学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:永井晋氏「八条院院号宣下と二条天皇親政」

2025-02-19 | 鈴木小太郎チャンネル2025
資料:永井晋氏「美福門院薨去」〔2025-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9e4606ab9924c493de3b0b74391b6d6

p65以下
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第3章 八条院院号宣下から以仁王事件まで

1 八条院院号宣下と二条天皇親政

八条院院号宣下
 応保元(一一六一)年九月三日、後白河院の皇子憲仁王が誕生した。母は、上西門院少弁(平時信娘滋子、のちの建春門院)である。二週間後の九月十七日、滋子の兄右少弁平時忠と平清盛の弟左馬権頭平教盛が解官された(『山槐記』・『百錬抄』)。同月二十八日には、後白河院の近習右馬頭藤原伊隆と左中将藤原成親が解官された(『百錬抄』)。藤原成親は鳥羽院の寵臣藤原家成(美福門院の従姉妹)の子であるが、妹が藤原信頼の妻となった縁から、後白河天皇の側近となった。平重盛の正室となった憲仁親王乳母も成親の妹なので、平氏とのつながりは浅くない。
 この時期は、中山忠親の日記『山槐記』から、二条天皇にあげられた奏事を朝廷がどのように処理したのか意思決定の過程を知ることができる。佐伯智広は、二条天皇が後白河院に政務の相談をしなくなったのを、この頃と確認している(『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、二〇一五年)。
 憲仁王誕生前後の政変を見ると、平治の乱(平治元<一一五九>年)で一度解体した後白河院の側近が平氏を中心に再構成されていることがわかる。後白河院と平清盛が、平滋子を結節点としてつながっていたことは明らかである。この流れのなかで、応保元年十二月十六日に暲子内親王の院号宣下がおこなわれ、八条院となった。この奏上は、太政大臣藤原伊通主導でおこなわれた。伊通は、暲子内親王の幼少期に内親王勅別当をつとめた二条天皇親政派の宿老である。八条院院号宣下は、美福門院の薨去によって失われた二条天皇親政派の拠点が新たに成立したことを意味する。八条院は、美福門院の後継者として二条天皇親政を支える役割をつとめることになる。
 平治の乱の直後、奢りから大炊御門経宗・葉室惟方が失脚に追い込まれ、二条天皇親政派が揺さぶられたことは事実である。しかし、藤原忠通・藤原伊通・花山院忠雅・葉室光頼といった重臣は健在であり、後白河院が平氏を軸として勢力を回復したとしても、主流派に対抗する勢力を形成したことを示せる程度の規模でしかなかった。朝廷の意思決定で意見を求められなくなったことは、大きな痛手である。政治は、二条天皇・摂関家・太政大臣藤原伊通以下の重臣たちが動かしていた。

太政大臣藤原伊通
 二条天皇の擁立にあたって、鳥羽院の遺志を継承した美福門院が派閥を継承したことで東宮守仁親王(二条天皇)支持派が形成されている。美福門院と信西入道との話し合いで二条天皇即位が実現したことを考えれば、二条天皇親政派は鳥羽院政派が名前を変えて継続している派閥である。二条天皇親政派のまき返しは、鳥羽院政の時代から八条院を支えてきた老臣藤原伊通が中心にいた。
【中略】
 鳥羽院の忘れ形見暲子内親王に先例のない国母として院号宣下を授けるよう二条天皇に奏上したのも、暲子内親王の朝廷のなかでの立場を明確にすること、美福門院の後継者として女院庁を開設し、八条殿が院司や殿上人の名目で旧鳥羽院政派(二条天皇親政派)の人々が集う拠点として使い続けることができるよう取り計らったのであろう。八条院の院号宣下(応保元<一一六一)年)が、後白河院に有利に働くことは何一つない。太政大臣藤原伊通が、先例のない院号宣下を押し通したのは二条天皇親政派が有利になるよう導くためである。
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0266 桃崎説を超えて。(その31)─統子内親王立后に関する栗山圭子説の問題点

2025-02-18 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第266回配信です。


一、前回配信の補足

0265 桃崎説を超えて。(その30)─統子内親王が立后された理由〔2025-02-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7826d80b07114803d5b7fa107b155f4f

まとめとして、以下のような仮説を漠然と提示。

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待賢門院庁は待賢門院の崩御後も一年間は機能していた。
その後、崇徳院が待賢門院領を管理していたが、保元の乱の敗北により崇徳院が流罪となって管理不能となった。
そこで、かつて待賢門院庁に集まっていた人たちから、待賢門院領を独立した荘園群としてきちんと管理してほしいという要望があって、立后が必要とされたのではないか。
荘園群の最上位に立つ人はそれなりの資格、高貴な身分が必要だったのではないか。
内親王でも、前斎院でも不足。
皇后になれば公的な組織として皇后職を設け、多数の役人を配置できる。

後白河(の前半生)は今様狂いのやる気のない天皇。
「後白河自身の皇統の明示という説」(栗山圭子氏)、「統子の皇后宮司の補任を利用した後白河の権力基盤の形成という説」(植村優恵氏)の後白河像には違和感。
後白河が能動的に差配したのではなく、あくまで下からの要請に受動的に対応したのではないか。

こう考えると、後白河の践祚・即位から統子内親王立后までのタイムラグも説明できるのではないか。
三十一歳の後白河には准母など必要ない。
二年以上経った後、下からの要求で高貴な身分の女性が必要となって、准母立后という制度を借用したのでは。
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しかし、私が考えたことの大半は、既に野口氏が「おわりに」で書かれていた。

資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」(その2)〔2025-02-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ec74550d0de725b3b814f6a7d05ab1f8

「検証の結果、待賢門院領は上西門院にそのまま継承されたわけではなく、その間には、待賢門院の子で上西門院の兄にあたる崇徳院が管領した時期があり、その崇徳院が保元の乱に敗れ、待賢門院領は突如管領者を失うという事態となり、そののちに統子内親王(上西門院)が継承することになった」(p232)に付された注(71)には、

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(71)今後、このような視点から、統子内親王が皇后や上西門院となった要因を考える必要があると考えている。
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とある。
私も、「二条天皇暴発説」の成果を加味して「統子内親王が皇后や上西門院となった要因」を考えたい。


二、統子内親王立后に関する栗山圭子説の問題点

資料:栗山圭子氏「第三章 准母立后制にみる中世前期の王家」(その1)(その2)〔2025-02-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d9faea1387e5b43fc53388752b7b774e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d78f636cc0c1e9dbfc4f4844e8a9cc0

栗山圭子氏(神戸女学院大学准教授)
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資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」(その2)

2025-02-18 | 鈴木小太郎チャンネル2025
資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」〔2025-02-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5688674ed0d3d6aed70ae91adcb4471

p231以下
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  おわりに

 本稿では、待賢門院領を題材にそれが上西門院にストレートに伝領されたという通説を再検証してきた。検証の結果、待賢門院領は上西門院にそのまま継承されたわけではなく、その間には、待賢門院の子で上西門院の兄にあたる崇徳院が管領した時期があり、その崇徳院が保元の乱に敗れ、待賢門院領は突如管領者を失うという事態となり、そののちに統子内親王(上西門院)が継承することになった。このように、ある意味行き当たりばったりで継承していった様子から、待賢門院自身が積極的に所領形成と所領経営を行った膨大な数の待賢門院領も、女院の死後徐々に解体していったと考えられよう。
 待賢門院領は「女院領」としても、中世荘園としても、先駆的なものである。「女院領」をつくりあげたものの、待賢門院自身にその継承について確たる構想があったとは考えにくい。待賢門院が亡くなったときに初めて、それが継承されるべきことが認識され、荘園知行者の側も新たな安堵者を求める必要が生じたのではないだろうか。そして、一方で「女院領」は崇徳院の管領するところとなったが、また一方では「女院領の知行者であり同時に奉仕者でもあった女院司や女院女房は、新たな奉仕先として統子内親王へ移動するなど、かつては一致していた「女院領」の管理者とその知行者の奉仕先がバラバラになってしまった。
 このことにもう少し説明を加えよう。「女院領」においては、荘園の知行者=女院への人的奉仕者、であった。それは待賢門院領およびその御願寺領である法金剛院領においても同じである。この「女院領」(御願寺領)荘園の知行者が同時に女院司や女院女房でもあったこと、またこの女院に人的に奉仕する女院司や女院女房が、待賢門院の没後に娘統子内親王(上西門院)への移動が見られることは、先にも少し触れているし、すでに指摘されているところである。
 以上のことを考え合わせると次のようにも考えられよう。荘園の知行者は、そもそも中世荘園を成立させた本家が死去するなどでいなくなったとき、自らの荘園を安堵し得る本家を探す必要があっただろう。すべてを荘園知行と結びつけるわけにはいかないかもしれないが、このような場合、女院司や女院女房の新たな奉仕先への移動条件として、荘園知行やその安堵を重視することがあったのではないか。つまり、これまで人的にも奉仕してきた本家が「消失」した場合、女院司や女院女房は次の奉仕先として、「荘園の本家として適合した人」=「荘園知行を守り得る本家」を選び、荘園経営の安定を図ろうとしたのではないだろうか。崇徳院への待賢門院領の伝領は、その点がうまくいかなかったものと考えられよう。
 先駆的な待賢門院領での久安元年(一一四五)の女院没後におけるドタバタ劇を見ていた八条院と八条院領知行者たちは、それをある意味反面教師として対応することができたのではないだろうか。それゆえに「八条院領」を鎌倉後期まで存続させることができたともいえよう。
【後略】
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資料:栗山圭子氏「第三章 准母立后制にみる中世前期の王家」(その2)

