学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

宮地正人氏「国家」(『日本史大事典』)(その2)

2014-01-31 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月31日(金)14時03分9秒

(承前)
それでも、毒を食らわば皿まで、の心境で更に読み進むと、エンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」についてのあまり正確ではない要約に続いて、「今日の歴史学の立場からすれば、国家成立に関しては対外的契機をより重視すべきであろう」という唐突な提言が出てきます。

何じゃこれ、と驚きつつ、一応続きを見ると、「一定の国際関係と軍事的圧力のもとでは、経済的にはきわめて遅れた種族的諸集団も短期間で国家形成を遂行し、その国家機関を国内の再編成に利用する。また国家の属性を考えるうえでは、国家支配を正統化するイデオロギーとイデオローグ、さらにはそのイデオロギーを社会に浸透させていく諸媒介物の存在や、社会に一定のリズムと画一性・階層性を賦与するための国家的儀礼・儀式・位階、体系の創出(君主制の機能はこの両者に深く関係する)、あるいは国家の公共性を顕示する上での施療・施薬機能等を看過することはできない」となっていて、様々な要素を秩序無く並べたゴッタ煮の様相を呈してきます。

このあたりになると、普通の辞書・辞典類の解説にはない奇妙な雰囲気が漂ってくるので、好奇心から更に読み続けると、「ただし、近代以前の段階では、国家が社会から自立して存在してはいるものの、その国家的意思の伝達と行政遂行に当たっては、種々の伝統的中間的諸機関・諸団体との依存・協力関係が不可欠であり、したがって近代国家理論の中核ともいうべき国家主権概念(国家は領域内の集団・個人に最高かつ絶対の支配権を持ち、他のどのような法的制限にも従属しないこと)は、一六世紀フランス絶対主義のイデオローグだったボーダンによって初めて説かれたのであった。ウェーバーの国家説もこの延長線上にあり、「国家とはある特定の領域の内部において、それ自身のために合法的な物的強制力の独占を要求するところの人間共同体である。・・・すなわち、国家のみが、強制力行使の「権利」の唯一の源泉とし妥当している」(「国家社会学」)と彼は定義している」のだそうです。

まあ、ジャン・ボダンの主権論にしても、マックス・ウェーバーの国家論にしても、ずいぶん乱暴な要約なのではなかろうかと思いましたが、この後の文章を読んだ衝撃で、そんな疑念は吹き飛ばされてしまいました。

「人権宣言以降、基本的人権概念が定着するなかで、主権の最高絶対性が法的に主張されることはなくなってきたが、現実には国家的危機に瀕した際には、国家は自己決定組織として行動し、他のいかなる諸組織の決定にも従属しない。」

うーむ。
どうも筆者は日本国憲法を読んだことがないようで、「主権の最高絶対性が法的に主張されることはなくなってきた」という筆者の認識と異なり、主権国家である日本は国際社会に対して日々「主権の最高絶対性」を「法的に主張」しまくっており、また国民主権を基本原理とする日本国憲法は、対内的にも「主権の最高絶対性」を「法的に主張」しまくっているんですね。
「主権」概念には国際社会に対する国家の最高独立性としての「対外的主権」と、国内での最高権威としての「対内的主権」の二面があり、「国民主権」の「主権」は後者であって、これは別に露骨な権力・暴力ではなく、あくまで権威であり、支配の正当性の源なんですね。
筆者は主権に「対外的主権」の側面があることを知らず、更に「対内的主権」を権威ではなく露骨な権力であると二重に誤解しており、ちょっと想像を絶するおバカさんですね。

以上、相当長く引用しましたが、『日本史大事典』の記述はこれで半分くらいで、以下、「日本における国家の成立とその展開を考える場合」の問題点を四つ並べていますが、くだらないので省略します。
ちなみにこの項目の筆者は宮地正人氏(東京大学名誉教授・東京大学史料編纂所元所長・国立歴史民俗博物館元館長)ですね。

宮地正人(1944生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9C%B0%E6%AD%A3%E4%BA%BA
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宮地正人氏「国家」(『日本史大事典』)(その1)

2014-01-31 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月31日(金)13時06分28秒

『国史大辞典』と比較すると、出発点としてあまり良くないのは『日本史大事典』ですね。
『日本史大事典』の「国家」の項目は「社会の全構成者の協同性を維持するための、社会から自立した、軍隊・警察・官僚・裁判所・監獄等の強制装置。社会が諸階級に分裂している場合には、通常種々の媒介を通じて支配的諸階級の階級支配の道具となる。階級対立のすでに存在しない社会主義国家においては、マルクス主義理論からは、国家機能の漸次的衰退が説かれているものの、現実には国家統治と経済運営を担当する官僚層に特権をもたらしている」という文章で始まります。
まあ、第二次世界大戦終了直後だったら斬新な記述だったでしょうが、ソ連崩壊後の1995年に、何でこんな文章を読まねばならないのだろうと不思議に思うくらい変てこな文章ですね。

そして「アダム・スミスの「国富論」第五編「主権者または国家の収入について」は、国家発生の問題を扱っているが、彼は「(狩猟民族は)自分の労働で自分を扶養する。事物のこういう状態のもとでは、本来、主権者もなければ国家もない」と述べ、他人の労働による冨の蓄積と国家成立との関係との関係を指摘し、「市民政府は、それが財産の安全のために確立されるものであるかぎり、実は貧者に対して富者を防衛するために、すなわち無財産の人々に対して若干の財産をもつ人々を防衛するために確立されるものなのである」と断言する」と続くので、我が国有数の歴史学者が執筆しているはずの『日本史大事典』を引いたつもりだったのに、いったいどういう方向に話が進んで行くのだろうか、と若干不安になります。

そんな不安を感じながらも、更に読み続けると、「右のような、市民社会の理論家達の国家成立史観を共有しながらも、そこに分業的視点を導入したのがエンゲルスであった。彼は「反デューリング論」第二編第四章において、国家権力のはじまりを、共同体内部の紛争の裁決、水利の監督、宗教的機能の遂行といった共同の利益を担う職務が分業によって特定の諸個人に委託されたことに求め、共同体が集まってより大きな全体をつくるようになると、共同の利益を保護し、相反する利害を撃退するためにさらに一つの新しい分業としての機関が創出され、社会に対する社会的機能のこのような独自化の過程のなかで、これら職務の担い手と機関が時とともに社会に対する支配者に転じていくとした」という展開となり、まあ、このあたりで、よほど暇な人以外は読む気をなくすだろうなと思います。

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石井紫郎・水林彪氏「国家」(『国史大辞典』)

2014-01-31 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月31日(金)12時56分56秒

国家論に興味を持った人のために基礎的な資料を紹介しておくと、出発点として一番良いのは『国史大辞典』ですね。
「国家」の項目の執筆者は石井紫郎・水林彪氏です。

まず最初に「国家の意義は、史料上の意義と学問上の意義との二つの面において考える必要があるが、前者の歴史については、現在の研究水準では断片的に諸事実が知られるのみで・・・」とさらっと触れた後で、「学問上の国家概念については、社会科学上の概念が一般的にそうであるように、西ヨーロッパ的概念の影響が大きい。西ヨーロッパ各国語の国家という言葉(state(英)・état(仏)・Staat(独)・stado(伊)・estado(西)など)はラテン語のstatusが派生したものである。それぞれの土着の言語には、王国、大公国、公国、伯邦などといった下位概念を包括する上位概念としての国家を指す言葉はなかった。ヨーロッパ中世の一般人は抽象的に国家を表象することをしなかったのである。・・・」という具合にヨーロッパでの議論が紹介されています。

ついで、「これに対して、わが国の歴史学においてはほとんどの場合マルクス・エンゲルスの影響を多かれ少なかれ受けた国家概念を用いて、各時代について多様な国家論が展開されてきた。マルクス・エンゲルスの国家論は、西ヨーロッパにおいて、官僚制・常備軍という支配機構とこれによって統治される客体としての領土・領民が国家という概念で表象されるに至った段階に即して、このような支配の形態が成立した歴史的必然性を、統治される側の人々の社会関係の基幹部分たる生産関係のあり方から説き明かそうという問題意識から生まれたものであり、終局的には、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』において、古典古代をモデルに、発達した機構としての国家は、社会における商品経済の全面的展開を基礎として成立する、というように定式化されるに至るが、わが国の学界ではこれが多少異なった形で理解され、商品生産の未発達な時代にも適用される、いわば歴史貫通的な国家論として受けとめられてきた。すなわちわが国では・・・」という具合に、古代は石母田正説、中世は石母田・黒田俊雄・永原慶二・佐藤進一・石井進説等を簡潔に紹介して行きます。

