学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

カミーラ・イェリネック

2016-07-10 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月10日(日)10時11分50秒

あまりドイツに寄り道していると「国家神道」もフランスのライシテも忘却の彼方に消えてしまいそうなので、そろそろ終わりにしますが、『ハイデルベルク─ある大学都市の精神史』にはイェリネック夫人もチラッと登場していて、その部分だけ少し抜き書きしておきます。
新カント派・西南ドイツ学派の創始者であるウィルヘルム・ウィンデルバント(1848-1915)とマックス・ウェーバー(1864-1920)の対立に関係する一挿話として、『マックス・ウェーバーの思い出』の著者である社会学者、パウル・ホーニヒスハイムが紹介するものです。(p156以下)
なお、当該挿話の部分は段落全体が一字分下げてあります。

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【前略】ウェーバーはどうにもならぬという調子でこう嘆いたという。「ウィンデルバントと政治や女性問題の話をすることはまったく不可能だ」と。ホーニヒスベルクは、さらにウェーバーがいささか嘲笑的に語ったという一つの挿話を伝えている。

イェリネック夫人はウェイトレスを道徳的危険から守るために、とりわけ少女が夜アルコールを販売する店で給仕することを禁止する法律をつくろうとして努力していた。彼女はその請願のために署名を集め、その請願書は関係官庁に送付する手はずとなっていた。これにはウィンデルバント夫人も署名していたが、その署名のとき彼女は御主人のことを考慮に入れていなかったのだ。この御主人は、ウェイトレスのような存在にかかわりをもつ一文書に正教授(オルディナリウス)夫人の名が記されていることはその身分にふさわしからぬことと考え、彼女の署名を撤回するよう要求したものだ。そこでこの"ママヒェン"─とわれわれ若者たち、いやウェーバーもそうウィンデルバント夫人のことを呼んでいた─は、後悔してイェリネック夫人のもとに行った。イェリネック夫人は笑いながら彼女にその文書を渡すと、彼女は自分の名を抹消し、安心してふたたび赦しを与えてくれる夫のところへ帰って行った。

 いかにもハイデルベルク大学正教授・枢密顧問官ウィルヘルム・ウィンデルバントの人間的側面をよくうかがわせる挿話である。ウェーバーは、こういうドイツ大学人の官僚的・権威主義的な虚偽・欺瞞を嘲笑し、手厳しく批判したのである。
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カミーラ・イェリネック(1860-1940)が行った社会的活動については、たぶんマリアンネ・ウェーバー(1870-1954)の『マックス・ウェーバー』あたりを読めばもう少し詳しく分かるのでしょうが、今はそこまで手を伸ばす余裕がありません。

Camilla Jellinek

>筆綾丸さん
>生松というのは、返す返すも、妙な名前

読み方が「おいまつ」なら多少は優雅な趣があるでしょうが、「いきまつ」ですから、妙に生々しいですね。
小塩節氏の「解説」に「生そのもののうねりをあげて生きて」とありますが、これはたぶん「生松」のイメージを重ねているんでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

七夕のバイコヌール 2016/07/09(土) 11:25:38
小太郎さん
生松敬三の著書は一冊だけ読んだことがありますが、ルカーチ『実存主義かマルクス主義か』という訳書でした。生松には、もう読むことはないと思いますが、森鴎外論もあるのですね。余計なことながら、生松というのは、返す返すも、妙な名前です。

この装幀、懐かしいなあ。原題「EXISTENTIALISME OU MARXISME?」からすると、原文は仏語のようです。独語なら EXISTENTIALISMUS ODER MARXISMUS? となるはずですものね。

悦ばしきことなんでしょうが、たかが地上上空 400?くらいの空間を「宇宙」と呼ぶのは、cosmos や universe に対する甚だしい僭称で、black hole や dark matter が聞いたら嗤うでしょうが、space の適当な訳語ないので仕方ないですね。
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大西さんは日本の実験棟「きぼう」で、2つあるマウスの飼育容器の一方を回転させて地上と同じ重力をかけて育てる。宇宙と地上の重力の違いで、マウスに起こる変化を調べる。(7月8日付日経朝刊3面)
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「宇宙」と言っても、まだ、この程度の実験しかしていないのか、と思います。メダカがマウスになっただけのことです。こんな実験に巨費を投ずる価値はあるのか、とは言いませんが。

「The original Baikonur (Kazakh for "wealthy brown", i.e. "fertile land with many herbs")」における Baikonur は、Baiko(茶色)+ nur(裕福な)なのか、Baiko(裕福な)+ nur(茶色)なのか。
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綾小路きみまろ的な感懐

2016-07-08 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 8日(金)08時15分43秒

『ハイデルベルク─ある大学都市の精神史』の著者・生松敬三氏の名前はこの掲示板で一回だけ触れたことがあって、それは網野善彦氏の東京高校時代の友人の一人としてでした。

「東高時代の網野善彦君」(その2)

本書は1946年、東京高校演劇部が行った「アルト・ハイデルベルク」の上演の思い出から始まっていて、生松氏はそのとき演出を担当したそうですね。
私が大学に入学した頃、というと四捨五入すれば四十年前になるので、綾小路きみまろの「あれから四十年」みたいな話になってしまいますが、当時は生協書籍部の哲学・思想コーナーに生松氏の難しそうな著書や訳書がズラズラ並んでいて、この人は何者なのだろうと思ったことがあります。
ま、私は別に哲学青年ではなかったので購入はしなかったのですが、今ごろになって生松氏の著書・訳書を読むと、昔はおよそ理解できなかったであろう難解な話もそれなりに理解できるようになっていて、ちょっと楽しいですね。
さて、講談社学術文庫版の小塩節氏の「解説」には、

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本書の圧巻
 こうして本書第四章は、二十世紀のハイデルベルク大学の記述となる。ここが分量的にも本書の約半分を占めるところだが、最大の圧巻は、生松敬三氏がみごとに理解し咀嚼しつくしたマックス・ウェーバーについて、その生活と学問について語っているところだ。
 哲学者リッケルトらと同時期にこの大学で教えたマックス・ウェーバー(一八六四~一九二〇年)は、病身にもかかわらず、社会学や経済学の理論的開拓者であり、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をあらわした稀代の学者であることは、今の日本の高校生でも教えられている。しかしM・ウェーバーの膨大な著作をほんとうに自分で読み通し読みこなした人は、残念ながら極めて少ない。生松氏は、そのごく少数の一人なのである。
 僅か五十六年の生涯(一九二八~一九八四年)を、痛ましい癌で閉じなければならなかったこの朗らかで、伝法な口ききさえ多くの人の心をとらえた学究は、若き日の著作『森鴎外』(東大出版会、昭和三十三年、三十歳)をはじめ、自著約二十冊、編著九冊を著しただけではない。ルカーチ、フロイト、カッシーラー、ジンメル等の大作の訳書を四十数点も出版した人でもある。彼は蒼ざめたいわゆる講壇哲学者ではなかった。生そのもののうねりをあげて生きて、自ら考える哲学者だった。その彼が深い畏敬の念をこめて記しているのが、このウェーバー論、あるいはウェーバー・スケッチである。
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とありますが(p254以下)、生松氏がマックス・ウェーバーと同じく56歳で亡くなっているのを知って、ちょっとドキッとしました。
生松氏に比べれば、煙草をパカパカ吸っていた網野善彦氏が74歳まで生きたのは、むしろ長生きだったような感じもします。

生松敬三
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「生きのびるための唯一の可能性は人目につかないこと」(by カール・ヤスパース)

2016-07-07 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 7日(木)09時42分43秒

またまた脱線してしまいますが、ナチス時代のハイデルベルクの雰囲気はどのようなものだったのだろうと思って、ちょっと調べてみたら、生松敬三著『ハイデルベルク─ある大学都市の精神史』(TBSブリタニカ、1980)のカール・ヤスパースに関する記述が参考になりますね。
ヤスパースは1883年生まれで、ヴァルター・イェリネックより2歳上です。
本人はユダヤ系ではありませんが、妻・ゲルトルートがユダヤ系だったので、ナチス時代には非常に苦しい状況に置かれていたそうですね。
少し引用してみます。(引用は講談社学術文庫版、1992、p214以下から)

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ナチス時代─その恐怖と迫害

 ゲルトルートは、病弱なヤスパースの良き看護婦でもあり、また同じく哲学を志す学徒でもあった。けれども、彼女がユダヤ人であるがゆえに、ヤスパース夫妻は一九三三年以後のナチス時代には、迫害と死の危険を覚悟しなければならなかったのである。
 三三年にヤスパースは、大学の管理的役職に就くことを禁じられ、三七年には教授職を剥奪され、翌年には執筆および著作の公刊まで禁じられた。すでに三三年のナチ政権樹立のときに、友人エルンスト・マイヤーは「我々ユダヤ人はいつかある日バラックに連れ込まれ、バラックには火がつけられるだろう」と、ヤスパースに語ったという。当時はまだ、そんな「極端な帰結」は「空想」でしかないだろうところを斥けることもできた。しかし、事態はしだいにマイヤーの予言どおりに深刻なものとなっていったのである。
 一九三八年十一月には、公然とユダヤ人の住居や店を破壊し、ユダヤ人を追放、殺害した恐怖の「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」が訪れる。ヤスパースは言う。「その時以来、不安が高まったし、戦争中は非常に不安であった。私たちがたえず生命の危険に曝されていることは疑いえなかった。このような世界の中でどうして私たちが生きてきたかというと、その原則は、生きのびるための唯一の可能性は人目につかないことである、ということであった」。
------

