・ブルーム編、前掲訳書、三七-七九頁)も合わせて参照。
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注(25)の「北原、前掲論文」とは北原恵「"招待"への再考─《ディナー・パーティ》をめぐるフェミニズム美術批評」(『超域文化学紀要』第3号、1998年6月)、「前掲訳書」はリサ・ブルーム編『視覚文化におけるジェンダーと人種─他者の眼から問う』(斉藤綾子ほか訳、彩樹社、2000年)で、いずれも私は未読ですが、井野瀬久美恵氏の文章を素直に読む限り、そもそもリサ・ブルーム氏がJudithの愛称であるJudyのユダヤ人性に気づいておらず、北原恵氏と井野瀬久美恵氏もリサ・ブルーム氏の誤りを踏襲していることになりますね。
ジュディ・シカゴにしてみれば、自分がユダヤ人であることなどJudyだけで十分明らかではないか、改名前の姓が生まれたときのCohenか、あるいは死別した夫のGerowitzかはともかくとして、改名は「家父長制への抵抗」との自分の説明のどこに誤りがあるのか、という話になりますね。
まあ、ジュディ・オングという台湾出身の歌手もいますので、ジュディ自体は決してユダヤ人性を示すものではない、ユダヤ人ではないジュディなどいくらでもいる、ということが常識であれば別でしょうが、そのあたりは実態としてどうなのか。

Lisa Bloom

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

後深草院二条と criteria 2015/01/29(木) 15:14:04
小太郎さん
『 Letters to Juliet』を Bunkamura のル・シネマで観たときは年配の女性客が多かったのですが、フランコ・ネロ(往年の西部劇「ジャンゴ」の主役)が大葡萄園主役で出ていて、とても懐かしかったですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E9%96%93%E5%BD%8C%E7%94%9F
ジュディ・シカゴは草間彌生と交流はあるのかな、と思いました。草間の説明は英語の方が充実していて、日本ではなかなか書きにくいことも、ずばり書かれていますね。画業から判断して、彼女の強迫観念は父親によるものと考えていましたが、 mother でしたか。自己解釈により mother に転換しているのではないかという気もしますが・・・。
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Kusama has experienced hallucinations and severe obsessive thoughts since childhood, often of a suicidal nature. She claims that as a small child she suffered severe physical abuse by her mother.
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http://en.wikipedia.org/wiki/Circumcision
「Her father came from a twenty-three generation lineage of rabbis, including the Vilna Gaon.」というジュディ・シカゴに関するウィキの説明ですが、彼女の出生時前後、ユダヤ教における女性の circumcision はどうなっていたのか、と気になりました。
また、「 Born in Chicago, Illinois, as Judith Cohen, she changed her name after the death of her father and her first husband, choosing to disconnect from the idea of male dominated naming conventions.」とあり、彼女が捨てたのは Cohen という典型的なユダヤ人の姓で、Judith は Judy として残した、という点が引っ掛かりますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%88
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%9F%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%AD
ユディト(Judith)は歴史上、多くの画家に繰り返し描かれてきましたが、ホロフェルネスの首を刎ねた( behead )女性ですね。ジュディ・シカゴはユディトとともにアルテミジア・ジェンティレスキも招待していて、アルテミジアは四つの criteria をすべて充たしていると思われますが、後深草院二条は 1 と 3 の criteria は充たすものの、2 は充たしておらず、4 は不明、と言ったところでしょうか。
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1. She had made a worthwhile contribution to society
2. She had tried to improve the lot of other women
3. Her life and work had illuminated significant aspects of women's history
4. She had provided a role model for a more egalitarian future.
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追記
http://www.fashion-press.net/news/12758
同性愛の罪で逮捕され服毒自殺した天才数学者の映画は、是非、観たいですね。
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女たちの「ディナー・パーティ」─ノスタルジアの帝国史を超えるために─

2015-01-28 | 映画・演劇・美術・音楽
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月28日(水)11時25分46秒

図書館で歴史学研究会編『シリーズ歴史学の現在 帝国への新たな視座』(青木書店、2005)というタイトル・編集・出版社の全てがガチガチに硬派っぽい本を手に取って眺めていたら井野瀬久美恵氏の「女たちの「ディナー・パーティ」─ノスタルジアの帝国史を超えるために─」という論文が載っていて、このタイトルに、もしかしたら後深草院二条が登場するのでは、というカンが働き、あわてて読んでみたら、やっぱり出ていました。

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問題の所在─ジュディ・シカゴの「ディナー・パーティ」─

 一九七四年、前衛的フェミニスト・アーティストとして知られるジュディ・シカゴ(一九三九~)は、ある作品の製作に着手した。のべ二〇〇〇人のヴォランティアの協力を仰ぎ、五年の歳月を費やして一九七九年に完成したその作品は、一辺が一四メートル、高さ約六六センチの正三角形のテーブルで、その上には、各辺一三人、合計三九人分の皿、ナイフ、フォーク、玉虫色のゴブレットなどが並べられている(図1)。この陶製のインスタレーション、タイトルを「ディナー・パーティ」という。皿の存在によって示される三九人の招待客は、全員が女性であり、欧米の神話や歴史のなかから選ばれていた。
 「ディナー・パーティ」は、サンフランシスコ近代美術館に展示されるや大評判となり、三ヵ月で九万人もの入館者を集めた。その後、この作品は、カナダやイギリス、オーストラリアなど六ヵ国一五ヵ所を巡回し、一〇〇万人を超える人の目に触れたといわれている。
  「ディナー・パーティ」はいわゆるフェミニズム・アートの系譜に属し、そのコンセプトは、「女たちが集まって自分たちの物語を語る」というものである。もちろん、女たちが実際にこのテーブルを囲んで「自分たちの物語」を語るわけではない。各皿の下に敷かれたランチョンマットには、欧米の神話や歴史から選ばれてその席に座ることになった女性の名前が刺繍されているが、ギリシャの女流私人サッフォー、一六世紀イングランドの君主エリザベス一世、一九世紀アメリカの詩人エミリー・ディキンソンといった顔ぶれからもわかるように、それはあくまで想像上の集まりであった。
 この作品の特徴は何より、テーブルの上に置かれた皿の絵柄に認められる。その席に座る女性をイメージしたとおぼしき陶製の皿には、女性性器を象った絵柄が色鮮やかに描かれていたのである(その構図に一枚として同じものはなかった)。サンフランシスコ近代美術館での盛況ぶりにもかかわらず、当初からこの作品に対する美術界の反応が冷たかったのはそのためであろう。事実、皿に描かれた絵柄は展示直後からさまざまな物議を醸し、その過程で、作品名である「ディナー・パーティ」という言葉自体に、特別の含みが与えられるようになっていったと考えられる。(後略)
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ま、この「ディナー・パーティ」に登場する39人はあくまで「欧米の神話や歴史のなかから選ばれていた」女性たちであり、後深草院二条は含まれていないのですが、「女たちが集まって自分たちの物語を語る」というコンセプトがキャロル・チャーチルの『トップ・ガールズ』を連想させる訳ですね。
今日はこれから外出しなければならないので、続きはまた後で。

Judy Chicago
The Dinner Party

>筆綾丸さん
>『ジュリエットからの手紙』
原題が Letters to Juliet (ジュリエットへの手紙)なのに、邦題が「ジュリエットからの手紙」というのはちょっと面白いですね。
ストーリーの上で、というかヴェローナの「ジュリエットの家」ではジュリエット宛の手紙に返事を書いているそうですから、邦題も事実を正確に反映していますね。
その上で、過去の人物に現代人が一方的に手紙を送ることはあり得るとしても、その返事が来るというのは驚きですから、邦題の方が洒落ているような感じもしますね。