近世は安良城盛昭・佐々木潤之介・石井紫郎・水林彪・山口啓二説等の紹介、近代は紙幅が足りなかったのか講座派・労農派の紹介以外は少なくて、いささか物足りないですね。
ま、以上のような感じで、1980年代までの議論を紹介してくれています。
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獅子よ、あなたは眠りすぎ

2014-01-31 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月31日(金)10時34分37秒

>筆綾丸さん
戦国大名を「複合国家」の構成員と認める人であっても、「近世複合国家論」を支持する人はさすがに少ないでしょうね。
水林氏は「近世の『家』権力は、たしかに大きな制約を受けてはいたが、依然として、その領国において、独自の軍隊と官僚制機構を有し、徴税権、裁判権、立法権、その他もろもろの行政権を行使していた」と言われますが、「大きな制約」の程度は半端ではないですからね。
戦国大名の気概は近世初期の幕府による改易乱発ですっかり萎縮し、鉢植えのように転封されても文句を言えず、一揆でも起きれば管理がなっておらんと叱られる立場だと、「代官の様なる物」と思われても仕方ないし、実際に江戸時代の思想家でも大名など「代官の様なる物」と考えていた人は結構いますからね。
戦国大名が眠れる獅子たる「国家」だったとしても、眠り始めたのは1648年のウエストファリア条約締結前で、西国雄藩が眠りから覚めた時点では世界はすっかり万国公法=国際法の時代になってしまっていますから、いくらなんでも寝すぎですね。
寝ている間は獅子ではなく可愛い猫で、幕末に獅子たらんと叫び始めたけれども、結局のところ明治国家という獅子の一部に参加して満足、ということではないですかね。

戦国大名については「国家」と呼ぶかどうかは「概念の遊び」で、呼びたい人は呼べばいいのでは、みたいな感じで捉えていたのですが、丸島和洋氏の『戦国大名武田氏の権力構造』の「あとがき」に登場する桃崎有一郎氏の『中世京都の空間構造と礼節体系』を読むと、それではやっぱりまずいな、と思えてきました。
桃崎氏は同書の「序論」で「日本中世史研究において「国家」概念を用いる事の適否について正面から議論する事は本書の射程を大きく逸脱するのでここでは措くとして」(p4)と述べており、非常にあっさりした性格の人ですが、注2では次のように書かれています。(p36)

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(2)代表的なところでは新田一郎『日本に中世はあったか』(日本史リブレット19、山川出版社、二〇〇四)等で踏み込んで論じられているように、すぐれて近代的な概念である上に、実際には近代においてさえも定義が困難なまま用いられてきた「国家」という概念を、前近代たる中世社会の評価に持ち込むことがどれだけ妥当か、また仮に持ち込む事が必ずしも無益でないとしても、その概念をどのように用いれば当該期社会の理解の深化に資するのか、という疑問が、今日の日本史学に常につきまとう事はいうまでもない。
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桃崎氏はこのように言われながらも石母田正氏の国家論・「礼の秩序」論に全面的に依拠して議論を進めるのですが、同氏の国家論・「礼の秩序」論が「当該期社会の理解の深化に資するのか」、私は疑問を感じています。
これは後で少し書くつもりです。

『中世京都の空間構造と礼節体系』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

step by step 2014/01/31(金) 08:54:07
小太郎さん
現在、全世界の国の数が約二百ですから、日本に約三百の「国家」があるのは、いくらなんでも多すぎてsupersaturation(過飽和)ですね。約二百の内でも、ヴァチカン市国からロシア・中国まで、同じ「国家」という類概念で括れるのかどうか、あやしい感じもしますが、前者のイタリア語名は Stato della Città del Vaticano で、たしかに堂々と stato なんですね。

http://sankei.jp.msn.com/science/news/140129/scn14012921150000-n1.htm
割烹着姿の才媛が画期的な発見をしたようですが、STAP細胞という万能細胞が、エンゲルスの 『Der Ursprung』における、普遍的に存在する civilisation のようにみえてきますね。つまり、西欧の civilisation や中国の civilisation などは、万能細胞から分化した成れの果てのようなものだ、と。
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こう整理してよいだろうか。マルクス・エンゲルスが切り開いて到達した地点に立って見ると、西欧人が civilisation ということばで日常的に意識していた事柄は、いわば上部構造的 civilisation で、その基礎には土台の civilisation としての、市場経済というか、商品交換経済というか、そういう事態が存在する。そして、このように理解すると、西欧の civilisation は、普遍的に存在する civilisation の特殊な一形態にすぎない。(『比較国制史・文明史論対話』)
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国家の水浸し(その2)

2014-01-29 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月29日(水)10時45分29秒

まあ、「国家」の定義を緩めれば対象はどんどん広がりますから、江戸時代の藩を「国家」としても別に論理的にはおかしくはありません。
ただ、戦国大名だったら、数え方にもよるでしょうけど、せいぜい数十だから、「国家」と呼びたい人は呼べばいいんじゃないの、と思いますが、江戸時代の藩は三百近いですから、それが全部「国家」なのだと言われると「唐突で奇異な議論」と思わざるをえないですね。
数十の戦国大名「国家」までだったら「国家」の水ぶくれ、三百近い「近世複合国家」となると「国家」の水浸し状態じゃないですかね。
さすがにここまで来ると、通常の「国家」のイメージとはかけ離れた状況になるので、定義を考え直す必要があるように思います。

>筆綾丸さん
>『戦争の日本中世史』
未読なので佐藤進一氏への批判がどのようなものなのか分かりませんが、私も佐藤進一氏はけっこう変なことを言っているなと思います。
特に『日本の中世国家』はダメですね。
この点は後で少し触れることがあると思います。

『日本の中世国家』

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

法王のハト 2014/01/27(月) 15:20:47
https://www.shinchosha.co.jp/book/603739/
呉座勇一氏の『戦争の日本中世史』を読みはじめました。
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確かに有徳人と、「悪党」と呼ばれる存在は、現実問題として重なっている。本郷恵子氏は「両者の活動の基盤は荘園経営や年貢物資の運送・換金等の請負、そのための条件整備等で、社会事業家としてあらわれれば有徳人、紛争を招けば悪党」と述べている。ダーティーだが金儲けが上手な実業家で、社会に貢献することもある。たとえるなら、時代の寵児から一転、犯罪者として糾弾されたホリエモンこと堀江貴文氏あたりだろうか。(78頁)
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うーむ、ホリエモンか・・・。

http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-25905108
鎌倉時代、鶴岡八幡宮でこんなことが起きたら大騒ぎになって、『吾妻鏡』に記載されたでしょうね。
seagull と crow が暗示するのは、シリアと北朝鮮かもしれないですね。 
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国家の水浸し(その1)

2014-01-29 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月29日(水)10時18分45秒

>筆綾丸さん
水林氏の過去の著書・論文を遡ってみて驚いたのは、水林氏の思考の枠組みが1977年、水林が30歳のときに書き始めた論文「近世の法と国制研究序説」以降、全く変わっていないことですね。
逆に言えば、20代までにマックス・ウェーバーやマルクス・エンゲルスなどの古典的著作に沈潜して、徹底的に学問的基礎を固めたのだろうなと思います。
論理の強靭さも全く変化しておらず、古代史、特に古事記・日本書紀に関する丁寧、というか辟易するほど執拗な分析にも、なるほどなあ、と感嘆しつつ読み進めて来たのですが、当面の関心事である国家論に関しては、いささか同意しかねる点が多いですね。
水林氏は「前方後円墳国家」も肯定するように、「国家」の対象を非常に幅広く捉えています。
戦国大名は「国家」であって、戦国時代には「複合国家」が形成されていたとするのはもちろん、近世においても「複合国家」体制が継続されていた、と言われています。
これは『天皇制史論』にもさらっと出てきますが、「近世の法と国制研究序説(二)」(『国家学会雑誌』90巻5・6号、1977)の冒頭では次のように書かれています。
なお、『家』というのが分かりにくいですが、これは将軍家及び「藩」のことです。

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近世の法と国制研究所説(二)