ゲルトルートはエルンスト・マイヤーの姉で、二人の結婚は1910年だったそうですね。
引用を続けます。

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 ナチス時代における大学の荒廃は、なにもハイデルベルク大学だけのことでなかったことは言うまでもない。三六年、リッケルトは七十三歳の高齢で失意のうちに死んだ。この年、ハイデルベルク大学創立五五〇年記念祭が行われたが、これはもはやナチス一色のもので、招待を受けたイギリスやアメリカの学界も参加を拒否したという。翌三七年六月には、ノーベル賞受賞者で「アーリア的物理学」「ドイツ的物理学」の主唱者となったフィリップ・レーナルトの七十五歳誕生日を祝して、ハイデルベルクの町では学生たちが松明行列を催した。人目につかないように身を潜めていたヤスパース夫妻は、こうしたハイデルベルクの出来事をどのような思いで送り迎えしていたのであろうか。三九年から四二年にかけてのヤスパースの「日記」の一部分が公開されているが、その中心課題は、離婚、亡命、自殺といった重苦しい問題ばかりである。

カール・ヤスパース(1883-1969)

>筆綾丸さん
>イェリネックは親子ともども飛び抜けた学者なんですね。

確かにそうなんですが、人見剛氏がこの本を出すまでは、狭い行政法学界においてすら息子は地味な存在だったはずで、人見氏の文章の冒頭、「周知のように」はちょっと変な感じですね。

人見剛(早稲田大学大学院法務研究科、教員プロフィール)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ゴンベエさん 2016/07/05(火) 16:11:07
小太郎さん
イェリネックは親子ともども飛び抜けた学者なんですね。
VWもフォルクスワーゲンで定着していますが、ゲシュタポ(Gestapo)は、不思議なことに、ゲスタポとは言わないですね。

キラーカーンさん
伊藤之雄氏『山県有朋』(文春新書)も、「シーメンス事件」になっています(387頁)。あの時代の日独関係を考えると、ゴンベエさんをはじめとする海軍の上層部(及びメディア)は、「ジーメンス」と発音していたろう、という気がします。戦後、アメリカの影響を受けて、「シーメンス」になったのでしょうか。「シーメンス」というと、なぜか、シーラカンスを連想します。

たしかに、「最年少A級陥落」は神武以来の天才の不滅の記録でしょうね。また、ピンさんの段位は誰も超せないですね。なんたって、1239段ですから。

今期名人戦の3局、4局、5局は羽生さんの完敗で、ポナンザとプロ棋士の勝負を見ているようでした。また、今期の棋聖戦挑戦者ですが、王者羽生があれほど負け越している棋士はほかに記憶にありません。

阪大哲学科休学中の前竜王糸谷哲郎さんは、7月4日付日経将棋欄で、将棋は民衆の娯楽として楽しめる方向性でいくのがいちばんよく、伝統的な権威づけには警戒すべきだ、と言っていますが、羽生さんはいつか文化勲章という伝統的な権威づけがなされるかもしれません。もっとも、文化勲章などより将棋のほうがずっと伝統がありますが。(将棋は徳川将軍家による権威づけ、文化勲章は天皇による権威づけ、という日本固有の悩ましい問題は考えないことにします)

日曜日のNHK「将棋フォーカス」で、最近数年間におけるプロ公式戦の勝率は先手53%と言っていました(以前は51%ほどでした)。序盤の研究が進み、先手の勝率が60%を超えるような事態になれば、ルール改正が問題になってくるでしょうが、囲碁のコミのように、4目半⇒5目半⇒6目半・・・と安直にいかないところがネックですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E9%9B%B6%E5%92%8C%E6%9C%89%E9%99%90%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
将棋も、詰まる所、先手必勝の「二人零和有限確定完全情報ゲーム」だ、ということになってしまうのか。まあ、そうなったとしても、世界は何も変わりませんが。 
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ナチス時代のイェリネック一族

2016-07-05 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 5日(火)11時27分33秒

Walter Jellinek についてはウィキペディアもドイツ語版だけで、しかもずいぶんあっさりしていますね。


私の当面の関心とはズレますが、ものはついでと思って少し調べてみたら『近代法治国家の行政法学─ヴァルター・イェリネック行政法学の研究』(人見剛著、成文堂、1993)という本の冒頭に「ヴァルター・イェリネックの生涯と業績」のまとめがありました。
少し引用してみると、

------
一 周知のように、ヴァルター・イェリネック(Walter Jellinek 1885-1955)は、オットー・マイヤー(Otto Mayer 1846-1924)とならんでドイツ行政法学の父と呼ばれ、ドイツ行政法学の形成期を担った最も有力な学者の一人であると共に、「国法(学)から独立した独自の行政法学の形成に寄与した最後の学者」、いわば「行政法学の最後のクラシカー(der letzte Klassiker)」であった。即ち、イェリネックは、O・マイヤーがドイツにおける行政法学を構築し始めた帝政期から、ヴァイマル期、ナチス期そして第二次大戦後の共和政期に至るまで四つの時代を生き、各時代に数多くの優れた業績を残した傑出した公法学者であった。本節では、イェリネックの行政法学を考察する前提として、まず彼の生涯と業績を素描することにしよう。
二 ヴァルター・イェリネックは、一八八五年七月一二日、当時ウィーン大学で教鞭をとっていた著名な国法学者ゲオルク・イェリネック(Georg Jellinek 1851-1911)とウィーン大学医学部教授グスタフ・ヴェルトハイム(Gustav Wertheim 1822-1888)の娘カミーラ(Camilla 1860-1940)の息子として、ウィーンのフュッテルドルフ(Hütteldorf)に生まれた。イェリネック一家はその後、父親ゲオルクがバーゼル大学(一八九〇年)、ハイデルベルク大学(一八九一年)へと移動するに伴って転居し、一九〇三年、彼はハイデルベルクでその大学生活を始めた。【中略】なお、大戦開始前の一九一四年四月三日には、バーデンの上級事務次官(Ministerialrat)の娘で、彼の幼なじみのアレクサンダー・ヴィーアー(Alexander Wieher)の妹イルムガルト・マリー(Irmgart Marie 1891-1976)と結婚し、以後一九一五年から二五年までの間に二男三女をもうけている。【中略】
三 前述したように、ヴァルター・イェリネックは一九二九年、ボンに移ったR・トーマの後任としてハイデルベルク大学に招聘され、父ゲオルクがかつて担当した講座を受け継ぐこととなった。少年・学生時代の大部分を過ごした第二の故郷ともいえる西南ドイツのハイデルベルクの地に戻り、そして彼は、その死までこの地に居を定めることになるのである。ここでも、イェリネックは法学部長(Dekan der Jur. Fak.)、評議員(Mitgl. des Engeren Senats)等の要職を務めつつ、一九三五年、ユダヤ系の故に公職追放されるまで、旺盛な研究活動を続けた。一九二八年には公法国際協会(Institut International de Droit Public)の非常任メンバーに選ばれ、三〇年には常任メンバーとなっている。
-------

といった具合で、「一九一五年から二五年までの間に」生まれた「二男三女」の一人が Barbara(1917-1997)のようですね。
この後も特に亡命等の記述がないので、ナチスによる公職追放後もヴァルターはハイデルベルクにとどまったようです。
ただ、人見氏は特に言及していませんが、父ゲオルクと母カミーラのウィキペディアの記述によれば、二人の間には六人の子が生まれ、成人した四人の中でDoraはテレージエンシュタット収容所で「安楽死」させられ、Ottoもゲシュタポによる虐待の結果、死に至ったそうなので、ヴァルターの生活もおよそ安穏なものではありえなかったでしょうね。


>筆綾丸さん
>「シーメンス事件」
私もついつい習慣で「シーメンス」と書いてしまいますね。
また、筆綾丸さんはいつも「マックス・ヴェーバー」と書かれますが、私は「ウェーバー」じゃないと何だか別人のような感じがして、これもなかなか直りません。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

市営墓地にて 2016/07/04(月) 15:51:23
小太郎さん
https://de.wikipedia.org/wiki/Bergfriedhof_(Heidelberg)
小太郎さんの推論のほうが合理的だと思います。
佐々木惣一の思想とイェリネックの埋葬の関係に拘るのなら、Bergfriedhofを管理するハイデルベルク市に行って関連資料を渉猟するとか、墓地管理事務所に照会するとか、現地であたってみれば、ある程度、墓の時代的変遷が判明したのではないか、と思われるのですが、石川氏はパセチックな詩的想像をしているだけで、そういう地味で下世話なことはしてないようなんですね。『自由と特権の距離―カール・シュミット「制度体保障」論・再考』を読めば、氏はドイツ語が相当できるのだから、勝手な想像を廻らす前に、「憲法考古学者」として、もっと基礎的な調査をすべきなんですね。

