学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

四条隆親と隆顕・二条との関係(その5)

2022-12-21 | 唯善と後深草院二条

京都では四条天皇の皇位を継ぐのは順徳院皇子だと考える人が大半で、親幕府派筆頭の西園寺公経すらそう予想していたにもかかわらず、何故か四条隆親は、鎌倉からの使者・安達義景が京都に到着する以前に、既に土御門院皇子に決定済みであることを知っていて、自邸「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏とすべく準備万端整えていた訳ですが、まあ、隆親の情報源は北条重時なんでしょうね。
寛喜二年(1230)以来、六波羅探題北方に在任していた重時は京都情勢を熟知しており、同母姉妹の竹殿の夫、土御門定通と相談の上、次の天皇は土御門院皇子にすべきだと判断し、鎌倉の泰時も間違いなく自分の判断を承認するだろうとの予測の下、新帝即位の準備の一環として隆親に里内裏の件を伝えていた、ということだろうと思います。

北条重時(1198-1261)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82
竹殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%AE%BF

隆親と足利能子の結婚時期ははっきりしませんが、「准北条一門」で鎌倉在住の能子と、富裕な四条家当主の隆親の結婚を仲介できる人は実際上相当限定され、それは重時と竹殿だろうと私は想像します。
そうであれば、足利能子が寛元元年(1243)に隆顕を生んで間もなく死去したにもかかわらず、隆親が坊門信家女が生んだ房名(1229-88)に替えて隆顕を嫡子とした理由も説明しやすくなります。
結婚に際しては、当然に能子が産むであろう男児を嫡子とすることが関係者間で了解されていたでしょうし、能子が死んだからといって隆顕を粗略に扱えば、結婚の仲介者である重時・竹殿の機嫌を損ねることになってしまいますからね。
とにかくこの結婚で、隆親は「准北条一門」と強い縁を結ぶことができた訳であり、それは後嵯峨親政・院政下での隆親の政治的立場を強固にすることに相当役だったものと私は考えます。
なお、足利義氏の娘の名前が何故に「能子」なのかという問題について、私はあれこれ考えてみたことがあります。
足利家の系図を見ても祖先や周囲に「能」の字の人がいないのですが、「義」と「能」は「よし」という読み方は共通です。
角田文衛氏が女性名の訓読みに執拗にこだわった点については、女性名は正式な書類に名前を記す必要が生じたときに父親の名前等から一字を取ってつけたものであって、実際にその名で呼ばれることなどないのだから読み方など気にする必要はない、という批判が有力であり、私もそれは正しいと思います。
しかし、実際に名前をつける必要が生じた場合、父の二字だけでは選択肢が限られ、娘が何人もいるような場合には不便ですから、読み方が同じの他の字をつける、ということも考えられるように思います。
久保田淳氏の研究によれば、後深草院二条の母の名前は「近子」らしいのですが、これも父・隆親の「親」と「近」が「ちか」と読む点で共通だからではないかと思います。
二条の母の場合、一番シンプルなのは「親子」ですが、後嵯峨天皇の周辺には、源通親の娘で「大納言二位」と呼ばれていた「親子」という女性もいたので、この人と名前が重なることを憚ったのかもしれません。

四条家歴代、そして隆親室「能子」と隆親女「近子」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b00ceaddfb29cda1d297e2865a68055a
「偏諱型」と「雅名型」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d68c12fe57fdb5c8b3cdd20e347f5cac
二人の「近子」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cab06b8079de0a02dcc067ca30d4c4bb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59c49697176f8ff9a16a3917041217e6

また、久保田氏は二条の「母方の祖母権大納言」が足利能子であり、二条の母「近子」と隆顕が同腹とされています。
『尊卑分脈』に「女子 従三位」とある女性が『天祚礼祀職掌録』に出てくる「近子」と思われますが、「近子」は寛元四年(1246)の後深草天皇即位式に褰帳なので、少なくともこの時点で十代後半にはなっているはずです。
とすると、「近子」は房名と同腹と考えるのが自然です。
房名と同腹であれば、「近子」の父はパッとしない経歴であっても、祖父(実は曽祖父)の忠信は権大納言ですから、「近子」の女房名が「権大納言」というのは極めて自然ですね。
他方、足利義氏の周辺には「権大納言」の官職を得た人がいるはずもありません。
ということで、久保田氏の見解とは異なり、隆親娘の「大納言典侍」=「近子」は坊門信家の娘と考えるべきです。

二人の「近子」(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f2a26745f54da5d6e93f44843e49ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/482deb8d7d6f9bb02e583f66a0804c6b

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四条隆親と隆顕・二条との関係(その4)

2022-12-20 | 唯善と後深草院二条

四条天皇の頓死から北条泰時使者の安達義景が京都に到着し、土御門院皇子の推挙(実質的には命令)を通知するまでの短い時間に、四条隆親がいち早く正確な情報を入手し、「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏に提供できた理由は、やはり足利義氏女・能子を妻としていたことが大きいように思われます。
隆親にとって能子は藤原範茂女・坊門信家女に次ぐ三番目の正室で、最初の妻は父・範茂が承久の乱の「合戦張本」の一人として殺されてしまった結果、隆親から離縁されます。
ちなみに『吾妻鏡』承久三年七月十八日条によれば、甲斐宰相中将・藤原範茂は名越朝時に預けられて東海道を下り、足柄山の麓で斬罪に処せられるべきところ、五体が揃っていなければ来世の障りになるだろうという本人の希望で、替わりに早河に沈められた、とのことで、なかなか悲しいエピソードですね。

藤原範茂(1185-1221)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AF%84%E8%8C%82

そして、二番目の妻・坊門信家女との間には房名(1229-88)が生まれており、当初、隆親は房名を嫡子と定めていました。
しかし、能子が隆顕(1243-?)を生むと、隆顕が嫡子となります。
四条家と足利家がどのような経緯で結びついたのか、私にとっては長い間の謎だったのですが、北条家が間に入っていたのではなかろうか、というのが現在の私の仮説です。
足利義氏と北条家との関係について、花田卓司氏は「鎌倉初期の足利氏と北条氏─足利義兼女と水無瀬親兼との婚姻を手がかりに─」(元木泰雄編『日本中世の政治と制度』所収、吉川弘文館、2020)の「はじめに」において、

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【前略】
 しかし、前田治幸氏は足利氏と北条氏との対立・緊張関係を所与の前提とする通説的理解に疑問を呈し、通説とは逆に鎌倉後期の足利・北条両氏は協調関係にあったとの見方を示した。本稿は、足利氏は北条氏と対立する相手ではなかったという視角に学びつつ、鎌倉初期における両氏の関係をあらためて考えようとするものである。
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とされた後、第二節に入って、

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 二 足利義氏と北条政子・義時

 足利義兼は建久六年(一一九五)に出家・隠遁し、頼朝と同じ正治元年(一一九九)に没した。義兼のあとを継いだのは、時政女(北条政子の同母妹)が生んだ義氏である。
 義氏は建長六年(一二五四)に六六歳で死去したとされるので、生年は文治五年(一一八九)となる。義兼が死去した時点では一一歳という若年で、元服以前だったと考えられる。なお、生母時政女の没年は不明だが、義兼から密通の嫌疑を受けて死去したと伝承されており、義兼の生前に没していた可能性がある。
 元服以前に父を亡くした義氏とその姉妹がいかなる境遇にあったのかをうかがえる史料はないが、佐藤雄基氏は、元久二年(一二〇五)六月の畠山重忠の乱で北条義時率いる軍勢の先陣・後陣を除く筆頭に義氏の名が挙がり、また、建保元年(一二一三)五月の和田合戦でも北条泰時・朝時とともに義氏が将軍御所の防衛にあたっている点から、義兼の死後、義氏は北条政子・義時の保護下にあったと述べている。後年、義氏は政子の十三回忌にあたり高野山金剛三昧院に大仏殿を建立し、丈六大日如来像を造立・安置して実朝と政子の遺骨を納め、美作国大原保を寄進している。これは政子が若年の義氏の保護者であった縁によると考えられる。
【中略】
 『吾妻鏡』などには、足利義氏が北条氏一門と行動をともにし、親密な交流があったことをうかがわせる記載がみられる。特に、義氏が北条時房の後を承けて武蔵守に、同じく義時の後に陸奥守となり、時房没後には政所別当に就任し、泰時が没した翌年の寛元元年(一二四三)正月垸飯では第一日の沙汰人を務めていることなどは象徴的である。義時の遺領配分とあわせて、義氏に対する厚遇は北条政子・義時の保護下で義氏が「猶子」的な扱いを受けていたことを示唆する。政子・義時に後見されて成長した義氏は、時房や泰時に准じ、時に彼らの代役となり得る「准北条一門」とでもいうべき存在だったと考えられる。
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と書かれていますが(p53以下)、高野山金剛三昧院の件など、確かに義氏が政子・義時の「猶子」的な、「准北条一門」的な立場でないと説明が困難ですね。
義氏の立場がこのようなものであれば、四条隆親は決して北条氏から独立した有力御家人である足利義氏と結びつきたいと考えたのではなく、北条氏との関係を強化するために足利義氏に近づいたと考えることができそうです。
あるいは、北条氏が四条隆親と足利義氏女の結婚を斡旋・仲介したと考える方が自然なのかもしれません。
このように考えると、具体的に二人を結び付けた存在として、六波羅探題北方の北条重時と、その同母姉妹である土御門定通室の名前が浮かんできます。
実は、能子は隆顕を生んだ翌寛元二年(1244)三月一日以前に死去していて(『平戸記』同年三月二日条)、足利家との縁が弱まった後、なお隆親が隆顕を嫡子とした理由も謎だったのですが、北条氏との縁こそが重要だったのだと考えれば、これも自然です。

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四条隆親と隆顕・二条との関係(その3)