>『イスラーム国の衝撃』
未読ですが、なかなか評判が良いみたいですね。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

r>g(『21世紀の資本』) 2015/01/26(月) 12:45:19
小太郎さん
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784862151360
丸の内の丸善三階で、桜井英治・清水克行両氏の対談集『戦国法の読み方―伊達稙宗と塵芥集の世界』を拾い読みしましたが、桜井氏の発言は随所で(高等?)漫談風であり、理由は不明ながら頗る御機嫌な様子ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/21%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%9C%AC
http://www.msz.co.jp/book/detail/07876.html
一階で『21世紀の資本』を拾読みしていると、若者が連れの女性に、「これ、買うまでもない、立ち読みで充分」と豪語していて、怖いもの知らずの若者は羨ましい限りでした。この書の要諦は、経済的不平等の要因はr>gという不等式で表示でき、これは資本主義の必然的な原理であって、富の再配分などは妄想と云うべきで、富める者は益々富み貧者は愈々貧しくなるのだ、という身も蓋もない話であり、こういう「物語」を熟読する意欲はもうないなあ、と思いました。

http://www.eiseibunko.com/exhibition.html
永青文庫『信長からの手紙』を観ながら、経済通の信長なら、r>g 、是非に及ばず、と言ったかな、と思いました。

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610136
池内恵氏『イスラーム国の衝撃』を読み始めました。
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イラクとシャームのイスラーム国( al-Dawla al-Islamiya fi 'Iraq wa al-Sham; ISIL:the Islamic State of Iraq and Levant; ISIS:the Islamic State in Iraq and al-Sham )
一般に英語圏や日本で「ISIS」あるいは「ISIL]と呼ばれる。英語では「アイシス」「アイシル」と発音される。米政府が「ISIL]を用いていることもあって、日本ではそれに追随する場合も多い。
訳語が複数存在して混乱した印象を与える原因は、「シャーム」という語の翻訳の困難さに由来する。シャームとは、現在のシリア・レバノン・ヨルダン・パレスチナを含む広い範囲を指す。近代英語への訳語としては、「拡大シリア(Greater Syria)」が最も厳密である。しかし「拡大シリア」と訳すと、略称が四文字で収まらず、また必ずしもこの地理概念が英語圏で広まっているわけでもない。欧米語では「シャーム」にある程度重なる地域を「レバント(the Levant)」と呼ぶため、al-Sham の英語訳に the Levant の語が充てられることがある。しかし「レバント」という呼び方は、欧米側の始点からのもので、植民地主義的な意味合いが感じられる場合もある。したがって、半植民地的主張を掲げる「イスラーム国」の呼称とすることには、躊躇を覚える。
また、「ISIS]とするにせよ、「ISIL]とするにせよ、欧米側では the Islamic State の部分を極力発語せずに略称でのみ呼ぼうとする傾向がある。この組織が「イスラーム」を代表するものではなく、「国家」としても承認しえないという意思表明なのだろう。アラブ諸国の政府やメディアも、「イスラーム国」が「イスラーム的」でも「国家」でもないと主張するために、アラビア語の頭文字をつないだ略称「ダーイシュ(Da'ish)」で呼ぶことが多いが、「イスラーム国」への共鳴者はこの語を強く忌避する。(67頁)
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某局のBS番組で、自民党の女性議員(カイロ大卒)が、私は国家として認めないのでISILと言う、と述べていたのですが、ISILのSは State の略称だから、「欧米側では the Islamic State の部分を極力発語せずに略称でのみ呼ぼうとする傾向がある」としても、国家(State)と認めていることに変わりはないのでしょうね。外国の報道を注意してみると、英国のBBCはIS(the Islamic State)、フランスのル・モンドはEI(l'Etat Islamique)、ニューヨーク・タイムズはthe Islamic State, also known as ISIS or ISIL、オバマ大統領はISIL、イタリアのラ・レプッブリカはSI(lo Stato Islamico)・・・などと呼んでいますね。「シャーム」という地理概念は初めて知りました。

猿あるいは禿鼠のこと 2015/01/27(火) 13:44:20
http://www.juliet-movie.jp/
展覧会『信長からの手紙』は『ジュリエットからの手紙』という映画を意識したような名ですが、信長の書状とシェイクスピア『ロミオとジュリエット』の製作時期がほぼ同年代だというところが、この表題の隠し味なんでしょうね。
図録には、「細川コレクションの信長文書59通、一挙公開」の次に、「 The letter from Nobunaga 」とあるのですが、59通もあるのに、なぜ letter は単数形なのか、変ですね。映画の原題( Letters to Juliet )のように letters と複数形にしなければならず、図録の英訳では、信長自筆の唯一の書状を展示した稀有な展覧会というような意味になるのではないか。

追記
図録中、「一条院覚慶を足利義昭として」(3頁)と「奈良興福寺一条院の門跡」(25頁)の一条院は、一乗院の間違いですね。

『信長からの手紙』の「No.82」(天正5年)は、「猿帰候て、夜前之様子具言上候・・・」で始まっていて、この「猿」は秀吉を指すという説と忍びの者を指すという説と両説ある由ですが、格調高い天下布武の黒印を捺した折紙が「猿」で始まるというのは、戦国期の諸大名の数多の印判状の中でもおそらく唯一無二のもので、信長のユーモアに改めて感動しました。
宛所は、長岡藤孝、惟住長秀、瀧川一益、惟任光秀の四名ですが、信長のユーモアにいちばん共感を示したのは誰だろうな、とどうでもいいようなことをつい考えてしまいます。長秀と一益は論外として、古今伝授の幽斎か、金柑頭の光秀か。あるいは右筆の楠長諳か。もうひとりの右筆武井夕庵は、後で聞いて、俺が書きたかったな、と思ったかどうか。
折紙の黒印状の冒頭が忍び者で始まるとはさすがに思えず、やはりこれは秀吉のことだろう、という気がしますね。

昨日のテレビで、ヨルダン国民のインタビューを字幕付きで聞いていると、「イスラム国」のことを「ダーイシュ(Da'ish)」と発音していて、なるほどと思いました。
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コミカルな味わいが出てきた桜井英治氏

2015-01-26 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月26日(月)10時13分35秒

私は経済が苦手なので、以前は桜井英治氏の著書や論文を読んで、殆ど仰ぎ見るような存在に思っていた時期があったのですが、桜井氏が小川剛生・高岸輝・松岡心平氏と一緒になって、足利義満は光源氏だあ~、みたいなことを言っているのを眺めていて一抹の不安を感じるようになり(『ZEAMI―中世の芸術と文化〈04〉特集 足利義満の時代六百年忌記念』「足利義満の文化戦略」)、『現代思想』網野善彦特集号では一歩進んでコミカルな味わいも感じるようになりました。
少し引用してみます。(p77以下)

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成田 桜井さんは、著作集の『無縁・公界・楽』の巻で「解説」を書かれていますね。
桜井 たしかに『無縁・公界・楽』は、網野さんらしくないと言えば網野さんらしくないところのある本で、実証的な部分はじつは半分ぐらいなのですね。あとは辻褄合わせというと表現は悪いのですが、論理でカバーされている。網野さんの仕事のなかでは形式論理で攻めていった部分が極端に多い本なのです。
 じつは、網野さんが注目した意味での「無縁」「公界」「楽」という言葉は、戦国時代ごろにしか出てきません。原理としては人類史を貫いているのに、言葉としてはこの時代にしか出てこない。その理由をまず説明しなければならない。そこで「有縁」の勢力がある程度強まらないと「無縁」も自覚されないのだと説明された。私的所有によって追い込められたところでようやく「無縁」も自覚される、「無縁」「公界」「楽」という言葉の出現が遅れたのはそのためであると。しかし、もっと遡ると「有縁」も「無縁」もなくなって、「原無縁」の世界になる。「有縁」があっての「無縁」であって、「有縁」がなければ「無縁」も、そしてそれ以前の「原無縁」も想定できなくなる。ひじょうに宇宙論的な話になってきますが、そのあたりはとても実証的とは言えません。
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これを受けて、保立道久氏も『無縁・公界・楽』は実証的な分析ではないと言うと、綾小路きみまろが「『無縁・公界・楽』は、お二人とちがって、私などからするとかなり実証的な仕事のようにみえます」云々とトンチンカンな感想を述べ、ついで山本幸司氏が「そういう意味では実証的ですよ。それは天才だから(笑)」というコバンザメ的な相槌を打つのですが、その後の桜井氏の釈明はすごいですね。