第一章 自律的権力の解体
第一節 イエ
第二節 国家

 自律的かつ自首的な《イエ》を解体し、家父長的ないし家産制的支配を自己の権力の一環にくみこんだ『家』は、社会科学上の概念をもって表現すれば、一個の《国家》にほかならなかった(第二章以下参照)。近世の国制の特徴のひとつは、それが、かかる『家』ないし『家』とこれが統治する「国」とをともに含意するところの「国家」の連合体として、つまり《複合国家》として存在していたということである。
 わが国における複合国家の形成は中世末戦国時代にさかのぼる。戦国大名権力は、その領国内において、独自に、軍事指揮権、徴税権、裁判権、立法権、その他の行政権を掌握し、これらを行使する官僚制をつくりあげることによって、一個の国家として存在していた。かつての単一国家は、中世の展開のなかで、複数の戦国大名権力へと分裂し、ここに複合国家が形成されたのである。中世から近世への転換にともなって、本稿全体が問題とするように、国家の内部構造も国家の連合様式も根本的に変化したけれども、しかし、複合国家という国制のあり方それ自体は変化することなく維持された。近世の『家』権力は、たしかに大きな制約を受けてはいたが、依然として、その領国において、独自の軍隊と官僚制機構を有し、徴税権、裁判権、立法権、その他もろもろの行政権を行使していたからである。そしてこのことは、同時代人をして、近世の国制を「封建」制と規定せしむることとなった。たとえば、荻生徂徠は、近世の国制は「天下を諸侯にわりくれ候て天子の御直治めは僅の事」とされる「封建」制であって、「国郡を治め候太守県令と申候は皆代官の様なる物にて三年替りに候」(徂徠先生答問書)といわれる「郡県」制とは対立するとのべている。
 近時の近世史研究の支配的潮流は、この複合国家の問題を「集権的封建制」における「分権」的契機の問題として捉えているかのようである。そこでは、おそらく、近世においても単一の国家が存在したことが吟味されることなく前提とされているのであって、そうした人々にとっては、近世複合国家論は唐突で奇異な議論と映るかもしれない。しかしながら、近世についての長い研究史をひもとけば、人は古典的な研究が『家』ないし「国家」をば明確に国家と規定していたことを知るであろう。これは決して概念の遊びではない。もしこの近世複合国家という見方にたたなければ、幕末において、「将軍家」という一個の『家』が倒潰したにもかかわらず、何故に他の諸『家』は存続しえたのか(いわゆる「朝藩体制」の成立)、近代の単一国家が形成されるために、何故に版籍奉還から廃藩置県にいたる一連の国制改革が必要であったのかという問題が理解しがたいものになろう。近世単一国家論はまた、自由民権家たちが単一の近代天皇制国家の形成に対抗して提起した連邦国家構想をなんら現実的根拠のない、外国の制度の単なる模倣としか評価しえないことになる。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

比較国制史・文明史論対話 2014/01/28(火) 18:39:38
小太郎さん
はじめは水林氏の表現に戸惑い、ブツブツ言いましたが、だいぶ慣れてきました。
ご紹介にある『比較国制史・文明史論対話』における、M(私)の次のような記述を読みますと、普段はあまり聞かない国制という言葉もよくわかりました。
-----------------------------------------------------------------
国制という概念をどう理解するか、人によって相違があると思いますが、私は、日本史学が好んで用いる、権門体制とか幕藩体制という場合の体制という概念に非常に近いと考えています。こころみに『国史大辞典』の「幕藩体制」の項目を参照してみると、戦前にはこの用語は一般的ではなく、徳川封建制とか近世封建制とかよばれていたが、戦後に幕藩体制という用語が普及したのは、「近世社会の全体としての構造」に関心が向けられるようになったからだと解説されています。もう少し具体的にいうと、「政治的な支配の体制としての側面に重点を置きながらも、社会的基盤を含めて体系的に考察しよう」とする志向を反映した概念だとか、「社会関係の基礎である生産構造」を重視し、これとこの上に成立した政治体制とを包括的に視野におさめた概念ということになるらしい。
私の使用する国制概念も、まさに社会の全体構造の意味です。だから、国制という言葉に抵抗があるならば、体制でも私はよいのです。ただ、単に体制史などというと落ち着きが悪いので、国制史という言葉を使用しているにすぎません。そういう次第なので、国制論とか国家論とかいう先ほどの質問については、国制論は国家論よりも広い範囲の現象を扱うというようにお答えしたいのです。国家は社会ー自然概念と対立するところの、広義のそれーの部分現象にすぎないことは自明ですよね。幕藩体制国家論は幕藩体制論の一部であるといえば、日本史の方々にもわかっていただけると思うのですが。(『国制と法の歴史理論』140頁)
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東国国家論は権門体制論の一部である・・・というのは冗談ですが、体制という用語の選択にはマルクス・エンゲルスの影響が強い、ということなのでしょうね。

小太郎さんが『一揆の原理』に触れて、呉座氏は醒めた人だと云われていたと思いますが、『戦争の日本中世史』を読むと、たしかに醒めた人だなあと思います。ただ、つまらぬ芸能ネタはシラケてしまいますね(新潮選書の読者には、まあ、このくらいでいいだろう、と思われているのかもしれませんが)。文体はまぎれもなく「御座候」さんの文体ですね。
佐藤進一氏の学説を手厳しく批判しているのには、ちょっと驚きました。
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<支配の正当性>史論

2014-01-28 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月28日(火)10時39分42秒

>筆綾丸さん
>離散的
『天皇制史論』、歴史好きの人にとってもけっこう難しい本だと思いますが、これは同書の半分が実質的に法律、しかも法制史・比較法という基礎法学に関係する叙述で出来ているという事情を考えると、やむをえないですね。
練達の法律学者である水林氏は自分が使う概念を独自の方法で丁寧に磨き上げており、水林氏の過去の著書・論文を見て、その概念がどのような経緯で形成されたかをひとつひとつ確認した上で『天皇制史論』を読むと、全体が非常にすっきりした論理的関係になっていることが理解できるのですが、そんな面倒な手順を踏みたいと思う人は稀でしょうから、確かに「離散的」という印象を与えるでしょうね。

去年の11月下旬、丸島和洋氏の著書、『馬子にも衣装 戦国大名にも「外交」』をきっかけに中世国家論を調べ始め、新田一郎氏の『中世に国家はあったか』で水林彪氏の論文「原型(古層)論と古代政治思想論」を知り、次いで『天皇制史論』を読んで水林ワールドにどっぷり浸かってしまってから振り返ると、短い期間でけっこう遠くまで来たなあ、という感じがします。
「支配という現象の根本に法的意味での正当性を据えようとする方法的態度は日本史学において、ほとんど顧みられることがない」(p15)だけに、マックス・ウェーバーと水林氏の方法的態度に習って歴史学者の動向を観察すれば、けっこう面白い世界が開けてきそうですね。
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「天皇制の超時代的存続の秘密」

2014-01-27 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月27日(月)20時51分4秒

>筆綾丸さん
>『国制と法の歴史理論』
15日に『天皇制史論─本質・起源・展開』を読み始めて以降、取り憑かれたように水林彪氏の論文を集めて読みふけってきたのですが、『国制と法の歴史理論』は私が現在利用可能な図書館には置いてなくて、未読です。
ただ、創文社のサイトで目次を確認してみたら、いくつかは既に読んでいますね。

『国制と法の歴史理論-比較文明史の歴史像』

「比較文明史的国制史論の基本構想/比較国制史・文明史論対話」というのは、おそらく『比較国制史研究序説』(鈴木正幸・渡辺信一郎・水林彪・小路田泰直編、柏書房、1992年)に掲載されていた論文と対話形式のエッセイのタイトルを若干変更したものではないかなと思います。

『比較国制史研究序説─文明化と近代化』

水林氏は1992年の歴史科学協議会第25回大会「パネルディスカッション 比較国制論」において基調報告を行い、「全面否定に近い批判」を受けたそうで、その批判に対する反論を「F 先輩編集者」と「M 私」の対話という形式でシニカルかつユーモラスに展開しているのですが、これが無茶苦茶面白くて、しかも『天皇制史論』のかなり難解な部分である「エンゲルスの国家概念」(p37以下)の理解に非常に役立ちます。

国家論への興味をきっかけに読み始めた『天皇制史論』ですが、著者の学問的出発点である「近世の法と国制研究序説-紀州を素材として-」を初めとして、主要著作・論文に一応目を通した上で『天皇制史論』を改めて読み直してみた結果、「本書の究極の課題」、即ち「天皇制が、時代を越えて長期存続しえたのは何故なのか」という問題への解答として、私は著者の説明に基本的に納得しました。