2025-02-18 | 鈴木小太郎チャンネル2025
資料:栗山圭子氏「第三章 准母立后制にみる中世前期の王家」(その1)〔2025-02-17〕

p89以下
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 また、後白河が准母に統子を選択したことの背景には、自身の同母姉という血統が大きな意味を有していたと考えられる。後白河および統子の母は鳥羽の妻后待賢門院璋子である。待賢門院は鳥羽の成人のみぎりから后位にあり、白河の権威を背景に絶大な勢力を誇ったが、鳥羽院政の展開の中で徐々にその影響力を低下させ、失意のうちに没した。残された待賢門院所生子は、鳥羽院による待賢門院・美福門院両流の「融合」の名のもとで利用され、兄弟間の連帯を分断された上で崇徳は敗死、そして、今また残された統子・後白河も美福門院を主軸とする体制の中に吸収されつつあった。後白河による姉の擁立には、待賢門院所生子間の連帯を復元するとともに、鳥羽の皇統とは異なる、母待賢門院および曾祖父白河の権威をひく別個の皇統を指向する後白河の意志が含意されていたのではないだろうか。
 美福門院・二条そして後白河らをめぐる当該期の王家内部の状況は、もう一方の二条における養母・准母関係を検討するとより明確なものとなる。二条は生母の没後まもなく鳥羽・美福門院のもとで養育されており、その事実が鳥羽の直系の皇位継承者である近衛亡き後、最終的に二条が選択される大きな要因となった。その後、二条の周辺では鳥羽─近衛の後継者としての地位を盤石なものとすべくあらゆる補強手段が取られてゆくことになる。
 二条は美福門院に養育され、その間に親子関係を取り結んでいたが、前述のように鳥羽・美福門院の二女である暲子(八条院)との間にも二重の親子関係を結んでいた。

(a)自襁褓中令奉養育御姫宮母儀之条者、彼院令申置御事也、帝王養母之儀者、始自延喜事也、所謂穏子<九条殿女>也、(中略)姫宮可有院号、而非后宮之院号無先例、可計申之由、先代被問仰、

 引用史料は美福門院の周忌正日に関わるものなので、「彼院」は美福門院に比定することが妥当であろう。「姫宮」暲子と二条との間には、おそらくは鳥羽の容認のもと美福門院の主導により准母─養子関係が設定され、関係強化が図られたのである。
 その後、永暦元年(一一六〇)に美福門院が没し、二条の側は有力な庇護を失うこととなるが、そのような状況の巻き返し策として二条がとったのが暲子への院号宣下である。

(b)入夜、重方参亜相殿、称勅使所申之事、姫宮院号之間、沙汰三箇条事也、
(c)今日無品内親王暲子<鳥羽院姫宮也>、被成母后之儀云々、仍可有院号之由、自去比沙汰出来云々、(中略)今日次第頗迷可否歟、予下宿所々間、補判官代之由、蔵人告送、又迷是非、可参賀之由、相公殿有返答、仍束帯(中略)、先参内、院司事畏申旨、付如〔女歟〕、奏聞、

 暲子への院号宣下は二条により発議され(a)、その間の沙汰の子細は「勅使」にみられる二条の主導があり(b)、女院司の差配も二条により行われていたことが見てとれる(c)。暲子との准母関係そのものは美福門院らによって既に設定されていたものであるが、二条は暲子を女院となし、自身の准母として正式なかたちで処遇することで、美福門院没後の自身の陣営を補強し、鳥羽の皇統の正当な後継者であることをデモンストレーションしたのである。
 以上、後白河そして二条のそれぞれの准母について、当該期の政局・皇統の在り方から検討してきた。幼帝の補助という准母の機能的役割からすれば解くことのできない成人天皇後白河の准母擁立は、それとは異なる准母立后のもう一つの意義を示している。後白河の同母姉統子を自己の母にいただくことで、自己を中継ぎと位置付ける鳥羽の皇統とは異なる白河・待賢門院の系譜をひく皇統の存在を明示したのである。対する二条も同様な手段でもって後白河に対抗した。二条の権威は父後白河に由来するのではない。二条は鳥羽─近衛に続く皇統の後継者としての立場を准母暲子との関係を展開することで明らかにしたのである。立場の違いこそあれ、准母(立后)の意味は両者の間で共通している。准母立后とは自身がいかなる皇統に属し、自己の権威がどこに由来するものかを明示する機能を果たしていたといえるのである。
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『増鏡』を読む会(第9回)「上西門院とその周辺」

2025-02-17 | 鈴木小太郎チャンネル2025
会場の都合で一週空いてしまいましたが、毎週土曜日に開催しています。
『増鏡』を基軸として、『平治物語』『今鏡』『平家物語』『吾妻鏡』『承久記』『六代勝事記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『太平記』『梅松論』等にも随時言及し、中世史と中世文学の中間領域を探求して行きます。
第9回のテーマは「上西門院とその周辺」です。
平治の乱の謎を追う過程で、桃崎有一郎氏が上西門院という女性について根本的に誤解していること、この女性は予想外に興味深い存在であることが明らかになってきたので、少し整理してみたいと思っています。

日時:2月22日(土)午後3時~5時
場所:甘楽町公民館

群馬県甘楽郡甘楽町大字小幡 161-1
上信越自動車道の甘楽スマートICまたは富岡ICから車で5分程度。
https://www.town.kanra.lg.jp/kyouiku/gakusyuu/map/01.html

連絡先:
iichiro.jingu※gmail.com
※を @ に変換して下さい。
またはツイッターにて。
https://x.com/IichiroJingu
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資料:栗山圭子氏「第三章 准母立后制にみる中世前期の王家」(その1)

2025-02-17 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『中世王家の成立と院政』(吉川弘文館、2012)
https://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b104032.html

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第三章 准母立后制にみる中世前期の王家

はじめに
一 後宮の変容と准母立后制
 1 准母立后の機能的役割
 2 准母立后制成立の背景
二 皇統の存在形態と准母立后制
 1 准母立后制の創出
 2 皇統と准母立后制
   ①皇統間の抗争─後白河と二条─
   ②外戚との抗争─後白河と平氏─
   ③嫡・庶の弁別─後鳥羽の准母立后政策─
おわりに
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p77
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  一 後宮の変容と准母立后制

 准母立后とは皇女が天皇の准母となり立后する現象である。はじめにで述べたように、こうした事例は白河皇女媞子以降、土御門皇女曦子に至る八例が存在する(表1参照)。これらを検討すると、白河皇女令子・高倉皇女範子・後高倉皇女邦子の立后は、それぞれ鳥羽・土御門・後堀河の各天皇の即位と同日であることに気付く。また、後白河の場合を除いて、皇女を准母に持つ天皇はいずれも一〇歳以下の幼帝である。これら諸事例は、幼帝即位の上で准母立后が必要とされる状況があったことをうかがわせる。そこで本節では、准母立后を考える上で、幼帝即位と連動した機能的役割ともいうべき側面から説き起こすことにしたい。
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p87以下
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  2 皇統と准母立后制

 前項では准母立后制が白河治世における王家の実態と深く関わりながら創設されたことを見たが、ここではこうした准母立后の意義をその他の事例からも確認しておきたい。

①皇統間の抗争─後白河と二条─
 皇女の准母立后の事例のうち、鳥羽皇女統子内親王は成人天皇である後白河の准母として立后した。後白河の即位から二条親政に至る期間は後白河・二条父子間の対立を内在させた時期として著名だが、ここでは後白河による統子の准母立后の設定過程、もう一方の二条陣営の側の准母の活用・展開の在り方から、当該期の皇統の分立の様相について言及する。
 まず後白河登位の事情から始めることとする。鳥羽・美福門院らの政権構想では、養子となっていた守仁(二条)こそが即位の本命であり、後白河の地位が息子の中継ぎにしかすぎなかったことは既に周知に属する。しかし、美福門院らは中継ぎではあるものの、即位した後白河を排除することはせず、むしろ守仁へのスムーズな皇位の移譲を実現させるため、後白河を体制内に取り込み、位置付ける手法をとった。それを表しているのが後白河と美福門院との関係である。