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桜井 ただ人類史を語っているのですが、じっさいに取り扱っている史料は中世後期から近世のものがほとんどで、それ以外は論理的に組み立てている。だからページの配分にも偏りがあって、中世後期についての叙述がほとんどです。
 先ほど「辻褄合わせ」と言ったのはちょっと表現が良くなかったかもしれません。網野さんはご自分のおっしゃっていることのなかに辻褄の合わないことを残さないという律儀なところがあります。そんなことまで気にされていたのかというところまでちゃんと読み込んでおられた。網野さんはひじょうに大きなこともおっしゃるので、あっちでああ言い、こっちでこう言いと場当たり的な発言をしていると誤解している人もいるかもしれませんが、そうではありません。網野さんはご自身の発言を全部おぼえておられて、全部に説明をつけておられた。だから結果的に、きわめて体系的なお仕事になっているのです。実証ももちろんですが、理論についてもご自分の発言にひじょうに責任をもっておられたと思います。
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『無縁・公界・楽』を徹底的に読み込んだ桜井氏は、最終的な結論として、同書は「形式論理」であり「辻褄合わせ」だとポロっと本音を言ってしまった訳ですが、さすがにちょっとまずかったなと反省し、必死になって弁解した結果、網野善彦氏は一切の矛盾を持たない、完全無欠の存在になってしまっていますね。
殆ど全盛期のスターリンや毛沢東への賛美の如く、最近では某国の将軍様への賛美の如く、ここに網野善彦無謬神話が誕生した訳ですね。

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日米の盆栽愛好者たち

2015-01-23 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月23日(金)13時01分21秒

>筆綾丸さん
私もHarootunianというのは珍しい姓だなと思って欧米の家系サイトをいくつか見たのですが、僅少な姓のためか、特に解説はありませんでした。
ご紹介の東大駒場のサイト、ざっと読んでみましたが、なかなか難解ですね。

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「不同一の時間性/予言不可能な複数の過去―歴史的な場における時間の形式」と題されたハルトゥーニアン氏による講演では、歴史的語り(大きな物語)によって抑圧され、隠蔽されてきた複数の過去をいかにして回復するかという問題が議論された。大文字の物語としての歴史の語りの背後にある複数的で重層的な過去を捉えるためにこれまで試みられてきた方法論を召還するハルトゥーニアン氏の重厚な語りは、ブロッホ、マルクス、ランシエール、戸坂潤、リクール等の方法論を批判的に取り越えることで、新たな可能性としての方法論を提示するに至る。
(中略)
ハルトゥーニアン氏のうねるような思考と語りによって導き出された線状的な時間性を超える複数的な時間は非常に魅力的であるものの、それが詩作活動を通して初めて顕現する時間の様態であるならば、創作された詩の作品それ自体が議論の俎上に挙げられるべきではなかっただろうか。とはいえ、ハルトゥーニアン氏と酒井氏による発表の後の議論では、両者の議論の論点となる「複数の時間性」や「日本人の体験としての沖縄」の位置づけなどについての活発な質疑が行われた。酒井氏の議論の枠組みのブラジル人移民の問題における蓋然性や、ハルトゥーニアン氏が労働者たちの詩作活動に見出したオルターナティブとしての時間における労働者の主体性の問題についてはより深い議論が交わされ、参加者は非常に刺激的な時間を共有したといえるだろう。        (文責:内藤まりこ)
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まあ、こういう話が好きな人にとってはハルトゥーニアン氏は一種の教祖的な存在なのでしょうが、今どき戸坂潤だなんて、ずいぶん屈折した東洋趣味の持ち主のようにも感じます。
成田龍一氏あたりがやっている国際交流って、「異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつる」盆栽マニアの、盆栽マニアによる、盆栽マニアのための情報交換会じゃないですかね。
ご本人たちが「かたは者どもの集まり」とまでは言いませんが。

戸坂潤

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

本山の睛は節穴か 2015/01/22(木) 21:41:20
小太郎さん
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2009/06/post-238/
顔から判断すると、Harootunian 氏は東欧系でしょうか。

http://www.kenchoji.com/?page_id=58
「用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」をあらためて眺めてみたのですが、翳晴の「晴」は晴天の「晴」ではなく、画龍点睛の「睛」つまり「瞳」ではないか、と思われました。睛に翳す、睛に翳をなす、ということ。建長寺の公式ページの道隆の遺偈は一字間違いであり、本山は開山の遺偈を理解できていないことを公に曝け出したもの、と考えてよいのかもしれません。ま、「睛(ひとみ)」と理解しても、くだらぬ偈であることに変わりはないのですが。

追記:国王の死
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-30945324
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the Custodian of the Two Holy Mosques King Abdullah bin Abdulaziz, who passed away at exactly 1am this morning・・・
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Abdullah was the 13th of the 37 sons of King Abdulaziz. He is believed to have been born in August 1924 in Riyadh, although there is some dispute about his actual birth date.
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生没年を対比してみると、曖昧は生な対して、at exactly 1am this morning の exactly 1am という死亡時刻が砂漠の地平線のように峻烈で、ほとんど詩のような印象を受けます。 また、37人兄弟の13番目で王位を継承したというのは日本のような国では想像の埒外ですが、さらに系図上、王位が縦方向へ流れずに横へ横へと逸れてゆくというのも( full-brother か half-brother かを問わない。次期国王は26番目、次期皇太子は35番目の異母兄弟の由)、砂漠の地平線に揺曳する蜃気楼のような趣です。そして、King の前に the Custodian of the Two Holy Mosques という尊称が置かれるのは、いかにもイスラムの国です。以上を要するに、なんとも不思議な国だなあ、と思いました。
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謎の発言者

2015-01-22 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月22日(木)16時05分23秒

討議「網野善彦は歴史学をどう書きかえたか」の中で、一箇所だけ身元不詳の人物の発言がありますね。
成田龍一氏がハリー・ハルトゥーニアン氏に言及した直後の部分です。(p87以下)

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保立 最初に話題にされた、先日成田さんがアメリカで参加してきた学会のもう一人の主催者のことですが・・・・・。
成田 ハルトゥーニアンさんのことですか。
保立 ええ、韓国で梨花女子大の咸東珠(ハン・ドンジュ)先生に会ったら、ハルトゥーニアンさんの教え子だと言っておられた。
成田 ハルトゥーニアンさんがナラティブの歴史研究を日本研究に持ち込んだパイオニアです。彼が「日本」を自明としない日本研究というものがあるんだとうことを最初に言い出して、その元にいっぱい人が集まってきました。ハルトゥーニアンさんがシカゴ大学にいたのでシカゴ学派というのですが、そのとき大学院生だったのが酒井直樹さんやフジタニ・タカシさんたちです。
 ハルトゥーニアンさんのアウトプットの仕方は歴史像というよりも歴史理論を出すというやり方ですので、フジタニさんなどは歴史像を描くなかで、「日本」の自明性を壊し、あらたな日本研究のありようを探っています。
── 今回成田さんのご紹介でこの特集号に文章を寄せてくださったウィリアム・ジョンストンさんは、そのへんの人脈とは違いますか?
成田 少し違います。(後略)
--------

36ページに渡る討議の記録の全文を再確認してみましたが、実にここ一箇所だけ、発言者の名前がない謎のコメントが記録されています。
事情は知りませんが、おそらくこれは(Mz)として「編集後記」を書き、奥付に「編集人 水木康文」と出ている人物の発言なんでしょうね。
成田龍一氏が紹介したというウィリアム・ジョンストン氏の「封建漁民から列島の人々へ 網野善彦の歴史叙述の旅路」(p232以下)は、前にも少し書いたように事実関係が間違いだらけですが、まあ、アメリカの研究者だから仕方ありません。
私が丁寧に添削してあげたら多少は感謝してもらえそうですが。