--------
 本著作は、以上のような支配にかかわる一連の諸概念を念頭におきつつ、天皇制についての考察を試みる。このことは、しかし、多様な側面を有する天皇制という現象を支配という一つの視点から観察してみる、ということではない。天皇制という現象の本質は支配の問題にあり、特に支配の法的正当性の問題にあるという認識を基礎として、天皇制の全体像把握への道筋をつけようとするのである。そして、このような意味において、天皇制史を正面から扱いうるディシプリンは法史学であり、また、天皇制史は日本法史学の中心課題に位置する、と私は考えるのである。
 右のことは、別の角度から表現するならば、天皇制の本質はたとえば宗教問題の次元にあるのではないということを意味する。天皇制は、人々を様々な苦難から救済するという意味での宗教問題ではなく、きわめて現世的な法秩序形成の次元の問題であった。神社や祭祀の問題と不可分であるために、天皇制は、あたかも宗教問題であるかのように現象してくるが、しかし、それは支配従属関係を構築するための素材にすぎなかったと思われる。「天皇制が、時代を越えて長期存続しえたのは何故なのか」という問が多くの人々によって発せられ、しばしば宗教や祭祀の次元に解答が求められてきたけれども、後に詳論するように、これを支持する実証的根拠は存在しない(第六章第五節)。結論として、天皇制の超時代的存続の秘密は、天皇制を支配の法的正当性の問題として考察した場合にのみ、解明されるように思われる。このことを論証すること、これが本書の究極の課題にほかならない。(p22以下)
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※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

ウェーバーからヴェーバーへ 2014/01/26(日) 14:23:39
小太郎さん
http://www.hit-u.ac.jp/academic/book/2010/100511.html
水林彪氏『国制と法の歴史理論』を眺めてみましたが、離散的な『天皇制史論』より連続性があってわかりやすいですね。Weber はウェーバーではなく一貫してヴェーバーとなっていますが、序論でヴェーバーの「類概念・類型概念」に触れて、次のようにあります。
----------------------------------------
(「近世の法と国制研究序説」では)-ある語が史料上の概念であることを、たとえば「所領」のように鍵括弧で表現したのに対してー、ある語が学問上の概念(類概念・類型概念)であることを、たとえば《イエ》のようにギュメを付して明示した。(44頁)
----------------------------------------
都市をは概念で西洋古代都市・イスラムの都市、中国の都市等は類型概念である(37頁)、というような一種の集合論を述べていますが、これを踏まえて、岸田裕之氏『大名領国の政治と意識』の以下の記述を読むと、「国家」が史料上の用語なのか、学問上の用語なのか、区別せずゴチャゴチャであるため、まことに曖昧で、なんだかわからんのですね。文中の「主従制的支配権」と「統治権的支配」という用語は佐藤説を踏まえていると思われますが、佐藤説が依拠したヴェーバーの学説を検討しているのか、甚だ疑問になりますね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b81807.html
-------------------------------------------------------------
大名は自らの領国を「国家」と称しているが、その実態は、独自の支配機構をもち、独自の軍事力を組織し、独自の法的秩序を整備して支配しているように、政治学の概念からしても問題はない。京都の朝廷や将軍は「天下」と称するが、まず天下の統制から政治的に自立した国家を統治する戦国大名の国家観と支配の実態を明らかにしなければならない。
歴史的にみて、新たに成立した政治権力は、地域社会や前近代からの政治権力の主権的権利を制限したり、奪取したりして次第にそれらを自らのもとに集中し、次第に集権国家を築き上げている。戦国大名国家の成立にも、そうした面がある。そしてその問題の背景には、たえず個別の権力編成を越えて展開する流通経済があり、その広域化に対応して政治権力の広域ブロック化が起こっている。さらにそうして成立した戦国大名国家が他国家を討滅してその領国を奪取するという事態もある。しかし、戦国時代最末期の国家間の戦争は、数年の間に秀吉の「天下」のもとへの戦国大名「国家」の統合という形で決着する。(76頁)
・・・家中統制のための法的機構的な整備が行われた直後の天文二十三年三月十二日に隆元は立雪恵心に宛て胸念を述べた長文の自筆書状を認め、そのなかで自らの家督としての器量不足を悔いつつも、「如此存候トテ、国家ヲ可保事可油断トノ事ニテハ努々無之候」と述べていることである。すなわち、隆元が毛利氏の国家を保つという自覚を示したものである。この「国家」とは、のちの弘治三年(一五五七)に隆元が「洞他家分国を治保候」とか「家を保、分国をおさめ候」と表現していることから、具体的には洞、毛利氏の家を保つこと、そしてその政治的支配領域としての他の国衆家中を含む国を治めることが合体したものだということが明確になる。「国家」支配においては、何よりも毛利氏家中の主従関係が統制されたものでなければ、それを支配機構とする領国統治はむずかしい。まさに家中の主従制的支配権をもって、領国における統治権的支配を実現するという構造にある。(201頁)
宇喜多氏は備作地域を統合するにあたって毛利氏の支援をうけたが、その毛利氏と織田氏の戦争は、戦国時代最末期の毛利氏「国家」対織田氏「国家」の戦争であると位置づけられる。そして秀吉の統一政権下においては、関白秀吉の「天下」のもと、毛利氏も宇喜多氏も一「国家」であった。こうした時期のどの時点に宇喜多氏「国家」は成立したと考えられるであろうか、検討してみたい。(340頁)
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http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784582857139
黒田基樹氏の新刊『戦国大名―政策・統治・戦争』の序章を眺めてみましたが、事情は同じで、史料上の「国家」と学問上の「国家」を全く区別せず、『百姓から見た戦国大名』と何も変わっていないですね。
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高権力(die Oberkeit)

2014-01-24 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月24日(金)21時03分26秒

>筆綾丸さん
>高権力
「右に高権力浸透史論と命名した歴史論を最もまとまった形で展開したのは、石井進氏であろう」と前置きして石井説の要約が出ているので「高権力浸透史論」は何となく理解できますが、確かに肝心の「高権力」についての説明はないですね。
ちょうど今、『国家学会雑誌』という雑誌に6回に分けて連載された水林彪氏の「近世の法と国制研究序説-紀州を素材として-」という長い論文を読んでいる途中なのですが、たまたま、その第2回目に「高権力」への若干の言及がありました。
正確に内容を紹介するためには大量の引用が必要になるので、取り急ぎ、該当の表現の周辺のみ引用すると(『国家学会雑誌』第90巻第5・6号、p25、1977年)、

-------
同じことは、一六世紀絶対主義時代の理論家ジャン・ボダンの国制理論についても妥当する。かれは、きわめて緩慢な自立的権力の空洞化の過程をへてようやく形成された絶対主義権力を「主権」(souveraineté )と規定し、これを「至高にして・・・もろもろの法律に拘束されることなきポテスタス」(summa....legibusque soluta potestas)と定義したけれども、しかし、この主権は「至高のポテスタス」すなわち「至高のセニョリー」にすぎず、もろもろのセニョリーの中で最高位のものであるがそれらから質的に区別されるものではなかった。同時代のボダン翻訳者オストヴァルトによれば、「主権」とは、それ以上の権力が存在しないというかぎりで、他の「高権力」(die Oberkeit)から区別される「上位の高権力」(die hohe Oberkeit)にすぎない。
-------

という具合です。
これだけ読んでも理解できないのですが、注記にオットー・ブルンナーの『ヨーロッパ─その歴史と精神』が出ていて、どうも「高権力」はオットー・ブルンナーの用語を借用しているようですね。
先の永原慶二氏の表現との類似も気になるので、後で『ヨーロッパ─その歴史と精神』にあたってみようと思っています。

その他、いくつかレスしたいことはあるのですが、「近世の法と国制研究序説-紀州を素材として-」はけっこう面白いので、全部読み終わってから改めて投稿します。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

puissances légitimes ≒ legitime Gewalt ? 2014/01/23(木) 14:03:18
小太郎さん
私は『天皇制史論』のみ愚直に眺めていて、くどくなりますが、もうちど繰り返してみます。