2022-12-19 | 唯善と後深草院二条

四条隆親の生年は、『公卿補任』の早い時期の記録の方が信頼できそうなので、建仁二年(1202)としておきます。
さて、承久の乱に際し、武装して後鳥羽院に近侍していた隆親(1202-79)が何故に処罰を免れたのかについて、姉の四条貞子(1196-1302)が親幕府派の西園寺実氏(1194-1269)室だったから、という理由が考えられます。
秋山論文の注(104)によれば、

-------
 嫡男降親も早くから後鳥羽に接近し、院御給で正五位下、従四位上に叙されたのだが、興味深いのは彼が承久の乱の最中、後鳥羽の比叡山御幸に武装して供奉したことである(『吾妻鏡』承久三年六月八日条)。ちなみにその時同行したのは、源通光、藤原定輔、親兼の兄弟、親兼の息子信成、尊長という院近臣ばかりであったが、承久の乱の張本の一人と見做された尊長は別としても、隆親以外は皆乱直後の七月二十日に恐懼に処された(『公卿補任』)。あまつさえ親兼、信成は六波羅に拘禁され、その際親兼は出家してしまった(同上)。通光もその後ずっと籠居し、安貞二年になってようやく出仕している(同上)。隆親一人何の処分もうけず、乱後も順調に昇進したのである。彼が処分を免れ得たのは姉貞子が幕府と親密な西園寺実氏の妻であったことによるのかもしれない。(但し貞子所生の長女姞子が嘉禄元年か二年の誕生であるので〈『女院次第』『五代帝王物語』『平戸記』仁治三年六月三日条など〉この婚姻が乱以前に成立していたかどうかには疑問が残る。)

http://web.archive.org/web/20150618013530/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/akiyama-kiyoko-menoto.htm

とのことで、西園寺実氏と姉・貞子との結婚時期という問題が一応ありますが、しかし、姞子(大宮院)が嘉禄元年(1225)生まれとして、その時に実氏は三十二歳、貞子は三十歳ですから、当時の上級貴族の結婚年齢としては高すぎます。
従って、二人の結婚自体はかなり前で、ただ子供が暫く生まれなかった、と考えるのが良さそうですね。
こうした西園寺家との関係の他に、承久の乱の時点で隆親は二十歳という若年であり、実際上の加担の程度が低かった、という事情も加味されたと思われます。
後鳥羽の比叡山御幸に同行した源(久我)通光など、上卿として義時追討の官宣旨に直接関与したのですから、殺されなかっただけマシかもしれません。
ま、それはさておき、四条家は承久の乱の影響を受けることなく、後堀河・四条天皇期にも北白河院(1173-1238)と密着して権勢を誇りますが、では何故、皇統が大きく変化した後嵯峨践祚後にも権勢を維持し得たのか。
再び秋山論文の引用となりますが、「〔四条天皇が〕嘉禎三年(一二三七)秋、閑院内裏の修理のために隆親邸に渡った時は翌年二月まで逗留している」に付された注(112)によれば、

-------
『百練抄』嘉禎四年二月十一日条。しかしこの直後の閏二月、隆親は「禁中狼籍事行不調事等之故」突然権大納言に任じられる代わリに近習を放逐されてしまった(『玉蘂』閏二月十五日条)。すなわち乳父をやめさせられてしまった訳である。こののち四条天皇生存中は殆ど朝廷の表舞台に登場しなくなるのだが、仁治三年正月、四条が急死し後嵯峨天皇が推戴されるとその近臣として再浮上した。しかも妻能子(足利義氏女)は後嵯峨の乳母と称されている。この点に関して深く言及することは避けるが、とりわけ注目されるのは四条が死去した閑院内裏に替って彼の冷泉万里小路殿が新内裏となったことである。それは幕府の使者が上洛する以前に内定していたようなので(『平戸記』仁治三年正月二十日条)、一早く彼が後嵯峨の許に参じたことがわかる。その後は後嵯峨の皇嗣久仁(後深草)の乳父となリ(久仁の母姞子は隆親の姪)、建長二年には家格を破って大納言に進み、また院の評定衆に加えられ、更に後深草院の執事別当となった(『民経記』正元元年十一月二十四日条)。かくして『とはずがたり』の著者二条の外祖父として知られる隆親は、『正元二年院落書』に「四条権威アリアマリ」と書かれるに至るのである。
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とのことで、嘉禎四年(1238)に隆親は何かトラブルを起こして乳父からはずされてしまいますが、結果的には、むしろこのトラブルで後高倉院の系統と距離を置いたことが良かったようですね。
仁治三年(1242)正月五日、四条天皇は近習や女房を転ばして笑おうと思って弘御所の板敷に蝋石の粉を巻いたところ、自分が転んでしまって頭を打ち、そのまま寝込んで九日に死んでしまいます。

「巻四 三神山」(その3)─四条天皇崩御
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ca597edec3cd8bc67c6d4495b5080308

歴代天皇の中でもこれほど情けない死に方をした人は珍しいと思いますが、僅か十二歳なので四条天皇に子供はなく、これで後高倉院の系統は断絶してしまいます。
そこで次の天皇を、後鳥羽院の系統のうち、土御門院皇子と順徳院皇子のいずれにするかが問題となりますが、承久の乱の結果、朝廷独自で皇嗣を決定することはできず、鎌倉の判断を待ちます。
この経過について『増鏡』や『五代帝王物語』には面白いエピソードが載っていますが、実際には朝廷対応の経験が長く、沈着冷静な六波羅探題北方・北条重時(1198-1261)が義兄・土御門定通(大江親広と離縁後、定通と再婚した妻が「姫の前」所生で、重時と同母)と相談した上で作成した対処案、即ち土御門院皇子案を執権・北条泰時に提示し、それを泰時が了解したということだと思います。

「巻四 三神山」(その4)─安達義景と土御門定通
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c9b7d4f4b0df1e7801da6e5240cea61
『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9

そして四条隆親は新しい天皇が土御門院皇子となることをいち早く察知し、幕府の使者が上洛する前に、自邸「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏として提供すると申し出て内定を得たのだそうで、まことに機敏な対応ですね。

「巻四 三神山」(その5)─後嵯峨天皇践祚
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d01cc8b88bb37aacbf623cc62fd4e6d5

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四条隆親と隆顕・二条との関係(その2)

2022-12-18 | 唯善と後深草院二条

承久の乱が後深草院二条の父方の祖父・久我通光(1187-1248)に与えた影響と、母方の祖父・四条隆親(1202-79)に与えた影響は対照的です。
久我通光は承久の乱の勃発時に内大臣で、北条義時追討の官宣旨に上卿(責任者)として関与しています。
即ち、長村祥知氏の翻刻によれば、「陸奥守平義時朝臣」を追討せよとの官宣旨は、

-------
史料4 承久三年五月十五日「官宣旨案」(小松家所蔵文書。鎌遺五─二七四六)

右弁官下 五幾内諸国<東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・大宰府>
 応早令追討陸奥守平義時朝臣身、参院庁蒙
 裁断、諸国庄園守護人地頭等事
右、内大臣宣、奉 勅、近曽称関東之成敗、乱天下政務。
纔雖帯将軍之名、猶以在幼稚之齢。然間彼義時朝臣偏仮
言詞於教命、恣致裁断於都鄙。剰輝己威、如忘皇憲。論之
政道、可謂謀反。早下知五幾七道諸国、令追討彼朝臣。兼又諸国
庄園守護人地頭等、有可経言上之旨、各参院庁、宜経上奏。
随状聴断。抑国宰并領家等、寄事於綸綍、更勿致濫行。
縡是厳密、不違越。者、諸国承知、依宣行之。
   承久三年五月十五日 大史三善朝臣
大弁藤原朝臣

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e729067bee8a32cc39835bbc43e817a6

というものですが、四行目の「内大臣」が三十五歳の久我通光ですね。
幕府にしてみれば、通光は「合戦張本」の一人であって、当然に厳しい処分の対象となります。
処刑こそ免れましたが、七月三日に内大臣を辞し、安貞二年(1228)三月二十日に「朝覲行幸時始出仕。弾琵琶」とあるまで「承久三年後篭居」(『公卿補任』)を余儀なくされます。
そして、その後も実に二十五年間も散位の状態が続きますが、しかし、寛元四年(1246)十二月二十四日、突如として太政大臣に任ぜられ、同日従一位に叙せられます。
まあ、これは通光に何か功績があったからではなく、同母弟の土御門定通が後嵯峨天皇擁立に貢献したことへの論功行賞の一部ですね。
通光は一年と少しだけ太政大臣の地位を保った後、宝治二年(1248)一月十七日に上表し、翌日死んでしまいます。
また、通光は全財産を後妻(三条)に譲ってしまったので、死後も久我家は大変な相続争いが続きます。

若い世代向けの『とはずがたり』参考文献(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/245e51cbb2455b4ac2ba7355537b1fa3

これに対し、四条隆親は一応は甲冑を帯びて後鳥羽院の叡山御幸に同行するなどしましたが、若年ということもあり、処罰は受けていません。
受けていないどころか、先に『公卿補任』で確認したように、後堀河・四条天皇期も順調に出世しています。
この時期の四条家の動向は秋山喜代子氏の「乳父について」(『史学雑誌』99編第7号、1990)という論文に詳しいのですが、秋山氏によれば、四条隆親は「乳父」という制度を考える上でも興味深い存在のようです。
即ち、隆親は秀仁親王(四条天皇)の乳父の一人となりますが、