【以下二字下げ】
かくて年もかはりぬれば、朝覲の御幸、美福門院にせさせ給ふ、まことの御子におはしまさねども、近衛の帝おはしまさぬ世にも、国母になぞらへられておはします、いとかしこき御栄えなり、又東宮行啓ありて、姫宮御母にて拝し奉らせ給ふ、その姫宮と申すは八条院と申すなるべし

 天皇が父院・国母女院に対して行う朝覲行幸は、天皇の父母への礼および当事者間の結び付きを世に示す儀式といえるが、このような意味を持つ朝覲行幸において、後白河は美福門院に国母の礼をとっているのである。美福門院は守仁のみならず後白河とも擬制的な親子関係を設定することにより、守仁への皇位継承を前提とする現政権の中に後白河を位置付けようとしたと考えられる。後述するが、さらにここで「東宮」守仁と「姫宮」八条院暲子との間にも親子関係が設定されていることを確認しておきたい。
 しかし、そのわずか一カ月の保元三年(一一五八)二月、後白河は同母姉統子を「御母」として立后させる。

【以下二字下げ】
次の姫宮は又前の斎院とて恂子内親王と申しし、後には統子と改めさせ給ひたるとぞきこえさせ給ひしは、(中略)保元三年二月皇后宮に立たせ給、上西門院と申すなるべし、(中略)后に立たせ給ふときこえしは、帝の御母に准らへ申させ給ふとぞきこえさせ給ふ、六条院の例にや侍らむ

 このとき後白河は三一歳、准母となった姉統子はその一歳年長にすぎない。直前に行われた「国母」美福門院に対する朝覲行幸の記憶もさめやらぬ間に、後白河がこのような新たな擬制的親子関係を設定することの意味は何か。佐伯智広氏は、守仁のキサキとなった姝子、姝子の養母統子を介して後白河に守仁の後宮を掌握させるという鳥羽の構想があったことを前提に、後白河が自己の王権強化のために統子の立后を図ったと論じる。守仁に対する後白河の親権強化という鳥羽の意図については保留したいが、後白河自身が自らの立場を確立していく意向をもち、そのための方策が統子の擁立として発露したことについては是認し得る。
 強化を図らねばならない王家内部における後白河の立場とは即ち、先行研究でも縷々述べられてきた中継ぎとして登板した彼の脆弱な位置に他ならない。後白河は、守仁への継承上、鳥羽の皇統内部に位置付けられはしたが、逆に体制の中にある限り、彼の行動はその枠内に抑制され、その立場はきわめて限定されたものにとどまる。自身に付されたそのような位置付けを、果たして後白河は良しとしていたのかどうか。
 新たに「母」を設定するということは、美福門院のみを唯一の「母」とする体制の改変であることに間違いない。後白河が美福門院の構想する王家内秩序に真に賛同しているのであれば、「国母」美福門院に加えてさらに擬制的親子関係を設定する必要性に乏しい。統子擁立という後白河の行動には、守仁とは異なり必ずしも鳥羽・美福門院の皇統に包摂され切らない異分子としての後白河の独自の立場が表出しているように思う。
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0265 桃崎説を超えて。(その30)─統子内親王が立后された理由

2025-02-17 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第265回配信です。


一、前回配信の補足

上西門院が二条天皇によって「出家に追い込まれたのだろう」(p191)とする桃崎氏には、女性、それも女院のような高貴な女性に主体性を全く認めない点で、発想がマッチョに過ぎるのではないか。
ただ、西行・文覚・頼朝等、上西門院の周辺の人々に関する史料は豊富でも、上西門院そのものについての史料は乏しく、分かりにくい女性。
特に分かりにくいのは立后の事情。
准母立后とされながら、後白河天皇の践祚は久寿二年(1155)七月二十四日、即位式が同年十月二十六日であるのに対し、統子内親王の立后は保元三年(1158)二月三日。
二年以上のタイムラグの原因は何か。


二、中世前期の后位

資料:伴瀬明美氏「中世前期の後宮─后位における逸脱を中心に」〔2025-02-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3f94f1d4d67b38a29ba7c6d1e8dc654

0258 桃崎説を超えて。(その23)─「二代后」についての河内祥輔氏の解釈〔2025-02-01〕


坂口太郎氏「両統の融和と遊義門院」(その1)(その2)〔2022-07-04〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27f1e4680cdec1379fe579abc28de04
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd7067087d8851371b5f7e6fa963f23a

遊義門院再考〔2019-04-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/89f6135364af467d393614e15fd75662
「『盗み出した』ということの真偽も含めて、実際のところ事の真相は不明なのである」(by 伴瀬明美氏)〔2019-04-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1fadd72cad3a95e02f94b4c3226bc95c
「女房姿に身をやつし、わずかな供人のみを連れて詣でた社前で、彼女は何を祈ったのだろう」(by 伴瀬明美氏)〔2019-04-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/23a4bec8713917f5e8f008bee409f16c


三、「後白河の三年間という短い在位期間の最後の年に統子が立后された理由」

「後白河自身の皇統の明示という説」
→栗山圭子氏「准母立后制にみる中世前期の王家」(『中世王家の成立と院政』所収、初出2001)

「統子の皇后宮司の補任を利用した後白河の権力基盤の形成という説」
→植村優恵氏「上西門院統子論」(『総合女性史研究』38、2021)

後白河が主体的に決断したのではなく、むしろ「皇后を必要とする人々」から立后、そして院号宣下が求められたと考えられないか。

0261 桃崎説を超えて。(その26)─やる気のない帝王・後白河〔2025-02-07〕

資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」〔2025-02-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a5688674ed0d3d6aed70ae91adcb4471
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資料:伴瀬明美氏「中世前期の後宮─后位における逸脱を中心に」

2025-02-16 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『アジア遊学283 東アジアの後宮』(勉誠社、2023)
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101394

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はじめに
一、前提─中世天皇家の成立
(1)前代(摂関期)の後宮
(2)後宮の変化と天皇家
ニ、中世前期の後宮
(1)減少する正妃
(2)正妃以外の女性達と中世天皇家
三、日本の后位の特質
(1)複数代にわたる皇后在位
(2)皇后と中宮の分離から一帝複数后へ
(3)后位のポスト化
四、中世前期における后位
(1)未婚の皇后─不婚内親王の准母立后
   初例─媞子内親王
   同輿者確保のための准母立后
   准母内親王立后から内親王立后へ
(2)上皇の妻の立后
   上皇の「皇后」
   立后の名分
   上皇の皇后立后の意義
(3)院号宣下の盛行─上皇后位の不在・廃絶
   院号宣下・女院とは
   院号宣下の展開
   転換期としての後鳥羽院政期
   上皇后位(皇太后・太皇太后)における変化
おわりに
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p249
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中世前期は、中世天皇家の成立にともない、後宮のあり方が摂関期までとは大きく異なるものとなった。本稿ではとくに后位に注目し、日本における独特の后位の運用を前提としてふまえつつ、中世前期の日本に特徴的にみられる非常に特異な后位のあり方について、その具体的様相を紹介する。
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p253以下
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  三、日本の后位の特質

 中世前期の后位について述べる前に、そもそも日本の后位のあり方が、特に<運用>のされ方において、非常に独自性をもっていたことを見ておく必要があるだろう。
 日本の后位は、皇后・皇太后・太皇太后というその名称に明らかなように、中国の制を範としている。しかし各后位の設定については日本独自の解釈が加えられた。それのみならず、后位の<運用>においては、時代が下るにしたがい、中国礼制から乖離した点が加わっていった。

(1)複数代にわたる皇后在位
 その一つが、天皇が変わっても前天皇の皇后が皇后のまま就位しているという現象である。冷泉天皇(在位九六七~九六九)の皇后昌子内親王は、冷泉天皇が譲位して新帝円融天皇(在位九六九~九八四)が践祚・即位しても、皇后のままであった。【中略】そして昌子内親王がようやく皇太后になったのは、円融天皇自身の皇后が立后された時であった。
 これ以降、后位の異動が行われるのは皇位交替時ではなく<次の皇后が立つ時>になった。【中略】