--------------------------------------------
天下人と諸大名の支配関係は、裸の実力関係だけで存立・存続しうるものではない。「最も強いものでも、自身の権力を権利に、服従を義務に転化させない限り、いつまでも主人であり得るほど、強いものではない」(『社会契約論』)とするルソーの著名な命題、この問題を壮大な規模で探究したウェーバーの支配の正当性論は、前近代最強の権力者の一人である秀吉の場合にも妥当する。(265頁)
--------------------------------------------
最も強いものでも、自身の力(force)を権利(droit)に、服従を(obéissance)を義務(devoir)に転化させない限り、いつまでも主人であり得るほど、強いものではない。(中略)人が従うべき義務づけられるのは、正当な権力(puissances légitimes)に対してのみである。(ルソー『社会契約論』第一編第三章) (冒頭のエピグラフ)
--------------------------------------------
ウェーバーの支配の正当性論がルソーの命題を敷衍したものならば、おそらく legitime Gewalt は puissances légitimes の訳で、仏語の puissance に暴力の意はなく( forceにはある)ルソーの用語は「正当な暴力」とは訳せないので、legitime Gewalt はエピグラフにあるごとく「正当な権力」としたほうが、ウェーバーの真意により近いのではなかろうか、という気がします。
これには、ルソーとウェーバーを原文で正確に読めて、かつ、適切な和訳ができる能力を必要とするので、とても無理な話で、ただの勘にすぎないのですが。
(注1)複数形 puissances légitimes は立法・司法・行政の三権を含意したものかもしれないのですが、legitime Gewalt がなぜ単数形なのか、わかりません。
(注2)265頁にある「自身の権力」は「自身の力」の明白な間違いですが、ルソーがここで force という語にしたのは暴力・武力を強調して、puissances légitimes と明確に区別するためであり、したがって、puissances légitimes の独訳らしい legitime Gewalt を「正当な暴力」と訳すのは不自然である、ような気がします。
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ご連絡

2014-01-23 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月23日(木)09時51分12秒

>筆綾丸さん
レスが遅くなってすみません。
水林彪氏はもともと近世史の研究者だったそうですが、古代・中世・近世・近代と広範囲に論文を書かれていて、『記紀神話と王権の祭り』を始め、結構な分量の著作も多いので、全貌を探るのに少し苦労しています。
かなり集めたのですが、初期の『国家学会雑誌』や『思想』に載った論文が入手できていないので、もう少し集めてから投稿します。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

l'Être suprême としての天皇 2014/01/20(月) 19:35:27
小太郎さん
「第一章 第一節 3 権威と権力」において、「現世の法秩序の究極の源泉」としての権威は、中国では天、西欧では神であったが、なぜ日本では天皇という生身の人間であったのか(15頁~)、という問があって、「第四章 第五節 2 C 超越的絶対者の観念の不存在」の次のような記述がその答のようなのですが、さらに一歩進めて、ではなぜ日本だけにこのような特異なことが起こり得たのか、という根本的な疑問には答えられていないように思われました。
---------------------------------------------------------------
以上要するに、天皇という世俗の存在の権威と権力を正当化するものは、父系・母系の二つの血統の線で辿られる祖先神(天神と国神、天神地祇)なのであった。天皇は天神地祇の末裔であり、代々の天神・天皇が構成する集団の中の成員であることによって、そして、そのことによってのみ、意味ある存在とされたのである。したがって、天皇は、独立の一主体なのではなく、血の繋がりのある一つの種の中にあって、その種を絶やさないために今一時的に生を受けている部分的手段的存在にすぎない。かくして、天皇という存在の正当性(Legitimität)はほとんど正統性(Erblegitimität)に還元され、矮小化されていく。正当性が正統性(血統的正当性)に還元される天皇制において、必然的に、天神と天皇とを結ぶ皇統譜はアルファでありオメガとなるのである。したがって、天神は現世から超越した権威なのではない。神の世界と人の世界とが絶対的に分離し、前者が後者に権威として臨むという二元的構造ではなく、神の世界と人の世界が血統によって連続する独特の一元的世界である。律令天皇制的な権威・権力秩序においては、どこまでいっても、現世的な権力・権威を拘束する超越的倫理的存在というものが現われてくることがないのである。同じく、「律令国家」とはいっても、「天」という超越者を観念する中国と、およそ超越者を観念しえない日本との権威・権力秩序の質的相違は、顕著であった。(173頁~)
---------------------------------------------------------------

「権威としての天皇それ自身の正当化(正統化)」(166頁)に関連して、「権力を有せず、かつ、権力を正当化することのできる天皇という地位を権力者が簒奪するということがあるならば、それは、自らの権力を正当化する存在を不安定にするという意味で、かえって自己の権力を危殆に瀕させることにほかならない。(中略)義満がめざしたのは、上皇の権力を完全に奪取して、自身がそれまでの上皇と将軍とをあわせた権力者となること、そのような最高権力掌握を、天皇を活用して正当化することであったと思われる」(228頁)とありますが、八世紀前後の天皇に可能であったことが十五世紀の義満にはなぜ不可能だったのか、という疑問が湧いてきて、水林氏の論理ではよく説明できないように思われました。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Culte_de_la_Raison_et_de_l'%C3%8Atre_supr%C3%AAme
水林氏は、「第八章 近現代天皇制」で、フランス人権宣言の「至高の存在 Etre Suprême」に言及しているのですが、定冠詞(le)をつけて「 l'Être suprême」としなければ、フランス語として意味をなさないと思われました。

---------------------------------------------------
かくして、憲法は、「国民」と「天皇」とを<権威>たるものと規定したのであるが、これらの関係はといえば、天皇の「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」としての「地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(一条)というように、「国民」が「天皇」の上位に位置づけられるのであった。憲法は、そのような仕方で、「国民」を権威とする普遍主義的権威・権力秩序と、「天皇」を権威とする特殊日本的権威・権力秩序の折り合いをつけたわけである。それは、「人類普遍の原理」に連なろうとする人々と「特殊日本的伝統」(「万邦無比の国体」)に与しようとする勢力との政治的妥協の産物であった。(312頁)
---------------------------------------------------
まるで西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」のようですね。

前方後円墳国家 筆綾丸:2014/01/20(月) 21:39:38
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784047033559
水林氏が依拠している広瀬和雄氏の『前方後円墳国家』を眺めてみました。
前方後円墳国家とは、「大和政権に運営された、領域と軍事権・外交権・イデオロギー的共通性をもった首長層の利益共同体」(8頁)のことで、次のようにあります。
--------------------------------------------------------
前方後円墳に表象された国家に前方後円墳国家という即物的名称を付与したが、それには当然だが理由がある。発展段階論的な観点で国家をとらえない、ということがそうである。古代国家、中世国家、近世国家、近代国家などとよんでしまうと、それらは人間の意志や努力とは無縁のところで自然発生的に継起してくる人類普遍の法則で、その先には国家の死滅が待っている、といった観念をいつまでも払拭できないと思うからである。国家の歴史的経緯を法則的変化とみなしたのは後世の知識人だが、それぞれの歴史的な国家は予定調和的に遷移したのではない。それらが誕生するときには、新しいまとまりをつくった内発的な力と環境との接触の仕方が、誰の主導性に基づいて、いかなる形式が選択されたのかという意志的決定のプロセス、ならびに多数の人びとのそれへの同意があったはずだ。そして、新しい時代の幕開きにはそれにふさわしい統合装置も発明されたはずである。したがって一度、発展段階論的な歴史観から、歴史的に生起した諸国家を解き放ってみてはどうかと思う。多々樹立されてきた国家を類型としてとらえ、類型相互の関係性のなかに国家の本質を読み取ってはどうか。そうすれば、”国家は悪だ”とは異なった地平での国家像が垣間見えるかもしれないし、権力とのつきあいかたの未来像への端緒が捕捉できるかもしれない。それがシンボライズされた「もの」で表現した前方後円墳国家という概念の背景である。(177頁~)
--------------------------------------------------------
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1008/sin_k545.html
『前方後円墳の世界』も、当然のことながら、同様の内容ですね。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0240220/top.html
『天皇制史論』の続きになりますが、いくつか疑問を書いてみます。

①「高権力浸透史論」(191頁)という用語が何の前触れもなく登場するが、定義がないため意味不明である。文脈から類推判断せよということか、高権力は最高権力や普通の権力と何が違うのか、あるいは単に「公権力」の間違いか。
(補遺)「権力を高権力(幕府および大名)に集中する権力秩序」(262頁)とあるので、高権力とは下位権力に対する上位権力というほどの意味のようである。中央権力の地方への浸透を論じたものを「高権力浸透史論」というようですが、括弧書きで言い換えている「集権・分権論」との同値性がよくわからない。