前回、「紙面をハイジャックする」という石川ワードに苦言を呈しましたが、現代の若者なら、「ハッキング」という用語を使うでしょうね。

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・・・山本権兵衛内閣も、疑獄事件(いわゆるシーメンス事件)に対する世論の批判を受けて、最終的には総辞職・・・(245頁)。
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日本近代史では学問的に「シーメンス事件」で定着しているのか、知りませんが、ドイツ語の Siemens はジーメンスとしか読めません。ヴァーグナーの Meistersinger はマイスタージンガーであって、マイスターシンガーと言ったら、シンガーソングライターの元締めのようです。

将棋のこと
http://www.asahi.com/articles/ASHBL5G7NHBLPTFC00G.html
http://www.shogi.or.jp/kisen/shourei/sandan/59/index.html
4冠全部の喪失もありうるほど羽生さんは不調です。藤井聡太(13歳)くんはプロ最年少の記録を塗り替えるのではないか、と注目を集めています。
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イェリネックの墓(その3)

2016-07-04 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 4日(月)11時06分56秒

>筆綾丸さん
>イェリネックの埋葬式
森英樹・篠原巌訳『イェリネク「少数者の権利』(日本評論社、1989)の「訳者解題」に、「イェリネックの葬儀(1911年1月15日)を知らせる大学の通知(1月13日付)」が載っていますね。(p265)
佐々木惣一もおそらくこの通知を見て参列したのでしょうが、式次第には特に墓石の存在を伺わせるものはありません。
また、この「訳者解題」には、「イェリネックの墓。妻カミラとともに眠る。反対側にはブルンチェリ、20mほど南にはヴェーバーの墓もある(Bergfriedhof)」とのキャプションが付いたイェリネクの墓の写真もありますが、1989年刊行の書籍に出ている写真ですから、当然のことながら、

------
Georg Jellinek
 1851-1911
Camilla Jellinek
 1860-1940
-------

との銘板だけが写っていて、

-----
Barbara Jellinek
 1917-1997
-----

の銘板は存在しません。
考えてみれば、Camilla が亡くなった1940年はナチス支配下の極めて過酷な時期であって、ユダヤ人がまともな葬儀を営めたとは思えません。
もしかすると、息子のハイデルベルク大学教授・Walter Jellinek(1885-1955)がイェリネック没後まもなく建てた最初の墓がナチス時代に荒らされてしまって、1955年のWalterの没後、敗戦後のドイツもようやく落ち着きを取り戻した時期にWalterの娘のBarbara が祖父母の墓石を立て直した、といった事情があるのかもしれないですね。
私の想像も、あるいは石川健治氏と同レベルの妄想に近づいているのかもしれませんが。


>オーストリアの憲法裁判所はイェリネックとケルゼンに負うところが大きいのですね。

その通りですね。
ご紹介のクリストフ・ベツェメク氏の講演記録「オーストリア憲法裁判所─その制度と手続」(戸波江二訳)を読んでみましたが、ちょっと変なミスがありますね。

------
 特別の憲法裁判所という考えは、イェリネクが国事裁判所を提唱した18世紀中葉にさかのぼる。イェリネクは、異なった立法者の権限争議のみでなく、法律の実体的合憲性に関する議会内での多数派と少数派の権限争議の問題についても決定を下す国事裁判所を構想した(5)。


とのことですが、「18世紀中葉」はいくら何でも早すぎるので、この注(5)を見ると、

Georg Jellinek, Ein Verfassungsgerichtshof für Österreich(1885)

となっていますから、「19世紀末葉」とすべきでしょうね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

豊饒の墓 2016/07/02(土) 21:23:25
小太郎さん
石川氏の非実証的な思い入れは薹が立った文学青年のようですが、氏の斬新奇抜な仮説によれば、佐々木惣一『立憲非立憲』はイェリネックの墓から生まれたことになるようですね。Schein(幻相)としてではなく Wirklichkeit(実相)として。
---------
この間、佐々木の法理論は、大転回を経験している。そのきっかけの最大の一つが、イェリネックの埋葬式であったに相違ない。(236頁)
この『立憲非立憲』のなかで最も有名なパッセージは、ハイデルベルクに瞑目するイェリネックの墓前に立ったあの日から続く、佐々木惣一の思索の結晶にほかならない。(244頁)
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・・・キャッチーなタイトルに加えて内容も非常に良く工夫された、論説「一票の投げ所」。(247頁)
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http://www.uta-net.com/movie/124230/
「キャッチーを科学する」という歌があるのですね。作詞家の意図に反して、意味は単純だと思いますが。

http://mainichi.jp/articles/20160702/k00/00m/030/111000c
http://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-045030085.pdf
石川氏の解説にもある憲法裁判所ですが、オーストリアの憲法裁判所はイェリネックとケルゼンに負うところが大きいのですね。
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憲法学界のルー大柴

2016-07-02 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月 2日(土)13時53分13秒

投稿に少し間が空いてしまいました。
今までの流れから行くと、そろそろこのあたりで「国家神道」についてそれなりに本格的に論じなければならないのですが、その方法についてちょっと迷っているところです。
従来の論争を紹介して若干の私見を加えるのが通常ルートでしょうが、この問題は純粋に学問的な地点から相当離れて、政治の泥沼に入り込んでしまっているので、正確さを維持しようとすればあまり愉快でない政治的議論を延々と紹介することになりかねません。
それは面白くないので、ちょっと工夫したいと思っています。

>筆綾丸さん
>お名前がやけに democratic
そうですね。
キラキラネームの対極にある平凡で庶民的な名前ですが、頭脳は庶民的ではなく、当時からかなり目立っていましたね。

>『三四郎』に出てきそうな問答
「解説」の留学中の写真を見るとずいぶん老成した雰囲気ですが、1878年生まれの佐々木がまだ三十代前半の頃の話ですね。
佐々木は五歳上の美濃部達吉と並び称されることの多い人ですが、この問答を見る限り、性格的には万事に剃刀の如く明晰な美濃部と正反対のようです。
仮に佐々木が朝永でなく美濃部にこうした相談をしたら、瞬時に罵倒されるか、あるいは氷のように冷ややかな軽蔑の視線に曝されたでしょうね。

>漫才や落語ならともかく
いつでもどこでも大げさな石川健治氏の言語感覚は、芸能界ではルー大柴に似ていますね。
『立憲非立憲』の宣伝文句に言うように、確かに異彩を放っています。

「ルー大柴オフィシャルブログ」

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

フリーメーソンとホモ・デモクラティクス 2016/06/30(木) 13:30:10
小太郎さん
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Kaspar_Bluntschli
http://www.r5r.de/
(英)He was a Freemason and was Master of Lodge Ruprecht zu den fünf Rosen.
(独)1864 wurde er Freimaurer und Mitglied der Loge Ruprecht zu den fünf Rosen in Heidelberg, wo er durch sein Wirken als Meister vom Stuhl die Loge prägte.
ブルンチュリはフリーメーソンの一員で、ハイデルベルクの Lodge Ruprecht zu den fünf Rosenに属していたとあるので、墓石に彫られたものは星ではなく fünf Rosen(五弁の薔薇?)を表しているのでしょうね。夫婦墓の二輪の薔薇からすると、夫人もまたフリーメーソンだったのですね。
(独)Von 1872 bis 1878 war er Grossmeister der Grossloge ≪Zur Sonne≫ in Bayreuth.
バイエルン支部「Zur Sonne」の支部長(1872-1878)も歴任したのだから、法学者である以上にバリバリのフリーメーソンであったのであり、ostentatoire(仏)なギリシャ神殿様式の破風よりもむしろ、石工がさりげなく彫った地味な fünf Rosen に言及すべきなんでしょうね。

ご同窓の中村民雄氏は、お名前がやけに democratic なんですね。
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トクヴィルが「諸条件の平等」という概念を通じて論じようとした、このような新しい想像力を持った人間を、以下、<民主的人間(ホモ・デモクラティクス)>と呼ぶことにしよう。(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』61頁)
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幸田露伴には驚きました。今時の学生さんは、倖田來未とか幸田真音とかは知っていても、露伴は知らないのではないでしょうか。 

横山大観 2016/07/01(金) 16:00:13
『立憲非立憲』の解説を読んでみました。
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・・・佐々木は朝永に、「どうも自分は、強いような又弱いような、俗なような又俗を離れたような、正しいような又正しくないような、きちんとしたような又だらしないような、いわば矛盾した人間でつまらぬ」、と打ち明けている。これに対して、朝永は、いつになく「真面目な顔つきで」間髪を入れずに、こう応えた。「ふん、それでいいのだ、矛盾でいいのだよ」。(233頁)
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この会話(1911~12頃)の数年前に、漱石『三四郎』が朝日新聞に連載されましたが、佐々木惣一を小川三四郎、朝永三十郎を佐々木与次郎に置き換えれば、『三四郎』に出てきそうな問答ですね。