(2)皇后と中宮の分離から一帝複数后へ
 后位の運用における中国礼制からの乖離の最たるものは、正暦元年(九九〇)、それまでは皇后の別称とされてきた中宮を皇后と別の后位とし、事実上皇后を二人にして后位を増やしたことに始まる。【中略】

(3)后位のポスト化
 こうした后位の<運用>によって、中世に至る前に、日本における后位は、「中宮」─「皇后」─「皇太后」─「太皇太后」各一座があたかも一連の四つのポストのようになり(中宮と皇后は、中宮から皇后になるケースも皇后から中宮になるケースもあった)、新后が立后される際にスライド・転上されるようになっていた。
 こうした状態は、それぞれの后位が本来もっていた意味を薄れさせることになったであろう。これから述べる中世の日本にみられる后位の独特のあり方は、それを前提としなけば考えがたいように思われる。
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p254以下
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  四、中世前期における后位

 中世前期は、后位のあり方に礼的逸脱ともいえる様々な事象がみられた時代であった。以下、未婚の皇后の立后、上皇の妻后の立后、院号宣下の盛行と上位后位の不在・廃絶という事象についての検討を通じて、日本中世前期における后位のあり方とその特質を見ていきたい。

(1)未婚の皇后─不婚内親王の准母立后
 中世前期の后位において最も注目される事象は、天皇と婚姻関係がない皇后の出現である。天皇の姉や叔母などにあたる内親王が未婚のまま天皇の母に擬され、「准母儀」(「母儀に准じ」)て皇后とされたのである。婚姻を伴わない内親王の立后は、母儀に准じられた明証がない事例も含め、鎌倉時代末期までみられ、計十一例に及んだ。【中略】

初例─媞子内親王
 未婚の皇后の初例は、白河院の皇女媞子内親王である。【中略】

同輿者確保のための准母立后
 即位式や大嘗会御禊では天皇は鳳輦に乗って移動するため、天皇が幼少の場合は共に輿に乗る(「同輿」と称される)人が必須である。摂関期までの幼帝には母后が同輿してきた。しかし堀河天皇の子鳥羽天皇(在位一一〇七~一一二三)が五歳で即位したとき、鳥羽の生母はすでに亡くなっていたため、母代わりとして同輿する者が必要となった。【中略】
 そこで、白河院の第二皇女で媞子の同母妹である前斎院令子内親王が天皇母儀に擬され、即位式に際して天皇と同輿し、天皇と共に高御座に登り、皇后とされたのである。【中略】

准母内親王立后から内親王立后へ
 内親王の准母立后の三例目は、後白河天皇(在位一一五五~一一五八)が、同母姉である統子内親王を准母として皇后に立后したことである。このとき天皇はすでに三十一歳であり、統子はその一歳年長であるにすぎなかった。当時は後白河の親政時期であり、立后は後白河自身の意図により行われたと考えられる。統子の立后という発想自体は二例の先例から得たものであろうが、後白河の三年間という短い在位期間の最後の年に統子が立后された理由については、後白河自身の皇統の明示という説のほか、統子の皇后宮司の補任を利用した後白河の権力基盤の形成とする説などが示されている。
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資料:野口華世氏「待賢門院領の伝領」

2025-02-15 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『平安朝の女性と政治文化─宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017)
https://www.akashi.co.jp/book/b284845.html

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はじめに
1.待賢門院領の形成
2.待賢門院没後の待賢門院領と待賢門院追善仏事
3.待賢門院の伝領
 (1)伝領の実態
 (2)目録史料から
おわりに
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p216以下
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  2.待賢門院没後の待賢門院領と待賢門院追善仏事

 待賢門院は久安元年(一一四五)八月二十二日に亡くなる。本節では待賢門院が没した直後の待賢門院領のゆくえを検討する。ここでは、待賢門院の御願寺領、円勝寺領・法金剛院領にも注目して考察を進めたい。
【中略】
 「はじめに」で述べたとおり、通説では待賢門院領をその娘の統子内親王(上西門院)が継承したとされているので、ここでの仮説としては、待賢門院の追善仏事も当然のことながら統子内親王が担っているべきであると考えられよう。はたしてそうだったのであろうか。次の史料を見てみよう。

[史料3] 『山家集』雑七七九・七八〇
 待賢門院、かくれさせおはしましける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれけるに、南面の花散りける頃、堀川の局のもとへ申送りける
尋ぬとも風のつてにも聞かじかし花と散にし君が行衛を
 返し
吹風の行衛知らする物ならば花と散にも後れざらまし

[史料4] 『千載和歌集』巻第九、五七八、五七九
 待賢門院かくれさせ給うてのち、御忌はててかたがたに帰らせ給ける日 崇徳院御製
限りありて人はかたがた別るとも涙をだにもとどめてしがな
 御返し                              上西門院の兵衛
ちりぢりに別るゝけふのかなしさに涙しもこそとまらざりけれ

[史料5] 『台記』久安二年六月二十八日条(<>は割注を示す。以下同じ)
廿八日、丙寅、今日新院〔崇徳院〕三条第<故待賢門院家>に、故待賢門院の法事を定めらるると云々。件の先例非参議別当定文を書くべし、しかるに、しかるべき宿老の人々皆執筆あたわず、これによりて左馬頭隆季朝臣これを書く、年二十と云々、

 [史料3]は西行の『山家集』にある詞書と歌で、待賢門院が亡くなった次の春、つまり久安二年(一一四六)の春に、西行と待賢門院女房の堀河局が亡き女院を思って贈答した歌で、返しが待賢門院堀河の歌である。待賢門院堀河は、源顕仲の娘で院政期歌壇を代表する女流歌人であり、待賢門院の出家に際して、ともに出家した女房の一人で、待賢門院の側近の女房であった。
 [史料4]は『千載和歌集』に採られた崇徳院と上西門院兵衛との贈答歌で、待賢門院の一周忌に際して詠まれたものである。上西門院兵衛とは、[史料3]に登場した待賢門院堀河の妹で、やはり歌人であった。『山家集』には姉同様、西行との贈答歌も残っている。兵衛は、最初待賢門院に出仕して待賢門院兵衛と称したが、待賢門院の没後はその娘、前斎院統子内親王に仕え、のちに上西門院兵衛と称された。[史料4]の時期は待賢門院没の翌年のことであるから、統子内親王はまだ上西門院となっていないが、『千載和歌集』では最終的な呼称を採用して、上西門院兵衛としたのであろう。
 [史料3・4]の内容を見てみよう。 [史料3]の傍線部「待賢門院、かくれさせおはしましける御跡に、人々またの年の御果てまで候はれ」から、待賢門院が亡くなった御所には、待賢門院に伺候していた人々が女院の一周忌が終わるまでとどまっていたことがわかる。また、[史料4]の傍線部「待賢門院かくれさせ給うてのち、御忌はててかたがたに帰らせ給ける日」とそれに続く和歌からは、一周忌が終わると、それぞれに別れ解散したことも判明する。
 まず、待賢門院が亡くなった御所とは、三条高倉第であった。女院が没すると、初七日から七日ごとの仏事がいわゆる四十九日まで三条高倉第で行われた。また月ごとの命日に行われる月忌、百万遍念仏や、法華経・阿弥陀経・弥勒経など待賢門院の主な追善供養は、女院没後の一年間そのほとんどが三条高倉第で行われている。
 [史料5]は、待賢門院の一周忌が迫ってきた久安二年(一一四六)六月二十八日、新院=崇徳院が三条高倉第で、待賢門院一周忌法要の次第を定めたことが記される。そして、この一周忌法要は三条高倉第で、鳥羽院や崇徳院・統子内親王などの子どもたち、貴族・女房など多くの故女院奉仕者を集め、盛大に執り行われた。[史料2]とあわせて考えると、待賢門院に人的に奉仕していた人々が、女院没後も一周忌の喪明けまで三条高倉第に伺候していたのは、没後一年かけて行われたさまざまな待賢門院追善仏事に奉仕するためであったと考えられるのである。
 また、[史料5]の傍線部を見ると、「三条第<故待賢門院家>」とある。これは待賢門院が没した三条高倉第に、女院没後も待賢門院の家政機関である待賢門院庁が存続していたことを意味すると思われる。待賢門院庁は別当や判官代・主典代に任じられた貴族たちを構成員とした女院の家政機関であるが、[史料3・4]からは、女房たちも三条高倉第にとどまり追善仏事に奉仕したことがわかるので、その家政機関には女院の女房たちも含まれていたと推察できよう。このように女院没後の女院御所にも家政機関があり、その家政機関の主な役割は故女院の追善仏事であった。それでは待賢門院という主のいなくなった家政機関を主導したのは誰だったのであろうか。それは[史料5]の見られるように、待賢門院一周忌法要という重要な行事を差配した「新院」、すなわち待賢門院の第一皇子崇徳院であったと考えられる。
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p221以下
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(1)伝領の実態