②「天皇は、イエ内部では家長(父)に服する者(子)であり、国家的次元では最高権力およびその下の権力秩序を正当化するだけの権威として機能する、そのような性質の天皇家が形成されることになった」(212頁)とあるが、法秩序の究極の源泉にして国家最高の権力秩序を正当化する天皇が家長(最高権力者としての上皇)に服従する(gehorchen)、などということが現実としてのみならず理論的にもありうるだろうか。

③承久の変に触れて、「「非議の綸旨」なる語は、天皇・上皇の命令もそれによって拘束される客観的規範の普遍妥当性を前提として初めて口にしうる表現にほかならない。そして、かかる普遍的に妥当すべき規範の観念は、やがて「天」の観念へと結実していった」(240頁)とあるが、とすると、日本においても鎌倉初期には、中国の天や西洋の神と同じように天皇の上位概念が発生したことになり、ではなぜ永続しなかったのかが問われなければならぬはずだが、それがない。この「天」の観念は、文脈上、天神と天皇とを結ぶ皇統譜とは無関係のはずである。
(補遺)87頁、267頁、287頁等の記述によれば、氏は天皇より上位の概念として「天」なるものを認めているので、法秩序の究極の源泉にして国家最高の権力秩序を正当化する天皇と矛盾し、「天」と天皇の関係を通時的かつ整合的に理解するのは難しように思われる。

④「鎌倉幕府体制においても、一国総追捕使・総地頭以下の職は武家の内部で任免されたが、そのような武家の権力編成も、天皇の一般的包括的支配権から流出してくる日本国総追捕使・総地頭(頼朝)のもとでの「職」の体系という形式をとったという意味において、天皇制の一環であった」(269頁)とあるが、「天皇の一般的包括的支配権」の意味がわからない。独訳すれば、「一般的包括的支配権」は allgemeinherrschaft というほどになるが、水林氏は天皇には権威はあるが権力がないと一貫して説いているのだから、これでは天皇に herrschaft があることになり、論理が破綻してしまうのではないか。

⑤最終章に唐突に現れる「普遍主義的な真理、正義、善、美」(317頁)という表現と「あとがき」の「真理、正義、善、美などの人間的諸価値」(346頁)という表現は照応しているけれども、これらアリストテレス的プラトン的用語がこの著作において何を意味するのか、尻切れトンボなので、わからない。また蛇足ながら、都立大学の廃校と新大学の設立がなぜ「権力の横暴」(石原都政の横暴?)になるのか、「あとがき」を読んだだけではさっぱりわからず、ただの愚痴としか思われず、書く以上、第三者に事情がわかるように書かなければ意味がない。
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水林彪氏の言語感覚

2014-01-19 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月19日(日)22時38分50秒

>筆綾丸さん
水林彪氏の「第一章 基本的諸概念」のうち、私にとっては「第三節 国制の経済的基礎」が分かりにくかったですね。
注(7)を見たところ、著者が「初期土地商品化社会」「成熟期土地商品化社会」、そして両者をまとめて「土地商品化社会」という表現を使い始めたのは本当に最近のことだそうで、全く著者独自の用語法ですから、いきなり出てくると面食らいますね。
ただ、注(7)、および伝統的なマルクス主義の立場から寄せられるであろう批判を予想して先廻りで反論した注(8)は説得力があり、更に注(9)で紹介されている著者の従前の論文のうち、「土地所有秩序の変革と「近代法」」(『日本史講座』第8巻、東京大学出版会、2005)を読んでみたところ、著者の主張は基本的に理解できました。
また、「第四節 国家」において、国家の成立をどの段階に求めるかは「国家をどのように定義するかによるのであって、定義さえはっきりさせれば、どのように論ずることも可能であろう」というサバサバした態度はいかにも法律家的であり、私はこういう感覚はけっこう好きですね。

>「正当な暴力」
筆綾丸さんと少し議論したのは仙谷官房長官の「自衛隊は暴力装置」発言のときだったかな、と思って過去の投稿を検索してみたら、元木泰雄氏の『河内源氏』に関してでした。
筆綾丸さんが「暴力装置」という表現に違和感を抱かれたのに対し、私はマックス・ウェーバーの用語だから全く変に思わないとレスした、という話の流れでしたね。

河内源氏について
『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』

手元にマックス・ウェーバーの『支配の社会学』がないので確認はできませんが、「正当な暴力」も同書に頻出するような感じがします。

>オットー・ブルンナー
ご引用の部分、私も、あれっと思いました。

水林彪氏の論文、上記の他に「日本的公私観念の原型と展開」(佐々木毅・金泰昌編『公共哲学3』、東京大学出版会、2002)、「原型(古層)論と古代政治思想史論」(大隅和雄・平石直昭編『思想史家 丸山真男論』、ペリカン社、2002)、「平城宮=古事記神話世界の形成」(広瀬和雄・小路田泰直編『古代王権の空間支配』、青木書店、2003)など、いくつか読んでみましたが、どれも面白いですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Weber と Gewere と Gewalt 2014/01/18(土) 22:40:36
小太郎さん
水林彪氏の『天皇制史論』は、我慢しながら再度挑戦してみたのですが、第2章の70頁ほどでまた挫折し、あとはパラパラ眺めました。この本はどうにも苦手です。氏は、国家の定義を、ヴェーバーによらず、エンゲルスによらず、自身の定義により、「前方後円墳体制」をもって国家の成立としているようですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC
永原氏の「屋敷地=国家の干渉のまったく及ばない空間」は、水林氏が引用するオットー・ブルンナーの所論によく似ていますね。永原氏はブルンナーの『Land und Herrschaft』の影響を受けたのでしょうか。
----------------------------------------------
在地領主(Grundherr)の所領(Herrschaft)の中核はイエ(Haus)であった。このイエ内部においては、家長(在地領主)が最高の権力者であり、イエは他の介入を拒否する絶対的な自由空間であった。(288頁)
---------------------------------------------

「ゲヴェーレ(Gewere)」(289頁)ですが、水林氏はここで「we」を「ヴェ」と表記しているのに、高名な Weber がヴェーバーではなくなぜウェーバーとなっているのか、よくわからない。「正当な暴力(legitime Gewalt)」(9頁)や「正当な暴力(rechte Gewalt)」(288頁)の「wa」はどう発音するのだろうか。また、gewaltには「権力・権限・支配権」という意味もあるのだから、「正当な暴力」は、日本語としても訳語としても変なのではないか・・・(以前にも書いて、くどくなるのですが、どうも抵抗があります)。

以下の記述を読むと、経済の話というよりは、碩学が自身の名の由来を説明しているような錯覚にとらわれますね。
---------------------------------------
宮崎市定氏は、「古代帝国出現に至るまでの長い歴史の動きは、何によって最もよく象徴されるであろうか。私はそれは経済の発展であると答えたい。(中略)春秋戦国を通じて大きな都市には、特に市と名付けられる商業区域が設けられ、ここで商品の現物取引が行われた。富を得る近道は市において商品を買い占め、値上がりを待って売っては利益を重ねることであった」と述べている。(56頁)
---------------------------------------

http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-hampshire-25760383
アルフレッド大王のものかもしれぬ骨盤・・・昨今のイギリスでは考古学がなんとも賑やかですね。
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『天皇制史論─本質・起源・展開』

2014-01-16 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月16日(木)22時16分38秒

>筆綾丸さん
>水林彪氏の『天皇制史論』
実は私も『天皇制史論─本質・起源・展開』p35の次の指摘に気づいて、昨日・今日とこの本を読んでいました。

--------
第1章 基本的諸概念
第四節 国家
1 多義的概念
 わが国の歴史学にきわめて大きな影響を与えてきた石母田正は、「律令制国家」─飛鳥浄御原令(六八九年施行)や大宝律令(七〇一年成立)を根本法典とする国家─の成立をもって、我が国における「国家」なるものの成立であると考えた。マルクスやエンゲルスの学説、とりわけ「国家」概念については、エンゲルスの『家族・私的所有・国家の起源』を重要な理論的基礎とする所論である(石母田71.とくに第二章におけるエンゲルス理論への言及)。しかし、石母田によるエンゲルス理論の援用の仕方には、根本的な問題があったように思われる。
 視野を歴史学全体に拡大すると、「国家」についての厳密な定義を欠いたままに、「国家」について論ずるものが少なくないという問題が存在する。一般に、重要な概念ほど、定義なしに、あるいは、意味がきわめて曖昧なままに使用される傾向があり、このことは不可避的に議論に混乱をもたらすことになるが─というよりも、定義が曖昧であるから厳密な意味での学問的論議・論争が成立しえない─、その典型の一つが「国家」概念ではなかろうか。最近では「初期国家」なる概念も提起され、ますます議論が錯綜してきているように見受けられる。議論の整理が必要である。
-------