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 寛喜三年(一二三一)二月十二日、秀仁が誕生すると『明月記』二月二十九日条に三人の乳父が定められたとある。これより先、二十日条によると「内々沙汰」(おそらく外戚九条道家の意向)で西園寺実氏(道家の舅公経の嫡男)が、また後堀河天皇の強い希望でその近臣(101)大炊御門家嗣(後堀河の乳母成子の婿)が推挙されており彼らが有力候補と見做されていたのだが、この二人に四条隆親が加えられて決定した。隆親は後堀河の近臣で(102)、この直前、正月二十九日に道家の次男良実を「婿」(103)(姉妹灑子の夫)にとった人物である(104)。
 さて、秀仁の立坊と同時に実氏(105)は東宮傅に、家嗣(106)は大夫に任じられたので、上級貴族である彼らは公経の系譜を引く全くの後見者化した乳父であるとみられる。一方、中級貴族の隆親には元来の「執事」的側面が色濃く残っている。それは通過儀礼における降親の経済的負担が他の二人よりも断然多いこと(107)、本来乳父、乳母の課役であることの多い装束(108)を隆親のみがしばしば献じていること(109)などに窺える。彼は東宮職に補されなかったけれども東宮に近侍しており(110)、むろん即位後も近習であった。例えば利子内親王が四条天皇の准母となって入内した天福元年(一二三三)四月十七日の『民経記』には「斎宮(利子)入御遅々之間、幼主(四条)令寝給、凡驚給之間及遅々、御乳母四條中納言(隆親)参入奉抱、為奉驚也」とあり、寝てしまった幼い天皇を乳父隆親が抱いて起こしたというのだが、このことは彼の近習奉仕の様子をよく示している。また四条天皇は方違いなどで隆親の冷泉万里小路殿へ行幸しているが(111)、特に嘉禎三年(一二三七)秋、閑院内裏の修理のために隆親邸に渡った時は翌年二月まで逗留している(112)。

http://web.archive.org/web/20150618013530/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/akiyama-kiyoko-menoto.htm

とのことで、隆親は後堀河・四条天皇に密着した存在となっています。
こうした関係が形成されたのは、承久の乱後、隆親の父・隆衡が北白河院(後高倉院妃、後堀河天皇母、1173-1238)に親近したためのようです。
即ち、秋山論文の補注104によれば、

-------
 それはさておき、四条家は乱後急速に北白河院(後堀河の母)に近づいたらしく、北白河院が貞応元年四月従三位となると、隆衡がその勅別当となっている。そして元仁二年正月、丹後国を拝領して北白河院御所持明院殿の造営に着手したのだが、それが成った翌年八月、隆親は勧賞で三人を超越して正三位に叙されている(『明月記』元仁二年正月十三日、嘉禄二年八月四日、五日条)。 こののち隆親が北白河院の執事別当とみえることからすれば(同上寛喜二年八月二十三日、同三年三月二十二日条など)、院号宣下時にまず隆衡が執事別当となリ、嘉禄三年九月に隆衡が出家した後隆親が跡を継いだのだろう。いずれにしろ四条家が側近中の側近として北白河院中をとりしきっていたとみられる(同上寛喜元年十二月十四日条を参照)。
 こうした国母との親密な関係によって、隆親は後堀河の有力な近臣となった。それは後堀河が隆親邸へしばしば方違していることや(同上寛喜二年四月十七日、『民経記』同四年二月十九日条)、人事に関わることで後堀河への取り次ぎを依頼されている(『民経記』貞永元年四月十一日、九月二十八日条)のによく示されている。
 以上にみた天皇家の近臣としての活躍は、四条家が大層富裕であったことと無関係ではない。その富威は隆衡、隆親らの天王寺参詣が女房二十人、侍二十人、侍従三百人を引き連れ、「諸人属目歟」という華やかさであったと記す『民経紀』嘉禄二年九月十九日条に明瞭にあらわれている。かかる豊かな財力による奉仕が見込まれて負担の重い院の年預や乳父に何度もあてられたのだろう。(既述のごとく隆衡は後鳥羽院の年預であったが、隆親も後堀河の譲位と同時に年預となリ〈『民経記』貞永元年十月四日条〉、隆親の一男房名も後嵯峨の退位時に年預〈但し実質上は隆親〉となった〈『陽龍記』寛元四年正月二十九日条〉。四条家が引き続いて任じられているのに留意すべきである。)
-------

とのことです。
それにしても、ここまで四条家が後堀河・四条天皇と近いと、四条天皇の頓死後、四条家が後嵯峨天皇と極めて良好な関係を保ったことが不思議に思えますが、そこは隆親に機を見るに敏な特別な才覚があったようです。

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四条隆親と隆顕・二条との関係(その1)

2022-12-17 | 唯善と後深草院二条

『とはずがたり』を離れて、現実の世界での四条隆親・隆顕父子と後深草院二条の関係を見て行きます。
まず、四条隆親についての概要は、正確性に若干の問題があるものの、ウィキペディアあたりを参照してください。

四条隆親
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E8%A6%AA

ウィキペディアは「弘安2年(1279年)9月6日、78歳で薨去」としていますが、『公卿補任』弘安二年には、散位の七番目に

 前大納言正二位 <四条>同隆親<七十七> 兵部卿。九月六日薨。号四条。

とあり、七十七歳没となっています。
実は『公卿補任』自体に混乱があって、隆親が貞応三年(1224)に初めて登場したときには二十三歳であり、以後は文永五年(1268)の六十七歳まで一歳ずつ加算されているので、逆算すれば建仁二年(1202)生まれとなります。
ところが、翌文永六年(1269)も六十七歳で、以後、没年まで一歳ずつ加算されているので、こちらで逆算すると建仁三年(1203)生まれとなります。
ま、事情は分かりませんが、生年の混乱も僅か一歳だけですね。
さて、先に野口華世氏の講演を紹介した際に少し述べたように、隆親は藤原北家魚名流、鳥羽院近臣の藤原家成(1107-54)の子孫(善勝寺流)で、家成から数えると

 家成─隆季─隆房─隆衡─隆親

という具合いに五代目です。

「第42回群馬学連続シンポジウム 鎌倉武士のアーバニズム」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3361bc13210203407b82fce9dc8f9dc6

隆親の母親は坊門信清(1159-1216)の娘なので、源実朝室(西八条禅尼、1193-1274)の姉妹ですね。
承久の乱(1221)に際し、二十歳(または十九歳)の隆親も甲冑で武装し、後鳥羽院に従って叡山に登っています。

「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c004b184d9f914b0a64d5510efef6f9
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/18728f3064e7515456553a7fc5fadf51

官軍敗北後の幕府による戦後処理で、後鳥羽院に加担した多数の貴族が死罪を含む処罰を受けます。
隆親の従兄・坊門忠信(1187-?)は、いったんは死罪と決まったものの、妹の西八条禅尼の懇願で流罪に変更され、辛うじて首の皮一枚で命がつながったことは有名ですが、隆親は特に処罰はされなかったようです。
貞応三年(1224)に参議となって『公卿補任』に初登場した時の記事を、見やすいように西暦を加えるなどして若干整理すると、

-------
元久二年(1205)正・5 五位
建暦二年(1212)正・5 従五位上
建保三年(1215)正・13 右兵衛佐
同 五年(1217)正・6 正五位(院御給)
        6・19 左馬頭
承久元年(1219)2・2 四位
同 二年(1220)正・20 但馬権介
        4・16 左少将
同 三年(1221)正・5 従四位上(院御給)
        4・16 左中将
同 四年(1222)2・28 正四位下
貞応元年(1222)8・16 補蔵人頭
貞応三年(1224)12・17 参議
-------

といった具合で、隆親は承久の乱前に「院御給」を二回受けるなど、後鳥羽院との関係は良好ですが、乱後も翌年正月に早くも昇叙、同年八月に蔵人頭ですから、乱の影響は皆無ですね。
この後も『公卿補任』で隆親の経歴を追って行くと、

-------
元仁二年(1225)正・5 従三位(北白河院御給)
        正・23 讃岐権守
        12・22 兼右衛門督
嘉禄二年(1226)8・5 正三位
同 三年(1227)2・8 別当宣旨
安貞二年(1228)3・20 従二位(朝覲行幸院司)
寛喜二年(1230)正・24 丹波権守
同 三年(1231)3・15 権中納言
        4・23 辞督別当
        9・20 勅授
貞永元年(1232)12・15 正二位(臨時超伊平卿)
文暦二年(1235)〔不明〕中納言
嘉禎二年(1236)2・30 兼太宰権帥
同四年(1238)閏2・15 権大納言
延応二年(1240)12・18 「辞帥并薩摩国等。以男房名申任三川守」
-------

という具合いに、後堀河・四条天皇期にも隆親は順調に出世していますね。
少し長くなったので、後嵯峨親政以降の時期については次の投稿で書きます。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その16)

2022-12-16 | 唯善と後深草院二条

そろそろ『とはずがたり』において「有明の月」ストーリーがいかなる機能を果たしているか、という問題の結論を出したいと思います。
「有明の月」ストーリーの大きな流れを掴むため、(その1)と(その6)では、次田香澄氏の『とはずがたり 全訳注』の目次を借りて、「有明の月」が直接登場する場面には(☆☆)、間接的に話題になっている場面には(☆)をつけておきましたが、(☆☆)と(☆)の場面を除くと、巻二は次のようになります。

-------
1 元旦の感懐
2~5 (「粥杖事件」)

7 亀山院来訪、遊宴ののち文
8 長講堂供養、御壺合せ

10 六条殿供花、伏見の松取り
11 院「扇の女」と逢う
12 雨中に捨ておかれた傾城出家

16 院と亀山院小弓、負態に女房蹴鞠
17 負態の女楽の計画、作者の琵琶の来歴
18 祖父隆親の措置に怒り出奔
19 関係者作者を探す、醍醐に移る

21 雪の曙来訪、隆顕と三人で語る

23 院来訪、作者御所にもどる、着帯
24 曙との女児に再会
25~29 (「近衛大殿」エピソード)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1db6de82f14d8b00d924a83f5e67774

また、巻三は、

-------
5 雪の曙来訪の夜の火事

9 曙の恨み言、着帯

11 法輪寺に籠る、嵯峨殿より院の使
12 大宮院と院・亀山院との酒宴
13 両院の傍らに宿直、亀山院の贈物
14 東二条院より大宮院への恨みの文

21 亀山院との仲を疑われる

23 御所を追放される、祖父隆親と対面

25~33(北山准后九十賀)