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『大阪朝日新聞』は、一九一六年の元旦第一面を、ひとり佐々木のためだけに提供した。(224頁)
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次頁の第一面のコピーをみると、上半分に、大きな二匹の昇り竜(雌雄?)の絵の下に社説如きものと門松めいた植物の絵があり、下半分には、佐々木の論説を真ん中で断ち割った窓の中に、横山大観画伯の漫画のような富士山と朝日と雲の絵があり、さらに左端には横書きの英文らしきものもあるといった感じで、「ひとり佐々木のためだけに提供した」とはとても云えない構成になっています。

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・・・佐々木惣一もまた、元旦の紙面をハイジャックするに足る論説の構成に呻吟しながら・・・(228頁)
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石川氏は巫山戯ているわけではないのですが、漫才や落語ならともかく、hijack という言葉は terrorism や kamikaze と同じく、普通の人なら如上の文脈では使わないはずで、氏の言語感覚が理解できません。

1930年の名著『日本憲法要論』(初版、金刺芳流堂)ですが(242頁)、出版社は渓斎英泉の浮世絵の版元のような名称ですね。
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帝国の市民権とEUの市民権

2016-06-29 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月29日(水)10時49分34秒

『政治哲学的考察』の「第4章 政治哲学問題としての欧州統合」は11年前の論文(初出は中村民雄編『EU研究の新地平─前例なき政体への接近』、ミネルヴァ書房、2005)ですが、今回のイギリス離脱騒動を眺めながら読むと面白いですね。
少し引用してみます。(p221以下)

------
 このことと関連して、帝国的な市民権のあり方を考えてみたい。これまでの主権国家体制においては、バリバールの指摘するように、市民権は国民国家における国籍とほとんど同一視されてきた(Balibar 1998:46, 邦訳五九頁)。市民権を持つということは、いずれかの主権国家の国籍を有することと同義とされ、逆に国籍と切り離した形で市民権を論じる余地は少なかった。しかしながら、もし仮に帝国的な市民権というものがありうるとすれば、それは古代ローマの市民権のあり方が参考になるであろう。というのも、古代ローマは古代ギリシアのポリスと異なり、市民としての地位と権利を、被征服地域の市民にも開放していたからである。ローマの拡大の原動力は、次々に併合した地域の市民をローマの市民に加えるという、開放的な市民権のあり方に見出せる。巨大化するローマの市民権とは、ローマの公的な意思決定に参加することというよりは、むしろローマの支配下に、一定の民事的諸権利を享受することに主眼があった。それゆえに、ローマの市民権は無限に拡大していくことが可能だったのである。
 このような帝国の市民権をEU市民権と比較してみると興味深い。既に指摘したように、EUの拡大は、民主的な世論を形成し、それによって権力をコントロールする市民の力を低下させるかもしれないが、個人としての権利については、むしろその可能性を広げるものである。その意味でEU市民権は、公的意思決定への参加という側面より、一定の諸権利の享受という側面に主眼のある、古代ローマの市民権と似ているといえなくもない。しかしながら、EUの市民権が、あくまで加盟国の国籍に依拠したものであり続ける以上、近代国民国家の論理の延長線上にあり、無限に拡大していくものではないという点においては、はっきりと帝国の市民権とは異なっている。
------

日本のマスコミ報道を見ると、経済的に不利になることは明らかなのにイギリス国民は愚かな決定をしたものだ、と嘆く論調が圧倒的ですが、「EU市民権」により一般論としては「一定の民事的諸権利」を享受できるとしても、それが自己の現実の経済的利益に結びつくかはかなり個人差があり、社会階層の違いがくっきりと出ますね。
これに対し、「公的意思決定への参加という側面」が劣化したことは明らかであって、いくら経済的利益が減少しようと、この点はやはり譲れないと考える人々を単純に愚かと嘲笑することはできないように思います。
今年に入ってから、私はEUに全く否定的なエマニュエル・トッドの著作をまとめて読んでいたこともあり、今回のイギリスの国民投票について特に反感は抱かず、まあ、そういう選択肢もあるよね、と思っているのですが、これは単に私が国際経済への洞察力がないだけなのかもしれません。

ちなみに私は『EU研究の新地平─前例なき政体への接近』の編者、中村民雄氏(早稲田大学大学院法学研究科教授)と大学の語学クラスが一緒なのですが、検索して最初に出てきた早稲田大学「法学部教員紹介」の胡麻塩頭の写真を見て、あれ、あの人はこんな顔だったかな、同姓同名かな、と思いました。
ただ、「早稲田大学グローバルCOEプログラム<<企業法制と法創造>>総合研究所」サイトの写真は若かりし頃の面影を宿していますね。
ま、どうでもいいことですが。


>筆綾丸さん
>J・C・ブルンチェリの「ドイツ市民の墓にありがちなギリシャ神殿を意識した派手な墓」

私もどんな墓なのか興味津々でした。
ご紹介ありがとうございます。
ブルンチェリについて、私は国家有機体説の人、程度の知識しかないのですが、ウィキペディアを見る限り、ユダヤ系ではないようですね。

Johann Kaspar Bluntschli(1808-81)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
ベルク墓地D区画 2016/06/28(火) 14:56:45
小太郎さん
https://de.wikipedia.org/wiki/Bergfriedhof_(Heidelberg)
https://de.wikipedia.org/wiki/Johann_Caspar_Bluntschli#/media/File:Joh_kasp_bluntschli.JPG
イェリネックの墓は墓地の北の一画(区画D)にあるのですね。同じ区画にあるJ・C・ブルンチェリの「ドイツ市民の墓にありがちなギリシャ神殿を意識した派手な墓」ですが、下部の星型は、ギリシャ神殿風のペディメント(破風)と矛盾するものの、ユダヤの六芒星(ヘキサグラム)でしょうか。丸窓が烏賊の目玉のようです。

http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2013/11/post_374.html
ベルリン在住の六草いちか氏の『鴎外の恋』『それからのエリス』(講談社)の後者に、エリーゼの夫の墓の写真が掲載されています(273頁)。蛇足ながら、ふたつとも名著です。
------------
ヴァイセンゼー区ユダヤ人墓地に眠るマックスの墓石は意外や立派なものだった。エリーゼの見立てだろうか、切株に石板を立てかけたようなデザインは繊細な美しさ。
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https://en.wikipedia.org/wiki/Wei%C3%9Fensee_Cemetery
墓石には、「一八六四年十月十一日生まれ 一九一八年十二月三十一日没」とあります(274頁)。イェリネックの墓と共通するのは、まるで樹木葬のように、墓地内にやたらと草木が生い茂っていることで、これがドイツ風なのかもしれません。
「べルリナー・ターゲプラット」紙(1919年1月1日付)にマックスの死亡広告が載り、鴎外は帰国後もこの新聞を読んでいた(339頁)というのは、『舞姫』の後日談としていいですね。眼前に若き日のエリーゼがいるかのように。
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イェリネックの墓(その2)

2016-06-28 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月28日(火)10時55分43秒

イェリネックの墓なんかどーでもいーだろ、人様の細かいミスを見つけて喜んでるんじゃねーよ、みたいな声が天上から聞こえてきた(ような気がする)ので、ちょっと弁解しておくと、イェリネックはもちろんユダヤ人ですが、亡くなる前年(1910年)にユダヤ教からプロテスタントに改宗しているんですね。
年齢は相当離れていますが、ハンス・ケルゼンも1905年にカトリックに改宗しており、ケルゼンの友人だったオット・ヴァイニンガーは1902年にプロテスタントに改宗し、その翌年自殺しています。
イェリネックの改宗も、あるいは「ユダヤの自己嫌悪」と関係しているのかな、と思っていたので、石川氏の「大きな一枚岩に名前だけが刻まれた瀟洒な墓石」というユダヤ色もプロテスタント色も感じさせない表現が気になり、若干の検討を試みた訳です。

ユダヤ教とケルゼン
オット・ヴァイニンガー(1880-1903)
オットー・ヴァイニンガー、再び

>筆綾丸さん
>柄谷行人氏の『マルクス その可能性の中心』
宇野氏は柄谷行人がけっこう好きなようで、『政治哲学的考察』にもチラッと登場しますね。

>キラーカーンさん
>自民党の「憲法改正草案」
私は単に古くさい感じがして、あまり真面目に検討する気にもなれません。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