細かい注を残して一応読み終えたのですが、いくつか疑問も生じたので、水林氏の他の論文を読んでから感想を書きたいと思います。

水林氏は東京都立大学廃校に反対、首都大学東京への着任を拒否して一橋大学に転じ、同大学を定年退職して今は早稲田大学特任教授だそうですね。


昨日書いた東京帝大国史学科の「副手」の件、どうも 水戸史学会の名越時正氏(1915~2005)のようですね。
阿部猛氏の「平泉澄とその門下」に次の記述があります。

--------
また昭和十八年、学生の研究発表の場で、「豊臣秀吉の税制」を発表した斎藤正一は、「君の考え方は対立的で、国民が一億一心となって大東亜戦争を戦っている時、国策に対する反逆である」と決めつけられ、大目玉をくった。そのうえ、参考文献について尋ねられ、研究室に備えられている社会経済史関係の雑誌を挙げたところ、そのようなものを読んでは駄目だと断言され、副手の名越時正を呼びつけ、これら雑誌は有害であるから撤去せよと命じられたという(『庄内藩』吉川弘文館)。

名越時正(ウィキペディア)

阿部猛氏自身は1927年山形県生まれ、1951年に東京文理科大学史学科を卒業した方で、「平泉澄とその門下」はあくまで伝聞を集めただけですから、若干物足りないですね。
特に家永三郎氏に関する部分は、同氏が終戦後かなり経ってから反体制派に転じた人なので、戦前・戦中の記憶については、意図的かどうかはともかく、事後的に若干修正を加えている感じがしないでもありません。

※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。

空想的耽美的浪漫主義的歴史観 2014/01/15(水) 21:18:23
小太郎さん
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34543.html
永原慶二氏『20世紀 日本の歴史学』末尾の人名索引は大半の歴史学者を網羅しているようですが、平泉澄氏の次は平田篤胤で、残念ながら、平田俊春氏の名はありませんでした。同書「おわりに」の以下の文は、死の二年前に、ご自身の研究を回顧されたものですね。
----------------------------------------------------
私はそうした空気のなかで、「封建制」「地主制」などへの学問的関心から出発し、さかのぼって荘園を研究するようになった。領主ー農民関係から始めたが、そのなかで荘園の領有というものが地域的な封建領主の領有形態とは性質が異なって、支配階級層(公家・幕府・地方武家・大寺社など)の重層的・集団的な領有体制(家産官僚制国家)であることに気づき、そこに日本国家の史的特徴の重要な側面が見いだされると考え「中世国家」研究に進んだ。そのなかで、荘園制に規定された中世前期の国家は、十五世紀以降小農経営と地域的領有体制が進展し、中世後期は封建的領域支配(地域国家)が進むなかで大きく変化するが、国制としては依然として天皇を頂点とする「日本国」の複合的国家構造をとりつづけることに注目した。これらの問題が、今日どのような意味をもつかは議論があろうが、私は中世のこの二段階を通じても、根深く生きつづける「日本国」の構造と体質(「公」と「私」の癒着的権力構造の持続)の意味を重視するとともに、その内実の歴史的変動を明らかにしようと考えた。
そうしたものは、詮じつめるとすべて社会構成体論および国家論的発想であり、個別事実の追及はそれとして不可欠であるが、歴史認識としては可能な限り日本歴史の特殊性とそこに貫通する普遍性・法則性との両面を追求することを目指しつづけた。歴史研究はつねに個別事実の実証的研究から始まる。しかしその事実、あるいは集積された多くの事実の連関的全体に含意されている普遍と特殊、断絶と連続としての歴史の意味を問い明らかにすることこそ歴史学の課題であると考えたのである。あえていえば、私の考え方は、明治の文明史・戦前戦後のマルクス歴史学・近代主義歴史学の系列のなかにあるが、それは実証主義歴史学の追及した研究手法を基礎としていることも当然である。(307頁~)
----------------------------------------------------

同書における、次のような網野氏への言及には、思わずニヤニヤしてしまいました。
永原氏が『問はず語り』の性悪女によろめくのは、もしかすると、青春時代における日本浪漫派への麻酔的陶酔ーひめやかな悪習ーの消しがたいトラウマなのかもしれないですね。
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この点は網野の現代感・歴史感と不可分である。網野は高度経済成長の強行による社会的諸矛盾に直面し、物質的生産力の発達がそのまま歴史の進歩と見なしえないと考えるようになるとともに、歴史を「進歩」を尺度として見ることにも懐疑的となり、高度経済成長以降ばかりでなく、明治維新以来の日本近代史そのものを「進歩」の視覚から見ることにも否定的となったようである。中世前期から中世後期、近代から現代へ、網野の歴史認識はその点ではペシミスティックで、”世の中が悪くなる”という見方である。
資本主義の発展と民主主義の発展とが一体的なものといえないのは事実だが、こにような論法をとれば、近代の「自由」よりも、「本源的原始の自由」が賛美されることにならざるをえない。その意味では、網野の歴史観は一種の空想的浪漫主義的歴史観の傾向をもっている。そこがあえていえば、「近代の超克」が唱えられた社会状況のもとで登場した日本浪漫派の歴史観に通ずるように思われるのである。亀井勝一郎が欧米的近代をも拒否するとき、そこに見いだした活路は日本の古代や中世に見いだした耽美的世界であった。亀井は豊かな感性の持ち主であるだけに、戦中期に学生で亀井の読者でもあった私のような世代には、その耽美的浪漫主義は麻酔的陶酔をもたらしてくれた。網野の社会史を日本浪漫派と同類視することは、本人をはじめ多くの歴史研究者からも抗議されるかもしれないが、近現代を否定的にとらえ、「本源的自由」という幻影や「無縁」的自由を礼讃的に描き出す手法から、そうした不安を感ずるのは、私のような世代だけであろうか。(227頁~)
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小田原藩の人 2014/01/16(木) 21:02:41
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0126-d/
『富士山宝永大爆発』の「あとがき」には、近世史の書を著わした理由が以下のように書かれています。
永原氏が『折りたく柴の記』を鵜呑みにして荻原重秀を描いているような印象を受けましたが、新井白石は嫉妬深く喰えない曲者だと疑われたほうがよかったのではないか、と思われました。
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 もう十数年以前になるが、この本の二つの主舞台であり、ともに小田原藩領であった静岡県小山町と神奈川県小田原市の自治体史編纂を、それぞれの役所から偶然にもほとんで同時に依頼された。二つとも最近ようやく完成したが、その間、両地域のナマの史料に直接とりくむ機会にめぐまれ、事実を知るにつれて私の心の中に富士山宝永大噴火史をめぐる課題意識が高まっていった。
 しかも私事にわたるが、小山町にはいま私が書庫や仕事場に利用している家があり、そこは元禄以来、先祖が住みつづけてきた土地でもある。初代の人は小田原藩の侍の次男坊で、侍の養子口がなかったためか、元禄の頃この地に住みつき、すぐ大爆発に遭遇した。惣領筋の永原(当時の一時期、坂部氏を名乗る)は藩役人でその当時地方支配の仕事にかかわっていたことも、小田原市史編纂のおかげではっきりした。小山町は私自身の生れ故郷ではないが、とくに縁が深く、子供のときから、あのズルズルと足が埋もれてゆくような噴火砂の大地の不思議を、あざやかに覚えている。(263頁~)
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http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/6/0240220.html
今日は、水林彪氏の『天皇制史論』を、批林批孔の林彪によく似た名だなあ、などと思いながら少し読んでみたのですが、あんまり面白くないのでやめました。独語や仏語が鏤められていて、賑やかなんですが。