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db5720edb69d91bf372e6f4ab306d4cd

となります。
「有明の月」が存在しないと、巻二・巻三はスカスカになってしまいますが、この粗い骨組みから更に華やかな宮廷行事、後深草院単独の好色エピソード、二条と後深草院・亀山院・「近衛大殿」との好色エピソードを除くと、結局は後深草院二条が東二条院との対人関係のトラブルから宮廷を追放されたこと、そして四条隆顕が父・隆親と対立して籠居し、死んでしまったことが残ります。
「有明の月」との関係では、二条と隆顕は常にセットで登場しますし、二条も「女楽事件」で祖父・隆親と対立しているので、隆親との関係でも二条と隆顕はセットとなっています。
そうすると、結局のところ、「有明の月」という存在は、宮廷生活における人間関係のトラブルと親子関係のトラブルで、二条と隆顕がともに敗者となったという、まあ、世間にはいくらでもありそうな話を壮大な悲劇にするための舞台装置、ということになろうかと思います。
主役はもちろん二条、隆顕は脇役で、後深草院は二条の運命を翻弄する悪魔的な舞台回し、「有明の月」は後深草院に翻弄される点では二条と共通する個性的な脇役ですが、同時にこの人がいるおかげで舞台に世俗世界とは異なる深遠な宗教的雰囲気が醸し出されるので、大道具・小道具・音響・照明という裏方の取り纏め役も兼ねていますね。
以上はあくまで『とはずがたり』という自伝風小説の中における架空の人物「有明の月」の機能の分析ですが、次の投稿では、現実世界で、四条家の総帥である隆親にとって、二条と隆顕がいかなる機能を果たすべき存在として期待されたか、を検討したいと思います。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その15)

2022-12-15 | 唯善と後深草院二条

『公卿補任』では弘安二年(1279)九月六日に死去したと明記されている四条隆親が、国文学者の『とはずがたり』年表では、その四年後の弘安六年(1283)初秋に存命で、東二条院の手紙を受け取り、東二条院の指示に従って二条が御所を退出する手はずを整え、退出してきた二条と対面している点、『とはずがたり』を自伝風小説と考える私の立場からは別にどうでも良いことですが、『とはずがたり』を事実の記録と考える人々にとっては相当に重大な問題ですね。
そもそも『とはずがたり』自体には、二条の御所退出が弘安六年(1283)の出来事と明記されている訳ではありません。
国文学者は弘安八年(1285)の行事であることが明確な「北山准后九十賀」から逆算して、二条が御所を退出し、東山で「有明の月」の三回忌を営んだのは弘安六年(1283)、従って巻三が始まり、「有明の月」が死去したのは弘安四年(1281)と推論しています。
それなりに合理的な推論ですが、その結果、巻二と巻三の間に三年半もの空白が生じ、隆親の死去は四年も後ろにズレることになります。
また、巻三の「院、有明を許す、有明感謝」(7)の場面で、後深草院が引用する「有明の月」の発言の中の「三年過行」の解釈が非常に難しいものとなります。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/146109dc93c7c5948c160d7cf1936b99

私としては、『とはずがたり』を事実の記録と考える立場の研究者から、空白期間を後ろに置こう、という発想が出てこなかったのが何とも不思議です。
この点、上記リンク先の投稿で既に一部を紹介しましたが、日下力氏は『中世尼僧 愛の果てに 『とはずがたり』の世界』(角川選書、2012)において、「三年過行」に触れて次のように書かれています。(p125)

-------
 ところで、右の引用文中、有明の月が「三年過ぎ行くに」と語っている箇所は、解釈に諸説がある。たとえば、二条と知り合ってから起請文を届けるまでの年数と解して「二年」を誤写したものかと言い、また、三年過ぎ行くうちには断念してしまおうの意か、とも言う(新潮日本古典集成・頭注、新日本古典文学大系・脚注)。いずれも、巻二から事実としては三年半が経っていることを考慮しての説。が、再三述べてきたように(六三、一二一頁参照)、筆写の筆の運びは、その事実を感じさせない。ストーリーをすなおにたどれば、ここは二人の出会いからまる三年目、絶交した時から数えたとすれば足掛け三年、どちらにしても「三年過ぎ」たことになる。事実を超えて、ものがたろうとしている叙述姿勢の表れと理解すべきであろう。
-------

「事実を超えて、ものがたろうとしている叙述姿勢の表れと理解すべき」か否かはともかくとして、『とはずがたり』の時間の流れでは巻二・巻三で断絶はないと考えるのが自然です。
そこで、断絶なしと仮定して新たな年表を作ると、

建治元年(1275)三月十三日 「有明の月」の初出。唐突に二条に恋心を打ち明ける。
建治二年(1276)九月十余日 隆顕の計らいにより出雲路で「有明の月」とあう。絶交を決意。
同       十二月   「有明の月」から(外形だけの)起請文が送られてくる。
建治三年(1277)三月    「女楽事件」。御所を出奔し、行方不明に。
弘安元年(1278)二月中旬  後深草院、「有明の月」と二条の関係を知り、これを許す。
同       十一月六日 「有明の月」の男児(第一子)を出産。
同       十一月二十五日 「有明の月」死去。
弘安二年(1279)三月    「有明の月」の第二子懐妊を知る。
同       八月二十日 東山でひそかに「有明の月」の第二子を出産。
弘安三年(1280)初秋    東二条院の命により御所退出、祖父・隆親と対面。
同       秋     隆親死去。
同       十一月   東山で「有明の月」の三回忌を営む。
弘安四年(1281)二月    祇園社に桜の枝を奉納。

となります。
日下氏の言われるように、「院、有明を許す、有明感謝」(7)の場面の時点で、「二人の出会いからまる三年目、絶交した時から数えたとすれば足掛け三年」ですね。
そして、「有明の月」との出会いからその死去まで四年ですから、間延びが一切なくて、まことに自然なストーリーとなります。
このように年表を修正したとしても、隆親の死去が一年後ろにずれてしまいますが、四年ならともかく、一年程度だったら記憶違いという説明も可能でしょう。
そして、弘安四年(1281)二月、祇園社に桜の枝を奉納して以降、弘安八年二月末の「北山准后九十賀」までに空白期間を移します。
ここは力業になりますが、『とはずがたり』を論ずる国文学者が好むマジックワード、「朧化」を使えばよいと思います。
ま、所詮、私は『とはずがたり』を自伝風小説と考える立場なので、どうでも良いのですが、今後も『とはずがたり』を事実の記録とする立場を維持したい研究者の方々にとって、多少なりとも参考になれば幸いです。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その14)

2022-12-14 | 唯善と後深草院二条

陰気な場面が続いた後、「御所を追放される、祖父隆親と対面」(23)に入ると、後深草院に翻弄されて揺れ動く作者の心情が細かく描かれ、文章が乱れがちになっていますが、もちろんこれは作者が意図的にやっていることです。
後深草院二条は極めて明晰な論理的思考ができる人であり、巻二冒頭の「粥杖事件」など、実際の裁判手続を模したコメディの中で理路整然とした弁論も展開されています。
従って、ここでも御所追放の原因が東二条院にあったことが判明するまでの経緯をダラダラ書かずに、最初にバッと結論を出して、簡潔明瞭に経緯を説明することもできた訳ですが、そんなことをしても面白くもなんともないので、作者は読者の反応を想定して、文章に工夫を凝らしている訳ですね。
さて、この場面の最大の謎は、国文学者が作成する『とはずがたり』年表では、二条の御所追放が弘安六年(1283)初秋の出来事とされているのに、『公卿補任』では四条隆親は四年前、弘安二年(1279)九月六日に死去していることです。
この四年のタイムラグはいったい何なのか。
『とはずがたり』を自伝風小説と考える私の立場からは別にどうでも良いことですが、事実の記録と考える人々にとっては相当に重大な問題となるはずです。
その点、後で改めて検討することにして、とりあえず「有明の月」ストーリーを最後まで追って行くことにします。
祖父隆親と対面した場面の続きです。(p142)

-------
 まことに、このうへを強ひて候ふべきにしあらずなど、なかなか出でて後は思ひ慰むよしはすれども、正〔まさ〕に長き夜の寝ざめは、千声万声の砧の音もわが手枕に言問ふかと悲しく、雲居をわたる雁の涙も、物思ふ宿の萩の上葉をたづねけるかとあやまたれ、明かし暮らして年の末にもなれば、送り迎ふるいとなみも何のいさみにすべきにしあらねば、年ごろの宿願にて、祇園の社に千日籠るべきにてあるを、よろづに障り多くて籠らざりつるを、思ひ立ちて、十一月の二日、初めの卯の日にて、八幡宮御神楽なるに、まづ参りたるに、「神に心を」とよみける人も思ひ出でられて、

  いつもただ神に頼みをゆふだすき掛くるかひなき身をぞ恨むる

七日の参籠果てぬれば、やがて祇園に参りぬ。
-------

「神に心を」は『新古今和歌集』神祇の「八幡宮の権官にて年久しかりけることを恨みて、御神楽の夜参りて榊に結びつけ侍りける」という詞書がついた法印成清の歌で、

  榊葉にそのいふかひはなけれども神に心をかけぬまぞなき

というものです。
それほどの名歌とも思えませんが、二条の歌と綺麗に対応はしていますね。
石清水八幡宮に参籠した後、「有明の三回忌、祇園に籠る」(24)場面となり、これが「有明の月」ストーリーのラストです。(p149以下)

-------
 いまは、この世には残る思ひもあるべきにあらねば、「三界の家を出でて、解脱の門〔かど〕に入れ給へ」と申すに、今年は有明の三年〔みとせ〕に当たり給へば、東山の聖のもとにて、七日法華講讃を五種の行に行なはせ奉るに、昼は聴聞に参り、夜は祇園へ参りなどして、結願には、露消え給ひし日なれば、ことさらうち添ゆる鐘も涙もよほす心地して、

