学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

強飯式(ゴウハンシキ)

2008-03-31 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月31日(月)22時03分19秒

>はぎつきさん
いえいえ。
はぎつきさんの投稿を見ると、何かホッとしますね。
いつもありがとうございます。

>阿哈馬江さん
教養溢れるセクハラ投稿、サンキュです。

>井上さん
びみょーに不気味な光景ですね。
茅ヶ崎市のサイトに、
------------------
4 保存整備の方法
 個々の橋脚をコンクリート製の保護ピットで囲み、その内部を湿潤状態を保持した充填材で密閉する。さらに、これらの保護ピット全体を埋め戻し、上部を浅い池状の構造体で覆い、橋脚のレプリカを、実物の橋脚の直上に設定する。
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/newsection/kouhou/houdou/040519/kyoukyaku_hozon.html

とあり、二度読み返しても何のことやらさっぱり分かりませんでしたが、下図を見たら一瞬で理解できました。
直下に本物が埋まっている訳ですね。
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/newsection/kouhou/houdou/040519/kuigazou.pdf

>筆綾丸さん
検索したら、
--------
山上の愛宕神社は、江戸城南方の鎮護として、徳川家康が建立したものである。祭神は勝軍地蔵であるが、この山の地主神は毘沙門天で、毎年1月3日に強飯式(ゴウハンシキ)という地主神を祭る行事が行なわれた。毘沙門天の使いと称する者が、素袍(スオウ)を着、昆布や歯朶の正月の飾り物で作った兜をかぶり、それを注連飾で飾り、擂粉木(スリコギ)の太刀を差し、大きな杓子を持つという出立で、従者3人を連れて、山上の本殿から坂下の別当寺円福寺へ下りて行く。そして集まっている寺僧の前で「飯を食べろ」と強制する。僧達が「はい」といってこの要求に従ったところで儀式は終った。この絵はその使者が儀式を終えて本殿へ帰って来た場面を描いている。
http://peikichi.kicks-ass.net/~yohaku/MyLink/meisyoedo/doc/edo0021.html

とのことです。
ま、毘沙門天が地主神だというのは変な感じがしますが。
老人は、「現実の世界では愛宕屋という女坂の上の茶店の主」だそうですね。
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大はしあたけの夕立

2008-03-31 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月31日(月)01時40分5秒

>NAO4@吟遊詩人さん
日本史に関する誤解に対しては、メール等で個人的に反論しても限界がありますね。
おそらく一番効率的なのは、日本の専門家が日本語で書いた論文を大量に英訳してインターネットで閲覧できるようにしておいて、あなたの見解はここが間違っていますから、これを見てくださいね、とリンク先を示してやることでしょうね。
私が著作権法に違反して個人的にやっているのと同様な仕組みを、しっかりした組織で、範囲を日本史全体に広げて、著作者の許諾をきちんと取って、英語でやれば、外国の人たちの日本史に対する認識レベルを相当向上させることができるんじゃないかなと思います。
私はそれこそ国家のやるべき仕事ではないかと考えますが、モデルつくりのために、自分も蟷螂の斧を振りかざしてみようかなと思っています。

>筆綾丸さん
「ヒロシャイジ」作 "Sudden Shower at Ohashi Bridge" の原題は「大はしあたけの夕立」ですが、ふと、「あたけ」って何だろう、もしかして「愛宕」と関係があるのだろうかと思って検索したら、
-------------------
歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はしあたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%A4%A7%E6%A9%8B
--------------------
とのことで、「愛宕」との関係ははずれでしたが、なかなか面白い話ですね。

>はぎつきさん
鎌倉市観光協会のサイト、リンクを張っておきませう。

http://www.kcn-net.org/kamakura/
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書評会