 そもそも、待賢門院領が娘統子内親王(上西門院)に伝領されたということを最初に説いたのは、管見のかぎり芦田伊人編『御料地史稿』(一九三七年)である。次に待賢門院領を取り上げた五味文彦氏は母から娘への伝領を前提としているので、そのまま踏襲している。実は待賢門院領や法金剛院領を扱った研究が意外と少ない。王家領を取り上げた論文のほとんどは八条院領以降のもので、その前段階の待賢門院領あるいは法金剛院領などに関する専論はほとんどないのである。
 また、以下はあくまでも史料の残存状況なので一概にはいえないが、待賢門院がその所領群を統子内親王に譲ると明記した文書や記録などの史料はいまのところ残っていない。【中略】
 この上西門院の所領経営に関する印象の薄さは、前節での待賢門院仏事執行者の検討に鑑みるに、待賢門院領が待賢門院没後すぐは、その第一子で追善仏事主催者であった崇徳院の管理下にあったということが、大きく影響しているのではないか。すなわち、待賢門院から上西門院への伝領が、通説のようにスムーズになされたのではなく、その間に崇徳院を経由した。そして、その崇徳院が保元の乱で敗れるというかたちで、待賢門院の追善仏事主催者としての資格を喪失したことから、待賢門院領の維持・運営が一時困難となったのではないかと考えられるのである。
 ただし、上西門院ものちには母待賢門院のために仏事を行っているし、法金剛院には御堂を建て、御所をもつなど、待賢門院後継者たる動きをしていることも確かである。以下ではこのことについて検証していこう。
 まず、待賢門院仏事であるが、統子内親王(上西門院)が行ったとわかるもっとも早い追善仏事は、久寿元年(一一五四)六月二十日の御筆八講である。『台記』同日条によれば、「今日より統子内親王、母院のおんために五日十座講説を行われ、みずから法花経一部、開結経各一巻、転女成仏経、阿弥陀経、心経を筆写し、供養せらるなり、又みずから妙経七千部を転読し、その由を啓白す」とあるので、待賢門院のための追善仏事をみずから企画・執行したことがわかる。また同日の『兵範記』には、「今日より、前斎院(統子内親王)高松殿において御筆御八講始め行わる、一院(鳥羽院)渡りたまふ。ひとえに御沙汰たり。別当公能卿、職事惟方奉行す」とあるので、統子内親王主催の待賢門院追善仏事ではあったが、父鳥羽院の大きな援助がうかがえる。会場の高松殿も、鳥羽院の御所であり、ここからも父院のバックアップによる仏事であったといえるだろう。すなわち、久寿元年六月の御筆八講は、統子内親王が中心となって開催された追善仏事ではあったが、統子内親王がすべて用意したのではなく、費用・会場などは父鳥羽院が用意したものであった。
【中略】
 以上のことから、もっとも長く考えて、保元元年(一一五六)の保元の乱までは、崇徳院が法金剛院や法金剛院領などの待賢門院御願寺と御願寺領を含む待賢門院遺領を管理・運用していたと考えられ、統子内親王(上西門院)はそれらを自由にすることはできなかった。それゆえに、久寿元年(一一五四)の母待賢門院追善仏事では、父鳥羽院が娘の主催する仏事を援助したのであろう。その後、崇徳院が保元の乱で敗れると、ようやく統子内親王が待賢門院遺領を継承することとなった。それによって、統子内親王自身が法金剛院御所に滞在して仏事を開催したり、また新たに御堂を建立することができるようになったのだと考える。上西門院は文治元年(一一八九)に亡くなり、法金剛院あたりで火葬された。そして、法金剛院三昧堂に埋葬された母待賢門院のそば近くに埋葬されたという。これは法金剛院と法金剛院領を管理・運営し、母院の菩提を弔った娘女院だからのことであろう。
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0264 桃崎説を超えて。(その29)─「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(後半)

2025-02-14 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第264回配信です。


一、前回配信の補足

『平安時代史事典』には「久安元年(一一四五)母待賢門院の崩後はその所領を伝領」とある。

資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb81adbe9915f86f435607f64ff992e

しかし、野口華世氏の「待賢門院領の伝領」(『平安朝の女性と政治文化』所収、明石書店、2017)によれば、待賢門院領は統子内親王(上西門院)にそのまま継承されたのではなく、いったん崇徳院が管理し、保元の乱の後、統子内親王が継承したとのこと。

『平安朝の女性と政治文化─宮廷・生活・ジェンダー』
https://www.akashi.co.jp/book/b284845.html

資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)(その2)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e801cd773da4a34bf43b0ccc85768b5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d81f56783edab70b0550abc78953490

統子内親王は多数の荘園を領有し、女院庁には練達の事務官僚や有力武士が参集。
和歌など文化活動も盛ん。
出家しても、別に女院庁が解散する訳ではない。
そもそも二条があれこれ指図できるような女性ではない。

保元三年(1158)二月三日 後白河天皇の准母として立后
保元四年(1159)二月十三日 院号宣下
永暦元年(1160)二月十七日 仁和寺法金剛院で出家

なぜ二月に重要行事が集中しているかは分からないが、出家は単に従前(平治の乱勃発以前)から予定されていた行事ではないか。

守覚法親王と上西門院はそれぞれ別個の事情から、平治の乱勃発前に出家の準備がなされ、たまたま同日に出家しただけではないか。
しかし、経宗・惟方捕縛の三日前という点は確かに気になる。
二月十七日に何らかのトラブルが発生し、それが桟敷事件、そして経宗・惟方の捕縛に繋がったのではないか。


ニ、「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(続き)

(3)「皇位継承問題」

桃崎氏は、
-------
 なぜ、桟敷封鎖事件のような子供じみた嫌がらせ事件が起きたのか、私は長らく疑問に思ってきたが、ここまで多くの考察を重ねた結果、シンプルで最良の答えにたどり着いたようだ。一八歳の二条という、精神的に幼い人の仕業だったのだ、と。
-------
と言われるが(p192)、これは複雑な検討を重ねた上で到達すべき結論ではなく、むしろ考察の出発点ではないか。

二条天皇(守仁親王)は康治二年(1143)六月十八日生まれなので、平治元年(1159)十二月九日の平治の乱勃発時点では数えで十七歳、満年齢では十六歳。
年が明けて永暦元年(1160)二月の時点でも、満年齢ではまだ十六歳。
この年齢で、まだ自分の子すら生まれていないのに、自分の子孫に皇統を継がせようと血道を上げることがあり得るのか。

「後白河院黒幕説」に立つ河内祥輔氏の場合、「後白河は、二条の弟にあたる守覚の皇位継承を望んだが、それを不可能にして守覚を仁和寺の御室(長)に押し込む出家の予定日が、タイムリミットとして迫っていた」(p189)と想像するのは理解できる。
しかし、「二条天皇黒幕説」に立つ桃崎氏が「<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼」(p190)を自説の基礎とするのは非常に奇妙。
満十六歳の二条が「皇位継承問題」を痛切に意識するのは、さすがにもう少し先の話であろう。

結論として「皇位継承問題」は平治の乱に全く関係がないと考えるべき。
従って、「二条一派の望みに反して、信西は守覚の出家を阻止しようとしていた」(p191)とするのも無理。
確固とした信念から自分の政策を実現することに傾注していた信西にとって、「皇位継承問題」など基本的にどうでも良い話だったはず。
自分が政治を運営できるのであれば、後白河院政であろうと二条親政であろうと、また(二条のまだ生まれもいない皇子を天皇としての)二条院政であろうと、どうでも良かったはず。
コメント (4)
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0263 桃崎説を超えて。(その28)─「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点(前半)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第263回配信です。


一、前回配信の補足

(1)女性名の読み方

「プロローグ─平治の乱に秘められた完全犯罪」に、「女性名の読みは確定できないことが多いが、『平安時代史事典』に拠って、正解だった可能性がある一つの読みで、振り仮名を施しておいた」(p12)とある。

平安時代史事典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E4%BA%8B%E5%85%B8

例えば「上西門院」は「統子内親王 むねこないしんのう」を見よ、と案内される。
かなり鬱陶しい。 

(2)天皇の書跡

二条天皇を知る手がかりを得るために書跡を確認しようとしたところ、小松茂美『天皇の書』(文春新書、2006)には項目なし。

小松茂美『天皇の書』(文春新書、2006)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166604999