  折々の鐘のひびきに音〔ね〕を添へて何と憂き世になほ残るらん

 ありし赤子、引き隠したるもつつましながら、物思ひの慰めにもとて、年も返りぬれば、走り歩き物言ひなどして、何の憂さもつらさも知らぬも、げに悲し。
 さても、兵部卿さへ、憂かりし秋の露に消えにしかば、あはれもなどか深からざらんなりしを、思ひ敢〔あ〕へざりし世のつらさを嘆くひまなさに、思ひわかざりしにや、菅〔すが〕の根の長き日暮らし、紛るることなき行ひのついでに思ひつづくれば、母の名残には一人とどまりしになど、今ぞあはれに覚ゆるは、心のとまるにやと覚ゆる。
 やうやうの神垣の花ども盛りにみゆるに、文永のころ天王の御歌とて、

  神垣に千本〔ちもと〕のさくら花咲かば植ゑおく人の身も栄へなん

といふ示現ありとて、祇園の社におびたたしく木ども植ゆることありしに、まことに神の託し給ふことにてもあり、またわが身も神恩をかうぶるべき身ならば、枝にも根にもよるべきかはと思ひて、檀那院の公誉僧正、阿弥陀院の別当にておはするに、親源法印といふは大納言の子にて申し通はし侍るに、かの御堂の桜の枝を一つ乞ひて、二月の初午の日、執行権長吏、法印ゑんやうに、紅梅の単文〔ひとへもん〕・薄衣、祝詞〔のと〕の布施に賜びて、祝詞申させて、東の経所の前にささげ侍りしに、縹〔はなだ〕の薄様のふだにてかの枝につけ侍りし。

  根なくとも色には出でよ桜花ちぎる心は神ぞ知るらん

 この枝をいつきて、花咲きたるをみるにも、心の末はむなしからじと頼もしきに、千部の経をはじめてよみ侍るに、さのみ局ばかりは、さしあひ何かのためも憚りあれば、宝幢院のうしろに二つある庵室〔あんじち〕の東〔ひんがし〕なるを点じて、籠りつつ今年も暮れぬ。
-------

この後、「北山准后九十賀」の長いエピソードで巻三は終わり、巻四・五では「有明の月」は一切登場しません。
「有明の月」の第二子は手元で育てたそうで、「ありし赤子、引き隠したるもつつましながら、物思ひの慰めにもとて、年も返りぬれば、走り歩き物言ひなどして」と、珍しく母親らしい記述もあるのに、この子についての記述も巻四・五にはありません。
また、「兵部卿さへ、憂かりし秋の露に消えにしかば」とあるので、前年の初秋に二条と対面した四条隆親は、その直後に死んでしまったことになります。
これも何だか唐突な展開です。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その13)

2022-12-13 | 唯善と後深草院二条

祖父の「四条兵部卿」隆親から「局などをきちんと片づけて退出しなさい。夜になったら車を迎えにやろう」という手紙をもらった二条は、事情が分からなくて後深草院の御前に行って、「何事でしょうか」と尋ねても御返事はなく、当時は三位殿と言われていた玄輝門院(洞院実雄女、熈仁親王母、1246-1329)に事情を聞いても「私も知りません」という返事。
そうかといって出ない訳にもいかないので、準備していると、四歳の九月から参上していた御所を出るのは非常につらく、涙にくれていたところ、例の「恨みの人」、即ち「雪の曙」が来て、泣き濡れている二条に「どうしたのです」と尋ねてくれたがつらくて答えられないので、祖父の手紙を見せるも、「雪の曙」も何のことか分からず、誰も合点が行かない、というのが前回引用した部分の内容です。
そして、次のように続きます。(p140以下)

-------
 おとなしき女房たちなどもとぶらひ仰せらるれども、知りたりけることがなきままには、ただ泣くよりほかのことなくて、暮れゆけば、御所ざまの御けしきなればこそかかるらめに、またさし出でんもおそれある心地すれども、今より後はいかにしてかと思へば、今は限りの御面影も、今一たび見参らせんと思ふばかりに迷ひ出でて、御前に参りたれば、御前には公卿二三人ばかりして、何となき御物語のほどなり。
 練薄物の生絹〔すずし〕の衣に、芒〔すすき〕に葛〔つづら〕を青き糸にて縫物にしたるに、赤色の唐衣を着たりしに、きと御覧じおこせて、「今宵はいかに御出でか」と仰せ言あり。何と申すべき言の葉なくて候ふに、「くる山人のたよりには訪れんとにや。青葛〔あをつづら〕こそ嬉しくもなけれ」とばかり御口ずさみつつ、女院の御方へなりぬるにや、立たせおはしましぬるは、いかでか御恨めしくも思ひ参らせざらん。
-------

年長の女房たちも言葉をかけてくれるけれども、ただ泣くよりほかにできないまま暮れ方になると、院の意向でこうなっているのだろうから、御前に出るのははばかられるけれども、これが最後かと思うと、もう一度だけお会いしたいと思って迷い出ると、院は公卿ニ、三人と雑談をしていた。
私は練薄物の生絹の衣に、芒に葛を青い糸で刺繍したものを着、赤色の唐衣を着ていたが、院はチラッと横目で見て、「今宵、出て行くのか」という仰せ言。返事もできないまま控えていると、「その模様は、来る手蔓があったらまた参ろうという訳か。青葛は嬉しくもないね」とだけ口ずさみつつ、東二条院の御方へか、御立ちになったのはどうして恨めしく思わずにいられよう。

ということで、衣裳にまで嫌味を言う後深草院は冷酷です。
そして、

-------
 いかばかり思し召すことなりとも、「隔てあらじ」とこそあまたの年々契り給ひしに、などしもかかるらんと思へば、時のまに世になき身にもなりなばやと、心一つに思ふもかひなくて、車さへ待ちつけたれば、これよりいづ方へも行き隠れなばやと思へども、ことがらもゆかしくて、二条町の兵部卿の宿所へ行きぬ。
-------

後深草院の対応に絶望した二条は、すぐに出家しようなどと思うものの、とりあえず事情を知りたいので、隆親が用意し、二条の退出を待っていた車に乗って「二条町の兵部卿の宿所」に行きます。
そこで、

-------
 みづから対面して、
「いつとなき老いの病と思ふ。このほどになりては殊に煩はしく頼みなければ、御身のやう、故大納言もなければ心苦しく、善勝寺ほどの者だになくなりて、さらでも心苦しきに、東二条の院よりかく仰せられたるを、強ひて候はんも憚りありぬべきなり」
とて、文〔ふみ〕を取り出で給ひたるをみれば、
「院の御方奉公して、この御方をばなきがしろに振舞ふが、本意〔ほい〕なく思し召さるるに、すみやかにそれに呼び出だして置け。故典侍大もなければ、そこにはからふべき人なれば」
など、御みづからさまざまに書かせ給ひたる文なり。
-------

ということで、隆親は東二条院からの手紙を出して、東二条院が隆親に二条を引き取るように命じたことが判明します。
隆親の言葉の中に「善勝寺ほどの者だになくなりて」とあるので、ここで「善勝寺大納言」四条隆顕が既に死んでしまっていることになりますが、これもずいぶん唐突な話です。
隆顕は巻二までは頻繁に登場していましたが、巻二の最後の方、「近衛大殿」エピソードの「酒宴の後、院の黙契で大殿作者と契る」(28)場面で、

-------
 かねの折敷に、瑠璃の御器にへそ一つ入れて、妹賜はる。 後夜打つほどまでも遊び給ふに、また若菊を立たせらるるに、「相応和尚の破不動」かぞゆるに、「柿の本の紀僧正、一旦の妄執や残りけん」といふわたりをいふ折、善勝寺きと見おこせたれば、我も思ひ合はせらるるふしあれば、あはれにも恐ろしくも覚えて、ただ居たり。のちのちは、人々の声、乱舞にて果てぬ。

http://web.archive.org/web/20150830053437/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-28-innomokkei.htm

という具合いに、白拍子が歌う今様の一節、「柿の本の紀僧正、一旦の妄執や残りけん」から「有明の月」を連想して、二条を「きと見おこせ」たのを最後として、巻三に入ると全く登場しませんが、ここで既に死んでしまっていることが明かされます。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その12)

2022-12-13 | 唯善と後深草院二条

「有明の月」ストーリーに戻って、「男子を生む、子への愛情、身辺寂寥」(22)の続きです。
「有明の月」が死去した翌年の八月二十日、東山で「有明の月」の第二子を出産した二条は、乳母もつけずに暫くその子を手許で育てますが、十月の初めくらいからまた御所に出仕することになったのだそうです。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p134以下)

-------
 しばしも手をはなたんことは名残惜しくて、四十日あまりにや、自らもてあつかひ侍りしに、山崎といふところより、さりぬべき人を語らひ寄せてのちも、ただゆかを並べて臥せ侍りしかば、いとど御所さまのまじろひもものうき心地して、冬にもなりぬるを、さのみもいかにと召しあれば、十月の初めつ方よりまたさし出でつつ、年もかへりぬ。
 今年は元三に候ふにつけても、あはれなることのみ数知らず、何ごとを悪しとも承ることはなけれども、何とやらん御心の隔てある心地すれば、世の中もいとどものうく心細きに、今は昔ともいひぬべき人のみぞ、「恨みは末も」とて、絶えず言問ふ人にてはありける。
------

御所に出仕はしてみたものの、年が明けても明るい気分にはなれず、後深草院との間も隔てが出来てしまったような感じだが、「今は昔ともいひぬべき人」、「雪の曙」だけは「恨みは末も」などと言いつつも絶えず訪ねてきてくれた、とのことですが、「恨みは末も」は『千載集』恋四の俊恵の歌、「思ひかねなほ恋路にぞかへりぬる恨みは末もとおほらざりけり」から採っています。
次田氏の訳によれば、「恨み合って別れたはずだったが、忘れかねてまた元にもどってしまう。愛情とは筋の通らないものだ」という意味で、この場面にぴったりの歌ですね。