久しぶりに網野善右衛門氏について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae3a13aa850fef5f5f521e511cc01377

>筆綾丸さん
>時頼の遺偈は浅ましいコピペ
日本有数の巨刹である建長寺には、その権力と財力で集めた最強の弁護団が数百年間存在していますから、いくらブチブチ言っても蟷螂の斧ですが、それだけに細々と文句を言う楽しみは格別ですね。

>佐藤優氏
図書館で基督教関係の本棚を眺めていて気づいたのですが、佐藤優氏は新教出版社からけっこう本を出していますね。
私には神学関係の内容の適否を判断する能力は全くありませんが、佐藤氏の文章には同志社大学大学院神学研究科修了という経歴はダテではないな、と思わせる迫力がありました。
インテリジェンス関係で社会から受け入れられなくなっても、宗教関係で生きてゆくこともできそうで、なかなか生命力の強い人ですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

軽業師の Sein と Sollen 2015/01/22(木) 12:31:18
小太郎さん
『東アジアのなかの建長寺』が開山に多くの頁を割きながらも遺偈については何も語らない、という不自然さは、いつにかかって遺偈の奇怪さにある、ということなんでしょうね。時頼の遺偈は浅ましいコピペで、道隆の遺偈は忍者もどきの曲芸で、こんなものが鎌倉期の禅思想の到達点だとすると、大文明国の本物の知識人は南宋に殉じてみんな死に絶え、東アジアの果ての辺鄙な国に亡命してきたのは傍流の変人ばかりだったのではあるまいか、という気もしてきますね。それでは中世の研究者として身も蓋もないので、鎌倉期の禅僧たちをなにがなんでも持ち上げねばならぬ、それは禅的哲学者云うところの絶対矛盾的自己同一としてのアクロバティック・ゾレン(軽業師的な当為)であって・・・。

『捏造の科学者』の著者(須田桃子氏)は優秀な方で、早大時代の専攻が物理学というのも頷けます。しかし、読了後も、小保方晴子という女は何者だったのか、という謎は残りました。女教祖のような存在・・・。

http://www.shinchosha.co.jp/book/610600/
『賢者の戦略』で、佐藤優氏が次のように述べています。
--------------
佐藤 理研の小保方さんの問題が起きたとき、僕がまず心配になったのは、彼女がイランや北朝鮮などにリクルートされたら、とても面倒なことになる、ということでした。彼女には研究者としての一定の能力がある、理系の能も持っている、恐らく日本に対して恨みも持っている。三条件が揃っています。そんな彼女に、「あなたは研究が好きでしょう。わが国の新しい研究施設で生物兵器の研究をやりませんか。恨みも晴らせるんじゃないですか」などと声をかけてこないこと限らないのです。荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、世界ではそんなことが日常茶飯で起きているんですよ。「情報屋」も同じことです。それなりの能力のある人間が、海外から引きぬかれたらどうするか。これを一番に心配するわけです。(263頁~)
--------------
これが自称「インテリジェンスの専門家」の心配なんだそうですが、こんなバカなことを考える能力には吃驚しました。「イランや北朝鮮」はそれほどバカではあるまい。理研のCDBを解体に導いたという華々しい実績からすれば、敵国に潜入して「破壊工作」をする「コツ」「や「レシピ」は持っているかもしれませんが、ただそれも、日本国内だからできたのであって、臨戦態勢にある「イランや北朝鮮」では難しいだろうなあ、とは思います。
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"East Asian Historical Thought in Comparative Perspective"

2015-01-22 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月22日(木)13時09分53秒

コロンビア大学のウェブサイトによれば、成田龍一氏がアメリカで参加したという「シンポジウム」は、正確には"East Asian Historical Thought in Comparative Perspective: What History Is, Knows, Does" という"Lecture Series"(連続講義)だそうですね。
「比較を通しての東アジアの歴史的思考 歴史とは何であり、何を知り、何をなすのか」とでも訳せばよいのでしょうか。

---------
Lecture Series

"East Asian Historical Thought in Comparative Perspective: What History Is, Knows, Does"
October 2014 - December 2014

October 14
(Tuesday)
"Japan"
Narita Ryuichi, Professor, Japan Women's University
Harry Harootunian, Adjunct Senior Research Scholar, Weatherhead East Asian Institute, Columbia University
Carol Gluck, George Sansom Professor of History, Columbia University
6:00 PM - 8:00 PM
International Affairs Building Room 918
No registration required.
Co-sponsored by the Department of History

http://www.columbia.edu/cu/weai/events/brownbags/east_asian_historical_thoughts.html

2014年10月14日、11月18日、12月3日の3回、各2時間開催されて、テーマはそれぞれ「日本」「中国」「西洋」。
一回目はJapan Women's University教授の成田龍一氏とHarry Harootunian、Carol Gluck氏の三人が議論したらしいので、まあ、小なりといえども「シンポジウム」なのでしょうが、2回目はウィスコンシン大学歴史学部助教授のViren Murthy氏、3回目は"Moved by the Past"という本の著者Eelco Runia氏の名前しか出ていないので、単なる講演じゃないですかね。
検索してみたところ、Viren Murthy氏は東アジアの知識人、章炳麟や竹内好などを研究対象としている人だそうですね。

Viren Murthy
http://history.wisc.edu/people/faculty/murthy.htm

Eelco Runia氏は、ご本人のサイトによればオランダの小説家兼歴史哲学者だそうです。

Moved by the Past Discontinuity and Historical Mutation
http://cup.columbia.edu/book/moved-by-the-past/9780231168205
Eelco Runia
http://www.eelcorunia.nl/biography/

まあ、経歴・著作等をネットでざっと見ただけで判断するのは失礼かもしれませんが、両氏とも歴史学の主流を歩むというよりは、周辺のマイナーな分野にいる人のような感じがします。
この「シンポジウム」から「世界的に歴史学のあり方を見直そうという機運が出てきている」とまで言うのは、些かハッタリも度を過ぎているのではないですかね。

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成田龍一氏に学ぶ司会術

2015-01-21 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月21日(水)16時36分53秒

『現代思想』の桜井英治・保立道久・山本幸司・成田龍一氏による共同討議「網野善彦は歴史学をどう書きかえたか」は素晴らしい内容ですね。
中でも見事なのが成田龍一氏の水際立った司会振りです。
冒頭を少し引用すると、

-------
成田 私は先週までアメリカに行っており、「What History Is, Knows, Does.」というシンポジウムに参加してきました。歴史学者のキャロル・グラックさんとハリー・ハルトゥーニアンさんが主軸になって、毎回ゲストを招いて連続シリーズをつくるということで、一回目に私が呼ばれていったのですが、韓国でもイム・ジヒョンさんを中心に、歴史学の総括が企図されており、世界的に歴史学のあり方を見直そうという機運が出てきているように感じます。それは人文学が落ち目になってきていることに対して、歴史学の側からなにか反論していこうという動きであるでしょう。そういう手がかりが日本の中にどういう形であるのかということを考えた時に、真っ先に思い当たるのが、網野善彦さんの歴史学です。
-------

といった具合です。
Carol Gluck女史(1941-、コロンビア大学教授)とHarry Harootunian氏(1929-、ニューヨーク大学名誉教授)はアメリカの歴史学界ではマイナーな分野である日本研究の専門家ですね。

Carol Gluck
http://www.columbia.edu/cu/weai/faculty/gluck.html
Harry Harootunian
http://history.fas.nyu.edu/object/harryharootunian

イム・ジヒョン(林志弦、漢陽大学校比較歴史文化研究所所長)氏には、

-----
日本語による主要な業績として「六八年革命と朝鮮半島」(『環』33号、2008)、「『世襲的犠牲者』意識と脱植民地主義の歴史学」(三谷博・金泰昌編『東アジア歴史対話 国境と世代を超えて』東京大学出版会、2007)、「国民国家の内と外」(『現代思想』2005、6)、編著として『植民地近代の視座ー朝鮮と日本ー』(岩波書店、2004)等がある。
http://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20100626/1277642508