2008-03-30 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月30日(日)02時06分3秒

28日(金)は、下高井戸の日本大学文理学部キャンパスで行われた悪党研究会例会に初めて参加してみました。
テーマは「細川重男氏著『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』を読む」で、同書については1月に再興中世前期勉強会でも書評会を行っており、著者の細川氏、というか釈さん自身が参加して質問に答えた二度の書評会で、批判・疑問もほぼ出尽くしたのかな、という印象を受けました。
私自身は、この本の「神話」の部分に関してはかなり批判的でして、『古今著聞集』と「平政連諫草」に出てくる北条義時=武内宿禰の再誕伝説について、前者は石清水八幡宮が幕府の最高権力者に取り入ろうとして創作したのではないか、そして、後者は前者と無関係に鎌倉で広まった伝説ではなかったのではないか、と思っています。
というのは、「平政連諫草」を読むと、政連は諫言マニアというか、ま、ちょっと扱いにくい頑固な変人タイプの人だったとは思いますが、基本的には法曹官僚であって、醒めた知性の持ち主という感じがします。
そして、漢籍を中心にかなりの蔵書も持っていたようで、「武内大神の再誕」云々も、政連がそれを信じていたからではなく、『古今著聞集』を読んで、単なる知識として有していただけという可能性もあるんじゃないかなと思います。
即ち、政連は宴会ばかりして幕府の最高権力者としての責任を放擲している馬鹿な主人に対し、諫言という非常に危険な行為を是非ともしたかった。しかし、そんなことをして暴君に殺されてはたまらないから、臣下としては細心の注意を払わなければならず、権威ある古典からの膨大な引用も必要だったし、前武州禅門(北条泰時)が救世観音の転身で、最明寺禅門(北条時頼)は地蔵薩埵の応現でしたと主人の先祖を無茶苦茶褒めちぎって、自分の諫言に反するのは先祖に反するのと同じことだ、という気持ちを起こさせるよう仕向けることも必要だった、と。
引用によって自己の意見を権威づけるのが政連の基本的な戦略だろうから、再誕・転身・応現話も何らかの典拠に基礎付けられていて、義時についてはその典拠がまさに『古今著聞集』だったのではなかろうか、と思う訳です。
以上の私見は既に釈さんにも話しており、私はここ暫く、『古今著聞集』が14世紀初頭に鎌倉に伝わっていたことを立証できないかな、と思って『古今著聞集』に関する論文を色々あたってみたのですが、なかなか見つからないですね。

>筆綾丸さん
courtesanというと、高級なprostitute、ないし貴族・金持ちの情婦・愛人といった意味ですね。
Karen Brazell女史の“The confessions of Lady Nijo”ではconcubineという表現を使っています。
『問はず語り』の英訳には、Wilfrid Whitehouse、 Eizo Yanagisawa共訳の、“Lady Nijo's own story; Towazugatari: the candid diary of a thirteenth-century Japanese imperial concubine”というのもあって、私は未読ですが、タイトルから見て、こちらも concubineなんでしょうね。

参考
http://home.infionline.net/~ddisse/nijo.html#anchor258249
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久しぶりに安富道行の話。

2008-03-28 | 勝軍地蔵と良助法親王

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月28日(金)00時31分36秒

3月19日の投稿で、小国浩寿氏『鎌倉府体制と東国』(吉川弘文館、2001)所収の「香取社応安訴訟事件の一背景―貞冶・応安期鎌倉府の守護・国人政策」を引用しましたが、以下はそれに続く部分です(p102)

------------------
 一方、大蔵丞(大夫)長嗣は、永仁三年(一二九五)に執筆に補任された後、乾元元年(一三〇二)には、二番引付奉行となり、正和元年(一三一二)には神領興行法として名高い正和令の施行を託された関東三奉行の一人として鎮西へ下向している。このことは、安富一族の所領が西国にあることも関係するだろうが、その業務内容の重要さからすれば、社家対策の能力を買われた結果とみられる。実際、執務終了後、西国に留まった形跡はなく、正和五年(一三一六)には再び鎌倉において奉行人の執務に従事している。このように長嗣の方は、主に鎌倉に在住しながら、正和令施行の三奉行に選ばれたことに象徴されるように、社家奉行としてのキャリアをかなり積んだ人物であったことが想定される。そしてこの両者の子孫はその後も、活動拠点を違え、おのおのがその地で活躍していく。前者の系統は泰長-泰重、貞泰-泰治等、南北朝期以降も専ら鎮西の所領相論にのみ登場するが、後者の系統は、鎌倉幕府の倒壊と足利幕府の成立という大きな時代の変遷に順応しながら、主に鎌倉および京都で活躍する。
 まず、長嗣の子と思われる行長は、鎌倉幕府末期の元亨三年(一三二三)に問注所奉行としての存在が確認された後、倒幕に成功した尊氏が後醍醐政権と袂を分けた直後の建武四年には、二番引付奉行として寺院間の訴訟を扱っていることからすると、倒幕から建武政権の消長を通じて、そのキャリアを買われ、足利氏の配下で奉行人として活動していたようである。彼の奉行人としての活動は、延文三年(一三五八)まで確認できるが、その特徴は寺社関係の業務が圧倒的に多いことである。暦応四年(一三四一)に石清水八幡宮の造営奉行を勤め、康永四年(一三四五)には、山門訴訟に関連して夢想を遂げ、それは「武家之奉公中之宿老者」の夢想として『園太暦』に記されるほどの注目を集めている。このような彼の職掌の傾向は、父長嗣の経歴と無関係ではなかろう。また、この他にも、孫三郎、新三郎、三郎左衛門尉等などの安富氏も幕府の奉行人として足跡を残しているように、南北朝期初期における幕府奉行人としての安富一族の活躍には目を見張るものがある。
------------------