俊恵(水垣久氏「やまとうた」より)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html

陰気な場面は更に続きます。(p135)

-------
 二月のころは、彼岸の御説法、両院嵯峨殿の御所にてあるにも、去年〔こぞ〕の御面影身をはなれず、あぢきなきままには、生身二伝の釈迦と申せば、「唯我一人の誓ひあやまたず、迷ひ給ふらん道のしるべし給へ」とのみぞ思ひつづけ侍りし。

  恋ひしのぶ袖の涙や大井川あふせありせば身をや捨てまし

 とにかくに思ふもあぢきなく、世のみ恨めしければ、底の水屑〔みくづ〕となりやしなましと思ひつつ、何となき古反故などとりしたたむるほどに、さても二葉なるみどり児の行く末を、われさへ捨てなば誰かはあはれをも掛けんと思ふにぞ、道のほだしはこれにやと思ひつづけられて、面影もいつしか恋ひしく侍りし。

  たづぬべき人もなぎさに生ひそめし松はいかなる契りなるらん

還御ののちあからさまに出でてみ侍れば、殊のほかに大人びれて、物語りゑみ笑ひなどするをみるにも、あはれなることのみ多ければ、なかなかなる心地して、参り侍りつつ秋の初めになるに、
-------

ということで、「去年の御面影」は「有明の月」のことですね。
ただし、「有明の月」は二年前の十一月に死去しているので、「去年の御面影」はちょうど一年前の二月十五日、東山の法華講讃の際に登場した「有明の月」の亡霊のことです。

「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4942b4bc0e50da080eca4eaaf07c3cac

そして、ここから巻三のクライマックス、「御所を追放される、祖父隆親と対面」(23)の場面となります。(p139以下)

-------
 四条兵部卿のもとより、「局〔つぼね〕など、あからさまならずしたためて出でよ。夜さり迎へにやるべし」といふ文あり。心得ず覚えて、御所へ持ちて参りて、「かく申して候。何ごとぞ」と申せば、ともかくも御返事なし。何とあることとも覚えで、玄輝門院、三位殿と申す御ころのことにや、
「何とあることどもの候やらん。かく候ふを、御所にて案内し候へども、御返事候はぬ」
と申せば、「われも知らず」とてあり。
 さればとて、出でじといふべきにあらねば、出でなんとするしたためをするに、四つといひける九月のころより参り初めて、ときどきの里居のほどだにこころもとなく覚えつる御所のうち、今日や限りと思へば、よろづの草木も目とどまらぬもなく、涙にくれて侍るに、折ふし恨みの人参る音して、「下のほどか」といはるるも、あはれに悲しければ、ちとさし出でたるに、泣き濡らしたる袖の色もよそにしるかりけるにや、「いかなることぞ」など尋ねらるるも、問ふにつらさとかや覚えて、物も言はれねば、今朝の文とり出でて、「これが心細くて」とばかりにて、こなたへ入れて泣きゐたるに、「されば何としたることぞ」と誰も心得ず。
-------

途中ですが、いったんここで切ります。

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「第42回群馬学連続シンポジウム 鎌倉武士のアーバニズム」(その2)

2022-12-12 | 唯善と後深草院二条

野口華世氏が重視されている藤原家成(1107-54)の家系は「善勝寺流」と呼ばれていて、その嫡流が後深草院二条の母方の四条家ですね。

善勝寺流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%8B%9D%E5%AF%BA%E6%B5%81

一般に「善勝寺流」の祖は家成の祖父・顕季(1055-1123)と言われていますが、善勝寺そのものは顕季の母で、白河上皇の乳母でもあった藤原親子の私宅に由来します。
上島亨氏の「法勝寺創建の歴史的意義─浄土信仰を中心に─」(『院政期の内裏・大内裏と院御所』、文理閣、2006)によれば、

-------
なかでも注目されるのが、白河上皇の乳母藤原親子である。彼女は応徳四年(一〇八七)二月一四日、法勝寺の東南に堂舎(善勝寺)を設け、そこを私宅とした。供養願文には「隣を法勝寺に卜するは、我が君の道場を離れざらんがためなり。浄土は広しといへども、望みを弥陀尊に懸く。女身の往生を聴るさるるによるなり」と記し、丈六金色の無量寿如来を安置し、法華経等を書写したという(『江都督納言願文集』巻五)。乳母親子は白河上皇の道場たる法勝寺の側で、往生を遂げんことを望み、偏に念仏を唱え、寛治七年(一〇九三)一〇月二一日にこの世を去った(『中右記』)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a0483cfc5c4eef3fac1df2fe95a936

とのことで、法勝寺の創建が承暦元年(1077)、善勝寺は応徳四年(1087)、そして堀河天皇の御願寺である尊勝寺の創建が康和四年(1102)ですから、十五年間は「二勝寺」の状態が続いた訳で、善勝寺から見れば、六勝寺に善勝寺が隣接していたのではなく、自分が法勝寺と仲良く寄り添っていたところに「五勝寺」が後からずうずうしく割り込んできたことになります。

六勝寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%8B%9D%E5%AF%BA

白河上皇の時代から「治天の君」に密着し、鳥羽院政期に王家領荘園の立荘を主導した藤原家成の嫡系である四条家は富裕で有名であり、鎌倉時代に入っても、その存在感は相当大きなものです。
『とはずがたり』では、四条隆親は五十五歳下の孫の後深草院二条と大喧嘩して周囲から非難されていますし、「善勝寺大納言」隆顕は小太りの剽軽者で、「有明の月」のお手紙配達人のような役回りで登場しますが、これはあくまで小説の世界の話ですね。
ま、そんなことで、四条家への関心から、私も野口華世氏の研究に注目していた訳です。
さて、「鎌倉武士のアーバニズム」では野口氏に次いで、足立佳代氏(日本考古学協会・日本庭園学会理事)の「庭園史からみた鎌倉武士の文化力」、塩澤寛樹氏(群馬県立女子大学教授)の「鎌倉殿と御家人の造像~運慶様から鎌倉スタイルへ~」という発表があり、その後、簗瀬大輔氏(群馬県立女子大学准教授)を司会にパネルディスカッションが行われました。
足立氏は足利市教育委員会が行なった樺崎寺跡の発掘に長く携わっておられたそうですね。
レジュメには「上野国における武士の庭園」として、群馬県邑楽郡千代田町の光恩寺が紹介されていましたが、「中世の光恩寺周辺は、佐貫の地名を名乗る佐貫氏が開発した荘園」で、光恩寺の「境内北東にある堂山古墳は東西を主軸とする前方後円墳で、南側に弁天堂を祀る弁天池がある。古墳を背景に周溝を利用した庭園が造営されたと考えられる」とのことです。
私は群馬県出身ですが千代田町近辺は不案内で、光恩寺のことは全く知りませんでしたが、レジュメの「第8図 光恩寺遺構配置図」を見ると、相当な規模の境内に土塁や板碑などが残存しているようで、ちょっと行ってみたくなりました。
三番目の塩澤寛樹氏が登壇される前に、全体の司会者の女性(学長?)が演題の「鎌倉殿と御家人の造像~運慶様から鎌倉スタイルへ~」の「運慶様」を「うんけいさま」と読んでいて、ちょっと笑ってしまいましたが、塩澤氏は別にそれを訂正することもなく、淡々と発表を続けておられたので、他人の小さなミスを指摘せずにはいられない私と違い、なかなかの人格者ですね。
私は塩澤氏の論文はいくつか読んだことがありますが、話を聞くのは初めてでした。
非常に物柔らかな話し方をする人で、そこはかとなくユーモラスでもあり、誰かに似ているなあ、などと講演中ずっと気になっていたのですが、帰宅途中の車の中で、そうだ、ムード歌謡漫談のタブレット純に似ているな、などと思ったりしました。

タブレット純
https://www.youtube.com/watch?v=wr_QGog6gS0

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「第42回群馬学連続シンポジウム 鎌倉武士のアーバニズム」(その1)

2022-12-11 | 唯善と後深草院二条

昨日は群馬県立女子大学で行われた「第42回群馬学連続シンポジウム 鎌倉武士のアーバニズム」を聴講してみました。

https://www.gpwu.ac.jp/info/img/e3bc273b72897bcab1c91964d7ed99a949a21b13.pdf

コロナで講演会等に出かける機会もめっきり減ってしまいましたが、今回は野口華世氏(共愛学園前橋国際大学教授)の「北条時政妻牧の方のネットワーク」という講演が含まれていたので、ある程度内容は予想できたものの、頭の整理になりそうだなと思って出かけてみました。
野口氏はもともと藤原家成に詳しい方ですが、牧の方も「藤原家成に連なる一族」とのことで、レジュメでもその点が強調されていました。
杉橋隆夫氏が明らかにされたように牧の方は池禅尼(宗子)の姪ですが、池禅尼の父・藤原宗兼と藤原家保室・家成母の隆子(崇徳乳母)が兄妹(または姉弟)で、家成と池禅尼は従兄妹(または従姉弟)という関係ですね。

藤原家成(1107-54)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%B6%E6%88%90
池禅尼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC

藤原家成は「鳥羽院近臣筆頭」で、「鳥羽院御願の寺院を次々に建立」、「その一環として次々と荘園を立荘していく荘園のオーガナイザー的存在」です。
一例として、上野国新田荘は、