そうですが、ネットで見る限り、韓国でもあくまで少数派的存在みたいですね。

http://blog.goo.ne.jp/dalpaengi/e/236c58189ca4a910c629c7392958d2af

まあ、これらの方々の動向から「世界的に歴史学のあり方を見直そうという機運が出てきているように感じ」られるかは若干微妙ですが、共同討議の冒頭挨拶としては非常に格調が高くてよいですね。
『網野善彦対談集「日本」をめぐって』においても、成田龍一氏は殆どイヤミの一歩手前くらいのおべんちゃらを駆使して円滑に対談を進行させており、本当に司会者としての才能に恵まれた方ですね。
歴史学界の綾小路きみまろみたいな人、と言ったら誉めすぎでしょうか。
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人生が二度あれば合唱団

2015-01-21 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月21日(水)16時28分23秒

>筆綾丸さん
>「用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」
自分で訳す自信がないので検索してみたら、「陰陽術を用いて 30年あまり とんぼ返りをしたり 天地がぐるぐる回ったり」としている方のブログがありました。
ずいぶんと騒々しい、奇妙な遺偈ですね。


66年の人生で二度流罪というのも実に変な話で、建長寺公式サイトでは「叡山僧徒の反抗にあって二回にわたり甲斐に配流されたりした」などと奇麗事を言っていますが、これも流罪の時点での客観的な史料で裏付けられる訳ではありませんから、ま、伝記がまとめられた際の潤色でしょうね。
二度の流罪というと他に日蓮や京極為兼くらいしか思い浮かびませんが、日蓮の場合は筋金入りの強烈な体制批判者ですから幕府も流罪にせざるをえないでしょうし、また、京極為兼の流罪には持明院統・大覚寺統の対立という複雑な背景がありますから、詳しい事情はよく分からないにしても、まあ、不思議ではありません。
しかし、鎌倉中期にはまだ珍しかった中国渡来の超一流文化人で、幕府の最高権力者に密着していた蘭渓道隆が何で二度も流罪になるのか。
「叡山僧徒の反抗」や中国スパイ疑惑説などより、単純に本人が変な人だった、権力者を著しく刺激する奇矯な言動があった、と考える方が素直ではないですかね。


♪人生が二度あれば~ この人生が二度あれば~♪
♪流罪は四度~♪(日蓮)
♪流罪は四度~♪(京極為兼)
♪流罪は四度~♪(蘭渓道隆)


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

盆栽の水 2015/01/19(月) 13:25:14
小太郎卿殿
「京極派盆栽説」、まったく忘れていましたが(というより、あの当時、この説を理解できるほどの知識がなかったのですが)、いま読み返してみると、正鵠を射ているような気がします。

----------
福岡市の夏を彩る博多祇園山笠では6年前の祭から山笠の男衆を清める「勢(きお)い水」に静岡市の沢水も使う。福岡を結ぶ静岡空港開港を機に始まった交流だが、もともと縁は深い。山笠の起源を作ったとされる鎌倉時代の禅僧、聖一(しょういちこくし)国師の生家は静岡市内。近くの沢でくんだ水を届ける。
----------
今日の日経新聞35面『時流地流ー祭りが取り持つ縁』に円爾の話がありますが、かなり有名なんですね。
http://www.nishinippon.co.jp/hakata/yamakasa/2009/news/20090613/20090613_0002.shtml
http://www.nishinippon.co.jp/hakata/yamakasa/2009/news/20090716/20090716_0001.shtml
http://www.at-s.com/news/detail/1097914076.html
沢水は栃沢の水、国師の生家(米沢家)は今も続いているとのことで、おどろきました。
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「三井寺の甲之上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて」

2015-01-19 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月19日(月)11時12分22秒

>筆綾丸さん
ウィキペディアの日野資朝の項、

------
文保2年(1318年)の後醍醐天皇即位後も院司として引き続き花園院に仕えていたが、元亨元年(1321年)に後宇多院に代わり親政を始めた後醍醐天皇に重用されて側近に加えられた。このことで父俊光が資朝を非難して義絶したという。
------

と説明し、注記で『花園院宸記』元亨2年11月6日条と明記しており、なかなかの優良記事ですね。
以前、『徒然草』第154段に関し、「京極派盆栽説」というのを書きましたが、着想のときは冗談のつもりだったのに、書いている途中でまんざら冗談でもないような妙な感じになりました。
今読み返しても、けっこう真面目な議論として通用するのじゃないかなと思います。

京極派盆栽説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c65abdeea6bfda4faf8d355fcef4b301

『徒然草』第152段も、何だか最近同じようなことを書いたような妙な気分です。

-------
 三井寺の甲之上人、腰かがまり、眉白く、誠に徳たけたる有様にて、内裏へまゐられたりけるを、昆野寺内大臣伸幸殿、「あなたふとの気色にや」とて、信仰の気色ありければ、小太郎卿これを見て、「年のよりたるに候」と申されけり。後日に、尨犬の浅ましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この気色尊くみえて候」とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a5f5d31b7d8616eee31d6fbaf2c046d

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

寓喩? 2015/01/18(日) 23:09:56
小太郎さん
『網野善彦対談集「日本」をめぐって』の、石母田氏のパーキンソン病の話は痛ましいですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%B3%87%E6%9C%9D
第百五十段は持明院派と大覚寺派に関する寓喩なのかもしれないですね。前者は「不具に異様なる」「かたは者どもの」や「たぐひきなき曲者」どもの集まりで、後者は「すなほに珍しからぬ」者たちの集まりで、後醍醐は異形な王などではなく常識的な王であった、というような・・・。あるいは、この話は資朝の転向後の自己嫌悪の寓喩なのかもしれず、「さもありぬべき事なり」とは、兼好自身にも何か似たようなことがあったことを暗示しているのかもしれないですね。(あの時代、党派の変更など侍臣にとって転向(conversion)というほどのことではなかったかもしれませんが)

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163901916
須田桃子氏『捏造の科学者ーSTAP細胞事件』を読み始めましたが、これは面白いです。

『東アジアのなかの建長寺』「蘭渓道隆」(西尾賢隆氏)に、「四川の蘭渓邑生まれの道隆は、地名(ちみん)を道号とする」(166頁)とありますが、彭丹氏のコラム「道隆出蜀」が正しいなら、四川省に「蘭渓邑」などというものは存在しなかったことになりますね。
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「かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ」

2015-01-17 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月17日(土)21時32分17秒

>筆綾丸さん
今頃やっと『網野善彦対談集「日本」をめぐって』を入手し、読んでみました。
対談相手の写真を見る限り、田中優子氏は水商売風、成田龍一氏は中国共産党の幹部っぽいなど、それぞれ個性的な方々ですが、小熊英二氏はヨーロッパ中世絵画のデビルのような風貌で、特に異彩を放っていますね。
原発事故後の小熊氏の行動を見ていて、ちょっと莫迦にしていたこともあり、正直、全然期待していなかったのですが、小熊氏は思想の整理整頓が得意な人で、網野氏の相手もそつなくこなしていますね。
以前から少し気になっていた点についての説明も見つけることができました。(p182)

--------
小熊 そこが非常に興味深いというか、別にアナール学派のものをお読みになっていたというわけではないんですね。
網野 全然読んでいません。だから、のちにアナール派との共通性とか、社会史とかいわれることに、私は非常に困りました。まったく事実に反しているからです。強いてフランスの学問の影響をあげれば、旧制高校生のころ、岩波文庫の『人文地理学序説』や『大地と人類の進化』という本を面白く読んだ記憶があります。あのころゲオポリティークというドイツの、ナチスとも関係のあった学問が流行ったのですが、それに対してフランスの人文地理学はとても新鮮でおもしろかったのです。いずれも飯塚浩二さんの翻訳なのですね。これはアナールとどこかでつながるものかもしれませんが、あとは、マルク・ブロックの『フランス農村史の基本的性格』を読んだ程度です。大体フランス語は読めないのですから直接の影響などまったくありません。
小熊 ブロックは五〇年前後に、アナール学派ということではなくて、レジスタンス活動に参加した歴史家として、石母田さんなどが紹介していましたからね。
--------