Malesherbes 或いは「悪の草」 2016/06/27(月) 12:22:16(筆綾丸さん)
小太郎さん
----------
ちなみにトクヴィルの母方の曾祖父は、革命前には啓蒙思想家の庇護者として知られ、革命後には逆にルイ十六世の弁護人をつとめて処刑された司法官マルゼルブである。(『トクヴィル 平等と不平等の理論家』23頁)
----------
パリ8区~17区にマルゼルブ大通り(Boulevard Malesherbes)があり、17区にはこれと数百メートル隔てて平行するトクヴィル通り(Rue de Tocqueville)があり、道幅と長さからすると、フランス本国では曾祖父の方が大事に扱われているようです。
ウィキによれば、
Le boulevard Malesherbes fut inauguré par Napoléon III en 1863.
・・・la rue reçoit son nom actuel en 1877 en souvenir de l'historien Alexis de Tocqueville.
前者はナポレオン三世の第二帝政期の命名、後者は第三共和政期の命名という本質的な相違があるものの、メトロ3号線にはマルゼルブ駅もあって、トクヴィルの曾祖父の扱いは別格です。ちなみに Malesherbes を Males+herbes と分解すれば、「悪の芽」ならぬ「悪の草」の意となり、ボードレールの「悪の華」の生みの親のような感じになります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%84%E8%B0%B7%E8%A1%8C%E4%BA%BA
「トクヴィルの<可能性の中心>」(11頁、76頁)という表現は、柄谷行人氏の『マルクス その可能性の中心』のパクリなんでしょうね。若い頃、読みましたが、内容は忘れました。氏は歳のせいか、『憲法の無意識』(岩波新書)などというつまらぬ本を最近出しました。
レイモン・アロン(Raymond Aron)の ray は rai と同じで、フランス人である以上、レイモンではなくレモンです(16頁)。メースは Metz というドイツ語風の綴りですが、発音はメス(メッス)です(28頁)。冒頭に、フランス人だからトックヴィルよりトクヴィルの方がいいだろう(6頁)、とあるので、付け足しておきます。

トクヴィルのいう平等化社会における「多数の圧政」(85頁)という考えと、ハイエクのいうイソノミアから法の支配へという考え(『保守主義とは何か』93頁)とは、両者には時間の隔たりがあるとはいえ、ベクトルがまるで逆なので面白いと思いました。

キラーカーンさん
伊藤之雄氏の著作は、『山県有朋』『元老西園寺公望』(共に文春新書)を読んだことがありますが、緻密な文体の研究者ですね。

立憲主義等々 2016/06/27(月) 22:59:58(キラーカーンさん)
>>「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」

近代立憲主義とキリスト教徒の関係については、小室直樹が
『日本人のための憲法原論』
『痛快!憲法学』
『日本国憲法の問題点』
で触れられています。

その中で、冒頭の伊藤の言葉にも触れられています。
ここから、小室流の「天皇学。天皇教」へと話が発展していきます。

ここで、少し脱線しますが、自民党の「憲法改正草案」が「立憲主義」を理解していない
と不評のようですが、「わが国の憲法」を打ちたてようとすれば、キリスト教を基盤に
した「立憲主義」とは別の「日本的立憲主義」を打ち立てなければならないはずなので、
「(欧米流)立憲主義」を踏まえていないとの批判は「当たり前」です。

この文脈で、片山さつきが言ったとされる「天賦人権思想をとらない」という言葉も
「キリスト教的考え方によらない」と言う意味では、当たり前だと思います
(片山女史の真意が奈辺にあるかはわかりませんが)

わが国で民法を施行の際に「民法守って忠孝滅ぶ」と言われたことも想起すべきです

したがって、「立憲主義」を語るためには、大日本帝国憲法制定時に「憲法伯」
伊藤博文が払った知的営為について、正当な尊敬を払わなければならないはずです。

「国家神道」とは、非西欧社会であるわが国が西欧列強濁していくために必要な
「ギミック」だったのでしょう。

「8月革命説」が戦後憲法学にとって必要だったように

>>『山県有朋』『元老西園寺公望』
今回の『元老』は伊藤氏がこれまで行ってきた個別の政治家研究を総合したような
もののようです
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イェリネックの墓

2016-06-27 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月27日(月)10時08分6秒

『立憲非立憲』の「解説」によれば、佐々木惣一はゲオルグ・イェリネックの埋葬に立ち会ったそうですね。(p231以下)

-------
〔1911年〕一月五日に脳溢血で父を亡くしたばかりの佐々木は、日記によれば、毎晩夢にうなされ不眠に悩み、信仰や神について知己に問いかけては、考え込んでいたようである。そうしたなか、一月一三日の金曜日、「午後に朝永君を訪う途上」、ロシア人学生からイェリネック急死(脳卒中)の一報を得て「何となく感深く」、昼食時にその日の新聞で死亡記事を読んだ。【中略】
 翌一四日は、朝永との昼食後、イェリネックの写真を購入し、翌々一五日は、「日本人一同撮影すとの案内により」一一時に行き、やはり朝永と昼食した後、「午後イェリネック教授の埋葬式に列す、色々思う。……悲しき思あり」(洋行日記、一九一一年一月一四日、一五日)。
------

念のためと思ってウィキペディアを見ると、亡くなったのは12日とありますね。


そして、三日後の1月15日に埋葬式があった訳ですね。
さて、石川氏は上記引用部分の少し後で、

------
イェリネックの影
 佐々木惣一は、イェリネックが埋葬される場面を、目撃している。真向かいが、これまた近代日本の政治思想史に抜き難い影響を残した、『国法汎論』のJ・C・ブルンチェリの墓であることにも気がついただろう。ドイツ市民の墓にありがちなギリシャ神殿を意識した派手な墓である。それに比して、大きな一枚岩に名前だけが刻まれた瀟洒な墓石のもとに、ついこの間まで自分の前で欠伸していた、世界の憲法学の泰斗が埋葬されてゆく。父の死と重なったこともあり、佐々木に強い印象を残したのは間違いない。イェリネックの晩年様式を代表する「憲法変遷論」に、佐々木が本気で取り組むに至る決定的な契機は、おそらくこの体験であったろう。
------

と推測されています。(p235)
しかし、佐々木が「大きな一枚岩に名前だけが刻まれた瀟洒な墓石」を見た、というのはちょっと変な話ですね。
イェリネックは死の直前まで大学で講義をしていて、12日の死去の三日後に埋葬された訳ですから、本当にそのような墓石があったとすれば、その手配があまりに手際良すぎます。
同じページにある石川氏が撮影したらしい墓石の文字は判読不能ですが、ウィキペディアに載っている写真を見ると、この墓石には二つの金属製のプレートが嵌め込まれていて、上の方に、

Georg Jellinek
1851-1911
Camilla Jellinek
1860-1940

下の方に、

Barbara Jellinek
1917-1997

とあります。


Barbara Jellinek は二人の息子で、行政法学者であった Walter Jellinek の娘のようですね。

Walter Jellinek(1885-1955)

私もドイツの墓事情など全く知りませんが、自然石の一枚岩の墓というのは意外にモダンな感じがしますし、祖父母と孫娘という組み合わせも少し珍しい感じがするので、あるいはこれは孫娘が祖父母の墓を建て、孫娘が亡くなった後、その遺族が孫娘の名前を刻んだプレートを追加したのではないですかね。
ま、詳しい事情は分かりませんが、埋葬式の時点では「大きな一枚岩に名前だけが刻まれた瀟洒な墓石」は存在せず、佐々木もそれを見ていないと考えるべきでしょうね。

>筆綾丸さん
>「責任ある日本国民に告ぐ」
講談社も社名を百年前の「大日本雄辯會講談社」に戻した方が良さそうですね。

>キラーカーンさん
>「古きよき時代」
樋口陽一氏を中心とする「立憲主義」を声高に叫ぶ憲法学者のグループの中でも、石川氏の懐古趣味は突出していますね。
『立憲非立憲』のオビにあるように、確かに石川氏は「異彩を放つ憲法学者」ですが、憲法学界のリーダーたる資質には若干の疑問を感じます。

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの以下の投稿へのレスです。

アジのたたき(by cookpad) 2016/06/26(日) 13:04:28(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://cookpad.com/
ご紹介の文庫の帯文にある、「責任ある日本国民に告ぐ」や「渾身の書き下ろし解説」という表現は、アジ(agitator)のたたきのような塩梅ですね(塩は赤穂の塩)。どちらかというと、私はアジのひらきのほうが好きです。

「弟子の大石義雄(1903-91年)」が「家老の大石良雄(1659-1703)」を踏まえた命名だとすれば、「佐々木惣一(1878-1965年)」は主君の浅野長矩(1667-1701年)になるのかもしれません。江戸城本丸松の廊下(現皇居東御苑内)に於ける、上野介の訓戒は下の如くで、激昂した内匠頭が刃傷沙汰に及び、後日、昼行燈を佯りつつ、内蔵助が遺恨を果たすとは、お見事(江戸地誌『続江戸雀』より)。
「政治は固より憲法に違反してはならぬ。而も憲法に違反しないのみを以て直に立憲だとは云えない。違憲では無いけれども而も非立憲だとすべき場合がある。立憲的政治家たらんとする者は、実に此の点を注意せねばならぬ」
注)いまひとつ論旨がすっきりしないのは、古文書の誤読かもしれない。