この安富行長なる人物の法名が「道行」なんですね。
ここまで材料が揃うと、この人物の名前が『与願金剛地蔵菩薩秘記』に出てきても、ま、それほど不自然ではないかなと思います。

ところで、ずいぶん前に国会図書館に注文していた森末義彰氏の「勝軍地蔵考」(『美術研究』91号、1939)が、ちょっとした手違いのため、今頃やっと届いたのですが、それを見ると、今度は「鹿島浄行千葉道源」なる人物を探す必要が生じてきました。
「釈尊影響仁王経秘法奥書」によると、西園寺太政大臣実兼が3500両を持たせて、『蓮華三昧経』を求めるために中国に派遣した人が「鹿島浄行千葉道源」なのだそうです。
 どう見ても関東っぽい雰囲気の名前ですが、今のところ、どんな人なのか全然分かりません。

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比較

2008-03-27 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月27日(木)00時12分28秒

前回の投稿で引用した24日の日経夕刊の記事には、「他国の文化財流出制限策」として、簡単な一覧表が出ています。
それによると、

----------------
フランス
国内の民間企業の購入を促進
・政府に代わって購入し流出を防いだ場合、購入額の40%相当の税を控除
・企業が買った文化財は10年間、国内の博物館への寄託を義務付け

英国
国外持ち出しは原則的に許可制
・「製作から50年以上経過」「一定水準以上の評価額」などの条件付き
・専門家が許可申請を検討。国家的損失を考慮して許可しないケースも

イタリア
国外持ち出しは原則的に禁止
・国や自治体など所有の文化財は展覧会などを除き国外に持ち出せない
・民間所有の文化財も、国が一定期間持ち出し禁止にできる
------------------

とのことで、国によってずいぶん違うものだなあ、という印象は受けるのですが、あまりに分量が少ないので、規制の具体像が今ひとつはっきりしないですね。
何か参考になりそうな文献をご存知の方は教えていただけるとありがたいです。
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Avedis Zildjian Company

2008-03-25 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月25日(火)00時46分48秒

今日の日経夕刊最終面に、「運慶作の仏像競売騒動 文化財保護 あり方に一石」という無署名の記事が載っていますね。
----------------
(前略)
 流出が騒がれるほどの名品が、なぜ競売にかけられたのか。最大の理由は文化財保護法で輸出を禁じる重要文化財や国宝の指定を受けていなかったことだ。
(中略)
 一連の事態を受けて渡海紀三朗文部科学相は二十一日、文化財の流出防止に向けた検討を進める考えを示した。とはいえ、文化財保護法は個人の財産権の尊重もうたっており、所有者の意思を無視した強制的な買い上げや調査は法的になじまない。「文化財の公共性と財産権の問題を考えながら、慎重に進めたい」と青木保文化庁長官は言う。
 一方、流出にこだわる必要はないとの見方もある。仏像を最初に調査し、運慶作と指摘した清泉女子大学の山本勉教授は「国内でも文化財を粗雑に扱うところはある。流出を防ぐ政策より、国外に出ても一般公開や調査、研究ができるように支援体制を充実させることが肝要」と話す。
------------------

文化財保護法第4条第3項で「政府及び地方公共団体は、この法律の執行に当って関係者の所有権その他の財産権を尊重しなければならない。 」とありますが、憲法第29条で財産権を保障しているのだから、これ自体は当たり前であって、ここから直ちに「所有者の意思を無視した強制的な買い上げや調査は法的になじまない」とは言えないと思いますね。
憲法第29条自体、第3項で「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」としているのだから、制約の程度に応じた補償があればよいわけで。
そして、「強制的な買い上げ」ではなく輸出禁止程度だったら、別にたいした制約ではないから、ちょこっと補償してやれば充分じゃないですかね。
この記事の良いところは、「他国の文化財流出制限策」としてフランス・英国・イタリアの例をあげている点ですね。
分量が少ないので詳しい規制内容は分かりませんが、各国ともそれぞれ工夫して流出防止を図っているようです。

参考:文化財保護法
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/pro/hogoho10.htm

>阿哈馬江さん
>コーチャン
そんな人がいましたね。
コーチャン&アルメニアで検索してみたら、リンク先がひっかかりましたが、なるほどミコヤンやハチャトリアンなどもアルメニアですか。
http://www.nippon-foundation.or.jp/org/moyo/2004535/20045351.html