 造営者:家成
 国司:藤原重家(家成の従兄弟)
 知行者(領家):花山院忠雅(家成の女婿)
 開発請負者:新田義重

という「家成のネットワーク」で成立したそうです。
北条時政については、時政は基本的に「京武者」であるものの「ただし彼の代には京との地盤が脆弱」で、「地方に狭小な所領をもち、院や摂関家のような荘園領主に依存」しており、「牧の方と婚姻関係をもつことは貴族社会に依存する「京武者」にとって必要」という説明でした。
「京武者」との位置付けについては、「京武者」にしては時政が無位無官だったという問題と、時政と「牧の方」の結婚時期の問題がありますが、時間の関係もあり、その点の説明はありませんでした。
また、「牧の方のネットワーク」として、「牧の方も家成系のネットワークの中にいて、さらにそれを拡大していった」とのことで「牧の方所生の娘たち…嫡女・二女・三女・四女」は「鳥羽院近臣を実質的に引き継いだ美福門院・八条院親子や家成系の一族に連なる」そうです。
これも時間の関係もあって詳しい説明はありませんでしたが、「参考文献」に載っていた山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価─」(『鎌倉』115号、鎌倉文化研究会、2014)を見ればよいことですね。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/21e9b0b6b84acf63128fa54e549724e9

さて、牧の方は「安貞二年(1227)時政十三回忌」に京都で「御堂建立」していますが、これは牧の方が経済的に非常に豊かであったことを示しています。
そこで、史料的な裏付けは難しいものの、「牧の方も荘園における「忠雅」的な位置にあった可能性」があるとのことでした。
要するに領家になっていた可能性があるということですね。
そして、「女性の荘園知行者は決して珍しくない(ジェンダー差がない)」、「官職に縛りのない女性はむしろコネクションを築きやすい存在」、「このコネクションの再構築サイクル(=ネットワークの維持)は荘園の運営・維持にとって必要不可欠」とのことでした。
結論として、「牧の方の都市的性格は、想像以上」であり「比企尼・寒川尼なども同様の存在だったか」とのことです。
ところで、野口氏は「安貞二年(1227)時政十三回忌」の時点で牧の方は六十代後半と言われていたので、逆算すると1160年前後の生まれとなり、北条時政(1138生まれ)とは二十数年の年齢差という立場ですね。
野口氏が牧の方と時政の結婚時期をどう考えておられるのかは分かりませんが、無位無官の時政と結婚したということは、やはり頼朝の蜂起が成功して鎌倉に入って以降と考えるのが自然ではないですかね。
このあたり、私は山本論文に若干の不満があったので、以前あれこれ考えてみたことがあります。

「頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう」(呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5e99df68b23f22f3d0ca76b207ed97c7
「何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」(by 呉座勇一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea1f25ef5dbf69fe94fe07de39047ece

山本氏が「一男五女」について細かく検討される前に発表された細川重男・本郷和人氏の連名論文「北条得宗家成立試論」(『東京大学史料編纂所研究紀要』11号、2001)には、

-------
 時政が牧の方を妻に迎えたのは、やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか。四十代の彼は「ワカキ」牧の方を後妻に迎える。そして、先の三人の子が生まれる。彼らの生年を仮に朝雅室一一八四年、頼綱室八六年、政範八九年と推定すれば、これ以降の史実との間に全く齟齬が生じない。婚姻が八三年に行われ、牧の方が十五才であったとすると、政範を産んだとき二十一歳、後年、一族を引き連れて諸寺参詣し、藤原定家の批判を受けたとき五十九歳。まことに具合いがよい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e4ec62d4dc95fca8d27ea7c9b583c76

とありますが、「やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか」は穏当としても、仮に婚姻が1183年だとすると、北条時政は四十六歳ですから、牧の方が十五歳であれば、年の差は三十一です。
あれこれ考えると、牧の方も再婚で、婚姻時に二十五歳くらいであれば、すべての辻褄が合って「まことに具合いがよい」ように私は思います。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その11)

2022-12-11 | 唯善と後深草院二条

佐藤雄基氏による起請文の「機能論的研究」のキーワードは「神仏への信仰心という説明を一旦留保」ですね。

佐藤雄基氏「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/60b80a6df77d65b209e255c4391522f9

佐藤氏の研究に触発されて始めた私の「「有明の月」ストーリーの機能論的分析」シリーズにおいても、「神仏への信仰心という説明を一旦留保」し、仁和寺御室らしく設定されている「有明の月」の難解な宗教的言辞にいちいち感心せず、また真言密教的な儀礼の深遠そうな雰囲気に吞み込まれることもなく、「有明の月」のストーカー的行動を淡々と眺めてきました。
また、高僧が自ら責任者として催行する祈禱と並行しての連日連夜の痴態とか、亀山院による臨月の妊婦との性交渉といったエロ話にもハーハー興奮せず、ふーん、と眺めてきました。
そして、今までの観察の結果、「有明の月」ストーリーでは二条とその叔父の四条隆顕が常にセットで登場することが注目されます。
間もなく、二条は祖父・隆親から御所を出るように告げられますし、また、隆顕は巻二で父・隆親との不和という深刻な問題を抱えていることが描かれていましたが、巻三では出番はなく、二条が隆親と対面する場面で、唐突に既に死んでしまっていることが明かされます。
この二人の窮境を、白河・鳥羽院政期以来、豊かな財力を武器に朝廷内に隠然たる勢力を維持してきた四条家の当主たる隆親の側から見ると、隆顕も二条も、隆親にとっては単なる「持ち駒」であって、二条は「今参り」に、隆顕は隆良に代替可能な存在であることが窺えます。
そのあたりの分析は改めて行いますが、もう暫く、「有明の月」死去後の後日談を見て、二条・隆顕の運命の暗転を確認しておきます。
ということで、「亀山院との仲を疑われる」(21)に入ります。

-------
 四月の中の十日ごろにや、さしたることとて召しあるも、かたがた身も憚らはしく、ものうければ、かかる病にとり込められたるよし申したる御返事に、

  「面影をさのみもいかが恋ひわたる憂き世を出でし有明の月
一方ならぬ袖のいとまなさも推しはかりて、古りぬる身には」

 など承るも、ただ一すぢに有明の御ことをかく思ひたるも心づきなしにや、など思ひたるほどに、さにはあらで、亀山院の御位のころ、乳母子にて侍りし者、六位に参りて、やがて御すべりに叙爵して、大夫の将監といふ者、伺候したるが道芝して、夜昼たぐひなき御心ざしにて、この御所さまのことはかけ離れ行くべきあらましなり、と申さるることともありけり。いかでか知らん。
 心地もひまあれば、いとど憚りなきほどにと思ひ立ちて、五月の初めつ方参りたれば、何とやらん、仰せらるることもなく、またさして例に変りたることはなけれども、心のうちばかりは、ものうきやうにて明け暮るるも、あぢきなけれども、六月のころまで候ひしほどに、ゆかりある人の隠れにし憚りにことよせて、まかり出でぬ。
-------

「乳母子にて侍りし者、六位に参りて、やがて御すべりに叙爵して、大夫の将監といふ者」は久我家、というか正確には中院雅忠家の家司である藤原仲綱の子の仲頼のことです。
仲頼は亀山院に仕えており、その手引きで二条が亀山院と頻繁に会っていて、後深草院とは離れつつある、との噂が流れていたらしいが、そんなことを自分が「いかでか知らん」とありますが、ここは単純に自分の記憶をたどっているのではなく、読者に丁寧な背景説明をしている場面ですね。
ついで「男子を生む、子への愛情、身辺寂寥」(22)に入ると、

-------
 このたびの有様は殊に忍びたきままに、東山の辺に、ゆかりある人のもとに籠りゐたれども、とりわきとめ来る人もなく、身をかへたる心地せしほどに、八月二十日のころ、そのけしきありしかども、前のたびまでは忍ぶとすれどもこととふ人もありしに、峰の鹿の音を友として明かし暮らすばかりにてあれども、ことなく男にてあるを見るにも、いかでかあはれならざらむ。
 鴛鴦〔おし〕といふ鳥になると見つると聞きし夢のままなるも、げにいいかなることにかと悲しく、わが身こそ、二つにて母に別れ、面影をだにも知らぬことを悲しむに、これはまた、父に腹の中にて先立てぬるこそ、いかばかりか思はん、など思ひ続けて、傍らさらず置きたるに、折ふし、乳〔ち〕など持ちたる人だになしとて、尋ねかねつつ、わが側に臥せたるさへあはれなるに、この寝たる下のいたう濡れにければ、いたはしく、急ぎ抱きのけて、わが寝たる方に臥せしにこそ、げに深かりける心ざしもはじめて初めて思ひ知れしか。
-------

ということで、男児が生まれたことが語られます。
「鴛鴦といふ鳥になると見つると聞きし夢」は前年十一月十三日、「有明の月」が最後に来訪した時に語った夢のことですね。

「有明の最後の訪問、鴛鴦の夢」
http://web.archive.org/web/20110129153443/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-17-oshinoyume.htm

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その10)

2022-12-10 | 唯善と後深草院二条

三角洋一氏(東京大学名誉教授、1948-2016)が作成された『新日本古典文学大系50 とはずがたり たまきはる』(岩波書店、1994)の「『とはずがたり』年表」を見ると、巻三が始まった弘安四年(1281)は、

-------
二月十三日か、姫宮の御修法のため、有明の月院参。院、有明が恋情を訴えるところを立ち聞きし、作者にすすんで会うようそそのかす。
十八日、有明に会う。翌朝、院、作者に夢語りして、有明の子の懐妊を予言。

三月初めまで、院、作者を召さず。懐妊。

五月初め、母の命日に里居し雪の曙と会うも、御所の近火騒ぎに、曙院参。

七月、御所の真言の談義の折、院、有明に作者の懐妊を告げ、二人を許す。着帯。

九月、供花の折、院の計らいで有明と会う。

十月、嵯峨法輪に籠もる。大宮院を見舞う両院の嵯峨御幸に召される。両院の間に添い臥しし、亀山院に契らされる。大宮院のもとに東二条院より作者非難の文。
四条大宮の乳母の家に戻り、近隣に忍び通う有明に会いに行く。二人の仲が噂となる。
月末、出産の準備。御幸あり、生まれる子を死産した愛妾のもとに渡すよう指示。