『宸翰英華』によれば、平安時代の歴代天皇三十二人中、宸翰が残っているのは嵯峨・宇多・醍醐・後朱雀・後白河・高倉の僅かに六代とのこと。

「宸翰英華編纂出版事業経過概要」(『宸翰英華 第二冊』、紀元二千六百年奉祝会、1944)
http://web.archive.org/web/20090514085027/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneika-jigyokeika-gaiyo.htm


ニ、「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」の問題点

資料:桃崎有一郎氏「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」〔2025-02-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/241e0e8e3f60ea91047f9b8b78a7c5b3

(1)保元の乱についての認識

p30
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 崇徳や頼長が、本気で反逆を企んでいた形跡はない。この戦争はただ、鳥羽院・後白河の陣営が、頼長への猜疑心を無暗に募らせ、崇徳をも疑い、疑心暗鬼に囚われた根比べに負けて暴発した虐殺にすぎない。この戦争の根本原因は、かつて白河院が忠実を失脚させて忠通を取り立て、摂関家の内部紛争を引き起こしたことと、白河院が待賢門院と密通して不義の子(らしき)崇徳を儲けたことにある。つまり、すべて白河院の乱脈な政治の後始末なのだった。
-------

白河院(1053‐1129)の崩御は平治の乱の三十年前。
桃崎氏の認識は独特。

p187
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保元の乱は、後白河天皇が崇徳院・藤原頼長に対して、非常手段に訴えるべき危機感と、断固たる姿勢を示した事件だ。崇徳・頼長が今すぐにでも反逆を起こして後白河天皇の君臨を否定しに来る、という危機感に耐えきれなくなった天皇側が、手遅れになる前に暴力に訴えたのだ。
-------

これもかなり珍しい立場ではないか。
後白河側(信西・美福門院・藤原忠通)が、謀略的手段も交えて頼長・崇徳を追い詰めたと考えるのが普通では。
なお、後白河個人にとっては、保元の乱は「物騒がしき事」「あさましき事」。
落ち着いて今様を楽しむことができなくなってしまったのが残念(「今様沙汰も無かりしに」)という立場。

資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2fb5514e7e452060a14f88ad99d998b

(2)守覚法親王と上西門院の出家

資料:河内祥輔氏「皇位継承問題のあり処」〔2025-02-07〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e6ac6391076aea0194097d3924f9f66e

桃崎氏は、
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<平治の乱の主因が皇位継承問題にあり、焦点に守覚がいた>という氏の着眼は、別の出来事と組み合わせると、真実に迫る鍵になる。(p190)
-------
とされ、守覚法親王と上西門院の二人が、大炊御門経宗・葉室惟方捕縛の三日前、二月十七日に出家していたこと重視。
そして、
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その事実は、次の構図を浮かび上がらせる。後白河の家族全体に俗世での繁栄を諦めさせる圧力がかかり、上西門院と守覚が出家に追い込まれたのだろう、と。(p191)
-------
と推論。
二人が同日に出家したことは確かに気になる。
しかし、守覚法親王の出家は別に失脚ではなく、仁和寺御室という仏教界の最高レベルの地位につくための栄達の道の出発点。
政治的意味の点でも、女院の出家とは別だろう。

上西門院の出家については、そもそも上西門院は二条に出家を強要されるような立場にはない。
ここが桃崎氏の根本的な誤解。

資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6bb81adbe9915f86f435607f64ff992e

資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)(その2)〔2025-02-12〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1e801cd773da4a34bf43b0ccc85768b5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d81f56783edab70b0550abc78953490

それでも僅か三日前というのは確かに気になるが、あえて参考になる例を探すとすれば、それは蓮華王院の落慶供養時のトラブルではないか。

資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「「中小別当」惟方」〔2025-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34d80c6183d14e3bd8deed97e856e7b2

守覚ないし上西門院出家の儀礼に関して二条・後白河間に若干のトラブルがあり、それが桟敷事件に発展した、といった可能性も考えられる。
桟敷事件はあまりに唐突な感じが否めないが、その前に小さなトラブルがあったと仮定すれば、多少は分かりやすくなる。
仮定に仮定を重ねるのは良いことではないが、桃崎氏の想定が唯一の可能性ではないことを示す意味はあるのでは。
コメント (3)
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資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その2)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『王朝の明暗』p422以下
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     三

 『平治物語』(上)は、義朝が源氏重代の太刀や鎧を一男の義平ではなく、三男の頼朝に授与したことに触れて、『三男なれ共、頼朝は末代大将ぞとみ給ひけるにや』と述べているが、これは誤解であろう。重代の宝物が譲与された理由は簡単であって、義平や朝長が庶腹であるに対して、頼朝は嫡腹の子であったからである。
 ところで、頼朝は、保元ニ、三年に十一、二歳で元服し、正六位上に叙されたらしい。保元三年(一一五八)の二月三日、統子内親王が後白河天皇の准母の故をもって皇后に冊立されると、正六位上の頼朝は、皇后宮権少進に任命された。『公卿補任』(文治元年条)や『尊卑分脈』(第三編、清和源氏)には、頼朝が翌平治元年の正月廿九日、右近衛将監を兼任した旨が記されているけれども、これは根本史料によって左兵衛尉と訂正さるべきである。即ち、平治元年二月十三日、皇后・統子内親王が女院に列せられると、頼朝は当然のこととして皇后宮権少進を停められ、代って女院の蔵人に補された。その時、彼の本官は左兵衛尉で、上西門院蔵人は兼職であった。この女院蔵人は、名ばかりのものではなく、現に二月十九日の殿上始〔てんじょうはじめ〕における三回の献盃では、頼朝は別当の藤原実定、殿上人の平清盛など十名ほどの関係者たちに対して初献の杓を取って巡廻しているのである。
 平清盛は、平治元年の初めには、正四位下太宰大弐で、四十二歳であった。二月十九日、上西門院の殿上始において頼朝が若い蔵人(十三歳)として清盛らの盃に酒をついで廻ったこと、従って『平治の乱』以前において清盛が確実に頼朝を見ていることは、注意さるべきである。頼朝は、清盛の好敵手である義朝の嫡妻腹の子であったから、清盛はそれを心に留め、頼朝の風貌や挙止を鋭く観察したことであろう。
 上西門院の蔵人としての頼朝の勤務期間は、非常に短かった。と言うのは、それから間もない三月一日、彼は母の喪に遭い、左兵衛尉ならびに上西門院蔵人を辞したからである。
 平治元年の六月廿八日、頼朝は復任の宣旨を賜わると同時に内の蔵人に補され、今度は二条天皇の側近に仕えることとなった。当時は珍しく内裏が皇居となっていたから、頼朝は、蔵人左兵衛尉として『乱』の勃発(十二月九日)まで内裏に出仕していた訳である。二条天皇の乳母の典侍・源重子(坊門局)は、義朝と昵懇な左衛門尉・源光保の娘であったから、彼の蔵人としての勤務は、それほど苦痛ではなかっただろう。それに院、内裏における暗闘に捲き込まれるにしては、頼朝は齢が若すぎたと認められる。
 頼朝の異母兄・朝長がいつ相模国の松田から京に上ったかは不明であるが、それが保元年間であることは確かであろう。朝長は、直ぐに従五位下に叙され、平治元年の二月廿一日、姝子内親王が二条天皇の中宮に冊立された日、中宮少進に任命された。『吾妻鏡』や『平治物語』(上)が朝長を指して『中宮大夫進』と記しているのは、朝長が従五位下の中宮少進であったためである。『平治物語』(中)が朝長を指して、

  朝長、生年十六歳。雲の上のまじはりにて、器量、ことがら優にやさしくおはしければ……

と評し、田舎育ちの若者にしては、態度や振舞いが洗練されていたと述べているのは、彼が中宮少進として宮廷生活に関係していたからである。中宮・姝子内親王(高松院)は、同じく内裏におられたから、出仕先こそ違え、頼朝は、次兄と一緒に内裏に勤務していた次第である。
 『平治の乱』のさなか、すなわち平治元年十二月十四日に行われた、所謂『信頼人事』によって、頼朝は従五位下右兵衛権佐に叙任された。しかしそれも束の間であって、同じ月の廿八日には、頼朝も位を剥奪の上、解官されたことであった。