シンバルのジルジャンも元をたどればアルメニアなんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3
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連日の真夜中投稿

2008-03-23 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月23日(日)02時26分49秒

はじめに断っておきますが、私は署名はしていません。
一生懸命やっていた亜季多さんには悪いけれども、私はもともと選挙で投票したりするのも嫌いな偏屈な人間だし、文化に関して国の違いをあまり強調するのは自分の基本的な思考になじまないので、署名はしませんでした。
ただ、一連の経緯を見て、自分なりに考えるところはありますね。
まず、重要文化財の指定に際して、絶対に、いかなる場合であっても所有者の同意が必要と考えるべきではないと思いますね。
2月24日の投稿で、私は、
--------------
ニュースを聞いて、私が疑問に思ったのは、所有者の同意がないから国宝指定ができないとされている点です。
文化財保護法をざっと見ましたが、特にそんなことを定めている条文はないようですね。
法律で定められていなくて、指定手続きを定める省令か何かに規定があるのだとしたら、文部科学大臣の政治的決断で、さっさと変えればよいのでは、と思います。
指定さえすれば、輸出禁止はできるし、国による買い上げも可能になるようですね。
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/pro/hogoho31.htm
--------------
と書きましたが、その後、少し調べてみたら、文化財保護条例の関係で、財産権の保護という憲法上の要請との調和を図る必要があるから、文化財の指定に当たっては所有者の同意が必要だ、みたいな議論が行政側からされることが多いようです。
http://www.osakasayama.ed.jp/shaspo-hp/bunkazai/osc_bunhojorei_re.pdf

まあ、原則としてはそうであっても、絶対に例外を認めてはいけないとは思えないですね。
精神的自由に比べたら、財産権は制約が大きくてもやむをえないというのは憲法学の、ある意味、常識であり、制約の程度に応じた相当の補償さえすれば憲法上の問題はクリアーできるはずですね。
文化庁は、100万円で購入したものを8億円で売ろうとする人がいることを認識した時点で、そういう人に対応した仕組みを作るべきだったと思います。
その上で交渉しないと、莫迦には勝てないですね。
クリスティーズのことはまた後で。

>むらじさん
4連続投稿、ありがとうございます。
掲示板荒らしかと思いました。

>阿哈馬江さん
情報操作などと大げさに書いてしまいましたが、クリスティーズにしてみれば、単なる宣伝活動ですよね。

>筆綾丸さん
Souren Melikian氏は確かに優秀ですね。
1969年からコラムを書いているそうですから、かなりの古狸でもありますね。
http://www.ihtinfo.com/pdfs/p_b_FullMediaFile.pdf

>覚王さん
こんにちは。
相当詳しい方とお見受けしました。
できればもう少しふくらませて書いていただけるとありがたいですね。
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又聞きの不確かな情報ですが。

2008-03-22 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月22日(土)11時34分20秒

亜季多さんが引用された読売新聞の記事に出ている「会社員が給料で支払える程度の金額」とは100万円だそうです。
この方は、「日本に残したいと文化庁とも連絡を取ったが、現行の規則では希望に添えないなどと言うばかりで交渉にならなかった」と言っているそうですが、100万円で入手したものを8億円で買い取れと文化庁に要求することは、「私のような一般人」の感覚からすると、「交渉」というより「強請り」に近い行為のようにも思えますね。
こういう人物に対して、文化庁は「売ってください」とお願いする以上の行為が本当にできなかったんですかね。
今日はこれから外出しますので、詳しくは後ほど。
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Christie's brilliant marketing

2008-03-22 | その他
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月22日(土)02時41分25秒    

それでは、私も参考までにインターナショナル・ヘラルド・トリビューンの記事を引用してみます。
英語の苦手な方も、仏像の写真の下の「Listen to Article」をクリックすれば、聞きやすい速さで読んでくれるので、何となく意味は分かるのではないかと思います。
ま、ときどき、ダイニチ・ナイアライ、トキギ県、ムロマキ時代、アシカガ・ヨシケインといった難解な用語は混じりますが。

----------------------
The curious story of a Japanese Buddhist sculpture of the late 12th century sold on Tuesday at Christie's for $14.37 million, more than six times the highest estimate quoted in the catalogue, proves that in art history things are not always what they seem.
The seated figure carved out of cypress wood represents the supreme Buddha of esoteric Buddhism known in Japanese as the Dainichi Nyorai. Its existence was first made known to the public in 2003 in one of the most brilliant commercial coups pulled off in recent years.
As recounted in Christie's catalogue, the operation began with "the good fortune" of "a private collector" of Buddhist statuary who happened to come across the sculpture "in a countryside antique shop."(中略)