アナール派との関係云々の話はあちこちで聞きますが、本人が「大体フランス語は読めないのですから直接の影響などまったくありません」とまで言うのだから、まあ、信じてよさそうですね。
それにしてもここまで力強く言われると、まるでフランス語ができないことを自慢しているようにも聞こえます。
網野氏は自己の学説の独創性に極端にこだわる人ですが、これが例えば石母田氏だったら、たまたま生じた類似性を面白がって、フランスの論文を猛烈なスピードで博捜し、自説の更なる革新を図ったかもしれません。
個性と語学力の違いですから仕方ありませんが、網野氏の妙なこだわりはあまり格好良くないように感じます。
『現代思想』特集号をきっかけに網野善彦氏と中沢新一氏の本をいくつか読み直してみましたが、今の私の心境は『徒然草』第154段、東寺の門に雨宿りした日野資朝みたいな感じですね。不遜ですが。

------
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集まりゐたるが、手 も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりにたぐひなき曲者なり、もつとも愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただすなほに珍しからぬ物にはしかずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。
 さもありぬべき事なり。

http://web.archive.org/web/20150502075504/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-154-amayadori.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Zen Road の hegemony  2015/01/16(金) 20:03:20
小太郎さん
http://www.kenchoji.com/?page_id=58
『東アジアのなかの建長寺』の「あとがき」(平成二十六年十月十五日 大本山 建長寺)の一部に、次のようにあります。
-------------
建長寺の開山様が中国から来日された七六八年前、日本を含めた東アジアはどの様な状況で、禅は日本に何をもたらしたのでしょうか。日本の”禅の源流”としての建長寺には、それを解明していく役割があります。禅ロードを通じて鎌倉に到達したあの頃を、今一度振り返り、これからの進路を考えるための大事な手がかりが、この本の中にぎっしりつまっています。(475頁)
-------------
「禅ロード」という言葉は初めて知りました。この本には開山の遺偈に言及した論文がなく、時頼の遺偈に関する恣意的な解釈はあるのに、不思議と言えば不思議なことです。
http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/2006/archive/data/j3702-05/for_print.pdf
「用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」が開山の遺偈とのことで、菅基久子氏の「蘭渓道隆の座禅論」によれば、「用翳晴術」は「古代中国で眼光を眩ます術」を云い、「三十余年」は「日本で過ごした歳月であり、来日以前の活動は含まれていない」とのことですが、要するに、何が言いたいのか、よくわかりません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E6%96%97%E9%9B%B2
こういうことではあるまいか。来日してずっと、翳晴術で得宗家の連中を眩惑してきた、そして、筋斗は觔斗雲に通じ、孫悟空のように雲に乗り翩々と日本国を東奔西走して、地を転倒させ天を旋回せしめた(地はうつり天はめぐった)、つまり、凡庸な教えに満足していた日本の宗教界に禅宗によって目も眩むような革命を起こしたのだ・・・というような意味なのではあるまいか(?)。

高橋典幸氏の「北条時頼とその時代」に、次のような記述があります。
------------
・・・(九条)道家が四条天皇の外戚の地位を手にしたこともあって、安貞二年(一二二八)以降は道家とその子・婿たちによって摂関は独占されており、まさに朝廷においては道家の覇権が確立していた観がある。幕府も基本的には道家の覇権を支持しており、承久の乱後の朝幕関係は以上のような形でおおむね安定的に保たれていたと言えよう。(64頁)
------------
覇権は春秋五覇や国家のヘゲモニー(hegemony)というように使うのが普通で、道家の権勢とは言えても「道家の覇権」とは言えないはずで、高橋氏の語感はよくわからないですね。
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『篠弘歌論集 歌の挑戦』

2015-01-16 | 歌会始
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月16日(金)10時16分27秒

>筆綾丸さん
篠弘氏には『篠弘歌論集 歌の挑戦』(国文社、1979)という著書があって、「現代短歌の起点から戦後表現の結実まで、その渦中に生まれた前衛短歌の論争の数々を摘出し、新たな現代短歌の視点を探」っているそうですね。
まあ、理屈はいろいろあるのでしょうが、八十過ぎての実作がことごとくつまらないので、わざわざ歌論を読んでみたいという気分にもなりません。
ということで、"A rolling stone gathers no moss"の原義とは少しずれるかもしれませんが、ロックな篠弘氏に捧げる歌を一首。

六十年前衛歌人を続ければ転がる石にも苔は生えけり

『篠弘歌論集』

>『東アジアのなかの建長寺ー宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地』
未読ですが、村井章介氏を筆頭に、これだけの豪華執筆陣を集めた512ページの論文集が3500円(税別)というのは驚異的ですね。
お金持ちの建長寺がスポンサーなので個別の採算は考える必要がないのでしょうが、反面、この種のスポンサー付きの本は全くの自由放任という訳でもなく、スポンサー側の積極的干渉はないとしても、執筆者の方に多少の遠慮は働きそうですね。
ご指摘の橋本雄氏の記述にしても、あるいは「大人の事情」の反映なのかなあ、という感じがしないでもありません。
ま、私は個人的に蘭渓道隆は、良く言えば外交官的、悪く言えば多少胡散臭いところがある人物と思っており、また、時頼遺偈も没後に時頼の生涯を荘厳するために作られた伝説と考えていて、総じて建長寺は怪しい寺だと思っているので、ちょっと深読みに過ぎるのかもしれませんが。

蘭渓道隆の適当な夢語り
二神約諾神話

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

蘭渓の業鏡 2015/01/15(木) 20:13:35
小太郎さん
歌人としての美智子さまは、場所柄を弁えぬ古本市の駄歌に呆れているけれども、皇后の立場からは何もいえない、ということかと推測しますが、篠弘氏にはその程度の想像力すら欠落しているらしく、哀れといえば哀れな老人ですね。

http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100397
『東アジアのなかの建長寺ー宗教・政治・文化が交叉する禅の聖地』をパラパラ捲っていると、
彭丹氏のコラム「道隆出蜀」に次のようにありました。この禅僧がなぜ「蘭渓」などというキザな名をつけたのか、以前から気になっていたのですが、なるほど、素朴な命名だったのですね。
----------
禅僧蘭渓道隆が生まれた西蜀涪州(ふしゅう)という地は、重慶の涪陵(ふりょう)万松村にある。この地に一本の河が流れている。上流は芝蘭河、下流は魚渓河と呼ばれる。芝蘭河と魚渓河それぞれ真ん中の一字を取り出して「蘭渓」となる。すなわち、道隆の「蘭渓」号の由来である。(148頁)
----------

橋本雄氏「北条得宗家の禅宗信仰を見直す―時頼・時宗と渡来僧との交際から」に、次のような記述があります。
-------------
業鏡高懸  業鏡高く懸かること
三十七年  三十七年
一槌打砕  一槌に打砕すれば
大道坦然  大道坦然たり
この偈は、鷲尾順敬氏により、阿育王山の笑翁妙堪の遺偈の「七十二年」を「三十七年」に変えただけのものだとすでに指摘されている(括弧内省略)。だが、仮にそうだとしても、時頼が「大道坦然」の境地に満足していたことだけは恐らく疑いがない。歿時に遺偈を著わすということ自体、まさしく時頼が禅者として生きていたことの証だといえよう。(255頁)
-------------
この遺偈は、高橋慎一朗氏の『北条時頼』(人物叢書)でも話題になりましたが、橋本氏の解釈は、良く言えばウブ(ナイーヴ)で、悪く言えばなんだかわかりません。「大道坦然」の境地に悟入していたかどうかはともかく、「大道坦然」の境地に満足していたことだけは恐らく疑いがない、とは一体何のことなんだろう? なぜそんなことが言えるのか。廻国巡錫中の最明寺入道も鉢の木で暖を取りながら吃驚しているのではないか。蛇足ながら、業鏡高く懸かること、という訓読はどうも変で、業鏡高く懸ぐ(こと)というように、懸の字は他動詞と訓むべきなんじゃないか。
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網野善彦氏の「みずみずしい感性」と後深草院二条