-----------
バークは後年、ヨーロッパ全体の秩序について、英国の主導権を前提としつつも、独立諸国家間の水平的な関係を主張する「ヨーロッパ・コモンウェルス」論を展開している。あくまで多様な国家の間の調和を重視する点に、バークの秩序観の根本を見てとることができるだろう。その前提には、自由の精神という共通文化があったのである。(『保守主義とは何か』47頁)
-----------
宇野氏は、EUの萌芽を遠くバークの「ヨーロッパ・コモンウェルス」論に求めているような感じがしました。ドイツ主導のEUに保守主義者バークは反対したでしょうが。

追記
ネオコンを遡るとトロツキストに行きつく(140頁)、とは知りませんでした。奇妙な出自なんですね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160623-00000000-jij_afp-int
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0
NHKBSワールドニュースの回し者のようで気が引けるのですが、オーストラリアABCが「スーフィー音楽家」の暗殺を報じていて、スーフィズムの生命力には驚きました。

郷愁としての憲法 2016/06/26(日) 22:12:41(キラーカーンさん)
>>「憲法考古学」
石川氏にとっては、日本国憲法制定後の国内外情勢で「憲法が汚された」と感じており、
憲法制定前や「大正デモクラシー」時代の「古きよき時代」への

「復古」なくして「憲法再生」なし

と言う心境かもしれません。

>>最新刊、『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)
個人的には、同じ中公文庫の最新刊である『元老』伊藤之雄に興味があります。
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「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」(by 伊藤博文)

2016-06-27 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月27日(月)08時41分44秒

エドモンド・バークを基準にしたら、日本に保守主義者はいませんでした、で話は終わりそうですが、宇野氏は「しかしながら、だからといって近代日本にはまったく保守主義は存在しなかったといえるだろうか」(p171)との問題意識のもと、「憲法起草者である伊藤が、自らのつくり出した明治憲法体制の「保守」に最大の関心と情熱をもった人物であったとしてもおかしくない」として、伊藤博文に言及します。
宇野氏の伊藤博文像は瀧井一博氏の研究に依拠しているようですが、

------
 伊藤はこの木戸のすすめでローマの故地を訪れる。ローマの古(いにしえ)の歴史を振り返りつつ、日本の課題が文明国としての制度的枠組みを整備することにあると認識したとき、伊藤はそれが時間を要するものであることを実感したという。瀧井によれば、この瞬間こそ、急進的な改革官僚であった伊藤が、漸進的な改革政治家に変わった瞬間であった。
------

のだそうで(p173)、なかなかドラマチックですね。
さて、上記に続けて、宇野氏は次のように述べます。

-------
保守主義の担い手
 しかしながら、伊藤にとって困難もまた明らかであった。欧州諸国において憲法政治には歴史があり、今日多くの国々で自明の原理とされている。これに対し、「憲法政治は東洋諸国に於て曽て歴史に徴証すべきものなき所にして、之を我日本に施行するは事全新創たるを免れず」(枢密院での講演、『伊藤博文演説集』)。
 日本を含む東洋の国々にとって、憲法政治はまったく新たな試みであった。そのような試みをゼロから打ち立てることの難しさを、伊藤は強く認識していた。
 さらに伊藤は、そもそも憲法政治にはその国の精神的な「基軸」となるものが必要だが、はたして日本にそのような「基軸」があるかを問題にする。「抑欧州に於ては憲法政治の萌芽せる事千余年独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が基軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一せり。然るに我国に在ては、宗教なる者其力微弱にして一も国家の基軸たるべきものなし」(同前)。かつて隆盛した仏教も今日では衰退に向い、神道もまた人々の人心をよく掌握できていない。結論として伊藤は「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」と結論づけるが、その皇室はあくまで伊藤のデザインした明治憲法体制のなかに位置づけられるべきものであった。
-------

私の当面の関心は宗教にあるので、宇野氏の問題意識とは別に、この部分にちょっと注目したのですが、私自身は江戸時代中期には日本の世俗化はほぼ達成されていると考えているので、まあ、伊藤が仏教も神道も「微弱にして一も国家の基軸たるべきものなし」と認識していたことは当然だと思います。
ごく少数の例外を除き、伊藤のみならず、明治維新の動乱を生き残って「明治憲法体制」を作り上げた国家指導者の大半の宗教認識はこのような醒めたものですね。
では、津地鎮祭訴訟や愛媛玉串料訴訟の大法廷判決で、現代日本の最高の知的水準にあると思われる人々がほぼ一致して認識している強大な「国家神道」とは何だったのか。
明治憲法制定前は「微弱」だった神道が、国家、あるいは伊藤が「我国に在て基軸とすべきは一人皇室あるのみ」と評価する皇室と結びついた結果、たちまちにして化け物のように強大な存在に転じたのであろうか、といった疑問も生じるのですが、これはまた後で検討します。

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宇野重規『保守主義とは何か』

2016-06-24 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月24日(金)09時55分4秒

宇野重規氏の最新刊、『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)を読んでみましたが、前半の

------
序章 変質する保守主義─進歩主義の衰退のなかで
第1章 フランス革命と闘う
 Ⅰ エドマンド・バークの生涯
 Ⅱ 英国統治システムへの自負─帝国の再編と政党政治
 Ⅲ 『フランス革命の省察』
第2章 社会主義と闘う
 Ⅰ T・S・エリオット─「伝統」の再発見
 Ⅱ ハイエク─知の有限性と懐疑
 Ⅲ オークショット─「人類の会話」というヴィジョン
------

までは面白かったですね。
よく整理された丁寧な分析がなされていて、宇野氏は本当に頭の良い人だなと思いました。
ただ、

-------
第3章 「大きな政府」と闘う
 Ⅰ アメリカ「保守革命」の胎動
 Ⅱ リバタニアリズム─フリードマンとノージック
 Ⅲ ネオコンの革命─保守優位の到来
-------

に入ると、宇野氏の頭脳ではなく、対象のアメリカの「保守主義」自体が相当に混乱したものなので、一応の整理としては参考になる、程度の印象でした。
そして、

-------
第4章 日本の保守主義
 Ⅰ 丸山眞男と福田恆存
 Ⅱ 近代日本の本流とは
 Ⅲ 現代日本の保守主義とは
-------

は、「バークの定義に立ち戻るならば、近代、そして現代に至るまで、日本に本当に保守主義が存在したのかは疑問が残る」(p189)という、まあ、バークを基準にしたらそうなるでしょうね、という感じのミもフタもない結論に終わっていて、あまり面白くありませんでした。
マイケル・オークショット(1901-90)は全く読んだことがなかったので、これを機会に少し読んでみたいですね。

>筆綾丸さん
>宇野重規氏は童顔なんですね。

ご本人はツイッターアカウントのアイコンに石川啄木を使っていますが、確かにちょっと似ていますね。
また、ムンクの「叫び」にも似ている感じがします。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

神の属性 2016/06/23(木) 13:32:48
小太郎さん
トクヴィル『平等と不平等の理論家』を眺めていますが、どうでもいいことながら、宇野重規氏は童顔なんですね。
communist は communion(聖体拝領)と語源は同じですから、中国共産党も日本共産党も宿命的なまでに神と親和的(或いは近親憎悪的)なんでしょうね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%A8%BC%E4%BA%BA
ワールドニュースでドイツのARDを見ていると、VWの株主総会の雛壇にNOTARの席がありましたが、これはいわゆる公証人ではなく、日本の会社法でいう検査役のことなんでしょうね。ウィキにはサウジアラビアの例があって、これはスンニ派諸国に流布しているものなのか、サウド家のアラビアに限られる例外なのか、知りたいところです。

ザゲィムプレィアさん
ブラックホールの内部観測の不可能性はある意味で神に似ていて、「質量、スピン、電荷」という物理量は「不変、偏在、永遠」という神の属性(attribute)と相似かもしれないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%A9
すでにヒズボラ(神の党)という組織があるので、中国共産党の党名変更は権利侵害になるかもしれませんね。もっとも、権利侵害は中国共産党の得意技のひとつですが。南シナ海が古来より中国固有の領海であるのと同じく、アッラーより神のほうがずっと古い、と。
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「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」(by ヴォルテール)

2016-06-22 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月22日(水)10時41分33秒

昨日の投稿で、宇野重規氏の『民主主義のつくり方』(筑摩選書, 2013年)についてちょっとイヤミっぽい言い方をしてしまいましたが、これは私が妙に大きな期待を持って読み始めたからで、普通の読者はたぶん良い本だと評価するものと思います。
宇野氏は平明な言葉で深い内容を語ることのできる人で、例えば『共和国か宗教か、それとも』の冒頭では、次のようにフランスの十九世紀をまとめていますね。(p7以下)