Part Three in the building up of Unkei's masterpiece was Christie's brilliant marketing. This included the deft presentation of the discovery in the catalogue entry. The "current owner" it noted, "believes it probably came from a Buddhist temple during the Meiji period (1868-1911), when the government officially adopted Shinto as the state religion." Sure enough, in those days of ultra-nationalism Buddhism, which has its roots in India, reached Japan via the East Iranian world, and soon came under the influence of the Chinese versions of Buddhism (the Japanese word Zen is the pronunciation of the Chinese Chan) was perceived as a foreign intrusion.(中略)

This presentation, added to what is beyond doubt a strikingly remarkable sculpture of the late 12th century, whoever actually carved it, worked wonders. The Japanese in particular were fascinated. Curiously, no one appears to have asked why the statue was not registered by the authorities as "Important Cultural Property." That is the case with the Kotokuji Dainichi, now apparently demoted from its status as the documented statue commissioned by an Ashikaga resident.
On Tuesday beauty and vigor enhanced by clever if unproven hypothesis sent the statue soaring to a world record price for any Japanese work of art. Guess who bought the reconstructed Kotokuji Dainichi: A museum? A Buddhist temple? The buyer, Christie's announced, was the Mitsukoshi Department Store. Eastern mystery proved unfathomable right to the end.

http://www.iht.com/articles/2008/03/19/arts/melik20.php?page=1
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また、クリスティーズのホームページでは、大日如来関係のプレスリリースも出ていますね。

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New York - In today’s sale of Japanese and Korean Art, a newly discovered wood sculpture of Dainichi Nyorai, the supreme Buddha, attributed to the sculptor Unkei achieved $14,377,000, exceeding its presale estimate of $1,500,000-2,500,000. It set new world auction records including record for Japanese art, and any Asian work of art sold in New York. This price largely surpasses the previous record of $1.76 million realized by a Rakuchu Rakugai screen, sold in October 1990 at Christie’s New York. The Dainichi Nyorai Buddha was bought by the Japanese company, Mitsukoshi Co Ltd.

Katsura Yamaguchi, International Director of Japanese and Korean Art said, “History was made today with the phenomenal result of $14,377,000, which is a testament to the extreme importance and beauty of this supreme Buddha, and elevates Japanese art to a new record level. We witnessed enormous interest from clients worldwide who traveled from near and far to visit the exhibition at Christie’s and participate in this landmark sale.”

http://www.christies.com/presscenter/pdf/03192008/102216.pdf
http://www.christies.com/home_page/home_page.asp

今日は眠いので、レスは明日書きます。
すみませぬ。
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運慶作大日如来像関連、新聞記事

2008-03-21 | その他
これは掲示板に私が投稿したものではないですが、参考のため、置いておきます。読売新聞記事です。

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運慶落札、想定4億・提示は8億…国は購入断念・競売見送り

競売会場のモニターに表示される運慶の作とみられる木造大日如来座像=清水健司撮影 14億3700万円――ニューヨークで18日、落札された運慶作とみられる大日如来座像は、過去競売に出品された日本美術の最高額となった。
 これほど高い価値のある文化財がなぜ競売にかけられたのか。
 2003年夏、東京国立博物館の山本勉氏(現・清泉女子大教授)に仏像の持ち主から手紙が届いた。見に行った山本氏は「運慶作の仏像に似ている。興奮しましたね」。エックス線撮影で運慶一派独特の像内納入品を確認できた。翌年、同博物館で公開された。
 その一方で競売出品が動き出した。06年7月、持ち主は輸出に要する書類を提出。文化庁は重要文化財指定を視野に買い取り交渉に入った。想定していたのは3億~4億円。だが提示されたのは8億円。購入は断念せざるを得なかった。
 先月、競売出品が明らかに。国は競売参加の可能性を探った。前例はない。情報が漏れれば投機筋の参入を招きかねず、消極論が出た。そこに国内の私立美術館が参戦するとの情報が入ってきた。「国内に残りさえすればよい」(文化庁幹部)。参加は見送られた。ただし3月5日に購入の適否、価格算定のための二つの協議会を開催。美術館の撤退に備えた対応だった。
 日本時間19日未明の競売直後、落札者は百貨店の三越と判明。海外流出の懸念は遠ざかった。だが三越に落札を依頼したのが誰なのか、明かされていない。
 明治以降、海外に流出した主な鎌倉彫刻は6件。国宝・重要文化財は輸出を規制されるが、指定の際は管理義務を負う所蔵者の了解が欠かせない。「指定外でも、レベルの高いものは流出しないルールを制度化する必要があるのではないか」と日本画家の平山郁夫氏は話す。