2015-01-15 | 網野善彦の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月15日(木)12時47分43秒

筆綾丸さんご紹介の毎日新聞のコラム、記念に『問はず語り』関係のみ保存しておきます。

---------
余録:鎌倉時代に書かれた「問はず語り」によれば…
毎日新聞 2015年01月14日

鎌倉時代に書かれた「問はず語り」によれば、女たちに組みつかれた後深草上皇は粥杖(かゆづえ)でさんざんたたかれたという。粥杖とは正月15日の粥を煮る時の薪(たきぎ)を削った杖。その日貴族たちは女も男もいり交じって、その杖でお尻をたたき合った▲平安時代の「狭衣物語」は書いている。「十五日には若い人たちが集まり、美しい粥杖を後ろに隠しながら互いの隙(すき)をうかがい、打たれまいと身構える姿やどうにかして相手を打とうと思っているさまが何ともおかしい」▲粥杖は邪気を払う呪力があると考えられ、お尻を打たれると子宝に恵まれるとの俗信があったそうな。後の世で嫁のお尻を柳の枝などでたたいて子宝が授かるよう願う小正月の風習のルーツらしい。その昔、多くが正月14日の夜から15日に行われた小正月の諸行事だ▲
http://mainichi.jp/opinion/news/20150114k0000m070102000c.html

『問はず語り』と『狭衣物語』に着目するとは、このコラムの執筆者はなかなかの古典通ですね。
『問はず語り』の粥杖の場面は網野善彦氏の『蒙古襲来』にも大量に引用されていますが、これは1974年という出版の時点を考えると驚くべきことです。
『問はず語り』の発見後、家永三郎氏が非常に早い段階で『問はず語り』に着目したのを唯一の例外として、生真面目な歴史学者たちは『問はず語り』など無視していたのですが、永原慶二氏の弟子である田沼睦氏が和知の場面を地方武士の生態を知ることのできる貴重な史料として紹介し、それに見た網野善彦氏が、おそらく当時参照できた唯一の注釈書である富倉徳次郎氏の筑摩叢書『とはずがたり』(1969、筑摩書房)を入手し、これは素晴らしい「史料」だと考えて『蒙古襲来』で大量に引用したのだろうと推測できます。

宮廷の左義長
http://web.archive.org/web/20150830053422/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino.htm
『とはずがたり』巻2.粥杖の報復に作者院を打つ
http://web.archive.org/web/20150517011437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm

『現代思想 総特集網野善彦』における呉座勇一氏の『蒙古襲来』書評によれば、五味文彦氏は『蒙古襲来』を「概説書であるが、鎌倉時代末期の社会をみずみずしい感性と精力的な実証で明らかにした」と賛辞を寄せているそうですが(五味文彦『大系日本の歴史5 鎌倉と京』)、この粥杖事件に関する記述など、まさに網野善彦氏の「みずみずしい感性」が伺われる部分ですね。
ただ、それが「精力的な実証」に基づいているかは別問題で、1970年頃、相生山の「生駒庵」において、自らが普通の学者莫迦に見られる程度の朴念仁や唐変木のレベルを超越した純粋なアンポンタンであることを実証した網野善彦氏が性悪女に騙されているだけのようにも見えます。
網野善彦氏は四十半ばになっても少年の心を持ち続けた人なので、『問はず語り』のような複雑な性格の書物を扱うのには無理が多かったのだろうなあと、不遜にも私は思います。
なお、網野氏は粥杖事件だけでなく、二条が鎌倉に下って平頼綱とその妻、息子たちと交流する場面も、全くの史実として『蒙古襲来』に取り上げていますね。

「得宗御内人の専権」-御内人と尼僧二条
http://web.archive.org/web/20061006211202/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-tokusou-miuchibito.htm

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

粥杖と納豆と黍団子 2015/01/14(水) 18:35:32
小太郎さん
http://mainichi.jp/opinion/news/20150114k0000m070102000c.html
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_18.html
毎日新聞の一面下欄の「余録」に、『とはずがたり』の粥杖の話が引用されているので、びっくりしました。後深草院の名が全国紙の一面に載ったのは、もしかすると、空前の出来事かもしれませんね。『三人吉三廓初買』ではありませんが、こいつぁ春から縁起がいいわえ(?)。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13HAQ_T10C15A1CR0000/
歌会始の選者(篠弘)の歌ですが、新年に宮中で「古本市」を詠む感覚は遁世者のようで、なかなか凄味がありますね。また、入選歌のなかには「本」を詠み込まないルール違反で意味不明の歌がありますが、雉と云い鬼と云い島と云い、新年に何故なのかということはさておき、これは桃太郎の鬼退治の話でしょうか。(「桃太郎の鬼退治」という「絵本」が「日本」にはある、ということか。なぜこの歌が選ばれたか、新年の謎です)

http://www.nikkei.com/article/DGXKZO81829260Q5A110C1EL1P01/
http://www.akitafan.com/special/detail.html?special_id=80
日経新聞で初めて知ったのですが、真偽はともかく、納豆の発祥には後三年の役の八幡太郎が関係していたのですね。
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歌会始に関するアンタ何様批評【平成27年版】

2015-01-15 | 歌会始
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月15日(木)11時20分36秒

>筆綾丸さん
篠弘氏の

送られし古本市のカタログに一冊を選(よ)るが慣ひとなりぬ

は、一昨年の

ゆだぬれば事決まりゆく先見えて次の会議へ席立たむとす

よりは多少マトモになりましたね。

【歌会始】日本文藝家協会理事長・篠弘氏の変てこな歌


ただ、暇を持て余した老人の暇つぶしの歌としてはそれなりに結構だと思いますが、何でこんなものを歌会始に出そうとするのか、そして何故それを回りにいる人が誰も止めようとしないのかが謎です。
これとは対照的に、春日真木子氏の

緑陰に本を繰りつつわが呼吸(いき)と幸(さき)くあひあふ万の言の葉

は、召人という立場をきちんと踏まえた良い歌ですね。
春日真木子氏は尾上柴舟の系統を継ぐ歌人だそうですが、こういう調べを重んじた古風な歌は、例の独特の非常に長い節廻しに合いますね。
他方、篠弘氏の歌を含め、意味だけしか追わない現代歌人の大半の歌は長調子で反復して歌われるとある種の滑稽感が出てきて、ちょっと聴くに耐えないですね。

春日真木子

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

粥杖と納豆と黍団子 2015/01/14(水) 18:35:32
小太郎さん
http://mainichi.jp/opinion/news/20150114k0000m070102000c.html
http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/5/5_04_18.html
毎日新聞の一面下欄の「余録」に、『とはずがたり』の粥杖の話が引用されているので、びっくりしました。後深草院の名が全国紙の一面に載ったのは、もしかすると、空前の出来事かもしれませんね。『三人吉三廓初買』ではありませんが、こいつぁ春から縁起がいいわえ(?)。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG13HAQ_T10C15A1CR0000/
歌会始の選者(篠弘)の歌ですが、新年に宮中で「古本市」を詠む感覚は遁世者のようで、なかなか凄味がありますね。また、入選歌のなかには「本」を詠み込まないルール違反で意味不明の歌がありますが、雉と云い鬼と云い島と云い、新年に何故なのかということはさておき、これは桃太郎の鬼退治の話でしょうか。(「桃太郎の鬼退治」という「絵本」が「日本」にはある、ということか。なぜこの歌が選ばれたか、新年の謎です)

http://www.nikkei.com/article/DGXKZO81829260Q5A110C1EL1P01/
http://www.akitafan.com/special/detail.html?special_id=80
日経新聞で初めて知ったのですが、真偽はともかく、納豆の発祥には後三年の役の八幡太郎が関係していたのですね。
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アミノ細胞とナカザワ細胞のコンタミネーション