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東京帝大国史学科の「副手」

2014-01-15 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月15日(水)09時26分44秒

脱線ついでに『永原慶二の歴史学』を読んで生じた、本当に小さな疑問をひとつ。
「私の中世史研究」の冒頭に、

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私は東大(東京帝国大学)の国史学科(当時の呼称)に入ってから今年(二〇〇一年)で五九年ですが、その前の年、旧制高校の三年生の一九四一年の秋、進学を決めねばならないわけで、その時に文学部の国史学科へ行こうということを決めたわけです。そらから言うとちょうど六〇年。ずいぶん長い年月がたちました。なぜ国史学科を選んだのかということはちょっと何とも説明のしようがないので、コメントはご勘弁をいただきまして、東大に入ったのは一九四二年四月です。戦争のため大学も非常に変則で、その年の十月には繰上げという形で二年生になった。それから一年間は二年生でしたが、四三年の十月に三年生になると、その十二月にいわゆる「学徒出陣」という美名で呼ばれる徴兵になりました。ですから一年半しか大学にいなかったんですね。(中略)
東大の国史学科にはよく言われるように、そのころは平泉澄さんのような皇国史観の先生がいて、助手にその弟子でのちに教科書調査官として強引な検定をやった有名な村尾次郎さんがいました。そのもうひとつ下に副手というポストがありましたが、それも平泉さんの弟子でした。人事は平泉さんが支配していたといえる。実際にはそのほかに三人くらいの専任の先生がいて、その中のお一人が戦後の中心となった坂本太郎さん。助教授でした。先生方の陣営はざっと分ければ実証主義派と皇国史観派であった。私は八〇年代の初めに『皇国史観』(岩波書店、一九八三年)というブックレットを書いたもので、教室全体が皇国史観に支配されているように思われがちですけど、そうでもなくってね。実証主義史学というのはやはり東大国史学科ができた初代の教授である重野安繹・久米邦武・星野恒先生の時代からの基本的な流れです。(後略)
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とありますが、「副手というポスト」も「平泉さんの弟子でした」という箇所、私は平田俊春氏のことだと思って、何で名前を出さないのだろう、名前も出したくないようなトラブルでもあったのだろうか、と妄想を逞しくしたのですが、平田俊春氏の略歴を見たら、昭和15年(1940)に佐賀高等学校教授に転じたそうなので、永原氏とは直接の接点はないみたいですね。
とすると、この時期の「副手」は誰なのか。
ま、記録を調べれば出てくるでしょうけど、ご存知の方がいれば教えてください。

平泉澄氏に気に入られていた平田俊春氏は、世が世なら当然に東京帝大教授として栄華を誇ったのでしょうが、敗戦後、公職追放で佐賀高等学校を免職となり、大阪府立図書館員として暫く食いつないだ後、防衛大学校で地味な研究生活を送られたようですね。
まあ、東京帝大に比べれば防衛大学校は歴史学界の傍流のそのまた傍流、吉野の山奥のような存在でしょうが、御著書も多数あって、それなりに幸せな学者生活だったみたいですね。
私は個人的に平田俊春氏の「舞御覧記」に関する論文に多大な恩恵を受けているので、生前に一度お話を聞きたかったなあと思っています。

平田俊春(ウィキペディア)

平田俊春 『吉野時代の研究』「自序」
平田俊春 「増鏡の成立に関する一考察-舞御覧記との関係について-」
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鏡としての『問はず語り』

2014-01-14 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月14日(火)22時35分13秒

中世国家論から少し脱線中ですが、以前、著名な歴史研究者たちが『問はず語り』をどのように読んでいるかを熱心に調べたことがあって、その成果の一部をホームページに載せていました。
マルクス主義に立脚する歴史研究者では、北山茂夫氏の次の文章は文学への理解力が乏しい典型例として興味深いですね。

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 ここで、文芸のほかの分野に移ろう。おとろえたとはいえ、王朝文学の流れを扱むものに、近年問題になってきた『とはずがたり』がある。これは、一三世紀後半に後深草院に仕えた二条とよばれる女性の自伝的作品である。歴史学の立場から、この日記文学をみれば、そのころの京都宮廷の天皇、貴族の生活ぶり、端的にいえぱ、恋と遊びの退廃ぶりがかなりよく表現されていて興味ぶかい。こういう生活のなかから、『新古今和歌集』以後、歴代の勅撰集に収められた宮廷人たちの、がらくたのような歌が多量に吐きだされたのである。しかもそれを、かれらはいちずに、宮廷文化の誇りとみなしていた。

『ちくま少年図書館69.歴史の本-中世の武家と農民』https://web.archive.org/web/20150129051751/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-kitayama-shigeo.htm

家永三郎氏は昭和29年という、まだ注釈書も全く存在しない非常に早い時期に『問はず語り』に着目されており(「歴史資料としての日記」(『国文学解釈と鑑賞』昭和29年1月号)、内容の把握・整理も的確で、さすがだなと思います。

エロ親父的側面を濃厚に持つ網野善彦氏は『問はず語り』が大好きで、 出世作の『蒙古襲来』以降、あちこちで『問はず語り』に言及されていますね。

『蒙古襲来』

石井進氏は「在地の武士のイエ支配権の強力さ」の例として和知の場面を引用している点では永原慶二氏と共通していますが、永原氏のような極端な表現は用いていないですね。

「中世武士団の性格と特色-はじめに-」

その他、多くの歴史研究者が『問はず語り』について語っていますが、『問はず語り』を覗き込むと、逆にその歴史研究者自身の人物像が鏡の中に映し出されて来るような感じもします。

参考文献:『とはずがたり』
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「国家の干渉のまったく及ばない空間」

2014-01-14 | 丸島和洋『戦国大名の「外交」』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 1月14日(火)21時11分32秒

先に引用した永原氏の「中世国家においては国家の中に国家権力の介入できない「家」世界が存在していたことであり、近代国家的理解からはおよそ考えられない事態」という表現、素直に考えればずいぶん変な感じがしますが、本当なんですかね。
『日本中世の社会と国家』には類似の表現が頻出していて、最初はp48以下に次の記述があります。

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 こうして郡司・郷司層は、国家の地方官僚という立場を捨て去らないままに、次第に私的な豪族的側面を強めていった。この段階で、かれらが土地・人民に対しておよぼす私的支配力は、大まかに整理すれば次のような三種類の構成をとったといえる。
 第一は、屋敷地である。これは園地として律令制下の農民の場合でも私的所有権が認められていたところであるが、郡司・郷司層の場合、これを「屋敷地」という名目においていっそう排他的に掌握し、広大な土地をその中に囲いこみ、国家の干渉のまったく及ばない空間としていった。一〇~一二世紀の史料を見ると、この屋敷地は、それにつづく耕地をふくめ、しばしば一町歩~数町歩のひろさにおよび、時には一郷全体を「住郷」と称することさえあった。そして国司の検注に際しても、そこには検注使が「馬の鼻を向けざる所」(立ち入りしない所)という慣行を成立させていった。平安後期以降になると、在地領主がその家父長権の下にある「家」を完全な私的権力の社会的砦とし、そこには国家権力の一切の立ち入りを認めない関係が成立するが、その「家」権力に見合う空間が、こうした地方支配層の「屋敷地」に他ならないのである。
 第二は「私領」であり、第三は「職」的支配の対象となる「公領」である。「屋敷地」「私領」・「職」の対象地としての「公領」の三つは、いわば同心円的な形で、郡司・郷司層の私的権利の強弱を表している。(後略)
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ということで、「地方豪族の土地支配構造」というタイトルの同心円を描いた図も添えられています。

永原氏によれば「屋敷地」は「国家の干渉のまったく及ばない空間」であり、「家父長権の下にある「家」」は「完全な私的権力の社会的砦」であり、「そこには国家権力の一切の立ち入りを認めない関係が成立する」そうですが、検注使はともかく、たとえば当該郡司・郷司が国家に対して反逆を企てた場合、その者が自分自身の、あるいは仲間の他の郡司・郷司層の「屋敷地」に逃げ込んだら、国家からその者の逮捕を命じられた担当者は、「屋敷地」に踏み込まないで、外からボーっと眺めているのでしょうか。
そこへ逃げ込んだら国家・社会は一切関与できない領域と聞くと、平泉澄氏や網野善彦氏流の「アジール」という言葉も浮かんできますが、特別に宗教的な権威も持たない普通の郡司・郷司層の一人一人がそんな特別の領域を持っているのでしょうか。

私には非常に奇妙に感じられるのですが、仮に私が永原氏に「国家権力の介入できない「家」世界が存在していた」証拠を出してみろ、と要求したら、唯一の証人として後深草院二条が登場してくるのでしょうか。
謎は深まるばかりです。

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