十一月六日、有明の立ち会いのもと、男児を出産。院の指示に従う。
十三日、有明の来訪。春日の神木の帰座も近いと取り沙汰される世上騒然の中、愛執の念を語り、鴛鴦になったと夢語りする。
十八日、有明が伝染病と聞く。
二十一日、有明より最後の文。
二十五日、有明死去の報。稚児より最期のさまを聞く。院からも見舞いの文。
-------

という具合いに、本当に目まぐるしい展開です。
前回投稿では、十月の「両院の間に添い臥しし、亀山院に契らされる」場面について、七年前の前斎宮エピソードの焼き直しであって、今一つ盛り上がりに欠ける印象もある、などと書きましたが、改めて年表を見て、これが翌月に出産を控えた臨月の女性への対応と考えると、次田氏の表現を借りれば、「地獄絵図」感も出てきますね。
さて、旧サイトでは「有明の最後の訪問、鴛鴦の夢」(17)で検討を終えていましたが、巻三にはもう少し「有明の月」関係の記事があります。
まず、「有明の死と形見、作者の悲嘆」(18)の場面には、

-------
 やがてその日に御所へ入らせ給ふと聞きしほどに、十八日よりにや、世の中はやりたるかたはら病みの気〔け〕おはしますとて、医師〔くすし〕召さるるなど聞きしほどに、次第に御煩はしなど申すを聞き参らせしほどに、思ふ方なき心地するに、二十一日にや文あり。
「この世にて対面ありしを限りとも思はざりしに、かかる病に取りこめられて、はかなくなりなん命よりも、思ひおくことどもこそ罪深けれ。見しむば玉の夢もいかなることにか」
と書き書きて、奥に、

  身はかくて思ひ消えなん煙だにそなたの空に靡きだにせば

とあるを見る心地、いかでかおろかならん。げにありし暁を限りにやと思ふも悲しければ、

  思ひ消えん煙の末をそれとだにながらへばこそ跡をだにみめ

事しげき御中はなかなかにやとて、思ふほどの言の葉もさながら残し侍りしも、さすがこれを限りとは思はざりしほどに、十一月二十五日にや、はかなくなり給ひぬと聞きしは、夢に夢みるよりもなほたどられ、すべて何といふべき方もなきぞ、われながら罪深き。
-------

とあって(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p114以下)、「有明の月」は「かたはら病み」という流行病で本当にあっけなく死んでしまいます。
「身はかくて思ひ消えなん煙だにそなたの空に靡きだにせば」(次田訳、私の身はこうしてあなたを思いこがれつつ消えてしまおう。荼毘の煙だけでもあなたのいるほうの空になびきさえすれば)は、荼毘の煙になっても、なお二条に付きまとおう、という恐るべき執念の歌で、「有明の月」のストーカー人生の最後を飾るにふさわしい絶唱ですね。
「院と贈答、院の心隔たる」(19)に入ると、後深草院と二条は、

  面影も名残もさこそ残るらめ雲隠れぬる有明の月

  数ならぬ身の憂きことも面影も一かたにやは有明の月

という「有明の月」を織り込んだ歌を交わしますが、後深草院の二条に対する対応は次第に冷たくなります。
そして、年が明けて「仏事、有明の幻、懐妊を知る」(20)の場面になると、

-------
 東山の住まひのほどにも、かき絶え御おとづれもなければ、さればよと心細くて、明日は都の方へなど思ふに、よろづにすごきやうにて、四座の講いしいしにて、聖たちも夜もすがら寝で明かす夜なれば、聴聞所に袖片敷きてまどろみたる暁、ありしに変はらぬ面影にて、「憂き世の夢は長き闇路〔やじぢ〕ぞ」とて抱〔いだ〕きつき給ふとみて、おびたたしく大事に病みいだしつつ、心地もなきほどなれば、聖の方より、「今日はこれにてもこころみよかし」とあれども、車などしたためたるもわづらはしければ、都へ帰るに、清水の橋の西の橋のほどにて、夢の面影うつつに車のうちにぞ入らせ給ひたる心地して、絶え入りにけり。
 そばなる人とかく見助けて、乳母〔めのと〕が宿所へまかりぬるより水をだに見入れず、限りのさまにて、弥生の空も半ば過ぐるほどになれば、ただにもあらぬさまなり。ありし暁よりのちは、心清く、目を見交はしたる人だになければ、疑ふべき方もなきことなりけりと、憂かりける契りながら、人知れぬ契りもなつかしき心地して、いつしか心もとなくゆかしきぞ、あながちなるや。
-------

ということで(『とはずがたり(下)全訳注』、p125以下)、二条の許に「有明の月」の亡霊が現われます。
ついで、東山から「都へ帰るに、清水の橋の西の橋のほどにて、夢の面影うつつに車のうちにぞ入らせ給ひたる心地して」二条は気を失ってしまいます。
このような十分すぎるほどの予兆を得た二条は自分が妊娠していることに気付き、「ありし暁よりのちは、心清く、目を見交はしたる人だになければ」、これは「有明の月」との最後の逢瀬で宿した「有明の月」の子に間違いないと感じます。
くどいようですが、出産の一週間後の妊娠は医学的にはありえないそうですが、とにかく二条は妊娠します。

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「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その9)

2022-12-09 | 唯善と後深草院二条

巻三の「法輪寺に籠る、嵯峨殿より院の使」(11)以降の大井殿(嵯峨殿)を舞台とする「亀山院も変態だったエピソード」(仮称)は、今年の大学入学共通テストに出題された巻一の前斎宮エピソードとよく似ていますね。

2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/57e58b7370dd7fe00d9ab34771bb673c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1a43f3431b2e673810afef0dbbe331a

私は何となく前斎宮は巻一で出番が終わったと思っていたのですが、「両院の傍らに宿直、亀山院の贈物」(13)には「按察使の二品のもとに御わたりありし前の斎宮」も登場するので、作者も巻一の前斎宮エピソードを充分に意識していることが窺えます。
次田香澄氏が作成した年表によれば、巻一の前斎宮エピソードは文永十一年(1274)十一月の出来事であり、巻三の「亀山院も変態だったエピソード」(仮称)は弘安四年(1281)十月の出来事で、七年を隔てていますが、何だか同じような人々が同じような場所で同じようなことをやっているようなデジャブ感、というか焼き直し感もあって、「まことに異常で猟奇的ですらある」(次田氏、p95)というには今一つ盛り上がりに欠ける印象もあります。
ただ、文永十一年と弘安四年といえば、それぞれ文永の役、弘安の役とぴったり重なりますので、史実として後深草院・亀山院がこのような行動を取っていたとすれば、元寇という国家の危機に何をやっとるんじゃ、という話になって、当時の宮廷社会が本当に退廃していたと評価されても無理はないことになります。
さて、暫く「有明の月」の出番がありませんでしたが、「東二条院より大宮院への恨みの文」(14)で大宮院経由での東二条院のイヤミに疲れた二条は「四条大宮なる乳母がもとへ」行くと、直ぐに「有明の月」が手紙を送ってきて、「程近きところに、御あいていする稚児のもとへ入ら給ひて(程近い所で、有明の御寵愛の稚児の家においでになって)」とのことで、二条はその稚児の家に出向きますが、そんな密会を何度も重ねていると世間の噂になるだろう、我ながらあさましいなどと思ったりもします。
そして、間もなく後深草院もやって来て、「有明の月」の子を妊娠している二条に対し、出産後の対処について、あれこれ細かい話をします。
この「乳母の家に有明・院の来訪」(15)の場面において、

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 かかるほどに、十月の末になれば、常よりも心地も悩ましくわづらはしければ、心細く悲しきに、御所よりの御沙汰にて、兵部卿その沙汰したるも、つゆのわが身のおきどころいかがと思ひたるに、いといたう更くるほどに、忍びたる車の音して門たたく。

http://web.archive.org/web/20061006205813/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-15-menotonoie.htm

という具合いに後深草院の訪問は「十月の末」と設定されています。
なお、出産の「沙汰」をした「兵部卿」は二条の祖父・四条隆親であり、『公卿補任』によれば、隆親は弘安二年(1279)九月六日に死去していますが、この場面では存命と扱われています。
この後、「有明の男子を生む」(16)場面となり、「有明の月」は二条の出産に立ち会います。

http://web.archive.org/web/20061006205715/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-16-ariakenodanshi.htm

「有明の月」は仁和寺御室らしく設定されている高僧なので、その男児の出産を世間に披露する訳にも行かず、後深草院の指示に従って、その子はどこかに連れていかれますが、死産として扱ったので世間の噂も立ち消えになったのだそうです。
「有明の最後の訪問、鴛鴦の夢」(17)の場面で、男児の出産は十一月六日のことだったと明記されます。
そして「有明の月」は「十三日の夜ふくるほどに」再び訪れ、世間で「かたはらやみ」という病気が流行し、多くの人が死んでいるので、「いつかわが身もなき人数にと、心細きままに、思ひ立ちつる」などと不安に口にしつつ、

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「形は世々に変るとも、あひ見ることだに絶えせずは、いかなる上品上生の台にも、共に住まずは物憂かるべきに、いかなる藁屋のとこなりとも、もろ共にだにあらばと思ふ」など、夜もすがらまどろまず語らひ明かし給ふほどに、明け過ぎにけり。

http://web.archive.org/web/20061006210235/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa3-17-oshinoyume.htm

とのことで、出産一週間後の二条と関係を持ちますが、結果的にこれが二条との最後の関係となり、「有明の死と形見、作者の悲嘆」(18)の場面で、十一月二十五日に死んでしまったことが記されます。
何とも慌ただしい怒涛の展開ですが、この後、二条は最後の夜に「有明の月」の第二子を妊娠したことに気付きます。
医学的な見地からは出産一週間後に再び妊娠することはあり得ないそうですが、とにかく二条は妊娠します。

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