2015-01-12 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月12日(月)10時58分37秒

>筆綾丸さん
>反自然の人工的な世界に生きてきた人
退廃と洗練が同居する遊廓は都市的であり、資本主義的であり、通常の社会の地位・身分が通用しない空間である点でアジール的でもあって、「網野史学」のキーワードが凝縮されているような感じもしますね。

>両氏の倒錯的な感覚
私はある時期まで、「アミノ史学」にはアミノ細胞とナカザワ細胞のコンタミネーションがあるから、これをきちんと切り分けなければならないと思っていたのですが、1970年頃まで遡っても「倒錯的な感覚」において両者は一体であり、互いに影響しあって「アミノ史学」を作り上げていったと考えざるをえないですね。
それにしても、「生駒庵」の一件が仮に1970年の出来事だとして、中沢新一はまだ20歳ですから世間を知らなくても仕方ありませんが、1928年生まれの網野善彦は42歳ですからね。
どうしてここまで「天然」でいられたのかは一個の謎ですが、この「天然」さをエネルギーに変えて論文を量産して行く力強さが網野善彦の凄みですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

時代精神の遊行 2015/01/11(日) 14:41:05
小太郎さん
小太郎さんの解釈のとおりだと思います。
現実の悪所を殆ど全く知らない二人が中世の性や悪党を本気で論ずるのは喜劇と言うべきで、現実は知らないが歴史はよくわかる、というパラドックスなのかもしれませんね。
http://dazai.or.jp/modules/novel/index.php?op=viewarticle&artid=93&page=69
太宰治『斜陽』に、ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、という戯歌がありますが、鳥刺し、鳥刺し、しゅるしゅるしゅ、とパパゲーノとパパゲーナにデュエットさせてみたいところです。

--------------
小熊 私も今回ご著作を通読していて、網野さんは直接に同時代の思想から影響を受けるというよりは、時代精神が網野の形をとって現われるというタイプの人かと思います。(「「日本」をめぐって」(講談社 173頁)
--------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%B2%BE%E7%A5%9E
小熊氏に倣って言えば、地方都市の団地を千鳥足で遊行する時代精神(Zeitgeist)と言ったところでしょうか。
中沢・網野両氏は、「生駒庵」の夫婦を「人間の『自然』」と規定していますが、私には、反自然の人工的な世界に生きてきた人というふうにしか見えず、両氏の倒錯的な感覚がよく理解できません。
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注文の多い料理店

2015-01-11 | 網野善彦の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 1月11日(日)10時20分8秒

殆どの学者は自分が常に対象を観察・分析する側にいると思っていますが、人間が対象である場合、相手もまた注意深く学者を観察・分析していることがありますね。

「生駒庵」の「ご主人」は珍しい「逸品」を次々と網野一家に見せてくれたそうですが、私にはその種の物品について特別な知識はなく、昔、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』か『陽炎座』で見たような覚えがあるだけです。
ただ、それらの「逸品」は相当に高度な技術を持った職人が手間隙かけて作ったものであることは間違いなく、また価格も高価でしょうから、好事家のための特注品か、あるいは性に関連する商売で何らかの用途に用いられていたものだと思います。
ま、私としてはそれなりに高級なクラスの遊廓で客寄せのために作ったと考えるのが素直なんじゃないかな、と想像します。
そして、店には「どことなく水商売風の雰囲気も漂って」いて、「小づくりな体つきをしたきれいなおばあさん」が「きちんと手をそろえて挨拶」してくれ、「小柄な体つきのご主人が粋な和服姿であらわれ」、その人の方言を中沢新一が標準語に直しているのかもしれませんが、とにかく非常に丁寧な、洗練された言葉で応接してくれるのだそうですね。
ま、これだけの材料があれば、「水商売」で相当の財産をためた「ご主人夫婦」が、金儲けのためというより半ば道楽でやっている店と考えてよいのではないかと思います。
そして、「若い頃は大須観音あたりで浪曲師をしていたというご主人夫婦の過去」が語られたそうですが、大須観音周辺にはかつて「旭遊廓」という大規模な遊廓が存在していたそうですね。
私は名古屋に全く土地カンのない人間ですが、「大須観音」プラス「遊廓」で検索すれば次のようなサイトが引っかかります。


「ご主人夫婦」にしてみれば、野鳥料理を提供しつつ、なじみ客の好事家と昔話などをし、ときには「霞網」にかかってやって来た新参の客に「自慢の収蔵品」を見せて反応を楽しむ、といった悠々自適の生活を送っていたところ、いかにも生真面目そうな学者タイプの親子連れが小生意気な理屈っぽい大学生と一緒にやってきて、少しピントはずれているものの旺盛な知的好奇心を剥き出しにして色々質問してくれるので、これは近年稀に見る素晴らしい「天然もの」だと気を良くして丁寧に対応してくれた、といったことではないかと思います。
「ご主人夫婦」も別に真面目な学者一家を積極的にだまそうとしていた訳ではなく、「若い頃は大須観音あたりで浪曲師をしていた」というような、まあ普通レベルの朴念仁や唐変木だったら、なるほどそうだったか、と気づくようなヒントを出してあげており、それでもこの学者一家が気づかないらしいので、世の中には本当に珍しい品種の「天然もの」がいるものだなあと改めて感動したのではないですかね。

>筆綾丸さん
>美濃の世界
これもよく分からない勘違いですね。
中沢新一って、ものすごく頭が良いのに変な思い込みが本当に多い人です。
中沢新一が「相生山の丘陵地に隠れ住む、もう一人の『鳥刺し』の人生を、みんなでほめたたえながら」「九州から持参したおみやげの芋焼酎をたらふく飲んで、大きな声でパパゲーノの歌を歌」っていた頃、同じ相生山の丘陵地の一画では、「ご主人夫婦」が、今日の学者一家は本当に面白い客だったなあ、と思い出し笑いをしていたかもしれないですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

パパゲーノ とパパゲーナのデュエット 2015/01/10(土) 16:20:24
小太郎さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%99%BD%E5%8C%BA
http://en.wikipedia.org/wiki/Freudian_slip
昭和区(現天白区)相生山の丘陵地帯の団地に関して、「癖の強い古い美濃の世界が切り崩されて」とありますが(25頁)、ウィキに「中世には鳴海庄天白村であった」とあるように、そこは尾張国であって美濃国ではないですね。天白川を少し下れば、織田氏と今川氏が対立した鳴海城があります。「アミノ」に引きずられて「ヲワリ」を「ミノ」と言い間違えたのは、いわゆる Freudian slip( parapraxis )と考えられるかもしれませんね。つまり、フロイト風に云えば、網野さんの終わり(死)を受容したくないという無意識が働いたのだ、と。

-------------
私はその夜、九州から持参したおみやげの芋焼酎をたらふく飲んで、大きな声でパパゲーノの歌を歌った。相生山の丘陵地に隠れ住む、もう一人の「鳥刺し」の人生を、みんなでほめたたえながら。(29頁)
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https://www.youtube.com/watch?v=THsbW6bBK2U
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%88%BA%E3%81%97
上の文は、『チベットのモーツァルト』の著者が書かせた創作で、「パパゲーノの歌」の話は嘘ではあるまいか。網野氏が聞いていたのなら、Vogelfang(鳥刺し)に関するドイツの歴史的背景について何か言及したのではないか。「エロティシズムと聖性の関係」や「中世の遊女と天皇の妖しい関係」に関心を抱いていた二人が(21頁)、パパゲーノとパパゲーナの関係に興味を示さないはずがない。さらには、papageno と papagena には papa(教皇)と pappagallo(オウム)が含意されていて・・・とか、そんな話になったかもしれない。・・・というような訳で、「パパゲーノの歌」の話は中沢氏の単なる法螺話(自慢話)のような気がします。
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