 ◆「給料で支払えるほどの額で入手」◆
 【ニューヨーク=佐々木良寿】競売に出品した男性は落札後、読売新聞などの取材に応じた。40代前半で、外資系企業の社員だという。8年ほど前、古美術商から「会社員が給料で支払える程度の金額で譲ってもらった」。だが運慶作の可能性が判明。「個人で所有するには荷が重すぎた。日本に残したいと文化庁とも連絡を取ったが、現行の規則では希望に添えないなどと言うばかりで交渉にならなかった」という。
 「落札者は私のような一般人より大切にしてくれると信じていた。(落札の結果)東京に戻ってくるので安心した」と語った。

(2008年3月20日02時42分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080320-OYT1T00159.htm
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第169国会 衆議院予算委員会第四分科会

2008-03-20 | その他
平成20年2月28日(木曜日) 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月20日(木)03時05分17秒

○中森分科員
 それでは、最後になりますけれども、指定前の文化財の保護についてお伺いをいたします。(中略)
 また、最近、指定前の文化財に関する問題が起きております。東大寺南大門の金剛力士像を制作いたしました運慶作と見られている国宝級の仏像が、文化財指定を受けていなかったために、三月の十八日にニューヨークでオークションに出されてしまうということが報道されました。オークションに先立つ東京都内でのオークションプレビューで仏像が公開されました。多分、落札価格は一億六千万から二億一千万円だろうというふうに見られているようでございます。
 そこで、まず、なぜこの仏像が、限りなく運慶作に近いということもお聞きいたしましたけれども、海外のオークションに出されてしまうことになったのか、その経緯を、御存じでしたら教えていただきたいと思います。あわせて、この仏像を海外オークションに出品することを阻止できなかった理由もお教えいただければと思います。
 仮に、海外でもきちんとした美術館や博物館が落札すれば問題はないと思いますけれども、個人の手に渡り、公開を拒めば、永久に人々の目に触れなくなってしまうという可能性があるわけでございます。国宝や国、県、市の重要文化財の指定に係らないものでも芸術的に価値の高いものはたくさん残っていると思いますので、こういったまだ未指定のものに対する文部科学省の対応について、御見解をお聞きしたいと思います。
○高塩政府参考人 お答え申し上げます。
 今先生から御質問ございました文化財の指定でございますけれども、今の文化財保護法では、国宝、重要文化財に指定されていないものについては、輸出が制限できないということになっております。しかしながら、重要文化財に準ずる文化財で、海外への流出のおそれがあり、国において緊急に保存を図る必要があるものにつきましては、所有者の同意が得られれば買い取りを行い、流出を防ぐということを行っているわけでございます。
 お尋ねの大日如来坐像につきましては、平成十八年に文化庁と所有者の間で買い取りにつきまして交渉を行いましたけれども、条件での折り合いがつかず、買い取りを断念した経緯があるわけでございます。
 私ども文化庁といたしましては、指定に際しましては、その文化財の伝来を含めまして、詳細な調査を行った上で審議会に諮問をするという手続がございますけれども、その際、所有者の同意ということを得ているところでございます。
 しかしながら、いずれにしろ、貴重な文化財を保護するべく、私どもとしては、適切に指定ができるよう、さらに努力を重ねてまいりたいというふうに考えている次第でございます。
○中森分科員 ありがとうございました。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/003416920080228002.htm
--------------------------

先月末の時点で「落札価格は一億六千万から二億一千万円」だと予想されていたものが、実際には15億、ということは7~9倍に跳ね上がっているわけですが、これは偶然なんですかね。
事前に東京でプレビューを行ってマスコミに大々的に発表し、市民運動の盛り上がりを誘って更に報道は活発化、という経緯を見ると、少なくともオークション関係者にはある程度予想できていたように思えます。
署名運動に参加された人たちの善意は、およそ善意と無縁な美術品ビジネスのプロたちによる緻密な情報操作の一環を担わされて、売主、オークション会社その他関係者に巨額の利益をもたらしただけ、と捉えるのはあまりにシニカルな見方でしょうか。

>筆綾丸さん
福岡伸一氏の『生物と無生物の間』は、素人の私にとってはなかなか面白い読み物です。
ただ、気取った美文調が、ちょっとうっとうしいですね。
キーツの詩は私には難しくて全然分からないので、筆綾丸さんの解説を参考に、少し勉強してみるつもりです。
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小国浩寿氏『鎌倉府体制と東国』