     四

 頼朝の政治家としての資質や業績については、『愚管抄』以来今日まで、さまざまな角度から論評されている。この場合、恒に留意せねばならないのは、彼が都において生まれ、中級とはいえ、貴族的環境のもとで都で成人し、かつ短期間ながら女院や内裏で官人生活を送ったと言うことである。
 勤務の系統から見ると、彼は待賢門院─上西門院の圏内にあった。これは、母方の親族の主な人々がこの路線に近く、その方面からの吸引力が強かったからである。殊に上西門院の女房であった母方の伯母は、彼を上西門院側に率いた可能性が多い。確実な証拠はないけれども、彼の母も上西門院に仕えた女房であり、彼自身も殿上童として幼い頃から女院の御所に出入したとみなすのは、可能性に富んだ想定とされよう。
【中略】
 ところで、文治二年(一一八六)八月における将軍・頼朝と西行の鶴岡八幡宮での邂逅や二人の夜を徹しての芳談は、『吾妻鏡』に見られる最も興味深い挿話の一つである。恐らく初対面であろう二人が百年の知己のように終夜語り合えたのは、二人に共通の背景があったためである。
 もともと西行─佐藤義清〔のりきよ〕─は、待賢門院の実兄の左大臣・実能の家人であり、その関係もあって待賢門院や上西門院の御所に出入し、特に歌に優れた女房たちとは昵懇であった。これは、『山家集』の随所から知られるのであって、左の詞書などは、その一例に過ぎぬのである。

【以下二字下げ】
十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし聞きて、待賢門院の御時おもひ出でられて、兵衛殿の局にさしおかせける。

頼朝が上西門院に仕えていた時分、西行は高野山に籠っていたから、二人は顔を合わせる機会はなかったであろう。しかし頼朝は、二人の伯母(大進局、千秋尼)や他の女房達からいやと言うほど西行の噂を聴かされていた筈である。
 『山家集』から窺うと、西行は『宮の法印』こと元性と極めて親しかった。四一九頁の系図の示す通り、元性(崇徳天皇々子)の母の典侍は、頼朝の従姉妹であったのである。
【中略】
 他方、文覚が蛭島に配流中の頼朝に強引に蹶起を勧めたと言う話は、『平家物語』や『源平盛衰記』にかなりの潤色を加えて述べられている。ここではこの問題を分析・批判する余白もないし、また頼朝と文覚との永年に亘る交際の歴史を述べる余裕もないけれども、頼朝の旗挙げに関して『愚管抄』(巻第五)に見られる、

【以下二字下げ】
……四年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝に馴れたりける、その文覚さかしき事どもを、仰せも無けれども、上下の御の内をさぐりつゝ、いひいたりけるなり。(『御の内』の意味は不明。誤写があるらしい)

と言う記事は、信用してよかろう。文覚が伊豆国に配流されたのは、承安三年(一一七三)五月のことであった。それより四年間、文覚は朝夕頼朝の許に出入し、政界の情勢を説いていずれ蹶起すべきことを勧めたという次第である。しかしそれにしても、文覚はなぜ頼朝の許に気易く出入し得たのであるか。
 ここで改めて注意されるのは、文覚は遠藤左近将監・茂遠の子で、俗名を盛遠と言い、上西門院の所衆〔ところのしゆう〕であったと言う伝承である。彼の父の名については異伝があるけれども、彼が上西門院に出仕していたとする点では、どの史料も一致している。所衆は、蔵人所に属するから、もし盛遠が平治元年頃、上西門院に出仕していたとすれば、頼朝は当然盛遠と面識があった訳である。またたとい出仕の時期が互に喰い違ったとしても、これら二人の流人は、同じ穴の貉であって、共通の話題が多かったはずである。まして二人とも同じ流人と言う身分であり、場所は都よりほど遠い伊豆国の片田舎であってみれば、出会いの当初から二人が互いに親近感を抱いたであろことは、充分に肯けるのである。
 頼朝が都で生まれ、待賢門院や上西門院と関係の深い環境で育ち、少年時代には上西門院に仕えたと言う閲歴は、彼の生涯を考える上で重視さるべきである。その時分に彼が得た印象、体験、願望は、いかに永く阪東に身を置いても払拭されることはなく、心の底に深く沈潜していたのであって、彼が後年、権力の座に就けば、それらは湧然と噴出する可能性があった。
【後略】
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資料:角田文衛氏「源頼朝の母」(その1)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『王朝の明暗 平安時代史の研究─第二冊─』(東京堂出版、1977)
http://philosophy7136.blog.fc2.com/blog-entry-771.html

※初出は『古代文化』第26巻第12号(1974)

p414以下
-------
   一

 源頼朝の生母については、学界では余り関心がもたれていないようである。幸田露伴が『母は尾張の熱田の大宮司藤原季範の女』と述べるにとどめているのは、評伝の都合で止むをえなかったにしても、永原慶二氏などですら、

【以下二字下げ】
母は熱田大宮司藤原季範の娘であった。(中略)頼朝の母で義朝の正室だった藤原季範の娘も、種々のことからおして、熱田宮の父のもとにいたとみるよりは、京都にのぼって宮仕えをしていたと考える方が自然のようである。とすれば、頼朝の出生地については、鎌倉説、熱田旗屋町説もあるが、京都とする方がよいということになる。

に見る通り、簡単な説明に終始しておられる。
 その間にあって、大森金五郎氏(一八六七~一九三七)は、頼朝の母についてやや突込んで考究し、頼朝の旗屋町出生説を述べた後に、彼が平治元年(一一五九)三月一日、母を喪ったことを論証されている。
 右の旗屋町出生説というのは、早く『太平記』劔巻にも見える所伝であって、幡屋、すなわち名古屋市熱田区旗屋町の誓願寺の境内を出生地とする伝説である。この誓願寺は、念仏をもって知られた日秀妙光尼が慶長頃に建立した寺院であるが、それ以前、この地には大宮司・千秋家の下屋敷が存したとのことである。これは大変尤もらしい所伝であるけれども、全般的な見地から勘案すると、そう簡単には信用し難いものがあるのである。
 頼朝の母が熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘であったことは、『尊卑分脈』、『公卿補任』等の明記するところであり、何等疑いを要しない。またこの婦人の歿年月日も、大森氏が夙に論証された通りである。即ち、『平家物語』(下)は、永暦元年(一一六〇)二月に捕われた頼朝について、

  去年〔こぞ〕の三月には母御前にをくれまいらせ、……

と記し、頼朝が平治元年(一一五九)三月に母を喪ったことを伝えている。『公卿補任』(文治元年条)は、保元四年(平治元年)のこととして、

  同三月一日服解(母)。

と記載し、この婦人が平治元年三月一日に歿した事実を伝えている。これを傍証するのは、『吾妻鏡』の養和元年(一一八一)三月一日条に見る左の記事である。

  今日、武衛〔頼朝〕、依為御母儀忌日、於土屋次郎義清亀谷堂被修仏事。(下略)

 同じ『吾妻鏡』によると、頼朝の母の七七日の供養は、母の実弟に当たる園城寺の祐範法橋が一切沙汰し、唱導をもって知られた安居院の澄憲(信西入道の子)を導師に請じ、懇に後生を弔ったという。
【中略】

    ニ

 源頼朝の熱田神宮への尊崇は、頗る著名である。無論これは、熱田大神の神威もさることながら、彼の生母が大宮司・季範の娘であったと言う事実に負うているのである。
 しかしながら藤原季範(一〇九〇~一一五五)を単に熱田神宮大宮司とのみみなし、義朝や頼朝の事績を大宮司・季範との関連だけで理解しようとするのは、明らかに一方に偏した見方と言わねばならない。これまでの研究者たちは、この季範が従三位・藤原悦子〔よしこ〕の従兄弟であったという事実を看過することによって大きな不始末を演じている。周知の通り、悦子は、権中納言・藤原顕隆(一〇七二~一一二九)の妻、権中納言・顕頼(一〇九二~一一四八)らの母、そして鳥羽法皇の乳母であった。顕隆・顕頼父子は、官こそ権中納言であったけれども、白河・鳥羽両院の無雙の寵臣であり、隋一の実力者として知られていた。例えば、藤原宗忠は、顕隆の薨伝の中で、

【以下二字下げ】
抑モ去ル保安元年十一月、魚水之契リ忽チ変ジテ自リ、合体之儀俄ニ違ヘシ以来(忠実の関白罷免を指す)、天下之政此ノ人ノ一言ニ在リ。威ハ一天ニ振ヒ、富ハ四海ニ満ツ。世間ノ貴賤傾首セ不ルハ無シ。

と評している。『今鏡』には、顕隆が『世には夜の関白など聞えし』旨を伝えている。顕頼も、乳母子として鳥羽法皇の信任が絶大であったが、彼は策謀に巧みであり、その点では政治家として父より凄みがあった。顕隆、顕頼が院の近臣として顕枢の地位にあったのであるから、鳥羽法皇の乳母としての悦子が隠然たる勢威を保有し、法皇庁への接近が彼女の紅唇にかかるところが大きかったことは当然であろう。
【中略】
 季範の息子・範忠も、熱田大宮司でありながら殆ど都で過ごしていた。彼は、後白河上皇の近臣として上皇に常侍しており、大宮司の職にあっても、熱田神宮の方はいつも留守にしていた。『後清録記』の応保二年(一一六二)六月廿三日条には、範忠が上皇の側近として二条天皇の逆鱗に触れ、周防国に配流されたことについて、