-------
序章 「宗教的なもの」再考─シャルリ事件を超えて

前著からのコンセプト
 本書は、二〇一一年に刊行した前著『社会統合と宗教的なもの─十九世紀フランスの経験』の続編である。前著では論じられなかった思想家や文学者をとりあげ、新たなメッセージを発することを目的としているが、基本的なコンセプトにおいて変更があるわけではない。
 前著の序章で、私たちは次のように述べている。「フランス革命に続く一世紀は、宗教をはげしく批判することで逆説的に宗教がはたしてきた役割を問い直し、その機能を新たに作り直そうとした時代である。と同時に、一度は断ち切った人々のつながりを、新たに作り直すことを自覚的な課題とした時代でもあった。このようなフランスの経験は、人々をこれまで結びつけてきた紐帯が解体するなか、新たな社会統合の原理を見いだせないでいる日本社会にとっても示唆するところが大きいだろう」(前著、一六頁)。
 フランス革命はカトリック教会を大きな標的とする革命であった。結果として、革命によって生まれたフランス共和国は、教育や社会的相互扶助など、かつてであればカトリック教会がはたしてきた役割を、自ら担うようになる。さらには世俗性や脱宗教性を意味する「ライシテ」の原則を国是としたように、世俗的共和国であることを自らのアイデンティティとした。その限りにおいて、宗教を公的空間から徹底的に排除することが十九世紀フランスの歴史的課題であったといえる。
 ところが、その思想や学問をつぶさに見ると、印象は一転する。もっとも鮮やかであるのは、社会学者・哲学者のオーギュスト・コントであろう。神学や形而上学の時代から、実証的な科学の時代へ。人類の歴史における不可逆の変化を大胆にも強調したコントは、やがて自ら「人類教」なる宗教を唱えることになる。このコントの例に見られるように、宗教を排除したフランス社会は、実はそれに代わる精神的な基礎を一世紀にわたり模索し続けたのである。それはあたかも、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と語ったヴォルテールの言葉を忠実になぞるかのようであった。【後略】
-------

昔、清水幾太郎について調べていたときにオーギュスト・コントも少し読んだことがあるのですが、その時は「人類教」とか何言ってるんだろ、頭がおかしいのかな、程度の感想しか抱けなかったのですが、大きな時代の変化の中で位置づけるとコントも面白い人ではありますね。
ま、さすがに現代日本においてコント的「人類教」の布教は無理とは思いますが。

今日、宇野氏の『保守主義とは何か─反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)が書店に並ぶようなので、さっそく読んでみるつもりです。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2016/06/102378.html
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共産党と「神」

2016-06-22 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月22日(水)10時01分50秒

>筆綾丸さん
>中国共産党はほんとに「神」が好きなんですね。

政教分離に関する判例を読んでいると、日本共産党もホントに「神」が好きだなあ、という妙な感想を抱きます。
共産党を名乗る以上、当然に無神論者のはずですから、神社など愚民が愚神を礼賛しているだけ、「前衛」である我々には無関係と笑って完全無視するか、あるいは靖国・護国神社のような「天皇制」と特に関係の深い神社に絞って攻撃するといった選択肢もあったはずですが、日本共産党はそんな妥協はしません。
一番最初の津地鎮祭訴訟の場合、原告の共産党の市会議員は当初、共産党の弁護士さんが集まった自由法曹団の協力を得られず、独力で訴訟を追行していたそうですが、もしかすると当時の自由法曹団には、田舎神社の地鎮祭などどうでもよい、みたいな雰囲気があったのかもしれません。
しかし、その後、自由法曹団は北海道砂川市の空知太(そらちぶと)神社のような、僻地のどーでもいいような神社にも熱心に攻撃をかけて違憲の大法廷判決を勝ち取りましたね。

砂川政教分離訴訟

また、靖国神社の場合、内閣総理大臣の公式参拝に反対する夥しい数の訴訟が提起されましたが、その種の裁判闘争において示された、靖国神社の復活を絶対に許してはならぬ、「結界」に閉じ込めておかねばならぬのだ、という共産党関係者の決意の強さは、なんだかその祭神の無限の力を信仰しているような感じもしてきます。
一瞬たりとも油断したら、あの偉大なお方が復活するぞよ、みたいな感じですね。

>キラーカーンさん
>西川伸一著『裁判官幹部人事の研究「経歴的資源」を手がかりとして』

内閣法制局がそれほど注目されていない頃に、『知られざる官庁・内閣法制局』(五月書房、2000)を出した人ですね。

西川伸一Online

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

神と薔薇とガルガンチュア 2016/06/21(火) 16:35:40(筆綾丸さん)
小太郎さん
ご引用の文章に、「・・・裁判所切っての酒豪でも知られた人であった。酒席の後は、必ず後輩が二、三人でご自宅まで抱えてお届けしたという伝説が残っている」とありますが、酒豪というのはどんなに酒を飲んでも乱れない人というイメージがあるため、これではたんに酒癖が悪いだけではないかと思い(私は酒癖の悪い奴が嫌いなので)、つい意地悪な文を書いてしまいました。

ザゲィムプレィアさん
ありがとうございます。
-----------
スピンの新しい測定方法を、銀河系の中心にある巨大ブラックホールであるSgr A*の光度変動の測定結果に適用したところ、a*=0.44±0.08と、多くの研究者の予想に反するかなり小さな値が得られました。これは自転速度に換算すると光速の22%に相当します。(JAXA)
-----------
We measure between zero (not spinning) and one (maximally spinning).において、なぜ最大値が1なのかと思いましたが、これは光速という上限を意味すると考えればいいのですね。また、One of the black holes was spinning with the dimensionless number of 0.2.において、One of the black holes とは、14太陽質量の方なのか、8太陽質量の方なのか、光速に換算すると何%くらいになるのか、不明ですが、BBCの科学特派員ジョナサン・アモスも、そんな細かいことは書いても仕方ない、とやめたのでしょうね。

「これらのブラックホールの性質は、質量、スピン、電荷という3つの物理量だけで完全に決まります」(JAXA)ともありますが、なんだか凄いことですね。BBCの記事には、・・・gargantuan black holes - ones that are many millions, even billions, of times the mass of our Sun.と、太陽質量の数十億倍のブランクホールの検出可能性への言及もありますが、こんなガルガンチュア級ブラックホールでもわずか三個の物理量だけで完全に決まるというのは、信じられないような話ですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%96%87%E6%88%A6%E4%BA%89
今日のNHKのBSワールドニュースでBBCの放送を見ていると、英国議会において殺害された女性議員の追悼演説があり、保守党議員は白薔薇を、労働党議員は赤薔薇を、それぞれ左胸の上に一輪ずつさしていましたが、中世の薔薇戦争を踏まえたものなのか、わからぬながらも、興味深い風景でした。

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1006258.html
中国のCCTVは純中国産スパコンが世界一になったことを伝えていましたが、名前は太湖之光「神威」です。有人飛行船「神舟」といい、中国共産党はほんとに「神」が好きなんですね。いっそのこと、「神党」に党名変更すればいいのに。

追記
http://www.rfi.fr/europe/20160620-royaume-uni-jo-cox-hommage-david-cameron-chambre-commune-jeremy-corbyn
rfi の写真は Jo Cox の下院の席に捧げられた紅白のバラで、les députés portaient en signe de deuil une rose blanche à la boutonnière(下院議員は追悼の徴として白バラを襟のボタン穴にさした)とあるのですが、BBC の説明と違うようです。保守党と労働党のバラの花はあきらかに別様式でした。BBC は、たしか、the white rose for Yorkshire, and the red for Labour と言ってました。なぜ Yorkshire が保守党を意味するのか、わからなかったのですが。

(無題) 2016/06/21(火) 22:16:04(キラーカーンさん)
ザゲィムプレィアさん
>>無次元数
ありがとうございます

>>裁判官の人事
西川伸一著『裁判官幹部人事の研究「経歴的資源」を手がかりとして』
があります。
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宇野重規『民主主義のつくり方』

2016-06-21 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月21日(火)09時58分48秒

ライシテの勉強で宇野重規・伊達聖伸・高山裕二編著『共和国か宗教か、それとも 十九世紀フランスの光と闇』(白水社、2015)を読み、宇野重規氏はなかなか面白いなと思って『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社メチエ、2007)を読んだら、これも良い本だったので、更に『民主主義のつくり方』(筑摩選書, 2013年)を読んでみたのですが、この本は若干微妙ですね。
前半のプラグマティズムの見直し云々はスラスラ読めたものの、後半、日本各地に散在する新しい民主主義の芽を探す、みたいな話になった途端、なんだかビジネスノウハウ本のような雰囲気も漂ってきました。
まあ、登場するのはそれなりに頑張っている人たちなのでしょうが、前半の理論的な部分と後半の実践的(?)な部分のつながりがチグハグで、釈然としませんでした。

『共和国か宗教か、それとも』
『民主主義のつくり方』

>筆綾丸さん
私も裁判官の人事のことなど全く知らないのですが、最高裁判所調査官が唯一の出世コースということではないはずですね。
ウィキペディア情報ですが、仁分百合人は最終的に高等裁判所長官になったそうなので、まあ、栄達を極めたと言って良い人ではないでしょうか。
ちなみに仁分百合人は関根小郷(最高裁判事、1905-93)の後任として民事局長兼行政局長となり、その後任が中村治朗(最高裁判事、1914-93)とのことなので、1910年あたりの生まれではないかと思いますが、そうだとすると可部恒雄(1927-2011)とは17歳ほど年が離れていますね。