2008-03-19 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月19日(水)00時28分40秒  

>うえんつさん
>どうしちゃったんでしょ?
受けると嬉しいので、もう暫くそのままにしておきます。

>しかも転読した模様
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を大般若経のように転読するのも、なかなかいいですねー。

>筆綾丸さん
>「濡れ藁沓の入堂」
リンク先には、
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江戸時代まで音無川には橋が架けられず、参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉しなければなりませんでした。これを「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」といい、参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、本宮の神域に入ることはできませんでした。
http://www.mikumano.net/meguri/oyunohara.html
-----------
との解説がありますね。
根井浄氏の「土塊にまみれた草鞋ばきの参詣」云々は少し変な感じがしました。

>他界観念の象徴
これは全くその通りですね。


さて、今日は小国浩寿氏『鎌倉府体制と東国』(吉川弘文館、2001)所収の「香取社応安訴訟事件の一背景―貞冶・応安期鎌倉府の守護・国人政策」から、安富氏に関係する箇所を引用してみます。
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 安富氏については、細川氏の重臣という観点からの小川信氏等の研究がある。それは、時期的に室町後期以降を中心としているが、それ以前に関しても、簡潔に想定をなしている。氏は、後に 頼之流細川氏の内衆の最有力者となる安富氏は、下総より起こり、応安年間に細川頼之に従って讃岐に入ったという所伝を有すが、細川と下総との関係は想定できないことから、鎌倉・室町幕府の奉行人の中からかの系統が登場したと推定している。的確で、大枠において首肯されるべきものである。ただ、小川氏の問題関心の所在から、関東の安富氏および細川被官以前、特に南北朝以前のかの氏の性格に関しては、特に解説をなしていない。では、先学に導かれながらそこからはじめよう。
 『南海通記』は、安富氏の出自を下総とする。これが事実ならば、安富氏が下総に在地性を有していたこととなるが、他に確たる傍証はない。かの氏が確かな史料に登場してくるのは、建長二年(一二五〇)に六波羅奉行人として姿を現す五郎左衛門と民部大夫であり、実名が明らかなのは、系図3が示すごとく、文永十年(一二七三)に肥前深江村の領主として顔を見せる泰嗣(民部丞行位)がそのはじめである。彼はその後、建治三年(一二七七)に政所公人、また永仁四~六年(一二九六~九八)にも奉行人として姿を現している。また、彼の肥前深江村領主としての側面と奉行人としての側面は、頼泰・長嗣等の子息達に分割して引き継がれた。まず、嫡子と見られる頼泰は、肥前等の鎮西所領を受け継ぎ、永仁七年(一二九九)には鎮西引付二番衆として存在が確認されるなど、その活動拠点を鎮西においていた。
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この系図3というのを見ると、長嗣の子に「行長<右近大夫 民部大夫>」なる人物がいて、その人の法名が「道行」となっています。
続きはまた後で。
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『増鏡』と良助法親王

2008-03-18 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月18日(火)02時16分0秒  

筆綾丸さんが撞いてくださった清涼寺の鐘の音に誘われて『増鏡』を紐解くと、良助法親王は『増鏡』に少しだけ登場していますね。
最初は「亀山院の後宮」の場面。
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大宮女院に讃岐(さぬき)とてさぶらひし、西園寺(さいをんじ)の御家の者、景房(かげふさ)といひしが女なり。いみじう思(おぼ)いて、これも召しとりて西園寺の大臣の御子になして二品(にほん)の加階たまはる。若宮生(む)まれ給ひにき。帥(そちの)中納言為経(ためつね)の女(むすめ)の帥典侍(そちのすけ)殿といひしが御腹にも、あまた生(む)まれ給ふ。九条殿の北政所(きたのまんどころ)、また梨本(なしもと)・青蓮院(しやうれんゐん)法親王など大納言の典侍(すけ)の御腹、昭慶門院(せうけいもんゐん)中納言の典侍(すけ)、十楽院法親王は帥典侍(そちのすけ)殿の腹、かやうにすべて多くものし給ふ。昔の嵯峨の大王こそ、八十余人まで御子もたまへりけると承(うけたまは)り伝へたるにも、ほとほと劣り給ふまじかめり。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kameyamainno-kokyu.htm