  藤範忠〈周防。 前内匠頭、式部、熱田宮司。〉

と見えている。範忠が左近衛将監を経て、応保元年十一月に内匠頭に任じられたことは、他の史料からも知られる。要するに、範忠は、熱田神宮の大宮司でありながら、専ら都に居住し、中央官人としての途を歩んでいたのである。
 ここに掲げた系図三編は、『尊卑分脈』の記載に基づいて作成したものである。いま、系図を眺めると、季範は都に居住しながらいかに待賢門院に接近することを図っていたかが了解されるのである。
【中略】
 近衛天皇の治世、即ち一一五〇年前後において清和源氏を代表する大立者は、源頼政、源為義、源義康の三人であった。彼等について指摘されるのは、武門としての実力を涵養する一方、婚姻関係を通じて裏から法皇や女院に取入ろうと努めていたことである。四二〇頁の系図に示した通り頼政(一一〇五~七九)【ママ】の母は、弁三位・悦子の姪であったし、彼自身は娘を源隆保の妻としている。また四一九頁の系図に見るように、源義康(足利判官)は、鳥羽法皇の北面に祗候している間に前記の範忠の娘を娶っているし、彼の息子のうち、義清は上西門院判官代、義長は上西門院蔵人、義兼は八条院(暲子内親王)蔵人を勤めた。源為義(一〇九六~一一五六)は、白河法皇の眷顧を蒙っていた太皇太后(令子内親王)大進の藤原忠清─寵臣・隆時の弟─の娘を娶って義朝(一一二三‐六〇)を儲けた。『保元物語』(上)に為義の言葉として、『嫡子にて候義朝こそ、坂東そだちのものにて』、とある通り、義朝は早く坂東に下向し、鎌倉を根拠地として自家の勢力の培養に努め、その間、一、二人の現地妻に義平、朝長らを産ませていた。
 久安元年(一一四五)において義朝は、廿四歳となっていた。その頃、彼は上洛して暫く都に逗留していたらしく、この間にどう言う手蔓によってか季範の娘を正妻に迎えたことであった。その時分、為義は検非違使左衛門大尉として院の北面に祗候し、大いに活躍していた。この為義の嫡男たる義朝は、婿として好条件を備えていたと言ってよい。
 四二一頁の系図は、源義朝の母方の親族を示している。これを一瞥するならば、権中納言清隆(一〇九二~一一六二)を初めとして、待賢門院や上西門院の関係者が多いのに驚かされる。また待賢門院と極めて親密であった太皇后・令子内親王(白河皇女)の関係者たちも若干混っている。これらの人々が待賢門院女房・大進局の妹と義朝の縁結びに協力したことは、充分に思考【ママ】されるのである。
 こうして義朝は、季範の娘を正妻に迎え、頼朝(久安三年出生)、希義、某女を儲けたが、前期の通り、この正妻は、平治元年(一一五九)三月に歿したのである。この某女は、四三二頁に説く通り、権中納言・藤原能保の妻となって大きな歴史的役割を果たしたのであるが、二人の結びつきが古く由来することは、四一九頁の系図を見れば判然とするであろう。
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資料:関口力氏「統子内親王 むねこないしんのう」(『平安時代史事典』)

2025-02-12 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『平安時代史事典』より。

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統子内親王 むねこないしんのう
(一一二六~八九)鳥羽天皇第二皇女。母は大納言藤原公賢女璋子(待賢門院)。同母兄弟に禧子内親王、後白河天皇、通仁・君仁・本仁親王(覚性法親王)がいた。大治元年七月二十三日誕生。本名恂子。同年十二月着袴。翌年四月、無品のまま三后に准ぜられ、賀茂斎王に卜定。長承元年(一一三二)病のため在任六年にして退下。同三年、式部大輔藤原敦光の勘申により改名。康治二年(一一四三)新造三条烏丸第に移徙。久安元年(一一四五)母待賢門院の崩後はその所領を伝領。同三年、三条東洞院第に遷る。保元三年(一一五八)、同母弟後白河天皇の准母として皇后に冊立。翌平治元年院号を宣下され、上西門院と号した。永暦元年(一一六〇)法金剛院において出家。法名は真如理といった。寿永元年(一一八二)関白藤原基房の子家房を養子とする。文治五年七月、六条院において崩御。法金剛院において火葬に付された。武家政権の出現に果たした役割は大きく、源義朝・頼朝の政治的進出の背景には上西門院の存在があった。義朝は上西門院の女房である大進と婚しており、また頼朝は上西門院蔵人を務め、右兵衛権佐に任ぜられている。また和歌に秀で、一大文芸サロンを形成。西行との交流も深かった。
[史料]【中略】
[研究]目崎徳衛『西行の思想史的研究』(東京、昭53)、五味文彦『院政期社会の研究』(東京、昭和59)、所京子『斎王和歌文学の史的研究』(東京、平1)
[関口勉]
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0262 桃崎説を超えて。(その27)─「守覚擁立計画」について

2025-02-09 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第262回配信です。


一、前回配信の補足

ISHIDA BUNICHIさんより以下の指摘。

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後白河の二条への「愛情」については、蓮華王院の一件で、後白河が「何の憎さに…」とぼやいたことで理解できるかと存じます。
https://x.com/uizhackiinmuufb/status/1887741028536390119

0245 桃崎説を超えて。(その10)─平治の乱以降の後白河・二条父子の関係〔2025-01-14〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/65981c52b916a7e741ba8e02949cc673

『日本古典文学大系86 愚管抄』(岩波書店、1967)p239以下
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サテ後白河院ハ多年ノ御宿願〔しゆくぐわん〕ニテ、千手観世音千体ノ御堂ヲツクラントオボシメシケルヲバ、清盛承リテ備前国ニテツクリテマイラセケレバ、長寛二年十二月十七日ニ供養アリケルニ、行幸アラバヤトオボシメシタリケレド、二條院ハ少シモオボシメシヨラヌサマニテアリケルニ、寺ヅカサノ勧賞〔けんじやう〕申サレケルヲモ沙汰モナカリケリ。親範職事〔しきじ〕ニテ奉行シテ候ケル、御使〔おんつかひ〕シケル。コノ御堂ヲバ蓮華王院トツケラレタリ。ソノ御所ニテ御前ヘ召テ、「イカニ」ト仰〔おほせ〕ラレケレバ、親範、「勅許候ハヌニコソ」ト申タリケレバ、御目ニ涙ヲ一〔ひ〕ヒトハタウケテ、「ヤゝ、ナンノニクサニ/\」トゾ仰ラレテ、「親範ガトガトマデオボシメサレ候〔さふらひ〕ニシ。ヲソレ候テ」トゾ親範ハカタリ侍ケル。此御堂ハ、真言ノ御師〔おんし〕ニテコマノ僧正行慶ハ白河院ノ御子也。三井門流〔みゐもんりう〕ニタウトキ人ナリシカバ、院ハ偏〔ひとへ〕ニタノミオボシメシタリケルガ、コトニサタシテ中尊ノ丈六ノ御面相ヲ御手ヅカラナヲサレケリ。万〔よろづ〕ノ事ニ心キゝタル人トゾ人ハ云ケル。六宮ノ御師ナリ。
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資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「「中小別当」惟方」〔2025-01-13〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34d80c6183d14e3bd8deed97e856e7b2

後白河は蓮華王院の落慶供養に二条の行幸を希望。
しかし、二条は無視。
寺の諸役人の功労を賞するよう申し入れたが、これも二条は無視。
後白河と二条は完全に対立・断絶している訳ではないが、非常に冷たい関係。
後白河は二条をそれなりに尊重しているが、二条は冷酷であり、その二条の冷酷さが後白河には理解できない。
→非常に不幸な父子関係


ニ、「守覚擁立計画」について

資料:『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』〔2024-12-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/408464aec3f98dbdc0af039b0ea92acd

資料:桃崎有一郎氏「皇位継承問題と信西一家流刑問題に注目した河内説の価値」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3a0116ba84fc16c1757fa0e2179316d5

資料:桃崎有一郎氏「「信西謀反」の真相と守覚擁立計画」〔2025-02-08〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/241e0e8e3f60ea91047f9b8b78a7c5b3
コメント (3)
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