最高裁判所事務総局

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

als ob ふたたび 2016/06/19(日) 14:03:02
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E4%BD%93%E6%A4%9C%E6%A1%88%E6%9B%B8
実物の死体検案書を、なぜか、数回見たことがあります。
死亡場所の記載は必須ですが、「死亡した施設の名称」として、「最高裁判所首席調査官室内」(東京都千代田区隼町4番2号地先)とは最高裁の威厳にかけて書けず、鴎外の als ob ではありませんが、仁分百合人はまだ生きている「かのように」鄭重に扱われ、救急車で移送された最寄りの病院の医師により正式に死亡が確認され、この場合は、死体検案書ではなく死亡証明書が発行され、死体検案書の文字は二重線で消されます。死亡場所は、たとえば東京大学附属病院内のような、死に場所としてごく尋常な名称が記されたのでしょうね。
あのアル中はそれほどまでに首席調査官になりたかったのだよ、あさましいもんだね、とノンキャリアの事務官たちの間で、しばらく酒席における話題の首席になったが、やがて話頭にのぼらなくなった。首席調査官室で死ねなかったことは、死んでも死にきれぬという凄絶な怨念を建物に残したらしく、霊感の強い女性職員などは、ときどき大法廷に彷徨う妙な気配を感じると訴えたが、厳粛な理性の場においては、少数の珍妙な反対意見のように軽く無視されてしまった。
「可部さんのような後輩の温かい手に抱えられて」という文章は、おそらく、役人の淡々とした事務処理を暗示しているように思われ、それは(法)医学的にも正しかったのでしょうね。可部氏の首席調査官時代を考えると、これは1984年2月20日から1987年5月28日までの、或る日の出来事ということになりますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B4%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%A8
三島の『宴のあと』では、艶福家の環久友(元ドイツ大使)は、「雪後庵」の厠で脳溢血を起こして倒れるのですが、夫人の強い要望により、「自宅」で倒れて死亡したものとして処理されます。蛇足ながら、厠という表現には官僚への冷笑があり、さらに言えば、雪後庵という名称は雪隠に通じ、保守党御用達の高級料亭など雪隠の如きもので、つまり、日本の政治は便所の中でなされる、という三島一流の言葉遊びなんでしょうね、おそらく。

キラーカーンさん
ベルリンの壁崩壊の数年後、ブランデンブルク門の下を歩いたことがありますが、ちょうど落日時で、ヴァーグナーのゲッターデメルング(神々の黄昏)のようだな、と思いました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%B3%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%BC%A6%E7%90%86%E8%AB%96
量子力学のスピンに関係すると思われるのですが、わかりません。超弦理論でいう9(+1)次元は、わからぬながらも、まだ自然な感じがしますが、非整数次元などは想像すらできません。宇宙にしてみれば、人間如きに理解されてたまるか、といったところですが。
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最高裁判所首席調査官室に死す。

2016-06-19 | ライシテと「国家神道」
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 6月19日(日)09時52分12秒

泉徳治氏の「可部恒雄さんの思い出」には一箇所だけ妙なことが書いてありますね。
「三 首席調査官時代のあれこれ」の冒頭です。(p5以下)

------
 裁判に関して先に述べたことは別として、可部さんの首席調査官時代で私が一番驚いた出来事は、仁分百合人氏の来訪であった。仁分氏は、可部さんが司法研修所付時代に司法研修所教官、可部さんが行政局付時代に民事局長兼行政局長を務められた人であるが、裁判所切っての酒豪でも知られた人であった。酒席の後は、必ず後輩が二、三人でご自宅まで抱えてお届けしたという伝説が残っている。可部さんが四階にある行政調査官室で我々と雑談をしていた時、三階の首席調査官室の事務官が可部さんを迎えに来た。仁分さんが可部さんを訪ねて来られて、首席調査官室のソファーに座られた途端に息を引き取られたというのである。可部さんは、「そうか」といって、静かに三階に降りていかれた。仁分さんも、可部さんのような後輩の温かい手に抱えられて、ある意味、仕合わせだったのではないかと思うのである。
------

「仁分百合人」は「にふん・ゆりと」と読むのでしょうか。
名字も名前も珍しい方ですが、「裁判所切っての酒豪」あたりでそれなりのストーリー展開を予想したものの、首席調査官室で死んでしまった、というのは本当に驚愕の事態ですね。
泉氏は割と淡々と書かれていますが、事務官が医者でもないのに死亡を認定してしまい、可部氏もその報告にあまり驚かず、また医者の手配を指示する訳でもなく、「「そうか」といって、静かに三階に降りていかれた」というのはずいぶん変な話です。
まあ、おそらく泉氏が書いていない事情がいろいろあってそのような対応になったのでしょうが、入室できる人が極めて限定された閉鎖的空間で訪問者が頓死し、しかも関係者が特に驚いていないという状況だけを考えると、殆どミステリーの世界ですね。
ちょっと話を膨らませれば「最高裁首席調査官室殺人事件」みたいなタイトルで、浅見光彦シリーズの二時間ドラマ程度にはなりそうです。

>筆綾丸さん
>アララギが何を指すのか
ご紹介のサイトを見ると、アララギ派については特別な事情がありそうですが、一般的にはアララギ=野蒜の古名なんですね。
私はそんなことすら知りませんでした。

>ホーキング博士
1942年生まれだそうで、けっこう長生きな方ですね。


>キラーカーンさん
>「キリスト教民主主義政党」

ドイツキリスト教民主同盟(CDU)などプロテスタントでもカトリックでも良い訳ですから、ある意味、いい加減な政党ですね。
以前、筆綾丸さんに紹介された佐藤伸行著『世界最強の女帝 メルケルの謎』(文春新書、2016)を読んで、メルケルなど実際には無神論者ではなかろうかと思いました。

「物理学者メルケルの言語ゲーム」(筆綾丸さん)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8228

※筆綾丸さんとキラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

チェックポイント・チャーリー 2016/06/18(土) 12:38:57(筆綾丸さん)
小太郎さん
http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/a/araragi.html
加部氏の「悪の芽」という詩的な言葉に異質なものを感じましたが、なるほど、アララギ派の歌人でしたか。アララギが何を指すのか、昔も今も、私にはわからないのですが。

優秀な最高裁調査官が藤林の珍奇な追加反対意見をどう見ていたか、知りたいところですが、いまとなっては不明でしょうね。石川健治氏には、「写経」などはどうでもいいから、そのあたりの事情を追究してほしいものだ、と思いますね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%89
NHKのBSプレミアム『寒い国から帰ったスパイ』(1965)を見ていると、冒頭に、ベルリンの Checkpoint Charlie が出て来たのですが、もしかすると、シャルリ・エブドの Charlie は冷戦下の検問所の名前(NATOのフォネティックコード)を意識したものではあるまいか、と思いました。そう考えると、JE SUIS CHARLIE というスローガンもずいぶん奇妙なものに感じられますね。世界をライシテとイスラムに分断するための検問所を、ベルリンではなくパリに立てるべく、私は立ち上がるのだ、というような。
この映画で面白かったのは、私は神は信じないけれども歴史は信じる、と女が言うと、なんだ、君はコミュニストか、と男が言うところで、1965年当時、マルクスの唯物史観はそんなふうに揶揄されていたのか、ということでした。現在、こんな会話が成り立つ国はまだあるのかどうか。 

007のホーキング 2016/06/18(土) 13:14:02(筆綾丸さん)
http://www.bbc.com/news/science-environment-36540254
二度目の重力波検出の記事で、おおよそのことはわかるつもりですが、
---------------
One of the black holes was spinning with the dimensionless number of 0.2.
We measure between zero (not spinning) and one (maximally spinning).
---------------
という、ルイジアナ州立大学のゴンザレス教授の話は理解不能です。

http://blog.livedoor.jp/motersound/51945322
ブラックホールの蒸発を唱えたのはホーキング博士ですが、ジャガーの宣伝には驚きました。次は『007』に出演ほしいですね、できれば悪党の親玉として。
ボンド君はまだアストンマーチンなんかに乗ってるのかね、とか、女王陛下は御年90だ、君臨すれども統治せずと言ったって、もう草臥れたろう、とか、前から何遍も言っているように神は存在しない、とか、あのシンセサイザーの音で聴いてみたいな。

ベルリンの思い出等々 2016/06/19(日) 01:43:30(キラーカーンさん)
>>小数点の次元
 「スピン」の話なのでしょうか・・・

>>脱キリスト教化

記憶モードですが、欧州への旅行の際、入国審査で「宗教は」と聞かれて
「無宗教」答えてはいけませんと旅行ガイドに書かれていたと思います。
(「仏教」と応えておくのが無難とされていました)
理由として、

無宗教≒共産主義者

と思われかねないとされていました。
と言うことなので、「キリスト教民主主義政党」というのが欧州各国にあったのでしょう。

1989年の12月に旅行でベルリンにいました。
「おのぼりさん」として、ベルリンの壁を鑿ととんかちで壊してきました。
その時はチェックポイントチャーリーではなく、フリードリッヒシュトラーセ駅から
通過ビザで東ベルリンに入り、その日の夜行でプラハに抜けました。

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