次は「亀山院崩御」の場面。
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同じき廿六日、院の上御素服(そふく)奉る。おはします殿には、黒き草にて編みたる 簾(すだれ)をかけらる。浅黄縁(へり)の御座(おまし)に、上(うへ)の御衣(ぞ)黒き、上の御袴(はかま)、裏は柑子(かむじ)色、御下襲(したがさね)黒し。同じひへぎ、浅黄の御檜扇(ひあふぎ)、御台(みだい)参るもみな黒き御調度(ていど)どもなり。この御ついでに、御方々(かたがた)も御素服(そふく)奉る人数、昭訓(せうきん)門院、昭慶(せうけい)門院は御むすめ、近衛(このゑ)の北政所(きたのまんどころ)、関白殿の北政所、良助法親王、覚雲(かくうん)・順助・慈道・性恵(しやうゑ)・行仁(ぎやうにん)・性融(しやうゆう)法親王たち、上達部(かんだちめ)もお山の御供(とも)し給ふ人々、皆漏れず。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-kameyamain-hogyo.htm

いずれも、亀山院の多くの子供の一人として名前が出てくるだけで、特別の存在感はないですね。
亀山院崩御は嘉元三年(1305)のことですので、「天台座主の地位にあった嘉元元年(一三〇三年)、富士山清見関遊覧中の遠江国江内を発する際に、義父であった宗尊親王謀反連座の嫌疑によって鎌倉幕府に捕らえられた。」という歴史的事実は、ま、たぶんなかったんでしょうね。

なお、勝軍地蔵シリーズもだいぶ長くなったので、備忘のため、閑古鳥が鳴いていた自分のブログに転載してみました。
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/

安富道行も小国浩寿氏の論文集の中で見つけることができましたので、後で紹介します。
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春のあやまち・解説

2008-03-18 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年 3月18日(火)01時52分24秒

水上文義氏の「伝・『与願金剛地蔵菩薩秘記』小考-もうひとつの『蓮華三昧経』­-」(『神仏習合思想の展開』、汲古書院、1996)は『与願金剛地蔵菩薩秘記』に関する最重要論文だったのですが、水上氏の他の論文と混同していて、読んでいませんでした。
先日、国会図書館へ行って同書を手に取り、次の箇所を見て、たらーと冷や汗が出ました。
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 また、本書は冒頭に『蓮華三昧経』は西園寺前相国入道が孫の竹園院禅師の為に購入したものとあり、従来の本書への研究では西園寺前相国入道を西園寺公経と断定しているが、これは何を根拠にいっているのだろうか。
 良助撰とされる『法華輝臨遊風談』普賢観経疏には、良助の記として「予養父西園寺太政大臣実兼」とあって、西園寺実兼(一二四九~一三二二)の名が示される。実兼も入道前相国であり、年代からはこちらの方が整合性もあるが、良助は宗尊親王猶子なのだから、こうなると年代ばかりか、親族関係までも混乱してくる。
 いずれにせよ、この問題は精査する必要があるが、一つのポイントとして、延文~永和の間は押さえられてくる。ただし、さらに注意を払っておくべきことは、本書は地蔵信仰、それも勝軍地蔵への尊崇が目的で、中古天台法華教学を中心とした他の良助撰とされる文献との関連性が極めて希薄なことである。考えを廻らせば、本書は一連の良助仮託書群の存在にさらに仮託して、多武峯との関係で作られたものという可能性も捨て切れない。
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ただ、実兼説をとったところで、水上氏も認めるとおり、「良助私記」の混乱は解消できないですね。

>阿哈馬江さん
例会では阿哈馬江さんのあまりの博覧強記に、多くの参加者の目が点になっていましたねー。

>ハードルは、かなり高いです。
ふーむ、そうですか。
ま、段階を踏んで、少しずつやるつもりです。
最初は講師の指導の下、ドナルド・キーン氏の日本文学史を一緒に読む程度でも充分かなと思います。

>うえんつさん
>Teddy。。
私が読んだのはDavid McCulloughというアメリカの歴史作家の“Mornings on Horseback -The Story of Extraordinary Family, a Vanished Way of Life, and the Unique Child Who Became Theodore Roosevelt”です。
http://www.simonsays.com/content/destination.cfm?tab=1&pid=328883

セオドア・ルーズベルトはホントにユニークな人ですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Theodore_Roosevelt
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春のあやまち

2008-03-16 | 勝軍地蔵と良助法親王
投稿者:鈴木小太郎@反省中 投稿日:2008年 3月16日(日)22時58分27秒

3月6日の投稿で、「例えば、金ならうなるほど持ってるぜ、という「前太政大臣西園寺入道」は、黒田氏の西園寺実兼説より、首藤善樹氏の西園寺公経説の方がはるかに自然ですね。」と書きましたが、これは軽率な批判でした。
黒田氏は水上文義氏の見解を受けていて、実兼説にはきちんとした根拠がありますね。
詳しくは後ほど。
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